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淡河川 ・ 山田川疎水の成立過程

Author: 旗手勲
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1980年
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 目 次

 Ⅰ 加古地方の自然と水利・・・・・・・・・・2
 Ⅱ 加古地方の開発――前史・・・・・・・・・・6
 Ⅲ 淡河川疎水の成立過程・・・・・・・・・・18
 Ⅳ 山田川疎水の成立過程・・・・・・・・・・34
 Ⅴ 淡河川・山田川疎水の特徴・・・・・・・・・・38


Ⅰ 加古地方の自然と水利

1 地区の自然条件
 加古川の下流とその支流の美嚢川,明石川と播磨灘に囲まれた地域の大部分は,印南野(伊奈見野または不欲見野)とよばれた広大な洪積台地である。
 この加古地方は第3紀末に六甲山地の間欠的な隆起運動によって形成されたものである。現在は,神戸市垂水区の神出町にある雌岡山の山麓部(140m)の平担地を最高部として,西南方に向って緩く傾斜し,その末端は加古川の三角州に堆積されている。
 加古川下流の東岸の日岡山付近では,20メートルほどの急崖をなし,以下は南部の三角州地帯に連続している。また日岡山付近からは,隆起の時期によって高位と低位の台地に2分される。低位は東南にかけて野口台地となり,しだいに播磨灘との間に海蝕崖を増す。さらに東南進して大久保台地に入ると,新旧の海蝕崖によって,前面の播磨灘と背面の岩岡台地に挾まれ,その東端は高位台地の東側に延びる明石川と急崖で境されている。この野口・大久保の2低位台地の北側に,天満・加古・母里・神出・岩岡・相良などの高位台地が並んでいる。後者は「前輪廻の降起扇状地堆積物」が広く分布し,「必従谷」によって開析がはじまったばかりの地形で,一般に平担である。しかし,これらの高位台地も,周囲の加古川本流や,その支流美嚢川,明石川の谷とは急崖で境され,同じく独立の台地地形となっている。
 なお,これらの高・低位台地の間には,「前輪廻の侵蝕谷」をそのまま継承したとされる,草谷川・曇川・喜瀬川・瀬戸川などの小河川が流れている。そして,これらの水系によって,台地全体が細分されているため,集水面積を狭めてしまい,地形的にも流水量の多い河川の成長を許さないという。(以上は文献②,62,63ページ⑧,42,43ページ)。
 この地方が,以上のような集水面積の狭い地形であるうえに,瀬戸内海に特有な少雨地帯にふくまれている。たとえば,地区の中心にあたる母里村の観測では,1940―49(昭和15―24)年の10年間を平均して,気温は年平均で14.5~16.1度Cの平穏さであり,また平均年間降水量も1057ミリ,平均降水日は139.1日にすぎなかった(文献⑮,2ページ)。日本の年間降雨量が,全国平均で約2,000ミリであるから,この地域は,その約5割にあたる少雨地帯といえるであろう。
 農業水利の前提となる河川の水量が,この地域では地形と気候の条件によって制約されているうえに,さらに地質の条件が加わる。
図1 兵庫県加古郡略地図
 すなわち,これらの台地では,地表に山砂利が現われていたり,薄い粘土層の下に明石層群や播磨層群に属するらしい砂礫層が厚く堆積している。このため,侵蝕が下部の砂礫層に及んでいない鰈川(所在は不明)や,加古・天満のより広い台地から伏流水などが集まりやすい曇川(曇れば水が出るという意味)には地表水がみられる。しかし,侵蝕が下部の砂礫層に達している草谷川・喜瀬川・瀬戸川などの小河川は,砂礫の多い荒れ川となっており,地表水が乏しい。
 他方,これらの台地の表面に露出している山砂利層や,薄い粘土層の下にある砂礫層は,台地面の地下水を低下させる。このため,とくに地下水の深い相良台地では,第2次大戦中に飛行場が設置されたが,飲料水にも苦しんだという。このほか,高位台地の上部にある加古・母里,岩岡などの地域では,地下水までの深さが20メートル前後という場所が多いのである。(文献②,63ページ,⑱,454―457ページ)。

2 地区の水利
 以上の自然条件に制約されて,この地域の台地では地表水と地下水に恵まれないため,水利の開発は西日本地方のなかでも遅れざるをえなかった。
 しかし,台地末端の侵蝕崖下には湧水地域があり,また曇川や鰈川,さらに草谷川にも地表水や湧水がみられた。これらを活用して,たとえば,野口地区の坂元や水足(水落),岩岡地区の野中などは,部分的ながら早くから水田が開けたといわれる。
 このほか,台地上でも,「流」のよいところで,「必従谷」をせきとめて溜池を築設できた。たとえば,天満地区の入ケ池(714年)や母里地区の経の池(806年),野口地区の寺田池(890年)などである。さらに,台地の崖端にある侵蝕谷にも小さな溜池を建設し,水田を拡げていったものと考えられる。
 このように,水利をめぐる自然条件に制約されながらも,この地域の台地でも天水や小河川,あるいは湧水などを活用し,さらに溜池を築くなどの方法によって,稲作が普及していったのである。
 さらに土木技術が進むにつれて,水量の豊富な加古川や明石川などの河川から,取水しやすい場所をえらんで堰や取水口などを設け,より広い面積の水田が開かれていった。たとえば,日本でも最古の河川灌漑のひとつに数えられ,聖徳太子が関係したといわれる加古川の五ケ井用水(593年)などである。
 やがて,戦国時代ごろからの築城や鉱山などの技術を応用し,河川の上流から引水し,長い水路を等高線に沿って堀り,これまで水利に乏しかった台地などにも水を運ぶ方法が普及しはじめた。
表1 印南野における主要灌漑水利施設の沿革
江戸時代に入ると,これらの台地でも,自然の悪条件を克服しながら,台地灌漑が試みられるのである。(文献②,63―69ページ,⑱,454―459ページ)。
 そして17―18世紀には,水不足を克服するために,さらに河川からの引水を溜池に貯留する方法が考察された。非灌漑期の河水を溜池によって灌漑期に活用したものである。河川と溜池の併用という方式は,さらに流域外からの余水を導入することによって,技術的な転機を生じた。これが山田川疎水の計画であり,河川と溜池の併用というこの地域の特徴をさらに展開させるものであった。

Ⅱ 加古地方の開発――前史

1 古代―小河川と溜池
 加古地方の政治的な統一は,まず加古川下流沿いの神野町・八幡町(現在は加古川市に合併)付近からはじまったようである。とくに神野町の地域は,東の城山と西方の日岡山に挾まれ,加古川の洪水を防ぐだけではなく,その沖積地が拡大できた地形に位置している。そして,この両山の間を,加古地方の中ではもっとも流量の安定した曇川が流れている。
 したがって,弥生時代から古墳時代にかけて,加古川の旧河道や曇川から引水したり,またこの地方に古代から発達したとみられる溜池技術を用いて,小規模な水田が開発されたはずである。これらの生産力の高さを前提として,加古郡では最大である西條古墳群が城山の南方に築造できたのであろう。
 神野町地域は加古川河口の高砂港などを通じて,奈良地方などとの交流も容易であったと考えうる。古墳時代末期における屯倉や豪族の私墾地も,この地方に普及したのかもしれない。たとえば,593(推古1)年に聖徳太子が建設したといわれる五ケ井用水の取入堰は,城山と日岡山の中間地帯で加古川を横断し,この地方における最古・最大の用水路である(1913年の受益面積は2100町)。
 さらに耕地開発の方向は,当時の技術で水利がえられ,開墾の可能な四方に及んだであろう。たとえば,曇川(その上流は国安川という)の低い河谷をさかのぼって,北山や国安,岡(いずれも明治期に天満村に合併)に伸び,また東部の草谷川沿いに八幡町や草谷村などが開かれたと考えられる。他方,六分一村(後に天満村に合併)から山陽道にそった土山や,野添,本庄の各村を経て,播磨灘にそそぐ喜瀬川沿いにも,開発の手が進んだであろう。
 これらの情況を背景にして,大化改新直前の644(皇極3)年3月に,大和国官中の藤原弥吉四郎が勅命をうけて蛸草村に入り,北四郎・北太(近在の農民らしい)らに耕作させたという。これが加古台地における記録上の開墾のはじめとみられ,弥吉四郎は646(大化2)年から水利をうるため入之池(入ケ池の前身であろうか)の築堤にかかった。しかし出水のために「再三決潰」し,ついに放棄したという。それでも701年(大宝元年)には「因16軒」を数えたというから,当時の家内奴隷的な農家がふえたのであろう。なお,この入之池は,弥吉四郎の孫である藤原光太衛が堤を「六枚屏風」の形に作る新技術を用い,「美女を人柱」にすることによって,714(和銅7)年4月に完成したと,「入之池由縁起」はのべているという。
 なお,弥吉四郎らの入植した蛸草村は,後に蛸草庄といわれた北山・国安・岡・中村・森安・六分の一の6カ村のうち,北山村とされているが,あるいは「国安県住」部落の西にある「古北山」の部落かもしれない。中世以後に母里郷(草谷・下草谷・野寺の3村,野谷・蛸草・印南の3新村は江戸時代の開拓),蛸草庄(前記6カ村,江戸時代に開発された中一色・国岡・幸竹の3新村を含め,明治期に天満村に合併),加納庄(二塚・西之山・手末の3村,江戸時代に福沢・加古の2新村,加古新村を除き,下西條村を加えて神野村となる),加古新庄(上西條・中西條・下西條・宗佐・下村・野村の6カ村と船町,江戸時代に野村新村を開拓。下西條村を除いて八幡村に合併)に4分されたこの地方は,往古は望理郷といわれていた。しかし,古墳時代にすでに開発が進んでいた神野・八幡地域などを除くと,水利の便に恵まれない加古台地では,雑草が蛸の足のようにむらがり,それらの事情から「蛸草庄」といわれたようである。なお,室町時代には,現在の天満地区と母里地区北部を含めて,蛸草村ともいわれたという。
 ところで,加古台地の開発において,644(皇極3)年における藤原弥吉四郎らの開墾に次ぐのが,675年(文献④では白鳳3年となっている。おそらく天武4年であろう)の岡(天満地区)の大池の築造である。この池の所在は確かめられないが,これを契機に岡や国安などの部落が開けたといえる。やがて714(和銅7)年には,前記の入之池が完成して北山部落が拡大したとみられる。
 その後,806(大同元)年になって経之池(現在は経の池)が完成した。これが野寺部落の発展に大きな影響を与えたといえる。なお白雉年中(650―655年)に,野寺に真言宗高薗寺,国安に真言宗円光寺が開基されたといわれる。その所在地や遺物などから推測して,建設期はより新しいといわれるが,その確証はない。しかし以上の開発状況や,その他の資料にも開基を明記したものが残っていないようであるから,これらの寺は中世に入って繁栄したものであろう。
 このほか,天満地区の中一色・和田部落に西接した野囗台地の南斜面にも,890(寛平2)年に寺田池が新設され,この地方の開拓が進んだとみられる。

2 中世―権力と村勢の変転
 10―16世紀にかけて,加古台地では大きな水利改良や開墾はほとんどみられない。平安時代に庄園に編成がえされはじめた条里制耕地(神野村や八幡町の西條などは,その施行地であろう)は,やがて鎌倉時代には守護・地頭の勢力下におかれるようになった。そして鎌倉末期には,播磨・摂津地方は,守護の北條仲時が支配力を強めたようである。
 しかし赤穂郡赤松庄に拠った赤松氏はしだいに勢力をまし,則村の時代に南朝側に属し,1334(建武元)年に播磨守護職に任ぜられた。やがて,新田義貞に守護職を奪われたため,赤松則村(円心)は足利側に移り,播磨・備前・美作3国の守護職を兼ねたのである。この地方に勢力を占めた赤松氏は,1336(建武3・延元元)年に,石守村(後に神野町)の法雲寺の塔婆領として望理郷を寄進し,その四至傍示(区画の指定)を行った。その範囲は,現在は加古川市に併合された神野町(もとの加納庄と下西條村)と八幡町(もとの加古新庄から下西條村を除く),および母里地区北部(野寺・草谷・下草谷村)だといわれる。山陽道に近い天満地区にはぶかれたものとみえる。この動きは,加古地方における村落の支配関係にも大きな変動を与えたはずである。
 やがて1355(文和4)年には,野寺の高薗寺が八大如林上人によって再興されている。あるいは,赤松氏の勢力がその背後にあったのかもしれない。その後の1380(康暦2)年に,赤松義則は高薗寺に対し,蛸草村の荒地を分け,東西20町,南北5町を寄進している。この寺や寺領は,現在の高薗寺が位置している野寺部落ではなく,後の蛸草新村の北部にある高薗地域であろう。当時,この地域は水利が得られないため荒地になっており,天満地区や母里郷を総称した蛸草庄の草刈場などになっていたのかもしれない。
 しかし高薗寺の寄進領は,その所在地である野寺の地位を上昇させたものとみられる。すでにのべたように,地形的あるいは水利的条件から考えても,母里地区では草谷村の方が野寺村よりも開発が早いのではないかと思える。たとえ,時期が相前後したとしても,草谷川から引水できた草谷地区と,806年(大同元年)の経之池建設後に開発が進んだとみられる野寺地区では,前者の方が生産力が一般に安定しているはずである。事実,近世初期とみられる検地高では,野寺の80石に対し,草谷352石,下草谷103石であった。にもかかわらず,時の権力者である赤松氏の寄進によって寺領が寄進され,高薗寺がその勢力を背景にできたことは,開発の早い,神野・八幡地区や天満地区,さらには同一地区の草谷村などよりも,野寺の「村格」を高めさせたであろうと推測できる。
 このことは,逆に支配権力の交替時には,所在地に大きな損害を与えざるをえない。たとえば,後の1441年(嘉吉元年)に赤松満佑が足利将軍を刺殺したため,足利側の攻撃をうけ,その根拠地となった高薗寺の坊舎のうち,ほぼ半数は兵火にあって焼けたという。赤松氏が敗北したあと,高薗寺はその一族であった三木在住の別所氏などが保護したようである。やがて1579年(天正7年)4月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長の命令をうけて,三木城を攻略したとき 高薗寺が別所氏の祈祷寺であったため,その七堂伽藍,32坊をすべて焼き払ったといわれる。そして,赤松家からの寄進状もとりあげられ,同寺は窮乏の極に達したとされているが,その後は現在地に再興された。
 江戸時代になると,宗門改あのため寺院は大きな勢力を占めたが,とくに14世紀以来この地方で高い地位を持っていた高薗寺の威光は残存していたはずである。とりわけ,劇的ともいえる兵火に2度も見舞われたことは,かえって同寺の権威をまし,その所在地である野寺部落の優越した地位を持続させたと考えうる。

3 江戸時代―水利と新村
10―16世紀にかけて,大きな水利開発がほとんどみられなかった加古地方も,江戸時代になると様相が一変した。ひとつには,戦国・織豊時代における土木技術の展開をうけて,全国的に河川の上流部で分水し,これを従来は水利に乏しかった台地に引き,その地方の新田開発が進んだが,これらの方法が加古郡にも応用されはじめた。二つには,分散していた荘園領が戦国大名によって統合された結果,これまでは大面積が受益したり,また地域間の利害対立がはげしかった水利改良を,強大な権力を背景にして実施しうるようになったことをあげうる。この地方も,加古郡の大部分は姫路藩(二見地域のみが忍藩の支配地)に属するようになり,また明石郡は明石藩の支配下に入っている。したがって,分水による台地の開発技術などを前提に,自藩の富強をはかった近世大名が,統一した藩域内の水利改良や新田開発を奨励したことは当然であろう。
 なお,第三には,室町末期ごろからの郷村制や農村自治の発達にともなって,農民上層を中心とした部落内の地域的な統合や水利支配がしだいに進んだものと考えうる。同時に,城下町や代官所,あるいは山陽道の宿場(加古川―寺家町,土山など)などが展開しはじめ,これらの市街地むけの農産物販売も拡がったであろう。水利の乏しい加古台地では棉作などの畑地灌漑も加わり,節水技術が普及したであろうし,農村人口の増大にともなって,新田開発の要望が強まってきたはずである。
 かくて17世紀後半から,この地方の水利改良や新田開発が急増しはじめたのである。まずその先鞭をつけたのが,天満地区の東端にあたる中一色村といえる。その開拓の時期は不明であるが,1653(正応2)年に中一色村で最初の検地(近世の検地高は275石)が行われ,また1625(寛永2)年には中一色に若宮が建立されている。室町時代の蛸草庄(後の天満地区)は岡・六分一・国安・森安・中村・北村の6カ村であり,またこの時期この地方では,新村開発と相前後して若宮を建設する例が多いから,中一色村もおそらく1625年前後に開発されたものと考えられる。そして,これまで水のかからなかった荒地の台地に,曇川の中流からその余水を取り入れ,溜池を新設することにより,神野地区や北山・中村・森安などからの2・3男が新村を開いたのであろう。
 ついで1655(明暦元)年1月には,古宮組の大庄屋らが賀古新疎水道の建設をはじめ,翌年3月に完成している。これは新井用水とよばれ,593(推古1)年に開疎されたという五ケ井用水の樋門の下手から加古川の余水を分岐し,中一色村に西接した野口台地の南斜面に新田を開いた。加古川からの取水は「不定期」というから,その高水や余水を分水したほか,非灌漑期には溜池を新設して貯留したものとみられる。この新井用水の受益面積は,1913(大正2)年現在で620町を数えている。
 これらの動きは,1658(万治元)年における林崎用水と寺田用水の開疎,翌1659(万治2)年における加古新村と野際新村の開拓,寛文年中(1661―73)における国岡新村と幸竹新村の開発に拡大し,加古台地開発のひとつのピークを示すのである。
 まず林崎用水は,明石川から分水し,これも用水不足に悩んでいた明石藩領の大久保台地を開発したものである。すでに明石川流域では,古代から水田が開かれ,永利慣行が固定していたため,林崎用水では古田の非灌漑期にあたる10月から翌年5月までの間を引水し,新設した溜池群に貯溜したのであろう。同用水の受益面積は1918(大正7)年現在で672町(文献⑥,58ページでは627町)に達している。
 また寺田用水は,曇川から分水し,中一色村に西接する野口台地の南斜面南部地域を灌漑したものである。取水は新井用水と同じように「不定期」というから,加古台地内の河川では「最も地表水の多い小河川」(それは曇天になると水が出るというところから「曇川」と命名されたという一文献⑦,34ページ)である曇川の高水や余水を分水し,さらに溜池に貯留したものであろう。なお,この寺田用水は,14年後の1672(寛文12)年には高畑分水によって,さらに南部の高畑村の新田をふやしたほか,1676(延宝4)年にも北野分水によって,北部の北野新田を開いている。これらの2分水を含めた寺田用水の受益面積は,1879(明治12)年現在で合計200町であった。
 1650年代における台地周辺の新井・林崎・寺田用水などの開疎にともなって,台地内部の新村開発に対する意欲も高まったといえる。
 まず1658(万治元)年に,八幡町地域の中西條村加古沢兵衛,上西條村沼田喜平次,下村本岡治兵衛の3人が,天満地区(蛸草庄)北部の荒地である加古新村(1661―寛文元年に筆頭出願人の加古の姓を用いた)の開発を姫路藩に出願した。翌1659(万治2)年にいよいよ開墾に着手し,同年には上新田に23戸の農家が移住している。この間に,上西條村の大庄屋である沼田与次太夫は,姫路藩との交渉や,移住農家のあっせんなどに努力しており,開墾出願者3人を含めた4人は後に藩から各1町余の所有を許されたほどである。さらに1661(寛文元)年には,中新田に25戸の農家が新設されるなど,数年の間に160戸,人口800余人を数え,191町を開墾している(近世の検地高は903石)。(以下を含め,文献①,②,⑦,22ページ,④,14ページを参照)。
 なお,加古新村の開発には,当然水利の確保が不可欠であり,1660(万治3)年には上新田の上流に「三大池」を築いている。これが,やがて1669(寛文9)年の加古六大池に拡大したものと思われる。
 また,加古新村が開墾された同じ1659(万治2)年には,六分一村の分村とみられる野際新村が開かれている。さらに,1662(寛文2)年には,加古新村に南接して国岡新村が開発された。同村は,国安村の庄屋理平次と岡村の庄屋九郎兵衛の両人が先導したため,両村の頭文字を合せて国岡新村と命名したものだという。このほか,寛文年中(1661―1673年)には,中村や森安村に西接した幸竹新村が,僧の浄円によって開発された。幸竹新村は,後に幸村と唱え,近世初期の検地高は48石であり,後に和田村に合併されたものとみられる。
 以上が,1660年前後における加古台地の新村開発である。台地周辺における河川水利開発から刺戟をうけ,まず台地外の八幡町地区からの分村として加古新村が開け,ついで台地上の古村である国安・岡・六分一・森安・中村などの分村が開けたといえる。いずれも,「村請新田」であろう。
 これらの新村は,それまでの開発技術などから水利に乏しい限界地であったといえるが,台地内の小流の余水などを溜池に貯え,耕地の開発をはかったとみえる。しかし,これらの新村は,ただでさえ水利に乏しい上流の古村の反発を生んだはずである。したがって,残された小流の高水や余水を活用して溜池を新設し,これらの水利不足地の中では,比較的流水を利用しやすい下流地域から,しだいに新村が開かれているのである。
 そうはいっても,水利のとくに乏しい高台の上流地域(たとえば野寺など)と,下流とくに新村地域との対立は激化したはずである。これを調整できたのは,ひとつには,地元における村役人クラスの有力者の努力と,二つには,統合された藩域を支配した姫路藩の開発意欲と鎮圧権力が背景にあったといえる。
 いずれにしても,加古台地の新村開発につれて,畑作が優勢とはいえ,水利の整備は不可欠であった。おそらく,姫路藩の圧力を前提にして,1669(寛文9)年には加古六大池が設けられ,1680(延宝8)年には大溝用水(加古の大溝という)が開疎されている。この加古の大溝は,草谷川の上流から分水し,草谷村と野寺村をとおり,流末は加古の六大池や入之池などに注ぎ,加古・国岡新村などの水源にも利用されたのである。しかし草谷川は,すでに草谷村や下草谷村,あるいは下流の八幡町地区の農業水利に古くから利用されていたから,灌漑期に分水することはできない。そこで,すでに1658(万治元)年の林崎用水の技術や方法をとり入れ,大溝用水では草谷川の非灌漑期である旧暦の7月から翌年4月までの余水をとり入れ,加古六大池や入之池などに貯留し,新田の用水にかえたのである。なお,この加古の大溝の受益面積は,1900(明治33)年現在で220町を示している。
 このように,17世紀中葉には,台地内の残された余水ともいうべき,小河川や小流の非灌漑期の流水を分水し,これを溜池に結びつけて貯留するという方法が普及しはじめた。こうなると,最上流の高台に位置した母里地区でも,「それならば地区内で開発を」という意欲がおこらざるをえまい。とくに水利に乏しいために,広大な荒野が残されていたから,「最後の辺境」として官民ともに開発を目ざしたはずである。
 かくて,17世紀の終りに近い1692(元録5)年になって,はじめて母里地区で野谷新村が開発された。これは,野寺・草谷両村の庄屋による村請新田とみられ,両村から一字づつを合わせて野谷新村と命名している。おそらく,「手中の流」などを活用したものであろう。ついで5年後の1697(元禄10)年には,野寺村に南接した荒野に蛸草新村が開発された。
表2 印南新村の作物構成の動き(夏作)
開発人は中村の大庄屋小山五郎右衛門と上西條村の大庄屋沼田与次太夫(1659年―万治2年の加古新村の功労者と同名である。おそらく襲名であろう)の協力によったといわれ,中村などの天満地区や八幡町地区の分家が入槙したのであろう。旧名は六十丁といったが,中村などの属した天満地区の古称である蛸草庄の名をとって,蛸草新村と命名したのであろう。そして同年に,蛸草新村の水源として広沢池と広谷池が築造されている。この引水路が「天満の流」とみられ,これを利用して,さらに1705(宝永2)年には天満大池が築かれ,国安や六分一,中村などの天満地区下流の新田も増えたと考えることができる。
 ついに1712(正徳2)年になって,加古郡の台地ではもっとも水利にめぐまれなかったといえる印南新村が最後に開かれることになった。これは,1658(万治元)年の加古新村の開発出願人の一人であった沼田喜平次の一子理平次が移住して開発に努め,庄屋を勤めたという。しかし印南新村では,最後の開発地であり,水利も旧村や新村に利用しつくされ,畑地を中心とせざるをえなかった。その作付面積(夏作)の動きをみても,表2のとおり,総面積201町のうち,江戸時代には水田が4―5町にすぎなく,約半数は大・小豆である。販売作物の中心は煙草と棉であり,このうち煙草はしだいに減少しはじめ,棉が拡大している。このような作付構成のために,明治以降の棉作の衰退によって打撃をうけ,地組改正によって重租感を強め,新疎水への要望が強まったといえる。
 なお,印南新村が開発された同じ1712(正徳2)年には,その南西端の天満地区東端で相之山開墾が行われている。米田村(場所を確認できない)の助右衛門が企て,100町を開いたといわれている。あるいは近くにある百丁場池を築造したのかもしれない。岡村と六分一村の境にある百丁場の地名はこの開発に由来されているという(文献④,17ページ)。
 このほか,1707(宝永4)年には東隣する明石領で大久保用水が開かれている。1658(万治元)年に新疎された林崎用水の分水といわれ,同じく大久保台地の残された水不足地に新田を拡げた。水源は明石川であり,いずれも非灌漑期である10月から翌年の5月までに引水し,溜池を新設して貯留した用水を利用したものである。

4 近世的開発の終了と水論
 以上,1660年前後と1700年前後を二つのピークとして,加古台地における新村と水利の開発はすべて終った。当時の水利技術と農村間の地域的な利害対立,あるいは姫路・明石藩域などの相違,これらの社会・経済・政治的な条件を前提にして,開発されるべき地域は当時の段階においてはすべて開発しつくされたといえる。1720年代以降,江戸幕府のつづく1860年代までの140年間は,この加古台地地方ではその後は大きな水利改良や新田開発はみられないようである。
 ただ,わずかに記録に残るといえるのは,1764(宝暦14)年における小池の築造である。位置は確認できないが,あるいは野寺村の経の池の下池であろうか(文献⑦,29ページ)。このほか,加古台地以外では19世紀初頭に次の2用水が開発されている。ひとつは,1800(寛政12)に母里・天満地区と明石領の神出・岩岡地区の中間を流れる瀬戸川から引水した庄内用水である。通年の取水ではあるが,同時に寛政池を設けるという方法をとっている。もう一つは,美の川が加古川に合流する直前の止法寺地点で取水する亀の井用水が,1814(文化11)年に開発されている。以前は加古川のはんらん原であったが,堤防の建設にともなって耕地化し,八幡町地区の宗佐・国包などの新田を開いたとみられる。もちろん,通年の取水であり,受益面積は1916(大正5)年現在で89町を数えている。治水の進行にともなって,堤外地にも水利開発が拡がった型を示している。
 さて,1710年頃を境にして,外延的な水利や新村の開発が終ると,藩による年貢増大のための農業生産力向上政策と,農民による販売作物の拡大意欲が加わって新田や棉などの水利用が増大せざるをえない。そうでなくても,水不足に悩みつづけていた加古台地の農村の間では,やがて水利用をめぐる上・下流の地域対立が激化せざるをえなくなった。1700年前後から,この地方でも水論がさかんとなるのである。
 記録に残るものでは,まず元禄年中(1688―1704年)に神出庄と母里郷の水論があげられる。隣地の明石藩に属する神出庄で新池と新溝(用水路)を設けたため,神出の下流である手中の流に養水を頼っていた草谷・野寺・野谷新の3村が異議をとなえた。これらの母里郷は姫路藩に属していたので,明石藩との論争となった。ついに幕府の京都奉行所の裁決によって,神出庄の新池・新溝は旧慣にもとづいて潰廃されてしまった。その後1748(寛延元)年になって,水利に苦しんだ同じ母里郷の印南新村が手中の流を利用して新池を設けた。この場合も,草谷・野寺・野谷新の3村は神出庄との水論の前例にもとづき,姫路藩に上申して,この新池を廃止させた。それから後にも,印南新村は溜池の新設をしばしば郡奉行所に嘆願したが,これら3村の異議によって宿願は達せられなかったという。もはや利用水量が当時の技術や社会的な条件では限界にきたため,台地内では最後に開発され,水利にもっとも恵まれない印南新村が,苦杯をなめつづけざるをえなかったのであろう。(文献⑤,4,5ページ)。
 また1705(宝永2)年に,天満地区の東南端にある相之山の柿ノ木沢(文献①7ページでは梯木沢。現在の柿沢池であろうか)に新池を築造しようとした場合,受益池の六分一・森山2村と,下流でこの沢の水を利用していた二子・福里2村との対立となった。後者は忍藩領であったため,姫路藩との訴訟事件になったが,くじ引きで裁決したらしく,新池は建設されて「くじ池」ともいったという(文献④,17ページ)。
 このほか,訴訟にもならず,記録にも残らないような,地域間の水利対立ははげしかったのであろう。これらの動きは,姫路藩による年貢増強や,水不足や冷害などによる凶作,あるいは農産物価格,とくに台地の中心的な販売作物であった煙草や棉などの暴落などを契機に,農民の不満が爆発したものといえる。そして1749(寛延2)年1月にはこの地方に大一揆が記録されている。野谷新村の組頭伊左衛門が首謀者となり,前年秋の台風によって収穫が皆無に近いのに,年貢は苛酷であるとして,まず上西條村の大庄屋沼田平九郎を襲った。加古郡から2千人,印南郡から3千人が参加したといわれるが,失敗して伊左衛門は大阪の牢獄で死亡した。しかし,この強訴を契機に,姫路藩の全域に農民一揆が拡がったという。これらの結果,首謀者の出た野谷新村では庄屋以下50余名,野寺村3人,加古新村8人,上西條1人,中西條2人,下西條2人,下村1人,石守1人が,それぞれ重罪に処せられたという(文献④,18―19ページ)。
 農村をめぐるこれらの矛盾に対応して,農民支配層のなかから試みられた対策のひとつが,新しい水利の開発によって生産力の安定をはかる方向だといえる。しかし加古台地の周辺では,その水利用はいわば極限にきており,新しい水源を求めざるをえない。すでに戦国末期から江戸時代にかけて,河川の上流から取水し,長大な引水路を開いて,洪積台地や河岸段丘などの新田開発を行った例は,当時は未開地であった東日本には珍らしくなかった。
 これらの方法を,この地方に応用しようとしたのが山田川からの疎水計画である。加古川の支流の美の川,その支流である志染川,そのまた支流である山田川から水を引き,これに長大な水路をほって,加古台地に利用しようというのである。
 まず,1771(明和8)年10月に,母里郷に東隣した明石藩の神出地区東村の某(氏名は不詳)がこの実地測量をはじめて完了している。神出地区も同じく水不足に悩んでいたから,その解決策を苦慮し,研究の結果,八部郡(後に武庫郡に合併)の山田川の中流から取水が可能であることを発見したわけである。この計画を地域の有力者に相談したが,技術や資金などの問題について「異議百出」し,ついにこの最初の案も実施できなかった。
 62年後の1826(文政9)年になって,この案が復活した。加古郡の国岡新村の福田嘉左衛門が発起し,野寺村の勘左衛門と藤左衛門,美の郡三木町の平兵衛らと相談した結果,山田川の水源から明石・加古両郡の境に近い練部屋まで引水し,水不足の加古・神出地区などに配水しようとはかった。実測は数回に及び,嘉左衛門は図面を作り,工費を見積って,姫路藩に出願したのである。しかし水源や水路が明石藩をはじめとして他藩にわたっているため,姫路藩だけでは専決できないまま,ついにこれまた廃案に終ってしまった。そして,この計画の実現には,なお明治維新をまたねばならなかったのである。
 山田川疎水に代表される遠隔地からの長距離引水が,技術的水準というよりは,とくに各藩の分治と村落間の地域的な対立という社会的な条件によって,実施不可能であったと考えられる。これらの過程はいわば徳川封建制の限界を明示するものといいうるであろう。その突破口が,藩域をこえる山田川疎水計画の出現といえるであろう。
 しかし,徳川封建制はなお存続する。この形骸化をぬって,農民による農業技術の進展や,棉作に代表される商業的農業の拡大も展開する。封建制を維持するためには,貢租の拡大か,販売作物を基礎とする藩営企業の展開が,残された方向であったからであろう。
 これらの動きは,農村内部における生産力の集約化と内実化をもたらしたであろう。そして藩権力による収奪の強化とせめぎあいながらも,農民の上層支配者の一部などに「胎芽的利潤」の漸増を可能にしたであろう。農民は封建制の間隙をぬって,いよいよ「私富」の拡大に勉あざるをえない。かくて棉作などの畑地灌漑などを契機に,水利用はさらに集約化したであろう。当時の技術と社会的な条件からほとんど限界にきていたこの地方の水利用をめぐって,さらに対立は激化せざるをえまい。
 たとえば,江戸時代の終り近く,ペルーが浦賀に来航する2年まえの1851(嘉永4)年には,加古台地上の加古新村および国岡新村と草谷郷8ケ村(おそらく草谷川を利用する草谷・下草谷村と八幡町地区の野村新村・野村・下村・上西條・中西船・船町であろう)との水論がおきている。あるいは,草谷川とこれから引水して加古新村や国岡新村の水源となる加古六大池や入之池などへ水を流す大溝用水(加古の大溝)などをめぐる水争であったかもしれない。それらの分水池が,さらに草谷村と神出地区の広谷村に及び,姫路・明石両藩の境界地に位置していたため,両藩の役人まで出張して,その可否を争ったという。この時,紛争村落に近い,印南新村の大庄屋沼田理平次(1712年―正徳2年に同村を開いた家筋の襲名であろう)と神野地区の石守村の大庄屋石見儒之助の両名が仲裁し,ようやく解決したという。広谷・草谷両村の村界(同時に郡界と藩界を兼ねている)に立った分境石は,この事件の直後に建てられたものだとのべられている(文献④,20,21ページ)。
 いずれにせよ,これら事例からみても,徳川封建制はその最終期に追いこまれたといいうるであろう。

5 明治維新前後の開発
 印南野における以上の農業開発の略史から,印南新村を最低とした母里地区が,水利の限界地であったことが明白であろう。
 そして江戸時代末期になると,元治・慶応年間(1864―68)から明治初年にかけて,この地区の旱害は連続し,村勢の衰退はいちじるしくなったという。もともと水不足地帯のため,姫路藩でも貢租を低くして,凶作の年には手当米さえ支給するのが例であった。たとえば,印南新村だけに対する手当米は,1859(安政6)年33石,1864(元治元)年34石,1866(慶応2)年17石,1867(慶応3)年30石,1868(明治元)年30石,1869(明治2)年30.875石の累計199石余にのぼっている(文献⑩,3ページ)。
 これらへの対策として,野寺村の里正(庄屋)であった魚住完治(後に山田川疎水の首唱者)は,新田開発を企画した。溜池を新設して山林を水田にかえ,同時に土功費をもって貧民救済にあてようとしたのである。江戸時代末期には,この地区でも水不足のため水論がきびしく,藩では溜池の新設を禁止していた。完治らは古記録を探して,溜池数がひとつ減っていたことを発見し,その補完として新設を出願した。姫路藩では工事費補助として400円を与え,1868(明治元)年2月に起工した。完治の兄の魚住逸平(後に山田川疎水の中心人物となった逸治の父,医者でもあったらしく,完治に家督を譲ったのか,あるいは義兄であろう)らの村の有力者が委員となり,村受工事によって翌1869年2月に竣工している。これが辰己池であり,40町の新田を開いた(文献⑩,102ページ)。
 他方,東に接する神出地区の明石郡東村の藤本増右衛門が,明治初年に独力で山田川からの取水路の測量を計画している。すでに1771(明和8)年に同村の某が,はじめて山田川からの引水を計画測量し,1826(文政9)年には野寺村や国岡新村などの名主たちが工事を出願しており,藤本はその先例を実現しようとしたのであろう。
 1871(明治4)年の廃藩置県によって,姫路藩と忍藩は廃止され,加古郡は姫路県(翌年に飾磨県)に編入された。新政下の新業を期待した野寺村の魚住完治らは,山田川疎水の計画を立案したのである。国岡新村の福田厚七や神出村の西村茂左衛門らと協力し,前記の東村の藤本を測量手として1872(明治5)年から実際の測量に着手した。しかし引水地の水源とこの台地とでは,当時はまだ県域が異なっており,また大工事に必要な資金の目算もつかなかったらしく,出願するには至らなかったのである。

Ⅲ 淡河川疎水の成立過程

1 山田川疎水の発企
 1878(明治11)年9月,野寺村総代魚住完治をはじめ,蛸草新村岩本須三郎,国岡新村福田厚七,印南新村丸尾茂平次,野谷新村,加古新村の総代は,山田川疎水の水利実測願を兵庫県令森岡昌純に提出した。これが淡河川・山田川疎水が具体化するための第一歩であった。
 この計画の背景として,次の要因をあげることができるであろう。第1に,1876(明治9)年8月に,この地方は兵庫県に統合され,旧藩ごとなどに分散していたこれまでの区域が集合され,江戸時代以上の強力な集権体制が確立した。このため県域が異っていた山田川疎水も,兵庫県の支配をうけることになったのである。
 第2は,1867(慶応3)年における神戸の開港を契機に,とくに安価で良質な外国綿の輸入が激増し,加古地方の特産の一つであった棉作や織物が圧迫をうけはじめたことである。とくに1880(明治13)年暴風によって,棉作は大きい被害をうけ,衰退傾向を決定的にする(文献①,97,98ページ)。したがって棉作や織物の転換策として,疎水による開田が望まれたのである。
 第3は,1875(明治8)年10月から開始された地租改正にともない,この地方ははなはだしい増税となり,その対応策として新田開発が望まれた。たとえば,表3のように,旧税に対する新税の割合は,もっとも高い蛸草新村で4.7倍,ほかの村でも2―3倍に達している。増租の理由は,一つには,この地方の棉作は衰退傾向にあったとはいえ,まだ大きな比重を占め,水不足にそれほど苦しまなかった他の地域の棉作収入を基礎にして,高い地価が算定された結果であろう。二つには,当時の兵庫県庁には長州士族をはじめ,「藩閥政府」の代理者が支配力をもち,地租改正における「優等県」として高い地租を定めた傾向が強かったようである。そのうえ,兵庫県の地租改正はようやく1878(明治11)年7月におわり,1876,77年の新租(地価の3%)と1978年の改租(改正反対一揆によって地価の2.5%に減租)の3年分を一度に支払えというひどい指令が下された。重租に苦しむ農民が減租あるいは延納運動をおこすとともに,水田の方が増租率が低く,当時は米価が上昇傾向にあったから,開田への希望を強めたといえる。
表3 母里地区の地租改正
 第4に,これに加えて,1876,77(明治9,10)年には,この地方ははげしい旱害におそわれた。棉作などを中心とした畑作は,大きな被害をうけた。減収によって所得は急減し,地租の納入に苦しんだり,地価の低落によって借金先さえ見あたらないという農民がふえたのである。とうぜん,安定した水利や開田への意欲が増大したといえる。
 第5に,内務卿大久保利通が建言した「華士族授産及び殖産興業」政策が1878(明治11)年から実施され,この機運に乗じて淡河川疎水を新設しようと企画したことが考えられる。政府の大規模な殖産興業政策にのって,たとえば福島県においては全額国費による安積疎水が計画中であり,また栃木県においても県費や国費の補助をうける那須疎水が進行中であった。山田川疎水のように,遠距離の水源から大規模な受益地に,高度な技術で取水する事業は,日本ではこれまででも民間から実施することはできなかった。地域ごとの利害対立を調整したり,責租の基礎となる大規模な幹線水利施設を建設することは,日本の場合すべて支配者の行うべき業務であったのである。そのうえ,巨額の費用も,支配者の負担か,あるいは補助,または官費立替えに依存せざるをえないのが通例である。これらの事情をふまえ,殖産興業政策に乗じて,官営工事による山田川疎水が出願されたといえる。

2 地租改正と山田川疎水
 1878(明治11)年9月に出願された山田川疎水も,その後は難航を続けたのであった。
 一つには,地区間の利害調整に手間どり,また当時の景気変動のなかで工費負担について合意が得にくかったためと考えられる。たとえば,当初の計画を発企した6カ村のなかから,国岡新村と加古新村が「故無ク分難」し,その後は新しく草谷・下草谷2村が加盟している。おそらく国岡・加古2村は,これらの地区の下流部に位置し,水利や水田の条件により恵まれ,疎水の必要度がほかの村ほど切迫していなかったといえる。また1876(明治9)年には,草谷川に河原田井堰が建設されており,非灌漑期の8月から翌年3月まで(いずれも旧暦)の余水を引水し,加古新村などが受益している。さらに国岡・加古の2村では,母里地区6カ村のように,全村をあげて地租の修正や延納の運動には固まってはおらず,これらをめぐり,地域的な意見の対立が潜在していたのであろう。
 二つには,地租納入をめぐり,母里地区と兵庫県とがいわば係争中であった結果といえる。山田川疎水の工事を直営し,費用を前渡する立場にある県庁にとっては,たとえ重租であったとしても,とりあえず地租を支払うのが前提だと考えたのであろう。しかし地元にとっては,重租であるから,これを修正し,さらに負担力を増すために水利改良が必要であると主張したのである。折しも,当時は自由民権運動の高揚期である。棉作や旱害の被害がはげしく,また水利条件が最低であった母里地区では,強力な指導者のけん引も加わり,地租の修正と延納,山田川疎水の開設をめぐり,兵庫県庁と「大相撲」を演ずることになった。
 この中間にあって,両者の調整をはかろうとしたのが,加古郡長北條直正であった。1879(明治12)年1月に地方自治の制度が改正され,これまでの大・小区制は廃止され,郡・町村制が整備された。この地区は加古郡に統一され(郡役所は寺家町―現在は加古川市),郡長には隣接の2小区長であった北條が新任した。北條は林田藩(1万石,ほかに新田5千石)の旧臣であり,藩廃置県の時に同藩の参事を勤め,また幕末には新田開発に参画したことがある(当時44才,文献⑩,68ページ)。
 新任の北條郡長に対し,山田川疎水の発企者である魚住完治らは,その必要を力説した。自分の新田開発の経験と民生の基礎は土功と民力にあるとの信念をもっていた北條は,山田川疎水を推進することを決意した。まず郡内の事情に詳しい魚住逸治(完治の甥)を郡書記に任じたほか,別に郡役所内に疎水掛の専任書記をおき,その事務を担当させたのである。
 なお魚住逸治は,完治の兄にあたる逸平の長子で,1857(安政4)年5月に野寺村に生れた。古今の漢籍にも通じた抜群の秀才であり,父の歿後には叔父の完治を助けて,地租の軽減や山田川疎水の実現などに努力した。当時わずか20才前後にすぎなかったが,やがてこの地域の中心人物に押されていくのである(文献①,484―85ページ)。
 かくて翌月の1879(明治12)年2月に,山田川疎水の実測願が地元の6カ村惣代から愛知県令に提出された。翌3月に県土木課から係員が出張し,はじめて正式の現地測量が実施されたのである。ようやく永年の宿願が具体化する見通しが固まってきたにもかかわらず,困難は事業費の民費負担であった。旧藩時代には,これらの大工事は藩の直営か,またに補助金が下付されたが,明治後は民費負担が原則である。翌1880年の計算でも,工費合計1万4600円を必要とし,棉作の不振と旱害に苦しみ,とくに高率の地租を賦課された地元農民には,工費負担の自信がなかったといえる。惣代はたびたび会合を開いて協議を行なったが,結論をうることができなかった。
 他方,県庁では,疎水工事の引きかえともいうべく,未納あるいは延納中の地租の納入を迫った。折しも,1879(明治12)年は1876,77(同9,10)年以上の大旱ばつであり,畑作物は大損害をうけた。旧租額の約3倍の新租を,しかも1876年からの4年分を一度に納入するとなれば,1877年の減租があったとはいえ,旧租額の7―8倍にも達した。旱害による棉作などの不振のなかで,この地区の農民が困却したのもとうぜんであろう。とくに水利の限界地で,畑地の多い印南新村では,戸長の丸尾茂平次を中心に粘り強い減租および延納の反対運動がつづけられた。
 しかし,一たび決意した地租はなかなか修正しにくいのである。とくに当時の兵庫県の租税官は,地租改正の「優等県」たらんとの功名心が強く,納入を強要してきた。中間に立った北條都長は調停に尽力したが,双方ともゆずらない。これに呼応するかのように,山田川疎水計画も,その後の進展がみられないのである。

3 播州ぶどう園と山田川疎水
 折しも,殖産興業の政策に沿って,内務省勧農局はこの地方にぶどう園の設置を求めてきた。
 すでに1879(明治12)年1月に,勧農局は神戸の三ノ宮に1町余の苗木仕立所を借入し,オリーブの育成をはじめている。1883(明治16)年にはさらに神戸区の山手通に1町7畝余を買収し,翌年にも同所近くの官林3町を借用した。はじめは三田育種所に属し,神戸支園と称していたが,1884(明治17)年5月からは神戸オリーブ園と改称している。瀬戸内海の暖地に,政府は西洋果樹の育成をはかったのである。なお同園は,1885(明治18)年6月に次の播州ぶどう園の所管に移っている(文献(25),243―48ページ,(26),396―406ページ)。
 政府はまた同じ1879(明治12)年末には,大阪府の堺市南方3里にある信田郷に,ぶどう園の設置を計画した。しかし土地所有者の五代友厚(薩摩出身,当時大阪財界の指導者)との買収交渉が不調におわり,計画は挫折した。
 新しいぶどう園用地を周辺に求めていることを新聞の報道などで知った北條郡長は,地租納入に苦しむ印南新村に誘致し,用地の買収代価で地租代入をはかった。地元の了承を得た北條は,担当の福羽逸人(後に宮内省出仕,福羽いちごや北海道の男爵いもの奨励者)に会い,事情を説明して交渉に入った。しかし勧農局では,購入代価を反あたり2―3円と考え,地元では6円50銭(地価の平均は23円)で譲らず,難航を重ねた。ついに1880(明治13)年元旦に,北條が差額の50銭(30町で150円)を私償するとして,ついに反あたり6円で妥結している。
 同年2月に,印南新村の畑地30町2反8畝19歩(文献(26)
では30町1反9畝21歩)が代金1875円50銭(同1870円14銭)で買却され,この代価は村内で共同計算のうえ,すべて滞納中の地租に振りむけられたのである。なお北條が私弁するはずであった150円は,結局は村民から辞退されたようである。
 かくて,印南新村に国営の播州ぶどう園が設置(現在のぶどう池の付近であろうか)されたことは,その代価で地租の一部を納入できただけではない。一つには,同園の常雇や臨時雇,あるいは建設事業などによって,地元への労賃や販売収入を還元できたことがあげられる。二つには,同園の視察に内務省や農商務省らの中央の顕官が来村し,この地方の実情を承知し,さらに山田川疎水の実現に大きな便益が与えられたといえる。
 たとえば,1870(明治13)年には松方正義内務卿の代理として田中芳男(權大書記官)と石井土木局長が視察し,山田川疎水の工事直轄や工費の一時繰替え,あるいは農商務省から南一郎平技師の派遣などの契機となっている。また1882(明治15)年には農商務大輔(次官にあたる)品川弥二郎が,翌1883年には大蔵卿松方正義,農商務卿西郷従道(隆盛の弟)らがそれぞれぶどう園に出張し,この地方の情況を視察している。とくに松方正義は,大久保利道の直弟子で,大久保の暗殺(1879年)後は殖産興業の推進者となり,とくに安積疎水や那須疎水なでに尽力しており,山田川疎水にも声援を惜しまなかったといえる。
 なお,播州ぶどう園は,1881(明治14)年に新設された農商務省の所管に移り,1885(明治18)年6月からは神戸オリーブ園をも管理した。しかし経費節減のため,翌1886(明治19)年4月には,両園ともに前田正名(薩摩出身,もとの農商務次官,大日本農会会頭などを歴任)に経営が委託され,1888(明治21)年3月にともに前田に払下げられ,その幕を閉じている(資料(25),227―41ページ,(26),256―393ページ,⑩,23―28ページ)。
 また,播州ぶどう園の設置に功のあった同園長福羽逸人は,1880(明治13)年8月の復命書において,この地方の民情を次のようにのべている。「…挙村ノ民俗ヲ考フルニ性頗ル懦ニシテ苟モ安ヲ倫ムヲ謀リ只眼前ノ小利ヲ射ルニ汲々タルノミ故ニ近歳本村人民ノ貧患ノ極ニ陥リシモノ多キハ蓋シ旱魃ノ頻リニ至ルニ因レリト雖トモ一ツハ以テ勉ムヘキヲ努メサルノ致ス所ナルカ如シ」(文献(26),286ページ)。赴任そうそうで,まだ十分に民情を掴んでいない点もあったであろうし,また日本ではもっとも早く開けた瀬戸内海ぞいの商品作物地帯であるため,民情の「はしこさ」から一部はあたるところがないとはいえないかもしれない。しかし,印南新村を中心としたこの地区は水利の限界地帯であり,旱害と棉作の不振に押しつぶされ,さらに旧藩時代の数倍に及ぶ重租を強制されていたのである。前途に希望を失った農民の取りうる方法といえば,爆発的な一揆か,あるいは失意の道なのである。支配者というものは,その立場に陥らないかぎり,農民の心情を理解することは不可能なのであろう。
4 疎水の再願と地租の滞納処分 播州ぶどう園の設置を契機に,印南新村ではその全代価を滞納地租の一部にあてることができ,県庁に対し山田川疎水事業を進行させる環境を開いたといえる。
 ただちに1880(明治13)年3月,疎水に関係した野寺・蛸草・印南・野谷・草谷・下草谷の6カ村(同年7月からは連合戸長組合にまとまり,1889(明治22)年4月には母里村に統合)は,はじめて連合会を開催し,方針や工事費などを討議した。議長は23才の魚住逸治であり(副議長は松尾要蔵),42名にのぼる聯合会議員の要望をまとめ,事業はすべて県庁の統轄をうけ,完成後に工費1万4600円を各村が分担することを決議し,再願書を県命に提出した。
 同1880年12月には,連合村は兵庫県に対して疎水工事の直轄と工事の一時繰りかえの願を提出した。なにぶん大事業であるうえに,連年の旱害によって村民が疲弊していることを理由にし,工費相対額の地券を低当にすることを申出ている。当時は,国営の安積疎水や官費補助をうけた那須疎水,あるいは県費立てかえによる愛知県の明治用水などの事業が進行中であった。山田川疎水の関係者も,これらの先例を参考にしたのであろう。
 これらの結果,兵庫県庁もようやく行動を再開した。当時の殖産興業政策にのって,疎水事業でも西日本の「模範県」たらんとの功名心があったのかもしれない。すでに1880(明治13)年3月からは県庁による疎水実測が再開され,土木課員が加古郡役所に専従したほどである(文献⑩,31ページ,⑫,⑬,⑭,⑯では1881年となっている)。おそらく北條郡長の尽力があったのであろうし,さらに県の土木課では山田川疎水に対してきわめて積極的な態度を示すようになった。
 他方,母里地区の地租滞納はなお持続せざるをえない。租税課につらなる県行政の立場からいえば,地租の納入が完了しない以上,疎水の工事には難色を示さざるをえない。県庁の内部でも,地価修正と疎水を併進していた北條郡長,疎水推進派の土木課,地租収納にこだわる租税課との間に対立が深まったのである。
 折しも,1880(明治13)年5月の太政官布告により,地価の特別修正が可能となった。重租に苦しんでいた母里地区6カ村では 同年8月に地価修正願(起草は魚住逸治)を提出し,翌9月には大蔵省の有尾敬重(『本邦地租ノ沿革』の著者)らが調査のため来村している。局面が転換してきたのである。
 しかし,租税課とその趣旨にのった森岡県令は,あくまで地租納入に固執した。地元でも地価修正と延納の願をつづけ,ついに両者の対立は,いわば頂点に達した。ついに1881(明治14)年2月に,県庁はこれまでの山田川疎水に関する出願をすべて却下し,これを不許可としたのである。同年4月に,母里地区では魚住逸治の起草による切々たる「摂津国八部郡山田川ヨリ 新水路開通ノ儀ニ付再懇願」を県令に提出したが,しばらくの間は両者の角逐が続くのである。
 同じ1881年の6月,地価修正が実現した。母里地区の蛸草村を除く5カ村について,畑地租額累計3647円余に対し,修正2437円余(1209円余の減,このうちぶどう園地100円を除き1109円余)である。ただし,これは1876(明治9)年の地価の3%に対する減租で,翌年からは地租は地価の2.5%となったから,1877(明治10)年以降については,累計1008円余の減額となるのである。しかも,この修正は1881年以降に実施されるため,1876―80年の5か年増租額合計6049円余は据置かれ,地元では納入せざるをえないわけである。
 また同時に,母里地区6カ村がたびたび出願してきた1876,77(明治9,10)年の改正増租の追徴額も延納が認められた。延納期間は,蛸草新村30年,印南新村・野谷新村・野寺村25年,下草谷村20年,草谷村15年という長期であった。(文献⑩,41―48ページ)。
 以上の地価修正が公示されると,県では滞納中などの地租の納入を迫ってきた。折あしく,1881(明治14)年には松方正義大蔵卿による緊縮財政が断行され,はげしい不況に陥り,物価は暴落してしまった。土地の抵当流れや売買が激化し,全国総耕地の約4分の1が流動したほどである。母里地区でも,納税に苦しんだのはとうぜんであろう。中間に立った北條郡長は,県と地元の調整に苦しんだが,県では地租不納者の処分を強行してきた。とりわけ畑地の多い印南新村では納租に苦しんだため,1881(明治14)年末に不納者221名の畑地242町余が公売されることになった。これに怒った農民約200名が,3里の道を歩いて加古郡役所に押しかけ,一揆直前の情況になったのである。
 北條郡長はこれをなだめ,公売によっても事実上は入札者のないよう奔走したようである。とくに地価の暴落によって,購入希望者は1名もあらわれず,とりあえず公売地は官に没収された。北條は播州ぶどう.園の売却代金を地租代入した例にならい,印南新村の畑地の一部の購入先を求めた。大阪の豪商藤田伝三郎が100町ほどを購入する希望などがあったようであるが,ついに大阪府の実業家矢野貞与が桑用地として34町余を2000円余(反あたり6円)で購入した。印南新村でも,ぶどう園の例にしたがって,村内で売地をさしくりし,この代価すべてを滞納地租にふりかえたのである。やがて北條の努力で,官に没収中の畑地242町余は,以前の地主(ただし売却分34町は,村内で融通)に還付されたのである(文献⑩,35,48―57,114ページ)。
 北條郡長のあっせんと印南新村地主の協力によって,2度にわたって畑地64町余を売却し,その代価はすべて滞納地租の支払いに振りむけられた。これで,1878(明治11)年から難航を続けていた母里地区の重租問題はほぼ解決したかにみえた。しかし租税課を中心とした県当局は,地租をめぐって事ごとに県の方針に反したとして,1882(明治15)年4月に農民に同情的な北條郡長を解任したのである。
 地元の留任運動も効なく,同情された北條は,郡選出の県会議員石見厚一郎が「義侠的」に辞任したあとをうけ,補欠県議に当選した。山田川疎水の推進者の一人である魚住逸治も,同年2月に25才の若さで県会議員に当選していた(1890年まで,同年に衆議院議員)。魚住は翌1883(明治16)年1月には大隈重信の率いる立憲改進党に加盟しており,温健な民権論者として衆望を集め,疎水工事の実現にも力を注いでいた。たとえば,1882(明治15)年2月には,魚住は疎水聯合会議長の名目で,兵庫県令に山田川疎水の実地巡視の請願書を提出している(文献①,486ページ,⑩,58ページ)。
 他方,後任の加古郡長は県の方針にしたがい,工事の前提としてまず地租の納入を要求し,不納者は法規どおりの土地公売処分をもって望んだ。地元からは地租延納の再願などが行われたが,ついに1884(明治17)年11月には,1878年以後の地租,および1884年度の地方税の土地処分が実施され,母里地区6カ村では不納者440名の畑地140町余が公売されることになった。しかし,実際に入札となったのは219名の畑地70町余であり,のこり221名の70町余は不毛地のため購入希望者がなく,そのまま官に没収された(1887年に旧地主に反あたり平均1円20銭―課税地価は23円―で下戻された)。当時における母里地区6カ村の総戸数は730戸であったから,6割以上の農民が土地の権利を失ったことになる。
 また,1885(明治15)年6月における「人民負債調」でも,抵当差入れ中のもの6万2692円余,無抵当のもの3万2200円,合計9万4896円余に達した。1戸あたりに平均して,実に130円余の負債をかぶったことになる(文献⑩,62―65ページ)。
表4 母里地区の戸数と人口
 旱害と棉作の不振,さらに増租と土地処分は,とうぜん母里地区の戸数減をもたらした。表4のとおり,明治初年の830戸から1880年(明治13)年には808戸に減り,地租増徴を一つの契機として急減に転じ,1892(明治25)年には633戸の最低を示している。約20年間に4分の1にあたる約200戸も減ってしまったのである。なお,その後は淡河川疎水による開田などの影響も加わり,明治末期には692戸(1戸平均6人,1880年には4.7人)に回復している。

5 山田川疎水計画の再開
 増租の納入に抵抗を試みた地元側は,同時に山田川疎水の計画再開に努力した。とくに国営ぶどう園に来訪する政府の高官に働きかけ,兵庫県庁に圧力をさえ加えようとした。たとえば,1882(明治15)年12月に農商務大輔の品川弥二郎が来村し,翌1883年7月には松方正義大蔵卿,つづいて西郷従道農商務卿が出張してきた。この機会をとらえ,地元の疎水推進者は現地の実情を訴え,工事実現を請願したのである。
 これらの事情を背景にして,1883(明治16)年1月から,県庁による疎水の実測が再開された。とくに現地の地質が不良であり,工事の困難や工費の増大が予想されたので,県では政府に調査を要請した(文獣⑫・⑭・⑯では1881年となっている)。同年3月に農商務省の南市郎平(安積・那須疎水などの開拓調査などを担当した人)以下を派遣し,精密な調査が加えられた(文献⑩,61ページ。⑫・⑭・⑯では1881年2月となっている)。かくて1883年4月に,森岡県令がはじめて現地を視察し,ようやく疎水計画が具体化してきたのである。
 しかし,測量の結果,難工事が予想され,物価の上昇も加わり,工費は1880(明治13)年の1万4600円に対し,9万円ほどに急増したようである。この負担をめぐり,地元では意見が対立したはずであり,軽減のため加入地域の拡大をはかったとも考えうるが,合意はえられなかったようである。
 ようやく1884(明治17)年3月に,地元から山田川疎水についての水路開設の起工願が提出された。なおこの願書は散逸したらしく,加古郡長の副申には,加古新村ほか20カ村が加盟したことになっている(文献⑭,26ページ)。しかし実際に,加盟が実現したのは1886(明治19)年1月であり,また同時に提出された疎水の事務委員名は野寺・印南・草谷・下草谷・野谷の5カ村のみであり,蛸草新村の分を欠いている(文献⑩,61―65ページ)。おそらく,工事の見通しが立ちはじめたことと,工費分担金の軽減のために,組合加入の交渉が進みながら,まだ具体化しなかった事情を反映しているのであろう。
 さらに,これまで地租滞納をめぐり,工事に消極的であった森岡県令は,滞納処分の強行や政府高官の疎水支援の動きに対応したのであろうか,逆に積極策に転じている。1884(明治17)年には,森岡県令は地元の出願にのり,政府に対して「地方振興ノ為メ疎水起工ヲ必要トスルモ其民力ハ到底工費負担ニ耐ヘザル」ことを詳述し,国庫金貸与をさえ上申しているのである(文献⑭,27ページ)。この国庫金貸与のためには,できるだけ加盟地域の大きい方が有利と考えうる。県庁や加古郡役所は,このために加盟村の拡大にのりだしたのかもしれず,地元の企画者たちもこれを推進したのかもしれない。
 他方,1881(明治14)年から実施された松方正義大蔵卿による緊縮財政も,ようやくその効果があらわれはじめ,日本の資本主義はこのころから軌道にのりはじめた。1886(明治19)年からは,いわゆる企業勃興がわきおこるのである。この地方でも,1867(慶応3)年における神戸港の開港を契機に,近代産業が進展していた。1874(明治7)年における神戸・大阪間の東海道線の開業や,1888(明治21)年における山陽鉄道の神戸・明石間開通を控え,新しい起業熱が高まってきたのである。
 農業においても,播州ぶどう園や神戸オリーブ園に代表される洋式技術が導入されただけではない。当時の大農論の動きに呼応して,新しい農業技術や商品作物への欲求が拡大してきた。たとえば,母里地区の隣村である美嚢郡志染村と明石郡神出村にまたがる志染開墾地では,九鬼隆輝(もとの摂津三田藩主)が1886(明治19)年から洋式大農場を試みたのである。同地は1865(慶応元)年に加東郡市場村の近藤文蔵が明石藩に出願して開墾をはじめたところである。開墾の田畑宅地が28町(農家33戸,約100人)に達したあと,1886年に九鬼家の所有に移り,アメリカから1~6頭だての洋犂3台を輸入するなど,2万余円の巨費を投じて洋式大農場を試みたのである。しかし収支がつぐなわないために1890(明治23)年に直営大農場を中止し,茶樹の裁培にかえ,やがて小作開墾に転換している。淡河川疎水に対しても,水路敷や池敷を無料貸与し,かわりに灌漑10町分の給水をうけるようになるのである(文献(27),144,45ページ)。
 こういった加古郡内外における企業勃興や勧農事業の動きに呼応して,山田川疎水の計画もようやく拡大と具体化が進んだ。まず1886(明治19)年1月には,県庁や郡役所の奨励も加わったのであろう。疎水への参加村が,これまでの母里地区6カ村から,さらに天満地区の10カ村と加古新村,それに平岡地区の2カ村と二見の2カ村(それぞれの地区は1889年の町村合併で各村に統合),合計15カ村がふえ,印南新村ほか20カ村水利組合と称えるにいたったのである。前年(1885年)10月に森岡県令が三菱会社と郵便汽船を基礎にした日本郵船会社の社長に栄転したあと,新県令内海忠勝はさらに山田川疎水の工事実現に力を注いだ。内海県令は政府にふたたび国庫金の貸与を申請し,ようやく工事費の半額にあたる4万5千円の借用が可能になった。ついに山田川疎水を実施する目途が固まったのである。
 これをうけて,1886(明治19)年3月に関係21カ村は,はじめて水利土功会を組織し,工事実現への第一歩を印した。1878(明治11)年9月における最初の出願から,実に9カ年の歳月を経ている。

6 山田川疎水から淡河川疎水へ
 1886(明治19)年3月に印南新村ほか20カ村水利土功会をはじめて組織され,疎水工事を請願したことによって,ようやく計画は再開された。内海県令は工事の難航が予想されたので,内務大臣(前年の1885年10月から太政官制から内閣制度に改革)に技師の派遣を要請した。同年4月から内務技師田辺義三郎が出張し,県の土木課員らと実測を開始した。
 田辺らの調査の結果,予想どおり山田川からの取水は用水路敷の地質がきわめて不良であり,適当でないとの判断となった。付近に水源を求め,新しく淡河川から取水し,御坂地点においてサイフォンで美の川をまたぐ案を立てたのである。田辺は当時の洋式土木を学んだ新進の技術官僚であり,またサイフォン通水もすでに前年の1885(明治18)年4月からイギリスの陸軍工兵大佐パーマーが横浜市の新式水道において実施中であった。田辺らはパーマーの現地踏査をも加え,新式技術にもとづき,山田川から淡河川疎水への切りかえを主張した。このため新しく測量と設計を行わざるをえなくなり,翌1887(明治20)年5月にようやく工事設計と予算調査などをおえたのである(文献⑩,70,71ページ,(28)・(29))。
 疎水工事と直轄し,工費の国庫貸与に努力した兵庫県庁では,とうぜん田辺らの淡河川疎水案に同調し,「官庁主導型」の計画を強行しようとした。しかし地元では,この新案に「疑惑ヲ懐ク」ものがでてきたのもとうぜんであった。とくに農業水利では日本最初ともいうべきサイフォン工について,大きな不安があったようである。水利不足に苦しみ,発企地でもあった母里地区では,淡河川案に賛成せざるをえなかったであろうが,後で加盟した地区ではとくに疑念が多かったといえる。水利土功会を開いても,議員の出席が少なく,新疎水についての工費の決定ものびのびになった。水利土功会の管理者であった加古郡長は,県知事(県令を改称)の命をうけ,強権を背景にして説得に力めたようである。これまでにくらべ,地元と県庁の立場は逆転したといえる。
 他方,淡河川疎水によって,新しく用水敷などを買収され,また水利慣行に変化をうける水源地域でも,反対の動きがあったはずである。民意をうけた美の郡長が,新疎水に「躊躇」の色を示したのに対し,県知事は「不服ならば辞表」を出せと迫り,ようやく地元の説得をえたようである(文献⑩,70―71ページ)。
 この間にあった,魚住逸治を中心とする母里地区の有力者は,新疎水の同意をうるため全力をあげた。ついに,1887(明治20)年6月に淡河川疎水の工事予算を決定する水利土功会の開催にこぎつけたのである。しかし同月の5日には議員総数21名(各地から1名ずつ)のうち8名しか出席せずに閉会,翌6日も11名にすぎない。議長である加古郡長は係官を派遣して議員の出席を催告し,翌々7日にようやく16名が出席した。しかし淡河川疎水への転換と工費予算については,賛成8名,反対8名の同数となった。議長である郡長の採決によって,ようやく原案を成立させるというきわどさであった。賛成は発企村の6名と,魚住らが強力に説得した結果,反対から賛成にまわった国岡・加古両村の選出議員であった(文献⑩,73,74ページ)。
 折しも1887(明治20)年には,地元から要望の強かった畑地価の修正が,1881年につづいて実施された。その後も,1889(明治22)年には田畑の地価修正が行われ,淡河川疎水の完成後の1893(明治26)年には開田にともなう地価据置が許可された(文献⑩,72,81,96ページ)。重租に苦しんできたこの地方でも,ようやく安定感がひろがっていったといえる。
 他方,当時の企業勃興を背景にした産業や都市の展開は,米価の上昇傾向をもたらした。疎水の開設をうけて,水田をふやそうという意欲が浸透したといえる。
 これらの結果,淡河川疎水に不安を感じていた地主のなかでも,しだいに賛成の動きが強まったようである。推進者たちの努力に加えて県庁や郡役所でも説得につとめ,しだいに地域の合意がまとまったといえる。1887年12月には上流地域との間に水利権を確定し,翌1888(明治21)年1月からようやく疎水工事が開始されたのである。

7 淡河川疎水の起工
 1888(明治21)年1月にようやく起工された淡河川疎水も,技術面と資金面で難航を重ねた。
 第1に技術面では,予想どおり現地の地質が不良であり,地形上から必要なトンネル工事が難問であった。当初の水路工事は,延長2万6309メートルのうち,約20%の5200メートルが28カ所にわたるトンネルであった。これらの工事は2年余をへて,ようやく完成したが,とくに芥子山トンネル(682メートル)が難関であった。土質がとりわけ脆弱で湧水が多く,空気の流入も悪く,1昼夜にわずか2尺の掘さくという状態さえおきた。ついに請負業者を解約し,県による直営工事によって,3年4カ月後にはじめて貫通をみている(文献⑯,8,9ページ)。
 第2は,資金面である。難工事と当時の山陽鉄道の延長(1888年―明治21年―12月に明石・姫路間が完成し,加古郡内に土山・加古川の両駅が設置されることになった)などにともなう労賃や資材の価格上昇により,工費は増大した。しかし地元では,旱害や棉作の不振,あるいは地租増徴などによって,負担力に限界があった。工費負担の徴収さえ困難であったから,追加予算の決定には水利土功会のなかでも紛糾を重ねざるをえなかった。削減を加えながらも,最初の6万9255円余から8万4473円にふえたのである。
 この工費のうち,4万5000円は国庫からの貸与金であり,1889年以降の毎6月に無利子で1万5000円ずつ地元から返済する約定であった。第1回の返済期になったが,同年の1889年には台風に襲われた。とくに発企地元の母里村(同年4月に6カ村が合併)では常の如く最悪の被害をうけ,工費や地租などの支払いに土地を担保とする者が多かった。同年はじめにおける母里村全体の負債総額は2万7140円余に達し,1戸平均で41円余を数えたという。これらの事情から,1889年10月には国庫貸与金の下賜願が関係21カ村から提出され,翌1890(明治23)年8月にも再願されている。県庁は一時延納を認めたあと,ついに1892(明治25)年3月には政府から国庫賃下金の返済免除が指令された(文献⑭,58―67ページ,⑯,7―9ページ)。
 しかし,これ以外にも淡河川疎水の地元負担金は当初で2万4255円余,追加後は3万9473円余にのぼった。さらに支線や溜池の工事費に約5万8586円,開田のために約5万3491円を予定していたから,合計13万5千円以上の支出を必要とした。これに耐えた農民はそう多くはなく,土地の担保による借入にも限りがあった。加古郡長や県知事でさえ,地元負担金の調達のため,地主からの徴収を督励したほか,債主の募集に努力したほどである。これらの過程で,土地を失った地主も少なくなかったはずである(文献⑭,58―61ページ,⑯,12ページ)。
 以上の困難に苦しめられながらも,1891年4月にさしもの難工事であった芥子山トンネルがようやく貫通し,ただちに通水試験が行われた。そして淡河川疎水の完成にともない,地元では支線や溜池の建設に着手した。たとえば,幹線の完成に前後して,まず蛸草新村で岩本須三郎らの村内有力者が広谷池の増築を起工(完成は1897年)している。これにつづいて,翌1892(明治25)年には野寺村の魚住完治が兵庫県の沢田清兵衛と発起して穴沢池を起工(翌年3月に竣工)し,また魚住は村内有力者と協議して1894年以後に野畑池・小出池・中池・北池・経ノ池・穴沢池の新築や増築に努力した(文献⑩,100―103ページ)。
 そして,淡河川疎水は1891年9月から翌年5月まで通水を開始し,1892年にははじめて待望の水田に灌水を行うことができたのである。なお,この間,1890年6月に制定された水利組合条例にもとづき,これまでの水利土功会を改組し,同年11月に加古郡母里村外4カ村普通水利組合が設立されたのである。

8 淡河川疎水の災害と完成
 淡河川疎水が通水を開始した翌1892年7月に,この地方は激しい豪雨におそわれた。地質が不良なうえに,工費を節約したために工事の不十分さが加わったのであろう。完成そうそうの水路の築堤は崩壊し,陥没したトンネルも多く,たちまち疎水は通水が不可能となってしまった。
 復旧工事を急がねばならないが,すでに当初の工事によって,地元の負担力はいわば涸渇してしまった。応急工事ですら,これに応ずる余力はなかった状態である。国や県の補助金によらざるをえないわけである。
 折よく,水利組合の指導者である魚住逸治は,代議士として東京に滞在していた。逸治は,すでに疎水工事の実行に尽力したかたわら,1883(明治16)年から1890(明治23)年まで加古郡選出の県会議員などを勤めたほか,新聞や雑誌を経営するなど,この地方のホープであった。ついに1890(明治23)年から開設された国会には,加古・印南2郡から選出されて代議士(34才―改進党系)となり,第1議会では予算委員,第3議会では請願委員などを勤めた(1994年―明治27年―の第6議会まで,連続4回の当選)(文献①,487―88ページ)。
 疎水災害の報をうけた魚住逸治は,復旧工費を地元で負担することが不可能であるため,官費の援助を引きだすため「死力」を尽して計画や奔走につとめた。内務省などにも打診したのであろう。ついに河川規制にもとづいて,府県の水害復旧工事に国庫補助をうける方法を案出したのである。魚住はただちに水利組合の指導者である岩本須三郎(1894年まで初代の母里村長)と松尾要蔵に打電した。岩本・松尾はただちに水利組合長を兼ねた加古郡長に通知し,組合委員と協議した郡長は県知事に申請したのである(文献⑩,93,94ページ)。
 当事の周布公平知事は,この案に同意し,土木技師に工事設計を命じた。ついに18万余円という巨費を投じて「完全無欠」な工事を行う案を定め,「至難」の工事は県の直営(工費15万19円余,うち8割は地方税補助)とし,通常工事(2万8750円余)は組合の負担とした(文献⑭,68―77ページ)。水利組合でもこれに賛成し,官費補助による12万15円を除いた自己負担分の累計5万8762円余については日本勧業銀行よりの借入8万9815円(文献⑯,62ページ,既設工事における組合負担金の未済分を加えている)によることになった。
 しかし工費の地方税補助をうるためには県会の,さらにその地方税補助への国庫補助をうるためには国会の,それぞれ承認が必要という難関が横たわっていた。魚住をはじめ,組合の幹部は,まさに「総力」をあげてこの案件の通過につとめた。まず臨時県会では,8万円ほどにあたる復旧工事に18万余円を投ずることに対し,とうぜん反対者が多かった。「県会創始より未曽有の騒擾」となったが,1892年12月にわずか2票差で賛成にきまったのである。ついで翌1893(明治26)年6月の国会では,普通の河川費補助とやや異なるといった疑問もあったが,貴族院議員を兼ねていた周布公平知事や衆議院議員魚住逸治らの努力で,「両院共異議無く可決」(文献①,488ページ,⑭,143ページ⑯,66ページでは2票差となっている)したのである。
 かくて工費の官費補助が決定したので,翌月の1893年7月から復旧工事が開始された。一部の委員の疑念を排して,知事は芥子山トンネルなどの難所に鉄管を布設するなどの問題もあった(文献⑭,74ページ)が,ついに1894(明治27)年5月に工事は竣工し,淡河川疎水はようやくにして完成したのである。
 この幹線と相野支線(広野新開から分れ,別所村をへて母里村草谷に至る)は復旧工事で完了したが,その他の支線や溜池の工事は,前にふれたようにそれぞれ地元で実施した。ほぼ1893,94年ごろには,これらも完成し,同時に開田も進んだ。支線と溜池の工事費合計は14万6886円にのぼり,開墾費は7万9052円に達した。これに,当初工事費8万4473円余(うち国庫下付金4万5000円)と水害復旧費17万8778円余(うち政府補助金12万15円余)を加えると,山田川疎水の起工から開田までに総計48万9189円(うち官費16万5015円余)の巨費を投じたことになる。
 この結果,母里・加古新・天満・平岡・二見の5町村1875町余が受益することになった。このうち新しく溜池などを設け,疎水をうけるもの(要水反別という。組合費賦課の基準面積)は1181町余(新しく開田したもの709町余)に達した(文献⑯,12―14ページ)。
 なお山田川疎水の完成した1894年の第6議会のあと,魚住逸治は代議士をやめ,家業と地方自治に集中している。その後は,1896年に新設された加古郡会の議員などに活躍したが,過労が遠因であろうか,1898(明治31)年から病気となり,翌1899年12月に43歳の若さで歿している(文献①,489ページ,④,30ページ)。
 また1894(明治27)年3月に,淡河川疎水の功労者の一人である岩本須三郎は初代母里村長の職を後進に譲った。村会では1879(明治12)年から初代の加古郡長を勤め,疎水の計画や地租問題で農民のために尽力した北條直正を押す動きが強まった。北條は県令や租税課の意に反したため,1882(明治15)年4月に辞職させられ,一時は押されて県会議員の補欠を勤めたあと,不遇であった。当時北條は大阪に住んでいたが,村を代表した魚住逸治らの強い要請によって,ついに1894(明治27)年4月から2代目の母里村長となった。北條は3期つとめたあと,1906(明治39)年3月に母里村長を辞任している(文献⑩,97ページなど)。
 淡河川疎水の実現に努力した人びとは,主な人だけに限ってみても,それぞれ大きな役割を果したことがわかるであろう。

Ⅳ 山田川疎水の成立過程

1 造田の拡大と揚水技術の発展
 淡河川疎水の完成にともない,これまでは農業水利の限界地であったこの地方にも,造田が急増し,しだいに経営の安定がもたらされはじめた。これらを目撃した周辺の農村でも,とうぜん開田への意欲が増大したであろう。とくに淡河川疎水の水利権や用水路用地などに協力した上流地域では,はじめから将来の疎水分与を条件にしたところがあったようである。
 これらの結果,淡河川疎水の水源を拡大するため,1887(明治20)年に廃案となった山田川疎水の復活が計画されはじめたのである。淡河川の普通水利組合では,日清戦争後の1896(明治29)年に山田川疎水の水路測量を再開したほどである。しかし,当時は淡河川疎水の復旧工事が終った直後であり,約9万円に近い幹線工事費の借入金は,その大部分が未償還であっだ。このため山田川疎水の復活案も測量設計にとどまったのである(文献⑭,81ページ,⑯,16ページ)。
 もっとも,組合外からの分水希望が強かったため,1898(明治31)年3月には明石郡の神出村と岩岡村の聯合水利組合(100町分),美嚢郡別所村の小林新田(10町)と興治新田(14町)に,それぞれ余水を分与している。さらに1900(明治33)年にも,美嚢郡の三木町・久留美村普通水利組合にも16町6反余分を分与しており,これらの累計は140町6反余にのぼった(文献⑯,14,15ページ)。
 他方,このころから加古郡地方にも資本主義の波は強まってきた。まず 1896(明治29)年設立の加古川・高砂両銀行をはじめ,翌年の播陽銀行(別府町,肥料の多木一族が経営)などの金融業が整備された。これと相前後して,日本毛織(加古川町,1886年)や三菱製紙所(1888年,高砂町)が発足し,日露戦争後には増本酒造(1905年)や堀川製紙所(1906年),鐘ケ淵紡績高砂工場(1907年)や別府製紙所(1908年)などが開業した。これらの工業化や都市化にともない,農産物への需要が増大しはじめ,加古地方の水利意欲を刺戟したのである(文献①,11―13ページ)。
 また,このごろになると揚水機を使用した灌漑工事が全国的に普及しはじめた。これまでは水を引水できない高地や水不足地などでも,ポンプ揚水が可能になったのである。たとえば,この地方でも,1907(明治40)年に東郷池ほか2池へ曇川から電気揚水し,10月から翌年5月までの非灌漑期に貯留した池水で,野口台の北側面に灌漑を拡大している(1913年現在で120町)。
 さらに翌1908(明治41)年には加古川から揚水して神野分水に注ぐ「新新井」が完成し,これまでのはんらん原50町を開田した。このほか1906(明治39)年に発足した八幡村ほかの雁戸井普通水利組合では,草谷川より9月から翌年5月の非灌漑期に取水し,加古台地の西北端170町余を灌漑する計画を立てた。1911(明治44)年4月に起工式を行い,溜池1―3号(敷地面積の累計24町6反余)を完成している(1950年の受益地は150町)(文献②,①,13,203,219ページ,④,28ページ)。

2 山田川疎水の再興
 以上のような加古郡内外における産業の発展,とりわけ揚水機灌漑の普及につれて,淡河川疎水地区の上流や下流では造田への意欲が強まり,新しい水源の開発が企図されるようになった。
 しかし淡河川疎水によって,すでに開発の進んだ旧来の受益地では,新疎水にそれほど関心を示さないのもとうぜんである。逆に新しい水源を求める参加希望地の圧力に応じて,山田川疎水の再興が具体化したといえる。そして1905(明治38)年には,淡河川疎水による当初および復興工事の組合債もどうにか完済できた。
 この機をとらえて,淡河川疎水組合の管理者をかねた加古郡長は水源拡大の計画を立てたようである。当時,神野村などが連合し,曇川からの電力揚水によって東郷池ほか2池の新設計画が進んでいた(竣工は1907年6月)。この方法を調査した加古郡長は,淡河川が山田川に合流する御坂地点に揚水機を設け,山田川の余水を淡河川疎水幹線に合流させようとした。これによって,組合内の補水にあてるととともに,配水希望の強い美嚢・明石・加古3郡に開田をふやそうとした。(文献⑭,81ページなど)。
 美嚢・明石2郡長の賛成をえた加古郡長は,1906(明治39)年6月にこの計画を淡河川疎水組合の常置委員に相談した。新しい受益地や工費分担,下流との水利権の調整などに手まどりながら,同年10月から実地の調査が行われることになった。しかし調査の結果は,御坂地点に揚水機を設けるよりは,淡河川より水量の多い山田川に疎水を設けた方が有利との判断になったのである。
 かくて前の淡河川疎水と同じように,当初の案は変更となり,江戸時代からの宿願であった山田川疎水が再興されることに決定した。1907(明治40)年4月に組合会議を開き,新しく山田川疎水に加入する地域は,基本財産の3分の2を反別割で提供し,新事業の全工費を分担(淡河川のこれまでの事業費は平等分担)することに決め,それ以外の経費はすべて平等とした。やがて新規の参加地域が,加古・美嚢・明石3郡の13町村累計948町余に確定したあと,1908(明治41)年3月に母里村外4カ村普通水利組合は兵庫県淡河川山田川普通水利組合に改組したのである。
 しかし工費の分担や,用水路などの用地買収は難航し,なかなか起工にかかれなかった。とくに事業費は,前回のように官費の補助をうけることは不可能であったから,これをすべて日本勧業銀行からの借入債28万円によって支出することになった。ようやく起工式が行なわれたのは,企画してから5年後にあたる1911(明治44)年2月であった。
 そのうえ,山田川疎水の方も,悪い地質条件に悩まされ,難工事が多かった。とくに幹線延長1万752メートルのうち,その半分近くが19カ所のトンネル(延長5150メートル)であった。とりわけ15号トンネルはもっと条件が悪く,途中で請負業者を交替するなど,1914(大正3)年12月にようやく貫通している。
 かくて翌1915(大正4)年4月に,山田川からの疎水幹線が完成した。その総工費は26万5887円余に達している(文献⑭,93―95ページ,⑯,16―18ページ)。
 他方,山田川疎水の幹線工事とともに,新受益地に分水する支線や,非灌漑期の水を貯留する溜池の工事も起工された。新しく岩岡・神出・広野・別所・森安の5支線(延長50キロ余)をほり,62カ所の溜池を設け,さらに広野・岩岡の高地に電機揚水することになった。この総工費は実に85万6485円余に達し,その大部分にあたる80万700円を日本勧業銀行からの起債によることになった。(文献⑭,95―106ページ,⑯,19―24ページ)。
 やがて1919(大正8)年には,すべての支線と溜池の工事を終え,ここに淡河川・山田川疎水の完成をみたのである。

3 補水工事と期限外取水
 このように成立したいわゆる「淡山[たんざん]」疎水は,非灌漑期に毎秒最大で淡河川から約1トン,山田川から約1トンを取水する。そして幹・支線をへて,多数の溜池に貯留し,灌漑期になって受益地2019町余に配水したわけである。わずか毎秒2トン余の取水によって,2千町以上を灌漑するということは,河川灌漑地帯では不可能なことである。淡山疎水が河川から取水し,これを溜池に貯留するという二重構造が,取水量あたりの灌漑面積をより大きくした要因である。そして溜池灌漑による水利慣行の厳しさと内部利用における平等性が,とくに節水灌漑を可能にしたといえる。
 しかし,そうはいっても,水不足地帯である淡山疎水にとって,旱天におそわれた場合の被害ははげしい。しかも組合地域の内外でも,灌漑面積が増大傾向にあったから,水不足対策は大きな課題であった。
 かくて1924(大正13)年の大旱ばつを契機に補助事業として山田池が計画された。1929(昭和4)年3月から用排水幹線の国庫補助をうけた県営工事が起工され,工費24万9291円余で1933(昭和8)年3月に竣工した。貯水容積は6万立方坪,集水面積57町という小規模なものであったため,さらに山田池へ補助するため,1935―37年にかけて県営補助をうけて集水引水路(集水面積58町)を建設している。
 また淡河川疎水の流域でも,1934,35年にかけて僧尾川の渓流水を導水する事業を行った。このほか,1939,40年には西畑川を流域変更している。いずれも,県費の補助をうけたものである(文献⑭,108―19ページ,’⑯,25―27ページ)。
 しかし,これらの疎水工事はそれぞれ小規模なものにすぎず,また同じく水不足地帯に属していた結果,十分な解決策とはならなかった。そこで期限外の引水対策が課題となってきたのである。
 もっとも,山田川ではより集水面積が大きく,またその他の関連から,期限外の灌漑期でも高水時などの水量豊富な時期には取水が可能であった。しかし淡河川の水源では水量に限りがあり,制限がきびしかった。水利組合では1934(昭和9)年4月から淡河村などの水源村と交渉に入り,引水期限をこれまでの5月の20日から31日まで延長することと,期限外の高水取水をも要請した。しかし補償額や水源地内の意見対立などの結果,難航をつづけ,ようやく三木・加古川両警察署長の立会いによって,1936(昭和11)年6月に組合の要求どおりの解決をみている(文献⑭,114―17ページ,⑯,35―37ページ)。
 なお,このほか,淡山疎水の老朽化にともない,1949(昭和24)年からは県営による大改修事業が実施された。また水資源の開発と高度利用をねらって,1970(昭和45)年からは国営をはじめとする東播用水農業水利事業が発足している。これらについては,本章では省略したい。

Ⅴ 淡河川・山田川疎水の特徴

1 自然的・技術的な特徴
 (1) 水利開発の歴史的画期
 加古地方の洪積台地は,気候や地形,地質などの自然条件に限定されて,降雨量と集水面積が少なく,透水性の強い水不足地帯である。したがって,この地方における水利開発は他の先発地域から遅れ,常に耕地拡大の限界地であった。
 そして,この地方における水利開発の歴史も,これらの自然条件をのりこえて,次の5期に区分できる。第1期は古代・中世における開発で,水量の比較的多い河川や湧水などを利用し,取水堰や用水路,さらには溜池を設けて水田をふやしている(593年の五ケ井用水や675年の岡大池,714年の入ケ池など)。第2期は,戦国時代から近世初期に発達した土木技術を活用し,分水工によって台地上に水を引き,17世紀中葉から新井用水や林崎用水,寺田用水や大溝用水などを建設している。とくに取水量の不足を補うため,溜池を設け,非灌漑期の水を貯えるという,河川と溜池の結合という方式をすでに確立している。第3期は,この淡河川・山田川疎水に代表されるように,水源を遠隔地に求め,長い用水路を経て溜池群に貯留するという方法である。第4期は,1907(明治40)年ごろから普及した揚水機械を用い,これまで配水できなかった高地にも水田を開いている。東郷池や雁戸井用水どどがこの例である。第5期は,大正末期ごろ,とくに第2次大戦後に普及したポンプ揚水により,深井戸をさく井して水源を確保することができるようになっている。(文献②,63―74ページ,⑦,32―39ページを補正)。 いずれにせよ,淡河川・山田川疎水の場合は,技術的にはすでに近世初期に成立した河川と溜池の結合方式を,長い距離を導水し,大規模な開発を行ったところに特徴があったのである。
 (2) 近代技術の導入
 そうはいっても,淡河川・山田川疎水の場合,土木技術についても大きな制約が存在していた。地形や地質の複雑な長区間を,トンネルを併用して開さくせねばならなかったのである。ここに「文明開化」の波にのり,ヨーロッパの技術や手法を応用せざるをえなかった。江戸時代からの伝統技術の蓄積があったとはいえ,ヨーロッパ技術を吸収した内務省や兵庫県庁の土木官僚の主導に従わざるをえなかったといえる。
 とくに淡河川の場合は,水源から取水した用水は,加古地方に導水するまでに,山田川を一度は越えなければならない。これまで伏越や掛樋などの技術があったとはいえ,このような大規模な例は日本ではじあてである。この方法として,イギリス陸軍の工兵大佐(のちに少将)であったパーマーが企画し,巨大なサイフォン工が実施されたのである。パーマーは1838年にインドで生れ(当時その父はインド駐在のイギリス陸軍大佐),本国の士官学校を卒業後にカナダやエジプトの探検隊などに参加している。中佐のときに香港政庁の要請で,広東に近代水道を敷設した。その帰途の1883(明治16)年に日本に寄り,たまたま伊藤博文の推せんによって横浜水道の設計を行うことになった。現地を徒歩で調査したパーマーは,神奈川県の顧問土木技師となり,1885(明治18)年4月から工事にかかり,1887(明治20)年10月ころに横浜水道を完成している。この前後に,淡河川疎水の設計が進み,パーマーはおそらく内務省の要請で現地に足を運び,御坂サイフォンの設計とイギリスからの鉄管輸入を実現している。パーマーはその後は内務省の顧問技師として,横浜築港や大阪府水道などに活躍したが,1893年2月に54才で病没している(文献(28)・(29))。
 いずれにせよ,パーマーのサイフォン工に代表された近代技術を応用することによって,淡河川・山田川疎水ははじめて完成したといえる。
 (3) 取水期間と円筒分水
 淡山疎水の場合,その水源である淡河川と山田川は集水面積も狭く,その流水量に制限があるため,既存の水利権は強い。したがって,非灌漑期の流水をそれぞれ毎秒1トン以内,合計で2トン取水し,長い用水路に導入して,支線から溜池に貯留するわけである。もちろん山田川については当初から,淡河川については1936(昭和11)年以後に,灌漑期でも降雨時などの高水について取水が可能となった。しかし,これには多くの制限などがあり,その取水量も限られていた。山田池などの補水施設も,小規模なものである。したがって取水量の拡大には,きびしい制約が存在していた。
 このため,分水や配水については厳重な慣行が実施されざるをえない。旱天などによる水量不足の場合には,節水や番水,あるいは水制限のための「歩植え」などの強い処置がとられたわけである。
 したがって,貯水源である流量の分水についても,いわば科学的な方法が実施された。水利費負担の基礎となる要水反別に応じて,円筒分水などの新しい施設が考案されたのである。この要水反別は,かならずしも灌漑面積とは一致せず,疎水にともなって新しい溜池を設け,これから配水をうける面積を指している。そして,とくに水不足に悩む地区では,水量を確保するたあに実際の灌漑面積を上まわる要水反別を申請し,より多い費用負担に甘んじている場合もある。
 このため,要水反別に応じた水量の配水は厳重とならざるをえない。そして,この分水方法として,淡山疎水の幹線末端にある練部屋の円筒分水はとくに有名である。そして,これ以外にも,神出分水所などでは円筒分水を行ない,さらにそれぞれの分水点では矩形堰や分水堰,あるいはバルブなどの操作によって,正確な分水を試みている(文献(40))。
 これらの分水方法は,とうぜんヨーロッパ風の近代工法を応用したものと考えられる。あるいはパーマーなどの意見にもとづき,上水道における分水法を採用したものかもしれない。いずれにせよ,淡山疎水のような水不足地帯において,河川と溜池を利用した分水において,もっとも適合した工法といえるのである。当時の日本における水利用において,ここでも先端的な近代技術が応用されたといえる。
 他方,河川からの非灌漑期の分水を貯留するたあ,多くの溜池を築造せざるをえなかった。とくにこの地方では台地上の高低差が少なく,条件の良い立地にはすでに古池が設けられていたから,平地に堤を築く皿池が支配的であった。このため溜池の敷地面積が大きくならざるをえない。たとえば,母里村では水田面積811町に対し溜池面積は166.1町(溜池密度20.4%)であり,とくに天満村や加古新村,大久保村や平岡町などでは溜池密度は30%前後に達していた(文献⑥,664ページ,③)。
 溜池が水不足の解決方法として,非灌漑期を中心に余水を貯留し,地域内の配水については節水や平等配分など,すぐれた調整機能をもっている。しかし効率の悪い皿池が多いことは,池敷面積を大きくする。1955年ごろからの高度成長期のように,土地の資産的価値が急昇するようになると,「溜池征伐」といった問題がおこる条件もあったのである。

2 社会的・経済的な特徴
 淡山疎水は,受益面積が累計約2千町にも及び,地域外からの用水を流域変更によって導水した大事業であった。このような大疎水の計画と実行には,一つには上・下流や地域内外の利害対立を調整し,多くの農民の意志を統合することが前提である。二つには,大規模な工事に必要な巨額の経費を,地元で調達し,あるいは負担せざるをえず,とくにできるかぎり官費の補助をひきだす努力が必要である。そして,これを推進したのは,地元の総意を集中できた指導者層である。

 (1) 地域の統合
 この地域は水利の限界地であり,17世紀中葉からの開拓新村が多かった。とくに溜池を中心に村落の社会的な統合が強かったといえるから,淡山疎水の発企や実行については,旧村の有力者を中心としたまとまりが比較的容易であったといえる。
 しかし旧村の範囲をこえ,さらに遠距離の水源地から導入せざるをえないため,上・下流や新村どうし,あるいは地域間の利害対立はきわめてはげしかった。そして,事業費負担を軽減するためにも,参加する区域を拡大せざるをえない。これらの地域的な対立を調整するには,町村あるいは郡単位の名望家家だけでは限界があったのである。
 ここに,地域的な行政を担当し,これらの利害対立を調整できる加古郡役所や兵庫県の役割が大きな比重を占めたのである。とくに初代の加古郡長であった北條直正は,旧藩時代からの廉直な民政官であり,県庁や上司の意思に反してまでも,福利民生の立場から民意の上にのった疎水の開さく計画に努力した。
 他方,兵庫県庁も,当初は地租増徴をあぐって地元と対立し,一時は疎水計画に批判的であった。しかし1880(明治13)年の播州ぶどう園を契機に,中央政府の高官が多数来村した。地元では,この高官を説得し,上部から疎水実現への圧力をかけるという両面作戦をとったようである。ついに1883(明治16)年以降は,県庁でも疎水計画に積極策をとるようになった。そして,工費の一部4万5千円を国庫から借用し,やがてはこれを官付している。当時の安積・那須疎水や明治用水などの例を参考とし,経費の官費負担や県費代行の方法を実施できたわけである。
 とりわけ,加古郡役所や兵庫県庁では,地域間の対立調整について,ある場合には官権を背景にしながらでもその統合につとめた。これらの結果,淡山疎水は多くの難関をのりこえて完成できたのである。とりわけ,幹線や重要な区間については,県の直轄工事によって実施された。もともと,淡山疎水のような大規模な土木事業については,とくに江戸時代から支配者がその設計や監督,あるいは工事をも直営するのが慣例であったのである。

 (2) 工費の負担
 淡河川疎水でも,もともとは民営を前提としていたから,本来は地元の民費負担によって工費を支弁せざるをえなかった。
 しかし,当時のこの地域では,旱害や棉作の不振,とくに地租増徴によって民費負担は底をついていた。地元ではやむなく,地租軽減と水利改良によって,民力の増強をはかろうとしたわけである。通説のように,地租軽減が農民的な道であり,疎水事業が地主的な道であり,重租容認と引換えに後者の路線が実現したとばかりはいえないのである。(文献⑥,665ページ,⑦,173ページ)。
 かえって,地元では地租軽減と疎水工事の両面作戦という,いわば「したたかな」方法をとったといえる。事実,1881(明治14)年や1887(明治20)年などの地価修正や延納,開田による地価据置きなどによって,重租はしだいに軽減されていった。地租軽減に主力をおいた加古新村などでも,農民経営の改善と所得の増大をねらい,疎水開設の動きははじあから強かったといえる。もちろん,当時の重租や景気変動,旱害や棉作の不振に耐えきれない農民も多かった。この前後に,母里地区では戸数の大はばな減少がみられたからである。2代目の母里村長となった北條直正がのべたように,「疎水の利益は被害者に及ば」(文献⑩,115ページ)なかったのである。
 他方,残留した農民にとっても,疎水工費の負担は重かった。土地の抵当による借金や抵当流れ,あるいは地方税の滞納による土地の公売や官収などが実施されたからである。地元では,さらに重租の引きかえによる工費の官費補助という方法を進めたといえる。中央政府や県庁に強く働きかけた結果,ようやく国庫貸与を受けている。しかし,これは返済せざるをえず,しかも開田による所得の増大は,疎水の完成以後に待たざるをえない。旱害などが加わり,国庫借入金の返済さえ困難となった。そして強い陳情などによって,ついにこの国庫金の給付をかちとっている。
那須疎水などの先例があったからか,あるいはあらかじめ返済が不可能な場合も予想して,国庫からの補助金を獲保するという「したたかな」作戦であったのかもしれない。
 淡河川疎水の竣功した翌1892(明治25)年に,豪雨によって水路やトンネルは大損害をうけた。当初工事の直後であるから,その復旧工費を地元が負担する余力はなかったといえる。当時代議士であった魚住逸治らの奔走によって,地方費による復旧を行い,その失費を国費で補助するという「名案」を実行したのである。中央政府や兵庫県庁,あるいは国会や県会に働きかけ,ついに難工事は県の直轄(その工費の8割にあたる12万余円が官費補助)によって復旧事業が完成した。
 以上のような厚い官費の補助や県営の工事によらなければ,おそらく淡河川疎水は成功をみなかったといえるであろう。
 なお1911(明治44)年から開始された山田川疎水は,すべて民費負担であった。明治中期以降における日本資本主義の成立にともなって,民間の負担能力が向上した。農業水利事業においても,官費による補助よりは,日本勧業銀行や府県の農工銀行を通ずる金融が固定投資の中心政策に変ったのである。山田川疎水でも,幹線工事については28万円を,支線と溜池などの工事のうち80万余円を,それぞれ日本勧業銀行からの起債に依存している。これらの決済負債額は合計して104万200円に達し,組合財政を長期にわたって圧迫した。低利への書きかえを行い,さらに昭和和恐慌に苦しめられながら,これらを完済したのは実に1951(昭和26)年であった(文献⑯,24ページ)。
 その後,1928(昭和3)年以降に実施された山田池などの補水工事は,すべて県営工事か,または県費の補助をうけて実施されている。大規模な土地改良事業については,大正末期からは官費の補助を行うことが一般的になったのである。

 参 考 文 献
 ① 兵庫県加古郡役所編『加古郡誌』1914年(1975年複刻)
 ② 稲見悦治「台地の開発と水利施設形成過程―播州印南野の場合」(日本地理学会『地理学評論』28巻2号)1955年2月
 ③ 竹内常行「加古川・明石川間台地(兵庫県)の灌漑水利の発達について」(『早稲田大学教育学部学術研究』3号)1955年3月
 ④ 兵庫県加古郡稲美町郷土誌編纂委員会編『稲見町文化史概要』(r稲見町郷土史概要』)1963年
 ⑤ 大住新吉『野寺の水利史』1959年
 ⑥ 佐合奨・永田恵十郎「農業生産と水利構造に関する研究―兵庫県加古郡母里村における調査を中心に」(『中国農業試験場報告』3巻2号)1957年2月
 ⑦ 水利科学研究所『日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究』1961年度 1962年
 ⑧ 竹内常行「溜池の分布に就いて」3(『地理学評論』15巻6号)1939年6月
 ⑨ 同「加古川明石川間洪積台地の溜池」(『地理学評論』18巻1号)1942年1月
 ⑩ 北條直正『母里村難恢復史略』1912年または1913年(1955年に母里村が復刻)
 ⑪ 同『農政革新論』1914年
 ⑫ 兵庫県淡河川山田川普通水利組合『疏水記要』1940年
 ⑬ 同『兵庫県淡河川山田川疎水事業沿革誌』1940年
 ⑭ 同『淡河川山田川疏水五十年史』1941年
 ⑮ 同『兵庫県淡河川山田川土地改良区維持管理計画書』1949年
 ⑯ 兵庫県淡河川山田川土地改良区『淡河川山田川疎水史』1965年
 ⑰ 農林漁業金融公庫『都市近郊農村社会の変貌と土地改良投資』1975年
 ⑱ 日本地誌研究所『日本地誌』14巻京都府・兵庫県1973年
 ⑲ 稲見悦治「台地の開発と新田集落の成立過程―播州印南野の場合」(『新地理』5巻1号)1956年1月
 ⑳ 日本歴史学会『地方史研究の現状』2中部・近畿編 1969年
 (21) 兵庫県『兵庫県百年史』1967年
 (22) 八木哲浩・石田善人『兵庫県の歴史』1971年
 (23) 兵庫県武庫郡教育会『武庫郡誌』1921年(1973年復刻)
 (24) 兵庫県美嚢郡教育会『兵庫県美嚢郡誌』1926年(1975年復刻)
 (25) 農林省農務局『明治前期勧農事蹟輯録』上 1939年
 (26) 農林省『農務顛末』第6巻(復刻)1957年
 (27) 恒田嘉文『耕地水地事業功勲録』上巻 1939年
 (28) 横浜市水道局『横浜市水道七十年史』1960年
 (29) 「かながわの水」7―8(『朝日新聞』神奈川版1979年10月31日・11月1日)
 (30) 淡山土地改良区「分水計算表」(昭和40年8月改正)