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日本における内陸水運の発達

Author: 増田広実
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅰ 日本の内陸水運の特色とその発達・・・・・・・・・・2
Ⅱ 明治政府による全国運輸機構の確立と内陸水運・・・・・・・・・・8
Ⅲ 富士川運輸会社の創業と発展・・・・・・・・・・12
Ⅳ むすびにかえて・・・・・・・・・・27


はじめに

 日本の近代化の中で内陸水運がどのような役割をはたしたかについて述べるのが,この小稿の目的である。
 まず,本論に入るに先だち,日本の内陸水運を特色づけている自然地理条件についてふれ,水路としての河川について,まず述べる必要があると考える。そこでは,激しい自然の中での内陸水運の日本的特質についてふれたい。
 次にそうした自然的条件の下で,日本の内陸水運はどのような発展をしてきたかについて概観し,特に明治維新後,日本の近代化の中で内陸水運は,明治政府による全国的運輸機構確立の過程で,どんな地位と役割を与えられていったかについて述べることとする。その具体例として,富士川における山梨県と富士川運輸会社との関係にふれ,同社の創業と発展について述べることとし,この期の内陸水運の特質にふれたい。

Ⅰ 日本の内陸水運の特色とその発達

 内陸水運は,自然地理的制約を強く受けるものであることはいうまでもない。例えば,地形・流路傾斜・水深・流水量等は直接的に内陸水運に影響を与える。この点,国土の80%以上を占めるといわれる山地より流出する河川は,南北に細長くのびる日本の地形から推定できるように,源流から海までの距離はいずれも短く,その間を直線的な短距離で急勾配をもって流れ下る急流性河川が一般的である。したがって水深は浅く,三角洲や堆積平野を発達させてはいても,それは大陸の大河川の下流にみられるような大規模なものではない。このため,わが国で最大の流域面積をもち,流路延長第2位の利根川にあっても,これを世界最大のナイル川に比較すると,流路延長で約21分の1,流域面積にいたっては,約1,782分の1にすぎない。
 このようなわが国における河川の一般的特色は,そこに発達した河川運輸-特に内陸水運に大きな影響を与えた。すなわち,これら河川にあっては大型船の使用を不可能とし,吃水の浅い小型船を使用するため輸送能率を引下げ,輸送品目は,輸送費負担の少い重量貨物に限定される債向を強めた。特に,急流が遡行をより困難とし,遡行に長時間を必要としたため,川下げに重点がおかれ,遡行の際の輸送品目が一層限定されることとなった。しかも,急流であることは,水難の危険性を増し,水路の管理維持を一段と困難にさせ,源流部の降水状況を端的に反映するため,冬期渇水期には,水路使用を不可能にもすることとなった。
 このようなマイナス面は他面またプラス面ともなった。すなわち,陸路の場合,内陸部と海岸部との間を往復するには,いずれの場合も険しい山道や峠を越え,牛馬背や人背によって輸送されなくてはならなかった。しかし,水路によれば,大型船による大量輸送ほできないまでも,陸路には比較にならない輸送量を,積替えの手数を最少限にして短時間に輸送することが可能であった。したがって内陸水運の場合,輸送能率は海運には比較にならなかったが,陸運をはるかに凌ぎ,海運と陸運の中間に位置するものであった。そして,海運と陸運の両者を結びつける役割をはたすところに内陸水運の存在意義もあったのであり,内陸水運は陸運あるいは海運に結びつくことによって,一層の重要性を増すものであったといえる。
 以上のような特色をわが国の内陸水運はもつものであったが,その発達について次にふれる。
 内陸水運の発達はすでに8世紀律令制下での官米輸送においてみることができるが,その飛躍的発展は,16世紀後半以降戦国大名により,領国経営のための河川の治水事業の進展によってもたらされたものであった。特に17世紀に入り,幕藩体制の成立過程にあって,幕府および諸藩による積極的な河川改修工事の推進による内陸水運の育成は,大きな成果をあげ,以後の内陸水運の基礎が築れることとなった。このようにして成立した近世の内陸水運は,大阪・江戸の2大経済圏を中心とする全国的流通機構の1部に組込まれることによって,前代までには見られなかった意義をもつこととなり一層の発展をみることとなった。
 このような内陸河川の改修等による水路の開発の例としては,1606年角倉了以による保律川(大堰[おおい]川),1611年同人による高瀬川,また1607年に同人による富士川の開削等,また,1620年代からの伊達藩による北上川改修工事,1590年代からの幕府による利根・荒川水系の改修工事,あるいは1640年代以降松山藩による高梁川の改修と玉島港の浚せつ等をあげることができる。そしてこれら河川での水運はいずれも東廻りあるいは西廻りとよばれる廻船に結びつけられ,京・大阪・江戸への商品等の輸送路として大きな役割を担うものであった。
 内陸水運の開発は,領主あるいは富有な商人等によって行われたのであるが,その目的とするところは,公用諸荷物および商品輸送にあった。その輸送品目中最も多量に輸送されたものは米であったが,そのうち特に領主により農民より徴収された年貢米は,多くの封建家臣団に現物で支給され消費された。しかしその多くは江戸をはじめとする消費都市の発展により,大阪を中心とする全国的市場が形成されたためこれら大消費都市に送られることとなり,内陸水運および廻船の重要積荷となった。またこの他公用諸荷物としては,日光造営のための用材輸送等にみられる材木や石灰等の建築資材,公用文通のための諸荷物があった。またこの他には,諸藩より大阪等の蔵屋敷に送られる特産物,内陸部の必要とした塩などがあったが,諸藩にとってはいずれも極めて重要な積荷であり,時としては公用諸荷物としてその輸送の確保がはかられた。
 内陸水運による諸荷物輸送のためには,その横下しのための諸施設―河岸と,その管理者であり,積荷の取扱者である河岸問屋を設け,水運の現業に従事する船頭と船を確保しなくてはならない。これら内陸水運のために必要な河岸及び河岸問屋・船頭・船等についてどのようであったか次に述べることとする。
 まず河岸および河岸問屋であるが,これは,古くからある渡船場あるいは寺社門前町や城下町の外港として,自然発生的に発達してきたものと,幕府あるいは諸藩の手によって公用諸荷物の輸送のため設置されたもの,また地場産業の発達や商品流通路にあって,町人や農民によって投資されて設置されたものがあった。
 これらの河岸および河岸問屋と領主との間には,幕藩体制の確立される過程で,河岸及び河岸問屋が領主支配に組込まれることによって,封建的関係が成立していった。それについてみると,領主側からは,河岸及び河岸問屋に対し蔵屋敷・河岸場の免租,廻米等公用船の建造費あるいは建造用材の支給,廻米等保管のための番銭の支給,公用諸荷物の運賃の支給,通船のための水路改修維持費の支給等の保護が加えられ,諸種の特権が容認された。これに対し河岸問屋側は,領主に対し廻米をはじめとする公用諸荷物の輸送,公用交通の際の労役負担,その他運上とよばれる一種の租税の負担等の奉仕を行なっていた。
 1689年幕府は,関東・伊豆・駿河地方の各河川の河岸及び海港の調査を行なっているが,それによると,関東地方には88ヵ所の河岸があり,これは関東一円に分布していたことを知ることができる。これら河岸問屋の業務についてみると,陸付けされてきた諸荷物を舟に積みかえ,舟で送られてきた諸荷物の陸付を委託する。河岸問屋はこれらに必要な敷地と倉庫を持ち,ここに委託された諸荷物を保管し,そのための口銭や,保管料としての庭銭・蔵敷料を徴収し,自己の収入とした。また荷主からは船賃・駄賃を徴収し,これを船持や馬持ちに渡す等の事を行い,運輸の斡旋と倉庫業を兼ねた営業を行なっていた。
 他方水運の現業に従事するのは船持あるいは船持船頭,あるいは船持に雇われた船頭や舟乗水主であった。船拝は,当初から水運を目的に船持になった者の他,船拝に雇われた船頭から船持に上昇した者,あるいは水田用の田舟や漁舟をもって一時的あるいは長期的に水運に従事する船持船頭等その成因は様々であった。
 またこの内陸水運のために使用された舟についてみると,それぞれ地域や時代によって異なるが図でみるように次のようなものがあった。上流域では〓舟(はしけぶね)・小鵜飼舟・部賀舟(べかぶね)などとよばれ,積載量が少ない比較的小型のものが使われ,中・下流域ではやや大型となり高瀬舟・〓(ひらたぶね)・胴高舟(どうたかぶね)・長舟・房丁舟(ぼうちょうぶね)など積載量の大きいものが用いられていた。しかし,いずれにしても最大では利根川筋の500石積に近い高瀬舟から15石積の京・伏見間の高瀬舟等まで様々な差異があった。
 以上,日本における内陸水運の特質についてふれ,主として近世にあってどのように発達してきたかについて述べ,内陸水運の機能について,河岸及び河岸問屋と船持船頭,使用されていた船の形態についてふれた。これらの諸点を受けつぎながら,明治維新以後,明治政府による全国的運輸機構確立の一環として,内陸水運がどのような位置づけを与えられていったか述べることとする。
高 瀬 船
房丁高瀬船
部賀船
小 鵜 飼 舟
長船(コーリンボウ)(信濃川上流)
〓<ひらた>船(信濃川下流)
胴高船(信濃川下流)
高瀬船(富士川)

Ⅱ 明治政府による全国運輸機構の確立と内陸水運

 明治政府は,1867年10月の大政奉還と,それに続く翌68年1月にはじまる内戦-戊辰戦争で勝ち,69年の版籍奉還,71年の廃藩置県の断行によって,幕藩領主の土地・人民に対する領有権を没収し,全国的統治を確立する。この過程にあって,政府による運輸行政の重点は陸運におかれていた。それは,内戦予定のための軍事的必要と新政権による国家的統一達成の必要によるものであった。他方内陸水運は,政権交代による貢米の減少もしくは中止,新政府による貢米の金納化の方針によりその重要性が激減したが,廃藩置県と地租改正によりついに貢米輸送が廃されるに及んで,この面については内陸水運は政府にとって重要性を失うにいたった。
 内陸水運について,貢米を中心に考えればこのようであったが,しかし,明治政府は成立の当初より河川とその機能について大きな関心はもっていた。明治政府は,1868年10月28日会計官に治河使を置き,会計官権判事岡本健三郎に業務を処理させることとし,庁舎を山城国八幡高坊・大阪府下網島ならびに島町においた。そして,11月5日行政官布告第939号をもって「天下ノ水利大ニ御処置可有之」と布告を発した。それによると淀川の堤防を十分に修復し,水害を除き民利をおこすことはもちろん,淀川の水運も三十石船では人力のみ費し不便利であるから,ぜひとも蒸気船にして利用をすすめたいが,内戦中のためできずにいた。しかし,内戦も終ったのでおいおい検討を加え「天下水利ノ道ヲ起シ民庶ノ福ヲ生シ候様被 仰出候間府藩県ニ於テモ此相心得上下同揆其地方最寄ニ就テ利害得失相考勉励可致」というものであった。この布告はさらに同月15日布告第960号をもってかさねて徹底がはかられている。
 治河使は,翌69年7月会計官内に土木司が設けられたのを機会に廃され,その業務は土木司に属することとなったが,この段階にあっては,対象地域も淀川を中心とし,治水面に重点がおかれ,水運は治水に対し副次的な立場におかれていたといえる。しかし,このことは内陸水運について政府がまったく関心をもたなかったということではなかった。全国的な布告ではなかったが地域的には,内陸水運に関する布告等が発せられている。
 例えば71年1月太政官第14号の御沙汰書によれば,関東地方利根・多摩・相模川水系の諸府県-東京府,品川・神奈川・韮山・宮谷・葛飾・若森・小菅・浦和・日光・岩鼻各県に出された河岸場と河岸場の独占による弊害について,検査とその改正計画の提出が命じられている。また,同年2月には,太政官第98号・99号をもって大津県及び琵琶湖沿岸の関係藩県に対し,湖上通船の取締りが区々にならないようにするため,大津県が総括して通船規則および税則等を立案し,伺いでるように命じているなど,内陸水運に対して国家権力による支配の方向が次第に推進されつつはあったが,全国的規模でのものではなく,まだ陸運にみられるような強力なものではなかった。
 この時期,明治政府は陸運に対しては強力な行政的措置を次々と施行しつつあった。70年5月,宿駅制度の改変を行い,継立業務の民間への委託・特許への第一歩として,「宿駅人馬相対継立会社販立之趣意説諭振」が民部・大蔵両省の合議により決定され,各駅に陸運会社を設立する方向が定められた。それにより同年5月より実際に駅逓司が東海道各駅を巡廻し,陸運会社の内容を説明し,会社設立願書の提出を内諭している。その後,この「設諭振」の内容はより具体化され,翌71年5月に「陸運会社規則案」として各駅関係者に示された。そして,この規則案をモデルに,陸運会社設立願書が東海道各駅より次々に提出され,71年末より72年初頭にかけ,東海道各駅に陸運会社の設立をみたのであった。これにより,72年1月東海道各駅の伝馬所と助郷制度が政府により廃止され,やがて全国的規模での陸運会社の設立となり,同年8月末日をもって全国的に伝馬所と助郷制度が廃止されるにいたった。
 このように陸運については政府の手により全国的規模での陸運会社設立が進められたのであるが,これは陸運に限ってのことであり,内陸水運に関しては運輸会社を設立させる意図はなく,関係者より会社設立が出願されても,出願を受付けた管轄県からは大蔵省(駅逓寮)へ禀議する等のこともなく,県の判断によりその願意を「聞届」ける程度の受けとめがなされていたにすぎなかった。
 このような例として,72年6月富士川運輸に係る通船取扱人4名より,山梨県に出された会社設立願をあげることができる。これは,鰍沢河岸中込清左衛門,同雨宮三郎右衛門,青柳河岸小河内太郎左衛門,黒沢河岸村松茂右衛門の
4名より提出したものであったが,その目的は次のように述べられている。
 今般諸道一般陸運会社ヲ開公私ノ無区別至当ノ賃銭ヲ以人馬継立方ノ方法願上候処私共村方ノ儀ハ富士川河岸場ニテ前々ヨリ公私ノ無区別至当船賃取駿州岩淵河岸迄諸荷物運送致来候ニ付今般前書ノ通船賃相定私共船頭共取締方致シ定額船賃ノ外酒代等不乞請運送無遅滞取計可申依之此段奉願上候
 これによれば,陸運会社設立の趣意である公私の別なく至当の運賃をもっての輸送は,自分たちはすでに前々から実施しているから,妥当な運賃を定め,申請人は船頭の取締りを行い遅滞なく輸送を行うから会社設立を許可して欲しいというものであった。しかし,会社とは称しながらも,はっきりとした会社名ももたず,会社とよべる程の組織もなく,内容的には維新以前の河岸問屋と少しも変るところがなかった。この程度の内容しか持たないものが会社と称し設立を出願したのに対し,県も特別の関心を示すことなく,その願意を聞届けるにとどめたのは,まさに陸運中心の政府の運輸行政の反映であったといえる。
 明治政府のこのような内陸水運への消極的態度を大幅に改めることとなるのは,各駅陸運会社を廃し,全国的な運輸機構を確立しようとする陸運再編の動きにともなってであった。この陸運再編の動きは各駅陸運会社設立の当初からすでにあったが,それは,各駅陸運会社が地域的な継立組織があって全国的な継立組織ではなかったことによるものである。したがって,政府は各駅陸運会社とは別に全国的運輸機構を必要としており,それは全国的統一を完成していくためにも不可欠なものであった。
 政府はこのような全国的運輸機構として,旧定飛脚問屋によって72年6月に設立された陸運元会社を保護育成する方針をたてた。そのため運送取扱会社である陸運元会社と,人馬継立を行い輸送現業者である街道稼人を直接掌握している各駅陸運会社とを合併させることによって,陸運元会社の運輸網の整備拡充をはかり,全国的運輸機構の確立をはたすことを意図し,その具体化を進めたのであった。
 この全国的運輸機構を確立するためには,陸運と結びつき相互に補完する立場にある内陸水運を除外して考えることはできない。ここに明治政府は内陸水運に対し,積極的な態度をとることとなったということができる。
 ところで,陸運元会社と各駅陸運会社との合併は,政府の方針にもかかわらず,必ずしも順調に進まなかった。しかし,この合併を決定づけ陸運再編をはたすため大きな役割をはたしたのは,73年6月27日に発せられた太政官布告第230号であった。
 (前略)本年9月1日ヲ限リ私ニ物貨運送ノ業ヲ営候儀一切令禁止候条以来右営業致度者ハ陸運元会社ヘ入社或ハ合併候歟又ハ其規則資本等詳細具状シ管轄庁ノ調査ヲ経テ駅逓頭ノ免許ヌ可受事
 この布告によれば,同年9月1日以降私的に運輸の営業を禁止し,営業を希望するものは,陸運元会社へ入社あるいは合併するか,会社設立のための会社規則や資本等について認め管轄府県に出願し,その調査を経て駅逓頭の免許をうけることが命じられていた。
 この布告の適用範囲について,陸運のみに限るものか否かの疑問が翌7月滋賀県より太政官に伺いとして提出された。これについて太政官より8月31日付をもって「伺ノ趣海運ヲ除ノ外水陸運輸営業ノ者都テ本年第230号布告ニ基キ照準措置可致事」と指令が与えられた。すなわち,これは海運を除き水陸運輸業者すべてに適用されるものであることが明確にされたのであった。
 この布告の効果はまもなくあらわれ,各地に派遣された陸運元会社の社員により合併が進められていったが,各府県もこの布告の目的を達成するために強力な行政指導が行われた。例えば山梨県の場合,74年10月18日山梨県権令藤村紫朗は陸運元会社社員が合併交渉のため来県するにあたり,各戸長に合併協議が成立後は各駅陸運会社は解散するから「不都合無之様協議」するように達し,この結果,同年12月県下42駅が陸運元会社総代宮下直右衛門と合併・入社の約定を取結んだのであった。
 山梨県の場合,陸運に関しては元会社との合併は75年末の時期まで下るが,富士川水運に関しては,73年6月の布告第230号の意図は,同布告が施行されて間もない9月8日山梨県により「結社規則相設ケ営業可致就テハ右規則相立来ル十五日迄可申出事」という富士川3河岸-鰍沢・青柳・黒沢の船持に対する指令をもって具体化が強制されることとなった。
 この会社設立の指令は,15日までとしていたが,この短時日をもって会社設立は不可能であったから,3河岸関係者からは追って会社設立を届けでる旨の報告があり,実際に設立願書が出されたのは10月になってからであった。そして,この願書は11月に山梨県より大蔵省に禀議され,翌74年1月25日認可されて,ここに富士川運輸会社の創業をみたのであった。
 富士川運輸会社の場合,陸運元会社とはまったく別の会社として設立認可されたものであった。しかし,政府の全国的運輸機構確立の意図からすれば,河岸が陸運元会社と合併あるいは同社に入社することによって,全国的運輸機構が確立されねばならなかった。このため各地の河岸が各駅陸運会社同様陸運元会社に入社あるいは合併していった。例えば73年9月下総国猿島郡境町にあって陸運元会社により水陸漕運が開始されたが,ここが東北地方から江戸に達する日光東街道の中央に位置し,利根川の河岸として発達した地点であり,水陸運輸の要地であることから,陸運元会社側の積極的な働きかけの結果であっただろうことが容易に考えられる。この境町への進出は後陸運元会社の利根川・鬼怒川・荒川水系水運進出への先駆をなしたもので,その後77年日本最初の国産外輪汽船第1通運丸の就航へと発展する基礎となったものであった。
 右のように,73年6月の太政官布告第230号が,陸運はもとより内陸水運の発展に関し大きな意義を有したことを知ることができるが,これを契機として発展する内陸水運の具体的様子について,先にあげた富士川運輸会社を例に,次に述べることとする。

Ⅲ 富士川運輸会社の創業と発展

 富士川運輸会社の創業に関し73年6月の布告第230号との関係については,すでに前節でふれたところであるが,この会社創業前の富士川水運の概況についてまず述べることとする。
 甲府盆地の縁辺を東西から流れる笛吹・釜無の2川は,盆地の南端で合流して富士川と呼ばれる。富士川はここより南流して駿河湾にそそぐが,笛吹・釜無合流点の南,鰍沢・青柳・黒沢の通称3河岸から河口に近い岩淵まで距離72キロメートル,標高差348メートル,平均勾配千分の3.4である。日本3大急流の1つにも数えられるこの富士川は,1607年角倉了以によって水運が開かれるまで,交通・運輸のためにはまったく利用されていなかった。
富士川運輸会社関係図
しかし,富士川を利用すれば陸路の難をさけ,海岸線と甲府盆地を最短距離で結ぶことができる。このため,3河岸からは甲府盆地はもとより諏訪・伊那・松本など南信からの米・雑穀等が送りだされ,岩淵を経て塩をはじめとする海産物等がこの方面に送られ,輸送はもちろん交通上も極めて重要な位置をしめていた。
 富士川で特に重要視された積荷は,1国幕領ともいえる甲州から江戸浅草の米蔵に送られた下り荷の貢米と,内陸部に送られる上り荷の塩とであった。これらの輸送は,下りの場合3河岸-岩淵間を高瀬舟で送り,岩淵-蒲原間を牛馬背による駄送,蒲原-清水間を小廻船で送り,上りの場合もまったく同じ方法で清水・3河岸間を輸送されていた。
 この貢米輸送に従うことから,3河岸および岩淵は,幕府より諸種の特権を与えられていたが,その主たるものは3河岸による富士川全川での舟および船頭の支配と河岸場の独占と,岩淵による駄送の支配と塩販売の独占とであった。
 このようにして富士川水運も明治維新を迎えるのであったが,1868年以降明治政府は頁米の輸送を中止し,貢米の金納化を進めたため富士川水運は一時的ではあったが衰微した。それに加え,1868年以降山梨県は,岩淵をはじめとする塩商人の特権を排除しようと,「御入塩仕法」を実施した。これは,政府資金5万両をもって塩を生産地で直接購入し,富士川水運によらず,陸路中道往還(駿州吉原より北上,精進湖岸を経て甲府に至る)を輸送し,入塩商社の手により県下に配給する方策であった。すなわち,これは塩価格の低廉化と,流通の円滑化をはかろうとするものであったが,これも富士川水運を衰微させることとなった。
 しかし,72年2月には御入塩仕法は失敗して廃され,同年貢米輸送も復活したため,富士川水運は再び活況を呈しはじめた。そして,この活況が,政府による陸運会社設立の方針ともからみあいながら,富士川水運に新しい発展の方向を生むこととなった。そうした中から,先述したように,72年6月の3河岸通船取扱人4名による会社設立,翌73年6月太政布告第230号を契機とする富士川運輸会社創業の一連の動きが起きたのであった。
 これと時期を同じくして,岩淵-蒲原間の駄送の不便を除き,岩淵による富士川水運の独占的地位を排除することを目的に,この間に水路を開削しようとする「新水道建築」計画が武藤藤太等により進められていた。この計画によれば,この建築費の償還は,富士川水運に従う全船から富士川運輸会社により徴収する支消金をもって行うこととし,ここに富士川運輸会社設立と新水道建築の両計画は一体化して進められることとなった。
 73年10月関係者により提出された富士川運輸会社設立願書は,11月20日山梨県より大蔵省へ禀議され,翌74年1月24日認可されたが,他方新水道建築願書は,73年9月山梨・静岡両県に提出されたが,願意不充分なため同年11月再出願され,12月両県より大蔵省に禀議され,翌74年3月認可された。すなわち,両計画は一体化しながらも,手続上は別個の出願として許可された。そしてその意図するところは富士川運輸会社の設立願書によれば,次のようであった。
 甲駿両国ノ間山嶽重畳運輸素ヨリ不便ノ地ニシテ輸出入ノ諸物品唯富士川一線ノ水路ニ依ル然ルト雖モ其方法宜キヲ得サルヨリ往々咽喉ノ地ヲ占ル者ノ為ニ籠絡簸弄セラレ現ニ甲全国ノ疲弊ヲ醸成スルニ至ル故ニ今運輸会社ヲ設立シ外ハ魚塩其他甲国不足ノ物品ヲ輸入シ内ハ生糸其外甲国有余ノ物産ヲ輸出シ闔国殖産ノ真理ヲ尽シ共同ノ公利ヲ興サン事ヲ計ル乃チ此会社ヲ立ルノ目標ナリ
 これによると内陸部に位置する山梨県の地理・運輸上の特色をあげ,ここにあっての富士川水運の重要性を述べ,この水運のいかんによっては山梨県の疲弊の原因となるとして,この弊害を除却するため会社を設立する旨を述べている。この文中特に「咽喉ノ地ヲ占ル者」による運輸上の弊害とは,近世中期以来再三甲州(山梨県)側より指摘され,その特権排除について幕府に訴えられながらも,その都度甲州側の敗訴に終った岩淵による特権の弊害を指しており,岩淵の特権を排除して,自由な運輸を営みたいとする甲州側は,つねにその弊害を口にしていたのであった。そして,その弊害とは1つは塩販売権の独占であり,1つは岩淵-蒲原間の駄送問題があり,この排除の方策として新水道建築計画がたてられてもいたのであった。
 山梨県はこれら会社設立と新水道建築計画については,これが甲信の利益になり,会社新設による冗費節約をもって新水道が建築されるならば,運輸上の利便はもとより国益にもなると積極的に支持し,その許可について大蔵省にはたらきかけた。
 富士川運輸会社設立後の収支見込みについては,出願の際に添付された「運輸通船会社取立表」・「蒲原新水道建築諸費用金支消表」・「運輸会社利益并入費表」によって知ることができる。そこで,会社設立の際に出願者等がどのような事業計画をもっていたか,少しく詳しくみることとする。
 会社規則第1条によればその事業は,「富士川ニ依テ諸物品ノ運輸ヲ主トスル」と定めている。そこで取扱う積荷の品目と年間量は,食塩24万俵(1俵6貫目ないし6貫400目),諸荷物6万個(1個12貫目),その他魚・青物等2万個(1個12貫目)であり,船にして約8,300艘をこえるものであった。しかし,これは,蒲原より鰍沢に送られるもののみであって,鰍沢より送られるものやその他の各河岸で取扱う分や乗客については加えられていない数量であった。
 この積荷の数量を基礎として年間の収入見込みを算出しているのであるが,それによると第1表でみるように年額41,111円余であった。このうち運賃等36,511円余は,荷主から徴収したものをそのまま船頭等に支払われるものであって,会社の収益となる分は,手数量等4,600円であった。この4,600円中会社経営のための役員給与等諸経費3,700円が支出され,純益900円が見込まれている。
 この収支見込みの中にあって重要な点は,岩淵-蒲原間新水道建築についてであった。この計画は,岩淵河岸を経由することによって必要とする駄賃・縊立(くくりたて)減目・口銭の諸経費4,963円余を省き,新水道建築費の償却にあてようとするものであった。
 新水道建築費および金利を合計した20,260円については,第2表のように4ヵ年で償却することとしているが,その徴収については富士川運輸会社が富士川の全船を通して荷主より徴収することとなり,一括して新水道建築社中に支消金の名目をもって支払れることとなった。
 以上のように,富士川運輸会社の設立は,73年6月の太政官布告第230号の意図するところを,忠実に履行させるとともに,新水道建築により,岩淵の特権を排除しながら内陸部にとって欠かせない塩の移入を円滑にし,価格の安定を計るといういくつかの目的をはたすものであった。したがって山梨県がその設立を積極的に援助したのはもちろん,その後の発展についても,新水道の維持管理も含めて積極的援助を続けることとなったといえる。また会社側・新水道社中としても,この山梨県側の援助を巧みに利用しながら,自社の発展に役立てていくこととなる。
第1表 収 支 見 込 表
第2表 新水道建築費支消計画
 富士川運輸会社規則第25条で明言しているように「社中ノ永続ハ庶人ニ信ヲ得ルト御県庁ノ御保護ニ因ラサルヲ得ス故ニ御県庁ノ御出役ヲ乞テ諸般ノ事務ヲ得ヘキ事」と定め,県の保護を自社発展の要因としている。したがって,諸帳簿を作り,社中の規則・人員出金高等は県に届け出ることとし(会社規則第5条),脱社を希望するものは県に報告の上認めることとし(同第22条),会社に妨害を加えるもののある場合は,これを県に訴えて処置をあおぐ(同24条)等,あらゆる機会に県の指導助言や保護を受け,自社の発展につとめる姿勢をみることができる。
 こうした県の保護や援助への期待は,新水道建築社中の場合も同様であった。この事業は計画の当初より県の援助と指導を得ており,山梨県知事を介して,静岡県側への働きかけを行い,静岡県の援助をも得ている。また,建築資金の融資についても甲府興益社(後の国立第10銀行)への紹介を得,建築費償却についても,県費貸付けをうけ金利負担の軽減を計る等数々の援助が与えられた。
 山梨県の富士川運輸会社への保護は,こうした個々の保護のみでなく,より基本的なものとして「富士川通船規則」「富士川物貨運搬営業規則」の施行があった。
 山梨県による富士川運輸会社設立勧奨は,太政官布告に基づくものであることはすでに述べた通りであるが,この布告の意図の1つは,運輸会社設立によって,輸送の安全と事故の際の危難弁償とを確保することにあった。したがって,山梨県としては富士川運輸全社を通して輸送の安全と危難弁償の確保を期待した。このため,富士川筋にあっては3河岸に限らずいずれの者でも「船持勝手」と定めながらも(富士川運輸会社規則17条),同社開業の上はその指揮に服することが義務づけられ,同社の鑑札を持たない船には,諸荷物の積渡しをしないと定めることを許した。
 しかし,この山梨県による期待は必ずしもはたされなかった。船持自身の才覚によって富士川の水運に従事してきた長年の伝統は,一片の通達などによって変るものではなかった。そのため「其他ノ河岸々々ニ於テ暗ニ一己ノ異論ヲ主張シ依旧通船取扱不相立」というのがその実状であった。そこで県は74年7月7日,富士川流域の第30区・第31区正副区長と,鰍沢・青柳両村正副区長に対し,塩・諸荷物取扱人は「悉皆右運輸会社ニ致入社同社規則践行不取締無之様可致」ことを説輸するよう命じている。
 このように,山梨県により富士川運輸会社への入社を強制し,富士川運輸会社を通して運輸の安全を計ることとしても,「眼前ノ利ニ迷ヒ終ニ多数ノ荷物人員等積乗セ取締瓦解ノ象状」にいたっては,県としても強力な方策を迫られることとなった。そのため,このまま「下方協議」にまかせていたのでは,いかに取締りを富士川運輸会社に促しても不可能であるから「此上ハ県庁ニテ規則方法ヲ設ケ諸荷物積込数量人員乗組ノ定額取締相付候外無之且富士川危険ノ場所等漸次浚堀割等ニモ致着手後来通船ノ安穏保全」する決意を固めることとなった。そして,その財源として,富士川筋に船改所を設け,通船に課税することとして「富士川通船規則」を定めた。
 この通船規則は,75年4月29日山梨県より内務省に禀議され,同年5月14日許可を得て,翌6月15日より施行された。そしてこの施行と同時に船・船頭の調査が行われ,その開廃業についてはその都度県に届けでることを義務づけた。
 この通船規則の施行によって,県は富士川の水運について,富士川運輸会社を通しての間接的管理から直接的管理へと切り変えることにより安全の確保をはかったのであった。しかし,この施行は,富士川運輸会社にとっては影響するところ少く,積荷の量や乗客等の人数は同社の実状をふまえたものであり,通船税についても影響をうけるほど高額ではなかった。むしろこの通船規則が定められることによって,富士川での取締りが強化された結果,安全性が高まり,通船税収入が富士川筋改修費にあてられ,同社の改修費負担を軽減させた。しかも,通船税徴収のための切符の発売は同社に任せられたから,通船規則は同社の地位を弱めるどころか,かえって同社の発展に寄与するものとなり,一段と「御県庁ノ御保護」が加えられる結果となった。
 通船規則は,富士川運輸会社の発展にとって大きな意義をもったことは右の通りであったが,これにも増して同社の発展を決定づけたのは,78年3月13日山梨県により丙26号をもって施行された「富士川物貨運搬営業規則」であった。
 同規則は,施行に先立ち同年2月6日山梨県より内務省と禀議されているが,その禀議書によれば,この規則制定について次のように述べている。先に75年に施行された通船規則が,取締りの対象が運船営業の面にまで及ばないため,営業規則・保険請負の方法について定めていない。したがって,難船等により人命貨物の損害が生じても,運輸業者や船頭も「他人ノ痛痒ニ付シ漠然トシテ憂戚ヲ加ヘサル如」き状態であることから,こうした弊害を除き,人命・貨物の損失を保護し,産業を興すことは「緊急ノ急務」であると述べている。すなわち,73年の太政官布告第230号の意図する危難弁償のための保護請負について規定しようとするのが,この規則制定の目的であった。
 富士川物貨運搬営業規則について抄記すると次のようであった。まず,富士川によって物貨運搬営業を行うものは,県庁の允可を得たものに限ると定め(第1条),允可を得るためには,保険請負の準備・規則等を整備することが必要であり(第2条),允可をうけたものは,その準備相当の不動産を県庁に納め営業を行う(第3条)。営業者は保険請負の景況調査を受け(第4条),万一保険請負の実施・貨物運搬の取扱いに不正のある場合は営業を停止される(第5条)。そして,富士川での物貨輸送のための船持・船頭は,允可をうけた営業者に付属して営業を行わなくてはならないし(第6条),通船規則第1条,第4・5条に違反し,乗船人数,積載量をこえた者に対する過怠料は,允可を受けた者の責任とする(第7条)。以上7ヵ条の富士川物貨運搬営業規則の内容であった。
 同規則にあって,最前提である第1条についてみると,県庁の允可をうけたる者以外富士川での運輸のための営業が行えないことと定められている。しかし,これの施行された75年には,その資格を有するのは富士川運輸会社ただ1社であった。したがって同規則の施行は,同社の競争相手である同業者はもとより,河岸問屋の系譜をひく諸荷物取扱人も,運輸現業者としての船持・船頭も,いずれも富士川にあって物貨運搬営業が行えないこととなった。すなわち,富士川運輸会社の分社として同社の組織に組込まれるか,同社に付属し,同社の船持あるいは船頭としてその支配をうけない限り,独自に営業することのできないこととなった。
 このため同社は,富士川での唯一の適格会社として,競争相手であった諸荷物取扱人を自社の分社として組織化し,自社組織を拡大する一方,これを株主として増資の一翼を担わせた。また,運輸手段としての船および船頭をもたず,それへの支配力が弱かった同社が,船・船頭を完全に自社付属として組織化し,分社の拡大とともに営業基盤の整備強化をはたし,自社発展をなしとげるにいたった。
 ここで分社について少しく詳しくみると次のようであった。分社数の増加の様子は第3表のようであるが,最初に分社規則が作られ,本・分社の関係が明確になる75年12月の段階では南部出張所共にその数23分社であったものが,80年11月には61分社に急増している。
第3表 分社・出張所数変遷
これは数的に増したのみでなく,先に掲げた関係図でみるように地域的には3河岸の上流地域がある笛吹川流域では,石和まで,釜無川流域では韮崎までの間,近世にあっては3河岸の反対により河岸を設けることのできなかった地域と,静岡県下にも急増していった点は注目に値する。しかし,分社は本社への従属を強いられ,特に79年の分社規則の改正以後は社の付属船として営業を認められるのであるから,この誓約に反した時は,営業を差止められても異存のないことを誓約している。
 このことは,先にふれた73年の同社規則中に定めている船持船頭との関係には見られなかったものであり,さらに注目すべきことは,この誓約書の著名人は富士川の全域に及んでいる点であった。
 以上のように,73年の太政官布告第230号の意図は,富士川運輸会社の創業を経て,独立採算制を認められながらも「本社ノ権内ヲ以テ之ヲ存廃」される存在として,従属を強めて行き,経営上も経営担当者である差配人の選任権を本社が掌握することにより,種々の干渉が加えられ,一方的に本社の経営に奉仕させられる傾向を強めていった。
 また船持・船頭と富士川運輸会社との関係についてみると,ここにあっても78年の山梨県による物貨運搬営業規則の施行により,大幅に変っていることがわかる。同親則の施行された直後,同年3月22日富士川運輸会社に付属する船頭437名より,同社に対して7ヵ条の誓約書が提出されているが,これをみると,両者の関係を知ることができる。それによると船持・船頭は,自分たちは運輸会社の諸貨物を運搬するために舟を造り,営業する者であるから「悉皆同社へ申出同社ノ名儀ヲ以テ検印相願営業」するものであると明記している。したがって新造船を持ち営業するにあたっては,同社に誓約書を提出し,同「富士川通船規則」・「富士川物貨運搬営業規則」の施行によって,運輸の安全と危難弁償の方法が確立されることにより貫徹されていったといえる。そして,それにより富士川運輸会社の地位はさらに高まり,同社の営業は一層発展していった。次にその様子についてみることとする。
 78年4月富士川運輸会社から山梨県に提出した「運輸会社一覧」は,当時の同社の経営の実態をよく示している。これは第4表でみるように,乗客数はあげられているが積荷の数量やその手数料を欠く等不完全さはあるにしても,1株あたりの純益金が25%にもあたる等同社の当時の様子を物語っている。
 この78年前後における経営の実態については,先述した第1表の73年創業当時の収支見込と,この時期の収支とを比較することにより,より具体的にこの間における同社の発展の様子を知ることができる(ただし73年の収支見込は,比較対象がそれぞれ半期分であるため,単純にその2分の1を半期分として比較することとした)。
 まず収益についてであるが,第5表の損益勘定でみるように,77年頃は当初見込みを下廻っていたにもかかわらず,81年には飛躍的に増大したことを知ることができる。入塩手数料であるが,これは当初見込みでは,半期12万俵を取扱い,単価1銭として1,200円の収入が見込まれていた。しかし,第6表の手数料表によってわかるように,その単価は実際には見込みの2分の1の安値であり,第7表の取扱量にみるように当初見込みを下廻ったため,81年下期にあっても収入は,当初見込みの70%程度にとどまった。
第4表 富士川運輸会社一覧(1878年4月)
第5表 鰍沢本社損益勘定
 しかし,入塩手数料に比較して,諸荷物手数料の収入は,それとは逆に当初見込みを大幅に上廻る増収となった。すなわち,当初見込みでは上り荷は12貫目,下り荷は15貫目を1個として,半期で諸荷物3万個を単価1.6銭,魚青物1万個を単価2銭として合計680円の収入を見込んでいた。
第6表 鰍沢本社貸借対照表
これに対し第7表でわかるように取扱い手数料の単価は77年では当初見込みの半額,81年で諸荷物が0.2銭の値上り,魚類は同額であった。それにもかかわらず,第8表のように取扱い量が急増したため大幅の増収をみた。その量は77年諸荷物が約83,300個,魚類約16,800個,計9万個となり,81年は諸荷物約67,500個,魚類18,000個,計67,500個に達した。すなわち,取扱い量は77年の諸荷物で4.16倍,最低の増加率をみても77年の魚類の1.68倍であったから,収入も単価が当初見込みの半額の77年でも1.05倍,単価が当初見込みを僅かに上廻る81年には2.07倍となった。
第7表 三河岸荷物取扱手数料表
第8表 取扱荷物量
この数値をさらに77年と81年の間で比較すると,この間諸荷物と魚数の取扱い個数は4,600個減少しながら,逆に収入では2倍に増加したことがわかり,この4年間に富士川運輸会社発展の転期があったということができる。
 このように見ると,同社設立の当初見込んでいた塩移入については,見込み程には達しなかったが諸荷物や魚類の移入が増大し,その他貸付金金利などの予定外の諸収入も加わったため,塩移入の手数料収入の減少をうめ,なお当初より1.5倍の増収を得ることができたのであった。
 次に支出についてであるが,これは第9表の損益勘定でみるように,収入の飛躍的増加にもかかわらず,支出抑制が顕著であったことを知ることができる。当初見込みの支出科目をみると,人件費関係・予備費・配当金の3科目のみでその額は半期で2,300円であった。これを77年,81年に比較すると,それぞれの科目にあってかなり下廻り,支出抑制顕著である。例えば人件費についてみると,収入が当初見込みの2倍を越えた81年にあっても,役員給与は当初見込の89.6%,傭人日当は88%に抑えられている。中でも瀬浚金予備金は当初500円が見込まれていたが,77年の損益勘定では41円にすぎず,貸借対照表で162円がのせられているのみであった。その後,78年12月には今まで会社負担であった瀬浚費用は船頭の負担に改めたため,会社の経常支出からの積立てはやめられた。
第9表 本社利益率表
そのため81年には損益勘定中にはこの項目はなくなった。そして,貸借対照表にみるように予備金の中に船頭負担の瀬浚費用が組入れられた。
 このような経営の発展は,当然のことながら運用資金の不足を生じることとなった。これは,借入金と増資によって充足されるが,そのため当初はまったく見込んでいなかった借入金が,第5表の貸借対照表にみるように77年に600円,81年には約9,800円に達し,この4年間に16倍にも達した。このため株金に対する借入金の比率は,77年の12.6%から81年には93%にも上昇していった。したがって,借入金金利も急増し,77年107円であったものが,81年には約1千円と9.4倍にもなった。他方資本については,当初300株3千円であったものが第8表の利益率表にみるように77年には476株4,760円,81年には1,054株10,540円と当初の3.5倍に増資されていった。しかし,1株あたりの配当についてみると,当初見込みの半期1.5円から次第に低落して,81年には0.77円と約半分近くに下った。しかし,この配当金率は低下はしたが,貸借対照表にみるように,蒲原・清水両出張所への資本投下,第十銀行株金,建築資金などの資産の増加が目立ち,荷替為による諸貨物立替金や貸金の急増など,収入の増大に裏付けられた経営の発展を知ることができる。
 以上収支を中心に経営の発展の様子についてみたのであるが,こうした好況は,先述の通り当初塩に対して2次的取扱い荷物と考えられていた,諸荷物や魚類の取扱い量が増大したことによる。しかしここに注目しなくてはならない点は,取扱い量の増大は,取扱い品目の多様化によってもたらされたものであったという点である。特に砂糖などとともに横浜や清水港を経由して鰍沢に送られてくる石油・鉄といった品物の増加は,後背地での商品需要の高まりによる品目の多様化,経済圏の拡大等を端的に示すものであった。したがって,この期における富士川運輸会社の発展は,このような国内経済の発展によってもたらされたものであり,国際的商品流通とも深い関連をもつに至っていたことを物語るものであった。
 以上富士川運輸会社の発展についてみてきたのであるが,この81年は同社にとって他に競争相手として,拡達(こうたつ)会社と称する水運会社が,12月同じ鰍沢に設立され,富士川での同社の独占の破られた年でもあった。
 拡達会社の前身ともいうべき送達のための会社として,内外用達会社が鰍沢に設立されたのは,78年11月のことであった。しかし,これは山梨県によって手船による委託された荷物の運搬を禁じられていることでもわかるように,富士川運輸会社と同じ付属の船と船頭によって水運に従事する山梨県より允可を受けた会社ではなかった。ところが,その後,翌79年5月3日太政官布告第16号をもって,73年の太政官布告第230号が廃止され,事情は一変し富士川筋にあって新しい運輸会社設立の気運が興り,ついに拡達会社の設立をみたのであった。
 拡達会社の他にも89年には甲斐運会社が鰍沢に設立される等により,富士川水運の同業者間の競争はますます激しさを増していくこととなる。しかし,89年東海道線が静岡まで開通し,岩淵駅が89年2月,蒲原駅が90年3月に開業することにより,富士川水運は一層重要さを増し,活況を呈した。そして,この後約10年間が富士川水運の最盛期となるが,1903年八王子・甲府間に中央線が開通することにより,甲府盆地及び南信方面への物資の流路は,東海道線より富士川を通るコースから,中央線経由へと変り,富士川水運の急速な衰退を迎えることとなる。
 この衰退する富士川水運に追討ちをかけるかのように1915年以降富士身延鉄道が次第に路線を延長し,28年ついに富士・甲府間が全通し,ここに富士川水運は完全に終りをつげることとなった。
 富士川運輸会社もこの間1922年創業50年を機についに廃業にいたったのであった。

Ⅳ むすびにかえて

 日本の自然的特質に規定されながら発達した内陸水運について,特に16世紀以降について概観し,19世紀後半-明治維新以後明治新政府の下にあって,全国的運輸機構が確立されていく過程で,内陸水運がどのようにして全国的運輸機構の中に位置づけられていくかについてみた。そして,その具体的な例として,富士川筋における富士川運輸会社の創業と発展の様子について,1870~80年代を中心に述べてきた。そこで,明治維新以後の内陸水運を特色付けている要因は何であったかについて総括し,むすびにかえる。
 1. 近世内陸水運の継承-近世以来の内陸水運の発展を継承し,河岸・河岸問屋・船持・船頭はもとより,造船等の技術的なものにいたるまで,前代からの伝統をもって明治期の内陸水運は営まれていた。
 2. 政府による運輸行政の影響-明治政府による近代国家形成の一環として,全国的運輸機構確立の方針に従い,政府・府県による積極的行政指導をうげ,その影響の下で明治期の内陸水運は発展していった。
 3. 近代化の努力-近世以来の伝統の上にたちながらも,政府の積極的行政指導の影響により,自らも近代化の努力を続け,利根川筋・淀川での汽船の就航,利根川・富士川での運河の開削等,過去の障害の克服につとめ,明治期の内陸水運の発展をもたらした。
 4. 商品流通発展の影響-国民経済の進展は,国際経済との関連の中で,前代より一層の商品流通の発展をみることとなった。これにともない,明治期の内陸水運はその影響をうけ,未曾有の活況を呈し運輸交通上に大きな役割をはたした。
 5. 鉄道の発達の影響-内陸水運は明治期特に1880年代以降めざましい発展をとげたが,鉄道の発達により短時日の中に凋落を余儀なくされ,その座を鉄道に明けわたすこととなった。
 このようにして,特に近世16世紀以来の内陸水運の発展は終止符を打つこととなった。

 参考文献
 豊田 武・児玉幸多編 『交通史』 1970年 山川出版社。
 古島敏雄 ・ 安藤良雄編 『流通史』Ⅱ 1975年 山川出版社。
 山本弘文 『維新期の街道と輸送』 1972年 法政大学出版局。
 奥田 久 『内陸水路の歴史地理学的研究』 1977年 大明堂。
 田中啓爾 『塩及び魚の移入路』 1957年 古今書院。
 鰍沢町役場編 『鰍沢町誌』1959年
 青山  靖 「富士川水運史」
 斉藤 良一 「富士川水運考」 所収
 清水小太郎 「富士川水運と鰍沢」
 村松 志孝 「富士川水運と角倉氏」