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戦前の東京における町内会

Author: 中村八朗
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目次

 はしがき・・・・・・・・・・2
 Ⅰ 町内会の形成・・・・・・・・・・5
 1 町内会の前身・・・・・・・・・・5
 2 町内会形成の主要契機・・・・・・・・・・17
 Ⅱ 町内会の組織と事業・・・・・・・・・・24
 Ⅲ 町内会整備・・・・・・・・・・30
 むすび・・・・・・・・・・33


はしがき

 現在の途上国都市は「過剰都市化」と呼ばれるほどにその経済力を遥かに上廻る人口を擁しており,その必然的結果として都市の内部や周辺におびただしい数のスラムやスクォッターを生み出している。これに対する施策はどの途上国も等しく苦慮するところであるが,ただ関係者がしばしば指摘する点として,スラムのスクォッター地区住民の組織化の必要性をあげることができる。1976年ハビタートにおいて教典とさえ目された『人間の居住(Homes of Men)』においても,著者バーバラ・ウォードは何個所かで住民の組織化や彼らの創造的,協力的役割が途上国では特に重視されべきことにふれている(磯村英一・駒井洋訳『人間と居住』141,248,269-70,290,302ページ)。このことと関連して日本の体験をふり返る場合,当然想起されるのは町内会の存在である。
 従来,町内会はわが国の都市にのみ組織されており,欧米諸国の都市ではその例を見ないものとして扱われてきた。大正末期に東京市政調査会によってなされた欧米諸国の町内会に関する照会に対し,ニューヨーク市政調査会理事ルーサー・ギューリック博士により,「現代余の知る限りに於ては欧羅巴及亜米利加に於てかかる機能を有する団体なし……かくの如き団体の日本に存在することは日本が猶ほ封建制度の餘影を残存なせるがためにあらざるや」と回答があって以来,町内会をわが国独自のものとするこの見解が一般的となってきたのであるが,ただ欧米は別としても,町内会類似の組織を持つ都市がわが国以外にも見当らない訳ではないようである。カルカッタと香港の場合がそれであり,前者にはmohalla後者では街坊会と称する組織がつくられている。また最近ではフィリピンがbarangay,韓国が班常会という組織を新たにつくっているが,これによってわが国の町内会に似た地区住民の組織化を目指しているようである。これらの状況との関連を考慮した場合,わが国がまだ先進段階への途上にあった戦前の時期に,町内会がいかなる過程を辿っていたかという点にわれわれの研究関心が呼び起されることになる。このような問題意識に立脚した上で,本稿でに対象地域としてはわが国都市発達の中心をなした東京をとりあげ,そこでの戦前における町内会の変遷を扱っていくこととする。
 ところで現在のわが国における一般常識では町内会にかなり否定的評価が与えられ,住民活動に関するある座談会の記録から引用した次の例のように,時に強い不信感を懐かれていることも少なくないようである。
 そもそも町内会・自治会なるものは,新興住宅地や団地の自治会を別とすれば,戦前・戦中の「隣組」組織の延長線上に存在するものであって,当時の国策上の要請から半強制的に組織されたというのが始まりなんだ。それを戦後になっても行政側で温存させて,いろんな住民接渉の場合の,いわば“道具”として使ってきたというのが現実じゃないかね。だから自発的といえるかどうか。僕は疑問ですな…。だから本質的に町内会というのは行政の下請機関なんだ。地域のボスが名誉欲を満たしてくれるものとして大事にしてきたものにすぎないよ1)。
 約言すれば,地域ボスの支配する官製の行政下請機関ということになるが,この他に一般常識でさらにその起源は徳川時代の五人組にあり,したがって町内会というものは封建制度の残滓に過ぎないとも見倣されているようである。
 同様な評価は一般常識としてただけではなく,学問研究の中でも見出すことができる。秋元は戦前の町内会形成過程の研究の中で,「国民の擬似的自発性を上からの官僚的な権力支配の機構に転化する装置2)」となり,「ファシズム体制の基盤として,重要な役割を演ずる3)」に至ったことを強調し,一方今日の町内会について倉沢はそれが新しいコミュニティの中核的担い手たり得ない理由の一つとして「なんといっても町内会・隣組が果した過去の役割のゆえに,多くの都会人にとって,魅力ある集団とはみなされていない4)」点をあげている。一般常識および学術研究に現れている以上のような理解は,何れも戦時中に町内会が軍国主義の貫徹に向けて国民を総動員するための有効な組織として機能したという,日本人にとっての不快な記憶と結びついている。
 しかしその反面では,この記憶に影響されてか,町内会については冷静な認識を欠く場合もしばしば起る。筆者がかつて東京都下で行なった調査では,それまで指摘されてきたものとは異なった性格をもつ町内会も少なからず見受けられたのであるが,このような町内会の出現がそれまでは無視されていたのは研究者の主観的歪曲が介在していたからであろう。上でふれたように,否定的評価の根拠として問題にされる戦時中に果した役割に関しては,当時は大学といえども軍事教練を課し,総長が激励の辞を与えて多くの前途有為の青年を戦場に送り出していたことを想起すれば,町内会のみについて当時の役割を問題にすることに介在した研究者の主観的選択を認め得るはずである。
 学術研究における主観的歪曲排除の必要性は説くまでもないことであるが,以上を考慮した場合,町内会の研究については,このことを改めて強調する必要がある。主観的選択の作用する研究結果が途上国に呈示されるとすれば,それは究極的にはその国での政策の選択の誤りをも惹き起す可能性がないとはいえない。本稿でもこの点を充分留意したのであるが,それは利用した資料の取捨選択に関係することとなった。
 農村の五人組の場合とは異なり,都市の町内会についての戦前の資料はやや乏しいきらいがあるが,それでも戦時中には,その数は急増するようになる。しかし言うまでもなく,それらは軍国主義・国家主義の基調に立つところから当然客観的認識を欠くものであり,したがって本稿では参考にする場合は十分に警戒を払ったのであるが,その殆んどについては利用を断念することとした。一方,戦後になって書かれた戦前,戦中の町内会の研究もある程度の蓄積をみるようになっており,先にふれた秋元の研究はその一例である。しかしこれらは既に述べたところから理解されるように,戦時中の反動としてやはり客観性に難点があると思われ,当然これらについてもその利用を控える結果となった。日本人にとって不快な記憶である国民精神総動員の政策は昭和12年に始まっており,それに由来する内務大臣訓令「部落会町内会等整備要領」は昭和15年に発表されている。またこのうち東京では昭和14年9月15日に市内全町会長の参集する「興亜奉公東京市町会大会」が日比谷公会堂で開催されている。町内会の戦時動員はこの頃から本格化したのであるが,上記の理由から本稿では利用する主要資料と扱う時期に関してはなるべくそれ以前に限ることとした。なお利用した資料には「町内会」に代って町会と書かれている場合があり,そのため本稿でも町会という名称を用いる箇所が現われてくるが,この両者は全く同義語と考えている。

Ⅰ 町内会の形成

 戦前における東京の町内会に関し,まずその形成過程を本章で扱うこととするが,それを前半と後半の部分に分け,前半では町内会の前身,後半では町内会の形成を促した主要な歴史的契機を述べることとする。町内会の前身としては前半であげるものの他に,正確には昭和7年に行なわれた市域拡大以前の周辺地域における区が加えられねばならないが,これが町内会に関連を持ってくるのは,本稿でカバーする戦前期のうちでもかなり終りに近い時期である。二部分に分けながらも本章ではなるべくクロノロジカルな叙述展開を図ろうとしたが,その場合,これを前半でとり上げては叙述が混乱する恐れがある。そのためこれだけは後半部分に廻し,その適当と思われる箇所で扱うこととした。

1 町内会の前身
 既述のようにギューリックは町内会の存在を封建制度の余影と見たのであるが,おそらくわが国でも同様の見解をとり,例えば徳川時代の五人組がその起源となっていると見倣なす人も少なくないと思われる。実は徳川時代の末期とか明治の初年に存在していた旧制度や古い慣習が前身となったという町内会は余り多くはなかったようであり,東京市政調査会が大正14年に実施した調査結果の報告書『東京市町内会に関する調査』(昭和2年1月発行)では,調査した町内会の創立時期に関する結論として「東京市における町内団体は封建時代における小地域的団体と全然別個に,明治維新後の東京の経済的社会的政治的影響の下に自然に発達し来りしものなりと見るべきと思う5)」とさえ述べており,「最も古きは江戸土着民が比較的多く居住せる方面として日本橋区の町会に付いて調査するも,其設立せられたる年月皆新らしくして,一として封建時代の五人組名主等の制度を継承せる沿革ある町内団体あるを見なかった6)」ことも付け加えている。
 しかし,その後昭和8年になって東京市の実施した調査結果の報告書「東京市町内会の調書』には多少の該当例が記載されるようになっており,前身としては,五人組,町総代,地主会,世話人制度(世話人会),年番制度,若衆会,氏子団体をあげている7)。このうち町総代から年番制度まではいずれも地主・家守を構成員とするものであり,一括して地主・家主組織と称することとする。(町総代や世話人は地主や家守から選ばれ,世話人が半年毎に交替就任するものが年番制度であった)。その上でこれらについて次に説明を加えてみよう。
 五人組―本稿ではその利用を控えることとした臨戦体制期の町内会関係文献では,しばしば町内会が五人組の伝統を継承していることが強調されており,昭和7年発行の『品川町史」においても「町内会の起源発達は極めて古く,徳川時代の五人組の発達せしものにて8)」と記されているところからみて,町内会の前身を五人組とするものも少なくはなかったと思われる。『東京市町内会の調査』では,その例として板橋区中新井1丁目町会をあげ,これについて「明治初年北新井組なるもの組織せられ五戸を組合と称し其五組合を合して一組と称す。然るに漸次戸数増加し震災後は百餘となり昭和七年十月一日市郡併合に伴ひ町内会組織となす9)」と述べている。
 しかしその反面では,明治32年発行の『東京風俗史』上の巻には「五家相保つという五人組は,全く廃れたれども10」と書かれていて,むしろ前述の東京市政調査会による報告書の結論を裏付けており,その他にも『下谷区史』(昭和10年)には「今日の町会はそれが私的団体であることに徴しても知れる如く是等の制度(=江戸時代の五人組制度,明治初年における町年寄の制度)を直接受け継いだものではない11)」という記述を見出すことができる。
 このようにわれわれは,一方では町内会と五人組の関係を認め,他方ではそれを否定する文献に接するのであるが,これは明治初期にすでに都市化していた地域と,板橋や品川のような後年の東京の拡大によって都市化した地域との相違に基づくのではないかと思われる。わが国の農村では維新後も五人組が維持されていた地域が多く,そのような地域が都市化した場合には,板橋区の中井1丁目の場合のように,維持されていた五人組が母体となって町内会の形成をみることもあったのであろう。しかし維新当時の都市化地域では『東京風俗志』で観察されているように,五人組はすでに消滅していたと理解できる。
 この問題に関しては,江戸の町人・庶民層の社会構成と五人組との関係にもふれておく必要があるが,前者については,地主(家持),家守(家主),店借りという階層区分のあったことが指摘されている。このうち家守は家主,時には大家ともいわれたが,彼らが貸家を所有していた訳ではなく,ただ所有者の委託を受けて店借りの管理に当る差配人だったのであるが,厳密な意味で町人に属していたのはこの家守までであり,五人組はこの家主によって構成されていた。つまり江戸の町方人口の六割以上を占めた店借り12)は五人組編成からは除外されていたことになる。幕府は天和3年9月の「店借之者も五人組を想定,互致吟味,不見届もの有之候は,家主,名主へ可申之13)」という町触れにより,店借五人組の組織化を図ったのであるが,寛政期には肝煎名主の答書に「其節は店のものも五人組を想定候儀と奉存候へ共,何となく中絶仕候哉,当時店五人組定置候場所無御座候14)」としたためてあり,すで有名無実のものに化していたことを示している。五人組がこのように町人,庶民層の一部をもってのみ構成されていたとすれば,一定地域の住民をすべて網羅することを基本的特質の一つとしていた町内会とは異質な点があったことが理解できよう。
 五人組についてさらに注意しておかねばならないのは,それが町年寄-名主-五人組という系列の町役人による江戸の行政機構の末端に位置していたことであり,構成員である家守は月毎の交替で自身番に出向き,月行事といわれる行政事務を処理していた。この末端機構は明治2年6月に新政府によって廃止されたのであるが,その後無給の町年寄や庶務に従事する有給の町用掛を置くなどしてすすめられた行政改革の試行錯誤では,旧機構を担当した町役人層が再び起用されることが多く「〔明治2年〕11月3日に至り各町に有給の町用掛を置いたが,これに選ばれたのは多く旧自身番の家主であったという15)」とも書かかれている(この点については後で再びとりあげる)。五人組の果した機能はさらに後には区役所(明治9年2月設置)に派遣された書記に引継がれるのであるが,このため,例えばかっては五人組に出された出生届は,後には区務所が直接受付けるようになった16)。以上を考慮した場合,しいて五人組の継承を考えるとすれば,後の下部行政機構に求められることになり,この点からも五人組と町内会の間には連結性が欠けていたと見ることができよう。
 地主・家守組織―板橋区中新井1丁目のように,以前は農村であった地域を別とすれば,旧制度のうち,後の町内会になりえたものは五人組よりはむしろ地主・家守組織であった。町務といわれた個々の町内の環境管理には,そこに不動産を持つかそれを掌った地主や家守が無関心ではあり得ず,したがって彼らが協同してそれに当ったことは首肯できるのであるが,しかしそれよりは幕末から持ち越された店子に対する彼らの支配的地位が大きな要因をなしたと思われる。『明治文化史』第12巻は、家守が町役人として町内の公務,町用をを弁ずるような仕組で「借地・借家人は管理されていたから,町内という枠の中における大家と店子の関係が庶民生活の根幹をなしたと言ってよく,さまざまの生活協同の方式も,この関係に制約されていた17)」ことから五人組廃止後も「差配人の勢力が強くて,これを除外しては町政の運用は困難18)」であり,したがって町用掛が置かれた際にも,結局それに当ったものの多くは差配人であった」と述べている。同書は引続き,明治の初期には地方行政の諸費用はまだ地持・家持の支弁に係り,したがって自治的な諸機能の担当も,主として彼らの合議によるところであった……このような関係のもとでは……大家―店子の関係も万般の生活協同において,まだその基調として働く根拠を残していたとみられる」と指摘しているのであるが,地主,家守がまだ暫くは保っていた支配的地位については「東京風俗志』も「幕府の初めより町年寄,地主,名主等行政機関となり,自治制の行はれしこと二百余年,維新の後頓に廃せられたれど,猶ほその姿を存じ,地主,家主,差配人の別ありて,市政の上に陰に陽に権力を具ふ」と記している。
 以上からわれわれは彼らによる町内組織が形成されていた背景を知り得るのであるが,『東京市町内会の調査』はそれを前身とする町内会の例を,日本橋区,浅草区,麹町区,牛込区,本所区,京橋区,神田区など,維新当時すでに都市地域であった区においてあげている22)。この点からは,旧制度は後の町内会とは無関係でなかったと言い得るのであるが,ただそれを認めたとしても,町内会の前身となったのは五人組そのものではなく,五人組を構成していた地主,家主と五人組の外側に置かれていた店借りとの間に維持されていた関係であったことに注意しておく必要がある。なお後にふれるように,このような起源を持つ町内会は決して多くはなかったことも付け加えておかねばならない。
 若衆会―五人組,地主・家守組織と,この若衆会および次に扱う氏子団体とは,何れも伝統的組織であるが,しかし前者はすでに述べたように行政機構と関係し制度的枠組に支えられたものであった。これに対し後者には制度的枠組が欠けていたのであり,両者はこの点では相違した組織である。したがって前者を旧制度に属すると言うとすれば,後者は旧慣に由来すると称することができよう。
 ところで若衆会は若衆組,若衆組合,若者組,若者組合とも呼ばれていたのであるが,これについて『東京市町内会の調査』は「地域内の若者(15歳-20歳位まで)を以て組織されていたものであり,幕府,政府等の禁令等を遵守する為め若者同志の申合せによって結成される組合であって一般居住者の間に自由に持たれていた組織である。主に祭礼等の場合活動したものである23)」とその性格を紹介している(「禁令等を遵守するため」)であったとはいえ,「若者同志の申合せによって」かつ「自由に持たれていた組織」であった以上,旧制度ではなくやはり旧慣に由来すると見倣せばならない)。この紹介はやや簡単すぎるが『東京風俗志』に「町方には町内に若衆の組ありて,若者概ね17,8歳に至ればこれに加わる。迭みに親眤することを旨とし,氏神の祭礼の祭などには真先に立ちて斡旋し,また町中に慶弔事あるに当っても,力を尽くして奔走す24)」とある個所を合せてみればその具体的活動内容が後の町内会の場合と類似していたことを推察することができる。
 さらに『京橋区史』が「佃島住吉神社に残る佃島記録中に存する佃東町の若者組明治21年の規約」として揚げる次の若者心得からは,この組織に厳しい規律が課せられたことも知ることができる。
 町内若者心之規定
 第1条 凡朝夕身の安全を守給う神仏を敬ひ崇み祭るべき事
 第2条 公儀の制定布告の義は必ず違背すべかざる事
 第3条 父母を尊み兄姉を敬い弟妹を慈みて家内平和を勉むべき事
 第4条 町内条約の件々に必相守るべき事
 第5条 町内の世話役及び長年の人をば尊敬致べき事
 第6条 友人とは親睦を旨として喧嘩争論等は確く致べからざる事
 第7条 漁業商業を励みて荀旦にも不正の行状所業を為さざる事
 第8条 漁業場又は商業さきに於て同地の人は勿論他処の人と喧嘩争論必成さざる事
 第9条 他所乃者不等の事を申募るともこれを堪忍して平穏を旨とすべき事
 第10条 友人等が人々争論なし居る事あらばこれを和げ諭して事平和に取
計ふべき事
 今般右十条の規定を立候上は若者等各心中に片時も忘るる事なく相守り町内の誉と成様平常心懸べし。万一之に背時は町内一同の恥辱なり。町内の恥は則佃島一般の恥とも相成候故に右様の心違の者は倏忽にたちまち若者連中の加名を相除きて一生の町内交際を断絶する也。是実に生涯の恥辱たるべし。若者等一同能身と心とを謹慎して此の規定を相守るべきなり25)。成文化されたこの掟が現実の生活においてどの程度遵守されたかは明らかでない。再び『東京風俗志』に戻ると「神輿舁ぎは……氏子町内の若衆の舁ぐことにして……三,四十人も群がりて神輿を肩にかけ「わっしょい,わっしょい」のかけ声を放ち揉み上げ揺り上げ,舁ぎ廻ることなりしが……かかる機に乗じて日頃間悪しき家に舁ぎ込みて,どさくさまぎれに戸障子などたたき破りて鬱憤を散ぜんとすることもあり26)」というくだりに出会うが,佃東町においても心得からの逸脱がしばしば起ったことも推測できる。10カ条の心得書に添付された若者組名簿のところどころには,記載氏名の上に「町内だんでつ」「町内にだんでつ」あるいはただ「だんでつ」と書き加えられており,心得書の後書きの通りに,町内の恥辱として交際を「断絶」された若者が少なくなかったことを示している。
 このことに関し『京橋区史』には一つの重視すべき指摘がなされている。それはこの若者組を一例にして氏子団体や講中のような住民の組織が排他的,閉鎖的であったことの指摘であり「土着の人のみによる……組織……が存在し,他の土地からの移住者などは全然これ等の組織の埓外に置かれていたといっても過言ではない程であった27)」のに反して「町会本来の使命は一定の区域に於ける居住者を悉く抱括する土地居住の年代的新旧に関係せざる住民悉く公平なる組合を作る組織であって,前時代の組織とやや類似しているが,非排他なる組織である点に於て大いなる開きがある28)」と述べて両者の相違点に注意を喚起している。現在町内会は冒頭でふれたように,しばしば前近代的組織と見做されるのであるが,若者組やその他の町内会前身組織と比較すれば,それなりの前進の上で形成された組織であったと言い得ることになる。
 氏子団体―東京市の調査からは「現在の町内会の内其の前身を氏子団体として報告したるもの多数に上る29)」という結果が得られ,日本橋区の場合について,同区史は町内会の前身となった2,3の代表例に関する説明の中で氏子団体を第一に挙げ,それについて次のように述べている。
 その一つは鎮守講と云う可のきもので,氏神を中心とする氏子の団体である。氏子総代なり,世話人なりが神社奉仕のため町内の意響を纏めて祭事等に当つたのであるが,そこに崇神敬祖の思想を通じて一脈の町会精神とも云う可きものが伝統され来たと見られる。今日,本区に於ても町会事務所を神社社務所に置けるものが少なかざるはこれが一証を為すものであろう。
 ただこのように言いながらも,東京市の調査では,創立の動機として「氏神祭礼」をあげた町内会の数は全体の3.9%に止まっており31),日本橋においても区史が昭和12年7月1日現在としてあげている区内105町内会のうち,設立経過について宗教的理由にふれているのは2町内会に過ぎない32)。恐らく町内会の諸事業のうちでは,祭礼のような宗教的行事が特に外部の者に強く印象づけられることが多いところから,氏子団体の結びつきが連想される傾向があり,そのため東京市の調査の場合もその報告では上記のような説明がなされ,日本橋区史も氏子団体を強調したのではなかろうか。
 しかしここで注意しなければならないのは,五人組,地主・家守組織,若衆組は組織構成員に着目した名称であり「氏子団体」という場合には組織の機能をとりあげている点である。構成員が前者3組織の何れかであり,機能が神社祭礼に関するもの,すなわち後者の組織である場合には,両者の区分は相互排斥的ではあり得なくなる。前身組織の中でも機能が神社祭礼を中心とするものをすべて氏子団体に含むとすれば,その数は東京市の調査結果より増大することも考えられないわけではない。33)

 以上に扱ってきたのは旧制度、旧慣に関連する前身組織であるか,ただしこれらに由来す町内会は余り多くを数えるわけではない。したがって成立事情から見る限り,町内会について伝統的要因を余りに強調することには問題があると見なければならない。加えてこれら前身組織にふれながらも東京市役所の報告書は「現存町内会が夫等旧時代の自治的団体と如何なる牽連を有するかは……其の間の経過を十分に証明し得ないことを遺憾とする34)」とも断っており,そのため既述のように東京市政調査会の調査からは封建時代とのつながりが否定され日本橋区史も同様の見解をとったのであろう。後に示すように,明治から戦前までの歴史の中,町内会形成について特に重要と思われるのは関東大震災であるが,ただそれまでの間を無視し得るわけでもない。したがって歴史的順序としてはまず旧制度,旧慣との関連を見なければなかったのであるが,しかし震災前までについては,それよりは次にとり上げる衛生組合と睦的組織が遥かに重要な役割を果たしている。

 衛生組合―明治期にわが国で流行した伝染病のうち最も恐れられたのはコレラであった。明治12年,15年,19年,23年,28年と殆んど周期的に猖獗を極めたのであるが,東京ではその都度2,3千人前後の死亡者を出すこととなり,特に15年には5千人以上,19年には1万人に及ぶ死者を数えたのであった。このような状況への対策の一つとして,東京府は伝染病予防法(明治30年法36)第23条に基づき,府令第16号を以て明治33年2月に「衛生組合設置規定」を設け,同年7月1日にこれを施行した。この規定は,一戸を構える者は隣保団結し共同扶持して衛生組合を設くる義務を負うものとし,組合には組合長・副組合長と,事務の都合によっては委員会を設け理事・書記を置くべきことを定め,さらに各組合は総会において,(1)組合の名称,区域および事務所,(2)組合長,副組合長の職務,任期,報酬と理事,書記の手当,(3)組合費収支ならびに組合共有財産管理の方法,(4)総会および委員会に関する事項,(5)伝染病予防に関する事項,(6)規約違反者の処分方法,(7)その他必要と認めた事項,に関する規約をつくらねばならないことが謳われている。
 この府令は住民の組織化に極めて大きな効力を発揮し,東京の全市一円にわたって各町内ごと衛生組合が設立される運びとなった。『日本橋区史』には区内に結成された衛生組合の一覧表が掲載されているが,これによると同区の組合の数は140に達していた35)。また『下谷区史』に示されている全数38に上る同区内の衛生組合についてその設立年数をみると,25組合が明治33年,11組合が34年,残り2組合が35年となっており36),その組織化がいかに急速に進捗したかが理解できる。さらに『深川区史』からも,簡単ではあるが「この規定によって洽く組合の組織されざるなく,本区の如きも全町これを見たのである37)」という記述を見出すことができ,府令第16号の達示が十分に徹底したことは疑い得ないと思われる。1回の流行で死者1万人に達することもあった伝染病の猖獗は各町民の間に生々しい記憶となって残っており,それが府令に対するこのように急速で広汎な反応を呼び起したのではないかと推測される。
 しかし『深川区史』には前期に引続き次のように述べられている。「これによって伝染病の予防乃至救済のことから一般公衆の発達を促すに大なる効果があったと認められるが,しかしこれらの為め組合が活動するには多大の経費を要することに先づ支障が生じ,年と共に有名無実に近き状態となり,独り本区に留らず市内全般に屏見の現状を呈するに至った37)」同じく『本所区史』にも「別に府令が廃止された訳ではないのに,現在では本区のみならず,市内全般に屏見の状態になってしまった38)」と書かれており,衛生に関する住民の組織化を目指した政策が龍頭蛇尾に終ったのを知ることができる。この理由としては,「多大の経費を要する」ことに加え,各種規定が一律的で個々の町内の地域差が考慮されていなかったこと,汚物掃除,下水などに対する対策が次第に進展したためか数千に及ぶ死者を出すような伝染病の猖獗は明治28年の政令で終ったことなども考えられるが,それよりは他方で町内会が結成されるに従ってこの組合の機能がそれに吸収されるとか,あるいは組合自体が町内会に改組されることによる点が大であったと思われる。
 このように衛生組合そのものは比較的短命なままにその寿命を終えたのであるが,反面一つの理由となった町内会による機能の吸収は,それが町内会の形成に大きな刺激となったことも意味し,東京市役所の報告書は「衛生組合の設置は直接間接に町内会設立に重大な衝動を与えたのである。又衛生組合の事務は保健衛生に限定され,町内事務の円満なを遂行に支障を来すため衛生組合を解消して町内会を組織したものが多い39)」と述べている。また『本所区史』は町内会の前身としてこれのみをあげ「現在は……町内会が起り殆んど全区に之を欠いている処はない迄になっているが,この町会の組織は衛生組合の形を変えて生れたものである40)」とさえ記している。昭和12年7月1日現在として『新修日本橋区史』に掲げられている同区内町内会一覧表をみても,設立過程に関して衛生組合が前身であったと思われる説明がなされる町内会は,全町内会数105のうちの31を占めている41)。
 なお,わが国で町内会が存続することについて,それが官製の組織であることがしばしば指摘される。しかし衛生組合に関しては,『本所区史』が,「別に府令が廃止された訳ではないのに」と断っているように,官製であっても短命に終っている。官製のものが長期に亘って存続するのであれば,衛生組合もそうであったはずであり,したがって官製か否かは組織の長期的存続の理由とはなり得ないと見ることができよう。
 睦的組織―町内会成立に関する文献を検討するうちに気付くのは,しばしば「睦的組織」,「睦会」あるいはそれに類する文字に出会うことである。「往時の慶弔祭事のみを事業とした睦的時代42)」「僅々30余年前から住民間に其融和親睦を目的とする睦的団体が生れ……43)」「町内有志が懇親の為組織した睦会44)」「近隣有志の懇親会を中核として発達したる町会にあっては,所謂睦会が現わす会名の如く……45)」「単に親睦を目的とせる所謂睦会46)」「本所区内の半数は所謂睦会より町内会に転向する過渡期にあり47)」というのがそれであるが,機能についてはこれらの引用から自明のように,慶弔祭事など町内の親睦融和を図ることにある組織である。この組織を町内会の前身とする場合は非常に多く,表1と表2にみられるように,創立動機に関する二つの調査結果では町内の親睦をあげる回答が何れにおいても最大になっていることからそれを窺うことができる。
 『神田区史」にはその編纂当時における区内の各町内会について設立経過が述べられているが,それから引用した次の富山町町会と松富町町会の場合が,このような睦的組織の事例としてあげられる。
 富山町町会―明治36年町内の有志者相集って町内の親睦を主とし富山町有志会の名を以て組織せられ,爾来会員相互の親睦と町内の平和を持続し来ったが,大震災後即ち大正12年7月四囲の情勢に鑑み内容を整備拡張すると同時に現町名に改称し今日に至った48)。
 松富町町会―「明治40年町内の有志に依って親睦を旨とし組織せられ当初松栄会と称した。当時は親睦会の開催以外には特記するものはなかったが,超えて大正13年10月町会に組織を変更し,町内居住者全部を会員となしてより内容を改善拡張し,現時の如く発達した49)」。
 ところでこれら睦的組織は,これまでにあげた他の前身組織や後で扱う幾つかの歴史的契機とは余りかかわりなく,いわば自然発生的に生れたと認めねばならないようである。
第1表 町内会創立の動機(東京市全域)
第2表 町内会創立の動機(芝区の場合):昭和10年調査
維新の後の各種社会的激変とその後の東京の急速な都市発達を考慮した場合,われわれは震災前においても住民の多くが入れ換った町内とか,新たな住民の来住や新たな開発によって形成された町内が多数存在したことは容易に推測できるのであり,これについて『明治文化史』は「江戸は首都と定まって東京と改称し,明治2年と5年に武家地,寺社地が上地となってその多くが町地に編入され,一方広い屋敷址などはあらたに起った官・軍・学校及び市なでの施設や会社工場の敷地となり,そこでいろいろの形で市民の街が出来てきた。従って旧町内組織を何らかの形で残す地域があったとしても,そのような伝統を持たぬ市街地がその間に混在してきたわけである50)」ことを指摘し『荒川区史』は「荒川区に於ける明治の初年は南千住の一部小塚原町,中村町辺を除き,何れも広漠たる田野であって,従って……古い歴史を有する町会も少いのは当然である51)」と述べている。これらは新しい町内形成にふれるもであるが,住民の入れ換った例について『東京開庁30年記念町会事業概観』には区内の下車坂町会について「当町は江戸時代東叡山寛永寺に属する下寺通に接し,御具足を中心に車坂町,下谷町1丁目代地及蓮華地仙龍寺旗本諸家,幕府小役人等の一廓なり。維新後明治26,7年頃既に旧住民の大部分は転出し且寺院も地区外に移れる為,今は純然たる商売街となれり52)」という記述がなされている。このような町内では先行組織が消滅しているか存在しなかったのは当然のことであり,そこでの住民組織は特定契機に触発された場合を除けば自然発生的であるほかはなかったことになる。
 このようにして成立した睦的組織は,創立当初は構成員か一部有志に限られていた。その「有志」が町内住民のどのような層であったかは詳かにし得ないのであるが,地主・家持に偏していたと思わせる記述も関係文献の中で見出せないわけではない。氏子集団の場合に断ったごとく「睦的組織」という名称も機能に着目しての名称であり,もし構成員が地主・家持に偏していたとすれば,既述の地主・家守組織と類似のものではないかという疑問も懐かれる。ただし睦的組織では設立年次が明治初年に遡る例がなく,したがって旧制度と結びつく家主・家守組織とは別個のものに属している。
 なお睦的組織が成立当時は一部有志のみを構成員としていた点については、若衆会について断っておいたと同様のことがいえよう。つまり後の町内会が町内住民の全員を網罹していたことと対比すれば,睦的組織も閉鎖的性格のものであったことになる。

2 町内会形成の主要契機
 町内会の前身について述べた前節が主として内在的要因を扱ったといえるとすれば,ここで扱う町内会形成の契機は外在的要因であったということになる。これに含められるものとしては幾つかの主要な歴史的事件があり,これについては,(1)明治27,8年の日清戦役と37,8年の日露戦役,(2)大正12年の関東大震災,(3)昭和7年の市域拡張があげられる。なお,実は明治33年の府令16号「衛生組合設置規定」の達示も外圧的要因であったということができる。ただしこれによって組織された衛生組合はその後は内在的要因と変り,町内会の前身組織になったので前節で扱うこととしたのであり,したがってここでは殆んどふれないこととするが,正確には町内会形成の契機となった歴史的事件としてはこの府令達示もその一つに数えねばならない。
 以上にあげた歴史的契機の他に,本節では官公署の慫慂にもふれておくこととする。この契機は余り大きなウェイトを占めなかったのであるが,ただ町内会成立に関し一般常識では官製によると見做すことが多いのを考慮し,筆者が扱った資料で知り得たことを紹介しておくこととする。

 日清,日露戦役―日清,日露戦役の際,幾つかの町内では出征兵士の歓送迎,留守家族の慰安などのため住民の組織化が進められることとなった。いまその例を示すと神田区の今川小路共睦会は,「本会の発端は共睦会。明治27,8年の日清戦役講和の後出征軍人の凱旋せるに際し,当今川小路に於い3ヶ丁の有志者相協力してこれが歓迎の義挙を行ひたる時に発祥し53)」ており,同区の三河一丁目会は「明治37年日露戦役の将に開始されんとするに際し,町内内の有志者相謀り三河町一丁目有志会なるものを設立した。当時は主なる事務は出征軍人の送迎並に遺族の訪問で,是れが迎も本町会の濫傷54)」となったのであった。歴史的には日清戦役は町内会の形成を促進した最初の外部要因であったことになるが,しかし後の契機と比較しては特に強い影響を及ぼしたとはいえないようであり,当時の町内会について『下谷区史」は「その数において極めて寥々,その組織に於て不備不完を免れなかった55)」と表現している。
 一方日露戦争に移ってはすでに組織されていた衛生組合との相乗効果が生じたようであり,同区史には「沈黙状態に入った衛生組合が町会にその再生の姿を現はし,光輝ある新生の門出をなす機会を与へたのは実に明治37,8年戦役の勃発であった。……故国に老若男女も全力を挙げて国難に当り,出征軍人の慰問,家族の保護賑恤に狂奔した……この活動の中に団体とし復活したのが即ち衛生組合である。従来の衛生施設等は物の数ではなく,只戦時の国民的後援としての総ての事業に利用されたのである56)」と強調されている。同様の指摘は『新修日本橋区史』でもなされており,そこでは「町会発生の重要なる由因を為したのは彼の明治33年に於ける各町衛生組合の創設であり,これが町会転向への拍車をかけしめたのが明治37,8年の日露戦役である57)」と述べられている。とはいえ,この相乗効果も次の関東大震災と比較しては,余り強い影響を及ぼしたとは見做されないようである。
 関東大震災―「区内にも大正12年頃まではまだ町内会を持たない町が可也多数あった58)」と指摘する『小石川区史』は,その状況が関東大震災によって一変したことについて引続き「然るに彼の大震災の恐怖は町内各自の隣保団結を緊密にし,自警救恤の為の団体を成立させ,それが震災後にも継続して永続的町内会となり,現在に於ける如く各町共に殆んど町会組織を持たないものはない状態になった」。と記している58)。
 先に掲げた表1,表2においては,設立動機に「大震災」をあげる組織が,「町内の親睦発展」に次いで高い比率になっていたのであるが,次に示す表3は関東大震災が町内会形成に及ぼした影響力をさらによく示している。これによると,旧市域と新市域の計では,大正12年以降から町内会の創立が急激に増加したことが理解できるが,旧市域のみについてみれば,震災の勃発した大正12年からの5年間における創設数が最も多く,それ以降の5年間の場合を上廻っている(新市域ではそれ以降の5年間で最も多いのであるが,これについては後にふれる)。これは明らかに震災の影響によるものと言うことができよう。
 ただこの表は前身組織としての創立であるか,それを町内会に改組した政令の創立であるかが明らではないのではあるが,前身組織のまま止っていたものは,この震災を契機に町内会に転化したものが多く59),さらに前身組織を全く欠いていた町内においても,新しい町内会が出現することとなった60)。
 市域拡張―われわれは表3における時期区分のうち関東大震災を過ぎた期間,すなわち昭和3年から8年の間に,新市域において極めて著しい町内会の増加があったことを理解したが,これを招いたのは昭和7年に行われた東京市の市域拡張だったのである。当時の町村制第68号では町村内に行政区を設置することを認めており,東京市に併合されることとなった周辺市町村には,併合前に計644の行政区が設けられていた。この行政区は恐らく何らかの自然村的性格を残していたのではないかと思われるが,旧町村が東京市に吸収された後は,新たに町内会を形成することにより,この自然村的統合を残そうとする場合があったのではないかと思われる。その結果として町内会に組織替えをした行政区は前記644のうち2割4分を占め,特に渋谷,蒲田の両区では旧行政区の殆んどが町内会に転化した。
第3表 創立年次別町内会数
 ところで東京市が市域を拡張して周辺5郡を併合した理由は,大震災後にこれら5郡の人口がそれまでの東京の市域内の人口を凌駕するようになったことにあるが,このような激しい人口増加を見た周辺地域では,住民の間に従来の区をもって一つの社会的統合の範囲とはなし得ない場合もかなり現われたようであり,それにともなって以前の区とは無関係な町内会もかなり設立されることとなった。このため,東京市の行なった町内会調査に寄せた荏原区の意見の中で「市域編入に伴い,町村制第68号に依る区の廃止により在来の区を以て町内会となせるものあれど,区に行政区画の定めなきを以て,各所に新会の簇出を見現在56ヶ所を算するに至れり61)」と述べられるまでになっていた。したがって新市域における昭和3年から8年までの間の町内会の激増は,町村制下の区から転換した町内会ばかりでなく,このような人口激増による区とは無関係な町内会を含んでいたと見ることができる。
 官公署の慫慂―今日一般に町内会が官製団体と見做されることが多いのは,第2次大戦中における町内会の法制化が常に想起されるからであろう。しかしそれ以前についても官公庁の慫慂による町内会設立の例があり,大正9年には品川警察署長が所管区域内に安全組合の設立を奨励し,2年後の大正12年には芝愛宕署長が同様に自衛組合の結成について管内の各町内に働きかけている。前者の安全組合に関し『品川町史』には「大正9年に至り,当時の品川警察署長警視福島俊作は,これ(=町内会)が進歩,向上により,警察官と連絡を保ち,以て健全にして実行力のある自治の細胞たらしめんと企画し,町内の有志と図り,安全組合規約なるものを定め,その設立を勧誘し,同時に各町内会に安全組合なる一定語を冠附せしめた。震災後に於て名称中より又安全組合なる四字を削りしもの多く,現在に於てはその数34に餘る62)」と書かれているが,ただこの記述の中で震災後,すなわち品川署長の慫慂から僅か3年を経て以降,安全組合という名称を削る町内会の現われてきたことに留意しておかねばならないであろう。
 官公署による慫慂のあった場合としてはこの他に,板橋区では区当局が「大半は区創設後区の慫慂により設立したるものにして,町内会としては揺籃時代なるを以て干渉に渉らざる程度に於て不断に誘導扶掖しつつあり63)」と認めており,また神田区の裏猿楽町会は「大正13年6月区役所よりの奨励より組織し今日に至る」町内会であった。
 以上が収集した文献から知り得た事実であるが,しかしこれらの事実をもって直ちに町内会をすべて官製とは断定し難いようである。ここで再び表1,表2に戻ると,町内会の設立動機として「官公署の慫慂」があげられる比率は極めて僅かとなっており,しかもそれは,愛宕署長による自衛組合設立の慫慂のあった芝区についても認めることができる。また品川署管内の安全組合に関しても,署長の慫慂によって新たな組織が形成されたというよりは,すでに存在した組織を安全組合とすることが求められたのであり,加えてすでに指摘したように3年後からは早くも無視される場合が起っていた。
 このように見た場合,第2次大戦の開始前については町内会の設立には官製的要因が皆無ではなかったとしても,問題視するほどの影響力は及ぼさなかったと考えられる。なお町内会の存続について,その理由を官製であることに帰着させ得ないことについては,衛生組合の項ですでに指摘した通りである。

 以上1では前身組織,2では主要契機を扱ってきたが,前身組織については後の町内会との関係がかなり複雑であり,1対1の対応をなさなかった場合も少なくないことを知っておかねばならない。例えば,日本橋区の大傳馬町2丁目会は次の引用に窺われるように,過去において幾つかの前身組織を経過するか,それと関係をもって昭和12年現在の組織に辿りついている。
 維新後表地主は地主会を組織して鎮守池洲神社ノ祭事其他町内自治的事務ヲ處理シ来リシガ,後町内居住者の組織セル睦会ト合同シテ通旅籠町睦会ト称シ,明治33年7月府令ニヨリ衛生組合ヲ設ケテ町内公衆衛生ノ普及ヲ計ル。震災直後大正13年7月通旅籠町睦会ト同衛生組合ヲ合同シテ通旅籠町町会トシ昭和7年12月区画整理後町名変更ニヨリ大傳馬町2丁目町会ト改ム65)
 一方氏子団体や衛生組合についても,その一つ一つが後にそれぞれ町内会に転化したのではなく,それとは別に形成されていた睦会に吸収されるとかそれと合併した場合もかなり多いようである。また前身組織が全く存在しなかった町内であっても,特に震災後は新たな町内会が組織されていった。後の町内会とはこのような関係にあったのではあるが,ただ1で扱ったように整理しておくことが,前身組織に対するわれわれの理解に役立ち得るのではないかと考えられる。
 次に契機の点に移ると前身組織を町内会に転化させた契機について不明の点も残されていることを断っておかねばならない。すでに述べたように,衛生組合を除き前身組織は一般にメンバーシップに関しては閉鎖的性格を持っており,それが後の町内会との一つの相違点となっていた。関東大震災を契機として多くの前身組織が町内会に転化したことは,このような閉鎖性を残していては緊
急の問題に対処し得ないことが痛感されたからであろうが,しかし「震災に驚かされて初めて町会に気付いた私の町などは実は甚だ迂闊な次第なので,震災,前既に百の町会が出来て居た……66)」とすれば,このうちには前身組織を経ずして直ちに町会として組織されたものを含むとしても,すでに町内会への転換を終えていた組織もかなり存在していたと思われる。また,表3の設立年次別町内会数に関しては,すでにふれたように個々の町内会が何時を設立年次と見たかについては疑問が残るとはいえ,震災直前期の大正7年から11年の間に,それまでとは相当に異なる増加傾向が町内会に起っていたことをこの表から知ることができる。この表では明治36年から40年にかけて短期的増加期間があったことも窺えるが,これは言うまでもなく衛生組合との相乗効果と結びついた日露戦役が契機となっていたことは容易に推察し得るのであるが,震災に至るまでの大正期の増加傾向に関する限り,蒐集した関係文献からはその促進要因を見出せないままに終ったのである。
 ただここであえて憶測をたくましくするとすれば閉鎖性に対する不満,批判,あるいは反省を生む風潮が次第に醸成されていったことが一つの要因をなしたのではないかと考えられる。僅かな例に止まるが,文献中に,見出した次の町内会の場合がそのような風潮も存在したことを示唆するのではなかろうか。
 神田区橋本町2・3丁目会―「……明治27年睦会なるもの組織し,和衷協同を目的として有志相諮り祭礼衛生その他一般事業に尽す……抑も睦会は町内全般的に非ざれば或は加入を喜ばざるものあり。役員も常にある階級を保持し専横あるため一部に不平等あり,会名に悖る憾みがあった……67)」本郷区湯島1丁目町会―「旧幕時代の慣例に引続き差配世話人が町内自治の統卒に当りたるも当時の青年等は此をあきたらずとし,町内総代会を創立し公選により役員を推し,人口調査,撒水,除雪,衛生等に尽力す68)」
 神田区蝋関会は「大正元年……蝋関有志会なるものを設立し超えて大正10年4月内容と規定を拡大充実して蝋関町関口町居住者全部を網羅して69)」とあるように,震災前に転換をすませた町内会であるが,同じく神田区の松下町町会はそれと前後して行なった転換について,「大正10年世運の伸展により70)」と記している。憶測を敷衍術させるるなら,閉鎖性に批判的風潮がかなり昂揚しており,それを「世運の伸展」と表現したのではなかろうか。等しい事例は他には見出せなかったのであるが,牛込区の横寺町町会に至っては,「旧幕時代より氏神祭典を中心として存在したる地主会なる特権階級の会合が社会の進展に伴ひ民衆化の要を認め,大正7年5月15日町内一般の居住者の会合に改革し71)」とさえ書かれている。もしこの憶測を正しいとすれば,われわれはそこで大正デモクラシーの風潮を想起することになり,それが町内会の形成に影響したのではないかと推測するであろう。そのような推測が可能とすれば,この風潮も歴史的契機に加えなければならないことになる。
 なお,町内会設立の契機としては,個々の町内のそれぞれの状況により,夜店の発展,町政改善運動,塵芥焼却場反対,水害防止,町内大火,米騒動,平和博覧会開催の刺激,電車の開通,家主対借家人問題72),といった場合もあったようであるが,しかしこれらは一般的なものではなく,主要なものは2で扱った契機に絞られることになる。
Ⅱ 町内会の組織と事業

 昭和11年9月現在の町内会の状況に関する紹介によると,その時点での町内会数は,旧支部1,301,新支部1,721計3,022となっており,これは市町の町数(丁目は1町として計算)に殆んど匹敵する数であった。加入者総数は105万6075世帯に達しており,当時の東京市における全世帯数に対しては,89%の比率を占める。ただ当時においても未組織地域が存在しなかったわけではなく,オフィス街,貧民街,高級住宅地などに見られたのであるが,ただ町数にして30,世帯数にして1,113に止まっていた。
 組織化のこのようなめざましい拡大とともに,町内会収入も全体では膨大な額に上っていった。昭和10年度についてみれば,全町内会の収入総額は410万円となったのであるが,同年度の市内35区予算では区に属する市税収入は727万であり,したがって町内会収入はその57.8%に相当したこととなる。これらのことから町内会組織は当時の市政には無視できない存在になっていた。
 ここで町内会の事業内容に移ると,まず大正13年に刊行された東京市の『町会規約要領』には次のように書かれた箇所が見出せる。
 設立の古いものにあっては,江戸時代の五人組や自身番の面影を有し,近隣有志の懇親会を中核として発達したる町会にありては所謂睦会が現はす其会名の如く定期の懇親会と慶弔事業を以て会員を結合して居り,又明治33年東京府令に依る衛生組合設置規定に基き設けたる衛生組合より発達し来った町会にありては自然町内の衛生事業を以て中心とするもの或は日清日露大正等の戦争を機として生れたる町会にありては兵事々業を以て中心とするもの,或は氏神祭典を機として氏子団体に生れたる町会にありては祭事々業を以て中心とする,或は大震災に因つて生れたる町会にありては自警事業其他救護事業を以て中心とする等何れも発達の歴史を異にする事業の差別である73)。
 これによって理解し得るのは,どれを扱うかは個々の組織によって異なるとはいえ,以前は一つの町内会がどれか一種類の事業のみを専一的に行う傾向にあったことである。この引用個所に引続いては「種々なる事業が搗き交ぜられ洗練されて現在最も多数の町会に共通する事業としては,大要次の5事業を以て中心として見ることが出来る73)」という現状の説明が書き添えられ,慶弔,衛生,兵事,祭事,自警がその5事業にあげられている。つまり『町会規約要領』を纏めるに当って町内会調査の実施された時点である震災直前の大正12年5月には,その機能が単一的ではなく複合的になっていたのであった。右の5大事業というのは,それを行う町内会が全町内会の5割以上に及んでいるものに絞った場合にあげられる事業のことであるが,それだけの比率に達しないものも含めれば,事業の種類は遥かに増大し,全体に23種に及ぶことも『町会規約要領74)』に報告されている。大正14年に実施された東京市政調査会の調査では,それを14種類に整理して報告している75)のであるが,必要と思うものに簡単な説明を付してそれらを列挙すれば,次の通りとなっている。
 1 慶弔に関する事務
 2 衛生に関する事務(下水溝渠の浚渫,便所の掃除,糞尿の処理,塵芥の処理,蚊蝿の駆除,伝染病予防注射実施,衛生講演会と衛生映画会の開催)
 3 兵事に関する事務(入退営者の送迎と祝金贈呈,遺族や留守家族の慰問と援助)
 4 祭事に関する事務
 5 自警事務(毎夜町内を巡暹する。「夜警」または「火の番」,災害予防ポスタター掲示,ポンプ消火器の設置)
 6 救済事務(罹災者,貧困老幼廃疾などによる困窮者の救済慰問)
 7 交通補助事務(街灯設備の照明,街路撒水,居住者の地番案内掲示板設置)
 8 商事に関する事務(商品売出しのための町内装飾と共通福引券発行―商店街町内会の場合)
 9 官公署との交渉布達に関する事務(町内の共同利害について官公署と交渉官公署よりの示達を町内に伝達)
 10 学事教育に関する事務(学童の通学奨励,優秀児童に賞品授与,講演会開催,町内児童遊園地管理)
 11 人事の相談調停に関する事務(人事の相談と紛争の調停,中傷の防止)
 12 表彰に関する事務(孝子節婦,町内功労者などの表彰)
 13 金融に関する事務(頼母子講風の金融組合)
 14 その他
 その後昭和8年に東京市の行なった調査の場合でも,これと全く同様の項目があげられており「その他」に関しては無料代筆,購売組合,医師産婆等との特約,駐在所の維持,撒水などがあげられている76)。
 表4と表5はこれら多種類に亘る事業の実施状況について,大正期と昭和期を比較したものである。まず表4では(a)としてて大正12年現在を扱った『町会規約要領』から,(b)として東京市の昭和8年における調査結果の報告書から,各種事業実施町内会比率のデータを引用しておいた。ただ大正12年についてはここに示されたもの以外の事業については,それを実施している町内会の比率が掲げられていないのであるが,しかし両年度に共通にあげられている種類のみについて比較する場合でも,実施町内会の割合は昭和8年ではかなり高くなっている。既述のように大正12年については実施比率の高い事業だけがとり上げられているのであり,それでも昭和8年との間にこのような開きがあるとすれば,この二つの年度の間に個々の町内会が取扱い事業の範囲を拡大させていたことは否定できないことになる。換言すれば昭和期に入り町内会は複合機能集団としての性格を一層強めてきたことになる。なおこの表では「官公署との連絡交渉」という項目が表頭に欠けているが,これについては「本事務は例外なく総ての町内会に於て遂行されている77)」と説明されており,自明のこととして表示する必要もないと見做されていたのであろう。
 次に表5に移ると,これは大正13年度分および昭和8年度分として二つの調査結果に現われている町内会経費の支出項目別百分比に幾分手を入れたものである78)。いま町内会経費内訳から見た事業内容の推移について,この表から一応の傾向を窺うこととすると,二つの年度の内で比率の相違が認められる項目は,「雑費」「其他」を無視するとすれば,「衛生費」「夜警費」「施設費」があげられることになる。このうち「衛生費」では昭和8年度がより高くなっており,その年度分の掲載報告書で「現在に於ては町内会事業の重点は保健衛生,特に塵芥処理,糞尿汲取の問題に移って居る79)」。と述べてある所と符合する。逆に「夜警費」と「施設費」の場合は大正13年でより大きな比重を占めているのであるが,これは関東大震災の余波がまだ消えやらなかったことを反映してい
るのであろう。表5からはこれらの点が読みとれるのであるが,すでに複合機能集団となった町内会には社会情勢の変化に応じて個々の機能に与える相対的比重を移し変える面のあることもこれによって知り得るのであり,したがって町内会を一方的に伝統墨守的とは規定できないことになる。
第4表 各事業別実施町内会比率
第5表 町内会経費内訳の推移
 ところで複合機能集団へと転化した町内会について,蒐集した文献からは転化の理由やその社会的背景を十分解明し得る手掛りが見出せなかったことを付け加えておかねばならない。ただ東京市による昭和8年の調査に各区が寄せた意見のうち,神田区のそれに現われている次の記述が多少の示唆を与えるようである。
 1.……町会の濫觴睦会の態容は略震災前迄継続し町内の親睦に最も重点を置きたる関係上何等の波瀾なく共助の美風行はれたりしも,事業の方面に於ては何等見るべきものなく単に慶弔の域を脱せざるものなり。
 2.震災後諸事象の変化は町会事業の複雑多量化を来し隣保親善の上に安眠するを許さず随て町会は組織化せられ其の事業は……分化せられ尚其の経費莫大を加え従来と全く面目を一新するに至り,其の発達は著しきものあり。
 ……
 4.区対会の関係は震災前迄は依頼すべき事項も少……かりしも近来区の事業は多岐に亘り且量的にも旧に数十倍するに至り区より町会に依頼すべき事項随て其の比に非ず……80)
 つまり「諸事象の急激な変化」と「区の事業は多岐に亘り且量的にも旧に数十倍するに至」ったことが背景にあり,それが町内会事業の分化と区から町内会への依頼事項の増大を招いたことがこの記述から理解できる。ここではそれを震災以降としているのであるが,しかし震災前に開始された調査結果を扱っている『町会規約要領』ですでに町内会事務が多種類に亘ることが報告されていることに照せば,遠い以前ではないとしても,この記述にみられる背景の変化は震災前から恐らく大正の半ば頃に始まったと見てよいであろう。同時に町内会の複合機能化も「諸事象の急激な変化」といわれるような社会の変動に対応して起ったものであることが理解できよう。
 ここでわれわれは社会学が前近代集団と近代集団について設定している図式を想起する必要があるが,この図式によれば前者の崩壊によって後者の出現する過程は次のように把握されている。すなわちメンバーシップの網羅と機能の未分化をもって特徴づけられる前近代集団は,社会の近代化とともに機能の分化が始まることから,分化した個々の機能別集団に分解する。かくして現われ
た個々の単一機能集団が近代集団であるが,諸個人は自己の関心に応じた機能集団に自由に出入りすることとなり,したがってメンバーシップは自由意志でその集団への加入を選択したものに限られることになる。しかしすでに述べたところから理解されるように,実は町内会が歴史的に辿った過程は,この図式に照らせば全く反対方向の過程であったことになる。(機能未文化と複合機能とは同一現象の別の呼び方である)。
 このようにして網羅的メンバーシップとならんで機能の複合性をもその特質とするようになった町内会は,そのため図式化には前近代集団に類似することとになったのであるが,現在この類似性が時に町内会批判を招く一つの根処となることがある。しかしわれわれが見てきたように,これらの特質は時代の推移への適応として現われたと推測されるものであった。また機能についていえばいったん複合機能集団となった後でも,環境の変化に応じて機能の複合性の一層の拡大と個々の機能に与える相対的比重の移り変りが図られていた。とすれば,都市生活に新たな問題が起る都度,新たな単一機能集団をつくってそれに対応するよりは,かえって町内会の方が効率的だったとは見られないだろうか。
 以上の点を考慮した場合,こと町内会に関する限り,社会学における前近代集団と近代集団の図式を機械的に当てはめることは妥当性を欠いていると考えねばならないであろう。したがってその図式を基準にした上で町内会に批判が加えられるとしても,それは適切な批判とはいえないであろう。
 反面,現在から振り返って見た場合,この機能の複合性が,臨戦体制下での町内会動員も容易にする一つの原因にはなり得たと見られる。もし町内会に代って,単一機能集団として戦前における住民組織が形成されていたとすれば,都市住民を戦争協力に駆り立てるためには,そのための機能を果す新たな住民組織の形成から取りかからねばならず,それだけ住民動員の効率低下は免れなかったはずである。しかし幸いに町内会が複合機能集団であったため,僅かな機能の拡大によって町内会を戦争協力組織に転化し得たのであろう。ただし,町内会の戦争協力のみを一方的に強調することが選択的判断に基づいていることも十分留意しておくことが必要であり,この点については「はしがき」ですでにふれた通りである。

Ⅲ 町内会整備

 町内会組織が次第に普及するようになり,かつそれが機能の複合化によって衛生,自警,官公署との連絡交渉といった公共的性格を帯びる事業を扱うようになるにつれ,行政当局もこの組織に漸次関心を強めるようになってきた。大正11年11月25日における小石川区関口自治会の設立発会式には,東京市長と内務大臣の祝辞が寄せられたが81),これは行政当局の関心の表示として蒐集文献の中で見出し得た最も初期の例である。ただし当初は住民教育に資するところからその健全な発達を望むといった程度の社会教育上の関心が主となっており,東京市による最初の町内会調査とその結果を纏めた『町会規約要領』の編纂は社会教育課において担当されていた。
 その後間もなく町内会は,単に社会教育的見地からではなく,市の末端行政上の無視し得ない組織と考えられるに至ったようであり,昭和の初頭には市役所處務規定および区役所處務規定の中に「町会に関する事項」が追加されることとなったが,これらは恐らく震災の経験も影響したことと思われる。
 一方東京市会においても町内会の問題が論議されるようになり,昭和4年9月には市議60名の連名による「町会ニ関スル制度調査委員会設置の建議」が提出され,その結果昭和7年2月に「町会ニ関スル調査委員会」が開催されることとなった。この委員会での結論は「町会に関する制度調査委員会意見報告」として纏められ,同年7月の市会において可決をみたのであるが,ただこれによって具体化された措置は,自治功労感謝の会の開催と町会ならびに役員の表彰の程度に止っていた。とはいえ東京市会は昭和10年になって理事者に町内会の整備に着手することを強く要望し,これによって昭和11年予算には町会整備費が計上されることとなり,翌12年にはこの整備費は倍加され,これとともに町内会に対する市として具体策が実施されることとなった。その時期がわが国の臨戦体制下に入った時期とも重なり,町内会整備は一挙に推進されることとなったが,しかし町内会整備は当初から臨戦体制を意図していたわけではなく,またその実施も容易ではなかったようである。
 臨戦体制に入る以前の時期に発表された町内会に関する諸論稿を通覧して理解できるのは,当時は町内会が住民自治振興の重要な組織と見做されていたことである。ただし,大正末期にはすでに吉川季治郎によって「東京市町内会無用論」も説かれていた。町内会の扱う公的事務が非効率であり,他に代替措置が充分に見出せること,大都市における小地域団体は世界的に衰退の傾向にあること82),などがこの無用論の根拠となっているが,その6年後には亀掛川浩が吉川の論拠を踏まえながらも,町内会の存在意義を承認する論文を発表したのであった。彼は都市に村落的近隣組織を移植することが無意味であるとしながらも,大都市内の小地域には部分的町内的事項であるとはいえ,それなりの各種の問題が生じるものであり,それを都市行政ですべてカバーすることは不可能である以上,その解決は町内会のような町内住民の組織によらねばならないことを指摘する。そして,行政が専門化し,かつ政治と住民との距離が拡大した大都市にあって,住民の間に住民自治の意識を涵養するには,町内会が極めて適切な組織であることを説いている83)。当時町内会整備を説きその衝に当った人々のうちには,村落的近隣秩序の移植を願った人が合まれなかったわけではないにしても,亀掛川の説くような自治振興の手段として町内会を重視する場合が多かったようである。
 整備の具体策としては,一町内一組織,会員数の平均化,町内会規約の統一,役員の名称と選出および会費徴収などの斉一化,紛争の防止,党政介入の抑止,連合町内会の設立などが考えられ,これらの措置が実現した後は,補助金の交付によって町内会の振興と効率的運営が可能と見做されていた。直接その衝に当ったのは各区役所であるが,しかし連合町内会の設立を除き,これらの具体策に殆んど見るべき進展が起らなかったようである。行政当局が是正を要すると考えた点の多くは,実は各町内ごとのそれなりの実情に基づく必然性から生じたものであり,それを無視して画一的政策をすすめることにはかなり無理があったのであるが,行政当局もその実情を知ればこそ,一方では前記のような措置を望みながらも,実際には拱手傍観に近い態度をとらざるるを得なかったのではないかと思われる。この状況は谷川昇の論文「都政に於ける町会制度の整備」の中によく反映されている。彼はその中で「町内会対策は……町内会発達の現状を予測したものでなく,制定当時の発達過程にある町内会を対象とした対策を出てなかった84)」と述べて,町内会に対する政策が町内会の発達に引きずられたことを指摘し,さらに「自由放任主義に多少の助長主義と監視主義を加味した範囲のもの85)「放任監視主義86)」「自由放任主義87)」といったように,具体的措置が殆んどなされなかったことも繰り返し強調しているのである。先に町内会形成の契機について,「官公署の慫慂」によることが極めて少数であったことにふれておいたのであるが,この谷川による「放任監視主義」という指摘に照しても,臨戦体制に入る以前の戦前期においては,町内会に対する官製的要因がかなり乏しかったと見はなければならないようである。また見るべき具体策を欠きながら,行政側が町内会に強い関心を懐いたことは事実であるが,しかしこの関心も焦点は自治振興に当てられていたことも併せて考慮すべきと思われる。もちろん,この関心は,臨時体制下に入り,当初意図した具体策が一挙に実現された段階では,いつしか戦争目的遂行という関心にすり替えられたのであるが,それにしても今日に至るまでの町内会の歴史の中で,町内会が大幅な行政の介入を招いた時期は極めて短期間に止つたことになる。

むすび

 以上本文ではまず東京における町内会の前身組織をとり上げ,次いで町内会の形成を促した諸契機を扱った。そこで筆を転じて市の殆んど全域に組織されるに至った町内会の組織と事業にふれた上で,その機能について検討を加え,最後に行政当局が町内会にいかなる対策をとったかを述べてきた。このような展開の中で,町内会に対するこれまでの一般常識に照して留意すべき点が幾つか見出されたのであるが,ここでそれらの点を振り返ってみると,次のように「整理することができる。
 1 旧制度,旧慣を前身とする町内会は少数に止っている。
 2 特に五人組との関係については,旧農村部を除き,それは町内会の前身にはなり得なかった―五人組の継承を強いて考えるとすれば,後の町内会では公的行政組織の中に求められることになる。むしろ町内会は五人組そのものではなく,五人組を構成した家守と五人組の外に置かれた店借りの関係した部分に,その起源を見出せる。
 3 旧制度,旧慣を前身とする場合でも,メンバーシップが閉鎖的から開放的に,機能が単一機能から複合機能に変っており,その意味では完全な連結性は考えられないことになる。
 4 町内会の前身の最大多数を占めるのは自然発生的に形成された睦会的組織である。
 5 メンバーシップと機能に関し,町内会は前近代集団から近代集団へという図式とは逆の過程を歩んできた-したがってメンバーシップの網羅性と機能の複合性という特質をとり上げて,町内会を前近代集団と等置することは妥当性に欠けている。その特質は時代の推移への適応として町内会が後に獲得したものである。
 6 本文では述べなかったことであるが,上の点と関連して町内会の時代即応性が指摘されてよいと思われる。一般には町内会が時代の足を引張るものであり,文化遅滞の好例であるかのように把えられるが,しかし町内会は都市の一般住民の平均的意識の変化に沿って動いてきたのではなかろうか,意識に反してまで前時代的なものを固守したようには思われないのであり,したがって時代の先には出なかったとしても,時代の後につくこともなかったのであろう。町内会が臨戦体制下で戦争に協力したのも,当時は大学までが戦争協力の一翼を担った時代であったからに外ならない。
 7 現在町内会は官製団体として扱われる傾向が強いが,臨戦体制に入る以前に関しては官製視すべき要因は余り作用しなかったようである。
 (1,2,3については,約言すれば伝統的要因が否定されることになるが,このことは,途上国が町内会組織の導入を考慮する場合,たとえ関連する伝統的要因を欠く場合でも導入の可能性を残されることを意味するものであろう。)
 ところで東京における戦前の町内会について以上の点が指摘できるとすれば,これは一般常識の場合よりは町内会への高い肯定的評価につながることになるのであるが,ただし戦前の町内会がそれなりに幾つかの問題を抱えていたことも十分認めておく必要がある。その一つは組織の不統一であり,行政当局が町内会の整備を考慮したのも,この不統一の解消を求めたからであった。前章で整備に当って考えられていた幾つかの具体策をあげておいたが,それは町内会の実情が求められていた目標とは逆になっている場合が多かったことを意味している。
 しかし町内会はこれ以外にも幾つかの問題を抱えていた。それらは大正末期にすでに現われたいたのであるが,実はそれは今日の町内会においても未解決の問題として残されているものであり,町内会組織には不可避のものではないかとさえ考えられる。その第1は町内会の選挙への利用であり,大正14年の区会議員の選挙の際に東京市政調査会が行なった調査の結果では,回答を寄せた区議181名のうち,64名が会長または副会長,68名がその他の幹部役員の現職についていた88)。ただし該当区議の中にも町内会の選挙目的への利用に批判的なものがあり,また利用したとしてもそれが選挙ブローカーの暗躍を封ずる機能を果していたこともあり89),これについて一方的評価は下せないようであるが,それでも町内会と選挙との関係は後にしばしば町内会批判の一つの理由を提供したのであった。
 第2は行政機関からの委任事務の過剰である。蒐集文献中に見られる当時の町内会役員自身の記録には,これをめぐる行政当局への忌憚のない批判や強い不満がしばしば記されていた90)のであるが,これは筆者が現地調査において役員からの聴取りの際に耳にした批判や不満と全く同種類のものである。
 第3は町内における当時のインテリ層,例えば教員,官吏,銀行員などが町内会に極めて冷淡であり非協力的であった点である90)。この点に関する困惑も役員の記録の中によく見受けられるのであるが,実際には一般住民の多数が町内会の存在を肯定し諸行事にも参加しているにもかかわらず,一部の知識層といわれる人々が町内会に反発するといった,今日でもしばしば起っている状況は大正末期からすでに始まっていたことになる。筆者の推測の域を出ないのであるが,これについては都市住民の間に価値体系または文化のギャップが生じていたことにその原因があったのではなかろうか。つまり住民の大多数を占める層(庶民といってよいかも知れない)の持つ価値体系や文化からは町内会の諸行事が適合的であった―逆にいえばその価値体系や文化に沿つて諸行事が営まれていた―のであるが,当時の東京に新たに登場した知識層と呼ばれる人々は大多数の住民のそれとは異なった文化を吸収しており,そのような文化を基にした感覚から町内会に反発していたのであろう。多数住民の肯定と一部知識層の反発という状況は現在においても持ち越されているのであり,ただ現在では反発の根拠としてしばしば町内会のかつての戦争協力がとり上げられのである。しかしこの点については,戦争協力があったことの故の反発ではなく,文化的理由からの反発を正当化するため戦争協力が持ち出されていると理解できるのではなかろうか。より端的に言えば戦争協力という事実の有無にかかわらず,文化的ギャップが住民の間に存在する場合には,その一部からの町内会に対する反発は避け難いことになる。
 最後に日本の経験の一部として戦前の町内会を扱うとすれば,当然その功罪について検討が加えられるべきであろう。しかし蒐集し得た文献の範囲ではこの点について正確を期するのが困難であることを断っておかねばならない。罪を探すとすれば,いま述べた幾つかの問題がそれに該当するとも考えられ,また前章であげた吉川の論文も罪の検討に関するものであった。彼は町内会の行なう諸事業が非効率的であると見做し,したがって市税に加えて町内会費を払うことは二重の投資になるとも説いている。
 反面亀掛川の論文では,町内会の扱う事業が一面では末梢的と見られるとしても,それは小地域社会に固有の問題として放置しておけないものであり,しかも行政組織の手に余る問題であると説かれている。つまり亀掛川は謙虚な形ではあるが,町内会の事業にそれなりの功のあることを承認したものと言えるであろう。この他に町内会が経費支出面からは最も重点を置いた衛生事業について,斉藤昇一は,「東京市町内会に於ける衛生事業と其の近代化92)」において,かなり高い評価を与えたことも付け加えておかねばならない。
 このように蒐集文献に基づく限り,町内会の功罪に関しては十分な判定を下し難いのであるが,筆者としては戦前の町内会に官製的要因が極めて乏しかったにもかかわらず,すでに見たような非常に顕著な発展を遂げたことを考慮に入れる必要があるように思われる。もし多数住民が町内会に功を感じていなかったとすれば,そのような発達は到底あり得なかったのではなかろうか。

 1)山上定也構成「住民運動ケーススタディ―地下鉄線引込建設反対運動」『地方自治職員研修』117号,1977年9月,39-40ページ。
 2)秋元律郎「戦時下の都市における地域住民組織」『社会科学討究』18巻2号,1973年2月,181ページ。
 3)同上右,64ページ。
 4)倉沢進「コミュニティと住民生活」『地域活動研究』3巻2号,1970年,6ページ。
 5)東京市政調査会『東京市町内会に関する調査』東京市政調査会,昭和2年,289ページ。
 6)同上,286ページ。この調査では調査票の回答に応じた町内会の数は308であり,当時の町内会総数1,167の26.4%に止っていた。旧制度や旧慣とかかわりある町内会が現われなかったのは,一つにはこのように多くの調査洩れが出たことによるのではないかと考えられる。
 7)東京市役所『東京市町内会の調査』昭和9年3月,1-13ページ。
 8)品川町役場編『品川町史』昭和7年9月,211ページ。
 9)東京市役所。前掲書,1ページ。
 10)平出鏗四郎『東京風俗志』上の巻 明治32年-上,中,下を合せた複刻版,昭和50年八坂書房より刊行,27ページ。
 11) 東京市下谷区役所編『下谷区史』昭和10年,1087ページ。
 12)『東京百年史』1巻,1100ページ。
 13)高柳真三,石井良助編『御觸書寛保集成』岩波書店,昭和9年,1081ページ。
 14)東京市浅草区役所編『浅草区誌』上巻,文会堂書店,大正3年,86ページ。
 15)日本橋区役所編『新修日本橋区史・下』昭和12年,14ページ。
 16)このことは,手塚豊,利光三津夫編著『民事慣例類集』慶応義塾大学法学研究会,昭和44年,117ページにある次の記載からも窺うことができる。「出産アル時借地借店ノ者ハ地主家主(此家主ハ今ノ地所差配人ノ名称ナリ)ヘ届ケ地主家主ヨリ其所支配名主ヘ届ケ名主方ニテ人別帳ヘ記入ス(人別帳ハ今ノ戸籍)借地借店ニ非ル地主ハ直ニ名主ヘ届人別帳ヘ記入ス維新後ハ区務所ヘ届ケ戸長ニテ戸籍ヘ記載スル事ナリ。武蔵国豊島郡」
 17)渋沢敬三編『明治文化史・12巻生活編』洋々社,昭和30年,680ページ。
 18)同上,681ページ。
 19)同上,687ページ
 21)平出鏗四郎,前掲書,26ページ。
 22)東京市役所,前掲書,1-4ページ。
 23)同上,13ページ。
 24)平出鏗四郎,前掲書,27ページ。
 25)京橋区役所編『京橋区史』下巻,昭和17年,284ページ
 26)平出鏗四郎,前掲書,77-78ページ。若者達による神輿の舁ぎ込みはかなり多かったようであり,東京市政調査会,前掲書,98-99ページもその例を示す記述が掲載されている。
 27)京橋区役所,前掲書,284ページ。
 28)同上 285ページ。
 29)東京市役所,前掲書,7ページ。
 30)日本橋区役所,前掲書,174ページ。
 31)東京市役所,前掲書,5-6ページ。
 32)日本橋区役所,前掲書,176-85ページ。
 33)このような理由のためか,芝区において昭和10年に行われた調査では設立動機を,「祝祭協同を契機とするもの」が区内124町内会のうち20町内会,すなわち16.1%となっており,東京市の調査の場合よりかなり高い比率となっている。芝区役所編『芝区誌』,昭和13年,611ページ
 34)東京市役所,前掲書,1ページ。
 34)日本橋区では戦前に区史が2回編纂されている。第1回は大正5年の『日本橋区史』全4冊,第2回は昭和12年の『新修日本橋区史』上・下であるが,衛生組合一覧表は第1回の区史に掲載されている。
 36)下谷区役所編,前掲書,544-46ページ。
 37)深川区役所編『深川区史』大正15年,580ページ。
 38)本所区役所編『本所区史』昭和6年,237ページ。
 39)東京市役所,前掲書,7ページ。
 40)本所区役所編,前掲書,237ページ。
 41)日本橋区編,前掲書(『新修……』)176-85ページ。
 42)荒川区役所編『荒川区史』,昭和11年,571ページ。
 43)同上 574ページ。
 44)小石川区役所編『小石川区史』,昭和13年,793ページ。
 45)東京市社会教育課編『町会規約要領』,大正13年,114ページ。
 46)東京市の町内会調査(昭和8年)に寄せられた淀橋区の意見より。東京市役所,前掲書,107ページ。
 47)同じく板橋区の意見より,同上,110ページ。
 48)中村薫『神田区史』,昭和2,年,94-95ページ。
 49)同上 111ページ。
 50)渋沢敬三編,前掲書,688ページ。
 51)荒川区役所編,前掲書,576ページ。
 52)小笠原専明編『東京開庁30年記念町会事業概観』,昭和3年,52ページ。
 53)中村薫,前掲書,61ページ。
 54)同上,77ページ。
 55)下谷区役所編,前掲書,1088ページ。
 56)同上,1088-9ページ。
 57)日本橋区役所,前掲書『新修……』,175ページ。
 58)小石川区役所編,前掲書,793ページ。
 59)中村薫,前掲書,小笠原専明編,前掲書,日本橋区役所編,前掲書(『新修……』)176-85ページから多くの町内会についてその設定過程を知ることができるが,震災を契機に前身組織から町内会に転化する例はその中に多数見出すことができる。
 60)東京市社会教育課編,前掲書の冒頭に収録されている穂積重遠述「町会と自治制」(4-6ページ)。では穂積博士の居住町内であり,以前は前身組織のみならず近隣交際も全く欠けていた牛込区南町において震災を機に町内会がつくられた過程か極めてヴィヴィッドに語られている。「試みに私の住んで居る牛込区南町の例―恐らくかなりに極端な例だろうと思うが―を申して見よう。85戸程の小さな町であって住民は割合に変動が少なく,随分古くから引続き住んでいる人が多いのだが,扨て同町内の交際という様な事は殆んど絶対になかったのである。商家の多い所ではこんなことはなかろうと思うが何しろ私の町には商家といったら米屋さんと洗濯屋さんが1軒づつあるだけで,他は勤め人が多いのであるから,各家の主人は早出晩帰,家は謂はば各人の寝室に過ぎない様な次第であった。それ故「向3軒両隣」の交渉のないのは勿論,ことによると隣人の名さえ知らない様な有様,朝夕に街頭で出会っても御辞儀一つするではなし,第一町内会の人か否かの見分けが附かなかったのである。要するに『町内』という様な感じは殆んどしなかったといってよい。
 そこへ突如として大正12年9月1日の大地震が来た。銘々の巣に閉ぢ籠って居た南町の住民を街頭へゆすぶり出した。そこでバッタリ隣の人々向ひの人々と顔を合せて「ドーモ大変ですな,御怪我はありませんか」といい合ったのが「隣保団結」の抑もの初まり。それから引続いて火事の心配と夜警の騒ぎと糧食の配給,今夜の番は何さんと何さん,誰さんと誰さんは車を曳いて区役所へ玄米を取りに,とゴッタ返して居る間に相談が出来,分担が極まり,金が集まり張面が綴ぢられて,どうやら「町内」らしいことになって来た。其内に配給も止まり,夜警も不必要になったこと故,再び元の冷々淡々たる「寝室街」に立帰ってもよさそうなものだが,扨て今になって考へて見ると,今までどうして同町内があゝ没交渉超然として眠って居られたものかと不思議に思われる位の次第,どうです折角震災の賜物だからこれを一つ永久的のものにしようではありませんかと云ふので町民総会を開いて規約を議決し役員を選挙し,「南町自治会」と称する町会が出来上った。初めは主として火の用心と衛生の世話をして居たがモット文化事業をしようではないかという議がある。文化事業とは一体何をするのか、差し当り講演会,名づけて「町内大学」などはどうだろうかという様な訳で,今の所萬事先づ先づ好都合に行っている。町内の人が町内で出会って「今日は」と挨拶し合うだけでも気持がよい。……
 61)東京市役所,前掲書,104ページ。
 62)品川町役場,前掲書,210ページ。
 63)東京市役所,前掲書,110ページ。
 64)中村薫,前掲書,68ページ。
 65)日本橋区役所編,前掲書(『新修……』)176ページ。
 66)東京市社会教育課編,前掲書,6ページ。
 67)中村薫,前掲書,103ページ。
 68)東京市役所,前掲書,3ページ。
 69)中村薫,前掲書85-87ページ。
 70)同上,84ページ。
 71)東京市役所,前掲書,2ページ。
 72)同上,9ページ。中村薫,前掲書,76ページ。
 73)東京市役所社会教育課,前掲書,114-15ページ。
 74)同上,ページ。
 75)東京市政調査会,前掲書,31-60ページ。
 76)東京市役所,前掲書,42-48ページ。
 77)同上,42ページ。
 78)大正12年度分は東京市政調査会,前掲書,昭和8年度は東京市役所,前掲書からとったものであるが,そこでは何れも「次年度繰越」という項目を含んだ百分比が掲載されていた。しかしこの項目は大正13年で26.4%,昭和8年13.1%とかなりの開きを示しており,それが他の項目の百分比に影響していると見られたので,この項目の百分比に影響していると見られたので,この項目を除外した上で改めて百分比を求めた結果が表5の通りとなったのである。この表では祭礼費と事務費に関しては両年度が殆んど同率となっており,その点からもこのような手を加えた結果の方がより正確な比較を示すと見做してよいであろう。なお大正13年度分は「経費の支途が明瞭に項目別された」僅か8町内会から得られた回答に基づいており,代表性に問題があることは否定できないであろう。したがって表5は一応の傾向を表わすに止まるものである。
 79)東京市役所,前掲書,38ページ。
 80)同上,93-94ページ。
 81)吉川季次郎「東京市町内会無用論」『都市問題』2巻6号,大正15年6月,28ページ。
 82)同上,27-47ページ。
 83)亀掛川浩「都市に於ける自治の徹底と町内会」『都市問題』14巻3号,昭和7年3月,95-103ページ。
 84)谷川昇「都市における町内会制度の整備(下)「都市問題』24巻3号,昭和13年3月,58ページ。
 85)同上,57ページ。
 86)同上,58ページ。
 87)同上,60ページ。
 88)安達正大郎「東京新区会議員と町会との関係」『都市問題』2巻4号,大正15年4月,131-34ページ。
 89)猪間驥一「東京新区会議員の選挙弊害観」『都市問題』,2巻3号,大正15年3月,77-78ページ。
 90)東京市政調査会。前掲書,48-51ページ,157-66ページ,および東京市政改革新同盟編『東京市の町会』,市政革新パンフレット第2輯,昭和13年,43-47ページにこのような批判や不満の記録を見ることができる。
 91)東京市政調査会,前掲書,130-48ページに「知識階級」「月給取階級」あるいは「小学校教員,新聞記者」「官吏銀行会社員」「府市の吏員」などが会務に非協力,冷淡であることに対する困惑が述べられている。
 92)斉藤昇一「東京市町内会に於ける衛生事業と其の近代化」第5回全国都市問題会議総会研究報告『都市の保健施設』昭和11年,209-18ページ。