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地方都市の下層民衆と民衆暴動

Author: 橋本哲哉
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1980年
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目次
はじめに・・・・・・・・・・2
1 都市下層社会研究の意義・・・・・・・・・・3
2 地方伝統都市金沢と箔工業・・・・・・・・・・10
3 金沢の米騒動・・・・・・・・・・19


はじめに
 本稿は戦前日本の諸都市の都市化とそこにおける民衆,民衆暴動との関連性の問題を具体的に分析するという研究作業の一部をなすものである。ここでの当面の課題は明治大正期における地方都市の下層社会の特徴と下層民衆の行動様式といったものを明らかにしたいと考えるが,実証の対象としては,地方都市の中から金沢をとりあげ,金沢の米騒動について私見をのべる。
 以下,まず都市化と都市下層社会研究の関連,とくに地方都市の都市化とその下層社会論を研究することの意義を論じる。つぎに金沢の伝統的産業としての箔工業の展開,その生産工程と技術の状況,箔労働者の労働と下層民衆としての生活,意識を考える。最後に金沢米騒動における下層民衆,なかでも箔労働者の行動と集団化の問題点を整理することにしよう。

1 都市下層社会研究の意義

 1 都市貧民の研究
 戦前の都市下層社会研究に関して,筆者は3つのテーマをいまもっている。その第1は明治・大正期の都市下層社会が資本主義との関連でどのような役割をになっていたのか,ということ,別な表現をすると都市貧民の存在形態をなるべく客観的に把握することが課題である。この場合,検討の対象は東京・大阪などの大都市が中心となる。つぎに地方都市の下層社会の諸類型の摘出と地方都市の都市化の問題が第2の課題である。さらにそれぞれの都市下層社会の特質との関係でそこにおこった民衆暴動の内客を検討することに関心がある。ここでは実際に現出した民衆暴動だけではなく,民衆暴動がおこらなかったという点も含めてテーマにならないか,と考えている。本稿ではきわめて不十分ではあるが第2・第3のテーマについて部分的な実証を試みるので,まず第1の点の私見を要約的にのべておくことにしよう。
 筆者は戦前の都市下層社会の研究に関して,その同時代のものとして明治期においては横山源之助の『日本の下層社会』,大正期においては賀川豊彦の『貧民心理の研究』が頂点となる成果だと考えている。ここでは両者の検討をする余裕はないので,前者の研究の意義を明らかにすることにしよう。
 横山源之助の全著作目録はすでに西田長寿によって明らかにされている1)。また横山の著書の出版の折に,それぞれ解説が付され,あるいは個別論文の形で多くの評価が提出されてきている。とくに最近では日本資本主義確立期の都市問題,労働問題の角度から検討される場合が多いが,ここでは都市貧民論という点に関して私見をのべることにしよう。横山の貧民研究はもちろん『日本の下層社会』が軸ではあるが,それは観察調査が主体である。
 ところでその研究の体系については従来,内容にまで立ち入った紹介はなされていないが,「貧民状態の研究」にくわしい。これは1903(明治36)年『中央公論』に発表した論文で時期的には『日本の下層社会」より少し遅いものではある。その冒頭において「下層社会の研究は余が十年前より志せる所にして,今も尚ほ之に注意を置き,日夜思を潜め居れり」とし,「爰に年来坐右にして研究に供へたる調査項目を挙げて,江湖識者の是正を請はんとす2)」と述べているように横山自身の貧民研究の体系を積極的に提示している。その概要を簡単に紹介しよう。
 横山は貧民研究を一般的研究と特別研究とに分類し,前者を,(1)他府県より移住し来る人の増加の割合,(2)精神労働者と体力労働者との増加比例,(3)東京市の細民は如何なる職業に従事する者最多き乎,(4)東京市政の貧民及労働者に及しつつある程度,(5)社会問題の及びつつある範囲如何,(6)東京市に在りて最も多き所は那処ぞ,(7)貧民部落の7項目に分けている3)。特別研究とは職業,賃金,住居,融通機関,共済制度,風俗,衛生,宗教,教育,貧民に関する法令規則,慈善事業,特別の階級の12項目にわたっている。一般的研究に関してはこの論文では言及していないが,後者に関しては各々に小項目を設けている。例えば賃金については徳川時代の賃金と米価との割合,明治維新以来の変動,日清戦役前と戦後との差異,機械工業の勃興は一般職人の賃金に如何なる影響を与えたりしや,職人の中にて賃金の向上せる者と低落せる者,現在の職人の賃金と工場職工との賃金差異,普通労働者と技術労働者との比較といった具合でその視角は具体的で,かつ詳細にわたっている。
 ところで横山の論文を一読してわかることであるが,横山は貧民,貧民社会をきわめて広い対象として置いている。それは貧民の定義にはっきりとあらわれている。横山の諸貧民定義の整理からみていくと,「抑々貧民とは如何なる者そや,研究者に依りて各々相違あり,試に今日行はるる実例に依りて区別を立つれば4)」として以下の5つにそれをまとめている。(1)貧窮なる生活にある者をことごとく貧民の中に加える,(2)特定の場所に居住し,特定の職業につく者,(3)貧民救済法の対象者,(4)産業革命後の工場職工,(5)ある特別なる生活社会(被差別部落をさす)の住民,である。その上で横山は次のように言う。「而して余輩は最も広汎の解釈を取り,中等以下の社会民人は悉く之を貧民の範囲に加へんと欲す5)」と。さらに「日雇人足,人力車夫の普通労働者は固より,技術を要する職人及び工場職工の如きも同じく之を貧民に加へ,力役者外の屋台店,大道店,捧手振の小商人も之を同一研究の下に置かんとす6)」と続けるのである。横山は貧民と細民とを同一に考え,要するに「貧民研究は中等以下の社会一切を包容する下層社会の研究なり7)」と主張したわけである。
 以上の横山の見解を一般論として聞くとはなはだ乱暴な意見のようにみえる。しかし,津田真澂が東京の例ではあるけれどもぼう大な資料を駆使して明らかにしたように,日清戦後の時代においては工場労働者は他の都市下層貧民とともに「貧民窟」に居住する場合があり,日露戦後においてさえ生活水準にほとんど差異がなかったのである。大正初期でも職工社会と貧民社会の近接が論じられている8)。すくなくとも日露戦前では労働者と都市下層貧民が渾然一体の状況で存在していたわけで,そのことを横山は客観的にあきらかにしたわけである。筆者は,この点は明治期の都市貧民の存在状況を考察するうえでもっとも重要なことだと考えている。このような明治期の,とくに大都市の下層社会をめぐる状況を念頭におきながら,横山の調査を分析する必要がある。もちろん同時代の都市下層社会の研究は横山にとどまらない。それらについては西田長寿『明治前期の都市下層社会』などを参照されたい9)。横山と同時代の研究で従来ほとんど省りみられずにおかれたままとなっているものの中から,筆者は次の2研究,鈴木券太郎「予が貧民論の一片」(『反省雑誌』―『中央公論』の前身―筆者,明治30年第4号)と山下岩之助『日本貧民論』(明治30年刊)を発堀したので紹介しておこう。しかしその内容と評価に関しては他稿にゆずる10)。
 戦前の都市下層社会と資本主義との関連,都市貧民の存在形態という観点からみた場合,横山などの同時代の研究の厳密なる再評価を主張したわけであるが,現在のこの点での研究水準はどうであろうか。
 前者については主として労働力移動の視角からの論争となっている。論点は基本的には日本資本主義の労働市場形成と関連させて,農村過剰人口プール説(大河内一男「出稼論」),それを批判した農村流出人口定数説(並木正吉),以上2説を整理した都市雑業層プール説(隅谷三喜男)に要約できる。それぞれに論争があるが,有力な隅谷の論点11)にしたがうとプールとなった都市雑業層とは都市下層民で,その居住は大都市下層社会であることになる。したがってそこにどのような民衆が存在し,どのように生活・行動したか,またその都市下層民と貧民の関係,あるいは彼らの出身地などは重要な研究対象である。
 都市貧民の存在形態とはそうした課題を含んでいるが,この点についての現在の研究水準は前出の津田の研究『日本の都市下層社会』がしめしている。
 さて戦前・後の都市下層社会の研究について簡単にとりあげてきたが,それらは共通して大都市の都市下層社会を研究・分析の対象としていることに気づく。筆者はそこで地方の都市下層社会の研究の必要性を次に若干ではあるが主張することにしよう。

 2 地方都市論と下層社会論

 戦前における地方都市の下層社会の問題を検討する場合にいくつかの課題がありうるが,ここでは次の2点をとりだしておくことにしよう。
 戦前期の地方都市をどのように規定するか,あるいはどの都市を地方都市とみるのか,という点がその第1である。これには筆者なりの一応の見解があるが12),明治大正期では人口5万人以上の地方中都市以上を考えることにしよう。その都市数と人口数の動向は次の第1表を参照してほしい。
 6大都市の総人口比率は次第に減少しているが,5万以上都市の比率は,表中の全期間を通して60%前後をしめ続けている。
 人口規模別の都市人口の増減をみると(第2表),とくに大正期に入って以降,5―20万規模の都市の人口増が顕著であり,一方6大都市の入口増がにぶっている。この辺が5万以上地方都市の検討の必要性を訴えているように思えるのである。
 1918(大正7)年における各都市の人口を第3表に示しておいた。
第1表 人口規模別都市人日の割合
第2表 人口数の増減
第3表 人口5万人以上の市・人口数(1918年)
 地方中都市と名付けてよいような都市名はいずれもこの第3表中にあらわれている。
さて地方都市下層社会論に関して本格的な検討はほとんどなされていない。その数少ない例のひとつは横山源之助の『日本の下層社会』であるが,横山には地方都市はあまり関心がなかったようだ。同時期の論稿に以下引用するような興味深い調査報告があるが,その部分は『日本の下層社会』には載せていない。
 横山にとって毎日新聞(島田三郎主宰)時代(1894―98年)が,もっとも油ののりきった時代であったが,その活動の結晶として『日本の下層社会』がある。この時期に身体をこわして一度,郷里(富山県魚津)にもどっており,その際この地での観察記録を「地方の下層社会」として毎日新聞に連載したのである(1896年10月25日以下18回,この第7―17回までが『日本の下層社会』に入っている)。この中から重要な部分を紹介しよう。
 この一連の地方の下層社会を論じている中で,もっとも重要な部分は第5回の都会の細民と地方の細民の比較をしているところではないかと思う。横山は「地方は都会に比して,固より極窮の細民尠しと雖も,事情を酌んで渠等の実際を思えば,其の憐むべきは地方は都会に等しく,寧ろ或は勝るものあらん13)」とのべたあと,都会と地方の違いとして次の4点を具体的に指摘している。要約するとそれは以下のようになる。(1)都会の細民は妻帯者が少いが,地方の場合は大半が妻子をもち,近隣に親類をもっている,(2)都会の細民同士の生活は日常社交,義理人情が少ないが,地方では人情味豊かである,(3)都会の細民の妻の内職は自己のためであるが,地方の場合は家計補充のために内職をしている,(4)都会の細民にとっては都会の生活の程度が高いため物品を求めやすいが,地方では衣食住などの物品を得にくい。その他若干の指摘があるが,重要なものは以上とみてさしつかえない。
 さて,こうした横山の指摘は何を物語っているであろうか。1つは,(1),(2)でのべている点であるが,都会の細民は独身者が多いこととも関連して居住の地域社会からは独立していることの意味である。彼らはいわゆる都市の雑業をになう部分であるが,どうしてもその地域で生活しなければ生きていけないといういわば追いこまれた階層であったとはいいがたい。その地域で生活できなければ,他へ移動する可能性をつねにもっていた部分といえよう。その意味では都会の細民は,都会という条件も含めてプロレタリア化する展望をもっていたわけである。一方,地方の細民はそれと対照的に特定の居住地域に家族もろとも根をおろし,そこで一定の生活のサイクルをもっていたとみてさしつかえない。したがって居住地域での交際といったものにもある程度,関与することが,彼らの“生活の知恵”でもあった。しかし,地方の細民はそのままではプロレタリア化する展望はほとんどなかった。その地域社会になじんでいる限り,最低の生活は得たが,それ以上の希望は何等保障されていなかった。地域社会からいずれかの理由で排除された際には,彼らはおそらく都市の下層社会に出ざるをえなかったであろう。その際,(4)でのべられているように,いきなり都市の下層社会にでても,何とかぎりぎりの生活を守れる一定の条件もまた,あったわけである。
 横山の指摘を以上のように考えてくると,われわれは,横山がこの論文で都市と地方の細民の生活を単純に比較しているのではないことに気づく。その両者の相異をのべつつも,その両者の関係にもある程度関心をよせていたと考えることができる。簡単にいえば,地方の細民が都市にでることはあってもその逆はあり得ない,都市の細民のみにプロレタリアへの展望があったなどの点にそれがあらわれている。この点は,理論的な問題からいえば地方,農村の人口の都市への移動形態,農民の賃労働化するにあたってのコースの問題などのテーマと重なってくる。研究史の面からは,とくに原蓄期のプロレタリアの創出の過程として多くの見解があるが,いずれも確定的なものはない。横山の仕事の評価においても,地方の位置づけ,地方に関する論文については,やや脇におかれている感がある。大都市の都市化との関連で都市下層社会を検討することはもとより,地方都市の都市化を大都市と比較し,さらに地方都市の都市化の実態をも見通す必要性がある。このような課題とかかわらせて,以下地方中都市金沢の例を若干とりあげることにしよう。

1) 西田長寿「横山源之助『日本の下層社会』の成立」(『歴史学研究』161号1953年)。なお最近の研究成果を1つだけあげるとすると,立花雄一『評伝横山源之助』(創樹社,1979年)がある。
2),4) 横山源之助「貧民状態の研究」(上)(『中央公論』第18巻6号,24ページ。
3),7) 同上26ページ。
5) 同上25ページ。
6) 同上25―26ページ。
8) 津田真徴『日本の都市下層社会』1972年 ミネルヴァ書房,を参照。
9) このほか田代国次郎編著『日本社会福祉の基礎的研究』1965年 童心社をあげておく。
10) 橋本哲哉「日清戦後の時代と『貧民論』」金沢大学経済学会『経済論集』第17号1980年。
11) 隅谷三喜男『日本の労働問題』1967年東大出版会,所収の「日本資本主義と労働市場」を見よ。
12) 橋本哲哉「都市化と民衆運動」岩波講座『日本歴史』17 近代4 1976年,同「大正デモクラシー期における都市の形成について」金沢大学『法文学部論集』経済学篇22 1975年,同「日露戦後の都市化と労働力の移動」『日本史研究』第200号 1979年,などを参照。
13) 「地方の下層社会」の全部は『横山源之助全集』第1巻 明治文献 1972年,に収録されている。引用部分は465ページ。
14) 同上,467ページ。
2 地方伝統都市金沢と箔工業

 1 地方伝統産業都市としての金沢
 明治大正期における地方都市とその下層社会に関して研究することの意義を論じたが,以下その実証的研究の一例として金沢をとりあげ,民衆暴動の状況もかかわらせて,若干の考察をおこなうことにしよう。まず金沢の都市としての性格から述べてみよう。第3表(1918年)において全国の地方中都市中,金沢は上位に位置しているが,旧幕時代は三都の次位を占めるほどの100万石城下町であった。したがって維新後,戦後にいたるまでの時代の流れにおいて金沢市の人口の増加はきわめて少なく,他都市の都市化の速度と比較するとその伸びは遅く,次第に人口数からみると低位に落ちこみつつある。もちろんこの理由は都市として発展しにくい自然的条件などが考えられるが,次の第4表の金沢市の人口の推移をみる際に念頭においておく必要がある。
 さて次に地方中都市以上の各都市の主な工業の特徴を,工業比の高い順に整理してみた(第5表)。
第4表 金沢市の人口
第5表 都市の主な工業(1920年)
 1920(大正9)年,「国勢調査報告」の人口5万以上の都市であるため,第3表の都市とは二,三違っている。全国の地方都市の中で金沢の特徴を考えると次のようなことが指摘できる。全産業の中で工業の比率は比較的高く,繊維関係が第1位業種である。しかしそれも2割強であって,金属,木竹加工業も大きな役割をしめている。この2業種は伝統的産業とみてよい(第6表も参照)。また工業比の割合に対してみると,表中にはないが,第3次産業の割合が高い。以上の点をもう少しこまかく,金沢に限定して考えるために第6表を用意した。
第6表 金沢市の重要工産物(上位10品目)の産額
 これは1398(明治31)年以降,10年毎に機械的に年次を追ってみたが,金沢市の工業の展開の特徴はおおよそ把握できるようである。それをいくつかに整理すると,(1)明治以来絹織物(中心は輸出用羽二重)が大きな比重をしめている,(2)次いで清酒,染物(加賀友禅染),箔,九谷焼等の陶磁器,菓子(和菓子),漆器などの金沢の伝統物産品の産額が目にっく,(3)箔は好不況の波が激しいが,金沢市全工産額の2―4%を常にしめている,(4)上位10品目の産額の全工産額比は40%弱から,昭和初期の8割弱にいたるまで次第に増加し,金沢の特産品傾向が時代とともに明確になっている。
 第6表にはあらわれないもう1つの特徴は次の第7表でみてとることができる。1921(大正10)年の例だが,繊維工業を除いて,いずれも工場規模が30人以下と小経営であること,また大正後期においてもそれらの工場の原動力使用が3分の2以下の手工的段階であること,これはその多くが伝統産業であること等をよく示していると思う。
 明治大正期の金沢市のこのような工業の状況を考えれば,そのひとつの典型として箔工業を選びだし,その分析をつうじて地方中都市金沢の特質にアプローチすることは無意味ではないことがわかる。
第7表 金沢市の産業別工場構成(1921年)

 2 箔工業の展開
 「金銀などの貴金属は,古来,人の心をとらえて放さず,貨幣などに使われたのみならず,多くの美術工芸品として生活を飾った。その場合,粘着性に富むところから,薄く延ばして使う方法―いわゆる金箔にして装飾することも喜ばれたのは想像に難くない。おそらく,金銀そのものを素材に使ったのとそう違わないことから,金箔や銀箔も作られるようになったと思われる1)」。
 金沢箔の歴史を研究した下出積與は,箔の起源についてこのように書きはじめている。金箔は色合,光沢が永久に変色しないのが特徴であり,きわめて薄く,かつ軟かであるためこまかい加工ができ,箔の王座をしめる。その主な用途は「仏壇,仏具,屏風,表具,ふすま,額縁,製本,マーク,金文字,看板,織物,金糸,売薬,陶器,漆器,扇子,鍍金押紙2)」とおそろしく広い。しかし近年では銀箔だけでなく洋箔(真鍮箔,銅箔),アルミ箔も数多く見られるようになってきた。これらは金箔の代用品として生れたもので価格も安い。ここでは金箔のみをとりあげて,以下箔工業の展開を旧幕時代から大正期まで略述することにしよう。
 加賀藩の金箔の歴史は藩祖前田利家の頃までさかのぼる3)。京都より箔打ちが移入されて箔屋が金沢に姿をみせたが,やがて17世紀中葉,幕府は金銀の統制をかねて,各藩での貨幣鋳造の禁止をおこない,一時金沢箔は中断されるところとなった。その再興は19世紀初,金沢城二の丸の焼失という事故がきっかけとなった。城再建のための莫大な金箔を,幕府の許しをえて藩は金沢安江本町町人伊助に調達させた。その当初は京都職人の力を借りたが,苦節10年,金沢でもかつての技術が復活した。やがて藩の被護もうけて小工場が分立,それぞれ発展して,19世紀中頃にはマニュファクチュアの段階にいたったと考えられる。しかし一方では原料(金)の買入れと製品販売を少数の問屋に支配され,また市場も極端にせまかったこともあって,マニュ段階以上には自主的な発展はできなかった。このような問屋制支配の評価に関して次のような見解がある。問屋制の支配によって,箔生産は「地金の圧延,上澄,打立,うつし,包装の部分工程」に分化された。そのもとにおける「生産の分化した発達は,それらの生産者の労働が,すでに完成生産物生産のための部分労働にすぎなくなったことを示しており……相互に補足し合って一つの完成生産物を生産する協業関係は,きわめてマニュファクチュア的なものであった4)」。
 明治維新後社会が平静にもどると箔の需要も急速にたかまり,300年間の全国的な禁制からの解放も手伝って金沢箔工業への新規従事者が殺到し,1880(明治13)年頃には箔打職工の数は1,500人にも達したといわれる。金沢箔はとくに評価が高かったが,その理由は「槌打精妙ニシテ其質極メテ薄ク,金量随フテ少ナキニヨリ,他産ニ比シテ価格ノ自ラ廉ナルヲ以テナリ,是レ我地方工人ノ特ニ一種ノ方法ニヨリテ原料粘着力ノ極度ニ達スルマデ之レヲ薄片ニスルノ技術ヲ有セシニ起因ス5)」と説明されている。
 こうした技術的優位によって他の地方箔を駆逐し,金沢箔の独占的地位はたかまっていった。しかしやがて金沢箔同士の販売競争,そして粗製乱造をひきおこし,折しも松方デフレ・不況期の到来も加わって,一転没落の憂き目をみる。「工人ノ多ク他業ニ転ジ,一時到ル処当業者ノ歎者ヲ聞カザルハナシ6)」という有様となった。
 この苦境期の1888(明治21)年,箔同業組合が結成され品質,価格の協定などの策がとられたが,詳細は不明である。日清戦後の近代化の好況の波にのって再び繁栄をとりもどし,日露戦後には「26軒の箔問屋を数え,羽二重につぐ金沢特産品としての地歩を確保するにいたった7)」。
 明治後期に金沢箔は著しく需要をのばし,全国的にも名声を博したが,後述するように家内工業における手工的な労働が主体で,当然そのため,箔生産工程の中で最も機械を導入しやすい箔打ち部門での,機械発明にとり組むものがあらわれた。
 金沢市箔業者の三浦彦太郎は日清戦後から打箔機の考案をはじめ,改良に改良を重ねた結果,1911(明治44)年,打箔機の製造に成功した。当初は質・量ともに手打ち箔をしのぐまでにはいたらなかった。第1次大戦後,それまで世界市場を独占していたドイツ箔が後退し,金沢箔にとって広大な市場がひらかれた。そうした好機にその需要増大にこたえるべく,優秀な打箔機の完成がなったのである。
第8表 金沢箔の生産
 第8表は明治末―大正期の金沢箔生産の動向をしめしたものである。この時期になると箔は金沢の全工産額のうちの5%を確実にしめるようになっている。箔生産は,明治・大正初期はその4分の3が金箔であるが,機械打ちが開始されると,例えば大正末年のように3分の2が金箔といったように洋箔等の比重が増加していることがわかる。
 さて第8表は一見してあきらかなように,第1次大戦後の打箔機導入の影響が金箔生産増に直結していることを示している。第1次大戦の前後を比較すると金箔生産額にして6倍強,生産枚数にして3倍弱といった増加の具合である。これにはもちろん好況による箔労働者の増加も関係しているが,やはり原動機付箔工場の登場の意義の方が大きい。しかしながら,打箔機が万能であったわけでは必ずしもない。大正後期の段階では手打の優秀な職人は月3,000枚を打つことができ,機械打ちでは月5,000枚といったところであった。ただ優秀な職人の養成には時間がかかり,一方機械打ちは比較的短期間で修得できる利点はあった。また質のよい製品は何といっても長年にわたって習熟した職人の腕とカンに頼らざるをえなかった。打箔機にも一定の限界がおのずと存したわけである。さらに箔生産工程の中で打箔工程は一部分で,他部門はあい変らず手工的労働にゆだねられて機械化できなかった。ここに箔生産が工場制工業として発展しえなかった理由の1つがある。それはともかくとして,1919(大正8)年は大正期の最高産額を生みだした。しかし第1次大戦後の反動恐慌,そして恐慌から恐慌へと日本経済がよろめくなかで箔生産者たちは大きな試練にあい続けるのである。次章との関係で前年の1918(大正7)年はどうであったか。この年もやはり箔にとって不況状況で,しかも大幅な物価高,米価高騰の連続で,とくに箔労働者は極度の生活難にあえいだのであった。
 箔工業の明治・大正期の展開をみてきたわけであるが,結論的にはそれが近代化しにくいことを強調しておきたい。その理由について簡単に述べ,まとめにかえることにしよう8)。
 まず,箔生産が伝統的産業であることと関連して,一定以上の発展をしない歴史性を有していたことである。もともと問屋制的支配下にあったが,明治以降も商人資本への従属的な関係が続き,また小経営規模を守りとおしている点などを指摘しておこう。つぎに金箔が奢侈品または高級工芸品の部分的な装飾材料であることから,自ら新しい市場を開拓できず,生産はほとんど注文取引に限られていたことも発展を阻害した理由である。箔自体が最終消費品であるため,市場の側から箔工業の近代化を押しすすめようとする動きもみられなかった。また前述したように度々不況の波にのみこまれているが,これは原料が金でありその使用に困難性がつねにつきまとっていたことも考えておかねばならない。最後に生産技術の手工的性格,非機械化部門の多いことなどの点であるが,これは次節でもう少し立ち入って労働の面から検討してみることにしよう。

 3 箔労働者の労働・生活・意識
 明治・大正期の金沢市内の箔工業地域は大体2つの場所にかたまっていた。第3章の地図を参照するとわかりやすいが,もっとも大きな地域は,市内卯辰山の西側,浅野川右岸の一帯である。もう1つは犀川右岸の上菊橋~下菊橋周辺でここはそう広い地域ではない。箔の一帯に入るとあちこちから箔をうつトントンという独特の槌音が聞え,誰にでもわかる雰囲気が漂っていたそうである。
 まず箔の生産工程を簡単に解説することからはじめよう。この点については下出前掲書がもっとも詳しい。金箔の生産は金をうすくたたき伸ばして箔にしたものであるから,素人には簡単な作業のように見える。しかし実は充分に計算された精密な作業が根気よくくり返される仕事である。それは大別すると上澄製造,箔打ち,箔うつしの3工程に分かれる。さらに箔打ちには特殊な和紙の力が絶対に欠くことができず,この紙の生産工程も含めると4工程ということになるが,ここでは割愛する。
 第1工程から順に見ていくことにしよう。金箔の原料は金ではあるが,正確には若干の銀・銅を含んだ合金で,その微妙な割合の合金作りから上澄屋の仕事ははじまる。これをまず100分の3ミリ位まで延槌で叩いて伸ばす(現在ではロール機を使用)。これを小さく(約2寸角)切っては澄打紙に1枚ずつ入れ,約200枚ほど重ねる。そして5寸角位に叩きのばし,また小片に切って澄打紙にはさんでは叩くという同じような作業を5回くりかえす。こうして仕上ったものを上澄(うわずみ)といい,それは約1,000分の3ミリの厚さとなっている。
 第2工程はこの上澄を大体1万分の2―3ミリの薄さにのばした金箔に仕上げる工程で本格的な製箔工程である。基本的には箔打紙の間に上澄の小片(小間という)を入れ,打ちのばし,小片にして他の打紙の間に1枚ずつはさみ,打つという作業をくり返すわけであるが,この間,次第に伸びやすい打紙にうつしかえ,熱をもった紙,小間をさますなどの技術は長年のカンに頼るところが大きい。
 さて打つ作業であるが,打紙と小間とを500枚ほど重なったものを,普通は向いあった2人で打っていく。熟練の職人が主槌(おもづち)をもち,石場の上にのせていろいろと移動させながらトントンと打つ。その1打の間を対面の徒弟・丁稚が2本の向槌でトテントテンと打ちこむのである。一通り表が打ち終るとひっくりかえして裏から同じように打つ。この作業の部分に打箔機を使うようになるのである。打っては他の打ち紙にはさみかえ打つというこの工程は何回,どの程度おこなうかは必ずしも一定していない。箔が打紙一杯にきれいに均質の厚さにのびて,大体5寸5分角,1万分の2―3ミリになれば仕上りということになる。
 第3工程は金箔の仕上げ工程である。打ちあがった箔を,また1枚ずつとりだし広物帳にうつしかえる。そのとき,金箔は非常にうすく軽いものであるから風は禁物だ。静かにそっと天狗爪と仕事箸をつかってうつす。これをさらに1枚毎にとり出して合竹(あいたけ)で適当な大きさに切り揃える。所定の寸法では3寸6分角,4寸2分角,5寸2分角,7寸2分角で,それは現在もかわりはない。同じ大きさのものを100枚ずつ束にし,さらに5束あるいは10束ずつ箔箱に入れて完成となる。
 さてつぎにこうした箔生産工程に,箔労働者がどのようにかかわったのか。その労働と生活,さらに彼らの意識の問題について少しとりあげておこう。この点に関して,1973年(昭和48)年11月,金沢の箔労働者(60歳~70歳台5名,他に鉄工労働者1名)からの聴取り調査をしたことがある。それは箔工業と箔労働者の大正・昭和期の実態を知ることと同時に次章であらためてふれるが,箔労働者を中心として展開した金沢米騒動の様子を聞くことが目的であった9)。このテープは3時間ほどのものであるが,まだ公表・利用されてはいない。筆者もその調査に参加したので,この機会に一部,資料を公表しておくことにしたい(以下,注記のない「 」はそのテープからの引用である)。
 箔労働者の労働と生活は厳しく貧しいもので,下層民衆と呼んでさしつかえないような下積みの労働実態であった。次の第9表は表向きの賃金表である。
 しかし,それでも箔労働者の,とくに熟練職人でない部分は,他職人のどの最低賃金よりも一段と低いことがわかる。
第9表 大正中期の金沢市内職人賃金
親方のもとに,何人かの熟練職人と何人かの修業中の徒弟・丁稚がいたが,徒弟・丁稚は住みこみが多く,「月25銭もらうのがやっとだった。月2回の休みのうち,1日に15銭,15日の休みに10銭もらった。その頃活動写真が5銭と記憶している」。前述したように打箔労働は2人の組でおこなったが,未熟な徒弟が打ちそんじると「主槌で頭をたたかれた。ものすごく痛かった」。労働時間は「朝7時から一応6時まで,しかしそのあと夜なべが10時頃まであった」というから大変な長時間労働である。聴きとりの座談に参加した人々は60~70歳台とは思えぬほど皆,年老いて痛々しかった。長時間労働と,風をきらう空気の悪い仕事場などが彼らの肉体をむしばんだのだろう。丁稚は8,9歳頃から入り,したがって箔近辺には大正期に夜間小学校があり,通学したとのことである。子ども達も全く同じような仕事についていたわけだ。食事は大変そまつだった。「お湯づけ,冷やめしに湯をかけたもので,いもが入っていれば上等だった。それにつけものが少々。夜,味噌汁が出ることがたまにあったが,のぞくと田にしが入っている,喜んですくおうとすると自分の目玉が写ったもので何も入っていなかった」。
 最後に,箔労働者の意識について次章ともかかわるのでふれておく。それは全体としてみると複雑なものなので,次のように整理してみた。まず職人気質というか保守的な側面を指摘しなければならない。「箔打ちはバクチ打ち」といわれるように,宵越しの金をもたないという旧職人的な性格の一面があった。そして仲間意識も強い。しかし一方では自己の境遇とも関係して「しいたげられた人々への同情心もあった」。隣接地区にひがしの廓があったが,そこの芸者女郎等への同情から彼女らの逃亡を手助けしたり,また身うけするものもいたということである。「今でも仕事が箔打ちだといいにくい,昔は毎日のように,新聞にバクチ,ケンカ,無銭飲食の箔打ちと出て有名だったから」と述懐する人もいる。
 ところでもう一側面では進歩的な,文化的な面もあわせもっていた。
 「2人で向いあってやる仕事だから,話はいろいろはずむ,職人の中には暇をみながら皆に新聞を読み聞かせる者もいた」。そうした会話・話題を通じて目を社会にむけたのであろう。「社会主義は当時,職人の間にはやった言葉だった。民主主義という言葉も知っていたし,仲間の1人に社会主義をあまり問題にするので警察に呼ばれたヤツがいた」。こうした話がかつての箔労働者の口から矢継早やにとび出すのである。たしかに箔労働者には全体としてこうした思想水準があり,明治・大正期において「金沢の労働運動の主要な担い手となったのは,厳密な意味では近代的な賃労働者とはいえない製箔労働者10)」という評価は妥当であろう。
 また文化的な面も同じようなことからはぐくまれていた。「仲間に川柳をひねっている者が多い,皆先輩から教わった」,「私も12―13歳の頃(大正9年頃―筆者),新聞に―8時間労働女性となえだし―という作品を投稿して載せてもらった」。
 以上はほんの一端であるが,こうした下層民衆である箔労働者の労働・生活・意識と米騒動との関係を次章で考えてみることにしたい。


1) 下出積與『加賀金沢の金箔』北国出版社 1972年 2ページ。
2) 中村静治『地方特殊産業の構造』石川新聞社 1951年 210ページ。
3) 加賀藩時代の金箔史は下出前掲書にくわしい。
4) 河野信次郎『金沢箔の沿革と現状』1966年 41ページ。
5) 金沢市役所『金沢工業沿革誌料』1905年 110ページ。
6) 同上 111ページ。
7) 河野前掲書 43ページ。
8) 中村前掲書 236―40ページ。
9) 石川県社会運動史刊行会の米騒動研究グループの企画・調査で,いずれ『石川県社会運動史』叙述の資料となるものである。
10) 『金沢市史』現代篇,(下)1969年 120ページ。

3 金沢の米騒動

 1 米騒動と地方都市
 1918(大正7)年7月下旬,富山県下からはじまった米騒動は,日本の民衆暴動の中で最大のものとなった。『米騒動の研究』(井上清・渡部徹編,全五巻,有斐閣,1959―62年)は「この全国的事件の全体の綜合的な研究」(同,第一巻「はしがき」)にふさわしい内容をわれわれに提供している。この研究の意義はここで論じるまでもないが,われわれは課題との関連から米騒動を地方都市の問題から若干考察してみることにしよう。
 米騒動は7月下旬の富山県下の騒擾がきっかけとなり,8月10日名古屋・京都の大都市騒擾からの1週間は全国的規模に発展した。17日以後都市の騒擾は鎮静化し,地方の町村の騒擾および九州などの炭鉱・鉱山の激烈な暴動となり,9月中旬に米騒動は一応終結した。参加人員は100万を上まわり,軍隊出動地点120,動員兵力92,000(松尾尊兊『民本主義の潮流』130ページ)であった。第10表は前掲『米騒動の研究』をもとに都市別・行動規模別の件数を示したものである。
第10 表米騒動の都市別・行動規模別件数
 いかに全国各市町村にあらゆる規模の騒動が展開したかを,あらためて感ずる。以下,この表での都市区分をもとに,その様相の特徴を簡単にのべる。
 まず「農村の米騒動はそれまで非常に少いように思われていた」が「案外件数は多い1)」。そのうち町村規模の小さい所では,当然その行動も弱く小人数である(B・Cが比較的多い)。運動内容としては移出米阻止,生活救済要求(富山・岡山県下),小作争議との結合(奈良県法隆寺村など),地主など資産家への襲撃といったタイプが多い。この中で騒動のきっかけとなった米の移出反対という行動は「いわば本能」で,「地域の立地条件にいちじるしく左右され」,「全国的な普遍性・切実性をもつとはいいがたい2)」ともいえるが,富山の場合のように「明治以来の慣習」というその伝統性の面を軽視することはできない。
 市町人口の規模が大きくなるにしたがって,その行動力は大きくなり(Aの増加),またその都市の性格とかかわったところの展開をみるようになる。
 人口1―5万の都市の場合,20近くの都市に騒動がおこっている。Aの30余件の中には例外的に長野・高知で警察署への投石等の行動を見受けるが,いずれも米商その他資産家を主要目標として襲撃し,8月10日―17日の最盛期に集中している点でそれは共通している。この中で尼ヶ崎のように新興都市の場合では「労働者街を中心として騒動が発生した」が,工場労働者より「前近代的労働関係のうえにたつ親方で,その主導によって日雇労働者などが蜂起3)」する事態となった。また会津若松のように「土地と結合した商業高利貸資本や徒弟的経営が濃厚4)」の都市の場合には,そうした経営に隷属した職人層が騒動の主体となり,「商業高利貸業の集中的表現とみられる米穀商5)」にその矛先がむけられた。
 次に5~20万の中都市の場合はどうか。20弱の都市で30余件の大規模な騒動が展開している。富山と佐世保の例外を除いて,そのほとんどが8月14・15日の前後に集中している。ここでは行動目標・形態はその都市化の特徴と結びつき多様なものとなっている。豊橋・和歌山・松山・福井などでは警察・憲兵分隊を襲撃するといった大都市的傾向を呈しているが,呉ではそれがより明確となり,「水兵団と衝突し,暗中市街戦の観6)」(吉河光貞『所謂米騒動事件の研究』社会問題資料叢書,覆刻版,169ページ)といった熾烈さであった。しかもその参加者層は拘引累計372名中「半数近くの158名を近代的労働者である海軍工廠と吉浦造船職工が占め7)」(山本茂『広島県社会運動史』191ページ)るという特徴的な事態となった。さらに兵士の参加もあらわれ,後14名が軍法会議に付されている。しかし呉ではその後の労働運動の高揚(1919年10月,呉労働組合結成など)と民衆運動の発展はあったものの,米騒動中に労働者の組織的行動やその指導などはなかったといわれている。
 一方,後述するように金沢のように人口は多くとも(約15万),そこにおける都市化の進展がおそく,近代工業はみられず,伝統産業の職人層が広範に残存する都市では,騒動は日雇・職人層(金沢では箔労働者)が主体となり,米商打こわしといった小都市的状況となった。
 このように,米騒動とひとくちにいっても,いくつかの類型があり,また都市化の状況ともかかわって複雑な展開を示した。本稿では,次に金沢市の場合を例にしながら,とくにテーマであるところの下層社会とその住民の行動との関係で少し分析を深めてみることにしよう。

 2 金沢米騒動の動き
 金沢の米騒動に関してその要約的なことはいま述べたが,ついでにもうひとつ米騒動の結果の被起訴者を一覧表として次に掲げておこう。
 金沢米騒動のちょうど1ヵ月後,9月11日金沢地方裁判所でこの7名が公判に付された。このうち5名が箔労働者であるが,このように騒動に多数の箔労働者が参加していたという点は,本稿の研究の直接の動機のひとつであった。なお裁判に際して金沢の箔打業者100余名が連署して嘆願書を提出している。それには箔業組合の組合長や評議員21名も加わっている。結局10月末,判決が下された8)。
 さて,ここでは金沢米騒動の様子だけを,なるべく新しく判明した事実も含めて記すことにしよう。前章3節でも引用したように米騒動,箔労働実態に関する箔労働者等からの聴取り資料もとりあげ,これまでの記録になかった点を補足する(本節・次節に限り注記のない「 」はいずれもその資料からの引用である)。
第11表 金沢米騒動の被起訴者と判決
 金沢市では8月10日頃より米価・物価の高騰にたいして,県知事等に対策を要求する民衆の動きがおこりはじめた。そして12日夜8時頃になって,市内東の卯辰山毘沙門境内にどこからともなく人が集まってきた。その時の様子を『金沢市史』は次のように書いている。
 「その人数が100人を越したと思われると,群衆の中からあらわれた亀井縄吉(高道新町)は60歳の老齢にもかかわらず,階段の中ほどに立って群衆に訴えた。『近ごろのように,米価の高騰がとどまるところを知らないため,われわれ細民は空しく餓死を待つ窮地に立たされた。だからわれわれは,米屋に廉価で販売するように嘆願したい。自分がその先頭にたつから,志を同じうする人はついてきてほしい。ただし,名古屋や京都であったような軽挙盲動は,どうか慎しんでもらいたい』。こうして一斉に卯辰山から行動を起して市中にむかったが,沿道から加わる人数が次第にふえて,約2千人の大群となった。大衆行動のほとんどみられなかった当時にあっては,2千人からの集団が市内をデモンストレーションしたことは,正に驚天動地の出来ごとであった9)」。
 これは「北陸毎日新聞」の記事をもとにして叙述したものであるが,なぜどこからともなく人が集まったのかということと亀井縄吉については後にふれる。市内に向った民衆はいくつかの集団となって米商,商店,知事官舎などに次々とおしかけていった(以下26頁の大正八年版の「金沢市街地区」を参照)。
 まず第1隊は毘沙門(地図では宇多須神社,通称びしゃもんさまと呼ばれていた。
以下地図内に筆者が推定した所在地をマークしてある。①)を北に下り山の上町の岡部医院②(「南京米をよこどりしていたのでこらしめてやった」),さらに春日町方面の「岡部の親のつくり酒屋③,その先の米問屋にも押しかけた」。第2隊は卯辰山より西に向い「東馬場,中の橋(浅野川にかかっている―筆者注)の角の山本米や④」,それから安江町浅井米商⑤,田丸町伊藤米商⑥,その向い側の小森米商をおそい,それぞれ米の廉売の約束をとりつけた。山本米商では「これで許してくれ,と店のものが米俵をいくつか投げだした。そんなこともあってまわりの見物人も群に加わり段々と人数も多くなっていった」。民衆は「殺気を帯びた声でワッショイ,ワッショイと叫んでいた」という。しかし行動はそれほどの乱暴には及ばず,「米商に人がバタバタと入ると,ものの3分から5分で引きあげていった」。
 この第2隊の目撃者の1人は田丸町伊藤米商にむかう民衆の後から「馬4,5頭が横一列にならび,道いっぱいとなって走って追っていった。憲兵のような,軍隊のような一団だった」と語っている。金沢では騒動の鎮圧に軍隊が出動したという記録は残っていない。あるいは騎馬巡査の出動だったのかもしれない。
 第2隊は途中2つの方向に分かれて大集団はもと来た道を東にもどり,下堤町鈴木商店⑦,博労町興川商店⑧に押寄せ,さらに城の脇をぬけて卯辰山南の森町県知事官舎⑨へとすすんだ。さすがにここでは数10名の警官隊に阻止され,しばらくにらみあったが解散したようである。分かれたもう1隊を第3隊とするが,下堤町から大通りをそのまま南下し,万歳,万歳と連呼しながら犀川大橋手前の古寺町佐野久太郎宅⑩を襲った。佐野は「手広く金もうけをしていたが,大地主で倉にいっぱい米を置いとったからいった」という。しかしこれも警察にさえぎられて橋を渡り,野町付近で解散した。以上はおおよそ「北陸毎日新聞」の報道にもあるが,別にもう1隊あったようだ。
 その第4隊は犀川上流の「上菊橋に集まり,川上⑪の松本米や,森米や,角谷質やに押しかけ下菊橋までいった」。犀川右岸の川上地区も箔工業地域のひとつである。
 筆者があらたに確認した集団も含めると,全部で4隊が,金沢市の中心の城をとりかこむかたちで,4つの地域にそれぞれの騒動を展開したと推測しうる。そのうち知事官舎付近を除いて,いずれも職人,中・下層民の居住地区で行動がくりひろげられている。したがって騒動がすすむにつれて,そうした地区からの参加者が増え,自然に大群となっていったのであろう。「その行動に参加した民衆は最多数の時には2千名をこえていた10)」という評価は低すぎるかもしれない。根拠は別にないが,「3千人ぐらいだった」という記憶も語られている。しかし4つの集団の合計であって,それは組織的な共同行動ではなかった。「一緒になってやるという雰囲気はなかった。あっちもやったからこっちでもという対抗心があった」という言葉は検討する必要がある。
 翌13日は新聞報道ではふたたび群衆が集まったが行動にはいたらず解散したとあり,一方裁判記録では材木町瀬川米商等を打こわしたとされ,事実を確認しにくいが少くとも前日ほどの動きにはならなかったと思われる。
 本節の冒頭に引用した『金沢市史』をもう一度みてみよう。「それにしても,これだけ多数の市民が,当局者の意志に逆ってまで生活苦を訴える直接行動に出,自分たちの力でこの苦境を突破する方法をとろうとしたことは,驚くべきことであった……しかもその行動は,最後には知事官舎にまで向かおうとした。穏やかに退散したとはいうものの,このまま不問に付したならば,どういう急転回を示すかもわからない。驚きがおさまった当局は,恐怖を覚えた11)」と述べ,次に当局の対策に筆をすすめている。われわれの関心はそれとは別なところにあるので,そちらにうつることにしよう。

 3 民衆暴動の集団化と情報伝達
 金沢の米騒動について前節でその展開状況をのべたが,それを箔労働者の行動・意識,地方都市の下層民衆といった観点からみた場合に,いくつか整理しておくべき問題があるようである。そこで,以下それらを述べながら,不十分ではあるが本稿のまとめにかえることにしよう。
 まず,箔工業労働者の特殊性とその役割についてである。金沢米騒動の8月12日以前に「箔の親方連中が町内をまわって何事か相談し合っていたようだ」,「何となく事がおこりそうな息をつめたような気配が隣近所にあった」。語る人々はいずれも当時10代から20歳前後の年齢で,こうした記憶だけでははっきりとした根拠にはならないが,箔打ちの一帯では騒動にのぞむなんらかの「組織的」な動きがあったと感じられる。何となく人が集まったわけではなかったのだ。「親方連も職人に飯を喰わせないわけにはいかなかったから」という理由もなりたつし,後の裁判所への嘆願書もそのことと関わらせて重視しておきたい。また箔労働者たちの日常的な労働,生活,意識の様子は米騒動にいつたちあがってもおかしくない状況であった。その場合,「社会主義を知っていた」という先進的分子をあまり大きくとりあげるのはどうか。それより正義漢に近い感覚で彼らは決起したと見る方が箔労働者の意識を考えた場合妥当ではないか。こうしたことから,箔労働者の一部が岡部医院に押しかけたことを,新聞記事以上に筆者は重視しておいたわけである。
 第2に騒動の中心は箔労働者をはじめとした下層民衆であったと判断するが,その際箔の同業的な関係とはやや異なったものとして,当時の金沢市内の聯区制をとりあげておく。共同行動の集団化・組織化,あるいは情報交換において,この日常的な地域単位がいろいろな面で大きな役割をもっていた。とくに地方下層民衆の場合,横山の指摘するように,互助的な生活連帯は不可欠であった。さらにやや大胆な仮説であるが,米騒動の4つの集団は大きくみるとこの聯区毎に集団となり,行動していたのではなかろうか。それぞれの集団の行動範囲・順路を追っていくとそのように推測しうる。それは聯区の町規模の編成内容を説明しなければならないが12),結論だけを言うと第1隊は第7聯区(馬場,森山,浅野校下),第2隊はこの第7聯区と第4(味噌蔵,材木校下),第5(芳斎,松ヶ枝,長土塀校下)聯区,第3隊は第5聯区が分離,第4隊は第2聯区の一部(新堅,菊川校下)といった具合である。この聯区あるいは各隊間にはさらに大きな共同行動へ団結していくということより,対抗意識の方が強かったことは前述のとおりである。3千人がひとつの集団としてデモンストレーションに及んだのではないし,そうなる可能性はそのままでは乏しかった。
 第3は,米騒動の指導の問題である。新聞記事も,またそれのみを資料として書かれた金沢米騒動は,いずれも亀井縄吉を英雄視している。しかし聴きとり対象者は全員口をそろえてそれに異をとなえた。「亀井のことを当時よくいう人はいなかった」,「いまでいえばゴロツキみたいな人」,「商売,仕事は何もせずバクチをよくやっていた」,「人格は非難される所が多かった」と評判は大変に悪い。したがって,筆者は亀井の指導を積極的に評価しない。4つの集団の行動を箔の組織や聯区の観点からみるならば,それぞれの中心的人物が自然に指導的な仕事に立ったのであろう。日常的に信用のない亀井が突然,全体を引っ張る役割を演じたとするのは少し無理がある。地方下層社会と民衆はそのようなものだったと思う。
 第4に,下層民衆の情報伝達・交換は実にいろいろな形態でおこなわれていたと想像される。その点は箔の労働の部分で説明した。又「魚の行商のお母ちゃん等から滑川の様子(最も早い米騒動)はようきいていた」。こうしたことは井戸端であっという間に広まっていたにちがいない。当時,新聞は必ずしも主要な情報源ではなかった。これらの点は今後,具体的に資料収集,研究をつみ積ねる必要がある。
 最後に,民衆暴動における伝統性の問題について述べておこう。これには2つのことがある。ひとつはその地域で何か事を多人数でおこす時にどこに集まるのか,どのように行動するのかは,日常的に一定のきまり,経験があり,これは伝統によって培われたものだったのだろう。米やへの押しかけ方をみても,短時間に(警察などとめんどうをおこさぬ間に)何の要求をかちとるのか,なかなか慣れていたようである。さらに一例を加えれば,毘沙門に集まることは当時では周知のことだった。ちなみに金沢安政5年一揆(「米騒動」)も毘沙門はひとつの拠点となっている。他はもう少し広い意味で,北陸地方には米騒動の伝統があった。とくに富山は明治以来何回もくりかえされて慣習化しており,このことは金沢の民衆もよく承知していたことである。こうした中で下層民衆は米騒動をおこす際,やむにやまれぬ生活苦からの行動であるとうけとめ,大それた事,あるいはまったく未知の状態に踏み込んでいくといった悲愴感は持っていなかったであろう。したがって同調者も自然にふくらんでいったのである。

1) 井上清・渡部徹『米騒動の研究』全5巻 有斐閣,1959―62年,第1巻,107ページ。
2) 同上,第5巻,18・20ページ。
3) 『尼ヶ崎市史』第3巻,483ページ。
4) 庄司吉之助『米騒動の研究』未来社,1957年,152ページ。
5) 同上,154ページ。
6) 吉河光貞『所謂米騒動事件の研究』169ページ。
7) 山本茂『広島県社会運動史』191ページ。
8) 前掲井上・渡部編『米騒動の研究』第3巻,474ページ。なお第3巻は石川県の米騒動をとりあげ,当時の新聞記事によってその様子を伝えている。
9) 『金沢市史』現代篇(上),1969年,145ページ。
10) 前掲井上・渡部編『米騒動の研究』第3巻,469ページ。
11) 前掲『金沢市史』(上),147ページ。
12) 同上(下),40ページ。