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日本における道路技術の発達

Author: 石井一郎
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次

ま え が き ・・・・・・・・・・2
Ⅰ 日本の道路の歴史 ・・・・・・・・・・4
Ⅱ 日本古来の道路技術 ・・・・・・・・・・7
Ⅲ 第1次道路技術革新 ・・・・・・・・・・14


まえがき

 人類の文明が木の実の採取や狩猟によって当座の食物を調達していた狩猟時代から定着農業,そして都市化が始まり,第1次産業革命までのいわゆる農業化社会までは,人間が主役を演じ,その社会での価値の根元は物をいかに多く持っているかに依存する時代であった。これに対して約200年前イギリスに起った第1次産業革命の嵐は逐次アジアにもひろがり,日本にもその波が押し寄せて来たのは約110年前の明治維新の前後であった。日本はその持ち前の新奇な物に対するこだわりのない興味と,勤勉さ,理解の早さなどという国民性を十分発揮し,また明治新政府が財政貧困の中から特に国の基幹としての教育に対してなみなみならぬ熱意と努力を払ったために,日本は欧米先進諸国に対比しても決してひけをとらぬ高い教育水準に到達したこと,などが主たる要因で,日本は他のアジア諸国の倍以上の速度で近代化をとげ,一足先に工業化社会を達成した。そしてさらに次の情報化社会へと移行しようとする勢いを見せている。
 以上の日本の近代化の歴史は,道路技術だけをとってみても例外ではない。ただ道路技術が他の日本の技術の近代化と異なる主な点は,明治維新とともに始まった鉄道建設に押されて,道路技術の近代化が遅れがちであったこと,欧米先進国に比べてモータリゼーションの遅れたことである。その代りに第2次世界大戦の敗戦後,道路技術の近代化とモータリゼーションの発展は,戦前の遅れを一挙に取り戻し,わずか30年で欧米諸国に追いつき,一部では追い越している感さえある。この戦後の近代化と発展のスピードが,他の日本の近代化に比べてあまりにも変化が大きかったため,他の技術に比べて道路技術が遅れていたのが原因であったにせよ,経済や社会の全般に亘り,国民の生活環境を急速に変化させ過ぎた欠点はある。
 日本の道路技術の近代化と発達の歴史と経験について,以下,次のように述べる。
 Ⅰは,日本の道路の歴史について述べる。
 Ⅱは,日本古来の道路技術について述べる。道路技術は土木技術の一分野であるが,土木技術とは英語でcivil engineering,直訳すれば社会工学とでも訳されようものを日本では土木技術という。これは日本の土木技術が土に関する技術と木材に関する技術から発達したためであろう。よって日本は土と木に関する技術は古来伝統あるものを持っていた。しかし,石に関する技術は一部中国から伝来したものがあり,日本でこれを消化している。例えば石造アーチ橋などがその例であるが,日本の文字自体が中国から文字を学んで消化したものであるので,このような古く中国から伝来した技術は一応日本古来の道路技術として,この章で取扱うものとした。
 Ⅲは,明治維新とともにやって来た文明開化により,いかに日本が道路技術の近代化をはかり,外国から技術を導入したかを述べる。ただし,日本は明治維新とともに,すぐ鉄道の導入をはかり,道路はそのため都市の一部を除いては整備されなかった。これが大体,明治時代で,日本の第1次道路技術革新時代である。
 Ⅳは,日本の第2次道路技術革新時代について述べる。自動車が発明されて,日本にも明治時代の後半に輸入された。それにともなってそれまで馬車交通のための道路であった道路が自動車交通のための道路に近代化される過程を述べる。ただし,日本は道路の馬車交通の時代が殆んど無く,一足飛びに自動車交通の時代に入った感があり,また当時は日本の経済力も弱かった時代であるので,日本には未だモータリゼーションの波は押し寄せて来なかった。以上は大正時代から昭和初期つまり戦前までの時代である。
 Ⅴは,日本の第3次道路技術革新時代について述べる。これは日本の敗戦後,零から出発した日本が,経済復興を約10年でとげてから遅れていた道路整備を一挙に欧米先進諸国に追いつかせる過程について述べる。
 ⅥおよびⅤについては,後の報告書に述べることにする。
 なお,日本の道路の発展の歴史をふりかえってみるに当り,全国的道路網は別として,路線毎の詳細については1本の道路を例にとるのが得策と思われる。現在の国道17号線は東京から日本を横断して裏日本と結ぶ最重要幹線国道であるので,以下日本の道路の歴史の例を主として国道17号線にとることとする。

Ⅰ 日本の道路の歴史

1 古代の道路
 動物は太古以来,その往来のため自然に交通路を持っていた。つまり鹿の通り路といわれるような,動物の通る道が存在していた。そして最初の人間,すなわち太古原始人と呼ばれる類人猿が世に現われた頃,その生存に必要な交通路を持っていた。類人猿は食物を探し,水を求めて往復を繰り返し,そのたびに邪魔になる木の枝を折り,石を除いて,自然と小径を形成していった。それはどうにか通れるものであったと想像される。
 そのうちに人類は定住するようになり,住居を中心とする徒歩交通から交通の歴史は始まった。それで住居から四方に向って道が定まるようになった。そして自給自足の生活形態から物々交換が始まり,通商の必要性が生じた。つまり人の移動や物資の輸送の必要性が生じた。初めは人が肩にのせて物資を運んでいたが,そのうちに動物に荷物をつけて運ぶようになり,さらに人間の知恵から荷物を積む車を考えるようになった。そして人類の活動範囲が次第にひろがるとともに,道もさらに遠くまで延びるようになり,また網の目のようになるようになった。
 人類としては次に隣接する部落との交渉が始まるようになり,国家も形成されるようになった。河川を渡る技術も覚えるようになった。そして小径も道路として建設されるようになった。以上の古代の道路の歴史は,国によって多少の差異はあるにしても,同じであった。もちろん,日本も例外ではなく,歴史上の記録は残ってはいないが,ほぼ前述のようであったと思われる。

2 道路整備の歴史
 日本の道路の歴史で最も古い記述は日本書記に出てくる。それは神武天皇の御東征のとき,河内の国から大和の国へ進むのであるが,道は2列では通れない,狭くて険しい道であったらしい。
 日本で初めて道路が築造されたのは112年の綏靖(すいぜい)天皇の時代で,山陽道が開かれ,その後,東海道や南海道が開かれている。その後,646年大化の改新において道路制度が確立され,駅馬(はやま)や駅(うまやたち)などの駅伝の制度ができ,畿内の道路と七道(東海道,東山道,奥羽街道,山陰道,山陽道,西海道,南海道)の制度ができるとともに道路整備も行われた。
 戦国時代を過ぎて荒廃した道路に対し,全国統一した織田信長は4人の道奉行を置き,主要道路は幅員3.5間(6.4メートル)その他は3間(5.5メートル)として整備し始めた。これを引継いだ徳川幕府は,江戸日本橋を起点に,東海道,中仙道,奥州街道,甲州街道,日光街道の5街道を主要道として設定するとともに全国の道路の整備に力を注いだ。
 以後,徳川幕府の政策により,日本は鎖国時代を迎え,海外との交流は殆んど無くなる。道路技術にも道路交通にも約300年の空白,つまり停滞の時代が存在し,やがて明治維新という文明開化の時代を迎えるに至るのである。

3 国道17号線の概要
国道17号線は東京と裏日本の北陸地方を結ぶ重要幹線であって,東京日本橋を起点とし,新潟市を終点として日本の交通動脈の中枢の一部を形成している。そして沿線には,浦和,大宮,熊谷,高崎,前橋,渋川,沼田,長岡等の中小都市をひかえ,上越地方の大観光地帯を持ち,東京都,埼玉県,群馬県,新潟県の1都3県にまたがっている。なお,地形的には南半分は平地道路であるが,北半分は三国山脈を横断する山岳道路である。この南半分の平地道路の殆んどの部分が徳川幕府時代の旧中仙道に当り,北半分の山岳道路が徳川幕府時代の旧北越清水越往還に当っている。
 徳川幕府時代の日本は鎖国したため,道路交通機関としては,徒歩によるか,馬か駕籠(かご)に乗るかであった。そして徳川幕府は東海道,中仙道,奥州街道,甲州街道,日光街道の5街道を主要道として設定した。そのうち中仙道は徳川家康の江戸入城後,間もなく伊奈忠次が開いたもので,木曽路ともいわれ,日本橋をふり出しに,板橋宿を通り,現在の埼玉県に入って,蕨,浦和,大宮,上尾,桶川,鴻巣,熊谷,本庄の9宿があり,上州に入って,新町,倉賀野,高崎,板鼻,安中,松井田,坂本を経て,信濃,木曽路から近江国を通って草津追分で東海道と合流している。この間板橋宿から草津宿まで67駅,129里(516キロメートル)ある。この旧中仙道のうち,日本橋から高崎に至る間が現在の国道17号線の南半分に当るわけである。
第1図 国道17号線位置図
第2図 中仙道と北越清水越往還位置図
 旧北越清水越往還は,旧中仙道の本庄の宿から分れて利根川を渡り,境,伊勢崎,前橋,渋川,水上,湯檜曽を経て清水峠を越え,六日町を経て長岡に達する街道である。
 現在の国道17号線を旧中仙道と比べると,起点は同じく日本橋であって,本庄では分れず,高崎で国道18号線と分れる。そして国道18号線の方が旧中仙道に当る。つまり徳川幕府時代には旧中仙道と北越清水越往還とが本庄で分れていたが,現在では国道17号線と18号線が高崎で分れており,しかも徳川幕府時代には旧中仙道が日本橋を起点とする本線で北越清水越往還が本庄で分岐する支線のような形であったが,現在では国道17号線が日本橋を起点とする本線で,国道18号線が高崎で分岐する支線となっている。

Ⅱ 日本古来の道路技術

 日本は気候と雨量にめぐまれていることから,土と木に関しては豊富であった。したがって土と木に関しての技術は自然と発達し,独特のものを持っていた。建設に関することを土木というのも,ここから出ている。しかし,日本は良い石材を産出しないので,石に関する技術はむしろ当時先進国であった隣国の中国から輸入されて改良され,日本化されたものもある。道路に関する技術についても以上と異なるところはなかった。

1 街道としての中仙道と人の往来
 徳川幕府が文治政策の1つとして,土地の開発,治水とともに力を入れたのは街道の整備であった。戦国時代に始められた伝馬飛脚の制度も,戦乱によって消滅していたし,関ケ原の合戦後,徳川家康が江戸城に入ってからは,諸国大名の江戸への出入りが日増しに多くなり,参勤交代制の必要上からも街道の整備に力を入れた。
 徳川幕府が以上の伝馬制を正式に復活させたのは3代将軍家光の寛永2年(1625)であるが,江戸周辺では慶長年間にすでに始まっており,東海道は慶長7年(1602)より始めている。荷物は伝馬30貫(112.5キログラム),駄馬40貫(150キログラム)までとし,料金は1里(4キロメートル)16文であった。
 5街道のうち中仙道の往来が一番はげしく,元和5年(1619)には全国にさきがけて助郷制度の母体が生れた。これは沿道の代官,領主,村民たちに負わせた義務制度であって,代官や領主は禄高100石について宿駅へ詰め夫1人,160石につき伝馬1匹,馬子1人を出さなければならなかったし,沿道の郷村では1年間に詰め夫6人,伝馬6匹を課せられたのである。さらに寛永12年(1635)参勤交代制が確立すると,各大名はどうしても江戸との間を往復しなければならなくなり,それにはとても既存の宿場,伝馬の規模では足らず,寛文5年(1665)助郷制度が天下に指令され,各街道,各宿場ごとに割当を決められた。助郷には各宿から5里以内を定助郷,5里以上10里以内を加助郷と称し,その地区は絶えず人馬の補強を強制され,村民は大きな犠牲を払わされた。
 一方宿場には大名のための「本陣,脇本陣」が作られ,一般人民の泊る「はたごや」とは区別された。「問屋場」と呼ばれる助郷や伝馬の呼び出し機関も置かれ,いつも定められた人足,馬を用意して旅人の必要にこたえた。
 しかし,大名行列も最盛期を迎えた寛文5年(1665)中仙道には従来より一層強化された助郷制度がしかれた。中仙道の各宿駅には人馬それぞれ50を用意させ,そのほか大名の通行するときには1日に人足25人伝馬25匹をかり出すなど,沿道の発展とうらはらに地元の負担は大きくなっていった。このため正徳4年(1714)には幕府が参勤交代の順路を定め,中仙道を往来できる大名は金沢,富山,忍など大小34藩に限ったくらいだった。
 一方道路の改修も行われた。特に往来の旅人のために路傍に主として松を植えた。そして慶長9年(1604)徳川家康は大久保石見守長安に命じ,中仙道に36町毎に1里塚をつくらせた。実際の築造には幕府領では代官に,私領では領主に当らせたが,中仙道のほかに東海,東山,北陸の各街道に及び,規模としては街道の両側に約10メートル四方の塚をつくり,その頂上に榎を植えたものであった。この一里塚は旅人の賃銭支払の標準ともなり,いこいの場所ともなった。
 徳川幕府は治安対策上および橋梁技術の未熟から,江戸へ向う街道の主要な個所の橋梁は作っていない。中仙道もこの例にもれず,現在の国道17号線の戸田橋の下流約100メートルのところに中仙道の「戸田の渡し」があった。この渡しの川原の周辺は戸田ヶ原と呼ばれ,ひろびろとした桜草の名所で,渡し舟は人が20人か30人も乗ればいっぱいになりそうな小舟だったようで,伝馬用の馬もこれに乗せて川渡しをした。
 徳川幕府が乗船場を指定したのは元和2年(1616)で,渡川の時間はどんな場合でも毎日明六つ(午前6時)から暮六つ(午後6時)に限られ,夜の渡しはいっさい禁じられていた。この渡しも明治8年(1875)に同じ場所に渡り賃をとる木橋ができるまで続いた。
 一方,三国山脈のふもと湯檜曽川に沿ってのぼり,高い障壁の上越国境を越えて行く北越清水越往還はずっと古くから開けていて,徳川幕府時代には湯檜曽に関所があった。この峠を掘削して,関東平野と越後平野とを結ぶ念願は遠く天保年間に企てられ,嘉永年間にも再び企てられていたが,いずれも中絶したままで,古い小道が曲りくねっているだけであった。

2 構造規格
 道路の構造規格は,歩行の時代には全く問題とはならず,騎馬または車など新しい移動手段の発展とともに体系化されるものである。日本では車輪を用いた高速の移動手段が,徳川幕府300年の鎖国時代には発達しなかった。ただ幅員については,人の住む集落の形成に当って,現在の都市計画の街路に相当する道路網が考慮されていて,その中には宗教的観点から定められるものもあった。江戸市街をはじめ,各地の城下町において,防火等の関係もあって,主要な広路・大路は広い幅員を採用していた。
 しかし地方の街道は総幅員5間(9メートル)とし,うち道中筋幅員を2間(3.6メートル)並木敷幅員を9尺(2.7メートル)両側にとった。これはあくまで人の往来に必要な幅員をとったものである。

3 舗 装
 日本は徳川幕府時代に鎖国政策を採ったため,人馬の交通が主体で,現代的な舗装の芽生えはない。ただ慶長17年(1612)徳川幕府として砂や小石で路面を固めることを指示しており,さらに慶安元年(1648)には江戸市内の道路について,砂利,砂を混合して道路の中央を高くして横断勾配をつけることを行なっている。また天下の嶮といわれた箱根の山越え道は延宝8年(1680)に路面に全幅員3.6メートルのうち中央1.8メートルの部分に石を敷きつめ,石畳道としている。
 日本における舗石舗装の本格的はじまりは,1736年徳川吉宗のときに,東海道の京都―大津間の日岡峠の急坂延長5.4キロメートルを平均勾配20分の1に改修し,これに白川石を敷き詰めたのがはじまりといわれている。1805年徳川家斉のときに,幕府は同じ東海道の蹴上げ,日岡峠付近から大津札の辻に至る間約12キロメートルの大改修を行なって,人馬道は切込砂利であったが,牛馬道には車輪当りに厚板石を舗設した。京都―大津間は徳川幕府の末期には車馬交通が頻繁であったため,車道(牛馬道)と人馬道とが区別されていたくらいで,現在でいう歩車道分離の起源といえる。なお,以上の技術は日本が鎖国していたため外国から輸入されたものではなく,日本独自のものであった。

4 測 量
 1643年にオランダの外科医カスパルが長崎に漂着渡来した。このカスパルが測量技術を日本に伝えた。この測量技術は三角法の応用で,コンパスと定規で遠近と高低を知る方法であった。この測量技術は1657年の明暦の大火の後で,江戸の実測図を作ったときや玉川上水を作ったとき,また箱根用水トンネルの建設などに用いられた。
第3図 江戸時代の検地用具

5 トンネル
 明治以前に日本で掘られたトンネルは,箱根用水の深良用水トンネルと,青の洞門の2ヵ所である。掘削はどちらも原始的なノミと槌を用いた手掘りによるものである。驚くべきことに深良用水トンネルは2ヵ所換気のための立坑が設けられており,また青の洞門も所々に明り取り窓が設けられている。これらのトンネル技術は外国からの技術が導入されたものではなく,日本古来の和算を基礎とする甲州流の水利法から発達したものと思われる。

6 橋 梁
 日本は豊富な木材資源を有しており,架橋材料として木材を用いるのに適当であったので,橋としては木橋が早くから発達した。歴史上に現われる一番古い橋は326年に現在大阪に当る所に架けられた猪甘津(いかいつ)橋である。これは丸木橋の簡単なもので,小径間の橋しか架けられなかったが,このような丸木橋は7世紀頃まで続いている。
 次いで大きな橋梁が必要となって比較的高度の技術を必要とするようになり,橋脚に木材を使い,上部工は木材を使った桁橋が発達するようになった。比較的早い時代に,今日見られるような型式の橋が,日本独特の技術とし完成したのは,その簡素な形式が日本の風土によく調和した点も理由の1つにあげられる。この木橋の桁橋が初めて架けられたのは,京都の宇治橋で646年である。ついで瀬田橋,山本大橋,山崎橋,泉大橋,長柄橋など,近畿地方で長大橋が数多く架けられた。
 豊臣秀吉の時代に京都で三條,四條,五條の大橋が架けられたが,このとき初めて橋脚に石材が用いられた。城郭建築の石造の技術が橋梁技術に用いられたものである。
 徳川幕府時代になると,江戸に千住大橋,日本橋,両国橋,永代橋,吾妻(あづま)橋などが木造の桁橋として,当時としては長大橋が架設され,全国に及んだ。かくして日本は豊富な木材資源を背景にして木橋の架橋技術は独特の発達をみた。なお一部の橋は賃取橋であって,幕府は請負人に橋を架けさせ,利用者から橋銭つまり料金を取っていた。請負人は利益を出すため,できるだけコストの安い橋を造って儲けた。もちろん,木橋であるため寿命があり,架け変えることがあり,落橋という事件もあった。
 徳川幕府は大井川など交通の要衝に橋を架けなかった。その1つの理由として封建時代の幕府の防衛戦略上の理由があったが,もう1つの理由としては,大井川のような大河川に対しては当時の橋梁技術で架設しても,日本の河川は洪水を起しやすく,すぐ橋を流してしまうという理由もあった。洪水のたびに流された橋を修復する不経済さを考慮したのである。徳川幕府の中期以降,東海道の主要河川に橋が架けられていたのは矢作(やはぎ)川と吉田川(豊川)だけであった。また,東海道以外で以上のような洪水の多い河川では,簡単な丸木橋を架け,出水期になると撤去して渡船に頼った例もある。また,一時的な仮橋であるが,利根川の栗橋で設けられた舟橋の例もある。これは舟を何艘も並べてその上に板を敷いたものである。
 日本の木橋技術にも特筆すべき技術が開発され実際に架橋されている。推古天皇の頃(600年頃)に架けられた甲斐の猿橋は,谷の幅・深さ30メートルあまりの急流に架けられたもので,木造の肱木(ひじき)橋と呼ばれ,今でいうディビダーク工法に当る。野猿の群が谷を渡るときに,崖のふちの木の枝にぶら下った一匹に,猿たちが次々と手足をつなぎあって鎖状になる。そして,その猿の鎖を大きくひと振りさせたかと思うと,先端の猿が対岸の藤蔓をつかむ。次の瞬間,一番手前の猿が枝から手を離して,群全体が対岸に渡りつく。これからヒントを得て,丸太を両岸から突き出し,その上に少しずつ先端をせり出して丸太を重ね,中央部で結合させる。猿からヒントを得たので猿橋という
名がついた。
 続いて同じ肱木橋として越中の愛本橋が寛永3年(1626)に架設された。延宝元年(1673)に架設された岩国の錦帯橋は,当時としては世界に類が無いほどユニークなアイディアを取入れた木造のアーチ橋であった。古来,橋に関する最大の事故は出水による流出であった。前述のように,徳川幕府時代に幕府が大河川の架橋を認めなかったのは,河川を自然の要害とした戦略的見地からと,洪水のたびに流される橋を修復する不経済性にあった。そこで洪水に際しても流されない木橋を考えた。まず橋脚に相当する橋台を築城技術で開発された城郭風の石積みにし,そこから橋体をせり出させて無脚のアーチ形とする。そして橋台を保護するため,橋下の川床に木枠を沈めてその上に敷石を並べて,橋台の根元が洗い流されるのを防いだ。以上の構造から,上流から漂流物があっても,それが橋脚にぶつかって橋もろとも押し流す危険は避けられるようになった。
 木曽の桟橋(かけはし)と祖谷(いや)の蔓橋は木造の吊橋であって,祖谷の蔓橋は現存する。祖谷の蔓橋は3年に1度架けかえられるもので,付近の山地に自生する「白くちかずら」を材料として用いる。このほか洪水のときに水面下に没してしまうもぐり橋,前述の舟橋の前身と思われる浮橋も古くから存在している。以上のいずれも日本が木造の橋梁技術上,諸外国に誇りうるものであって,もぐり橋は現在コンクリート製の潜水橋として,その木造橋の技術が生かされているし,舟橋または浮橋の技術は,鉄舟を並べて軍事上の仮橋の技術として現在に生かされている。
 木橋の技術は日本で開発された技術であるが,このほか橋梁の技術で外国から伝来した技術に石造アーチ橋がある。この石造アーチ橋の技術は中国で発達したものであり,これが初めて日本に伝えられたのは沖縄であって,15世紀であった。そして石造アーチ橋として初めて沖縄で享徳元年(1452)に美栄橋と安里(あさと)橋が架けられた。
 石造桁橋は石造アーチ橋より多少遅れて発達し,明応7年(1498)に,石造桁橋として初めて旧円寛寺放生橋が沖縄で架けられた。この石造桁橋の技術は,外国から輸入されたものではなく,日本の城郭建築にみられる石造の技術の発達とともに影響を受けて,石造桁橋が発達したものである。この石造桁橋の技術は,間もなく本土に伝えられ,天正年間(1586年頃)に現在の滋賀県の日吉大社の境内に日吉三橋が架けられた。
 石造アーチ橋の技術が日本の本土である九州に伝えられたのは,さらに200年も経って17世紀に入ってからである。ちょうど,平戸(ひらど)が貿易で栄えた頃,平戸にオランダ人が居留していて,一部石造のオランダ屋敷を作っていた。その西洋窓の小さなアーチの造り方を平戸付近の石工たちが勉強して,平戸では小川や溝に小さな石造アーチ橋が幾つか作られていた。その小さな技
術が存在しているところへ,中国の江西省出身である興福寺の住職である如定の指導により,寛永11年(1634)に長崎に眼鏡(めがね)橋が初めて本格的石造アーチ橋として架橋された。如定が設計指導したといっても専門外のお坊さんなので,ざっとした図面を描き中国の橋の絵を見せ,あとは石工にまかせたのであるが,石工たちは平戸での経験があり,すぐ設計施工技術をマスターし,その後長崎市内には数多くの石造アーチ橋が架設せられ,約70年間に20橋以上も架設された。
 かくして,九州地方では長崎を発祥地として,九州各地に石造アーチ橋の技術が伝わったが,初めは中国の技術の模倣の域を出なかった。しかし,岩永三五郎とその一族が石工の技術をみがき,アーチ技術を十分日本化し,独創的なものとなって,日本の石造りアーチ橋技術として完成させた。この石工の一族は鹿児島で数多くの石造アーチ橋を建設し,その技術を認められ,招かれて熊本に移り,熊本地方にも多くの石造アーチ橋を作った。長崎や鹿児島や熊本地方には,現在でも石造アーチ橋が保存されて現存している。
 石造アーチ橋の技術は道路橋だけではなく,水路橋としても作られた。安政元年(1854)に当時の矢部郷白糸村に水を送るため,轟川に通潤橋という名の水路橋が作られた。2年半の工期を要したこの水路橋は,石造アーチ橋としてはあとにも先にも日本で唯一のものであり,熊本県下に現存している。
 九州より外へは伝わらなかった。その理由は徳川幕府の対諸藩政策もあり,さらに一子相伝という封建時代独特の技術継承方式もわざわいした。また鎖国政策も,諸外国の新しい技術を導入するのに大きい障害となった。なお,石造アーチ橋の技術が九州以外に及んだのは,明治維新以後であって,新しい首都東京へ九州の石工を呼び寄せ,それまで木橋であった二重橋をはじめ,江戸橋,万世橋など,多くの橋を石造りアーチ橋に架け変えた。

Ⅲ 第1次道路技術革新

 明治維新とともに文明開化が始まった。鎖国時代の遅れを取戻そうと国を挙げて努力した。道路技術に関しても同様であった。欧米先進諸国との間には,道路に関しても相当の技術格差があった。日本の道路交通は徒歩と馬と駕籠の時代のままであったのに対して・欧米先進諸国は馬車交通の時代であった。道路交通機関の差が道路技術の格差にもつながっていた。それで,幕末の開港当初から,道路に関する技術は居留外国人によって紹介され,日本人はこれをまねた。幸い,日本人は人夫とその親方の制度が,封建的ながら一つの技能施工集団として存在し,日本古来の技術を持ちつつ,かつまた,居留外国人が施工の一部を日本人の施工集団の親方にまかせたこともあり,日本人の生れつきの器用さも手伝って,外国技術を自然と身につけるようになった。
 一方,産業革命にともなう鉄道の発明と発達を,日本も明治維新とともにただちにとりいれた。鉄道は文明開化のシンボルでもあり,欧米先進諸国も道路の馬車交通から鉄道交通へ目を奪われている時でもあり,日本も鉄道に力を入れて,この時代には道路はあまり進歩しなかった。

1 明治時代の国道17号線
 江戸時代においては道路の各所に関所,木戸,川関等があったが,明治維新によってこれらの関門は撤去せられ,交通が自由になるとともに,庶民の往来はにわかに増加し,加うるに人力車,乗合馬車などが出現し,車輌の利用も日々に盛んになったので,江戸時代のままの道路では,著しく狭隘と不便を感ずるようになった。そのうえ,明治維新政府は殖産興業を進め,国利民福を増すにはまず交通を便利にすることが急務であると考え,いたるところで道路の改修,橋梁の改築を奨励した。しかし,明治維新当時の道路行政は,各地の慣例および地方庁の制定する規定によったが,当時地方の財政は未だ不安定であるうえに,施設すべき事業が極めて多かったので,道路,橋梁はたいてい民間に委ねて,関係市町村民をしてこれを経営せしめた。
 中仙道は,江戸時代の文久元年に幕府の手により修理されてから放置されていたので,明治になってから,破損の程度は相当甚しかった。明治5年に,道路取締および掃除規則が定められ,道路の修理に着手し,中仙道の幅員は6間とされた。明治6年には道路の岐路に標札を建てて,方南,方向,里程を表示して行路者の便を計った。今でいう道路の案内標識である。
 明治6年8月に道路見廻心得章程が出来て,道路の等級を3等に分ち,その修築維持の費用負担および工事に関する地方の権限が定められたが,中仙道と北越清水越往還はもちろん1等道路であった。明治9年に至り,明治政府は道路を国道,県道,里道の3種に分け,1等道路を国道としたが,中仙道は5号国道と呼ばれるようになった。なお大正9年1月に新たに道路法が制定されたとき,国道9号線と改称されている。北越清水越往還も明治11年に国道に認定され,12号国道と呼ばれるようになったが,大正時代になって新しい道路法が出来たとき,国道から県道に格下げされている。
 前述のように,明治初年には道路および橋梁の改築について,まだ官費を支出する途が無かったので,民間の私財によって架設された。今でいう有料橋に当る橋梁も珍しくはない。中仙道の荒川にかかる「戸田の渡し」もその例外ではなかった。明治になって旅行の自由が許されるとともに交通も頻繁になり,従来の渡津の不便を除こうとして,戸田の渡しにも橋をかけようということになった。最初,東京府の民間人で堀正という人と天野伴蔵という両名が,私財を出して明治7年2月に木橋工事に着手したが,たちまち資金が不足して中止してしまった。しかし,長野県人である正木誓が同年7月にこれをひきつぎ,政府からもらった奉還金(武士の退職金)を資金として木橋工事を続行した。当時の木橋技術としては,深い川の中に橋桁を建ててゆくのは大変な難工事であったが,10月に8分通り完成したところで大雨による出水があり,一夜のうちに未完成の橋は濁流の中に消えた。だが,地元戸田村の永井吉右衛門をはじめ,地元民も協力して資金を出し,木橋工事の再建にのり出し,翌明治8年5月に全長75間,幅2間2尺の立派な戸田橋が完成した。費用は当時の金で1万2,660円で架橋地点は現在の戸田橋上り約100メートル下流のところである。そしてその後10年間橋銭をとることが許された。いわゆる有料橋で,通行料は1人5厘,荷車をひいた牛や馬は1銭,橋の両側に番小屋を作り料金徴収を行なった。利益は工事費の出資者に2割~3割の割合で配当された。
 この橋は,明治29年に埼玉県に移管されて無料橋となったが,傷みがはげしくなり,大正元年に東京府と埼玉県が半額ずつ負担して,同じく木橋として架替え,昭和7年に現在の鋼橋(上り線として使われている部分)に架替えられている。
 北越清水越往還については,明治維新後,明治政府は明治4年に民部省権少亟であった島惟精に水路検分のため,利根川上流の調査をさせた。その結果,東京府に対して,この北越清水越往還の改修工事を行うこと,および完成のうえは道銭をとることを許可したが,実現しなかった。
 明治5年,柏崎県参事鳥居断三と七等出仕の石川昌三連署で,改修方を大蔵省に懇願したが,東京府に許可しても実現しなかったというので,土木寮の役人が実地調査したにもかかわらず,そのままに終った。
 明治6年,熊谷県令河瀬秀治の努力で利根川に沿って,現在の湯檜曽―土合―西黒沢―清水峠―新潟県への開通を企てたが,費用が無いため,前橋の下村善太郎に交渉して有志7,8名から現金3,000円の寄付を受け,明治7年に開通したが,延長7里17町,道幅はわずかに6尺に過ぎなかった。
 明治11年に,この北越清水越往還が国道に認定され,12号国道と呼ばれるようになってから,内務省土木局は,内務郷大久保利通の命令で土木局長石井省一郎に立案させ,宮之原誠蔵ほか1名を現地に視察出張せしめ,翌12年にルートを湯檜曽―西黒沢―一の倉―芝倉沢―白合羽―本谷沢―鳴水沢―松ヶ沢―清水村に決定し,明治14年には,オランダ人技師ムルドルの実地踏査で,さらに高崎―湯檜曽と清水村―長岡間の測量をさせた。
 改修工事は延長43里,勾配30分の1,道幅3間の道路を,総工事35万円をもって内務省の直営として,湯檜曽に土木局の出張所を設け,宮之原誠蔵を責任者として,明治14年7月に着工した。途中沿道農民の反対その他幾多の難工事に遭遇したが,5ヵ年の年月をかけて明治18年8月に完成した。同年9月7日,大規模な開通式が湯檜曽で行われ,北白川宮能久親王,内務大臣山県有朋らが参列し,親王は馬車で新道を越後へと越えられた。

2 幾何構造
 道路の幾何構造規格は,歩行が主体の道路交通の時代には全く問題とならず,車輪を用いた道路交通機関が出現して発達したものである。車輪を用いた道路交通機関として,最初に出現したのは,馬車である。次いで軌道である。よって道路の幾何構造が問題となったのは,馬車交通のための幾何構造であり,軌道のための幾何構造であった。次に自動車が出現して自動車のための幾何構造が問題となるのであるが,いずれにしても,馬車や軌道や自動車の機械工学的見地から見た道路の幾何構造であった。
徳川幕府の300年の鎖国の時代には,幾何構造に関してなんら目新しいものは無かったが,幕末の開港から明治維新で海外文化がとうとうと流入するなかで,道路の分野でも積極的に欧米の技術を取り入れようという気運になった。すなわち,開国後,文久年間(1861-63)に初めて洋式馬車が輸入され,横浜の外人居留地には慶応年間(1865-67)に外国の道路を真似た“馬車道”が作られており,また,神戸においても明治初年(1868)にイギリス人技師G.フロックの設計により,歩車道を区別した整然たる道路がっくられた。これは外国の技術導入といえる。
 以上を契機として,明治新政府は明治4年(1871)5月,東京府下の大道筋の中央3~4間(5.4~7.2メートル)通りを車・駕籠通行用とし,その左右を徒行用として修繕すべき旨を達している。これは現在でいう歩車道分離の道路である。
 翌明治5年(1872)2月に,東京の銀座に大火があり,東京市はその銀座通りの復興に際して,新街路の総幅員を15間(27メートル)に拡幅し,中央に9間(16.2メートル)の車馬道を設け,その両側に各3間(5.4メートル)の人道を設けて歩車道を区別した。
 以上のように,都市においては外国の技術導入から歩車道分離の街路が作られるようになったが,地方部の道路について幅員が最初に決められたのは,明治9年のことで,国道の1等の幅員は7間(12.73メートル)とされた。明治18年には国道の等級を廃して,国道はすべて有効幅員4間(7.27メートル)以上,並木敷など3間(5.45メートル)以上などと決められた。
 明治初期は,諸制度の改革変動期であって,道路についても制度の改廃がしばしば行われているが,いずれも道路の種別と幅員に関するものであった。しかし,明治19年になると,内務省訓令によって道路築造標準が制定され,これには道路幅員のほかに路面構造(割石または砂利),横断形状,排水,縦断勾配,曲線半径,背向曲線,並木敷に関する規定が設けられ,さらにトンネル,橋梁の構造に関する規定が設けられた。しかしながら,この規定に準拠して実際に改良された区間は,明治年間にはあまり多くはなかった。
 また,都市内の道路については,明治22年(1889)に,東京を首都としてはずかしくない都市とするために,壮大な計画が樹てられ,主要道路の幅員は,例えば日比谷通は幅員43.63メートルという風に,当時としては異例の大きなものであった。これは,当時普及しつつあった軌道敷をも含める必要があったためでもある。
 道路交通の手段としては,徳川幕府時代は馬,牛,牛車,駕籠,大八車などが用いられていたが,明治に入ってまず人力車が登場した。これは日本人の考案になるものであった。次いで乗合馬車,馬車鉄道の出現を見ているが,それらは外国の技術導入である。馬車鉄道は明治15年(1882)新橋―浅草間で開業し,次いで明治28年(1895)には人車軌道が開業した。一方電車軌道は,明治28年に京都―伏見間で初めて開業し,明治末期には全国で170ヵ所に達しているが,当初は外国の技術導入による。
 以上のように道路上に軌道が設けられるようになったので,明治23年(1890)には軌道条令が公布され,さらに明治34年(1901)には軌道を含んでの道路幅員が決められるようになった。
 以上のように明治維新とともに通路の種別が決められるとともに,道路の幾何構造としては,通行する道路交通機関に合わせて幅員が決められ,他の幾何構造については,一応決められたものが形式上あっても実際には実施されなかった。

3 舗 装
 明治に入ってから,道路の築造方法は徳川幕府時代とさしあたり変っていなかった。道路の多くは砂利道で,一定の規準はなかった。
 明治5年(1872)銀座大火災後の復興に際して総幅員を拡げるとともに,車馬道には新土を30センチメートル余盛して,その上に砂礫を敷き石造ローラーで締固め,人道はレンガまたは板石を舗設した。また明治7年(1884)に,兵庫県の生野町より飾磨港までの52キロメートルの新道で,小石の上に細砂密土を敷き,ローラーにて転圧している。以上,いずれも外国から技術導入されたもので,砂利道の転圧したものである。砂利の代りに割バラスを用いて転圧した方法が明治11年に京都府下で,明治12年に横浜市内で施工されている。
 明治16年(1883)に東京の丸の内にて,油石灰道,砕石道,結成石道(セメント・コンクリート道と思われる)の3種類の試験道路をつくった。その結果砕石道が最も良かったので,明治18年に本格的に浅草蔵前通りに砕石道をつくった。この道路は拳石道路と呼ばれ,東京府下では以後これを見習っている。その工法はまず割栗石を厚さ15センチメートルに敷き詰め,その上に砕石を厚さ6センチメートルに敷きならして,鉄製大ローラーで数回転圧するもので,テルフォード工法とマカダム工法を折衷したようなものである。
 明治19年(1886)に,以上の成功により内務省訓令第13号をもって,国道・県道の築造標準が制定され,在来の道路も,すべて以上の工法を以てするよう通達された。原則は砕石を用いるのであるが,交通量の少ない場合には,砂利に置き換えても良いこととなっている。
 かくして,各府県には各種ローラーが普及し,道路改良も進められたのであるが,肝腎の道路交通機関が進歩せず,逆に鉄道熱が盛んとなって,道路改良熱も次第に後退し,府県の予算の都合もあって,内務省訓令で決められた築造標準も空文化して,いつとはなしに「人馬踏固め」という原始的な自然地固め工法に逆転してしまった。
 いずれにしても,砕石道路が好評であったのは自動車の出現以前であって,砕石道路は馬車交通に好適であり,馬の足掛りが良く,鉄輪による塵埃も割合少なく,雨が降るとその塵埃や砕けた石屑が石の隙間を満たし,交通による自然転圧によって,堅固な路面が形成されたからである。
 ところが自動車が発明され普及するにつれて,従来の砕石道は,そのスピードと重量によって,次々と破壊され,またもうもうとたつ塵埃が問題となり,ほこりのたたない耐久性のある路面を構成する舗装が要求されるようになった。
 日本で最初にアスファルト舗装を施工したのは,自動車の出現とは関係が無い。それは明治11年神田昌平橋の橋面舗装に,秋田産の土瀝青を用いて施工されたもので,単に原鉱を煮沸して爽雑物を除去しただけという原始的工法であった。道路舗装以外では土間のタタキ,工場の床,停車場のプラットフォーム,馬房の舗床などに使われた。
 明治41年(1908)にはアメリカのカリフォルニア産の輸入原油精製の副産物のアスファルトが出廻り,明治44年にはイギリスから6トンのタンデム・ローラーを輸入するとともに欧米のアスファルト舗装技術を技術導入して,東京にて,木塊舗装,シート・アスファルト舗装およびアスファルト・コンクリート舗装の試験舗装を施工した。
 セメント・コンクリート舗装は,当初歩道以外には使用されず,それも木塊,レンガ,小舗石またはアスファルト系各舗装の基層として使用されていたものである。初めて路面がセメント・コンクリートで舗装されたのは明治45年(1912)に名古屋市の大須観音の入口であって,下層が1:3:5のコンクリート15センチ,上層が1:3のモルタル2.5センチの構成であった。

4 測量
 三角測量などの近代測量技術の導入は,他の近代技術の導入と同様に,明治維新直後に始まった。明治3年(1870),東京―横浜間の鉄道建設のための測量が,イギリス人技師モレルによって開始された。同じ頃,北海道ではアメリカ人ゼームス・ワッソンによって本格的な測量が導入された。一方,陸軍はフランスに範を求めたので,測量もおのずからフランス式測量を採用することとなり,フランスの武官ジョルダンの指導を受けた。
 このように,英米仏各国の方式が並行して日本に導入されたが,測量方式だけでなく,測量事業そのものも,各省庁の必要に応じ,相互の調整もなく,ばらばらに実施された。
 民部省では明治2年(1869)戸籍地図掛を設け,同年これを地理司に発展させ,地図行政の一元化を図ったが,目立った業績をあげることもなく,明治4年民部省の廃止とともに,その業務は大蔵省租税寮地理課へ移された。工務省では明治4年(1871)測量司を設け,東京府下の三角測量を手始めに,大阪,京都,神戸,横浜などの三角測量に着手した。太政官では明治5年(1872),正院に地理課を設けて地誌の編纂を行なった。また,北海道では開拓使の手によって,本格的な三角測量及び地図作成が行われ,明治9年(1876)頃には全北海道のほぼ3分の1の測量を終っている。これら軍以外の機関で行われていた測量事業は,明治6年(1873)の内務省の成立を機に,順次内務省の地理寮に吸収されていった。地理寮は明治10年(1877)地理局と改称され,まず東京,大阪,京都のほか開港5港など主要都市の市街地図の作成を行うとともに,全国大三角測量(1等三角測量)の計画を確定し,明治9年に関東地方より着手した。
 一方,陸軍では明治4年(1871)兵部省参謀局に測量,地理図誌を任とする間諜隊を設置した。間諜隊はその後陸地測量部を経て今日の建設省国土地理院となる。この発足当時は,測量方式の調査研究や試験的作業を行なったが,西南の役でこの間諜隊が地図作成に大活躍して勝利に貢献したことから,測量および地図作成部門が増強されるようになった。
 明治12年(1879)に工兵少佐の小菅知淵が測量課長になって,全国測量を行うようになり,基準点の設置も行われたが,内務省の大三角測量と強い競合関係に立つようになったので,両者の調整が行われ,明治17年(1884)に太政官達をもって大三角測量が内務省から陸軍に移管されることとなり,以後測地に関することは,すべて陸軍が所管することとなった。
 これに先だって明治15年(1882)から16年にかけて,陸軍の測量方式がフランス式からドイツ式に変更されていたので,以後日本の国としての測量技術はドイツ式に統一された。
 明治21年(1888)に陸地測量部は独立し,この陸地測量部の手によって,高い評価を受けるに至った参謀本部の5万分の1の地形図が作られ,今日明治の成果と呼ばれる全国を覆う1,2,3等三角点及び水準点の測量が行われた。
 以上の陸軍の測量技術はドイツ方式であるが,内務省系の河川測量や道路測量は英米方式が主流であったため,ごく最近まで両者は融合されなかった。

5 土 工
 自動車交通が発達せず,人馬,荷車の交通が主体とされていた道路交通の時代は,全く経験に基づく人力施工の時代で,設計施工に関する技術は皆無に近いといってよい。明治中期以後,建設機械が多少なりとも輸入されることはあったが,日本の経済力も弱く,軍事費の重圧もあって,大規模な機械化施工が必要な工事は行われなかった。よって明治時代には土工技術は無かったといえる。
 ただ日本には徳川時代から上総掘(かずさぼり)と称するボーリング方法がある。これはヒゴ竹を掘桿とし,弓竹の弾性を利用してヒゴ先のきり(チョッピング・ビット)に衝撃を与えて掘進する方式で,現代式でいえばパワーカッション式ドリルの一種である。この方法で日本では突抜井戸を掘っており,比較的近年まで浅い井戸掘や温泉掘に利用されている。この日本古来のボーリング方法は,試料を採取できない欠点があるため,調査ボーリングとしては利用できなかった。
 明治の後半にコアを採取できる回転式ドリルが欧米から輸入され,初めは主として炭坑の採炭調査用に使われたが,その後は改良されて,一般の土工用にも使用されるようになった。

6 トンネル
 トンネルの技術は,日本が徳川幕府時代に鎖国している間に欧米諸国で急速に進歩している。延長20キロ余で世界一の有名なシンプロン・トンネルは,1906年(明治39)の完成である。トンネル技術が日本に導入されたのは,明治に入ってからすぐの明治3年(1870)で,大阪―神戸間の鉄道の芦屋川トンネル(延長61メートル)が英人技師の指導のもとに初めて完成した。このトンネルはカット・アンド・カバー方式で施工したトンネルであるが,このように外人技師の来日指導によるほか,日本人の海外視察・留学などにより,施工技術の知識吸収および技術者の養成が行われた。明治3年,新橋―横浜間の鉄道を初めて敷設するとき,多数の外人技師を高給をもって雇用し,外人主導型で建設した。日本人はこれで技術を習得している。トンネル技術も,また他の土木技術も大体同じであった。
 明治11年(1878)には,日本人技術者だけの手により京都―大津間に延長660メートルの逢坂山トンネルを着工,翌年完成させた。掘削方式は後に日本式と呼ばれるようになった日本独特のものであって,まず頂設導坑を先進し,次いで丸形,中背,大背,土平の順に木製支保工で地山を支持しながら切り拡げ,最後に土平からレンガを積んで順巻覆工する。掘削は手掘りであった。
 次いで明治13年(1880),長浜―敦賀間に延長1352メートルの柳ヶ瀬トンネルを着工し,同17年に完成した。掘削方式は逢坂山トンネルと同じであるが,掘削には火薬が使用された。
 以上は鉄道用トンネルであるが,道路としては未だ自動車が出現していない時代でもあって,歩行者・荷駄・牛馬車類を対象としたトンネルが建設された。
第4図 日本式の施工順序
それは明治7年(1874)より同9年にかけて建設された延長224メートルの宇津之谷トンネル(1代目,東海道)である。その後このトンネルは内部の木製支保工が火災にあったため,明治35年(1902)掘り直しを行い,覆工はレンガ巻きとなった(2代目)。さらに明治9年(1876)福島―米沢間の延長876メートルの栗子トンネル(1代目)が着工され,明治14年に開通している。
 以上の明治初期のトンネル技術水準は欧米に比べて甚だ遅れていた。例えば,さく孔は殆んど手掘であった。しかし欧米の機械施工の技術吸収も早く,栗子トンネルでは明治11年よりさく岩機,コンプレッサー,換気機などが使われた。
 明治の後半に至って,明治29年(1896)に着工した鉄道の笹子トンネル(4,656メートル)では,工事用電力として水力発電所を設け,坑内の電灯・電話を整備し,資材運搬には電動機関車にダンプ車を連結し使用するなど,近代化がさらに進んだ。
 なおトンネルの掘削方式には日本式のほかに,ベルギー式,オーストリア式,アメリカ式,ドイツ式,イギリス式,イタリア式などがある。

7 橋 梁
 日本は気候風土の関係から多種良種の木材を産出する結果,住宅をはじめ,木造構造物に関して世界に類をみない優秀な技術を有する。よって土木建築に関して木材を多く使用している。勤勉な国民性から木材・木構造に関する豊かな経験を得るのであるが,それは封建的職業の制約,つまり職業の保護による職人的経験の積重ねなどが相乗しての結果である。しかし,その尊重・権威化は,反面,科学的な裏付けをおろそかにし,科学的思考を否定する方向にあったことは否めない。このような木造構造物に対しても,明治維新による開国後の外国技術の輸入の結果,科学的検討,基礎実験が行われるようになった。
 日本産木材43種について,その単位重量,破壊強度,弾性強度,弾性係数の測定結果が明治12年(1879)に東京大学で発表された。橋梁の殆んどが木橋であり,梁の力学も習得されつつあった時期で,その後の橋梁工学に大変な貢献を残している。
 明治4年(1871)に内務省土木寮では,旧徳川幕府普請方の保有していた土木技術を集成して,「堤防橋梁積方大概」および「堤防橋梁組方之絵図」を公刊した。日本の伝統ある木構造でも,橋梁構造と力学の中心となったのは外国より輸入された技術である。
 このようにして外国技術と結びついた日本の伝統ある木工技術は発達し,多数の木造トラス橋が地方に数多く架設されるようになった。
 明治以前の日本の橋梁では,木製の並列主桁の間に橋板を張り渡す構造が,橋床のほとんど唯一の構造法であった。木桁橋の場合,この手法は今日に至るまで,基本的には変っていない。明治に入って,外国橋梁技術の導入により,荷重を直接に受ける床版を支え,その力を主桁あるいは主構に伝達する機構として,縦桁と横(床)桁からなる床組構造が習得された。
 木桁橋の維持管理上の最も難点となるのは摩耗と腐蝕である。外国技術の導入とともに,設計では随所に腐蝕に対する配慮が行われ,また橋板の上に土砂を覆ったりして摩耗に対処した。
第5図 オーストリア式の施工順序
第6図 新オーストリア式の施工順序
第7図 幕末~明治初期の板橋図
 日本は木材が良質で豊富であったため木橋が発達したが,残念ながら石材は良質とは言えない。しかし,徳川幕府時代に中国の技術を導入した九州の数多くの石橋は,外国技術を吸収して独自の技術体系を樹てるに至っている。
 石材を構造部材とした橋梁で一番簡単なのは石桁橋であるが,全般的にみて技術的進歩価値は無い。大体,スパン3メートルぐらいまでの規模の橋が多い。明治以前から用いられているが,明治維新とともに,外国技術が輸入されて,力学上の計算法が示されるようになった。木桁橋と同様である。しかし,なぜか最も必要な石材の曲げ強度の研究が行われなかった。
 石積アーチ技術は明治維新とともに九州で徳川幕府時代にみがかれた技術を持って東上し,首都東京で腕を発揮した。明治6年(1873)に万世橋をはじめとして数橋架設された。雲台橋,通潤橋のように30メートル近いスパンの橋もあったが,大体は17メートルぐらいまでであった。石材は石質を先に決めたものでなく,架橋地点の近くの山から切り出したものが使用されたのが多い。
 以上は明治維新とともに外国から輸入された技術ではない。しかし,大阪心斎橋が明治42年(1909)に,東京日本橋が明治44年(1911)に,全く欧風の純石積アーチ橋として架設されている。これはアーチ外側の環石と側壁石は化粧としての役目をもち,かつ,装飾的な石造の高欄も設けられている。
 鉄筋コンクリートは,慶応3年(1867)にフランスで特許を得たのが世界の始まりである。この技術が日本に導入されたのが明治27年(1894)であって,明治36年(1903)に京都山科に初めて鉄筋コンクリート橋が試験的に架設された。続いて明治42年(1909)に仙台の広瀬橋,明治43年に横浜の吉田橋が本格的鉄筋コンクリート橋として架設されている。
 一方,明治開国とともにかなり多くの鉄製下路トラスが外国から輸入された。これは必ずしも必要性からきたものではなく,多分に文明を誇示するものであった。しかし,明治中期になると,輸入橋梁についても構造形式と適用性について考慮が払われるようになり,特に大支間が要求される場合を除いて,桁橋が多く用いられるようになった。これは桁橋の方が製作・架設が容易であり,鋼製橋脚との併用によって,より経済的に,また短い工期で架橋できたことも原因である。さらに当時の社会的な要請に基づく都市部の橋梁のすみやかな改良整備や,明治後期には市街電車の急速な進展に伴う併用軌道橋の建設なども,桁橋普及を促進した要因である。

参考文献
 1) 日本道路協会『日本道路史』
 2) 石井 一郎『バイパス計画論』理工図書