History of Technology

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近代日本の技術と技術政策

Title: 第2章:繊維機械技術の発展過程ー織機・紡績機械・製糸機の導入・普及改良・創造ー
Author: 石井 正
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第2章:繊維機械技術の発展過程ー織機・紡績機械・製糸機の導入・普及改良・創造ー

 Ⅰ 視点と課題

 繊維機械に関して織機,紡績機械,製糸機のそれぞれの技術発展過程についてみると,注目される点がいくつか発見できる.紡績機械がほとんど全システムを輸入に頼り,国産化のできたのがようやく大正中期であったのに対し,製糸機の場合には,その初期にのみ西欧の機械製糸機を輸入し,あとはその技術的利点のみを模倣し,国内で改良自給した.
 これに対し織機の場合にはその中間型とも言える発展パターンを描いた.紡績兼営織布会社では海外から鉄製広幅織機を輸入したのに対し,地方に散在する中小織物業者へ織機を供給する中小織機製造業者は,西欧からバッタンと称する飛杼技術のみを導入し,これをまず高機に取り付けて供給し,さらに足踏機を作り出し,ついで安価な木鉄混製小幅力織機をつくりあげ,これを供給した.この後,広幅鉄製織機を生み出し,この時点でほぼ海外の織機技術と同水準に達し,昭和初年には独創的な自動織機を開発するまでに発展している.
 織機技術のこうした発展は単に織機の枠にとどまらなかった.力織機を開発した織機製造業者は紡績機械を国産化し,工作機械を作り,さらには自動車産業にまでその範囲を拡大し発展していった.すなわち豊田式織機,豊田自動織機の紡績機械への展開がそれであり,遠州織機,須山式織機,鈴木式織機などの工作機械への展開,さらには豊田自動織機あるいは鈴木式織機の自動車工業への展開がそれである.なぜ同じ繊維機械技術の中にあって織機のみが,このような連続的発展形態を有し,後にその展開範囲を拡大しえたのだろうか.そしてそれはいかなる技術的背景,要素をもって行い得たのであろうか.
 以上の点を考えるにあたって,本稿において提示する視点は「技術発展の連続性」「中間レベルの技術の重要性」あるいは「中間レベル技術商品の市場ニーズの存在」などの概念である.これらはいずれ本論中で述べることになるのであるが,結論を要約してみるならば次のようになるであろう.
 新技術を導入し,これを改良普及し,さらに創造的新技術を生みだしていく一連のプロセスが達成されていくためには,導入した新技術と,それまでの在来技術との間に技術発展上の連続性が必要であること.とりわけスムーズな技術移転,改良,普及を進めるには在来技術との間に共通部分の存在することが重要であること.技術発展の連続性は,また,在来技術と導入新技術との間の,中間レベルの技術がきわめて重要な役割を果すことを含意している.中間的技術を充分に吸収し利用することによって,より急速に導入新技術体系を国内に確立することができる.そしてこの場合に重要となるのが,中間的技術商品の市場需要の存在,これである.

 Ⅱ 織機技術の発展過程

 (1) 近代織機技術の導入
 近代織機技術の日本への移転型は大きくみて二つある.一つは近代織機,すなわち広幅鉄製織機自体の輸入であり,一つはジャカードおよびバッタン技術の導入である.
 前者の近代織機についてみると,安政年間に薩摩藩が力織機を2台輸入し,使用しているがこれは試験的なものに終ったようである.本格的な輸入は,1867(慶応3)年,鹿児島紡績の力織機100台がそれである1).この輸入力織機は広幅鉄製力織機で,1887(明治20)年以降続々と設立される紡績兼営織布会社(1887〈明治20〉年大阪織布会社,同年小名木川綿布会社など)の主要設備となっていった.こうした綿布用力織機とは別に,絹用の鉄製織機も少数ではあるが輸入されている.桐生では1872(明治5)年に江原貞蔵がアメリカから力織機を輸入し,水車によって製織している2).また,西陣では1882(明治15)年に西陣共進織物会社が力織機を輸入している3).
 輸入広幅鉄製織機は,大手紡績会社による兼営織布会社の主要設備とはなっていったが,全国に散在する中小機業者の使用するところとはならなかった.この理由は主に織機価格にあった.輸入織機の価格は1台300円から400円であった4,5).これに対し従来から日本で用いられてきた手織機のうち地機では2円から3円6),高機でも10円から15円7)であったから,いかに輸入織機が高価であったかが知られるのである.
 近代織機技術の移転には,上記の鉄製織機の輸入とは別に,バッタン,ジャカードの導入ルートもあった.そしてこの技術がその後の日本における織機技術の中核となっていった.
 1872(明治5)年,京都府は織物伝習生,佐倉常七,井上伊平衛,吉田忠七の3人をフランスのリヨンに派遣した.翌年帰国したとき,彼らはジャカード,バッタンなどを購入し持ち帰った.1874(明治7)年4月,第2回京都博覧会に,この持ち帰ったバッタン20挺が出品され,ここからバッタンは広く知られていくようになった.この後も京都では織工場(後の織殿,京都市二条河原町)において伝習生たちにバッタン操法を研修し,これら伝習生たちが日本全国の織物地方へバッタン技術を伝えていくことになった.また別にオーストリアのウィーン万国博覧会から佐野常民がバッタン一式を購入してきて,1875(明治8)年東京山下門内勧業試験場でこれを紹介した8).
 京都および東京を出発点としたバッタン技術は第1表に示すように綿織物地帯では和泉南部,紀州へは1875(明治8)年に早くも導入され,つづいて名古屋,河内,知多,三河へと広まっていった.絹織物地帯では岩手,川俣へ1876,77(明治9,10)年に,石川,福井へ1877(明治10)年,桐生へ1883(明治16)年に移植されていった.
 問題は佐倉常七達がなぜフランス,リヨンから鉄製織機を持ち帰らず,当時においては既に古い技術となっているバッタンを持ち帰ってきたかである.彼らはフランスで動力織機を見ている事実,吉田忠七は日本への手紙の中で,絹織物工場において数百台の織機が蒸気力で動かされていることに驚き,感激している事実がある.それならばなぜ当時最新の広幅鉄製織機を持ち帰らなかったかである.
 この理由の一つとしては,彼らが技術伝習生=技術者であったことに求められる.
第1図 織機技術の発展過程
第1表 バッタン技術の各機業地への普及
技術伝習生として京都府から派遣された以上,彼らが持ち帰った技術は,完全に彼らのものとなっていなければならない.当時,西欧にあった動力織機は金属製広幅織機で,蒸気機関駆動であった.これではたとえ輸入しても,模造することはおろか,修理することすらおぼつかないであろう.技術のギャップは大きかったのである.
 バッタンならば,西陣の紋織機を作り,扱ってきた技術者として完全にマスターできたし,自作しこれを従来からある高機に取り付けることも簡単にできる.事実,前述のようにバッタン技術はわが国の各織物地帯に迅速に普及していくのであった9).
 対比して考えるべきが,鹿児島紡績以降の織機輸入のルートである.この場合には近代織機技術の選択には織機の職人=技術者は直接たずさわらなかった.そして輸入織機の運転には英国から技術者が来ているのである.輸入したものは当然のことながら,当時の最新広幅鉄製動力織機であった.
 (2) 織機技術の改良・普及
 ⅰ 足踏機から力織機へ
 バッタン技術は紐を引くことによってシャトルを飛ばすことにある.バッタン技術によリシャトルを往復させることができると織機運動の機械化は一挙に進行する.経糸の開孔運動と筬打運動を連動しさえすれば,ともかく主要な運動は機械化できる.こうした考えで生まれたのが足踏織機である.これは1802(享和2)年イギリスのレードクリフ(William Radecliffe)が発明しているが,日本ではこれとは別に生まれている.足踏の動力により経糸を開孔させ,シャトルを飛ばし,さらに筬打までを連動して行うもので,経糸の送り出しと巻き取りは手によって行っていた.
 1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会に,神奈川県相模国足柄下郡小田原の中津川藤吉外1名が踏転織機を出品している.これはその名のとおり足踏織機で,1869(明治2)年より始めて1871(明治4)年より織り試みているという.もっともその能率は1時間に2尺とあって,かならずしも成績の良いものではなく,実用,普及もなかったものと思われる10).
 足踏織機が本格的に普及するのは1887(明治20)年,三重の松田式織機である.たとえば遠州では「……明治27年に,伊勢から松田式足踏機が移入された.これは足で踏むのみで,切れた糸を結ぶ以外には何の用のない至極く便利なものには違いなかったが,鉄材が多く使用された関係上,不格好に厖大で,その上に無遠慮な頗る激しい喧騒な音響で村中で轟がした」11)のである.遠州地方においては最盛期の1904(明治37)年頃には7,000台の足踏機が用いられた(大正年間でも1,000台から2,000台稼動していた.第2図参照).その後,足踏織機は地方の中小機業家に長く用いられ続けていった.
 足踏機によって経糸の開孔運動,杼の運動および筬打運動が連動されれば,あとは簡易な巻き取り機構を備え,原動力を組合せればただちに力織機となる.全国各地において明治20年代半ばから30年代にかけて力織機が登場し,これが急速に普及していくこととなった.
第2図 遠州地方における手織機・足踏機から力織機への推移
 ここでは初期力織機開発の事例をいくつか見ておくことにしたい.
 (1) 渡辺・柴田製:長野県松本の渡辺恭,柴田徳蔵兄弟は第1回内国勧業博覧会に水車織機を出品,後にさらに改良し,これを鹿島紡績所の水車を使って運転した.14,5歳の小女子を1人1台で配置して1人1日の織出す木綿は4反から5反に及んだという.第2回の内国勧業博覧会へは足踏機に改造して出品している12).
 (2) 寺沢式:栃木県の寺沢幸三郎は1891(明治24)年7月から力織機の製作を始め,翌1892(明治25)年8月に完成した.およその寸法は長さ5尺,横3尺3寸,高さ2尺2寸で全体は木製,重要部分のみ金属製で1台の織上げ10時間で平均4反半,価格は1台15円から30円であった13).
 (3) 豊田式:豊田佐吉は1887(明治20)年頃から織機の改良を行い,1890(明治23)年に改良バッタン織機を作り,さらに1896(明治29)年に力織機を作りあげた.この力織機を改良する過程で重要な発明を数多く生みだし,とくに経糸の積極送り出しに関する発明は当時の繊維機械技術水準からみると,きわめて高水準のものであった.性能はおよそ普通真岡木綿並幅2丈八尺物で,1台1日2反半から3反を織立て,工女1人で2台から3台を受持つとある.価格は当初原価23円,売価38円であった14).
 (4) 斎外式:山形県鶴岡地方は1895(明治28)年に福井地方から羽二重製織の技術を習得し,これを基本に同年11月から輸出羽二重の製織が行われるようになった.東田川郡長沼村の斎藤外市は手織羽二重機業を経営しつつ力織機の発明を行っていたが,1898(明治31)年8月羽二重用力織機を完成した.この力織機は斎外式として輸出羽二重織物地帯に急速に普及していくこととなった.しかも「三十七年に入り県(山形県)は羽二重機業の有利なるを認め大いに奨励に努め機台に対し県補助を与へたるを以て機業界は更に一段の活気を呈し」15)たのであった.
 (5) 原田・久保田式:1893(明治26)年頃,大阪の原田元治郎が近所の大工久保田石松に力織機の試作を依頼した.10年間かかって30台の試作をして,鉄製力織機を完成している.これは1903(明治36)年の第5回勧業博覧会に出品した.これとは別に木製の安い力織機を使って原価20円,売価35円で50台製作し売りだしたところ,飛ぶように売れ,これは織子が1人で4台受持つようになったという16).
 以上の初期の織機に共通する要素をとりあげ,平均的な像を描くと次のようになるだろう.まず形状構造は小幅木鉄混製,その大きさであるが寺沢式は長さ5尺に幅3尺3寸,高さ2尺2寸としている(15m×1m×0.66m).現在,東京農工大学付属繊維博物館に保存されている五百川式絹織機(木鉄混製)の寸法が1.9m×1.2m×0.9mであり,また結城で実動していた足踏織機の寸法が1.3m×1.1m×0.9mであることからして,これら寸法がほぼ当時の標準外形とみてよいだろう.
 性能は1日10時間として3反から5反の織立てであって,織子1人につき2,3台受持つことができるから,職工1人あたりの生産性は平均9反/1日前後となり,この数値は三瓶孝子が『日本機業史』で示している動力織機の性能(9反/1日・1人)とほぼ一致するものである17).価格については最も早い時期の渡辺・柴田兄弟のものが70円でやや高く,その外の実際に普及していったものはすべて20―30円前後であった.
 ⅱ 力織機の地方への普及
 実用に耐え得る力織機が登場してからは,これの各機業地への普及はめざましいものがあった.とりわけ,綿織物地帯では遠州,知多,泉南などの白木綿地帯,絹織物地帯では鶴岡,川俣,福井,石川,大聖寺地方などの羽二重地帯が普及時点の早さ,普及速度で他に抜きんでていった.
 第3図は綿織物地帯における力織機率の推移をみたものであるが,遠州,知多,泉南ともに1907(明治40)年前後に力織機率は10%を越え,10年後の1917(大正6)年前後には90%に達している.同じ綿織物地帯でも,浦和,鳩ケ谷などや所沢などの埼玉,青梅,笹松あるいは青森県,岩手県などでは力織機の導入時点も遅ければ,その普及の速度も遅いのである.
 同じように第4図では絹織物地帯における力織機率の推移をみたものであるが,鶴岡では早くも1905(明治38)年,川俣,福井,石川,大聖寺地方でも1908(明治41)年から1911(明治44)年の間に力織機率は10%を越え,鶴岡では1909(明治42)年に早くも力織機は90%にも達している.他方,足利,桐生,伊勢崎地方では力織機の導入時期はきわめて遅れ1920(大正9)年以降となり,しかも普及速度も緩慢なものであった.
 第3,4図をみると,綿織物,絹織物地帯のいずれにも共通して注目される点を見出すことができる.
 第1には,力織機導入,普及の早い地方において,その普及推移にきわめて明瞭なロジスティック曲線の傾向が見られることである.力織機普及率[Pi(t)]を次式のように時間の関数としてみる.
第3図 力織機率の推移綿織物地帯)
第4図 力織機率の推移(絹織物地帯)
 これはもちろん時間に関してのロジスティック曲線を描くことになるのであるが,第3,4図にある遠州,泉南あるいは鶴岡,福井,石川,大聖寺地方がこの関数に合致する普及率推移を描いているかを検討してみる.このためには前式を変形し,次式とする.
 この式において1n[Pi(t)/1-Pi(t)]は時間:tに対する一次の関係を有するのであるが,これを上記の地方において調べると,一次の決定係数は次のようになる.
 遠 州 R=0.97
 泉 南 R=0.887
 鶴 岡 R=0.98
 福 井 R=0.937
 石 川 R=0.851
 大聖寺 R=0.923
 以上の決定係数からもうかがわれるようにこれら力織機導入時点が早く,また普及速度の早い地方では,その力織機率の推移は明瞭にロジスティック曲線を描くのである18).
 次に注目しておかなければならないのは,力織機普及のパターンがかなり明瞭に先進地方,後進地方の二つに分けられることである.綿織物地帯では白木綿の,それも輸出を前提とする遠州,知多,泉南が力織機導入の先進地方であり,絹織物地帯では福井,石川,大聖寺地方などすべて輸出用羽二重の産地が力織機導入の先進地方となっていて,これら地方は他と明確に区別され得るのである.
 本章ではこの力織機普及の地方別の差違を考究することは主題ではないので,これ以上の検討は行わないが,力織機導入が早く,また普及速度の早い地方は柄物や紋織など精細な織物を対象とはしない地方,すなわち白木綿や羽二重機業地であり,しかも輸出により生産単位が大きい地方であると言うことができよう19,20).
 さて,力織機導入が進行した地方はそれに伴い労働生産性や資本―労働比率はどのように変化しただろうか.力織機の使用は職工1人1日あたりの織上げ反数を,手織機に比べれば確実に増加させるし,また1人あたりの織機持ち台数も1台から増加して数台となる.当然のことながら,生産性も上昇し,資本―労働比率(職工1人あたりの織機持ち台数)は上昇することが予想される.
第5図 福井地方における織物産業の力織機率,平均労働生産性(Y/L)と資本―労働比率(K/L)の推移
 第5図はこの点を福井地方において確認したものであって,第4図でもみた通り,福井地方では1910(明治43)年前後から力織機率は上昇しはじめ,1921(大正10)年に到って力織機率は90%を越えている.この間に資本―労働比率は約1.0から2.0(台/1人)に上昇し,また平均労働生産性は60―80から200以上へと上昇しているわけであり,力織機導入,普及により明らかな変化が読みとれるのである.
 これだけ生産性を向上させ得る力織機の価格は第6図にみるとおりそれまでの高機が8―20円していたのに対し,30―100円であり,地方機業地の中小機業家にとって手の届かない価格のものではなかった.そしてこの初期力織機の低価格こそが地方での力織機化が進行するうえでの重要な要素なのであった.
第6図 織機価格の分布およびその推移
① 座機3円:楫西光速『技術発達史(軽工業)』,河出書房,175ページ.
② 座機2,3円:(株)豊田自動織機製作所社史編集委員会『四十年史』,21ページ.
③ 高機(絹用)15円,明治35年:内田星美『日本紡織技術の歴史』,地人書館,185ページ.
④ 高機(綿用)15円,明治10年:『明治十年内国勧業博覧会出品解説』第10巻,愛媛県,渡辺保平出品のもの.
⑤ 高機8円,明治10年:同上,新潟県庁出品(魚沼郡牧野平蔵製作).
⑥ 高機20円,明治10年:同上,岐阜県松尾永助出品のもの.なお同出品解説中には東京府長元新五郎出品の高機が価額70円となっているが,これは数台合わせての総額とみられる.
⑦ 力織機(水車力使用)70―78円,明治15年,渡辺・柴田製作:服部之総・信夫清三郎『明治染織経済史』,白場社,120ページ.
⑧ 力織機(水車力或いは蒸気力)15―30円,明治25年,寺沢幸三郎(栃木):『染織五十年史』,大日本織物協会,243ページ.
⑨ 力織機(木綿横縞六色220回/分)130円,明治36年,小森鉄工所(大阪):同上,246ページ.
⑩ 力織機(絹織機)90円,明治38年,高柳(山形):同上,246ページ.
⑪ 力織機(綿織機,尺幅並),33円,明治35年,豊田(愛知):大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上,東京大学出版会,165ページ.
⑫ 力織機(綿織機,尺1幅特),38円,明治35年,豊田(愛知):同上.
⑬ 力織機(綿織機,尺3幅改良特製),65円,同上:同上.
⑭ 力織機(絹織機),95円,明治35年,津田(石川):同上,209ページ.
⑮ 力織機(綿織機),38円,明治32年,豊田(愛知):(株)豊田自動織機製作所社史編集委員会『四十年史』,36ページ.
⑯ 力織機(絹・木鉄混製・2丁杼),230円,大正10年,寺岡式(米沢):『米沢織物同業組合史』,410ページ.
⑰ 鉄製力織機(絹・小幅),250円,昭和11年,高橋宏蔵:同上,414ページ.
⑱ 鉄製力織機(絹・丈幅),350円,昭和11年,津田式:同上.
⑲ 力織機(絹(羽二重)・木鉄混製,2尺4寸幅),75円,大正6年,津田(石川):『石川県ノ織物業』(明治前期産業発達史資料別冊(55)Ⅲ),98ページ.
⑳ 力織機(同上),60円,大正6年,松川(石川):同上.
(21) 力織機(綿・木鉄混製),35円,明治36年,原田・久保田(大阪):大阪府商工経済研究所『日本の繊維機械工業』,14ページ.
(22) 力織機(絹(羽二重)),90円,明治35年,津田(石川):内田星美『日本紡織技術の歴史』,185ページ.
(23) 力織機(綿),180円,大正9年,鈴木(静岡):『遠州機械金属工業発達史』,446ページ.
(24) 鉄製力織機(絹・綿その他用・小幅),75円,明治43年,日本織機鉄工(株)(池谷式):林助男「織機及精米機へ電動機応用に就て」『電気の友』268号.
(25) 鉄製力織機(絹・綿その他用・大幅),150円,同上.
(26) 力織機(横縞・並幅),75円,明治43年,笹川縮製鉄所織機部(三重):同上.
(27) 力織機(横縞・大幅),120円,同上.
(28) 鉄製力織機(広幅),160円,明治43年,豊田式織機(愛知):同上.
(29) 力織機(縮織),175円,同上,同上:同上.
(30) 力織機(縞織),72円,同上,同上:同上.
(31) 力織機(小幅),88円,同上,同上:同上.
(32) 鉄製力織機(綿・広幅),220円,大正15年,豊田自動織機(愛知):(株)豊田自動織機製作所社史編集委員会『四十年史』,118ページ.
(33) 鉄製自動織機(綿・広幅),630円,大正15年,同上:同上.
(34) 力織機(絹・人絹用),120円,昭和7年,金沢織機業組合の平均織機価格:『石川県絹業史』,石川県織物検査所,348ページ.
(35) 力織機(絹・人絹用),130円,昭和8年,同上.
(36) 力織機(絹・人絹用),160円,昭和9年,同上.
(37) 力織機(絹・人絹用),176円,昭和10年,同上.
(38) 力織機(絹・人絹用),174円,昭和11年,同上.
(39) 力織機(絹織機),203円,昭和10年,金沢鉄工機械工業組合の平均織機価格:『石川県絹業史』,350ページ.
(40) 力織機(絹織機),173円,昭和11年,同上.
第2表 織機および関連品製造工場一覧表(明治42年12月31日)
 低価格力織機という点では,日本の伝統的な布の幅,すなわち小幅という点が幸いしていた.小幅であったがために,織機フレームは木製でも強度的に耐えることができた.歯車,駆動軸などの枢要部のみを鉄に頼り,他はすべて木製としたために,織機価格はそれまでの高機のせいぜい数倍程度とすることができたのである.また織機製造者も従来からの機大工がそのまま力織機の製造者になり得たのである.小幅力織機を大量に製造し,これを各地の機業家へ安価に供給する過程で,織機製造者は力織機技術を蓄積し,また資本的にも成長していった.そして次にむかえたのが小幅木鉄混製織機から広幅鉄製織機への転換であった.
 第2表は先進機業地において力織機化が進行しつつある時点,1909(明治42)年における日本全国の織機製造工場を農商務省工務局編の『工場通覧』から調べたものである.綿織物織機の製造工場は大阪,三重,愛知,静岡に集中し,絹織物織機はその製造工場が山形,福井,石川を中心に分布している.この『工場通覧』では職工5人以上の工場を調査の対象としているので,当然のことであるが,第2表に載らない職工数4人以下の零細工場が存在し,それら工場も各機業地に織機を供給していたとみられる.事実,1909(明治42)年における石川,福井,川俣,福島などにおいて稼動している力織機の製造元を確認すると(農商務省工務局『明治45年主要工業概覧』,73,74ページ),その台数の5割程度は第2表に掲載されていない,すなわち職工4人以下の工場で製造されたものである.安価な木鉄混製織機はこうした零細織機工場でその多くは製造されたのである.しかし第2表には原田式織機製造所や豊田式織機(株)という大規模な製造工場もみられ,こうした事業所が織機の改良を積極的にすすめていくのであった.
 ⅲ 小幅木鉄混製織機から広幅鉄製織機へ
 明治40年代に普及していった力織機は既にみたとおりそのほとんどが小幅の木鉄混製であった.小幅はいわゆる着尺で鯨尺の9寸3分である.この幅であると,力織機のフレームも木製で可能である.しかしながら綿布が輸出されるようになると,この小幅では市場の需要に合致し得ない.
 その嚆矢が日露戦争後の遠州織物にみられる.日露戦争中に派遣軍の発行した軍票の回収に苦慮した政府は,この軍票回収のための現地向け商品を探した.これを,静岡県知事から知らされた遠州の宮本と木俣は1905(明治38)年に渡満し,現地民の使用している土布を供給することに決定した.
 この土布は織幅が鯨尺の1尺3寸あり大尺とも尺3とも言う.それまで遠州では鯨尺で9寸3分の小幅ものを生産していたから,それまでの織機ではこの土布を織ることはできない.そこで亀井静岡県知事は西遠銀行に働きかけ,機業者への輸出用の大尺もの織機購入資金の無制限融資を実現させた.これにより広幅織機は普及しはじめていった21).遠州だけではない.第7図にあるとおり1910年代から徐々に遠州,知多,泉南に広幅化が進行していった.
第7図 力織機広幅化への進行
 織機が小幅から広幅になると,それまでの木鉄混製では強度のうえからも耐えられない.とくに筬打ちの衝撃はきわめて大きいものであるため,フレームは木製から鉄製にすることが必須であった.広幅鉄製織機を日本で初めて製作に成功したのは豊田式織機であり,1908(明治41)年完成のH式広幅鉄製織機がそれである.
 このH式広幅鉄製織機を完成し,大量生産するにあたっては,それまでに要求されてきた工作技術,鋳物技術の水準とは全く異なる高いレベルのものを要求された.このため,豊田佐吉は東京高等工業機械科の教授チャールス・フランシスを招聘し,その設計による工具を完備し,規格統一の重要性を徹底させた22).
 池貝鉄工の中村精一は次のように語っている.「其の当時豊田織機会社の豊田さんが腹の大きい人で,フランシス氏の思ふ通り工場の計画をさせたので,私の知っている範囲では,日本で一番初に豊田が大量生産のシステムを採ったと思ひます.」23)
 織機の広幅鉄製化をすすめるためには,近代工作技術,大量生産システムが求められたのはもちろん,豊田だけではない.木本鉄工から鈴政式織機(後の遠州織機)に入り,鉄製織機化をすすめていった阪本久五郎は「技師長就任の第1年において,手はじめに,広幅織機用の治工具の整備や金型の製作にとりかかった.リミットゲージを採用し,各部品の加工精度をたかめ,あわせて互換性を持たせ,能率をあげるため,この着想をすすめた」24)のであった.
 豊田のH式広幅鉄製織機は1909(明治42)年に紡績兼営織布会社に採用された.国産織機が兼営織布会社に採用された第1号である.1908(明治41)年10月,三重紡の織布技師長,真野愛三郎が豊田織布菊井工場(豊田式織機(株)の営業試験工場)で広幅鉄製機の運転状況を視察した.同氏はその成績が優秀なのに驚き,同紡績の技師全員に工場を見学させた.
 まず試験的に2台を,つづいて100台を購入し,プラット製織機と性能比較試験を行ったところ,成績が良く,プラットにくらべて全く遜色がなかったため,ここに大量に同紡績に採用されることになった25).
 これが国産広幅鉄製織機の兼営織布会社に採用された最初であって,この時点をもって一応,国産動力織機が輸入織機とほぼ同程度の技術水準に到達しえたものといってよい.そしてこの時点,すなわち1909(明治42)年は,くしくも白木綿地帯,あるいは輸出用羽二重地帯で積極的に手織機から力織機へ転換しつつある時であった.
 絹織機における鉄製化はやや遅れた.金沢の松川式が1913(大正2)年にはじめて鉄製化に成功し,津田式は1920(大正9)年26),山形の寺岡式は1922(大正11)年に鉄製化に成功している.米沢織物同業組合では鉄製織機に対し,据付助成を行い,鉄製化推進を行っている27).
 (3) 日本織機技術の創造――自動織機の発明――
 織機の緯糸,いわゆるヨコ糸はシャトルの内側に収納されている.このシャトルは長さがせいぜい30cm,幅,高さとも数センチのものであるから,織機運転中,しばしば緯糸を補充しなければならない.ほぼ5分おきに織工が巡回しなければならず,職工1人あたりの受持ち織機台数,言い換えれば資本―労働比率はこの点で基本的制約を受けていた.
 事実,紡績兼営織布会社の織機台数と女工数をみると,1903(明治36)年で4,963台,4,293人であり,K/Lは約1.17台/人であり,これが1912(大正元)年においても20,208台,18,006人でK/Lは約1.12台/人である.さらに1926(昭和元)年に到っても65,699台に対して48,177人であり,K/Lは約1.36台/人となり28),この24年間に一応ゆるやかな資本―労働比率の上昇は認められてもそれはまことにわずかな上昇にすぎなかったのである.
 自動織機は運転中に緯糸の消費されたこと,あるいは切断したことを機械的あるいは電気的に検知し,ただちに予備のシャトル,または木管を自動的に交換しようというものである.木管換えの自動織機はノースロップによるものが著名で,これを改良したもの,すなわち経糸が切れたときに自動的に織機運転を停止するものが1900(明治33)年に特許されている(日本特許第4136号).
 このノースロップの自動織機では緯糸自動補給機構のほかに,経糸切断停止機構も設けられているために職工1人あたりの受持織機台数は飛躍的に向上した.すなわち緯糸補充装置のみを考えると,5分間で緯糸が尽きるとして約20本の木管を自動補充するとすれば,職工は1時間半に1度織機を見て回ればよい.ところが経糸が一定の確率で切断する問題があった.これはだいたい平均30分間に1度切れる29).確率として30分間に1度であるから,経糸切断のまま織機運転の進んでしまうこともあり,これを早期に発見するためには職工はかなりの頻度で見て回らなければならず,結局,職工1人の織機受持ち台数はそれほどに増加しない.
 そこで考えられたのが経糸切断時の織機自動停止機構で,経糸が30分間に1度切れるのならば,その時に織機をストップさせる.これならば緯糸の自動補給分だけ職工の見回り時間は長くなり,もちろん織機の受持ち台数も増加する.
 日本において自動織機を開発した中心グループは豊田佐吉と息子の喜一郎である.豊田佐吉は自動織機の基本的アイデアを1903(明治36)年に早くも生みだしている.第8図は豊田佐吉,喜一郎による自動織機の特許の流れをみたものであるが,全体は四つの大きな流れに分類できる.まずシャトルチェンジの基本的改良に関するもの,またコップチェンジに関するものがあり,さらに経糸切断に対する自動運転停止装置に関するものである.
第8図 豊田佐吉と喜一郎による自動織機特許の流れ
 この特許の流れをみても,自動織機が実用化されるまでにきわめて長い年月と細部における多数の改良の積み重ねがあって初めて可能となったことがわかる.ところで第8図からまず注目されることは,日本において自動織機の最初の試みがかなり早い時期(1903〈明治36〉年)に行われているという事実である.1903(明治36)年は日本に力織機化がようやく進行しつつある初期時点であった.この時に既に自動織機が発明されているわけで,この点のみをとってみても高い評価は与えられる.この発明に注目した大手紡績会社の鐘紡は,この発明を大阪の木本鉄工に試作させて,試作自動織機を輸入のキップベーカー,ドレーパ,プラット製の織機と性能比較試験を行っている(1905〈明治38〉年).この試験結果は国産織機(すなわち豊田の自動織機発明を大阪の木本鉄工が試作したもの)はキップベーカー製やドレーパ製にくらべてかなり性能が劣っていた.しかし,これは当然の結果とも言えた.当時,広幅鉄製織機を大量に生産する技術永準になく,木鉄混製織機を自動化しても,その性能向上は期待しがたく,むしろ故障の原因にすらなるものとみられる.
 豊田は以後,自動織機自体の開発よりは,広幅鉄製織機の大量生産技術の確立に努力し,本格的な自動織機の開発は,大正10年代に入ってから行われた.特に豊田喜一郎により1921(大正10)年以降,自動織機が集中的に研究され杼換機構(特許第65156号),安全機構,緯管探り機構などが発明され,この結果,大正末に自動織機が完成した.
 豊田佐吉はこの自動織機の生産会社として1926(大正15)年豊田自動織機(株)を設立し,G型自動織機を生産していった.初年度1926(大正15)年の販売台数だけで744台,翌年には3,418台にのぼり,当時産業合理化を急務としていた大手織布会社に急速に自動織機は普及していった.豊田の自動織機完成を追って,1927(昭和2)年には名古屋の野上式が,また1929(昭和4)年には浜松の阪本式がいずれも管換式(コップチェンジ)の自動織機を完成していき,大手織布会社へ供給していった.
 自動織機化は,紡績兼営織布会社における資本―労働比率および労働生産性に明確に反映した.明治・大正期を通じて職工1人の受持ち台数,すなわち資本―労働比率が1.2からせいぜい1.3程度であったものが,1930(昭和5)年には1.84に,そして2.2へと急上昇するのであった.労働生産性も明治期(1909〈明治42〉年)に1.36万ヤード/人・年であり,大正期(1921〈大正10〉年)に1.79万ヤード/人・年であったものが,1930(昭和5)年には3.9万ヤード/人・年,1935(昭和10)年には4.96万ヤード/人・年と急上昇するのであった30).
 豊田自動織機の杼換式自動織機技術は1930(昭和5)年イギリスのプラット社へ10万ポンドで技術輸出された(トヨタ―プラット協定).この協定の背後にはプラット社がインド等の輸出市場を確保する輸出市場分割のねらいがあったものの,技術的にみてともかく日本の織機技術が世界的にみてそのトップ水準に到達したことは明らかであった.
第9図 織機生産額・輸入額・輸出額の推移
 以上のとおりの技術的発展過程を経た織機は,これを供給面でみると第9図にあるとおりの生産,輸入,輸出の推移を示して発展している.特に注目されるべき点は,織機の国内生産額,輸出額が1915(大正4)年という早い時期に輸入額を超えている事実であって,国内生産織機と輸入織機をその台数で比較すると,国産織機は価格が安いだけに第9図以上に早い時点で輸入織機台数のそれを超えている(遅くとも1905〈明治38〉年前後).輸入代替が早期に行われた事実を第9図は物語り,その主要な原因の一つを第6図に示すように国産木鉄混製織機の低価格に求めることができるのである.

 [注]
 1) 服部之総・信夫清三郎『明治染織経済史』,白揚社,1937年,82ページ.
 2) 桐生織物史編纂会(編)『桐生織物史』中巻,桐生織物史刊行委員会,1964年,386ページ.
 3) 佐々信三郎『西陣史』,芸艸堂,1932年,319ページ.
 4) ドイツ・ハルトマン社 872円(2台),フランス・ジュードリッヒ社 389円,内田星美『日本紡織技術の歴史』,地人書館,1960年,186ページ.
 5) イギリス・プラット社地薄用 160円,アメリカ・ドレーパ社製ノースロップ式 479円,他にスイス製4挺杼力織機 400円,イギリス製6挺杼力織機 198円,西村はつ「産業資本(1)綿業」,大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上,第3章,東京大学出版会,1975年,148,164ページ.
 6) 楫西光速『技術発達史(軽工業)』,河出書房,1948年,175ページ.なお原文献は『伊勢崎織物業沿革調査書』,9ページ.
 7) 高機(絹用) 内田星美,前掲書(4),175ページ.高機(綿用)『明治10年内国勧業博覧会出品解説』第10巻,愛媛県,渡辺保平出品のもの.なお通商産業省編『商工政策史』第15巻繊維工業(上),商工政策史刊行会,1968年,110ページから参照した.なお同博覧会出品解説中の他の高機では新潟県庁出品のものが8円,岐阜県松尾永助出品のものが20円とされている.
 8) 楫西光速編『現代日本産業発達史』ⅩⅠ 繊維(上),現代日本産業発達史研究会,1964年,110ページ.
 9) 石井 正「豊田佐吉と織機技術の発展」,発明協会『発明』,1974年,Vol.76.
 10) 前掲書(7)『明治10年内国勧業博覧会出品解説8第10巻」.
 11) 浜松商工会議所遠州機械金属工業発展史編集委員会『遠州機械金属工業発展史』,浜松商工会議所,1971年,351ページ.
 12) 服部之総・信夫清三郎,前掲書(1),118,119ページ.
 13) 「大日本織物協会創立五十周年記念染織五十年史・大日本織物協会五十年業績史」,(社)大日本織物協会,1935年,243ページ.なお原文献は『織物協会会報』明治25年11月.
 14) (株)豊田自動織機製作所社史編集委員会『四十年史』,豊田自動織機製作所,1967年,32,35,36ページ.
 15) 大東亜繊維研究会『日本染織工業発達史』関東・東北編,日進社,1943年,918ページ.
 16) 大阪商工経済研究所『日本の繊維機械工業』,1952年,14ページ.
 17) 三瓶孝子『日本機業史』,雄三閣,1961年,407ページ.
 ただし織機の生産性をみる場合に,織上げ長(たとえば反)でみるのは必ずしも適切ではない.緯糸密度(単位長,例えば1寸あたりの緯糸数)によって,織上げ長は変化するもので,正確には織機の速度(シャトルの往復速度)が生産性を決定し,さらに労働生産性という観点からは織工1人あたりの織機受持台数が問題となる.初期木鉄混製力織機の速度は100―150回/分程度である.
 18) アメリカにおける鉄道のディーゼル化の研究で関連するものに次のものがある.Edwin Mansfield, Industrial Research and Technological Innovation, W.W.Norton & Company, Inc, 1968.なお村上泰亮・高島忠訳で『技術革新と研究開発』,日本経済新聞社,1972年,206ページ.
 19) 清川雪彦「綿工業技術の定着と国産化について―日本・中国およびインド綿工業比較研究:(1)戦前日本」『経済研究』第24巻第2号,1973年4月.
 清川は力織機普及伝播の類型として3点指摘している,一つは比較的単純で量産可能な技術を使用する地域から,次第に複雑で工芸的色彩の強い技術を使用する地域への普及伝播.二つは成長の著しい新興生産地への早い普及.三つは競争の激しい輸出向け産地では,国内向け産地に比べてその普及が早いし,技術革新に対して敏感で進取的である.
 20) 清川雪彦「技術格差と導入技術の定着過程:繊維産業の経験を中心に」,大川一司・南 亮進『近代日本の経済発展』,東洋経済新報社,1979年.
 21) 浜松商工会議所遠州機械金属工業発展史編集委員会,前掲書(11),355ページ.
 22) 豊田式織機(株)『創立三十年記念誌』,1936年,130ページ.
 23) 『池貝喜四郎追想録』,機械製作資料社,1951年,99ページ.
 24) 浜松商工会議所遠州機械金属工業発展史編集委員会,前掲書(11),471ページ.
 25) (株)豊田自動織機製作所社史編集委員会,前掲書(14),52ページ.
 26) 三瓶孝子,前掲書(17),84,85ページ.
 27) 『米沢織物同業組合史』,米沢織物同業組合,1940年,414-16ページ.
 鉄製織機に対する助成は,昭和12年に行われたもので,申込台数は1人につき20台以内,助成金額は1台につき30円,資金立替が1台につき50円であった.当時,米沢に普及した鉄製織機は高橋式(250円),津田式(350円),長野式などがあり,その助成率は3割程度のものであった.
 28) 日本紡績協会『日本綿業統計』.ただし楫西光速編,前掲書(8),45ページの再掲表を利用.
 29) 特許第4136号明細書,1900年.
 30) 清川雪彦,前掲書(19),132ページ.

 Ⅲ 紡績機械技術の発展過程

 (1) 近代紡績技術の導入
 わが国へ近代綿糸紡績機械が輸入され,使用された嚆矢は,1867(慶応3)年の鹿児島紡績所である.イギリス・プラット社からの18番標準スロッスル1,848錘,ミュール1,800錘を中心とした設備がそれであって,イギリス人技師6人,日本人職工200人により操業されたものである1).イギリス製紡績機械を輸入し使用する紡績所の形態は,この後1869(明治2)年に大阪,堺に建設され翌年運転開始した堺紡績所や,1872(明治5)年に運転を開始した繰綿問屋鹿島万平による鹿島紡績所に引きつがれていく.さらに明治10年代に入ると,明治政府は綿糸紡績産業の自立を計り,官立模範工場の設置(1881〈明治14〉年愛知紡績所,1882〈明治15〉年広島紡績所),2,000錘十基紡機の年賦払下げ,輸入紡機代金の立替払いなどの一連の政策を実施していくが,これらの紡績所の形態は,前記の鹿児島紡績所のそれと基本的に異なるところはない.
 これら紡績所の立替払代金の延期願がしばしば提出されているところからしても(最も典型的な例としては三重紡績所で徹底して代金の延納を行い,結局は機械代金棄損にした),その経営内容は決して良いものとは言えず2),せいぜい繰綿問屋の鹿島万平による鹿島紡績所のみが,わずかに安定して利益を生んでいる状況であった3).
 こうした輸入紡績機械による紡績所経営形態を大きく変えたのが1883(明治16)年に操業開始した大阪紡績会社であり,それまでの紡績所にくらべて大規模(せいぜい2,000錘から3,000錘の規模から10,500錘へ),また昼夜兼業,安定した動力源(水力から蒸気力)という特徴を有していた.これにより,設立当初予定したとおりの高利潤,高配当の経営に成功するのである.
 大阪紡績会社の成功を契機に,その後,同様の紡績会社が続出し,これによって1891(明治24)年には綿糸生産額は輸入額を越え,さらに1897(明治30)年に輸出額も輸入額を越えたのである.そこにみられるものは機械の輸入依存,また原料としての綿は外綿に依存,そして経営的には24時間操業の体制であり,これは昭和初期にまで続くのである.
第10図 綿紡績機械技術の発展過程
 技術的に見れば,この時期においては近代綿紡績技術は紡績機械に体化されてあり,その機械は主に英国プラット・ブラザース社から輸入された.すべてはその輸入機械をいかに仕様書どおりに運転するかにかかっているにすぎない.日本において紡績会社の目ざした方向は,機械設備は輸入に完全依存し,混綿技術にその工夫・研究を集中した.綿紡績業において原材料のコストに占める割合がきわめて高いために,割安の短繊維綿を割高の長繊維綿にいかにして高比率で混ぜ,使用するかが,採算に直接影響したのである.
 注目するべきはこの近代綿紡績技術の導入期において,その紡績機械を2度にわたって模造している事実,またガラ紡と称される綿紡績の中間的技術というべきものが発生していた事実である.いずれも広く知られていることであるが,ここでそれらに触れないわけにはいかない.
 1878(明治11)年鹿島万平は鹿島紡績所のために精紡機を模造している.多数の鍛冶屋を集め,鋳物は川口へ,また歯車は本所の中嶋鉄工所へ注文し,あとは鹿島紡績所で自製した.技術的には試行錯誤も多く,絹川太一の『本邦綿糸紡績史』では次のように言う.
 「最初フレームの処を木造で鉄板被覆となせしが震動の為め忽ち破壊し,詮方なく全部鋳物と変更し中嶋鉄工場へ注文した.柴田氏は発明家だけに器用な人で深谷氏に旋盤を操作せしめ,能く筋を読み寸法を計算して筋ローラーの製造に苦心せしが,始点と終点と首尾よく合致せず繰返すこと数度にして漸く納りが付いた.スピンドル,リング及びトラベーラーには皆焼を入れたが筋ローラーに焼のあるのを知らず,鋳物の儘で使用せしに疵が付いたり曲ったり其為め大に困惑させられた.トラベラーも最初焼を入れざりしが能く飛ぶので困ったといふ.チンローラーシャフトが長い一本で首尾貫通して居るや否や不明の為に皆当惑したらしい.詮方なく舶来の一台から取出して解剖し漸く納得の姿となった.大抵のものは幾度も繰返して造り直し,斯くして出来上った機械は外形に於て能力に於て少しも舶来と違はなかった.」4)という.もっとも英国から輸入したものにくらべ数倍の費用を投じたとあり,その後鹿島紡では模造はしていない.
 次に1880(明治13)年から1883(明治16)年に紡績機械一式を模造した赤羽工作分局の例がある.スカッチャー1台からカード5台,ミュール精紡機4台(計2,000錘),磨針器械などの機械一式を安永義章,坂湛の2人が中心となって模造したものである.見取図作成に半年間を要し,鋳物用鉄材を当初は釜石鉄を使用したが不良で,輸入鉄に変更するなどして,その完成までには相当の時日を要した.機械一式の価格は約4万円で,これは輸入紡績の運賃を含めた額のおよそ2倍であった5).問題はその性能であるが,工務局の試験では打綿機の外は役に立たないとされている.この結果,きわめて安値で野沢泰次郎に払下げられている.ところがこの払下人野沢の報告では「御払下ヲ蒙リ据付運転仕候処案外工合宜敷候」とあり,その運転は順調であったことがうかがわれている.もっとも絹川太一が野沢藤吉から聞いたこととしては,むしろ逆で「赤羽機の外形は舶来と毫も違はなかった.只だ全体に調子が悪く多くの馬力を要し,歯車の如きピッチがよく合はざる為め音響高く?々歯を零ぼし坊主になることさへあった.」6)とあり能率は舶来の約4割,糸切れは多く,カードも綿篠に不同多く,ともかく性能的にはかなりの問題があったと伝えられているのである.
 次にやはり同時期,三河を中心に急速に普及したガラ紡についても触れておかなければならない.臥雲辰致により1876(明治9)年に発明されたガラ紡は,径約1寸の綿筒に綿を入れ,この筒を回転させながら糸を引き出す,きわめて簡単な機構のものであり,しかも筒の回転,糸の引き出し巻き取りなどはすべて連動しているので,原動力さえあれば,労働生産性は,それまでの手紡にくらべて飛躍的に向上するものであった.
 第1回内国勧業博覧会に展示されたガラ紡を見物した三河の木綿問屋糟谷縫右衛門の番頭が三河に戻り,ガラ紡を伝えた.翌1878(明治11)年には甲村瀧三郎が手回し40錘機を試製し,1879(明治12)年には60錘ガラ紡を水力で運転しはじめた.この成績が良好で,ガラ紡は三河地方に急速に普及していった.1887(明治20)年には三河ガラ紡の組合員数483人,錘数で131,530錘にまで発展した7).
 これほど短期間に普及したガラ紡であるが,その技術的限界は,近代綿紡技術とくらべると明らかであった.第1に綿筒に入れた状態の綿の繊維方向が完全に整えられていないこと,綿糸の延伸が不充分であること,しかも精紡速度は両者に大きな差があった.すなわち「洋式紡糸ノ臥雲紡糸ニ優レル所以ノモノハ第一綿毛梳整ヲ受ケ繊維能ク整理スルニヨル第二紡式真理ニ合ヒ伸撚ノ方法完整ナルニヨル」8)ものであった.
 精紡速度の点については,簡単に1錘1日あたりの能力をガラ紡と近代紡績機との間で比較してみよう.1887(明治20)年における三河のガラ紡は131,530錘で生産量は308,637貫であるから,1日・1錘あたりの生産量は6,7匁/1日・1錘である.これに対し1886(明治19)年5月の模範工場,愛知紡績所と堺紡績所,それに鹿島紡績所のそれは,それぞれ,32.7匁,24.7匁,38.9匁であって,5倍前後の生産性の差がみられる.これが1897(明治30)年になると全体で1,207,174錘,全綿糸生産量は2億449万ポンドであるから,1錘・1日あたりの生産は58.6匁となり,8.7倍の差となるのであった.しかも女工1人あたりの持つ錘数は近代紡績機の方がはるかに多く,総合した労働生産性は両者の間に大きな差となってあらわれるのである.
 (2) 紡績技術の普及・改良
 輸入紡績機械の技術的優位性は圧倒的であり,明治20年代以降すべて紡績機械は輸入に依存していった.関税政策も「紡績,製織其ノ他ノ繊維工業ノ如キ本邦重要工業ニ需要セラルルモノニシテ近キ将来ニ於テ完全ニ製作シ得ル見込ナク内地製作者ノ利害ヨリモ寧ロ外国機械ノ需要者ニ及ホス影響ヲ顧ミル要アルモノ……之ヲ一割五分ニ止メタリ」9)としていた.
 しかしこうした状態のなかで,ともかく紡績機械の部品工業はわずかずつではあるがその芽を出しつつあった.大阪では1894(明治27)年に金井重要工業,1897(明治30)年に木本鉄工,同じく山階鉄工所,さらに1918(大正7)年には梅田製鋼所(スピンドル製造),同年に浦江製作所(後の日本スピンドル)などがつぎつぎと設立されていき,1921(大正10)年には大阪には紡織部品の中小工場が63あった10).
 第3表は1916(大正5)年『工場通覧』における第11類「機械製造業」中の紡績機械および関連品製造工場を整理したものである.職工数10人以上の工場について調べたものであるが,全国で34工場(紡織機工場,すなわち織機製造工場との兼営工場も含む)のうち,大阪に18工場と半数以上を占めている.その創立年をみていくと,天満小森鉄工所,佐尾鋳造所,木戸鉄工所など明治20年代に設立された工場もあるが,そのほとんどは1907(明治40)年前後と大正年代に入って設立されたものである.
第3表 紡績機械および関連品製造工場一覧表(大正5年12月31日)
 紡績部品工業に最も影響を与えたのは,1914(大正3)年から1918(大正7)年の間の第1次大戦であった.これにより機械,部品の輸入が停止し,代替需要が一気に高まったためである.当時の状況は次のようであった.「大正7年頃より欧州品の輸入杜絶によって筋ロール,スピンドル,フライヤー,リングが勃々現われ始めた.……近時内地製のフライヤーの自家製作の紡機に附するも一般の需要未だ多からず,リング,スピンドルの製造は進歩したるも品質は概ね外国品の如く精良ならず,整理機用ペーパー,ロールの多数は内地製なるも,一本のロールにしてその面に不均一のところあり,チルドロールの長物は米国製を主とす」.11)さらには「鋼材は内地製及米国品を用い紡機の錘リングには内地品と英米品を併用,筋付ロール材,シュライナー・ロール材は外国品を主とす.スプリング及可鍛鋳鉄は未だ外国品に及ばず」という状態であった.
 品質はいまだ英米からの輸入品の水準に到達しないまでも,一定範囲の輸入代替が進行しつつあった.部品の供給が行われるようになると,いよいよ紡績一貫プラントの製作も当然考えられる.その中心にあったのが大阪の木本鉄工(株)であり,1905(明治38)年に荷造機,1906(明治39)年に開綿機,1912(明治45)年にガスワインダの製作に成功していた.こうした技術的基盤をもつところへ1916(大正5)年,豊田式織機(株)がこの木本鉄工を買収し,その大阪支店工場とした12).
 豊田式織機大阪支店工場(旧木本鉄工)は大阪合同紡績神崎工場の工場長隅田光蔵の指導下に,1922(大正11)年に精紡機の製作に成功した.さらに同年,豊田式織機本社工場(名古屋)においてカード機と粗紡機の製作にも成功し,ここにおいて紡績システムすべての国産に成功したのである.
 紡績機の輸入額の推移をみると,第1次大戦の影響により1915(大正4)年に133万円にまで減少したものが1922(大正11)年に3,059万円にまで回復するが,この時点がピークで,その後は減少の一途をたどり,1931(昭和6)年には351万円にまで減少している.こうした紡績機輸入の減少は,もちろん国産による輸入代替のあらわれであった.
 大正半ばからはじまった紡績機輸入代替の動きを間接的に説明するのが,第12図である.
第11図 紡績機械生産額・輸入額・輸出額の推移
これは綿糸紡績に関する特許権の推移をみたものであるが,日本人による綿糸紡績特許は,1890(明治23)年までに3件ほどあるが,これはガラ紡に関するもので,その後,1910(明治43)年前後にも小ピークがあるものの,これも紡績部品に関する発明であり,総じて,1920(大正9)年前後に至るまでその発明活動は低調であった.これに対して,外国人によるものは1900年代に継続して特許取得があり,さらに1920年代にはスペイン,カサブランカを中心に一層活発な特許取得が行われる,
 日本人による綿糸紡績特許は1920年代に入ると活発化し,これは1930年代に入ると大量の取得特許となってあらわれる.この内容の多くはカサブランカ式を中心としたスーパーハイドラフト化に関連する発明である.
第12図 綿糸紡績に関する特許権の推移(日本人および外国人)
次に簡単にこのスーパーハイドラフト化の動きについて触れてみたい.
 昭和初期,産業合理化運動は紡績業においては標準動作の実施と精紡工程の合理化に重点がおかれた.後者についてみると,欧米では1920年代に導入されはじめた精紡工程の一部を省略できる4線ローラ式ハイドラフト機構さらにはエプロン式ハイドラフト機構を1926(大正15)年前後に研究しはじめた.昭和に入ると寿工業の常田健次郎がカサブランカ式ハイドラフト技術の特許権を購入して研究,一方,大日本紡の今村奇男は豊田式織機と協力して栄光式エプロンハイドラフト機を完成した13).今村奇男達は粗紡工程についても4線式ハイドラフトによるシンプレックス粗紡機を1933(昭和8)年に完成した.
 他方,OM紡機製作所の本田菊太郎もエプロン式OMハイドラフト機構の粗紡機を1933(昭和8)年に開発した14).さらに1929(昭和4)年に紡績機生産にのり出した豊田自動織機製作所は当初プラット機をモデルとして,次いでこれに今村奇男によるエプロンドラフト機構を付加した.1937(昭和12)年になると,独自の4線式ローラーシステムによるRU型スーパーハイドラフト精紡機を開発した.これは粗紡工程を全廃したもので,綿糸30番手1万錘の所要人員でみると,普通方式では混打綿から精紡まで全部で77名必要であるのに対し,スーパーハイドラフトでは66名ですんだ.第12図における1930年代の日本人による特許の急増はこうしたハイドラフト化への開発の動きを反映したものであった.
 こうしたスーパーハイドラフト化を中心とした紡績機械技術の改良への努力は,当然のことではあるが,紡績機械生産額,さらには輸出額の増加となってあらわれた.第11図にもあるとおり,紡績機械の国内生産額は1925(大正14)年に至ってついに輸入額を越え,1930年代末には輸出額も輸入額を越している.しかし,第9図でみたように,織機にあっては1915(大正4)年前後に織機生産額,輸出額が輸入額を越している事実と比較すると,紡績機の輸入代替はかなり遅れたものと言うことができ,しかもその紡績一貫プラントを製造した者は,織機メーカー(豊田式織機(株),(株)豊田自動織機製作所)であった事実は注目しなければならないだろう.
 [注]
 1) 絹川太一『本邦綿糸紡績史』第1巻,日本綿業倶楽部,1931年,24ページ.
 2) 絹川太一,前掲書(1),第2巻,490-535ページ.
 3) 服部之総・信夫清三郎『明治染織経済史』,白揚社,1937年,113ページ.なお鹿島万兵衛『紡績創業時代の回顧』,12ページから引用.
 4) 絹川太一,前掲書(1),第1巻,291-92ページ.
 5) 安永義章「赤羽工作分局製紡績機械」,『工学会誌』第7輯第81巻,1885年9月,782-95ページ.
 6) 絹川太一,前掲書(1),第2巻,263-64ページ.
 7) 中村 精『日本ガラ紡史話』,慶応出版社,1942年,132ページ.
 8) 荒川新一郎「洋糸紡糸ト臥雲紡糸ト相異ナル所以ノモノヲ論ス」,『繭糸織物陶漆器共進会審査報告』第2区第2類綿糸,18,19,23,177-83ページ.
 9) 農商務省商工局「明治45年主要工業概覧」,なお土屋喬雄編『現代日本工業史資料』第2巻,労働文化社,1949年,339ページ.
 10) 大阪府商工経済研究所『日本の繊維機械工業』,1952年,201ページ.
 11) 『日本産業資料大系』工業,88-93ページ.なお大阪府商工経済研究所,前掲書(10),202ページに再掲
 12) 豊和工業(株)『豊和工業六十年史』,豊和工業(株),1967年,18ページ.
 13) (株)豊田自動織機製作所社史編集委員会『四十年史』,1967年,157ページ.
 14) 『日本発明家五十傑選』,発明図書刊行会,1952年,213-17ページ.

 Ⅳ 製糸機技術の発展過程

 (1) 機械製糸技術の導入
 製糸技術は乾繭,煮繭,繰糸などからなるが,このなかで特に近代製糸技術と日本における在来製糸技術との間で異なるのが,繰糸法であった.日本においては,古くは胴繰(俗に招き取り,あるいは叩き取り,転ばせ取り)が奥羽地方に普及し,やや進歩したものとして手挽があり,関東,関西に普及していた.これら胴繰,手挽の一層改良されたものが座繰であり,奥州座繰では調紐,上州座繰では歯車を用いて把手からの回転を繰枠に伝えるようにしている.回転速度は早く,それまでの手挽にくらべ約2倍の能率であったと言われる1).
 これら胴繰,手挽,座繰に共通するものは,片手(右手)で繰枠(あるいは胴)を回転させ,別の片手(左手)で鍋の中の繭から索緒し,接緒,添緒を行うようにしている点である.片手で索緒,接緒,添緒を行うので能率に限界があり,とりわけ問題であったのが品質のムラである.主に座繰製糸による生糸が明治開国前後に大量に輸出されていったが,この座繰による生糸品質が問題となった.
第13図 製糸技術(とくに繰糸機技術)の発展過程
 1870(明治3)年民部省による『養蚕仕方書』においても,次のような指摘がされている.
 「日本ノ生糸製シ方ヨカラヌトイフ訳ハ全ク好器械無キ故ナレハ欧羅巴様ノ器械ヲ日本ニテ仕立タキモノナリ方今日本ノ人ハ生糸ノ美悪ニはカカハラス只品数多ケレハ外国人ヘ売リテ利益アル事トシテ糸ノ製シ方ハ更ニ注意セス……好器械ヲ国内ニ広ムル様世話致サハ随分佳キ品ヲ得ヘシ然シテ外国人ヲ雇ヒ伝習ヲ受ケナハ聊ナル歳月ニテ熟練シ永ク教師モ雇フニ及ハスシテ製糸ハ奇麗ニ品質ヨク価モ高貴ニ至リ器械買入等ノ費用ハ速ニ補ヒ得ル事容易ナルヘシ」2)
 1870(明治3)年,近代製糸工場4ヵ所の設立が企画された.民部・大蔵両省企画の富岡製糸場,工部省による勧工寮製糸場,前橋藩による前橋製糸場,古河市兵衛による築地小野組製糸場である.富岡のみがフランス式で他はイタリア式であるが,なかでも富岡製糸場はその規模,その後の技術移転へ与えた影響はきわめて大きいものがあった.フランスから輸入した300釜の鉄製製糸器械設備は,その建造物の費用も併せて総工費198,572円にものぼった3).各製糸場とも経営的には成功したものとは言えず,民間企業へ払下げられたり(富岡,前橋,勧工寮),あるいは閉鎖されたり(小野組)したが,その技術は工女を通じて,さらには器械の模造を通じて広く普及していき,この点において模範工場としての当初の目的は充分に達せられたのであった.
 (2) 機械製糸の改良・普及
 模範製糸工場の近代製糸技術はただちに各地へ普及していった.しかし重要なことは近代製糸技術の本質的部分のみが模倣され,極力安価に機械を作り,これが普及している点である.
 富岡製糸場からフランス式製糸技術を模倣した六工社(長野県埴科郡西篠村)の場合,1874(明治7)年50人繰で出発し,1879(明治12)年100人繰となったが,この工場では動力は水力,蒸気釜は松代の銅壺屋に銅で作らせ,鍋は富岡がフランス直輸入の真鍮製であったものを六工社では素焼とした.和田英子は六工社について「富岡と違ひます事は天と地程であります.銅,鉄,真鍮は木となり,ガラスは針金と変り,煉瓦は土間……」4)と言う.こうした傾向はやはり富岡を参考とした長野県東筑摩郡の中村右一が「力[ママ]メテ入費ノ減少ヲ計リ,此ヲ職工ニ示シ,蒸気ノ運転ハ水車ヲ用ヒ,繰糸揚枠ノ器械ハ必要ノ所ハ金物ヲ用ユレドモ,多クハ諸材木ヲ以テ之ヲ作リ,製造ヲ試」5)みたとしている点にも共通している.
第4表 明治初期洋式模範製糸場概要
 富岡のフランス式に併せてイタリア式製糸法を折衷した中山社(長野県諏訪郡)が1875(明治8)年に設立された.「首トシテ富岡製糸場ヲ一覧シ,其他各地ノ器械ヲ熟察シ其ノ軽便ナルモノヲ折衷シ,運転ハ水車ヲ用ユルト雖モ,汽機ニ至ツテハ中根氏豫テ説クトコロノ松代西篠製糸場(六工社)ニ於テ富岡ノ蒸汽機ヲ模シ,簡易ナル汽機ヲ使用セルノ事」としたものであった.中山社は「爾後近傍新築セル製糸場夥多ナリト雖モ,汽機ニ至ツテハ此ニ機ヲ模造スルモノ概ネ十ノ八九ニ居レリ」6)というように簡易型機械製糸工場の模範例となっていった.
 近代製糸技術は,工場制機械製糸業のみに影響を与えたわけではなかった.日本在来の座繰の改良に強い影響を与えた.既にみたように近代製糸技術は繰枠の回転を作業者の手から解放したところを一つのポイントとしている.機械製糸の場合,この回転は全て連動して水車あるいは蒸気機関により駆動されたものである.
 座繰の改良で最も重要なのは足踏機構の採用である.足踏動力で繰糸枠を回転させる.索緒,接緒などは両手で行うことができるので,二口,三口さらには四口取も可能となり,また品質も一定するという効果があった.
 1871(明治4)年長野県松代の館三郎により横踏自転車および前踏自転車と称する足踏製糸機が発明された.価格が安いこともあって好評で,長野県下高井郡の擴益社はすべて足踏機を使用し,さらに1886(明治19)年以降,同郡蚕糸業組合ではこの足踏機を使うものが多かった.それは「糸質上品ニシテ器機製糸ニ等シク出来シ,単ニ一手ヲ以テ二ツノ口附ヲナス濫製品トハ異ナル一良器」であったためである.
 1877(明治10)年内国勧業博覧会には製糸関係では27の器械が出品されたが,このうち6器械は足踏製糸機であった.これは第5表に一覧としたが,長野県のみならず,山梨,群馬,東京,神奈川,山口などきわめて幅広く日本各地において製作されていた.
第5表 1877(明治10)年内国勧業博覧会へ出品の足踏製糸機一覧
 1905(明治38)年,機械製糸工場が2,320であるのに対し座繰は604工場,足踏式座繰は362工場であった.1911(明治44)年にはこれはそれぞれ2,491工場,453工場,479工場となっている.また製糸労働者数でみても,1905(明治38)年器械製糸労働者数が全国で162,000人であったのに対し,座繰は8万人,足踏は約2万人であった.これが10年後の1915(大正4)年にはそれぞれ206,000人,1,980人,7,554人となっている7).座繰の急速な衰退にくらべて足踏座繰の根強い普及ぶりが注目されるのである.
 さて,以上みてきたような日本的簡易型の器械製糸機あるいは足踏座繰機の製造者は,同じ繊維機械である織機や紡績機械といかなる違いを見せるだろうか.第6表は1909(明治42)年における製糸機および関連品製造工場を『工場通覧』から調べたものであり,第7表は1916(大正5)年における同様工場を調べたものである.1909(明治42)年の『工場通覧』では職工数5人以上の工場を調査対象とし,1916(大正5)年では職工数10人以上の工場を対象としている.
 これらの表を一覧してわかることは,製糸機の製造工場は日本全国をみてもきわめてわずかな数でしかなかった事実である.5人以上職工数でみた1909(明治42)年ではわずかに13工場,10人以上職工数の1916(大正5)年では3工場にすぎない.
第6表 製糸機および関連品製造工場一覧表(明治42年12月31日)
第7表 製糸機および関連品製造工場一覧表(大正5年12月31日)
この理由は2点あった.第1点は製糸機製造工場がきわめて零細であったこと,このために職工数5人以上,あるいは10人以上の工場調査の対象に入り得なかったことである.第2点は製品が製糸機に限らず,諸機械製造となっている例である.第7表の群馬県の桐生製作所がその例である.器械製糸でわが国第1の長野県においてすら,製糸機製造工場は1909(明治42)年にわずか2工場,1916(大正5)年にいたってはゼロという状態であった.
 (3) 多条繰糸機の創造
 機械製糸における?の回転速度は,2条繰では関西方面で800―1,000尺/毎分,長野では650―700尺/毎分である.この速度はもちろん製糸作業の生産性に直接影響するものであるが,早くすれば解舒が悪くしかも切断しやすくなる.こうしたことから繭の品質を前提として経験的に各地方で最良の速度を求めたのが上記の数字であった.
 これに対し,御法川直三郎は逆に?の回転速度を落とし,繰糸を2条から4条以上の多条とする考えをもった.低速?回転によると解舒が良好で切断も少なく,なにより糸の品質が向上する.1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会に600尺/分速度の4条繰糸機を出品した.さらに各?毎に?止めを付けた6条繰糸機を開発,さらに1903(明治36)年には速度300尺/分の12条繰糸機を開発し,1904(明治37)年には20条繰糸機を開発した8).
 こうした多条繰糸化の過程で,低温繰糸化にも成功する.低速の?回転によると解舒が良好となるために,低温での繰糸が可能となる.従来の繰湯が160―180°Fであったものを70―100°Fの低温にしても充分に解舒が可能で,しかもセリシンの溶解と蛹汁の浸出を防ぐことで生糸の品質は向上し,とりわけ細糸の繰糸に適していた.技術的にはこうした低速繰糸の場合には接緒が不完全になりやすくなるために,接緒機を必要とするが,これには糸に摩擦を加えない抱合接緒機を発明して対策とした.
 御法川は1907(明治40)年に,「接緒器付20条多条繰糸機」を東京勧業博覧会に出品し銀牌を得,さらに1925(大正14)年にはそれまでの技術を総合した「無切断緩速度低温多条繰糸機」を完成した.これは以下の特徴をもつもので,従来の製糸機とはまったく異なる技術体系の上に立っていた.
 (1) 低温繰糸(70―100°F)(従来は160―180°F)
 (2) 緩速度(100尺/分)(従来は600―1,000尺/分)
 (3) 多条立繰式(20条)(従来は2条)
 (4) 直繰式
 (5) 金属製
 (6) 省動力(100台につき1馬力)
 この御法川直三郎による緩速度多条繰糸機に注目したのが片倉製糸紡績(株)で,1921(大正10)年に大宮工場と熊谷石原工場に32条繰糸機6台を据えつけ実験を行い,翌年には大宮工場に32台据えつけ米国へ輸出した.その結果は生糸の品質がきわめて良好でミノリカワシルクとして特上の至上ダイヤモンド格として高い評価を得たのである.以後,片倉はそれまでの普通製糸機をすべて撤去し,20条繰糸機に切替えていった.
 片倉が御法川の多条繰糸機を全面的に採用した直接の理由はアメリカにおけるその生糸(ミノリカワシルク)への高い評価と需要にあった.その背景には人造絹糸レーヨンの登場とフルファッション靴下用細糸への需要がある.普通生糸,たとえば20デニール程度のものはレーヨンによって代替されていった.ところがフルファッション靴下用細糸だけはレーヨンでは代替できない.この細糸はしかも糸条斑,抱合,強度など高品質を要求された.
 従来からの機械製糸による生糸,たとえば,信州上一番などではこの求める品質に応じることはできなかった.しかも昭和初期,生糸の価格は低下していた.そこで片倉以外の各社とも争って緩速度低温多条繰糸化へと切替えていったのである.
 郡是は1932(昭和7)年に鳥取工場に360台導入し,昭栄は1936(昭和11)年に沼津に多条繰糸新工場を新設したのがそれである.
 製糸機生産者側も御法川方式を模倣して同様の緩速度多条繰糸機をつぎつぎと開発していった.中原工作所の織田式,平山製作所の大宗式,増沢商店の増沢式,日本通商の日通式,三谷工業所のCM式などである9).
 第14図はこうした多条繰糸機が開発され,普及していく前後における諸ファクターの推移をみたものである.多条繰糸機が急速に普及していく1930(昭和5)年前後は,生糸の相場が完全に低落し,生糸生産高もまた頭うちの状態になっていた.もちろんこれは既にみたとおり,世界的な不況と人造絹糸の登場に影響された結果であった.しかしこうした生糸不況の時に,製糸機に関する特許・実用新案の数は増加していた.多条繰糸機を中心とした生糸品質の向上,あるいは繰糸能率の向上を目標とした技術開発・改良の動きが特許・実用新案にあらわれている.そしてこの結果は,たとえば郡是製糸繰糸能率の向上や,多条繰糸機開発・普及となってあらわれていくのであった.不況および対抗新技術(レーヨン)の登場が逆に,それまでの技術(機械製糸技術)を大きく改変させる契機となった事例をここに我々は見出すのである.
第14図 生糸生産高・生糸相場・繰糸能率・多条機設置・特許等の推移

 [注】
 1) 楫西光速『技術発達史(軽工業)』,河出書房,1948年,98-101ページ.
 2) 民部省『養蚕仕方書』,1870年,なお通商産業省『商工政策史』第15巻,「繊維工業(上)」,商工政策史刊行会,1968年,44,45ページから参照.
 3) 楫西光速『現代日本産業発達史』ⅩⅠ繊維(上),現代日本産業発達史研究会,1964年,96-8ページ.
 4) 和田英子「富岡後記」,『信濃蚕糸業史』下巻,なお楫西光速,前掲書(1),145ページから参照.
 5) 楫西光速,前掲書(1),145ページ.
 6) 楫西光速,前掲書(1),132,133ページ.
 7) 庄司吉之助「製糸労働者史序説」,『商学論集』第31巻第1号,51ページ.
 8) 丹羽四郎『御法川直三郎翁とその事績』,御法川直三郎翁伝記刊行会,1960年,129ページ以降.
 9) 楫西光速,前掲書(3),583ページ・なお多条繰糸機の普及伝播を分析したものとしては次の文献(10)が詳しい.
 10) 清川雪彦「製糸技術の普及伝播について――多条繰糸機の場合――」,『経済研究』10月号,1977年,一橋大学.また一般的に製糸技術の選択とその後の進歩について触れたものとして次のもの(11),(12)が重要である.
 11) 小野 旭「技術進歩とBorrowed Technologyの類型――製糸業に関する事例研究――」,『経済成長理論の展望』,1968年,199-217ページ.
 12) 大塚勝夫「明治期における製糸業の技術選択と技術進歩」,『一橋論叢』Vol.68,1972年,105-15ページ.

 Ⅴ 繊維機械技術の発展機構

 織機,紡績機械,製糸機についてその発展の過程は以上にみてきたとおりであるが,その発展の機構をあらためて整理してみたい.特に,各機械技術がなぜ発展に成功しえたのか,また発展パターンの特徴は何かという点を中心に整理すると次の通りである.
 織機:近代織機技術の発達史でみると,やや古い技術・バッタンをあえて導入したところがポイントとなる.西欧において織機が進歩していった経過と同じパターンを描いてバッタン技術を消化吸収し,全国に普及し,足踏機から木鉄混製力織機,さらに鉄製織機へと改良していったところに短期間に日本の織機技術が発展した原因が求められる.技術の発展過程が連続性をもっていたことが,織機技術の発展機構の最大の特徴と言ってよい.
第8表 多条繰糸機設置台数の推移
 それではなぜ,そうしたやや古いバッタン技術を導入し,連続的改良の積み重ねで自動織機にまで到達することができたのだろうか.これにはいくつかの理由があげられる.
 第1には,織機の場合,在来からの手織機と近代的鉄製広幅動力織機,さらには自動織機との間に,技術的共通性が存在していることである.経糸の開口運動,杼打,筬打,送出し,巻取りなどすべて共通する機構であって,この点では手織機も自動織機も同一である.したがってバッタン技術によって杼の運動を機械化する可能性が見出せれば,あとは改良の積み重ねで近代織機化が展望し得るのである.
 第2には,在来型織機,中間織機(足踏,木鉄混製小幅織機),近代織機との間の生産性格差が,綿紡績のそれに比較すれば小さかったことである.もちろん格差はあった.しかし,第15図にみるとおり在来織機,例えば高機と鉄製動力織機との間の生産性格差はせいぜい10倍程度のものであり,これならば,織機の価格差,賃金の安さなどを考慮に入れると在来織機,中間型織機も充分に併用され得る経済的理由となった.
 第3には,初期力織機,すなわち木鉄混製小幅力織機への需要が重要であった.力織機を製造する場合に,一挙に鉄製織機を作ることも不可能ではないが,はじめは木鉄混製でいき,その製造に習熟し,ついで鉄製化する方が織機メーカーとしては製造リスクも少なく,なにより輸入鉄製織機とはじめから競争しないですむだけに有利である.問題はこの木鉄混製織機の需要が市場に存在するか否かである.幸いなことに,日本においては伝統的に着物用織物は着尺すなわち小幅であった.
第9表 織機・紡績機械・製糸機の発展段階,技術,市場の比較
第15図 織機の生産性推移
小幅織機の場合にはそのフレームは木製でも強度は一応,耐えられる.しかも木製フレームの小幅力織機ならばその価格は輸入鉄製織機にくらべて安くなり,これが全国に散在する中小機業家の需要に合致したのである.
 これに対して紡績機の場合にはどのような発展機構の差違をもっていただろうか.
 紡績機械:近代紡績技術は在来手紡技術とはまったく異なっている.打綿,繊維整列,さらに粗紡,精紡の各工程ともに近代紡績技術は在来の手紡のそれとは異なっていた.歴史的には例えば粗紡,精紡ともに手紡の技術からジャーシー紡車,サクソン紡車を経て発展してきたものであるが,ひとたび手の作業から離れ,機械の作業へゆだねられると,それは極限にまで機械機構は改良され,変形されていった.その発展の後の技術,すなわち近代紡績技術は手紡技術とは大きな差を有していたのである.
 これが端的に示されるのが,生産性の差であった.例えばイギリスにおいて原始的手紡に対してジャーシー紡車は2,3倍,ジェニー紡機が10倍以上,そしてウォーターフレームが100倍以上の生産性をもつとされていた,
 日本においては手紡では女子1人が1日に紡ぐ量は約40匁とされていた.これに対し1897(明治30)年では全紡績会社の生産量が2億449万ポンドであり,この年の女工総数が3万5,059人であり,このうち兼営織布工場分,その他の分を除いて約3万人として計算してみても,女工1人が1日に紡ぐ量は7,069匁である.これは手紡にくらべて177倍に相当するものであり,その生産性の格差はきわめて大きいものであったことを示しているのである.
 これほどの生産性格差があり,しかもその糸の品質には越えがたい差があるとなれば,たとえその生産設備には大資本を必要としても,そのすべてを輸入に頼ることも当然であった.大資本投資に見合うだけの利益が約束されていたのである.紡績会社は設備は最新鋭のものを輸入し,原綿の手配と混綿技術の向上のみにその努力を集中させればよかった.しかも,全設備は巨額の資本を必要とするだけに,ユーザーからすればあえてリスクをおとすことは望まず,国産機械の使用を敬遠する性向となった.
 すなわち,技術発展が進行し,出発点にあった在来技術との間に大きな生産性格差が生じ,技術的にも連続性を欠くようになると,在来技術から近代技術への移行はきわめて困難なものとなる.しかもその中間的レベルの技術あるいは商品の存在しないことは,更にその移行をむずかしいものとする例を,紡績機械技術は示している.
 製糸機:在来製糸技術,例えば座繰と近代製糸技術との間には,本質的な差は見られない.
第16図 導入技術の適応化の過程―織機―
第17図 導入技術の適応化の過程―紡績機械―
第18図 導入技術の適応化の過程―製糸機―
単に後者が,その繰糸に動力を用いること,工場において集団作業をすすめること,品質管理のための各種検査法が確立していること,その他機械を用いることによる差違などがみられるにすぎない.近代製糸技術が動力を用いるといっても,なお手の作業を完全に解放しているものではないことは,これまで見てきたとおりである.
 基本的に技術体系が共通する以上,近代製糸機が輸入されても,その模倣は短期間に実行され,きわめて安い価格での製糸機の製造に成功し,さらには在来型座繰技術への近代製糸技術の適用(改良座繰,足踏座繰)も行われた.当然のことながら製糸機の輸入は最初の模範工場のみで,その後はすべて国産ですますことができた.
 しかし,模倣が簡単に行えるだけに,その後の発展の可能性は一定の壁があった.手の作業の枠を越えないかぎり,真の意味での機械製糸と言うことはできない.多条繰糸,さらに自動繰糸技術が完成するのは戦前,昭和初期であるが,手の作業を駆逐する後者が広く実用化するのは戦後まで待たねばならなかった.
 また製糸機の場合,その求められる技術水準が高いものではないために,その機械生産者の規模は『工場通覧』に見るとおり,小さいものにとどまってしまった.したがって,製糸機技術のその後の他分野への転移,あるいは生産者の他分野への積極的転換もみられなかった.

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 [石井 正]