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近代日本の技術と技術政策

Title: 第3章:技術政策の歴史
Author: 内田 星美
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第3章:技術政策の歴史

 Ⅰ 総 論

 本稿は,幕末明治以来,昭和の戦時体制に入る直前までの,歴代日本政府の産業技術政策の推移を要約したものである.叙述にあたっては,各時代の一般政治経済状勢および民間産業技術の発展過程は既知のこととして省略され,もっぱら中央政府の政策内容,その制定・実施過程,およびその直接的効果に記述が限定される.これは「政策史」としての性格を明確にするための配慮であるが,そのために万一にも近代日本産業技術の発達はすべて本文で述べられている諸政策の結果であるというような誤解を生ずることのないように,具体的な叙述に先立って技術政策の限界について一言触れておきたい.
 欧米先進諸国に比して低開発国として出発しながら,現代世界有数の高度技術を有する国となった日本の百数十年の発展過程は,客観的にみても世界史上稀有の出来事であった.それゆえに,他の諸国,とくに開発途上国が,いかにして日本がこのような技術的進歩を達成したか,そしてその過程において政府がいかなる役割を演じたかについて重大な関心を持つことは,当然と言わなければならないだろう.そして,往々にして日本の経済発展が政府主導型であったと信ぜられているところから,産業技術の進歩も政府の強力な指導によるものと考えられやすいかもしれない.従来日本国内で刊行された,近代日本技術の発達に関する何冊かの成書の記述にも,そのような印象をあたえるものがあったことは否定しえない.
 しかしながら,本稿の著者は,日本の経済発展・技術的進歩については,民間人の活力を重視する立場をとっておるものであって,特に技術的達成については,技術者および発明家個人の役割を重視するものである.本文において述べられるように,明治以来種々の技術政策がとられてきたけれども,それらは決して長期的展望に基づいたものではなく,また個々の官庁の政策の間に整合性が必ずしもあったわけではない.また政策の対象とされた産業技術部門はつねに重点的に選択され,そのために政策から無視された部門が非常に多い.にもかかわらずこれらの部門における技術進歩がなかったわけではなく,また国民経済の成長に対するこれらの政府から軽視された部門の寄与は少なくない.また技術促進政策の対象となった産業においても,大部分の場合は企業または個人の積極性を前提として政策の効果が予想されていた.
 このような民間の活動は,本文の記述には入ってこないけれども,それは民間を軽視したからではないのである.
 本文で「技術政策」として列挙したものは,産業技術の開発または普及に対して影響をあたえるような,政府のあらゆる施策を網羅している.だがそれらは,国防政策,経済政策,教育政策のいずれかの一部分にすぎず,技術に対する政策は上記の諸政策目的に対する手段にすぎなかった.国の政策のうえで「技術」が独立の項目として出現するのは,本文の範囲外である1942(昭和17)年の「技術院」の設置以後である.したがって本文の内容は「技術政策」の範囲を最も広くとっていると言えよう.幕末・明治以来,一貫して,あるいは随時にでも,総合的な技術政策思想があって,個々の施策はその部分的適用であったと考えることはできない.行論の中で明らかにされるように,各時期において国防,経済,教育に対する政策を立てようとするとき,技術の問題が避けて通れないものであった場合に,必要に応じて技術的施策が立案されたのである.
 以上のように広義にとった技術政策は,政府の活動の現業部分と非現業部分の二つに分けて考えなければならない.前者は,軍隊,国有工場,国有鉄道,通信機関,国立学校など,それ自体産業の一分野を形成するものであって,その技術的活動はすべて直接的に政策を反映するものと言わなければならない.それに対して後者は,一般に行政官庁と呼ばれるもので,その政策は監督と指導・奨励と禁止を通じて,民間企業や個々の国民に影響を与えるものである.
本文では,この両部門にわたる,直接・間接の施策をともに対象としている.
 具体的に政策は,法律,勅令,省令,規則などの法文の制定または改正としてあらわれる.しかし政策の相対的な重点のおかれ方を判断するには,財政支出の大きさを見ることも重要である.これらの手段は,現業・非現業両部門に共通に現われるが,その取扱いがおのずから異なることは明らかである.現業においてはこれらの法令規定は,経営組織の変更あるいは規準の制定を意味するのみで,技術的活動の一端を示すにすぎないのであって,政策の実体は業務における技術的活動それ自体である.これに対して非現業官庁においては,法令や規則は主要な,あるいは唯一の政策手段であって,これを通じて民間企業や個人の技術的活動を刺激したり規正するのである.とはいうものの法令にもとづく官吏の実際的な行動――たとえば業者に対する指導や取締り――の程度や方向,または予算支出の配分が,政策の効果を左右するという側面がある.
 すなわち技術政策の流れを見る時に,現業部門においてはその事業の運営が主たる問題であって,法令は従の意味しかもたないのに対し,非現業部門では法令を主とするが,その実際の運用もまた無視できないのである.
 現業部門の技術政策がその部門自体(即ち政府セクター)の技術向上を目的とし,非現業部門の技術政策が民間セクターの技術向上を目的としていることは言うまでもないことである.しかしながら,政策の両部面と社会の両セクターがそれぞれ対応しているとしても,相互に無関係なわけではない.なかんずく現業部門の技術政策が民間セクターに与える影響を無視することはできない.第1に軍部や国鉄は少なからぬ数の民間産業にとって重要な製品の販売先であって,これらの政府機関における技術政策は間接的に関係民間産業の技術進歩の速度や方向に影響を与える.ある場合には影響は決定的でさえあるだろう.第2に政府の現業部門は,しばしば民間産業にたいする技術的人材の供給者であった.また,現業部門の要求が,非現業官庁を通じて民間セクターに対する技術政策として現われることもある.
 本文に展開される技術政策の歴史では,これらの過程をすべて含むことを企図した.政府諸機関の発行した歴史資料および個々の時代,個々の問題に関する先学の論考に依拠するところが大であったのは勿論であるが,全体の構想と,その中における各時代の政策の意味づけとは全く著者独自のものである.
但し資料の制約と,著者の能力の限界のために,各時代の諸政策に対してその重要性に対応するスペースを割振って記述することには必ずしも成功したとは言えないし,政策立案の意図やその効果についても十分に解明しえない点があったことを遺憾とする.

 Ⅱ 幕末(1825―1868〈文政8―明治元〉年)

 (1) 総 説
 日本における近代的な政府は明治維新後に形成され,本格的な技術政策もその新政府の手で実施されてゆくのであるが,新政府のとった技術政策の原型はそれ以前の幕府および雄藩の政策の中に見出される.それゆえに明治政府の技術政策を検討するに先立って,幕末の洋式技術導入政策の起源を追求しなければならない.その契機は1825(文政8)年の外国船打払令に求められる.
 もっともそれ以前の幕府および諸藩の施政の中に,全く技術政策の要素がなかったわけではない.江戸幕府の初期に金銀鉱山を天領地として南蛮渡りの精錬法を普及せしめたこと,大規模な治水工事を敢行するにあたり,甲州流に端を発する治水技術を標準化して施行せしめたことなどは幕府の重要な技術政策であったと言えるし,1639(寛永16)年の鎖国令に関連して外航可能な構造の大船の建造を禁止したことはネガティブな技術政策である.ちなみに鎖国政策の実体は全く西洋の技術知識を排するものでなく,ただその受入れを天領地である長崎に限定したことによって諸藩に海外情報が流れることを妨げようとしたものであった.幕府自体はオランダとの貿易にあたってむしろ各種理化学機器を輸入することに熱心だったのである.この意味では鎖国政策自体が,中央政府による技術情報の独占政策であったということができる.
 18世紀(元禄―享保)以後の各藩がとった殖産興業政策は,窮極の目的は藩の現金収入の増加をはかるための財政政策であったが,この政策において新規な農林産加工技術を開発させ,あるいは先進地域からの技術導入をはかったという点において,技術政策の性格をもっていた.このような中央・地方政府の経験が,のちの明治初年の殖産興業に思想的につながる面をもっていた.
 しかしながら,幕末の技術政策はそれ以前の時期とは違って,国際情勢の緊迫から緊急に取り上げられた国防政策の一環であって,そのために従来の技術的伝統と関係なく欧米技術を導入しようという運動であった.この点をいま少し詳しく説明しよう.
 江戸時代は,武士階級による支配が行われていたが,社会の実態は平和で,統治思想も軍国主義的なものではなく,軍事技術は同時代の西欧に比べていたって停滞していた.各藩は,幕府から謀反の疑いを受けて弾圧されることを恐れて意識的に軍事力を弱体化し,小文化国家となることに努めた.それに対応する幕府の軍事力もまた取るに足らないもので十分であった.武士は軍人というよりも,官僚または知識人と化していた.この体制のもとで250年間の平和が保たれていたのである.朝鮮,中国,オランダとの間の外交関係もいたって平和的なものであった.
 しかるに1808(文化5)年,英艦フェートン号の長崎におけるオランダ船寇略事件以後,北方からのロシア船,南方からのイギリス・アメリカ船の来航がひんぴんと始まった.そして隣国では清朝政府の阿片輸入禁止(1815年)以後英国との外交関係の緊張が高まり,ついに1839―42(天保10―13)年の阿片戦争となって中国軍が敗北したことが伝わり,外国船の脅威が幕府政権を揺るがした.そこで海岸防衛の強化が考えられた.これは1825(文政8)年の外国船打払令に始まるが,実際問題として当時の幕府および各藩は,洋船の艦砲に対抗しうる有効な軍事技術を持っていなかった.そこで蘭学者の登用による洋式軍事技術の模倣が急遽採用されたのである.
 それは1840(天保11)年,長崎の御用商人高島秋帆の洋式火砲採用の建白を幕府が採用し,江戸郊外の徳丸ケ原で洋式陸軍教練を開始し,代官江川太郎左衛門に高島について洋式砲術を教習することを許可したことに具体的にあらわれている.1842(天保13)年には,一方において平和的な外国の漁船や遭難日本人を送ってきた船には水薪を与えるよう打払令を緩和する一方,軍艦の脅威に対しては海防を一層厳にするという,より現実的な方針が決められ,1845(弘化2)年には幕閣に海防係をおき,実力者老中阿部正弘がその筆頭に就任するという,防衛技術重視の体制が作られた.
 当時,実際に行われた海防策は洋式の海岸砲台を長崎および江戸周辺に築くことであって,そのために洋学者を技術者として登用し,御台場の土木設計および大砲鋳造に,西欧技術が採用された.その詳細は次項にのべるが,大砲製造において先進的であった水戸藩,佐賀藩,鹿児島藩は,少なくとも安政大獄(1858〈安政5〉年)までは幕府の政策と一体になって行動していたのであり,かれらの意見が幕府の方針に影響を与えていた.したがってこれらの諸藩の動きも,当時の幕府の政策の一部であったとみることができる.
 アメリカ政府の開港を要求する正式文書を持ったペルリ艦隊が現われたのは1853(嘉永6)年であった.翌年再び来航したペルリと幕府の間で和親条約が結ばれ,ロシア,オランダ,イギリス等の各国とも逐次外交関係が作られて,日本は開国時代に入る.このような外交関係は外国の圧力によって受動的に作られたのであるが,同じ時期(1853―57〈嘉永6―安政4〉年)の間に,阿部正弘を中心とする幕閣が徳川斉昭や島津斉彬と協力してつぎのような一連の積極的な西欧軍事技術導入策を実施に移したことは,開港しながらも国の独立を維持するために有効な政策であったとして評価しなければならない.
 (1) 大船製造の禁を解き,洋式船製造の業をおこした.
 (2) 海軍創設のため,オランダから軍艦を輸入し,長崎に幕府および諸藩の人材を集めて海軍伝習所を作った.
 (3) 品川,長崎に砲台を築造し,鉄製大砲鋳造のため反射炉設立を推進した.
 (4) 講武所,大砲射撃場を設け,洋式陸軍を創設した.
 (5) 蕃書調所を創立し,全国の人材を集めて西洋技術書の翻訳および西欧理工学の教育機関とした.
 (6) 西欧技術を理解しうる人材を身分にかかわらず抜擢し,要路に任じた.不幸にしてその後国論が尊王攘夷論と佐幕開港論とに分裂し,洋式陸軍への切替えに先行した西南諸藩が反幕府勢力化したために,国としての政策の一体性は失われてゆく.しかしながら開港頭初において幕閣が率先採用した上記の諸施策の方向は,その後の幕府中央勢力にも,独立化した諸藩にも踏襲され,さらに明治維新政府へと引き継がれてゆくのである.
 (2) 反射炉の築造と洋船の建造
 開港前後において,洋式技術による大砲製造を担当した,水戸,佐賀,鹿児島の諸藩および江川代官所などの地方政権が行ったことは,洋書から得た知識のみにもとづいた実質的には独自技術の開発であったと言うことができる.従来から青銅砲の鋳造技術はあったが,より強力な鋳鉄砲および弾丸を製造するために,ヒューゲニエン著の『リエージュ砲兵工廠技術解説書』を翻訳して,その中に盛られた銑鉄溶解用の反射炉を築造することに,努力が集中され,多くの場合それに成功した.反射炉は,日本最初の洋式工業設備であった.
 この技術開発において先行したのは,長崎防備の責任を負っていた佐賀藩であった.同藩では早くも1843(天保14)年から蘭伝火砲製造所を設けて青銅砲(500匁筒)の鋳造を行っていたが,1850(嘉永3)年には鉄製鋳砲局を設け,反射炉および砲身中ぐり機を設備した.同藩では1843(天保14)年から1865(慶応元)年までの間に洋式砲307門を鋳造している.佐賀藩の活動はさらに拡大して1852(嘉永5)年には,総合的な西欧技術研究機関である精錬方が設立され,洋書にもとづいて蒸気機関,蒸気船,蒸気機関車,旋条砲等の模型および化学薬品の試製に及んだ.
 水戸藩主徳川斉昭は幕閣内の反主流派の巨頭ともいうべき人物であったが,海防には特に熱心であって1839(天保10)年から銅砲を鋳造し,1855(安政2)年には反射炉を完成,翌年にはモルチール砲の鋳造に着手している.
 韮山代官江川太郎左衛門も,1841(天保12)年以来鉄造弾丸を製造していたが,1853(嘉永6)年に佐賀藩にならって反射炉築造に着手し,4年後に完成,そのために伊豆梨本で耐火煉瓦を製造している.
 最後に薩摩藩でも,1851(嘉永4)年に開明的な島津斉彬が藩主となるや,直ちに一連の洋式技術開発政策が展開された.火薬および原料の硝石製造工場,ならびに反射炉鋳砲事業は軍事技術の開発であったが,同藩が1857(安政4)年開設した集成館は,鋳鉄,鉄砲のほか,ガラス,陶磁器,製紙,製油,顔料,アルコール,鍍金,硫酸塩など産業技術全般の試験場であった.また田上村水車館では,わが国最初の力織機による綿帆布の製織が開始された.これらの工場は斉彬死去のためいったん衰微し,集成館は1863(文久3)年の薩英戦争によって破壊されたが,その後再建される.
 この四地方政権には,また1853(嘉永6)年の大船解禁令と同時に幕府の洋式船建造の計画も委託された.水戸藩は直ちに洋式船の模型を作った.この1年前に薩摩藩は,海上で遭難し10年間アメリカ船に乗組員となっていた中浜万次郎を迎えて小型西洋式帆船を造っている.1854(安政元)年には,幕府の鳳凰丸,薩摩藩の昌平丸という2隻の洋式帆船が造られた.
 蒸気船の建造は,蒸気機関の構造が従来の日本の工作技術の程度をこえたものであるのでより困難であった.1852(嘉永5)年には薩摩藩で雛型を製作しているが,実船としては1855(安政2)年,水戸藩が完成した雲行丸が最初である.
 しかしながら書物の知識と従来の船大工の技能を結合しただけの造船法には限界がある.開港とともに,外国技術の実際について学ぶ方策がとられたことが,近代造船術の進歩を促進した.その契機となったのは1854(安政元)年,伊豆沖でロシアの木造軍艦ディアナ号が難破したのに対し,戸田[へた]港に船大工十数名を派遣してロシア人士官の指揮のもとに代船を建造させるという幕府当局の決断である.この実地経験がのちの役に立った.
 (3) 西洋技術伝習の開始
 外人による組織的な日本人への技術教育は,1855(安政2)年に幕府が長崎に創設した海軍伝習所に於いて始まっている.これより先幕府は海軍創設のためにオランダから軍艦観光丸を買入れ,幕府の直参およびいくつかの藩士合計167名を募集して,オランダ将校を講師とする操船術,砲術および機関学の教育を開始したのである.長崎には1858(安政5)年に船舶および機関修理のための工作工場が付設され,「長崎製鉄所」と呼ばれた.これが輸入工作機械をそなえるわが国最初の洋式工場となった.
 長崎海軍伝習所は1859(安政6)年閉鎖されたが,その第1期卒業者の矢田堀慶蔵らを講師とする教育が江戸の軍艦操練所で継続された.
 長崎において修得された技術は,1862(文久2)年の国産蒸気艦「千代田形」の完成となってあらわれた.同艦の船体は幕府の石川島造船所,機関は長崎製鉄所,ボイラーは佐賀藩で製造された.
 同年,幕府は伝統的な兵制を改め,西洋式の陸海軍の制度を採用した.海軍の組織においては「蒸気方」という職名が確立した.これがわが国の官制における技術職の最初である.
 陸軍においても,これよりさき1855(安政2)年に幕府は講武所を設けて洋式歩兵調練を開始し,逐次フランス将校を招いて訓練した.同年,江戸湯島の鉄砲製作所において,洋式小銃の製作を開始している.1862(文久2)年にはオランダから大砲,小銃の中ぐり機を輸入し,世界のライフル銃普及の大勢に歩調を合わせようとした.翌年,やはり江戸に関口大砲製作場が完成し,フランス・オランダ式大砲を製造した.
 外人の指導による本格的な工場建設の企画は,1864(文久4)年幕府勘定奉行小栗上野介とフランス公使ロシュの間で進められた.この年,まずオランダ輸入の工作機械を据付けた船舶修理工場の横浜製鉄所が竣工し,翌1865(慶応元)年には,幕府とフランス政府の間で横須賀製鉄所建設契約が結ばれた.これはフランスから造船設備一式を輸入し,首長フランソワ・レオン・ベルニー以下43名のフランス人技師,熟練工を招いて,その指揮のもとに日本人職工を訓練して艦船を建造しようという計画である.同工場は1867(慶応3)年から稼動を開始,翌(明治元)年小型蒸気船1隻を建造した.同所ではまた「職工生徒」「技術伝習生徒」の制度を採用し,熟練工および技術者の事業所内訓練を開始している.
 1867(慶応3)年には,鹿児島藩の経営するわが国最初の綿紡績工場が竣工した.当時薩摩藩はすでに幕府からほとんど独立していたので,紡績所建設については幕府中央の政策と全く関係なく推進されたものである.この工場は英国から紡機・織機一式を買入れ,英国の設計通りの建物が建てられたもので,英人技師,職工6名が来て機械の据付けおよび運転を指導した.ついで薩摩藩では堺紡績所の建設に着手したが,その完成は1870(明治3)年のことになった.
 横須賀造船所および鹿児島紡績所は,外国機械設備一式を輸入し,お雇い外人の指導によって操業した,わが国最初の本格的洋式工場である.その稼動の時期はほとんど明治維新前夜であったが,両工場でとられた技術移植の方式はそのまま新政府に引き継がれていった.
 (4) 外国留学の端緒
 技術習得のために留学生を外国に派遣する政策もまた,幕末に始まった.1862(文久2)年に幕府は,オランダに注文した軍艦(のちの開陽丸)の建造監督と受取りをかねて15名をオランダに派遣した.その中には軍艦操練所の内田恒次郎ら5名の海軍士官ほか,上田寅吉(船大工),中島寅吉(鋳物工),大野弥三郎(時計師),大川喜太郎(鍛冶師)などの職人をふくんでおり,最初から各種技術を彼地で習得させることを目的としていたことが分かる.オランダ到着後,海軍士官のうち榎本釜次郎(蒸気機関),沢太郎左衛門(火薬),赤松大三郎(造船)はそれぞれ専門に分かれて学んだ.
 幕府から独立する姿勢をとりつつあった雄藩もまた,直接に外国留学生を派遣した.長州藩は1863(文久3)年に井上馨,伊藤博文をはじめとする5名の留学生を隠密にイギリスに渡らせたが,このうち井上勝,山尾庸三,遠藤謹助の3名は工学を学んだ.
 薩摩藩は1865(慶応元)年,武器や紡績所の機械を輸入する要務をかねて寺島宗則,五代友厚ら19名を英国に渡らせたが,町田実頼ら2名は海軍用機械学を学んでいる.1867(慶応3)年には薩摩藩は米国にも留学生を送っている.
 佐賀藩から1866(慶応2)年に英国に派遣された石丸虎五郎らも,工学を学んでいる.
 これらの幕府および諸藩から幕末に欧米に派遣された留学生の大部分は,明治維新後新政府の技術政策の立案者となり,あるいは西洋技術移植の現場における責任者となったのである.
 (5) 蕃書調所
 国立の理工学研究教育機関もまた,幕府によって創設された.開港の翌1855(安政2)年,幕府は1811(文化8)年以来存続していた蕃書和解方を拡充して洋学所とし,翌年には蕃書調所と改めた.ここでは幕臣はもとより全国からあまねく洋学の学識者を集めて教授とし,洋書の翻訳をさせるとともに,学生の教育を担当させた.蕃書調所には絵図調方,活字方,精煉方,物産局のような理工学関係専攻者がおかれ,この中から村田蔵六(大村益次郎),宇都宮三郎のような技術者が輩出した.1863(文久3)年に蕃書調所は開成所と改称された.
 1856(安政3)年には,開港によって新設された箱館奉行所に分析掛がおかれ,のち諸術調所と改称された.ここでも,武田斐三郎を主任として全国から募集した学生に,鉱物学,機械学,測量術などを教えている.この箱館諸術調所は1864(元治元)年に閉鎖されるが,それまでに学んだ学生の中には長州藩の山尾庸三,井上勝(前出)および前島密などがいる.
 明治維新によって開成所は新政府に引移されたが,幕臣教授の一群は徳川家とともに駿河に移って,沼津兵学校を設立した.この機関は明治初年には洋学研究教育レベルが全国で最も高かったので,その教授たちは新政府に逐次出仕を命ぜられ,旧開成所を解組して開成学校となるときの実質的な中心となる.開成学校はのちに帝国大学に成長することになるので,わが国における理工学の最高学府の伝統は実に幕府の蕃書調所に発しているのである.

 Ⅲ 明治初期(1868―1885〈明治元―18〉年)

 (1) 総説――新政府と洋化政策――
 外国技術導入政策は,倒幕と廃藩置県を断行して中央集権を実現した新政府によって更に強力に推進される.新政権の実権を握っていた薩長出身者たちは政務と軍務を分かち合い,これに中途から旧幕府の洋式海陸軍関係者が協力していた.憲法発布,国会開設前の約20年間は,太政官という専制的な支配機構によって,この少数グループが思うままに行政機構を作り,法令を強制していたのであるから,当時の権力の実体は最近の開発途上国における軍人政権に類似していた.この政権がほぼ一致して目標としていたのは西欧先進国と同様な政治・経済・軍事体制を持つ独立国を作りあげることであって,その至上目標のためにほとんどあらゆる制度を欧米諸国にならって改革したのである.欧米からの機械化された産業技術の導入も,その欧化政策の一環であった.
 ここで欧化政策の問題点をあげておかなければならない.江戸時代以来,日本には独自のすぐれた産業技術が発達しており,新政府の財政も伝統的稲作技術に立脚する農村経済から徴集する地租に基礎をおいていたのにもかかわらず,技術政策としては民間在来部門の技術の自主的な発展を無視し,ひたすら政府直営によって外国そのままの事業を新設しようとしたことである.行論のうちに述べる工部省の事業はこのような思想の端的なあらわれであって,1885(明治18)年頃までは,軍をふくむ現業部門への西洋技術導入が,技術政策の中心となるのである.この傾向は,民間部門を管轄する行政部門である民部省=内務省の技術政策にもあらわれ,外国技術を直輸入した模範工場や直営農場という現業の設立が技術政策の柱として据えられる.
 このようにして明治維新後十数カ年の間に数多くの現業部門が設定されるが,そこにおいて急速に外国技術を導入するために執られた手段がお雇い外人制度であった.この制度は,すでに幕府が横須賀造船所を創設するときに採用した方法を,あらゆる分野に拡大したものと言うことができる.新事業を開始するために必要なあらゆる技術・技能をもった外人を必要な人数だけチームとして呼び寄せ,1人の首長に事実上運営を任せる方法である.このようにして雇入れられた外人技術者の数は非常に多い.
第1表 明治政府によるお雇い外人数
1872(明治5)年以前においてその数はすでに214人に達していたが,1873(明治6)年以降の技術関係お雇い外人在籍数は第1表の通りである.
 しかしながら,第1表からもうかがわれるように,お雇い外人の総数は1875(明治8)年をピークとして急速に減少に転じている.これは主として,政府高官よりも高い給料の負担をできるだけ早く軽減しようとする財政上の理由からであるが,外人の退去によって事業が技術的に行き詰まった例は殆どなかった.これは,日本人技師および職工の学習能力が非常に高く,数年外人の下で働くことによって業務に習熟したからであって,直接政府の功績とはいえないのであるけれども,不要となった外人から逐次契約を解除し技術的に必要なものは後まで残すという措置をとったところに,技術官僚の手腕が発揮された.また当初は外人技師を事業場の首長として生産計画と管理の一切を任せられたが,数年にして経営の実権を日本側の技術官僚にとりもどすという方針が実行されたことも見逃せない.
 また,特に工部省では最初から大学校を付設して,外人に代替するための邦人技師を計画的に養成していたことが成功した.
 このように,官業に大量のお雇い外人を集中的に雇用して,一挙に多くの新技術を導入するという政策は成功したと言わなければならない.しかしながらこれは多分に結果論であって,新政府が初めから総合的な技術導入政策を持っていたとは必ずしも言えない.新政府の要人たちが維新当初に抱いていた欧米型軍事・産業技術のイメージは貧弱なものであって,実際はlearning by doingによって知識を強化していった.また国事全般について要人間の意見の対立が激しく繰り返され,西南戦争に及ぶ一連の内乱にまで至ったのが政府の実情である.そのようなわけで,個々の技術導入政策は常に政府全体の一致した方針であったわけではなく,実際には各省庁がそれぞれの権限の範囲で勝手に推進し,太政官が形式的にそれを承認したにすぎない.従って各省庁の政策の間に整合性を欠くことが少なくなかった.技術導入政策は,大隈,伊藤,山県,黒田ら少数の積極派グループが推進したもので,大久保はやや批判的ながら終局的にはこの派を支持していたとみてよいであろう.
 また,技術導入の諸施策は必ずしも内発的なものではなかったことにも注意しなければならない.開港の結果,横浜,神戸等に集まって来た欧米の商船や商館の関係者および東京在住の外交官が,活動の便宜のために灯台や電信などの施設を要求した.イギリス公使などは事実上の新政府の顧問格であって,鉄道や造幣などの新事業を積極的に周旋したのである.陸海軍にしても,フランス,イギリスの軍事顧問の意見によってかれらの本国の軍隊と同じ技術を装備するように仕向けられた.このように明治政府の対外関係が,必然的に個々バラバラな技術導入をもたらしたのである.と同時に,欧米諸国の政府がお雇い外人の推薦や,技師の留学に際して友好的に対処してくれたことも忘れてはならない.
 (2) 兵器技術の導入
 洋式兵制への切替えは,維新前から幕府と一部の大藩で部分的に進行していたが,新政府は廃藩置県(1871〈明治4〉年)と全国徴兵制(1872〈明治5〉年)によって旧来の武士団を解体し洋式軍隊に統一するという抜本的な改革を断行した.そして,さしあたり薩長土肥藩出身者で高級将校団を形成して,兵備の強化と組織化を推進していったのである.
 洋式戦術の基本は各種火器,艦艇その他,機械的装備にあった.これらの兵器技術に対応して,軍が組織され,用兵が行われていたのである.したがって新軍隊の創設にあたっての課題は,第1にいかなる兵器体系を採用するかということ,第2にそれに対応した軍隊組織を作ること,第3に兵器の補給体制を作ること,第4に軍隊内の兵器技術官を養成することであった.
 幕末の兵制改革においても,当然同一の課題が存在していたわけであったが,当時はさし当たって入手しえた洋式鉄砲や蒸気船を利用して一応の訓練を行ったに止まる.もちろんこの経験者が存在していたということは,新国軍のスタートにあたって貴重な条件であった.少なくとも,兵器技術を重視して,上記の四つの課題を解決しなければならないことは,軍の指導者には当初から概念的には理解されていたと思われる.けれども実際に四つの課題を系統的に進行させることは容易な業ではなく,時間をかけて試行錯誤的に進めるほかはなかったのである.
 維新直後,1868(明治元)年の軍制は未だ陸海軍が分離されず,軍務官(翌年兵部省となる)が軍事のすべてを統轄しており,その下に海軍局,陸軍局,築造司,兵器司,馬政司,兵船司,御用係局がおかれた.築造司以下の四局は多少とも技術に関連する部局であって,兵器技術の重視と専門化の方向が意識されていたことが分かる.
 1871(明治4)年の,兵部大輔山県有朋,兵部少輔川村純義,西郷従道連名の太政官に対する建議書では,「兵部ノ議其一 内地ノ守備.其二 沿海ノ防禦.其三ニ曰ク 海陸両軍ノ資本ヲ造ル 其目三ツアリ 曰ク兵学寮 曰ク造兵司曰ク武庫司」と規定されていて,兵器技術の確立と補給体制,およびその上に立つ指揮官の養成のために財政支出すべきことを求めている.この考え方に従って,新国家の軍政が進められたのである.
 1872(明治5)年には兵部省を解体して,陸軍省,海軍省が設立された.この年に陸軍は,歩・騎・砲・工・輜重の五兵科に分けられた.このうち砲兵と工兵が,陸軍部内における技術専門部隊である.翌年,海軍においても兵科と機関科が分離したが,後者が技術職にあたる.これ以後陸海軍はそれぞれ独立に軍備および組織の政策を立案し実行することとなる.
 ⅰ 陸 軍
 新政府の陸軍は,幕府に引き続きフランス将校団の指導下でフランス式に編成された.兵器行政としてまず着手されたのは,幕府および旧藩から引き継いだ種々雑多な銃砲を整理し,統一的な用兵を可能にし,補給を容易にするために少種類の兵器に規格統一することであった.このための武器制式制度が確立したのは1875(明治8)年であった.この年,造兵司,武庫司を廃して砲兵本廠,支廠とし,各兵科の武器に関する業務は砲兵が統轄することとなり,砲兵会議を置いてここで兵器の制式を決定した.
 維新当初において陸軍が有していた兵器工作工場は,幕府の関口銃砲製造所を移籍した東京小石川の工場と,やはり幕府の長崎製鉄所の機械を移設した大阪の工場の2ヵ所であった.前者においてルボン大佐以下フランス軍技師・職工の指導下に1873(明治6)年先込めのエンピール銃を元込めのルビニー銃に改造することを始め,後者ではその前年銅製砲を製造した.この頃から,東京は小銃,大阪は大砲という分担が成立した.1879(明治12)年以後,前者は東京砲兵工廠,後者は大阪砲兵工廠と称せられる.陸軍では制式銃砲は輸入に頼らず両工廠において生産するという兵器自給方針が初めから考えられていた.1877(明治10)年の西南戦争の際には,両工廠では銃砲弾薬の大増産が可能なまでに設備や人員が強化されていた.
 東京工廠では1871(明治4)年以来銃工教育場を設け,ベルギー人ジョリーを教師として,火工,木工,鍛工,鋳物,鞍工の職種に分けて職工を教育していた.これが後の陸軍砲工学校の前身である.
 火薬の自給も重要な問題である.幸いに,幕府の命を受けた沢太郎左衛門がベルギーで黒色火薬製造技術を学んで帰国しており,その注文した機械が到着していたので,1876(明治9)年から東京板橋の火薬製造所で黒色火薬の生産が開始された.
 工兵の起源は,前述のように1873(明治6)年各鎮台に工兵隊がおかれ,フランス版工兵教範に依って,築城,坑道,交通,土木の工作に従事したのに始まる.
 ⅱ 海 軍
 海軍は,それ自体が大型の輸送機械である軍艦にのって行動するのであるから,陸軍よりも技術の重要性が高く,全軍に技術的訓練が要求される.そして幕末以来の陸軍よりも海軍を重視するという国防思想は新政府に引き継がれたのであるが,海軍の技術装備の確立はより困難であった.
 維新当初に新政府が幕府および諸藩から引き継いだ軍艦は17隻であったが,多くは各国の老朽木造艦を輸入したもので,甲鉄艦は2隻,鉄骨木皮艦が1隻にすぎなかった.それ以上に乏しかったのは海軍技術を理解する人材であった.そこで当面勝海舟以下の旧幕府海軍の首脳部をそのまま利用するかたわら,新たに海軍士官を養成するために,1869(明治2)年旧幕府軍艦操練所跡を海軍操練所として教育を開始した.翌年同所は海軍兵学寮と改称し,英艦オデシアス号に訓練を委託した.1873(明治6)年には英海軍将校アーチボルド・ダグラス以下34名を招聘して教育にあたらせた.これ以来,日本海軍はイギリス海軍の伝統を継承することとなる.生徒の教育は艦士(兵科),測量士,機関士の職種別に分けられ,技術職としての機関科が分離され,その教育にはフレデリック・ウィリアム・サットンが当った.翌年から機関科の教育を分離して横須賀の兵学寮分校で行うことになった.これは技術教育の実質をあげるために有効な措置ではあったが,イギリス海軍における兵科優位,機関科蔑視の差別思想もまた海軍部内に植え付けられて,以後いわゆるエンジニア問題としてたえず機関科将校の不満の種となり,第2次大戦に至るまで禍根を残した.
 海軍が旧時代から引き継いだ兵器工作工場としては,幕府の横須賀造船所,横浜製作所(1873〈明治6〉年大蔵省に移管),石川島製造所および鹿児島藩の製機所があった.しかしながら海軍軍備に関する技術は陸軍よりも高度であって,陸軍のように直ちに国産自給の体制をつくることはできなかった.艦船製造の中心たるべき横須賀造船所では,首長ウェルニー以下のフランス海軍技師職工が引き続き駐留し,1873(明治6)年に木造艦「迅鯨」「清輝」を起工している.しかしながら同所では未だ鉄船建造の能力がととのわなかった.1875(明治8)年,海軍大丞肥田浜五郎の進言にもとづき,ウェルニー首長を罷免して日本人の長官が工廠を主宰するとともに,仏人技士の対外折衝権,人事権を取り上げるという改革が断行され,横須賀造船所の実権は日本側に移った.
 海軍当局は当面鉄製艦についてはイギリスから輸入する方針をとり,同年英海軍造船部長サー・エドワード・リードに設計,工事監督を委託して装甲艦「扶桑」以下3隻を発注している.更に1883(明治16)年には英国アームストロング社製「筑紫」艦が購入された.これら英国製軍艦には,当時世界最新の水準の造船・機関技術が内包されており,乗員の知識向上に役立った.横須賀造船所においては,1875―78(明治8―11)年起工の「天城」「天竜」型の蒸気機関を自製し,1882―84(明治15―17)年には初の鉄骨木皮艦「葛城」「武蔵」を起工するなど逐次製作技術を高めていった.1884(明治17)年には神戸小野浜造船所が海軍の管轄下に入り,ここで同型艦「大和」が建造された.
 軍艦の主砲は,日本海軍の選択により,国産艦にも輸入艦にもドイツのクルップ社製鋳鋼砲が採用された.したがって国内の工場においては,小火器および水雷の製造,ならびに修理検査を行うこととし,そのため1874(明治7)年,東京築地に海軍兵器製造所を開設し,石川島および鹿児島の関連機械設備をここに移設した.同所は一時海軍造兵所と呼ばれている.
 (3) 造幣および印刷事業の技術移植
 新政府の財政当局が直ちに当面した問題は,国内幣制を改革して統一通貨を創出し,かつそれに対する内外の信用を得るために洋式技術による通貨製造工場を設立することであった.そのために1868(明治元)年早々に,英国商人グラバーを介して香港政庁造幣局の設備一式を輸入し,オリエンタルバンクを通じて首長キンドル以下のお雇い外人を招聘して大阪に造幣局(翌年,大蔵省造幣寮となる)を設立することを決めた.同所は1871(明治4)年創業し,金銀銅貨の製造を開始した.造幣寮はこのように,新政府のお雇い外人方式による新工業官営の第1号であって,のちの工部省の諸事業もほぼこのやり方を踏襲している.
 紙幣は当初ドイツの印刷会社に依頼していわゆる「ゲルマン紙幣」を印刷させていたが,1871(明治4)年大蔵少輔伊藤博文の提出した改革案に基づき,大蔵省に紙幣司(すぐに紙幣寮と改称)が設けられ,1876(明治9)年,本格的な印刷工場が完成した.印刷局には米・英・独・伊(キヨソネ)の外人専門家が,機械輸入先ドンドルフ社のあっせんによって来日している.
 関連産業技術が発達していないために,造幣寮および紙幣寮では所要原材料を自給する必要があり,そのための技術をも導入した.すなわち造幣寮では金属の精錬分析,硫酸・ソーダ等の化学薬品の製造が副業として行われた.紙幣寮では,洋紙や印刷インクの自製が行われた.こうして両所は,日本における近代化学工業の発祥地ともなったのである.造幣寮ではまた天秤などの,近代国家のいま一つの表徴である度量衡標準器の製作も行われた.
 1875(明治8)年には度量衡取締令が公布され,各府県に指定度量衡製作業者を定め,造幣寮から標準器を分配し,そのコピー製品を製作させた.
 造幣および印刷事業が政府の現業部門として直営されたのは事業の性質上当然のことであって,この体制は現在に至るまで変らないが,この両所に導入・消化された諸技術が,職人の自立,委託生産,コンサルティングなどを通じて民間工業に与えた波及効果は大きかった,
 (4) 工部省の事業
 1870(明治3)年に設置され,1885(明治18)年まで存続した工部省は新しい鉱工業の技術を官営事業として統一的に大規模に実施した.同省は明治初年の技術政策を担う最も重要な現業官庁という役割を演じた.工部省の事業は,鉱山,鉄道,電信,灯台,製鉄,機械製作などの現業部門および教育機関である工学寮(工部大学校)を含んだ広範なものであって,陸海軍および造幣印刷ならびに繊維関係を除けば,殆どすべての近代技術が工部省によって欧米から移植されたのである.
 このように工部省の意義は大いに認めなければならないが,その起源を求めると,これらの事業部門は工部省成立前に別々の発端を持っていたのであって,決して統一工部省の構想が先行していたものではないことが分かる.
 すなわち維新の直後新政府は幕府から大阪銅座および佐渡金山,生野銀山を引き継いでおり,これらは貨幣材料の生産地として大蔵省が管理した(一時民部省に引き継ぐ).そして両鉱山とも幕末には産出高が低下していたので,仏人コワニーおよび英人カバールの2人のお雇い技師をそれぞれ生野および佐渡に派遣し,近代坑法の適用による産出の回復を立案させていた.また旧秋田・南部藩から収用した東北の諸鉱山にも,ドイツ人技師オーヘンを派遣していた.この体制がそのまま大蔵省から工部省に引き継がれた.
 また灯台については,横浜居留地の英人技師ブラントンおよび横須賀造船所のベルニーがそれぞれ,主として外国船の航行の安全を確保するために,太政官の承諾を得て建設に着手していた.
 電信事業についても,旧幕府がすでにフランスにブレゲ式指示電信機を発注ずみであった.これを引き継いだ新政府は成立直後の1868(明治元)年に電信の開設を決定し,翌年技師G.M.ギルバートを雇って,神奈川・東京間に電信が開通し,1871(明治4)年には長崎から上海までデンマーク籍大北電信会社によって海底電線が敷設され,国際電信営業が開始されていた.これらの事業がすべて工部省に集結されたのである.
 しかし工部省の基本構想は,むしろこれらの事業よりも新しい企画である鉄道新設から生まれたとみられる.鉄道敷設の件はもともと,1869(明治2)年に英人H.レイがパークス公使の支持をうけて事業を申請したのに端を発したので,日本政府としては外務省の建議により同年「内国鉄道布設ノ議」を定め,民部・大蔵両省の共管で鉄道掛をおいたのである.
 翌年首長として招聘された技師エドモンド・モレルの上申書は,日本の国情からして英国以外のヨーロッパ諸国と同様「建築(工業建設の意か)ノ諸務ヲ管轄スル為メ盛大ノ局ヲ建テ,鉄道ノ建築道路ノ補理海港海岸ノ造築燈台鉱山ノ諸件モ亦此局ノ管轄ニ属ス」ることを提案し,さらに「東京或ハ大阪ニ於テスクールインゼニールヲ創立スルノ切要ナル今日ノ如キハナシ」と説いた.この意見にとびついて,更にこれら諸産業をすべて現業部門としてお雇い外人によって急速に技術を定着させようと構想したのが当時の民部省権大丞山尾庸三であって,同じ長州出身伊藤博文の支持を受けて工部省が設立されたのである.伊藤は工部大輔(のち工部卿),山尾は工部少輔(のち大輔から工部卿)に任ぜられている.
 1872(明治5)年制定の「工部省職制及事務章程」によれば工部省の目的は,① 工学ヲ開明スルコト,② 百工ヲ奨励シ工産ヲ繁栄セシムルコト,という遠大なものであって,設立当時の組織は,工学,勧工,鉱山,鉄道,土木,灯台,造船,電信,製鉄,製作の10寮と測量司からなり,当時の日本が西欧から技術導入して建設すべき全産業部門を網羅した雄大な構想であった.
 1,2年の間に勧工寮,製鉄寮は廃止,土木事業は大蔵省(のち内務省)に,造船所は海軍に移管されたが,これは省庁間の縄張りが調整された結果と思われる.
 さて工部省が設立直後第1に着手したのは大量のお雇い外人導入と機械設備の輸入を制度化することであった.「外国人雇傭並ニ諸器械購買等従来成規ナク技長ノ意ニ放任セリ之ヲ改革セントイヘドモ未タ内国人ニシテ充分検査ノ任ニ適スルモノアラズ.因テ横浜異国東洋銀行ニ委託スルニ雇外人ノ人選諸器械購買及ヒ検査等ノコトヲ以テセント」という禀議は1871(明治3)年太政官に允可されている.かくて鉄道には103名の外人が大挙来日して,翌年新橋・横浜間の路線が開通,営業が開始された.
 鉱山事業についても1871(明治3)年「鉱山ノ事業タル之ヲ緩慢ニ付スルトキハ失費多クシテ収益少シ 而シテ本邦従来採掘ノ方タル迂遠ニシテ失費多シ故ニ該業ニ熟練セル外国人(上等ナルモノ1,2人中等各等若干人)ヲ傭ヒ」という禀議が允可され,英人ゴットフレー,ドイツ人クルト・ネットー等が鉱山師として来日した.かれらはさきに大蔵省が雇入れていたコワニー等とともに,各山に通洞開削,蒸気機関設置等の運輸系統の新技術を導入し,かねて地質調査にもとづいた新坑開発を進めて,東北を主とする諸鉱山の若返りを達成したのである.
 鉄道・電信事業においては運用の拡大が業務の中心となったのであるが,機械の整備修繕技術も必要であった.鉄道においては工部省時代には組織上車両の整備と運用が未分離であって,汽車監察方(Locomotive Superintendant)のフレデリック・クリスティーズが総括していたが,まず新橋駅と神戸駅に修理工場が設けられ,1877(明治10)年には独立の部署として認められた.電信寮の場合には1873(明治6)年に製機掛が置かれ,ドイツ人ルイス・セーフル以下23名のお雇い外人によってまず修繕,ついで1877(明治10)年には電信機の自製に成功し,電信灯台用品製造所と改称された.
 現業部門としての規模は小さかったけれども,多面的に新技術の導入をはかったのは製作寮である.同所は1871(明治4)年,旧佐賀藩の工作機械を移設した東京の赤羽製作所を中心とし(1877〈明治10〉年赤羽工作分局となる),フランス人技師フロラン等の指導のもとに各種工作機械,産業機械および蒸気機関を欧米品にならってコピー生産し,国営の鉱山工場はもとより,民間にも供給した.同所は1883(明治16)年海軍造兵廠に移管された.長崎造船局は旧幕府の長崎製鉄所を継承したもので,英人ブラキー等の指導のもとに汽船の新造および修理を行っていた.このほか1874(明治7)年には民間の着手した深川のセメント製造所を,1876(明治9)年には同じく品川ガラス工場を収用して,これらの窯業品の国産に成功した.1878(明治11)年には深川で白煉瓦の製造に成功している.
 鉱山寮では洋式製鉄技術を移植して工業化する道を模索していた.そのために旧南部藩の釜石鉄山に英人技師を雇って1880(明治13)年,溶鉱炉を建設したが,2年で失敗に終った.このほか民間の開発した中小坂鉄山を収用して製鉄試験し,また1875(明治8)年には官営広島鉄山を興して砂鉄を原料とする和式製鉄法の改良をはかったが,いずれも小規模の生産にとどまっている.
 このように大量の外人技師,職工を利用する工部省の技術移植政策は多面にわたっていたが,1879(明治12)年には従来外国人をもって各事業所を主宰させていたものを漸次解任して,邦人技術者を技監に任じてこれに代える政策が決定し,まず鉄道部門の井上勝が技監第1号となった.翌年には,原則として使役の外国人を内国人に換え,必要やむを得ざる場合にのみ外国人を残す方針が決定した.このような外国人の日本人技師による代替が可能になったのは,工部省設置の当初から前掲モレルの建言にあるごとく,工学寮を設け,英国人ヘンリー・ダイエル以下の工学教授をまねいて高級技術者教育を準備していたからである.工学寮(工部大学校)については,Ⅲ(7)の項で詳述するが,その他の各事業内にも現場熟練工の養成機関が逐次形成されていた.日本人生徒の学習意欲が高く能力が優れていたからこそ短期間に外人に代替しえたのであるが,そのための教育制度を当初から用意した工部省の政策は評価しなければならない.
 しかしながら工部省は興業費の負担が大きかったために事業成績としては赤字であって,Ⅳでのべるような政策転換の結果,1885(明治18)年,工部省は廃止,各部門は民間払下げまたは他の諸省に分属せしめられた.従って現業部門の経営という一点からみれば,工部省の事業は国力不相応の失政と言わざるをえないけれども,技術政策の観点からみれば,外国技術の集中的導入に成功し,その後の官民各部門への技術の普及という間接的効果は大であった.
 (5) 内務省の殖産興業政策
 これまで述べてきたように,明治維新政府の技術政策は,工部省や陸海軍の直営工場において欧米の新技術を移植することに重点がおかれていたのであるが,これらの部門が国民経済の中で占める地位は未だほとんど無視できるほど小さかった.国民の大部分は,幕府時代と同様の農業および農産加工業の,伝統的な技術を用いる職業に従事していたのである.新政府は地租の金納化によってその財政的基盤をこれらの在来産業の所得に依存していたにもかかわらず,在来技術の振張または革新に対する関心は薄かった.これらの在来産業部門は,明治初年においては民部省あるいは大蔵省租税寮の管轄とされて,技術問題はほとんど片手間にしか扱われなかったのである.
 1873(明治6)年に内務省が新設されて,これら在来産業向けの行政もその管轄下に入れられたが,同省によって打ち出された殖産興業方針において技術政策の軌道修正の方向が示された.初代内務卿大久保利通の1875(明治8)年に提出した「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」という建議によれば,
 内地人民百般ノ旧業漸ク曠廃ニ属ス……故ニ斯業ヲ奨メ……其実力ヲ養フ所以ノモノ他ナシ,専ラ殖産厚生ノ実務ニアルノミ……奇功ヲ外事ニ求メズ民業ヲ振興ス
と,在来産業技術の向上を援助する姿勢をあきらかにしている.そのための内務省の施策は,工部省のように何から何まで官業として直営するのではなく,民間の産業技術に対して政府が間接援助をする非現業官庁としての建前をとっているので,内務省(あるいは共同歩調をとった大蔵省)が欧米技術導入によって現業部門を設立する場合にも,それは模範工場として,ここから民間に対する技術が普及していくことを目的としていた.
 このような在来産業振興の施策は,内務省設立以前にも萌芽的に見られるが,その対象は開港後に重要輸出品となった蚕糸業関係に限られていた.そしてその動機はむしろ,国産輸出生糸および蚕種の品質の不均一に対して横浜や神戸の外商から取引の不安を訴えられ,これに対して政府も何とかしなければならぬという外交圧力にあった.すでに1870(明治3)年,民部省が「養蚕仕方書」を発布するなど農民に対する啓蒙活動を始めているが,最も有名なものは1872(明治5)年に開業した官営富岡製糸場である.ここではフランスから首長ブリュナ以下のお雇い外人を招き,フランスと全く同様な動力化した工場を建設するという,工部省の諸事業と全く同じような方式が採用されたのであるが,事業の目的は全国養蚕地から選抜した伝習工女400人を教育し,かれらの帰郷後洋式技術を全国の民営工場に拡散させることであった.
 内務省は殖産興業政策の実施のために勧業寮(のち勧農局となる)を設けたが,その事業は大蔵省勧農寮時代に萌芽を見せていた農業技術の指導に重点をおいていた.すなわち1872(明治5)年開設された東京・内藤新宿の試験場は19万坪に拡張され,内外の穀物,野菜,果樹の試作,種子の頒布,農具の試験・展示等を行った.同試験場は1879(明治12)年に廃止されるが,全産業を通じて最初の国立試験場としての意義は大きい.
 このほか1875(明治8)年には米人D.W.ジョーンズの意見書にもとづいて下総種畜場に牧羊場が設けられ,ここで獣医学がはじめて導入された.1877(明治10)年には三田育種場,1879(明治12)年には三田農具製作所,神戸苗木仕立所,播州ブドウ園などの国立試験農場が続々と設けられた.
 しかしながら内務省の勧農部局の推進しようとした技術の内容は,工業の場合と同様に西欧の農業技術をそのまま移植して国内農業に普及させようというものであって,在来技術を野蛮で遅れたものとして蔑視する思想が根底にあった.1877(明治10)年,東京駒場に開設された農学校では英人教師によって洋式農学が教えられたのもその思想のあらわれである.全国農家に種子を配布して栽培を奨励した品種も,亜麻,甜菜,オリーブ,ホップ,牧草など西洋品種を主としていた.また各試験場で輸入試験し三田製作所で模造,農民に貸与・払下げた農機具類も,プラウ,ハーロー,馬曳器械,収穫器械,乾草製造器械,運搬四輪車など,欧米の大農式牧畜混合農業のために発達してきたものであった.
 したがって水稲や蔬菜を中心とする零細農家にとって,これらの導入技術はほとんど役立たなかった.効果の上がったのは,種苗では小麦のみ,種畜では乳牛のみ,農具では調整加工具,運搬具のみであったと言われている.ここに殖産興業の思想的限界があった.駒場農学校では開講後ただちに外人の教育内容が日本農業の現実に合わないことが分かり,1878(明治11)年,老農船津伝次平を教師に加えた.これからようやく,西洋農学の理論を在来技術にとり入れた改良農法の端初が生まれたのであった.
 繊維工業に対する殖産興業策としては,富岡製糸所につづいて1876(明治9)年,スイスの機械を導入した屑糸紡績所,2年後にドイツの技術に基づく千住製絨所などの官営工場が設けられた.綿紡績業の分野では,薩摩藩の堺紡績所が官営に移行し,そこで熟練した日本人従業員の技術とイギリス製紡績機を結合して1881(明治14)年,官営愛知紡績所が設立されたが,政府現業部門としての紡績工場の設立はこれまでで,翌年創業の広島紡績所は県営であった.それ以後は,政府が機械を輸入して民間に払下げ,愛知紡績所における実習および技師の派遣指導によって,10ヵ所の民間企業に技術移転しようとするいわゆる2,000錘10基紡計画が政策の中心となる.
 内務省の殖産興業政策のいま一つの柱は内国勧業博覧会の開催である.1873(明治6)年ウィーンの万国博覧会から帰朝した工部省の佐野常民の上申が契機になって,ひろく国内各産業および官業事業の出品をつのり,優秀品に褒賞をあたえることによって技術開発を奨励すると同時に,一般参観者への技術移転を目的とする第1回内国勧業博覧会が1877(明治10)年,東京で開催された.この時には政府出品の外国機械コピー品が大きなウェイトを占め,また民間出品にも「輸入品は不可,但し模造は可」と規定して,欧米技術の移植を重視している.しかし民間出品物の大多数は,農産加工器具や工芸品など在来産業技術に関するものであった.第1回内国勧業博の半年間の会期中の参観者総数は45万人を超え,一般国民の技術に対する関心の高さを示したのである.これを初回として,第2回勧業博覧会は1881(明治14)年,第3回は1890(明治23)年に開催された.
 欧米にならって特許制度を導入しようという企ては,早くも1870(明治3)年民部省がとり上げ,翌年「専売略規則」が公布されたが,未だ国内の実情に合わないというので1年後に廃止されている.
 以上のように内務省を中心とする殖産興業政策は,実情に合わない点も多くあったけれども,その開設した試験場や工場は工部省の諸事業と同様にその後の西欧技術定着の基地となり,また民間在来産業の技術を高めようとする間接施策の思想は,内務省勧農寮を引き継いだ農商務省の政策の基本理念となって生かされた(Ⅳ(4)参照).
 (6) 開拓使の技術政策
 当時新政権の支配していた唯一の植民地であった北海道を統治する機関として,開拓使が1869(明治2)年に設置された.開拓使は当初各藩の失業士族を集団移住させ農地を開拓させることを主要な事業としていたが,翌年黒田清隆次官(のち長官)が外国視察から帰国した後は,あたかも一個の独立国のように欧米産業技術を移植しはじめた.すなわちライマン,ケプロン等の外人技師を招聘して,全道の実地調査と開発計画の立案をさせた.中央政府が英,独,仏等の技師をもっぱらお雇い外人としたのに対して,開拓使の技術政策の特徴は,米人教師や技師を雇い,その結果アメリカ技術の影響を強く残したことである.そして北海道の風土はアメリカに類似しており,内地よりも導入技術の有効性が大きいという利点があった.
 1873(明治6)年には小樽・札幌間の電信線が敷設され,1882(明治15)年にはお雇い外人クロフォードの指揮下に幌内鉄道が開通した.これよりさき1872(明治5)年には札幌器械製作所が創立されたが,これはN.W.ホルトらの指導のもとに水車を動力として鋳鍛造,木工,製粉,織物,煉瓦,乳製品など欧米工業技術を1ヵ所に網羅する工場群であった.1876(明治9)年には,日本最初のビール工場が創立されている.
 また開拓使は1872(明治5)年,農学校の創立を決め,有名なクラーク校長を招いて農業のみならず工学の教育をも開始している.
 このように開拓使の事業は余りにも手広く現業部門を拡大したため,工部省と同様中央の財政負担を圧迫し,1882(明治15)年に廃止され,以後はこのような地方独自の技術政策は許さないことになる.
 (7) 技術教育機関の発祥と留学
 明治以前から洋式技術教育は,既述のように幕府の海軍伝習所(操練所)および蕃書調所(開成所)で小規模に開始されていた.新政府のもとで外国技術移植政策の一環として,お雇い外人教師による技術者養成教育機関が既述のように数ヵ所で始まっていたが,未だ全体を通ずる工学教育のシステムはなかった.
 教育の中央官庁としては文部省が設立され,1872(明治5)年「学制」を公布し,全国を大・中・小学区に区分したが,実際には小学校の普及に手いっぱいであった.農業学校,商業学校,工業学校の名称も制度上はあらわれたが,設立されたものは一校もない.
 そして実際の技術教育は文部省の埓外にあって,各現業官庁が自己の職員を養成するために独自の学校を開設・運営していたのである.
 開成所は文部省に引き継がれ,開成学校から帝国大学へと最高学府の系統を作っていったが,ヨーロッパの伝統的な大学の組織にならったために,工学教育部門は理科大学の中に土木,造家,化学,電気,鉱山,機械の諸学科が数人の学生を養成していたにすぎない.したがって実質的に最高級の技術者の養成機関は,工部省が1873(明治6)年に「工部ニ関スル工業士官ヲ養成スル」目的で開校された工学寮(3年後工部大学校と改称)であった.同校の設置学科は大学と同様の6学科であったが,ヨーロッパのポリテクニクに範をとった全寮制専門教育であって,とくに最終2年次は工部省の現業職場における実地教育が行われて,卒業後ただちに実地を指導しうる能力をもった技術者が養成されたのである.
 このほか海軍兵学校機関科,陸軍砲兵工廠教習所,駒場農学校,札幌農学校などを合わせ,明治維新後の10年間に卒業した技術者数は約500名であって,工業化の当初にしてこれだけの欧米の工学,農学を修めた技術者のストックを養成したということは,統一性はなかったにせよ有効な政策であったということができる.
 国内技術教育機関が未発達であった明治初年において主要な役割を果し,のちにおいても学校教育を補完・補強したものは,海外留学生派遣制度であった.1872(明治5)年にはすでに各藩や政府機関から派遣され,あるいは私費で渡航した海外留学生(技術以外の全学科を含む)は380人に達していた.同年政府はこれらの留学生の中に素行,学業の点で感心しないものが多いので総帰国を命じ,以後留学生を国の管理下におくことにした.こうして1875(明治8)年に文部省統轄の留学生制度が発足したが,その制度による第1回留学生11名中工学関係は7名,第2回10名中5名と,工学の比重が大きく,留学先は英,仏,米,独各国の大学にわたっていた.
 しかし陸海軍および開拓使からの留学生は文部省の管轄外であって,これらの官庁が派遣した技術留学生の総数は文部省派遣のそれよりも多かった.これは前述のごとく陸海軍が欧米の兵器技術に立脚する軍制の確立を急いだからであって,明治期の軍技術関係指導者の多くは初期の留学生出身であった.
 海軍は1871(明治4)年,英国および米国へ13名の第1回留学者を出したが,専攻学科を本人の希望に任せたところ運用術を学んできたのは東郷平八郎ほか数名で,大部分は造船,機関,造兵など技術を学習し,大学に9年間在学してきたものもいた.この経験を反省した海軍は次回からあらかじめ特定の習得すべき技術目標を定めて,海外留学者を割当て,技術官の派遣先は工場現場実習を重視するようになる.1876(明治9)年以後には横須賀造船所黌舎卒業生がフランスに派遣され,鉄鋼船設計建造や機関学を修めた.火砲や水雷の国産化を準備するために,数名がクルップ,ホワイトヘッド,シュワルツコップなどの兵器会社に派遣されている.
 陸軍の留学は1870(昭和3)年の桂太郎にはじまり,ヨーロッパ各国陸軍の組織・作戦の視察に重点がおかれていたが,1879(明治12)年頃から砲兵工兵関係の技術修得のための留学に重点を移した.
 1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に際して,政府が24名の民間職工を技術伝習のために派遣したのは,1回限りではあったが現場技術の移植政策として非常に有効であった.帰国した伝習者が国内に新たに伝えた技術としては,紙巻煙草,鉛筆,紋織機(ジャカード),飛杼織機(バッタン),石膏型・眼鏡レンズ,測量器械などがあり,その後の関連民間産業技術の発達の出発点となった.

Ⅳ 明治盛期(1885―1910〈明治18―43〉年)

 (1)総 説
1885(明治18)年に従来の太政官制に代わる内閣の制度が発足し,1889(明治22)年には憲法発布,翌年には帝国議会が開かれる.これ以後わが国の政策は基本的には議会の法令または予算審議を経て実行されることになるが,大正初期に至るまで内閣を組織していたのは維新の元勲または薩長系の軍人であって,政府の性格は前期に引き続き軍人政権に類似したものであった.
しかしながら政策の根本姿勢は維新当初とは異なってくる.前期のようにお雇い外人方式によって欧米のあらゆる技術を政府現業の中に性急に直輸入しようとする政策は,財政上も継続することが困難であったし,日本の国情と実力に見合った近代化の道を主体的にうち立てるため,政策を転換し,各省組織の再編成を行うべしとする意見が政府の主流を占めたのである.
 このような思想の萌芽は,早くも1876(明治9)年の内務卿大久保利通の行政改革意見書にあらわれている.すなわち「明治元年ヨリ殆ント十年……目下ノ急ニ着眼シ外人ヲ雇使シ法律教育陸軍海軍工業農業開拓其他新ニ起ス所ノ事一トシテ外人ノ説ニヨラサルハナシ 彼外人タルヤ……皆彼ノ研窮シタル技倆ヲ試ミント欲シ開明ノ強国ニ行フ処ノモノヲ以テ模範トシ……取モ直サズ欧亜(アメリカ)ノ皮相ヲ移シタルモノト評セサル可カラズ」と述べ,政策大綱の中に「外国人ヲ払フコト」および「内務省ニ工部省ヲ合併スルコト」を挙げていた.
明治10年代の大隈・松方財政下において,工部省・内務省の現業工場の赤字累積から脱却するためにこれらの工場を民間へ払下げる方針がとられ,あわせて各官庁の管轄事項の再編がはかられる.1880(明治13)年の参議大隈重信の「経済政策ノ変更ニ就テ」の建議の中で「第1 勧誘ノタメ設置シタル工場払下ゲノ議 第2 諸学校ヲ文部ニ統合」がうたわれた.そこで同年,民間の全産業を間接的に指導,取締る非現業官庁としての農商務省の設置が大隈・伊藤両参議によって建議された.そして,政府事業として何を残すべきかについては,同年の右大臣岩倉具視が閣議に提出した「財政ニ関スル親書」の「夫レ官工場ニ2種ノ区別アリ1ツハ官府ニ於テ其工事ヲ管理スヘキモノ是ナリ1ハ其工事ヲ人民ニ担当セシメ官府ノ之ニ関係セサルヲ可トスルモノ是ナリ 即チ大蔵ノ造幣印刷 陸海軍ノ造兵造船 工部ノ鉄道電信ニ於ルノ類ハ之ヲ人民又ハ会社ニ委スルヲ得ス 又内務ノ製絨製糸紡績所 工部ノ製鉄製作硝子製造所ノ如キハ固ヨリ勧業ノ旨趣ヲ以テ設置セシニ依リ人民又ハ会社ニ委スヘキナリ」との案に基づいて整理されていった.工部省は鉱山・工場払下げ後に廃止される運命が定められ,内務省は産業政策部門を農商務省に移して,土木工事のみが技術的事項として残された.
これ以後の技術政策は,現業官庁においてはみずから担当技術の選択,開発を行うが,非現業官庁においては試験教育機関の設置または技術的事項を含んだ取締法令の立案を通じて,間接的に民間産業技術の発展・普及を助長することになる.
1883(明治16)年,工部省の鉱山・工場の払下げに当っては,在籍の技術者もまた民間側の希望に従って移籍を命ずることが定められた.かくて官業払下げは,技術者を媒介として,政府から民間への技術移転の手段となったのである.1885(明治18)年工部省を廃止した際,現業として残された電信は新設の逓信省に,鉄道は一時内閣直属の鉄道院とされたがのち同省に統合された.従来各省で管轄していた諸学校も軍部および現業官庁の職員養成学校を除きすべて文部省の経営あるいは監督法令下におかれることになった.
以上のような官庁組織の整理が行われた後の,各官庁の技術関係部局は第2表のとおりであった.それぞれの成立事情と業務については各節の中で述べる.
以上のような各省の制度はその後数十年を通じてほとんど変らず,各省は別別に所管事項についての技術政策法令を立案し,予算を請求した.そして各省ごとに技術官僚組織が形成されて,相互間の人事交流は全くなかった.
第2表 内閣制度下における各省の技術政策関係部局(1889〈明治22〉年)
政策について省庁間で協議することもほとんどなかったと言える(例外的な案件として,後にのべる製鉄所設立問題があった).このように分権的な運営がなされた結果,政府として統一的な技術政策を立てるということはなかった.一般産業技術については基本的に民間に任せ,政府は間接的に教育や指導規制の面で後援するという体制をとったことにより,最大の現業部門である陸海軍の兵備増強に重点がおかれたことが,この時代の一般的な特色といえよう.財政支出をみても,軍備優先がうかがわれ,開設当初の議会において製艦費の多少が政府と議員の間の最大の争点となったことは象徴的である.日清・目露両戦役前後を通じて,増税による政府の収入は世界の軍事技術の進歩に追随するための財政支出として惜しみなく費やされた.

 (2) 技術教育制度の整備

 この時代の政策のうち,後世まで最も効果があったのは技術教育制度の整備と学校の拡充,その結果としての各級技術者の供給増加であった.
 教育政策は文部省の主導のもとに漸次一本化され,その中に各段階の技術教育が位置づけられた.工部省の解体と同時に工部大学校は帝国大学に統合され,理科大学の中の工学諸学科と融合して単独学部=工科大学を形成した.この決定は工部大学校という既成事実を追認する措置であったかもしれないが,日本政府がヨーロッパ・アカデミズムの伝統から離れて工学を理学,医学と同等の学問と認め,従って知的社会における工学部卒業者=官庁・民間企業における上級技術者の社会的地位を,純粋真理の探求者である科学者と同等なるものにしたのである.
 これ以後増設された京都帝国大学,九州帝国大学,東北帝国大学にも,すべて工学部がはじめから設置され,国立大学工学部は昭和に至るまで政府諸機関および民間産業への上級技術者供給機関として機能した.帝国大学工学部のいま一つの機能として注目すべきは,1883(明治16)年から海軍が造船,造機,造兵,火薬の高級技術官を部内で教育することを断念し,文部省と協定して工科大学委託学生制度をつくり,卒業者を技術士官として任用するようにしたことである.
中・下級技術者教育の組織化も,文部省において推進された.この層の性格については政府および識者の間でも明確ではなく,最初は欧米移植技術を消化しうる現場職長級の養成であるという理解が有力であった.このような考え方から,1880(明治13)年の改正教育令の中に,「職工学校」の名称があらわれ,1881(明治14)年に東京蔵前に職工学校が設立された.そのカリキュラムは基礎理工学の授業と実技の訓練を兼ねそなえたものであったが,同校は実際には職長というよりも技師養成の学校となっていったので,1885(明治18)年の教育令再改正において専門学校のうちに位置づけられ,1890(明治23)年には「職工」の名称を廃して東京工業学校と改めた.1897(明治30)年には大阪工業学校も設立されたが,翌年には両校そろって高等工業学校となり,中学卒業者を入学させることとしたのである.両校と同程度の第三高等学校,第五高等学校にも一時工学部が設けられたが,数年で廃止され,その代わりに明治末までに名古屋,熊本,仙台,桐生の各地に高等工業学校が新設された.
 高等工業学校の制度は日本独特のものであって,明治末には大学工学部よりもはるかに多くの卒業生を出し,技術者の量的増大に主要な役割を果した.また初期の高等工業学校では大学にはない,染織,窯業,醸造などの民間在来産業に関係ある専門学科にむしろ重点がおかれていた.明治期において,大学工学部卒業者は大半中央官庁の技術者となり,その他も少数の財閥系の鉱山や造船等の大工場にしか就職しなかったのに対して,高等工業学校出身者は広範な民間産業に散開し,あるいは中小工業を自営し,または府県庁等で地場産業の指導に当ることによって,全国的な技術水準の向上に貢献したのであった.その他札幌農学校は1895(明治28)年,文部省に移管され,1907(明治40)年東北大学農学部に昇格する.私立の三菱商船学校は逓信省に,水産学校は農商務省に移管され,それぞれ専門学校の扱いをうけた.
 より下級の技術者の養成機関としては,中等程度の実業学校と,労働者を対象とした夜間学校である実業補修教育とが制度化された.前者は1885(明治18)年の足利染色講習所に端を発し,いくつかの織物産地で業者が子弟を教育するために自主的に設立した学校が母体となって,漸次府県立の工業学校,農業学校に移行し,あるいは新設された.後者については,文部省がその必要を主張して1893(明治26)年に実業補習学校規程,翌年徒弟学校規定が制定され,民間企業および市町村で設立するものが増えていった.同年には実業教育費国庫補助法が施行されて,毎年総額15万円を支出してこれらの学校の経費の2分の1以内を補助した.また総予算の一部はこれらの学校の教員養成費にあてられ,その目的で東京工業学校に工業教員養成所が付設された.これらの学校の増加状況は第3表のとおりである.その他,文部省管轄外の現業官庁の技術者養成機関として残ったものとしては,逓信官吏練習所がある.
第3表 技術系学校数の増加
同校は工部省時代,1873(明治6)年に設けられた電信修技学校に端を発し,東京電信学校――逓信官吏講習所の技術科・通信科――練習所と改名してきたものである.国有鉄道では,1877(明治10)年に設けた工技生養成所は5年で閉鎖され,上級技術者には工部大学校卒業者をあてていたが,1891(明治24)年,中級技術者養成のため神戸に鉄道電信技術伝習生養成所を復活し,1898(明治31)年には鉄道運輸技術伝習所,1905(明治38)年には汽車部工場技術見習生制度をつくった.これらは1909(明治42)年鉄道院職員中央教習所に統合される.陸軍では1890(明治23)年砲兵工科学校が,海軍では1894(明治27)年機関学校が独立し,横須賀黌舎は海軍造船工学校――造船工練習所と変遷したが,1907(明治40)年廃止された.

 (3) 内務省の建設技術
 内務省は1873(明治6)年創設直後,オランダ人技師デレーケ,ファン・ドールン等を雇入れて洋式設計施工法を導入して以来,土木技術の革新の中心となっていた.その管轄する事業範囲は,河川,道路,橋梁,港湾,水道の各分野に及ぶ.外人帰国後は大学卒あるいは留学帰りの邦人技師が各処の設計を行い,あるいは日本の国土と労働事情,および伝統的工法を勘案して独得の折衷工法を案出した.
 やがて国の直轄工事として行う分野と,府県市町村の分担すべき分野の区分が明確にされた.前者については内務省が主体となって設計・施工監督を行ったので準現業と言うべき分野であり,その技術は下請けを介して民間土建業に普及した.また後者については内務省の法令中に技術的基準を定め,全国の技術水準を均一化するという政策的効果があった.
 近代的河川工事は,オランダ人技師によって水位・流量測定技術が用いられたところから出発した.初期の工事は水運利用を重んじたために砂防を主とする低水工事であって,在来技術をとり入れた各種の工法が考案された.1885(明治18)年の河川法制定以後,主要河川については洪水防止の目的で水路の変更と堤防を主内容とする高水工事を,国の直轄事業として実施することになった.代表的な例である淀川改修工事は,1896(明治29)年から1910(明治43)年にわたって行われ,閘門,堰,放水路の設計に新機軸が実現され,施工には輸入土木機械が試みられた.1910(明治43)年には未曾有の大水害があったために,内務省は臨時治水調査会を設けて,より広範囲の河川に対し高水工事計画を策定し,18年計画で実行にうつした.
 道路政策は1876(明治9)年に太政官通達で国道,県道,里道の区別をたて,それぞれの輻員を規画化したのにはじまり,1886(明治19)年には国道の築造規準を定め,この中にマカダム式舗装が採用された.このとき国道と県道の勾配上限をも定めたが,この規定は国土の実情に合わないため徹底しなかった,そうじて道路技術は,自動車交通が普及する大正末期まであまり発達がなかった.道路橋については,1886(明治19)年の内務省訓令によってはじめて荷重限度が400貫/坪と規定された.
 洋式工法による築港工事は,河川とならんでこの時代の最も重要な分野であった.それはオランダ人技師による1878(明治11)年の野蒜[のびる]築港計画にはじまり,以後横浜,名古屋,大阪,神戸,関門はじめ大小の築港工事が明治年間に順次実施された.この中でコンクリートブロックを用いた防波堤,岸壁工事がとり入れられた.この時期の技術によって主要港湾が造られていたからこそ,大正以後の経済発展にともなう海上交通の増加と船舶の大型化に応ずることができたのである.
 ポンプ,鉄管を用いる洋式の上水道は1885(明治18)年横浜でイギリス人パーマの設計によって初めて導入され,3年後に邦人の設計・施工による函館の水道が着工されている.1890(明治23)年の水道条令,1900(明治33)年の下水道法の施行によって,上下水道工事は市町村の事業とされたが,内務省は水質等の衛生規準を定めて,国庫補助を行う間接的な技術政策がとられた.
 (4) 農商務省の技術政策
 1881(明治14)年に創設された農商務省の任務の範囲は,事務章程において,
 (1) 農業,商業,工作技術,漁猟,商船,海員,発明,商標,度量衡,開懇,牧畜,動物の育種,獣医,会社(銀行を除く),山林,駅逓に関する指令施行
 (2) 官役の農商工の諸学校,農工業模範の建物及博物館の管理
 (3) 博覧会,共進会,博物の保存,農商業工作技術の改良及其の器具の改良試験,地質調査の結果に因り農工商の改良勧励
と規定されており,農業・工業技術に関する事項が多い.そして自ら工場,農園,鉱山等を経営せず民間企業の活動を監督する非現業官庁として,これらの目的をいかなる手段を用いて達成するかという問題があった.
 1884(明治17)年,前田正名を中心にして農商務省がとりまとめた「興業意見」は,この点について基本的な政策の方向を示したものである.この報告の考え方は,民間在来産業の自助,協力による技術的向上を助長するために政府のとるべき方針は,1)に法規による規制,2)に改良施設による指導,3)組織化,であるとする.そして具体的に列挙された政策案は,つぎのように逐次農商務省の施策として実現されていった.
 1)に属するものとしては,
 害虫予防規則……………1885年制定
 家畜伝染病予防規則……1886年制定
 種畜 規則………………1885年制定
 獣医 規則………………1885年制定
 2)に属するものとしては,
 駒場農学校の拡充………1886年制定
 蚕業試験所の新設………1884年制定
 農業試験所の新設………1890年制定
 農業巡回教師の設置……1885年制定
3)に属するものとしては,同業組合準則が制定された.またすでに1881(明治14)年に発足していた篤農家の全国団体である大日本農会は事実上農商務省の外郭団体であって,専ら技術改良活動を行っていた.
それ以後も農商務省は,法令による規制と試験指導機関および組織化の三つの手段を併用して,当時なお個人,零細業者の多い産業の技術向上を策した.これを産業別にみると,以下の通りである.
農業一般:については前代の外国農業技術直輸入の愚を捨てて,老農の経験を集約化しそれに 西洋農学の学理を加えて,わが国独自の農業技術体系をうち立てこれを全国農民に普及しようとした.とくに水稲作における各地老農の開発した,①品種選抜,②砕土機,除草機,短床犁等の簡便な農具,③耕作法,④暗渠排水,等の技術を参考にした,1890(明治23)年農商務省直轄の仮試験場を東京西ケ原につくり,穀物について試験方法を確立しその成績を報告書として刊行するとともに,巡回教師を通じて一般農家に講話させた.1893(明治26)年には農事試験場の官制が公布され,本場のほか支場6カ所が新設され,ここで技師27名を雇って農産の改良増殖に関する試験,巡回講話,土質肥料飼料の分析鑑定,種子の無料配布を行わせた.翌年には,府県農事試験場規程が公布され,1899(明治32)年には農商務省を通ずる国庫補助が法制化された.1903(明治36)年には農商務省の試験場支場は3カ所に縮小されたが,その業務は府県試験場に肩代りされた.すでに約40ヵ所できていた1911(明治44)年には農機具の試験を開始している.
 1900(明治33)年には土地の交換分合を内容とする耕地整理法が施行されたが,これはドイツ式大農経営の直輸入であって,実情に合わなかった.そこで1905(明治38)年同法を改正し,灌漑,排水設備工事に対する補助と技術指導を取り入れたことにより,耕地整理の進捗をみた.
 こうして明治末期には,水稲技術において農商務省の指導下に老農技術と西洋農学を総合した,いわゆる「明治農法」が標準化された.その内容は① 乾田化(排水,畜力耕,深耕,肥料増投,耕地整理),② 選種(塩水選,うす蒔,苗代集約化),③ 優良品種の導入,等から成る.
 林業:については,1905(明治38)年山林局林業試験所が設けられ,1908(明治41)年には北海道,1911(明治44)年には台湾にも試験所が設けられた.
 蚕糸:については重要輸出品であるところから,貿易政策の見地からも特に厳重な品質管理と技術指導の方策がとられた.1884(明治17)年に東京に蚕病試験場が設けられたが,1887(明治20)年に蚕業試験場と改称され,翌年からここで全国の養蚕指導者の教育を開始している.この組織は1896(明治29)年には蚕業講習所となり,1914(大正3)年に東京高等蚕糸学校に昇格した.また地方組織として,1906(明治39)年に京都蚕業講習所,1909(明治42)年に松本夏秋蚕試験所,1911(明治44)年に原蚕種製造所(京都,群馬,福島に支所)が開設された.
 蚕糸関係の輸出検査制度の発足は非常に早く,1868(明治元)年に江戸大総督府が「蚕卵紙生糸改所」をつくり,検査合格証のないものの外商への売渡しを禁じた.これがわが国の輸出品検査制度の初めである.つづいて蚕種製造規則,生糸取締規則ができた.1885(明治18)年には,アメリカ市場からの日本産生糸に対する品質改善要求に応ずるために,蚕糸業組合準則を制定して同業組合組織による品質の統一を期した.1896(明治29)年には,神戸,横浜に生糸検査所を開設し,フランスから検査機および検査方式を導入して,輸出生糸に対する国営検査を開始している.
 水産:漁業に於いては,洋式大型船の進出による沖合漁業技術の形成と,それに反して在来沿岸漁法の衰頽が始まっていた.農商務省では1897(明治30)年に水産講習所を開設し,また1894(明治27)年以来府県水産試験所,講習所に対する補助金制度を開始して,新漁法の開発普及につとめていた.1897(明治30)年に公布された遠洋漁業奨励法は,蒸気船の建造に対して奨励金を与えるという技術進歩促進政策であったが,100トン以上の船という制限が実情に合わなかったので2年後に50トン以上と改正した.このころ出現した石油発動機に農商務省は注目して1903(明治36)年実用試験を行ったうえ,2年後の法改正で,蒸気機関には馬力当り10円,石油機関には馬力当り20円の補助金を交付することとして,発動機船の普及につとめた.さらに1909(明治42)年の改正では冷蔵設備に対しても奨励金を交付した.
 工業試験所と醸造試験所:農商務省の企画で生まれた試験研究機関としては,前記の農業,林業,蚕糸各試験所のほかに工業試験所と醸造試験所があった.前者は1898(明治31)年の農商高等会議の諮問案の中で提出され,翌々年実現したものであるが,当初の目的は民間業者のために原料や輸入製品について化学分析を行うことであった.創立当初の組織は第1部(分析),第2部(化学),第3部(窯業),第4部(染織)に分かれていたことからも分かるように,対象が化学的な分野にかたよっていた.そして実際の業務は第1部は鉱物の分析,第2部は漆や油脂の研究,第3部は陶磁器,第4部は染色法が主になっていて,在来産業あるいは国内資源に近代科学の光をあてて民間技術の向上をはかろうとしたのである.したがって業者に対する積極的な指導も行われた.
 農産加工業としては最も規模が大きく,かつ伝統的技術の発達していた酒造業を対象とした試験所について,農商務省は「日本酒醸造改良実験及講習所設置委員会」を設けて検討した結果,1901(明治34)年の帝国議会で農商務省に醸造試験所を設置することが決まった.しかしながら設立準備中に徴税の関係から大蔵省の所管とすることに変更され,1904(明治37)年大蔵省醸造試験所として開所したのである.その事業は全国酒造業者の子弟および従業員の教育,研究の発表,実地指導,鑑評会などであったが,その後「火落ち」の防止,酒母の改良等酒造技術の改良に大きな功績を残している.
 度量衡法の制定:さきに度量衡取締規則が施行されていたが,1875年国際メートル法条約が成立し,わが国にも加盟の勧誘があった.当時度量衡の担当官庁であった大蔵省は賛成であったが,内務省が反対するという政府内の不一致のため一度は加盟が見送られた.しかるに陸軍の測量,気象観測などにメートル法が採用されてきたことから,度量衡の所管官庁となった農商務省の尽力により1886(明治19)年,日本のメートル法条約加盟が実現し,1890(明治23)年にはフランスからメートル原器およびキログラム原器が送られてきた.そこで農商務省では新度量衡法を立案したが,この時は国内商工業者の実情に則するために「尺貫法をもって公式単位とするが,尺貫の基準は国際メートル法原器によって測る」という折衷的な法律であって,1893(明治26)年施行された.これに合わせて1904(明治37)年,中央度量衡検定所が設立された.
 特許法:前述のように1872(明治5)年専売略条令が施行早々停止されて以後しばらくは発明に対して無保護の状態が続いたが,その間人力車,ガラ紡等の有力な発明が現われ,社会の権利思想も強まり,外では1883(明治16)年万国工業所有権保護条約(パリ条約)が締結されるという状態の変化があったので,1884(明治17)年の農商務卿西郷従道の上申に基づいて翌年フランス特許法にならって専売特許条例が公布された.これが近代的特許制度の最初であり,技術政策上重要な事件であった.同条例は,1887(明治20)年に改正され,アメリカ特許法をとり入れて審判制度を厳密に規定した特許条例となった.専売特許条例以来,内国人のみに特許を与えていたのに対し,諸外国は日本もパリ条約に加盟して外人にも特許権を認めることを要求してきた.日本政府はこの件を幕末開港以来の不平等条約改正を要求する外交交渉の取引材料として用い,1894(明治27)年のイギリスとの改正条約に成功した際に初めて相互に特許権を認めることを約した.こうして,1899(明治32)年日本のパリ条約加盟が実現した.これと調和をとるために同年,特許条令を改めて特許法を公布,外国人にも特許権を認めた.
 1886(明治19)年から1899(明治32)年に至るまでの特許出願件数は年々1,000件を越え,明治末には年間6,000件に達するという増加状況であって,特許法規の制定が発明の奨励という目的を果したということができよう.この時代の特許の大半は農水産加工に関するものであって,在来産業分野において国民が旺盛な発明意欲を抱いていたことがうかがわれ,特許法もこれら産業技術の改良を促進したのである.
 (5)逓信省の技術活動
 逓信省は郵便,電信を扱う現業官庁であると共に(のち鉄道も管轄下に入るが,鉄道については別項に譲る)電力,海運,造船を監督する非現業部門を持っていた.これらの現業,非現業分野は,当時技術進歩のさかんな新産業であって,逓信省の政策にあらわれた技術選択あるいは技術促進は,日本の近代化にとって重要な意味をもっていた.同省は1891(明治24)年に電気試験所を設け,電気技術に関することを主管させた.同所はその後長くわが国の電気技術開発・指導の中心となった.
 現業としての逓信省がおこなった重要な意志決定は,電話の導入である.欧米に電話事業が開始されたのは1880(明治13)年頃であるが,当時工部省の電信局は早くもこれに注目し,民営でもよいから早急に導入すべきことを復命している.逓信省発足後,電話技術の進歩の状況および官営,民営の是非について調査が重ねられ,1888(明治21)年には東京・熱海間の通話試験を行った.最終的に逓信省の現業部門として経営することになり,1890(明治23)年から東京・横浜間で営業を開始した.
 国営事業とした結果,政府が電話機および交換機の技術選択について決定権を握ることになった.電信・電話機の調達については,国産主義が貫かれた.工部省時代には電信機は製機所で自製していたが,逓信省では型式の決定のみを行い,指定工場に発注して,民間の製造技術を育成する方針であった.しかしながら当時の欧米における電話技術は急速に進歩しつつあったので,基本的には外国製品のコピーを利用せざるをえなかった.逓信省は1896(明治29)年からの第1次電話拡張計画にさいし,世界最大の電話会社であるアメリカのA.T.T.のシステムを制式として採用することに決定し,その国内生産をA.T.T.の機械部門ウェスタン・エレクトリックが1899(明治32)年設立した子会社である日本電気および,その図面仕様を逓信省を通じて受領した沖電気に発注した.こうして逓信省は電話に関する外国技術の導入と国産化を媒介する役割を果した.
 一方電灯電力事業は,民間で1887(明治20)年から開始されていたが,当初はこれに対する政府の技術的関与はなかった.1891(明治24)年の漏電による議事堂火災を契機に電気工事の安全に対する技術的規定が必要となり,電気事業は逓信省の所管下に入れられたが,これは恐らく逓信省には電信電話事業の関係で当時の官庁でも電気技術者が集まっていたからであろう.逓信省は道府県に安全技術規定を含む取締規則の制定を訓令し,それによって出願する事業者を中央で許可していたが,1896(明治29)年には,全国を統一した電気事業取締規則を制定し,その中で一定の資格の主任技術者の雇用を強制した.この規則は,1911(明治44)年の電気事業法に統合された.
1908(明治41)年には国際電気単位会議が開催され,わが国もこれに参加したので,その結論に従って国内でも1911(明治44)年電気測定法が施行され,これ以後電気試験所において電気計器の検定が実施されることになった.
 明治末には内外における電力技術の発達にともない,長距離高圧送電が可能になったので,全国的に大規模水力発電所の増加が予想されるに至った.逓信省ではエネルギー資源問題の見地から,1910(明治43)年以後5ヵ年計画で大規模な第1次全国発電水力調査を実施した.この調査は1913(大正2)年に財政整理のために打ち切られたが,その後の水力発電の進歩に対する重要な基礎資料となった.
 この時期における電力政策の失態は,全国の周波数統一をなしえなかったことである.東京電灯がドイツの50ヘルツ,大阪電灯がアメリカの60ヘルツの交流機器をそれぞれ輸入して以来,民間各社によって周波数が区々であって,その後種々の技術的な不便と無駄を生じているが,逓信省はこれを問題にはしながら積極的に介入して統一させることができなかった.
 海運・造船事業に関する技術政策としての効果があったのは,1896(明治29)年に施行された航海奨励法および造船奨励法である.この法律の発想はもともと,貿易の拡大に関連して自国船による運航比率を高めるために,海運業の大型船買入れに対して補助金を与えようという産業保護政策であったが,造船奨励法の付属造船規定において,補助金の対象となるものは国際的なロイド規程に合致する船で,鋼船700トン以上,船体および機関ともに内国産たるべしという技術的条項がもられていた.この級の船舶は未だ日本の民間造船所では建造されていなかったが,補助金制度に支えられて1898(明治31)年三菱長崎造船所が初めてこの規定に合致する鋼船常陸丸を竣工し,他社もこれに続き,日本の民間造船技術の国際水準への接近をもたらしたのであった.
 (6) 鉄 道
 国有鉄道は工部省解体後一時内閣直属の鉄道院としてあったが,1892(明治25)年以後は逓信省内の鉄道局となった.この頃には日本鉄道,山陽鉄道,九州鉄道そのほか株式会社形態による民間鉄道事業の発達がめざましく,鉄道院鉄道局は現業部門と民営鉄道を監督する非現業部門を兼ねていたのである.この不自然な状態は1897(明治30)年の組織改正で現業部門を鉄道作業局として分離することによって是正された.
 日本鉄道が1881(明治14)年に設立された当時は民間に技術者が得られず,工事一切を国鉄が代行した.同社は1892(明治25)年まで運輸,車両修理など技術事項一切を国鉄に委託していた.このように民間鉄道の初期においては国の技術援助政策がとられ,国から民間への技術移転が推進されたのであるけれども,やがて民間各社内部でも技術が向上した.
 鉄道の技術は,線路の建設を担当する土木部門と,車両関係の機械部門から成る.1897(明治30)年の鉄道作業局の組織は,建設部,工務部という土木部門と,機械部門である汽車部,それに運輸部,計理部から成っていた.そして技術官僚の最高職である「技監」が長官および計理部を除く各部長の地位を占め,技術者中心の経営をなしていた.この時期はトンネル,鉄橋,駅舎等の設計を含む新線計画の土木技術が進歩した時期であるが,機械部門は車両の修理に止まり,一部の試作を除いては輸入機関車を使用していたことは後掲の通りである.
 1900(明治33)年に鉄道営業法が施行され,その施行令に於いて鉄道建設規程が定められて曲線,勾配,道床,軌条,橋梁に関する技術的要件が規定され,国鉄,民鉄ともこれを遵守することになった.
 1907(明治40)年に,民有鉄道の国有化が断行され,全国の鉄道幹線網は一元的に運営されることになり,官庁組織としても現業官庁である鉄道院一本というすっきりした形になった.これに伴い,従来国鉄および各社の間でまちまちであった車両その他の規格統一が急務となり,あわせて将来の技術計画を立てることになったのである.まず1911(明治44)年に車両称号規定が定められて全線の機関車,客貨車の形式と番号を規格化し,在来線の車両のうち少台数のもの,小型のものは廃止し,貨車の輪軸も単一規格として互換性を求めた.
 明治期における最大の技術的問題は,広狭軌論争であった.明治初年の鉄道開業のさいには政府部内に技術的な検討能力がなく,英人の準備した軌間3フィート6インチ(1.08m)の狭軌をそのまま採用したことが,その後の国鉄,民鉄の新線にすべて適用されてきたのであった.これに対して1887(明治20)年に陸軍参謀本部から鉄道改正建議案が提出され,軍事輸送力増強のために軌間1.43mの広軌に改めるべきことが提唱され,国鉄部外の技術者も広軌論を唱え,議会においても広軌論が建議されたので,1896(明治29)年逓信省は軌制取締委員会を設けたが,委員である国鉄部内技術者は経済的な理由から狭軌論に固執していたために結論を得なかった.
 機関車の国産は,1893(明治26)年国鉄神戸工場で英人技師トレビシックの設計によるタンク式蒸気機関車1台を製作したのが最初であって,その後国鉄および山陽鉄道で何台かの自製があったが,これは英国の鉄道会社が機関車を自製する慣習を部分的に模倣しただけであって,当時の設計製作能力は十分でなかったために,使用機関車はほとんど輸入に依存していたのが実情である.機関車,レール,その他基本的な設備資材を輸入していたことから,国有化当初においてもなお国鉄は英,米,独の国別に外人に資材製作監督を委嘱していたが,この頃から国内生産化と邦人技師による資材購入監督という技術自立の方針を明確にした.
これに先立ち1896(明治29)年には汽車製造会社が設立され,国鉄はこれに技術者の移籍,設計技術指導,発注等の面で技術移転し育成をはかることになった.
 (7) 陸 軍
 陸軍の兵力は日清・日露の両戦役を節として大幅に拡大されていった.歩兵を中心とする師団数の増加がその主要な内容であって,兵器行政でも量的な供給増強がおもな課題ではあったが,砲工兵技術の高度化および各種新規兵器の採用にもある程度努力がはらわれた.この点が組織面に意識的にあらわれたのは日露戦争直前の1903(明治36)年の陸軍省官制改正であって,軍務局砲兵課の管轄に兵器廠,砲兵工廠,砲兵工科学校のほか新たに技術審査部と火薬研究所を設けた.これが陸軍の官制中,「技術」の用語の現われた最初である.同じく工兵課の所管には,電気術,電信術,電灯,軽気球が加わっている.
 東京砲兵工廠においては,銃器の改良が進められた.1879(明治12)年に制式化され量産された村田銃は,1884(明治17)年に小口径化,1888(明治21)年に連発式に改正された.翌年にはオーストラリア政府から銃の依託生産を受けることによって,生産技術が国際水準に達したことを示した.目清戦争の経験にかんがみて,1896(明治29)年に有坂成章が考案した三十年式銃が村田銃に代わり,1903(明治36)年に南部騏次郎が考案した三八式銃が日露戦争後に制式化された.
 欧米においては機関銃の開発が進み,野戦において甚大な殺傷力を示しはじめていたが,日本陸軍においては未だ機関銃の開発能力がなかった.そこで1889(明治22)年にはマキシム機関砲を購入して模作,日清戦争で使用したが,実戦の経験では不満の点が多かったので,1896(明治29)年フランスのホチキス式機関銃を購入し,その口径を三十年式小銃と一致させて弾丸の互換性を持たせるよう改良した型を日露戦争中に生産した.
 日露戦後初めての自己設計による三八式機関銃を1907(明治40)年に制式化した.さらにこれにレキザー銃の長所をとり入れ改良した三年式重機関銃が制式化された.この間1906(明治39)年には東京砲兵工廠に技術課が設けられ,金相学的研究が開始されるなどの前進があった.
 大砲の製作は大阪砲兵工廠が担当していたが,材料・設計の両面において技術的な困難が大きく,かつ欧州における技術進歩が著しいために,これに追随することが課題であって,独自設計による安定した型式の砲を自給する体制にいたるまでには紆余曲折があった.
 明治初年の砲は未だ前装式であったが,1884(明治17)年クルップの後装式野砲を輸入して以来,後装砲に切替えの方針を決定した.しかし鋼の自給ができないので,イタリア将校を招聘して翌年から青銅製後装砲の国産を開始し,日清戦争時までこれに依存していた.1895(明治28)年になって鋳鉄砲の自作に成功し,この技術を利用して大阪市に水道用鋳鉄管を供給している.
 この間欧州では速射砲が発達してきたので,陸軍もこれを採用することに決定し,1896(明治29)年英独仏の兵器メーカーから数門購入した.砲兵会議ではこれらを参考として,砲兵技術官3名に独自設計させることとし,この中から1898(明治31)年有坂案を若干修正して三一年式野砲を制式化した.
しかし欧州では更に後座式砲の開発があり,日露戦争中野戦軍の性能向上の要求にこたえてクルップ社からこの方式の砲を購入した.この経験をもとに,1907(明治40)年には水圧駐退機,複座発条式の三八式野砲を制定している.
 砲身材料の鉄鋼の国産化については,別項「製鉄所」の項で述べる.
 陸軍の火薬については,砲兵工廠では板橋火薬製造所のほか1882(明治15)年岩鼻火薬製作所を設立して黒色火薬を製造していたが,1893(明治26)年には海軍の目黒火薬製造所の移管をうけ褐色薬の技術をとり入れた.これよりさき1884(明治17)年,フランス陸軍で硝化綿を主体とする無煙火薬が制式化されたので,1888(明治21)年陸軍砲兵会議でこれを試験した結果採用することとし,将校を派遣してグルーソン社から製造設備を購入,1893(明治26)年板橋で製造を開始した.
 黄色火薬(メリニット)も1886(明治19)年フランスで発明されたが,陸軍砲兵会議では翌年試験を試みている.1897(明治30)年板橋で黄色火薬の本体であるピクリン酸の合成に成功し,3年後から砲弾の炸薬として使用した.
 このような火薬技術の進歩にかんがみて,陸軍では1904(明治37)年に前述のように火薬研究所を設立した.ここで,1906(明治39)年に,4年前欧州に出現したTNT火薬の調査を開始し,1909(明治42)年合成法を開発,翌年から板橋で工業的生産に入っている.
 工兵も土工技能者の集団から脱却して逐次新技術をつけ加えていった.1883(明治16)年工兵会議が設立され,器機等の研究審査を担当することになった.1896(明治29)年鉄道大隊が創設され,その中に電信中隊がおかれた.翌年陸軍築城部が設置される.1891〈明治24)年フランスから気球を購入して研究が開始され,1901(明治34)年純日本式気球が試作された.1908(明治41)年には,鉄道隊と電信隊が分離し,気球隊が編成された.
 以上のように陸軍は現業官庁として部内で技術を改良・開発してきたが,民間産業に対する陸軍技術の間接的な影響もあった.日露戦争当時に,薬莢,信管等の加工を民間工場に依託している.また戦時に砲兵工廠は大量に職工を雇用しているが,こうして現場訓練をうけた職工のうち戦後離職して民間工場に移ったり,独立して鉄工所,機械工場を始めたものが少なくない.このような経路によって,明治時代においては最も機械工作設備の進んでいた陸軍工廠から,民間産業への技術移転が行われ,後の機械工業の発達の基盤を作ったのである.

 (8) 海 軍
 日本海軍が創設されてから,明治末に世界一級の戦備を持つに至る40年間は,世界的にみても戦艦の設計と砲装を中心とする海軍軍事技術が革命的に進歩した時期であった.その直前に出現している鋼製蒸気船の製造技術は,排水量(トン数)の増大と高速化が相ともなって進行する一方,製鋼の圧延技術の進歩を反映して,大砲の破壊力と装甲の防御力とがシーソーゲーム的な競争を演じた.こうしていわゆる大艦巨砲時代が出現したのである.
 後進国として出発した日本海軍の周囲をとりまく状勢は上のようなものであった.これに対応して明治政府は敢えて先進国と互しうるだけの数量と技術水準の海軍を持とうとし,このことをほとんど国家の至上目標としたのである.
 このような政策方向の出発点となったのは,1883(明治16)年の海軍卿川村純義の「海軍製備ノ急務ヲ請ウ」上申書であって,岩倉右大臣はこれをうけて「速ヤカニ増税ヲ断行シ海軍拡張ノ資ニ当ツベキ」ことを奏請,明治天皇はこれに対して「軍備拡張ニ関スル勅諭」を下賜した.これ以後,政府はしばしば議会の反対と戦いながら造艦費を拡大していったが,日清・日露戦役の勝利によってこの政策はもはや妨げられることなく進行したのである.その結果,海軍軍備には国力に不相応なほどの財政支出が割かれた.その支出計画を策定したのは時々の海軍の用兵首脳者であるが,計画作定当時の技術水準に立脚しながら,完成時期に仮想敵と対抗しうるだけの数の艦艇を持つという量的目標をつねに要請していた.しかしながら国際的な技術進歩が進行していたので,艦隊の完成時にはすでにその装備は陳腐化に近づいており,ただちにより新しい技術を体現した大艦巨砲を相当数造るために,艦隊計画を作り直さねばならぬということの繰り返しであった.
 このような情況下において海軍当局は,世界最高水準の兵器は輸入によって充足しつつも,自己の兵器製作,開発能力は徐々に発達させてゆくという方針を持っていた.したがって海軍の技術政策は二つの面に分かれる.一つは海外の最新兵器に関する情報を収集し,輸入技術を選定し,その購入に関する実務を行うという非現業的部門である.いま一つは部内の工場に於いて補助的兵器を設計,製作するための技術を開発してゆくという現業部門である.しかし,前者の担当官の得た経験,情報がたえず後者に伝えられ,自己技術能力を高めるという点において両部門は密接に関係していた.後者の製造設備は,日清・目露両戦役の臨時軍事費の中で拡大され,近代化された.このプロセスをとったところに日本海軍の技術が急速に進展し,次の時代には国際的水準に達しえた原因があり,そのような行動を組織化しえたところに海軍の技術官および用兵官の協力の成果があった.
海軍の技術は,造艦,造機,造兵,その他の諸部門に専門化してゆくが,そのどの部門においても上記のような基本的な動向がみられるのである.これらの技術行政を総括するために,1886(明治19)年の官制改革で海軍省に艦政局がおかれ,艦船兵器の計画を中央集権化し,図面をすべて調整した上で,製造所をきめて発注した.同時に造船会議,兵器会議が設置され,意志決定機関となった.両会議は1889(明治22)年海軍技術会議に一本化される.1900(明治33)年の官制改革で艦政本部が設けられ,兵器技術に関する部局をすべてここに統合して,増強計画策定の中心とした.

 i 造 艦
 1884(明治17)年に,当時海軍の唯一の造船所であった横須賀鎮守府工廠は艦隊拡張にそなえて規模を拡大されるが,同所の技術的能力はやっとフランス人技師の設計依存を脱したばかりであって,1890(明治23)年になってはじめて最初の鋼製艦「八重山」を建造しえた.したがって海軍首脳は主力艦については輸入に依存して基本戦力を強化しつつ,補助艦を国産することによって潜在的な技術能力を上げる方針をとったのである.この場合,主として当時世界で最高の技術水準にあった英国造船所に輸入艦を発注したことは,即戦力の強化と同時に,海軍の技術能力向上のためにも有効な選択であった.当時英国の造船所は,本国の海軍にも未だ採用されない技術的実験艦を,後進国の発注艦に対して試みていた.したがって日本海軍が英国から購入した目清戦役当時の主力艦「浪速」,日露戦役当時の主力艦「三笠」などは,建造当時における世界最新の技術を体現した艦だったのである.
 日本海軍はたんに出来合いの艦を買入れたのではなく,1890(明治23)年,監督官制度をつくって,契約から完成―回航に至るまでの間,優秀な造船官を相手の造船所に駐在させて,英国の巨艦設計―製作技術を実地に学ばせた.1902(明治35)年日英同盟が結ばれたこともあって,英国海軍の設計技術者たちも親切に日本の同輩に情報を与えてくれた.かくして1艦を輸入するごとに技術知識が日本の海軍工廠に移転されてきた.
 この間海軍の造船設備としては横須賀のほか呉・佐世保工廠が増設されていた.そして日露戦争直前,呉で装甲巡洋艦「伊吹」の自己設計,建造が決行され,戦中はじめての大型戦艦「薩摩」が起工された.1909(明治42)年には艦型試験所を設けて自主設計の体制を強化した.こうして海軍は主力艦国産化の自信をひとたびはつけたかに見えたが,たちまち英国で全く斬新な設計による戦艦ドレッドノート進水の報が入り,これを海軍は弩級戦艦と呼んで偉敬した.海軍はふたたび外に学ぶ方針に帰り,1911(明治44)年,アームストロング社に弩級を上回る世界最新の高速戦艦「金剛」の設計,建造を発注した.
 このように海軍の最上級造船官は,外国の兵器企業と発注を通じて深い関係を生ずる.この状況が,大正時代になって発覚した,いわゆる「シーメンス事件」とよばれる金剛発注にまつわる収賄事件の根源にあり,海軍技術首脳の多数が免官,辞職,あるいは自殺するという不名誉な結果を生んだのである.

 ⅱ 造 機
 海軍工廠においては補助艦建造と同時にその蒸気機関をも自製する方針をすすめ,1902(明治35)年から自主設計の宮原式水管ボイラーが採用された.1906(明治39)年竣工の「薩摩」にいたるまで往復動機関が使われていたが,その前年英国海軍が全主力艦にタービン機関採用を決め,1907(明治40)年竣工のドレッドノートにおいて重油燃料使用の2万4,000馬力パーソンズ・タービンが実用化されたことが伝わったので,日本海軍は呉工廠で建造中の「伊吹」「安芸」の主機を急遽アメリカから輸入のカーチス・タービンに切替え,ついでその日本特許専用権を購入した.これと並行して,三菱長崎造船所にすすめて英国のパーソンズ・タービンの特許権および専売権を獲得させ,1907(明治40)年同社に発注の「最上」には輸入パーソンズ・タービンを備え付けた.また同年起工の駆逐艦「海風」には重油専焼の輸入パーソンズ・タービンを装備した.かくて,日本海軍のタービン化,重油化は英国に次いで早かった.

 ⅲ 造 兵
 当初軍艦の主砲はクルップ製を輸入していたが,1887(明治20)年発注の「三景艦」からアームストロング式速射砲に代え,水雷はシュワルツコップまたはホワイトヘッド製という具合に,主力兵器はすべて外国依存であった.東京の海軍造兵廠は旧工部省赤羽工作分局を引き継いでいた国内の有力機械工場であったが,修理および補助砲,弾丸を製造する能力しかなかった.そして兵器輸入には外商が代理店として介在し,直接外国メーカーの技術に接することは妨げられていた.日清戦役の直前にこの状態は改善され,海軍技師が造艦と同様外国メーカー工場に入って実習すると共に,1896(明治29)年呉に大規模な兵器製造所を設立して,造兵廠と並行して主力兵器の国産化を進めたのである.このときはすでに外国人技師の来日を求めなかった.そして呉では,1902(明治35)年速射砲,1905(明治38)年に装甲板の自製に成功し,明治末には主力艦の兵器一式を国産化しうる能力を持った.そのためには鋼材の自給体制がかなめになっているが,それについては(9)で後述する.

 ⅳ 火 薬
 海軍は1879(明治12)年,東京目黒に火薬調整所を作り,ドイツから設備および技師を導入して黒色火薬の製造をしていた.ついで褐色火薬の模造実験をへて,ハイマン社から同火薬の製造設備およびノウハウを導入した.しかし1893(明治26)年陸海軍上層部の話合いで同所は陸軍に移管され,海軍は陸軍から火薬の供給をうけるという体制がいったんとられた.しかるに同年,海軍技師下瀬雅允が製法を考案したメリニット(ピクリン酸)炸薬が海軍の制式として認定され,海軍はまた別個に下瀬火薬製造所を建設した.1905(明治38)年にはアームストロング,ノーベル,ビッカース三社と契約して,平塚に紐状火薬製造工場を建設させ,同社から海軍が買入れる形をとったが,のち1919(大正8)年これを吸収して海軍火薬廠とした.この間日露戦争から凱旋した旗艦三笠が火薬庫事故で爆沈するという事件があったので,1908(明治41)年火薬審査委員会をおき,検査,貯蔵法および火薬庫の構造の改良を実現した.

 ⅴ 燃 料
 日清戦争の経験にかんがみ,1899(明治32)年石炭調査委員会が設置され,フランス海軍で採用されていた煉炭の試製,試験を行ったのちこれをボイラー燃料として採用することを決め,設備を輸入して1904(明治37)年徳山に煉炭製造所を新設した.また同委員会は1900(明治33)年から重油燃焼試験を行っている.

 ⅵ 無 線
 1895(明治28)年マルコーニが無線通信に成功した2年後,逓信省の松代技師も実験を実施した.海軍もその技術開発の重要性を認識して,1900(明治33)年無線電信調査委員会を設置して,海軍の木村技師を中心に逓信省の協力を得て通信機の試作を行い,2年間で直流電源による火花発信,コヒーラ検波方式で80カイリ間の通信に成功した.これは36式無線機として制式採用された.更に英海軍からリレーを買入れてこれを改造したものを1904(明治37)年全艦隊に配備した.かくて翌年の日本海海戦には,日本海軍は世界で最も早く無線を実戦に使用したのである.しかしながら,その後の外国における送受信技術の進歩は著しく,海軍の無線機もおおむねこれに追随模倣してゆく形をとった.
第1図 海軍組織における技術的部署(1910〈明治43〉年)

 (9) 製鉄所をめぐる技術政策
 鉄鋼技術の移植について明治政府は政策の試行錯誤をくりかえしていた.工
部省時代,旧南部藩の釜石鉄山を収用し,1880(明治13)年から,イギリス製の材料一式で築いた高炉で英人お雇い技師の指揮下に製鉄を試みたが,木炭・コークス混合燃料による燃焼技術に失敗し,同鉄山は工部省解体とともに民間払下げとなった.
 払下げを受けた田中製鉄所は,1887(明治20)年に邦人のみをもって小型高炉による木炭銑製出に成功し,1894(明治27)年には,コークスを燃料とする工部省時代の大型高炉の操業再開に成功した.このようにわが国最初の高炉製鉄技術は民間経営の下で開発されたのであるが,この企てに際して工科大学教授野呂景義が指導し,農商務省技師香村小禄が技師長として転籍するなど,政府による少なくとも好意的な援助政策がとられた.
 当時鉄鋼の大部分は,軍艦,兵器,レール,機械など完成品の形で欧米から輸入されており,軍と鉄道の二大官業が最大の需要者であった.そしてこの19世紀最後の四半期は,欧米における転炉・平炉製鋼法の普及によって錬鉄から鋼への転換と,銑鋼一貫大製鉄所の建設,鋼の大量供給,鋼材圧延の開始など技術の大変化期であった.したがって鉄鋼国産化の課題として,前述の製銑技術の確立と同時に,新式製鋼法の導入という二つの工程が問題になった.
 政府部内において鉄鋼の国産化に最も関心を抱いていたのは陸海軍であった.陸海軍の関心は主として兵器自給策の一部としての,砲身や装甲板の直接材料である平炉製鋼工程の技術導入にあった.海軍造兵廠では大河平才蔵らをクルップ社で実習させ,その帰国をまって1882(明治15)年にルツボ鋼の生産に成功した.陸軍大阪砲兵工廠では1890(明治23)年,釜石および雲伯の国産銑を原料とするルツボ製鋼に成功した.同年横須賀海軍工廠でわが国はじめてのシーメンス式平炉が稼動し,1892(明治25)年に呉海軍工廠でフランス式,ついで英国式酸性平炉が稼動し,大阪砲兵工廠では1896(明治29)年塩基性平炉,ついで酸性平炉を建設した.
 このように製鋼技術は陸海軍工廠内で原料自給のために開発されたのであるが,需要の増大に答えるために1891(明治24)年の議会に海軍省より独立の製鋼所建設案が提出されたが,この案は否決された.これに対し当時の松方首相,樺山海相,高島陸相はみな鉄鋼自給論者であったので,内閣に製鉄事業調査委員会を設けて陸海軍,農商務省および工科大学の専門家を委員に任命した.この委員会は,1893(明治26)年農商務省の管轄に移され,海軍専属の鉄鋼工程のみの工場から,国産鉱石を用いてすべての官業・民間に素材を提供する銑鋼一貫工場の建設へと計画が拡大されたのである.その際後藤象二郎農商務相は,製鉄所を民営とすべき意見を開陳したが,次の榎本武揚農商務相は日清戦争の渦中において官営方針を決め,1896(明治29)年の議会に農商務省製鉄所設立案が通過した.これで農商務省が前述のような民間事業を間接に促進する非現業官庁という地位から脱却し,強力な現業部門を持つことになった.
 製鉄所の最初の技術的課題は,立地の選択と採用技術の選択であった.前者については産炭地に近い北九州八幡と決定し,後者については大島技監の在外調査の結果,ドイツのグーテホフヌングヒュッテ社の設備設計技術一式を導入し,外人技師職工多数を招いて建設するという,工部省時代と同様なお雇い外人方式が提出されたのである.1899(明治32)年には原料鉱石を国内産から,中国大冶鉄鉱に変更するという重要な決定があった.
 製鉄所は1901(明治34)年開業したが,高炉製銑作業はうまくいかず,来日ドイツ人および多数の日本人関係技師が退職するという危機が生じた.1902(明治35)年政府は再び製鉄事業調査会を設けた.同会は民営移管案を答申したが政府はこれを容れず,官営で自主技術開発によって改良する方針を続けた.1905(明治38)年にいたって,新たに任命された野呂景義らの技術者の努力によってはじめて高炉製銑に成功し,その後製鉄所は政府現業として日本の重工業技術の中心的存在となるのである.
 当時の中村製鉄所長官が陸軍中将であったことからも,製鉄所への陸軍の発言権が大きくなったことがうかがえる.これに対して海軍は鋼材を製鉄所に依存せず,独自の製鋼技術を開発し続けた.1900(明治33)年ころ装甲板自製の方針を定め,1902(明治35)年には,製鉄所側の反対をおしきって呉海軍工廠に製鋼部を設けた.更に弩級艦の主砲の鋼材を自給するために,1907(明治40)年には,英国のアームストロング,ビッカース両社と,北海道炭鉱汽船会社の間を仲介して,室蘭に日本製鋼所を建設させ海軍専用工場とした.同社には呉鎮守府長官山内萬寿治が現役のまま社長に就任し,呉工廠から多数の技師,職工が出向するなど全面的な援助が与えられた.また同所に銑を供給する北海道炭鉱汽船輪西製鉄所の建設・操業には,八幡製鉄所技師の援助が与えられた.
 Ⅴ 大正・昭和初期(1910―1930〈明治43―昭和5〉年)

 (1) 総 説
 この項では,明治最後の数年から,満州事変の直前までの20年間を取扱う.はじめにこの時代の技術政策の対象設定に影響した,国内の一般的経済状態,および政府の意志決定過程を制約した諸勢力について要約しておこう.
まず,この時代の初期においてすでに,民間の技術的・経済的能力が相当に発達していたことがあげられる.前代における工業教育制度の確立によって大学・高等・中等各段階の学卒技術者が十分供給されうる態勢ができていたし,軍工廠その他の官業工場あるいは造船等の初期民間大工場において養成された熟練工がその数を増し,かれらの転職あるいは独立によって技術が普及する条件ができていた.学会活動,国内の専門雑誌刊行,海外図書雑誌や商社などの媒体を通ずる技術情報の流通も発達していた.一方,金融機関や証券市場や貿易制度などの資本主義的な機構も十分機能するようになり,民間における企業家精神も旺盛になっていた.鉱山に依拠していた財閥資本は,加工業へと垂直多角化を計画しはじめている.
 以上のような国内状況から,技術政策は,民間の潜在的技術力を活用することを重視しはじめる.
 この時代の政治的状勢の特徴は,政党勢力の強化である.内閣首班の指名権はいぜんとして枢密院を拠点とする元老――明治藩閥政権の首相経験者――の手にあったのであるが,議会における政党との妥協やその支持なくしては予算・立法を通じて政策を実行することが不可能となっている.そして1918(大正7)年には最初の純政党内閣である原内閣が成立している.政党の背後にあるのは,商工会議所や各種産業団体に代表される資本家,地主層であって,政府の産業政策,技術政策も民間産業保護の色彩を持たざるをえない.そしてこの時代がはげしい景気変動をくり返した時期であるために,長期的な対策よりも短期的な経済対策が民間の要求によって立案,実行されねばならなかった.鉄道のような政府現業部門の運営方針もまた,政党の利害によって影響を受けざるを得なかった.
政治におけるいま一つの勢力は軍部であった.明治憲法下における統帥権の独立を根拠として,軍部は政府および政党の干渉を排して技術面をふくむ軍備拡張計画を立てていったのである.そして陸海軍はまたそれぞれ独立しており,相互に計画や能力の交流は全くなく,予算の分配をめぐってしばしば相争った.ベルサイユ講和条約後の国際情勢の圧力と,国内における不況や大震災の結果としての財政の制約から軍縮時代に入った際にも,軍縮を計画し推進したのは政治家的な視野と責任感をもった一部の軍人であって,そのために陸海軍内部に軍縮派と軍拡派の対立が生まれたのである.
 世界一流の軍事大国を目ざす軍部の政策目標と,世界一流の工業国となろうとする民間産業界,したがって政党の目標とは相対立するものではなくて,軍部,産業界,政党ともそれぞれ互いの目標を根本的には認めあっていた.このような了解は,第1次大戦の衝撃によって来たるところが多い.
 欧州大戦で5年間にわたる未曾有の消耗戦を,連合国・同盟国両側とも持続しえたのは単に開戦時における戦力だけによるものではなく,戦中に民間産業を軍需生産に動員して国家総力戦としたからであった.また戦場において戦車,航空機,潜水艦,毒ガスなどの高度な技術の産物である新兵器が登場し,従来の戦争の様相を一変させたのは,各国の潜在的な技術力によるものであった.このことが日本の政府,軍部にも認識され,民間産業の技術能力を平時において育成,強化することが,軍事政策の根幹として考えられるようになったのである.
 一方において大戦の当初に欧米からの機械や化学製品のような高度技術的な製品の輸入が途絶して国内産業に深刻な設備・原材料不足を生じたところから,これらの重化学工業の国産化が経済的安定のための政策目標としてとり上げられた.そして民間産業側もまた積極的にこの機会を捉えて重化学工業に進出したのであるが,戦後に復活した欧米輸入製品との間に競争を生じ,大正末から昭和初めの金解禁時期にかけて,産業保護と国際収支均衡の両面から,政府は国産技術に対する援助と合理化を政策目標としてかかげることになった.
 (2) 工業教育の拡大
 大正中期において工業教育のいちじるしい拡大がみられた.これについては民間産業界の要請と,国民の高等教育志向に政党が対応した面が大きい.すでに民間の寄付をもとに1910(明治43)年米沢(染織)秋田(鉱山)上田(蚕糸)1915(大正4)年桐生(染織)専門学校が新設され,私立の明治専門学校はのち国立に移管された.大戦下の1917(大正6)年の第39議会では,好況による生産の拡大と輸入代替的な新工業の続出という状勢下で技術者の不足問題が討議されている.大隈内閣は識者を集めて臨時教育会議を開き高等教育を量質とも向上する策を審議させた.次の原内閣の中橋文相は以上の討議を基本的に受けて国立学校の大増設計画をたてた.その中に高等工業を8校から18校に,高等農林を5校から10校に増加することが含まれ,また既存校の学科増設も含まれていた.この案に従って1920(大正9)年から1924(大正13)年までに,横浜,広島,金沢,東京の各高等工芸,神戸,浜松,徳島,長岡,福井,山梨の各高等工業が設立された.これらの新設校の学科はもはや在来工業とは隔絶して,機械,電気,応用化学など新技術による重化学工業の建設に対応すべき技術者を養成する学科を中核としていた.
しかし東京・大阪両高工を工業大学に昇格する案は,高商の昇格よりも後回しにされ,1929(昭和4)年になって実現した.
大学,高工の教育内容にも変化が生じた.これは学校内部の自主的な活動に基づくものであるが,明治時代のように単なる欧米の工学知識の習得ではなく,卒業実験制度の普及に見られるような研究的態度の訓練を重視した.あわせて基礎的な理学教育をとり入れ,世界の技術進歩に対応しうる技術者の養成を指向するようになったのである。
 (3) 軍装備の近代化
 陸海軍は,1907(明治40)年に立てた国防基本方針に基づいて,陸軍はロシア,海軍はアメリカ合衆国を仮想敵としこれを圧倒しうるような軍備拡大策を推進してきたのであるが,その内容は陸軍にあっては歩兵を中心とする師団の増設,海軍では戦艦の増強という,日露戦争当時の戦備の延長線上にあった.しかしながら前述のような欧州大戦の影響から,総力戦の準備と軍の近代化という二つの課題が加わったのである.
 前者の現われは1918(大正7)年に成立した軍需工業動員法であって,これによって戦時には民間工業を軍需に徴用しうることとし,その準備のために平時から民間の潜在的軍需転換能力を把握しておくことになっている.この法律の実施を主管する部局として内閣に軍需局ができ,すぐに国勢院と改称された.
同院は緊縮財政下でしばらく廃止されていたが,1928(昭和3)年資源局として復活した.この立法は直接技術を対象とするものではないが,潜在軍事力としての民間工業の能力育成ということを爾後の政府の基礎的な考え方として確立したという点において,具体的な諸政策の思想的な基礎をなすものであった.
 航空機,戦車,自動車,潜水艦等の新兵器を導入するという考えは,後に各項目で述べるように欧州大戦前から陸海軍にあった.そして大戦中に陸軍省に軍事技術調査委員会が設けられ,1921(大正10)年には陸海軍間に兵器試験研究の分担および協力に関する協定が結ばれるといった動きから認められるように,陸海軍の軍備方針の中に装備近代化の要素がつけ加えられてくる.それは相当な成果をあげてゆくのであるが,陸海軍の基本的な組織原理は変らなかったことが,革命的な近代化に対する制約となった.それは,当初から軍備の近代化を推進しようとしたのは陸軍では工兵,海軍では機関科といった技術士官であったが,これを実現するのは陸軍では多く歩兵科,海軍では兵科主身の首脳部であり,これらの中から近代化に理解のある少数の幹部が,保守的な多数の幹部と妥協しつつ基本的には在来の装備である部隊に徐々に近代化部門を付加していくという形をとらざるをえなかったためである.
 i 造艦技術の進歩
 明治,大正,昭和を通じ海軍技術官の中心であったのは前述のように帝国大学委託学生出身の造船設計官であって,その設計能力はこの時代を通じてたしかに向上し,世界最高の水準に達した.1912(大正元)年進水の「比叡」級高速戦艦が外国の設計による最後の軍艦であって,翌々年進水の超弩級戦艦「扶桑」級は完全に海軍の自己設計で,これをもってイギリス海軍の設計能力と対等になった.1919(大正8)年進水の「長門」は世界で最も早くジェットランド海戦の教訓をとり入れた,40cmの主砲を装備した主力艦であった.この両型式をもって海軍首脳はいわゆる8・8艦隊の大計画を立てたのである.
 艦の主機についても技術自立が達成されている.1916―17(大正5―6)年,戦艦「伊勢」「日向」に減速歯車付タービンを搭載したのは英海軍より早かった.しかしタービン設計そのものは,ブラウン・カーチス式またはパーソンズ式の外国メーカーからの技術導入によるものであったが,1922(大正11)年にいたってこれを改良した艦本式が実用化された.
 1922(大正11)年のワシントン会議で主力艦数が制限されたため,造船設計官の努力は1万トン以下の巡洋艦の高速化と重武装化に向けられ,世界でもユニークな「夕張」(1923〈大正12〉年),「古鷹」(1925〈大正14〉年),「那智」(1927〈昭和2〉年)各級をつぎつぎに造りだした.このようにわが海軍の軍艦設計能力は優秀であったが,このことによって用兵側がいつまでも大艦巨砲による海上決戦を軍備の中心におき,他の近代的な装備の開発を副次的なものとみる思想が残ったことは否定できない.たとえば潜水艦設計においては後まで欧米よりおくれていた.潜水艦の使用は,日露戦争中にアメリカから輸入し再組立したのが最初であって,その後逐次英,仏,伊等から新型を購入していた.独自設計艦は1917(大正6)年の小型潜水艦「呂11」以後のことであって,大型潜水艦の独自設計は,捕獲したドイツ艦の長所をとり入れた1924(大正13)年の「伊5」型になってからであった.
 ⅱ 航空隊の創設
 1909(明治42)年陸軍・海軍・文部三省が共同して臨時気球研究会を結成したのが,日本の航空政策の最初であった.当初においては陸海軍とも先進国から機体,エンジンを輸入し,操縦士を外人教官につけて訓練させる技術移植策をとった.陸軍が一歩早く1910(明治43)年には所沢に飛行場を建設し,フランス空軍で実習してきた日野,松川両大尉が日本人としての初飛行に成功した.2年後には教育隊が編成され,1915(大正4)年には正規の組織としての航空大隊が認められた.
 海軍は1912(大正元)年気球研究会から離脱し海軍航空術研究委員会を作ったが,しばらくは水上機の練習と,輸入機の横須賀工廠における模作に腐心していた.これが最初の国産軍用機「横廠式水上偵察機」(1919〈大正8〉年)である.そして陸軍より1年おくれて1916(大正5)年,追浜に海軍航空隊が設けられた.そして1918(大正7)年には横須賀工廠に航空試験所が作られ,ここでフランス人技師マルグリスの指導によって,日本最初の風洞実験が行われている.
大戦終結の1918(大正7)年以後,陸海軍は連合軍航空隊の実戦経験を学んで本格的な航空隊設立にのり出した.翌年陸軍は航空部を新設し,航空学校を開校し,フランス空軍からフォール大佐以下の将校団を招いて,輸入軍用機を使用した操縦士官の大量養成を各務原,下志津,三方原,所沢の四飛行場で開始した.陸軍航空兵力は6個大隊に拡張された.また民間人の操縦士を潜在的な戦力として育成することを考え,翌年には陸軍省に航空局を設け,ここで民間航空を管理することになった.但し同局は1923(大正12)年逓信省に移管された.
 海軍では1918(大正7)年以後1922(大正11)年までの間に横須賀,佐世保,霞ケ浦,大村の四飛行場に計17隊の航空隊を創設.同時に水上機から艦上機に重点を移す方針を定め,1921(大正10)年最初から航空母艦として設計した「鳳翔」を進水させている.同年,臨時海軍航空術講習部を設け,英国からセンビル大佐以下の退役将校団30名を招いて伝習を受けた.ワシントン軍縮条約で廃艦と決まった戦艦「赤城」「加賀」を大型空母に改造,1927-8(昭和2-3)年に進水させたことは,その後に多種多様な艦上航空機を開発する契機となった.
 ⅲ その他の新兵器技術の開発
 欧州大戦の陸戦において,歩兵戦闘でも機関銃または自動小銃が火力の中心となるという技術的な大変革が生じた.日本陸軍でも1922(大正11)年,十一年式軽機関銃を開発し全歩兵隊に配置を開始している.これは三八式歩兵銃の挿弾子をそのまま利用しうるという補給上の利点をもっていたけれども,全軍の自動火器化という点では米独ソの陸軍にくらべて不徹底であって,基本的な火器は明治末以来の三八式銃が昭和にいたるまで使用されたのである.
 航空機に対抗するための高射砲は1920(大正9)年に設計に着手され,十一年式・十四年式野戦高射砲が制式化された.軍用自動車については(4)で述べる.
 海軍よりもやや遅れて陸軍は1909(明治42)年にはじめて技術審査部による東京・直江津間の無線通信試験を行った.そして工兵の電信隊が無線をも取扱うこととした.1914(大正3)年,大戦の勃発と同時に,工兵監のもとに無線通信調査委員会をもうけ,欧米陸軍の無線使用情況を調査し,無線部隊の組織や通信手段を検討した.その結果として歩兵用,航空機用の無線電信電話器も採用されることになった.
 海軍の技術開発において重要であったのは液体燃料の開発である.1918(大正7)年,徳山煉炭所の中に製油装置を造り,艦隊用重油を製造し,副生ガソリンを航空燃料とした.1922(大正11)年には同所を燃料廠と改称し,研究部を設けた.ここで1926(大正15)年以後,航空機用ハイオクタン燃料とするためにアセチレンからベンゾールを合成する研究を始め,アセチレン源として1928(昭和3)年には電弧法によるメタン分解を行っている.
また燃料廠では国産石炭を原料とする液体燃料の自給計画に意を用いた.そのために1920(大正9)年以来満鉄が開発していた頁岩油の採取を支援し,昭和初年には工業的生産に成功したのでこれを艦艇油として採用している.また1925(大正14)年以後,石炭の高圧水素添加法(ベルギウス法〉に注目し,1930(昭和5)年には試験装置を建てた.同時に,1928(昭和3)年から石炭水素化分解法の研究を始め,5年後には満鉄と共同でドイツのウーデ社から装置を導入した.
 ⅳ 軍縮と組織の近代化
 ワシントン条約の結果海軍の主力艦が制限され,また戦後の経済不況と関東大震災が重なった大正末以後は歴代内閣で緊縮財政方針がとられた.これに応じて陸海軍とも軍備縮小政策をとらざるをえなかった.そのために陸海軍首脳部のとった政策は,戦艦や通常師団といった旧来の主力兵力は縮小し,一方高度な兵備を新増設して軍縮を機会に軍の近代化,技術高度化をはかろうとするものであった.
 1925(大正14)年の陸軍のいわゆる宇垣軍縮において4個師団を廃止し,かわりに戦車隊・高射砲聯隊の新設,飛行大隊の聯隊昇格と2個聯隊増設が断行された.これよりさき陸軍では1919(大正8)年技術審査部を廃止して技術本部を設け,同時に技術研究所を新設している.新技術の採用に適応するためには,陸軍内の教育組織を従来の兵科の枠から解放する必要があった.その第1着手として1915(大正4)年砲兵工科学校を砲兵工廠から独立させ,1920(大正9)年には同校を陸軍工科学校と改称している.より高級技術者を育成するために1919(大正8)年技術将校の制度を設け,砲兵工科学校卒業者を帝国大学工学部(のち高等工業にも)派遣してその養成にあたっている.1925(大正14)年には陸軍航空部を航空本部に昇格し,技術部,補給部,検査部をおいた.
 海軍でも1923(大正12)年技術研究所を設け,1927(昭和2)年には航空本部を設置して航空機行政を艦政本部から分離した.
 田中義一内閣の編成した1928(昭和3)年度予算案では,陸軍の重要都市防空兵器充実費,海軍の航空諸機関充実費が盛り込まれた.若槻内閣下の1931(昭和6)年度緊縮予算の作成においては陸軍部内において,3個師団を削減して近代化を進めるか否かについて激しい意見の対立があったが,ついに師団削減は否定され,装備近代化としては機関銃の増加,騎兵の馬匹を減じ自動車隊の創設,輜重兵の自動車輸送開始,特殊工兵隊の新設等の小幅な改良に止まっている.
 (4) 国鉄と通信放送
 明治末以来,国鉄と電信電話は逓信省の管轄下にあったが,1920(大正9)年鉄道が分離され鉄道省となっている.国鉄内部の組織としては,旧来工務課,電気課,監理部技術課,建設部技術課などに分裂していた技術的業務をまとめて1913(大正2)年技術部が創設された.同局は2年後工務局と工作局に分離し,1919(大正8)年にはさらに建設局が分離した.
 当時国内の主要幹線はすでに大方開通していたので,以後の建設方針としては幹線輸送力をさらに革新するか,ローカル線を拡大するかの二つの道があった.そして時の政府および鉄道院総裁,鉄道大臣の交替によって方針がしばしば変更された.前者の計画は広軌化を中心としており,1911(明治44)年後藤新平総裁のもとで広軌化13ヵ年計画が第27議会に提出されたが成立しなかった.そこで桂首相の下に広軌鉄道改革準備会が設けられ種々の技術的検討が行われた結果,本州全線を広軌化する答申が行われたが,政友会を基盤とする西園寺内閣はこれを実行する意思がなかった.1916(大正5)年の大隈内閣において後藤総裁が再任され再び軌制調査会が設けられたが,結論を得ず,広軌問題はその後立ち消えとなって,ローカル線の拡大路線が推進されたのである.しかしこのときまでの技術的な検討が土台となって,1930年代には広軌弾丸列車計画が立てられ,1960年代になって東海道広軌新幹線が実現したのである.
 この時代の国鉄の最も重要な技術進歩は電化であった.国鉄の電化は1909(明治42)年碓氷峠が最初であるが,人口の都市集中と郊外の発達にともなって通勤電車の開設が課題となり,同年山手線,1914(大正3)年京浜線の電化が行われた.
 欧州大戦後ヨーロッパにおいても鉄道電化が進み,わが国でも産業用エネルギー需要が激増したところから石炭節約の必要が唱えられていた.国鉄当局も1919(大正8)年「国有鉄道運輸に関して石炭節約を計るの件」を立案し,これが閣議決定されて,全国の幹線電化の方針が認められた.これに従い国鉄内部に鉄道電化調査委員会が設けられた.そして1921(大正10)年には鉄道省に電気局が置かれ,同時に東海道線電化実行特別委員会が1年間審議した結果,1923(大正12)年から5年計画で東京・神戸間を電化する工事に着手した.この事業は関東大震災のために遅延したが1926(大正15)年には東京・小田原間,1928(昭和3)年には東京・熱海間の電化が完了した.
 このほか国鉄では貨車の自動連結器化を計画し1925(大正14)年,本州全線の一斉取替に成功している.
 逓信省の電話事業においては,1923(大正12)年の大震災を期に自動交換機の採用が開始された.これは欧米よりも大幅に遅れているが,電波=放送分野の技術政策は欧米にあまり遅れをとらなかった.すなわち電気試験所では1912(明治45)年,独自のTYK式無線電話機を開発し,つづいて真空管回路の研究,放送用送受信機の検討を怠らなかった.1920年にアメリカ合衆国で世界最初のラジオ放送が開始されると,これを契機に国内でも民間無線研究家が増加し,実験放送の許可を求める声が高くなってきた.逓信省では1922(大正11)年放送用無線問題を電話拡張および改良委員会に付議しさらに制度調査を行った上で,1923(大正12)年「放送用私設無線電話規則」が公布された.これに従って多数の放送免許申請が出されたのであるが,逓信省当局ははじめから放送局の集中と国家管理の方向を構想していたので,行政指導により地域的に一本化させ,まず1924(大正13)年社団法人東京放送局,翌年大阪,名古屋の両局が創立され,放送が開始された.逓信省はさらにこれら各局を合同させ,全国単一の独占事業体である「日本放送協会」を同省の外郭団体として設立させたのである.

 (5) 国産化技術の奨励
 前述のようにこの時代の政策の要点は,民間の技術水準向上を援助することによって,重化学工業品の国産化を進め先進国からの輸入依存から脱却することであった.そこで「国産化政策」が時代をつらぬく方針として流れている.
その主たる政策立案,実施当局は農商務省(1925〈大正14〉年分離して商工省となる)であったが,陸海軍およびその他の現業官庁もまたこの方向で民間企業の技術に支援をあたえていた.
 この時代の政策思想に初めて基礎工業(key industry)の概念があらわれてくる.すなわち一国の産業構造を高度化するうえにおいて,技術的な関連からいっても投入産出関連からいっても要所を占める少数の生産財・資本財産業を重点的に育成するという考え方であって,当時においては鉄鋼,染料,ソーダ,窒素肥料,工作機械工業などがそれに当ると考えられていた.これらの産業が十分に興らず輸入に依存しなければならなかったのは,主として民間における技術の蓄積が低くただちに先進国の技術による製品と品質・価格両面で競争ができないからであるので,これらの産業を起こした企業が十分生産技術を開発し終るまで一定期間政府による保護を与えようとするのが,国産化政策の中心的な手段であった.すなわち国産化政策は産業保護政策に属するが,その効果においては新技術の定着を目標にするものであった.
 i 生産調査会の国産奨励策
 上記のような意味の国産化奨励の起源は,1910(明治43)年に農商務省が開設した生産調査会にさかのぼる.同会議は官界学界および産業界の有識者を集めて,当面の産業政策上の重要事項9件を附議したものであった.その第7「工業ノ発達助長ニ関スル件」は,主として「従来輸入ニ俟チタル工産品ヲ我国ニ於テ製造」するための方策を問うたものである.それに対する答申は1912(大正元)年提出せられたが,そのうち技術政策に属する対策として,工業教育を一層奨励すること.官公立の工業試験所で新規有望なる工業品の製造方法を研究すること.発明を奨励すること.規格統一の調査機関を設けること.新設事業の営業税免除期間を3ヵ年ないし7ヵ年に延長すること.営業者,職工長,重要技術員の海外派遣あるいは視察奨励.官業が民業を圧迫しないこと.官庁用品は内国品を用いること.新設または試験中の工場には相当期間補助の途を開くこと.――などが挙げられていた.
 答申内容はただちにすべて実行されたわけではないが,ここにはほとんど考えうるすべての政策手段が盛られており,のちに逐次個別に実施されたいくつかの国産化政策の源泉をこれに求めることができるのである.
 たとえば発明の奨励については,第1に優秀発明者の表彰制度として,明治15年制定の褒賞条例においてすでに発明家に藍綬褒賞を与える規定があったが,実際に賞を受けたのは臥雲辰致(綿糸機械)ただ1人であった.しかるに,1909(明治42)年以後1928(昭和3)年の間には,17人が受賞しており,この中には1912(明治45)年の豊田佐吉(力織機)も含まれている.1917(大正6)年には,発明奨励費交付規則が制定され,以後毎年国庫から発明奨励に関する事業のために相当額が支出された.これを使って翌年特許庁は発明展覧会を開催している.
 税制面での国産化奨励は,1913(大正2)年に成立した所得税法改正の中での重要物産免税制度として実現された.これは指定された製品を新規に製造開始するものは3年間免税を受けるという優遇策で,施行規則に指定された品目は,① 金銀鉛亜鉛鉄およびアルミ地金,② 鉄圧延品,③ 銅圧延品,④ 汽機,電動機(機関車を含む)および動力にて運転する機械,⑤ 燐,ソーダ灰,苛性ソーダ,硫酸,アンモニア,石炭酸,塩素酸カリ,グリセリン,⑥ 製紙用パルプ,⑦ 板ガラス,⑧ コンデンスミルク,⑨ 絹,亜麻または毛織物であった.これらの品目の多くは,国内経済において不可欠となってきているが未だ国産化が少ないか,または国産化の始まったばかりであるか,外国との技術格差の大きいものであって,免税措置によって民間の新規企業化を誘い,あるいは資本蓄積させて技術改良の余地を伸ばそうとする狙いであったと考えられる.
 翌年には欧州大戦が勃発し,重化学工業品の輸入が杜絶するという事態が生じて,国産化は緊急の問題となった.当時の大隈内閣の勧奨によって民間団体の国産奨励会が発足し,政府から同会に対して数年間補助金を交付した.この時から,一般消費者に対する国産愛用運動が着手された.
 大隈内閣は1916(大正5)年,欧州大戦の影響下においてとるべき経済政策を審議するために,さきの生産調査会とほぼ同様な構成による諮問機関の経済調査会を設けた.貿易第1号議案に対する提案では,重要輸出品の品質を斉一にするため検査を強化すること,産業第2号提案では,戦時に新たに興った工業を戦後に維持するため関税・原料・技術等の面の保護,工作機械・機関車の製作の奨励,ソーダ工業の助成等が決議されている.
 ⅱ 化学工業調査会と染料医薬品保護法
 欧州大戦勃発と同時に最も経済界に混乱を生じたのは,敵国となったドイツからの染料輸入の杜絶であった.それまで国内における化学染料の生産は全くなく繊維業者は輸入染料に依存していたために,品不足と価格高騰が生じたのであって,このため各地商工会議所等から政府に対して染料国産に対する要望が出された.同時に民間において群小染料工場の続出をみたのであるが,製造品種や品質において,ドイツには遠く及ばなかった.一方欧州における総力戦の様相から,染料工業は爆薬や毒ガス等の軍需品の潜在的な生産能力となることが軍部にも認識せられた.原料のタール製品はすでに国内において供給可能となっていたので,問題は化学染料の製造技術を確立することにあった.
 ソーダ灰は主として同盟国イギリスから輸入されていたのであるが,同様に輸入の減少を見ており,染料を初めすべての化学工業の基礎として特にその国産化が学会方面においてかねてから唱導されていた.
 このような状勢から1914(大正3)年政府はいち早く化学工業調査会を設け,化学製品の国産化の方策を諮問した.調査会は直ちに技術的検討の結果,民間染料工業の助成と政府によるアンモニアソーダ法試験工場設立案を答申した.この内容のうちソーダ工場建設は財政上の理由から成らなかったけれども,民間の旭硝子株式会社が原料自給のためにこの設計案を実行して1916(大正5)年試験工場をたて,これに対して翌年政府は専売局に補助金を交付して原料塩を安価に払下げる方針をたてた.この案も実行に移されなかったがその代りにソーダ会社が安価な原料塩を専売局を通さずに自己輸入することを認め,それによって輸入ソーダ灰に対する競争力を支持したのである.
 一方染料に関する化学工業調査会の答申はとり上げられて,染料医薬品製造奨励法が1915(大正4)年成立した.この法律は,各種アニリン染料,アリザリン染料および人造藍を新しく工業生産する会社に対して10年間経営に関する一切の損失は国家が補償し,その上払込資本に対して年8%の配当を保証するというものであった.このような好条件を以て民間企業家を誘い,長期間にわたって新技術の開発を続けさせようという主旨の政策は,従来全く例のないものであった.1916(大正5)年に大阪に創設された日本染料株式会社が同法の適用を受けて,多くの染料の開発をした.しかし,大戦終了後の外国染料の輸入との競争力を早急に養い得たわけではなかったので,1924(大正13)年には染料の輸入許可制が実施された.翌1925(大正14)年までの10年間に同社に対てし支出した補助金総額は1,470万円にのぼった.この法律はさらに9ヵ年延長され,未だ国産化されない重要品種に限って補助することとし,新たに三井鉱山の開発した人造藍が補助の対象となった.第2期の補助金総額は740万円にのぼった.このように染料工業国産化には多額の政府支出を要したけれども,その結果として染料に関する外貨収支の大幅赤子を解消したばかりでなく,民間化学工業に初めて有機合成技術が定着しその後の高度化の基礎がつくられた.
 ⅲ 軍用自動車補助法
 1918(大正7)年に陸軍省立案の軍用自動車補助法が成立した.欧州大戦において戦車隊が登場し,また欧米の陸軍において自動車輸送が普及したことが,近代戦の一つの大きな特徴をなしたことは前述のとおりである.欧米では戦前においてすでに民間の自動車工業技術が発達しており,これが軍の機械化の基礎となっていた.しかし日本では自動車輸送はまだ緒についたばかりであって,それも輸入車に依存していた.1911(明治44)年東京自動車製作所および快進社が乗用車の国産に着手したが,前者は消滅し後者も未だ少数の試作を行う段階にとどまっていた.
 陸軍が自動車に注目したのは馬匹の補給難からであって,1912(明治45)年軍用自動車調査委員会を設け,大阪砲兵工廠において1915(大正4)年までに4種類のトラックを試作した.陸軍は同年軍用自動車試験班を編成し,試作車を用いて走行試験を行い,あるいは国内工業の能力や外国事情についての技術的な調査を行ってきた.そして1917(大正6)年には4トン積トラックの制式を決定し,東京瓦斯電をはじめ国内8社に試作を奨めている.また同年,名古屋に砲兵工廠の分廠を設け,ここを自動車,戦車の生産担当工場とした.
 このような経過のうえに立って,政府は潜在的な軍事力として民間貨物自動車工業の政策的保護を決意し,軍用自動車補助法を制定したのである.この法律の内容は民間会社の生産する6種類の規格トラック1台ごとに補助金を交付するというものであった.
 1919(大正8)年には自動車隊が新設され,1925(大正14)年には陸軍自動車学校が設立されて,ここですべての自動車隊の教育訓練および車両,エンジンに関する試験研究を行った.この頃までには,瓦斯電,石川島,実用自動車の三社が補助自動車の生産を行っていた.けれども各社とも民需用の大量生産に至るまでの技術的・経営的な条件を作ることができず,自動車工業の確立は1930年代の新たな政策立案をまたねばならなかった.
 ⅳ 官需の国産品優先
 前記の生産調査会の答申にも官業の国産品使用がうたわれているが,陸海軍,国鉄,電信電話等の現業官庁ではその前後からそれぞれ民間企業を育成し,購入品の国産化を推進してきた.
 まず海軍では1912(明治45)年,当時世界最新の「金剛」級高速戦艦4隻の建造にあたって,英国で作られた設計図面,作業指図書のすべてのコピーを三菱造船所および川崎造船所に渡して1隻ずつ建造せしめ,巨大艦の建造に習熟させた.これにつづいて海軍部内で設計した「扶桑」「土佐」級戦艦,軍縮後の巡洋艦の建造においても必ず民間造船所に分割発注した.また潜水艦の建造にあたっては,川崎造船所にはMAN社から,三菱造船所にはズルツァー社からのディーゼル機関技術導入を海軍が仲介し,これによって両社が内燃機関設計製造技術について得たところは多大なものがあった.これらの協力を通じ海軍の技術官と民間工場の技師との間の有形無形の交流が行われたのである.海軍側としては輸入艦からの脱却にあたり民間造船所を海軍工廠の予備として育成したのであるが,その波及効果は大きかった.
 陸軍の国産自動車工業の育成と国産車使用については前項のとおりである.
 陸海軍の航空機も,最初は外国から輸入しながら漸次その技術を新設された民間工場に移転して,国産化を育成する方針をとってきた.陸軍は設計,製作とも民間工場に依存する方針をとり,そのために1918(大正7)年設立された日本飛行機製作所(数年後に中島飛行機となる)に最初から試作機を発注して以来,同社をほとんど専用工場として育成をつづけ,外国からの機体,発動機の技術導入についてもあっせんを行っている.一方海軍は,航空試験所と霞ヶ浦研究部から両者の合体した航空廠に至るまで自己設計・製作能力を持ちながらも,三菱内燃機,愛知時計電機(艦上機),川西航空機(水上機)の三工場を育成した.特に1923(大正12)年わが国初の全金属機の製作にあたっては,海軍と三菱の技師が協力してロールバッハ飛行艇をコピー設計し,同時にドイツからのジュラルミンの技術導入を住友金属に対してあっせんしている.翌年には愛知時計のドイツ・ハインケル社からのカタパルト技術導入を援助し,以後愛知の航空機技術はハインケルとの提携によって急速に伸びた.
 こうして陸海軍とも昭和時代に入ると完全に国産機使用の時代に入った.その後は航空本部に於て新造機の性能仕様を示して各社に設計の競争をさせ,これによって民間航空機工業の設計能力を高める政策をとりつづけた.
 国鉄も1912(明治45)年以降,国産蒸気機関車に全面依存し,しかも内部の工場は修繕に専念して新造は民間工場に発注する基本方針をたて,そのための指定工場として汽車製造,川崎造船の二社の技術を育成したのである.第1次大戦下において,重要な輸入部品材料が不足したために,国鉄はみずからの設計による車両部品の民間生産を支援した.1922(大正11)年以後は国鉄と民間の車両および部品工業の技術者を集める車両研究会を定期的に開催し,相互の技術水準の向上をはかった.また電化にあたっても国産電気機関車使用方針をつらぬき,最初は国鉄部内で設計,製作したが,すぐに芝浦製作所,日立製作所,東洋電機の三社に発注してその技術能力の向上をはかった.たとえば1922(大正11)年には電車専用の150馬力モーターを上記三社と国鉄とで協力して規格を協定している.
 通信事業においては,大正時代にはすでに沖電気,日本電気両社においてほとんど電話機の国産化ができていた.1923(大正12)年以後の自動交換化にさいしては再びATTおよびシーメンスからの輸入に依存しなければならなかったが,逓信省ではたとえばシ社と古河との合弁事業である富士通信機による国産化を奨励し,電話資材の輸入依存率は1926(大正15)年の37%から,1930(昭和5)年には9%まで低下させることができた.
 以上のような民間企業における新技術の開発にあたって,軍および現業官庁ですでに調査研究,設計製作にあたっていた技術者が相当数民間に移籍していることも,人を通ずる政府から民間への技術移転の手段であった.
 商工省の分離独立もまた,基礎工業の振興重視の方向をあきらかにしたものであった.同省は1926(大正15)年国産振興委員会を設置し,国民に対して国産愛用運動を推進すると共に,官庁用品の国産使用をいっそう推進するために会計法の特例を設け,国産品たることを指定して入札する道を開いた.
1930(昭和5)年,浜口内閣は金解禁を断行したがそれに伴ってますます国産奨励,輸入防遏の必要があった.このとき設置されていた臨時産業審議会の答申に基づき新設された産業合理局の第2部に国産品愛用委員会を設け,内外製品の対比見本を製作して一般に展示し,国産品の品質を正しく消費者に認識させると共に,生産者に品質向上の目標を示した.
 かつては殆ど輸入に依存していながら,この当時までに完全に国産が輸入に代替するか,あるいは輸入比率を著しく引き下げえた製品としては,毛織物,フェルト,毛布,時計,ミシン,ピアノ,写真機,金銭登録器,計算器,原動機付自転車,自転車部品,顕微鏡,電信電話機,電熱器,扇風機,自動車タイヤ,アート紙,煉乳,バター,文房具,安全剃刀等多くの品目を数えた.この成果の大部分は民間企業における技術開発努力によるものであることは勿論であるが,政府も民間の能力を信頼し側面から国産を奨励することによって相当の貢献をしたと見ることが許されよう.

 ⅴ 民間の研究奨励
 政府の民間人または民間企業に対する研究費補助として最初のものは,1921(大正10)年国勢院が支出した軍需工業研究奨励金である.商工省の発足後鉱工業技術研究補助金の制度が確立し,1926―27(大正15―昭和2)年には各33件,25万円の補助金が支出された.この額は1929(昭和4)年以後の緊縮財政下で削減されるが止むことはなく継続され,例えば国産原料によるアルミニウム精煉技術のような重要な研究がこの制度によって支えられた.
 (6) 技術に関する基礎的制度の整備
 i メートル法の制定
 さきの度量衡法においては,尺貫法とメートル法の併用を認めていたが,一般工業界ではそのほか英米式のヤードポンド法が根強く用いられており,海軍の制式もインチ,ポンドで表わされていた.このような3種類の単位の併用による混乱をなくすために,メートル法に統一することを内容とする度量衡法改正が1921(大正10)年に成立した.本法によって官庁,学校,大企業における公式単位はすべてメートル法とすべきことが定められ,これに従って鉱工業関係の設計図面や文書もメートル法に統一されていったことは,この時代における顕著な成果であった.ただし一般民間においては20年間の猶予期間を設けて暫時尺貫法,ヤードポンド法からメートル法に移行させるという,現実的な例外規定が設けられている.

 ⅱ 工業規格の統一
 工業製品および原材料の規格の社会的標準化は,一国の技術発展に対して重要な意義を有する.1921(大正10)年初めて農商務省に工業規格統一委員会が設けられ,専門家の委員によって逐次品目毎に日本工業規格(JES)が制定されていった.
 但し個々の官庁ではこれに先行する動きとして,たとえば電力関係では1911(明治44)年の電気工事規程において技術上の基準が規定され,その前年には民間に日本電気工芸委員会(JEC)が発足して,国際電気工芸委員会(IEC)に準ずる電気機器の用語および定格の標準化を実行している.また国鉄でも,車両,レール,その他部品材料について内部規格を制定していた.また政府の購入する土木工事用のボルトランド・セメントの試験法について1905(明治38)年に各官庁技術者の会議において規格が制定されていた.JES制度の発足以後1941(昭和16)年に至るまで,520件の規格が制定された.この間1929(昭和4)年には万国規格統一協会(ISA)に加盟している.
 1930(昭和5)年に発足した臨時産業合理局の事業の一つとして,商品の単純化があげられ,いくつかの品目においてJES規格にもとづく業界の品種整理が実行された.

 ⅲ 国立研究機関の増強
 官業および民間の新技術開発推進の母胎となるべき国立研究機関の量的・質的強化も,この時代に行われた.新設されたものとして,1913(大正2)年の鉄道研究所,1921(大正10)年の内務省土木試験所,1918(大正7)年の東京大学航空研究所,1920(大正9)年の商工省燃料研究所,1918(大正7)年の大阪工業試験所などがある.
 在来からの試験所あるいは新設の研究所に共通した質的な進歩としては,製品の試験業務中心から,新技術の開発研究に重点が移されたことである.たとえば東京工業試験所に1909(明治42)年増設された第5部では電気化学関係の研究が進められ,その成果の中から燐,アルミニウム,電解ソーダなどの製造技術が民間に譲渡されて工業化された.そして同試験所を母体として1918(大正7)年臨時窒素研究所が設立され,ドイツのハーバーによって開拓された高圧によるアンモニア合成の国産技術開発が推進され,1925(大正14)年には中間試験を完了している.同法は1931(昭和6)年,昭和肥料において工業化された.

 ⅳ 理化学研究所の設立
 1914(大正3)年の化学工業調査会の答申において,政府の後援による大規模な化学研究所の設立が建議されていた.政府はこれを承けて,1916(大正5)年理化学研究所国庫補助法を成立させ,翌年同研究所の設立が認可された.同所は基金800万円のうち200万円を政府が補助した,わが国で最初の大学や官庁から独立した自然科学の綜合研究機関であって,科学者によって比較的自由に運営され,その中から農芸化学や冶金学関係で実用的にも意義の大きい発明が生み出され,研究人材の養成をもふくめて大正から昭和にかけての工業技術の基礎を高めるのに多大の貢献をなしている.

 ⅴ 都市計画法の成立
 1919(大正8)年に都市計画法および市街地建物法が成立した.当時大都市の商工業の発展と人口の集中が顕著になっていたが,これを自由に放任していたための混乱や弊害もまた顕在化してきた.都市計画法は,政府がこのような都市問題に介入してきた最初の政策として画期的な意味をもち,その内容には関連する建築物法とともに技術的な規定を含んでいる.すなわち都市計画とは「交通安全・保安経済に関して永久に公共の安寧を維持し,又は福利を増進するための重要施設の計画」であると定義し,具体的には区画の整理および住宅・商業・工業三地域における建築物の特化を規定したものである.施行の4年後に関東大震災が生じて京浜両都市は潰滅的な打撃を受けたが,その復興にあたってはじめて本格的な都市計画が実現されている.

 Ⅵ む す び

 以上が,1931(昭和6)年の満州事変前夜までの,技術政策の沿革である.第二次大戦中・戦後の技術関連政策は,現在「技術大国」といわれるまでになった日本の発展に直接かかわるものであるが,本稿ではその道を準備した,日本の工業化過程における技術政策について一応のとりまとめを行った.この段階で区切った日本の経験は,最近の開発途上諸国の工業化・技術移転・在来技術改良のための政策と対比するためには適当であると考える.戦中以後の技術政策の展開については,機会があれば別稿を用意したい.

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