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都市と技術

Title: 第4章:東京の都市スラムと公衆衛生問題ー「水系」伝染病対策の歴史をめぐって
Author: 石塚 裕道
Publisher: 国連大学出版局・国際書院
Published Year: 1995年
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第4章:東京の都市スラムと公衆衛生問題ー「水系」伝染病対策の歴史をめぐって

1 明治国家の富国強兵政策と伝染病

 19世紀のなかばにおける幕末日本の開国が,欧米列強による世界市場の完成を示すとすれば,その時期はまた,インドのベンガル地方の一風土病に過ぎなかったコレラが,数度にわたって世界的流行を繰り返したように,世界各地域での民族の移動や商品の流通をきっかけとして,当時の後進諸国を中心に深刻な影響を及ぼした「悪疫大流行期」1)でもあった。
 なかでも,イギリス資本主義により植民地化されたインドを始め,西欧列強によって半植民地・従属国にされた東アジア諸国では,不平等条約の締結下における海港検疫権の未確立が,伝染病の浸入と流行を容易にした。そのころまだ欧米諸国においてさえも,伝染病の原因や感染経路が解明されていなかった段階で,東アジアの後進諸国の一つであった日本では上・下水道を中心とする公衆衛生諸施設の未整備ともあいまって,農村・都市を問わず,伝染病の流行に対して,治療・検疫・予防体制の不備のもとで民衆生活はおびやかされ,ほとんど無防備の状態にさらされた。
 しかもそれだけではなく,維新変革により明治新政府が成立した後,士族反乱の鎮圧のための軍隊の派遣(西南戦争),あるいは大規模な対外出兵(日清・日露戦争)などを契機に伝染病が全国的にひろがった。とくに明治期におけるコレラのまん延は,しばしば,そうした軍隊の移動,とくに国外からの帰還兵(戦病者)の病原菌の感染にも原因があった2)。つまり当時のコレラなどの大流行は,必ずしも開港と不平等条約という他律的要因のみではなく,「戦役ハ戦疫ノ歴史」3)といわれたように,東アジア諸国への日本の軍事侵略もそのきっかけになった。
 明治初年以降,政府の防疫体制や公衆衛生対策の立ちおくれの状況のもとで,赤痢や痘そう・結核などのように古来からみられた細菌感染性疾患に加えて4),代表的な国際伝染病ともいえるコレラがそれらに加わり,各種の急性伝染病が全国に大流行し,それが繰りかえされた。
 1880年に制定された「伝染病予防規則」はコレラ・腸チフス・赤痢・ジフテリア・発疹チフス・痘そうの6疾患を法定伝染病に指定したが,1876年以後におけるそれらの患者数と死亡者数の全国合計の推移を各種の衛生統計からみると,ほぼ20世紀初めまでにかけて,平均数年に一回,周期的に爆発的なまん延の様相を示す急性伝染病のコレラを中心に,毎年きわめて高い数値を示しつつ,それらの疾病は,明治末期以降,漸減しながらも一定数を保ち続ける5)。1920年代までの東京市における「水系」伝染病(コレラ・赤痢・腸チフス)の患者と死亡者数の実態をみると,全国的推移に対応してコレラの周期的な大流行の事実が指摘されるが6),その後一時,赤痢患者が増加し,ついで「水系」伝染病のなかでも腸チフスの急増に全体の比重が移っていった。同じく「水系」伝染病といっても,そうした疾病の交替と推移の背景には,公衆衛生対策やそれと密接に関連する上水道改良事業の展開があったことも推測することは容易であろう。
 ところで,「水系」伝染病の感染経路と伝播の要因からいって,同じ東京の市街地のなかでも,概して,かつての江戸時代の武家地などを転用した官・軍用地あるいは華族・高級官僚・政商などの大邸宅地がひろがる中・西部の山手一帯と,それに対して,貧困な下層民が集住していた「裏長屋」の高密度集団地区としての下町とでは,住居の形態や生活構造(家族構成・職業・収支など)により,その罹患率(したがってその死亡率)に地域差があったことは当然であろう7)。近接した井戸と共同便所(上・下水道)を中心に8),一棟に最少数世帯以上が入居する木造連続住居が密集する居住形態が,そうした都市下層社会に,ほぼ共通する条件であった。
 そのような市街地の形態(つまり都市構造)の相違を前提に,ここでは当面,市内各区毎にコレラ患者の発生状況を例に,その流行期に焦点をあて,集計した結果が表1である。同表の内容は単位人口1万人に対する患者数であるが,各年にわたって,なかでも日本橋・神田区と深川区などが高い数値を示すとともに,浅草・本所区がそれに準ずる。
表1 各区のコレラ患者と単位人口当たりの患者数
 これらのなかで,当時の日本橋区は江戸時代からの古町が町人地の中心を占め,問屋・仲買人より成る問屋街が集中していた商業地としての性格がつよかったが,その反面,スラムに居住する小商人や零細な手工的職人層(例えば,衣服や玩具・化粧具・文房具類などの雑貨生産者)の存在もみのがせない。その点は,神田・浅草区などの市街地にも共通していたといえよう。
 神田区は,官・軍用地を含む西部帯の旧武家地と,日本橋区と同様に零細な下層の商工業者が集中していた東部地域に二分される。とくに神田川岸の柳原土手(神田橋本町)は,極貧の最下層民集団(「門付け」などをする「願人坊主」)が集中していた地区として知られていた9)。
 また浅草区も,北部の寺有地と旧奥州道中(陸羽街道)にそって形成された市街地が,ほぼ地域の重要な部分を構成するが,同時に皮革産業をになう被差別部落(具体的には弾左衛門とその支配下にあった皮革問屋および部落住民)と,全区にひろがる都市スラムの存在が指摘されなければならない10)。
 なお表1でとくに注目を要するのは,深川区におけるコレラ患者の多発であろう。同区は,もともと隅田川と江戸川の両河川間に形成された低地の一部で,江戸初期以降,一部の地域を除いて町人地と武家地が入りくみ,一部は新田地帯などとして開発された区域であった。したがって,そうした「海浜埋立て」の深川・本所一帯では,隅田川をこえて導水管としての「木樋」の敷設が不可能であったため,江戸古来の上水道であった玉川・神田上水などの利用が困難なうえ11),良質な飲料水を供給できる深井戸の掘さくも容易でなく,一般の住民にとって,上水の確保は必ずしも良質とはいえない掘抜き井戸(浅井戸)の水と,幕府に上納金を納めて営業許可をえていた「水売り」業者の水船によっていたのが実情である。明治初年以降,江東一帯に水道敷設の計画が立案されたが実現せず,その後も例えば1889年からその後10年間にわたり,深川地区では,毎年,平均延78隻(水料合計78円)の水船により,「船水」を購入していたという数値がある12)。このため,飲料水の絶対的欠乏と,病原菌による輸送手段の汚染とその危険度はきわめてたかく,そのことが表1のように,深川地区でのコレラ患者の多発をもたらしたと考えられる。
 すでに指摘した通り,各区単位の集計からみた伝染病(とくにコレラ)発生の地域性は,とくに都市スラムと考えられる「町」単位の行政区域まで下降して,傷病の発生率(死亡率)と地域住民との関係で,さらに具体的に分析がすすめられることによって,より重要な意味をもつはずである。しかし,明治初年以降,疾病の実態と死因構造を経年変化のかたちで把握する統計の編成,とくにそれを都市スラム地域とそうした地域に居住する下層民との関連において,順次集計する作業は,政府の手によっても,ついに実施されることはなかった。
 日本における衛生統計調査制度の歴史は,直接には1874年に制定された「医制」より発足し13),後には内務省衛生局の所管でコレラその他の伝染病の流行に対応する対策の一環として整備されていき,また一方で,軍部関係の衛生統計の作成としてもすすめられた。それにもかかわらず,明治初期の衛生とくに疾病統計は,きわめて不備であったうえ,1880年代後半には,政府指導のもとでの公衆衛生行政の転換によって,統計編成事業さえも,後退をよぎなくされた14)。
 そのため,スラムに該当する「町」単位の段階で死因別に死亡者数を確定する作業は不可能であり,そのために,われわれは1920年前後まで時期をさげて,複数の統計に対する加工処理をおこなって,それを推計する方法を採用せざるをえない。
 表2は,その結果,算出した当時の東京における都市スラムの一町当たりの現在人口と主要な死因別集計である。
表2 おもなスラムにおける現住人口の死因別死亡者数(1921年)
 同表記載の内容から,当時の各スラムにおいて,年間死亡者数の合計と単位当たりの死亡率がきわめて高率であったことがよみとれる。すなわち,死因の第1位は「肺炎・気管支肺炎」(このなかには肺結核が含まれていたことは疑いない),第2位は「下痢・腸炎」(コレラ・赤痢・腸チフスなどの分類がないので,それらはすべてここに集計されている),第3位は「肺結核」(第1位に含まれる肺結核死亡者数を加算すれば,さらに増加するはず)であった。同表の上位の死因のなかで,「水系」伝染病ではないが,肺結核について浅草区田中町の場合,人口1044人中,同年のみで33人の死亡者(1万人当たりに換算すれば,316人)を数えた15)。それに「下痢・腸炎」に含まれる「水系」伝染病の死亡者など他の諸死因による死亡者数の合計は229人に達していた。つまりこれは,同年1年間のみで約5人(ほぼ1世帯)に死亡者1人という衝撃的な数字であった16)。そうした“死の町”としての浅草区田中町は,『東京市内の細民に関する調査』(東京市社会局,1920年)によれば,同区の玉姫町・浅草町・松葉町・清島町などとあわせて代表的な「細民窟」の一つであり,古来,新吉原遊廓と山谷に近接して,田中耕地とよばれる水田地帯に形成された「場末町」であった。同様な条件のもとで,家族感染などによりひろがった結核,それに加えて「水系」伝染病のまん延は他の都市スラムにも共通していた事実であり,同表の死亡率がその実態を物語っている17)。
 産業資本の確立期以降,東京の市街地(旧15区)のみでも,そうした都市スラムは,少なくとも,合計110ヵ町以上数えられ,しかもそこには,きわめて数多くの下層民が居住していた点は,すでに述べた。
 しかもそこで重要な問題は,日露戦争期をさかいに,重化学工業の発展により資本主義の新たな段階への移行に照応するかたちで,機械制工場工業の雇用労働者の所得水準の上昇にともなって堆積された都市下層民のなかから,そうした工場労働者の分化・離脱が進行し始めたことであろう。しかしその事実は,とくにその時期までも含めて,機械制工場の労働者もあわせたスラム下層民全体が悪疫・伝染病の流行の被害の影響を受けるか,またはその危険性のもとにあったことを意味している。
 明治初年から,政府は官営・民間工場を問わず,スラム居住の下層民の一部を資本制生産のもとで,労働力群として再編するために,維持・温存する方針をとった。資本主義にとって「貧なるものは殖産興業の手足」(1890年12月,第一議会に「窮民救助法案」が提出されたときの一議員の賛成発言)18)という意味で,資本蓄積と産業資本の形成のもとでの労働力の再生産に必要な構成要素として,かれらは位置づけられた。したがって,都市スラムで,悪疫・伝染病の流行・まん延により多数の患者や死亡者が発生しそれを放置することは,政府の富国強兵・殖産興業政策の基盤が崩壊することを意味した。
 1870年代以降,いわゆるスラムを中心に,伝染病が東京各区で流行を繰り返した事実には触れたが,当時の民間諸工場――それは京橋の印刷業・芝の繊維工業・江戸川流域の雑貨品工業・深川の窯業などの地域的特性を示していた――の雇用労働者のなかにも,当然コレラが浸入した。1882年当時,避病院に隔離された延合計5700人余りの患者のなかに679人の「職工」が指摘された例がある。そうした伝染病の流行が都市の産業発展を支える労働力に深刻な打撃を与えつつあったことを,それは示していた。
 また日清戦争当時,主戦場になった朝鮮と後に占領した台湾で,劣悪な衛生装備と医学知識の欠如のためもあって,出動した日本の陸軍は病死者約1万1900名を含む死者合計1万7000名余りを出した。軍隊の組織内部に浸入した伝染病の激発が,戦闘力の低下を招くのは当然であった。しかもそのころ,東京の神田で,神保町の「旅人宿」に宿泊した帰還兵の1工兵少尉を初発患者にして,各区に「病毒」がまき散らされ,その後流行期間7ヵ月にわたり,東京だけでも3000名を超えるコレラ患者を数えた19)。
 このようなコレラの周期的激発,20世紀以降もなお根づよく残存し続ける「常在性」伝染病としての赤痢・腸チフスなどの「水系」伝染病とさらに「国民病」としての結核などを加えて,政府の指導者は国家の発展には,「衛生」が基礎であるとの認識に到達する。すでに明治初年,長与専斎(大村藩の藩医から後に文部・内務官僚となった公衆衛生制度の創始者)が,「サニタリー」「ヘルス」の語を「衛生」(生命をまもる根本の道)と訳したが20),後年,内務官僚後藤新平が「帝国の繁栄,衛生の外なし」21)と主張した例など,その典型であろう。
 こうして,明治政府は富強政策を推進する前提として,公衆衛生(とくに検疫・予防衛生)対策に取り組まざるをえず,軍部が,軍医森鴎外をドイツに留学させて,公衆衛生学を研究させた事情などもそこにあった22)。
 さらに市区改正事業のなかでも,都市環境衛生対策の中心として上水道改良問題が注目され,その実施が政府指導者や東京府政・市政関係者らに緊急課題として取りあげられるに至った要因も,当時の状況から,明らかになるであろう。


1) G.ローゼン/小栗史朗訳『公衆衛生の歴史』(G.Rosen:A History of Public Health,1958),第一出版)196ページ。石塚裕道『日本近代都市論』85ページ。
2) 『東京市史稿』変災編第3,1068ページ以降。『医制百年史』資料編(厚生省)545ページ。
3) 「東京市コレラ流行百年史」(『大正11年東京市コレラ流行誌』東京市役所衛生課,所収)181ページ。
4) 立川昭二『日本人の病歴』(中央公論社)第2部以降。
5) 当面,『衛生局年報』(内務省)や『衛生年報』(厚生省)各年から作成された「特定伝染病患者数・死者数の年次推移」明治9―昭和48年(前掲『医制百年史』付録の「衛生統計からみた医制百年の歩み」26ページ掲載の図)をみられたい。
6) コレラの発生について,全国の患者数が1万人以上の年に限定した場合,1877―1916年まで合計10回の年を数える。それらのなかで,とくに東京を中心に流行した年は,1882年で,ついで1886年,1890年,1895年などがそれにつぐ。石塚裕道『東京の社会経済史』(紀伊国屋書店)136ページ所収の表3―4参照。つまり,全国と東京が対応しながらも,当然,東京に集中した年とそうでない年があったことになる。
7) その実態についてはまとまった史料として,当面『細民調査統計表』(内務省,1912年),『東京市内の細民に関する調査』(東京市社会局,1921年)などがあり,またそれらを一部に利用した津田真徴『日本の都市下層社会』(ミネルヴァ書房),石塚裕道『東京の社会経済史』,中川清『日本の都市論』(勁草書房,1980年)などの研究がある。
8) 上・下水道の近接関係が,いかに不衛生な生活環境を結果するかについて,以下の史料が,その一端を示唆している。「(小石川区)柳町ハ,元水田ニシテ,土地極メテ卑濕,其飲料井戸ノ如キハ,猶一ノ潴溜ノ如ク,汚水ノ滲透殊ニ甚ダシク,……同番地ニ於テ5名ノ(コレラ)患者ヲ続発セリ」(『虎列刺病流行紀事』内務省,1895年)。
9) 同町の「改良事業」を分析した石田頼房『日本近代都市計画史研究』がその実態に触れている。
10) 取りあえず,石塚裕道『東京の社会経済史』51ページ以降。
11) 江戸の上水に関する研究として,当面,伊藤好一「江戸の水道制度」(西山松之助編『江戸町人の研究』第五巻所収,吉川弘文館)を紹介する。なお基本史料は『東京市史稿』上水編第一などに収録されている。
12) 『深川区史』上巻(1825年)310ページ。『江東区史』(1957年)901―2ページ。ただ「裏長屋」居住の下層民のなかには,貧困なため「上水買入れ」さえできず,汚濁の「井水」を引用していたため,コレラに罹患した例が続発し,1877年10月17日,東京府庶務課が「無代給水」を区務所に指示したことがある。『東京市史稿』変災編第三,1091―2ページ。
13) 当面,川上武『現代日本医療史』(勁草書房)109ページをみられたい。
14) 細谷新治『明治前期日本経済統計解題書誌』富国強兵編(上の2)281ページ。
15) かつて東京で,肺結核の死亡率がもっとも高かった時期は1916年で,1万人当たり42人であった。田中町の実態の異常性が,ここから推測できる。石塚裕道『東京の社会経済史』表4―4参照。
16) 石原修『女工と結核』(1913年)によれば,結核患者数は死亡者の4.6倍という指摘がある。
17) 横山源之助は「貧街15年間の移動」(『太陽』1912年2月)のなかで,当時の東京市外地域での雑業者の増加などの現象をあげていた。前記の田中町なども,多数の死亡者を補う人口流入があったのであろう。
18) 日本社会事業大学救貧制度研究会編『日本の救貧制度』(勁草書房)98―100ページ。隅谷三喜男『日本賃労働史論』(東大出版会)103―5ページ。
19) 『東京市コレラ流行百年史』182―3ページ。
20) 長与の自伝「松香私志」上巻(日本医史学会編『医学古典集』Ⅱ所収)によれば,「衛生」の訳語は,中国古典『荘子』に登場する「衛生之経」(生命をまもる根本の道)に基づいたと回顧している。同書25,30ページ。
21) 立川昭二『病気の社会史』(日本放送出版協会)212―4ページ。1896年2月,後藤の講演「衛生と資本」による。
22) 宮本忍『森鴎外の医学思想』(勁草書房)にその事情が詳しい。なお森鴎外の医学・公衆衛生問題に関する史料は,『鴎外全集』第28―34巻(岩波書店)に収録されている。

2 「水系」伝染病と都市公衆衛生

コレラ対策と民衆

 「社会の福祉は国家の福祉と同一である」という認識を前提に,ヨーロッパ絶対王政段階の国家の支配者が「国の力と富の増大のために政府はどの方策をとるべきか」という政策課題を構想した事情は1),19世紀後半の明治国家官僚が富国強兵政策の実現をめざして,公衆衛生対策に関心をふかめていった事情に共通していた。当時の日本で,それは繰り返されたコレラの激発・流行に対する治療・検疫・予防対策であり,その意味でコレラ対策は公衆衛生問題の原点に位置づけられると同時に,主要な都市問題,対応する都市政策の一側面でもあったはずである。
 日本での公衆衛生制度の発足は,明治初年における岩倉遣外使節団の海外視察(1871年4月―1873年9月)を通じての西欧の医療制度とくにオランダのそれを参考に起草された「医制」76ヵ条(1874年8月)の公布を契機とする2)。
 明治初期,民衆支配のための戸籍→警察行政および資本主義育成のための勧業行政を中心に,「大久保政権」(1874年に成立した最初の集権的官僚支配体制)のもとで,内務省が開設される時期までの医療・公衆衛生行政は,当初,文部省の所管であった。当時,医事行政の管理は西欧医学にその基礎をおく医学教育部門とあわせて,廃藩置県後に設置された文部省がそれを管掌し,公衆衛生行政・西欧医学教育・医師開業免許・医薬分業などの諸制度が「医制」によって確立した。こうして,文部省中心の集権的衛生行政機構が衛生局地方官「医務取締」(地方医師)を軸に制度化された。しかし,当時の医師の八割強が「漢医」であった点に配慮すれば3),西欧の医事制度をモデルにした「医制」の完全実施は,きわめて困難であったうえ,1874年の内務省新設の直後,中央官庁の衛生担当部門が文部省から同省へ移管されたこともあって,ほとんど実効を収めることはなかった。
 ついで,内務省段階での公衆衛生対策は「教育勧業百般開明ノ事業皆衛生事務ノ弛張ニ従テ伸縮セサルヲ得ス」4)とその重要性が的確に把握されるとともに,かつて東京府を含む京都・大阪の三都に限定されていた文部省の「医制」(欧米の制度・文化の移植という点で,それは政策の試行錯誤の実験台の意味をもった)を新設の衛生局の管理に移して全国に拡大したうえ,東京については,全国警察機構のなかでも,とくに重視された「東京警視庁」の所管のもとにそれをおくことになった。
 このころから都市スラムにも配慮した内務省の行政は,一方で「無告ノ窮民」(最下層民)を救恤する「救貧」行政権を収斂すると同時に5),他方で強権的な警察権力を背景とした公衆衛生政策を展開した。つまり当時の東京のコレラ対策は,内務省のもとで東京警視本署(1877年1月設置)と東京府に両属していたことになる。
 現在,すでにその病因があきらかにされたコレラの伝染について,19世紀なかばまでヨーロッパでも統一的学説はなく,明治初年の日本でも,その発生・流行をめぐり「瘴気説」(Miasma,「局地的大気状態」=「毒気」に要因を求める考え方)と「接触伝染説」(Contagion,「特定の伝染体」の媒介による感染に原因があるとする見解)が対立し,医学・公衆衛生関係者らの争点になっていた6)。
 そうした状況のなかで,前述したように,1877年の西南戦争の勃発をきっかけとして,長崎→横浜→東京の伝染経路により,東京を含めて,初めて本格的なコレラの全国的流行に直面したとき,民衆が祈祷や御符などの俗信の根拠のないうわさで,適切な措置をとりえないまま,パニック状態に陥っていた当時,政府は「虎列刺病予防法心得」(1877年8月)を指示した。それは内務省から各府県(東京を除く)と,東京警視本署を通じて布告された最初でしかも体系的な通達であり,以後その一部が改補されながら「伝染病予防規則」(1880年7月)として拡充された。さきの「心得」の要点は,開港場船舶に関する検疫,患者の届出と隔離対策,予防細則から成り,後に避病院の設置と運営,清掃その他の環境・予防対策が加わった7)。
 こうして地方行政組織を通じてのコレラに対する隔離(クワランティン)・防疫の法的対策が,一応整備された。しかし前述したように,そのころ,治療・検疫・予防担当者の大部分が「漢医」であった限り,感染者への対策は患者の「隔離」方式がその中心にならざるをえなかった。
 近代医学の発展の過程で,疾病に対する社会の防衛対策が患者の治療から積極的な予防体制に移行する以前の段階で,おもに展開した方法は病人の「隔離」または「殺害」というやり方であったという指摘は,さきの明治政府によるコレラ対策の本質を示唆する8)。
 その場合,病原菌に感染した民衆への具体的措置は,警察力を背景にした「避病院」への強制収容がその中心であった。東京について,当時の避病院(伝染病患者の隔離病院)は1877年ごろから,深川富岡門前・浅草老松町・芝愛宕下町(以上府立)また本郷森川町宿続き向ヶ岡・市ヶ谷富久町監獄支署続き・北品川洲崎旧台場・本所緑町学校地(以上東京警視本署所管)などに新設され,いずれも一ヵ年半程度,経過してから,解体ないし統合された9)。いずれも患者は一ヵ所に20―30人またはそれ以上で,大部分は公共施設に隣接した利用度の低い土地かまたは場末町ないし近郊に位置し,簡略で粗末なバラック小屋に等しかった。その後,常設の伝染病院は,1886年以降,駒込・本所・大久保・広尾などに開設される10)。
 ところで,入院者の実態は「十中八九ハ人家稠密不潔狭隘ノ裏店ニアリテ消毒薬サヘ購求シ能ハサルノ貧民」11)であり,力役・職工・商業・農業の従事者で,換言すれば,筋肉労働者・小工場労働者・職人・小商人などとみられ,その大部分はスラムに居住する小営業者と雑業層であったといってもよい。「矮陋不潔の病室」に収容された患者に対して,医療知識に乏しい医師は満足な手当てもせず,放置するだけであり,時にはコレラ類似症患者が真性コレラに「院内感染」した事例などは,一種の「棄民」政策にも等しいものであった12)。このため,警察権行使による強制入院をめぐり,各地で「コレラ一揆」が続発し13),後には患者の自宅療養が容認されるに至った。
 避病院への入院患者を出したコレラ発生地区の都市スラムでは,例えば,神田区橋本町や浅草区寿町のように「人家稠密,構造極メテ疎[ママ]悪,住民概シテ貧困,職業ハ力役片布紙屑買等多シ…飲水ハ…神田上水又ハ堀井ヲ用ヒ」,伝染病が発生すれば,「人民多クハ避病院ニ送致セラルルヲ畏忌スルヨリ,勉メテ病患ヲ隠匿シ,密ニ其衣服ヲ川河井ノ辺等ニ洗濯シ,又ハ排泄物ヲ溝渠下水等ニ投棄」14)する状態であった。
 これに対して東京警視本署のコレラ対策は,感染者の緊急申告義務を始め,生活環境に対する消毒や患者の隔離その他,住民の生活の最低辺にまで,人権を無視してまでの警察権力の行使とその強権的介入として展開されたため15),府の衛生行政権は,むしろ警察権のもとに従属するかたちになった。しかも東京では,住民と接触する末端の伝染病対策は,東京府庁と東京警察視本署に両属していたため,公衆衛生行政体系の重複と混乱を招くことになり,内務省は両庁に対して「事務分掌」を通達したうえ,1879年7月,同省に中央衛生会が仮設された際,そのもとに東京地方衛生会を設置するなど,若干の試行段階をへて,翌年4月に地方衛生会規則に基づいて,正式に東京地方衛生会を制度化した。ここに初めて,東京を含む地方公衆衛生制度は,内務省管轄下に府県衛生課長課員町村衛生委員(有給者と無給者)の行政体系を軸に整備され始めた。それと平行して防疫体制については,さきの両庁の所管事務を調整して,1882年7月,新たに東京検疫局が開設され,各町村では「隣保団結」の衛生組合が組織された。しかし,東京検疫局ははやくも3ヵ月後に閉鎖され,以後,検疫局方式はコレラ流行の最盛期にのみ新設される臨時機構に切り換えられることになったが,また区町村衛生委員にも矛盾があった。
 すなわち,1880年当時,東京で任命された衛生委員数をめぐり当時の東京で,一区に4―7名という人数について,その選任の基準が明確ではなかった。任命された委員の実態は士族ないし平民で,しかも宅地地主・家主・商人らに代表される都市住民上層の“地域名望家”に位置づけられよう16)。
 だが,これらの役員は「衛生ノ本意」を理解せず,「悪疫予防」の任に当たるを回避し,「朝ニ衛生委員トナリ夕ニ之ヲ辞」すという状態でその制度自体も安定せず,1885年8月には廃止された。
 すでに東京を含めて,コレラの全国的な大流行が,とくに1882年以降も,1886年,1890年,1895年と繰り返された事実は確認されたが,そうした時期に地域での防疫事務は各地域によって統一されないまま,自発的で任意な組織に委ねられることになった。つぎに東京市内各区のスラムの存在を考慮しながら,若干の事例を要約しよう17)。
 (日本橋区) 「地主差配人または区内重立たる者」数十名を招集,そのなかから「巡視員」を選任し,悪疫予防と清潔法について管内を巡回させる。その場合,下水・便所などの清掃状態,下層民への施療券発行の事情,コレラ類似症患者の派出所への通知などを担当させる。
 (浅草区) 「講談会」を開催してコレラ予防法を区民に説明するとともに,「心得書」数万部を印刷して毎戸に配布した。「貧困者」には施療を実施し,また「芥溜」の処理,便所の改造に着手した。
 (深川区) 既設の「衛生会」を中心に区内各所に「衛生支会」を設置して,伝染病の予防講演会を開催,また「巡回員」を置いて下水工事などを指導した。また他方で「嘱託医員」を指示し,「臨時施療券」を発行して「貧困病者」を治療するとともに,区内の飲食店・寄席・劇場の経営を指導し,井戸水の試験なども実施した18)。
 ここにみるように,当時のスラムを対象とした東京の防疫対策は,地域の住民上層(地主・家主または差配人つまり「大家」とよばれる貸家管理人)を通じて,「裏長屋」などの環境衛生の改善にその重点が置かれていた。
 しかし,すでに1883年以降,内務卿に就任した山県有朋のもとで,松方(正義)財政を背景とする軍備拡張政策の影響を受けて,公衆衛生行政は後退をよぎなくされることになった。山県の軍国主義政策は「強兵」を至上課題にかかげて,軍事・警察・土木その他の諸費を重視する反面,教育・衛生・病院費などを減額するという内容であり19),事実,1885年に地方衛生委員制度や地方衛生会は廃止された。
 また同年の内閣制施行と同時に中央衛生官庁機構が縮小され,府県衛生業務も改廃されて,府県郡区に設置された行政警察機構の一部に防疫事務が移管されて,地方衛生行政は地方の段階でその手足を失った。
 当時,公衆衛生行政担当の指導的地位にあった長与専斎は防疫対策として,以下の三つの方法を指摘した20)。
1) 上下水道その他都市衛生施設や公衆衛生の徹底により,悪疫流行の原因を除去すること
2) 海港検疫を厳重に実施すること
3) 伝染病の流行時に,患者の消毒・遮断・隔離などを施行すること
 従来,政府や東京府が展開した防疫対策は,以上のなかで第三の方法に最も力点が置かれていたが,1886年前後を画期とする公衆衛生行政の後退は,その後,伝染病関係諸法規の整備にもかかわらずすすめられ,国家権力による衛生行政の「官治化」は1893年の地方官官制の改正により,警察行政への衛生行政の組み入れによって完成し,以後,日本の衛生警察行政制度の骨格が形成された。つまり日本の公衆衛生行政の基調は国家の富国強兵政策のもとに,先の三つの方法のなかで最も重要な第一の課題すなわち上水道改良事業を除いて都市施設や生活環境,換言すれば,都市全体の改造による伝染病の根絶という方向にむかわなかったことがここで指摘されなければならない。

上・下水道の改良とスラム

 「都市の立地および発展形態を規制する最も重要な要件の一つは,土地の給排水の便」であり,したがって「都市内で独自な循環系を形成する上下水道は,最も基礎的な都市施設である」と指摘されたように21),都市のあり方を規定する最も基本的な要素の一つが上水(飲料水)の確保と下水(生活排水)の処理であることは,古今東西,いずれの国家や民族でも変わらない。
 17世紀初め,都市として江戸が建設されてから,また明治維新後,それが東京と改称されても,洋式の近代上水道施設が普及するまでの約3世紀間,住民に対する給排水は,玉川・神田上水その他の江戸水道の送水・配水技術と各地の掘抜き井戸を基本に上水需要がまかなわれてきた。すでに検討したように,井戸とそれに近接した共同便所という一組の上・下水施設を中心に,数戸またはそれ以上の下層民の家族が集住する「裏長屋」の住居は,「水」という側面から規制された施設の共同利用形態の一つにほかならなかった。
 ただ日本の場合,豊富で良質な「水資源」にもかかわらず22),基本的な導水・給水施設には開渠の部分も多く,また「木管」(木樋)・分水桝・給水樋などが木製であったため,その一部は老朽・腐敗して上水が汚染され,不潔な状態にあったことは,すでにいわれた通りである23)。
 江戸時代以来,上水管理の指示は布達されていたはずであるが,汚染の要因には,東京の近郊への市街地の拡大もそこに含まれていた。
 1905年といえば,市営の改良水道工事が完成してすでに各区に給水が開始されていく段階で24),さきの大小区制の時期よりかなり後になるが,そのころ公衆衛生学者遠山椿吉による飲料水の水質検査結果がまとめられた。その結果,旧水道の水質について,細菌などによる汚染の程度は井戸水のそれに近かった。こうした実態をみれば,旧来の「江戸水道」に代表される給水が,もはや住民の衛生と保健にとって放置できない状態にあり,環境衛生改善の最重要問題として,上水道改良事業が政府または地方団体にとって,あるいは住民レベルからも,緊急の課題になるのは必至であった。
 しかしまた汚物投入などによる玉川・神田上水の「下水道化」の原因が,都市化による住民の生活排水によるところが大きかったとすれば,上水道の改良は下水処理とも不可分の関係にあったはずであり,両者をあわせて考察する必要がここにある。
 幕末・維新期に欧米列強により,各地の開港場に設定された「居留地」が外国人の商業・貿易・文化活動などの中心であった以上,かれらの洋式生活の拠点であったその地域に,まず上・下水道敷設の要求が登場するのは当然であった。そうした動きを背景に,1887年,日本最初の近代水道として実現した例は横浜水道であった。また東京築地や神戸の居留地でも上・下水道が開港当初から問題となり,神戸では1990年には上水ダムが建設され,水の供給が開始されている25)。
 伝染病の流行による民衆生活の危機と破壊,居留地を中心とした外国人の要求などを背景に,明治国家の首都として東京の都市施設を改良・整備することは,当時,条約改正をめざしていた政府にとっても焦眉の問題であった。
 その意味では,上水道改良問題は国家の富強政策のもとで,民衆に必要な都市施設の充実あるいは生活環境の改善が軽視されたなかでも,むしろ例外の事業であった。教育・衛生・病院費などの削減を主張した山県有朋でさえ,1886年のコレラ大流行について「頻年虎列刺流行ノ惨毒ニ懲リ該事業(上水道改良――筆者注)ヲ除クノ外復タ他ニ予防方ノ依頼スベキモノナキニ由ル26)」とその重要性を認めざるをえなかった。
 明治初期,東京の上水管理権は民部省→工部省→大蔵省などの所管をへて,東京府へ移管されたが,1872年当時,用水汚染の禁止措置が通達されたこともあり,その管理には早くから関心が払われていた27)。そうした状況にあって,1874年1月,開設直後の内務省で従来の木管水道を鉄管に交換して上水道施設を改良しようとする動きが計画された。同省雇用オランダ人土木技師V.ドールンに委託・起草させて作成された文書が『東京水道改良意見書28)』であった。同史料は水道公営の原則に基づいて,蒸気ポンプ・給水栓・ろ過装置・送水鉄管などを配置した近代的な有圧上水道施設の必要性を,西欧諸国の事例との比較で説明したうえで,具体的に施設技術の内容を詳述した。その点で,この意見書は政府の立場から推進された上水道改良事業の出発点に位置づけられる。
 他方,東京府でもそれから2年後,水道改正委員を任命して改良調査を指令し,1877年9月に『東京水道改説之概略』をまとめた。その要旨は前述のドールンの意見を基礎に若干それを修正した程度で,基調は変わっていない。
 こうした経過をへて,1888年10月,上水道改良事業をも担当所管に含める東京市区改正委員会が東京市区改正条例の方針にそって組織され29),ここに制度上,以後30年間にわたる事業が正式に発足することになった。
 ところで上水道敷設の方式をめぐり,そのころ市区改正委員であった渋沢栄一を中心に一部の事業家から内務省宛てに東京水道会社の設立案が提出されたが,1890年2月,政府は勅令第9号により水道条例を公布して上水道公営の方針を確定した。その5ヵ月後,東京市区改正委員会の水道改良設計が政府から認可された。その内容は市民150万人を給水人口の目標に(1888年当時の市人口は約129万8600人余り),多摩川を水源として,1人1日に2.6立方尺の配水量を確保する計画であった。そのため給水施設として,浄水本工場(千駄ヵ谷村)と分工場を新設,沈澄地とポンプ機械その他浄化栓約4400個を配置したうえ,それらの区間を製鉄の本・支管で接続するという構想で,総経費690万円(起債),5ヵ年の工期が予定された。
 本来,東京市区改正事業は,わが国最初の都市計画,具体的にはフランス第二帝政期のパリ再開発にならった東京改造事業であり,国家の富国強兵政策にあわせて,首都東京をつくり変えようということであった。その事業の内容は道路改装を中心に,溝渠・橋梁・公園・鉄道・市場・火葬場・墓地などの都市諸施設の整備・新設を主体としていた(表3参照)。そうした都市改造は,明治初年以降,銀座煉瓦街の建設,神田橋本町の市街地改造,神田三崎町の洋式市街化などを通じてすすめられてきたスラム・クリアランスと矛盾する事業ではなく,それを容認する権力による都市づくりであった。
表3 東京市区改正事業経費支出総額とその比率
 そして上水道改良問題は臨時事業として,市区改正事業の一部分を占めたのみならず,とくに日清戦争直後には所要経費が集中的に支出された。とくに道路改正費が市区改正総額の中心を占めたにもかかわらず,1896年から1899年の4ヵ年間には上水道改良費が道路改正費の9倍弱にも達した。
 しかし,当時の日本工業界の製鉄・冶金技術水準からみて,給水用鉄管とその付属品の大量生産は容易ではなかった。国産か輸入かの対立のなかで,その製造と納品を請負った日本鋳鉄会社が,その鉄管受注体制と生産能力の不備,それに加えて日清戦争の切迫による原材料の急騰,労働賃金の上昇,熟練職工の軍部への徴用などの諸要因により,東京市への納品違約をまねき,しかもそれが後に,納入条件の緩和をめぐって,市会議員への賄賂事件いわゆる「水道疑獄」へと拡大した経過については,ここでは省略しよう30)。
 ともかくそうした経緯をへて,上水道改良事業は当初予定の工期より約4ヵ年おくれ,予算も200万円増額されて,1898年12月に完了し,日本橋・神田・下谷などの地域から給水を開始,以後その地域はしだいにひろがった。そして給水は,表4に記載された下谷万年町・山伏町などの例のように,まず代表的なスラムに対して優先的に実施されたようではあるが,明治末期でも東京市内各区のスラムの水道普及率はまだ平均3割強であった。
表4 スラムにおける上水道の普及率(1911年)
 しかも上水道改良事業が進行したとはいえ,下水道の改善は,ほとんど未着手であった。下水道に関する東京府の関心は,1882年,記録的なコレラの大流行を機会に,その翌年4月,内務卿山田顕義が東京の上下水道の改良について示達し,ついで内務卿の役職を交替した山県有朋も,そのための補助費の交付を願い出てその旨が認められている。
 こうして1884年,市街地の汚水渠の改造のため,内務省雇オランダ人技師デ・レーケの助言をえて,東京府は,当時,人家が稠密で悪疫流行の神田鍋町・鍛治町以西・龍閑町・新町以北の地域(現在のJR秋葉原駅周辺と外神田一帯で,当時は零細な職人町が集中していたスラム)を対象に工事に着工した。その内容は煉瓦造りの本主管と陶製の分主管を埋設して相互に連結し,汚水・雨水を排除するという工事であった。着工から3年目に補助金交付が中止されたため,下水道改良も停止されるに至った。これが「神田下水」といわれた工事の経過である31)。
 以後,東京市区改正事業の過程で下水設計委員が任命され,調査報告書まで提出されたことがある。そこでは当時,農家肥料(下肥)として価値があった屎尿は除外され,雨水と汚水のみが取りあげられていたが,それも緊急事業として上水道の施設整備が重視されたため,下水道改良は延期された。この後にも例えば,1904年に東京市下水道の設計が考えられたこともあるが,事業は容易にすすまなかった。
 以上みたとおり,上水道施設の整備とともに,それにワクチンの開発と普及,条約改正を契機とする海港検疫法(1899年)の制定と海港検疫所の設置など,いくつか条件の改善が「水系」伝染病の流行を後退させた。
 しかしまた,上水道改良事業の結果は過大に評価されてはならない。表5のように明治末期までには法定伝染病のなかで,たしかにコレラの流行は鎮静したが,同じく「水系」伝染病の一つである腸チフス,それについで赤痢患者は,市営の「上水道」利用者のなかからも,多数,発生していた事実に注意する必要がある。
表5 伝染病患者数と飲料水の関係(1910年) (単位:人)
 とくに腸チフスはコレラの感染経路と同様に,病原菌に汚染された飲食物や飲料水によって伝染する経口伝染病の一つであるが,コレラのように急性症状を示さず,患者の体内で病原菌が増殖して,ほとんど永久的な保菌者となることがある。その点で保菌者の長期隔離は困難であって,当時の医療技術により,腸チフスを根絶させることは難かしかった。
 しかも下水道改良事業が停滞していただけなく,1900年に施行された汚物掃除法・下水道法の適用の範囲からも除外されたように,屎尿処理を未解決にしたままでの東京の市街地改造は,防疫体制のうえでも重要な問題を残すことになった。その背後では都市住民の屎尿が近郊の農業経営に必要な下肥として扱われ,「汲取権」を含む売買の対象になっていたという当時の事情がある。とくに裏長屋の借家人については,その屎尿の処分権は都市地主に独占され,地主は下肥の処分を競争入札して少なくない利益をえていた32)。便所(下水道)の改良は,それが停滞することから利益を引き出す階層(地主)がいる限り,進行しなかったのは当然である。
 いずれにしても日本での伝染病流行に対する防疫対策は上・下水道を中心とする都市全体の改造を前提とせず,一応の対症療法で当面の危機を回避してきたため,都市問題の解決という点では,なおその後に多くの問題を残すことになったといよう。


1) G.ローゼン,前掲書71ページ。16世紀以降の西欧において,一方で絶対主義諸国(プロイセン,オーストリアその他)のように中央集権的性格をそなえた公衆衛生行政の展開に対して,他方でイギリスのように強力な地方自治制度と矛盾するようなかたちで,公衆衛生対策を推進しようとした(それは中央政府の「干渉主義」として国民に理解され,阻止と反撃を招いた)二つの方向が従来指摘されている。H.E.シゲリスト『文明と病気』上,松藤元訳,岩波書店(H.E.Sigerist:Civilization and Disease,1943)134―5ページ。後述するように,明治国家の公衆衛生行政は,その性格においても,また公衆衛生学の継受の点でも前者の系列に属する。
2) 原文は前掲『医制百年史』資料編36ページ以降に収録されている。
3) 1874年,全国の医師合計2万8262人中に占める漢医の比率は81.4%,なお後の1900年になっても,医師合計4万924人中,「従来開業」(漢医が大部分であったと推定される)の比率が53.6%であったということは,明治期の医療水準を考える点で重要であろう(『医制百年史』資料編の所収統計,表12参照)。
4) 1875年2月4日,内務省伺『法規分類大全』第一編,衛生門・衛生総,7―8ページ。
5) 当時の政府の救貧行政の対象は,血縁的ないし共同体的扶養の範囲からも欠落した「独身老幼廃疾疾病」の者に限定された。日本社会事業大学救貧制度研究会編『日本の救貧制度』(勁草書房)61―3ページ。
6) 川喜多愛郎『近代医学の史的基盤』下(岩波書店)1010ページ以降。
7) 『法規分類大全』第一編,衛生門・疾疫予防,8ページ以降。
8) G.ローゼン前掲書,6ページ。
9) 『東京市史稿』変災編,1067ページ。『東京府史』行政編第6巻,662―3ページ。
10) 『駒込病院百年』(第一法規出版,1988年)。『回議録』東京府衛生課,1882年所収の「東京地方衛生会議筆記」参照。
11) いずれも都市下層民であったといえよう。前掲『大正11年・東京コレラ流行誌』,288―9ページ。
12) 『衛生会書類』東京府衛生課(1887年)。なお,長与専斎「虎列刺の予防に就て」(『大日本私立衛生会雑誌』第146号,1895年)651―2ページに,「病院の構造上より医師,看護人,薬品,器具に至るまで不完全を極めるたる其上に…矮陋不潔の病室内に棄つるが如くに入れられて…甚しきは医師の手に触れず一滴の湯薬をさへ得ずして鬼籍に入るのも少なからず」の記事は当時の実情をよく示していた。
13) 青木虹二『明治農民騒擾の年次的研究』(新生社)。
14) 『虎列刺病流行紀事』内務省(1879年)。前掲『東京市史稿』変災編第三,1100―3ページ。
15) 当時・政府の防疫対策をめぐって民衆の怨嗟ははげしく,例えば中央衛生会より内務省への具申(1879年12月)のなかにその実態が報告されていた。『法規分類大全』第一編,衛生門・衛生総,65ページ。
16) 『回議録』東尽府衛生課,明治14年。
17) 「東京府下各群区悪疫予防経[ママ]画ノ概況」(『大日本私立衛生会雑誌』第38号付録,1886年7月31日)3―13ページ。
18) 本史料には,このほかに麹町区・京橋区・芝区・麻布と赤坂区・本所区および東多摩・南豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の例が記載されている。
19) 山県有朋「地方経済改良の議」(大山梓編『山県有朋意見書』原書房)155ページ。
20) 長与専斎「虎列刺病ノ予防ハ如何ナル方針ヲ取ルベキカ」(『大日本私立衛生会雑誌』第46号,1887年)15―8ページ。
21) 小菅伸彦。
22) 西欧とくにイギリスを例にあげると,19世紀なかばのロンドンのテームズ川の悪臭と汚染は極限に達していたにもかかわらず,毎日8200万ガロンの水が飲料水や生活用水として汲みあげられ,しかも水道会社から清潔な上水を購入できる階層は限られていた。ミッチェル・リーズ『ロンドン庶民生活史』松村赳訳,第13章。比較史的考察を試みれば,ほぼ同時代の江戸ないし東京の水道事情がロンドンなどに比べて劣っていたわけではない。
23) 「日本水道史』各論編1(日本水道協会)。『東京都水道史』(東京都水道局)その他。
24) 東京の改良水道工事落成により,1898年12月以降,各区に給水が開始される。その翌年8月には日本橋・神田・下谷の3区は全域給水,麹町・本郷・浅草・本所・京橋の5区は一部給水と報道された(『朝日新聞』1899年8月22日)。
25) 『日本水道史』各論編Ⅰ,800ページ。『築地居留地』都市紀要4,261ページ。『神戸外国人居留地』(The Japan Chronicle紙,Jubilee Number 1868―1918,堀博/小出石史朗共訳,神戸新聞出版センター)111,148ページ。
26) 山県有朋「東京市区改正水道債利子補助ノ件」1898年11月5日(『公文類聚』第14編所収)。
27) 以下東京の上水道改良事業の沿革については『東京都水道史』,佐藤志郎(元・東京都水道局長)『東京の水道』(都政通信社)など。
28) なお後にドールン以外にも,東京市からの依頼により,イギリス・ドイツ・ベルギー国籍の外国人技師が設計に関与した。かれらの「設計比較」の内容は,『東泉市史稿』上水編第3巻,381ページ以降に収録されている。
29) 『東京市区改正事業誌』東京市区改正委員会編,第1章第2節参照。
30) 石塚裕道『日本近代都市論』72ページ以降。
31) 佐藤志郎,前掲書524ページ以降。
32) 1902年,東京市民の屎尿総額約437万石を処分して地主が得る利益は,年間180万円に達するとその不当が指摘されている(『労働世界』同年12月13日号)。

[追記]本章は第2章とともに,拙著『日本近代都市論東京:1868―1923』(東京大学出版会,1991年)の第2章Ⅱ,第3章Ⅱの基礎になった論文である。したがって表題や各節の見出しなどは拙著のそれらと異なるが,内容については重複する部分がある(前掲拙著の「あとがき」参照)。国連大学へ提出当初の「プロジェクト研究報告書』を本書に収録するに当たり,同大学の共同研究に参加した作業の過程を資料として保存しておくためにも,出来る限り,最初に発表した報告書の形態を残すことに努めた。ただし,紙幅の関係から,報告書の「まえがき」や若干の図表その他削除せざるを得なかったことを,ご了解頂きたい(1992年)。