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地域社会から見た鉄道建設

Author: 青木栄一
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次

 はじめに・・・・・・・・・・2
1. 鉄道政策の変化と地域社会の対応・・・・・・・・・・3
2. 明治中期における鉄道建設と地域社会・・・・・・・・・・4
 (1)鉄道敷設法の意義・・・・・・・・・・4
 (2)中央線建設における地域社会の動向・・・・・・・・・・6
 (3)地域社会による鉄道の自力建設・・・・・・・・・・11
3. 明治末~大正初期における鉄道建設と地域社会・・・・・・・・・・14
 (1)軽便鉄道政策の意義と背景・・・・・・・・・・14
 (2)地域社会からみた軽便鉄道建設の実態・・・・・・・・・・20
 おわりに・・・・・・・・・・24


はじめに

 日本の鉄道網の形成は,従来多くの場合,日本の近代化に伴う交通政策の推移という視点から巨視的な分析が行われてきた。この方法では,幹線鉄道の建設について,多くの成果をあげてきたが,より局地的な性格の鉄道については,まだ十分の成果があったとはいいがたい。それは,日本の近代化という大きな歴史の流れを,個々の地域社会がいかに受けとめてきたかという視点を欠いていたからである。
 本稿では,日本の鉄道網が拡大してゆく過程で,個々の地域社会が政府の鉄道政策をいかに受けとめ,みずからの地域にいかにして鉄道を建設しようと努力してきたかという視点から,日本の鉄道網の形成過程をみてみたい。
 まず,日本の地域社会が鉄道建設あるいは誘致に関する運動を積極的に始めた明治20年代の時代よりはじめて,これより大正初期にいたるまでの鉄道政策の推移とその背景を概観し,それぞれの時代ごとに若干の事例をとりあげて,地域社会から鉄道への働きかけを具体的に考察してみたい。
 なお,本稿は筆者が従来研究を続け,公表してきた下記の諸論文を要約ないし,敷衍したものである。
 『日本の鉄道―100年の歩みから―』,三省堂,1973(原田勝正と共著)。
 「富士山をめぐる交通網の形成」,『富士山麓史』(富士急行株式会社創立50周年記念出版・児玉幸多監修),富士急行,1977。
 「ローカル線建設の歴史とその政治的意義」,『鉄道ピクトリアル』220,1969。
 「下津井鉄道の成立とその性格―瀬戸内海近世港町における鉄道導入に関する研究第1報―」,『地方史研究97』,1969。
 「近世港町鞆および下津井における鉄道交通の導入とその特質」,『東北地理』21-3,1969。
 「第一次産業地域における局地鉄道の建設―地主金融資本の役割を中心として―」『歴史地理学紀要』11,1969。
 「中央線の建設とそのルートをめぐって」『鉄道ピクトリアル』280,1973
 「東濃地方における鉄道網の形成」『東京学芸大学紀要第3部門社会科学』28,1977。

1 鉄道政策の変化と地域社会の対応

 一般に鉄道建設の方式は政府の鉄道政策の変化によって規定される。日本各地の地域社会が鉄道建設に対して,積極的にとりくむようになるのは明治20年前後からである。これ以後,第2次世界大戦に至るまでの時代についてみれば,わが国の地域社会の鉄道建設への働きかけは,次のような変化を示した。
 第Ⅰ期(明治20年頃~40年頃) 一般に幹線鉄道の建設を主とした時代である。この時代には地域社会はみずから資本を調達して私設鉄道を建設する意図をもつ例も少なくなかったが,計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少なかった。これは地方の個々の地域社会における資本蓄積が十分でなく,軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除けば,巨額の資本を必要とする一般の鉄道の建設を行なうには無理があったからである。多くの地域社会は,幹線鉄道のルート決定に際して,みずからの地域に有利なルートを採択させようと努力した。明治25年(1892)に鉄道敷設法が公布されて,わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ,かつ帝国議会を通じて地域社会の意志が鉄道建設に反映できるようになると,この動きは活?化した。
 第Ⅱ期(明治40年頃~大正末期) 軽便鉄道による自力建設が盛んに行なわれた時代である。この時代には,地域社会がみずからの資本を結集して,幹線鉄道と結ぶ局地鉄道を簡易な民営鉄道(軽便鉄道)として建設しようと努力した。これには,政府の軽便鉄道普及の政策,すなわち,政府の民営鉄道に対する監督を大幅に緩和した軽便鉄道法(明治43年公布)と,営業成績の低い軽便鉄道に補助金の供与を定めた軽便鉄道補助法(明治44年公布)の意義が大きい。これによって多数の軽便鉄道が建設されたが,その大部分は地域社会内で,零細な,かつ広範囲にわたる階層の人々の投資によって成立したものであった。
 第Ⅲ期(大正末期~現在) 国有鉄道当局に局地的な鉄道の建設を要求し,政府がこれに応ずるようになった時代である。政府は明治44年(1911)以降,「軽便鉄道」の名称で,鉄道敷設法によらない局地鉄道の建設を行なってきたが,その決定が政治的な取引きのなかで行なわれたので,政治路線と呼ばれた。しかし,この政策が本格的に推進されるようになったのは,大正11年(1922)に鉄道敷設法を改正して,国有鉄道が局地鉄道の建設を積極的に行なう姿勢を明確にしてからである。地域社会では,収益率の低い軽便局地鉄道の建設を自力で進めることをやめて,帝国議会を通じて,政府に国有の局地鉄道建設を要求するようになった。これによって,地域社会は建設のための莫大な資本調達の負担や営業上の欠損に苦しむことから解放され,そのすべてを政府に転稼した。帝国議会議員の選挙政策と結びついて,政治路線は急速に伸び,自動車交通の発達によって,輸送需要の小さい鉄道の存在意義がなくなった現在でも,その建設は依然として盛んである。
 本稿では,第Ⅰ期および第Ⅱ期における鉄道建設の時代的背景と具体的な地域社会の鉄道建設への働きかけについて,その概要を述べたものである。

2 明治中期における鉄道建設と地域社会

 (1) 鉄道敷設法の意義
 明治22年(1889)7月1日,東海道線で最後まで未完成のままのこされていた馬場(現在の膳所[ぜぜ])-米原-長浜間のいわゆる湖東線,および深谷-米原間(長浜-深谷間のつけかえ)が開通し,ここに新橋-神戸間は全通した。首都東京と京阪地方とを鉄道で結ぶという明治政府の夢はここにひとまず実を結んだのである。
 当時,日本の鉄道は北は日本鉄道によって仙台,塩釜まで,また日本鉄道の大宮-高崎間の路線を介して官設鉄道直江津線が,碓氷峠の険にはばまれていた横川-軽井沢間をのこして直江津まで開通しており,西は山陽鉄道の建設が緒について,兵庫-姫路間の運転を始めていた。このほか,水戸鉄道,両毛鉄道,甲武鉄道,大阪鉄道,阪堺鉄道などの私設鉄道が開業しており,九州ではまだ鉄道は建設中で開業に至ってはいなかったが,北海道では幌内鉄道,四国では讃岐鉄道と伊予鉄道が営業を始めていた。この年の7月10日,全国の鉄道関係者約100名は,名古屋で開かれた「鉄道一千哩祝賀会」に参集し,日本の鉄道網の拡大を祝ったのであった。
 しかし,このような鉄道網の拡大が行なわれたにもかかわらず,その将来のあり方について,日本の政府は何ら確とした方針を定めていなかった。明治23年(1890),日本最初ともいうべき経済恐慌がはじまり,私設鉄道業界もまた不況に陥った。このような状況のもとで,鉄道庁長官井上勝の「鉄道政略ニ関スル議」が政府に対して建議されたのである。
 井上勝は,明治4年(1871)以降,一時的に辞任した時期はあるが,明治26年(1893)まで鉄道行政の最高位にあり,一貫して鉄道国有主義を主張していた人物である。
 「鉄道政略ニ関スル議」は明治24年(1891)7月に出され,長文の文書であるが,要約すれば次の2点を主張している。第1は,将来の日本の幹線鉄道の路線を決定し,政府はそのための長期計画を樹てて,着実に建設を行なうための法律,およびその資金を得るための公債発行の法律が必要であること,第2は,幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を政府が買収することである。
 政府は井上の建議に基づいて,鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を明治24年12月,衆議院に提案したが,後者は否決され,前者は議決に至らないうちに,衆議院が解散されてしまった。翌明治25年5月,改選された帝国議会において,政府は上記2法案を再提案した。衆議院議員のなかからも,「鉄道拡張法案」あるいは「鉄道敷設法案」の名称で,各地の鉄道建設を促進する法案を独自に提案する者もあり,政府の提案はこれらと折衷されて,明治25年6月21日,「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)として公布された。
 鉄道敷設法は日本の鉄道史のうえで画期的な法律であった。それは日本の幹線鉄道網の将来あるべき姿を決定した点にあり,それまでの政府の恣意的な鉄道建設を帝国議会のコントロールのもとにおき,その長期計画の枠内に組みこんだことにある。鉄道敷設法では,計画路線を第2条に,ただちに予算がついて工事に着手できる路線(「第1期鉄道」と称した)を第7条に示している。したがって,新しい計画路線を追加したり,計画路線を第1期鉄道に昇格させたりする場合は,法律改正を必要とすることになるので,政府はこれを鉄道会議に諮問し,これを原案として議会に提案して,賛成を求めなくてはならない。
 鉄道会議は,鉄道庁やその他の関係官庁の高級官僚,陸海軍軍人,帝国議会議員をメンバーとし(定員は議長1名,議員20名,臨時議員若干名),鉄道敷設法に関するもののほか,建設の予算,私鉄の買収方法,運転計画,運賃の決定など,広汎な権限をもつ組織であった。ここにおいて,政府や鉄道庁当局による悠意的な鉄道計画は事実上不可能となり,ひとつの定められたルールのなかで,ある程度の「民意」を反映しながら行われるようになるのである。
 現在の日本の幹線鉄道網の一環と考えられている路線の多くは,鉄道敷設法によって建設されたものである。また,この法律が大正11年(1922)に改正されるまでに,計画線として第2条に記載された路線は,第1図に示すとおりである。
 しかし,鉄道敷設法は私鉄買収を実現することができなかった。同法には「私設鉄道ノ処分」という1章があり,政府が必要と認めたときは「会社ト協議ノ上価格ヲ予定シ」議会の協賛を得て買収できる(第11条)とある反面,「予定鉄道線路中未タ敷設ニ着手セサルモノニシテ若(モシ)私設鉄道会社ヨリ敷設ノ許可ヲ願出ル者アルトキハ帝国議会ノ協賛ヲ経テ之ヲ許可スルコトアルヘシ」(第14条)という条文もあって,まさに骨抜きどころか,これまで実質的に行なわれてきた幹線鉄道網における官私鉄併立政策を法律の条文のうえではっきりと追認する結果になったのである。
 なお,北海道の鉄道建設は鉄道敷設法の適用外とされ,明治29年(1896)5月14日,別に北海道鉄道敷設法(明治29年法律第93号)が公布された。

 (2) 中央線建設における地域社会の動向
 鉄道敷設法によって,第1期鉄道に指定された線のうち,ただちに調査,着工の運びとなったのは,奥羽線・北陸線・中央線の3幹線鉄道であった。
 鉄道敷設法の公布と新しい鉄道建設のルールを地域社会の側からみると,まず鉄道敷設法に盛りこまれた幹線鉄道の計画をできる限り,それぞれの地域社会にとって有利なルート選定をするように,激しい働きかけをする結果となった。鉄道敷設法に予定線として法律の条文のうえに記載された路線の工事着手の順序や,そのルートの決定にあたったのは鉄道会議である。また帝国議会でも白熱した論議が行なわれた。そのため,沿線となるはずの地域社会からは,鉄道会議のメンバーや帝国議会議員に対して,さまざまの陳情や意見具申が殺到した。
第1図 鉄道敷設法(明治25年)および北海道鉄道敷設法(明治29年)による予定鉄道線
 ここでは,路線ルートの選定にあたって,沿線となる可能性のある多くの地域社会が帝国議会や鉄道会議に対して,激しい運動を展開した中央線の実例を紹介したい。
 中央線については,すでに鉄道敷設法公布以前から,とくに陸軍がその必要性を強く主張していた。当時の陸軍は,鉄道を海岸線近くに敷設することは,国防上不利であるという意見をもっていた。当時の陸軍の想定していた戦争は,日本の本土に進攻してくる外国の軍隊を国内で迎撃する立場であった。強大な敵艦隊が沿海の制海権を握って,自由に日本の沖合を遊よくする事態になれば,海岸付近の鉄道は容易に破壊されるであろう。そうなれば,軍隊の移動も迅速にはできなくなるので,鉄道のルートはなるべく海岸から離した方がよいとする考えである。明治21年(1888),参謀本部陸軍部は『鉄道論』という一書を公刊し,鉄道の軍事的効用と陸軍の鉄道に対する考え方を公表したが,その中でも「本州内部ノ中央ヲ貫通スルノ鉄道」(『鉄道論』第3章)の必要性を力説している。陸軍のこの主張は中央線の建設促進の大きな力となったが,さらにこのような陸軍の考え方を知った中央高地に住む人々を大いに勇気づけたことは否めない。
 中央線のルート選定について,多くの論議と誘致運動が行なわれたのは,鉄道敷設法の条文に記された中央線の予定線が1本ではなく,次のように多くの選択枝をもっていたからである。
 一 神奈川県下八王子若(モシク)ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道
 一 長野県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道
 一 山梨県下甲府ヨリ静岡県下岩淵ニ至ル鉄道
 (鉄道敷設法第2条および第7条中央線)
 この3線はそれぞれ現在の中央線・篠ノ井線・身延線に相当する路線であるが,第1期線に指定されたのは当初は第1項だけであった。この線はその条文からもわかるように大変選択範囲が広く,起点を八王子(当時甲武鉄道終点)とするか,御殿場(東海道線)とするか,また途中の経路も伊奈谷(伊那郡)とするか,奈良井川・木曾川の谷(西筑摩郡)とするかで大きな選択が要求されている。またこまかいルート選定上の比較線も極めて多かった。これを地域社会の側からみると,それぞれの地域社会に有利なルート選定を実現させるべく,さまざまの陳情や意見具申のかたちで,激しい鉄道誘致運動をくりひろげることとなった。
 現在,この時に鉄道会議や帝国議会あてに出された多くの意見書,陳情書がのこされているが,いずれもルートの地形からみた建設の難易,東京・横浜・名古屋などの大都市への連絡の有利性,沿線産業の将来性,在来交通や伝統的な物流ルートの存在,海岸線からはなれることの軍事的有利性などをとりあげ,みずからの地域社会を通過することが鉄道にとって必要であり,有利であることを客観的に(あるいは客観性をよそおって)説明しようとしている。
第2図 中央線建設要図
 たとえば,八王子起点案を主張する中央鉄道会は,神奈川県3名,山梨県2名,長野県3名,愛知県2名の委員と称する人々が名前を連ねており(山梨県委員は東山梨郡と南都留郡の在住者),明治25年(1892)12月,『従八王子経伊奈至名古屋中央鉄道ノ必要』なる陳情書を出している。そこでは,八王子線が東京―甲府間の距離において御殿場線より短いこと,海岸を通らないので国防上有利であること,経済活動の盛んな地域を通過すること,地形的にも建設が容易であること,季節的な障害のないことが強調されていた。
 これとまったく逆の立場で書かれた『第1期鉄道中央線ノ御殿場線ニ関スル意見書』(明治25年11月)は静岡県東駿伊豆有志者の名で貴衆両院に提出された請願書である。ここでは当時いかに多くの生活必需品が沼津方面から御殿場,吉田経由で甲府盆地に入ってきているかを論じ,従来からの交通流に沿うルートを鉄道が選択することを主張した。
 その他,甲府盆地,諏訪盆地,伊那盆地の製糸業者たちは,「中央鉄道期成蚕糸業連合会」を組織して,製糸業者の多く分布する八王子・甲府・諏訪・伊那地方を結んで鉄道を建設すべきであると結論している。また瀬戸や東濃地方の製陶業者や陶器商は名古屋から瀬戸・笠原・駄知などを経由するルートを主張し,陶磁器の主生産地を通過しない鉄道は無意味であると主張した。いずれの場合も,それぞれみずからの産業が当時の日本を代表する産業であるという自負のもとに,強い主張を展開するのである。
 もっとも,鉄道に関する基礎的な知識が各地域社会の指導者層に十分あったかどうかははなはだ疑問で,みずからの地域の有利性を主張するために,競争相手の地域を不当に低く評価したり,あやしげな鉄道論を得々と述べたりする個所も少なくなかった。
 鉄道の誘致に成功するか否かが,その後の地域社会の経済に大きな影響を及ぼすことはどの地域社会の指導者層にもわかっていたといえよう。どんな手前みそを並べようと,競争相手の地域の弱点を針小棒大に宣伝しようと,手段を選ばず書きたてて,当局に文書の弾丸を送りこんだかっこうである。その意味で,中央線のルート選定は日本の地域社会が鉄道との関係を広範囲の地域にわ
たって真剣に考えた最初の事件であったといえよう。
 中央線のルートは,明治26年(1893)2月,鉄道会議によって,八王子を起点とし,甲府および諏訪・西筑摩郡を経由するものに決定された。多くの路線誘致の陳情が鉄道会議のメンバーにどのような影響を与えたかは明らかではないが,現実の路線選定に当って,最も重要な要因となったのは,最急路線勾配を40分の1,すなわち25‰に止めることだったようである。トンネルの掘削や架橋の技術の未熟な当時にあっては,山岳地帯の鉄道はできる限り河系に沿い,トンネルや橋梁の数と長さを最小限度に止めるようなルートが選ばれたから,地形の影響は現在の鉄道建設よりもはるかに大きくならざるを得なかったのである。御殿場起点案,伊那谷経由案,瀬戸経由案などが採択されなかったのは,いずれも急勾配の存在が直接の理由であったと考えられる。
 中央線の路線決定と開通は地域社会に無数の明暗を生じさせた。諏訪地方の製糸業の地位は安定したが,誘致に失敗した伊那地方はその後長く産業上の沈滞を経験しなければならなかった。東濃地方では鉄道が土岐川沿いに走ることになったため,鉄道の通じた多治見は製陶や磁器卸売商の町として急速な発展を示したが,鉄道のルートからはずれた駄知・下石・笠原などの町村は不利な立場に追いこまれた。また,それまで静岡県側から日用必需品の移入をあおいでいた山梨県が,中央線の開通によって,この関係をほとんど絶ってしまい,東京との結びつぎが強められたのも事実であった。

 (3) 地域社会による鉄道の自力建設
 明治20年代から30年代にかけての時代は,政府による国有鉄道の計画的な建設が軌道にのると同時に,民間資本による私設鉄道の建設も活?であった。政府は私設鉄道条例(明治20年勅令第12号)を明治20年(1887)5月に公布した。蒸気鉄道はおおむねこの法律に従って建設・営業が行なわれたが,この法律に準拠する鉄道は,建設・運転・保安などの面で,官設鉄道と同等の水準を要求されていた。また道路上に建設するのを原則とし,監督上の遵守事項も簡便なものは軌道と称され,明治23年(1890)8月に公布された軌道条例(明治23年法律第71号)に準拠してつくられた。主務官庁は内務省で,当初はもっぱら馬車鉄道が監督の対象となっていた。
 では,鉄道を民営でつくろうとする場合,その資本はどのように調達されたのであろうか。大きな資本を必要とする鉄道の建設にあたっては,財閥や大都市の商業資本家の勢力が大きな地位を占め,地方的な資本家はあまり育たなかった。
 ある特定の地域の産業の生産力の発達と市場の拡大に応じて,ある程度までその地域社会の経済力を基礎として成立した鉄道を産業自主鉄道と呼ぶ。明治20年代の私設鉄道において,産業自主鉄道の典型としてしばしば語られる両毛鉄道を例として,その実態をみてみることとする。
 両毛鉄道は日本鉄道の路線計画からはずれた栃木・群馬両県の機業地,たとえば栃木・佐野・足利・桐生・伊勢崎などの都市がみずからの力でこれらの都市を経由して,前橋-小山間に建設した私設鉄道である。明治19年(1886)会社を創立し,明治21-22年(1888-89)に上記の路線を開業した。
 両毛鉄道の経営者はみずからの鉄道を機業発展の手段と考えていた。初代社長となった経済評論家田口卯吉が両毛地方はイギリスのマンチェスターに,両毛鉄道はリバプール=アンド=マンチェスター鉄道に相当すると演説して,機業と鉄道との関係を重視していたのはその証左である。
 しかし,成立した両毛鉄道の株主構成をみると,84キロメートルの延長にすぎないこの局地鉄道に対して,株主の分布はほとんど全国に及んだ。発行株式数3万株のうち,東京府38.5%,新潟県22.7%,和歌山県13.1%と続き,第4,5位にようやく地元の栃木県11.8%,群馬県5.7%が出てくる。これは当時の鉄道が収益の高い業種とみられ,投機の対象とすらなっていて,全国の投資家に過大な期待をいただかせたことにもよるが,地元である両毛地方の投資力の低かったことが最大の原因であろう。
 両毛鉄道の大株主には,東京および各地の銀行家が多く参加し,地元の大株主は主として織物買継商であるが,所有株数は銀行家に比してはるかに下位にある。そして投機熱にうかされた各地の投資家がこれに多数加わっているのである。当時の織物生産者は商業資本に従属する零細業者が大部分であって,鉄道投資にあたっては重要な役割は果していない。輸送体系の近代化によって利益を受けるのはまず織物買継商などの商業資本であった。
 両毛鉄道は開業早々に,明治23年(1890)の不況に遭い,その後の収益も当初の予想をはるかに下まわった。そのうえ,路線配置の上で日本鉄道の支線的存在であったため,新路線を東京方面に延長する計画,あるいは日本鉄道と合同する計画などが株主間で対立して論ぜられ,株主の交替も激しかった。鉄道の経営方針は沿線の機業とはなれた場で論ぜられ,結局,両毛鉄道は明治30年(1897)に日本鉄道に買収されてしまうのである。1)
 筑豊炭田の運炭を目的として明治24年(1891)開業し,最終的には若松-飯塚間と多くの支線を営業した筑豊興業鉄道(明治27年以降筑豊鉄道と改称)も,地元の炭礦経営者による発起で始められたが,建設途中で資本金の増額に迫られ,資本金総額の50%弱に及ぶ額を三菱財閥の出資にあおいだ。結局,同鉄道は明治30年(1897)三菱が大株主になっていた九州鉄道に合併されてしまった。
 当時の大都市以外の地域社会における資本の蓄積はまだ十分でなく,両毛・筑豊鉄道程度の中規模以上の鉄道計画には,どうしても京浜あるいは京阪神地方の「中央財界」の資本を導入せねばならなかった。ここに地方的資本家の弱さがあり,産業自生鉄道が十分に発達しえない原因があったと考えられる。
 しかし,鉄道の規格を落とし,かつ比較的短距離の鉄道ならば,地方の地域社会が独力で鉄道をつくることも可能であった。たとえば,伊予松山から外港の三津(浜)までの約7キロメートルを明治21年(1888)10月に開業した伊予鉄道は,四国で最も古い鉄道であるが,同時に日本で2フィート6インチ(762ミリメートル)軌間を採用した最初の鉄道でもあった。伊予鉄道発起の中心人物であった小林信近は,安価で工事も簡易な鉄道はないかと調査した結果,当時の内務省が導入を考えていた「ドコービール」(Decauville)型と称するフランスの軽便鉄道やドイツのクラインバーン(Kleinbahn)の存在を知り,この方式の簡易な鉄道を採用して,わずか資本金4万円で鉄道をつくることに成功している。この種の2フィート6インチ軌間の鉄道としては,青梅鉄道(明治27年開業),道後鉄道(明治28年開業),南予鉄道(明治29年開業),上野(こうずけ)鉄道(明治30年開業),竜崎(りゅうがさき)鉄道の6鉄道が明治20年代,30年代に開業している。
 軌間2フィート6インチの軽便蒸気鉄道よりさらに低規格の鉄道としては,馬車鉄道と人車鉄道がある。馬車鉄道や人車鉄道は都市の街路上に敷設されて,都市交通機関の役割を果すとともに,幹線鉄道のルートからはずれた地域もしばしば鉄道駅まで建設した。これらは旅客や特定の貨物を鉄道駅まで運ぶための小規模な地方交通機関として盛んに採用された。馬車鉄道や人車鉄道は蒸気鉄道よりもはるかに少額の資本で建設することができたから,資本蓄積の十分でない地域社会でも比較的容易につくることができた。これらは法的には鉄道の範疇からは除かれ,内務省の監督する軌道として取り扱われた。

 1)両毛鉄道については主として次の文献による。
 石井常雄「両毛鉄道会社における株主とその系譜」,『明治大学商学論叢』41-9-10,1958,785-808ページ。
 「両毛鉄道会社の経営史的研究」,『明治大学商学研究所年報』4,1959,161-207ページ。

3 明治末~大正初期における鉄道建設と地域社会

(1)軽便鉄道政策の意義と背景
 「軽便鉄道」という語は,英語のライト・レイルウェイ(Light Railway),あるいはドイツ語のクラインバーン(Kleinbahn)に相当する語で,幹線鉄道と比較して建設の水準を落としてつくられた鉄道をいう。たとえば,軌間を狭くしたり,断面の小さい軽いレールを用いたり,建築限界を縮小して小型の車輛を使ったりした鉄道は,それぞれの意味で軽便鉄道であるといえる。したがって,軽便鉄道とは何かと問われても,万国共通の絶対的な基準はない。あくまで一国の幹線鉄道の建設の規格を基準として相対的に決められるものである。日本では,明治中期の官設鉄道や私設鉄道法に準拠する鉄道よりも水準を落としてつくられた鉄道を軽便鉄道と称したのがはじまりのようである。
 軽便鉄道の輸送能力は相対的に低い。断面の小さいレールは重い車輛の重量にに耐えられないし,小型の機関車の牽引力は弱く,速力も小さい。しかし,その反面,建設費や運転・維持の費用は少額ですみ,建設にあたっても,曲線半径や勾配の制約がゆるいので,路線の選定も容易である。輸送需要の少ない地域に建設される鉄道は軽便鉄道としてつくり,建設や運営の費用を少なくする方が鉄道経営上有利である,とするのが軽便鉄道推奨の主たる理由であった。
 日本の軽便鉄道政策は,軽便鉄道法(明治43年4月21日公布,8月3日施行,明治43年法律第57号)と軽便鉄道補助法(明治44年3月27日公布,翌年1月1日施行,明治44年法律第17号)の2つの法律を基本として成立した。
 明治39~40年(1906~07)に行なわれた鉄道国有化の結果,主だった私設鉄道17社が政府に買収され,私設鉄道としてのこされたものは,開業20社,未開業3社であったが,いずれも短小路線で,路線延長50キロメートルを越えるものは,東武・中国・成田・南海の4鉄道にすぎなかった。私設鉄道法は本来,官設鉄道に伍して幹線鉄道として建設されるような大私鉄を対象として考えられた監督法規であり,規定は複雑で,小鉄道には過重で煩さな義務を課していた。現実の私設鉄道が小鉄道だけになってしまい,かつ今後あらわれるであろう私設鉄道も,鉄道国有法の適用外となる「一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道」(同法第1条)のみとなると,より簡易な取扱いを主旨とした監督法規を新たに制定して,地方の小鉄道建設を促進する政策が必要となった。
 一方,鉄道の建設は地域開発,農村振興のための重要な手段と考えられ,多くの地域社会が鉄道建設を熱望していた。これらの地域社会が自力で鉄道を建設しようとする場合,資本の調達を最小限にとどめようとするならば,軌道条例に準拠して建設する方法があった。軌道条例は明治23年(1890)8月25日に公布された法律で(明治23年法律第71号)で,主として道路上に建設される簡易な「鉄道」を監督するものであった。軌間も動力も選択が自由で,当初はもっぱら馬車鉄道がつくられたが,のちに人車鉄道や電気鉄道(路面電車)もこの法律に準拠してつくられるようになった。また,監督官庁は内務省であったが,明治41年(1908)より鉄道院と内務省の2元制監督となった。
 明治40年前後における軌道の状況を語るには雨宮敬次郎(1846-1911)の存在を落とすわけにはゆかない。彼は山梨県の出身であり,横浜で相場師として財を成した。そして鉄道の有利性に着目して,甲武鉄道・川越鉄道・東京市街鉄道など多くの鉄軌道の資本家として,その経営に参画し,鉄道経営者として著名となった。鉄道国有後は,地方の局地的な軌道に積極的に投資する姿勢を示し,軌道に蒸気動力を導入することを主張した。
 雨宮は,「我邦今日ノ状態,往々ニシテ鉄道所在地ト貨物散出地ト相距ル甚タ遠キモノアリ。貨物産出地ヨリ鉄道所在地ニ至ルマテノ運賃,稍モスレハ鉄道所在地ヨリ貨物市場ニ至ルマテノ運賃ヲ超過スルコトアルヲ嘆キ,之ヲ救済フノ道只軽便鉄道ヲ敷設シテ貨物産出地ト鉄道所在地トノ連絡ヲ取ルニアルノミト信シ」(雨宮敬次郎述『過去六十年事蹟』),各地の軌道建設にアドバイスし,投資したが,明治41年(1908),彼の資本傘下にある軌間2フィート6インチ(762ミリメートル)の蒸気軌道8社を統合して,大日本軌道を創立した。この雨宮の蒸気軌道は,輸送機能のうえからも,技術的にも,政府の軽便鉄道政策を先取りするものであった。
 しかし,政府としては,従来の軌道条例のような運転や保安上不備な規定のままで,軽便鉄道を全国に普及させることを望まなかった。そこで軽便鉄道を従来の私設鉄道と軌道の中間に位する鉄道として位置づけ,法的にも新しいカテゴリーの鉄道をつくることとなった。
 当時の鉄道院総裁後藤新平は,広軌改築案や大都市周辺路線の電化政策に示されているように,幹線鉄道輸送機能の抜本的な改善を策した積極経営論者である。彼は日本の鉄道を機能のうえから3分し,幹線ないし重要な地方連絡線として国有を原則とする「普通鉄道」,もっぱら局地的な輸送を担当する「軽便鉄道」,都市内やその周辺の道路交通の一部としての「軌道」とし,当面の目標を普通鉄道の機能向上に置いたが,軽便鉄道の建設は主として民間資本の投資に依存し,これに補助金を交付して,建設の促進と経営の維持をはかる政策を採用した。
 一方,鉄道の建設を地方の地域社会津々浦々にまで及ぼすことは,全国の農漁村を基盤として帝国議会の多数を制していた政友会の政策の1つとしても採り上げられた。明治43年(1910)年3月,第26回帝国議会に政友会は「全国鉄道速成及改良に関する建議」および「港湾改良に関する建議」を提出し,「全国必要の路線を相当の年限内に悉く完成せしむるの方針」(『原敬日記』明治43年1月29日)で,後藤の主張する広軌改築案に対抗したのである。この政友会の主張の根拠は,「広軌のことは,遠き将来に於ては必要ならんも,余の見る所にては,日本の鉄道は欧米に於けるが如く,長距離の間に貨物を運搬するの必要なし,故に…(中略)…俄に広軌に改良するの必要なし。且つ広軌には非常の改良費を要するに因り,寧ろ各地に延長するに若かず」(『原敬日記』明治43年2月24日)という原敬の意見に尽されているといってよいであろう。ここには長距離に及ぶ多量の貨物輸送において海運の機能を重視する考えがあり,折から全国的な繁栄をみていた洋式帆船による沿岸交通と鉄道との関連に注目していたことは疑いのないところで,それゆえに,「港湾の改良」と「全国鉄道速成」が同時に主張されねばならなかったのである。
 軽便鉄道法と同補助法の制定は,このような政友会の主張を通じて,次第に表面化してきた鉄道網の速成拡大という地域社会の要求に対する後藤の解答であったといえよう。官僚出身の政治家後藤の考えでは,国家全体にとって有用な鉄道体系,すなわち幹線鉄道の整備こそが優先すべきであって,有限の財源を全国の局地的な鉄道に総花的に分散投資することは拒否せねばならなかった。しかし,衆議院議席の過半数を占める政友会の意志を無視することは不可能である。小規模な局地鉄道の建設に民間資本の投資しやすい環境をつくり上げ,補助金政策を採用することによって,政府の鉄道会計からの支出を低位に止めるという考えが,軽便鉄道法と同補助法に結実したとみるべきであろう。
 軽便鉄道法は全文でわずか8条しかない簡易な法律で,私設鉄道法の準用条項7条を加えても全部で15条にしかならない。軽便鉄道の免許は従来の私設鉄道法にみられるような仮免許・本免許の2段手続きではなく,1回で与えられ,指定された期限内に工事施行の認可を受ければ直ちに着工できる。免許資格も私設鉄道法の規定するような株式会社である必要はなく,個人,あるいは合名,合資会社のようなものであってもかまわない。また,軌間選択にあたっての制約もなく,曲線・勾配の制限も緩やかで,線路,停車場,標識,車両の設備なども簡便なものですんだ。運賃率も最高制限がなく,必要の場合に許可さえ得れば道路上への敷設も可能であった。軽便鉄道に対する建設上の規定は主として各鉄道の特殊性を考慮してつくられる命令書によって定められ,また,従来からの私設鉄道あるいは軌道でも指定を受けて軽便鉄道に変更することができた。
 軽便鉄道補助法は,軌間2フィート6インチ(762ミリメートル)以上の軽便鉄道を対象としたもので,「毎営業年度ニ於ケル益金カ建設費ニ対シ1年5分ノ割合ニ達セサル時ハ政府ハ該鉄道営業開始ノ日ヨリ5年ヲ限リ其ノ不足額ヲ補給スルコト」(同法第1条)ができるとしている。大正3年(1914)の改正において,補助期間を5年から10年に延長し,さらにのちに軽便鉄道法が地方鉄道法のなかに発展的解消を遂げると,地方鉄道補助法となり(大正10年)毎年度の補助金額は「毎営業年度ニ於ケル建設費ノ百分ノ5ニ相当スル金額」とし,ただし,「毎営業年度ニ於ケル益金ガ建設費の百分ノ2ニ相当スル金額ヲ超ユルトキハ其ノ超過額ハ之ヲ前項ノ金額ヨリ控除ス」(いずれも同法第1条)と規定して,補助率を建設費の5%から7%に引き上げている。
 軽便鉄道法ならびに同補助法の公布は政府の意図したとおり,各地の地域社会に大きな反響を呼び,地域社会からの自発的な鉄道建設計画に大きな効果をもたらした。
 軽便鉄道法の施行された明治43年(1910)8月から,同年度末の翌年3月までに,軽便鉄道として新たに免許された鉄道は23社あった。このほか,私設鉄道開業線より17社,同未開業線より9社,軌道より1社で,その合計は50社にのぼった。大正15年(1926)度までの軽便鉄道とその後身である地方鉄道の路線延長の増減は第1表のような推移をたどるが,各年度の免許延長キロからみると,明治44-大正2年度(1911-13)にひとつの大きなピークがあり,大正3-6年度(1914-17)はいったん激減して数的には低位にとどまるが,大正7年度(1918)あたりから再び上昇に転ずる。その後は年度によって増減をくりかえしながら昭和期に至るが,明治44-大正3年度のピークに匹敵する数の免許が行なわれた年はなかったし,開業についても大正2-4年度(1913-15)が最大で,その後低迷し,大正10年度(1921)以降ふたたび数値が上昇したのちもこの最大値を超えたことはなかった。ここには明らかに第1次世界大戦(大正3-7年)の影響がみられる。しかし,明治44-大正2年度の免許と大正7年度以降の免許の内容をみると,後者では大都市や鉱工業関係の鉄道が増大している。一般の地方の局地的な鉄道のみを考えれば,免許上のピークははじまりの1回だけなのであって,当局の考えた局地鉄道振興策の持続期間はわずか3年にすぎなかったのである。これは軽便鉄道政策の実態をみるうえで重要な問題点である。
 新しく免許を受けた軽便鉄道には軌間として2フィート6インチ(762ミリメートル)を採択したものが多かった。それはこの軌間が補助法の適用を受けられる最も小型の鉄道だったからである。それは運賃収入のほとんどを旅客輸送に依存し,貨車の国有鉄道への直通運転などを必要としない鉄道であった。
第1表 軽便鉄道・地方鉄道の免許・失効・開業
 軽便鉄道は民営の鉄道だけに適用されたのではない。国有鉄道もまた明治44年度(1911)から軽便鉄道の建設を開始したのである。その建設は,「地方ニ於ケル運輸状態カ本位鉄道ノ規格ヲ必要トセザル場合ニ於テ其地方ニ起業者ナク又ハ其線路カ国有鉄道ノ営養線タルヘキ場合ニ於テ」(『日本鉄道史』下篇73-74ページ)行なわれたとされている。その最大の特徴は鉄道敷設法ニヨルコトナク路線ヲ決定できる点にあり,鉄道院部内の選定で,予算だけが帝国議会の承認が必要であった。軽便鉄道の建設が鉄道会議議員や貴衆両院議員の利害と関係があったことは想像に難くない。国有鉄道の軽便鉄道建設に投ぜられる予算は年度ごとに膨張し,政党や議員の狩猟場と化して,後年の「政治路線」の原型を形成するのである。

(2) 地域社会からみた軽便鉄道建設の実態
 政府の軽便鉄道政策に対し,各地の地域社会はどのような対応をしたであろうか。いくつかの具体例を通じてその実態をながめてみたい。
 軽便鉄道建設に必要な1キロメートルあたりの建設費の全国平均は,大正2年度(1913)の実例でみると,2フィート6インチ(762ミリ)軌間で約2.1万円,3フィート6インチ(1,067ミリ)軌間で約3.4万円であった。したがって,延長20キロメートルくらいまでの短小路線ならば50万円以下で建設することができた。しかし,資本蓄積の貧しい地域社会が,短期間のうちにこれだけの資金を調達することは非常にむずかしかった。そのため,建設費を少なくするためのさまざまの手段がとられた。たとえば,軽便鉄道と幹線鉄道の接続駅をどこに選定するかを決定する場合にも,沿線の住民の大部分が目的地とする都市に直結せず,距離的に最も近い国鉄駅を接続駅に選んでいる。軽便鉄道の沿線となる地域は一般に幹線鉄道上にある都市の勢力圏に含まれており,住民にとっては買物にしても,さまざまの商用,商取引きにしても,その都市に出かけることが多い。したがって,軽便鉄道は中心となる都市に直結した方が沿線の地域社会の立場からも,鉄道経営の上からも有利となるはずである。しかし現実には,資金を最少限に抑えるため,寒村であっても文字通りの「最寄駅」を接続駅に選んで,乗客はそこで国鉄列車に乗りかえて目的とする都市に行かねばならぬ例が多発した。建設費の高価なトンネルや長い橋梁もできるだけつくらないような路線が選定されている。
 軽便鉄道に出資した株主を沿線となる地域社会との関連で分類すると,次のようになる。
 1)沿線の地域社会に現在居住している住民
 2)沿線の地域社会の出身者
 3)沿線の地域社会との間になんらかの取引き,利害関係をもつ者
 4)沿線の地域社会と従来利害関係のなかった投資家
 第1のグループは多くの軽便鉄道において出資者の主力となったものである。たとえば,第2表は大正2-3年(1913-14)に岡山県の茶屋町(国鉄宇野線)から港町下津井に至る2フィート6インチ軌間の鉄道を開業した下津井軽便鉄道(資本金30万円)の株主分布を示したもので,沿線地域の住民が株主の大部分を占める典型的な例である。
第2表 下津井鉄道の株主分布(1912.4.30現在)
株主分布が四国側の丸亀にも多いのは,この鉄道が国鉄の宇野線と宇高連絡航路の開業(明治43年)に対抗して,旧来の下津井-丸亀航路を維持しようとする目的で発起されたものだからで,当然丸亀も沿線に準ずる地域と考えねばならない。次に零細株主が多い点にも注目すべきで,9株以下の株主は株主総数351名中,実に202を占めている。これも当時の多くの軽便鉄道の株主構成に共通する特徴であり,1株,2株の株主は決して珍しい存在ではなかった。そこには町ぐるみ,村ぐるみの半強制的な出資割当てが行なわれ,住民それぞれの保有資産に応じた出資を義務づけるような共同体意識の上に立って株主の募集が進められた。投資という行為は,一般に配当という利潤を期待してなされるものであるが,この場合は配当はあまり期待できなかったのであるから,これは出資というよりは共同体内における一種の分担金に近いものといえよう。
 軽便鉄道創業にあたっての大株主は,その地域社会の性格によってさまざまであるが,沿線の多くが農業地域であったため,大地主が多く名を連ねている。明治期を通じて農地の兼併を進め,資本の蓄積を行なってきた大株主たちにとって,軽便鉄道は投資の対象というよりは,地域社会に対する奉仕的な還元行為としか考えられない場合が多かった。
 地域社会在住の大株主が自分の経営する事業に関する商品の輸送を円滑化し,間接的な利益を求める場合もある。しかし,軽便鉄道が特定の鉱工業と資本的に結びついた例は少なく,この種の鉄道が多くなるのは大正後期になってからである。岐阜県の東濃地方のように,陶磁器工業のような在来工業の経営者や商人が鉄道を計画した例もあるが,全国的にみれば,少数派と考えられる。
 第2のグループでは,主に地域社会から出て中央の政界・財界などに活躍した人物がしばしば大株主として名を連ねている。このグループは鉄道経営に直接関与することは少ないが,有名人を含み,監督官庁などへの運動や政界への働きかけに有効であった場合もある。
 第3のグループは沿線の地域社会と商取引きがあって,地域社会からの懇請あるいは強請によって出資をした人たちである。数的にも少ないし,経営にタッチすることもない。
 第4のグループは主に東京や大阪に在住する投資家で,明らかに利潤を目的として,軽便鉄道に投資した人々である。このグループの投資の動機は多岐にわたるが,比較的事例の多いものをあげると次のようなものがある。
 ひとつは軽便鉄道や軌道の建設計画にコンサルタント的な役割を果した人々で,大日本軌道を主宰した雨宮敬次郎とその後継者の雨宮亘,大阪の才賀商会を率いる才賀藤吉などに代表される。彼らは各地で軽便鉄道や軌道の経営にあたると同時に,鉄道車両や電動機その他の製造者ないし輸入者であって,軽便鉄道や軌道の建設計画に参画することによって,自からの製品の販路を策したともいえる。雨宮は主として蒸気鉄道,才賀は電気鉄道に関係しているが,とくに雨宮の事業は大規模で,軌道経営者,車輌メーカーとして,日本の局地的な鉄道の歴史に大きな足跡を記録した。
 別のグループはあまり鉄道事業に経験のない投資家で,しばしば投機家に変身して鉄道計画を画餅に帰せしめた。その多くは縁故を頼って訪れた地域社会の有力者の勧誘にのって投資を約束するのであるが,著名な社寺や観光地をめぐる鉄道では,むしろこの人々が積極的に計画を推進する場合もあった。しかし,計画が順調に進まない時には簡単に途中で脱退するし,極端な場合には,いったん買い入れたレールや車輛の価格が戦争などの影響で高騰すると,これを売却して利益を得ることを主張するのも彼らである。地域社会からみると,彼らの存在は利益にもなるが,同時に一歩誤れば計画全体を破綻させる危険をも内蔵していたといえよう。
 軽便鉄道は鉄道国有化以前の私設鉄道のように財閥その他の中央の資本家の投資は,若干の例外はあるが,ほとんどひきつけなかった。大都市近郊の鉄道では,鉄道資本家・鉄道経営者として成長するものもみられたが,地方の軽便鉄道や軌道はあまりにも小規模,かつ利益率が小さく,そこから鉄道資本家が育つ余地ははなはだ少ないものであった。
 すでに述べたように,地方における軽便鉄道の建設計画は,明治44-大正2年度(1911-13)が最盛期で,その後の免許件数は激減する。その理由は,第1次世界大戦の勃発によって,レールや機関車の輸入がとまり,鉄鋼製品一般の価格が高騰したこと,資本の需要が高まって,軽便鉄道のような利益率の低い産業に対する投資が敬遠されたことに求められるが,軽便鉄道自身の体質や軽便鉄道政策そのもののなかにも少なからざる要因を見出すことができる。
 その第1は,補助金の交付にもかかわらず,軽便鉄道の経営の苦しかったことがあげられる。貧しい地域社会の資本を集めてつくられる軽便鉄道では,建設予算を過小に見積もる傾向が強く,資本金を低めに査定する場合が多かった。いうまでもなく,株式募集のむずかしさを発起人たちが十分認識しているだけに,意識的あるいは無意識的に資本金を低く定めてしまうからである。また器材の価格高騰で当初の予算を超過することも珍しくなく,それを補うだけの資金の余裕はなかった。したがって,多くの軽便鉄道は当初から多額の借入金を余儀なくされ,開業後はその利息の支払いに追われたのである。多くの軽便鉄道企業の収支状況をみると,補助金の額が支払利息の額と同程度のものがしばしばみられる。運輸上の収支は多くの場合,いくらかの利益を計上できたが,これを大幅に上まわる利息の支払いによって,全体としては欠損となるものが多く,補助金の役割は正に利子補給にあったといっても過言ではない。配当は無配,もしくは優先株だけの配当が一般的で,地域社会が軽便鉄道に投じた資本は利潤はおろか,換金性も失ってしまった。一般の地域社会にとって,軽便鉄道とはいえ,鉄道を自力でつくるのは,やはり過重な負担だったのである。
 民間資本を動員した軽便鉄道と並行して,国有鉄道みずからが軽便鉄道の建設を始めたことも,地域社会の自力による鉄道建設熱にブレーキをかけたと思われる。もし,地域社会の住民が地元選出の帝国議会議員を通じて政治的に運動し,国有鉄道の軽便鉄道誘致に成功するならば,その地域社会は建設のための資金調達の苦労も,開業後の鉄道経営の苦心も経験することなく,ただ鉄道利用者としての利益だけを享受できるはずである。軽便鉄道の建設が次第に政府に依存する方向に向いていったのは,地域社会側からみれば当然の行動といわねばならないであろう。

おわりに

 大正11年(1922)4月,鉄道敷設法が全面的に改正されて,国有鉄道はその建設の主力を幹線鉄道から局地鉄道に転換することをはっきりと宣言する。それはすでに述べたように明治末期から大正期にかけて行なわれた軽便鉄道政策の矛盾からくる自然な成行きであり,全国の地方の地域社会の望んだ方向への「改善」であった。しかしながら,この新しい政策は幹線鉄道の改良を相対的に遅れさせることとなり,新しい鉄道問題をひきおこすこととなる。
 改正鉄道敷設法以後の鉄道建設の実態については,地方の地域社会の鉄道技術導入の問題とともに,後日まとめる予定である。