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灌漑システムと地域農業

Author: 玉城哲
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次

1 序説・・・・・・・・・・2
2 水配分をめぐる地域対抗と秩序・・・・・・・・・・4
3 灌漑システムの近代化・・・・・・・・・・13
4 農業経営変化のきざし・・・・・・・・・・20
む す び・・・・・・・・・・22


1.序 説

 研究の対象地域は,長野県の松本盆地(中信平ともよばれる)における梓川の扇状地である。梓川は,日本における大河川の1つである信濃川の上流部の1支川に属し,いわゆる北アルプスから流出する急流河川である。松本盆地は,この梓川と奈良井川,高瀬川などが合流する地域に形成された典型的な複合扇状地である。梓川扇状地の両岸には河岸段丘が発達し,調査地域である右岸ではとくに山添いにこの顕著な発達がみられる。
 この地域を研究対象にえらんだ理由は,次のとおりである。
 (1) 日本の農業地域を代表するものは水田であるが,この地域は河岸段丘の上段に畑作地帯の発達をみるとともに,またひろく水田地帯を形成している。
 (2) 日本の水田農業における灌漑システムを代表するものは,河川に水源を求める水路灌漑システムである。この地域には,この水路灌漑システムがよく発達している。
 (3) 日本の水路灌漑システムの特徴は,地形勾配の大きい扇状地における重力灌漑(自然流下)方式であるが,この地域の灌漑システムもすべてそうである。
 (4) 日本の灌漑システムの大部分は,近代以前に創設され,古い歴史をもっているが,この地域の灌漑システムの多くも,中世ないし近世に創設されたものとみられ,歴史の遺産を負っている点で例外ではない。
 (5) この地域においては,近世に入ってから,灌漑システムの近代化のための工事がいくつか実施され,これによって地域農業の変化がみられた。
 もちろん,農業の地域特性という観点からみれば,この地域の農業とその発達・変容の歴史も,他の農業諸地域と異なる特性をそなえている。しかし,またその特性の中に日本農業の近代化過程の一般的性格を発見することもけっして不可能ではない。この報告では,この地域の農業発展の具体的事実をできるだけ忠実に分析するとともに,日本農業における灌漑システムの近代化の意義の一般的役割を,その具体性の中からどのように取り出して示すかの努力を試みることにした。
 この点に関して,理解を促すために,とくに前もって念頭において欲しい点がいくつかある。それは,日本の農業と灌漑システムについて,普遍的にみられる特色である。
 日本農業は,アジアの最東端に位置するという点で,非アジア世界の農業と著しく異なった歴史と構造をもっている。それと同時に,アジアの他の地域の農業,とりわけ大陸部の農業とくらべても,日本の農業はそれらと区別されるべき多くの特質を備えているように思われる。これを念頭におくことなしに,これから述べる具体的な地域農業の分析を十分に理解することは困難であるように思われる。さしあたり,最少限必要な予備的認識を指摘すれば,以下のとおりである。
 (1) 日本農業は,水田稲作と畑作との共存ないし結合の上に成立している。その共存と結合の様相は,地域によって著しく異なっているが,それを規定する条件の重要な1つは,水の賦存状態と,これを利用するための灌漑システムの発達の水準である。
 (2) 水田農業に関して言えば,すでに近世期において,極度の高密度開発が達成されていたとみられる。戦国期から江戸時代初期にかけては,大規模な新田開発が進行した時期であったが,この新田開発の一応の終期である元祿・享保期(1688~1735)には,開発はむしろ過度に進んでいたと言ってさしつかえない。過度という意味は,利用できる河川の水量(満水流量)に対して,これを利用する水田面積が過大になったということである。このため,各地に水論(水利紛争)が発生し,その結果,水の配分秩序を作り出さざるをえなかった。いわゆる用水慣行である。用水慣行は,稀少資源化した水を配分するための固定的なルールであり,1つの地域間対抗の力関係の均衡を表現するものであった。
 (3) 近代の日本農業は,近代以前に創設された灌漑システムと,これに依存する水田を継承した。灌漑システムは,その基本的性格が,土地に密着した土木的施設からなっており,簡単にスクラップ化することのできないものである。そこで,日本の近代農業は,これらの前近代の灌漑システムの巨大なストックを受けつぎ,それを前提とした技術と社会関係を維持せざるをえなかった。日本の農業に,農耕社会の歴史的伝統性が強く維持される最大の理由がこの点にあったと理解することができる。現代においても,このような歴史的遺産としてのストックである灌漑システムの重要な役割が失われたわけではない。
 (4) 灌漑システムの形成と,水資源の稀少化,ならびに用水慣行の成立は,緻密な慣習法的社会を作り出した。用水慣行の基本的性格は,水路における分水施設をめぐる上流側地域と下流側地域の水の配分をめぐる対立であり,またそれは度々村と村との対立であった。この水配分の秩序は,市場社会における資源配分の原理と全く異なっており,村と村,地域と地域の力関係の均衡を意味するものであった。そこでこの秩序は簡単に変更することのできない固定的性格をもち,強固な慣習法的な社会的秩序を形成するに至った。日本の近代農村社会は,このような慣習法的秩序を,灌漑システムとともに伝統として継承したのである。

 以上の諸点は,近代日本の農村社会が,西欧社会と著しく異なる様相をもたざるをえなかった歴史的前提である。そして,同時にこのことは,日本の農業と農村社会が,アジアの他の地域とも大きな相違をもっていたことを示すものであるように思われる。東南アジアの島嶼部においては,この日本の現実に近似的な情況の存在を認めることができるであろうが,大陸部においては近似性を発見することは極めて困難だと言わなければならない。農業は,自然の地域的特性に依存するものであると同時に,地域の自然を内在化することによって形成された歴史を前提にしなければならないのである。日本列島は,やはり固有の自然条件をもつと同時に,また個性的な農業発展の歴史を持ったのである。

2 水配分をめぐる地域対抗と秩序

 梓川水系の農業開発は,きわめて古い時代に始まったようである。松本盆地の一部に条利制水田の遺構があることからみても,すでに古代から人々が住みつき,少くとも部分的には稲作農業を始めていたとみることができる。しかし,松本盆地において,本格的に水田の開発が進んだのは,中世以降,それも室町期後期以後であったと判断することができる。梓川は急流河川であり,その流路を安定させることは容易ではなかったと考えられる。河川の本格的な制御と,大規模な灌漑施設の創設は,少くとも中世以降に始まったものと判断される。
 梓川右岸における主要な灌漑システムは,上流から順に言えば,黒川堰,波多堰,和田堰,新村堰,榑木堰および島内堰である。これらの中和田堰以下は,現在1つの取入口(合口頭首工)に統合されているが,かつてはそれぞれ独立に梓川から取水する灌漑システムであった(ただし,黒川堰は唯一の例外として,梓川の本流でなく,その支川である黒川から取水していた)。また開設の時代も異なっており,その年代は不詳であるが,和田堰が最も古く,波田堰が最も新しい。波田堰の竣工は,明治15年(1882)のことである(第1図参照)。
 今主要な堰の簡単な沿革を述べれば以下の通りである。

 1 和 田 堰
 和田堰は梓川の代表的用水路で,この水系をめぐる農業用本秩序の中核をなす重要な用水路である。取水個所は,梓川扇状地の扇頂部にあたる波多村大字上赤松であった。開削時期については明らかでないが,地元和田村における伝承によると,治承年間(1177~80)信濃権守仲原兼遠が,その子今井四郎兼平に命じて開削せしめたものであるとされている。しかし,この伝承は,やや規模の大きい農業用水の開発時期としてはあまりにも古く,多分に誇張が含まれていると考えざるをえない。他の諸用水に対する特権的な地位をもっていた和田堰としては,その創設の歴史の古さを誇張することによって,自己の地位を補強しようとした結果ではないだろうか。もっとも,徳川期に入ってからの開削ならば,その開削に関する文書が残っている場合が多いから,少くとも近世以前の創設の歴史をもつものであることはたしかであろう。
 この用水路の全体は,最初から計画的に一挙に作られたものとは思われない。少くとも上流部の幹線水路は,梓川本流に沿い,地形勾配にしたがって流下するものであり,梓川の旧水筋(乱流河道)を利用したもののように思われる。もっとも,下流部についてみると,波多村大字三溝の付近で幹線水路は3本に分派するが,そのうち2本(和田堰,神林川)の水路は等高線沿いに南下しており,かなり人工的性格をもつ水路のようにみうけられる。
第1図 梓川水系における主要な農業用水系統
したがって,現在の和田堰の水路体系は,一時に完成されたものでなく,長時間のあいだに,次第に加工,整形され,完成されたものと考えざるをえない。おそらく,現在の水路系統の原型が形を整えるにいたったのは,やはり水田開発の進行の最も進んだ近世期だったのではあるまいか。
 和田堰の一つの特徴は,幹線水路に多くの「間地」を備えていることである。間地とは悪水の放水口であり,一種の余水吐である。取水地点の赤松から分岐点の三溝にいたる間に設けられた間地は5個を数える。このことは何を意味するであろうか。
 第1に考えられることは,和田堰にはしばしば大量の余水排除を必要とするような水の流下がみられたということである。余分の水が大量に流下することなしに,5カ所の余水吐の設置の必要は全く生じないはずである。とするならば,平常の取水量をこえる大量の水が,ときに和田堰の幹線水路に流入するという事態が発生したことになる。この異常な水の流入は,梓川の取水口からのものと,水路の途中で集水されるものとの2つの形態が考えられるが,和田堰の上流部については,この後者を想定することは困難である。そこで,この大量の余水の発生は,梓川からの流入以外には考えられないこととなるのである。この梓川からの高水の流入は,赤松の取水地点が非常に水の流入しやすいすぐれた地点にあったことと同時に,和田堰の取水堰の構造が簡単で,水門等により高水の流入を防ぐことができなかったことを表現するものであろう。このようなすぐれた取水地点をもつことが,梓川における取水慣行をめぐって,和田堰の決定的優越性を維持しうる一つの物的条件をなしていたように思われる。
 正保2年(1655)の和田堰の灌漑反別は,589町1反2畝26歩(うち和田村315町2畝3歩,神林村217町7反6畝,新村56町3反4畝23歩)で,このほかに,上流部波多村地内で無償で取水するもの約100町歩があったという。石高では,合計2,492石のうち和田村1,371石6斗,神林村911石,新村309石4斗であった。
 取水堰は,牛枠類を入れて梓川を締切り導水するもので,わが国の急流河川にしばしば見出される型式のものであった。これが近世から,後に述べるように合口事業のおこなわれる昭和期まで,基本的な取水施設として維持されてきたのである。このような堰は,いうまでもなく,大きな高水の流下によって流失してしまうものであり,しばしば複旧の必要を伴うものであった。この用水引入れの工事については,4月1日から9月30日までを「夏水」と称し,用水年番に請負わせたものといわれている(ただし,和田地区の農民からの聞き取りによると,工事は波多村の村民が全く無償でこれを行い,和田村側はこれを監督するのみであったという。これは,波多村地内の和田堰水路から,波多村民が無償で灌漑を行う権利の代償であったと説明されているが,後に述べる和田村が天領であったことと無関係ではないようである)。また,この用水引込みに用いる牛枠類の組立には木材が必要であり,このため古くから和田堰組合は山林を経営し,非常のさいの用材の備えを怠らず,現在に至っている。

 2 新 村 堰
 和田堰と並んで,梓川右岸に取水する用水路であった。取水口は波田村字淵東上河原で,和田堰取入口のやや下流である。この灌漑地域は,新村と波多村の一部で,約300町歩であった。和田堰とちがって,梓川ぞいの細長い地域を灌漑するものであり,水路も梓川に並行して流下し,やはり梓川の旧川筋の一つを利用したものかと思われる。
 創設の時代は明らかではないが,和田堰に関する記載の中に正保2年(1645)に新村堰を創設したとあり,近世前期の開削であることは間違いないであろう。現存の梓川本流に最も接近した地域を受益地域とすることからも,治水事業の進展によってようやく川筋が安定するにいたった近世前半期の新田開発にともなう用水の建設とみることが妥当であるように思われる。
 和田堰につぐ上流部で取水していることからみて,新村堰の場合にも,比較的水にめぐまれ,はなはだしい用水不足に苦しむことはなかったようである。旱魃にさいして,下流の諸堰から分水を求めて来た時に水を分けていたといわれるから,やはり上流部の恩恵に浴していたようにみうけられる。また,下流部では榑木堰の水路と接続し,余水を同堰に流下せしめる余裕をもっていたようである。
 3 榑 木 堰
 通常榑木川とよばれているように,本来は自然河川であったことは明瞭である。すなわち,梓川はかつて横道(松本市新村地区)の付近から東方に流下し,宮淵の付近で奈良井川と合流していたものと言われ,現在の榑木北川が梓川の本流だったのである。これが現在の梓川筋に流路をかえたのは,近世に入ってから松本藩がこれをつけかえたものである。このつけかえ工事によって榑木川は一支流となり,次第に川幅をせばめられてついに用水路になったものという。この榑木北川とちがって,榑木南川は人工的に開削された水路である。松本城主は,この榑木川を木材の流送に用いたとされ,このため用水の引入れにも特権を与えられていたようである。
 近世において,これらの灌漑システムの間に,用水慣行が形成された。梓川は,その形成する扇状地の扇頂部(波多村付近)において著しく伏流をはじめるのであるが,このため渇水になるとただちに用水の不足をきたしたのである。近世期に,左右両岸の諸灌漑システムは,しばしば激しい紛争をくり返しており,こり紛争の過程で慣行を形成することになったものと考えられる。特に激しい紛争が,文政期(1818~29),弘化期(1844~47)に数回発生している。
 ところで,この和田堰の絶対的優越性を根幹として,どのような水利秩序が具体的に形成されていたであろうか。
 梓川を水源とする農業用水は,すでに述べたように,明治期に入って創設された波多堰を除き,11個の堰であった。このうち,和田堰,立田堰,新村堰,温堰,横沢堰,庄野堰の六堰を上川と称し,榑木堰,島堰,中萱,真鳥羽堰,高松堰の5堰を下川と称していたという。上川6堰は常に優先的に取水できるのに反し,下川5堰は,梓川の伏流の甚しくなる位置にあるという事情もあって,十分に取水できないことも度々であった。このため,松本藩の奉行所に「融通方」と称する役を置き,渇水時の配水調整にあたらせたという。しかし,すでに述べたように,和田村は幕府直轄領であったため,この融通方が干渉することができず,和田堰の優越のみはひとり維持されたもののようである。この配水調整は,つぎのような形式のものであった。
 (1) 下川五堰の分水(上流堰から順次下流に取入水量を割譲)
 (2) 下川五堰の第2回分水
 (3) 上川六堰が下川五堰に分水
 (4) 上川六堰が下川五堰に第2回分水
 (5) 下川五堰の番水
 (6) 上川六堰の番水
 このうち,下川五堰の分水は順調に行われたらしいが,上川六堰からの分水,あるいは番水は,下川からの要求によって行うもので,上川側は下川の要求に応ずるとは限らなかったようである。とりわけ,和田堰は頑強にその優越性を主張して,分水,番水の要求に応ぜず,このためはなはだしい渇水時には,下流のすべての堰の一致した攻撃の対象とされ,紛争が生ずるという事態もみられたようである。
 たとえば,文政2年(1821)左岸下流の永室村ほか42村が,和田堰関係の荒井村ほか14村を相手どって起した訴訟は,きわめて大がかりなものであった。事件は,同年著しい渇水のため,各堰は分水するだけでなく「大川落し」と称する一昼夜宛の番水をも行って水の融通をしていたのに,和田堰の「相手村々は梓川を十分〆切番人付置字和田堰へ引水入訴方村へは一向水掛り無之不法の働きに付不得止事右番人共へ難渉の趣掛合反候得共取,不申基人足並 多共多勢堰口へ為相結可及不法様子に付無益方和田堰井筋流末村々迄見届候処多分能余水を引取旱損相成村々へ水取せ剰筑摩郡二子村へ新堰堀立させ水引取らせ勝手儘の取計」を行ったというものである。そして和田堰の村々にも,渇水の際には,石高に応じ分水番水を行わせてくれというのが訴訟の眼目であった。
 これに対する和田堰側からの反論によると,和田堰の地域は地盤が高く,水の引入に難渋して,未流部ではしばしば用水不足に苦しんでいるし,そもそも堰の番人に下流の村々の村民が乱暴を働いたのが悪いので,当方には何ら不法なことはないという趣旨のものであった。この争論は,結局和田堰の幹線水路に設けられている柳間地の伏木(量水標の如きものか)を基準にして,平水をこの伏木上端から1尺1寸とし,梓川の水量が平水の7分となった場合は1尺1寸からさらに3寸水位を下げ,梓川流量6分となれば5寸水位を下げるように,和田堰の取水を減ずるという協定によって妥結した。このように,取入口の施設によって取水を規制するのでなく,水路に入ってから設けられている取水堰で水位を計り,この水位によって取水量を規制しようという方法は,近世期においては比較的稀な例かと思われる。しかし,このような慣行がどのようにして成立したかは明らかでない。
 このような妥協にも拘らず,これは根本的解決ではなかったようで,弘化2年(1845)再びはげしい争論が起った。この争論は,やはり下流43村が,和田堰諸村を相手どって訴え出たもので,容易に解決せず,ついに江戸の寺社奉行脇坂淡路守のもとまで出訴するさわぎとなった。この争論は,結局,次のような諸項を協定することにより和解し,弘化4年8月解決した。
 (1) 和田堰の柳間地の堰底の均木を固定し,堰浚いを厳密に行うこと
 (2) 梓川の渇水の際,和田堰の取水制限をかけ合う際は,双方の村役人が梓川流上に立合って渇水の程度を見定め,取水規制は文政年間の議定のとおり行う
 (3) 大川落し(番水)の際も同様とする
 (4) 渇水時の相方の立合待合場所は柳間地とし,談合は,その前日の朝五ツ通知し,翌朝五ツ出合うこと
 (5) 和田堰の数ケ所の間地(余水吐)は,十分に手当して,いささかも洩れ水がないようにすること
 このような争論の発生は,協定にも拘らず和田堰が分水,番水に応ぜず優先取水の権利を行使したために発生したものであろう。争論はこれでおわらず,明治五年にも発生しているので,和田堰の横暴はその後も続いたものとみられる。このような梓川水系における水利秩序は,完全に固定したものではないが,和田堰の一方的優位性を根幹として,近世的性格のまま,明治以降も維持されたのである。
 最上流部の波多堰の開発は,このような梓川水系の水利秩序に新しい要素を加えた。波田村は,その一部が梓川沿いの低地に属し,古くから水田が存在していたが,大部分の地域は河岸段丘の上に位置しており,水田開発が行われないまま,畑作地帯をなしていたのである。そこで,ここに梓川から用水を導き開田することが,波多村民の悲願であった。幕藩時代の後期に,そのような灌漑システムの新規の計画がたびたび作られたが,下流側の諸堰の同意が得られず実現しなかった。下流の灌漑システムとしては,自分の取入口より上流で新しく取水されることに強力に反対したのであり,また,その主張によって新しい用水の開発を阻止するだけの事実上の慣習法的用水権が成立していたのである。
 明治維新の訪れが,この波多村の永年の願望の実現に道をひらいた。徳川幕府の消滅が,天領の権威を一時的にせよ無力なものとしたのである。松本藩(後に筑摩県,長野県となる)は,波多村の指導者,波多腰六左(藩政期の庄屋)の願出をいれ,ようやく新堰の開削を許可することになったのである。明治元年のことであった。この場合の下流側諸堰の同意の条件は,灌漑期間中,下流側に用水不足が生じた場合は,新堰の取入口を閉鎖し,取水を一切停止するというものであった。明治15年(1882)完成し,翌16年(1883),波多腰六左の個人的経営から,波多村の管理に移された波多堰は,この条件に基づいてしばしば水門閉鎖に苦しまなければならなかった。
 下流側の諸堰にとって,波多堰の出現は,共通の敵対目標が出現したことを意味していた。「下川」が用水不足を感ずると,まず「上川」にその旨を申し入れる。「上川」代表は,その実状を検分し,かつ梓川の和田堰取入口付近に上川・下川代表が集まって流況をたしかめ,ついで波多堰取入口におもむき,波田堰代表者立会いのうえで水門を閉鎖し,施鍵するという方法がとられた。「上川」としては,「下川」からの番水の要求を波多堰の責任に転稼することができて好都合であったということができるし,また「上川」を代表する和田堰は「下川」と「上川」との対立を解消して,「上川」「下川」全体の団結を作り出し,その頂点に位置することができたのである。このため,波多堰と和田堰の対立は深刻なものとなり,しばしば紛争を起こし,訴訟事件にまで発展したこともあった。
 このような不利な条件のもとで,波多堰はその約250ヘクタールの水田に厳格な配水管理を行わなければならなかった。波多村は村民から8人の水配人を選定し,水路から水田への水配いっさいの作業を専任させ,各耕作者が勝手に水路から水を引くことを厳禁したのである。このような方式は,近畿地方の溜池灌漑システムにおいては度々みられたものであるが,水路灌漑システムにおいては比較的稀な事例である。農民たちは,有利な配水をうけようとして水配人に贈りものをするという慣習が生れた。たとえば,自分の水口に酒の一升ビンを埋めておくという方法である。村は,配水料として1反当り一定量の籾を耕作者から徴収し,これを現物で水配人に支給した。この波多堰の水配人制度は現在も続けられているが,昭和44年(1969)から水配料は現金に変更された。
 波多堰における特異な慣習をもう一つ指摘するならば,土地所有権と別個の「水権」が発生したことである。これは,開発の最終期に波多腰六左の個人事業とし,通水によって開田できた水田の地主から「加入金」を徴するという方式をとり,波多村がこれをひきついだことに原因があったものとみられる。そこで,この権利の売買が発生し,波多村会(昭和26年以降は土地改良区)の許可のもとに水権の移転がときにみられた。このような慣行は,香川県に広くみられた「水ぶに」慣行(やはり土地所有権ときりはなされた水権の一種)ときわめて類似した興味ふかい例である。
 このように,波多堰の経営は,水利権の苛酷さのゆえに,きわめて独特のものとなった。しかし、波多堰における用水統制の型式,さらに梓川水系における慣習法的な水利秩序は,この地域独自の形態をもっているにしても,日本における例外だとはけっしていえない。

3 灌漑システムの近代化

 梓川ははなはだしい急流河川である。奈良井川との合流地点にいたるまで,河原は玉石と転石によって埋められているほどである。したがって,20世紀にいたるまで,これを横断的に締切る恒久的な頭首工を作ることは不可能であった。幕藩時代から昭和期にいたるまで,梓川水系の諸堰は,近世期において作られた取水施設の形式を踏襲してきた。それは,牛枠を梓川の河原にふせこみ,河原を掘りあげて導水路を作って取水するという方式であった。これは,洪水時に玉石などが流水,河川を横断的に締切る施設は,簡単に破壊されてしまうからである。そこで,取水施設はむしろ頑強なものをつくるより,洪水によってすぐに破壊されるけれども,また直ちに再建できるものにしておいた方が得策だったのである。
 このような例は,けっして梓川水系だけに限られていたわけではない。日本の河川の大部分は急流河川であるが,その中でも著しい急流河川の場合には,梓川水系における用水権とほとんど同様の形態がみられた。たとえば,利根川の支流,鬼怒川水系の場合にも,昭和40年代の前半まで,主要な灌漑システムの取水施設は,すべて堤防にもうけられた水門と,これに導水するための河原の導水路,およびこれを保護するための牛枠類にすぎなかった。
 このような状態の中で,和田堰だけは比較的堅固な施設をそなえ,比較的安定した取水条件を確保することができたようである。すなわち,和田堰の取水施設は,波多村の赤松地先において梓川を横断的に締切っていたとされているから,他の諸堰と大部条件が違っていたと考えなければならない。和田堰の取水地点は,梓川扇状地の河道のもっとも安定した扇頂部付近にあり,横断的に締切る取水堰の建設が可能であったとみることができる。この点でも,和田堰は水の獲得の点で,梓川水系の中で最も恵まれた条件のもとにあったということができる。
 梓川水系の灌漑システムを本格的に近代化しようとする試みは,大正15年(1926)に着工し,昭和5年(1930)に完成した長野県営梓川農業水利改良事業であった。この事業は,大正12年(1923),政府が「用排水改良事業補助要綱」を定め,受益水田面積500町歩以上の灌漑・排水施設につき,府県営で改良事業を実施するものに対して事業費の50%に国庫補助金を交付することとしたという,新しい政策環境の中で成立したものである。この計画は,農商務省,長野県庁の行政主導によって立案されたが,これにただちに賛意を示したのは「下川」の諸堰であった。これに対し,「上川」側,とくに和田堰は,事業に対して消極的であり,当初は反対の意向さえ表明した。和田堰は,取水に際して最も有利な立場にあり,従来渇水時といえども大きな支障を感じていなかったからである。しかし,行政側と他の諸堰の説得の結果,和田堰も事業に参加することになった。
 事業の最大の眼目は,合口(取水口の統合)であった。合口頭首工は,旧和田堰取入口の近く,波多村赤松地先において,梓川を横断するコンクリート堰堤と水門を建設するものであった。また,梓川の左右両岸に,各堰の水路に連結する幹線水路が設けられた。
 これらの施設は,在来の工法でなく,明治期以降,日本が西欧から学んだ土木工学的手法が用いられた。在来の技術では,急流河川である梓川を横断的に締切る頭首工は作られなかったのである。
 このようにして,梓川農業水利事業は成立し,合口が完成した。合口は,当然梓川における取水秩序に大きな影響を与えるものであった。というのは,独立に取水していた10個の用水が,合同で1個の頭首工によって取水することになったわけであるから,梓川における水配分の対立関係は,一応,表面上は解消することとなるからである。これによって,梓川水系の水配分秩序=慣行は姿を消すことになったのである。
 だが,このことは,梓川における水配分秩序が完全に合理的なものになったことを意味しない。慣行的秩序は,むしろ合口にともなう新しい組織の内部秩序に転化して存続したのである。もちろん,この存続は,従来の姿のままで維持されたことを意味するものでなく,変容され,かえって固定化されて存続するのである。
 その第1の内容は,用水配分量の確定と固定化であった。すでに述べたように,左右両岸の分水比率は,右岸54.5%,左岸45.5%であったが,これは必ずしも必要量に応じた分水率とは言いがたいものであった。すなわち,用水分配の基本方針は「各支線ノ支部地区ニ対シテハ従来ノ儘トシ漸次上流部用水ノ余水ハ下流部ニ於テ利用シ得ルモノト」したのである。各堰の分水量をみてわかるとおり(第1表参照),常時用水量はそれぞれの堰の灌漑面積に比例するものではなく,かなりはなはだしい不均衡がみられるのである。たとえば,用水量1m3/sあたりの灌漑面積をみると,和田堰138町,新村堰202町,榑木堰121町,島内堰151町,立田堰200町,温堰193町,横沢堰205町,庄野堰221町,中萱堰97町となる。この中,真鳥羽堰の場合は,208町の灌漑面積のほかに勘左衛内堰の地域を一部ふくめて用水量を決定したようであるから,やや特殊である。そうすると,和田堰,榑木堰が相対的にもっとも豊富な用水を得ることとなり,これに対し新村堰,立田堰,横沢堰,庄野堰は,その60%ぐらいの用水しかえられなかったということになるのである。もちろん,水田用水量は決して完全な均等なものではなく,土壤・地形条件によって異なり,また水路ロスなどの施設要因によっても差異が生ずる。であるから,以上の分水量の不均衡も,意外に用水配分の不均衡というわけにゆかないかもしれないが,この地域にそれほど大きな単位要水量の差異があるとは考えられない。また計画の決定にあたっては,水田の単位要水量の測定からのつみ上げによって各堰の分水量を決定したものではなく,むしろ従来の取水量の実績を参考にしたもののようで,以上の不均衡は現実のものと考えざるをえない。
第1表 梓川合口にともなう各堰の分水量
第2図 梓 川 用 水 水 系
 以上のように新しい分水比率の決定と固定化は,結局のところ,合理性のある客観的規準によるものとはいえない。むしろ慣行による力関係が,この分水比率に反映されたものであろう。最後まで事業の成立に反対した和田堰が,結局事業に参加する過程で,このような不均衡な水配分を承認せしめることに成功したのである。すなわち,梓川における慣行的水配分秩序は,けっして合理的に解消されたわけでなく,合口による配分率として内部的に固定化されたにすぎないのである。外部的対立が姿を消しただけで,合口が取水秩序を合理化し,解消しうるものとはいえないことを確認しなければならないだろう。
 第2の内容は,組織と費用賦課における慣行的秩序の内部化,存続である。
 すなわち,合口事業の成立によって,梓川右岸水利組合連合会,同左岸連合会が昭和6年度に設立されたのであるが,旧各堰の組合の独立性は強く維持されたのである。さらに戦後,土地改良区の設立,各堰普通水利組合の解散にも拘らず,この各堰の自立性はなお存続しているのである。これは,事実上の各堰別独立会計の存続と,費用の不均等賦課に示されている。梓川土地改良区における右岸の地区区分と費用負担率は,次の通りである。
 第1区(崩岩間地から和田堰分岐点まで)
 イ) 和田堰-和田,神林の全部と新村の一部。負担率は,地積割0.311264,水量割 0.077816
 ロ) 新村堰-新村の一部。負担率は,地積割0.104568,水量割0.026142
 ハ) 榑木堰-島立地域の全部。負担率は,地積割0.178136,水量割0.044554
 ニ) 島内堰-島内の一部。負担率は,地積割0.206032,水量割0.051508
 第2区(和田堰から新村堰分岐点まで)
 イ) 新村堰-新村の一部。負担率は地積割0.170408,水量割0.042602
 ロ) 榑木堰-島立地域内の全部。負担率は,地積割0.291872,水量割0.072968
 ハ) 島内堰-島内の全部。負担率は,地積割0.33772,水量割0.08443
 第3区(新村堰から榑木堰分岐点まで)
 イ) 榑木堰-島立の全部。負担率は,地積割0.370936,水量割0.092734
 ロ) 島内堰-島内の一部。負担率は,地積割0.429064,水量割0.107266
 第4区(榑木堰から島内堰分岐点まで)
 イ) 島内堰-島内の全部。負担率は,予算金額の1,0000。
 以上の負担率は,幹線水路,分水施設などについて,4工区に分かち,それぞれの維持管理,工事費の負担率を別に定めたものである。これによると,幹線水路上流部から分岐する和田堰は,その分岐点までについてのみ負担すればよく,これに反して最下流部に属する島内堰は,幹線水路のすべての工区にわたっての負担をしなければならないのである。そこで,上流と下流との間には,著しい負担の不均等が存在することとなったのである。これは,全施設を一体のものと考えず,各堰がそれぞれ利用するかぎりで幹線の費用負担をしようという考えによるもので,最下流部の負担が過大なものとならざるをえないのである。すなわち,上流優位という慣行的秩序を,内部的な費用負担に反映せしめたものということができるのであろう。
 この合口事業に波多堰は加わらなかった。これは,波多堰の灌漑地域の標高が,新頭首工の地点より高く,送水が不可能たったからである。波多堰の取水の改善は,昭和12年(1937)にいたり,中央電気株式会社が,梓川に水力発電所の建設をすすめるに当り実現することとなった。同発電所は,その取水堤を波多堰取水口付近に設けることとしたため,これを機会に波多堰はこの発電用水の沈砂池から分水を受けることとしたのである。これによって,梓川普通水利組合(合口に参加した諸堰の合体によって成立した組織)と波多村との間に協定がかわされ,波多堰は,渇水時の水門閉鎖という苦しみから逃れることができた。協定の主要な内容は,荒塊[あらくれ]時(本田すき起し代掻)最大取水量77個(1個は1立方尺/秒,77個は率よそ2.1m3/s)とすること,梓川の水流が減った時には,これに応じて波多堰は出入水量を減少し,番水を実施することなどであった。しかし沈砂池に設けられた分水口は,発電所側にくらべて波多堰側が不利な構造にされてしまった。
 この梓川水系全体の水利条件も全面的に改善する構想があらわれた。昭和30年代(1955~65)に構想が作られ,調査計画された国営中信平農業水利事業である。この事業は,東京電力株式会社が,梓川水系に,奈川渡[ながわど],水殿[みどの],稲核[いねこき]の3ダムを建設し,水力発電の計画をもったことに着目し,梓川の流況の改善を予想して計画されたものであった。これによって利益をうける地域は,梓川の左右両岸の約1万ヘクタールであり,既存の水田の用水確保と,約4千ヘクタールにわたる畑地灌漑の実現を目標とするものであった。
 取水の方式は,従来の梓川頭首工の増強と,ダム群の新設にともなう新竜[たつ]島発電所調圧水槽から取水する施設の新設によるもので,最大取水量は合計55.35m3/sとされた。また幹線用水路48,234mの新設と,21,705mの改修も実施されることになった。事業は昭和40年(1965)開始され,同53年(1978)完了した。総事業費は130億円であった。
 これに付帯して,長野県営灌漑排水事業中信平地区も計画され,国営事業が担当しない支線用水路,排水路などの新設・改修を行うことになった。事業は現在もなお実施中である。
 これらの事業によって,梓川水系における灌漑システムは全面的に統合され,一元的に運営されることになった。これは中信平土地改良区連合の成立である。
第3図 中信平国営農業水利事業による用水系統図
これは梓川士地改良区,中信平右岸土地改良区,中信平左岸土地改良区,これに波多堰土地改良区が参加する連合体であり,各土地改良区にかかわる共用施設を維持管理する団体であった。
 しかし,それにも拘らず,旧堰別の地域別独自性が全く失われてしまったわけではない。たとえば,梓川土地改良区についてみると,1土地改良区に統合されているにも拘らず,旧堰別の計理が今尚存在し,10アール当りの費用負担も堰系統別に違っているというのが実情である。また,支線水路への分水については,徳川幕藩期以来の慣行がかたく守られている例もみられる。これは,慣習法的秩序がいかに根強いものであるかを示すとともに,また,圃場面における土地利用,水利用条件がまだ十分変革されていないことを反映している。

4 農業経営変化のきざし

 この地域の農業は,日本でも代表的な労働集約型農業地域の一つであった。高峻な山岳に囲まれていたために,外延的な農業の拡大は早い時期に限界に達し,内延的な発展すなわち集約化の道を歩まなければならなかったのである。
 第2次大戦前における代表的な農業部門は水稲作と養蚕であった。長野県は,もともと群馬県と山梨県とならんで,最も代表的な養蚕地であり,幕末の開港以後,そのヒンターランドの一つとして,輸出商品である生糸の生産とその原料を供給する養蚕業の発展をみた地域だったのである。中信平においても,河岸段丘,山添い地域などの畑地帯には広く桑園が作られていた。しかし,第2次世界大戦中,生糸輸出の停止と,食糧増産の必要から桑園が激減し,養蚕も衰退してしまった。
 第2次大戦後,これら畑作地帯には,果樹(リンゴが主体)と多様な野菜作,一部にタバコなどが次第に定着した。とくに,山形村,波田村など右岸河岸段丘上の畑作地帯では多様な畑作物が導入され,とくに山形村は,全国で最も作付作目の多い村といわれるほどであった。
 水稲作についてみると,この地域は10アール当り収量の比較的高い所である。それは昼夜の温度格差が大きく,澱粉蓄積の効率が高い点に一因がある。また1960年代における化学肥料,農薬の大量使用も,収量の高水準安定化をもたらす重要な原因であった。収量の水準は,おおむね10アール当り600キログラム(玄米)である。
 しかし,それにも拘らず,稲作生産には大きな制約が存在した。それは,耕地と水利条件である。この特徴を,概括的に一般化して述べれば次の通りである。
 1) 耕地の圃場区画が小さく,かつ不整形であり,耕作者の圃場は分散している。
 2) 水路の分布密度が低く,多くの圃場が接続して,「田越し灌漑」が行われている。このため,個々の水田圃場の独立性が弱く,自由な土地利用が困難である。
3) 農業の分布密度が低く,かつその幅が狭い。このため,一部の圃場が農道に接しているだけで,農道から離れた圃場へは,しばしば他人の圃場を通ってゆかなければならない(以上第4図参照)。
 これらの圃場水利条件は,おおむね扇状地地形の水田地帯に共通のものであるが,この地域においては,こういった傾向がとくに顕著にみとめられた。こ

第4図 基盤整備実旋前の耕地形態と農道・水路の配置の一例
 (第3期工事地区の一部)

れらは,農業生産の変化の制約条件をなし,とくに農業機械の自由な利用と,作物選択の自由を阻害することとなったのである。またこれは,用水配分の慣習法的秩序の存続を支える最大の基盤であった。そして,これらの圃場水利条件の改善を困難にしていたのは,全体的な用水供給量の不足と,これを前提とした旧堰間の慣行の存続であった。
 国営中信平農業水利事業の実現は,この圃場水利条件を根本的に変革する前提を作り出した。このため,付帯兼営事業の進行にともなって,大規模圃場整備事業(県営)を,計画する地域が続出し,現在進行中である。圃場整備事業は,個々の水田区画を30アールの長方形とし,すべての圃場が用水路,排水路および農道に直接に接するものとする事業であり,これによって従来の圃場水利条件の制約を取除くものである。
 すでに圃場整備事業を実施した波多村についてみると,次のような新しい農業の展開がみられる。すなわち,波多村では,集落ごとに農業機械公団(機械の共同利用組織)を組織し,大型農業機械(乗用トラクター,コンバインなど)を共同利用することによって,稲作に要する労働の節減と,個々の農家の機械投資の軽減を計ったのである。また,これによって生れる余剰の労働時間は,畑作に投入されることとなり,夏作の西瓜を中心に,大きな収益を上げることができるようになった。さらに,波多堰土地政良区は,従来からの水配人による統制が配水を圃場整備実施後も継続し,個々の農民を水管理労働から解放している。このようにして,この地域の農業は,この10年ほどの間に,面目を一新したと言ってさしつかえない。松本盆地の農業全体が,いまこのように大きく様相を変えているのである。

む す び

 この地域の農業の中心をなす稲作は,古い歴史的遺産としての灌漑施設と,この管理および濃密な慣習法的秩序を前提として展開した。
 この地域の農業に,大きな変化のインパクトを与えたのは幕末の開発にともなう養蚕業の成立と,生糸業の発展であった。水田と桑園が,土地利用の中心となったのである。また,桑園,養蚕を経営の中心とする農民たちは,次第に商業的に訓練され,市場の刺激に対して敏感な存在となった。
 次に,地域農業の変化をもたらす最初のステップになったのは,行政のインパクトであった。すなわち,行政主導による梓川農業水利事業が,灌漑用水の不足と濃密な慣習法的秩序=用水慣行の緩和をもたらし,稲作農業の相対的安定と集約化に道をひらいたのである。この際の技術的に興味のある点は,従来の用水路,水田圃場形態,農道などに全く手をつけず,合口という方法を採用し,合口頭首工と連絡幹線水路だけを近代的工法で新設したという点である。外来の土木技術を採用しながら,これを伝統的な灌漑技術と接合したわけである。
 行政主導型の地域的農業資本形成は,第1次大戦後もうけつがれ,強化された。国営中信平農業水利事業がそれである。この事業は基幹的な灌漑施設を全面的に近代化するとともに,付帯県営事業によって重要な用水路をすべて改修,新設することによって,地域の灌漑条件を全面的に革新するものであった。また,この事業が,圃場・水利条件の変革をも可能とし,圃場整備事業の相次ぐ実現をみるのである。これに採用された土木技術は,最新のもっとも現代的な土木技術であり,頭首工,サイフォン,など堅固なコンクリート製であり,主要な水路はすべてコンクリート・ライニングされた。また,施工にあたっても,近代的な建設機械が駆使された。
 これによって,地域の農業はいま大きな変化の過程にある。農業機械などの農業資本形成が進み,かつての労働集約型農業は資本集約型農業に転換をとげた。用水慣行にみられる慣習法的秩序,地域間の対抗意識も,ゆっくりとではあるが,解消に向っている。しかし,日本経済の急激な産業化のインパクトが,この地域にも過度の「近代化」を促したことは否定できない。兼業農家の激増,農業機械の過度な進行などである。
 以上のような,この地域の農業の展開過程を支えている重要な社会的基盤は,一種の農村中間組織の存在であった。1950年以前においては水利組合が,以後においては土地改良区が,おおむねそのような性格をもつ組織であった。この組織は,地域の農民を統合し,地域的な資本形成である水利事業,圃場整備事業を円滑に推進する社会的母体となり,またでき上った灌漑施設を自主的に維持管理する主体となった。また,これらの組織は,農村集落を事実上の単位地域集団として統合しており,小水利組合として以上の自己の機能の発揮を期待することができた。これらは,日本の多くの農業地域にみられる共通の現象であるとともに,世界の他の地域にみられないユニークな特質であろう。