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技術革新と女子労働

Title: 終章
Author: 中村 政則
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1985年
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終章

 Ⅰ

 女子労働は,社会的に劣位におかれた労働力である.歴史的にみても,女子労働力は,男子労働力の補完部分として,また家計においては補助収入源としての機能を果たしてきた.それゆえに,賃金・労働条件その他の面でつねに低い地位しかあたえられてこなかった.今日においても,この事情に基本的な変化はない.
 1984(昭和59)年10月,労働省が発表した「婦人労働白書」は,夫のいる女性3042万人のうち,働いている女性(就業者)が,50.3%,1531万人となり,専業主婦の1472万人を初めて超えて過半数に達したことを明らかにした.わが国も他の先進工業国と同じように,“兼業主婦”の時代に入ったのである.このうち目立った変化は,35歳以上の層が女子雇用労働者の60%を占めるなど「高齢化,高学歴化,勤続年数の長期化」の傾向がいっそう進行していることである.また,身分の不安定なパート・タイマーが初めて300万人を超えた.
働く女性の労働条件は依然として厳しく,女性の平均賃金は中高齢層(40歳代)では男性の70%にしかならないことなどが示されているのである.以上のことを考慮するならば,婦人労働問題は今後もますますその重要性を増大させることが予想される.
 本書は,最近,注目をあびつつある婦人労働問題を「技術革新と女子労働」という観点から扱ったものであるが,先行業績が少ないこともあって,いくつかの重要な知見を加え得たものと信ずる.そこで最後に,各章の内容を要約しつつ,本書の結びとすることにしたい.
 わが国の工業化過程において,女子労働者が重要な位置を占めるようになったのは1890‐1910(明治23‐43)年頃の産業革命期であった.1900年代の工業労働力約80万人のうち60%が女子労働者であった.産業革命期の女子労働者は,主として綿紡績業,製糸業,織物業,マッチ製造業,煙草製造業,麦稗真田・花鑓製造業,石炭鉱業に集中していた.
 序章は,これらの産業分野に働く女子労働者を六つの類型に分け,これが産業構造や生産技術の変化とともに,どのように変容ないし解体していったかをのべている.産業革命期に編成された女子労働者が第一次大戦期をへて戦時期にいたるまで,いかに変容・推移したかを具体的なデータをもって示したのは,おそらくこの仕事が初めてである.また,産業革命期以来,女子労働者の典型とされていた繊維工業女子労働者に代わって,戦時期になると重工業部門に新しいタイプの女子労働者が出現した.この新しいタイプの女子労働者は相対的高学歴の都市型労働力であって,戦後の高度経済成長期に登場した金属・機械産業の若年女子労働者の祖型をなすものであった.この点は,戦前と戦後のつながりを考えるうえで興味ぶかい一論点を提出していると言えよう.
 次に,第1章は,これまでに研究の蓄積の最も厚い製糸労働者を対象としたものである.この論文で,とくに留意した点は次の点であった,最近,「技術の社会史」と銘うって,製糸業が対象に取りあげられることが多いが,ともすると技術の変化のみに重点がおかれ,労働主体に対する考察が手薄になりがちである.しかしながら,そもそも生産力という概念は,労働対象・労働手段・労働主体の三つの要素から構成されるものであって,生きた人間の労働力に対する考察を欠く「技術の杜会史」などというものは存在し得ない.従って,我我の考察は,製糸技術の変化を追うと同時に,それが労働主体(=製糸労働者)のあり方にどのようなインパクトをあたえるかに重点をしぼって分析を加えることとした.その結果,判明したことは技術の水準が労働力の質をきめると同時に,逆に,労働力の質が技術の水準を大きく規定するということであった.
とくに製糸技術の機械化において決定的意味をもつのは,接緒器の機械化である.接緒作業は製糸労働の約50%を占める基本的生産工程に属し,製糸技術の機械化はいつにかかって接緒作業の機械化にあった.しかしながら日本の製糸家は,接緒器の機械化には最後まで消極的であった.なぜか.第1に,固定資本投資を行うだけの資金力がなかったこと,第2に資金力は.あったにしても,手に熟練を有する,低廉・豊富な女子労働力が存在する限り,コストのかかる接緒器の導入はむしろ損失と考えたためである.
こうして接緒器の機械化は大幅に遅れた.1919(大正8)年にはV字型固定接緒器は製作されていたが,これが大製糸工場に普及するまでには十数年を要したのである.そしてこのことが製糸労働者のあり方を基本的に規定した.製糸業における劣悪な労働環境,低賃金,長時問労働あるいは寄宿舎制,等級賃金制などは,いずれも女工の手工的熟練に依存する製糸技術の水準と密接に関連していたのである.
 第2章は,炭鉱男子労働者と違って,これまであまり研究されることのなかった炭鉱女子労働者に焦点をあてたものである.炭鉱女子労働者が本格的に形成されたのは,産業革命以降のことであった.産業革命期における日本石炭産業の機械化は,運搬過程の機械化,つまり主要坑道への惓揚機の導入にとどまり,採炭過程は機械化されず,依然,単純な道具を用いる手労働に依存していた.そのため採炭現場では,夫(先山)が鶴嘴で石炭を掘り,妻(後山)が石炭を主要坑道まで運ぶという,夫婦共稼の家族的な就労形態が支配的となった.そして,この苛酷な採炭労働を管理する手段として納屋制度が確立した.しかし,1920年代に採炭部門の機械化が進行すると,女子労働力は排除されていった.採炭機械化をうながしたのは,1920年代の慢性不況による石炭市況の悪化と輸入炭増加による経営合理化の要請および鉱業労働保護立法であった.1920年代の技術革新で重要なのは,残柱式から長壁式への採炭様式の転換,発破採炭法の普及,コール・カッターやコール・ピックなど採炭機械の使用および切羽運搬機械の導入であった.以上の一連の技術的合理化の過程で,炭鉱労働からの女子労働の排除は比較的スムースに行われたが,それが可能となったのは解雇された女子の副業奨励政策が採用されたこと,福利施設や地域・家族ぐるみの組織化など資本による労働者の統合政策が高度に展開されたことによる.しかし,1937(昭和12)年以降の戦時経済体制のもとで,労働力不足が進むとふたたび女子労働力が充用されることとなった.本章のメリットは,何よりも産業革命期から戦時期にいたる炭鉱女子労働者の存在形態を具体的に明らかにしたことにある.とくに内閣統計局『労働統計実地調査報告』(1924年)を使って,炭鉱女子労働者の年齢・学歴・就業年数を分析したのは初めての試みであり,また採炭夫と選炭夫の二つに分けて両者の特徴を比較検討していることも新しい作業と言ってよい.
 第3章の「都市下層の女子労働」は,明治期から大正期における大都市(主として東京市と大阪市)の下層女子労働力の就業構造の変化を,工業化の進展と関連させながら分析している.従来,都市下層杜会を対象とした研究は,戦前の日本杜会全体が下層的であったとみる見解と第一次世界大戦を境に,大経営労働者が都市下層社会から離脱していく過程を重視する見解とに分かれていた.これに対して,本論文は,都市下層杜会がそれ自体のロジックをもって動いていることを論証しようとつとめている.すなわち工業化,都市化の進展および景気変動の波によって都市下層の住民構成は流動的であり,職業構成も大きく変化した.1870‐1880年代のいわゆる本源的蓄積過程では,都市下層民の職業構成は最も多様であり,女子の従事する職業も(1)力役型,(2)職人型,(3)雑業型,(4)工業型の四つに分かれていた.ついで,産業革命期になると工業化の進展を反映して,都市下層の女子労働力は主としてマッチ製造業と繊維工業へ吸収されていった.この時期の女子労働は,低熟練,低賃金,過度労働を基本的特徴としていた.都市下層社会が最も大きな変化を受けるのは,第一次世界大戦期のブームの時である.東京市の例でみると,1911‐1912(明治44‐45)年に市内総人口の12.6%であった「細民」は,1920(大正9)年に3.4%へと激減した.労働市場は売り手市場となり,都市下層の男子労働者は下層杜会から離脱し,重工業大工場へ雇われるようになった.以後,都市下層の男子労働力は,中小零細経営に勤める者がほとんどであった.世帯主(男性)の賃金が上昇するにつれて,妻の有業率は1911‐1912(明44‐45)年の70%から1921(大正10)年には40%に低下した.妻の収入に依存しなければ生活を維持できなかった都市下層の規模は,縮小にむかったのである.しかし,1920年代の後半から下層民の数はふたたび増勢に転じた.1927(昭和2)年の金融恐慌,1929(昭和4)年末から始まる昭和恐慌の過程で失業者が増加し,彼らは雑業層としてふたたび下層杜会に沈澱した.これ以後も,日本経済の浮沈により都市下層杜会は収縮・膨張をくり返すこととなる.本章は,1870年代から1920年代末にいたる都市下層杜会の動態を分析したこと自体に意義があるが,本書のテーマである技術革新との関連は,十分に解明することはできなかった.しかしながら日本の工業化が,その過程で都市下層社会をたえず再生産していたことは,日本の近代化の一側面を考えるうえで忘れてはならないことである.余談になるが,定例の研究会で,この報告を聞いたブラジルの一研究者が,「屑拾い(廃品回収業)が職業として成り立っているのは,世界でも日本だけのことではないか」と述べたのが奇妙に印象に残っている.都市下層杜会は,国により,民族により,それぞれ独自の展開をとげているのであろう.
 第4章は,第二次大戦後の技術革新と女子労働の関連について,農業と漁業を代表的産業分野とする家族自営業に焦点をあてている.戦後の日本経済の急成長は,農家・漁家戸数の急減,さらに家族世帯員中の若年・壮年男子労働力の農・漁業外雇用への流出をひきおこした.その結果,家族自営業における女子労働の比重が増大することになった.女子労働の比重を高めた最大の要因の一つは,技術革新によって農・漁業労働が女子労働に代替できる度合が増大したためである.しかし,技術革新が農・漁業労働にあたえた影響は一律ではない.農業の中心である稲作では,土地改良,水利改善,品種改良,農作業の機械化が大幅な省力化を可能にし,農業労働の中心的担い手を壮年男子から女子,老人へと移行させた.いわゆる「女子農業」化の進展である.これに対し,施設園芸や沿岸漁業においては様相はいちじるしく異なっている.とくに漁業における技術革新は,漁業種類ごとに多様な進展をみせた.漁船漁業においては,漁船の動力化,高速化,大型化がすすみ,また漁網綱の材質が綿から化学繊維に変わるなど労働強度の軽減と漁獲能率の向上がすすんだ.その結果,漁労従事者の高齢化と一定程度の女子化とが可能となった.ノリ養殖業では養殖技術の開発,海上作業技術の改良,燥機の導入によって女子労働の比率が増大した.しかし,ノリ養殖漁家のもう一つの特徴は,農業を兼業する世帯の比率が高いことである.ここでは,養殖技術の改善が,逆に,農業への依存度を高めていることを示している.これに対し,海中に潜ってアワビ・サザエなどの貝類を採捕する海女漁業では,技術革新を拒否し,数百年前からの操業方式がいぜんとして維持されているのである.以上,本論文の特長は,これまで注目されることのなかった自営漁家の女子労働に最大の焦点をあてていることにある.自営漁家の女子世帯員の就労は,年齢・世帯のタイプ・労働市場の展開度・自営兼業部門の存否等の要因に大きく規定されていた.これらの要因を考慮しながら,漁業種類ごとの女子労働のあり方を豊富なデータを用いて明らかにしたことは,本論文のメリットと言えよう.
 最後の第5章は,技術革新と女子雇用労働との関連を高度経済成長期を中心に検討してい葦・高度経済成長期は女子雇用労働力が急増した時期であり,なかでも既婚・中高年女性の労働市場への進出がめざましかった.女子雇用労働力の急増をもたらした供給側の要因としては,家事労働の省力化,耐久消費財購入費・レジャー費・教育費の増大による家計の膨張,そのための補助的収入の必要,女性のライフサイクルの変化など,生活構造の激変があげられる.他方,需要側の要因としては,男子労働力の不足,技術革新による機械化・自動化,それによる女子の雇用機会の増大がある.女子の進出がめざましい職種は,製造・事務・サービス・販売等である.就労形態は,短期間雇用の非正規従業員,いわゆるパート・タイマーが大きな比重を占めた,パートの比重が高いのは,主婦が正規従業員として働くには杜会的条件が十分整備されていないこと,雇用側にとっても安価で雇用調整の容易なパートの方が有利なためである,他方,フルタイムの職種で,若年女子の進出がめだつのは電気・精密機械などであるが,その大半は単純不熟練作業か補助的作業に従事しており,専門的技能職に従事する者はごく限られている.また新しく開けたコンピューター関連産業でも,労働密度が高く単調な作業のために,労働疲労度が高く,労働移動率が非常に高い.賃金の男女格差も依然として大きい.高度経済成長は,女子の大幅な職場進出を可能にした反面,新たな男女差別を生み出していることを無視することはできない.さらに女性のライフサイクルの変化により,現代日本の女性は自分達の母親が経験しなかった育児終了後の中高年期を経験することとなった.この時期をいかに有意義にすごすか,これはひとり中高年女性の問題にとどまらず,現代日本杜会の重要問題の一つになっていると言えよう.

 Ⅱ

 本研究は,冒頭でものべたように「技術革新と女子労働」における「日本の経験」を総括し,それを途上国の参考に供するという意図をもって出発した.しかし,アジアの途上国に限ってみても,これらの国々の現況と,「日本の経験」との間には,大きな隔りがある.かつて明治期の日本が経験したような都市下層人口の膨張が,これらの国々で見られるのは確かであるが,それと同時に,戦後日本の高度成長期におけるような技術革新が進行して却り,日本が「経験」したことのない問題を生みだしているのである.
 また,アジアの国々といっても,韓国・台湾・香港・シンガポールなどのアジアNICs(新興工業国),マレーシア・タイ・インドネシア・フィリピンなどのASEAN加盟の東南アジア諸国,インド・パキスタン・バングラデシュ・スリランカなどの南アジア諸国等のグループにわけて考えられることが多いし,それぞれのグループ内においても,国ごとに,工業化の度合や杜会構造,民族的伝統は異なっている.女子労働という観点から,これらの国々を見ても,その姿は各国ごとにおどろくほどの相違をみせている.これは,男子の労働力率が,先進国・途上国を問わず,ほとんど同じようなパターンをとっているのと対照的でさえある(第1図).
アジア諸国のうち,データ入手可能な11カ国を対象として,各国の女子労働力の現況を描き出すような指数をまとめたのが第1表である*.これらの国の中には,統計数値そのものに問題があったり,労働力構成における変化が急激で統計が現在の状態を必ずしも反映していない場合もある.
第1図 年齢別労働力率の変化
第1表 アジア11カ国の労働力構成
しかし,これらの数字から,アジアにおける女子労働力の大まかな特徴やパターンを読みとることは可能であろう.
まず第1の特徴としてあげられるのは,出生率が高く,したがって若年人口層が厚い国々が多い点である.これは,従属人口指数(14歳以下と65歳以上人口を15‐64歳人口で割ったもの)であらわされている.従属人口といっても,実際には14歳以下の子供がたくさん働いている国が多いことは考えに入れなければならない.また,パキスタンとタイがほぼ同程度の割合の従属人口をかかえていることを指数は示しているが,これら従属人口を実際に養っている労働力人口をみると,タイにおいては女子の比率が非常に高いことがわかる.従属人口の圧力が女子の高い労働参加によって緩和されているといえよう.一人っ子政策を推し進めている中国では,従属人口指数は62.6%(1982年)1)にまで低下してきている.さらに中国においては,労働力人口の約半数(43.7%)2)が女子であることも注記しておきたい.
 第2に,アジアの多くの国においては,農業就業者の割合が高いことを指摘しておきたい.シンガポール,香港は別としても,第一次産業就業者が30%以下であるのは,日本,台湾,韓国のみである.日本では1960年代の高度成長期に,30%から大幅に低下している.今後アジア諸国での第一次産業就業者数の変動が予想されるが,その際に女子労働力にどのような影響があらわれるだろうか.女子農業就業者の大部分は,かつての日本がそうであったように,家族労働者である.日本においては,女子農業就業者の減少は,女子の労働力率の低下をもたらしたといわれている.つまり,農家の減少とともに,かなりの数の家族従業者が,就業より遠ざかったわけである.しかし,近年,女子労働人口の実数は増加傾向にあり,ことに,中高年層の第三次産業進出がいちじるしい.このように,産業構造の変化の影響を受けつつも,長期的にみると女子労働力は増加レていくと考えられる.なお,中国の農・牧・林・漁業就業者は,全就業者の73.7%であり,女子就業者の78.0%がこの部門で働いている3).
 第3に,同じアジァの農業国といっても,タイの労働力人口2人のうち1人は女子であるのに対し,パキスタンでは10人に1人が女子というように,女子の労働参加率が各国によって相違が大きい点をとりあげたい.先にも述べたように,先進国・途上国を問わず男子の労働力率は高率で,各国ともほぼ差がない(19歳以下の層における就学率の影響はみられるが)のに対し,女子の場合には10%台から70%台にわたる実に様々な数字を示している.一般的にいって,女子労働力率(15歳以上女子人口に占める労働力人口の割合)は先進国において高く50%以上を示す国が多い4).15歳以上の女子人口を5歳ごとに区切り,各年齢層における労働力率を結んでグラフにしたものを見ると,各国の女子労働力の特徴が良くわかる.第2図は,アジア11カ国の年齢別女子労働力率の描くパターンを労働力率の低いものから順に並べ6タイプに分類したものである.各タイプごとに簡単に説明しておこう.
 (Ⅰ)女子の労働参加率のきわめて低い国々である.アジアでは,パキスタンの他に,バングラデシュがあげられる.この他にも,アフリカのアラブ系諸国,中東の石油輸出国,中南米の農業国などの中に,このタイプが見受けられる.たしかに,イスラムやカソリックなどの宗教的戒律が,女子の杜会的進出を阻む要因として働いているのは事実であろうが,同じイスラム教国,カソリック教国でも女子労働力率が40%を越す国々も存在している.今後,他の要因の変化とともに,これらの国々においても女子労働力率の増加は可能であろう.
 (Ⅱ)インド・スリランカにおいては,女子は農業従事者が圧倒的に多数を占める.インドの年齢別女子労働力率の描き出すなだらかな山型のパターンは,典型的な農業国の女子の就業状態をあらわしている.ただ,スリランカにおいては,女子が家族従業者としてよりも,プランテーションなどの雇用労働者として働く比率が倍以上に高い.また,近年,輸出加工区などで製造業部門で働く若年女子労働者が増加しているため,スリランカのパターンは変化をみせはじめている.
 (Ⅲ)インドネシア,フィリピン,マレーシアの描くパターンは,脱農業国を目ざす国々の過渡期のパターンとも言いうる.しかし,工業国の指標である第二次産業における雇用労働者比率は,インドネシア,フィリピンともに,まだ高いとはいえない.マレーシアにおいては,家電・エレクトロニクス産業への若年女子労働者の進出が注目されている.
 (Ⅳ)人口規模が小さく農業部門がきわめて小さい香港とシンガポールは,特殊なタイプといえるだろう.しかも,女子労働者は若年層が主であり,結婚退職後中高年層が労働市揚に再登場しないという特徴をもつ.ただ,近年において,香港のパターンに多少変化が生じてきている.
 (Ⅴ)韓国と日本は,若年層と中高年層がそれぞれピークをつくる典型的なM字型パターンを示している.イギリス准ど西欧諸国にもみられるパターンであり,スウェーデンも1970年代にはM字型であったといわれる5).
第2図 アジア11カ国の年齢別労働力率
日本・韓国モデルを用いて2025年までのアジア諸国の労働力率予測をおこなった嵯峨座論文6)によれば,2025年には,インド,スリランカ,インドネシア,フィリピン,マレーシア,タイのすべての国にM字型パターンが認められるという.M字型は,女子労働力率の典型パターンと奪るのであろうか,今後の推移をみまもりたい.
(Ⅵ)タイは,アジア諸国の中ではきわだって女子労働力率の高い国である.この意味では,先進国の中でも最も女子労働力率の高いスウェーデンによく似たパターンを示している(スウェーデンの1981年の女子労働力率は74,1%7)).第3図を見ると,若年層における就学率の相違からくる差を除けば,どちらがどちらの国かわからないほど,両国のパターンはよく似ているのである.しかし,タイの女子労働者の70%以上が農業就業者であり,しかもそのうち80%が家族従業者であるのに対し,スウェーデンの女子労働者の80%が第三次産業に就業しており,全女子労働力人口の90%以上が雇用者であるという事実は,両国の女子労働の状況が両極端といってよいほど異なっていることを示している.
第3図 スウェーデン(1982年)およびタイ(1980年)の年齢別労働力率
途上国のなかで高い女子労働力率を示す国は,他にアフリカのルワンダ,ブルンディ,タンザニアなどがある.中国の女子労働力率も高く,70%(1982年)程度と推定される8).
 第4に,女子就業者の第三次産業への集中傾向について述べておきたい.日本を含めた先進諸国においては,この傾向が定着しているようであるが,途上国においても,第二次産業よりも第三次産業に女子労働者が流入する傾向がみられる国がある.これは,一つには,これらの国々において第二次産業の雇用吸収力が低いためであろう.また,南アジア諸国などにみられる一つの傾向として,繊維産業などの特定の分野への女子労働者の参加が低いという点も指摘しうると思われる.つまり,多くの国々で女性産業とうけとられている繊維産業でさえ,これらの国々では男子の職場と考えられているようである.このように,女子就業者の状況は,先進国・途上国のちがいによるだけではなく,国ごとに多様なのである.
 以上,労働力率を基準にアジア諸国の女子労働を六つのタイプに分けてみたが,これは労働市場の発達の度合い,女子労働の雇用機会の大小,男女労働の代替性の度合いなどを反映していると見てよいであろう.しかしながら,このほかに雇用後の賃金の上昇率,昇格の速度あるいは雇用前の就学率,教育内容などの要因をも考慮すれば,この分類はもっと違った形になる可能性がある.たとえぱ一例だけをあげると,学歴の差が女子労働者の雇用条件を大きく規定している国は非常に多い.インドでは,高等教育を受けた女性の中には中央・州の公務員や私企業の管理職に進出している者もあり,賃金・昇格の速度は男性に比べて劣るものの,男女間の格差はそれ興ど大きくないといわれている.これに対して,教育水準の低い女子は,農業労働のほかは土木作業,都市部の住込みの手伝いなど不安定かつ劣悪な労働条件のもとで働くことを余儀なくされている.この上層と下層への両極分解的傾向は,バングラデシュプフィリピン,マレーシアなどにも共通して見られる現象であって,このような観点からの類型化も場合によっては可能なのである.したがって,上記の六類型化もあくまで一つの試みにすぎないことを断っておかなければならない.以上のことを考慮するならば,「日本の経験」を途上国の参考に供するといっても,事柄はそう単純ではないことが判明しよう.
 総じていえば,目本の場合,一部の例外をのぞき,技術革新は女子労働者に対して雇用機会創出の役割を果たしてきた.つまり技術革新の展開と女子労働力の比重の増大とが,比較的パラレルな形で進行したといってよい.しかしながら,第二次世界大戦前と後とではその条件は大きく異なっていた.戦前は,製糸女子労働者・炭鉱女子労働者の例が象徴するように,きわめて劣悪・苛酷な労働条件のもとで家計補助的低賃金を得るにすぎなかった.企業の側も,従順で低廉な労働力が豊富に存在する限り,技術革新には消極的であった.ところが,戦後になって農地改革・労働改革が実施され,女子の教育水準も高まってくると,戦前のような「女工哀史」的労働条件は基本的には消滅した.とくに1960年代の後半から労働力不足の時代に入ると,女子の雇用機会はいっきょに拡大した.電気・精密機械工業における技術革新,オートメーション化が男子労働力の女子労働力への代替を可能にさせ,大量の若年女子労働者がこれらめ産業に吸収されていった.また,技術革新の結果,産業構造が変化し,第一次産業から第二次産業,そして第三次産業へと労働者の比重が高まるにつれて(日本の場合,第三次産業の比重は,1970年代に与割を超えた),事務・サービス・販売部門への女性の職場進出が目立つようになった.先述のM字型の就業構造もこの産業構造の転換をぬきにして考えることはできないのである.こうして,高度経済成長は,女子労働のあり方に根本的な変化をもたらし,女子雇用労働はわが国の就業構造を左右する一大要因となったのである.
 以上のような女子労働の動向は,韓国・台湾・香港・シンガポールなどのアジアNICsにも大かれ少なかれ見出せる.工業発展がすすめば,これらの諸国もまた日本が経験しつつある問題に直面することになろう.というよりもすでに経験しつつある国もある.他方,農業従事者が依然として5割を超える東南アジア諸国や南アジア諸国では,工業の発展のみならず,土地改革・農業技術の発展がどのようにすすむかによって女子労働の将来も大きく左右されよう.第二次大戦後の「日本の経験」(とくに農地改革・労働改革・教育改革など)がそのことを示唆していると考えるのである.
 いずれにせよ,アジアの中の日本という視点に立って,本書の研究成果を位置づけなおすには,もっと広範囲の学際的共同研究が組織されなければならない.本書をまとめるにあたって私炉痛感したのは,この点であった.国際連合大学,アジア経済研究所は,そのような学際的共同研究のオルガナイザーとしては最適の位置にある.本書の出版を機に「技術革新と女子労働」の共同研究が専門の枠を超えて組織されることを願わずにはいられない.
最後になってしまったが,本書が出来上がるまでには実に多くの方々のご協力を得た.特に,一橋大学経済学部の永原慶二教授,東京大学経済学部の石井寛治教授にはすべての原稿に目を通していただき,適切なコメントをいただくことができた.さらにアジア経済研究所の林武,多田博一,平島成望,星野妙子,明峯晶子氏からえた暖かい励ましとご協力には心から感謝申し上げなければならない.
 1985年9月
 中村政則
[注]
*以下のアジア諸国の女子労働力構成についてのサーベイには,アジア経済研究所広報部の明峯晶子氏の協力を得た.
1)『中国総覧』1984年版,298ページ.
2)同上,305ページ.
3)同上より算出.
4)先進国における女子労働力については,次の論文が詳しい.兼清弘之・早瀬保子「女子の労働力参加と雇用・失業問題」,南亮三郎・永野朝夫編『先進工業国の雇用と失業』,千倉書房,1985年.
5)同上,99ページ.
6)HaruoSagaza,“Labour Force Projection for Asian Countries,1980‐2025”,大友篤・嵯峨座晴夫・早瀬保子編『発展途上国人口の将来動向:構造と動態』,アジア経済研究所,1985年.嵯峨座論文は,日本と韓国の都市化率と労働参加率をモデルとして推計を行っている.この結果,同論文も指摘しているようにM宇型パターンの影響が強くあらわれているのも事実であろう.
7)兼清・早瀬論文,96ページ.
8)『中国統計年鑑』1984年版,97,102ページより算出.