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波田堰における水利構造

Author: 堀井健三
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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目次

1 波田堰の歴史・・・・・・・・・・2
2 用水管理と水配人制度・・・・・・・・・・7
3 水 権・・・・・・・・・・13
4 水利費・・・・・・・・・・17
おわりに・・・・・・・・・・19


1 波田堰の歴史

 明治7年長野県庁から長野県東筑摩郡波田村(当時は波多村)の地主波多腰六左に引継がれ完成された波田堰は現在,波田村下原に拡がる285ヘクタールの見事な水田を潤している。しかし江戸時代はこの辺一帯は畑や入会地(草刈り場)で稲作地はごく僅かであったという。それは梓川や隣接水系から水を引くことが当時は不可能であったからである。したがって波田村の村民の食生活は貧しく,粟や稗を中心とした雑穀が中心であったと『波田堰百年史』の冒頭に記されている。こうした畑作地や草刈り場を水田に転換したいという村民の望みは当然、古くからあった。たとえば,村民はすでに寛政年間(1789~1800年)に新堰開削を試みているし,波多腰六左の曽租父六左衛門は実際に村民のなかから有志を募り,新堰の完成に必要な資金の計算を行なっている。また嘉永年間(1848~53年)と万延元年(1860年)にも波田堰開削が計画されている。しかし,これら計画はいずれも実施するに至らず失敗している。
 堰開削の計画と失敗に関する詳しい歴史は前記の『百年史』にゆずるが,ここでは波田堰完成までの歴史を時期的に区分し,本論に進むための前段としたい。
 波田堰の歴史は大きく分けてつぎの三つに区分できるであろう。
 第一期は明治2年に波多腰六左が波田堰開削事業に着手するまでの創始期である。前述のようにこの時期の新堰開削計画はいずれも挫折するが,その原因としては資金調達と下流他村の関係堰との取水調整,充分な水量確保の二つをあげることができる。これら諸問題はその後の波田堰の歴史のなかで近世的水利秩序から脱却するための重要な課題として現われることになる。
 第二期は明治2年に波多腰六左が堰開削の準備運動を開始する時から堰が明治7年長野県から六左の個人請負という形で波田村民営となるまでの時期である。六左は当時松本藩に働きかけ堰開削事業に乗りだすよう請願するが,最大の問題はいま触れた下流域他村,特に天領和田8ヵ村との取水調整をどう進めるかにあった。領主松本藩を動かして堰開削に着工させるに当り,藩は波田村が独自に水源を同じくする和田8ヵ村の承諾を得ることを前提条件としたのである。これは藩が率先して事業を始めて天領和田村との間に問題を起し,幕府との関係を悪化させたくないとの配慮があったためと推測される。折衝の細かい経過は略すが,波多腰六左は梓川流域の水害流失耕地面積を調べ,その耕地が受益していた用水量を新堰の水源にあてるという主張を前面に押し出して下流関係村と調整を進め,苦労の末堰開削の許可を得るのである。しかし波田堰は同時に梓川流域一帯が渇水のときは無条件に波田堰□を閉じるという厳しい取水条件をのむことになった。だが,こうして開始された堰開削事業は5年にして財政的行詰りと堰の維持・管理の困難から無償下付の形で波田村民営移管が実現するのである。藩は明治維新からの廃藩置県によって堰藩営のうま味が消え,民営移管に踏切ることになったと考えられる。
 波多腰六左は民営に移すに当って堰の完成は六左が私財を投じて行ない,その後は「畑を田にする者から1反10円の水代を出させ」,それでも堰工事費を償えない分は別に備金でもって万般取計らいたいと申し出た。村民はこれを受入れることになったが,堰開削事業をこうした村営か,六左個人の請負い事業か不明確な形のまま進めたため,のちに六左の10円徴収をめぐって訴訟事件に発展するのである。
 第三期は明治7年堰名も下原新堰から波田堰に変更されてから,明治16年波多腰六左個人の手から堰の経営が離れ,正式に村営に移転するまでの時期である。この時期は六左がもっとも活躍した時期で,上下波田村分水規定,堰口の移転,渇水時の堰口閉塞問題の除却,黒川堰との争い等,堰の完成と維持・管理組織の整備に多くの努力を払っている。
 波田堰の整備とともに下原の畑地はしだいに水田に転換され,開田された。水田の面積がこの時期に着実に増加している様子は第1表の通りである。明治16年には町村合併により三溝部落が波多村に入り三溝の耕地15町が新堰を利用できるようになった。三溝部落はこの時波田村に堰加入金として300円を支払っている。波田堰の水田は明治15年には197町に達し,昭和初期までほどんど面積は増加せず,昭和8年の耕地整理により207町余と僅かに増加したにすぎない。
 このように明治15年までは年々かなりの面積の畑が田に換えられていったが,六左は明治16年戸長役場に堰の維持管理権を移すまでに2万3千円の私財を工事費として費している。
第1表
しかし波田堰は六左から村へ移転される直前に不幸な事件が起るのである。それが,前に述べた村民の六左に対する訴訟事件である。訴訟の理由は六左が新堰開削事業関係の経理をいっさい村民に見せることを拒んだからだといわれる。堰の維持・管理における六左の独断専行と一反につき10円の水代の徴収が重り合い六左の堰私物化との感じを村民に強く与えたものと思われる。訴訟者は六左の水代請求の不当性を訴えたが,裁判の結果は松本地方裁判所と東京上等裁判所は共に六左に勝訴の判決を下している。理由は堰世話係として任命された六左は堰の維持・管理に当り個人的な請負的性格をもち,村事業の代行者ではないと裁判所が判断したことによる。したがって堰配水の受益者から受取る10円の水代の用途について誰も追求すべき権利を保有せず,六左も経理を公けにする義務がないと裁判所は判断したのである。この事件の根因は堰の受け手が形式的には上下波田村でありながら,実際には六左個人が請負う恰好になり私財を投じて完成させなければならなかった点にある。堰の移管を村全体で受理することが財政的理由からできなかったのである。
 さて,明治16年2月1日堰世話掛(担当人のこと)波多腰六左からいっさいを引受けた武居波田村戸長はすぐ村会を開きこれを承認し,同時に六左提案になる波田堰維持法草案を付議,これも同時に承認されている。
 明治16年に波田堰が実際に村営になるまでの期間は波田堰の歴史の前半に相当する。この間(1790~1884年)約100年の歴史であるが,以後,波田堰後半の歴史もすでに90年になんなんとするが,この期間は前半と比べて資料に乏しく詳細な歴史は不明確な部分が多い。しかしこの期間の波田堰の発展の歩みを見ると,もっとも大きな変化の一つは大正10年の波田堰水利組合の設立であろう。設立と同時に村財政の特別会計でそれまで運営されてきた波田堰も会計が独立することになった。当時の村会議事録をみると(大正10年11月9日)「波田堰管理ヲ水利組合ニ変更ノ件―本村波多堰管理ハ時勢ノ進展ニ伴ヒ水利組合ヲ設ケ之ヲ管理スルノ必要ヲ認ムルニヨリ水利組合ヲ組織スルモノトス」と記されている。波田堰水利組合設立の背景については必ずしも明らかにないが,村会議事録に「時勢ノ進展ニ伴ヒ」とあるからおそらく梓川の農業水利改良事業が大正10年に日程にのぼり始めたことと関係しているものと推察される。しかし,実際に波田堰水利組合が設立されたことにより,会計の村財政からの独立のほかに堰の維持・管理組織がどのような変化を経験したのかは関係資料が欠落しているため不明である。
 後半期における2番目の出来事は,昭和8年の波田堰耕地整理組合の誕生と,組合による波田堰改修事業の実施である。波田堰改修事業の計画を波田村自身が実施せず,耕地整理組合によって別途着工されている背景としてはつぎのような事情がある。大正10年に初めて工事の計画化が日程にのぼるようになった梓川農業水利改良事業計画は,和田堰の横車で迂余曲折ののち昭和2年波田村役場に事務所を置いてやっと着手されるに至るが,波田堰は右の事業計画に含まれていなかった。村当局と波田堰土木委員会は,そこで別途県費の補助を受けて波田堰の改修工事を行なうことを計画し,県庁に認可を申請したのである。しかしこの申請は「開田社」を建てた中野マキの政友会と,「水神社」を建立した波多野マキの民政党の二つの政治グループの対立によって,村を二分していた村営上水道工事事件にまき込まれ,結局許可されないことになった。だが波田堰改修工事の必要性は県庁によって認められ,村営事業ではなく耕地整理組合を通じ組合事業として独立に行なうという形で認可されることになったのである。
 波田堰は開削以来,幹支線水路の漏水が多く,流末への通水は極端に悪く,旱害に悩む切上田が多かった。しかしこの波田堰改修工事により1万9千円で用水幹線が改修され,場所によっては暗渠も施工されたため,潅概水が末端まで引用されるようになり,旱害切上田の水田化と畑の開田申請者が増え,水田耕地面積も207町5反8畝余と増加したのである。
 その後,昭和12年には中央電気株式会社(中電)が赤松に発電所を設けることになり,波田堰の取入口が変更されることになった。中電は発電所の建設に当り,梓川に堰堤を築いて取水を行なう必要から梓川水利組合および波田村と協定を結んでいる。この協定書のなかで重要なことは,波田堰の取水口が従来の場所から中電沈砂池に変更されること,取入水量を最高荒塊時の77個とすること,渇水時においても波多堰は分水,番水を行ない閉塞しなくてもよくなったこと,および梓川水利組合連合に加入することの四つである。この四つの規約のうち,もっとも注意をひくのは梓川水利組合連合への加入である。波田堰はこの加入により他村堰と同じように分水,番水制度に参加することになり,積年の通幣であった渇水時の取水口閉塞という近世的水利秩序から解放されることになったことである。しかしこの工事は,事情は明らかではないが,実際には昭和16年から昭和電工によって行なわれている。戦中戦後の困難ななかでこの工事は難航し,波田堰はかえってこの時期は荒廃するに至っている。昭和18年の波田堰土木委員事業報告書は当時の模様をつぎのように書いている。
 昭和18年ハ波田堰関係地区全般ニ要水ノ保水極メテ悪ク相定ノ施設ヲ以テ極力揚水セルモ潅概水十分ナラズ,タメニー般ニ被害アリ収穫著シク減少セルハ時局下主要食糧生産確保上甚ダ遺憾トスル所ナリ。
 工事モ必要物資ノ入手意ノ如クナラザルタメ施行出来ズニ唯合掌個立護岸小破修繕ノミニ留メタリ。然シ共3月末迄ニハ第2次食糧増産県費補助ヲ得テ護岸改修工事施行ノ計画ニテ目下設計中ナリ。
 戦時中の改修工事の困難な有様をしのばせる報告である。工事は昭和21年5月に一応復旧計画を完成させ,その年の田植に間に合せるのがやっとであったという。戦後の波田堰復旧工事はその後も続き昭和25年にやっと戦前の旧状に復したといわれる。
 戦後における波田堰のもっとも大きな変化の一つは,昭和24年国会で土地改良法が制定された後同26年4月に波田堰土地改良区が設立,認可されたことである。同年初代理事長波多腰節雄氏が選出され,波田堰は村の会計管理から独立して土地改良区が運営することになったのである。
 その後,波田堰は用水路の改修,受益地域内の農道の改修等に順調な発展を示すが,昭和43年に第4代理事長中野勉氏のときに波田堰地区259ヘクタールは30アール区画と用排水路兼用を軸とした県営圃場整備事業に着工し,翌47年には総額4億5千万円で完成している。この結果,波田堰の水田総面積は285ヘクタールに増加したばかりでなく,これまで火山灰土壌のため保水効果が悪く早魃にも悩まされてきた水路はこの整備事業によってやっと長年の幣害が取除されることになったのである。
 また,昭和46年には,東京電力梓川ダム工事の完成によって梓川流域の諸堰の取水口は上海渡分水口に移されることになり,同時に黒川堰にも梓川の水が流れるようになった。波多腰六左が明治7年に着工して以来,約100年の年月を経てようやく用水不足による争いから解放され,今日の波田堰が姿を現わすことになったのである。

2 用水管理と水配人制度

 波田堰は当初から用水不足のため各圃場に水を公平に配分する水配掛りが必要であった。最初,明治16年に波田堰が村営になったとき波多腰六左が提案し,採用された波田堰維持法草案第4章の「役員配置及び給与法」には堰担当人1名,同副4名が5年ごとの任期で交替し,担当人は堰内でもっとも多く耕地を持つ部落から出すことと定められている。これが用水管理担当人の人選方法を規定した最初の制度である。その後,明治38年波田堰関係の予算は波田堰土木費として村の特別会計で運用されるようになった。また一般の土木委員会とは別個に堰の土木委員会が設置されることになり,役員も正副担当人制が改正されて波田堰土木委員として村会議員より4人,また民間より7~8名の水見人が村会で任命され,堰の維持・管理の業務を行うようになった。当時はカン役と呼ばれた無償奉仕労働で民間選出の7~8名が中心となり日常の維持管理業務が行なわれていたが,これが現在の水見人または水配人の原型である。
 その後,大正11年4月18日の村会議事録には波田堰土木委員を4名から5名に増加することが定められている。土木委員の数はその後も年によって1~2名の変動はあったが大体4~7人の間である。また波田堰掛下原の水見人監督者(水配人のことと思われる)が新らたにこの年選挙で新設されることになったが,これは下原の水見人の選定をめぐって堰内でかなり問題が深刻化していたためと思われる。たとえば大正12年の村会議事録をみると,
 協 議 留
 1.波田村堰掛下原水見人選定ニ関シ左記ノ通リ協議決定ス
 記
 1.波田堰掛下原水見人ハ指名選定トシ本年ヨリ之ヲ執行スルモノトス。但シ,水見人ノ成績ニヨリ其選定方法変更スル事モアルモノトス。
 右,協議決定ス。
 大正12年3月23日
 東筑摩郡波田村長代理助役浅田沖江 波田堰土木委員 百頼覚三郎,太田琴太郎,中野慶一郎,大月作次郎,斉藤綱三郎 とある。
 当時は波田堰の用水量の絶対的不足から耕作者個人の水争いが絶えず,夜になると圃場に出かけては水見人に相談なく勝手に水を引き,水路に水がないときは他人の圃場の取水口をはずすことも日常茶飯事であったという。水見人もこうした事情を斟酌して自分の部落の者の圃場に手心を加えたり,祝儀をねだったりして,水見人では配水の統制がとれなかった。これについては『百年史』に記載されている水配人大月元衛の手記(昭和2年)に詳しくのべられている。右記の大正12年の協議留の内容は恐らくこのような水見人の行為を規定するために設置されたのであろう。なお,協議留には水見人監督者という言葉が用いられているが,大月元衛の手記には水配人という言葉が用いられていることから昭和2年当時はすでに水配人の制度ができいたと推則される。たとえば手記のなかには水配人(2人)が水見人(7人)を監督する立場にあり,公平な配水に苦労するありさまがよく描かれている。またこの手記にはその他重要なことが2,3述べられている。
 第一は水見人は選挙によって選ばれたという記述のあることである。先に述べたように,大正12年には水見人はまだ村会の選定によって定められていたのが,昭和2年にはすでに村民の選挙(部落ごとの選挙と思われる)による任命制度に変っているのである。この水見人は自分が見廻り配水する田を割当てられていたが,用水量の不足から自分の部落の圃場に配水を優先する傾向がやはり強かったようである。そもそも水見人を村会の選定から村民の選挙に切変えたのは村民に水見人を自分で選んだという自覚を持たせ,水見人の配水管理に従うようにさせ,水争いを防ぐ意図があったと思われる。大月元衛氏の手記はそれでも配水をめぐるトラブルが絶えなかった村内での模様を如実に描いている。
 もう一つこの手記にみられる重要なことは,この時期に水見人の配水システムが掛廻し方式から番水方式に変ったことを示唆していることである。大月元衛はこうした掛廻し方式下におけるトラブルを解決するために登用されたもので,彼は掛廻しから番水方式に切替え,水見人の権限を強めたのである。しかし水田面積に比して用水量が絶対的に不足する時期にあっては,掛廻しから番水方式に変えても,耕作者の不満を全面的に鎮静することはむずかしかったのである。当時はまだ公平な配水管理が困難であり,波田堰内の耕作者間または部落間の争いを抑制すべく水配人の責任がいかに重かったかがわかる。
 昭和26年に波田堰土地改良が設立されるに及び,波田堰土木委員は,自然と消滅した。以後は改良区の水配人が堰の配水管理業務に従事することになる。水見人制度がいつ廃止され,水配人制度に改正されたかは確かめることはできなかったが,この波田堰土地改良区の設立が契機になったと推則して間違いないと思われる。土地改良区設立後の配水システムについては,現場業務に携わった水配人や改良区の理事がまだ現存しているため聞取り調査によりかなりくわしい事が明らかになった。以下,その聞取りの内容を整理してみる。
 水配人は現在4人で構成されているが,これは昭和46年県営圃場整備事業が完成されてからで,それ以前は8人の水配人によって番水が行なわれていた。つまり土地改良区設立から圃場整備事業完成までの(昭和26年~46年)20年間は8人の水配人が現場の配水業務を行なっていたことになる。この20年間は前の時代に比較して水の不足も少なくなり,水配人の配水管理は多少楽になったが,それでも波田堰253町を,全部一辺に水を掛けることは不可能であった。ために253町を半分ずつ配水していたという。その理由は当時は水路が入りくんでいただけでなく,水速も遅く水見するのに時間がかかるからである。また水路だけでなく圃場も古田が多くて漏水,滲透が激しく保水効率が極端に悪かったことも用水量の不足をもたらした原因と考えられる。当時,波田堰への用水量(取入口)は東電との取りきめで毎秒2.14トンであったが,実際には取水口の構造が悪く(すこぼし頭首工)毎秒1.5トンしか幹線水路に流れ込まないようになっていたという。その結果,今述べたような原因も重なって,用水量の不足に拍車がかかり,8人の水配人と独特の配水システムが必要だったのである。
 配水システムは,午後に水掛りする田と午前水掛りする田との二組に分けられていたが,1ヵ月のうち15日から20日間潅水して午後番と午前番の田を交代することにしていた。しかし,一度に12時間も水掛りの時間を変更すると稲の生育に支障をきたし易いので,実際には水掛りを1日に4時間ずつ変えて3日間で完全に交代できるようなシステムを組んでいた。配水時期は当初5月15日から8月31日までであったが,保温折衷苗代が利用されるようになってからは,田植が早くできるようになり,配水開始が5月10日から5日,さらに5月1日と次第に早くなって来た。そして現在は4月15日から9月15日までの6ヵ月間水が流れるようになっている。
 水配人8人は4人ずつの交代制で,正午から夜12時までの組と,12時から翌日正午までの2組にわけて配水管理業務に従事していた。しかし圃場整備事業後,水配人が8人から4人に変更した時期と比較すると,8人時代の方が休養がとれて仕事は楽であったという。8人が4人になった理由は整備事業後,入りくんでいた水路が13本となり,整備されて水配人の労働が容易になったとの判断によるが,実際には水配人の仕事量は多く,かえって労働強化になっているといってよい。現在の水配人の1日の行動を述べると,まず朝4時前に田を見廻りに出る。6時から6時半頃までに水配人事務所に戻り打合せののち家に帰って朝食。7時半にはまた事務所に出て10時頃まで実際の配水労働に従事する。そして10時から午後4時まではその日にあった村民からの配水に関する希望,連絡をまとめて配水計画を練り直し,4時より再び7時まで配水業務に就くというのが水配人のおおよその1日のスゲジュールである。実働10時間以上の水配人の仕事は,8人時代の二交代制による12時間拘束より楽のように考えられるが,現在の方が配水労働の密度ははるかに濃く,つらいものになっているというのが現水配人の感想である。たしかに整備事業後は水路が13本に整備され,圃場の保水能力も昔の3倍程度もよくなり,配水労働が楽になった側面もあるが,逆にコンクリートでできたU字溝を流れる用水の速度は昔の土水路と比較してはるかに速く,バイクに乗らないと水見作業が不可能になっているのである。50~60歳の老人にとっては,これは厳しい仕事である。また電話や有線が,また時にはトランシーバーも使用したため,村民は気軽に配水について自分の希望や不満を連絡するようになり,全体として配水労働が水配人にとって荷酷なものになったと推則される。いまは1人で平均220枚の圃場(3反区画)の配水管理を行なっている。
 8人時代より水配人の仕事が技術的にむずかしくなった理由を他の側面からみることもできる。それは田植労働が機械化されたため,生育日数20日間位の幼苗が使用されるようになったこと,さらに圃場が3反歩と広くなって圃場内の幼苗が水配人にとって一層見にくくなったことと関連している。農家が三反歩圃場の平均作業を充分に行なうことはなかなか困難で,ために幼苗が水中に沈んでしまうケースが多くなったのである。またちょっとした風波でも幼苗は圃場内で見え隠れするので水配人は幼苗の生育にとって必要な配水量を判断するのに苦労するのである。こうした配水技術のむずかしさは8人時代のそれとは全く異質であるといえる。
 もう一つの理由は,現在は各耕作者が水の確保について全く心配する必要がなくなったことと関係している。耕作者は灌水してほしい時には,水配人に電話で連絡すればよい。例えば苗代,田植,荒起しなどの作業を行なう場合には,その2,3日前にその旨を告げれば,必要用水量は水配人が按配してその圃場に入れてくれるのである。したがって,耕作者の手間が大いに省けることは言うまでもない。農家の兼業化が急速に進行している現在,水管理を時間的(下の段では毎日2時間かかるといわれる)にも技術的にも充分に行なえない農民が増えてきているが,こうした農民にとっては水配人に手当てを払っても水見廻り,配水作業を委託する方が楽であり,はるかに経済的である。しかし8人時代は,耕作者は必ずしも完全に配水管理を水配人に任せるわけにはいかなかった。用水量が絶対的に不足するため,水配人の目を盗んでは隣接圃場より盗水したり,取水口に酒の入った1升ビンを置いて,特別便宜を求める農民も多かったという。盗水が露見した場合には,30日間の配水停止という罰則規約があったことが,用水不足の実情を如実に物語っている。また用水量の不足を解消するために8人時代には中まわしと称する慣行を守ることが強制されていた。この中まわしというのは,例えばある耕作者が耕起しても,水をその圃場に長期間保水せず,3日以内に荒起し,砕土などの一連の作業を連続的に終了させることをいう。古田は水持ちが悪く,充分に引水しても漏水,浸透が激しいため水位の低下が早いから,耕起,荒起し後幾日も圃場内に留水すると水不足に拍車をかけることになるのである。中まわしの慣行は8人時代の水不足を解消するための一種の水掛り強制の慣行と理解できよう。
 現在は圃場整備事業により水不足は解消し,この中まわしの慣行もなくなり,農家は下にある田に水を廻すことに気を使う必要が全くなくなった。しかし,その分だけ水配人に個別圃場な対する配水作業の負担がかかってきているのである。
 波田堰では現在,水配人のなり手がなくなりつつあるという。それはいま述べたように,水配人の配水労働が厳しいことが一つの大きな原因であると言われる。若者にとっては都市に出る方が魅力的であり,水配人として引き止めることは絶望に近い。現在の4人の水配人はいずれも50~60歳の人々によって占められている。また農村周辺に有利な兼業機会が増え,兼業農家が農家の大部分(90%以上)を占めるようになった現在では,なおさら水配人のなり手を探すのが困難になって来ている。しかし,水配人に払われている給与は決して低くない。昭和50年で1ヵ月4万円であった水配人の給与は,現在約20万円に上昇している。この額は物価の値上りや農家の兼業収入と比較しても決して低い額ではない。そのうえ,水配人全員に対して2ヵ月の失業保険と威獣手当(雀を追払う作業に対して払われる手当)が払われるようになり,給与の待遇改善が実現されてきている。失業保険が保証されるまでは水配人の労働期間が農繁期の5ヵ月間に限定されていたため水配人を希望する者が少なかったという。しかし,水配人の雇用期間を4月15日から9月15日までの6ヵ月に延長したため,2ヵ月の失業保険の支払いが可能になったのである。威獣手当についても,以前は9月10日まで,水配人8人のうち1人に対してのみ支払われていたが,改善され8月10日から31日までは,8人全員に対して,また9月1日から15日までは水配人1人に対して,500円の日当が払われるようになった。さらに,水配人はこれら正規の給与のほかにも,配水労働のサービスを受けている農家から「おこわ代」と称し,現金または現物で祝儀を送られる慣行がある。一農家当り平均して2,000円位で決して多額ではないが,年に3~4万円になり無視し得ない額になるという。これら副収入を考慮すれば,全体として水配人の給与は決して低いとは言えないと思われる。だが実際にはそれにも拘らず,波田堰では水配人を選ぶのに苦労するのは前述のように有利な兼業機会が農村周辺において比較的容易に見つかり,毎日2~3時間,水管理の労働に時間を費すより,多少費用を払っても水配人制度を利用した方がいざこざも起らず楽だという状況判断だからである。
 なお,付言すると,波田堰の水配人は4人いるが,うち3人は波田村から,また残り1人は山形村より選出されることになっている。それは波田地籍内において山形村住民20数戸が耕作しているためである。いわば,山形村の出作地が波田村に若干あるため,特に水配人1人を関係村より選出し,配水の公平を期したものである。

3 水 権

 水権の売買が農民の間で行なわれていたことは古くからの村会議事録でみることができる。例えば,明治38年の村会議事録には「波田堰水権移転願ノ件満場一致デ議決」と書かれている。また明治44年の村会議事録には,水権の売買人の名前と水権が売買される田畑の面積が同時に記録されている。いまその一部引用すると,「東筑摩郡波田村字上原942番,一、田壱反歩,持主藤江正明,此水権反歩同上,同郡同村同字7千7百37番,一、畑弐反参畝参歩,持主大月與伝次」と記されている。この文言が,藤江正明の所有する田一反歩に所属する水権を,大月與伝次の所有する畑弐反歩畝参歩に移転することを許可するといった意味のものであることは明らかである。つまり同議事録の最終に同様の売買例を多数同時記載したあと,「右水権移転ノ義,別紙ノ通リ出願ニ付調査ノ処,右都合無之依テ之ヲ許可スルモノトスル」とある。水権売買の記録はその後,大正,昭和初期の年代までは村会議事録にも随時現われるが,水権の売買価格については一言も記されてない。これはおそらく水権の売買価格は当時者で決められ,波田堰土木委員会や村会は関与しなかったからと思われる。しかし昭和15年の波田堰土木委員会事務報告書において初めて水権加入金に関する記述を見ることができる。以下,それを記すと,
 昭和16年12月22日
 波多堰水権加入ニ関スル件,20筆20人(ウチ山形3筆3人)
 条 件
 1.灌水ハ旧田全部灌水終了後水見人ト打合セノ上ナス事
 1.洞水ノ場合ハ旧田ヨリ先ニ灌水ヲ停止ス
 1.水権加入金ハ反当金40円トス
とあり,反当40円を水権加入金と定めている。水権加入金は水権の売買価格そのものではないが,売買価格の基準となるべき性質のものであろう。しかしこの議事録のほかには水権の売買価格について記述した資料は見当らない。ここでは現水配人とのインタビューで知り得た水権売買価格について記しておこう,それによると昭和30年頃で水権は2万~4万円程度で売買されていたという。これは農民が個人的に水権を売買するときの相場価格で,村会や波田堰土木委員会は水権の売買価格について特に定めることはなかったという。
 さきに述べた昭和15年の水権加入価格は水権移転に伴う水権売買価格とは異なる。水権加入は堰用水量の実質的増加により,配水可能な圃場面積をふやすことができるようになった場合に,新たに畑または荒無地から換地した水田に与えるという形で,初めて実現するのである。これは一種の堰加入金ともいうべきものであるが,既存の用水量と水田面積を前提として行なわれる水権の売買価格とは厳密には異なるものである。水権加入金については昭和13年に圃場基盤整備事業が完成し,新たに水田が造成されたときにも見ることができる。この時の水権加入金は,反当り約3万5,000円であったといわれる。水権加入金とは農民の支払う一種の堰加入金であり,堰水用益権の購入を意味しているといえる。
 ここで重要なのは,46年の整備事業後においては波田堰に水権の存在が消滅したことである。それは新たに水田を造成する余地がなくなったことと,堰内においては用水管理が改善され灌概水の絶対的不足が解消されたためである。
水権の存在がなくなれば水権の売買もなくなり,以後水権加入金を支払う必要もなくなることは理の当然である。現在波田堰で問題として残されているのは水配人制度を軸としていかに合理的な配水システムを維持・管理していくかだけである。
 さて水権売買の実態をもう少し見ることにする。
 村会議事録をみると一般に水権移転の場合,水権を放棄して売る田の面積と水権を買う畑の面積はほぼ同じ場合が多いが,時にはかなり異なる例もみられる。たとえば,さきに掲げた明治44年の藤江正明の田1反歩と大月與伝次の畑2反3畝3歩との間にみられる水権移転である。また,同議事録内に見られる中島太一郎の畑1反歩と大月武須計の畑2反9畝9歩との間で水権が交換されている例などがそれである。中島太一郎の畑1反歩は波田堰開削当初,用水が充分に自己の畑地に達すると計算し,開田して水権加入金を支払ったものである。しかし実際には堰開削後,灌水確保ができず,再び畑地に転換したもので,中島太一郎の畑1反歩は水権付きの畑である(現水配人の鈴木三郎氏の話によれば,整備事業前の堰内には,水権を所有しながら水掛りが充分でないため,水権を他に転売する例が多かったという)。このように,水権の移転売買が行なわれる場合には,田畑間の面積がほぼ同等かまたは差異があってもその面積は既存の供給可能用水量内で灌水処理できる範囲であったが,場合によっては面積が著しく異なる例もみられる。この場合には新たに水権を購入したものが不足分を加入金として波田堰に支払っている。さらに例として昭和4年の村会議事録にみられる場合を記すると,
 前記朱書ノ波田堰水権,黒書ノ土地ヘ双方協議ノ上売買移転致シ度候間,御許可相成度,尚不足分ハ買主ニ於テ地目変換ノ際実地検分ノ上,波田堰水権加入金規定ニ依リ,納入可致ク条並ヲ,御許可相成度,連署ヲ以相願候也
とある。
 この例では具体的に水権が移転売買される田畑面積の差異がどの程度なのか不明であるが,いずれにしろその差異面積分の水権加入金が波田堰の規定に従い支払われていることは明らかである。
 水権加入に関してはさらにつぎのような興味ある例がみられる。昭和10年の
波田堰土木委員会事務報告書には,
 波田堰水権加入ニ関スル件,下原3件,3名,3反9畝8歩
 1.灌水ハ旧田灌漑終了後水見人ト打合ノ上,行ウコト
 1.渇水ノ場合ハ旧田ヨリ先ニ灌慨ヲ停止ス
 昭和11年3月28日議決
とある。この水権加入に関する条件は,前にすでに引用した昭和15年の波田堰土木委員会の事務報告書にみられるものと全く同様である。つまり新たに水権加入により用水の受益を得ることができるようになっても,旧田に灌概した後に余水あれば初めて水掛りが可能であり,渇水時には逆に,最初に灌漑停止を受けるのである。旧時においては,用配水上のしわ寄せは水権加入した新規開田農民にいくように規定されていたのである。こうした規定は,当時はなお波田堰の取水は渇水時には無条件で潅水が停止されてもよいと,和田村ほか下流村々と明治期に約していたことを反映していると推測される。つまり波田堰は,梓川の諸用水のうち最上流で取水することに成功したが,それと引換えに,明治4年に下流諸堰と誓約を結び,梓川の渇水時にはまず波田堰の堰口を閉塞する義務を負ったのである。いわば,梓川流域に形成されてきた「近世的水配分秩序」に従うことを前提に,波田堰の最上流からの取引を認められたといってよい。そして,この波田堰と下流諸堰との間に結びれた取水条件は,波田堰内での旧田と新規開田との間の配取水秩序にも延用されることになったと考えられるのである。梓川渇水に起因する波田堰の渇水と配水の困難は最終的には新規開田耕作者によって肩代りされることにより,「近世的水配分秩序」が末端においても貫徹されていたことを意味する。
 もともと波田堰における水権は波多腰六左の手から堰が村営移管される際に,半完成の波田堰の工事費分担金として反当り10円の水代を各開田者より徴収したことに始まると考えられる。いわば,水代はその後見られる水権加入金支払いの事例に相当すると考えられるのである。たしかに,水権は各目的には工事費分担金として六左に支払われたが,その実体は新堰より用水供与を受けるための水権株購入金の支払いと同意義であったと言える。しかし同時に考慮されねばならないのは,波田堰開削当初からの用水量の絶対的不足という事情である。波田堰内の開田可能地すべてに水が届くようにするには,堰の用水供給能力は極めて不安定かつ限られていたため,堰内の畑や荒無地の所有者がその土地を水田に造成するための前提条件として,既開田地の所有者または開田したが水掛りが悪いため,もとの畑地あるいは荒無地に戻した土地の所有者に属する水権を移転購入することが要求されたのである。

4 水 利 費

 波田堰用水の受益者は明治16年に堰が村営に移管されて以来,堰の維持・管理に必要な水利費を支払うようになったが,水利費の関係資料は残っているものが極めて少ない。たとえば明治16年の村会で付議された波田堰維持法草案第3章「諸費賦課法及元資儲蓄法」に諸経費予算は村会の決議を経て開田惣反別に賦課するものとす,と記されているが具体的な数字は明らかでない。ただ明治期には明治36年には反別賦課金は1反歩付70銭(『百年史』),また同年44年には1反歩付50銭(村会議事録)と記された記録をみるにすぎない。また大正年代には水利費に関する記述は全くみることができない。昭和になっても同様で水利費の負担額や徴収方法は詳らかでないが,昭和18年5月27日の波田村会議事録にはつぎのように記されている。少し長いが全文引用すると,
 「波田村水利地益税段別割条例」設置ノ件
 第一条 本村波田堰用水費支弁ノ為,同一地域内ノ田ニ対シ左ノ水利地益税段別割ヲ賦課ス。
 田段別壱反歩ニ付壱円五拾銭以内
 前項賦課額ハ毎年村会ニ於テ之ヲ定ム。
 第二条 段別割ハ土地所有者ニ賦課ス,担シ賃権設定ノ土地ニシテ賃権者ニ於テ収益スル場合ハ賃権者ニ賦課ス
 附 則
 第三条 賦課期日及徴収期限ニ付テハ村議ノ議決ヲ経テ村長之ヲ定ム
 第四条 本条例ハ昭和18年度ヨリ昭和22年度迄之ヲ適用ス
と記されている。
 この議事録で興味あるのは水利費が原則として土地所有者から徴収すると明記されていること,および小作人の場合には,小作人が水利費を支払うべしとされていることである。土地所有者から水利費を徴収することを明記したことは当然であるが,小作人に水利費を賦課すると規定した条項については一考を要する。
 昭和39年から51年まで3期にわたり波田村土地改良区理事長を勤めた中野勉氏とのインタビューによると,戦前の波田村における地主・小作関係は水田面積の絶対的狭隘から小作地に対する需要が強く,小作条件もかなり苛酷であったように推測される。また戦前の反当り収量は籾米で7~8俵(14貫俵)であったが,小作料は5俵が相場であったという。もと水配人大月今朝市氏によれば平均反当8~10俵の生産が可能であったが,小作料は4~5俵であったというから,両氏の話しは戦前の波田村ではいずれも50%前後の小作料が地主に支払われていたことを示唆している。これはかなりの高率小作料といえる。中野氏の話では地主に年貢を納めると小作人が充分に食べることができない年もあったという。また小作人はさきの議事録で規定されているごとく,年貢米のほかにも水利費を払うことにより水配人の給与と堰工事費を地主に代って負担していたのである。水利費負担に関する慣行は,水利組合によってかなり差異があったと思われるが,『長野県南曇野郡誌』(856ページ)によれば農地改革前は水利費は地主が負担し,改革後に初めて耕作者負担に改正された田溝池水組合の事例が記されている。最初から小作人が負担したこの波田堰の例は例外的であったと考えられる。小作料が高率であったことを合せ考えると,水利費負担は小作人にとって非常に苛酷な徴税費であったと推測される。波田村で水利費小作人負担の原則が確立された理由については,資料的に明確な証拠を示すことはできないが,結局はさきに述べたように,米作への欲求がこの狭い山麓の畑作,桑園地帯の農民には特に強く存在していたことに起因すると考えてよかろう。
 水利費は,中野氏によれば,基盤整備事業完成前の昭和42年頃までは籾米で支払われていたという。1反歩につき籾米約2貫匁払っていた(大月今朝市氏の話し)というから,7反歩で籾米1俵の水利費だったことになる。戦前(昭和2年頃)は水利費を水見籾と称していたが,用水受益者の差出す籾米はしいなや青籾など品質の劣るものが多かった。戦後,昭和42年当時の水見籾の徴収手続は煩瑣であった。まず水見籾を徴収する総代50名が各区(全部で15区)から選ばれ,その総代が年2回水利費と管理費とに分けて各受益農家から徴収する。徴収された籾米は換金されてから役場の経理課に水利費として納入するという手続きが取られていたのである。ために水利費徴収の手間は総代にとって負担の大きいものであった。そのうえまた,青籾や粃を払う農家が多くあったことや水利費のごまかしなどがしばしば起きた。こうした傾向を除去するため中野氏は昭和42年より水利費を現金納に換えるとともに,納入制度を各受益者の農協の口座に小切手で振込んでもらうように改良している。その結果,水利費徴収に見られた不正も起らなくなったという。

おわりに

 波田堰における水利構造の特質は,水権の存在と水配人制度にあったといえる。この二つの特質は,歴史的にみれば,梓川水系をめぐる天領和田8カ村との取水調整および交渉の過程で生じたものであり,江戸時代からの近世慣行的水利秩序を反映したものであったといえる。いわば,波田堰が梓川下流諸村に対して,用水確保のために妥協を強いられてきた歴史的副産物であるといえる。しかし昭和46年の圃場基盤整備事業の完成は,各個別農家レベルの用水不足を解決したことにより,水権と水配人制度も,当然解消されなくなるべき運命にあった。しかし実際には水権だけがなくなり,水配人制度は生き残った。その原因には現在の日本の稲作経営をかこむ経済的環境が色濃く反映しているといえる。一言にしていえば,稲作経営の合理化と農家の兼業化の進展である。波田村のみならず周囲の農村では農協やライス・センター,農業機械センターさらに農業生産組合等の組織化によって稲作経営の合理化が進められ,家族内に余った労働力が,兼業の機会を求めて村外に出る条件が整備されてきている。また農家も非農業部門の所得増大を求めて稲作経営の省力化を徹底しようとする。波田堰の水配人制度はこうした文脈から言えば,個別農家の水管理労働を省いてくれる福音であるにちがいない。歴史的にはいったんその使命を終えたかのようにみえる波田堰の水配人制度は,稲作経営の現状をふまえて新たな役割を担って再登場して来たといえるのである。