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都市と技術

Title: 第2章:東京の都市下層社会と「細民」住居論
Author: 石塚 裕道
Publisher: 国連大学出版局・国際書院
Published Year: 1995年
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第2章:東京の都市下層社会と「細民」住居論

1 東京の開花と市街地改造論

 築地居留地・銀座煉瓦街と都市スラム

 19世紀後半,維新変革を契機に成立した明治国家は欧米列強による「半植民地化の危機」のもとで,富国強兵・殖産興業政策を推進することにより,東アジアで唯一の“独立国”となった。
 1868年,開市とともに東京は市街地の一角に外国人居住区域(築地居留地)を設定することをよぎなくされたが,そのことは,まもなく建設を開始する銀座煉瓦街とあわせて,当時,東京が“半植民地型”の都市構造をそなえていたことを意味する。しかしその後,明治国家がすすめる富強政策にこたえ,東京は西欧都市にならって都市改造事業を施行し,“富国強兵”型の都市へ転換する1)。
 しかも,築地居留地と銀座煉瓦街が横浜新橋間の官設鉄道の敷設により,当時,最大の貿易港であった横浜と直結された以上,海外に向けての表玄関を,政府が国家威信の強化のためにも整備する必要があった。その背後で,条約改正の達成が当面の至上課題になっていたことは,いうまでもない。
 築地居留地が外国人を対象としたかれらの居住ないし滞在の地域であり,銀座煉瓦街が日本人向けの洋風建築物であっても,いずれもそれらの建設には,当時,その基盤をもたなかった洋式建築技術の摂取・移植が不可欠の前提であった。
 1867年に布達された居留地規定の適用によって,東京開市とともに着工された築地居留地の建設は,隅田川右岸の築地鉄砲洲を中心に「ホテル館」と合計53区画(1区画当たり・平均約500坪程度)を埋める洋式建築群の完成をその目標とした2)。
 外国人技術者の指導下にあったとはいえ,この未知の実験に取り組み建築活動のにない手になったのは,江戸時代におもに民家建築を担当した町棟梁職人徒弟の系列を軸とした仲間組織であり,明治初年以降,かれらは請負方式で官庁または民間工事を手がけた。例えば,町棟梁から横浜居留地での「異人館」建築の実績をもって築地ホテル館・第一国立銀行などを建設した清水喜助(第2代),あるいは一大工として居留地建築で技術を修得し,後に工部省で官庁営繕の第1人者となった林忠恕をあげることができよう3)。これらの若干例は,そうした居留地の建設工事の過程で,日本人の棟梁・大工たちが洋式建築の洋式と技法を摂取したことを示している。
 当時の居留地の外国人住宅には,西欧の木造「コロニアル・スタイル」の建物をモデルに,単純な左右対称の平面構成をとり,壁体・外装も瓦葺・なまこ壁・漆喰塗りで,南面にベランダをつけるという形式が多かった4)。そしてそれらは外形は洋式建築であっても,細部の技術的処理は日本人技術者による伝統的な在来技法に基づいた「擬洋風」木造建築であったといえよう。
 銀座煉瓦街は,1872年2月,銀差・京橋・築地一帯に偶発した大火を契機として,「帝都」の威容を整備するために,大蔵省と東京府が担当してすすめた最初の市街地改造事業であった5)。築地の外国人居留地を背後に,新橋停車場から北上する15間道路を軸線として,その両側に西欧の新古典主義洋式を取りいれ,柱廊に支えられるバルコニーをめぐらした2階(計画では3階)建の煉瓦家屋約1400戸が,ほぼ1877年ごろに完成した6)。工事はイギリス人技師の指導のもとで,日本人の職人が多数動員された。建設資材として必要な赤煉瓦の大量生産を,小菅煉瓦所の新設・操業と瓦職人の転業で解決したうえ,大工・石工・とび職人まで雇用された。ロンドンの街区にならった銀座煉瓦街の造成は,本来,東京全体を洋式不燃都市化するための試行実験としての意義をもつが7),財源の不足,技術と経験の未熟,方針の不安定に加えて立退き問題などをめぐる住民の抵抗などのため,当初の建設計画さえも後退したかたちで,しかも後半の工事の一部は縮小,ついで放棄された8)。
 築地居留地の洋式建築とあわせて,銀座煉瓦街の建設は西欧都市の市街地の部分的な移植・模倣であり,いわば日本におけるミニ・ロンドンの出現であったともいえよう。
 ただ,それらの街区と建築群は,明治初年以降も繰り返される大火に対して,家屋の外壁に煉瓦造・石造の不燃材を使用するなど,一応の防火対策の機能が配慮されてはいたが,その防災効果は疑問であり,しかも耐震構造については無防備に近かった。
 しかし居留地の外国人住宅や銀座煉瓦街の景観は,住民にとって,幕末開港より20余年後に出現した日本のなかの“異国”であり,文明開化の象徴でもあった。「万国対峙」のための「上から」の欧米文化の導入は,一般民衆の間に少なくない「カルチュァ・ショック」をともないながら,隔絶した外国文化水準の高さとその基盤を固めつつあった明治国家権力の威信をうえつけたであろう。
 国家権力による都市改造事業が「上から」の都市づくりという性格で推進される場合,そこでは住民無視ないし住民不在のかたちで政策が強行される。築地居留地と銀座煉瓦街の建設についても事態は例外ではなかった。
 築地居留地が設定された地域は,当時「舟子漁夫の巣窟」で「市街狭斜,屋宇破壊,中央に一空地,塵芥山をなし……都人呼んで築地の原9)」といわれたように,その一部には,零細な漁家が集中する細民の集落がひろがり,また明石町には彦根・阿波・中津・福地山その他の諸藩邸が集中していた。居留地の建設に当たり,政府は入札によって,これらの武家地と藩邸を有償買い上げの方針で接収したが,貧困な下層民の移住について補償がなされた記録はない。
 また銀座煉瓦街では,その着工直前の新橋・銀差・築地一帯が小商人・職人・日雇・大道芸人などの下層民や雑業者の居住する都市スラムであったうえ,工事はそうした地域住民の強制退去を前提に推進された。またその地域の人力車夫・芸者屋などからの転居延期願も却下され,営業補償願いも無視された。しかもその費用の分割払いを認めたにもかかわらず,竣工煉瓦家屋の払下げ価額が高額であったため,結果としては,もとのスラムの下層民をそうした地域から排除することになった。
 そしてそのような権力の行使を前提に,殖産興業と文明開化政策のもとで推進された官公庁営繕事業とそれによって建設された官庁・軍事施設・会社・銀行・学校その他の洋式建物の増加が10),この時期の東京の様相を変化させていったことは事実である。しかしまた同時に,当時,政府の一支配者が,その実態を「日本橋近辺一里四方位の開化」と指摘したように11),東京の開化は,基本的には旧江戸の市街地の形態を大部分そのまま残したままの洋式化であった。
 したがって一部の洋式建築物の増加とは対照的に,市街地人口の主要な部分を占める都市の住民とくに下層民の住居,具体的には江戸時代以来の多数の「裏長屋」に代表される零細で粗末な住居が洋式建築物に近接し,それを包囲する形態で存在していたことに注目したい。
 東京全地域にわたって,その実態を表1からみよう12)。まず洋風または石造家屋のなかで京橋区に建築された合計922棟は,銀座煉瓦街を示し,そして西洋造・石造の合計9棟のなかには築地居留地の多数の外国人住宅なども含まれていたことは明らかである。また日本橋中心の「一里四方」の4区に洋式建築の大部分が集中していたことも伺われる。さらに下級家屋について,当時,おもに都市下層民の住居と推定される柿(こけら)葺〔うすい板葺の屋根〕や杉皮葺などの家屋がとくに集中していた地域は,日本橋区の約1万棟を筆頭に神田・京橋・芝の各区がそれに続く。そして日本橋を軸とした市街地中心部の各地域では,家屋の総棟数のなかに占める下級家屋の比率が5ないし6割に達していた。そうした割合は15区全体についても変わらない。
表1 構造別による東京15区の家屋棟数(1879年)
 また京橋区を始め,日本橋・神田の各区では,洋式家屋や上・中級家屋とともに,多数の下級家屋が併存していたことも示されている。つまりそこでは表通りの洋式や石造の家屋・瓦葺・塗家・土蔵などに対して,裏通りに多くの下級家屋が存在し,それらが集中していたところでは,都市スラムさえ形成していたことを推測させる。
 そうした都市下層民とかれらが形成するスラムは,明治前期の東京全体で,当時,よく知られた地区のみに限っても,少なくとも110カ町以上数えられる13)。
 こうして,京橋区の一角に建設された築地居留地・銀座煉瓦街そして若干の官庁洋式建築群と,それらをかこむかたちで東京全域にひろがっていた都市スラムとの対比が明らかになろう14)。

 都市下層民と市区改正論

 廃藩置県以前の東京市街地の構成は,ほぼ朱引の範囲に限定すると,全面積の7割弱(1170万坪余り)を占める武家地と,あわせて2割強に過ぎない寺社地(266万坪)および町地(270万坪)から成り,それぞれ,およそ50万人強の武士・町人がそこに居住するという,いわば山手の武家地に相当する“過疎地帯”と,下町の町地を中心とした“過密地帯”の2類型の組み合わせを,その特徴として指摘することができる15)。
 江戸時代を通じて農村構造の変質・崩壊を背景に,江戸後には東京へと流入する没落小農・貧農層の増加が零細な小商人・職人また日雇・人夫・大道芸人などの都市雑業者をも生み出し,またそうした多数の下層の店借層の登場が,市街地内部にスラムを形成した。
 後の明治期に知られる東京の三大「貧民窟」(鮫ヶ橋・芝新網・下谷万年町)が原初的なすがたで登場するのも,17世紀末であったといわれる16)。
 幕末期にそうした都市スラムは増大する流入人口を加え,『藤岡屋日記』17)などによれば,日本橋・京橋区を取りかこむかたちで,城東・城北一帯また城西・城南地区にわたって,広範囲にひろがり,江戸の打ちこわしに参加した窮迫貧困者の有力な拠点になった18)。
 これらの下層民の実数は,明治初期に7万人余りともいわれ,また10万人ないし30万人とも記録され,場合によっては市中人口の過半が,それに相当したとも推定される。
表2 東京市の火災統計と罹災危険率(1884―1912年)
 都市スラムで木造バラックかまたはそれに等しい劣悪,ときには老朽化した「細民」長屋に過密な人口が集中する場合,まず問題になるのは火災と伝染病の発生であろう。かって「江戸の花」といわれた火災は明治初年以後も頻発し19),また「三日ころり」と呼ばれて恐れられたコレラその他の伝染病の大流行も,ともに当時の民衆を直撃した深刻な都市問題であった20)。
 1872年2月の大火が銀座煉瓦街の建設の契機になった事情は前述したが,そこで当時の府知事由利公正が煉瓦街と道路計画によって,東京市街地の不燃化構想を主張したのがその最初であった21)。銀座煉瓦街の建設事業は中途で挫折・後退したとはいえ,本来は全東京の洋式不燃都市化計画を意図しており,その後もそうした考え方は,後に見るようにかたちをかえて,当時の市区改正論に影響を与えた。
 最初に市区改正計画が日程にのぼった時期は,1876年の第6代府知事楠本正隆のときであったが,その後,1879年,次の府知事に松田道之が内務官僚から転任するとそれが具体化した。それを促進した契機は,とくにその年から,毎年,連続して市内に発生した大火災であった。とくに1879年と1881年の大火は「明治の二大火災」といわれ,日本橋・神田などで各回ともに,1万戸以上の家屋を焼失するという大被害を記録した。これらのなかには,延焼しやすい柿葺や杉皮葺などの「細民」の裏長屋が多数含まれていたことは間違いない22)。
 そのころ東京府は,市街地の中心部で最下層民の一集団住地域であり,焼失した神田橋本町その他合計約6700坪を買収して府有地とするなど,取りあえず,部分的に市街地の改造事業に着手したことがあった23),本格的な市区改正は,同府知事による「東京中央市区劃定之問題」(1880年)の起草とほぼ同時に,市区改正委員局が府庁内に開設されたころからであった24)。この松田府知事の市街地改造構想の特徴は,財政規模から「貧富雑居シ家屋定度ナキ」「中央市区」(旧日本橋・京橋両区および神田区の東半分で「下級家屋」の最も多い地域)の範囲を制限し,その地域を対象に,道路・河川・海岸の整備や火災予防・市街地改造事業などを施行して,「貧富」二民を分離させ,スラム・クリアランスを推進することにより,この都心部の高層化とビジネス・センター化を実現するという計画であった。
 この考え方は,その後,1882年に第8代府知事(内務官僚兼任)に就任した芳川顕正にも引きつがれた。そのころ,経済評論家田口卯吉が東京改造論・市街地改造論・火災予防論,また福沢諭吉が煉瓦街建設論などを主張し25),また海軍軍医総監高木兼寛や医師松山棟庵なども,伝染病予防の立場から「細民」の住居改良論を展開するなど,その他の新聞論調ともあわせて市区改正に多くの関心が集中した。
 とくに田口の政治的立場は,反政府の自由民権派の考え方に共通していたにもかかわらず,その発想は市区改正審査委員の渋沢栄一などを通じて東京府の改造構想にも影響を及ぼした。
 かれの「細民」住居論に関連する主張は,「火災予防法」(1881年2月),「東京家屋の有様を改良する難からず」(1885年1月)などに代表される26)。その要点として市区縮小・道路拡幅,住居の煉瓦化と高層化が説かれていた。しかしそこでは高層化論といっても,一階を商店,二階をその家族の住居,三階を書生・小官吏の居住にあて,4・5階に下層民を住まわせるという発想で,それは職業差別をともなった都市スラムの立体化論であったといえよう。
 それに対して府当局関係者その他の見解には「市区縮小・貧富分離論27)」が一貫して支配していた。それは支配者が都心から貧民を追放し,かわってそこを占拠するという,根本的には都市問題を未解決にしたままでの市街地の「近代化」「西欧化」であり,政府の富国強兵政策に対応する都市計画であったと考えられる28)。
 しかもそうした市街地改造の方針は,その後の火災予防・道路制限・家屋規制の実施の方向で具体化されていった。


1) 石塚裕道『日本近代都市論 東京:1868―1923』(東京大学出版会,1991年)50ページ。
2) 「築地居留地」(『都史紀要』4東京都)90ページ以降。『東京市史稿』市街編,第50―52。なお「東京百年史」第2巻117―27ページも参照。また居留地設置をめぐる建築技術関係史料は『日本科学技術史大系』17・建築技術(第1法規出版株式会社)に重要なものが収録されている。築地ホテルについては,とくに堀越三郎『明治初期の洋風建築』(南洋堂書店)のなかで,その構造・規模が復元された。
3) 稲垣栄三「日本の近代建築』(丸善株式会社)41―45ページ。『清水建設百五十年」同編纂委員会編,32ページ以降。伊藤ていじ『日本の工匠』(鹿島研究所出版会)235ページ以降。なお清水は現在の清水建設株式会社の設立者である。
4) 時期はずれるが,当時の築地居留地の鳥瞰図が『米国聖公会雑誌』(スピリット・オブ・ミッションズ)1894年3月刊に掲載された。これは小木新造/前田愛編『明治大正図誌』1・東京(1)(筑摩書房)141ページに,「東京のなかの外国」として復刻されている。教会やベランダつきの建物もうかがわれて興味ぶかい。
5) 銀座煉瓦街に関する基本史料は『東京市史稿』市街編第52―59,『銀座煉瓦街の建設』(都史紀要3・東京都)および前掲『日本科学技術史大系」17・建築技術281ページ以降に掲載されている。
6) 『東京百年史」第2巻 932―34ページ。
7) 桐敷真次郎『明治の建築』(日本経済新聞社)70ページ。ここで著者は,銀座煉瓦街の建設を担当したイギリス技師ウォートルス(T.Waters)がロンドンの中心市街地リージェント・ストリートをモデルにしたことを指摘している。現在のリージェント街は建築家ナッシュ(J.Nash)の設計で,改造以前には,もともと街路にそった両側の建物の全面に長い柱廊付きのバルコニー・アーケードが配置された洋式であった。しかしこのため建物内部が暗いという理由で後にそれが撤去され,現状のように改められた。つまり銀座煉瓦街の原型は改造以前のリージェント街に求められよう。しかも銀座煉瓦街と類似の建物は,かつて香港・シンガポール・カルカッタなどの中心街にも登場したことがある。こうした事実とともに,集団的な欧米外国人居住区(例えば「居留地」)をもっていた都市として,上海・マカオ・ボンベイなどがあり,それらの諸都市は,かつてのイギリスの植民都市であった。そのことは,銀座煉瓦街・築地居留地などを含む明治初年以降の東京の性格も,当時,そうした東南アジア・インドでのイギリスの植民都市にきわめて近い“半植民地型”の都市であったことを示している。
8) 稲垣栄三前掲書 115―17ページ。日本建築学会編『近代日本建築学発達史』(丸善)981ページ以降。冷牟田純二・川上秀光「明治5年大火後の銀座煉瓦街の建設事業について」(『日本建築学会論文報告集』54,1956年)662-63ページ。
9) 『東京繁昌記』(前掲『築地恐竜値』所収)340ページ。
10) 石塚裕道『日本資本主義成立史研究―明治国家と殖産興業政策―」(吉川弘文館)表6―2―6参照。
11) 『木戸孝允文書』青木周蔵宛書翰(明治9年6月11日)第7巻13―14ページ。なお日本橋周辺の一里四方の地域とは,当時の麹町区東部(丸の内)・神田・日本橋・京橋の各地域に相当する。
12) 本表の基礎になった調査が実施された1879年は,一応,銀座煉瓦街の工事が終了した時点ではあったが,築地居留地については建設の途中であった。居留地の建設・施設が整備され,その居住外国人数がもっとも多くなる時期は1890年ころである。
13) 石塚裕道『東京の社会経済史』(紀伊国屋書店,1977年)130ページ。
14) 築地居留地に北接する京橋区の本港町・新湊町・元島町・長崎町・松屋町・岡崎町(呉文聡「東京府下貧民の状況」,西田長寿『明治前期の都市下層社会』25ページ参照)には,江戸時代から,当地の旧藩邸の下級武士などの日常の需要に応ずる零細な小商人あるいは河岸地の荷役労務を担当する日雇稼ぎなどが裏長屋に居住していた(玉井哲雄『江戸町人地に関する研究」近世風俗研究会,181,185ページ)。
15) 前述の武家・寺社・町地の面積は1869年の数字。『区制沿革』(『都史紀要』5,東京都)2ページによる。
16) この点については,前掲石塚裕道『日本近代都市論』129ページ。
17) 『藤岡屋日記』については吉原健一郎『江戸の情報屋幕末庶民史の側面』(日本放送出版協会)に詳しい。
18) 南和男『幕末江戸社会の研究」(吉川弘文館)6ページ以降。
19) 『東京市史稿』変災編第5参照。
20) 石塚裕道『日本近代都市論』84ページ以降。
21) 由利正通編『子爵由利公正伝』399―401ページ。煉瓦街の建築による都市不燃化構想は幕末期に一部の洋学者により説かれ,19世紀始めからの都市計画の一つの潮流であった。
22) 表2に見る通り,1884年から1912年までの28年間の火災件数はきわめて多く,とくに神田・浅草・日本橋・芝各区の危険率が高かった点が注目される。
23) 神田橋本町は当時の神田川右岸。柳原土手の南部に当たる「貧民」の密集地(現在の「東神田」)。ここには江戸時代以来,寛永寺支配の「願人長屋」があり,「願人坊主」(「門付け」などをする乞食僧)が集住する町として知られていた。
24) 石田頼房『日本近代都市計画史研究』(柏書房,1987年)33ページ以降。
25) 田口・福沢の意見については,石塚裕道「19世紀後半における東京改造論と築港問題」(東京都立大学都市研究組織委員会編『都市の成立とその歴史的展開』2所収)38―42ページ参照。
26) 『鼎軒田口卯吉全集』第5巻102,183ページ以降。
27) 石田頼房。前掲書,55ページ。
28) なお『朝野新聞』(明治19年3月3日)には,「細民住所の制限」の記事があり,このころに,かれらを本所・深川・千住一帯に移住させたいと,第9代府知事渡辺洪基が上申したと伝えている。

2 産業革命期の都市スラムと住宅問題

 産業革命期における都市社会の特徴のひとつに,農村から都市への加速度的な人口移動とその後者への集中があり,さらにそのことによる都市の住民(労働者階級とそれに転化する産業予備群を含む)の生活困難の発生がある。
 いわゆる「都市問題」とよばれる一般住民の生活困難は前近代社会にも存在したが,資本主義の形成・展開に対応する一方での資本の無計画な集中と,他方での労働力人口の無秩序な堆積がかれらの貧困化をいっそう促進する。
 都市問題は,資本制社会において都市化がもたらす社会矛盾の帰結であり,それは都市民衆を破壊する,ないしはそれに導く社会問題(例えばスラム)あるいは環境問題(具体的には火災・伝染病・公害など)として現れる。そしてとくに人口が過度に密集したせまい都市空間であるスラムで,そうした社会問題と環境問題が結合する。以上のほか都市問題の内容には,過密がもたらす住宅・土地・上下水道また犯罪・非行その他の諸問題が含まれる1)。
 その意味で,かつて「貧民窟」とよばれたスラムは,都市における集積の利益を相殺する過密の弊害の根源であったといえよう。
 都市スラムとはなにか。従来,その定義をめぐって,必ずしもその内容は確定していない。しかし,そのおもな特徴をいえば,まずそれは低所得(ときには失業・無職)の下層民の高密度集団居住地域であった。そこでは,せまい不良の木造平家連続住宅(とくに「裏長屋」)に下層民の単身者ないし単婚家族が密集していたが,劣悪な居住条件のため悪疫・伝染病が発生し易く,また火災の場合には類焼の危険度が高かった。なおスラム居住者のなかには特別な隠語を使い,非スラム住民に対して,閉鎖的意識をもつ場合もある。
 しかし以上のいくつかの条件がそろわなくても,劣悪な木造住居の密集地域一般をスラムと呼ぶ場合が多い。
 明治期のなかばまで,こうしたスラムを形成する東京での都市下層民の実態については調査を欠いているため明らかでないが,『経済及統計』第20号所収の「東京府の窮民」の統計(1891年,各警察署の調査)は,そうした数値を物語るもっともはやい時期の統計であろう。そこでは「窮民」といっても,警察に確認された極貧者に限定され,その意味では下層民の一部に過ぎなかったと考えられる2)。
 そして,1891年ころの都市スラムの地域分布についていえば,市街地の中心部と近郊農村の接点いわゆる「新町」「場末町」の一部に,それらが集中していた事実を見ることは困難ではない。
 とくに下層民の住居は,江戸時代以来の旧五街道(東海道・甲州街道・中仙道・奥州街道・日光街道)の要所であった四宿(品川・新宿・板橋・千住宿)も含めて,海岸や河岸などのように利用目的が明らかでない地域(例えば芝新網など),あるいは寺院の集中している郊外(例えば浅草の一部),交通の便がよくて生活上有利な場所(四谷・鮫ヶ橋など),またさきの条件とあわせて軍事施設の裏町や低湿地・避病院・墓地・火葬場のそばなど,一般の住民が敬遠する地域に集まる傾向があった3)。
 1881年を起点とした松方財政による資本蓄積の強行のもとで,土地を喪失した小作貧農などの都市域への流入を背景に,そうした人口の膨張も加えて,この時期に,江戸時代以来のスラムとそれを中心とした都市下層社会がいわゆる「貧民窟」としてすがたを現し,それらは産業資本の確立に応じて拡大していった。
 こうした東京の下層民の実態については,当時の新聞・雑誌・著書などに関連記事が掲載されている4)。
 そうした都市スラム関係史料に一部の「細民」調査の結果も加えて5),産業資本確立期における東京の下層民を中心に,その生活構造(家族構成・職業・収支など)と住居形態をここで検討しよう。
 従来の研究で6),いわゆる都市の下層民について,「貧民」(不熟練筋肉労働者)と「細民」(家族労働によりようやく家計を維持しうる下層生活者)および「窮民」(その他の雑業者)の3類型が確認されているが,これらの区分は職種による類型化であって,必ずしも所得(生活)水準のそれではない7)。
 まず明治期なかばの下層民の世帯規模と家族構成についていえば,2人から数人までにわたって世帯規模は分散していたうえ,夫婦1組に同居の子供も加えた寄合世帯であり,長屋の1室に必ずしも1家族ではなく,相当数の家族が同居人と起居をともにしていた。また子供を含む欠損世帯や単身者も,それにまじって雑居していたようである。
 そうした都市スラム居住者の職業が,きわめて多彩な内容を示していたことは前述したが,またそれらは,労役の必要度によって「力役型」(人力車夫・日雇その他の「貧民」に相当する)と「雑業型」(職人・小商人・芸人・雑業者などの「細民」に相当する)の職業に2区分することも可能であろう。そして妻の大部分は「内職」に従事していたのみならず,年少の子供も生計補助(単身者の場合には自己の生存)のために就業せざるをえず,なかには乞食や非行・犯罪者も含まれていた8)。
 そうした下層社会で居住者の代表的な職業のひとつとして,松原岩五郎『最暗黒の東京』,横山源之助『日本の下層社会』などがあげているのは,まず人力車夫である。単純で原初的な都市内交通機関として明治初年に発明・創製された人力車は,手工的技術をもたないスラム下層民の手ごろな職業であり,また後には上京の「書生」の学資の収入源にさえなった9)。その大部分は「借車引き」の営業形態で,東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加し,低い下層民の職業収入のなかでは,多少,所得水準が他の職種をこえていた点が注目される。
 ついで「裏長屋」の一部を構成する階層に職人があり,かれらは問屋資本―荷主仲買人の支配下にあった居職人と,労働用具を持参して野外に作業場をもつ出職人とに区分される。東京の場合,前者では日常生活に必要な「雑貨手芸品」などの生産者が多く,親方徒弟制のもとにあった。後者には大工・左官・石工などの建築関係者が多く(火災の続発がその理由である),棟梁―職人―徒弟制を軸にしていた。資本制生産の発展に対応して,かれらが賃労働者化しつつあったことについては,すでに指摘されている10)。
 そのほか各種の「力役型」の日雇人足,多彩な職業内容の「大道芸人」なども「裏長屋」の住民であったが,当初,かれらとともに,職工がそのなかに含まれていたことは重要である。
 産業資本の確立期に発展する大規模な機械制工場(例えば東京砲兵工廠・芝浦製作所その他)や紡績工場(鐘紡・東京紡),あるいは印刷・マッチ工場などはスラム下層民の労働力の一部を利用するため,その近辺に立地条件を求め,また「細民」のなかからも,しだいに工場労働者に雇用される例が現れた。
 日露戦争直前に編集された『職工事情』(農商務省,1903年)が示す当時の男子職工の平均賃金は,「力役型」下層民とほぼ同水準であったが,その後,重化学工業の発展に対応して,工場労働者の平均生活費の収支が上昇すると,20世紀以降都市下層からのかれらの離脱がすすみ始めた。表3は,その段階での都市スラムの分化の契機を内包する下層民の職種別賃金の実態を示している。
表3 明治末期の本所・深川区におけるスラム居住者の平均収入
 以上みた都市下層民の生活を前提に,つぎにその住居の分析に移ろう。
 もともと江戸の市街地では問屋商人が集中していた日本橋一帯を除き,各地域平均して借家の比率は高く5―7割前後を占め,その状態は明治初期以降も同様であったといわれる。しかも裏通りや横丁に入れば,下層民居住の「裏長屋」が市街地の中心部や場末の町を問わず,東京全域にひろがっていた。
 江戸時代から,毎年連続発生する都市火災は,それに強風などの自然条件が加わった場合,1回で焼失家屋数が500戸,千戸,そして時には1万戸を超える大規模な人災となった。それに対応する防災方法は広小路や火除地などを設ける伝統的対応策か,木造家屋の不燃化などであったが,後者については,すでに銀座煉瓦街の建設の失敗により,当面,それを市街全域にまで拡大しえず,一般民衆は火災に対して,無防備な状況に放置されたままであった。
 こうした状態のもとで,貸家を建てる家主は平均3―5年で家屋が焼失することを予測し,その期間に投下資本を家賃によって回収する必要があり,低コストで高家賃(しかし「裏長屋」では,それにも限界があった)の木造住居を建築しなければならなかった。つまり当時の木造バラックに等しい下層民の住居の家賃には,いわば「火災保険料」に相当する部分の負担が含まれていたことになる11)。しかも粗末なこけら葺(うすい板ぶき)などの家屋はまた火災に弱いという,いわば悪循環が繰り返されてきたといえよう。
 いわゆる長屋,せまい敷地に低廉な建築費で建設される木造連続住宅であり,それは都市における貸家(借家)の基本形態であった。
 その原形は図1に示されるように,井戸と共同便所(上・下水道の近接した関係がコレラなどの「水系伝染病」の原因となった)を中心に,下水溝の両側に配置された各棟を,それぞれ数室に区切った形式をとる。
図1 裏長屋(普通長屋)の平面図
 いわゆる「9尺2間」(3坪)の裏長屋1室が1戸(同居人も含む)の間取りという場合がもっとも多かったが,なかには最低(1室)2畳から(2室)10畳以上,さらに3室を賃借する借家人もなかったわけではない(表4参照)。なお明治末期における都市スラムの家屋構造の実態を集計した同表によれば,合計に占める(1室)4.0―4.5畳の賃借人の割合は、金杉下町では8割弱,万年町では4割強となり,後者の場合では,1室でもより広い部屋また2室を借りる例が増加していた。また後者ではこけら葺より亜鉛葺の比率が高く,同じスラムでも,住居の改善が進んでいたことを示している。
表4 家屋の構造別による下層民の住居(1911年)
 通例,長屋をめぐる貸借関係は地主(または家主)―家守(大家)―店子の諸階層にわけられ,ふつう「大家」といわれる長屋の管理人(明治初年に「地所差配人」と改称)が借家人の「店子」を管理した。
 江戸時代以来,大家の権限は広範囲にわたり,かれらは長屋の入口の借家1室(1戸)を無償で供与され,“生活共同体”としての長屋の中心的指導者の役割も兼ねて,借家人の私生活にまでたちいり,長屋全体を支配した。
 家賃支払いの方法は,明治期なかばにおいて日払が普通であったが,明治末期にはそれが全体の2割程度にまで減少し,月払いが6割まで増加した。そうした背後には家賃の不払いや延滞をともないながら,「流民」型の借家人にかわって,一定期間,裏長屋に定住する下層民の割合がふえてきたと考えられる。
 そして長屋内部で共同利用の井戸まわりを中心に,主婦などの炊事・育児・洗濯などの日常生活行為が情報交換をまじえながらおこなわれた(「井戸端会議」)。このような地主(家主)―家守―店子の階層関係をたて軸とする下町の「長屋」の組織が衛生・自警・兵事・祭礼・慶弔などの町務の一部を担当・代行したところから,そこに「町内会」の発生を見ることも可能であろう。


1) 石塚裕道『日本近代都市論』108―111ページ。
2) これよりさきに『統計集誌』第48号(1884年5月調査)に「東京府下乞食原籍別」の統計(乞食の総数348人,ただし概数),また『東京府統計書』(1886年)に「府下国費救護人員」(区郡部の男女合計464人)が掲載されている。これは区郡別の集計で,なかでも日本橋区(68人)・芝区(68人)・浅草区(65人)・京橋区(56人)などが上位にあった。
3) 石塚裕道『東京の社会経済史』129―30ページ。
4) 例えば「府下貧民の真況」(『朝野新聞』1886年3月24日―4月8日,西田長寿『明治前期の都市下層社会』所収),「府下貧民の統計及事故」(『国民新聞』1890年6月15日―6月20日),「窮民彙聞」(同新聞,1890年6月15日―6月20日),呉文聡「東京府下貧民の状況」(『スタチスチック雑誌』1891年,第57号,『日本労働運動史料』第1巻所収),松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年),「東京の貧民」(『時事新報』1896年),「東京府下の寒食者」(『統計集誌』216,1897年),横山源之助『日本之下層社会』1899年)など。
5) その例に『細民戸別調査』(内務省,1911年7月と翌年7月―1912年10月調査)とそれを分析した津田真澂『日本の都市下層社会』(ミネルヴァ書房)がある。
6) 隅谷三喜男『日本賃労史論』(東京大学出版会)108―11ページ。
7) 以上の3類型の区分にしたがって,それらの内容を「昨今の貧民窟」(1)(芝新網町の探査)(『報知新聞』明治30年),横山源之助『日本の下層社会』などにより,例示する。
 貧民人力車夫・車力・土方・井戸掘り・人夫など。
 細民各種の手工業職人・職工(日常の衣類,雑貨や玩具・化粧具類などの生産者が,当時東京ではとくに多かった)。
 窮民各種の(大道)芸人や雑業者・流民・乞食その他。とくに当時の大道芸人には,大道講釈・かっぽれ・ちょぼくれ・軽わざ・こままわし・人形つかい・門付け三味線・住吉踊り・巡礼・角兵衛獅子などがあり,現在,それらのほとんどは消滅した。それらの具体的内容については『権田保之助著作集』第2巻(文和書房)所収の「大道芸人」(ただし1923年ごろの調査)に詳しい。また平出鏗二郎『東京風俗志』(1901年)にかれらの風俗が図示されている。
8) 「東京の貧民」(『時事新報』1898年)には「乞食小僧」の見出しで,その実態が掲載されている。
9) 人力車については斉藤俊彦『人力車』(産業技術センター),とくに第6章人力車夫のくらし,参照。
10) 資本制社会における「徒弟制」の特質とその変化については,隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』(御茶の水書房)68ページ以下参照。
11) 1913(大正2)年の本所横川町(当時の代表的スラムのひとつ)における貸屋経営の例によると,坪5円の建築費の貸家(4畳半1間とすれば12.5円)を,1日6銭の家賃で貸す。その年間の家賃は21.6円となる。ただし家賃の滞納・不納者が全体の5割近くに達すると指摘している(生江孝之「細民住宅問題について」『慈善』5―1号,大正2年7月所収)。

3 都市下層社会の変化と「細民」住居論

 都市スラムの新たな変化

 明治初期以降,政府の富国強兵・殖産興業政策のもとで,首都東京における資本制工業の発展には官営事業や軍事施設を中心とする国家資本が重要な比重を占めた1)。しかも生産部門における国家資本は,産業資本の確立期の東京で,資本の集積に先導的役割を果たした。1900年代初めの東京に登場した会社・銀行資本(その中心は一部の官業払下げで発展の基礎を固めた財閥資本)の過大な割合は,大阪・京都などのそれを引きはなして,すでにこの時期でも全国経済支配のうえで圧倒的優位を示していた2)。
 そして他方で,資本主義の形成に応じた全国都市の発展のなかでも,東京は,地方農村における小農民経営の変質・崩壊により流出した貧農・小作人などの主要な部分を都市スラムに沈殿させた後,その一部を労働力に転化させた。
 この段階での首都東京は,政治・経済・文化の諸機能が,そこにいっそう集中すると同時に,それは,あらゆる社会的諸矛盾が都市問題のかたちで激化し始めた巨大都市に転換しつつあった。
 “都市”の包括的な定義が困難なように3),“大都市”についても明確な規定はない。従来の研究成果によれば4),過大な人口集中と地方に対する政治・文化的優越性そして経済的支配が,その一般的特徴として指摘されている。しかし基本的に大都市の特質を規定する要件には,まず資本の集積とそれに対置する人口(労働力)の集中があり,そしてそれらを前提とした都市交通の発展,商品市場の形成,社会的分業の展開などがあげられる。
 そして,こうした大都市化の進行は都市人口の激増と,都市への資本の集中集積とともに,市街地の広域化(都市スラムの移動・拡散)をもたらすことになる。
 日露戦争後における東京の下層社会の変化について,横山源之助は「貧街15年間の移動」(『太陽』1912年2月)のなかで,スラムの地価と家賃の騰貴による「貧民部落」の変化,千住・日暮里・板橋・巣鴨・新宿など(当時の市外地域)での雑業者の増加を指摘していた。また木賃宿の改策および共同長屋の新設と深川・本所方面における工場地帯の発展などにも触れていた5)。
 さらにその後,第一次世界大戦期にかけて,例えば下谷区万年町の住居改修(それは家賃の上昇に連動する)と下層民の郊外移住による人口の減少に示されるように6),東京の各地域の都市スラムが変化し始めた。そこでは市街地中心部から,都市のスプロール化によって膨張しつつあった近郊へと下層居住民が流動していったことが伺われる。
 それに加えて,すでに横山源之助も指摘したように,世界大戦期の東京における機械制工場工業の発展は,隅田川改良工事の土砂で造成した芝浦沖に芝浦臨海工業地帯(後の京浜工業地帯の一部)を登場させたうえ,ついで本所・深川両区と南葛飾郡に江東工業地帯を形成しつつあった。
 そこでは集まった多数の工場労働者により,寄宿舎(紡績工場の女子労働者が中心)と,長屋・木賃宿の居住した男子通勤労働者などから成るかれらの密集居住地区が出現した。その実態は表5に示した通りである。
表5 東京における工場労働者の住居条件(1912年調査)
 ついでその時期の都市下層社会の変化は,そこから労働者階級を分化・自立させるとともに,居住者の職種の交替をも促がすことになった。
 この時期の都市スラムの職業構成におけるもっとも重要な変化は,下層民のおもな職業であった人力車夫が,市電の発達などによる交通網の整備によって,急減したうえ,廃業した車夫の一部が「力役型」の単純労働者や雑業者に転業していったことである7)。
 都市下層民のなかで主要な職業のひとつであった人力車夫の減少とかれらの転職の動きは,スラム内部に変動をもたらしたのみならず,単純な筋肉労働による職種,例えば,人足や土工・運搬夫とともに煙突そうじ・葬式人夫・牛乳配達などの新たな雑業者の比重を増した8)。
 このように都市下層社会は一方で地域の移動をともないながら,他方で居住者の職業構成も急速に変わりつつあった。
 スラムの基本的な住居形態が劣悪な木造密集連続住宅としての「裏長屋」であり,それが火災に対して無防備な構造であった点については前述した。
 それに対して「防火線及屋上制限規則」(東京府布達甲第27号,1881年)あるいは「長屋構造制限ニ関スル件」(警視庁令第3号,1907年)などが布達され,長屋その他の建築物に対して防災のための法的規制が加えられた9)。その結果,例えば前者により,日本橋―新橋間の「路線」の両側について,3ヵ年以内に長屋建築を煉化・石造・土蔵造に改造させると同時に,裏通りの道路幅を「6尺以上」に規定するなどの措置が定められた。また後者により,伝染病の流行に対処する公衆衛生対策の必要から10),裏長屋に対する全面的な建築規制が初めて施行された。この庁令の規定のなかで,長屋1棟の戸数を12戸以内に限定し,また室内の換気・排水・採光の条件や共同便所の改善を指示するなど,違反者に対する罰則規定を併記した包括的な内容が含まれていた。
 すでに表4で見たように,1911年当時の下谷区万年町において,「亜鉛葺」屋根の下層民の住居が増加していたことを指摘したが,そこからも,法的規制のもとで,都市スラムの居住条件の改良が進んでいたことの一端を推測し得るであろう。
 ところで,第一次世界大戦を契機にさらに発展した資本主義は,事務処理能力や専門知識をもつ管理部門の中級労働者・技術者の雇用を必要としたが,それに応じて登場したのが,いわゆる「俸給生活者」であった。そうした“新中間層”としてのサラリーマンは下級官吏・会社員・軍人・巡査・教員などであり,階層帰属意識において,かれらはスラム居住の下層民とは異なっていたとはいえ,その所得と生活水準においては,当時の史料が物語るように,両者の間に明確な区別を認めることは困難である11)。
 第1回の「国勢調査」の実施期(1920年)に,約20万人と推計される東京の「小額俸給生活者」のおもな部分は12),職住分離を前提に,近郊から市街地の中心部へむけて定期通勤を必要とした。表6は,そうしたサラリーマンが,職業別にみて特定の地域に集住していた傾向を示すとともに,かれらの住居条件が平均6―9割の高率で借家に依存していたことを示している。
表6 近郊町村の借家数・借家率と市内への通勤人口(1919,1920年)
 すでに東京では,産業資本の確立期から,そうした「小額俸給生活者」の需要に応ずる営利貸家業が本格化し始めていたが,この段階になると,一戸建貸家が急増しつつあった。
 当時それらの貸家は「武家屋敷方式」を引きついで,門・塀・前庭付きの「独立型」一戸建家屋であり13),そこでは裏長屋にみられたような大家―店子間の支配・従属関係は消失し,対等の賃貸契約が広がっていた。
 しかもそうした新たな貸家の登場とともに,従来の普通「中流住宅」についても,独立の個室と西洋風応接間,中廊下付きの和洋折衷型住宅が出現し始めた。
 しかし,多数の裏店借の下層民とその生活水準にほぼ等しかった“新中間層”に加えて,なお東京に集中する流入人口の増加は,慢性的な住宅不足と家賃の引き上げ(上昇)をめぐる大家―店子間の「住宅争議」(借家人運動)に象徴される住宅問題を新たな都市問題として誘発させることになる。

 「細民」住居論と都市計画

 『細民調査統計表』(内務省,1912年)の基準によれば,「細民」とは都市スラム居住者で,所帯主の月収20円以下,家賃月額3円以下の家屋に居住する階層をさしている。かれらの大部分が,いわゆる「裏長屋」の下層民であったことについては,すでに確認した通りである。
 これらの下層民に加えて,前述した「小額俸給生活者」が「洋服細民」とよばれたように,その当時の家計内容が,エンゲル係数で60%に近く,第1回の国勢調査施行期に約20万人と推定されるその数値をさきのスラム居住者に加えれば,膨大な人口が都市下層社会を形成していたことになる。
 そして東京の市街地の中心部分をも占める「下級家屋」の「裏長屋」に対して,例えば,1880年代に田口卯吉がその改善策を提案したように,さらに産業革命期以降も,建築学(市区改正・都市計画)の立場から,あるいは公衆衛生問題,また社会福祉問題の視角から,「細民」住居論が展開された。
 以下,それらの代表的な考え方を市街地改造(都市計画)論とも関連させながら,要約紹介しよう。
1) 建築学会での議論 1919年4月,都市計画法(法律第36号)と市街地建築物法(同第37号)が制定されたため,同年の建築学会(当時の会長は曽禰達蔵)の大会において,「都市と住宅」の課題で「講演会」が開催された14)。これ以前にも,建築学者により,市区改正論との関係で住居改造論が主張されたことがあったが15),さきの大会での論議は当時の住居論(とくに「細民」住居論)を代表していたと考えられる。
 すなわち建築学会において,貸家を中心とする住宅問題は国家・社会にとって重要な都市問題のひとつであるという認識を前提に16),各論者が,住宅政策について,多様な提案を試みている。例えば都市計画の立場から,家屋の構造・高さ制限を含む「建築条例」制定の必要が検討され17),また住居地域の設定と建築線および敷地配列の重要性も指摘された18)。さらに当時,地価・建築資材・労賃などの騰貴により激化する住宅不足(その結果の家賃の上昇)の打開のため,公共団体の投資によって,下級労働者や「小額俸給生活者」を対象とした住宅の大量供給の必要も提起された19)。総じて深刻化しつつある住宅問題の解決をめざして,総合的また体系的な住宅政策の積極的な推進が多くの建築家から説かれていた。大正デモクラシー期に爆発した米騒動に象徴される民衆運動の高揚を契機として,「都市民多数の者を幸福に導く」ため,住居と生活の安定の必要を,建築家も認識せざるをえない状況がその背後にあったことが,ここに明らかである。
2) 「細民」住居の公衆衛生問題 低コストで建築される密集木造連続住宅としての「裏長屋」にコレラ・赤痢・腸チフスなどの「水系伝染病」や結核が多発し,居住者である下層民にそれらの感染の被害が集中したことは,長屋の構造における上・下水道の近接した位置(図1参照)からも容易に理解されよう。また「東京府下肺結核死亡調査」(1905年)などの統計やその他の諸史料もその実情を記録している20)。この問題について,すでに1885年,医師松山棟庵が市区改正のなかでも,築港事業より「下等社会」の衛生状態の改善の緊急性を訴え,また同じく公衆衛生論の立場から,コレラなどの悪疫の流行対策として上・下水道とくに下水道の改良の重要性を長谷川泰も力説した21)。そのほか長与専斎も公衆衛生学の観点から,和風家屋の洋式を改めるとともに,「中等以上ノ西洋風借家」の建築,火災保険制度の新設,建築条例の制定などを勧告した22)。その後,前述の建築学会の大会では,同じく公衆衛生学者遠山椿吉が家屋の日照と結核その他伝染病の感染・発生率との関係について,西欧都市との国際比較を試みながら,日本の場合の統計的検討をすすめている23)。ここでは伝染病と日照との相関関係というよりも,とくにスラム居住者の生活全体のなかの諸因子(例えば所得水準や住居の過密性その他)との直接因果関係を検討することが重要であったはずである。しかし1918年当時,日本での全国肺結核死亡率が最高の数値(人口1万人当たりで25人)を示した時点で24),そうした視角からの住居論の展開は貴重な発言であったといえよう25)。
3) 社会福祉(「救貧」「慈善」)の立場から,すでに幕末維新期に堆積されていた膨大な都市(ここでは東京)の下層民に対して,政府は,若干の「授産」規定を布達した後,1874年12月,「恤救規則」(太政官達第162号)を制定していた26)。しかしこの規則の施行は「独身老幼廃疾疾病」などの「無告ノ窮民」に限定され,それも家族的(ないし村落共同体的)扶養という,「人民相互ノ情誼」に救貧事業を委ねたものであり,「救貧」は「政府の職務ではない27)」とする方針に裏づけられていた。その後も,例えば1890年12月,第一帝国議会の提出の「窮民救助法案」制定の応酬をめぐって「貧なるものは殖産興業の手足」(白根専一内務次官の提案説明28)の発言にみるように,むしろ多数のスラムや下層民の存在は国家権力の富強政策を支える「工手」「道具」であると政府に認識されていた。
 こうした政府の「救貧」政策の本質は,基本的にはその後も変わっていないが,とくに産業資本の確立期以降,増加する都市への流入人口の都市スラムの拡大,下層民の集積に対して,内務省や地方団体は,その実態把握と対応をよぎなくされ,「細民調査」その他の社会統計の編成に着手した29)。
 当時,東京のスラムが地域によっては縮小・後退ないし移動しつつあったことについては前述したが,このころ,下層民の生活難を,より深刻にした問題に家賃の上昇があった。産業革命をへて,高騰の一途をたどり始めた市街地の地価とその直接の影響をうける家賃の騰貴は,下層民の住居費の負担を,いっそう過重にしつつあった。
 1913年刊行の『慈善』は,そうした地代・家賃の問題にするどい分析を加えている。それによれば30),当時,東京の借地慣行として,地主対家主間の「片務的約束」を前提に,地主による地代の一方的な引きあげが家賃の騰貴に連動し,借家人がその被害をうけると指摘し,この10年間に地代の上昇が10倍以上に及んだとその不当を指摘していた。また生江孝之は31),「細民住宅問題」を取りあげ,貸家経営の実態を分析する(同論文によれば,投下資本つまり建築費に対して,家主は年間4割前後の純利益を収めるとあった)。ついでその改善策として,住宅の品質改良,一室入居者の人数制限,家賃の引き下げ,住宅の供給(公共団体・会社・企業による「貸長屋の建設」)を提案した。これらの主張は,さきの建築家や公衆衛生関係者のそれらと接点をもちながら,ようやく,この段階で「細民」住居論が本格的な論議の対象となってきたという意味で,注目される必要があろう。

 以上,1)―3)にわたって,さまざまな角度からの「細民」住居論とそれに関連する諸見解をまとめた。
 これらの諸提案の背景には異なった発想があり,また各論者の立場も同一でないが,すでにこの時期に,下層社会の住宅問題が都市問題の解決において回避しえない重要な課題の一つになっていたことが理解されよう。
 日露戦争期から第一次世界大戦にかけて,そしてまたそれ以降の大正デモクラシー期に,すぐれたブルジョア都市論をかかげながら,都市政策者・都市経営家として,理論と実践に多くの業績をのこした関一(大阪市長)や田川大吉郎(東京市助役)などについて,現在,関心が集まりつつあるが32),そうした活動家は突出した存在ではなく,すでにみたような多様な立場の主張のなかで,労働者階級の労働条件改善や生活向上をはかるなど,都市問題に対する政策構想を形成していった“時代の子”であったといえよう。
 そして米騒動の全国的波及と,その半年余り後に公布された都市計画法と市街地建築物法が,都市法制において,一画期をなしたとはいえ,その体質において,それはかつての東京市区改正事業の性格を継承していた。つまり,ここでも労働者階級(当時の下層民)の住宅建設などは無視されたまま,道路整備などに重点がおかれていたことがそれを示している。
 日本の都市計画法制は,すでに指摘された通り33),当時の先進資本主義国イギリスのように公衆衛生法→住居法→都市計画法の序列で展開した場合とは異なり,まず都市計画(とくに東京市区改正条例)が日程にのぼり,住宅問題がそれに追従する過程をたどった。
 しかもそうして制定された都市計画法は,さきの関一らのブルジョア都市論や都市政策と対立し,その展開を制約したのみならず,大正期に成立した都市計画体制も,1930年代以降の軍国主義政策のもとに後退されることになった。
 「居住空間の貧困が人間として生きる権利を奪っている」現在の「住宅貧乏文化34)」を生み出した社会経済条件は,たんに第二次世界大戦後の高度経済成長政策に止まらず,さらにさかのぼって,江戸時代から,そしてとくにこの一世紀間の都市住居構造や都市政策にもかかわる日本の住宅問題の特質に規定されてきたといえよう。


1) 大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』上(東大出版会)第6章,前掲石塚裕道『東京の社会経済史』第2章2,第4章1を参照。
2) 石塚裕道「近代日本における大都市の発展―三都・大港湾都市をめぐって」(『ヒストリア」)参照。
3) 柴田徳衛『現代都市論」(東大出版会)11ページ。
4) W.A.ロブソン『世界の大都市』(蝋山政道監訳,東京市政調査会)6―7ページ。宮本憲一「都市における資本主義の発達」(岩波講座『現代都市政策』Ⅰ,1972年)65―7ページ。
5) 横山は,そのなかで当時の東京のスラムの動きを叙述し,最後に本文で言及していない他の特徴を以下のように要約した。すなわち工業労働者需要の増加,地方浮浪人の激増(関西人の増加顕著),人力車夫の衰退(貧街職業に一変動を与へた),寄子専業組合(理髪・料理・菓子・そば職等)の解体,個人または団体の社会的設備など。
6) 深海豊二「東京市内各区の細民窟調査」(『社会政策時報』第4号,1920年12月1日)148ページ,井上貞蔵『六大都市の貧民窟』(1922年)9ページなどを参照されたい。しかしこの事実は,全東京の下層民の総数が減少したことを示すものではない。例えば,当時の警視庁の調査によれば,貧民の数12万9400人と報道されていた(「此窮民を奈何せんや」『東京日日新聞』1918年2月23日)。その基準は不明であるが,「極貧者」とすれば,幕末・維新期のその合計7万4千人より,かなり増加していたことになる。
7) 前掲斉藤俊彦書,172,298―310ページ。東京都養育院編『養育院百年史』107―09ページ。
8) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史」248―49ページ。
9) 明治初期以降,続発する都市火災に対して,東京府は,すでに「防火上家屋建築制限」(1870年),「本家作見合」(1872年),「類焼町々家屋制」(1873年)などを布達したが,「防火線及屋上制限規則」(1881年)は最初の体系的な法令として後の大正期の建築法制の基本に位置づけられる。その後,1894年に,「東京市建築条例」の制定が検討されたことがあったが,実現しなかった(『建築雑誌』第8輯87号所収の「東京市建築条例の制定について」参照)。「長屋構造制限ニ関スル件」(1907年)は,「長屋」のみを対象とした最初の包括的な規定として重要である。なおこの法令は1913年と1918年に改正され,とくに後者の改正は施行区域の範囲を東京市以外の郡部の町村にも適用されたことに注目したい。以後,建築法令は1919年の「市街地建築物法」に至って,初めて地方団体レベルから国法レベルへと拡大される(石村善助「わが国における建築法制の歴史的展開」『都市研究報告』東京都立大学第79―82号,1976年12月)。
10) 「貧民長屋建築取締規則」(『建築雑誌』第19輯228号,1905年12月),「長屋建築取締規則」(同誌第21輯241号,1907年1月)を参照されたい。
11) 権田保之助「労働者及び小額俸給生活者の家計状態比較」(『家計調査と生活研究』生活古典叢書7,光生館)において,1919年当時,労働者家計は「小額俸給生活者」家計の8割程度と指摘した。またすでに『社会雑誌』第7号(1897年11月)では「薄給吏員の員数」(月給12円以下の官公吏合計5900人余り)が計上され,その後,米騒動期にかけて,「火の車の巡査―惨めさは細民以上―」(『国民新聞」1918年8月18日),「腰弁の悲哀転職・内職・堕胎・避妊」(『大阪毎日新聞』1918年8月21日)など,関係記事はきわめて多い。なお『日本労働年鑑』第1巻(1920年)もみられたい。
12) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史」258ページ。
13) 旗手勲「日本資本主義の発足と不動産業」(『法経論集』愛知大学,経済経営編Ⅰ,第88号,1978年10月)143ページ以降。
14) その内容は『建築雑誌』第33輯390号(1919年12月)に特集された。
15) その一例に三橋四郎「建築家が見たる東京市区改正」(『建築雑誌」第22輯254号,1908年2月)がある。本論文は市区改正事業について批判的な意見も含みながら,おもに住宅問題をとりあげて,広告の制限や共同便所の改良などの建築規制の必要性を強調し,また家屋の洋式準耐火構造化と高層化をも主張していた。
16) 岡田信一郎「都市にける住宅問題」(『建築雑誌』第38輯380号,1918年12月)11ページ。
17) 田辺淳吉「住宅に対する我々の態度」(『建築雑誌』第33輯390号,1919年12月)31ページ。
18) 笠原敏郎「都市の住居地域」(『建築雑誌」同号)6ページ以降。
19) 片岡安「細民住居に就て」(『建築雑誌』同号)34ページ以降,関一「都市住宅政策」(『建築雑誌」第33輯391号,1919年7月)76ページ参照。
20) 栗本庸勝「明治三十八年に於ける東京府下肺結核死亡調査」(『東京医事新誌」1908年3・4月合併号,『日本科学技術史大系』24・医学1所収),その他,『都新聞」(1913年12月26日),『報知新聞」(1913年1月30日)などの新聞記事を参照されたい。
21) 松山棟庵「衛生上東京市区改正ノ必要ヲ論ス」(『大日本私立衛生会雑誌』第29号,1885年10月31日)29―30ページ,長谷川泰「東京市区改正委員諸君ニ望ム」(『大日本私立衛生会雑誌』第65号,1888年10月27日)730ページ。
22) 長与専斎「借家ノ説」(『大日本私立衛生会雑誌』第35号,1886年4月24日)31ページ。
23) 遠山椿吉「家屋に対する衛生上の要求」(『建築雑誌』第33輯391号,1919年7月)をみられたい。
24) 前掲石塚裕道『東京の社会経済史」表4―4参照。
25) なお公衆衛生と市区改正の関連については,今井洋子「公衆衛生の観点から見た東京市区改正」(日本都市計画学会編『都市計画』別冊・1979年度論文集,第14号,1979年11月)343ページ以降も参照。
26) 小川政亮「恤救規則の成立」(福島正夫編『戸籍制度と〈家〉制度』(東大出版会)参照。
27) 前掲小川政亮論文315ページ。日本社会事業大学救貧制度研究会編『日本の救貧制度』(勁草書房)61―3ページ。
28) 『大日本帝国議会誌』第1巻471,480,578ページ。
29) 「スラムに関する文献目録」(『住宅』15―5号,1966年)など参照。
30) そのひとつとして安達憲忠「先決問題ともいふべき地代と家賃との関係」(『慈善』5―1号,1913年7月)の論稿がある。
31) 生江孝之「細民住宅問題について」(『慈善』同号)30ページ以降。
32) 芝村篤樹『関一(せきはじめ)―都市思想。パイオニア』(松範社,1989年),成田龍一「若き日の田川大吉郎」(『民衆史研究』第15号,1977年5月),同「田川大吉郎の都市論」(『歴史評論』330,1977年10月)など。
33) 前掲今井洋子論文,343ページ。なお,芝村前掲書にもそうした指摘がある。
34) 早川和男『住宅貧乏物語』(岩波書店)194ページ。