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技術革新と女子労働

Title: 第1章:製糸技術の発展と女子労働
Author: 中村 政則/コラード モルテニ
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1985年
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第1章:製糸技術の発展と女子労働

はじめに

明治維新以降の工業化過程における日本製糸技術は,紡績業などの移植型近代産業と違って,江戸時代以来の伝統的繰糸技術と洋式技術とを巧みに結合させて,独自の発展をとげた.いま試みに,明治維新から第二次世界大戦終結に至るまでを時期区分するなら,次のように区分することができる.
 1 洋式技術の導入―1870年代前半
 2 器械製糸技術の改良・定着―1870年代後半から1900年代
 3 多条繰糸機の発明・実用化―1900年代初頭から第二次世界大戦終結
 これにつづいて,第4期として自動繰糸機の導入期を設定できるが,これは敗戦後,とくに1950年代のことに属するので,本章では省略することとしたい.
 一般的にいって,技術の導入・定着の過程は,その国の歴史的・社会的条件と切り離して論じられないが,製糸技術の導入・定着の過程はとくに次の3点が重視されなければならない.第1は,製糸業はもともとわが国古来から存在する伝統的在来産業であるため,洋式技術導入前の技術水準を確定しておく必要がある.第2に,伝統技術の基礎の上にどのような洋式技術が導入され,それがどのように改良されて日本式の技術として普及・定着していったかである.製糸業における洋式技術の導入は単なる模倣的輸入ではなかった.のちにのべるように政府は官営製糸場を創設するにあたって,フランス式ないしイタリア式製糸技術を取り入れたが,その場合でも,日本の風土・技術的水準を考慮しつつ洋式技術を導入した.しかも官営製糸場の技術が民間企業へ波及していく過程では,さらに洋式技術の日本的改良がつみ重ねられている.とくに1870年代以降の製糸業の発展を担ったのは,主として中位の農民出身の製糸家であったから資金力も乏しく,工場や設備に多額の資本を投ずる余裕はなかった.少ない資金で,洋式技術にいかに日本的改良を加えるか,これが製糸技術の発展過程では最大の特徴をなしていたのである.第3に,製糸技術の繊細さ,矮小性のゆえに,製糸業は繰糸工女の指先の熟練に依存する度合が,紡績業などに比べてはるかに大きい.従って,製糸業においては,技術の水準が労働力の質をきめると同時に,労働力の質が技術の水準をきめるという関係が,最もはっきりと現れている.たとえば,次のような言葉は製糸技術の本質を的確に表現したものと言えよう.
 「そもそも製糸のことたる機械の効用に訴うるの範囲極めて少なく,其大部分は工女の技倆にまたざるべからず.故に之が作業の効果は器械の精良に求めんよりも,'主として技術の巧妙に求むるの遥かに勝れるに如かざるなり」1),「製糸機械に於ては工女は機械の一部分たる観がある」2)
 この製糸技術の特殊性こそいわゆる“女工哀史”を生みだす基盤であった.本章が,製糸技術の移転・変容とともに製糸労働者の分析に大きなウエイトを置いたのはそのためである.
 以下,本論に入るに先だって,繭から生糸をつくりだす製造工程を簡単に説明しておくことが読者にとっても便宜であろう.日本の製糸業は,1910年代から1920年代に最盛期に達するが,その頃の製造工程は,(1)貯繭,(2)選繭,(3)煮繭,(4)繰糸,(5)揚返し,(6)仕上の六つの工程からなっていた3).貯繭は,繭の中の蛾が繭に穴をあけて出てこないように蛹を殺す過程(殺蛹[さつよう])と,繭にカビが生じないように乾燥したあと,温度・湿度を調節して倉庫に貯蔵しておく過程とをふくむ.選繭は汚れ繭,玉繭(蛾が2匹入っている繭)などの不良繭を除く作業である.煮繭は,低い温度の湯の中で長時間繭を煮て,糸のほぐれをよくする過程である.繭層の表面だけでなく,内部までほぐれるようにすることが,この作業では大切である.繰糸は煮繭鍋の中で煮た繭を小さなほうき(箒)でなぜて,糸口をさぐりだす.これを索緒という.次に,4,5粒の繭の糸口を寄せ集めて,より掛け装置にかけて一本の糸とする.この糸を繰枠に巻取る工程を巻取りという.繭糸は終わりに近づくと細くなり,切れることが多い.もし繭糸が切れたまま繰糸をつづけると,糸条の太さが不揃いになる.従って,糸の太さを一定に保つためには,工女は細くなった生糸へ繭糸をつけ加える糸つなぎの作業を小枠の回転をとめることなく,間断なくおこなわなければならない.この作業を接緒または添緒[てんちょ]と呼ぶ.繰糸工女の労働の約50%は,この接緒作業であった4).繰糸は生糸の製造工程の中でも最も重要な基本工程であり,そのため,のちにのべるように製糸技術の改良への努力は接緒器の改良・発明に集中していくことになる.最後の仕上は,小枠に巻取った生糸を大枠に巻きかえしたあと,大枠からはずして綛[かせ]糸とする.綛糸は仕揚[しあげ]場へ持込まれ,糸の乱れを防ぐためによじって捻[ねじれ]糸とし,検査と格付をしたうえで,荷造りをし,商品となる.
 以上から明らかなように繭から生糸をつくる工程は,いくつもの段階にわかれており,繊細な指先の熟練労働を必要としたそのなかでも,繰糸工程が最も基本的な工程である.以下の考察でも,この繰糸工程における技術変化に注意をはらうことにしたい.

 Ⅰ 製糸技術の発展
 (1)伝統的製糸技術
 1859(安政6)年の開港以後,日本の生糸輸出は飛躍的に伸びた.開港前に日本の製糸技術は,かなりの程度発展していたが,江戸時代は主として胴繰りと手挽きの段階であった.胴繰りとは,1803(享和3)年の『養蚕秘録』によれば,煮繭鍋の一端に婦人の髪の毛または馬の毛を輪にしたものをとりつけ,幾粒かの繭からとった糸を合せて,この輪をくぐらせる.この糸を左手先で案内しながら,右手で円筒形の胴を回転しながら,それに巻き取っていく方法である.これが手挽きへ発展する.胴繰りの胴にあたる部分が木の枠に変わり,その端に取手がつけられて右手で回転できるようになった.しかし手挽きでは,右手は小枠を回し,左手はよりをかけているため,運転中に接緒することはできない.手挽きの低能率はここに原因があった.手挽きは,いわば自給自足的な生産具であって,開港後の急激な生糸需要の増大に対応できない.そこで開港後に急速に普及したのが座繰りである.手挽きでは巻取枠軸を直接手回しする
が,座繰りでは手回し軸と枠軸とが分離し,手回し軸の回転がベルトまたは歯車によって増速されるようになった.手回し軸と枠軸の回転を伝導する装置を奥州では調車と紐,上州では歯車でおこない,それぞれ奥州座繰り,上州座繰りと呼んだ.この座繰り器は絡交装置(糸を左右に振って,巻取枠に綾[あや]をなして均一に巻きとらせる装置)がついているため,片手が綾ふり作業から解放されることになるので手挽きより能率がよく,開港後,各地に急速に拡大した.たとえば上州座繰り器は,1860-1863(万延1-文久3)年に信州に伝えられ,たちまち全信州に普及したといわれる5).しかしながら,座繰り器は,繰糸工女が自分で糸枠を回転させながら,接緒する方式であったので,能率は悪く,粗製乱造になりがちであった.デニールの不斉一,類節[ふし]の多さなどのために輸出生糸としての評価は低かったのである.この伝統的製糸技術の欠陥を克服するためにとられたのが,明治政府による洋式製糸技術の導入であった.
 (2)洋式製糸技術の導入
 明治初期における洋式製糸技術の導入には二つの流れがあった.一つはフランス式製糸技術を導入した富岡製糸場であり,もう一つはイタリア式製糸技術を導入した前橋藩営製糸場と小野組築地製糸場である.このうち本格的な器械製糸揚として重要な役割を演じたのは,官営の富岡製糸場である.この富岡製糸場設立の目的について,渋沢栄一は次のように述べている.
 「其の頃我国から輸出した生糸は伊太利で出来るような精良の生糸ではなかった.総て皆座繰取であって,欧羅巴の機械取はない,故に「デニール」の=はぬ生糸のみであるから需要地に於て僅に緯糸として消費せらるゝに過ぎない,之では一国の重要輸出品として其の販路を拡張する訳に行かぬから是非伊仏のやうに器械製糸に改めて以て経糸として立派の生糸を産出する様にしなければならぬと云ふので,先づ富岡製糸場を設立する事になっ......たのである」6)
 富岡製糸場の設計・建設にあたって,明治政府は,フランス人ポール・ブリューナを1870(明治3)年6月に雇い入れ,約2年の歳月と総工費19万8,572円を費やして,近代的製糸場を完成した.富岡製糸場は,レンガ造りの洋式の大規模な建物で,合計17棟.そのなかには繭倉庫,ボイラー室,燥繭所,繰糸揚,揚返し場,工女寄宿舎,フランス人用官舎が設けられていた.繰糸機は300人繰りであって,前橋製糸揚の12人繰り,築地製糸揚の60人繰りとくらべれば,桁ちがいに大きかった.当時の新聞記事は「近代我国ニ三大局ト称セシハ,大阪造幣寮,横須賀造船所,富岡製糸場ナリ.東洋諸国ニテハ稀ナル事業ナリト,西洋人モシバシバ賞賛セリ」と伝えている7).
 では富岡製糸場の製糸技術は,伝統的な座繰り技術とどのような点で違っていたであろうか.第1表は,座繰りと築地・富岡製糸場の技術との相違を示したものである.
第1表 座繰りと機械繰り
在来技術との根本的な違いは,第1に糸枠の回転方法が繰糸工の手から蒸気機関に変わったこと,第2に煮繭鍋と繰糸鍋が分離されたこと,第3により掛け装置を設置して,糸条と糸条とをからみ合せ,両者の摩擦で水分をしぼりとり,残存セリシンを接着剤にして1本の生糸に抱合させたことである8).さらに繰糸工程以外でも,新しい技術が取り入れられた.たとえば殺蛹法および乾繭法である.「江戸時代には生繭を太陽にさらし,その暖気で蛹を殺した.日乾法と呼ばれていたがブリューナはこれを採用せず,いわゆる蒸殺法によった.日乾法では繭の質が悪くなる.また暖気不足のときは蛹が容易に死なず,蛾や蛆を発生しやすい.蒸殺法では繭を短時間容器中で高温蒸気にさらし,あとすぐ乾燥させる.富岡以降は日本中が一挙に蒸殺法へと転じた」9)
 以上のように,富岡製糸場の製糸技術は道具の段階から機械への転化を示すものであったが,フランスの製糸方法をそのまま取り入れたのではなく,日本の風土・繭質・技術的伝統などを考慮し,設備や工程の面でいくつかの改訂を加えていたことは注目される10).たとえば,ヨーロッパはすべて大枠直繰式であるが,富岡製糸場では小枠再繰式を採用し,揚返し機を設置した.また,基本工程に属する接緒がいぜんとして工女の手先に依存していたことも,見のがしてはならないであろう.
 工場・機械・設備などは比較的スムースに導入できたものの、富岡製糸場が直面した最大の問題は,工女の募集難であった.徳川封建体制が崩壊してからわずか5,6年しか経っていない時であったから,民衆のあいだには封建思想が根強く存在し,反文明開化の感情が少なからずひろまっていた.明治政府ははじめ,入間[いるま](東京)・群馬・栃木・埼玉・長野の5県に工女募集の布告をだしたが,50-60名が応募しただけであった.「毛唐人に教えてもらうのは,けがらわしい」「石炭の煙が毒になる」「生血をしぼられる,現に赤い血(red wineのこと)を毎日のんでいる」などの=が流布され,工女募集に応ずるものがきわめて少なかったのである.そのため,政府は1872(明治5)年5月,「製糸告諭書」を全国に布告し,さらに同年9月にも「富岡製糸工場繰糸伝習工女雇入心得」を北海道以下10県(水沢,岩手,宮城,秋田,磐城[いわき],山形,若松,福島,置賜[おいたま],酒田)に発布して,デマを打消し,工女の募集につとめたが,応募する者がなかった.政府はやむなく旧士族階級の娘たちを雇い入れ,よくやく100余名に達したが,それでも予定の4分の1以下であった.そこで,初代工場長の尾高惇忠ら関係官吏は自分の娘を説得して工場に送り,工女募集の呼び水的役割を演じさせた.その効果があって,応募者はしだいに増え,開業の翌年1873(明治6)年2月には404名に達することができた.この経過は,和田英の『富岡日記』(1931年刊行)にくわしい.1873(明治6)年1月の寄宿舎婦女子簿によれば,404名の地方別人数は次のごとくであった.群馬県228,入間県98,長野県11,栃木県5,東京府1,奈良県2,水沢県8,置賜県14,宮城県15,静岡県6,浜松県12,酒田県3,石川県1.工女は,ほとんどが18歳前後の未婚の女子であって,彼女らはのちに製糸技術の普及に大きく貢献していくことになる.
 官営富岡製糸場の例は,異質の社会風土の中に新技術が導入されるさいに生ずる文化的摩擦の例をも示して興味ぶかいが,同工場の成功は,器械製糸に関する技術・経営知識の普及,熟練労働者の形成に先導的効果をもつものであった.
 (3)洋式技術の簡便化,土着条件への適応
 富岡製糸場や築地製糸場の設立の影響は各地におよんだ.1870年代末から長野・岐阜・山梨県を中心に器械製糸場がつぎつぎと設立されるが,その中でも長野県は全国でも隔絶した地位にあった.たとえば1879(明治12)年に10人以上を雇傭した器械製糸場は全国で655あるが,その54%(358工場)が長野県に集中していた.洋式技術の地方への波及もまず長野県から始まったのである.
 『信濃蚕糸業史』(第2巻)によれば,築地製糸場のイタリア式製糸技術は,南信上諏訪の深山田製糸へ,富岡製糸場のフランス式技術は北信松代の六工社[ろっくしゃ]へ伝播し,ついで1875(明治8)年創業の中山社(諏訪郡平野村)がこの両者の技術を取り入れて,いわゆる“諏訪式”または“信州式”と呼ばれる製糸技術の基礎を築いたとされている.六工社は,50人繰りの器械製糸場として1874(明治7)年7月22日に開業したが,和田英をはじめ富岡で技術を学んだ16名の工女が一般工女の技術指導にあたった.富岡製糸場を模倣してつくられたとはいえ,六工社は資本力の少ない民間企業であったから,工場・機械は簡便で安価であることを旨とした.1874(明治7)年7月に故郷の松代へ帰り,六工社を訪ねたときの印象を和田英は次のように記している.「機械その他を見ました.兼ねて覚悟のことなれば別に驚きも致しませぬ.却てよくこの位に出来たと思いました.しかし富岡と違いますことは天と地ほどであります.銅鉄・真鍮は木となり,ガラスは針金と変り,=瓦は土間,それはそれは夢に夢を見るように感じましたが,まずまず蒸気で糸がとられると申すだけでも日本人の手で出来たとは感心だ位にて,その日は引取りました.」11)
 この技術の簡便化は,中山社においてさらに進んだ.1875(明治8)年5月,諏訪郡平野村に設立された中山社は,武居代次郎を中心とする9人の小製糸家によって設立された100人繰りの工場である.同社は,伊仏の製糸技術を折衷したうえに,深山田製糸と六工社のおこなった簡便化・実用化をいっそう徹底したもので,のちに全国に普及した諏訪式製糸器械の祖型を生みだした.以下に富岡製糸場と比較したばあいの諏訪式の特徴を列挙してみよう.
 (1)建物がレンガ造りから木造に変った.(2)原動力が蒸気力から水力または人力におきかえられた.製糸原動力の歴史は,他の一般動力史が示すように,人力,水力,蒸気力,電力という発展経路をたどったが,明治全期を通じて手廻し,足踏みなどの人力が,水車もしくは汽機と並んで存在していたのである(第2表).
第2表 明治初年における平野村器械製糸動力表
(3)器械が鉄製から木製に変わった.(4)繰糸鍋の材料および形が,銅から陶器へ,円形から半月形にそれぞれ変化した.「富岡製糸場の真鍮製円形鍋を手本として,はじめ銅製があらわれたが,六工社は初めて素焼き製の円形鍋をつくった.中山社はさらにうわ薬を用い,半月形のものをつくった.」12)半月形の陶製にしたのは安価であるばかりでなく,銅製のように糸の光沢を害するおそれがないからである13).(5)真鍮製のより掛け装置を木製に変え,仏の共撚式,伊のケンネル式を折衷してイナズマ式を採用した.イナズマ式は,=[より]が少なく,弱かったが,軽便なのと,糸目が多く取れたので,たちまち諏訪一帯にひろがり,さらに長野県全体に普及した.イナズマ式は,糸が折り返されるところで生ずる摩擦を少なくするために転車の位置を変えたもので,生糸の切断回数は少なく,労働生産性を高める効果があった反面,糸の抱合が悪く,糸質が低下する短所があった.そのためこのイナズマ式の欠点を改良した「安東式ケンネル」が1896(明治29)年頃に考案され,次の多条繰糸機の時代になっても,「安東式ケンネル」の原理は受けつがれていった.(6)索緒と接緒法の改良.繰糸鍋の中で浮いている繭の表層を箒でなぜて糸口を見付ける作業を索緒というが,器械製糸になってから索緒箒の材料は大部分ミゴといって稲の脱穀後の穂先を利用するようになった.次に接緒は,繰糸中,糸をつぎ足していく作業をいうが,「接緒なくして1センチの糸も繰ることはできぬ」といわれたように繰糸の中枢技能である.この接緒は,手挽きの段階では小枠をとめてしたが,座繰り,器械製糸では運転中にできた.しかし座繰りでは片手しか接緒に利用できなかった.器械取りになってはじめて両手が接緒に使えるようになったのである.ここに技術史上からみた器械製糸の一大飛躍があった.とはいえ,接緒の機械化は多条繰糸機の時代まで実現せず,信州では「なげづけ」と称する低価格大量生産に適する方法が19世紀末まで存続していたのである.
 以上,洋式技術を日本的に改良した典型ともいえる信州式製糸技術の特徴を6点にわたって検討してきたが,この洋式技術から日本式技術への切替えは,ほぼ1890年代に終了したとみられる.そしてこれは同時に,資本力の少ない製糸家が生産コストを低くするためにあらゆる努力を傾注してきた過程でもあった.1894(明治27)年における器械製糸高の座繰製糸高の凌駕という周知の事実は,日本製糸技術の改良・定着の技術史的指標ともみなされるのである.
 (4)外貨獲得産業としての製糸業
 第3表に示されるように,生糸輸出は1929(昭和4)年の世界大恐慌に至るまで,平均して全輸出の30%を占め,1928(昭和3)年の時点においても37.2%に達した.これに絹織物輸出を加えると,その輸出額は全輸出額の44.0%にまで達する.製糸業は,文字通り第二次大戦前の日本経済の発展を可能にした最重要の輸出産業であった.とくに輸出商品としての生糸の重要性が高まったのは,日清戦争(1894-95年)後のことであった.日清戦争前におけるわが国の貿易は,アメリカ合衆国およびフランスへ生糸と茶を輸出し,インドをふくむイギリス帝国から綿糸・綿織物を輸入するという構造をとっていたが,日清戦争後になると綿紡績業の急激な発展を反映して,中国・朝鮮向けの綿糸布の輸出が重要な位置をしめるようになる.いいかえれば,対米貿易において生糸・羽二重などを輸出し,その獲得した外貨によって欧米から軍艦・兵器・鉄・機械・船舶などの軍需品および重工業製品を輸入するという関係にあった.他方,対アジア貿易においては,綿糸・綿織物を輸出して,中国・インドから綿花を輸入していたが,綿関係製品の貿易収支はむしろ大幅の入超であったため,日清戦争後になると,製糸業は外貨獲得産業としてますます重要な役割をになわされるようになったのである.
第3表 生糸・絹織物輸出(1880-1933年)
 事実,1898-1900(明治31-33)年平均でみると,綿糸・綿織物輸出額は約2,720万円であるのに対し,綿花輸入額は5,580万円であって,綿関係製品の貿易収支は大幅な赤字であって,紡績業に外貨獲得の役割を期待することはできなかった.これに対して同期間の生糸・羽二重の輸出額合計は約6,500万円,他方,輸入の面では軍艦・兵器(統計上,特別輸入に含まれる)2,700万円,鉄類2,000万円,機械類1,050万円,石油1,000万円,以上の輸入額合計は約6,750万円に相当する=14).したがって,これら重工業製品の輸入は,まさに輸出生糸が稼ぐ外貨によってはじめて可能であったのである.このように製糸業の重要性が増大してくるにつれて,製糸業における技術進歩への刺激はさらに強まった.19世紀末まではどちらかというと技術進歩に対して保守的であった製糸業界も,19世紀末から20世紀初頭にかけて,大製糸経営を中心に製糸器械の改良・拡大に向かった.
 石井寛治の研究によれば,1890年代末まで日本の製糸業界では,簡易化され
た二口繰木製器械が最もひろく使用されていた.これに対し,フランス,イタリアでは製糸器械の発達はめざましく,4-6口繰の繰糸器械が普及しており,1910年代には6-8口繰器械が一般的であった.労働生産性にかんしても,日本製糸女工の1人当り年間繰糸量は,仏伊両国のほぼ2分の1の低水準にあった.ところが,1900年代になると長野県諏訪地方では3口繰器械が優勢となり,1900年代末には片倉組など巨大製糸家を先頭に4口繰器械へ急速に移行し,1911(明治44)年には4口繰器械が釜数の過半を占めるようになったのである.また1900年代には50釜未満の小規模工場が減少しはじめ,逆に100釜以上の大製糸場が増加し,そのなかから500釜以上の巨大製糸場が出現するようになった15).
第1図 労働生産性の推移(5ヵ年移動平均)
その結果,第1図にみるようにA女工1人当り生糸生産量とB女工1人1日当り生糸生産量は着実に増加していった.また生糸の品質も,しだいによくなり,1900年代末にはイタリア,清国を追いぬいて,日本は世界最大の生糸輸出国(その70%はアメリカ向け輸出)となったのである.
(5)技術進歩に対する製糸家の態度
 1900年代末に日本製糸業の生産力水準は,ほぼイタリアに拮抗する水準にまで到達したものの製糸器械の形状および構造はさほど大きな進歩はみられなかった.たとえば,1905(明治38)年に先進国並みの全鉄製器械は全国器械釜数の4.1%にすぎず,68.5%は依然として全木製器械であった.これは一つに,鉄鋼業と機械器具工業が未発達のため,製糸器械の生産を制約したためであるが16),もう一つは,技術進歩に対する製糸資本家の消極的態度に関係していたと思われる.
 たとえば,1931(昭和6)年の時点ですら,自動繰糸器械の発明者原田新一は次のように語っているのである.「自分の発明した自動繰絲器械を使ってみたいが,日本の製絲業は工業として五十年以上も遅れてゐる.製絲家の頭も目先の金利や相場のことしか考へず又資金の窮迫せる行きがかりもあって,どうしても進んだ器械を採用する事ができない」17)技術革新に対する製糸家のこのような消極的態度は,明治期にも一貫して存在していたものであった.以下その事例をいくつか列挙してゆきたい.
 政府は明治初年から,イタリア・フランスなどの養蚕・製糸技術を学ばせるために,技術伝習生を海外へ派遣していた.田中文助[ぶんすけ],佐々木長淳[ながあつ]はそのときの代表的人物であるが,田中は後年,次のように語っている.「私は明治十九年仏国に於て四口繰の接緒器を一組求めて持帰りて之が試験を致しましたるに......充分ならず,故に種々考慮の上之に更に糸切刃と節扱=を発明して装付し以って明治二十二年に於いて特許を得て広く一般に拡張を図りました.其当時には未だ製糸家に於ても重に二口=にて足れりとして三口四口=は好みませんでした.故に接緒器には極冷淡であって......」18)
 では製糸家はなぜ接緒器の使用に冷淡だったのであろうか?この点について,恩田定雄・東野伝次郎著の『製糸新論』(1896年)は,次のような興味ぶかい言葉を紹介している.
 「現今我製糸界ノ状勢ニテ接緒器ヲ使用スルハ恰モ=襖[ぼろ]ヲ纏ヒシ賤夫が金時計ヲ胸間ニ閃[ひらめか]スカ如キ観アリトス......接緒器ハ今日之レヲ用フルモ少シモ其効ナシト云フモ過言ニアラス」その理由として,接緒器の構造が緻密なものは壊れやすく,粗雑なものは手で接緒するよりもかえって時間がかかるというのである.さらに我国には手に妙技を有する女工が存在するので,製作費[コスト]のかかる接緒器を導入するのはむしろ損失であるとする.『製糸新論』の著者たちは,民間の製糸工場の実態に通暁していた人たちであった.したがって外国直伝の技術と民間の製糸技術との問には越えがたいギャップのあることを知悉していた.どんなにすばらしい技術が発明されても,それを受け入れるだけの条件が民間企業の側になければ,新技術が実用化され,定着することはむずかしい.こうして接緒器導入の遅れは,多条繰糸機の実用化を遅らせる要因となった.多条繰糸機も1903(明治36)年には御法川直三郎によって試作されており,1919(大正8)年には新発明V字型固定接緒器がつくられていた19).しかし,多条繰糸機が片倉製糸など大製糸工場で実際に使用されるようになったのは1920年代のことであり,それがさらに他の工場で使われるようになったのは1930年代のことであった.したがって1870年代後半から1920年代までは,基本的に女工の手工的熟練に依存する態勢がつづいていたのである.工場・設備・機械などの固定資本投資をできる限り節約し,しかも生糸生産量を可能なかぎり増大させようとすれば,いきおい製糸資本家の努力は女工を酷使して,労働生産性をあげることに向かわざるを得ない.次の項で,我々は製糸家の女工管理の実態をいくらか詳しく見てみることにしよう.

[注]
1)三谷徹『最新製絲学』中巻,明文堂,1930年,5ページ.
2)蚕糸同業組合中央会『生糸生産費に関する研究』,1927年.
3)生糸の製造工程については,加藤宗一『日本製糸技術史』,製糸技術史研究会,1976年,奥村正二『小判・生糸・和鉄』,岩波新書,1973年,参照.
4)奥村正二,前掲書,81ページ.
5)江口善次・日高八十七『信濃蚕糸業史』第2巻,大日本蚕糸会信濃支会,1937年.
6)『渋沢栄一伝記資料』第2巻,渋沢栄一伝記資料刊行会,1955年.
7)加藤宗一,前掲書,89ページ.
8)長岡新吉『産業革命』,教育社歴史新書,1979年,102ページ.
9)奥村正二,前掲書,106-107ページ.
10)加藤宗一,前掲書,97ページ.
11)『富岡日記』,中公文庫,1978年,79ページ.
12)加藤宗一,前掲書,116ページ.
13)『平野村誌』下巻,平野村役場,1932年,340ページ.
14)高村直助「産業・貿易構造」,大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上,東京大学出版会,1975年,64ページ.
15)石井寛治『日本蚕糸業史分析』,東京大学出版会,1972年,245-47ページ.
16)石井寛治「産業資本(2)絹業」,大石編,前掲書,175ページ.
17)『東京朝日新聞』1931年1月6日号,山田盛太郎『日本資本主義分析』,岩波書店,1934年,41ページより再引用.
18)篠原昭「製糸機械の歴史―明治初期の発展過程」,『信州大学繊維学部紀要』,1979年,28ページ.この田中の発言は,1903年に大日本蚕糸会でおこなった講演の部である.
19)『御法川直三郎翁自伝』,同刊行会,1933年,清川雪彦「製糸技術の普及伝播について―多条繰糸機の場合―」,『経済研究』第28巻4号,1977年.

 Ⅱ 製糸業労働者の構成と雇傭関係
 日本の製糸業は,地域によって異なった展開を示した.長野・岐阜・山梨県を中心とする器械製糸地帯,群馬・福島県に代表される座繰製糸地帯は,主として緯糸用の「普通糸」の生産をおこなう地域として知られていた.これに対して,少数とはいえ,関西地方,山形県米沢盆地,長野県の松代地方では,エキストラ格と呼ばれる「優等糸」の生産を方針としていた.この「優等糸」生産地の製糸経営は,「普通糸」生産地の製糸経営と違って,次のような特徴をもっていた.
 (1)自己資金への高い依存度,(2)外国製またはそれに近い高性能の繰糸器械の採用,(3)相対的に良い労働条件などである1).しかし,本項では,このうち,代表的な生糸生産地である器械製糸地帯に限定し,その中でもとくに器械製糸工場が最も集中していた長野県の諏訪地方を考察の対象として選び,1880年代から1910年代における製糸労働者の構成及びその雇傭関係の特徴を明らかにすることとした.
(1)製糸業労働者の構成
 1880年代後半から著しく促進した日本の製糸業の発展に対応して,製糸労働者の数もまた急速に増加した.第4表が示すように,10人以上を雇傭していた器械製糸工場の工女数は1879(明治12)年には1万7,084人にすぎなかったが,1896(明治29)年にはすでに12万4,441人に達した.さらに,工女数の増加は,以後,昭和恐慌の到来までほぼ一貫してつづき,1929(昭和4)年に工女数はその頂点である37万5,330人にまで上昇したのである.
第4表 10人繰以上器械製糸工場職工数(1879-1934年)
 製糸業の分布形態を反映し,製糸労働者の3割前後は長野県に集中していた.その中で諏訪郡の製糸労働者は,全国の製糸労働者の1割以上を占めていた(第5表を参照).長野県の他に,製糸労働者は岐阜・山梨の東山養蚕地帯にも多かったが,明治末期から東海地方(愛知県)と北関東地方(群馬・埼玉県)でも顕著な増加を示した.一部分は諏訪の製糸資本の県外進出によるものであった.
 なお,周知のように,製糸労働者の圧倒的な部分は女子労働者からなり立っていた.
 農商務省の調査によれば,1911(明治44)年の諏訪郡の製糸工場においては,2万3,445人の繰糸工女に対して雇傭されていた工男はわずか1,884人にすぎなかった2).製糸工場においては,工男は概ね工女の監督,あるいは汽罐,繭の乾燥,繭の貯蔵,荷造運搬に関する附属的な労働をおこなっていたが,これに対して工女は繰糸,揚返しなどの基本的な作業をおこなっていた.
第5表 器械製糸女子労働者の分布
その工女の平均年齢は極めて低かった.たとえば,長野県の205の製糸工場に関する調査によると,1901(明治34)年において20歳未満の工女は66%を占め,その内2,285人(18%)は14歳未満の者であった(150人-1.2%-は10歳未満)3).
 1916(大正5)年に施行された工場法は,ある程度児童労働の酷使を制限したが,その影響力はかなり限られていたといってよい.原則として工場法は「十二歳未満ノ者ヲシテ工場ニ於テ就業セシムルコトヲ」禁止した,しかし,その規定は「常時十五人以上ノ職工ヲ使用スル」工場や「事業ノ性質危険ナルモノ又ハ衛生上有害ノ虞アル」工場のみに適用されていた.さらに「本法施行ノ際十歳以上ノ者ヲ引続キ就業セシムル場合ハ」上記の規定は無効であり,その上に「行政官庁ハ軽易ナル業務ニ付就業ニ関スル条件ヲ付シテ十歳以上ノ者ノ就業ヲ許可スルコトヲ得」ることも規定していたのである4).
 第6表が示すように,1923(大正12)年においても諏訪郡製糸業の工女は主に発育中の若年労働者であり,その平均年齢は19歳以下であった.同表からも窺えるように,工女の継続雇傭期間は短く,結婚年齢が近づくと,その大部分は退職したのである.
第6表 諏訪郡器械製糸工女年齢(1923年5月)
 さて,諏訪郡の製糸業の工女の出身地に関しては,1877(明治10)年ごろまでは工女は諏訪地方および接近している伊那郡,東筑摩郡から容易に募集されたといわれている5).だが,1890(明治23)年頃から労働力の募集地域はしだいに拡大していった.この点に関しては,第7表で1903(明治36)年および1918(大正7)年における岡谷市(諏訪郡器械製糸の中心地)の製糸工女の出身地を示した.
 第1に,諏訪郡出身の工女の低い比率に注意しなければならない.これは1903(明治36)年にすでに12.6%にすぎなかったが,1918(大正7)年にさらに8.4%までに低下していた.
 第2に,産業革命期の主要な供給地であった上伊那,東筑摩郡と岐阜県の比率も減少していた.特に上伊那郡の場合には,諏訪の製糸家と対立していた組合製糸の発展を反映し,その減少は著しかった6).これに対して,他の郡の大部分および県外出身の工女数は顕著な増加を示していた.特に,目立つのは,山梨県・新潟県の出身者の増加である.この二つの県は1918(大正7)年において工女の28.4%を供給していた.
第7表 岡谷市器械製糸工女出身地
 なお,第7表で明らかなように,諏訪郡の製糸工女の供給地は農業地帯であり,とりわけ「地主小作関係が全国水準なしいはそれ以上に展開しているか,さもなければ岐阜県北部=飛騨のように農業生産力がきわめて低い」地方であった7).特に,石井寛治および中村政則がすでに実証したように,工女の出身農家の圧倒的な部分は小作農および非常に零細な耕地を所有する小自作農に属していた8).
 この意味において,農村社会を支配していた地主制度は労働力の面において製糸業の発展と密接に結びついていた.特に,収穫の5,6割にさえも達する高率小作料に圧迫されていた小作農は,貧困な家計を補う目的で,または高率小作料を支払う手段を得るためにも9),娘を製糸工場に就労させたのである.そして,地主制度により圧迫された農村の貧しさも,製糸業の劣悪な労働条件の存在及びその引き下げを可能にしたといってよい10).
 以上,諏訪地方を中心として製糸労働者の構成およびその出身地の特質をみてきたが,その考察を以下に要約したい.
 明治後期および大正期において諏訪地方の製糸労働者の構成は次の特質を示していた.
 (1)若年女子労働者が圧倒的多数であること.
 (2)大部分が出稼労働者であることに由来する雇傭期間の短期性.
 (3)出身階層が農民層,特に小作・小自作農家であること.
 全体として諏訪製糸業の工女は農村社会から切り離された労働者というよりも,むしろ農村社会と密接に結びついていた典型的に「出稼型」労働者であったといってよい11).
 この意味において,製糸工場における彼女らの生活は一時的なものにすぎず,彼女らの社会意識も農村の伝統と深く結びついていたと考えられる.
 なお,すくなくとも昭和恐慌にいたるまで労働者の構成は変わらないが,注目すべきは,工女の出身の農村において「米騒動」を契機とした農民運動の台頭とともに従来の地主・小作関係が変化しはじめた点である.このように,工女の供給地に現れはじめた社会変化は工女の意識に対してもかなりの影響を与えたと思われるが,工女の意識に関する研究はいまだ不十分である.
 (2)雇傭関係
 製糸業の雇傭関係を規定したのは募集制度と雇傭契約であった.
 前者に関しては,ここで十分に検討する余裕はないが,次の点を指摘したい.
 第1に,工女の契約期間は一般に1年間であったので,工女の募集は概ね毎年12月中旬から翌年2月にかけておこなわれた.
 第2に,前項で見たように,製糸労働者はおもに農家に潜在していた過剰労働力であったが,その労働力は自発的に労働市場に現れたわけではない.したがって,労働力を獲得する目的で,製糸家は工女の供給地に募集員を派遣し,
積極的に工女の募集をおこなうことを余儀なくされた.特に諏訪製糸業の場合には,1890(明治23)年頃から遠隔地出身の工女の募集につれて,募集人による募集方法はいっそう一般化していた.
 この「募集人制度」の存在が示すように,製糸業の女子労働者に関しては,横断的な労働市場はまだ形成されておらず,垂直的な構造をとっていた.特に労働者の自由な移動を抑制する寄宿舎制度と労働者の登録制度の存在の故に,自由な横断的労働市場の形成が一層困難になったのである12).
 第3に,自由な横断的な労働市場の欠如は,労働者の逃亡,争奪等の悲惨な事件の原因になっていた.たとえば,『職工事情』によれば,「生糸市場ノ好況ヲ呈スルニ際シ非常手段ヲ以テ工女ノ争奪ヲナセシコトアリ......中略......諏訪地方ニ於テ現ニ他ノ工場ニ於テ執業セル工女カ外出スルトキハ浮浪ノ徒ヲシテ之ヲ途ニ要シ拉シテ去ラシメ」たという13)
 さて,募集の際に結ばれた雇傭契約はいかなる特質を持っていたかを明らかにするために,以下では諏訪製糸業の雇傭契約のいくつかの事例を検討したい.
 まず,1895(明治28)年に結ばれた雇傭契約をみたい.
 上記の雇傭契約書は次の特質を示している.
 第1に,雇傭契約は双務契約ではなく,工女側の一方的な誓(約定)という形式をとっている.特に,工場主の義務(賃金の支払いの義務を含めて)については一切言及されていない.そして,契約当事者は工女自身ではなく,工女の父兄(戸主)である.
 第2に,約定の基礎は工女の労働に対応する賃金の支払いではなく,戸主が受け取った約定金(手付金)である.
 第3に,工女の義務は曖昧に規定され,拡大解釈の余地を残していた.工女は就業するだけではなく,工場主の「家則」さえも「確ク相守」しなければならなかった.そして,契約期間中に工女は退職できず,とりわけ工女が就業できなかった場合,その代人を出すことも規定されている.
 第4に,約定の違反の際に,工女側が適当な損害金を負担することも規定されている.
 ただし,上記の事例では倍率は不明であるが,甚だしい場合は約定金の20倍の損害金を弁済させるケースすらあった.
 要約すれば,この契約書にみられる製糸労働者は自由な賃金労働者というよりも,むしろ労働によって前貸金を返済するために工場主に縛られていた労働者であったといってよい.
 だが,ここであげた1890年代頃の雇傭契約書は非常に大ざっぱなものにすぎず,その強制力も疑わしい.
 しかし,以後雇傭契約が少なくとも形式上近代的な形態を備えたものとなったが,注目すべきは雇傭契約書の法的拘束力が整備されたにもかかわらず,実際の内容は変化していないことである.この点を明らかにするためにここで1例をあげよう.
 この例が示すごとく,第1に,契約書が双務契約(合意契約)の表現をとってきたのである.
 第2に,工女本人の同意も明記されている.
 第3に,工場主の義務として賃金の支払いが契約の条件になる.
 しかし,注目すべきは,賃金の金額は明確ではなく,等級賃金制にもとづき,工女の「就業中ノ成績......ニ応ジテ」事後的に決定されたのである.
 第4に,この例と大石嘉一郎があげた他の事例をみると,手付金額は1円ないし5円にとどまっているが,この時期に雇傭契約書に記入されていない前貸金が広く存在していた.つまり,大石嘉一郎も指摘しているように,この時期に工女の逃亡・争奪の防止を図った「製糸同盟」(諏訪の製糸家が創立した機関)が「手付金の限度を5円と定め,製糸家相互の競争による手付金上昇を抑えようとした(中略)が,現実には,この契約書記入の手付金以外に,新たに前貸金が登場してくる」.そして「この前貸金は(中略)1907(明治40)年前後に急速に増加し,1件当り前貸金額は,1件当り手付金額を上廻って,5円ないし20円に達している」16).
 第5に,依然として契約期間中に他の製糸工場へ就業することが禁止されていた.
 なお,契約違反の場合,契約書は厳格な制裁(50円)を規定している.この違約金の規定がいかなる効果を持っていたかについてはあきらかではないが,すくなくとも1904(明治37)年に諏訪郡川岸村の〓[ヤマト]製糸場の資料(「工女違約金支払催告書」)が示すように,製糸家は積極的にその支払いを求めたようである17).さらに,1906(明治39)年10月に長野県上田区裁判所の判事は60円の違約金請求事件の際,全面的に製糸家側の主張を認めていたのである18).
 以上のように,製糸女子労働者は依然として債務によって工場主に縛られていたのであった.
 なお,諏訪製糸業の雇傭契約は1910年代後半まで,すなわち女工供給組合の出現まで,基本的に変わらなかった,もっとも,1918(大正7)年の笠原組の事例によれば,今迄明記されていなかった賃金額が記入されるようになるが,その規模はあいかわらず曖昧である.
 つまり,「賃金ノ儀ハ(中略)等級ニ応ジ一日金五銭以上金八拾銭以下ノ範囲ニ於テ年末閉業前(中略)御支払被下候事」になっていた19).
 さて,このような前近代的な雇傭関係の存在を念頭において,次の項で諏訪地方の製糸工場の労働条件や労務管理を検討したい.

[注]
1)石井寛治『日本蚕糸業史分析』,70-2,256ページ参照.
2)農商務省農務局『第六次全国製糸工場調査表』,1913年,171ページ.
3)農商務省商工局『職工事情』第1巻,1903年(1976年の復刊),163ページ.
4)安藤良雄編『近代日本経済史要覧』,東京大学出版会,1975年,98ページ.
5)『平野村誌』下巻,1932年,157ページ.
6)上伊那郡の組合製糸については,大島栄子「1920年代における組合製糸の高格糸生産―長野県上伊那郡組合製糸地帯における農業構造と低利資金の意義」,『歴史学研究』,1980年11月,を参照.
7)前掲,石井寛治『日本蚕糸業史分析』,265ページ.
8)同上および中村政則「製糸業の展開と地主制」,『社会経済史学』第32巻5・6合併号(1967年2月),を参照.
9)この点については,中村政則が山梨県の大地主(根津啓吉家)の番頭が記した『小作日誌』を分析し,「製糸女工の得てくる賃金が,単なる家計補充にとどまらず,小作料として地主に吸いとられ」た点を指摘した(前掲,中村政則「製糸業の展開と地主制」,60ページ).
10)ここでは工女の出身農家の生活状況については詳しく述べることができないが,
差し当り竹下景子がおこなった聞き取り調査の結果を参照されたい.竹下景子「明治・大正期における女工意識の一考察―『忠』・『孝』分析を基軸として―」,『史論』第25集,1972年.
11)「出稼型」理論を展開した大河内一男によると,「出稼型」労働者は単に出稼人を意味するものではなく,「賃労働の提供者が全体として,農家経済と結びついた出稼労働者的性格を持っている」ということである.つまり,「賃労働が農家経済から最終的に放逐されることなく,むしろそれと結びついたまま過剰人口の放出の一形態として,または窮迫した農家の家計を補充する目的で,賃労働として,暫定的に労働市場に牽引される」という(大河内一男『黎明期の日本労働運動』,岩波新書,1952年,4-10ページ).
12)この点については,西成田豊「日本型賃労働の成立」,石井寛治他編『近代日本経済史を学ぶ』上巻,有斐閣,1977年,を参照.
13)農商務省商工局『職工事情』第1巻,178-79ページ.
14)原資料は岡谷市市立岡谷蚕糸博物館所蔵.
15)大石嘉一郎「雇傭契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」,『社会科学研究』第24巻第2号,1972年,87ページ.
16)同上,93-4ページ.
17)『長野県史,近代史料編,第五巻(三),産業,蚕糸業』,869ページ.
18)同上,874-75ページ.
19)大石嘉一郎,前掲論文,97ページ.

 Ⅲ 製糸労働者の存在形態と製糸業の労務管理
 この項で,第1に,諏訪製糸業の労働条件と労働強化の実態を検討し,製糸労働者の存在形態を明らかにしたい.そして,第2に,労働強化を支えた製糸業の労務管理の形態を分析したい.
 (1)製糸工場の実態と労働条件
 小規模な経営から発展した諏訪地方の製糸工場には明治・大正期にさまざまな様式が存在し,小規模の工場の場合,製糸家の住宅の一部に工場が設置されたものも少なくなかった.ところが,1880年代後半から,器械製糸の発展とともに,中・大規模な製糸工場のなかには一種の近代的な工場の類型が出現しはじめた.つまり,工場の中心は=歯状の建物であり,2階建の中央建物(事務所・食堂・寄宿舎等のある建物)にいくつかの細長い繰糸場,揚返場,煮繭場などが直角に接続していた.そして,その周りに一連の付属建物が存在していた1).
第8表 建物一覧表(1903年調べ)
 なお,第8表であげた片倉の工場の事例にもみえるように,寄宿舎をはじめとして,工女の生活に必要なすべての施設が工場内に存在していた.そして,膨大な土造りの貯繭倉を除けば,工場の建物はすべて木造で,平屋もしくは2階建の建築物であった.
 繰糸場も一般的に木造で,平屋の建物であった.1916(大正5)年の調査によれば,長野県の製糸工場の間口は一般的に6.4メートルであり,その中に両側の窓に面して繰糸器械2列が配置され,工女は2列で背中合せに作業をしていた2).
 就業中の工女の体位について,同調査は次のように述べている.「繰糸場ニ於ケル女工ハ全就業時間ヲ通シ半座位(腰掛)ヲ取り,繰糸台ノ下部ニ膝ヲ容ルヽノ余裕ナキト,小枠カ女工ノ背後ニアルトノ為左側ニ向ツテ上体ヲ約三十度捻転シタル特殊ノ」不自然な体位で「終日緊張シタル操業」をしていた3).
 採光に関しては,多くの繰糸場において窓が両側全部に作られていたが,長野県の製糸工場についての報告によると「数棟の工場を並列せるものにありては概ね工場と工場との間隔を僅に二間3.6メートル内外となるを以って,其方位の適当なるに比し空気の疎通悪しく,光線の透射亦普からずして為に工場内は=々陰欝の嫌あり」という4).
 採光の不足は,夜間作業の際に特に深刻な問題となった.繊細な製糸作業のためには1人に対し平均燭光として,少なくとも10燭光という相当高度の照明が必要と推計されたが,1920(大正9)年においても1人当りの燭光が6燭光以上であったのは,長野県の603工場の内36工場だけであった.その故に製糸工女間に眼病の罹病率が特に高かった5).
 そして衛生上,繰糸場の温湿が特に有害なものであった.
 当時の工女の健康状態を詳細に研究した石原修は,次のように述べている.「製糸工場の如きは水蒸気が何時でも濛々と立って居ります,(中略)水蒸気が空気内に飛散して居ります,斯の如き所にまだ十分に発育していない所の少女が労働作業をやって居る,是で健康状態を維持されて行くということは不思議のようであります」6).
 工女の疾病については,消化器病,呼吸器病(結核),生殖器病が最も多かったが,眼病や腕のリューマチスとともに,「工女ハ終日指ヲ温湯ニ入ルヽカ為メニ指ハ白色ニ変シ糜=ヲ生シ終ニ湿疹」という特有な職業病を起こすことが多かった7).
 なお,冬期には労働条件はいっそう劣悪であった.産業革命期に寒冷さを防ぐための方法はほとんどなかったので,工女は「冬期ニハ足部ニ一種ノ霜焼ケヲ生シ膝関節以下ハ午後ニハ紫色ヲ呈スル」ことが普通であった8).
 ただし,工女の「凍瘡又ハ凍傷ニ罹ル者多ク作業能率ニ可ナリ大ナル影響ヲ及ホシタ」ので,明治末期になると「防寒装置トシテハ女工ノ(中略)足部ニ当リ一小鉄管ヲ設ケ就業時之ニ蒸気或ハ熱湯ヲ通スルナリ」という簡易暖房装置が設置されるようになった9).
 なお,繰糸作業は本来危険の少ない作業であるが,産業革命期に粗末な設備による労働災害が多く発生したのである.特に,煮繭のために広汎に用いられた汽罐は粗末で,極端に簡便化したものであったので,汽罐の破裂事件が相次いで起こった.
 ここで十分に明らかになったように,製糸業の発展を特徴づけた固定資本の節約,設備・施設の簡便化は先ず労働者の健康,尊厳を無視した労働環境の劣悪さの原因となっていた.
 だが,固定資本の節約は劣悪な労働環境をもたらしただけではなく,石井寛治が国際的な比較を通じて指摘した日本製糸業の低い労働生産性の要因でもあった10).
 それ故に,製糸家は工女の賃金を抑えながら,労働時間を生理的限界にまで延長し,工女に極端な労働強化を押し付けたのである.
 事実,工場法に反対した諏訪地方の製糸家は1902(明治35)年に次のように述べている.
 「私共目下の状態から申上げると(中略)夏季が午前四時から午後七時までと致して十五時間,冬季が午前六時から午後九時までと致して十五時間,それへ食事の時間と申せばそれはホンの二三分(中略)私共工場主の活路は全く此の時間の一点にあるのであります.(中略)一刻千金の利害を争ふ私共に此の一時間三十分(1902年の工場法案の休憩時間)全く大頭痛です.(中略)イクラ多くても一食後十分間位を極度と致される様に希望する次第であります」11).
 第9表によると,労働時間は1900(明治33)年に12時間(最低!)と15時間(最高)との間で変動したが,これは製糸家側が指摘した数字であり,次の調査報告書に比べるとその正確さは疑わしい.
第9表 労働期間および労働時間(1900年の調査)
1894(明治27)年に諏訪地方を視察した佐野善作(日本の商業経済学の先覚者)によると,工女の就業時間は平均して15-16時間に達していた12).同じように1901(明治34)年に関しては『職工事情』は次のように述べている.「此ノ地方(諏訪)ニ於ケル生糸工場ノ労働時
間の長キコトハ全国ニ冠タル毎日平均十五時間ヲ下ラサルヘシ加之ナラス市場ノ好況ヲ呈スルニ及ヘハ頻ニ労働時間ヲ延長シテ其生産額ヲ増加センコトヲノミ之レ務メ一日ノ労働ハ十八時間ニ達スルコト=々之レアリ」13).
 工場法の施行(1916年)もこのような過度労働の弊害を排除できなかったといってよい.
 15人以上の工場に限定した工場法の第3条は,15歳未満の者および女子の場合,1日当りの就業時間を12時間に制限したが,業務の種類に依って工場法の施行以来15年間に限り2時間以内の延長を認めた.さらに,第8条には,「季節ニ依リ繁忙ナル事情ニ付テハ工場主ハ一定ノ期間ニ付予メ行政官庁ノ認可ヲ受ケ其ノ期間中一年ニ付百二十日ノ割合ヲ超エサル限り就業時間ヲ一時間以内延長スルコトヲ得」と規定されていた.
 諏訪の製糸家はこれらの項目を利用し,依然として長時間労働を強いたと思われる.
 事実,1917(大正6)年の就業時間延長に関する地方別の許可の調べをみると,長野県が598件で全国的に最高の水準を記録した14).
 さらに同年から岡谷の製糸工場で勤労したK.K.氏の証言によると,「そのころの工場は監獄よりひどかったね.朝五時から夜はランプをつけて糸をとって.おそい時は八時九時まで.休み時間は朝九時と昼の三時の十分くらい.前はそれもなくて一日中ぶつ通し」15).
 労働強化に関しては,諏訪の製糸業を視察した者の記述によればその強度は実に驚くべきものであった.ここで二つの例をあげよう.
 第1は,1894(明治27)年の事例である.これによると,諏訪の就業時間は長いだけでなく,「然レトモ其勤勉ナルヤ此長時間モ倦怠ノ状ナク,寸陰モ之ヲ惜ミ,悠々坐シテ食事ス者ナク,最後ノ一椀ノ食物ハ唄嚼シテ未タ咽ヲ下ラナルニ早々已ニ走リ工場ニ集マルノ有様」であった16).
 第2に,1917(大正6)年の調査である.これによれば,「諏訪系(諏訪出身の資本に属する郡・県外の製糸工場を含む)製糸工場における女工作業の緊張の度は天下無比であると言っても必ずしも誇張ではない」という17).
 この資料が示すように,劣悪な労働環境,過度労働時間にもかかわらず,諏訪地方の製糸工場において労働強度は極めて高かった.なお,ここで問題になるのは,この高い労働強度をもたらした製糸業の労務管理の特質を明らかにすることである.
 したがって,次に日本の製糸業の特殊な賃金制,労働監督,寄宿舎制度を検討したい.
 (2)賃金制と労働監督.
 (i)等級賃金制の特質とその機能
 日本の製糸業に特有な等級賃金制は,同産業の労務管理の一つの要点であった.
 この等級賃金制についてはすでに数多くの研究が存在しているので,ここではその研究に依拠しながら,過度労働との関連でその主要な特質およびその機能に限定し若干述べたい18).
 第1に注目すべきは,等級賃金制は一種の出来高払い制であるが,普通の出来高払い制と違って,等級賃金制の場合,各労働者の賃金は,各労働者の作業成績と全労働者の平均作業成績との比較で決定されていることである.したがって,平均作業成績が上昇した場合,以前と同じ作業成績をあげた労働者の賃金は減少する結果になる.
 第2に,等級賃金制の場合,製糸家はあらかじめ賃金支払総額を決めることができたが,これに対して各労働者の賃金は事後的に決定されるので,この賃金形態は労働者間の競争をあおり,結局,労働強化の要因となった.
 とりわけ,手工的な性格が強かった繰糸作業の場合,等級賃金制の故に極端な賃金格差が生まれたのである.
 第10表は,いくつかの諏訪の製糸工場に存在していた繰糸工女の賃金格差を示している.
 ここにみられるように,明治末期に高能率の工女の賃金は実際に低能率の工女の賃金に比して4倍以上のものであった.そして,注目すべきは,賃金格差が傾向的に増大したことである.この傾向は等級賃金制の複雑化によるものであると思われる.特に,1880年代後半から生糸の品質(繊度・類節・色沢・切断等)にもとづいた賞罰制の導入はその要因となっていた.
 最後に,第11表が示すように,一般に製糸工女の賃金は極めて低い水準にあり,農作日雇女子労働者の賃金をわずかに超える程度であった.また1903
第10表 繰糸工女の賃金格差(夏挽)
第11表 工女日給賃金の推移(1894-1903年)
(明治36)年には,紡績賃金と製糸賃金は逆転し,以後一貫して紡績賃金の方が製糸賃金を上回っている.以上のように製糸工女の賃金は繊維産業の中でも低い水準にあり,それは農村の貧困と密接に結びついていたのである.
 (ii)労働監督
 労働強度の増加との関連で諏訪製糸業の労働監督―当時の言葉で見番または検番制度―が等級賃金制とともに中心的な役割を演じていた.
 1901(明治34)年の調査にもとづいた『職工事情』は,すでに「見番制度」の存在を確認している.すなわち「長野県ニ於テハ(中略)工場ノ監督者ハ男子ヲ以テ之ニ当シ該地方ニ之ヲ称シテ見番ト称フ此見番ナル者ハ工場ニ於テ工女監督ノ全権ヲ掌握スル」のである19).
 なお,諏訪地方の労働監督の特質・機能については,『社会政策時報』に発表された1917(大正6)年の調査の報告が詳しく興味深いので,以下はそれによりながら,「見番制度」について述べたい20).
 まず注目すべきは,「検番というのは工場内の各繰糸作業室に一人づつ配置されてゐる男工であって,(中略)通例二十人乃至五十人の女工の現業監督を為すものである」.
 一般に14-15歳の小僧から雑役に使用されながら,養成された見番の職務は「第一に女工の募集である.(中略)検番は其の年度に於て自分の監督下に属すべき数だけの女工を必ず募集するの業務を有してゐる」.この点に関しては,滝沢秀樹が実証したように,それぞれの見番は「特定地域から集中的に」工女の募集をおこなっていた21).このようにして同地域出身の労働者を同じ作業室に就業させることによって,一方では労働集団内における対立をおさえ,他方では労働集団間の競争をあおることが図られたと思われる.
 実際,「検番の第二の職務は其の受持作業室の工程上の成績を挙げることである.毎日始業から終業に至るまで彼等は間断なく女工の作業状態を監督し,毎朝一回に其の前日に於ける各女工の繰糸量を読み聴かせ,各半月毎に其の期間に於ける各作業室の成績の良否にしたがって工場主から授けられる紅白旗(好成績を示す)又は黒旗(不成績を示す)を担ぎ廻って女工を激励するなど,女工の作業能率を増進せしめるために一切の手段を講じた.
 注目すべきは,検番の給料を始め其の地位の昇進は,専ら其の受持作業室の成績の良否に依存していたのであって,能率に対する検番の手段を選ばない熱心は主として此処から生ずるのである」.
 つまり,以上からうかがえるように,製糸家は見番を巧みに利用することによって,工女に一層の労働強化を押し付けたのである.
 だが,諏訪製糸工場における工女の監督は作業室に限定されず,実に寄宿舎制度の存在により工女の私生活にまで及んでいた.次にこの点の検討に移りたい.
 (3)寄宿舎制度周知の如く,寄宿舎制度は戦前の日本の繊維産業に一般に存在していたが,諏訪地方においては特に普及していた.いうまでもなく遠隔地から募集された多くの工女の存在は,寄宿舎制度の導入の一つの原因であった.とりわけ,1890年代から頻繁におこなわれた工女の移動・争奪を防ぐためにも寄宿舎制度の機能はより重要になっていた.さらに,1894(明治27)年に諏訪の製糸家が述べたように,「工女ヲ寄宿セシムル時ハ仮令若干ノ費用ヲ要スルト雖モ,其一身ノ行状例ヘハ就褥,離褥,就業ニ至ルマテ悉皆之ヲ監督スル事ヲ得」るので,寄宿舎が製糸業の労務管理形態の要点になっていた22).
 以上のことは,寄宿舎の取締りをみても,明らかである.たとえば,1904(明治37)年の■[ヤマト]製糸場の「寄宿舎規則」をみよう23〕.
 まず注目すべきは,■製糸工場で就業しているすべての者は例外なく,寄宿舎に宿泊しなければならなかったことである.
 つまり,「凡ソ工女ハ(中略)寄宿舎ニ宿泊セシメ自宅或ハ下宿ヨリ通勤ヲ許サズ」と規定されていた.この規則は■の独自なものではなく,むしろ諏訪地方の製糸工場に一般的なものであったと思われる.たとえば,尾沢組製糸場の場合にも同様な制度が存在していた24).
 ここで明らかなように,寄宿舎は遠隔地出身の工女のために設けられた施設というよりも,むしろ諏訪の製糸工場の労務管理の一つの要点として導入された.
 そして,■製糸工場の「寄宿舎規則」によれば,就寝時間も定められ,凡そ午後10時と決定されていた.そして工女寝室の取締りのため若干の老婦(俗に夜番とよばれていた)を以て「終夜室ノ内外ヲ巡邏セシメ(中略)常ニ一般ノ工女ノ動作ヲ監察シ,(中略)工女不品行ナル者アルトキハ,直チニ場長ニ告ゲ其処分ヲ請フモノトス」るようになっていた25).さらに,工女の外出は厳重に制限されていた.『職工事情』によれば,「工女ノ外出ハ頗ル不自由ニシテ諏訪地方ノ如キハ概ネ之ヲ許サス若シ事故アリテ之ヲ許ストキハ附添人ヲ附シテ監督セシム」という26).1910(明治43)年の諏訪郡笠原組分製糸場の工女外出簿も示すように,製糸家は工女の外出及びその理由を徹底的に調べた27).
 ここで十分明らかになったように,寄宿舎の生活は極めて不自由で,製糸家により完全に管理・監督されていたのである.
 なお,以下に,長野県の約120製糸工場を対象として1917(大正6)年におこなわれた農商務省の調査に依拠して,寄宿舎の実態をみたい28).
 すでに述べたように,寄宿舎は大体工場内―すなわち製糸家の直接の監督の下―にあり,多くの場合,事務所の階上に設置された.一般に木造で,寒さを防ぐために窓を小さくして,甚だしい場合,採光窓はまったくなかった.
 寝室の面積に関しては,長野県において最も多くは8坪(26.5平方メートル)と15坪(49.7平方メートル)との間にあったが,60坪(198.6平方メートル)を越える大広間もあり,これに畳100畳を敷き詰め,100人以上の工女が収容されていた.工女1人当り畳数は驚くべきものであった.第12表のように,平均して1人の工女に対して0.7-1畳しか与えられなかったが,半畳以下の場合もあった.
第12表 長野県製糸工場寄宿舎の工女1人当り畳数(1917年)
 寝具に関しては,同調査によると寝台を用いる1,2工場を除き,一般的に畳を使用し,稀には畳の代りにたんに藁=をしき,または板葺の上に直接に蒲団をしく場合もあった.そして1組の蒲団には大抵2人,甚だしい場合3人の工女を収容した.50の大規模な工場の内1床に1人の工女を収容するのは4工場にすぎなかった.
 いうまでもなく,このような状況の下で過度労働のために疲労した心身を,夜間の睡眠によって回復することは不可能であった.
 なお,諏訪の大規模な製糸工場においては,明治末期から寄宿舎とともに,医療・教育・娯楽施設が設けられるようになっていた.以下,このいわゆる「福利施設」の実態を検討し,その役割・意義について論じたい.まず医療施設をみよう.
 1901(明治34)年の12月と翌年の3月におこなわれた農商務省調査によれば,1897(明治30)年前後から諏訪のおもな製糸工場において病室が設置されはじめた29).
 たとえば,同調査によれば,1894(明治27)年に片倉製糸の本部であった三全社はすでに病室として平家建を新築した.そして,1899(明治32)年に諏訪郡王川村の信光館は,同じように病室として平家の建物を新築した.しかし,この建築物は実に患者のためのバラックにすぎなかった.800人以上を雇傭していた三全社の場合,病室は18坪(59.58平方メートル)の小さな建物であり,そこに36人もの患者が収容されていた.
 なお,三全社の場合,同調査によると,業務上負傷したものに対して工場側は医薬代および食料を給し,そのうえに全快するまで給料を支給していた.そして,「癈疾者トナルトキハ其軽重ニ依リ相当ノ金員ヲ給」したが,業務上の負傷,病気を規定する基準は明らかではない.おそらく,その範囲は非常に限られていたと思われる.さらに業務上の負傷,病気ではない場合には工場主は「病気中ハ食費滋養品ヲ支給」していたが,薬代は患者から徴収していた30).
 1900年代後半に入ると,医療施設および扶助の制度は普及し,1910(明治43)年に諏訪の製糸業者の共同病院として「平野製糸共同病院」が設立された31).
 しかし,このような医療施設は「福利施設」というよりも,むしろ不足していた労働力を維持する目的で,劣悪な労働環境が生み出した数多くの病人を収容するための施設であったといってよい.
 なお,医療施設とともに,明治後期から諏訪地方の大規模な製糸工場において,若干の教育活動がおこなわれるようになっていた.1901(明治34)年の農商務省の調査に対する回答をみると,当時の諏訪製糸工場において特別な教育施設はいまだに存在していなかったが,片倉製糸場,三全社,信光館という大規模な製糸工場において,定期または臨時に講話,幻灯が主催されていた32).片倉製糸場の場合「毎月一回乃至三回定期又ハ臨時ニ講話会ヲ開キ(中略)修身斉家衛生及技術上等ノ講話ヲ」主催し,「講話者ハ僧侶教員及所員等ナリ」といわれていたが,信光館の講話者の内には巡査さえもふくまれていたのである33).
 明治末期になると,この時期に発展した「通俗教育」の一面として,より体系的な教育活動がおこなわれるようになっていた.
 たとえば,1911(明治44)年ごろに尾沢組において「学校ノ設備ナシ,教化訓育ノ方法トシテハ教室ヲ設ケ一ケ月約三四宛事業修了後,一時間乃至三時間位ノ範囲ニ於テ教育,修身,家事,衛生其他事業上有益ナル講話ヲ為ス,牧師,僧侶又ハ・専門家等臨時招聘スルモ常時ハ工場主,監督者(!)等が之ヲ為ス」という34).
 長時間労働の後におこなわれた教育がいかなる効果をもたらしたかは推測できるが,ここで明治末期に片倉組をはじめとしていくつかの製糸工場が労働者の修身教育のために発注した加藤知正の『工女訓』(1910年発行)という小冊子を検討し,製糸工場における修身講話の内容を考察したい35).
 工女にも容易に理解されるように書かれているこの小冊子は,第1に,日本の経済・軍事的発展に対する蚕糸業の貢献を指摘し,蚕糸業およびその職業の重要性を強調している36).
 特に「富国強兵」の立場から,工女の役目は事実上,兵士の役目と同様なものであると主張している.つまり,「日清日露の大戦から一足飛に世界の一等国に出世」した日本は,「何程一等国になったとても唯強いばかりでは最後の勝利を得ることは出来ないから強いと共に国が富んでゐなければなりませぬ.(中略)各自が一生懸命に働いてドンドン国を富ませて外国に負けぬ算段をせねばなりませぬ」というのが工女の役目だったという37).
 こうして国家主義に訴えて,『工女訓』は自分の職業に対する工女の誇りおよび責任感を植付けようとした.
 第2に,親に対する「孝行」とともに,『工女訓』は主人に対する「忠義」も強く訴えていた.たとえば,この点については次のように述べている.「親孝行の人は必ず主人にも忠義であるのです」.そして「昔の武士のみが二君に使へずではない,(中略)諸姉にも二人の主人を持たぬという覚悟がなければなりませぬ.(中略)その主人の恩顧を顧みずして,わが身を一文高に売らうとして今日は甲の製糸場明日は乙の製糸場と渡りあるく工女もあるやうですが,之を名づけて浮浪工女と申します.一日主人を仰いだからは永年之に使[ママ]へやうという心掛けがなければなりませぬ」というように,儒教の伝統的な倫理と近世の武士の倫理との結合を試み,当時,頻繁におこなわれた工女の移動を反社会的
な行動としてとがめ,工場主に対する工女の従属を強化することに努めていた38).
 要するに,この小冊子の内容からうかがえるように,諏訪製糸工場の修身講話は,工場主にとって有益な思想を工女に吹き込む手段にすぎなかったといえよう.
 したがって,ここで要約すれば,若干の娯楽施設を含んで,明治末期から導入されはじめたいわゆる「福利施設」は,結局のところ工女に対する工場主の管理・監督を強化したといってよい.この意味において,明治・大正前半期に諏訪製糸工場に存在していた労働関係は,大規模な製糸経営の温情主義的な労働対策にもかかわらず,実際には,劣悪な労働環境,長時間労働,労働強化,工女の私生活にまで及ぶ製糸家の監督および等級賃金制に特徴づけられた「原生的労働関係」にほかならなかったのである39).

 [注]
 1)製糸工場の設計については,『平野村誌』下巻,1932年,311ページおよび『施行規則第十八条に依る届書,平野村四冊の内その一,昭和七年』(市立岡谷蚕糸博物館蔵)を参照.
 2)農商務省『工場監督年報,大正五年』,1918年,91ページおよび前掲,『平野村誌』下巻,313ページ.
 3)前掲,農商務省『工場監督年報,大正五年』,92ページ.
 4)三谷徹「長野県製糸業一班」,『大日本蚕糸会報』149号,1904年,16ページ
 5)東京地方職業紹介事務局『管内製糸女工調査』,1925年,180ページ.
 6)『生活古典叢書,第五巻,女工と結核』,光生館,1970年,179ページ.
 7)農商務省『職工事情』第1巻,189ページ.
 8)同上,同ページ.
 9)前掲,農商務省『工場監督年報,大正五年』,91ページ,及び前掲,三谷 徹「長野県製糸業一班」,17ページを参照.
 10)イタリア,フランスと比較した日本製糸業の労働生産性については,石井寛治『日本蚕糸業史分析』,1972年,245ページを参照.
 11)『信濃毎日新聞』7208-9号,1902年2月17-18日付「工場法案に就て,県下当業者の意見,諏訪生糸同業組合副組長平林正美氏」.なお,前掲,石井寛治『日本蚕糸業史分析』,363-64ページから引用.
 12)佐野善作・小林和介『山梨県一円,長野県諏訪・伊那視察報告書』,1894年(一橋大学図書館蔵).
 13)前掲,農商務省『職工事情』第1巻,174ページ.
 14)農商務省『工場監督年報,大正六年』,1919年,97ページ.
 15)財団法人地域社会研究所,高年齢層研究委員会『高年齢を生きる―14―兼業農家のお年寄たち―長野県諏訪市湖南のくらし―』,1981年,56ページ(諏訪地方の高年齢者の聞取を集めた報告書).
 16)前掲,佐野善作他『山梨県一円,長野県諏訪・伊那視察報告書』.
 17)藤井悌「製糸女工とスウェッティング・システム」,『社会政策時報』第10号,1920年6月,21ページ.
 18)製糸業の等級賃金制度についてのすぐれた分析として,(1)大石嘉一郎「日本製糸業賃労働の構造的特質―等級賃金制を中心として―」,川島武宜他『国民経済の諸類型』,岩波書店,1968年,所収.(2)前掲,石井寛治『日本蚕糸業史分析』,291-315ページを参照.
 19)前掲,農商務省『職工事情』第1巻,200ページ.同書によれば,他の地方において「工女ノ監督ハ(中略)女子ヲ以テ之ニ充ツ即チ工女中最モ技術ニ熟練シ且ツ久シク勤続シタル者ヲ抜=スルヲ常トス,某地方ノ工場ニ於テハ関東著名ノ工場ヨリ精熟セル工女ヲ聘シ之ヲ女教師ト号シ以テ工女ニ対シテ技術ノ教習ヲナサシムルト同時ニ工場監督ノ事ニ当ラシムル処アリ」(同上,同ページ).
 20)前掲,藤井悌「製糸女工とスウェッティング・システム」,13-20ページ.
 21)滝沢秀樹『日本資本主義と蚕糸業』,未来社,1978年,395-408ページ.
 22)前掲,佐野善作他『山梨県一円,長野県諏訪・伊那視察報告書』.
 23)「諏訪郡■製糸場工女取締并寄宿舎規則」,『長野県史,近代史料編第五巻(三),産業,蚕糸業』,1980年,869-70ページ.
 24)東京高等商業学校『職工取扱ニ関スル調査』,1911年,89ページ.
 25)前掲,「諏訪郡■製糸場工女取締并寄宿舎規則」.
 26)前掲,農商務省『職工事情』第1巻,203ページ.
 27)前掲,『長野県史,近代史料編,第五巻(三),産業,蚕糸業』,878-79ページを参照.
 28)前掲,農商務省『工場監督年報,大正五年』,91-131ページを参照.
 29)農商務省商工局『各工場ニ於ケル職工救済其他慈恵的施設ニ関スル調査概要』,1903年.
 30)同上,37ページ.
 31)前掲,農商務省『工場監督年報,大正五年』,124ページ.
 32)前掲,農商務省商工局『各工場ニ於ケル職工救済其他慈恵的施設ニ関スル調査概要』,5-6ページを参照.
 33)同上,17-18ページを参照.
 34)前掲,東京高等商業学校『職工取扱ニ関スル調査』,15-16ページ.
 35)『工女訓』に関しては,『岡谷市史』によれば,1910(明治43)年に諏訪製糸同業組合はこの小冊子を推薦していた.そして200部を申し込んだ片倉組をはじめとして,いくつかの工場がこの本を発注した.修身教科書のように使用されたと思われる(『岡谷市史』中巻,590ページを参照).
 36)加藤知正『工女訓』,1910年,10ページを参照.
 37)同上,4-6ページ.
 38)同上,22-23ページ.
 39)劣悪な労働条件に対して工女の抵抗がなかったわけではない.事実,工場主側の監督,そして工女間の競争の故に,工女の組織化は非常に困難であったが,1890年代後半以後,工女の抵抗は,移動・逃亡という消極的な形態として現れたのである.労働者の登録制度をもって,工女を一定の工場に強制的に定着させることを図った諏訪の製糸同盟の設置にもかかわらず,このような抵抗は存続し,結局,製糸同盟の対策の失敗をもたらした.
 この点については,東条由紀彦「製糸同盟の女工登録制度の変遷について」,『土地制度史学』第101号,1983年10月がくわしい.
[中村政則/コラード・モルテニ]