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Female Labour

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技術革新と女子労働

Title: 序章:女子労働の諸類型とその変容ー1890年代~1940年代ー
Author: 西成田 豊
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1985年
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序章:女子労働の諸類型とその変容ー1890年代~1940年代ー

 はじめに
 本書は,戦前の製糸業,石炭鉱業,都市下層社会の女子労働を扱った第1-3章と,戦後の家族自営業の女子労働と雇用女子労働を扱った第4,5章の全五章から成っている.戦後の女子労働については,その全体像を総括的に論じているのにたいし,戦前の女子労働については特定の産業をとりあげており,上記の三部門の考察で戦前の女子労働の全体像を把握することは到底できない.
 実際,第1図によれば,第一次産業の女子有業者は第一次大戦前の700万人台(全女子有業者の70%強)から大戦期の600万人台へと減少するものの,1923(大正12)年を底にその後は増勢に転じ,構成比も全女子有業者の60%前後におよんでいる.一方,商業を中心とするサービス産業の女子有業者は図示した期間中一貫して増加し,その構成比は大戦前の8,9%から大戦後の14,15%,大恐慌後の18%台へと上昇し,1928(昭和3)年には第二次産業の女子有業者を凌駕するに至った.他方,第二次産業の女子有業者は,第一次大戦期と1930年代後半に増加傾向を示すものの,その間は減少・停滞基調にあり,構成比も15%前後にとどまっている.女子労働を家族従業者を含めて広義に解釈すれば,戦前の女子労働の圧倒的部分は第一次産業や商業など自営業部門で就労する家族従業者であり,第二次産業を中心とする雇用女子労働者はごく少数であったことが知られるであろう.
 戦前の女子労働の構成に関するこうした基本的かつ重要な事実を確認しつつも,本章では考察の対象をほぼ雇用女子労働に限定することにしたい.本書の
テーマである技術革新と女子労働という視点からすれば,技術革新の影響をもっとも強く受けたのは戦前においては雇用女子労働の分野であり,家族自営業の労働形態にまで技術革新の影響がおよぶのは,第4章で明らかにされるごとく,戦後のことと理解されるからである.
第1図 女子有業者の推移
 以上のごとく,本章は雇用労働に対象をほぼ限定し,戦前の女子労働の産業別構成を明らかにしつつ,その全体像を概観することを課題とする.その際,つぎの3点に留意することが必要であろう.
 第1は,女子労働の諸類型を析出することである.類型化それ自体は一つの認識手段であるから,問題意識によってはさまざまな類型設定が可能であろう.本章では,技術・労働(生産形態)と社会的給源(労働市場)の2点から女子労働の類型化を試みることとする.
 第2は,析出された女子労働の諸類型が日本資本主義の展開過程でどのように変容し,解体するか,その動態的構造を明らかにすることである.第1と第2の考察にあたっては産業革命期,第一次大戦期,両大戦間期,戦時期の四つの時期をとりあげることとする.
 第3は,戦後の女子労働を展望するという観点から,戦前と戦後の女子労働の連続面と断絶面を統一的に把握することである.戦前の分析に力点をおいた本章では,この課題にたいする解答は「むすび」で簡単に触れざるをえないが,これによって,第5章との連続がはかられることになろう.

 Ⅰ 産業革命期

 1880年代後半から1907(明治40)年頃にかけてのほぼ20年間は,日本の産業革命が展開した時期である.
 日本の産業革命を主導した産業は綿紡績業と製糸業であった.綿紡績業は機械と原料綿花を輸入に依存し,初発から機械制大工業として,手紡糸や輸入糸を圧倒しつつ,急速な発展をとげた.1897(明治30)年に綿糸輸出量が輸入量を凌駕するに至ったことは,綿紡績業における資本制生産の確立,その輸出産業としての定着を示すものといえよう.一方,製糸業は,西欧技術と伝統的技術を折衷した器械製糸を中心に,アメリカ合衆国への輸出に依存しつつ,最大の外貨獲得産業として発展した.1906-1910(明治39-43)年頃には,日本の製糸輸出量は,それまで世界最大の生糸輸出国であった中国の輸出量を上回るに至った.
 綿紡績業と製糸業の発展とは対照的に,産業革命期の機械工業の発展はきわめて未熟な段階にとどまった.陸海軍の軍工=が急速な発展をとげたのに対し,民間の機械工業の発達はおくれ,機械工業の生産は,軍工=の兵器生産が突出するという,畸型的な構造を有していたのである.しかし,日露戦争期の陸海軍工曁からの発注を契機に民間の機械工業も発展過程に入り,造船業においては,造船技術が世界水準に到達する(1907年,天洋丸竣工)一方,汽船の国内自給率が上昇し,工作機械工業では,有力工作機械メーカーが発足し,アメリカ式旋盤の完全製作が実現した.こうして,ほぼ1907(明治40)年前後の時期に機械工業は確立の見通しをえ,消費財生産と生産手段生産の両部門の内部循環にもとづく自立的国民経済形成の基盤が固まった.しかし,紡績機械は
第1表 産業別生産額・職工数の構成
第2表 産業別女子労働者の構成
1930年代になるまで国内で自給できなかったことに示されるように,両部門の内的な関連はよわく,機械工業の基礎はきわめて脆弱であった.したがって日本の資本主義は,重工業製品の多くを輸入に依存し,そのために必要な外貨を生糸輸出によって獲得するという輸出入貿易を,再生産の不可欠の環にすることによってはじめて確立したのである.
 以上にのべたような日本資本主義の特質は,産業構造に端的に示されている.産業革命が終了した1909(明治42)年の時点の産業別生産額・職工数の構成をみると(第1表),製糸業と綿紡績業を中心とする紡織工業の比率は,生産額で51%,職工数で64%を占めており,これにたいし金属機械器具工業の比率は,生産額で10%,職工数で8%にすぎない.紡織工業にいちじるしく偏った産業構造を看取することができよう.
 そして実は,紡織工業を担う労働者の圧倒的多数が女子労働者であっあた.第2表から明らかなように,産業革命期(1902年,1907年)の女子労働者の比率は,製糸業で94-95%,紡績業で79%,織物業の「工場」労働者で87%を占め,女子労働者の多数が紡織工業に集中している.その結果,産業革命期の労働者の60%以上が女子労働者によって占められている.しかし,本書の対象である女子労働者に絞って第2表を仔細にみると,産業革命期の女子労働者はもう少し複雑な構成をとっているように思われる.まず,問屋制家内工業のもとに編成された膨大な数の織物業の女子労働者(織物業(B))が存在する.さらに,化学工業には2-4万人,飲食物工業,雑工業にはそれぞれ1-2万人の女子労働者がおり,それぞれの部門の労働者の35-40%以上を女子が占めている.これら三部門のおのおのの内部構成をみると,女子労働者が集中している産業は,化学工業ではマッチ製造業,飲食物工業では煙草製造業,雑工業では麦稈真田・花=製造業であり,1902(明治35)年の農商務省の調査によれば,マッチ製造業と煙草製造業では女子労働者がそれぞれ全体の77,86%を占めていた1).また,統計がないため正確な数字は判明しないが,産業革命期の石炭鉱業には坑内夫として女子が多数使用されていたことも逸することができない.
 おおよそ以上のごとく,産業革命期の女子労働者は紡績,製糸,織物,マッチ,煙草,麦稈真田・花=,石炭の7部門に集中しており,石炭産業をのぞけば各部門の女子労働者の多くは20歳未満の若年労働者であった(第3表).
第3表 女子労働者の年齢構成(1901年)
煙草をのぞき上記産業の製品がいずれも日本の代表的な輸出製品であった2)ことを考えれば,産業革命期の女子労働は,日本資本主義の再生産をささえる貿易の先端的な輸出産業部門で,きわめて重要な役割を果たしていたといえよう.以下,各部門の女子労働者の特徴を,技術・労働(生産形態)と社会的給源(労働市場)の2点を中心に,ごくかいつまんでのべることにしよう.
 (1)綿紡績業
 綿紡績業の女子労働者の過半は20歳未満の未婚の若年労働者である(第3表).イギリス紡績業(1901年現在)の女子労働者の比率が59%で,その内60%が20歳以上であり,そのなかに既婚者を多数含んでいた3)ことを考えれば,未婚の若年女子労働者の比率の圧倒的高さは,日本紡績業の労働力構成のきわ立った特徴である.こうした若年女子労働者の充用が可能となったのは,1880年代の後半より,ミュール紡績機から操作の簡単なリング紡績機への設備更新が急速にすすんだためである.上にのべたイギリスと日本の紡績業の労働力構成の差異も,ミュール全盛時代にあったイギリスと,最新技術リングの導入に積極的だった日本の技術的な格差に起因するものであった.
 紡績業の女子労働者の給源は,産業革命の当初は都市貧民層や近傍農村の下層農家にあったが,労働需要が拡大するなかで1890年代の後半より遠隔地募集が本格化し,遠隔地農村からの出稼形態をとった小作・貧農の子女にその中心が移った4).こうした出稼の女子労働者が経営側と取り結ぶ雇用契約は,著しく片務的なものであった.実際,この時期の雇用契約証には,契約期間中の退職の厳禁と違反者の処罰(賠償),経営側の解雇の自由などが明記されている5).雇用契約のこうした雇主専制的[ユーニラタル]な性格は,雇用のさい旅費・支度料の名目で一定の前貸金が被傭者に貸与されたことに規定されたものであった.女子労働者は労働力商品の自立的な売り手としては現れず,前貸金を介して一種の「債務奴隷」的な関係に組み入れられていたのである.こうした雇主専制的な雇用関係のもとで,女子労働者は植民地インド以下の低賃金(1898年,日本紡績業の女子1人月賃金4円,インド紡績業の1人月賃金8-9円)6)と昼夜二交代制の深夜労働を強いられた.
 (2)製糸業
 日本の製糸業の発展を担ったのは,既にのべたように,伝統的技術と西欧技術を結合した製糸器械であったが,これは依然,女子労働者の手先の熟練に依存するという点で道具の域を脱しないものであった.したがって製糸業の生産形態はマニュファクチュアが一般的であり,なかでも労働者数20-40人の小規模マニュファクチュアが製糸経営の中核的部分を占めた.
 製糸業の女子労働者の給源は,紡績業の女子労働者と同様,農村からの出稼形態をとった小作・貧農の子女であり,その募集地域は産業革命の過程でしだいに拡大した7).雇用契約の片務性,前貸金による労働者の人身拘束性は紡績業のばあいと同様であり,雇主専制的な雇用関係のもとで,女子労働者は等級賃金制にもとづく低賃金と,平均で1日13-14時間,長いときには17-18時間にもおよぶ長時間労働を強いられた.
 (3)織物業
 織物業の生産形態は,一部の産地でマニュファクチュアへの移行がみられたものの,「織元」へ従属する「賃機」という形をとった問屋制家内工業が支配的であった.したがって,織物業の女子労働者の圧倒的多数は農家副業的な家内工業に従事する在村の労働者であった.これに対し,織物マニュファクチュアの女子労働者は,「土着子女ハ家ニ在リテハ賃機ヲ織ル方,工女トナリ長キ年期間羈束セラルヽヨリ利益アリ,加之其土地ニ在リテ機織工女ト言ヘハ一般ニ卑下サルヽノ風アリ」8)という理由から地元で募集することが困難であり,遠隔地の農村から募集された9).しかもこれらの女子労働者は,手織機の使用に熟達するのに4-5年を要したため,「年期制度」にもとづく徒弟(伝習生または生徒)という名目で入職するのが普通であった.この「年期制度」とは「機織伝習生養成ノ名義ノ下ニ年期契約ヲ為スモノニシテ是等伝習生雇入ノ際ニハ一定ノ給料ヲ定メス唯年期終了後年期金ヲ与フヘキコト約スルモノ」10)であり,その年期契約は,先にのべた紡績・製糸業の雇用契約と同様,著しく片務的かつ人身拘束的なものであった11).
 (4)マッチ製造業
 マッチ製造業の生産形態は,軸木の配列の工程に一部日本式の整軸機が導入されていたものの,多くは女子の手作業に依存するマニュファクチュアが支配的であった.ただし,箱張その他の若干の作業は問屋を介した家内工業に依存していた.そして,これらのマニュファクチュア・問屋制家内工業の労働者はいずれも工場付近の都市貧民の子女であった12).
 (5)煙草製造業
 煙草製造業の女子労働者は原葉の選別葉巻,巻詰,箱詰などの工程に集中している.巻詰の労働は「以前ハ全ク手工ニ属シタレトモ近来機械ヲ使用セラレ女工多ク之ニ当ル」13)と記されていることから窺えるように,産業革命の過程でしだいに機械化された.巻詰の機械化は女子の労働の内容を変えただけでなく,賃巻とよばれる問屋制家内工業を衰退させた.
 自家賃巻ノ制ハ一時大二行ハレ某商会ノ如キハ近県四隣ニ出張所若クハ紹介所ヲ設ケテ盛ニ手工的賃巻ヲナサシメシト雖モ近来漸次工場製造ノ方法ヲ採ルニ至リ賃巻ノ制度ハ衰勢ニ向ハントスルモノノ如シ.是レ蓋シ近来「クリンピンク」機械,巻詰機械等ニ依リテ仕事ヲナシ又従前ノ如ク手工的ノ巻詰ヲ必要トセサルニ至レルト煙草界競争ノ結果機械ヲ利用スルニ非スンハ終局ノ勝ヲ制シ難キニ由ルナルベシ14).
 つまり,煙草製造業の生産形態は,産業革命の過程でマニュファクチュア・問屋制家内工業から機械制工業へと急速に推転しつつあったのである.
 煙草製造業の女子労働者は都市に立地する工場の付近から通勤する者が一般であったが,「之ヲ燐寸職工ニ比スレハ其品性一般ニ高キモノノ如シ」15)と記されているように,その給源は都市の貧民より一ランク高い階層,当時の言葉で「細民」と呼ばれた社会階層であったと推察することができる.
 (6)麦稈真田・花=製造業
 麦稈真田・花=製造業の生産形態は農家副業的な家内工業であり,いずれも問屋の支配下にあった.この分野でも一時は工場組織の発達の気運がみられたものの,その後問屋制家内工業が支配的となったのは,「麦稈真田花筵業ノ如キハ外国貿易ノ盛衰如何ニ依リ消長ヲナスモノナルニ目今未外国貿易ニ対スル知識ノ欠如セルト資本ノ豊富ナラサルトニヨリ?〓急激ナル業務ノ伸縮ヲナサヽルヘカラス,然ルニ会社組織ニテハ之ニ応スルノ屈伸力に乏シ」16)という事情が存在したためであった.不安定な海外市場への依存が問屋制家内工業存立の条件となっているのである.
 (7)石炭鉱業
 産業革命期の石炭鉱業は,主要坑道には=揚機が導入されたものの,採炭過程は依然単純な道具を用いた手労働に依存していた.そして,この採炭作業に男は先山,女は後山として夫婦共稼で就労する,家族的な就業形態が産業革命の過程で普及した.したがって石炭産業の女子労働者は,これまでみてきた諸産業の女子労働者とは異なり,青壮年の既婚者がその中心を占めていた.これらの女子労働者は家族を挙げて離村し,炭鉱に住みついた者である.産業革命の過程でこれらの家族持ち鉱夫を統轄する「納屋制度」が成立した.それは,納屋頭がみずから募集した鉱夫を納屋に住まわせ,日常生活の監督をしつつ,作業の指揮をおこなう,納屋頭を媒介とした間接的な雇用・労務管理の体制であり,納屋頭の各種の貸金によって鉱夫は人身拘束的な関係のもとにおかれていた.
 以上,7部門の女子労働者の特徴を概観したが,技術・労働(生産形態)と労働者の給源(労働市場)の2点を基準に整理するならば,産業革命期の女子労働者としてつぎの6類型の労働力群を設定することが可能であろう.
 第一類型: 移植近代産業(機械制大工業)・出稼型(綿紡績業)
 第二類型: マニュファクチュア・出稼型(製糸業,織物業の一部)
 第三類型: 問屋制家内工業・在村型(織物業,麦稈真田・花=製造業)
 第四類型: 機械制工業・都市「細民」型(煙草製造業)
 第五類型: マニュファクチュア・問屋制家内工業・都市貧民型(マッチ製造業)
 第六類型: 重筋労働・挙家離村型(石炭鉱業)
 産業革命期の女子労働者は,近代的な賃金労働者としての自立性に乏しく,全体としていちじるしく前近代的,農民的,都市貧民的な性格を有していたのである.

 Ⅱ 第一次大戦期
 第一次大戦は日本資本主義に未=有の好況をもたらした.ヨーロッパ諸国のアジア市場からの撤退とアメリカの好況によって綿製品や生糸を中心とする輸出が拡大する一方,輸入圧力の消滅によって重化学工業が著しく発達した.機械器具工業製品の自給率は1909(明治42)年の62%から1919(大正8)年の90%に高まり,汽船のそれは100%を越えるに至った17).第一次大戦期におけるこうした重工業の発達によって,全生産額に占める金属機械器具工業生産額の比率は,1914-1919(大正3-8)年の間に14%から19%に増大し,職工数の構成比も11%から17%に上昇した(第1表).これに対し紡織工業の職工数は,同じ期間に,絶対数は増加しているものの,構成比は62%から57%に低下した.しかし紡織工業の生産額の構成比は,輸出の堅調を反映して1919(大正8)年の時点でも51%と,10年前と同じ比率を保ち,1914(大正3)年とくらべると僅かに増加さえしている.第一次大戦期の重工業の発達にもかかわらず,紡織工業は生産額でも職工数でも依然全産業の過半を制していたのである.
 第一次大戦期における産業構造の変化は女子労働者の構成にも影響をおよぼした(第2表).すなわち,紡織工業の相対的な比重低下を反映して,工場労働者全体に占める女子労働者の比率は1914-1919(大正3-8)年の間に9ポイント低下した.しかしそれでもなお,1919(大正8)年の時点で女子労働者は工場労働者全体の54%におよんでいる.
 女子労働者の比率の低下とならんで,第一次大戦期にはその内部構成にもいくつかの注目すべき変化が生じた.第1は,1916(大正5)年の工場法の施行(1911年公布)によって,12歳未満の幼年労働者の使用が禁止された(同法第2条)ことである.同法第2条の但書には「本法施行ノ際十才以上ノ者ヲ引続キ就業セシムル場合ハ此ノ限ニ在ラス」とあるから,就職中の者で実際に使用を禁止されたのは10歳未満の者であった.しかしいずれにせよ,工場法の施行によって幼年労働者の使用が困難となり,産業革命期に少なからぬ比重を占めていた女子幼年者(第3表参照)の整理がすすんだことは確かであろう.
 第2は,織物業における女子労働の変化である.手織機中心の手工業の段階にあった織物業においては,1910年代に入ると力織機の導入が急速にすすみ,第一次大戦開始時までに全体として機械制工業が支配的となった.そして,織物業におけるこうした力織機化は,第一次大戦中の輸出の激増によっていっそう進展することとなったのである.力織機工場への移行は織物業における労働力編成の変容をうながした.女子労働者が集中していた織布部門の比重が相対的に低下する一方,男子労働者中心の染色・形付・整理部門の比重が高まり,第2表の織物業(A)にみられるごとく,女子労働者の比率は産業革命期の87%から,1914(大正3)年85%,1919(大正8)年82%と低下した.そればかりでなく,力織機の導入による手工的熟練の分解は,手工的熟練を基礎に成立していた「年期制度」を崩壊させることとなった.それは何よりも「年期制度」のもっとも本質的な条件をなす「年期金」が明確な賃金に転化したことに示される.この点で決定的に重要なことは,「年期制度」に法的規制が加えられたことであろう.既述のように工場法の施行によって12歳未満の幼年労働者の使用が禁止されたこと,また工場法施行令(1916年)の第22条で「職工ニ給与スル賃金ハ通貨ヲ以テ毎月一回以上之ヲ支給スヘシ」と定められたことは,幼年女子の徒弟の使用と,現物給付(満期後の「年期金」の支給)のうえに成り立っていた「年期制度」を決定的に破壊するものとなった18).
 大戦期の変化で注目すべき第3は,金属機械器具工業の女子労働者がはじめて1万人を越え(1916年),当該部門における女子労働者の比率も,産業革命期の3-4%から1919(大正8)年には6%強にまで,僅かではあるが増大したことである.大戦期の日本経済の活況による労働需要の急増によって,重工業部門にもかつてない規模で女子労働者が吸収されたのである.当時の一調査報告は,機械器具工業における女子労働者の登場に注目し,「電動機製造ノ際Coilヲ巻クガ如キ其他電気絶縁体製造ノ如キ綿密ナル仕事ハ女子ハ男子ヨリモ丁寧ニシテ面倒ガラザル長所アリ」19)と記している.機械器具工業における女子労働者は,新興の電機工業を中心に半熟練的な職種で使用されたと推定してよいであろう.じじつ,当時の日本の代表的な重工業企業であった三菱長崎造船所においては1916(大正5)年以降女子労働者が増加するが(1918年449人),人夫をのぞけば,その内の圧倒的多数が電動機製造に従事する電工職であった20).大戦期に新たに登場した機械器具工業の女子労働者は,人数的にはネグリジブルな存在であったが,後述する第二次大戦下の女子労働のプリミティヴな姿が現出したという点で,十分注目に値しよう.

 Ⅲ 両大戦間期
 1920(大正9)年春,世界に先駆けて反動恐慌が勃発した.これ以降日本は,震災恐慌(1923年),金融恐慌(1927年)と,数年おきに恐慌を経験し,資本主義の相対的安定をみないまま,昭和恐慌(1930年)に突入していく.しかし,こうした1920年代の慢性的不況下においても,都市化・電力化関連の投資が増加し,これに主導されて電力業,電力関連産業(電機,電線),有機合成化学工業,自動車工業などの新興重化学工業が成長した.だが,こうした新興重化学工業の成長にもかかわらず,1920年代の重化学工業は,第一次大戦の終了にともなうヨーロッパ製品のアジア市場への復帰による輸入圧力の増大と,ワシントン軍縮による軍需の縮小によって,全体的に見れば,その発展を低位におしとどめられた.事実,金属機械器具工業の構成比は,1919-1929(大正8-昭和4)年に生産額では19%に停滞し,職工数では17%から16%に僅かに減少しており,化学工業も同じ期間にほぼ同様の推移を示している(第1表).一方,綿工業と製糸業は,前者は綿布のアジア新市場への輸出の伸びに主導されて,後者は1920年代のアメリカ経済の繁栄による対米輸出の伸びに主導されて,生産を増加させ,慢性不況下における数少ない好況部門となった.その結果,紡織工業の構成比は1920年代後半に生産額で減少するものの,職工数では1920年代を通じて56,57%と高い水準を維持した(第1表).こうした紡織工業中心の産業構造の存続を反映して,工場労働者全体に占める女子労働者の比率も,1920年代には1919(大正8)年とほぼ同水準の53%におよんだ(第2表).
 紡織工業中心の産業構造を変革する画期となったのは,昭和恐慌と満州事変であった.対米輸出に依存して発展してきた製糸業は昭和恐慌によって未=有の打撃を蒙るが,この日本の最大の外貨獲得産業の動揺,凋落は国際収支均衡を決定的に破壊することによって金輸出再禁止(1931年12月)を必然化する一因となった.そしてこの金輸出再禁止は為替相場の大幅な下落をもたらし,重化学工業の自給率を決定的に高めた.また,1931(昭和6)年12月に大蔵大臣に就任した高橋是清が推進した財政政策,とくに軍事支出の拡大は満州事変直後の重化学工業国内市場に一時的な拡大衝撃を与え,その後の重化学工業成長の起動力となった.さらに満州経済開発のための対満投資の拡大は,重化学工業製品の満州向け輸出を急増させた21).以上のようないくつかの要因が複合的に結びつくことによって,重化学工業は1930年代に文字どおり日本資本主義の基軸産業としてその構成的比率を急速に高めることとなった(第1表).生産額で金属機械器具工業が紡織工業を凌駕するのは1936(昭和11)年であり,まさにこの時点で産業構造の型は紡績工業中心から重工業中心へと決定的な転換をとげたのである.こうした産業構造の変容を反映して,工場労働者全体に占める女子労働者の比率も,1933(昭和8)年にはじめて50%を割り,1935(昭和10)年には46%にまで低下した(第2表).
 両大戦間期における上述のような産業構造のもとで,産業革命期に創出された女子労働者の諸類型の解体と変容がすすんだ.現在の研究水準では,6類型のすべてについてその全容を明らかにすることはできないので,ここでは基軸となる綿紡績業,製糸業,織物業,石炭鉱業の4部門について,その様相を簡単に考察することにしよう.
(1)綿紡績業
 1923(大正12)年に改正工場法が公布され(1926年施行),深夜業禁止の猶予期間が工場法施行後15年間から改正法施行後3年間に短縮されたことは,女子の深夜労働に依存して急成長をとげてきた綿紡績業の合理化のインセンティヴをつよめることとなった.綿紡績業の合理化は,設備増設による女工受持錘数の増加という労働強化の形態をとったが,昭和恐慌前後の時期から設備の改良による技術的合理化が進行した.動力電化を基礎とする精紡機の単独運転の実現,国産リングの性能向上とスピンドル設計上の進化によるスピンドル回転数の増加,ハイ・ドラフト装置の導入による粗紡3工程の短縮,機械連結運転による混・打綿工程のワンプロセス化などがそれである22).産業革命期にすでにミュール機からリング機への転換をとげた日本の綿紡績業においては精紡機の技術的改良の余地はきわめて乏しく,この時期の技術的合理化はしたがって精紡以前の工程に集中した.こうした技術的合理化の過程で若年女子労働者の比率はさらに高まった.実際,1929(昭和4)年まで78%前後で停滞的に推移してきた女子労働者の比率は,1935(昭和10)年には86%に増大しており(第2表),女子労働者中の20歳未満者の比率も,1927(昭和2)年64%,1930(昭和5)年67%,1933(昭和8)年72%と上昇した23).こうした若年女子労働者の比率の増大は粗紡工程や混・打綿工程など技術的合理化がすすんだ職種で著しい24).技術的合理化を背景に女子労働による男子労働の代替がいっそうすすんだのである.
 綿紡績業における合理化は同時にまた,これに適合的な性質の労働力を必要とし,雇用に関する経営側の主要な関心を従来の無差別的採用から適性検査による労働者の精選へと次第に移行させた25).そして,こうした経営側の雇用管理の強化は,前貸金にもとづく人身拘束的な雇用関係を後退させた.じじつ,1927(昭和2)年の34の紡績工場に関する調査によれば,前借金を受けた女子労働者が全女子労働者の30%を越す工場は5工場にすぎず,11工場は前借金を受けた女子労働者が皆無であった26).
 (2)製糸業
 1920年代の製糸業の技術的合理化は,一代交雑種の全国普及による蚕種統一,火熱式から汽熱式への繭乾方式の転換,煮繰兼業から分業への移行など,おおむね部分的,微温的なものであった.しかし昭和恐慌以降,アメリカの生糸需要が縮小するなかで,織物から靴下への生糸需要の転換が決定的となったため,靴下用の高品位・細繊度糸を繰糸することが可能な多条繰糸機が急速に普及するに至った27).日本の製糸業は皮肉にもその凋落の過程でマニュファクチュアから機械制工場の段階へと移行することとなったのである. 1920年代の製糸業の好況的発展を支えた女子労働者は,産業革命期と同様,小作・貧農の女子の出稼者であった28).しかしその雇用関係は,一連の労働保護立法によって,少なくとも形式的には著しく近代化された.工場法施行規則(1916年)の違約金禁止規定によって,すでに第一次大戦中には,雇用契約書から前貸金に関する事項が分離され,雇用契約はたんなる就業についての合意契約という形式を整えていた.そして,職工50人以上の工場主に就業規則の作成・届出の義務を課した1926(大正15)年の工場法施行令の改正(第27条の4)によって,1920年代後半にはこの就業規則が雇用条件として具体的に明示されるようになった29).こうして,労働力拘束的な就労義務のみが明記された産業革命期の片務的な雇用契約は姿を消し,雇用契約は次第に近代的形態を整えるに至ったのである.
 (3)織物業
 綿織物業では,1920年代に国内向けの小幅織物市場が停滞するなかで,輸出向け広幅織物への製品転換がすすみ,広幅力織機が導入された.じじつ,綿織物業の小幅力織機台数は1924(大正13)年以降減少に向かうのに対し,広幅力織機台数は1920年代一貫して増加し,1925(大正14)年には後者が前者を凌駕するに至った30).しかし,広幅力織機の導入による輸出向け広幅織物への製品転換に成功したのは特定の少数の産地であり,その対極にはこうした製品の転換をなしえず,停滞ないし衰退した多数の産地が存在していた31).1920年代の綿織物労働者の減少(第1表)は,こうした諸産地の再編成を反映したものである.そして第一次大戦期にはじまっていた「年期制度」の解体は,この過程でいっそう広く深く進行することとなった.
 (4)石炭鉱業
 1928(昭和3)年の鉱夫労役扶助規則の改正による保護鉱夫(女子・幼年鉱夫)の深夜業・坑内労働の禁止は,石炭鉱業のドラスティックな技術的合理化を推しすすめる契機となった.夫婦を中心とする家族的就業形態の坑内労働に依存してきた石炭鉱業は,女子鉱夫の排除を可能とするような新たな生産技術体系の確立にせまられ,昭和恐慌前後の時期に,長壁式採炭法や採炭機械や切羽運搬機などの新技術を導入した32).石炭鉱業はツルハシやスコップなどの道具に依存した手労働の段階から機械採炭の段階へと移行しつつあった.こうした新技術の導入によって女子鉱夫は整理され,石炭鉱業の女子労働者比率は,1925(大正14)年の26%から1929(昭和4)年の22%,1935(昭和10)年の10%に低下した(第2表).
 石炭鉱業における新技術の導入は他方,「納屋制度」の存立基盤を掘り崩した.長壁式採炭法の導入による共同作業の実施と採炭の機械化は,一丁切羽の孤立分散的な手労働のうえに成り立っていた納屋頭の作業の指揮監督機能を無力化する一方,労働需要を質的に高度化させ,労働者の無差別募集を基本とした納屋頭の鉱夫募集機能を低下させた.こうして1920年代末には九州の主要な炭鉱で納屋制度がつぎつぎに廃止されるに至った33).
 以上のごとく,労働保護立法による雇用形態の近代化と,新技術の導入による労働需要の質的な高度化によって,産業革命期の女子労働者の諸類型は,両大戦間期とくに昭和恐慌前後の時期に解体(石炭鉱業),ないし重大な変質(綿紡績業,製糸業,織物業)をとげるに至った.

 Ⅳ 戦時期
 1937(昭和12)年7月の日中戦争の勃発は,経済に対する政府の全面的な統制による戦時経済への移行の契機となった.戦時経済統制は,金融面からの投資規制と貿易面からの生産手段購入規制をはかった1937(昭和12)年9月の臨時資金調整法と輸出入品等臨時措置法の制定・公布によって開始され,人的・物的資源を戦争遂行のために動員することを目的とした国家総動員法の成立(1938年4月)によって,一応の完成をみた.戦時経済統制の中心的な目標は,重工業生産力の国際的な劣位を克服し,近代的総力戦を闘い抜くための,軍需を中心とした産業構成の急速な高度化にあった.実際,上の戦時三法をはじめとする一連の統制立法は,軍需産業に対する膨大な財政資金の撒布とあいまって,重化学工業化をいっそう進展せしめ,第1表のごとく,1940(昭和15)年には金属機械器具工業の構成比は生産額で49%,職工数で45%に達した.一方,紡織工業の構成比は同年には生産額で17%,職工数で26%にまで低下した.
 戦時期のこうした重化学工業化の急速な進展によって,工場労働者全体に占める女子労働者の比率は,1940(昭和15)年には34%とさらに低下した.このように女子労働者比率が低下するなかで,戦時期には女子労働者の内部構成に,新しい,決定的とも言える変化が生じた.それは金属機械器具工業の女子労働者の急増である.同部門の女子労働者は1938(昭和13)年に10万人を越え,1940(昭和15)年には17万5000人,翌1941(昭和16)年には20万人を突破し,1940(昭和15)年には製糸業の女子労働者を,1941(昭和16)年には紡績業の女子労働者を凌駕するに至った.同部門の女子労働者比率も1939(昭和14)年にはじめて10%を越えるに至った.
第4表 産業別・年齢別女子労働者の構成(金属機械工業,1942年3月末現在)
これら金属機械器具工業の女子労働者は,第4表から知られるように,電気機械器具製造業と自動車・航空機製造業に多く,電気機械器具製造業と計測器・精密機械製造業では女子労働者の比率が21-25%におよんでいる.女子労働者はこれらの産業で比較的単純な半熟練的ないし不熟練的作業に従事していたと考えてよい.じじつ,1939(昭和14)年10月,厚生省職業部長および労働局長より地方長官宛に発せられた「労務動員計画実施ニ伴フ女子労務者ノ就職ニ関スル件」という通牒では,重工業において女子が就業するのに適当なものとして,「比較的単純簡易ナル作業」,「手指ヲ主トスル軽筋作業」,「半熟練的作業又ハ非熟練的作業」の三つをあげ,製図,鋳物(芯取20瓩以上ノ型迄),旋盤(六呎以下),タレット盤(小型),フライス盤(単純研削),プレス盤(ハンドプレス,小型),機械組立(小物),仕上(小物),電機組立(小物),巻線,絶縁,電線被装,検査(小物),分析の14職種が女子に「適当ナル職種」として例示されていた34).また,警視庁管下の45の機械工場における女子労働者の職種別構成は第5表のごとくである.
 金属機械器具工業における上述のような女子労働者の急増をもたらしたのは,戦時期の労働需給の逼迫,ことに応召による男子労働力の絶対的不足であったが,こうした男子労働力の不足に対処するための一連の勤労動員政策が女子労働による男子労働の代替を推しすすめる契機となったことに注目すべきであろう.
第5表 警視庁管下45機械工場における女子労働者の職種別構成(人)
その端緒は,先にのべた1939(昭和14)年10月の厚生省職業部長および労働局長の通牒であった.1941(昭和16)年11月には「国民勤労報国協力令」が公布され,国家総動員業務に協力するために国民勤労報国隊を編成することとなったが,報国隊に参加すべき対象には14歳以上25歳未満の女子が含まれた.勤労報国隊による女子の動員数は1942(昭和17)年には134万3000人,1944(昭和19)年には186万8000人におよんだ35).また1943(昭和18)年1月の「生産増強勤労緊急対策要綱」(閣議決定)では,女子によって代替し得る業種・職種について女子使用の標準率を設定することが定められ,男子の就業が制限・禁止されるに至った36).さらに同年9月には厚生省次官会議で「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」が決定され,主として女子挺身隊の結成により航空機関係工場,政府作業庁,男子就業の制限・禁止によって女子の補充を要する職場への女子の動員がおこなわれることとなった37).1944(昭和19)年に入ると女子の勤労動員はいっそう強化された.1月の「緊急国民動員対策要綱」(閣議決定)では女子の勤労動員を促進拡大するために,挺身隊制度の運用を強化することや,各産業別・事業所別に女子所要目標率を明示することが決められ38),また,2月の「決戦非常措置要綱」(閣議決定)と3月の「女子挺身隊制度強化方策要綱」(同上)によって女子挺身隊への強制加入が実施されることとなった39).8月の「女子挺身勤労令」はこうした女子挺身隊に法的根拠を与えるものであった=40).さらに同月,「男子従業員ノ配置規正ニ関スル件」が閣議決定され,男子の雇入を制限するために,第6表のような業種別最低女子使用率が定められた.
第6表 業種別最低女子使用率(1944年決定)
 おおよそ以上のような勤労動員政策によって,戦争末期には膨大な数の女子労働者が重工業部門で就労していたと考えられる.では,戦時期にその比重を決定的に高めたこれらの重工業女子労働者は,どのような特徴を有していたのであろうか.
 まずその年齢構成をみると,第4表のごとく,46%が20歳未満であり,電気機械器具製造業,自動車・航空機製造業,計測器・精密機械製造業の3部門では20歳未満が50%を越えている.20-59歳の層もその多くは20歳台前半の若年者と考えて差し支えないであろう.実際,1939(昭和14)年の厚生省調査によれば,機械工場の女子労働者12万3000人のうち,25歳以上は全体の18.4%にすぎなかった41).こうした若年女子労働者の比重の高さは,先にのべた勤労動員政策が,日本の伝統的な家族制度を墨守しようとする政府の基本的立場に制約されていたという事情と無縁ではない.じじつ,1941(昭和16)年11月の「国民勤労報国協力令」は,報国隊に参加すべき女子から「妻及届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル女子」を除外していたし,1944(昭和19)年1月の「緊急国民動員方策要綱」も女子の勤労動員について「我国ノ家族制度並ニ女子ノ特性ト民族力強化ノ必要トヲ勘案シツツ女子ノ勤労動員ヲ促進拡大スルモノトスル」と限定を付せざるをえなかった.また同年3月の「女子挺身隊制度強化方策要綱」も,女子挺身隊に強制加入させる対象者のなかから「家庭ノ根軸タル者」を除外していた.このように,女子の勤労動員政策は,日本の伝統的な家族制度をささえる既婚女子を対象の外に置いていたといってよい.先にみた若年女子労働者の比重の圧倒的高さも,こうした文脈のなかで理解する必要があろう.
 女子の労働力構成のなかで若年者が中心を占めるという点では,戦時期の重工業女子労働者も,それ以前の紡織工業の女子労働者も共通した性格を有していたが,学歴構成と社会的給源の2点で両者には際立った違いをみとめることができる.戦時期の重工業女子労働者の学歴構成をしめす資料がないので,1936(昭和11)年の調査資料(第7表)で今のところ満足するしかないが,これを見ると,重工業女子労働者の相対的高学歴,紡織工業女子労働者の相対的低学歴という対照性を明瞭に看取することができる.
第7表 女子労働者の学歴構成(1936年)
機械器具製造業,造船業・運搬用具製造業,精巧工業の女子労働者では,高等小学校卒業以上の学歴を有するものが全体の55%前後におよんでいるのに対し,紡織工業の女子労働者では同学歴のものは僅か20%にすぎないのである.重工業女子労働者の学歴構成が戦時期に入って急速に変化したとは考えにくいから,その相対的高学歴は戦時期にも基本的にあてはまると考えてよいであろう.重工業女子労働者と紡織工業女子労働者のこうした学歴構成の著しい差異は,前者の給源が後者のそれより社会的に上層にあったことを示唆している.そこで,戦時期の重工業女子労働者の給源を示すと第8表のごとくである.「前職アル者」すなわち就業前なんらかの職業についていた者の前職は,工業従業者が38%,事務従業者が14%で,両者合わせて52%におよんでいるのにたいし,農業従事者は僅か14%にすぎない.
第8表 過去6ヵ月間の雇入女子労務者(金属・機械工業)の前職(世帯主職業)構成
「前職ナキ者」すなわち就業前なんの職業にもついていなかった者の世帯主の職業も,工業従事者と事務従事者が合わせて36%と高く,農業従事者は14%にすぎない.このようにみると,戦時期の重工業女子労働者の主要な給源は,都市労働者にあったといってよいであろう.従来の紡織工業の女子労働者の給源が地方の農村にあったことを考えれば,戦時期の重工業女子労働者は,給源の点でもまったく新しいタイプの女子労働者に属していたのである.

 むすび:女子労働の戦前と戦後
 以上,産業革命期から戦時期に至る戦前日本の女子労働の歴史的展開過程を概観した.産業革命期に編成された女子労働力群の諸型は両大戦間期に解体(石炭鉱業)・変容(綿紡績業,製糸業,織物業)し,戦時期には重工業・都市労働者型とでもいうべき新しいタイプの女子労働者が出現した.われわれの考察の射程を戦後にまで広げるならば,この新タイプの女子労働者は戦後の高度経済成長期に登場した金属・機械産業の若年女子労働者の祖型をなすものであった.この点で,戦時期と戦後期の女子労働のあいだに,一つの連続的側面を見出すことが可能であろう.しかし,すでに本章で指摘したように,労働力の不足が深刻化した戦時期においても,既婚の中高年女子は日本の伝統的な家族制度に制約されて容易に労働力化しなかった.戦後日本の高度経済成長は,戦後改革によるこの古い家族制度の解体を史的前提とし,耐久消費財(家庭電化製品)産業の急成長による家事労働の省力化などを条件として,既婚の中高年女子を大量に労働市場に引き入れた.そしてまさにこの点にこそ,戦時期と戦後期の女子労働の決定的な断絶が存在していたのである.ひるがえって考えれば,このことは,労働市場への女子の参入条件をみる際,当該国の社会的規範なり社会構造のあり方や,家事労働を省力化する経済の成熟度(耐久消費財=家庭電化製品産業の発達度)が決定的に重要であることをわれわれに示唆しているといえよう.

[注]
1)農商務省商工局編『職工事情』第2巻,1903年,129,186ページ.
2)産業革命期の1902年の時点における日本の輸出製品は,1位生糸(対輸出総額比28.3%),2位絹織物(10.3%),3位綿糸(7.3%),4位石炭(6.4%),5位銅(3.9%),6位茶(3.9%),7位マッチ(3.0%)の順であった(『横浜市史』資料編2,1962年).同年の麦稈真田の輸出額は少ないが,輸出依存度(輸出額÷生産額)は100%を越えている.
3)隅谷三喜男・小林謙一・兵藤釗『日本資本主義と労働問題』,東京大学出版会,1967年,91ページ.
4)高村直助『日本紡績業史序説』上,塙書房,1971年,135,303ページ.
5)前掲『職工事情』第1巻,65ページ.
6)高村,前掲書,339ページ.
7)石井寛治『日本蚕糸業史分析』,東京大学出版会,1972年,261-64ページ.
8)前掲『職工事情』第1巻,240ページ.
9)同上書,240ページ.
10)同上書,285ページ.
11)同上書,252-60ページ.
12)前掲『職工事情』第2巻,129,136ページ.
13)同上書,187ページ.
14)同上書,188ページ.
15)同上書,188ページ.
16)同上書,260ページ.
17)高村直助『日本資本主義史論―産業資本・帝国主義・独占資本―』,ミネルヴァ書房,1980年,表Ⅷ-5.
18)織物業における「年期制度」の崩壊について詳しくは,古庄正「足利織物業の展開と農村構造―『型』の編成とその崩壊―」,『土地制度史学』第86号,1980年,13-5ページ,参照.
19)白木泰治『造船所労働状態調査報告書』(東京高等商業学校,1919年夏期修学旅行報告),23ページ.
20)三菱長崎造船所『年報』,大正5-8年.
21)以上詳しくは,宇野弘蔵監修『講座帝国主義の研究』第6巻,青木書店,1973年,第3章,および橋本寿朗『大恐慌期の日本資本主義』,東京大学出版会,1984年,第4章,参照.
22)守屋典郎『紡績生産費分析』増補改訂版,御茶の水書房,1973年,第2章第2節.泉武夫「大正期綿紡の労働事情と合理化」,『専修経済学論集』第10巻第2号,1976年.
23)内閣統計局『労働統計実地調査報告』,1927,1930,1933年.
24)同上.
25)泉武夫,前掲論文,19-21ページ.
26)中央職業紹介事務局『紡績労働婦人調査』,1929年.
27)揖西光速編『繊維』上(現代日本産業発達史ⅩⅠ),交詢社出版局,1964年,471,582-83ページ.清川雪彦「製糸技術の普及伝播について―多条操糸機の場合―」,一橋大学『経済研究』第28巻4号,1977年
28)靭負みはる「第一次大戦後の製糸女工の析出基盤―五加村の農家経営と女工労働―」,大江志乃夫編『日本ファシズムの形成と農村』,校倉書房,1978年,第2章,参照.
29)以上詳しくは,大石嘉一郎「雇傭契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」,『社会科学研究』第24巻第2号,1972年,参照.
30)『農商務統計表』,『商工省統計表』による.
31)阿部武司「両大戦間泉南綿織物業の発展」,『土地制度史学』第88号,1980年,18ページ.
32)『日本鉱業発達史』中巻,鉱山懇話会,1932年,第4編第1章第8節.
33)市原亮平・田中光夫「炭鉱納屋制度の崩壊(2)」,『日本労働協会雑誌』64号,1964年,30-2ページ.田中直樹「筑豊石炭礦業発達史概要」,『麻生百年史』寄稿篇,1975年,87ページ.
34)労働省『労働行政史』第1巻,1961年,927ページ.
35)同上,979ページ.
36)同上,1022ページ.
37)同上,1112ページ.
38)同上,1092ページ.
39)同上,1013,1023ページ.
40)同上,1089ページ.
41)昭和研究会『労働新体制研究』,東洋経済新報社,1941年,237ページ.
[西成田豊]