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日本における在来技術と社会

Author: 佐々木潤之介
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次

1 はじめに―科学史と技術史・・・・・・・・・・2
2 在来技術の形成と国家支配
 ―18世紀半ば以前における技術と社会・・・・・・・・・・4
3 技術の伝播・定着と発展
 ―18世紀半ば以降,明治初年にいたる間の技術と社会・・・・・・・・・・11
4 まとめとして―技術発展の特徴・・・・・・・・・・23


1 はじめに―科学史と技術史
 わが国の科学技術の発展が,西欧のそれの移入およびそれとの結合を経て,新たな発展段階に入ったのが,19世紀末以降のことであったとすれば,その西欧技術を受容する母胎となった技術的基礎を,在来技術だということができる。
 もっとも,その在来技術にしても,それ自体の発展のためには,一般に,西欧を含めた,さまざまの異なった文化体系との接触・交渉が必要不可欠であったことはいうまでもない。日本の「近代化時代の前提となった」技術的成果,すなわち,在来技術の水準とその特質についての,もっとも概括的なまとめである『日本科学技術史』(朝日新聞社,1962年)においても,その総論ともいうべき「日本の技術の歴史」(関野克)は,「とくに指摘した点は,日本の技術の工芸的性格であり,またその歴史を区切るものとして仏教の伝来と,西欧文明の渡来をあげた」という文章によって結ばれている。また,在来技術と表裏の関係にある在来科学の歴史については,いっそうそのような整理のしかたが徹底している。これもまたその意味ですぐれた概説である日本学士院編「明治前日本科学史」のシリーズの中の1冊『明治前日本科学史総説・年表』(1968年日本学術振興会)の「日本科学史総説」においては,在来科学の発展について,
 第1章 日本古代の科学紀元の初めの数世紀。
 第2章 中国の影響の時代初めは朝鮮をとおして,のち直接。6世紀ごろから16世紀中ごろまで。
 第3章 西洋の影響の時代16世紀中ごろから19世紀末葉まで。
 第1節 南蛮学の時代,第2節 蘭学の時代,第3節 欧米諸国からの摂取時代
という時代区分を設けている。おそらく,このような区別のしかたは,これまで,かなり一般的な考え方であったといってよいだろう。
 ところで,技術史という観点からみた場合,それはとりもなおさず技術の発展を取り扱うのだから,技術発展の諸要素をどのようにとらえるかということが大きな問題とならざるをえない。
 一般に,技術史の対象とする技術は,生産技術に限定すれば,労働力と労働手段との結合によって,生産力を実現する方法の総体をさすものだと考えることができる。したがって,この場合,道具のあり方,生産のための道具の適用のされ方,労
働力とその編成のあり方,労働力と道具との結合のされ方,などは,技術を構成する重要な要素であるといえる。科学史が,いかなる自然法則・原理が生産に採用されたかを問題とするとすれば,技術史はその適用のされ方を問題にする。同一法則・同一原理であっても,それがどのように適用されたかを追究することを通じて,技術発展をあとづけようとするのだといってよいだろう。
 その技術の発展とは,社会の要求に対応するものだとひとまずいうことができる。しかし,その社会の要求には,複雑で多様な要素を含んでおり,また,社会の要求があったからといって,技術がそれに全く適切に対応できるとは考えられない。技術の発展にはそれ自体としての論理があるのであって,それがある場合には,技術の限界として現れ,ある場合には新たな社会の要求を惹き起こすものとして現れる。つまり,社会の要求と技術の発展とは,相互規定的関係としてとらえる必要がある。
 また,技術の発展とは,生産力の発展に対応するものだとも,ひとまずいうことができる。生産力の発展が,単位労働の単位時間における生産労働の結果としての生産物の社会的価値によって測定することができるとすれば,原理的には,技術はそれに対応している。しかし,その間にあって,技術の発展の特質は,その増殖する社会的価値のあり方の特質に関連していることをも見落すわけにはいかない。
 ところで,技術を前述のような内容で考えるとすると,少くとも技術史においては,技術史一般としては存在しない。それは,生産技術に限ってみても、各生産部面,産業部門に固有のものとして存在する。しかし他面,その各部門における個別的技術は,1つにはその生産過程そのものにおいて,2つには労働主体のあり方を通じて,相互に関連し,依存しあっていることも明らかである。この意味では,技術史は,個別技術史とともに,あるいはそれ以上に,技術史一般としてとらえる必要がある。

 以上の諸点は,最初に述べたような在来技術について,その特徴を,技術史の問題として考えるために,その限りにおいてのみに必要な,整理である。そこで,以下の各項目では,諸産業についての個別技術史の整理をすることは到底不可能だから,二,三の問題をとり出して考えておくことにしよう。
2 在来技術の形成と国家支配
 ―18世紀半ば以前における技術と社会

 一般に,在来技術の形成ということになれば,それ自体厖大な考察を必要とする。そこで,ここでは,在来技術を最初に述べた内容に限ってみておくことにしよう。
 とすれば,在来技術の水準という観点にたつと,ほぼ17世紀以降の在来技術のあり方について検討することが適切であろう。そして,その17世紀以降のあり方は,前述の技術にかかわる諸問題,とくに,技術と社会組織,その基本的な枠ぐみとしての国家とその支配,との関連において,18世紀半ばごろを1つの画期とすることができる。その画期性は,おおまかにいえば,主要技術にたいする国家支配が成立している時期と,それが崩れて来る時期との相違だといってよい。
 ところで,16世紀末から17世紀にかけての,技術史上の位置は,大きくいって2通りにわけることができる。1つは,在来技術が,外来技術をくみこんで,全くといってよいほど新たな技術水準に到達したという側面である。これは例えば,織物・冶金・鉄砲・陶磁器等の技術に示される。2つは,外来技術の影響を直接にうけることなしに,これまでの在来技術が,集約・検討され,それ自体として,新たな水準を獲得するに至ったということである。農業・漁業など自然産業技術の他,建築などの技術に示される。
 このなかで,国家支配と密接に関わっているのは,前者の系列に属する技術である。
 簡単にみておこう。冶金技術においては,南蛮絞りと称される冶金法が,17世紀に入って,中心となったことは,よく知られている。それは,16世紀末ごろ,南蛮人から伝授されたことに由来するといわれる。正確にいえば,南蛮絞り法は,含銀銅から含銀鉛を分離する方法であり,その含銀鉛から銀を分離する方法は灰吹法である。したがって,この南蛮絞・灰吹法は,加鉛銀銅分離精錬法ともいうべきものであるが,その原理は,早く16世紀の半ばには,中国から博多を経て,石見銀山に伝えられていた。これにたいし,南蛮絞りと称される方法は,堺・大坂の都市手工業に伝えられたものであった。
 この2つの流れの外来冶金法は,17世紀に入ると合一して,南蛮絞りとも,灰吹法とも呼ばれて,精銅・精銀冶金方法の中心となった。砕鉱→焼鉱→寸吹→真吹という銅精錬の基本は,16世紀以前からのわが国の在来技術の所産であったが,これによって生産された銅である荒銅が,その南蛮絞りの加工対象であったのである。
 17世紀には,各地の鉱山で生産される荒銅は,大坂に送られた。これについて,「大坂市史」は大約次のように記している。
 「京都の銅商蘇我理右衛門の子理兵衛は,住友政友の養子となって,寛永7年大坂淡路町1丁目に移り,泉屋を称して,淡路町や鱈谷にも吹屋を設け,盛んに銅吹業を営み,その製銅を海外に輸出した。寛永15年(1638)幕府が古来の銅商人の由緒を調査し,22人の銅屋を選んで,長崎で中国やオランダと交易することを許したが,その内の,泉屋理兵衛・大坂屋久左衛門など12人は大坂の住人であり,他には,堺に5人,京都に2人,和歌山・豊後・長崎にそれぞれ1人ずつであった。このように,銅屋御免となった商人は各地に住んでいたが,製銅は大坂だけに限られたので,22人のうち,吹所を持たない者は,大坂の小吹屋から外国向けの掉銅を買い取って長崎に送り,また,小吹屋その他の商人で外国貿易を望む者は,銅屋仲間の名義を借りて営業するのであった」
 寛永15年といえば,島原の乱がこの2月に漸く鎮圧された年であり,いわゆる鎖国の完成の年の前年にあたる。この時期に,いち早く,幕府は,銅屋仲間を作らせ,掉銅生産―銀銅分離―南蛮絞り冶金の手工業を大坂銅屋=銅吹屋に独占させたのであった。これは銅屋・銅吹屋の特権獲得であるが,別の表現をすれば,幕府の,特権賦与を通じての,南蛮絞り冶金技術の独占支配でもあったのである。
 1543年,ポルトガル人が伝えた鉄砲は,その翌年には種子島はもとより,根来寺門前町,近江国友村で製造され,ほぼ同じ頃には,豊後府内・長州山口・相州小田原でも製作された。ポルトガル人旅行家メンデス・ピントは1544年以降再三にわたって来日したが,1556年に来たさい,豊後大友領では府中だけで3万挺の鉄砲があると聞き,驚いて商人に尋ねたところ,その商人は日本全国の鉄砲数は30万挺にものぼるだろうと答えたという報告を残している。この鉄砲生産が,戦国諸大名の需要によって,刀鍛冶・鋼鉄生産のそれまでの在来技術を基礎として,急速に展開したことはすでに明らかにされている。そしてこの鉄砲の採用が,わが国の戦法を一変させたということもすでに有名な史実である。そして,その戦法をたくみに取り入れて,戦国の争乱は鎮められ,信長・秀吉および徳川氏の統一政権が成立したのであった。
 17世紀に入っても,鉄砲製作は,堺と近江国友とを中心にして続けられた。しかし,その製造は,同時に強い支配と統制のもとにおかれた。例えば,近江国友では慶長12年(1607)幕府から8か条の規定が出され,その支配のもとに服することとなった。その規定は,鉄砲鍛冶が他国に行くことを禁じ,火薬の調合などの方法を年寄だけの秘法としてとどめておくことなどを内容としていた。国友では,鉄砲製作は,四人の年寄と40人の平鍛冶によって行われたが,この幕府の統制は,技術の独占とともに,諸負担の免除や,名字帯刀許可などさまざまの特権を獲得する基礎となったものである。
 鉄砲製作と並んで注目しておいてよいのは,織物技術である。在来技術の織物技術の最高の水準を保持していたのが,京都西陣織物業であったことはよく知られている。大舎人座に伝えられた織物業が,堺で中国人から伝来された織法をくみいれて,西陣機業が成立し,17世紀に入って著しい発展を遂げた。輸入唐糸を原料とし,金襴・緞子・嬬子・縮緬・細綾・紋紗などを織り出したが,そのさい,八丁撚糸機が中国から導入されたことが決定的な重要性をもっていた。これによって,これまでの後染織物が,先染織物へと進んでいった。また,オランダ人にならって,天鵞絨も織りはじめられた。この原料の性格と織法の先進性・生産品の奢侈性とは,西陣の地位を確実なものとしたが,そのことは,本来的に,幕府や領主との結びつきを強くもっていたということをも意味している。そもそも,大舎人座が新在家の地に移ったのは,秀吉の命によるといわれるが,西陣織屋を代表する西陣六人衆(紋屋・絹屋・織屋・錦屋・織物屋・桝屋)は,苗字はもとより,受領を許されている。彼らは,代々将軍家の吉例の官服を調整していたのである。
 西陣に,その主要産物を取引する撰糸仲買仲間が出来たのは,遅くとも1670年代以前であり,鶴・亀・松・竹・梅・紗・永の7組からなる高機織屋仲間が公認されたのは,延享2年(1745)のことであった。高機は紋織の道具であって,紋織はそれまでの平織では出来ないのだといわれる。紋織がはじまつたのが16世紀末であるが,この仲間の結成・特権掌握は,それまでの事実上の技術独占が,権力による技術独占の維持に転化したことを意味している。後にのべるように,この高機織屋仲間の公認は,高機技術の地方への流出と,それによる地方機業の興隆とを直接の契機としているのであった。
 以上の,冶金・鉄砲・織物の三技術は,それぞれに,15,6世紀の外来技術の影響をうけつつ,主要技術として権力に掌握・統制され,特権的技術独占の組識をもって,うけつがれていった。もちろん,その過程では,移入されつつも継承されない技術もある。例えば,冶金におけるアマルガム法がそれである。佐渡銀山では,1620~30年代,アマルガム法による銀精錬が行われていた。しかし,それは間もなくやんだ。直接の理由は,これに必要な水銀生産が衰退し,輸入に頼らざるをえなくなったことによるという。鎖国の影響の1つの現れだといってよい。また,朝鮮から伝えられた銅活字や木活字による活版術もその例であった。17世紀前半には慶長勅版をはじめとして,これによる書籍刊行がひろく行われていた。しかし,この活版印刷はその後急速に衰え,旧来の木刻版が復活した。その活版印刷衰退の直接の理由は,これが多くの発行部数に不適切であったためだといわれる。

 農業技術の展開は,自ら大きく異なっていた。16,17世紀を通じて確定された小農生産の基本を,
 「零細錯圃形態の耕地にたいし, 人力農具を基本として, 多肥・多労働の投下を通じて 反当収量の増大をはかることによって 生産力の発展をめざした 単婚小家族労働の燃焼による 水田稲作経営」
と定式化できるとすれば,農業技術の発展方向も,ほぼその方向でとらえることができる。
 しかし,それは,なお巨視的な方向性であって,少しくその内訳けをみれば,17世紀の半ばに小画期がある。技術史の面からみれば,このような基本方向が確定したのは,この小画期からのことであった。それ以前にあっては,展開しつつある小農経営と並んで,譜代下人労働や賦役労働を主要労働力とする家父長制的大経営である名田地主経営が,なお強く残存していた。それは,技術史的には,残存というよりは,支配的であったといってよい。そのことをよく示すのは,農書類の性格である。
 伊予を舞台とした「清良記」は,1620~30年代の著作と考えられ,そこでの巻七は「親民鑑月集」とも呼ばれて,わが国最古の農書とされている。しかし,この書は,全体としては,戦国部将土居清良の一代記・軍記であって,巻七は,家臣松浦宗案の農事答申書である。したがって,農書というよりは,農業報告書としての性格をもつが,より重要なことは,その報告が,「一領具足」という郷士,郷侍に基礎をおいているということである。

 同様な農耕事情調査報告書として,藩が行った調査に基づくものがある。加賀藩がその初期藩政改革である改作法の施行の一環として行ったもので,明暦3年(1657)の「草高百石開作入用人馬調理」である。各郡単位に調査されたもののようであるが,現在のところ越中砺波郡と加賀能美郡の分しかわかっていない。それによると,砺波郡の農業は,名田地主経営が支配的であることを示し,能美郡のそれは,名田地主経営と小農経営とが併存して,小農経営が展開しつつある状況を示している。
 これらの史料は,17世紀前半に,家父長制的経営が,終局的な段階に到達したこと,したがって,それが解体しはじめたことを示している。もちろん,この変化は地域によって時間的な相違があることは当然であって,いわゆる後進地では遅れて現れる。したがって,次に述べるような,農書が書かれはじめると,後進地帯での農書には,家父長制的経営に基づくものも出てくる。
 貞享元年(1684),奥州会津の佐瀬与次右衛門によって,これは紛れもない農書が書かれた。「会津農書」である。そして,この書は会津地方の農業経営を体系的に叙述したものだが,当時の佐瀬家が,代表的な名田地主であることにもよって,その体系化は,名田地主経営における生産の技術に基づく体系化として記されている。
 これらの家父長制的大経営の農業技術は,小農生産のそれと比べて,畜耕に比重をおいた体系をもち,その生産力発展の方向は,反当収量の増大よりも,単位労働当りの耕地面積の増に基本をおいたものである。
 これにたいして,17世紀半ば以降は,まさに,小農生産技術の発展・展開の時期であった。農書に即していえば,前述の報告書とは異なった農業技術書としての農書が書かれはじめたのは,それなりの前史があるといわなくてはならない。農民がその農業生産,技術について,客観性をもった関心を示しはじめたことは,農事記録の出現によって知ることができる。もっとも,その大部分は,教育の問題とも深く関わって,地主手作についてのものであるが,それにしても,この農事記録が書かれはじめたことの,技術史的意味合いは大きいといわなくてはならない。
 今のところ,そのような意味での農事記録の初見は,泉州踞尾村北村家におけるものである。そこでの「当座覚日記」は,延宝元年(1673)からの手作経営の実態を記録している。連作に限界がある木棉の作付順序,稲・綿・藍・莫への金肥施入量とその配分,下人や奉公人の農業労働の配分などが,月日を明記して記されている。ここに示されているような関心と記録があって,農書が出てくるといわなくてはならないだろう。
 西三河に住む上層農民が延宝8~天和2年(1682)の間に,著わしたものと考えられている「百姓伝記」は,そのような農書の1つの代表例である。ここでは,尿尿・厩肥・緑肥等とともに,干鰯などの金肥をも使って,稲・麦・雑穀・野菜・水生植物・救荒食物を栽培するしかたや食べ方,臼や織機・糸車などについての解説までを含めて述べられている。その中で,他の農書と違って,本書が特に注目される所以は,層その農具についての記載の豊かさにあるといわれている。「土民の使う道具の中で,四季を通じてもっとも必要なものは,鍬・鎌の二種である」として,鍬・鎌は土質と作業とを考慮して作らせよとし,それぞれの場合に応じての使い方を教えている。犁,とくに牛馬耕の犁については,中国・五畿内・近江の例をひいているが,その使用を勧めているとはいえない。畜耕については,僅かに,代がえのさいの扱い方や道具だけが詳しく述べられているだけである。
 さらに,この農書では,潅漑用具についての記述が詳しいことに注目されよう。はねつるべ・水汲み桶などの作り方や,水車・竜骨車・水上輪(竜尾車)・寸甫回しについてその構造や揚水効率の評価を解説している。
 こうして,この「百姓伝記」は,おそらく,当時の農業技術及び関連技術の到達点を集成したものであることは確かであろう。そして,この内容をもって,この書は小農技術の体系化をめざしたものであったといわれるのである。
 この期の農書のいま1つの代表例が「農業全書」であったことはいうまでもない。前筑前藩士宮崎安貞が元禄10年(1697)に,書堂柳枝軒から刊行した。、数ある農書のうちで最高の名著だと評価されるに至ったのは,他の農書が筆写私家本として徐々に流布したのにたいし,この書が一挙に版行されてひろまったことにもよるのであろう。この書もまた,「百姓伝記」と同様に,著者の長年にわたる農業生産活動の実績と,各地の農耕についての知識とを基礎に記されているが,なお,「百姓伝記」と決定的に違う点は,中国の農政書「農政全書」に学び,多くの知識を得ていることである。それは,わが国農業のあり方を中国農業の知識を応用して体系化する努力をしたものだとまで評価されている。しかし,その農民の心得として,第1に,農民は自分の資産・身分に応じて田畠を作るべきだとし,ついで第2に,耕作にとって肝要なことは,奴僕と牛馬であるとしているところからみると,「百姓伝記」の主旨とは異なっていると考えられるし,また,農具・潅漑用具の記述は,はるかに「百姓伝記」の方が細かく,広く,かつ具体的であるといってよい。
 こうして,実態に即した農業技術書としての農書としては,「百姓伝記」を中心に考えるべきであろうと思われるが,その件にかかわる細かな検討は,ここでは避けておこう。ともかく,17世紀半ば以降に,農業技術が新たな展開をみせたことは事実であるし,その展開を示すものとして,これらの農書の出現・流布とともに,農業用具についていえば,鍬の分化に示されるような耕起具の発展,千歯扱きの出現にみられるような脱穀・調整器具の改良などがあるし,その他にも,用水管理,乾田化を基軸にした土地改良・施肥・採草・栽培品種の増加と改良など,多面での技術改良があったことはよく知られている。そして,それらの技術発展は,その基礎を,前述の小農生産においているのであり,18世紀前半は,このような小農生産技術の確定した時期であったといえる。
 なお,注目すべきは,すでに明らかなように,農業技術は,たんに,農耕にかかわる技術としてだけでは成立していない。とくに,土木技術との関連が重要な意味をもつ。この面からみれば,17世紀半ば以前は,大規模な新田開発による耕地増成が農業生産力発展の基本方向として考えられていたのであり,そのための治水・用水路開さくを中心とした土木技術が発展している。河川流水に逆うことなく治水の効果をあげようとする工事法は,16世紀以来の伝統的な工法であったが,17世紀に入って,いわゆる関東流の技術として完成した。
 関東流は,勘定奉行・関東郡代であった伊奈忠次より始まるといわれる。このことに示されるように,この時期の大規模な治水・潅漑技術の保持者は,中世以来の土豪的農民や幕府や大名の家臣であった。例えば,1620~30年代に五郎兵衛新田を開いた信州の市川五郎兵衛は前者の例であり,また1650年前後に用・排水工事につとめ,530余町の田と71町余の畑とを開き,越後浄楽寺新田をつくった青木兵右衛門は,新発田藩士であったし,17世紀初頭,九州で治水土木の功者として活躍し,多くの用水・新田の開発に成功した成富茂安は,肥前佐賀藩士であった。
 17世紀半ば以降,大規模な用水開発は減少する。それに代って,規模としては小さいが,既存の田畑の耕作条件を改良・安定させるための工事が増大する。そしてその工事は,農民や町人たちによって計画・施行される例が多くなる。その結果,1710年前後になると,大規模な新田開発の例がまた多くなるが,その内容は,17世紀前半とけよほど変ったものになっているといってよい。
 1719年から始められた越後紫雲寺潟の干拓はその代表的事例である。鉱山山師竹前権兵衛が出願し,自分の資金と町人の資金とを集めて潟の排水工事を行い,ついに,1996町余の田畑を造成し,紫雲寺潟新田を作ったのである。印旛沼の干拓は享保9年,平戸村の農民によって発議されたものだし,淀川の付け替えにさいし,その後地の池沼の開発を企て,宝永4年に成立した鴻池新田は,豪商の新田開発としてもっとも著名なものである。
 これらの諸例をみると,18世紀に入っての大規模新田開発技術の主体は,排水・干拓にあるといってよい。そして,その大規模な工事の主体は,幕・藩・豪商に頼らねばならなかった。それは,資金の問題だけではなく,技術の問題でもあったのである。こうして,これらの幕・藩や豪商らと結びつく,新たな技術者が登場した。その代表が,井沢弥惣兵衛である。弥惣兵衛が幕府に仕官するのは享保7年であるが,それより前,宝永7年には紀州巽村の亀池を建造していた。おそらく弥惣兵衛は,当時,前述のように,各地にそれぞれの特徴を帯びながら,分散・展開していた土木技術を,集約することを通じて,技術者として成長したものと思われる。
 弥惣兵衛の工法の特徴の1つは排水にあった。それはとくに,享保10年からの武州見沼溜井新田の工事に示されている。25キロメートル余の排水路を掘って,1300余町の干拓に成功したのであるが,この工事はまた,この干拓の結果生じた用水建設問題と不可分の関係にある,綜合性をもった工事であった。その見沼代用水路は,新たに掘った分だけで60キロメートルにも及び,1万2571町余の田を潅漑した。そして,その間に,通船堀が作られ,2つの閘門が造られた。
 弥惣兵衛がもっていた技術のいま1つは,治水にかかわるものであった。淀川堤防の改修,中川改修による利根川治水工事などに示されているように,その工法の基本は,強固で高大な連続堤によって,河川流水を強力に抑えつけてしまうということにあった。この自然に対する対応のしかたは,右の排水工法においても共通しているところであり,弥惣兵衛に代表される技術が紀州流と呼ばれて,関東流とは異なった技術者の流れを形成した基礎でもあった。

3 技術の伝播・定着と発展
 ―18世紀半ば以降,明治初年にいたる間の技術と社会

 18世紀の半ばは,多くの面で日本史上の変動期である。そのことは,技術史の上でも例外ではない。それをここでは,日本国内での,技術の伝播とその定着を基礎にした発展という観点からみてみよう。
 そのさい,その技術の伝播とその定着ということの意味について,一つの事例をあげて,そこから考えてみよう。天保11年に書かれた,「佐渡四民風俗追加」には次のようなことが書かれている。
 スポン樋・水上輪・阿蘭陀スポイト,又は竜越樋などというものが,近年迄,いろいろ試されてきたが,このような細工物では,故障が頻繁であって,排水の間に合わないために,現在のように,井車をしつけ,釣瓶で汲みあげる方が故障も少なく,費用も少くてすみ,水の揚り方もよく,これ以上の方法はないとのことである。
 これは,佐渡相川銀山の状況である。ここでふれておかねばならないことは,技術水準という観点からみた場合,おそらく,冶金技術と,鉱山における諸技術,すなわち鉱山技術とが,在来技術をいろいろの意味で代表する位置をもっていたことと,その鉱山技術が,とくに非鉄金属の,銀・銅を中心とする鉱山におけるそれを中心にしていたこと,およびその鉱山技術の中で,直接の採鉱法の問題と並んで,あるいはそれ以上に,排水・排煙の方法が重視されていたこと,の諸点である。
 その坑内排水については,大きくわけて2つの方法がとられた。1つは,排水坑の開墾であって,すでに17世紀には,大規模な排水坑開墾工事が行われていた。しかし,坑道が地下に深く進んでいくに従って,この排水坑による排水には限界がでてくる。そこで,坑内湧水の揚水問題が大きな課題となってくるのである。
このことを考えながら,右の1840年の記述を読むと,幾つかの間題が関心を呼ぶ。まず,佐渡銀山にとりいれられた,揚水具について簡単に記しておこう。
 釣瓶揚水は,もっとも早くから行われ,初歩的な,人力消耗の揚水方法であった。
寸法樋(スポン樋)は、早くも元和4年(1617)には佐渡にとりいれられていた。水上輪(竜樋)は,寛永11年(1634),佐渡に伝えられ,承応2年(1653)に実用されたが,試用に終り,寛政2年(1790)に,再び使用され始めた。水銃(竜土水)も,天明2年(1782)には移入された。そして,佐渡の揚水方法が根本的に変ったのは,明治13年(1880),蒸気動力のコーニッシュ・ポンプの採用によるのだといわれる。
 このように,揚水具がつぎつぎと導入された。そして,それらの道具が,経済的にも能率のよいことは,実証されていた。水上輪は,水学宗甫が大坂から招かれて伝えたものだが,スポン樋にまさる能率をもっていたことは,その導入の時点で試され,明らかにされていた。水銃は勘定奉行松平秀持が,もっていたオランダのフランカスホイトを佐渡に伝えたものだが,これによって,揚水労働力が節減され,1年間に1144両の節約になるという試算まで行われたのであった。
 それにしてなお,前述のような1840年の記述があるのである。細工物は故障する,それを修理することが難かしい,ということが釣瓶揚水を主要な揚水方法としている理由の1つであるとするのである。そこには,道具や方法が導入されても,それを維持する条件,とくに技術的基礎がなければ,技術として定着しないということが,よく示されている。技術史は技術を,特定の体系性をもったものとして理解されねばならないということを物語っている。
 またそこには,釣瓶揚水を主要な揚水方法としている理由の第2として,それが経済的にも有利だからということがあげられている。この経済的有利件の基礎になっているのは,揚水労働の質なのである。たしかに,釣瓶揚水は,その経費の大部分が労働経費なのであって,それが低劣であればあるほど,その経済的有利性は増す。佐渡銀山の水替人足労働が,奴隷的条件のもとでの,飯場支配のもとにおかれ,したがつて,労働者の労働年数も短く,不足労働力の補充にも困難をきたし,ついに,囚人労働の充用をしなければならなかった事情は,わが国鉱山労働史上,もっともよく知られている事実である。
 以上の佐渡銀山の揚水技術をみると,結局のところ,技術導入が成功しなかったようにみえる。しかし,一般にはそうではない。18世紀半ば以降,前項でみたような,技術独占の体制は大きく崩れはじめるのである。その様相を,簡単にみておこう。
 冶金技術についていえば,銅吹仲間大坂屋が秋田藩と結んで,幕府の許可をえて手代松井善右衛門を秋田に派遣し,北秋田の草深い米代川河畔に,篭山銀絞所を作ったのが,その画期的な事件であった。南蛮吹・灰吹の技術が直接に秋田に移植され,銀銅分離が行われることとなった。安永3年(1774)のことである。
 鉄砲技術については,近江国友の,国友藤兵衛一貫が「大小御鉄砲張立製作」という書を書いた。これまで秘法とされてきた鉄砲鍛治の方法を記し,これによれば,野鍛冶でも銃砲を作ることができるどいう技術指導書である。この書がどのように各地に流布し,鉄砲生産をひろげたかについては明らかでない。しかし,この書がこれまでの技術独占を打ち破ろうとして書かれたものであることはたしかである。
 織物技術については,桐生織物業の展開が,それを代表している。西陣織物師弥兵衛・吉兵衛の2人が,それぞれに,桐生近くの村の名主と桐生織屋とに招かれて桐生に至り,高機を伝えた。元文3年(1738)のことである。この新機織法はたちまちのうちにひろまり,元文6年には40余機となり,寛保3年(1743)には,上州北部西部の各地に定着してしまったという。そこで生産される紗綾織は,江戸・京都に進出し,それを脅威とした西陣機業に,延享2年(1745),前述のような高機織屋仲間を結成・公認させることとなったのである。
 このような技術伝播は,以上につきるものではない。しかも,その技術伝播が,一面では,殖産政策に基づいて,藩が中心となって職人や技術者を呼んで行われる場合と並んで,農民・職人が他地で体得した技術を持ち帰って定着させるという場合が多いことに注目される。前者については,肥後藩や米沢藩など多くの藩の藩政改革にみられる。それは,とくに,養蚕・製糸・織物技術や漆臘栽培・製臘加工技術に関するものであるが,前述の篭山銀絞所の設立も,秋田藩におけるその一例に他ならない。
 後者についても,多様な例がある。2,3をあげてみよう。18世紀末に,姫路を中心とした播州木綿が急速に展開したが,その栽培技術の多くは,18世紀半ばに,大坂周辺棉作地帯の農村に働きに来ていた奉公人たちが体得したものであったといってよい。10年間にわたって各地の池溝・土木を見て廻った信州諏訪の農民坂本養川は,帰村後近辺の用水改良にのり出し,天明5年から13年間にわたって,渡之湯堰をはじめ14の用水を開さくした。この養川の用水改良は,それによって,300町歩の新田を開いたというが,それ以上に注目すべきは,農業と用水の水質との関連を重視し,水質改善をはかったことにあった。尾張瀬戸の焼物師の息子加藤民吉は,数年にわたって,肥前有田焼の技法を習得するために九州に移り,文化5年(1808)帰郷して瀬戸磁器の生産に成功し,瀬戸焼中興の祖と呼ばれる。陸奥細倉鉛山の油井久米之助は,各地の鉱山に鉱夫として働き,文政7年(1824)帰山して独自の冶金法である生吹法をあみ出した,等々。
 習得した技法を,その技法が根づいていた地域とは異なった社会的・地理的条件のもとで定着させるということは,それ自体,技術発展の第一歩であった。そしてそこから,各地での,それぞれの発展がはじまる。

 桐生織物業にそくして少し展望してみよう。この高機織法の導入は,桐生機業を農家の副業時代から機屋専業時代に移行させる画期となった。それに伴って紗綾織女工を主とした機業労働者が,利根川流域農村などから集められ雇傭されるようになった。この雇傭関係は,宝暦年間(1750年代)には,ほぼ固まった関係として成立した。
 それと同時に,新規織物の生産もつぎつぎと始められた。縮緬(寛保3年より),
絽(延享2年より),飛紗綾(寛延元年より),紋絽(宝暦年中より),竜紋(天明年間より),精巧平(天明年間より)などがそれぞれであるが,この間に,2,3の技術改良がみられた。
 その1つは,天明3年(1783)の水力撚糸機八丁車の創設である。すでに西陣では八丁撚糸機が使用されていたが,桐生では紡車を使っていた。これにたいし,岩頼吉兵衛が水車と撚糸とを結びつけて,水力八丁撚糸車を工夫・創設したのであった。しかし,西陣では八丁撚糸機で,片撚りの他に諸撚り(片撚りを二本抱き合わせて反対の方向に撚る)をも行っていたが,桐生のそれは片撚りにとどまっていたようである。桐生では諸撚りは,明治35年に発議された模範工場桐生撚糸合資会社での洋式撚糸機の採用までまたねばならなかつた。しかし,それにしても,この八丁車は,強撚糸の大量生産をもたらし,縮緬や御召縮緬(絽縮緬)の改良・発展に大きな役割りを果たすこととなった。この水力八丁車は19世紀に入って又兵衛の孫笠原吉郎の回転時計(撚糸1綛の回転数を測る)の発明によって完成したといわれ,近代の八丁車の原形となったものであった。
 その2は,西陣から紋織法が導入され定着したことである。天明6年(1786),紋工小坂半兵衛が来てその始祖となった。その半兵衛に師事した金井繁之亟は,粟ノ谷の機神と称せられたが,染糸を用いてさまざまの模様織を工夫し,毛織物をも始めた。そして,文政8年(1825),織物稽古相談会を開き,その工夫の秘事皆伝をはかった。この繁之亟の技術公開という重要な事件のあった1810~20年代は,前述の1730~80年代についで,桐生織物技術の新展開期であったといえる。山藤政八が金欄織を(天保初年),彦部五兵衛が黒編子織を(文政9年),玉上善右衛門が輪奈天鵞絨織を(文政年中),吉田清助が紋天鵞絨織(文政3年)・御召縮緬(天保年中)をはじめた。これらの新織物の手法は,御召縮緬を別とすれば,いずれも自ら赴くか(政八・五兵衛・清助),職人を招くか(善右衛門)の方法で,西陣から導入されたものであった。西陣が,この時代でさえも,すぐれた技術をもち,技術的指導性をもっていたことが明らかであるとともに,桐生織物の独自な技術的発展が,御召縮緬として表現されていることに注目すべきであろう。
 第3には,それとともに,染色方法の発展があったことである。1790年代を中心に,西陣からの染職人の来住があいつぎ,張屋・小紋紺屋・糸紺屋の仲間の成立に示されるような分業も進んだ。前述の吉田清助の秘巻染法書には,69種に及ぶ染色法が記されている。
 第4には,機業の分化と経営形態の変化とがおこったことである。その分業関係は,図のように示されている。元文期の,高機をはじめとする西陣織法の移入が著しく分業関係を展開させることとなったありさまが示されている。そして,この分業関係にくみこまれていた。絹買・張屋・質屋・織屋・小紋紺屋等々は,それぞれに仲間をつくり,賃金規定などの取定めを行っていた。図の,賃機・下機は,いずれも問屋制家内工業関係を示している。この関係は,天保年間以降急速に展開したもののようであって,明治8年(1875)の織屋職業取締方法の願書においては,織屋・賃機の問屋制家内工業関係が主要問題となるにいたるのである。
第1期元文以前〔享保頃〕
第2期元文以後〔元保頃〕
開港の打撃をうけた桐生織物業は,幕末から明治にかけて,西洋染料の使用(元治2年),輸入綿糸による紋織・脱走御召生産(万延元年)などを経て,西陣からのジャカード機(紋織機)の導入(明治10年),バッタン機(飛梭機)の導入(明治16年),ドビー機(綜釣機)の導入(明治19年),ピヤノマシン機(紋彫機)の導入(同19年)などが行われた。なかでも,明治5年,導入された力織機は試用の結果,直ちには採用されず,明治22年,日本織物会社によって専用されたのであった。この日本織物会社は,マニュファクチュアとしての成愛社(明治13年創立),縮緬機業会社(同15年創立)とを歴史的前提として,明治20年に創立されたものである。いずれも,水車・蒸気機関を主動力としていたが,日本織物会社は,明治33年から,水車に代わる補助動力として電気機関を採用するに至った。
 しかし,明治40年の報告によると,力織機は,桐生織物会社(日本織物会社の後身)と,県立桐生織物学校(明治26年創立の山田第1高等小学校附属実業補習学校の後身,なお,この補習学校は,明治19年に桐生物産会社内に設けられた桐生織物講習所とともに,技術教育機関の先駆となった)以外には,実用されていなかったという。織機は依然として高機が中心であり,一部に「洋式4本柱1機台」である厩機が使用されているにすぎなかった。それは「内地において製作されたる力織機が機構も工作も不完全にして生産能率少く且つ伝統的に熟練したる特殊の技巧を応用したる精巧品の製織には未だ不適当であった」ことによるとされている。40年以後,桐生の力織機数は急増していく。それは渡良瀬水力電気株式会社の電力供給開始(41年)および繊維工業の経営的発展によるのだとされている。さらにそれに,桐生での村田兵作らの研究による村田式力織機の製作(大正4年)は,重要な役割を果たしたであろう。山田郡だけで大正5年には,明治38年にくらべて6.6倍の1004台の力織機が使用されていた。
 以上が桐生織物技術史上の主要点である。行論中でも再説したように,この間,西陣織物技術の指導性は,ほぼ一貫していたといってよい。したがって,西陣織物業は,経済的には桐生織物業など地方機業の発展による圧迫という危機にさらされながらも,あるいはその危機にさらされていたがゆえに,技術的な進歩があり,そしてその指導性があったといってよい。明治5年,政府の保護奨励方針に従って,いち早く洋式機法の伝習生を渡航させ,洋式織機を輸入したのも西陣であった。それに至る在来技術の発展水準を代表するのが,幕末期に織り出されはじめた綴錦であった。指の爪を鋸歯形にといで緯糸を掻きよせ,数種の色糸で模様を織り出す紋織りであるこの技法が,わが国在来織物技術の到達点として,さまざまの問題の出発点となろう。
 この綴錦と並んで重要な位置をしめるのが,ゼンマイの発明であった。天保2(1831)年から使用されはじめたこの機械は,糸繰りの能率を一挙に10数倍にしたという。このゼンマイの出現がどのような影響を与えたか,「西陣天狗筆記」(弘化2年刊)にみてみよう。
 「20年ばかり前から糸繰ゼンマイ車が工夫され,実用された。これから西陣の絹は,以前の風義を失ってしまったといえる。また,ゼンマイが流行したために,西陣の職人,空引(紋をつける職人)の職分が少くなってしまったという。その理由は何だろうか。
 ゼンマイ車を借りるさいの損料は,12枠くりのゼンマイ車で月600文ばかりである。しかし,貸借のときは敷金として二カ月分1200文も先取りされてしまう。繰り糸を金繰りと間違っている。ゼンマイでは5日の仕事を1日でできるから,繰屋も繰るべき糸がなくなってしまって,手明きになる。ゼンマイの繰り賃は,手繰り賃銀の半分にあたるが,平均してみると,手繰りと変りはない。だから3カ月目の損料は支払えなくなってゼンマイは取り返され,手明きになる。(中略)
 西陣近辺で,ゼンマイで内証銭をためている呉服屋その他商売の商人の女房が沢山いる。そのわけは次の通りである。12枠のゼンマイを新調すれば金1両2分ほどかかる。それを亭主に相談して新調して持っている。そうすると,損料に追われることはないから,少々糸のくり方が下手でも,織屋は安心して,これらの素人商売に任せることとなる。いよいよ織手・空引の女房たちが暇になる。それでも子供がいない者は,織屋に日雇稼ぎに行くか,糸くりに半年奉公につとめに出るけれども,子供がいてはそうはいかない。そこでいよいよ困窮してしまう。だから,ゼンマイくりは便利ではあるが,日々の暮しの煙りがたちかねる。織手や空引の女房の困窮ということでゼンマイはよくない。またゼンマイ繰りの糸を出すことができる程の絹屋は,手くり糸でも充分間に合うはずだ。
 こういうわけで,ゼンマイを止めて,大の虫を殺し,小の虫を助けるべきである」
 この書の筆者は,前述の西陣6人衆の1人,紋屋井関相模介だといわれる。ゼンマイは手くりにくらべて,仕事の量で5倍になり,経費で半分ですむ。しかし,糸くりにかける糸量には,原料と機織からの需要との2面から限界があり,それと,損料とを含めて考えると,結局手くりより有利だとはいえない。それどころか,手くり労働力が遊休労働力になってしまい,下層民の貧窮化を招いているというのである。織物生産の生産力がゼンマイのそれに対応していないのであって,それだけに,ゼンマイの糸くり方法が,この期の織物の生産方法からぬきんでたものであることを示しているといってよい。

 技術独占の体制が崩れはじめることと,技術発展との関連は,冶金技術については,前述の篭山銀絞所の例にみることができる。ここでは,さまざまの工夫・改良がなされ,とくに,分離された銀の純度を高めることと,冶金過程で出てくる屑などの再冶金によって産銀量を増大することとの2つの目標に向かっての努力が続けられた。その結果,19世紀初頭には,複雑で壮大な稼行工程が成立しており,この工程は,南蛮絞り,灰吹技術に基礎をおいたものとしては,最高水準までの到達を示している。このことについては,別に報告したので,ここでは重複を避けることにする。
 19世紀に入っての冶金技術の改良は,もちろん,ひとり篭山だけのものではない,原鉱石の貧鉱化と,鉱山経営の経済的困難とに,どのように対処するかということが,各鉱山における課題であった。それに応ずるために,例えば佐渡銀山では大吹法(文化13年)が,阿仁銅山では鈹吹法(天保2年)が,細倉鉛山では銀罫法(文政元年),生吹法(文政17年)が,9考案・実施された。これらの考案は,それぞれの鉱山の特質を知悉していた床屋職人が,他の鉱山での冶金法を参照しながら,各鉱山に適合的にあみ出したものであった。
 これらの在来技術としての冶金法は,金銀については明治30年代の青花法,銅については同30年代の乾式生鉱精練,同40年代の転炉製銅という外来技術によって最終的に否定されるに至った。しかし,この冶金と不可分に結びついている採鉱については,様子が少しく異なっていた。採鉱でも在来技術の上に,西欧技術が入ってくることによる混乱は避け難かった。明治2年の生野銀山の暴動,明治5年の佐渡銀山の動揺などがその例である。明治政府は,これらをあるいは鎮圧し,あるいは賑救して,危機を克服するとともに,生産の近代化を強行していった。採鉱過程における技術についていえば,早く,明治元年,佐渡で軌条の敷設や捲揚機の設置が行われて,鉱石搬出方法改善の先駆となり,13年には同じく佐渡で蒸気動力のポンプが採用されて揚水技術の変化をもたらし,20年代には坑内照明もカンテラ燈に変わっていった。火薬発破の導入はより早く文久3年のことに属するが,明治10年には,多くの鉱山に一般化することとなった。
 このようにして,鉱山の在来技術は,採鉱をとりまく多くの面で,それぞれに,改善されていった。しかし,採鉱技術においては,鑿岩機が導入され,実用にされたのは,明治15年の阿仁鉱山の例を最初とした。そして,新たな機種の導入を伴いつつ,各鉱山に伝えられていった。だが,わが国の代表的な35鉱山について調査した結果によると,在来の手堀技術との比較で次のようになっている。
 1工当りの採掘量は,手掘1にたいして,鑿岩機掘は,
 明治40年1.10,同45年3.63,大正6年5.73
 出鉱量は,手掘による出鉱量1にたいして,鑿岩機は,
 明治40年0.02,同45年0.19,大正6年0.47,大正11年1.28
となっている。このことは,鑿岩機掘が手掘にたいして技術的優位を確定したのが1910年代後半であり,量的な意味での中心的な位置を確定したのが1920年代であることを示している。鑿岩機導入以来この状態に至る間,約40年の年月を必要としたのは,この鑿岩機の1910年代の急速な導入が,「爾来鉱業の不況が年と共に深刻度を加へたるに拘らず却って機械の利用は増加し」た結果であるとすれば,決して経済的理由によるのではない。そこには,飯場夫と直轄夫の問題に示されるような,労働組織の問題が基本にあったのである。手掘採鉱が,在来労働組織たる金名工組織と不可分に結びついており,それが,明治期を通じて根強く再生産されていたことは,例えば,工部省鉱山局阿仁鉱山分局の報告にも示されている通りである。

 18世紀半ば以降の,農村における生産技術は,とくに,商業的農業生産および農村加工業の面で,大きな進展をとげた。なかでもめざましかったのは,養蚕・製糸業における展開と発展であった。「明治前日本蚕業技術史」は,江戸時代の蚕糸技術の内容の要領として,次のようにあげている。
 蚕種技術については,
(1) 今日の系統分離,異型淘汰,交雑育種等の方法が実質的には江戸時代に既に用いられており,多くの実用価値の高い蚕品種が育成された。
(2) 種繭飼育,蚕種保護その他蚕種製造に関する技術が発達して良い蚕種が製造された。
(3) 春蚕種の外に夏蚕種,秋蚕種も製造された。
(4) 良い蚕種をつくるには地理的,気象的環境が重要な要素であることが認められ,蚕種製造には環境の良い適地が選ばれた。
(5) 蚕種鑑定の基礎は江戸時代につくられ,現在でもその要領に基いて行われている。
 栽桑技術については,
(1) わが国の事情に適応するように桑園が設けられ,全般にわたり栽桑技術が進歩し,基本的には現在の技術と大差ない水準に達した。
(2) 60余種の桑品種が育成され,養蚕に用いられて効果をあげた。現在でも栽培されている多くの品種がこれに含まれている。
(3) 実用価値の高い採苗法が考案され栽桑に利用された。
(4) 用途別を考慮し,わが国独特の構想をもって各種の仕立法,収獲法が考案され,いずれも高い技術水準に達した。
 養蚕技術については,
(1) 天然育から出発して清涼育,温暖育,折衷育,適温育等の飼い方が工夫され,飼育法が改良された。
(2) 全葉育,全芽育,到芽育,条桑育が考案された。
(3) 春蚕のほか,わが国独特の夏蚕,秋蚕の飼育法の基礎技術が完成された。
(4) 自然催青,平進催青等において温度処理の標準が立てられた。
(5) 早,中,晩生の各種の桑樹を植えて給与桑の葉質に注意し,給与量,給桑回数についても標準がたてられた。
(6) 給桑,除沙,眠中並びに族中保護,通風その他の衛生施設等について極めて綿密な技術上の注意が実施された。
(7) ヨーロッパの技術とは独自に温度計を用いる適温育が発明された。
 製糸技術については,
(1) 繰糸操作,繰糸用器具ともにわが国蚕糸事情に適応して独特の発達を遂げ,基本理念において現在と差がない程に発達した技術が江戸時代につくりあげられた。
(2) 日乾法,燥殺法,蒸殺法等の殺蝋,乾繭の技術が案出された。
(3) 煮繭,索緒,接緒,?掛,等の技術が発達した。
(4) 小枠巻取法,揚返等の日本独特の技術が発達した。
(5) 幼稚な在来の製糸法から手挽法に,次いで座繰製糸法に進歩し,更に江戸時代末期には座繰器械製糸の構想が加味されるようになり基本的には現在の技術と差異がない程度まで進歩した。
(6) 生糸はこの時代の多種多様の織物,紐類の原糸に適したものが製造されたばかりでなく安政以後は輸出生糸としても発展することができた程に製糸技術は進歩した。
 以上は明治初年まで,ほぼ同様であって,近代科学に基礎を置く蚕業技術の研究及びその実際化は,明治の初年に政府が本邦生糸改善策としてヨーロッパ式機械製糸技術の移植を試み,上州富岡に富岡製糸場を設け,また明治7年内務省勧業寮所管に係る内藤新宿試験場内に蚕業試験係を設けた頃から著しく促進されたと見るべきである。」
 おそらく,個別的な技法・技術の特徴点としては,間然するところがないように思われる。しかし,ここでの技術史の観点からすると,次のことをあげておかねばならぬ。
 ① 養蚕製糸業の中では,蚕種生産は特殊な分業上の位置をもっている。そしてその特殊性は,たんに地理的環境によって定まったのではなく,幕府による特権付与が決定的意味をもっていたのである。福島信達蚕種はすぐれた技術をもって,江戸時代中期,全国養蚕業を対象にした最高の蚕種生産地であった。そして,その蚕種本場としての名声は,安永3年(1774)からの改印制度によって,幕府の保証をえた上でのことであった。この保証は,生産者の方からの,数年にわたる要望によって制度化されたのであった。それは技術面では,この地のすぐれた養蚕技術が,特権的に保持されるということを意味していた。
 ② 養蚕製糸経営についてみると,おおよそ1840年頃までは,養蚕と製糸とが,各個別農家において結びつけられている形が一般的であった。したがって,各農家の桑栽培能力と養蚕能力とは製糸能力と相互に規定しあっていた。この形で生産された生糸が,一方では京都への登せ糸として,他方では近辺の地方機業用生糸として集荷されていた。そして,これによって各地の地方機業は展開してきていた。
 ③ 各地の地方機業が成長し,周辺の養蚕製糸農民をその原料生産者として編成するに至ったのは,1840年前後である。登せ糸は急速に減少しはじめた。それと同時に,養蚕製糸農民にたいする生糸問屋商人の編成がはじまった。それは,養蚕農民と製糸農民とを機構的に分離する形で進められた。繭の買い集めによって製糸農民を賃引きとして問屋制的に支配するという方式が急速に拡がった。この動向は地方機業の賃機の展開と対応するものであったが,製糸農民は,自家製繭による製糸が終ると,続いて繭の前貸しによる製糸を行うようになった。こうして,養蚕能力と製糸能力との相互規定性は崩れ,養蚕・製糸業は急速にいっそうの展開をみせるに至った。養蚕製糸技術はこうして,問屋制家内工業の中にくみこまれてしまったのである。
 ④ しかし,一般に,桑栽培と養蚕との分離は行われえなかった。養蚕・製糸業の急速な展開に伴う製糸量の増大による需給関係の変化と,問屋商人の買い叩きとが,桑園経営を養蚕経営とは切りはなしては成立させなかった経済的理由であった。このことは,桑栽培・養蚕農民も,したがって,その技術も問屋商人の支配のもとに服することになったことを意味している。
 ⑤ 開港にさいして,技術の上でもっとも有効に対応したのは,これまでみてきたような,高度に展開した製糸地帯ではなかった。一定の養蚕製糸業の展開がありつつも,それが独自の機業地帯を生み出す方向を辿っていないところの,したがって,機業に連なっていく商人支配にからめとられていないところの製糸業が,開港に続いてもたらされた新たな広汎な市場によって,めざましい技術的展開をとげた。長野諏訪製糸業がそれであり,源治郎マニユがその象徴である。
 以上の五点を付け加えておく必要があろう。とすると,「明治以前日本蚕業技術史」の整理には,なお,地域性と階層性とにとらわれない形で整理した在来技術の技術的到達点であるという特徴があるといわなくてはならない。

4 まとめとして―技術発展の特徴

 以上,2,3の例をあげつつ,在来技術の形式と発展の様相をみてきた。これらをふまえて,在来技術の水準について綜括することは,現在のところ不可能に近い。ただ,「技術と社会」という観点からみたさいには,おそらく,次に掲げることはいえるように思われる。
 第1に,技術のあり方からいうと,わが国の各地の産業技術は,地域的な特徴をそれぞれ含みこみながらも,その水準においては,ほぼ平準的な状態になっていたということである。このことは,とくに,18世紀半ば以降,急速に進んだといってよい。この平準化の状態をもたらした理由は何であったろうか。
 その基礎に,生産者の強靱な生産意欲があったことはいうまでもない。その意欲が,自らの生産の経緯を記録させることによって,技術の相対化の出発点をつくったし,また,各地を遍歴して得た技法によって生産方法を改善することに成功した人びとを生み出した。このような人間像としては,手工業についてはすでに述べたが,農業では,数多くの篤農・老農を各地に成立したのであった。
 この平準化は,これらの生産者による技術伝播だけではなく,多くの技術書の出現・流布によってももたらされた。農書は,18世紀に入ってその数をます。農書著作者について,古島敏雄氏らはこれを4類型に分けている。すなわち,儒者,あるいは上層読書人を第1類型,民政実務を担当した地方役人(武士)および上層村役人を第2類型,農民出身者を第3類型,そして農書著作者として独自の生活をした大蔵永常を第4類型,とするというのである。第2類型を武士と農民とに分け,後者を第3類型に加えて,上層農民とした方が適切であろうと考えられるが,前述の老農・篤農は,まさにその上層農民の中に含まれるものであった。
 したがって,ここでは,右のように整理しなおした上での第3類型の農書著作者が各地に現れ,その農書がそれぞれの地域での農業技術の改善に重要な役割りを果たしたことと,その上に,第4類型ともいうべき大蔵永常が出現したこととが注目される。
 豊後国日田隈町の農家の4男として生まれた永常は,はじめ日田の生臘問屋の丁稚となり,20歳前後に出郷,九州各地を巡歴して甘庶栽培技術を学び,ついでこれを各地に教授して歩いた。寛政8年大坂に出,苗木や農具類の取次業や製糖業を営みながら,「農家益」などの農書を著わしはじめた。文政8年江戸に移るが,その以前から,下総・下野・越後・丹後・北陸・紀伊などを旅し,農具や篤農の経営を見聞・記録し,「農具便利論」などの農書をあいついで出した。江戸に移ったのちは,農学者としての地位がほゞ確定し,幕府に献策したり,諸藩の質問に応じたりしていた。天保4年,駿河田中藩で糖業・櫨栽培を試み,ついで三河田原藩に招かれ,産物取立の役につき,櫨・楮・琉球藺の栽培や,紙・畳表・土焼人形・砂糖などの製造業の殖産を指導した。この田原藩での活躍は,渡辺崋山の推薦・協力によるものであったが,蕃社の獄によつて崋山が自殺したため,永常は岡崎に移り,天保13年,水野忠邦に招かれて浜松藩の殖産方となり殖産政策を担当した。弘化2年忠邦が失脚したため致仕,江戸に移って,安政末年に死んだ。永常の一生は,技術改良・商品作物の栽培・農産物加工という3点を軸に農業生産の発展を図るということに捧げられた。現実の農民の貧困・窮乏を,農業技術の問題としてとらえ,その技術を現実の農業経営との結びつきでとらえようとした。このことは,農民のかかえている問題を農民の心の問題として考え,技術を知識の問題として考えていた二宮尊徳らとは非常に違っていた。それだけに,永常の影響力は大きく,永常に教えを請うた者は,右にのべた以外にも,水戸・盛岡・高田・津などの諸藩の藩士がおり,永常の交際範囲には,崋山,太田南畝,羽倉外記,東条信耕,大塩平八郎らがいたという。
 この永常の生涯から,さまざまのことを引出すことができよう。しかし,ここでは,このような経歴と技術意識とをもった永常を,農業指導者として,また上流知識人として生み出し活動させるほどにまで,当時の技術への要求と技術の水準が到達していたということを指摘するにとどめておこう。
 技術書の流布は,多くの分野でもみられた。蚕糸業では,江戸時代を通じて約80養蚕書が著された。その中で,宝暦7年(1757),信州塩尻村の農民塚田与左衛門が著した「新撰養蚕秘書」は,それまでの信州から関東・東北にかけての養蚕技術をまとめたものであり,ひろくうけ入れられて,発行部数3,000部を越えたといわれる。ついで「養蚕須知」(吉田友直1794年刊),「養蚕秘録」(上垣守国1803年刊),「養蚕絹篩」(成田重兵衛1813年)の3部は,ともに著作者が養蚕に従事していた人たちであったが,中国の養蚕書(「農桑輯要」1273年など)による技術的影響をうけて,養蚕技術を体系化しようとしたものであった。そこには,養蚕技術がほぼ行詰りの状態になっていて,輸入中国養蚕書から,新たな技法をどのように学びとりいれられるかという,関心が一貫しているといってよい。
 この他,鉱山業その他においても,それぞれに技術書が著され,技術の平準化に大きな役割をはたした。そして,このような技術書がその役割を果たすためには,その基礎に,教育水準の問題がある。
 このことについて,ここで述べるまでもなく,庶民教育の歴史が示しているところである。しかし,なお1,2付け加えておけば,農民を主体とした庶民の,教育・知識・情報にたいする要求が著しくたかまったのは,18世紀半ばであったということである。そしてこれに対応して,教育機関や出版物が増加したのであり,技術書もその一環であったのであった。また,同時に,注目しなければならないのはその教育の内容が,おそろしく統一的であって,地域に根ざした地方性を,殆どもっていなかったということである。このことが,技術の平準化に寄与したことはいうまでもないが,それは反面では,文化の中央集権的構造と不可分の関係にあったことも忘れることはできない。
 このことと関わって,技術平準化の理由の3つめは,政治体制の問題である。諸藩が技術導入による殖産政策をとったことは,すでに各所で述べてきたが,ここでの問題はそれだけではない。幕藩体制が,各大名領の支配の自立性を大きく制限し将軍のもとでの,中央集権的な構造をもった特異な封建体制であることは,すでによく知られていることである。そして,このことは政治体制としてのみの特徴ではありえないのであって,経済体制においても同様であった。主要農産物である米をはじめとして,各地の特産物は,あるいは直接に3都をめざし,あるいは3都に結びつけられている市場網に流れ込まされていた。その市場は全体として,鎮国制によって枠ぐみづけられていた。
 この構造でこそ,幕府の主要技術にたいする独占的支配が成立しえたのであったが,この構造のもとで,生産力が発展してくるにつれ,その各種の技術独占は崩れはじめるのも早かったのである。技術発展には異なった文化体系との接触・交流・緊張の関係が不可欠の要素であると考えるが,それが断ちきれたことが,いっそう技術独占の解体傾向を強める要因でもあったといってよいだろう。
 第2に,それでは,そのような平準化傾向をみせるその在来技術の水準と特徴はどのようなものであったろうか。
 まず,在来技術発展の方向としては,それが労働集約度の強化をもたらすものであったということができる。農業における篤農経営はそのことをよく示すし,織物における綴織がその技術の到達点を示すということや,鉱山における揚水方法として,釣瓶揚水が支配的位置を示しつづけていることや……等々の事例をあげることができる。そして,この労働集約度の強化は,労働組織としての職人仲間組織・小農組織に基礎づけられ,対応していることはいうまでもない。
 そこで,いっきょに,この労働集約度の強化という方向と逆行する技術改善がなされると,それは,直ちに社会問題と連動した反撥をうけることとなる。いわゆる「ゼンマイ」の考案にたいする西陣6人衆の1人紋屋の対応はそれを象徴している。
 この労働集約度の強化を伴う技術発展は,経済的には労賃の低さによって支えられており,その労賃水準は労働組織のあり方によって基底づけられている。この労働水準の問題は,本来的なものだといわなくてはならない。例えば,八王子の製糸業は,1830年前後から,京都への登せ糸を出さなくなった。それは八王子織物業が確立したからである。その同じ頃,信州諏訪に小倉織の機業が確立した。それは小倉織師が織子に機具・原料を貸しての,全くの問屋制家内工業であった。その機数は2500にものぼったといわれる。ところで,この小倉織の原料は諏訪では生産されない。それは多く,三河から移入されたものであった。そして,諏訪で加工された上,小倉織が販売されたのは,越前・江戸・関西などであったのである。八王子と諏訪のこの動向は,幕藩制の本来の分業関係が解体しはじめ,代って独自の分業関係が成立しはじめたこ乏を物語っていた。そしてその時期に,諏訪に定着しはじめた加工業は,本来的に問屋制家内工業であり,かつ,原料・加工・市場の関係からみると,その加工業成立の経済的基礎は,加工労賃の低廉性以外にはなかったのである。そして,この低労賃による機業が,前にのべた諏訪製糸業の直接の前提だったのであり,開港を機に,機業は急速に製糸業へと転換していくが,その低賃銀という特質はそのまま継承されていくのである。
 ところで,このような労働組織が前提になっている生産活動が行われる場合,当然のこととして,その生産技術の技術的指導性は,職人仲間では親方に,家内工業では問屋商人に,地主小作関係のもとでは地主に,それぞれ保たれている。そしてそのことが,いっそう技術発展のあり方を,労働集約的なものにしていったということも明らかである。
 しかし,このことは,直接生産者を全く非人間的に使い捨てにしたということではない。むしろ,それゆえに,直接生産者の維持を図らねばならないということでもある。そのことは,鉱山技術によく示されている。荒谷鉱山の坑夫病害にさいして秋田藩は珪肺についての実験研究をはじめたし,石見大森銀山では,備中笠岡から宮太柱誠之を招いて,薬蒸気法とマスク法とを試みるなどした。その他でも多くの鉱山で,排煙・通気のための対策がたてられている。この労働者維持の技術は,直接の生産技術ではないが,重要な意味をもつものとして注目してよいであろう。
 さて,技術発展の方向がこのような特徴をもつ以上,とくに手工業においては本来的に技術的指導性をもっていた都市手工業の技術的優位性を,根底から覆すことはできなかった。そのことは,桐生織物業が,一貫して,西陣からの技術導入をしつづけたということによく示されている。この技術の中央集権的構造は,技術の平準化の過程を通じても生きのびていたといわなくてはならない。そしてそのことが近代工業技術の導入の筋道をも準備したのだといってよいだろう。
 最後に,このような技術発展の方向がもっている特徴について述べておかなくてはならない。それはおそらく,そのような方向では,それらの技術がよってもって立っている科学的基礎についての問い直しが,著しく困難であったに違いないといって誤りがないであろう。とくに,近代科学技術が,直接に労働生産性の向上をめざすことに基礎をおいて発展・展開してきたとすれば,そして,技術のたっている科学的基礎ということがそのような意味においてのものであったとすれば,わが国における技術的発展のあり方は,それと大きくすれ違っているといわなくてはならないだろう。
 それだけではなく,わが国在来技術のあり方にとっても,その基礎へのとらえなおしが困難であったのである。そのことは,建築・測量に関わっても指摘されている。在来建築技術の基礎となっているのは,木割の術であった。この木割の術は秘伝として伝えられたが,1608年,平内政信が「匠明」5巻を著してそれを集成した。18世紀半ば以降,木割の刊本が数多く出されている。これについて,それは秘伝の公開という意味では大きな意味があったが,木割の術の進歩についてはそれを阻止する結果となったといわれる。木割の術は,本来工匠がその豊かな経験に基づいて自ら研究・工夫することに基礎をおいているものだが,右の状況は,その創造性を否定して,木割を一つの法とまでしてしまったのだという。
 建築・土木工事は,規矩準縄の術に基づかねばならない。建築技術の関連では,その規矩については17世紀以降,技術低下し,全く進歩がなかったといわれる。測量術にかかわっては,「塵却,」(吉田光由1627年刊)からはじまって,オランダ測量術を吸収しながら発展,1630~40年代には長崎の樋口長左衛門をはじめとする組織的な測量術がおこり,1720~30年代には,多くの測量術書が刊行されたという。しかし,その後の発展は,中国からの三角法の導入に伴って測量術書がつゞいて著わされたが,それは,数学者による計算の方法の書であって,測量の方法は全く略されてしまったとされている。
 また,技術の体系性という観点からみた場合に,そこに,大きな不均衡があったこともたしかである。一面においては,鉱山揚水にみられるように,道具・器具や技法の導入が決してそのまま技術としては定着しないという例は他にもある。他面では,冶金と採鉱,機織と製糸と養蚕の例にみられるように,加工技術が大きく進展しても原料生産技術が,全く,あるいは加工技術に対応しては,進展しないという特徴がある。
 このような不均衡をかかえた発展は,たしかに,「日本の技術の工芸的性格」と総括されて誤りのないことかもしれない。しかし,これまで述べてきたわが国の技術は,それでは,幕末期に,どうにも発展のしようのない行詰りになっていたのであろうか。そこには技術的な荒廃しかなかったのだろうか。明治期に酒々と流入してきた西欧技術は,わが国の技術にとって救済主の役割をはたしたのだろうか。という疑問が依然として残るのである。大原幽学や中村直三を考えるときに,その疑問はいっそう強くなる。
 大原幽学は,寛政9年(1797)に生れ,文化11年(1814)年から養家を出て浪人して各地を廻り,天保6(1835)年に下総香取郡長部村に至り,そこを中心に,独自の農業生産合理化の運動を始めた。その指導の主要点は,農業生産については,農耕作業の計画性と合理性とを育て,経営規模の適正化をはかるとともに,稲作の栽培日程を早め,稲苗の正条植や粗植を指導し,自給肥料の奨励を行った。実は,これらの農業技術指導には,幽学の創造性は全くといっていいほどない。それはあるいはすでに農書等で主張されてきていたことであり,あるいはすでに,他の地域で実行されていたことであった。しかし幽学の重要な点は,現実の農村問題を,これらの技術問題にとどめず,その技術が立脚している諸問題の解決をめざした点にあった。
 土地出資の信用組合を作らせ,耕地整理事業を行い,密居村落を疎居村落に再編しようとしたのである。それは,当時の農業生産の基礎になっているとともに,農業生産の発展にとって基本的な制約となっている諸問題の解決をめざしたものであった。幽学は,安政5年(1858),幕府に咎められ自殺し,その目論見も中絶したが,そのめざした方向には,技術史の面では,従来の農業技術をその根底からたて直す可能性をはらんでいたといってよい。
 このような試みは,幽学のような,特異の経験と,思想と能力とをもった人であって可能であったに違いない。しかし,同じ農村にあって,農業技術の改良につとめていた人びとも,とくに,篤農家と呼ばれる人びとを中心に,少くなかったのである。そして,その中から,代表例として中村直三があげられている。
 中村直三,文政2年(1819),大和永原村に生れた。生家は当時困窮していたといわれる。心学を学んだが,文久3年(1863),各地の多収獲の稲品種を集め,収量比較をはじめた。それは,水選から脱穀調整までを同一条件にしての比較栽培であった。このなかから元治元~2年ごろの伊勢錦の採用と推奨とが生れた。直三は明治に入って登用され,御用掛として,秋田・宮城県などを回って農業指導を行い明治15年に死去するが,その比較栽培方法は,明治初年の政府の試験機関,内藤新宿試験場や,秋田県をはじめとする各地方でうけつがれた。古島敏雄氏によると,「新しい農学はドイツ流の化学分析の方法を加えて,慣行的な農書著作者との断絶面をもつものであるが,圃場試験中心の栽培試験は,伝統的な経験主義との連続性を強く示している」のであって,直三の実験的試みは,その伝統と試験との間の,重要な一画期をなすものであったのである。
 こうして,多分次のように言ってよいであろう。在来技術は,その独自性をもってそれなりに大きく発展してきた。それは近代科学技術の面からみると,所与の科学的基礎の上では,可能な限りまでの発展を示していた。そしてその発展は,その技術の立っている固有の科学的基礎を,それなりにとらえ直そうとする地点にまで到達していたに違いない。そして,その地点の連続としてどのような展望がたちうるかということは,今のところわからない。そのことを判らせるためにも,技術史はその地点にある諸技術の歴史的解明が,きわめて貧困であることを反省しなくてはならないのであろう。