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明治初期のガラス工業の系譜

Author: 菊浦重雄
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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目 次

1 はじめに・・・・・・・・・・2
2 明治前の硝子工業・・・・・・・・・・3
 (1)硝子工業前史・・・・・・・・・・3
 (2)近代的硝子工業の移植とその技術移転・・・・・・・・・・6
3 明治期の東京・大阪の硝子工業・・・・・・・・・・8
 結 び・・・・・・・・・・14


1 はじめに

 雑貨産業として,すでに別稿の総括篇(『日本の経験』第4号)で眼鏡工業と釦工業の概要についてふれたので,本稿においては,主として幕末・明治以降のガラス工業(眼鏡)の動向について,東京・大阪のいわゆる都市型地場産業が,どのような過程で移植・定着したかについてふれてみたいと思う。産業分類上眼鏡レンズはガラス(硝子)製品に属し,単独な統計はもちろん,雑貨産業分野にも含まれているためと,さらに明治期においては軍事的・国家的要請に応える産業ではなく,他の雑貨産業,たとえばマッチ,石鹸,メリマス,ブラシなどのように幕末・明治初年海外から移植された同じ産業のごとく,わが国に導入されてから短期間に,輸出産業として外貨獲得産業の役割をもたなかったために,調査・統計・資料についても欠落している。したがって,この種の研究には大きな制約があり,さらに前述のガラス製品として一括され扱われるため,細部についてふれることが困難である。そこでまず表題のごとく,一応ガラス工業(眼鏡)として扱わざるをえないのである。もともとガラスの素材,とくに眼鏡レンズの素材の殆どが輸入に依存し,その素材の加工の結果が眼鏡レンズ,光学レンズとして使用されるため,すでに明治初年より「硝子薄板,硝子厚板,鍍銀硝子板,有色著色砂磨硝子板」などの素材名で輸入されている。一方輸出についてみると「日本貿易精覧」でガラス製品のもっとも早く記載されているのは明治17年(1884)の「その他硝子製品」4,776円で,明治35年に(1902)に硝子壜,コップが,明治38年に「眼鏡」が46,344円の輸出額となっている程度である。
 第1表は『明治工業史・化学工業篇1)』による明治前半の硝子類の輸入と輸出の推移であるが,これも化学工業の中の硝子類のみを抽出して表にしたものである。表の示すごとく圧倒的に輸入超過となっている。
 さて,わが国における硝子工業,ないし眼鏡工業に関する研究,ならびに文献についてふれておこう。まず前掲の工学会編『明治工業史・化学工業篇』(大正14年)第8章「窯業」部門で「硝子(397-453ページ)」である。つぎに日本ガラス工業史編集委員会編『日本ガラス工業史2)』(昭和25年)は第20章からなっていて,わが国硝子工業の全般的なことにふれられている。田村栄太郎著『日本工業文化史』(昭和18年)の「鉱物について」の中で「宝玉,硝子玉,数珠,硝子,鏡,眼鏡」があげられている。
第1表 明治前半の硝子類の輸入と輸出の推移
さらに『明治文化全集別巻,明治事物起原』(昭和44年)で硝子製造が取上げられている。このほかに眼鏡関係としては大坪指方著『眼鏡の歴史』同著『福井県眼鏡史』,『東京眼鏡レンズ史』さらに長岡博男著『日本の眼鏡』(昭和42年)などで,このほか東京市,大阪市などの大正・昭和初年の調査報告書,戦後の文献として中小企業・地場産業振興対策ならびに行政上の診断報告書などがあげられる。したがって,本稿はわが国の幕末・明治期を中心テーマとすることから,主として歴史的文献と資料を基礎とし,さらに大阪と東京という地域に絞ったことから,東京府・大阪府の限られた統計書を基礎資料とした。眼鏡レンズについての詳細はあらためて紹介することにしたい3)。

2 明治前の硝子工業(眼鏡産業)

(1)硝子工業前史
 まずはじめに硝子の用語についてのべることは,わが国の硝子の歴史を知る上で重要なことであり,また理解を早めることになる。今日使用されている「硝子」が常用語となったは明治維新後のことであって,公用語として通用したのは,明治9年(1876)の官営品川硝子製作所の設立にはじまるもので,それまでにいくたびかの変化がみられる。江戸時代まで広く使用された言葉には,瑠璃(ルリ)とか玻璃(バリ)で広く知られているもので,正倉院御物の中に「瑠璃杯・白瑠璃瓶・瑠璃壷」などがある。つぎに16世紀(天文年間)中葉にポルトガル船の渡来を契機に硝子を「ビードロ(vidro)」とよび,さらに「ギヤマン」の言葉も使用されているが,ビードロとギヤマンの使いわけは明確ではない。もともとギヤマン(diamant 金剛石)はオランダ語の変化したものとされ,同じ硝石製品の中でもビードロが普通の硝子製品に対して,ギヤマンは高級な硝石製品「ギヤマン彫り」を呼称していたものである。この両名称は明治初年,つまり硝子とよばれるまで使用されたといわれる4)。
 このように,西欧文化の導入は同時に硝石製品の移転,そして硝石製品の呼称もそれに伴って変化してきたものである。そして硝子については,その素材と製造技術とにちなんでつけられた名称である。すなわち,硝子は焔硝(硝石)を唯一の融剤として熔解し,製造することによるもので,この硝石より生れることによって製品化されることによる,いわゆる「硝石の子」すなわち「硝子」となるといわれる。また他の資料にも「瓦羅斯」と書いてガラスとよぶともいわれる。
 江戸時代のわが国での硝石製造に関する文献には,正徳3年(1713)の「和漢三才図会」があげられる。この書は江戸中期の大阪の寺島良安の著作であって,当時随一のエンサイクロペディアで,その内容は天文・地理・歴史・衣食住,さらに博物などと非常に広大なそして図解入り,解説つきのもので,硝子(びいどろ)と眼鏡(靉靆一あいたい,女加禰)の項がこまかに図解,解説されている。硝子(びいどろ)については「唐人之を称して波宇利伊(ぱうりい)という。俗に比伊止呂(びいどろ)という。蓋し蛮語か,按ずるに硝子(びいどろ)は乃ち玻璃か,本南蛮より出づ」と書きはじめられ,原料,製法,加工法,性質,用途の順となっており,最後にフラスコの説明までされている。
 また眼鏡については「百川学海云う,靉靆は西域の満利国より出づ,大銭の如く色は雲母の如し,老人の自力昏倦(くたびれ)て細書を辮ぜざれば此を以て目に掩えば,精神散らず筆画倍々(ますます)明かなり」として,近眼鏡・遠眼鏡・虫眼鏡・数眼鏡などの特徴と「試る法」が解説されている。この「和漢三才図会」におくれて享保17年(1732)に大阪で刊行された「萬金産業袋」(三宅也来著)は,さらにビードロ製法を精細にのべたものである。たとえばビードロの調合法,熔かし方,形成の方法,色ガラスの作り方などが,順序ただしくこまかに解説されている。一方,西川如見著とされる『長崎夜話草』(享保5年)であるが,長崎に初めて外国船の渡来したのは元亀元年(1570)であるが,長崎はその翌年にはポルトガル船の貿易港,そして鎖国を契機としてオランダ商船による唯一の西欧文化の窓口となった。こうした西欧文明・文化の接点であった長崎は,西欧からの刺激も多く,また文物諸制度の導入にとって,最も恵まれた都市であっただけに,長崎夜話草の記述も実に多彩であり,硝子,眼鏡についての知識も直接的である。まず眼鏡細工,硝子(びいどろ),珠数(じゅず),玉細工,造珊瑚珠(つくりさんごじゅ)の5つの種類からなっている。
 以上のほかに,長崎を中心として3都(江戸,京,大阪)そして諸雄藩に蘭学の普及発展に伴って,西洋医学と西洋の近代科学の導入は,硝子製造の文献とその技術導入の契機となった。たとえば大槻玄澤は,江戸中期(天明~寛政,1780~1800)の代表的な蘭学者であり,西洋医学者であるが,彼とその門下生有馬元晁の記述である「蘭説辨惑(らんせつべんあく)」にも硝子諸器具の説明が加えられている。もっとも,西洋医学にとって硝子器物は医術・薬品収納上欠くことのできないものであった。医学のみでなく,西欧の物理学,天文学そして西欧の兵学などと江戸後期には多くの蘭学者が洋学全般について深い知識と関心をよせたことはいうまでもない。天保8年(1837),わが国最初の体系的化学書として広く知られるものは,宇田川榕庵の『舎密開宗(せいみかいそ)」である。その中にも硝子製法があげられている。幕末の蘭学者であり洋式兵法の研究者,そして理化学・医学をも修めた佐久間象山(1811-64)はみずから硝子製造を行なっている。
 わが国の硝子に関する知識,そして技術は多くの蘭学者,医学書ないし西洋の諸学問の導入を通じてすでに幕末に広く紹介され,実験されてきたのである。幕末から明治初年にかけてのわが国硝子工業の技術の伝播とその系譜を図式したのが第1図であって,それはまずなによりも,長崎を起点とし大阪へ,そして江戸へ,また美濃へ,しかも幕末の雄藩,とくに薩摩藩の島津斉彬は広く知られるごとく,西洋の理化学の重要性をいち早く知り,積極的に移植・導入を試みた代表的人物である。図に示されるごとく江戸の加賀屋久兵衛の弟子である四本亀次郎をして硝子の製造にあたっているほどである。
第1図 明治初期までの硝子工業の技術伝播の系譜

(2)近代的硝子工業の移植とその技術移転
 すでに,前項で幕末の硝子工業の知識・技術導入についてふれたが,本格的な西洋技術と機械の導入,そして活動の開始は明治初期,つまり明治6年(1873)に東京府下品川に,当時太政大臣三條実美の家臣村井三四之助,同丹羽正庸の発起による「興業社」による硝子製造所の創立に求められる,工場の建設と機械設備をはじめ,ルツボ用の粘土から窯の耐火煉瓦にいたるすべてをイギリスから輸入し,技術指導についても,イギリス人技師トーマス・ウォルトンを招くなど,まさに西洋式硝子製造を開始したのである。製造職工は東京・大阪の硝子職人(ギヤマン職人)を高給で雇ったが,西洋の近代的知識・技術になれず,その上製造する「板硝子」についての技術をもたず,完全な製品をみることなく,明治9年(1876)に工部省へ工場全部買上げられることになった。同年4月1日,工部省製作寮品川硝子製作所として出発,やがて明治17年2月に同製作所は,西村勝三の手に移り,民営硝子製作所と移行するのであるが,明治10年1月,官制改正で品川工作局となる。最初に着手された製品は舷燈用の紅色ガラスであって,その技術に当ったのは藤山種広である。
 この藤山種広は,硝子製造に関する知識と技術を西欧で直接学び,しかも,かっては肥前の鍋島藩経営の硝石工場での経験,さらに長崎での経験をつみ重ねた人物である。彼は西欧直輸入の技術とは,明治6年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会(大隈重信を総裁とし佐野常民が副総裁)の随員として渡欧,翌年帰国するが,佐野常民の意向に従い,西欧の硝子製造技術を研究,修得し,その技術を移植・導入した人物である。これはただ硝子製造に限らず印刷技術・鉛筆製造などの近代化・工業化にも大きく貢献したことは特記すべきことであろう。
 しかし,いうまでもなく藤山種広のみが硝石製造を習得した唯一の人物ではない。同じ随員の一人として参加した朝倉松五郎の業績を無視することはできない。つまり硝石製造の内に,朝倉松五郎は眼鏡レンズ製造技術とモザイクの技術とを修得し,わが国眼鏡レンズ工業の近代化・西欧化に重要な役割を果したのである。詳細については別稿であらためてのべることにしたのでここでは割愛する。
 品川硝子製作所の民営移管について「工部省沿革報告(『明治前期財政経済史料集成、第17巻の1)」にふれられているので,ここでは割愛する5)。東京の品川硝子製作所が,西欧の知識と技術を移転し,わが国近代的硝石工業の先駆的役割を果したことはいうまでもないが,一方,大阪における伊藤契信の日本硝子会社が,大阪を中心とした関西硝子製造の近代化に果した意義はまた大きい。後述する大阪の硝子工業の勃興と隆盛の基礎を作り,多くの技術者を育てたのも彼の業績にほかならない。明治8年(1875),彼が32歳で大阪府西成郡川崎村字天満山に硝子工場を作り,57歳までの25年問,ただ一途に硝子製造に専念し,技術開発・研究そして技術者養成に尽力し,今日の大阪の硝子工業の礎石となったといっても過言ではない。しかしこの日本硝子会社もその技術の源泉は品川硝子製作所によるものである。

3 明治期の東京・大阪の硝子工業

 前に図示したごとく,わが国の硝子工業はその多くが東京・大阪に生成し,発達している。そこで明治期前半を中心にふれてみたいと思う。前にものべたところであるが,硝子製品は,日用雑貨的で生活必需品的製品が多く,産業分類上非常に困難なものもある。とくに装飾的商品,高級品から実用品まで種々雑多である。そこで第2表に,明治から大正にかけての硝子製品の種類と,その製品別の推移をみよう。
第2表 明治・大正期ガラス製品別生産状況
 まず,明治38年(1905)で最も生産高の多いのは壜で全体の50%,つぎに舶来模造品および食器,ホヤ類の順となって,今日の硝子製品の大宗を示す板ガラスはわずかに4.4%で,板ガラスが生産面でウエイトをたかめるのは大正の終りである。明治,大正期の硝子製品の大部分は壜と食器類である。また第3表は東京府の大正3年(1914)の製品の種類と生産額の比率であるが,ここでは食器の28%が最も高く,つぎに電球の14%,眼鏡レンズ各種の6.8%,ビール罎の6.6%,そして化粧用の壜と圧搾食器がいずれも6.1%となっている。東京の大正初期での板ガラスが統計面にあらわれないのは,それまで生産されていなかったのかどうか疑問な点であるが,第4表でみる限り,明治38年(1905)
第3表 大正5年東京府の硝子製品の種類とその生産額
第4表 明治・大正期のガラス工業とその生産額
でわずかに9万5,000円程度であり,生産のわずか4.4%である。10万台に乗るのは明治末であり,大正5年において56万円程度にとどまっている。
 さて,明治20年代における東京・大阪の硝子工場の統計をもとにあげたのが第5表以下である。大阪の硝子工場の創業は宝暦5年(1755)である(第1図)が,第6表の文政2年5月(1820),渡辺朝吉の硝子工場の系譜になるものかどうか明確ではない。明治以降,洋式な近代的硝子工場の設立と,その後の大阪の硝子工業に重要な役割を果したのは,明治8年(1875)の伊藤契信の工場で,のち日本硝子会社となり発展の途が開かれた。しかし,その後伊藤契信が退いてから,明治23年(1890)には経営の業績もふるわずに解散を余儀なくされたのである6)。そしてその後島田孫市に買収され経営されるにいたった7)。第6表の製硝合資会社は資本金3万円,職工155人の大規模工場であるが,その内容については不明で,これが島田孫市の経営する工場であるのか明確ではない。『日本ガラス工業史』による同工場名の「製硝合資会社」は,駒井庄太郎の経営となっており,創業年月も明治24年5月となり,製造品種は「石笠,押型器」となっている。しかし第6表の「製硝合資会社」の工場の所在地からみると「西成郡川崎村」の伊藤契信,その後の島田孫市経営の硝子工場の住所と一致する。第6表の9工場の中には島田工場はみあたらず,第2位の職工数60人の「月岡幸次郎」工場は西成郡難波村にあり,川崎村の工場は渡辺朝吉経営の幕末からの経営によるもののみである。大阪における明治前期の硝子工場は,増田硝子製造所と渡辺朝吉工場を除いて,いずれも当時のわが国の工場規模に対比するとその規模は大きい8)。しかし,「大阪の近代化された硝子工場ではあったが,経営意の如くならず遂に解散の已むなきに至った。……恐らく当時は販売未だ狭小にしてかくの如き大規模経営(日本硝子会社も川崎硝子製造所も共に手工的工場工業組織のものであったと推察せられる)の存立を許さなかったからであろう9)」ということである。
 一方,東京についてみると,明治20年(1887)の東京府統計書には,硝子工場としては掲載されておらず,第7表のごとく眼鏡工場のみとなっている。工場の立地も1工場を除いて都市部に属し,すでに1万円以上の生産額に達しており,眼鏡の卸売業者も317店,小売店も300店を数えるにいたっている。第8表は大阪と同様に明治26年(1893)の東京府統計書によるが,大阪の統計のように資本金,職工数は欄はあっても記入されておらず,生産高と生産額のみ記入されている。
第5表 明治16年大阪の硝子工場
第6表 明治26年大阪の硝子工場
 まず,明治6年(1873)創業の品川硝子(のちに官営品川硝子製作所,さらに民営化され西村勝三経営の品川硝子製作所)であるが,生産額はわずかに4,000円となっている。いわゆる硝子生産である。田中工場は硝子ビンの生産で約5万円の生産額を占め,東京の他の工場をはるかに抜いている。東京の硝子工場の場合,品川硝子製作所を除いて,すべてが本所区に集中しており,しかもすべてが硝子ビンとホヤ(電球)に集中していることを特徴としている。
 東京の明治20年代までの硝子工場の詳細については明確にできないが,明治18年10月(1885)東京商工会調査の「東京府下工業概況」によって硝子関係をあげてみよう。
第7表 明治20年東京の眼鏡工場と卸・小売店数
第8表 明治26年東京府ガラス工場
まず,舷燈製造について「明治五年舷燈規則ノ領布アリシ頃ハ内地ニ於テ之ヲ製作スル者ナク専ラ外国輸入品ノ供給ヲ仰キシカ同九年舷燈製造及販売規則ノ布達アリシ頃ヨリ漸ク此製造ニ従事スル者起リ爾来年々盛況ヲ呈ハシタリ但本業ハ後来海運事業ノ進歩スルニ随ヒ漸次隆盛ヲ趨クヘケン殊ニ近年沿海地方ニ於テハ舷燈監査法ヲ設ケ定時若クハ臨時ニ委員ヲ派シテ舷燈製法ノ適否其供給ノ過不足ヲ監査セシメラルル趣ナレバ将来著シキ盛衰ナキモ一時多少ノ盛況ヲ呈ハスベキ見込ナリ………前表(省略)中明治十四年以来全ク製造高無ク随テ販売高ノ頓ニ其数ヲ減シタル者ハ同十一十二年頃舷燈ノ供給略ボ諸船舶ニ具ハルカ為メニシテ本業ノ衰退シタルニ非ズト云フ」とのべられている。
 次に鏡であるが「開港以前ニハ圓形ノ鏡一般ニ流行シ其製造頗ル盛ンナリシガ其後硝子鏡ノ輸入アリシヨリ忽ニ衰兆ヲ来シ維新後ニ至テハ殆ド廃業ノ勢トナレリ但明治四年頃ヨリ硝子鏡ヲ製造スル者アリシガ其製品ハ大抵小形ニ止リ方一尺以上ノ大鏡ニ至テハ鏡板ヲ海外ニ取寄セテ木縁又ハ金縁ヲ付ケテ販売スルニ過ギサリシ而シテ其景況ハ明治十五年頃マデハ稍盛ンナリシモ近年一般ノ不景気ニ連レテ幾分衰兆ヲ来シタリ然レトモ此後ハ職工ノ技倆追々上進スルニ随ヒ漸ク進歩スベキ見込ナリ」とある。
 硝子製造については「数十年前ヨリ之ヲ製造シ来レトモ其盛況ヲ呈ハスニ至リタルハ開港以来ナリトス就中明治六・七年頃ヨリ洋燈,薬壜其他各種ノ器物ヲ製シ其技倆モ漸ク熟達シテ一時隆盛ヲ極メタルガ爾来一般ノ不景気ニ連レテ稍衰兆ヲ来シタリ但我国ノ製品ハ舶来品ヨリ稍脆弱ナルガ故ニ販売未タ広カラスト錐トモ此後追々良品ヲ製出スルニ至ラバ随テ盛況ヲ来スベキ見込ナリ」とある。
 最後に眼鏡類であるが「此工業ハ維新後一層盛況ヲ呈ハセリ而シテ近来老少トモ之ヲ使用スルノ慣習ヲ生シタルハ此後モ益盛大ニ進ムヘキ見込ナリ維新前後ノ製造高等左ノ如シ,但シ職工現員ハ凡五百人位ナリト云フ
統計比較
 
 以上は硝子製品製造の状況を紹介したものである。東京において明治10年代から明治20年代にかけての硝子製造は大阪よりは低い。明治年間の大阪と東京の生産額の推移と両府の比較をみると大阪に対して東京は3分の1となっており,圧倒的に大阪の地位が高い。
第9表 明治期の大阪府と東京府の硝子製品生産額の比較
しかも明治後半にという制約条件はあるがその成長率も大阪府が東京府より高い。

4 結 び

 わが国の明治期の硝子工業は,すでに江戸時代の硝子製造の技術をうけづいてはいるものの,その大部分が明治維新以降海外からの移植・導入された洋式な近代化された技術を基盤として発展し,しかも,官営ならびに模範工場の直接的影響を受けず,その大部分が民営=民間資本と民間人によって,その発展がなされている。さらに官営払下げの品川硝子製造所に刺激されながら,また技術的影響をうけながら,東京ではなく,大阪を中心として大きく発展している。とくにその多くの工場が,はじめから大規模な経営形態をとっている。その経営と技術的中核が多く武士階級によってになわれている10)。さらに明治期の硝子工業の発展は,明治17年(1884)に最初の輸出がみられたが,明治36年(1903)に急速な上昇とさらに第1次大戦を契機として輸出は急激な上昇をみせている11)。そしてその輸出品の内容をみると,硝子製品の器物類の製品を特徴としている。一方輸入においては板硝子類が中心となっている12)。

1)工学会編『明治工業史・化学工業篇』47-49ページ。
2)この執筆は杉江重政氏であって,大正8年京都大学理学部化学科卒業,農商務省大阪工業試験所,昭和9年(1934)徳永板硝子製造株式会社試験所長,昭和16年(1941)より日本板硝子株式会社試験所長,ガラスの研究者として知られる人である。
3)眼鏡産業の歴史的分析と解明については,東京にもっとも近代的,西欧技術を直接学び,さらに西欧の進歩した機器を購入し持ち帰った朝倉松五郎であるが,彼については,東洋大学経済研究年報に「西欧眼鏡技術の導入と朝倉松五郎について」(仮題)発表の予定である。
4)『日本ガラス工業史』100ページ。
5)西村勝三へ払下げられた官営品川硝子製造所はわが国最初の近代的技術と設備とをととのえすべての機器が輸入品に依存している。
6)伊藤契信の手による大阪における最初の洋式近代的硝子工場についてはすでにふれたが,伊藤契信は明治21年(1888)6月に経営上のことから意見の対立を機に日本硝子会社を去った。そして彼に共鳴した人々71名をひきいて同年8月に同じ西成郡川崎村に川崎硝子製造所を創設し,大小の窯を築き器具一切を新設し,71名の職工を雇傭する規模の工場を最初から創設したために採算とれずこれも解散せざるを得なかった。そして彼はその後明治27年(1894)に大阪を離れ,東京で三宅豹三,熊谷孫六郎,若宮鉱吉らの援助をうけて芝の田町に資本金50万円のまさに大規模な東京硝子株式会社を設立,そして舷灯・電球その他のガラス器具の製造に取組んだもののこれもわずか3年にして功成らず解散するにいたった。そして彼は一人で自営する方向をたて佃島に工場設立を計画中,明治33年(1900)に病のためにこの世を去る。
 一方伊藤契信が多数の職工を引連れ去られた日本硝子会社も明治23年(1890)に経営不振によって解散しており,その会社はやはり大阪で硝子工場の経営にあたっていた,島田孫市(日本硝子会社の元職長)にその後買収されている。(明治工業史化学工業篇』419-22ページ)。伊藤契信は多くの硝子工場に関係し,しかもそのほとんどが失敗に終り終始不遇の状態におかれたが,彼の生涯は硝子製造にあり,さらに技術者の養成とにあった。彼の教えを受け訓練された人々は島田孫市,徳永玉吉,篠巳之助,吉田岩吉,鈴木福太郎,北内役次郎,松田松次郎,高田福松などで,優秀な技術はいずれも伊藤契信の努力にほかならないと『日本ガラス工業史』121-22ページはのべている。
7)島田孫市については明治11年(1878)に伝習生として東京の工務省品川工作分局(品川硝子製造所)に入所して,硝子製造法のスピードアップに関する研究をなし,明治16年(1883)6月大阪の前記日本硝子会社の創立期に伊藤契信の招きで入社し,在職5年に会社を退き,独立し,前記日本硝子会社の業績不振そして解散によってこの会社を買収している。彼の研究そして努力は当時の硝子製品の大部分が食器,灯火用品であったのに対し板硝子製造に力を入れ,とくに建築様式の変化に対応するための研究と製品化をこころみた。そして,明治35年(1902)にはこの研究も完了,さらに海外の製品研究のために渡航し,帰国後は岩崎俊弥と提携して島田硝子製造合資会社を創立し,しかも板ガラスの製造に専念したが,両者の意見対立によって岩崎は尼ケ崎に板硝子専門の旭硝子株式会社を創設した。島田孫市は伊藤契信と同様に大阪の硝子工業の発達に大きな功績をのこした人物である(堀江保蔵「明治初期の大阪の工業家『経済史研究』13-1」昭和10年(1935)49-50ページ。
8)山口和雄『明治前期経済の分析』東大出版会101ページ。
「硝子製造業や石灰製造業のごとく近代工業化の早いものはもちろんその規模が属する部門の平均より大である」
9)堀江保蔵「前掲論文」49ページ。
10)『明治工業史化学工業篇』421ページ。「十五年一月に至り大垣の友人桐山純孝数千金を送り且つ伝習生として士族の少年五十余名を上阪せしむるに会へり。之に由り稍々準備も整ひしかば洋風の工場を新築せり」とある。
11)『日本ガラス工業史』490-91ページ。
12)『明治工業史化学工業篇』453ページ。