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近代技術導入と鉱山業の近代化

Author: 吉城文雄
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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目 次

1 幕末期の鉱山業と近代化の胎動・・・・・・・・・・2
2 官営鉱山とお雇い外国人の導入・・・・・・・・・・6
3 お雇い外国人の現状認識と近代化構想・・・・・・・・・・11
4 近代化の展開・・・・・・・・・・16
5 反近代化の動向とその対策・・・・・・・・・・24
6 近代鉱業技術の定着とその担い手・・・・・・・・・・30


1 幕末の鉱山業と近代化の胎動

 幕末の1830年代天保期以降,それまで個別に発生してきていた諸種の阻害要因が複雑に交錯して,鉱山業,特に非鉄金属鉱山の不振・停滞は第1表に示した秋田藩院内銀山の例外を除いて,幕府・諸藩の懸命な増産奨励策にもかかわらず甚だしかった1)。
 ただ,院内銀山の場合といえども,天保の大飢饉のさなか11年間にわたって,月産約100貫,年産平均1,200貫の産出がみられるが2),これとても採鉱や製錬に関する特別な技術革新の結果ではなく,偶然に富鉱体=ore shoot 3)と出会ったことによるものである。
 この不振・停滞について銅を例にとれば,幕藩制中期の1685年(貞享2)には,年間生産量が約5,200トンに達し,このうち約89%にあたる4,800トンをオランダと清国に輸出するほどであったが,その後の産銅量は漸次低下の一途をたどり,幕末の1860年(万延1)には,約1,000トンに激減した。
 この不振・停滞の原因として,幕府による低価格での独占的な買収政策が作用する一面もあったが,根本的には17世紀幕藩体制が成立して以来,鉱山業界において一貫してとられてきた経営仕法にその原因があった。
 この経営仕法とは,鉱山を領有する幕府・諸藩が,その開発と経営に必要な理論と技術に精通することなく,単に鉱坑の統制と維持―たとえば,試掘,経営委任,資本の前貸,飯米の払下げ,燃料,水利及び鉱産物の買収など―についてだけ領主権を行使し,直接生産関係としての「採鉱・選鉱・製錬」部門の全体は,他の希望者と糴り(入札の意)勝って高額の運上金を上納した,山師[やまし]・金名子[かなこ]・場合によっては買石[かいいし]―彼らは専門の技術と労働者集団を所有支配していた―などの占有にまかせるという請負制度をいう。
 直接生産関係の全体を請負契約によって占有した山師・金名子・買石たちは,特定の生産目標や計画にもとづく経営構想をもたず,目先の利益に終始して,ひたすら「直り」部分=富鉱体だけを求めて採掘4)するという,全く恣意的な生産活動を展開した。
 このような採掘の在り方は,低品位鉱を製錬の対象とすることを不可能にしていた当時の製錬技術水準の限界にもよるが,ともかくこの富鉱体を追求するという坑道掘進の結果つぎの諸問題が発生し,生産活動の全体を阻害する要因として作用した。
第1表 秋田藩院内銀山産出表

(1)経営資本力の脆弱な山師・金名子たちは,採鉱経費の割合を節減するため,富鉱体に到達するまでの坑道掘進は,岩石の硬質部分を避け,かつ坑道は極端に狭く縦2尺,横2尺―これを加背(かせ)という5)―とするなど,曲折が多く不整序な坑道形態が一般的なものとなった。
(2)このような坑道形態は,その延長にともなって,坑道内の通気・通風の悪化と坑道内湧水に直面した。このため,採鉱労働はもちろん坑外への採掘鉱石の搬出及び排水などを極端に困難に陥し入れ,逆に採鉱経費の増加をもたらした。
(3)狭隘な坑道内に充満する燈火の油煙と採鉱過程で飛散する鉱石粉の吸入による労働疾患=silcosisのために,「生きた技術」であり,採鉱労働力の中核であった「掘土工・掘子」などが短命のうちに死亡した。
(4)しかるに,鉱山労働者は,体制の変革期や,体制確立以降は体制内の諸矛盾・不合理に起因して,体制外に「溢れ出た人々6)」を基礎としていたので,これらの「生きた技術」としての労働力が容易に補充しえなくなった。
(5)また製錬は,山師・金名子や買石などの自由にまかせられていたので,富鉱体の採掘と同様に,高品位鉱だけを対象とする製錬に終始して,低品位鉱処理にたいする技術革新の努力がはらわれなかったことなど。
 主として,生産関係の中枢である採鉱・製錬部門に問題が集中していた。前述したように,これらの諸問題は,経営の展開過程で個別におこったものであって,それぞれの時点で克服のための施策が試みられたけれども,結局は一時的な対策にしかならず根本的な解決にまではいたらなかった。
 それは,この山師・金名子による請負制度を基本とする経営仕法の変革にまで到達できなかったことによる。
 したがって,19世紀,天保期以降の非鉄金属鉱山業の不振・停滞は,この請負制度に基礎をおく経営仕法の矛盾が,上記の諸問題に集約された形となって表出したものであり,もはや,これまでの経験的知識や技術の程度をもってしては,全く手の施しようがなくなった結果だと規定される。
 だが,このような状況の中で,19世紀中半の開国と貿易の開始は,明治期にむかって非鉄金属鉱山業の不振・停滞を打開する端緒となった。というのは,蝦夷地箱館の開港によって,諸外国の艦船の燃料用石炭への需要が高まり,蝦夷地内陸資源の開発が構想された。この中に石炭を含む非鉄金属鉱山の開発が含まれていたことである。
 当時,本州全域の鉱山の殆んどは,採鉱の対象となりつくし,しかも前述の諸点に直面していたことや,新規の鉱山発見の見込みもたたないこともあって,蝦夷地内陸の鉱山開発は多くの期待を集めたが,それだけに在来の仕法を超えた取組みが試みられていた。それは,①お雇い外国人の導入であり,②体系的,科学的鉱山技術による探査と教育の展開であった。
 当時の箱館奉行村垣淡路守,津田近江守は外国人技師の雇い入れを幕府に上申した結果,アメリカ合衆国領事T・ハリスの仲介で,パンペリー(地質学家兼鉱山師)とブレーク(鉱山学家兼鉱山師)の2名が雇傭された。1862年(文久2)のことである7)。
 彼らについて注目されるのはその職名である。地質や鉱山学を専門とする彼らを雇傭したことは,これまで山師が経験的知識から割出した「山相学」という鉱山探査法を排除して,「学理的」鉱山探査とその開発への転換を意図したものと評価されるからである。それだけに,蝦夷地鉱山の新規開発にかけた期待は大きかったとみるべきであるし,事実,明治期における本州各地の在来鉱山の再開発は,この地質と鉱山学的検討から始められていることからもうなずけるのである。彼らは2度にわたって蝦夷地内陸の地質と鉱山探査を行なった。
 パンペリーはGeological Researches in China, Mongolia, and Japan, during the Years 1862 to 1865に,ブレークはGeological Map of a portion of the Island of Yesso, Japan(1862)8),にその結果をまとめて報告している。また,2回目の探査過程で,遊楽部(ユウラップ)鉛山で火薬による採鉱を行なっているが,これは在来の「鑽(タガネ)」と「鎚(ツチ)」=(せっとう)だけによる採鉱方法と,不振・停滞の一途をたどっていたわが国の鉱山業全体の変革を先取りした試みとして注目される。
 彼らはまた,文久2年7月,箱館に「坑師学校」を開設して日本人に対する鉱山学教育を行なっている。
 彼らが来日に際して持参した「ハルトマン坑山書・コッタ坑山書・ケルル坑山書・フラットネル坑山書・タナ金石学・レール地学・フラットネル吹管説・ミッセル製鉱説・シュトレル製鉱説・坑山学校書や測量器具・諸種の薬品」など9)からして,この坑師学校では,地質・鉱物学に基礎をおく体系的,科学的鉱山探査と鉱物分析,そして鉱山経営の全般にわたって必要とする理論と技術を教授した。
 前述の2回にわたる鉱山探査に同行し,かつ,この坑師学校に在学して親しく彼らの指導をうけたのが,幕府の蕃書調所出役教授手伝役から箱館奉行所に転属した大島高任であり,武田斐三郎(伊予国大洲藩)たちであった。彼らはすでに,蘭書を通じて近代的鉱山業についての理論と技術を独自に修得していたところから,外国人教師による直接的指導に意欲的で,しかもその理解がはやく,将来の日本鉱山業の近代化の指導的役割を果すものとして,特にブレークは高い評価と期待を寄せていた10)。
 なお,幕府は前記2名の他に慶応2年イギリス人E・ガワーを雇い入れて蝦夷地の石炭採掘を指導させており,薩摩藩もまた,フランス人F・コワニーを雇い入れて,山ヶ野金山の近代化を進めようとしていた。
 こうして,19世紀天保期以降不振・停滞の一途をたどっていたわが国の非鉄金属鉱山業は,明治期において,この蝦夷地開拓を契機として始まった近代的鉱山業への転換の延長線上で,鉱山業の全般にわたる本格的な近代化への取組みを行なっていくのである。

2 官営鉱山とお雇い外国人の導入

 わが国の近代産業の成立過程で,鉱山業の近代化は,金・銀が鋳貨の原材料,銅・鉛・鉄・石炭が輸入の抑制,なかでも鉄は軍事機構の確立に,それぞれ対応する政策的意図のもとに展開されてきたといえる。このため,幕府・諸藩の領有のもとで,すでに行詰っていた鉱山業の現状をいかに打開するかが緊急の課題となった。だが,当時は産業資本の未成熟の故もあって,明治政府自らが経営にのり出さざるをえなかった。官営鉱山の設定である。この状況を非鉄金属鉱山に限定してみたのが第2表である11)。
第2表 官営指定鉱山とその変遷 1868年(明治1)~75年(明治9)
第3表 官営非鉄金属鉱山お雇い外国人一覧表(1868~83)
 これによると,政府の官営鉱山の指定とその開採は,当初金・銀山を対象に展開され,しかもその指定は,埋蔵鉱量の品位やその量と規模の大小にかかわらず,無差別に進められたことがわかる。特に1871年(明治4)までは,金・銀山に限定されていることや,68年(明治1)の生野銀山の指定から,1975年の院内銀山までの8年間に,金山17,銀山11,銅山8,鉛と錫山7の計43鉱山がその対象とされているが,鉱種別にこれをみても,金・銀鉱山が全体の65%を占めていること,また指定の無差別性についても,「指定即廃業」や「不開鑿」,そして民間への「払下げ」など,非常に変転が激しかったことがわかる。これは,当時の指定基準の不確定さを象徴するものであるといえる。
 ともかく,このような状況は,鋳貨の原材料としての金・銀の確保を基礎に,幕末以来混乱を続けている幣制の整理と,金本位制をもとにした統一的新貨幣制度の確立によって,権力の集中と統一を図るとともに,対外的には,幕末開港以来世界資本主義体制に組込まれてきた,外国貿易への安定した対応を急務としたもので,金・銀・銅の売買管理(1868年7月)から,鉱山心得書の公布(72年2月),日本鉱法の制定(73年7月)によって,鉱山国有の原則を確立し,外国資本の資源支配を排除するまでの一連の法的措置と,行政機構としての工部省の設置(70年10月)などは,これらのねらいを貫徹するためのものであって,成立当初における政府の苦悩の姿を如実に示しているものであるといえよう。
 やがて政府部門でも,指定基準の必要を自覚し,大蔵卿大隈重信が,F・コワニーに対して官営鉱山の抜本的在り方を諮問した。F・コワニーは71年(明治4)1月,「すでに官営鉱山に指定されている生野銀山,佐渡金山の他に,銀を含有する鉛鉱山と錫・石炭・鉄の各山のうち,もっとも有望な鉱山を選び計6ヶ山を官営鉱山の対象として,民営鉱山の模範にすべきこと,ヨーロッパから学者=鉱山技師を数名雇い入れて,鉱坑関係に必要な一切の指導を行なわせるべきこと,そして,日本人に彼らの技術を学ばせること,その上で会社組織による経営を展開して大なる収益をあげるべき」などを骨子とする「日本国坑政の策12)」を策定建議した。
 また,井上馨も73年(明治6)1月,「御国内諸鉱山ノ儀ハ,各処盛衰ノ異アリト雖モ,之レヲ要スルニ天下物産ノ最ナル者ニシテ,其有益モ亦大ナリト云フ可シ,既ニ工部省中一寮ヲ設ケラレ,右事業を担任従事仕候処,頗ル其経費ニ堪ヘ難ク,夫レ物経費ニ堪ヘザル時ハ,其事業亦盛大ナリ難ク,有益モ亦〓テ微少ニ有之,実ニ造貨ノ利ヲ尽スコト能ハズ,遺憾ノ至リニ有之候。且ツ金・銀・銅ノ三品ハ,方今貨幣鋳造ニ付最モ急用ノ品ニ有之候。就テハ官鉱卜為ス可キ最良ノ場所10ヶ所計リ相撰ビ,悉皆鉱山入費ハ歳入ノ金穀ヲ仰ガズ,右準備金ノ内ヲ以テ取賄ヒ,而テ諸鉱物ハ精製ノ上貨幣鋳造ヲナシ,或ハ之ヲ売却シ,其利益ハ年々準備ニ増殖ヲ加ヘ,極メテ尽力シ,大ニ造化ノ妙利ヲ興サンコトヲ欲ス……13)」と,財政上の見地から太政官正院に建議した。
 これらは,いずれも採択された。そしてこの結果77年(明治10)ごろまでにおいて,漸次無差別な指定の在り方が整序され,今日いうところの官営鉱山体制が確立した。
 政府は以上のような経緯のもとで確立した官営鉱山に,第3表に提示したお雇い外国人を導入,配属した。官営鉱山の全体についていえば,総員78名であるが,非鉄金属鉱山に限定した場合は実人員50名である。
 なお,このお雇い外国人の導入は,官営鉱山だけでなく,民営鉱山もこれにならっている。尾去沢銅山のルイス・ジンジル(米),別子銅山のルイ・ラロック(仏),石見大森銀山のポール・サルダ(仏),山ヶ野金山のポール・オジエ(仏)などである。

3 お雇い外国人の現状認識と近代化構想

 彼らお雇い外国人全員の動向について,今なお不明の点が多いが,彼らが関わった鉱山について,巡検・調査・起業などについての報告書や目論見書が残されている。たとえば,F・コワニーの「日本鉱物資源に関する覚書」,「日本国坑政の策」,「阿仁銅山見込書」,C・ネットーの「日本鉱山編」,「涅氏[ネッシ]冶金学」,L・ラロックの「別子銅山目論見書」*,A・メッツゲルの「阿仁鉱山報告書」,「日本鉱山業と製錬業についての若干の考察」,B・ロェジングの「院内鉱山報告書」,C・ハクマイルの「小坂鉱山報告書」,E・ナウマンの「尾太(おっぷ)銅山報告書」,J・ゴットクレーの「上毛下毛三陸両羽諸鉱山点検明細録」,「中山道・北陸諸鉱山点検明細録」などである。いまこれらの分析を通じて共通していえることは,彼らには技術革新が即近代化のすべてだとする認識はないということである。彼らが一貫して構想し,かつ指導した近代化とは,幕藩制期を通じて鉱山を領有していた幕府・諸藩が,直営・民営を問わず,その開発と経営を,専門的知識と技術および労働力を所有する山師・金名子の占有にまかせ,彼らが採掘した鉱石や製錬した金・銀・銅などを買収するという在来仕法を,鉱山所有者が,山師・金名子にかわって,先進の経営および技術についての理論と実際に習熟し,さらに山師・金名子を鉱山所有者=経営者の側に組みこみながら,彼らに隷属していた掘大工・掘子や吹大工など,採鉱・選鉱・製錬部門などにかかわっていた現業労働者を,一定の協約のもとに賃金労働者として捉えなおし,鉱山所有者=経営者自身の起案による経営構想のもとに,生産活動の全体を支配的に行なうことであった。
 1874年(明治7),勤務地の生野銀山において著述した「日本鉱物資源に関する覚書」の第2章,「日本鉱業の現状」において,著者のF・コワニーは,「16世紀後半,在来の採鉱・冶金技術が新技術―採鉱法として,露頭掘採鉱法から,坑道掘採鉱法への転換,またこれに相応する製錬法としての灰吹きや南蛮絞り法など―に転換したことによって,斯業は急速に発展したが,その繁栄は1世紀間にして,鉱業は漸次衰退して1869年(明治2)に至った」として,この原因は次の諸点によると指摘している。
(1)岩石の掘削に火薬を使用することが知られていなかったこと。したがって,この作業はすべて,採掘用の「錐(たがね)」と「鎚」でおこなわれたので,最も豊富―埋蔵鉱量や含有量―にして,最も掘り易い部分だけが採られたので,作業は深い地底で行なわれた。
(2)堅い岩石を貫通しなければならない排水坑は,多額の経費を要するので,次第に放棄され,やがて侵水のため作業が不能となり,また坑道は狭く幅60センチ,高さ90センチ,時には60センチ四方の場合もあった―かつ迂曲しているので,深くなるほど採鉱石を労働者=掘子(ほりこ)が背負って搬出することが非常に困難となった。
(3)唯一の排水手段としての竹製のポンプで揚水ができない場合は,全く排水が困難となった。
(4)このような条件の悪さにもかかわらず,日本の鉱夫たちは,ある鉱山では,地平以下200メートル余も入っていっている。このような事実は鉱脈の豊富さを知る一端である14)。
(5)選鉱・製錬について,これまで鉱石滓として捨てられてきた鉱石中には,立派に利益をあげるほどの金・銀分が含まれている15)。
 これらの殆んどは坑道の入口付近に捨石として堆積されているが,これは充分利潤をあげうるものである。この状況は,最近まで採掘費の関係上,7%以下の含有量の鉱石は採掘対象から除外したり,選鉱過程で棄石の対象とされていたことによる。鹿児島の南西約20キロの地点に錫を含む鉱山があるが,ここで偶然入手した鉱石を試験したところ,1トンにつき金75グラム,銀1,279グラムの結果をえたので,これから推定しても,日本の各地諸鉱山の再採掘は洋式作業の導入によって可能だと思考した16)と述べているが,この洋式作業の導入とは,単に機械技術だけでなく,これに精通した日本人技術者の育成を含めて,彼の勤務地生野銀山を「修学実験所」として,日本人「鉱業士」の養成をも,もくろんだもので,これは山師・金名子の占有にまかせていた請負制度の解体を通じて,生産関係の全体を鉱山所有者=経営の側に取戻すことを意図したものであった。
 この点を一層具体的に指摘し,かつその実現に取組んだのが,小坂銀山を指導したC・ネットーであり,阿仁銅山を指導したA・メッツゲルである。官営小坂銀山の近代化を指導し,後東京大学理学部教師をつとめたC・ネットーは,その著「日本鉱山編」において,「鉱山主は,仲買人=請負人が数人の工夫を支配して切り採らせた鉱石を,其の重量と含む所の金属の多少によって,一定の価格で買いとる」だけであるので,「どこをどのような方法で,工夫の誰に採鉱させるかは仲買人=請負人の手中にあるので,仲買人=請負人は独り私欲を専らにし,ひたすら良金属を含み,かつ柔かな部分の鉱石だけを採掘し,硬い部分は避けてかえりみない」状態であり,これは仲買人=請負人に対して鉱山所有者の威令がよく行なわれていないからだとして,この「請負制度は坑業における最大の悪弊」だと規定している17)。
 また,A・メッツゲルは1879年(明治12)官営阿仁銅山に雇傭されたが,この鉱山についての近代化溝想がすでにF・コワニーの「阿仁銅山見込書」にまとめられていたのを否定して,自ら独自の「阿仁鉱山報告書」を作成して,この鉱山の近代化を指導した18)。
 この報告書は前文,各論及び総論併せて,22章からなる詳細かつ膨大なものであるが,この序文で「私が特に意を注いだものに請負のことがある。この制度は数百年もの間,鉱業界の習慣としてきたものであるだけに,この制度の廃止に取組むことは,自分としても決して心よいものではない。だが,今坑業の新設を企画し,現にこの具体的展開を要請されている時期に,この問題を避けて通ることはできない」として,この調査報告書の第3章に,「管理兼営業」と第9章に「管理兼営業に関する建議」のテーマを設定して,その問題点と改革すべき諸点を指摘している。
 これによると,「日本においては,官営鉱山の事務と技術を担当する役人のうち,技術役人よりも事務役人の権限が優越している。技術役人の権限は,鉱脈を点検して,これを請負人に任せ,かつ請負人が採掘・精選した鉱石を買上げるのにかかわるだけ」である。
 このため,「請負人は,十分製錬の対象になる鉱石を棄石し,鉱石の精選過程でその半分を失う」状態で,「請負人による坑業経営は,鉱山業の発展を図るどころか,かえってこれを阻害するもの」だと規定している。
 彼は,この請負制度を廃止するための措置として,「鉱山役人を,事務課・技術課にそれぞれを分離・独立させ,この両課に精通し,かつその指揮にたえる人物をして統括させ,技術課役人には経営の全工程=採鉱・選鉱・製錬の指揮にあて」させること。
 そして,最大の悪弊である請負制度の廃止のためには,まず「鉱山所有者=政府が製錬部門を掌握して機械製錬を確立し,山師・金名子などの請負人には,貧鉱としてこれまで棄石したものをも採掘させ,機械製錬能力に対応する数量―たとえば,精錬場では5トンより少ない鉱石を,また冶金場では1トンより少ない鉱石を受け入れないことにし,この取引計算はすべて,マンスフェルト(ドイツ)鉱石定価表によるとした―を供給させながら,採鉱技術の全般に精通した日本人技術者の支配下に,これら請負人およびこれに隷属している採鉱労働者=掘大工・掘子などを組込む」ことを提起している。
 このように,鉱山所有者=政府が製錬部門を掌握し,これに要する採鉱石総量や買上価格を規制した意図は,これまでの富鉱体採鉱や,選鉱・洗鉱過程で貧鉱を廃棄し,かつ,流失分をも製錬の対象として金属生産量の増加を図るだけでなく,山師・金名子制度のもとで,技術的停滞を続けていた「鑽と鎚」だけの手掘採鉱法では,生産能率と採鉱経費などの点から,機械製錬に対応できなくなる状況を予測したものであったこと,また,製錬部門の掌握を基軸にしながら,山師・金名子による請負制度の解体に,近代化の突破口を求めたのは,山師・金名子制度による請負制度の比重は,主として採鉱部門にかかっているという判断からであった。
 ただし,金・銀山と銅山その他では比重のかけかたに差異があるが,金・銀山の場合は,どちらかといえば山師・金名子の占有が,採鉱・選鉱・製錬の全体に及んでいた事実を付記しておく。
 とにかく,A・メッツゲルは,生産関係の全体を鉱山所有者=政府の側に回復するに要する期間を1~2年と想定している。
 なお,A・メッッゲルは1882年(明治15),阿仁銅山の解傭後,かつて小坂銀山の近代化を指導し,その後東京大学理学部教師として,採鉱・冶金学を講じていたC・ネットーの一時帰国のあとをうけて,同年9月から満1年間同じく採鉱・冶金学を講じたが,それは,彼が経験した院内・阿仁両鉱山の山師・金名子制度の解体と,製錬関係の近代化を中心に,生産関係の全体についての問題点をどのように克服したかについて,種々の事例をあげて説いたものであった19)。
 以上述べてきた山師・金名子による請負制度をもとにした経営様式が,いかに日本鉱山業の不振・停滞をもたらす原因になったかについて,1691年(元禄4)以来国内最大の民営銅山として存続してきた別子銅山においても,「幕末時代において,本邦の鉱山事業がいづれも行詰まったのは,坑間の湧水に採鉱を妨げられたからであるが,他にその一つとして数ふべきは,坑内に運搬坑道を欠き,採鉱にも運搬にも,極めて狭隘なる坑道を以てするの外なかったため,徒らに非常なる労力と時間とを有し,稼行者=山師・金名子がその費用の累増に堪へなかったことであり,別子銅山またその例外ではなかったのである。かくのごとき坑間の不利不便を除去し,その施設を更新せずしては,いかに坑外の設備を完全にし,施業の方法を改良するも,とうてい稼行の継続は之を期しえられべくもない20)」状況であった。
 別子銅山では,この状況の打開のため,1868年(明治1)太政官鉱山局,71年工部省鉱山寮の命令で,共に生野銀山に出張し,F・コワニーについて洋式稼行法を見聞・研修した広瀬宰平の発想で,74年L・ラロックを雇傭して近代化を構想させた。彼はその構想「別子銅山目論見書」を作成して期待に応えたが,大別してその内容は①坑間の施設,すなわち坑道の開掘に関するもの,②運搬上の施設,道路の建設および鉄道敷設に関するもの,③製錬上の施設,熔解所の設置およびこれに要する煉瓦製造等に関するもの,④採鉱上の施設,鉱石粉砕機その他洋式新機械器具の整備に関するもの21),からなっている。
 これについて注目されるのは,①に関する通洞と竪坑の開削と,③の製錬に関する熔解所の建設を指摘したことである。
 特にこの熔解所=製錬の近代化は,生産関係の全体を,山師・金名子による請負制度から,鉱山所有者のもとに回復するための基軸として大きな意味があった。
※ 正式の書名は『別子山の鉱山と鉱山から採掘された鉱石の冶金的処理』

4 近代化の展開

 事実,わが国非鉄金属鉱山業の近代化が,この製錬部門の機械化=近代化に始まったことは,C・ネットーの「日本鉱山編」で明確に指摘されている。
 彼は,1879年(明治12)までの官・民鉱山が行なった近代化について,「現今已に新法を施行せる諸坑」において,各鉱山が,どの部門から近代化に着手したかについて,つぎのように当時の状況を述べている。
(1)佐渡金・銀坑 此処には機械を用いて鉄物を精錬する場,鎔解場,鍋中に於てする汞膏法[こうこうほう]22)あり。皆もと外国人を雇うて設立する所なれども,当今は専ら日本人のみにて其の業を行なう。
(2)但馬生野銀坑旋転用の鉄製搗鉱杵[とうこうきね]100個,リッチンゲル氏の撞衝淘汰盤を用うる鉱物精錬場,フライベルヒ式の桶=樽中においてする汞膏法あり。以前は仏蘭西人12名を雇いしが今は8名に減ぜり。
(3)大葛[おおくぞ]金坑 カリフォルニア式の鍋中においてする汞膏法,並びにハンガリー式の臼中にてする汞膏法あり,また鉄製の砕鉱杵10個を備う。もと亜米利加工士を雇うて起す所なれども,今時は専ら日本人のみにてその工を施せり。
(4)小坂銀・銅坑ならびに熔鉱場 ツィールフォーゲルおよびハント・ダグラスの冶金法を用う。初は独逸国工士に依て業を起し,今は専ら日本人のみその業を操る。元来大葛・小坂は政府に属して,現に備うる新法も全くその手になれるなり。
(5)山ヶ野金坑 カリフォルニア式の汞膏法,鉄製搗鉱杵10個を備え,フランス工士その工事を担当す。
(6)半田銀坑 木製砕鉱場,フライベルヒ式の桶=樽中においてする汞膏法あり,工士は皆日本人にして欧羅巴の法を用う23),などがそれである。
 これによると,機械製錬の焦点は,鉱石砕粉用鉄製搗鉱機や粉鉱淘汰器の導入を前提に,高純度の金・銀・銅などの採収のために,汞膏法,ツィールフォーゲルおよびハント・ダグラスなどの冶金法の定着にあてられていたことがわかる。事実,1875年の佐渡金山では,混汞製錬のテストに成功したが,これに対応する必要採鉱石の供給が不十分で事業が進展しないとあって,近代化の展開は,製錬部門から始まっていることが理解されよう。
 ただ,これについて注目されるのは,ツィールフォーゲルおよびハント・ダグラス法はともかくとして,水銀冶金である汞膏法に,カリフォルニア式鍋汞膏,フライベルヒ式桶=樽汞膏,ハンガリー式臼汞膏などの諸法があり,しかもこれらが不整序な状況のもとに各地鉱山に導入され,その定着が図られていたことである。これは,第3表に見られるように,諸鉱山に配属されたお雇い外国人たちの国籍が,英・米・仏・独など多岐にわたっていたこと,それだけに伝統的技術背景を異にしていたことによる。それに,当時のわが国においては,導入する技術を選択し,統一的にこれを受容する力量に欠けていたことにもよる。
 ともかく,これら汞膏諸法は,以下のような経緯で導入されたものであった。
 まず,佐渡には,E・ガワー(英)およびA・ジェニン(米),大葛には,R・カーライル(米),山ヶ野にP・オジェ(仏)たちが,それぞれカリフォルニア式鍋汞膏法を導入したが,なかでもP・オジェは,F・コワニーの強力な推薦で1877年に来日し,翌年山ヶ野に雇傭されたが,彼は来日の途中F・コワニーの助言もあってか,カリフォルニアに立寄り,主にヴァージニア,ゴールド・ヒル,グラス・ヴァリーなどで金鉱床の開発を行ない,塩素処理―塩素を加えて鉱石から金を分離する―の詳細や機械設備を見学するなど,種々の経験を基礎として山ヶ野の指導を行なったものである24)。
 したがって,A・ジェニンやA・カーライルたちが,佐渡や大葛にカリフォルニア式鍋汞膏法を指導したのは,自国の伝統的技術に支えられてのことであったことは,容易に理解できよう。
 さらに,生野と半田にフライベルヒ式汞膏法が導入されているが,これはF・コワニーが生野で最初に指導したものである。元来,ヨーロッパ鉱山学,特に冶金技術は,12世紀中半ザクセン地方フライベルヒにおこったシルバー・ラッシュを契機に発達し,ヨーロッパ各地に普及した25)という歴史的経緯からして,聖エチエンヌ鉱山学校出身のF・コワニーがフライベルヒ式桶=樽汞膏法を,生野に試みたとしても決して不思議ではない。大葛におけるハンガリー式臼汞膏法の導入もまた同様である。
 ただ,彼も1867年(慶応3)薩摩に雇傭されて来日する前に,カリフォルニアで金鉱探査を行なった経験をもっていたので,生野に必要な製錬用小器械は,ゴールド・ラッシュによってさらに発達した冶金技術をもつアメリカに発注してこれを使用した26)。
 また,半田については,所有者五代友厚が,F・コワニーと親交が深かったことから,直接,間接の指導をF・コワニーに求めていた。「我半田銀山ノ如キモ,専ラ生野銀山,法ニ倣ヒテ混?法ヲ用ヒ,明治7年(1874)開業ノ際撰鉱処1棟,搗鉱処1棟,鉄杵15本ヲ備ヘ24時間ニ鉱石土約1,200貫目ヲ搗砕ス,焼鉱処1棟,幅1丈長4丈5尺ノ反射炉ヲ備フ,混〓処1棟,混〓樽12箇ヲ備フ,其外製銀処,事務処,工作処,倉庫等ヲ新築シテ採鉱製錬ニ従事セリ27)」と,発足当時の状況を示している。また,F・コワニー自身,1876年直接この鉱山を訪れて,生産関係の全体を指導している28)。
 なお,小坂における抽銀法としてのツィールフォーゲルおよびハント・ダグラス法の導入については,「明治6年(1873)12月製鉱技長として小坂へ来任したネットーは,それまでの乾式製錬法では費用がかさむ割に実収率があまり高くないので,熔鉱炉の形をマンスフェルト式に改めて,木炭消費量を減らすとともに,鈹の処理に湿式法の採用を計画した。この方法によると,生成された鈹を粉末として2重回焔炉で焙焼を行ない,含有する銀・銅分をそれぞれ水溶性の硫酸塩となし,その溶液へ最初に銅板を袋入,銀を沈澱銀として採取(ツィールフォーゲル法)した後鉄片を投入し,銅を沈澱銅として回収(ハント・ダグラス法)する」ものであった(第4表参照)。
 このように,小坂の場合は,他の金・銀山と異なった製錬技術が導入されているが,それは小坂の鉱床は黒鉱・黄鉱・珪鉱の3種から成立している特殊な性質のためであった。わが国ではこのような鉱石を「土鉱」と呼んでいる29)。ともかく,これまで述べてきたように,わが国の非鉄金属鉱山業の近代化は,製錬部門の機械化を基軸にして展開されたのであるが,この機械化は決して円滑に進展したわけではなかったのである30)。この詳細については後述するが,お雇い外国人による指導に対して,山師・金名子はもちろん,彼らに隷属していた労働者たちによる妨害や反対行動が執拗に繰返えされていたことによる。
 だが,お雇い外国人たちは,諸種の困難に耐えながら,この製錬部門の近代化の展開を進めるとともに,一方ではその結果として山師・金名子が放棄するであろう,採鉱・選鉱部門についての近代化に必要な研修と,この研修を通して,その意図を正しく理解させ,近代化の尖兵としての役割を果させるために,日本人の育成を進めていた。そして,これが正しく機能することによって,生産関係の全体を鉱山所有者の側に掌握することが可能だと確信していた。
 その若干については前述したが,1869年(明治2)F・コワニーは,任地生野銀山の近代的再開発を構想した中で,日本人の「鉱業士」を養成すべきだとして,「鉱山学伝習学校」設立の許可を得て,72年まで計15名の「鉱業士」を育成した。
 この学校のその後の動向と,カリキュラムの内容は不明であるが,彼の「建議書」に,「生野区内金香瀬(かながせ)坑区に器械を据設し,工業を資け以て生徒を教育せば幾多の鉱学士を養成し事業隆興すべし31)」とあるので,機械製錬についての実地教育を行なったものと推測される。政府は全国の府藩県に対して鉱山学生を生野に派遣するよう指令したが,実際には,地元の生野および周辺の岡山,広島,大聖寺―異本には金沢とある―などの出身者をもって,構成された程度であった。なお,彼らには出身県より奨学手当米が支給されていた32)。
 また,1875年(明治8)官営鉱山に指定された阿仁銅山において,主任の一条基緒を中心に経営の変革を試みたが,幕藩制期以来の鉱山請負人である山師・金名子たちが,旧慣を固守して対抗し,変革は停滞した。そこで,この打開策として,翌年小沢坑区の下級官吏田中吉太郎以下14名の坑夫を生野銀山に派遣して,近代化の過程を具体的に研修させている33)。
 このような動きは,民営別子銅山にも見られる。1691年以来,代々住友氏が経営を委託されてきた別子銅山は,維新の変革後も引続き明治政府によって経営の継続が認められたが,当時の総括責任者広瀬宰平が自ら,1868年(明治1)と71年の2度にわたって生野において,洋式経営法と採鉱,冶金について,直接F・コワニーの指導をうけている。そして,この経験が74年のL・ラロックの雇傭につながっている34)。
 さらに,前述の阿仁銅山における近代化の試みは,生野における実地研修の成果の反映が不徹底だったのか,その後停滞を続けていたが,1879年A・メッツゲルの発想で近代化の徹底に取組んでいる。この状況は,「全山の人民従来の姑息法にのみ慣れ,更に新法興起の思想なきが故に,数十名の坑夫をして其新法を伝習せしめ,其法を解せし者をして坑夫頭となし,金山の坑業に従事せしめんが為,お雇い坑夫頭ドイツ人ライヘル氏を向(むかい)銀山に送り,該山を再興し坑業を伝習せしむ,向銀山位置は阿仁川の対岸にして,銀山本庁を距ること凡そ半里金銀鉱脈に富めり,かつて該山を開削し頗る繁盛を極め,今に存在せる銀山町の壱村落を成すに至れりと云う,ここに三大鉱脈あり,出途金〓[でときんだて],大金〓[おおきんだて],運上砒[うんじようひ]なり,当時其砒より産出するの量を以貢納の額に充つるに至る,因て是を名づくと,又古老の言伝へに向山を休業にせしは,姑息法にて掘下げし故に,坑水溜滞し下底に良鉱有を知るといえども,又採掘の術を施す能はざるによると,先年小野組稼業中にも良鉱を掘採せしも,坑道の粗悪なるにより得失を償はざるに依て,休業するという。故に今般該山を再興するは,坑道を改正し,運搬を便にし,溜水を汲抜き,善良の鉱石を穿り得る,坑夫頭を教育せんとの目的なり35)」とする狐崎富教の報文によく述べられている。
 この採鉱部門36)の近代化に必要な実地研修は翌年12月に終了した。すなわち,「12年11月に向山金・銀山に於て,坑業伝習を受けし吏員及び坑夫等を各採鉱所,太良鉱山等に派遣し,坑業の改良に着手し,ついで旧稼人=金名子なるものは漸次之を廃止す37)」と,結果としては阿仁金山38)の生産関係の全体は鉱山所有者=政府の手に回復する方向をたどりつつあったことがわかる。
 つぎに,生産関係の全体を占有していた山師・金名子制度=請負制度の解体例として,院内銀山の場合は,以下のような経緯をたどっている。
 1876年(明治9),これまでの院内銀山の経営方法は,金名子に隷属する坑夫=掘大工,掘子たちが採掘した鉱石を製錬して,山吹銀としたものを政府が購収する仕組であった。だが,この方法は得失相償はないので改善のための模索をはじめた。そして諸種の格付の結果,「撰鉱所」を設置して,金名子制度のもとで採鉱した鉱石を全部ここに集め,選鉱,洗鉱,製錬までの全工程を政府の管理のもとで行なわせることにした。78年(明治11)のことである。だが,このような改革に対して政府にも危惧はあった。それは,「撰鉱所竣成せば,旧慣を廃し,金名子等を同所へ移し,操業すべきことを前日すでに告諭せしも,其期に至らば苦情を述べるも計られず。又之をそのままにしては旧慣を改良することあたわず,故に断然改革せんとす。だが,彼らにとって数百年来の慣習であるこれを改革すれば,人心激昂一時の紛擾を起し,官業の障害をなさんとするの患あるをもって,あらかじめ警衛巡査15名を配備して,これに備う,7月6日,撰鉱所竣成せるをもって,金名子をここに集合し,もって精銀せしめ,しかしてその買収価金を増額す。すなわち,1文目の価金8銭6厘を9銭2厘とする。なお,これまでは,各自の家で採鉱石を精銀していたことから,その一部を隠匿する弊害があったが,撰鉱所において精銀するときは,その弊害なきをもってなり」と。しかしながら,その後の動向をみると山師・金名子らの継続的反発があったようで,政府は精銀の買上げ代金の増額をもって妥協を図っている。
第4表 小坂鉱山製錬系統図
付表1 日本における金属鉱山鉱床別採掘方法表(1868年前後より1930年まで)
 すなわち,1879年(明治12)6月に3厘を加え,9月に5厘を増して10銭とし,さらに翌年6月には5厘を増額して10銭5厘とした。だが,さらに翌81年4月には,「金名子より買収する灰吹銀価,1匁の価金10銭5厘に対し,なお金1銭を増加せんことを金名子より請願」するありさまであったので,政府は意を決し,来る6月30日を期して,金名子制度を廃止する決意をかため,それまでは1匁15銭で買上げることにした。
 結局,金名子たちから,延期を請願してきたこともあって,翌82年6月30日まで延期することを条件にして39),ついに生産関係のいっさいを政府の側に回復することに成功した。
 なお,解体以後の山師・金名子たちは,傾向としては経営の末端に組込まれ,掘大工以下の労働者は経営の側との雇傭契約を媒介として,一介の賃金労働者として捉えなおされていった。
 こうして,各地鉱山の山師・金名子による請負制度は解体されていったが,鉱山業における請負制度はその後も存在した。つまり,炭鉱においては納屋制度であり,非鉄金属鉱山においては飯場制度,そして,両者に共通するものとして親分子分や兄分弟分など,友子(ともこ)とよばれる擬制的な親子や兄弟関係に基礎をおくのがそれである。
 しかしながら,両者は本質的にその存在意義を異にするものである。すなわち,前者は基本的に生産関係の全体を占有して,恣意的な生産活動を行なったのに対し,後者を基礎とする請負制度は,鉱山所有者=経営者が精通した経営理論や技術を基礎に,自らが構想した経営や労働施策の枠組みの中で,意図的にこの制度を導入したものであるからである。

5 反近代化の動向とその対策

 この山師・金名子による請負制度の解体は,なんらの抵抗や障害もなく進められたものではなかった。特に,官営鉱山の設定,お雇い外国人の導入,その技術指導による機械制生産の展開など,これまで恣意的な生産活動に終始してきた山師・金名子たちにとっては,まさに青天の霹靂として受けとめられた。
 彼らは労働者を駆使して,様々な反抗形態をとりながら,近代化の展開を妨害しこれを阻止しようとした。以下に詳述する一連の反抗の諸様相の中からは,今のところ指導者と目される人物を特定することはできない。
 この限りにおいて,イギリス産業革命の遂行にともなって,1811年の末にNed Luddという架空の人物を指導者に仕立てあげながら,中・北西部の織物地帯で発生した「機械破壊運動=(Luddite Movement)」に通ずる動きとして捉えられなくもない。
 ともかく,これら一連の反抗の初見は,
(1)生野銀山においてである。元来,生野の官営は山師の丹波屋足立太右衛門が所有していた太盛・天授の2山の没収を前提としたものである。山師・太右衛門は没収を契機に,これまで隷属関係にあった金名子,そして掘大工・掘子などを解雇することになるので,政府に対し,7,000両下付の嘆願してその資金にあてようとしたが,結果は1,000円支給されたに過ぎなかった40)。
 この没収指命は1868年(明治1)12月に出され,翌年山師・太右衛門が出鉱少く,製法粗悪にして消費償却,つまり採算がとれないことなどを理由に献山する形式をとらされたものであった。しかも政府はただちにこれを官山として宣言して,労働者の立入りを禁じた。
 しかも,労働者たちは,F・コワニーが来山し,今後は採鉱・製錬ともにすべて機械化したために労働者の多数を必要としなくなって失業せざるをえなくなる反面,政府は機械化によって万両単位で収益をあげることになるとして激昂,かつ自暴自棄となり,集会を開いてテロ行為も辞さない情勢をもりあげて対峙した。
 政府はこの対策として,①5月26日,各山封鎖,②6月9日,東京から会計官権判事井田五蔵(後に譲と改名)ほか3名を派遣,首謀者と目される9名を説諭,③6月29日,久美浜県知事小松彰を派遣して労働者たちを説諭させ,④労働者たちの連署嘆願―生野は僻地不毛のため,鉱山業に従事する以外生計のみちなく,しかるに現在は米価騰貴し,困窮切迫して,秋の収穫をまつ余裕はないという―を入れて,一時救助米を1日1人米3合を貸与すること,などを行なって鎮静させた。
 だが,1871年(明治4)10月15日,暴民蜂起して鉱山支庁を焼打,在庁の官吏わずかに簿書を護して避難する状況であった。この反抗は,廃藩置県で旧藩知事の解任と地租改正反対が理由とされているが,現実的ではない。むしろ,F・コワニーについで続々来山するお雇い外国人の指導による,生産関係の全体が,製錬部門の機械化―砕鉱・搗鉱・焼鉱・樽混汞など―を基軸に急速に近代化されていくことへの反抗ととるのが正確であろう。この焼打ち事件による復興資金として,政府は1万2,560両を支出している。
 なお,F・コワニーの指導による生野の近代化の一応の完成は1876年(明治9)3月22日,すでに建設していた混汞所に32樽のフライベルヒ式樽混汞が設置され,ただちに操業が開始された時期であった。これによって,山師・金名子制度は完全に解体された。それは,後述の他の鉱山にもすべて共通するが,この解体の決定的時期と警備警察官の配備とが見事に相応しているからである。生野の場合は翌年3月9名の警察官を配備して,決定的な転換期の治安維持にあたらせている。そして,その後は状況の推移に対応しながら,人員の減・廃を行なっている。
(2)佐渡金山においては,1872年(明治5)1月,近代化の展開によって失業した労働者および家族などが,鉱石搬出用軌道や機械用鉄板などを破壊し,かつお雇い外国人を狙撃する説が巷間に流布した。政府はこの対策として,①旧新発田県兵士2小隊を派遣して警戒にあたらせ,その後は旧佐渡奉行所勤務の士族百余名をもって警戒し,お雇い外国人の護衛にあたらせた。②相川県参事の鈴木重嶺による失業労働者の救済上申書を採用し,労働者授産局を設置して,授産資金の下付をもって,これを鎮静した。
 だが,その後,散発的ではあるが,強盗や放火がおこっている。すなわち,1877年(明治10),分局の宿直者3名を殺害して官金4,300円余を強奪,81年新設の金淘汰場火災焼失,84年混汞金・銀庫が破壊され,粗地金5個―1,645円25銭―窃取,85年真夜採鉱場竪坑の汽罐場より出火,付属の建物,機械場,役局,鍛治小屋,石炭貯蔵所などが焼失している。
なお,佐渡におけるお雇い外国人の近代化の一応の完成は,1876年2月に旧製錬法を廃止し,かつ11月には開坑事業大いに進歩したので,採鉱負担者=山師・金名子の請負人に借坑を許す慣例を廃止するなど,それは,この請負制度を容認する限りにおいては,公私混淆して,近代的鉱山経営に馴じまないからだと理由を明確にしている。
 前述の強盗は,この山師・金名子制度の解体という決定的な転換の直後に発生しているのである。政府は続発を恐れ,治安強化のために,翌77年4月,分局警備の警察官9名を配備している41)。
(3)阿仁銅山においては,1880年(明治13)官庫の火災で鉱山用備蓄予備約1,300石を焼失しているが,これは77年3月,旧秋田藩以来の慣習である金名子から採鉱石を買収し,対価として米・塩・薪炭・衣服を給することを止め,相応の価格―採鉱石10貫目価金32銭,金鉱石は96銭―で買収する改革を断行したこと。この変革は山師・金名子制度解体の前提で,警察官9名を配備して行なわれた。
 さらに79年,阿仁六ヶ山の採鉱法を「落し掘」に改革し,かつ,前述のように向金・銀山でお雇い坑夫長F・ライヘルに旧坑修理や採鉱法などを実習させて,近代的採鉱法を習得した者を抜擢して,阿仁金山と太良鉛山など周辺鉱山の再開発を進めるにあたり,金名子や労働者たちの混乱を抑止すること,それに,このような改革を具体的に展開するため,一時2名に減員した警察官を,お雇い外国人の護衛も含めて10名に増員配備した。このような対策は一応有効に機能し,旧稼人=山師・金名子たちによる請負制度を廃止することに成功した。その後製錬部門でも,焼鉱場を設置しての硫化鉄鉱自然焼の試験も功を奏し,焼鉱炉1坐・小鉱炉2坐およびピルツ炉1坐を増・新設するまでにいたって,82年(明治15)5月,警察官8名を減員した42)。
(4)院内銀山においては,採鉱から製錬までの生産関係の全体を,山師・金名子に請負わせて,彼らが精銀した山吹銀を買収するだけの旧慣は否定されるべきだとする認識が,1876年(明治9)には成立していた。具体的にどのようにこれを進めるかについて模索していた。たまたまこの年F・コワニーの巡検があり,旧慣改革についての生野での経験が披歴された。
これが巷間に流布して彼らの危機感がたかまった。政府は,この対策として翌年3月治安を強化するため,警察官9名を配備した。
 この間政府は検討を続け,山師・金名子には,従来通り採鉱・選鉱までは請負わせるが,精銀は,新設する撰鉱所で政府管理のもとでおこなわせることに決定した。撰鉱所は翌78年7月に竣工した。ただちに金名子以下労働者たちをここに集めて操業を開始した。
 政府はこのような変革を円滑に行なうため,前月警備警察官を15名増員配備すると共に,独立の院内分署をも設置した。それにもう一つの対策として,前述のように撰鉱所で彼らが精銀したものの買収価格を少しずつ増額してこれを慰撫した。
 この変革は奏功したので,さらにこの年11月撰鉱所を増築した。そしてこの自信から81年(明治14)6月30日を期して金名子制度を全廃することに決定した。だが,金名子たちの強い要求もあって満1年後の翌82年6月30日,念願の旧製錬法を全廃した。これによって,配備の警察官も翌日の7月1日には10名に減員された。
 このような政府の手廻しのよさは,前年の9月21日明治天皇が第2回の東北巡幸の途中,この院内銀山に臨幸され,B・ロェジング指導のもとで着々進行しつつあった諸施設を巡覧し,かつ職員・労働者の全体に酒撰を下賜されたという背景があったからである。
 元来,明治政府成立以後,天皇の全国各地への巡幸がなされたが,直接鉱山に臨幸されたのは,この院内の他,第1回東北巡幸の際76年(明治9)年6月21日福島県の半田銀山に臨幸されただけで,まことに希有なことなのである。
 この希有な天皇の両鉱山への臨幸は,歴史的につぎのように意義づけることができる。まず,半田銀山は第1表に見られるように73年(明治6)官営鉱山に指定されたが,翌年には五代友厚に払下げられ,民営鉱山として再出発した。
 前述のように,五代友厚はF・コワニーと親交が厚かったことから,技術も,熟練労働者もすべて生野銀山に依存して操業を開始したが,鉱山から排出される濁水が稲苗を害するとして,隣接諸村から操業停止の要求が出され頓挫した。五代友厚は現状打開のために,直接的対策として,①3ヵ所の沈澱池を設置してこれに排水を導入し,石灰を投入撹拌して流出させる措置をとり,②工部省鉱山寮と生野のF・コワニーに濁水と沈澱物の分析を依頼し,「この水はneutral reactionにして,植物に何らの害を及ぼさない43)」ものだとする報告書を提示し,間接的には,①明治天皇の東北巡幸の先遣をつとめていた盟友の内務卿大久保利通を半田に立寄らせ,②ついで明治天皇の臨幸をえるなど,最終的には天皇の御稜威をもって,この事件を解決している44)。前述の院内銀山への天皇の臨幸は,製錬部門を基軸としながら,山師・金名子による請負制度の廃止という一大変革にともなう混乱の終息を,まさに天皇の御稜威によって果そうとしたものだということである。
 しかしながら,この年の11月12日午前3時肝心の撰鉱所の焼失,翌83年3月,鍛冶場の焼失,10月には火薬庫に賊が入り,爆破焼失など45),散発的ではあるが,これら一連の動向が,院内における近代化の展開にとって,大きな妨げになったであろうことは,容易に首肯されるところである。
 以上種々述べてきたように,山師・金名子制度を基礎とする在来の経営仕法から,機械制生産に基礎をおく近代的鉱山経営の変革にあたっては,常に警察や軍隊,そして時には天皇などの,権力や権威が密接に作用していた事実は,注目にあたいすることからだといえるのである。
 なお,山師・金名子制度の解体に抵抗する原則的な根拠は,失業への懸念であったことはいうまでもないが,院内銀山における山師・金名子制度の解体理由にあったように,各自の家で精銀を行なうことによって,「その一部を隠匿密売」する余地を失うことにもあった点を付記しておく。これは推則するに,院内のみでなく,広く一般化していたことは1878年(明治11)尾去沢銅山の一坑区,元山沢労働者一同が経営者に対して提出した「願書」に,洋式搗鉱機の導入によって仕事が暇になったので,決して「密売」をしないことを条件に,在来の労働仕法への復帰を嘆願していることなどによる46)。
6 近代鉱業技術の定着とその担い手

 お雇い外国人によって導入された諸種の技術は,国籍や各自の修得した技術的背景を異にしていたため,その定着を図ることは極めて困難であった。しかもこれに加えて,請負制度解体の危機に直面した山師・金名子による妨害もあって,その多くは試行錯誤を繰返えさざるをえなかった。
 たとえば,1877年(明治10)の院内銀山では,山師・金名子が占有し,かつ恣意的に行なっていた灰吹精銀を基礎とする製錬部門を,政府が没収して電気沈澱による製錬技術を導入したが,再三にわたる純度テストにもかかわらず良い成果はえられなかった。
 このため5年後にはこれを廃止し,工場の設備を更改して,大島高任が小坂に導入したオーグスティン=用銅和塩沈澱法に切替えている47)。しかし,これとても,定着までは多くの時間を要したので,すでに廃止した旧製錬技術としての灰吹精銀法を再び採用せざるをえなかったことがそれである。
 このため,政府はお雇い外国人の指導を正しく理解し,その定着に寄与させるために,鉱業理論や技術を組織的に修得させるための教育制度確立の必要を痛感した。これについては,幕末すでに箱館坑師学校の例があり,また明治になって,F・コワニーによる生野の鉱山学伝習学校や,A・メッツゲルの発想で,F・ライヘルが向山金・銀山を実習場として,採鉱部門に関するいっさいを組織的に伝習させた例はあったが,政府が直接関与しなかったこともあって永続しなかった。なお,これらの人々は,後述の大学卒業者と違って,もっぱらお雇い外国人の指導内容を正しく理解し,その定着の補助的役割を果したことは確かであるのに,今日,殆んどその実態が知られていない。
 政府は,当時の日本人の中で高度の近代鉱業理論と技術に精通していた大島高任の鉱業技術教育に関する意見48)もあって,1871年(明治4)工部省内に工学寮を創設した。これは77年工部大学校と改称され,教授陣は教頭(Principal)H・ダイエルを中心に,一部を除いて殆んどイギリス人でかためられていた49)(付表2)。
 しかし,ここでの教育内容は,ドイツやフランスの工業教育とイギリスの工業教育の方法の長所を組みあわせた50)ものであったという点が注目される。
付表2 工部大学校傭外国人各務担当表
教頭,H・ダイエルの構想したものであった。これは鉱業のみならず広く工学の全体に関して,統一的な理論と技術の修得と普及にとって大きな意味があったといえよう。
 1879年(明治12)11月第1回卒業生23名を世に送った。そして,86年東京大学理学部の一部と合併して,帝国大学工科大学校となるまでの7年間に,全卒業生206名中鉱山科48名,冶金科5名の卒業生を送りだしている(第5表)。
第5表 工部大学校卒業生徒氏名表(1879~85)
 政府は,これら卒業生をもって漸次工部大学校の外国人教師と交代させる計画で,優秀な人物11名を選抜してイギリスに留学させている。ちなみに,鉱山・冶金科を卒業した近藤,小花,栗本の3名がロンドン鉱山学校に留学した。栗本はさらにフライベルヒに留学した。
 これについて,政府の意図するところは,この時期の工部省関係のお雇い外国人は,ピーク時(1874年)の300人の半分以下にはなっていたが,それでも定額常費の66%の金額が給料として支払われている財政負担の改善にあったのである51)。
 この意味でも,政府にとっては技術教育をなおざりにできなかったのである。さらに当時工学技術の高等教育機関として,この工部大学校に比肩する存在として,当時東京大学理学部があったが,この中に採鉱・冶金学科が含まれていた。詳細は後述するが,どちらかといえば,東京大学理学部の採鉱・冶金学科の卒業生の中から,鉱山行政担当者や学理を教授する人物が輩出し,工部大学校の卒業生は,各地の鉱山現場に進出して,お雇い外国人にかわって近代鉱業技術を導入し,かつ,その定着と発展にたゆまぬ指導性を発揮するという,最も大きな役割を果している事実を指摘することができる。
 なお,関連して両大学校以後,採鉱・冶金関係の高等技術教育が,どのように拡大,発展していったかについて,その経緯を考察したものが第6表である。
 それに,これら大学卒業生が世に出るまで,お雇い外国人の助手として,諸種の苦難に耐えながら,彼らが導入した機械技術の定着に,身命を堵して取り組んだ工部省技術見習生の存在があったことを付記したい。
 この技術見習生は,工部省所管の諸工業は,わが国ではじめての技術であって,これを拡張,発展させるためには所管の諸工業に精通する人材の育成が急務であることを目的として52),1873年(明治6)第1回入学生10名をもって発足したものであった。
 この中に旧南部藩(岩手県)出身の阿部知清がいた。彼は自伝ともくされる「記事録」を残しているが,これによってもどのようなカリキュラムのもとで学んだがかは不明であるけれども,工部省鉱山師長J・ゴットフレーの直接の指導をうけ,この年11月,小坂銀山に配属されたお雇い外国人C・ネットーに随行して,1877年(明治10)C・ネットーが退山するまでの4年間,彼によって導入された湿式製錬法であるツィールフォーゲル沈澱法,ハント・ダグラス分銅法の定着に取組んでいる。
 特にこれらの技術は,わが国最初のものであるにもかかわらず,アメリカ版のテキスト1冊をたよりに,この定着を図らなければならず,その心苦の程は言語に絶したと述べている。しかもこの技術の定着は,在来の山師・金名子による請負製錬を解体して行なったものだけに,失敗は許されず,鉱山全体の怨嗟の中で技長C・ネットーを中心に,ひたすら成功を信じて取組み抜いた状況を刻明に記している53)。
 いうなれば,前述の工部大学校や東京大学で採鉱・冶金学を修得した人々が,お雇い外国人にかわって鉱山行政や学理の教授,あるいは地方鉱山の現場において高等の近代鉱業技術を導入し,かつその定着と発展を図りえた基礎は,先にも述べたF・コワニーの生野における鉱山学伝習学校,A・メッツゲル,F・ライヘルらの向金・銀山実習場の卒業生や,阿部清知に代表される工部省技術見習生など,これまで殆んど知られなかった草奔の人々によって培われていたことによるといえよう。この系譜につらなるものについての初等技術教育の展開状況をまとめたものが第7表である。
 ともかく,政府は財政上の見地から,1880年(明治13)工場払下げ概則を公布して官営事業の整理に着手した。鉱山業も例外ではなかった。払下げの時期こそ一定ではなかったが第2表に示したように1896年(明治29)生野・佐渡の両鉱山の払下げをもって鉱山官営の時代は終った。被払下げ人は三菱,古河,藤田,三井など政商たちであった。
 いま,1885年(明治18)古河の所有となった阿仁・院内を中心に大学卒業者との関係を見る。(注:工は工部大学校卒業生,○の中の数字は卒業回生を示す)
第6表 明治期採鉱・冶金関係高等技術教育機関一覧表
阿仁=工②近藤陸三郎,工②狐崎富教,工④石田収,
院内=工②松下親業,工②牧相信,工⑥島田研六
 その他
小坂=工②仙石亮 佐渡=工④神田礼治,渡辺渡(東京大学理学部)
足尾=工②沖龍雄 日立=工④神田礼治 神岡=工①栗本廉
第7表 鉱山関係初等(補助)技術者教育機関一覧表
吉岡=長谷川芳之助(大学南校) 生野=和田維四郎(開成所)
別子=塩野門之助
 いま,これらの人々についていえることは,地方鉱山の現場に進出して,直接技術指導をおこなっているのは殆んど工部大学校の卒業生だということである。
 そして,基本的には各自が修得した理論と技術をもとに鉱業・鉱務・製錬課長や坑場長・技師長として,生産関係の全体を掌握し,一定の生産計画のもとで経営の展開を進めている事実は,かつてお雇い外国人たちが,鉱山所有者=経営者が山師・金名子にかわって,先進の経営および技術についての理論と実際に習熟し,経営者自らの起案による経営構想のもとに,生産活動の全体を支配的に行なうことだと指摘した,近代的鉱山業に相応するものであるといえるのである。


1)佐渡金山の場合,「金・銀減産につき,極力産出増加を取計らうべきこと」慶応1年5月。佐渡郡教育会,『佐渡年代記続輯』巻之三,昭和13年刊,2ページ。
 生野郡山の場合「兎角堅石に而捗々敷無御座」と山師太兵衛が奉行所へ上申している。元治2年(1864)5月。
 また「当節迄相稼候得共出連(出鉱)も無之」(慶応2年9月)と清七が上申している。生野町役場,『生野史』鉱業編,昭和37年刊,52-53ページ。
2)門屋養安著『門屋養安日記」秋田県立博物館所蔵(未刊)。
3)鉱床全体が採掘価値のある品位をもつ鉱石で,日本では古くからこの富鉱体の形態的特徴によって,「大直り」,「落合直り」,「落し」などと俗称している。「地学辞典』平凡社,昭和45年,943ページ。
4)株式会社住友本社『別子開坑二百五十年史話』昭和16年,168-169ページ。
5)三井金属鉱業株式会社『神岡鉱山史」昭和45年,693ページ。なお,この加背,つまり坑道の空間部分の規模は,各鉱山によって色々であり,国家として統一的な基準はない。ちなみに,石見銀山の主要坑道は縦6尺,横5尺を基本としたが,これを56(ごろく)の加背という。他に,鉱山によっては53(ごさん)の加背,42(よんに)の加背を定法とする鉱山もあった。
6)「溢れもの」について,
(イ)『日本庶民生活史料集成』第10巻「農山漁民生活」三一書房刊,1970年,「院内銀山記」507ページ。
(ロ}『別子銅山口上覚』享保6年予豫州別子銅山山師泉屋吉右衛門,住友修史室所
蔵。
(ハ)「川口富十郎手控」寛政元年尾去沢銅山御見分使江差出書留,川口家文書(未刊)。
(ニ)川路聖護日記川田貞夫校注「島根のすさみ―佐渡奉行在勤日記』,東洋文庫226,平凡社,昭和48年 141ページ。
 なお,これらの史料では,それぞれ文字のあてかたに相違がある。たとえば,(イ)「あふれもの」・(ロ)「不埓成者」・(ハ)「阿ふ連者」・(ニ)「溢れもの」などである。
7)『福沢諭吉全集』第20巻「幕末外交文書訳稿」岩波書店,昭和33年,491,499,500,506ページ。
8)ユネスコ東アジア文化研究センター編「資料御雇外国人』小学館,昭和50年,172ページ。
9)大島信蔵編『大島高任行実』,昭和13年,462-65ページ。
 この坑師学校には,文久3年に伊藤博文,井上馨とともに脱国してイギリスに留学した山尾庸三,井上勝らの長州藩士もいた。維新後,山尾庸三は工部省,工部大学の創設のほか,終生鉱工業行政を通して明治の工業近代化に大きな役割を果し,わが国工学の父とも称された人である。」
10)前掲『福沢諭吉全集』第20巻「幕末外交文書訳稿」569-70ページ。
 1863年3月21日,ブレークは,箱館奉行村垣淡路守に宛た帰国の挨拶の書簡を上海から出しているが,この中で,「余我国の鉱山器械及び改正武器を見せしめん為め学生を亜米利加へ送り給はるべきことを足下に述べたり。此学生は余が方へ来るべし。然るときは余之を導き,我国の鉱山及び船艦のことに附き何事も教示すべし。余足下に望む。武田・宮川・大島諸君及び其外のものを送り給ふべし。彼等は才力ありてよき学生なり」と述べている。
 大橋周治『幕末明治製鉄史』アグネ,1975年7月1日,180ページ。
11)大内兵衛,土屋喬雄共編『明治前期財政経済史料集成」改造社刊,昭和6~11年。工部省沿革報告,91-96ページ。
12)「大隈重信関係史料」早稲田大学所蔵史料(A4008)。
13)井上候伝記編纂会編『世外井上公伝』第2巻,原書房刊,昭和43年,468-69ページ。
14)傭仏国人鉱山技師フランシスク・コワニェ著,石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』羽田書店刊,昭和19年,39-40,104-5ページ。
15)・16)前掲『日本鉱物資源に関する覚書』50,105ページ。
17)「日本科学古典全書』第9巻所収,朝日新聞社刊,昭和17年,137,144ページ。
『日本鉱山編』,東京大学法理文学部印行,1880年,25,32ページ。
18)F・コワニーの「阿仁銅山見込書」は1876年(明治9)の作成である。九州大学工学部資源工学科図書館所蔵。全5篇からなっている。詳細は拙稿「F・コワニーとA・メッツゲルの近代化構想について―秋田県阿仁鉱山の巡検・調査報告書の分析から―」昭和53年度全国地下資源関係学協会合同秋季大会分科2号研究会『資料〔J〕鉱業における技術史』参照のこと。
A・メッツゲルの「阿仁鉱山報告書」,1879年(明治12)の作成である。秋田県阿仁鉱山株式会社所蔵。
19)Einiges, Ueber Bergbau und Huttenwesen in Japan,von A・Mezger. 国立国会図書館所蔵。
20)株式会社住友本社『別子開坑二百五十年史話』昭和16年,株式会社住友本社平塚正俊編,310-11ページ。
21)前掲『別子開坑二百五十年史話』309-10ページ。
22)汞膏(こうこう)法は混汞(こんこう)や混?(こんこう)などの読方や字のあてかたがある。
23)前掲『日本鉱山編』54-55ページ。なお,鉱山業の近代化が,製錬部門からはじまったことは,C・ネットーの『日本鉱山編』による確認の他に,明治政府の公式記録である「工部省沿革報告」96-149ページによっても確認した。
24)矢島祐利『コワネ文書について,鉱山技師コワネとオジエの新資料』ユネスコ東アジア文化研究センター刊,1970年12月,6,93ページ。
25)J・ギャンペル著,坂本賢三訳『中世の産業革命』1978年12月12日発行,48-54ページ。
26)前掲「日本鉱物資源に関する覚書」3,22-23ページ。
 および前掲「工部省沿革報告」102ページ。
27)財団法人,日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』第3巻,東洋経済新報社刊 昭和47年12月15日,111ページ。
 松浦建二編『半田銀山鉱業沿革誌』(半田銀山弘成館蔵版)明治20年9月,(R-28-45-961)大阪商工会議所図書館所蔵。
28)前掲『五代友厚伝記資料』第3巻,106ページ。
29)同和鉱業株式会社事業史編纂委員会編『七十年の回顧』同和鉱業株式会社刊,昭和31年11月25日,24,31-32ページ。
30)一例として下記をあげる。前掲「コワネ文書について,鉱山技師コワネとオジェの新資料」36ページ。1879年6月20日,P・オジエが東京からコワニー宛に出した書簡によれば,「薩摩の労働者たちはみんな優れている。しかし,親方となるとどんな下級のものでも,一と言で命令に従わず,折角の改良の企てを麻痺させてしまうように見えないものは1人もいない。監督のニロー(二郎か?)は善人で,いつも順調に運ぶが,彼を補佐する多過ぎる役人たちは,ヨーロッパの要素には,明らかな敵意を持っている」と,その指導の困難さを述べている。
31)前掲「工部省沿革報告」102ページ。
32)太田虎一著,柏村儀作校補『生野史』1.校補鉱業編,生野町役場刊,昭和37年1月20日,64-67ページ。
この鉱山学伝習学校の設置場所は,生野町内の猪野々町であった。
33)前掲「工部省沿革報告」122ページ。
34)前掲「別子開坑二百五十年史話」278-79,298-99ページ。
35)「工学叢誌』第5巻「阿仁鉱山新工事之概況」狐崎富教記,国立国会図書館所蔵,230-31ページ。
 これについて,前掲「工部省沿革報告」124ページにおいて,「阿仁鉱山の砕鉱撰鉱が緻密でないので改正の要があり,廃鉱の採製に着手するの要があるからだ」と述べているが引用史料の意図と全く同じものである。
36)それに,A・メッツゲルのEiniges Ueber Bergbau und Huttenwesen in Japanによると,この向山実習所における坑夫頭=坑夫長教育の成果について「阿仁から約60㎞離れている太良鉛山では,この結果従来の3倍に生産量が増加した」と述べ,更にそれは「①坑夫長の整序された役割,②引上げられた全鉱山労働者の能力,③より綿密な旧式の手段でなされる選鉱における注意」の3点を強力に実行させたからだと述べている。
また,A・メッツゲルの「阿仁鉱山報告書」及び「工部省沿革報告」によれば,採鉱の前提として,①通洞,②竪坑の開削をおこない,①には軌道を敷設し,②捲揚機をセットして切羽=採鉱場所よりの鉱石の搬出を容易にし,かつ,③火薬(後ダイナマイト),④排水坑道を使用,セットして,在来の手掘採鉱を克服する指導をおこなった。やがて,⑤削岩機が導入されてくる点を付記する。
なお,採鉱方法は「鉱石」の存在状況によって,別添資料に見られる展開をとげていった。
37)前掲「工部省沿革報告」125ページ。
38)阿仁銅山は,1879年(明治12)当時は,小沢,真木沢,三枚,一ノ又,二ノ又,萱草の6坑区からなっており,A・メッツゲルはこれらを採鉱所と呼称した。
39)前掲「工部省沿革報告書」129-31ページ。
40)前掲『生野史』70-73ページ。関連史料として「奥銀谷町御用留」,「生野鉱山景況書」,「石川日記」などが,前掲「工部省沿革報告」以外に引用されている。
41)前掲「工部省沿革報告」97-99ページ。
その他,佐渡郡教育会編『佐渡年代記続輯』巻之9,22-27ページ労働者授産について,昭和13年,佐渡郡教育会刊,麓三郎著.『佐渡金銀山史話』昭和31年,三菱金属鉱業株式会社刊,三菱鉱業セメント株式会社総務部社史編纂室編『三菱鉱業社史』昭和51年,三菱鉱業セメント株式会社刊,などを参照した。
42)前掲「工部省沿革報告」122-25ページ。
その他,松川七蔵編『阿仁合町郷土史』昭和11年,秋北新聞社刊。
43)R28-36-952,「半田銀山坑内濁水分析書」,鉱山師長 ゼー・ジー・エッチ・ゴットフレー,明治9年6月21日1,鉱山技師 コワニー,明治9年6月21日,「五代友厚関係文書」,大阪商主会議所図書館所蔵。
44)拙稿「1876年(明治9)福島県半田銀山における洗鉱濁水の処理をめぐって―お雇い外国人ゴットクレー・コワニーの分析報告から―」昭和53年度日本鉱業会研究・業績発表講演会講演要旨等。前掲『五代友厚伝記資料』第3巻,143-47ページ。
45)前掲「工部省沿革報告」129-31ページ。
46)『古文書調査資料』Ⅲ,「尾去沢鉱山関係文書(その2)」昭和53年,鹿角市教育委員会刊,60-61ページ。
47)前掲「工部省沿革報告」131ページ。
48)前掲『大島高任行実』683-86ページ。
 坑学寮新設に関する高任の意見書,明治3年9月25日。
49)旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料・同附録』,1978年,青史社刊 353-56ページ。
50)前掲『旧工部大学校史料・同附録』,工部大学校在学中の記憶,中原淳蔵,113-16ページ。
51)日本科学史学会編『日本科学技術史大系』第8巻・教育1,1964年,第一法規出版刊,339ページ。
52)前掲『旧工部大学校史料・同附録』11ページ。
53)前掲『鉱業における技術史』26-28ページ。「阿部知清自伝について―お雇い外人を支えた人々―」日本鉱業会葉賀七三男論文。