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わが国における上水道の発達

Author: 小菅伸彦
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1980年
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目 次
1 はじめに・・・・・・・・・・2
2 わが国の水資源の特徴・・・・・・・・・・4
3 近代以前の水道(江戸水道)・・・・・・・・・・7
4 近代水道技術の習得過程・・・・・・・・・・10
5 東京水道の建設と発展・・・・・・・・・・15
6 むすび・・・・・・・・・・20

1 はじめに
 都市の生活および産業活動にとって,水が最も基礎的な資源のひとつであることは言うまでもないことであり,古来,都市の立地および発展形態を規制する最も重要な要件の一つは,土地の給排水の便であった。水道技術の発達は遠距離の導水を可能にすることによって,都市の立地について,特定の水域からの自由度を高め,都市の拡張規模の制約を緩和してきたのであるが,同時に,上下水道施設を通じて,水の循環過程の中にシステマティックに組込まれることによって都市と水系との結びつきはより密接なものとなってきた。人間生活にとって欠くことのできない水は,降水―流下―蒸発という自然現象によって循環系を構成し(水文学的循環),こうした自然の循環系の中で水を媒体とした生態系の秩序が形成されている。人間活動も,もとよりこうした自然の循環過程や生態系の秩序から独立ではありえないが,田園地帯にあっては,散在する人間活動が,多くの場合,個々に,より直接的に自然の循環系に結びついて自然の資源を利用しているのに対して、都市では,その密集した居住形態により自然から隔離されていることにより人工的な共同施設を必要とする。こうした視点からすれば都市計画とは,自然のままに散在することが不可能な密集居住形態に対応した土地利用計画と,都市の共同施設の計画であり,都市を水系の秩序の中に位置づけ,都市内で独自の循環系を形成する上下水道は,最も基礎的な都市施設であるということができる。
 わが国における水道技術の発達,水道建設の歴史をみると,すでに近代以前において大規模な上水道建設が行われ(江戸水道),鎖国による産業革命の遅れにより,その後独自の水道技術を発展させることができないまま,近代水道技術は明治以降外国から導入することとなったものの,その移行過程とその後の自主技術化は概ね順調に進んだと言ってよい。近代的上水道施設の建設は,明治初期における近代的都市建設の気運の高まりの中で,早くから最も関心が高かったもののひとつであった。しかし,それにもかかわらず,上水道整備はその後の産業化,都市化の過程において都市化の速度に較べてつねに整備が遅れ,その普及率は最近に至るまで比較的低水準に推移し,さらに下水道に至っては,わが国の近代都市の形成過程における公共土木工事の中で殆どとるに足らぬ存在でしかなかった。
 現在でも,フローの所得水準に比して社会資本ストックの整備水準の全般的な低さが常に指摘されるが,その中にあっても水道施設は決して優勢な存在であったとは言えない。
上水道布設状況の推移
土木建設資本ストックの推移
 わが国の都市は,物理的に都市施設群によって施設的・都市計画的に田園部から整然と区別された存在であることは少く,多くの場合田園の中への都市の無秩序な拡散を特徴とし,都市計画,社会資本整備に先行して都市の拡張が進んできたが,上下水道については特にそういう面が強い。
 本稿では,東京を中心としてわが国の上水道建設の過程をみながら上水道と,都市の発展が,相互にどう規定しあってきたかを考察してみたい。

2 わが国の水資源の特徴

 上水道を含めた用水技術のあり方は,当然水資源の賦存状況によって影響を受ける。ここで,上水道の機能との関連から,わが国の水資源の特徴を簡単にながめてみよう。上水道技術の基本的な機能は①取水,②導水,③浄水,④配水および給水に大きくわけることができる。
 水資源を,まず水質という面からみると,わが国の河川水は火山性の地質層が多いことから珪酸が多い点を除けば,マンガン等の無機物質の含有量が少く(硬度が低い),飲料水に適しており,多くは微弱酸性で飲料用として味のよい水である。飲料水に適した自然水(水道原水)が容易に得られるという環境のため,近代以前のわが国独自の伝統的上水道技術においては,水道の浄水機能は殆ど顧られることがなく,このため,ろ過技術の発達は殆どみられず,取水―導水―配水のシステムのみが上水道とみなされてきた。このことは逆に,近代以降の都市の発達過程においても,地下水等が容易に得られる地域にあっては,生活汚水によって有機物質による汚染が進み浄水の必要性が高くなるまでは,都市の基本的施設としての上水道そのものの必要性に対する認識を低いものにし,上水道の発達・普及を妨げてきた。
日本と外国の河川水質の比較
 水量の面でみると,降水量(すなわち面積当り水資源賦存量)では,日本の国土はきわめて水資源に恵まれ,湿潤な環境のもとで生態系の秩序が形成されてきたが,これを人口当りでみれば,世界的にみて決して少いほうとは言えないものの,他の人口稠密な地域(=先進諸国)に比して特に多いほうではない。しかも,わが国の場合,近代以前においてすでに,水使用量のきわめて多い稲作農業を高度に発達させており,先進的な農業地域においては近代初頭以前に,河川の渇水流量は殆ど完全利用しつくされており,明治以降の新たな用水需要については,上水道の場合を含めて,すでに慣行的に設定されていた水利権との間にしばしば深刻な紛争を生じた(東京水道の場合も,人口,産業の急速な発展による水需要の増大によって,例外ではありえなかったが,それでも当初においては,江戸水道がかなり大きな水量を確保していたため,この面ではむしろ幸運なほうだったとも言える)。
世界各国の年間降水量
 わが国の水資源を河川の形状という面から見ると,河川勾配がきわめて大きく,急流をなしており,流出速度が速いことが特徴である。しかも,年間降水量のうち,大きな部分が梅雨期と台風期に集中し,降雨量の季節的変動が大きく,しかも流域面積が一般に狭く,急流河川であるため,河川そのもののもつ流量安定機能が小さく,最大流量と最小流量との差がきわめて大きい。このことは,ダムによる大河川の流量安定化が未発達な段階においては,降水量中,利用可能な安定流量の割合が小さく,洪水流量の大部分が利用されずに海に放流されてしまうことを意味する。しかも,河川勾配が急なためにダムの有効水量は小さくなり,流入土砂量が多いために埋没の速度が速いことなど,ダムによる流量安定化のためにも不利で,ダム技術の発達については電源開発が先行し,利水や洪水防御を目的として大規模なダム建設が行われるようになつたのは主に第2次大戦後になってからである。
世界主要河川の河状係数
 わが国の都市の大半は河川の沖積平野か扇状地上に発達してきたため,伏流水が豊富で,古くから井戸の利用が発達してきた。また,河川勾配が急なことにより,河川表流水の利用についても比較的導水が容易で,都市においてもあまり遠距離導水を要しないことが多かった。河川の渇水流量は農業用水として高度に利用しつくされたとはいっても,近代以前においては都市用水の用水量は農業用水に比して比較にならないほど小さい。農業用水については深刻な水争いが頻発したものの,都市生活においては,水は自然にあるものといった意識が根強く形成され,膨大な都市施設の建設,社会資本投下によって開発される社会的資源としての認識がうすく,こうしたことが近代以降におけるわが国の上水道の普及の過程に多くの影響を投げかけてきた。

3 近代以前の水道(江戸水道)

 わが国の最初の上水道は,徳川氏によって1590年江戸入府の際に建設された神田上水であるとされているが,その後,幕藩体制のもとでの諸大名の城下町経営の一環としていくつかの都市で上水道の建設が行われている。
 神田上水は徳川氏の江戸入府と殆ど同時に建設に着手されており,新しい首都となるべき江戸の建設構想の当初から,上水道建設がその構想の中に含まれていたと考えられるが,わが国において,それ以前に都市上水道の歴史を有しないにもかかわらず,徳川氏の新首都の建設計画の中で基本的な施設として水道施設の建設が含まれていたことについては,鎖国前の当時の外国宣教師の影響があったのではないかと言われている。ヨーロッパの諸都市においては,古代のローマ水道は別にしても,12世紀頃より部分的に水道建設が行われているが,ロンドン,パリ等の大都市で全市域を対象とするような大規模な水道建設が盛んになったのは,15世紀から16世紀にかけてのことであり,ちょうど,わが国への宣教師渡来の時期とほぼ一致する。
 もちろん,こうした外人宣教師の影響等は別としても,これ以前の戦国大名にとっても,城下町の飲料水,防火用水の確保は常に重要な関心事だったのだが,それまでは防衛上の観点より,堀井を中心として都市の域内に水源が求められることが多かったが,江戸については新市域の多くが海沿いの砂洲や埋立て地に建設されたことから,良好な地下水が得られなかったことや,江戸が当初より徳川新政権の首都として構想され(新政権の成立は多少後のことであるが),軍事的都市としてよりも商業都市としての発展を意図して建設されたこと等により,いち早く上水道施設の建設が行われたものと考えられる。
 神田上水は主要水路の開きよ延長23kmという当時としては大工事であったが,その水源は,現在では東京の市街地内部の著名な公園となっている井の頭池,善福寺池等の湧水で,これから流出する小河川は現在では市街地内部に全くのみこまれ,通常,その存在すら気がつかないほどであり,これらの小規模水系によっては,その後の江戸の用水需要を到底まかないきれるものではなかった。
 このため,1653年から翌年にかけて多摩川本流を水源とする玉川上水の建設が行われる。この後さらに,亀有上水,青山上水,三田上水,千川上水が建設され,神田上水を含めて,これらの各上水が以後江戸水道の導水・配水系を構成することになる。このうち亀有上水は利根川水系の一派川である古利根川を水源としているが,他の青山,三田,千川の3上水はいずれも玉川上水から分水したものである。こうして,多摩川水系を主要水源として,一部を利根川水系に依存する明治以降も最近に至るまで続いた東京の利水体系の骨格は,すでに江戸水道の段階で形成されている。
 玉川上水は,多摩川本流を羽村で堰を作って分水し,当時の江戸市街地の西端の四谷大木戸まで43kmを勾配約1/500の開きょで導水し,さらに石樋の暗きょで市街地内部に導水し,これが木管によって主要な武家屋敷や,市街地内の無数の共同井(共同の用水ます)に配水された。導水・配水はすべて自然流下により,加圧装置を全くもたぬこと,止水栓をもたず放流式であること,浄水装置を全く有しないことなど,当時のヨーロッパ諸都市の水道に比して技術面では未熟なところがあるものの,規模においては,給水人口では当時世界最大の水道であった(16世紀末これらの6上水がすべて完成した段階で,江戸の人口は100万人程度と考えられ,これらの6上水によって大部分の市街地に給水されていたことから,江戸水道の給水人口が世界最大であったことは確実とみられる)。
江戸時代の上水道(正徳末頃の図)
 この当時、このような大規模な水道工事が行われた背景には、これ以前に戦国大名の領国経営を通して,かなり高水準の治水技術,測量技術の蓄積が行われていた(大閣堤,信玄堤等にみられる治水技術,兵農分離のために全国的に実施された土地測量(文禄検地)等)ことがあるが,特に,これだけの大規模な水道において,すべて自然流下のみによる導水,配水を実現したことは,当時の測量技術がきわめてすぐれていたことを示すものであると言える。元来,わが国においては水多消費型の稲作農業が発達してきたことから,農業用水,排水技術が古くから発達していたこと,急流河川でありながら河川舟運が主要な交通手段として発達してきたことなどにより,低水流量の安定化を目的とする低水工事の技術については古い伝統を有し,これらの伝統技術の蓄積により,江戸時代初期における上水道建設や,ほぼ同時代に行われた利根川改修工事(利根川の瀬替元,本流東遷)等の大規模な利水事業が実現されている。こうした伝統技術は,この時代に関東流(伊奈流)利水技術として体系化されている。
 玉川上水について,さらに注目すべきことはその基本構想がきわめてしっかりしていることである。多摩川本流を羽村取水堰で分水して東京市街地に導水する導水ルートについては,その後300年間,導水施設は異っているものの現在に至るまで東京水道の導水系統の骨格をなしているのであって,明治以降の近代水道においても,多摩川系の一部の水道はこれよりもはるかに下流の市街地近傍より取水していたのであるが,これらがその後,原水の汚染により現在では取水を中止していることをみると,このことは特に強く感じられる。水量についてみても,その後堀抜き井戸の発達により,比較的良質の地下水が得られるようになったこともあって,18世紀前半に玉川,神田両上水以外の4上水が廃止された後も,明治31年(1898年)に東京に近代水道が完成するまで,この両水道が東京の唯一の上水道施設として水需要をまかなったのである。

4 近代水道技術の習得過程

 明治時代に入って新政府の近代化(=欧化)政策のもとで,数多くの西欧技術の導入が行われるが,明治4年(1871)の廃藩置県によって17世紀以来の幕藩体制を脱却し,近代的な統一国家を制度的には一応実現した明治政府にとって,近代的な国土経営の基盤となるべき各種の公共土木事業の実施は特に重要な課題であった。明治期を通じて,鉄道,港湾,灯台,治山,治水等の各種事業は西欧からの近代技術導入により著しい発展をとげるが,なかでも上水道は明治初期の段階から強い関心を集めたもののひとつであった。この背景には,幕末の開国以後,外国からの病原菌の侵入により,明治前期までコレラ,赤痢などの死者数万人にも及ぶ大流行が頻繁に発生し,公衆衛生に対する人々の関心が著しく高まったこと,またこれらの水を感染経路とする消化器系伝染病に対して上水道の近代化が最も有効なことが新聞等を通じていち早く、広く認識されたこと,東京においては旧江戸水道が幕末期における維持管理の不備,木管の腐蝕等により老朽化が進み,上水の汚染が進み市民の不満が高まっていたことなどがあげられる。
 さらに,明治政府にとって重要課題であった諸外国との間の不平等条約の改正のために、わが国の近代化の進展が前提条件と考えられ,施設面からも近代国家の体裁を整えることが急務であると考えられていたこと,外国領事団等居留地在住の外国人からしばしば衛生状態に対する要望,危惧が表明されたことなどが,上水道近代化に対する関心を一層強いものにした。わが国の近代化の過程における社会資本整備については,その後,殖産興業,富国強兵のスローガンのもとで,産業基盤の形成に重点が移り,生活基盤施設整備はややもすれば遅れがちになり,この体質は第2次大戦後の近年まで続くのだが,この当時においては,条約改正を意識して西欧的生活様式の普及や,西欧的都市景観の形成等が強く意図されたのである。このような意図は,その後の東京市区改正委員会の構想にも強く反映されているが,上水道近代化に対する当時の強い関心はこうした一面からも理解される。
 このような状況のもとで,明治初期より近代上水道建設の気運はきわめて高く,当初から民営水道等の企画も数多くあったものの,いずれも資金難等から実現に至らず,明治20年に神奈川県により建設された横浜水道が,わが国における近代水道の最初のものとなった。
 上水道事業はその受益者が比較的明確に特定できるために,国家的事業にはなじみにくく,明治23年の水道条例においても,市町村の事業とされたのであるが,明治初期から上水道に対する国家的関心が高かったにもかかわらず,実現に比較的時間がかかったのは上水道事業のこの性格によるものと考えられる。横浜水道は,地方自治制度形成以前の,国の地方行政庁としての県によって,全額国庫資金によって建設されたが,これは横浜が代表的な開港場として,外国人の関心が最も高かったこと,外国からわが国への病原菌侵入の最大の窓口であったことなど,条約改正問題,衛生問題との関連で,わが国にとって単に一地方水道として以上の意味をもっていたことによるところが大きい(ただし,このことは横浜水道が中央政府の側からの国家的関心のみによって実現されたことを意味するわけではない。横浜の場合,市街地の急速な拡大により海面埋立地上に発展したために井戸水の使用は殆ど不可能であり,しかも東京のように旧上水道を有するわけでもなく,上水の多くは水売りに頼っていて,上水問題は東京の場合よりもはるかに深刻であった。このため近代水道以前にも在来技術による小規模な木管水道が建設されるなど,市民の間で上水道に対する熱意が高く,この熱意が上記のような状況と相まって,国庫事業としての上水道を実現させたと言える)。
 この後,明治21年(1888)の市町村制施行を経て,明治23年には水道条例が水道建設の基本法として定められたが,ここでは上水道に関するこのような状況を反映して,国庫補助の対象が当初,東京,大阪,京都の3大都市および,横浜,神戸,函館,長崎,新潟の5開港場の,いわゆる3府5港に限定され,その後,逐次対象都市が拡大されている。
 横浜水道以後の近代上水道が,在来水道と大きく異なる点は,鉄管を用いた有圧水道であることと,沈澱池,ろ過池等の浄水施設を有する点である。鉄管水道であることは,単に材質的な問題であって,水道技術の本質にかかわる差違ではないようにも考えられるが,これによって有圧水道であることが可能となり,各戸給水が可能となるなど,配水給水システムに大きな質的変化を生じさせる。施設面においても加圧ポンプや,給水管末端の止水栓等の属具など新しい要素が加わることになる。さらに,有圧水道となることによって,上水道の防火施設としての機能は著しく高まることになり,都市の消防組織にも大きな影響を及ぼした。わが国の都市は,高温多湿の気候のもとで風通しの良い木造建築によって構成されており,きわめて燃えやすい構造となっているが,近代以前においては有圧水道をもたなかったために,破壊消防という,上水道に多くを頼らない,特殊な消火技術を発達させてきた。江戸水道等在来水道についても,度重なる大火の際にも,防火施設としての重要性はあまり認識されなかったらしく,18世紀における江戸の4上水の廃止の際には,水道が土地の水気を奪うため,大気が乾燥し,このために火災が頻発するという,室鳩巣の観念的・迷信的な建議が上水廃止の直接的なきっかけとなったといわれる。
主要上水道の給水人口及び給水量の推移
 鉄管水道であることは,水道の浄水機能とも不可分である。端末の配水系統における汚水の浸透があっては,浄水機能も意味をもたず,配水管は密閉されていなければならないからである。
 浄水機能については,わが国のように良質の原水を比較的容易に得られることが多い場合には沈澱池は不要となる場合もあるが,ろ過装置は細菌除去のために不可欠であり,人間が密集して居住し,活動する都市においては,水系が自然に有する浄化機能にこれを期待するのは不可能であり,ろ過装置を有することによってはじめて上水道が近代的衛生施設としての意義をもつのであって,この点で在来水道とは本質的に異なっていると言える。
 横浜水道はイギリス陸軍工兵技師H.S.Parmerの設計・監理によって布設されたが,この時期にはこの他にも東京水道の企画・設計段階で重要な役割を果したオランダ人C.J.Van Doornやイギリス人W.K.Burton等の内務省雇の外国人技師等が活躍し,初期に建設された諸都市の水道の多くはこれらの外国人技術者の設計によっている。わが国の上水道の設計・計画技術の第1世代はこれらの外国人技術者によって担われたが,これらの人々の多くはわが国の実情をよく理解し,誠実に職務を遂行するとともに,日本人技術者の育成に努めた。Parmerの横浜水道の設計では,外国人居留地のうち丘陵上にある山手居留地については,井戸水が良質である
から,限られた予算・資材のもとでは給水の必要なしとして,給水区域から除外しているが,ここからは横浜水道が決して外国人勢力への迎合から生れたものではないことや,わが国の実情をよく理解した技術者の良心をうかがい知ることができる。
 注目すべきことは,近代上水道技術に関して日本人技術者が殆ど育っていなかったこの段階においても,依頼側の水道建設当局が外国人技術者に対して主体性を強く保持していることである。Parmerの横浜水道設計案についても,神奈川県当局は,別途内務省雇技師H.L.Mulderより参考意見書を提出させ,比較検討の上,決定しているし,東京水道の計画段階においては数多くの設計案を水道改良委員会において検討し,さらに先進諸国の水道当局にも参考意見を求めるなどした上で決定に至っている。この当時の,水道技術の情報摂取についての当局側の意欲の強さや真剣さは,現在からみても驚くほどであり,上水道建設が,単なる欧化熱にうかされた外国技術の模倣によるものではなく,当時の国民生活に根ざした内発的要求によるものであったことを示すものと言える。当時,わが国は,外国人技術者に対し,彼らの有する技術の経済的価値をきわめて高く評価し,驚くべき高額の報酬を支払っているが,官庁機構内部における彼らの地位は雇技師にとどめ,高次の審査・決定権限は彼らの手にゆだねていない。高次の専門技術集団のもつコンサルティング機能に対する正しい理解のあり方であったと言うべきであり,当局側のこうした姿勢が,本国においても第一級の,良質の外国人技術者の確保を可能にし,外国人技術者達も,よくわが国当局の熱意に応えたと言えよう。
官雇外国人の人数と俸給
 わが国の官庁技術者たちは,こうした実務面での外国人技術者との交流を通じて西欧技術を習得してゆくが,この過程で政府は彼らを積極的に欧米に派遣・留学させ,当時の先端技術者として公共事業の推進にあたらせると同時に,ある者は帝国大学教授等を兼ねて西欧技術の導入・定着と,後進の育成に主要な役割を果すことになる。
 Van DoormやW.K.Burtonらの内務省雇技師は帝国大学講師(当時の学制の頻繁な変更により名称は一定でないが)等を兼ねて,教育面においても日本人技術者の養成にあたっていたのであるが,やがてこうした役割をこれらのエリ一ト官庁技術者たちがかわって担うこととなり,彼らが,わが国の水道設計技術の第2世代を構成することになる。こうした人々の中で代表的な者としては,東京大学工科大学長,内務省土木局長で,東京水道建設の際に工事長を兼任したわが国の官庁土木技術の草分け的存在ともいえる古市公威,東京大学教授で,東京市技師長を兼ねて東京水道の建設工事を直接に指揮し,これを完成させた中島鋭治などをあげることができる。特に,後者は東京大学の衛生工学担当教授として,わが国における衛生工学の確立に重要な役割を果し,多くの技術者を育成するとともに,自らも明治後期から大正年間を通じてわが国や朝鮮の諸都市の多くの上下水道の設計・監理にあたっている。このように,大学と官庁技術者とがきわめて密接な関係にあって,官庁技術がわが国の技術の先端部分を代表するという形は,初期の外国人技術者の段階から,その後,長い間,わが国の土木技術の特徴となるのであるが,上水道技術(下水道の場合も同様)については,その建設・管理が市町村の役割とされたために,中島鋭治の場合に典型的にみられるように,大学や中央官庁にプールされた一部の高級技術者が計画初期の設計技術を担当し,地方の技術者達はこれらの高級技術者の指揮のもとで施工技術や維持・管理にあたるという形態が近年まで続いた。わが国の近代技術の発展過程において,特に産業技術の分野では,多くの場合,設計・開発技術が生産企業の一部門によって担われたため,設計技術の生産技術からの未分化,設計技術に対する生産技術の優位の傾向が強かったが,官庁技術主導の土木技術,ことに上下水道技術の場合はこれと著しい対比を示している。土木技術におけるこのような技術の階層構造の形成を可能としたのは,全国的に在来技術以来の多くの蓄積があって,西欧から導入された先進技術のもとで,施工面をこれらが担うことが可能であったことによるところが多いと考えられるが,土木技術のこのような体質が,わが国の建設業の近代化を遅らせた面があることも否めない。
 近代水道建設に必要な鉄管,ポンプ,継手その他の属具等主要資材については,横浜水道建設当時においては,すべて輸入に頼らなければならなかったが,初期の段階より,民間企業者達の間で,これら資材の国産化への意欲が高かったことも注目に値いする。明治中期には早くも鋳鉄管の国内生産が行われており,性急な国産化により,技術の末熟から不良品納入にかかわる汚職事件を引き起した東京市水道と日本鉄管会社のような例(いわゆる鉄管事件)もあるものの,明治末期から大正にかけて徐々に水道鉄管の国産化が進み,大正初期にはポンプや水道メーター等の国産化も行われている。ここで注目すべきことは,大正3年(1914)には,上水協議会によって水道鉄管の規格が定められていることである。これは,各種の工業規格の中でも早いほうに属しており,こうした規格化が工業化の進展に大きな寄与をしている。

5 東京水道の建設と発展

 徳川幕府の倒壊による徳川家臣団の離散によって一時的に人口減少に見舞われた東京は,短時日のうちに人口を回復し,その後急速な発展をたどることになるが,明治維新後30年以上にわたって東京の上水供給を支えたのは,新政府にひきつがれた江戸旧水道と,市街地内部の井戸であった。東京の人口は明治初期の80万人弱程度から,改良水道が完成した明治32年頃までにほぼ倍増するが,この間明治13年には江戸旧水道中の千川上水の復興が行われ,また,玉川上水より分水する麻布水道の創設が行われたが,これらはいずれも,増加する水需要に対して,民間の手で行われ,在来水道技術による旧上水道の拡張であった。
 他方,伝染病の頻発等により,上水の衛生状態に対する関心と,近代水道技術による上水道の根本的改良の必要性への認識は,官民ともに明治初期から高く,明治7年(1874)には,内務省雇技師Van Doornは政府の指示によって東京水道改良意見書及び設計書を提出し(設計書は明治8年),9年末には東京府に水道改良委員会が設置され,Van Doornの設計書を基礎に,組織的に検討が進められることになる。
明治初期における玉川・神田両上水の上水井戸数
明治8年には警視庁により玉川,神田両上水の汚染状況の調査が行われ,また,7年の文部省による両上水の水質調査以来,科学的な水質調査が内務省衛生局,東京大学等により数次にわたって行われた。これらの結果はいずれも,旧上水道について,取水時における原水の水質はきわめて良好であるにもかかわらず,木管の腐蝕部等からの汚染によって,水質が著しく低下し末端の上水井では多くは飲料に適しない状態となっていることを示し,鉄管水道の布設による上水道改良が急務であることを明らかにした。この間に,わが国は,安政5年(1858)の大流行は別としても,明治10年,12年,15年,19年と断続的にコレラの全国的な大流行に見舞われている。特に明治19年の流行は全国で死亡総数11万人に達するもので,東京の水源地帯である多摩川上流にも発生したところから,上水の汚染に対する東京市民の不安が高まり,改良水道の計画に拍車がかけられることになった。明治20年には渋沢栄一を中心とする財界により,横浜水道の設計者Parmerの設計案に基づいて,民間企業の手による近代上水道の経営が企画されるなどの動きがあり,こうした気運の中で,明治23年(1890)には水道条例が公布され,さらに同年,東京水道の設計案の政府決定をみるに至った。
 なお,明治19年のコレラの流行は,東京市民の関心を水源地帯に向けさせ,東京府も首都の水源地帯の保全・管理の強化の必要性から,当時神奈川県下にあった三多摩地域の東京府編入を図り,明治26年にこれを実現したが,当時,三多摩地域は自由民権運動の一つの中心地域であったところから,この東京府移管に対しては,民権運動に対する政府の介入を図る策謀ではないかとの疑惑から,強い反対運動が生じ,水道問題とは全く異なった次元で思わぬ政争を呼び起こすことになった。
 東京の近代水道については,その計画にいち早く着手したにもかかわらず,明治23年の設計案により事業に着工されたのは,明治26年であり,明治7年のVan Doornの改良意見書以来,実に20年近い年月を要している。この理由としては計画人口が100万人を越える当時としてはきわめて大規模な上水道工事であったため,計画策定に慎重を期したこともあるが,明治初年来,近代国家形成のための諸制度の改革の中で,地租改正によって,新たな納税主体となった都市の中小地主層等に重税感が強く,新規財源の調達が困難であった事情によるところが大きい。上水道のように受益者が比較的明確に特定できる事業については,受益者負担的な財源体系によるのが通例であり,わが国の上水道事業もその後,地方公営企業によって,料金収入を基礎に,企業会計によって経営されることになるのであるが,明治前期においては,一方で近代水道の必要性に対する市民的関心の高まりがあったとはいえ,他方では,急速な諸改革に対する社会的不安や,重税感による国民的不満も高く,上水道建設の膨大な財源調達のために新たな負担を課すことは困難な状況であった。この間,上水道も含めて,東京を近代的統一国家の首都にふさわしい近代都市に改造するための市区改正計画が東京市区改正委員会により検討され,明治21年(1888)市区改正事業のための特別財源の賦課方法等を定めた東京市区改正条例が国の法律(明治21年勅令第62号)として公布され,東京水道の建設事業も市区改正事業として行われることになったが,この市区改正条例にしても,政府内部において,地主階層等の利害を反映した元老院の強い反対を押し切って成立したものであった。
 明治23年に決定された水道設計案はW.K.Burtonの設計案を中心にして,Parmerの水道会社案等を参考とし,さらにベルギー,ドイツ等の水道当局の専門家からも意見を求めた上で,東京市区改正委員会によって策定された。その概要は計画給水人口を150万人,1日最大給水量16万6000〓(人口1人1日当り最大111〓,平均75〓)とし,多摩川からの取水及び導水は旧玉川上水を利用し,これをコンクリート造の新水路により沈澱池および緩速ろ過池を有する浄水工場に導き,全市を高低の2つの給水地区に分け,高地区は浄水工場から直接にポンプにより加圧給水し,低地区への給水については2ヵ所の給水工場を設け,浄水工場より自然流下で浄水を供給し,ここから各戸に加圧給水するというものであった。この設計案はその後浄水工場,給水工場の位置等に多少の変更があったものの,おおむね当初案通りに実現され,明治32年には初期工事を完成し,計画区域全域への給水を行い,同時に旧上水道の給水を中止した。
 この水道建設工事については,用地取得交渉の遅れや,一部使用が予定された国産鉄管の不良や,それに端を発した汚職事件等の障害はあったものの,工事そのものは,技術面からはほぼ順調に進んだと言えるが,工事の一応の完成をみた明治32年には東京市の人口はすでに計画給水人口を上まわる勢いにあり,さちに市街地は計画区域を越えて拡大していた。こうした状況に対して,明治41年には浄水工場の能力拡張により計画給水人口200万人,1日最大給水量22万3000〓(1人1日当り最大167〓)とした。この段階までは用水量の確保は旧玉川上水によっていたのであるが,この後の拡張については,既設の各種水利権との関係から,河川表流水の渇水期における取水の拡大は容易でなく,貯水池方式による季節的な余裕水の開発が主体となり,東京の急速な膨張とともに新規水源の開発は困難の度を加えてゆくことになる。しかも,人口の拡大が計画の想定を上回ったことに加えて,資金・資材の不足や,関東大震災等の影響,さらに,その後,戦時体制下にあっては,産業基盤整備に資金・資材が集中され,上水道のような生活関連の施設の優先度が低下したこと等もあって事業の進捗が遅れたため給水能力の増加が給水人口の増加と市街地の拡大に追いつかず,拡張計画は後追いに終始することとなった。
 その後の拡張計画の概略をごく簡単にみると,拡張計画の第1段階は,羽村取水口における取水量を拡大し,これを新しい導水路によって周辺の丘陵地の谷に設けられた貯水池(村山,山口貯水池)に貯留し,給水量の増大を図るもので,明治末期から計画に着手したものの,途中関東大震災等があり,完成は昭和12年(1937)になった。この間,関東大震災後の人口の郊外移動により急速に発展して,旧市街地と連坦的な市街地を形成するに至っていた周辺の町が,昭和7年東京市に編入されたことに伴って,これらの町の小規模な水道が東京市水道に併合された。これらの小規模水道の水源は,東京市水道より原水の供給を受けていたもの,多摩川下流より取水するもの,地下水のくみ上げによるものなど様々であったが,この地域はいずれも農村部が急速に市街化され,水道施設は後から建設されたため,井戸に頼る家庭が多く,給水人口比率は低かった。
 拡張計画の第2段階は,多摩川本流を大規模なダムによってせきとめ,渇水時これを放流し,この流量調節によって得た新規流量を羽村取水口で取り入れ,村山,山口両貯水池に導こうという計画で,将来の1000万都市に備えるものとして昭和初期より構想され,昭和11年には事業認可となったが,その後,戦時体制下による資材不足等より事業は中断され,昭和32年に至ってようやく小河内貯水池が完成し,その後,東村山浄水場等主要施設の完成をみた。なお,東村山浄水場の完成により,明治期の近代水道創設以来の淀橋浄水場はこれに統合され,その跡地は現在の新宿副都心の用地となっている。
 さらに,この間,昭和初期より水道応急拡張事業として江戸川および相模川水系より取水する導配水系統の建設が行われている。このうち江戸川系水道は施設的には全く異なるが,系統的には江戸水道中,亀有上水に相当するものである。
 東京の上水道は江戸水道以来その水源の主要部分を多摩川水系に依存してきたが,東京の著しい人口と水需要の増加により,多摩川水系のみによってはそれに応えられなくなってきたため,新しい水源を関東平野の最大の河川である利根川にもとめることとしたのが拡張事業の第3段階である。これも構想としては戦前よりあったが,計画が具体的に動き出したのは戦後になってからのことである。利根川は既存流量については完全に利用しつくされていたが,ダム開発による新規の調整流量についても,各種の用途別需要の競合と利害対立によって,配分調整が容易につかなかったが,こうした状況のもとで水需給の計画的な調整を目的として,昭和36年に水資源開発促進法が定められ,利根川はその指定水系として開発が進められることとなり,水資源の多目的開発を目的として昭和37年設立された水資源開発公団によって利根川上流部に建設された矢木沢・下久保両ダムや利根川河口堰による調整流量の一部を東京都上水として確保し,これにより多摩川水系と利根川水系を2大支柱とする現在の東京都水道の体制ができあがった。この利根川系の導水施設は,利根川中流部の埼玉県行田市に設けられた取水堰(利根大堰)より取水し,これを導水路(武蔵水路)によって荒川に導き,荒川の自然流路を通して,秋ヶ瀬取水堰から再取水し,朝霞水路を経て,東村山浄水場に導くもので,昭和40年に一部通水し,43年竣工した。
 なお,ここで,現在,東京と連坦市街地を形成している郊外(23区外)の諸都市の上水道をみると,これらの武蔵野台地上の諸都市における水道建設の多くはきわめて最近のことであり,たとえば,旧陸軍飛行場や,中島飛行機製作所などの軍需産業の進出により,昭和初期より急速な市街地の発展をみた立川市の場合でも,上水道による給水開始は昭和27年のことであり,それ以前は飲料水はすべて各家庭の浅井戸によっていた。また,関東大震災後,東京の郊外住宅地として市街化の進んだ武蔵野市,三鷹市の上水道の給水開始は,それぞれ昭和29年および昭和34年である(武蔵野市は旧江戸水道のうち最も早く建設された神田上水の水源を市内に有している)。
東京の郊外諸市の上水道の状況
 これらの諸都市はいずれも,浅井戸によって純良な地下水が容易に得られたため,市街化の進展によって生活汚水による井戸水の汚染が問題となってから,ようやく上水道建設の気運が生じるようになったものである。なお,立川市の場合,上水道建設の契機は,市内の米軍飛行場の油送管損傷による航空機燃料の地下浸透による地下水の汚染であった。これらの水道はいずれも深井戸によってくみ上げた地下水を原水とし,これを浄水して給水するものであった。

6 むすび

 はじめに述べたように,わが国は上水道施設については江戸水道以来の長い伝統を有し,明治以降,わが国の社会,制度,技術,生活様式のあらゆる面での近代化が急速に進んだ過程においても,近代上水道建設についての関心は当初から,市民,政府当局のいずれにおいても高く,西欧からの近代水道技術の導入と定着や,こうした近代的都市施設の広汎な普及を支える近代的産業の生成,発展,資材の国産化もおおむね円滑に進んだとみられるにもかかわらず,近代的な都市社会にとって,通常,最も基礎的で,不可欠な都市施設とみなされる上水道の普及の速度は遅く,長い期間にわたって上水道のない都市生活は,東京近郊を含めて全国的にひろく見られ,決して珍しい現象ではなかった。また,上水道事業に対する政府当局の初期における意欲の強さと裏腹に,その後わが国の社会資本整備,公共土木事業の中で,ややもすれば上水道事業は傍流に押しやられ,必ずしも優勢な分野にはならなかった。また,近代化初期における水道衛生問題に対する市民的関心の著しい高まりと対照的に,上水道が衛生的な都市生活に不可欠なものという認識の都市住民への定着・普及はその後十分に進まず,都市は上水道その他の未整備な外延部に無秩序に拡大・拡散し,上水道の不備が必ずしも都市の発展にとって重大な制約とはならなかった。
 初期における近代上水道建設への強い意欲の原動力には,すでに見たように,コレラ,赤痢等の水系伝染病の外国からの侵入と,大規模な流行によって,衛生問題に対する国民的な不安と,これに対処する唯一の手段としての水道建設の緊急性への認識の高まりがあった。人間活動の密集する都市において,水系伝染病がいったん発生すると,水の汚染を媒介として,発生源が拡散され,これがさらに水系を汚染するという形で短時日のうちに大規模な流行が生じる危険性が高いが,細菌学の未発達な段階においては,上下水道の整備による――ろ過池により上水中の細菌を除去し,密閉された配水管によって浄水の都市内での汚染を防ぎ,生活排水によって汚染された下水を,下水道によって都市外へ排除する――衛生工学的な対応が,これに対する唯一の手段であった。西欧の諸都市においては古代・中世を通じて,しばしば水系伝染病の,ある場合には都市人口を全滅させるような大規模な流行があり,中世以降の長い歴史の中で都市上下水道を逐次整備し,環境衛生の保全によってこうした伝染病の蔓延を抑えてきた。わが国に導入された近代上下水道技術はこうした伝統をふまえたものであった,ところが,わが国の近代上水道が建設の緒についた19世紀末期は,ドイツを中心として細菌学が急速な発展をみせた時期であり,この面での先端的な医学知識もいち早くわが国に導入され,伝染病を発生源において抑えることが可能となり,保健衛生の進歩により,上水の汚染に対する不安は,たとえそれが生じても,局所的なものにとどまり,飲料水の病原菌による汚染が国民的不安となることは殆どなくなった。こうして,上水道に対する公衆衛生施設としての認識はうすれ,都市住民の意識の上では単に栓をひねれば簡単に水が得られるという利便施設的意味のみが強くなり,ある場合には家庭井戸への電動ポンプの普及等で容易に代替され得るような存在にとどまってしまうこととなった。このような公衆衛生に対する認識の低下は上水道以上に,はるかに深刻に下水道の普及を阻害することになった。上水道については少くとも都市生活における利便施設の意味をもつが,下水については水系の汚染に対する認識がなければ,個々の市民にとっては下水道へ流しても,川へたれ流しても利便性の点では何も変るところはないからである。以後,わが国において水系の汚染に対する環境衛生的な関心が,広く国民的な高まりを見せたのは,1960年代以降の高度成長期において,重金属化合物を中心とする産業排水による公害問題が頻発するようになって以降のことである。
 近代上水道建設への初期の原動力は,衛生問題等国民生活に根ざした内発的なものであったが,一面では政府当局者の意図の中に,条約改正等のために,近代国家の体裁を整えるための,国家の対外的な顔としての都市の近代化という意識があったことも,その後の近代化の一応の進展のもとで,公共事業の中での上水道の比重を相対的に低下させる一つの原因となった。東京水道の建設計画を精力的に進めていた東京市区改正委員会においてさえ,すでにその建設以前に,当時の市区改正委員会長,内務次官の芳川顕正が「道路橋梁及河川ハ本ナリ,水道家屋下水ハ末ナリ」と述べているように生活基盤施設に対する産業基盤整備優先思想の萠芽がみられる。上下水道が水道条例によって市町村の事業とされたように,本来,地方自治体の事業には住民生活と直結したものが多いが,わが国の近代化の過程が「殖産興業・富国強兵」により,帝国主義への道を明確にしてゆく中で,市民生活に対する産業の,地方自治体に対する中央政府の優位を次第に強めてゆくのであるが,こうした状況のもとで,上水道事業も公共事業の中で徐々に傍流へと押しやられてゆくことになった。
 また,大河川の下流域における大都市の発展,都市における産業の発展は,都市の洪水防御の重要性を高め,他方,鉄道の発達は内陸輸送における河川舟運の必要性を低下させた。従来,わが国の河川土木技術については,江戸時代以来の伝統技術においても舟運および用水のための流量安定化を目的とする低水技術が主流だったのであり,明治以降近代技術の導入に関しても,オランダ流の低水工事が主となってきたのであるが,こうした状況の変化により明治29年(1896)の河川法制定によって,以後,連続堤によって河川を都市から切り離し,洪水流量をできるだけ早く海へ流出させることを目的とする高水工事が河川土木の主流となる。こうした河川と都市とのかかわり方に関する技術思想の変化,利水に対する治水の優先によっても,河川土木の中での上水道事業の比重は間接的に低下してゆくことになった。
 さらに,わが国の都市の発展形態を特徴づけた,都市と農村,自然の生態系との固有のかかわり方が,これらの事情以上に,上水道の発展に影響を及ぼしている。もともと,わが国の都市については,自然を都市の人工的施設によって制御する人工環境としての認識が薄く,都市施設にかわるものとして,周囲の豊かな自然環境に依存しつつ,都市と田園とが混然となって,都市が拡大するという形態が一般的であり,都市計画的視点から見る限り,都市・農村連続体的な性格が強かった。農業の側からみても,人間の糞尿を肥料として利用する形態が長く続けられ,農村がこうした面からも都市と密接に結びつくと同時に,都市の側からみれば,生活汚物も,都市から排出されて水系を中心とした自然環境を汚染するものではなく,自然の生態系に還元されて田園の維持,形成にかかわるという,都市と農村とを一体とした巧妙な生態系の循環秩序が伝統的に形成されていた。下水道の機能は水流によって,都市の生活汚物を運搬,集中し,これを人工処理することによって汚物を自然環境から隔離・処分し,処理水のみを再び水系に返すことにあり,都市の人間活動とその結果を自然から切り離すという思想に基づいており,人間活動をも自然の生態系の一部とみなして,生活汚物を自然環境の中に拡散して,その中に包み込み,自然の浄化作用によって処理するという農村的形態とは,技術思想の根本において異質なものである。わが国の都市はこうした農村的原理を色濃く残したまま拡大していったため,都市の発展のある段階においては下水道の必要は必ずしも高いものではなく,したがって下水道の必要性に対する都市住民の認識の高まりもみられなかった。一方,上水道については,都市地域のかなりの部分が,飲料水に適した良好な水質の地下水に恵まれたために,家庭用井戸に依存する場合でも,都市生活にとって決定的な不都合は生じなかった。もともと,上水道と下水道は結合したひとつのシステムをなすものであって,下水道の不備が,水洗便所等の普及を遅らせ,生活様式の面からも,上水道の必要性を減じていた。
 都市施設整備に先行して都市の外延に市街地が無秩序に拡大してゆく場合,こうした部分については,都市施設の整備された中心市街地に対比して,スラム的なものが想像され易いが,事実はそうではなく,たとえば,比較的近年まで上水道整備の遅れた東京西郊(武蔵野市など)をみれば,この地域は市街化の始まった当初より良好な住宅地とみなされていたのであり,現在では,東京圏の中の有数の高級住宅地と考えられている。この方面の市街化は関東大震災の後,大正末期から昭和初期にかけて進んだが,新しい市街地を形成した新住民の主体は,この当時から急速に拡大した東京の中枢管理的機能に対応したホワイト・カラー層であり,その後の都市的生活様式の代表的な担い手となった階層の人々であった。こうした事実は,上水道の有無によっては,生活様式その他の面で,殆ど社会学的差違が生じなかったことを示しているものと言えよう。逆の言い方をすれば,上水道の存在は,この当時までは,特にそれによる新しい「都市的」生活様式を作り出してはいなかったということである。
 このような新しい郊外地域は,やがて市街化の度合が進むにつれて,それ自身の生活排水によって地下水の水質が悪化する段階に至ってようやく上水道建設を必要とするようになるのである。
 このように,市街化のある段階までは上水道は必ずしも都市の基本的要件,市街化の必須条件とはみなされず,少からぬ場合,市街地の形成が先行し,上水道整備は後追いに終始した。この意味では,わが国の近代化,都市化の過程において,上水道は都市の発展にとって重大な制約条件とはならなかったと考えられ,都市にとって鉄道の場合のような,それによって市街地の拡大の方向や,形態までが決定されてしまうような重大な意味をもちえなかったように思われる。
 しかしながら,わが国の都市が,水系とのかかわりについて農村的システムのままで拡大したことは,都市の規模,活動密度がある段階を越えるまでは自然の循環系の秩序の中にそれなりに組み込まれ,バランスを保っていたとはいえ,現実には都市の拡大は,こうした自然のバランスとは別の原理で進んできたのであり,そうなると当初の市街地形成に際して都市施設的対応を欠いていただけに,水系の汚染を中心に様々な問題を生じることになった。
 第2次大戦後の高度成長のもとで,家庭電化の進展,自動車の普及等により,わが国の都市は水多消費型の社会へと転換し,さらに水洗便所の普及と都市の高層化によって,上水道がなければ現在の生活様式そのものが成り立たない社会となっているが,これと並行して上水道の普及も急速に進み,給水人口比率はかなりの水準に達している。しかし,上水道と一体であるべき下水道の普及は,なお,きわめて遅れ,大量の生活汚水が未処理のまま排出されて水系を汚染し,上水道の原水の水質悪化と,取水の遠隔化により,都市住民は水道の水質悪化と,コストの上昇を強いられている。
 わが国の都市はこれまで,良好な水に恵まれ,比較的無雑作に水を使ってきた。また水量の点でも,河川表流水については既設の水利権との調整に多くの困難はあったものの,水源をより遠隔に求め,季節的余裕水を開発することによってこれまで需要増加に対処してきた。しかしながら,関東,近畿,北九州などでは水資源総量に対する利用率がすでにきわめて高い水準に達し,残されたダム開発適地も少く,新たな水資源開発は限界に近づいている。さらに,今後はこれに既存の貯水池の埋没の問題が加わることになる。なお,上水道の利用は生活用水だけではなく,事務所用水,工業用水等も大きな部分を占めるが,これらの多くは自家用井戸による地下水くみ上げにより,その用水需要を低コストでまかなってきたが,戦後の経済成長に伴う地下水の大量のくみ上げの結果,大都市地域等で地盤沈下を生じることとなり,これに対処するために昭和31年に工業用水法,同33年に工業用水道法が定められた。この結果,用水需要の河川水への依存度はより高くなり,こうした状況が,前述の水資源総合開発の必要性を高めたのであるが,一部の先進地域においては開発そのものが上限に近づいている。水需要量は経済成長,生活水準の高度化によって増加するのに対して,水資源総量は,国土の自然的条件によって絶対的な上限を画されているのであり,戦後の高度成長の結果,水資源の有限性が次第に明確になりつつあるのがわが国の現状である。高度成長期以前にあっては都市の成長に対して,水の問題はあまり決定的な制約要因とはならなかったと考えられるのだが,今日では,状況は全く変っており,1977年に決定された第3次全国総合開発計画においては,今後の最も厳しい地域的な成長制約要因の一つを水資源問題とみて,河川の流域圏を基本的な計画単位として,水資源賦存量に適合した人口,産業の配置を目標とする開発思想を打ち出すまでに至っている。
水資源の賦存量および使用量

参考文献
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