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蚕品種の改良と普及伝播

Author: 清川雪彦
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1980年
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 目 次
は じ め に・・・・・・・・・・2
Ⅰ 1代交雑種の誕生と普及伝播・・・・・・・・・・4
Ⅱ 普及伝播の促進要因・・・・・・・・・・18
結 び に・・・・・・・・・・33


はじめに

 大正から昭和初期にかけての日本蚕糸業の飛躍的な発展を検討するに際しては,蚕品種の改良とりわけ1代交雑種の開発とその普及伝播の果した役割と意義が,いくら強調されても強調されすぎることはなかろう。しかもそうした事実にも拘らず,その実態と社会的な背景は,これまで必ずしも十分に究明されてきたとはいい難い。そこで本稿では,1代交雑種の普及伝播の実態を今日的視野から改めて確認する一方,普及伝播の促進要因を統計的に解明することにより,その画期的な意義ならびに蚕種製造業における技術普及のメカニズムの一端を若干なりとも明らかにしたいと考える。そのことはまたいいかえれば,次のような2つの問題意識から出発しているともいいうるのである。
 すなわち1つには,それは1代交雑種の普及伝播が驚異的ともいえるほど急激にしてかつ徹底的なものであったという事実に関連している。国立蚕業試験場の原蚕種配付をまって大正5,6年頃から急速な普及伝播を開始した1代交雑種は,早くも10年後には全国的な規模においてその普及をほぼ全面的に完了し終えたのであった。こうした普及活動の迅速性は,例えばアメリカにおける雑種とうもろこしの普及例などと比較する時,より一層明瞭となろう。つまり高い普及伝播速度をもって知られる雑種とうもろこしといえども,コーンベルト地帯から普及を開始し,南部諸州でその伝播を完了するまでには25年以上をも費さなければならなかったのである1)。それに比し日本の蚕の1代交雑種の場合,初期の導入速度においてこそ府県により若干の差異が認められたものの,春蚕でわずか数年をまたずして,全国各地で既存品種との完全な代替化に成功しえたことは,やはり特筆に値するといわねばなるまい。
 しかも日本の蚕糸業にあっては,アメリカの雑種とうもろこしに先立つこと20年以上も早い時期に,すでにメンデリズムを応用し,こうした迅速な交雑種の普及伝播を実現していたことは,一体如何なる理由によるものであったのかが,当然問われなければならない課題であるといえよう。なぜならばまさにそこにこそ,独り蚕糸業のみならず日本経済全体の急速な成長と活発な技術革新の謎を解く1つの重要な鍵が存在していたことは,疑いない事実だからである。だが少くとも今日までのところ,蚕糸業の急速な発展にとりきわめて大きな意義をもつ蚕品種の改良やその普及伝播に関する分析はもとより,蚕種製造業そのものに関連した考察すらも,蚕糸学の一部技術的な分野を別とすれば,製糸業や養蚕業に対する分析に比べ,著しく立ち遅れた状況にあるといわざるをえない。それゆえ今ここで我々の試みる分析自体も,今後に展開さるべきより本格的な蚕種業全般に関する抱括的な考察にとって不可欠な視点と素材を提供することにより,その一助とならんことを期待してのものに他ならない。
 2つには,戦前日本の農業における普及伝播活動が,戦後の“民主化”運動以来,とかく否定的な側面においてのみ捉えられてきた問題と深く関連している。すなわち戦前日本農業の普及伝播活動は,これまでしばしば“官僚技術によって推進された補助金中心主義の強権的勧農政策”の典型として理解されてきた面が少くない2)。しかし果してそのような上からの監督行政的普及指導だけが,日本農業の急速な普及伝播活動を支えてきた主要な要因であったと考えらるべきであろうか。もとより半強制的な奨励指導や行政権力による組織改変などが存在したことも否めない事実ではあるが,インドをはじめとする今日の低開発諸国における技術普及の実態をも考え併せる時,真にアメリカの普及制度のみが民主的にして合理的であり,戦前日本の普及活動とその政策は,“警官のサーベルと役人・地主による力づくの勧農政策”として一面的に把握され評価されうるものか否かには,大きな疑義が存するといえよう。それゆえ今我々が,1代交雑種の普及伝播の問題を考察するにあたっても,当然この問題に対する評価は不可避的であり,それに対する我々自身の視点そのものも問い返されている点を,深く自覚する必要がある。
 さて以上のような問題点を分析の背後に擁しながら,本稿で我々は次の2点を明らかにすることを目的としている。そしてそれらはまた,ひいては既述の問題に対する間接的な解答ともなりうべきものであると考えている。まず第1には,1代交雑種が開発されるに到った歴史的経緯ならびに研究開発制度や養蚕経営組織等の環境諸条件を十分に考慮したうえで,各府県への普及伝播速度を決定していた主要因を統計的に確定することである。そのために我々は,地域的な導入率の差異がまだ比較的明瞭に認められる1918年(大正7)を選択し,そのクロスセクション・データに対してプロビット分析を適用するであろう。また第2に,それは当然第1の分析とも不可分であるが,蚕種製造技術という1つの農業技術の普及伝播活動を3),工業技術(製糸技術)のそれとの陰伏的な対比において捉えることにより,技術普及活動に占める組織化された研究教育活動ならびに需要要因の質的な重要性を,この視点から改めて確認することである。従って換言すれば,その意味で本稿は,先に多条繰糸機の普及伝播を扱った拙稿「製糸技術の普及伝播について」の姉妹篇に当るといってもさしつかえない4)。
 最後にこれら分析の対象となる期間および利用する統計資料について,簡単に言及しておこう。まず分析期間としては,1代交雑種用原蚕種の配分が開始される1914(大正3)年頃から,多糸量系交雑種の顕著な台頭がみられる1929(昭和4)年頃までを一応その対象としているが,とりわけ1代交雑種の普及にとって最も意義深くかつまた情報量の多い1918-23(大正7-12)年までが,勢いその考察の中心となる。なお統計資料としては,1代交雑種に関する数値・情報は原則としてすべて農商務省農務局の『蚕業取締事務成績』に依拠するものとし5),第Ⅱ節のプロビット分析に際しては,『農商務統計表』をはじめ,『蚕糸業ニ関スル道庁府県ノ施設概要』,『蚕品種ニ関スル調査』,『蚕糸業ニ関スル参考資料』,『蚕糸統計年鑑』などによっても関連情報が補足されるであろう。

Ⅰ 1代交雑種の誕生と普及伝播

1 蚕品種の改良と普及体制の確立
(1) メンデルの遺伝法則として知られるいわゆる雑種強勢を利用した蚕の1代交雑種が実用化されるに至るのは,後述するように大正の初期まで待たねばならなかったが,日本の蚕種業には古くから“掛合せ”の伝統が存在していた。例えば今日に残る最も古い記録の1つとしては,1845(弘化2)年信州の小県郡で藤本縄葛(善右衛門)によって,夏蚕に春蚕を掛合せた交雑種が製造され,好評を博したことが広く知られている6)。また他の地方にもカナスやアヒコ等いくつか掛合せに対する呼称が残存している点からも,その当時交雑種がかなり広汎に製造されていたことは,ほぼ疑いのない事実であったといってよい。なお一時期,蚕種取締規則(明治6年発布)によって夏蚕の掛合せが禁止されたものの,1878(明治11)年の同規則廃止とともに再びすぐ流行の兆しを見せたことは,翌12年の横浜における共進会の記録に掛合せなる呼称を用いた品種が,早くも8種類現われている史実をもってしても容易に確認されうるのである7)。
 このような掛合せないし品種改良に対する根強い意欲は,その後の蚕品種の流行の変化を通じてもいかんなく発揮され続けたといえる。すなわち流行蚕種の変遷は,まず明治初期における小巣の青白など比較的飼育容易な黄緑繭種に始まり,10年代の後半から大巣白繭の赤熟や鬼縮が人気を博し,1887(明治20)年頃にはその最盛期を迎える。しかしその後再び20年代の後半から小巣系のものが歓迎され始め,1897(明治30)年頃へかけては小石丸が流行したが,それもつかの間で30年代の中頃には中巣ないし小巣の又昔や青熟が次第に支配的となり,以後大正の初期まで又昔全盛時代を迎えるに至ったのである。こうした様々な品種の流行変遷過程で,やはり掛合せによるいくつかの秀れた改良種が製造されたことは想像に難くない。例えば赤熟系の世界一や小石丸系の白龍,又昔系の白玉などはその代表といえ,広く全国各地へ普及したが,多にも数多くの交雑種が各地でその地域の特性や実情に合わせて開発製造された点もまた深く銘記される必要があろう。
 他方,外国種の導入とその掛合せによる品種改良も比較的早くから活発に試みられていた。明治初期の北海道開拓使による蚕種輪入とその試験的飼育は,わずかに実験的な試みにとどまったものの,1885(明治18)年から1889(同22)年へかけての農商務省による支那種をはじめとする外国蚕種の輪入8),ならびにそれらの飼育試験,さらには蚕業教育機関や一部の業者等への配布は,各地の民間当業者に対して大きな刺激と影響を与えたといわれる。それというのも,明治20年代から30年代へかけて全国の主蚕地では,進取の気性に富む蚕種業者の手によりいくつかの秀れた日支交雑種が開発されているからに他ならない。すなわち栃木における在来種の宮錦と支那種青白を掛合せたかの角又をはじめ,神奈川の角支那や福島の支那又,埼玉の卵形又昔等々の優良交雑種がつくり出されたのであった。一方同じ頃,横浜生糸検査所の技師今西直次郎がイタリアより持ち帰った欧支交雑種を契機とし,欧州種の飼育もまた開始されている。なかでもその配付を受けた愛知の三竜社は,独自にそれを分離選出して日本の気候風土により適した黄石丸や三竜又を育成し,日本最初の本格的な日欧交雑種の開発に成功したのであった。
 ところでこのような交雑種ないし掛合せ種は,我々がいまここで問題としているいわゆる1代交雑種ではなかった点に深く留意する必要がある。すなわちこれら改良品種の多くは,交雑種というよりはむしろ交雑育種法による固定種と考えられるべきであり,仮りに交雑種の場合でも掛合せによる1代目は,元種として蚕種製造業者自身によって飼育され,養蚕農家に販売されたものは雑種2代目ないしそれ以降の蚕種であったという基本的な事実が指摘されなければならない。それゆえ当然こうした交雑種に対しては,全く相反する2つの評価が当業者の間には存在していたのである。1つは,いうまでもなく掛合せによる品種改良を肯定的に評価する見解であり,それは通常数年間にわたる慎重な飼育試験を経て淘汰選出された既述のような交雑系固定種の場合であったが,他方それとはおよそ逆の否定的な評価も,広く養蚕業者の間には浸透していたのである9)。
 そしてそれはまさに当時の交雑種が,1代交雑種法にもとづくものではなかったという先の事実と密接に関連していたのであった。なぜならば雑種の1代目は雑種強勢により親種の秀れた性質を兼ね備えうるが,雑種2代目ないしは更にその掛合せを継続する限り,遺伝法則によって必然的に劣性が回復され,蚕種の性質は不安定とならざるをえないからである。従って“1代限りの交雑種法”によらない安易な掛合せが,むしろ劣悪な蚕品種の出現を助長する結果を招きがちであったのも,遺伝学的にみればきわめて当然の帰結であったといえよう。しかしここで我々が強調しておきたい点は,そのような相反する2つの結果と評価が存在していたにも拘らず,絶えず蚕品種の改良が試み続けられた蚕種製造市場の競争的性格ならびにそれを支えた当業者の活発な企業家精神そのものなのである。

 (2) だがこうした掛合せおよび品種改良に対する強い関心は,一方において数多くの新品種を生み出すところとなり,その結果全国各地ではますます多種多様な蚕品種が開発・飼育され,それらの流行の変遷とも相まって,一層繭質の不斉多様化に拍車をかけていたのである。今日,明治時代における蚕種の従って繭の品種名に関する全国的な時系列データは入手可能でないが,共進会や博覧会に出品された品種数から断片的に類推しても,その飼育種数は相当膨大な数にのぼっていたと判断して間違いない。例えば先の明治12年の横浜における共進会では102種の繭が,また1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会には,8687点144種の繭が出品されたのであった。従って,すでにその当時全国各地で生産されていた繭の品種数は,少くとも数百種には達していたと想定されうるが,事実1904年の農商務省による全国調査は,やや時代的に下るもののそれを十分裏付けているといってよい。すなわち各都道府県で生産された繭の品種数は,延べ3005種におよび実数でも1化性の743種,2化性448種,多化性411種の計1593種にわたっていたのである10)。なおこの数字は若干過大とも思われるが,他の補足資料から推察しても,次第に増加傾向をたどっていた品種数は,明治30年代の後半から大正の初期へかけて,少なめに見積っても800種以上にのぼっていたことは,ほぼ疑いない事実と考えられる。
 他方,かくも夥しい数の蚕品種の存在は,当然その整理統一を望む声をひきおこさずにはおかなかったといえよう。すでに明治20年代から,蚕品種の極度の多様化傾向に対する危惧の念が表明されてはいたが,生糸輪出の急速な拡大とともに,その改善を求める要求は一層強まらざるをえなかった。それというのも,当時生糸品質の不斉雑駁なる最大の原因は,原料繭の不統一をもたらす多種多様な蚕品種の飼育にこそ在ったと考えられ,また事実そう主張されていたがために他ならない。だがこうした見解は,繭の購入に圧倒的な支配力を擁する製糸業者との力関係を如実に反映した製糸業者本位の主張であったという側面も,同時に多少割引いて考える必要があろう。なぜならば,確かに存在した品種数ならびに品種名こそ多岐にわたっていたものの,実際に大量に飼育された繭の種類は必ずしもそれ程多くはなく,しかもそれらのなかにも,名称は異なるが実質的な繭質としてはほとんど差異のないものも多く含まれていたがためである。従って現実には,製糸業者が主張するほど繭質が不統一であったとは思われず,また製糸技術そのものにも改良すべき余地が多く存在していたにも拘らず,自らは十分その努力を払わずして蚕品種の整理統一を強く要求していた点が11),やはり他方では看過されてはならないであろう。
 もとより蚕品種がかなり多岐にわたっていたこともまた否定し難い事実であるが,それにはそれなりの十分な事由が存在していたと考えられるのである。すなわちまだ決定的な優良種が開発されていなかったその当時にあっては,飼育蚕種は当然その地方の気候や風土に合致したものへ漸次改良してゆかざるをえなかったからである。ことに夏秋蚕については違作が多く,その普及もまだ完全には完了していない試行錯誤の段階に在ったがゆえ,様々な蚕品種の開発や飼育が試みられたのも,きわめて至当のことといわねばなるまい。それゆえ時としていわれるように,繭質の雑駁が“蚕種家の商略と養蚕家の功名心”に深く起因していたと解する見解には12),我々は必ずしも同意できないのである。むしろ逆にその際強調されて然るべきことは,先にも指摘したように蚕種および繭の生産市場における競争的性格とその背後に存在した活発な企業家精神であるとこそ思われる。あるいはその点をより具体的な実践活動に即していえば,蚕糸業において未だ満足な技術教育体制ならびに普及伝播組織が確立していなかったその当時,それらのきわめて重要な担い手にしてかつ積極的な推進者こそが,まさに蚕種製造家であったという基本的な事実をぬきにしては,品種改良や掛合せに対する評価を下すことすら出来ないといってもよいのである。
 すなわち明治前期における製種技術や養蚕技術に関する教育啓蒙活動ならびに普及伝播活動は,完全に蚕種製造業者の手によって推しすすめられたものであったといっても決して過言ではないからである。とくに生産と直結した幅広い技術指導や新しい技術知識の啓蒙普及という点では,民間当業者による巡回教師の派遣や蚕業伝習所における短期講習を中心とした伝習活動の存在なくしては,明治期の斯業の飛躍的な発展すらありえなかったと考えられるのである。それというのも,官公立の蚕業講習所や農蚕学校が制度的にも整備され確立されるに至るのは,明治30年代までまたねばならなかったうえ,蚕業専門学校教育が結果的には技術官僚と学校教員の養成機関に堕し,実務的な技術改良やその普及指導の面における貢献は,必ずしも大きくはなかったと判断されるがためである。そしてこの間隙を埋める機能を果していたのが,まさしく開明的な蚕種業者の早くからの活動であり,またそれを側面的に支えた老農的養蚕家の活動であったことは,改めて指摘するまでもない。
 例えばその典型的な例は,温緩育を広く普及するのに大きく与った群馬の高山社や埼玉の競進社に求められる。両社は,明治の初期以来全国各地における伝習会や講演会に多くの養蚕教師を派遣する一方,付属の技術伝習所を設け,そこで多数の速成養蚕技術者を育成したのであった。その卒業生だけでも,1892(明治25)年には早くも6000人に達し,さらに40年代の初めにはついに4万人を越えるに至ったといわれる13)。この他1887(明治20)年前後には,島根の江吉館養蚕伝習所をはじめ,山口の吉富養蚕伝習所,岡山の津山養蚕伝習所,東京の成進伝習所などいくつかの代表的な私設の技術伝習機関が設立され,養蚕農家の技術水準の向上に大きく貢献したのであった14)。もとよりこうした蚕種業者の啓蒙普及活動には,若干の質的な問題や蚕種販売の過当競争による弊害も全く存在しなかったわけではないが,ともかくも明治期における養蚕・製種技術の指導普及の面で,決定的に重要な役割を担ったのが蚕種製造業者であったという点に関してはいささかの異論も存在しえないと思われる。

 (3) さてこうした状況の下で,政府自身もついに明治40年代の初めには,その蚕種政策を抜本的に転換しないわけにはゆかなかったのである。その直接的契機としては1907(明治40)年の糸価暴落により,製糸業者からの蚕種統一に対する圧力が一段と強まったこと等が指摘されうるが,しかしその背景には政府の蚕種政策の方向性を強く規定したより根本的な2つの底流が存在していたといわざるをえない。すなわち1つは,製種技術の発展につれ,メンデリズムを応用した1代交雑種の圧倒的な優越性が漸次明らかにされるとともに,その凍蚕種および原々蚕種の組織的な管理と製造の不可欠性が次第に認識されてきたことであり,また2つには道府県レベルで独自に原蚕種製造所が設立され,各地でそれぞれ蚕品種の統一と改良を試みる下からの意欲的な気運が高まりつつあったことである。こうした流れを背景としながら,1911(明治44)年には政府も国立原蚕種製造所の設立および蚕糸業法の制定へと踏みきり15),ここにいわゆる“種屋技術”の時代から“試験場技術”の時代を迎えるにいたったのである。
 逆にいえばそれまでの政府の蚕種政策は,その制定した法律や規則にも如実に現われているように,きわめて消極的なものであったといいうる。すなわち1873(明治6)年の蚕種取締規則に続き,1886(明治19)年には蚕種検査規則が発布される一方,引続きその改良強化を求めて,明治30年には蚕種検査法の制定へと発展せられ,また1905(明治38)年には蚕病予防法が発布される運びとなったのである。つまりここにみられる政府の蚕種政策の意図は,明らかに蚕病の取締および予防を主体とした監督・保護行政であったといえ,明治40年代に至ってはじめて,政府は明確にその政策をより積極的な改良奨励策ならびに自らによる蚕種の製造開発へと転換したのであった。もっともこうした抜本的な方針の転換にあたっては,1909(明治42)年の大日本蚕糸会および翌1910(同43)年の生産調査会に対する諮問の結果が大きく基礎に存在していたといいうるが,それは同時に,もはや製種技術の発展と水準が,従来のように蚕種製造業者の手のみに委ねてはおけない段階にまで到達していたことをも意味していたといってよい。それは他方においてまた1896(明治29)年の蚕業講習所官制の発布以来,着実に進展整備されつつあった講習所制度に対しても,明確な性格づけを与えることになったのである。いいかえれば,それまで教育および試験研究の両機能が付与されていた蚕業講習所から,1913(明治45)年その試験部ならびに夏秋蚕部を国立原蚕種製造所へ移管することによって,両者の間にはっきりと教育および研究開発の分業体制が確立されるに至ったからである。
 政府のこうした蚕種政策の一大転換は,もとより関係諸団体からの圧力・要請による影響も否定し難いが,政策当局の内部や政府の諮問機関における官庁技術者やあるいは蚕糸関係の学識経験者の勇断・勧告に依るところもきわめて大きいといわねばなるまい。例えばそれは,まだその当時研究室段階に在った1代交雑種法を,新設の原蚕種製造所はその設立とともに直ちに試験研究に移す一方,早急に原蚕種の配付を実現すべく制度的な準備作業にも入ったこと等からも明瞭に知られるのである。それというのも,蚕について1代交雑種の優秀性とその実用上の絶大なる価値が遺伝学的厳密性をもって実証されたのは,わずかその数年前にすぎなかったからである。すなわち昆虫遺伝学の権威外山亀太郎が,1902(明治35)年タイ農務省の初代蚕糸局局長としてまた引続き王室養蚕学校の技師長としてバンコックに滞在した際,そこでタイ蚕と日本蚕の交雑試験をくり返し,実際にメンデルの遺伝法則ならびに雑種強勢を蚕について確認しえたのは,3年後の明治37年のことであったと考えられる。なおこの研究は,1900年のメンデル遺伝法則の再発見から時を経ずして実地応用に移された先駆的業績の1つとして,今日でも遺伝学界において高く評価されているといわれる16)。
 また外山は,38年の帰国来,各地における講演会や『蚕業新報』等において“1代限り”の交雑種の優秀性を広く啓蒙するとともに,『農科大学紀要』掲載の論文や著書『蚕種論』などを通して,蚕糸関係技術者の掛合せに対する認識を科学的に深める重要な素材と契機をも提供したのであった。確かにこれはアメリカの雑種とうもろこし等の経験と比較しても,4半世紀近く早い時期に雑種強勢の理論を蚕で確認した画期的なものであった一方,その実用的価値を正しく認識したうえで,果敢にもすぐさまそれを実用化段階へ移行せしめた加賀山辰四郎以下の当時の斯業関係技術者達の技術水準および見識の高さもまた,強調されて然るべきであろう。かくして1911(明治44)年に発足した国立原蚕種製造所は,3年後の原蚕種配付を目標に,外山の技術指導の下で直ちに交雑種を中心とする品種試験を開始したのであった。
 このような中央レベルにおける技術関係者の勇断と高い専門知識水準のほかに,政府の蚕種政策の転換に大きな影響を与えたと思われるもう1つの動きは,地方レベルにおける蚕品種の整理統一化の動きであり,その具現策たる地方原蚕種製造所の設置による蚕種の製造配付の開始であったといえよう。すなわち早くから蚕品種の統一と改良に積極的であった鳥取県においてまず,1903(明治36)年に府県初の原蚕種製造所が設置されたのを嚆矢とし,次いで38年には島根で,また1906(明治39)年には徳島,滋賀の両県で,さらには宮崎,山口,神奈川,新潟,北海道,千葉,熊本などの諸県でもまた,国立の原蚕種製造所の設立以前に,早くも独自の原蚕種の製造配布が開始されていたのであった。いまその詳細は,『蚕品種ニ関スル調査』などによって知られるが,各道府県とも概ねその地方に適したすでに広く普及している伝統的固定種の配布が,その中心を占めていたといえる。つまり1化性では,又昔や青熟,改良又昔が,また2化性では,大草,白龍,青熟などそれぞれ数種の伝統種が,製造配付されていたのである17)。
 なお国立原蚕種製造所の設立とともに,道府県の原蚕種製造所の設置もまた一段と強く奨励されるところとなり,国蚕系原蚕種の配布が開始された時点では,すでに主要26県において設置されていたのであった。いいかえれば大正3年度以降,1代交雑種が急速に全国各地へその普及伝播を実現してゆくことが可能であったのも,実はこうした道府県におけるそれに先立つ独自の主体的な蚕種統一改良運動が存在したこと,従って部分的にせよ,すでに普及体制の組織化がかなりの程度まで進展していたこと等に大きく支えられていた点を,我々は深く銘記しないわけにはゆかないのである。

2 1代交雑種の優越性と普及の進展

 (1) かくして国立原蚕種製造所は,すぐさま1912(明治45)年と大正2年の両年度にわたり,本所ならびに4支所において純系分離作業に取組む一方,計48種の1代交雑種を含む品種試験を行い,実際に1代交雑種の確固たる優秀性を確認したのであった。なかでも赤熟と大円頭よりなる日支交雑種は,当時の1代交雑種中の白眉といわれたが,おしなべて1代交雑種は従来の固定種に比し,飼育日数が短く減蚕歩合も少いのみならず,繭の解舒は良好にしてかつ糸量においてもはるかに優れていたことなどが,早くもこの時点で検証されている。これらの諸特徴は,ほぼ同じ頃長野県立第二原蚕種製造所などによっても確認されたが,国立原蚕種製造所ではさらにその後一層厳密な試験研究を繰り返し,それらの成績評価が春蚕については1917(大正6)年に,また夏秋蚕については1920(大正9)年『蚕業試験場報告』において公表されたのであった18)。それによれば,糸長や糸量,繊度あるいは減蚕歩合や飼育日数,同功繭歩合等々のいずれの基準においても,1代交雑種の伝統的日本種に対する優越性は歴然としていたことが,明瞭に示されているといってよい。
 さて大正3年国立原蚕種製造所は,新官制の発布によりその名称を蚕業試験場と改める一方,同年12月ついに初の春蚕1代交雑種用原種を,全国各地の原蚕種製造所・講習所などを中心に無償配付するに至ったのである。もっとも初年度の配付蛾数は,12の指定組合せよりなる日本・支那・欧州種各6種の合計1084蛾にすぎなかったものの,初めて1代交雑種用の原蚕種を中央の研究開発機関の手によって製造配付したことの意義は,蚕糸業発展の歴史においてきわめて大きかったといわねばなるまい。この結果それら初の原蚕種は,大正4年中に地方の原蚕種製造所等から蚕種製造業者へ配付されたと想定され,大正5年の春期にはすでに製造飼育されていたと考えられるのである。
 なお翌1915(大正4)年度には,夏秋蚕用の原蚕種配付が開始されるとともに,配付数量も一挙に1万442蛾へと増大し,以後しばらく3-7万蛾前後の原蚕種が継続的に配付されたことにより,1代交雑種の普及伝播が急速に進展した一方,指定組合せ数もまた大幅に拡張されたのであった。それゆえ当然こうした蚕業試験場の原蚕種配付蛾数の動向を反映して,大正4年度には地方原蚕種製造所による配付蛾数のわずか1.7%を占めたにすぎなかった国蚕系の原蚕種は,5年(1916)度には20%へ,そしてさらにひき続き44.2%から53.1%へと急激に増大,し,大正7年度には早くも地方原蚕糸の原蚕種を凌駕するに至ったのである19)。

 (2) 他方,このような中央と地方における官公立の原蚕種製造所を中心とした原蚕種の製造配付体制の確立は,第1図にも示されている如く,蚕種製造業者の手による1代交雑種の製造が大正7,8年頃から全国各地で急速に展開し始める有力な原動因となっていたことは,もとより疑いない。しかしながら同時に,そうした高い普及伝播速度を実現しえた要因は,当然ながら同様に民間当業者の間にもやはり存在していたと我々は考えざるをえないのである。すなわち明治44年に国立原蚕種製造所が設立され,1代交雑種の優秀性が科学的に明らかにされるにつれ,また以後その製造飼育が奨励される方向が明確化するに伴い,多くの蚕種製造業者および養蚕業者の間では,いままで以上に一層強い関心が交雑種ならびに外国蚕種に対して向けられたばかりでなく,自らの手によってもまた交雑種の開発および品種改良を積極的に推進しようとする意欲的な動きが急速に台頭しつつあったことが,明瞭に認められたからである。
 当時は蚕糸業法の施行規則により,化性または名称の異なる蚕種の掛合せは地方長官の許可を必要としていたゆえ,いま我々はその基本的動向の一端を『蚕業取締成績』報告を通してうかがい知ることが出来る20)。つまり大正初年度においては,867種の蚕品種が飼育されていたが,そのうち“掛合せ”ないし“交配”なる名称を冠した品種数はわずか12種(全品種数の1.4%)に留まり,また2年度においても840種中の28種(3.3%)を占めたにすぎなかったのである。しかし大正3年度には,958種中129種(13.5%)が,さらに4年度には26.4%にも相当する1624種中の429種が広義の交雑種であった。そして初めて国蚕系の品種名が登場する5年度には,ついに3317種のうち実に971種(29.3%)にまで掛合せないし交配なる呼称が冠せられていたのである。もとよりこうした品種数の増加が,直ちに量的にも同様な交雑種の増大普及を意味するものではないが,着実に増加傾向を辿っていたことだけは疑いなく,例えば今それは第1図における主要掛合せ種の普及率の増大などによっても,容易に確認されうるであろう。
 すなわちこれは,各道府県にあって主要10品種の蚕種検査合格枚数に占める“掛合せ“ないし“交配”の名称を冠した品種の合格枚数の比を,同一資料によって計算したものである。
第1図 交雑種の普及率の推移
従って普及の初期段階に在った当時としては,かなり大幅に過小評価されざるをえないが(正規確率紙による推定値参照),それでも大正5年度には6.8%,6年度には14.1%を占めるに至っている。なおそれらのなかには,必ずしも厳密な意味での1代交雑種とは見做しえないものが多く含まれていたとはいえ,明示的に1代交雑種と謳ってあるものや補足資料から明らかに1代交雑種と判断される品種が相当数散見されること,ならびに品種改良への意欲の1指標ともいうべき改良品種の増大傾向と相並行して,品種数の増加が大正3年度以降顕著に認められることなどは,十分注目に値すると思われる。加えて外国種の飼育もまた漸次増大しつつあったが,とりわけ大正の初期にすでにかなりの日支・欧亜交雑種が試験飼育されていたことなどは,やはり看過しえない事実であるといってよい。いま『蚕糸業ニ関スル参考資料(第3次)』によれば,春蚕の日支交雑種を中心に大正2年度には4.4%の,また3年度には7.1%の外国蚕種系交雑種が製造飼育されていたことが知られているのである(第1図参照)21)。
 すなわちこのように,原蚕種製造所を中核とする普及組織体制の下で急速な1代交雑種の普及伝播が開始される以前に,すでに新体制に適応し新しい製種技術を摂取してゆくに足るだけの準備作業が,民間当業者の間で自発的におしすすめられていた結果,かなりの程度まで1代交雑種の受入れ体制もまた確立していた点を,我々は十分に銘記する必要がある。それは他方において,1代交雑種の普及伝播が夏秋蚕についてもほぼ完了した昭和4年時点にあってもなお,国蚕系・地方原蚕系のいずれにも属さない原蚕種の比重が,35.6%にも及んでいた事実と深く対応している22)。いいかえればそれは,蚕種製造業者自身の手によって絶えず優良品種を開拓し続けようとする品種改良に対する根強い意欲を物語るものといってよい。ただその場合,すぐさま1代交雑種の優秀性に着目し,その普及伝播活動に先導的役割を果したのが,まさに蚕品種の統一を強く叫びまた1代交雑種導入の利益と直結していた製糸業者達であったという事実こそ,きわめて徴象的であったといわねばなるまい。
 なかでも片倉製糸(正確には大正9年までは片倉組)は,大正3年いち早く大日本1代交配蚕種普及団を組織し,自らも1代交雑種の製造配付を行い,その普及伝播活動に最も積極的にとり組んだのである。すなわち大正3年7月,今井五介の強い支持の下に,東筑摩郡・南安曇郡の蚕種製造業者および養蚕農家を中心に,5種の組合せよりなる1088枚の1代交雑種を試験的に配布し23),まずまず満足すべき成果を収めたのであった。そしてこの経験に鑑み,同年10月に大日本1代交配蚕種普及団を結成する一方,当時の状況では多量の原蚕種を原蚕種製造所より入手することはほとんど望みえなかったため,自ら蚕種製造会社交進社を組織し,とりあえず欧州準固定種を原蚕種としてその量産体制に入ったのである。この結果,大正4年度には6万3千枚の1代交雑種が製造され24),各県に散在する片倉製糸所を中心に1府39県(うち長野県内は55%)にまで配付されるに至り,以後片倉製糸による1代交雑種の製造配付は,順調に軌道に乗ることとなった。
 なおこの普及伝播過程で,我々が是非とも言及しておかなければならない点が2つ存在する。まず第1に,1代交雑種の普及伝播にあたっては,養蚕農家の交雑種に対する既成概念を打破すべく,全国各地の購繭地区で講習会を開き飼育上の注意書きを配布するとともに,掃立過程で度々専門技師が巡回し懇切丁寧な実地指導を行っていることである。恐らくこのような地道な技術指導と啓蒙活動こそが,伝統的固定種に固執しがちな養蚕農家を説得し,成功裡に普及伝播を実現しうる最上の方策であったに相違ない。第2には,1代交雑種の配付に際して,飼育後の成繭を片倉で引き取る条件を付したことである。この産繭の保証引き取り制もまた,1代交雑種の飼育に多大な危惧が存在したその当時,養蚕農家の主観的リスクを軽減するのに大いに力をかしたと考えられる。なおさらにいえばこの形態は,以後いわゆる特約取引なる呼称の下で全国各地へ急速に普及し25),製糸業者の要求する繭質の水準を確保するための有効な取引として重要な役割を果すこととなる。しかしまた他方で,この取引形態は程なく両者の力関係を反映し,製糸業者の養蚕農家に対する搾取の手段としても機能し始めた点に我々は留意する必要があろう。
 一方,片倉以外の製糸業者によってもまた1代交雑種の積極的導入が図られたことは,改めて指摘するまでもない。例えば郡是製糸では,それまで蚕種の製造は子会社の大成館へ委託する形をとっていたのに対し,大正4年には蚕事部を設置して直接製造ならびに新品種の開発にのりだす一方,原蚕飼育分場の拡充に努め広範な分場組合方式を確立することにより,その後の直営蚕種製造所体制への礎石を築いたのであった。その他京都の綾部製糸(大正6年に兼営化)をはじめ,三重の関西製糸(同6年)や鳥取の日本製糸(同7年),熊本の肥後製糸(同2年)など大製糸会社による蚕種製造の兼営化は,いずれもこの時期に開始されたといってよい。またその生産規模は,片倉・郡是は別格としても,他社の場合でも総じて当時の平均規模を大きくうわまわっており,早くも蚕種製造業の将来の動向を左右する勢力までに成長しつつあった。
 例えばいま『蚕種製造ヲ為ス会社,組合,其ノ他ノ団体二関スル調査』(農商務省農務局,大正12年)によれば,1922(大正11)年現在で,製糸会社にして蚕種製造を兼営する会社は18(産業組合・同業組合を含めれば24)社にのぼり,その製造蛾数は原蚕種74万蛾,普通蚕種2077万蛾の計2151万蛾に及び,それぞれ全製造高の13.0%および13.8%にも達していたのである。なおそれらの多くは,国蚕系の原蚕種あるいは1代交雑種と比較しても何ら遜色のない品質を持ち26),しかも通常特約取引によって製造から掃立まで厳格な管理が施されていたため飼育成績も一般に優れていたことや,昭和初期に種々の多糸量糸品種として結実するように,絶えず優良品種を求めて改良の努力が積重ねられていたことなどが,同時に指摘されなければならないであろう。

 (3) 他方,1代交雑種にも決して全く難点がなかったわけではない。第1には,その製造法が従来の固定種に比べ,著しく複雑にしてかつ労働集約的な管理を必要としていたことである。例えば一般に交雑原種の発蛾期は常に同一とは限らないゆえ,その場合には双方の発蛾を一致せしむるべく,一方のそれを促進ないし抑制する必要が生ずる。しかも掛外れをなるべく少なくするためには,重量法にせよ蛹体検査法にせよ出来る限り正確に雌雄を鑑別することが,その前提条件として必要不可欠であったといえる。しかしながら1蛾育によるこうした繁雑な製造・飼育が可能であるためには,なによりもまず十分な技術知識と製造設備がなければならなかったのみならず,加えて経済的にも採算がとれる程度の大規模な製造を行う必要があった。従ってそのいずれの条件をも満たし難い中小の蚕種製造業者は,1代交雑種の普及伝播過程で次第に淘汰される結果となり,この頃を境に蚕種製造の平均規模は大幅に拡大したのである。
 しかしこのような製造技術上の困難は,蚕業試験場ならびに地方原蚕種製造所の適切な指導の下で,また1代交雑育種法そのものに慣れるに従い,漸次克服され着実な普及伝播を重ねていったが,その背景には基本的に製造上の繁雑さを上まわるだけの1代交雑種の優秀性が存在していたからに他ならない。かくして第1図にも示されているように,1代交雑種は大正8年頃から急速な普及を開始するに至り,12年度末には全普通蚕種の80.2%までが,早くも1代交雑種によって占められていた。ことに春蚕における普及率は著しく,97.8%にも及び,ほぼその普及は完了していたといっても過言ではなかろう。なお大正6年に蚕糸業法が改正され27),
普通蚕種についてはその採種形式が改められる一方,官行病毒検査も歩合検査となった結果,従来の框製に代って平付法が急速に普及したことや,病毒検査の合格率が大正7年度の49%から86%(12年度)へと大幅に上昇したことなどが,特に注目に値すると思われる。
 また第2には,1代交雑種は一般に繊度が太くその偏差も大きい点が致命的な欠陥であるとして,しばしば非難の矢を浴びたことが指摘されうる。しかし今日から顧みるに,1代交雑種に対するこの批判は必ずしも正鵠を得ているとはいえず,むしろ問題の大半は需要者側にあったとすら考えられるのである。なぜならば,1つには国蚕日1号×国蚕支4号や大諸桂系統の交雑種など太繊度の品種が,製糸業者養蚕農家の双方に好まれた結果,1代交雑種一般の繊度が全て太いかの如き印象を与えていたと解されるからである。しかしそれはこうした大型繭に対する需要が高かったという事実をたんに反映しているにすぎず,市場要因を考慮することなく普遍化して1代交雑種一般の技術的特質として批判するのは,必ずしも適切とは思われない。また繊度偏差についても,やがて多条繰糸機の導入によって大幅に改善されたように28),繭質の問題というよりはむしろ当時の繰糸技術上の未熟性に起因する部分の方がより大きかったといっても,決して大過ないように思われるのである。
 第3に,夏秋蚕用の1代交雑種については当初違蚕が多く,在来種に比べ必ずしも著しく有利であったとはいえなかったことである。従って国蚕系の夏秋蚕用の1代交雑原種ならびにその指定組合せについても,決定的に優れた品種や組合せは存在せず,しばらく試行錯誤をくり返す状態が続いたのであった。それゆえその結果として,当然夏秋蚕用1代交雑種全体の普及速度も,春蚕の場合に比し相当程度低くならざるをえなかったのである。今第1図にも示されているように,大正7年度34.9%であった普及率は,12年度になってもなお66.7%にとどまり,その普及が完全に完了するのは昭和5年頃まで待たねばならなかった。しかしこのことは,必ずしも在来固定種の相対的優越性を意味するものではない。
 なぜならば,確かに夏秋蚕における1代交雑種の普及率はかなり低かったものの,その他の交雑種をも含めて考える時,大正12年度にはすでに98.1%(第5図参照)に達しており,広義の1代交雑種ないし1代交雑育種法そのものは,夏秋蚕についても十分普及していたと判断してさしつかえないからである。それというのも当時は,1方の交雑原種に1代交雑種を配したいわゆる3元雑種が好評を博し,その他交雑種の圧倒的な部分は3元雑種によって占められていたからに他ならない。しかしその後は,第2図の全体的動向からも推察される如く,2化2化の交雑種が推奨された結果,急速に狭義の1代交雑種の普及率が上昇したのであった。
第2図 1代交雑種とその他交雑種の比重
 他方,夏秋蚕に関しては決定的に優れた組合せが存在しなかったこともまた事実であり,蚕業試験場による指定組合せも様々に変更され,春蚕の場合とは対照的に,その組合せ数が容易に収斂傾向を示さなかったことなどからも,この点は明瞭にうかがわれるのである。あるいはまた,地方の原蚕種製造所による配付品種数が夥しい数にのぼるとともに29),奨励品種も各地の特性に応じた伝統種の組合せが尊重されたことや,国蚕系・地方原蚕系のいずれにも属さない普通蚕種の製造が,全国各地で根強く大きな比重を占め続けたことなどによっても,やはり例証されうるといってよい30)。かくして夏秋蚕用の1代交雑種が,真に安定的な優良品種として普及伝播を確立するのは,大正期の後半に人工卵化法が完成され,大部分の夏秋蚕が人工不越年種になってから以後のことであったと結論づけられてよいように思われる。

Ⅱ 普及伝播の促進要因

 1 統計分析によるその検出

 (1) 以上第Ⅰ節で我々は,全国データにより1代交雑種の急速な普及伝播実現の事実とその基本的な特徴について全般的な確認を行う一方,それを根底的に支えたと思われる民間当業者の品種改良に対する根強い自主的改革の伝統,あるいはまた中央および地方の原蚕種製造所を中心とする果敢にしてかつ迅速な普及体制の確立,さらには製糸業者を筆頭にすばやくそれに呼応した関連業者の幅広い受入れ活動や独自の普及促進活動など,普及伝播体制の基盤整備ないし組織化にとり,とりわけ意義深い諸活動について概括的に考察してきた。そこで次に,それら制度的条件の整備のみならず,新品種導入のための社会的な環境条件や研究開発活動などをも含め,1代交雑種の普及伝播促進に直接貢献した諸要因を,もう少し詳しくかつ厳密に把握することが望まれるであろう。
 いまこの目的のために,我々は普及伝播の比較的初期段階にある大正7年度の府県別データを利用し,プロビット分析によってそれら諸要因の統計的な検出を試みる。なおここで大正7年度を選択する理由としては,1つに1代交雑種に関するかなり詳しいクロスセクション・データが初めて利用可能となるのが,大正7年度の『蚕業取締事務成績』報告以後のことであるという理由に起因している。また2つには,変動係数の値によっても如実に示されているように(第1図参照),各府県における1代交雑種の導入程度の差異が8年度以降急速に縮小し,普及伝播速度の相違を決定していた主要因の識別ないし抽出は,それ以後やや困難となるがためでもある。
 ところで実際の推定結果は,回帰分析の場合とそれ程大きく異ならないにも拘らず,我々があえてプロビット分析を採用する理由は,次の2点に求められるといってよい。まず第1に,現実の1代交雑種に関する情報としては,府県単位に集計された数値しか利用可能でないとはいえ,その背後においては個々の蚕種製造業者が,1代交雑種の導入に関して二者択一的な(従って名義尺度による)意志決定を行っており,その集計値として府県全体の比率が与えられていると解する方が,より現実適合的であると考えられるがためである。その際府県という行政単位は,勧業費の配分をはじめいわゆる鎖県政策や原蚕種製造所の設置,あるいは蚕糸業教育や同業組合の活動等々をみても明らかなように,蚕糸技術に関する情報密度の単位としてもまた1つの積極的な意味を持つものであることは,疑いない31)。第2には,1代交雑種を導入するか否かの意志決定は,諸変数の効果を総合した指標のある一定値を中心にその近傍で近似的には正規分布をしていると想定されうることである。いいかえれば,普及伝播現象をそれら諸変数の総合効果に対する反応パターンの累積として捉える時,低い値に対してはより警戒的であるが,ある一定水準を越えるとともに次第に反応度を高め,やがて再び鈍く反応するといういわゆる成長率曲線の形態をとることが,経験的にもよく知られているからに他ならない。したがって直線回帰に比べ,非線型の正規分布の累積分布曲線をあてはめる方が,はるかに優れた適合度を示す結果となるのはいうまでもなかろう。なお先の多条繰糸機の普及伝播に関する分析においても,同様な理由からプロビット分析が採用されており,その意味でもまた両者は比較可能となっている点にも留意される必要がある。
 さてこの普及伝播の促進要因を決定する統計分析において,我々は次のような直接的効果をもつと予想される8変数を選択し,それらの貢献度ないし因果関係を統計学的に確定したいと考える。そこでまずとりあげる変数であるが,第1に製種技術の水準を表わすものでは,蚕種製造の平均規模〔x1;蚕種製造枚数/蚕種製造戸数〕ならびに蚕種の自給率〔x2;(蚕種製造枚数一蚕種掃立枚数)/蚕種掃立枚数〕の2つが採用される。すなわち前者は,蚕種製造業者(会社)の近代化度を示す指標として,また後者は他府県への蚕種の移出入率に反映される製種技術の先進性ないし後進性の1尺度として,採択されていると考えてもよかろう。なお当然ながら,その場合の蚕種製造量(従って製造戸数も)には,前年度の数値を使用する必要がある。
 第2に,製糸会社による蚕種製造業および養蚕業に対する組織化の程度ないし影響力を測る恰好の指標として,我々は特約取引率〔x3;特約取引繭量/全産繭量〕を導入する。ただ資料上の制約から,ここでは初めてそれが利用可能となる1928(昭和3)年度の数値をもって代替せざるをえないが,それでも当面の目的の1次的近似としては十分な有効性をもつものと考えられる。第3に研究開発活動ならびに蚕糸業教育に関する変数としては,フローとストックの両側面から技術者経費〔x4;蚕糸業費に占める技術者関係全経費〕および教育集約度〔x5;蚕糸関係教育機関の卒業生総数/桑園面積〕の2つがそれぞれ選択されている。なお後者の卒業生総数については適当な資料が存在しないため,大正7年度現在における国公私立の全蚕糸関係教育機関の生徒定員総数の4倍を3年度までの累計総数(既知)に加え,近似的な値が求められている。さらにその集約度を知る意味で,養蚕規模の安定的な指標たる桑畑面積により,それに規模の修正が施されている。
 第4には,普及体制の制度的条件の整備進展を測る変数として,我々は1種の先発県指標〔x6;地方原蚕種製造所の配布原蚕種が2割以上を占める府県のダミー〕をダミー変数の形で構成する。すなわち1代交雑種の配布を開始する直前の時点(大正3年)で,すでに地方原蚕種製造所による原蚕種の配布が相当程度まで進展していた県は,一応普及体制の面における先発県とみなしてもさしつかえないと思われるからである。第5に,蚕種製造における環境条件を表わすものとしては,夏秋蚕比率〔x7;夏秋蚕産繭量/全産繭量〕および蚕糸業費比率〔x8;蚕糸業費/府県勧業費〕の2つが,ここでは考察の対象となっている。つまり前者は蚕糸業と農業活動の関係を,また後者は他の産業活動一般との関係を示す指標として捉えられていると理解してさしつかえない。
 最後に以上の諸変数に関する資料の出所について簡単に言及しておこう。まず特約取引率ならびに技術者経費は,各々『蚕糸統計年鑑 昭和5年版』および『蚕糸業ニ関スル道庁府県ノ施設概要 大正7年度』(農商務省農務局)から,また先発県指標は『蚕品種ニ関スル調査大正9年12月』より,教育集約度は『蚕糸業ニ関スル参考資料(第3次)』に加え先の『蚕糸業ニ関スル道庁府県ノ……』および『農商務統計表 第35次』(農商務大臣官房統計課)から,それぞれ統計数字が加工集計されている。そして残る蚕種製造平均規模および蚕種自給率,夏秋蚕比率,蚕糸業費比率の4変数は,いずれも第34,35次の『農商務統計表』から作成されている。

 (2) さて以上の8変数を用いて,反復最尤推定法によりプロビットを計算した結果,我々は次のような推定結果を得た32)。
ここで推定式の信頼度は,そのx2値にもみられるように十分有意〔x237,(0.995)=18.59〕であるといってよく,また各係数もその漸近t値が示す如く10%水準ですべてが有意となり,全体的にきわめて良好な結果を示していると判断されよう。なお説明変数は,係数間の相互比較を直接可能ならしむべくすべて標準化されている。
 以下この第(1)式から導かれるいくつかの含意について,簡単に補足的な検討を加えておこう。まず第1に注目さるべき点は,特約取引率が8変数中最大の普及促進効果を有しているということである。ただしこれはすでに指摘したとおり,後年度の数値を使用しているため,その点で若干割引かれる必要があるかもしれない。しかしここで変数は標準化されており,したがって絶対水準が多少異っても各府県の相対的位置に大きな変動がない限り,ほぼ同じ効果をもつといえ,今もし広義の特約取引にその原初形態たる委託製造や予約取引などをも含めて考えれば,この昭和3年次データの利用は,必ずしも過大評価を招くものではないと判断される。いずれにせよここでも我々は,製糸技術の普及伝播の場合同様,蚕種製造を兼営する大製糸会社の果した先導的役割の大きさを,改めて認識しないわけにはゆかないのである。
 この特約取引率に次いで顕著な普及促進効果が認められるのは,いうまでもなく教育集約度および技術者経費の教育・研究開発関係の変数においてである。すなわち蚕糸技術に関する教育や研究開発に意欲的な投資を行う県ほど,新しい科学技術知識に裏付けられた1代交雑種の優秀性に対しても理解が深く,その導入や普及により積極的であったのは,きわめて当然の理であったと思われる。前者の蚕業教育機関の卒業生総数には,蚕業講習所・伝習所の卒業生から蚕糸専門学校の卒業生まで含まれているが,彼らの多くは地元で,同業組合の養蚕巡回教師としてあるいは農会や県庁町役場の専属技術指導員として,新しい蚕糸技術の指導や普及に多大の貢献をしたのであった。事実その総数は,後に免許制・認可制の浸透とともに把握可能となる養蚕教師数と,概ね比例的な関係にあることが知られよう33)。また後者の技術者経費には,蚕業取締所や原蚕種製造所の技師および技手の諸経費はもとより,蚕糸業関係の改良奨励費に含まれる技術者関係の全経費(したがって同業組合や農会への関連補助金も含む)が計上されており,技術改良および技術指導に対する取組み方の姿勢ならびにその成果が,これによってかなりよく捉えられていると判断して大過ない。
 第3には,夏秋蚕比率に示される環境条件もまた,1代交雑種の普及伝播に密接な関係を有していたことが指摘されうる。つまり夏秋蚕比率の高い県ほど,一般に1代交雑種の普及率も高いが,それは1つに,他の農業活動に比して養蚕業の占める相対的位置が高く,その結果として新品種の導入についても積極的とならざるをえなかったことを物語っている。また2つには,夏秋蚕比率の高い地域ほど換金作物市場が発達していたがゆえ市場志向的であり,新技術や優良品種の動向についても敏感であったと解されるがためである。なお同じ環境条件を示す変数でも,蚕糸業費比率の場合にはその貢献度はより小さくなる。しかしその意味するところ,すなわち府県勧業費に占める蚕糸業費の比重が小さい県ほど,いいかえれば商工業や普通農業などの費目への配分比率が高い県ほど,1代交雑種の普及率は明らかに高くなっている。これもまた夏秋蚕比率の場合同様,市場経済の発達度と新技術の導入速度の陰伏的関係を表わすものと解される。
 第4に,先発県指標によれば早期の制度的条件の整備如何は,意外にもそれ程重要でないことが判明する。恐らくこれは地方原蚕種製造所の配布体制が比較的短期間で確立されうること,ならびにこの指標には現われない民間の蚕種製造業者の役割もかなり大きかったことの2つを意味していると考えられる。また最後に指摘さるべき点は,製種技術に関する変数がその係数やt値の大きさから判断して,必ずしも十分には効いていないということである。確かに蚕種製造業の平均規模と普及率の間には期待される正の相関関係が認められるものの,蚕種移出県ほど1代交雑種の導入に消極的であるという推定結果は,必ずしも我々を首肯させうるものではない。実はこうした結論が導かれるのは,後述するように,西日本と東日本の普及率に明確な段階的格差が存在することに起因していると考えられる34)。つまり蚕種の移出入を個別的に検討すれば,一般に移出県の普及率の方が高いが,その移動範囲が通常近距離県に限られているため,両地区に介在する大きな格差を反映し,東日本の移出県の普及率が常に西日本の移入県のそれよりも高くなるとは限らず,全国的規模でみる時明快な結講が得にくい状況にあると判断されることである35)。
 ところで我々の統計分析には,価格に関する変数が全く含まれていなかったが,一般論としては蚕種や繭の価格あるいは養蚕労働の賃金率などが等しく普及に深い関連を持つものとして,検討に値すると思われるかもしれない。しかし前者では,品質値に対する価格差は存在するものの,同一種に対する価格は全国的にもほぼ均一であり,また後者の場合には,全国データが利用可能でないこと,ならびに部分的な情報に基づいてもやはり地域差がほとんど認められないこと等の理由によって,考察の対象から除外されている36)。さらにここで採用されている変数についても,夏秋蚕比率の代りに桑畑一畑地面積比率や特約取引率の代りに生糸生産量などが,同様な根拠によって代替的に導入可能であると想定されよう。しかしそれらはいずれも有効ではなく,ここでは変数選択の結果十分有意なもののみが残されている。また産業組合および同業組合の効果も,統計的には有意性が認められなかったことにより,やはり捨象されている点を終りにつけ加えておく。
 最後に以上の統計分析結果をより実感的に理解するために,いま第3図から各府県の相対的位置に関する二,三の特徴を要約しておこう。1つにはすでに指摘した如く,1代交雑種の普及伝播は,各府県とも夏秋蚕に比しまず春蚕での急速な普及伝播から開始されていることが明瞭に認められる。
第3図 1代交雑種の県別普及率(大正7年度)
しかも高知や山形など若干の例外をのぞけば,春蚕における1代交雑種の普及率が高くなるにつれ,夏秋蚕でも加速的に普及率が上昇してゆく傾向が,明確に読みとれるといってよい。2つには,西日本と東日本の普及率の水準には,はっきりと段階的な格差(加重平均で66.7%対37.1%)が存在することである。例えば東日本では山梨(4.0%),千葉(10.8%),静岡(26.0%),長野(28.5%)などの大養蚕県の普及率が著しく低いのとは対照的に,比較的最近養蚕製種業が隆盛期を迎えた西日本では,京都(93.3%)や鳥取(89.5%),兵庫(86.6%)など新興の主要養蚕県において,すでにほぼ普及を完了しつつあったことは,きわめて象徴的であると思われる。3つには,東日本のなかでもいわゆる古蚕地と呼ばれる群馬・埼玉・福島などの諸県の普及率の方が,長野・岐阜・山梨などの新蚕地のそれを上回っていたこともまた注目される必要がある37)。すなわち明治期に,新蚕地の華々しい活動の後塵を拝した古蚕地も,この時期に至ると新蚕地よりもむしろ積極的に技術の改良や新技術の導入普及に取組んでいたことが知られ,はなはだ興味深い。なお同様の現象が,多条繰糸機の導入に際しても観察されることは,新技術の普及伝播と主導地域の交代に関するきわめて示唆に富んだ仮説を,我々に提示していると考えられるのである。

 2 普及活動の組織化と需要要因

 (1) 第Ⅱ-1節のプロビット分析によって我々は,蚕種製造業を兼営する大製糸会社の先導的役割ならびに教育・研究開発活動の重要性を数量的に把握したが,本節では大正7年度以降の普及動向とともに,それら2つの要因が実際に果した役割を,個別具体的な史実に基づいて確認しておきたい。いま1代交雑種に関する詳細にしてかつ体系的な情報が得られる大正7年度から12年度へかけて,各府県でどのように普及状況が進展したかを,我々は第4図に示した。
第4図1代交雑種の普及の進展
 ここで最も特徴的なことは,1代交雑種の普及伝播が広く全国各地で進展し,7年時点に存在していた西日本と東日本の,また古蚕地と新蚕地の普及率の格差が,いずれも完全に解消していることである。しかしもう少し仔細に検討するならば,直ちに次のような点が明らかとなってこよう。まず第1に,西日本のそれをはるかに凌駕する東日本での急激な普及伝播は,2つの異なった型の合成として理解されうる。つまり1つは,北海道や青森,岩手,新潟などの比較的後進的な地域における著しく急速な普及伝播の進展であり,他の1つは長野や山梨,静岡,千葉など主要養蚕地帯への着実な普及の浸透であった。これらはいずれも,図の45°線から上方への距離として,一目瞭然に把握されるであろう。この結果,先にみられた東西日本の,また新古蚕地間の普及率格差も,全く解消していることが確認されよう。
 次に指摘さるべき点は,西日本の少なからぬ県において1代交雑種の普及率が,7年度の水準以下に低下していることである。例えば,45°線の下方にある福岡や鳥取,佐賀をはじめとする諸県は,その典型であるといってよい。いまこれらの県について若干詳しく検討すれば,この普及率の低下が実は夏秋蚕のそれに起因しており,しかもそれはその他交雑種の比重が著しく増大した結果であるということが,容易に判明する。そして第5図の二項確率紙は,そのことを端的に物語っているのである。すなわち原点と4分円を結ぶ半直線の正弦(余弦)に1代交雑種(その他交雑種)の占める比率が示され,また両普及率の和は原点からの距離として与えられている。いいかえれば12年度の夏秋蚕は,その他交雑種をも含めて考える時,ほとんどの県で夏秋蚕にもすべて交雑種が用いられていたことが,この第5図によって示されているといえよう。しかもすでに指摘したように,当時のその他交雑種は,初期の掛合せ種とは異なり,親種の一方に1代交雑種を配したいわゆる3元雑種がの圧倒的な比重を占めていたから38),実質的には夏秋蚕についても1代交雑育種法が,全国的にほぼ普及を完了していたといっても決して過言ではないのである。
 その後3元雑種に代り,2化-2化の1代交雑種の比重が急増するものの,この頃すでに1代交雑種の全体的動向や諸特性は,おおむね確定していたと判断してさしつかえない。そこで終りに,それらの点を簡単に要約しておこう。よく知られているように,1代交雑種の主流は自繭用の日支交雑種であった。例えば春蚕では,70%以上が日支交雑種によって占められ,20%前後が支欧交雑種から成っていた。従って換言すれば,その他日欧・日支欧交雑種などの比重は,きわめて限られたものであったといえよう。事実蚕業試験場から配布される原蚕種も39),この頃には春蚕・夏秋蚕ともそれぞれ10種以下に減少していたのである。同じく夏秋蚕についても,
第5図 1代交雑種とその他交雑種の比重(大正12年度,夏秋蚕)
大正7年頃は日日や支支交雑種が,それぞれ15から10%前後を占め,日支交雑種は75%程度であったが,次第に後者の声価が高まり,12年頃にはほとんど日支交雑種一色の状態となった40)。ただ趨勢的には,昭和期の前半へかけて黄繭糸の需要が増大した結果,白繭糸用蚕種の比重が90%から70%台へと次第に減少傾向を辿りつつあり,先の支欧交雑種の漸増も,この黄繭糸需要を反映したものであったことはいうまでもない41)。
 これら交雑種には,1化-2化や3元のものも含まれてはいたが,多くは1化-1化ないし2化-2化の交雑種であり,蚕糸業法の改正来散卵採種法が推奨されていたにも拘らず,大部分は框製法によって製造されていた。いずれにせよ,もし3元雑種も1代交雑育種法を利用しているという意味において,広義の1代交雑種として扱いうるならば,この大正12年頃にはすでに春蚕で98%,夏秋蚕で96%前後が1代交雑種によって占められていたのである。すなわちいいかえれば,大正4年の配布開始以来,わずか10年足らずにしてほぼその普及伝播を完了し終えていたことは,まさに驚異的といえ,日本蚕糸業の発達史上特筆に値すべき事柄であったと思われる。

 (2) そこで次に,このようないわゆる種屋技術から試験場技術の時代への移行を可能ならしめ,かつまた急速な1代交雑種の普及伝播を実現せしめた1つの主要な要因たる教育・研究開発活動の側面に,我々は言及しておく必要があろう。明治36年,専門学校令の施行とともに,政府は実業専門学校の設立に意を注ぎ,明治期末から大正期へかけ実業教育体制の大幅な整備改善が,急速に実現されるに至ったのである。こうした背景の下で蚕糸業関係でも,明治43年の上田蚕糸専門学校設立を嚆矢に,東西両蚕業講習所の高等蚕業学校への改組(大正3年)や九州帝国大学における養蚕学講座の設置など,高等専門教育体制が拡充される一方,それらを底辺から支えた実務性の高い初等中等蚕業教育もまた加速的に拡大されたのである。確かに高等専門教育が,蚕の遺伝や騨化・催青等に関する先端的研究やその実地応用化を積極的におしすすめる役割を果した反面,実務的な一般蚕業教育の迅速な展開もまた,普及啓蒙活動の効果を倍増させ,1代交雑種の普及伝播にどれ程大きな貢献をしたかは,容易に測り知れないところである。
 いま『農林行政史』によれば,1919(大正8)年現在で6カ月以上の蚕業教育を施す学校数は,145(府県立53,郡立72,組合立20)校に及び,5年後の1924(大正13)年にはさらに231(府県立194,学校組合立37)校へと発展するとともに,地方の原蚕種製造所(蚕業試験場)でも蚕業講習を行い,大量の達成蚕業技術員の養成に努めたのであった42)。これら教育機関の代表的なものは,『蚕糸要鑑』などによってもその性格や規模が知られるが,ここで特に我々は学校組合立農蚕学校のもつ重要な意義を強調しておきたい。なぜならば,大正12年度末までの全蚕業教育関係機関の卒業生総数15万1386人のうち,学校組合や同業組合,農会,株式会社や個人,法人などの設立による国公立外の農蚕学校・蚕業講習所の卒業生総数は,全体の17.0%(2万5731人)にも及び43),特にそのうち学校組合立農蚕学校の卒業生数が,その過半(1万5769人)を占めていたからに他ならない。もとより府県立農蚕学校や原蚕種製造所による蚕業講習活動等の絶大なる意義は否定しえないが,他方で同業組合や農会のみならず,私立の農蚕学校・蚕業講習所等による早くからの活発な活動をぬきにしては,日本の蚕糸業における研究教育活動の果した重要な役割を十分に語り尽せないこともまた事実なのである。
 ともかくもこうした幅広い教育啓蒙活動が,1代交雑種の急速な普及伝播を大きく促進していたことは,ほとんど疑問の余地のないところである。それというのも先に言及した如く,これら教育・伝習機関の卒業生の相当部分は,地元において同業組合や農会,製糸会社などの養蚕教師や専属技術者として,あるいはまた何らかの形で蚕糸業関係の仕事に従事することを通じて,技術の改良・普及に多大な貢献をしたことは紛れもない事実だからである。なお補足すれば,大正14年現在の養蚕教師数は1万430人に昇り,その8割以上が季節的な養蚕巡回教師(常置者は13%)であったが44),この頃を境に,特約取引の進展につれ製糸会社所属の養蚕指導員が,とみに増加しつつあった点は注目に値すると思われる。
 他方,駒場農学校を前身とする東京帝国大学農科大学(明治23年統合)を1つの頂点として比較的早くから整備されていた高等蚕業専門教育の成果を反映し,蚕の遺伝や病理をはじめ蚕卵や生糸,桑などに関する先駆的な業績が,明治30年頃から陸続と発表され始めたのであった45)。しかもそれらのなかには,フランスやイタリアなどの研究と比較しても何ら遜色のない国際的水準に在るものが数多く含まれていたこと,また必ずしも一握りの大学・専門学校の研究者に限らず,原蚕種製造所や農事試験場などからも幾多の優れた業績が生みだされていたことは,看過しえない重要な事実であると考えられる。しかし紙幅の都合上,それらの詳細に立入ることは出来ないが,少くとも1代交雑種の普及伝播の問題と密接な関連がある人工卿化法と雌雄鑑別法の2つの画期的な技術革新については,言及しないわけにはゆかないであろう。
 越年すべき蚕卵に人為的な刺激を与えて孵化させるいわゆる人工孵化法には,摩擦法や浸湯法,通電法あるいは浸酸法や酸素法などの様々な原理が存在することは,早くから知られていた。しかしこのうちで実際に実用化の段階にまで研究開発されたのは,わずかに塩酸処理による浸酸法のみであった。それは大正3年,小池弘三により浸湯酸法の名の下にまず実用化される一方,その後荒木武雄・三浦英太郎らによる更に改善された冷蔵浸酸法(大正6年)が開発されるに及んで,大正7,8年頃から愛知県を中心に急速に全国各地へ普及伝播を開始したのである。すなわち夏秋蚕種のうち人工不越年種は,大正10年にはまだわずか6.0%にすぎなかったものの,5年後の15年には,早くも72.4%を占めるに至っている46)。この人工孵化法の完成は,掃立期の調整や蚕卵の管理等々の面において,夏秋蚕用1代交雑種の製造にとりきわめて有効であったがゆえ,その普及伝播実現に多大な貢献をする結果となったのである。
 同じく1代交雑種の普及を側面から支えた技術革新の1つに,蚕児雌雄鑑別法の実用化が挙げられる。これは農科大学で外山亀太郎と同級であった石渡繁胤により,明治37年蚕の生殖腺に関する研究として理論的にはすでに明らかにされていたものを,大正10年唐沢正平の努力によって初めてそれ専門の鑑別手が育成され,実用的にも利用可能となったのである。以後蝋体検査法に優る最も確実な雌雄鑑別法として,鑑別手の養成とともに,長野県より漸次全国の各府県へ普及を開始するに至った。周知の如く,1代交雑種の製造には雌雄中識別分離が必要不可欠であったから,この鑑別法の実用化もまた,1代交雑種の普及伝播を促進するうえで非常に高く評価されうるものであったことは,改めて指摘するまでもない。
 さてこうした様々な先駆的業績やその応用・実用化に関する研究が,試験機関や教育研究機関で着々と積重ねられる一方,それら新技術導入の収益性が判明するや否や,情報は直接の生産者たる蚕種製造業者や養蚕農家へ伝達され,時を移さずして実際の製造・生産過程に導入される傾向があったことはよく知られている。そして今この両者をつなぐパイプとしては,2つの経路が存在していたと考えられよう。すなわち1つはいうまでもなく,原蚕種製造所や蚕業取締所から府県市町村の蚕糸課などを経て,農会や同業組合に伝達され,そこで進取的業者や老農によって導入され普及伝播するという制度的に組織化された経路であり,これが技術情報の主たる経路であったことはほぼ間違いない。
 他の1つは,全国各地に散在する蚕業教育機関・伝習機関の卒業生などが,自主的に雑誌や啓蒙実用書,講義録等々から直接新しい技術知識を摂取し,それが彼らの指導の下で各地の特性を生かした形へ適合化され,導入される経路である。そうした事実がかなり広範に存在したことは,例えば『大日本蚕糸会報』の“叩門”や“問答”などの質疑応答欄,あるいは地方原蚕種製造所の技手クラスによる実用性の高い助言的寄稿などにも,端的に表われていたといえよう。なお前者の場合をも含め,こうした情報経路の機能が有効に作用しうるか否かは,長期的には蚕業教育の如何にこそかかっていたといっても決して過言ではないと思われるのである。
さらに後者の経路が,現実にかなりの程度技術の普及伝播に対しても影響力を持っていたことは,関連の啓蒙・実用書の出版点数が,実に敏感にその時代の技術的要請を反映して消長することによっても,逆に論証されうるのである。いま1代交雑種の製造に関していえば,大正3年頃から明文堂や丸山舎など蚕糸関係の老舗の出版社を筆頭に,啓蒙実用書が続々と出版され始め,6年にはついに年に13冊ものの新しい1代交雑種関係の書籍が出版されるに至っている47)。しかもここで注目すべきことは,それらは必ずしも中央の出版界のみに限られず,広く全国各地の出版社や蚕種製造会社,地方原蚕種製造所,同業組合などによっても,また編纂出版されている点なのである48)。なおこの1代交雑種関係の出版は,ほぼ大正10年をもって終息し,以後人工孵化法などに関する書籍が中心を占めるようになることからも分るように,1代交雑種の実質的な普及伝播は大正12年頃までに完了していたという先の我々の見解は,ここからも間接的に裏付けられると考えてよいであろう。

 (3) こうした教育・研究開発活動と並んで,1代交雑種の普及伝播に大きく貢献したもう1つの重要な要因たる製糸会社の先導的役割についても,最後にふれておく必要があろう。1代交雑種の優秀性が次第に明らかにされつつあった大正の初期を1つの転期として,製糸会社が次々と蚕種製造の兼営化にのりだしたことはすでに指摘したが,それには十分時代的な背景が存在していたと考えられる。つまり日本最大の輪出市場であったアメリカ市場の生糸需要は,第1次世界大戦頃を境に,明確に上質糸志向の様相を呈し始め,やがてレーヨン糸の台頭とともにその傾向は一層顕著となる。したがって当時すでに,そうした需要構造の変化を的確に把握し,かつまた技術的にもそれに応えるべく速やかに生産技術の体制を再編することが,日本蚕糸業の緊急の課題として要請されていたといってもよい。その意味で製糸業者こそが,立場上最も強くそうした必要性を敏感に感じうると同時に,それらを実現しうる立場にもあったことが,蚕種製造の兼営化に踏みきらせる直接の契機となっていたことは,想像するに難くない。
 すなわち上質糸を生産するためには,上質の繭を生産する必要があること,また均質な糸を生産するために,一定量の同質的な繭を確保する必要があること,さらには大幅な糸価の変動や黄繭糸需要の急増の如く,需要の変化に敏速に対応する必要があることなどから,製糸会社は自らこれらの問題を解決すべく,蚕種製造の兼営化にのりだしたのであった。それゆえこうした方向への需要条件の顕著な変化に直面していた製糸業者が,1代交雑種の導入に積極でないはずはなかったといえよう。事実資本力豊かな大製糸会社は,近代的な蚕種製造設備を設置する一方,優良な蚕種を養蚕農家へ配付するとともに,多くの優れた養蚕技術者を巡回せしめ厳格な飼育指導を行うことにより,上質繭の量産体制を程なく確立するに至ったのである。もとよりそれが成効裡に機能運営さるためには,他方で客観的基準に基づく正量取引の浸透や,製糸会社の意向を自ら実現してゆく特約養蚕組合の結成などが,並行的におしすすめられる必要があったことはよく知られている。
 しかしともかくも製糸需要の動向に最も鋭敏な製糸業者が,蚕種製造の兼営化にのり出した結果,製造蚕品種の特性や新品種の開発にも市場条件の動向がより適切にまた敏感に反映されうるようになったことは,疑いない。さらにいえば,製糸会社の蚕種製造部門がとかく需要の先取りをしながら,優良品種の開発に努めたのに対し,蚕業試験場はともすればそれら新品種の追試と改良に追われがちとなった一方,多くの一般蚕種製造業者もまたただ単にそれらの結果に追随するだけの観を呈し始めていたのである。いずれにせよ,程なく大製糸会社の蚕種製造部門およびその研究開発活動は,日本の蚕種製造業の方向を大きく左右するまでに成長したばかりでなく,製種技術水準の高揚にも多大な貢献をしたことは,誰しも否定しえない事実であると思われる。例えば昭和初期の多糸量系品種の開発は,製糸会社の完全なイニシアティヴの下で推進されたといっても決して過言ではなく,1934(昭和9)年に原蚕種の国家管理制度が敷かれて以来,その指定品種に制定されたもののうち半数近くは,片倉や郡是,神栄,昭和など大製糸会社の手になる優良品種であったという事実によっても,その製糸技術水準の高さは,十分にうかがい知ることが出来るのである。
 しかしながら,資本力豊かな製糸会社が蚕種製造市場に参入したことによる弊害も,決して全く存在しなかったわけではない。確かに市場条件の動向に敏感な製糸会社が,蚕種製造業の兼営化を開始したことにより,養蚕業や蚕種製造業自体もまた市場志向的となり,価格メカニズムがより良く作用するようになったと考えられる。しかしそのことは同時に,交渉力で圧倒的に優る製糸会社が自己本位な生産計画をたてた場合,養蚕組合や養蚕農家にはそれに拮抗しうるだけの力がなかったがゆえ,とかくその利益が無視されたり,損失が転化されがちとなる傾向が,現実に特約取引の盛んになる昭和初期頃からしばしば見られるようになったことも,他方で指摘される必要があろう49)。とくに特約取引においては,製糸会社の技術指導だけでなく養蚕農家に対する信用供与を伴う場合が多かったゆえ,一層そうした傾向が助長される危険性をはらんでいたこともまた確かである。それゆえ我々は,こうした否定的な側面をも十分念頭においたうえで,製糸会社による蚕種製造の兼営化が果した役割を評価しなければならないが,当面の我々の課題たる1代交雑種の普及伝播に関するその促進効果という狭い局面にのみ問題を限定するならば,やはりその貢献度と先導的役割の意義は,きわめて大きかったと結論づけざるをえないよう
に思われるのである。

結 び に

 以上我々は,1代交雑種の普及伝播の問題に分析の対象を限定しながら,その普及促進要因を確定すべく考察をおしすすめてきたが,最後にそこで得られたいくつかの主要な結論を要約するとともに,それらをやや異った広い視角から改めて捉え直しておきたい。大正の初期に普及を開始した蚕の1代交雑種は,3元雑種をも含めて考える時,春蚕ならびに夏秋蚕の双方とも,ほぼ10年をまたずして全国的にその普及を完了し終えたことは,世界的にも類例のないほど急速な普及伝播であったといってよい。すなわち大正7年現在で50%にも達しなかった1代交雑種の普及率は,5年後の12年には早くも97%に至り,諸地域間の普及率格差も解消して,日本全国の養蚕農家で飼育される蚕種は,悉く1代交雑種となったのである。確かに蚕の1代交雑種にあっては,他の農作物の場合に比べ,技術的にも飼育上の制御性が高く,自然環境の影響も小さかったがゆえ,普及条件としてはかなり恵まれていたといえるかもしれない。しかしこのように著しく高い普及伝播速度が,ただ単に技術的な要因のみに帰着されうるはずはなく,むしろより根底的な社会経済的要因によっても深く支配されていたと考えられるべきであろう。
 そしてその点を解明すべく,第Ⅱ-Ⅰ節では大正7年度のクロスセクション・データを用いて,プロビット分析により普及伝播の促進要因が,統計的にも確定されたのである。なおそこで,1代交雑種の普及伝播を促進した諸要因のうち,大製糸会社の生産および技術面における先導的役割ないし生産組織の再編効果,ならびに教育・研究開発活動のもつ啓蒙普及効果の2つが特に大きかった点が,数量的にも明瞭に把握されたことは注目に値しよう。事実普及の初期には東日本に比べ西日本の,また新蚕地に比べ古蚕地の普及率の方がかなり高かった現象も,これらの要因によって良く説明されうることは,府県別データの個別的な検討からも十分に裏付けられるといってよい。さらに若干普遍化してつけ加えれば,普及伝播速度の緩急は,市場経済の発達度とも深く関連していたことが,やはり統計分析によって示唆されていると解されるのである。
 ところで驚異的ともいえるほど急速な1代交雑種の普及伝播を,以上のような要因によって理解する時,当然我々は,普及制度に関する既存の評価とは全く相異った見解に到達する。すなわち日本における農業技術の普及伝播は,補助金中心の強権的勧農政策に負うところがきわめて大であったとするこれまでの見解は,少くとも蚕の1代交雑種の普及伝播に関する限り,およそ妥当なものとは考えられないからである。それは単に我々の統計分析の結果が含意しているばかりでなく,歴史的な事実を個別具体的に検討してみてもまた,容易に確認されうるところといえよう。例えば,早くから存在した掛合せや品種改良への根強い意欲,あるいは蚕種製造業者による自主的な巡回技術指導や独自の伝習所・講習会制度などは,既成の見解に対する重要な反証に他ならないと思われる。
 換言すれば,このような民間当業者自身の主体的な改良普及活動や教育啓蒙活動,ならびに製種・養蚕市場の競争的性格こそが,1代交雑種の急速な普及伝播を支えた真の背後的要因であったといっても,決して過言ではないのである。それというのも,こうした歴史的な背景のなかでのみ,中央に先がけて地方の原蚕種製造所が生まれ得たのであり,また原蚕種も全面的に国蚕系のそれに依拠することなく,蚕種製造業者自身の手によってもなお改良の努力が続けられ,結果的に蚕業試験場の試験研究にも多大の刺激を与え得たのであった。同様なことは蚕糸業教育についてもいえ,明治期末以来の国公立教育機関の整備には目覚しいものがあったが,それらと並行して民間当業者によって設立された蚕業教育機関の果した役割もまた,決して看過しえないものであったことは,よく知られた事実である。結論的にいえば,このような著しく高い普及伝播速度は,競争的な市場と民間当業者自身の活発な企業家精神なくして,行政権力のみによる強制的な普及指導だけでは決して実現しえなかった現象であったと,我々は理解しているに他ならないのである。
 しかしそのことは,何ら原蚕種製造所や蚕業取締所あるいは国公立の教育研究機関の普及伝播に果した役割を過小評価するものではなく,むしろ逆に製種技術の農業技術としての規定性に十分留意する時,かえってこれまで以上に,それらの持つ積極的な役割と意義を高く評価しなければならないと考えているのである。確かに製糸技術の場合同様,1代交雑種の普及伝播にあたっても,大製糸会社はきわめて大きな先導的役割を果したこと,ならびにまた需要要因が,新技術の導入如何ないし普及開始の時期を決定する根本的な要因となっていたことなどは,両者共通に認められる重要な普及伝播上の特徴であったと理解されうる。
 しかし他方で農業技術にあっては,工業技術の場合と異なり,通常新技術の体系的な開発には膨大な研究開発投資が必要とされるがゆえ,政府の研究開発機関そしてまたそれに対応する蚕糸業教育の意義と役割が必然的に大きくならざるをえないと考えられる。したがって工業技術に際してみられたような,個別企業による競争的な開発や模倣的革新の余地は,相対的に小さくならざるをえない。それゆえ当然制度的に確立された技術情報経路の果す役割は大きく,普及主体もまた独立の市場参入主体というよりは,一見普及体制の末端に位置する下部組織の観を呈する場合が多い。しかしそれは必ずしも,上からの監督指導的な普及を意味するものでもなければ,また下からの主体的普及意欲の介在を否定するものでもないことは,いうまでもない。ともかくも本稿で得られたこのようないくつかの含意は,先の拙稿の結論と興味深い対照を示しており,今後さらに一層深く究明される必要があると思われる。
 なお最後に,こうした1代交雑種の急速な普及伝播現象は,より本質的に見れば,比較的同質的な日本社会のもつ経済的効率性とも決して無関係ではなかったことが指摘されうる。しかし同質的な経済社会に固有な競争的性格や情報伝達の迅速性には,盾の反面としてそれ自体の脆弱性をも内包していることを,我々は忘れてはならないであろう。すなわち情報の批判的摂取や情報自身の地道で主体的な生産などに乏しく,その伝達性のみが高くなりがちなことは,何も関東大震災時の流言蜚語や15年戦争に際してのジャーナリズムの戦争協力などを想い起すまでもなく,今日我々のいたるところで散見される深刻な問題でもあるのである。


* 本稿はアジア経済研究所委託の「技術移転・変容および開発―日本の経験」に関する国連大学プロジェクトの一部を構成するものである。
1) 詳しくは,Z.Griliches,“Hybrid corn:An Exploration in the Economics of Technological Change”,(Econometrica,Oct.1957)やその脚注文献などを参照のこと。
2) それら普及伝播活動に関する諸文献は,例えば内山政照(編著)『農業の改良,普及に関する文献・資料・その解説』(農業総合研究所,文献叢書第2号,1950)などを参照されたい。このモノグラフは,農業技術の普及伝播に関する数少ない秀れた展望諭文の1つといえるが,その全体的基調はやはり否定的な評価によって貫かれているとみなされよう。
3) ここでいう農業技術とは,無機的物質で構成される機械等に体化された工業技術に対する有機的な組織・生物の成長に関連した技術という意味よりも,むしろ単純に工業部門で使用される技術と対置される製種・養蚕業を中心とした農業部門の一部で利用される技術という程度の意味で捉えられている。
4) 『経済研究』第28巻第4号(1977年)。
5) ただし大正1-6年度は『蚕業取締成績』と呼称されていたが,7年度に改称され,以後1代交雑種に関する統計数字を含む。また編纂は,大正11年度まで農商務省農務
局,12,13年度は農林省農務局,14年度以降は農林省蚕糸局となる。
6) 『信濃蚕業沿革史料』(高島涼太,明治25年)24-29ページ。また『大日本蚕史』(佐野瑛,明治31年)によれば,1967(寛政2)年頃ともいわれる。
7) 『日本蚕糸業史 第3巻』(大沢孝三執筆担当蚕種史,大日本蚕糸会 昭和11年)276-77ページ。なお流行蚕種の変遷については,この蚕種史が最も詳しく,以下の議諭もこれに依拠するところ大である。
8) 蚕種業史では,角支那や支那又をはじめ日支交雑種,国蚕支1号等々“支那”なる呼称が,固有名詞ないし準固有名詞として頻繁に使われているため,本稿でも不本意ながら混乱を避けるため,慣行に従って支那なる用語を使用する。
9) 例えば『本邦に於ける1代交雑蚕種の発祥史』(1代交雑蚕種発祥記念会 昭和3年)などを参照のこと(2,57ページ)。
10) 前掲『日本蚕糸業史 第3巻』319-21ページ。ただし『農林行政史 第3巻』(農林協会 昭和33年)では,1003種ともいう(893頁)。
11) 生糸品質の改良に多大な貢献のあった多条繰糸機の開発は,その1つの証左である。
これは昭和初期に,ようやく実現の運びとなる。詳しくは拙稿「製糸技術の……」を参照されたい。
12) 『蚕糸業全書 製糸篇』(吉池慶正明治27年)144ページなど。
13) 小西俊夫『蚕糸業の展開過程における技術の進歩に関する研究-第Ⅱ部-』(京都工芸繊維大学繊維学部『蚕糸経営学研究室研究報告』第2号 昭和40年)50ページによる。
14) 23年頃には,2府27県に325カ所の養蚕伝習所が存在した。前掲『農林行政史 第3巻』822,919ページ。
15) 従来の蚕病予防法に比べ主務大臣・地方長官の権限が大幅に強化され,蚕種製造業や蚕種冷蔵業の免許制,種繭審査会などの設置による原蚕種製造の精選・厳格化,蚕種・繭取引市場の取締強化,同業組合の連合会設置などが,積極的に推進されることとなった。
16) 例えば,『蚕糸科学と技術』の横山忠雄「蚕糸技術の返達史(7)」(昭和40年5月号)や田中義磨「遺伝学の先覚者・外山亀太郎博士」(昭和41年1月号),また菊地寛『日本英雄伝』(昭和10年)などを参照のこと。
17) 農商務省農務局(編)『蚕品種ニ関スル調査』大正9年12月(蚕糸業同業組合中央会 大正10年)78-82ページ。
18) 『蚕業試験場報告』第2巻第2号(大正6年3月)および第5巻第2号(大正9年11月)。
19) 前掲『蚕品種ニ関スル調査』より算出。地方原蚕種製造所が配布した原蚕種には,蚕業試験場の選出になる国蚕系のものと,各府県の原蚕種製造所が独自の立場で奨励配布したいわゆる地方原蚕糸原蚕種の2種が存在する。
20) ただしこの点は,大正6年同法の改正に際して届出制に改められたため,大正6年度以降の「蚕種名称数」では,掛合せの名称を冠した蚕品種名の掲載をとりやめ,したがってまた別個の品種としても数えられていない点に注意を要する。
21) 『農務 報第56号 蚕糸業ニ関スル参考資料(第3次)』(農商務省農務局 大正5年)。なおこの普及率は,府県別の製造枚数を普通蚕種および特別蚕種(100蛾を1枚として換算)の双方について合計した場合の値である。
22) 『蚕糸統計年鑑 昭和5年版』(蚕糸業同業組合中央会 昭和5年)より算出。また前掲『蚕品種ニ関スル調査』によれば,大正8年度において国蚕系・地方原蚕糸のいずれにも属さない原蚕種は,“優良卜認ムル蚕品種……”のうち18.5%を占め,特に夏秋蚕についてその比重が高かった(26.3%)ことが指摘される。
23) この場合,1代交雑用の原蚕種は,日本錦,アスコリ,セクザート,清国7号およびブランピュールであったが,その製造に関しては『本邦に於ける1代交雑蚕種の発祥史』にも正確な記述はない。しかし前掲『蚕品種ニ関スル調査』の国立・地方原蚕種製造所の配布品種名にも記載がないところをみると,恐らく長野県立第2原蚕種製造所ならびに国立原蚕種製造所松本支所の協力指導の下に,片倉自身で製造したものと思われる。
24) 夏秋蚕用の不越年種と春蚕用越年種の双方を含む。なお厳密にはこの原蚕種製造額は,片倉の交進社によるもの(70%)に加え,団員個人によるものも含まれている。大日本1代交配蚕種普及団は,大正4年11月形式的な解散を行い,以後片倉製糸にひきつがれた。また片倉による国蚕系原蚕種の採用は,大正10年以後のこととなる。
25) 特約取引の起源としては,むしろ郡是製糸やその模範であったといわれる室山製糸,山陰製糸などの場合が言及さるべきかもしれない。つまり明治30年代から40年代へかけて,すでに正量取引あるいは信用取引として,買売の予約や品位の客観的基準による鑑定とそれに則った価格協定などが実施されていた。なお片倉の場合,いわゆる特約取引は,郡農会や養蚕組合がよく整備されていた佐賀県から普及を開始した。
26) 国蚕系原蚕種は,その純系分離の徹底性において相対的に優れていたと考えられるが,それらの原蚕種といえども伝統的固定種からの分離選出によって製造されていたことは改めて指摘するまでもない。したがって当然そこには伝統種との連続性があり,例えば国蚕日1号は赤熟系,2号は大青系,国蚕支の1号,2号はそれぞれ青桂系,桂円系,また片倉で使用したブランピュール,セクザートは国蚕欧の3号と6号に対応している。
詳しくは横山忠雄「蚕糸技術の発達史(10)」(『蚕糸科学と技術』昭和40年8月号)などを参照のこと。
27) 従来の蚕糸業法では,框製製造の如何により特別蚕種と普通蚕種に区分されていたのに対し,改正後は原蚕種と製糸用の普通蚕種に分類され,前者は框製でなければならなかったが,後者の採種形式としては,むしろ平付ないし散卵が奨励された。
28) その技術的特性については,例えば前掲「製糸技術の普及伝播……」やその脚注文献を参照されたい。
29) 国蚕系原蚕種の配付品種数が20-30種であったのに対し,地方原蚕系のそれは次第に減少したものの,大正5,6年頃は実数で200種を越えていた。前掲『蚕品種二関スル調査』による。
30) 大正8年度には,春蚕用普通蚕種の31.3%が,また夏秋蚕用普通蚕種の71.1%が,国蚕系・地方原蚕系のいずれにも属さない品種によって製造されていた(前掲『蚕品種ニ関スル調査』)。昭和4年度になってもなお普通蚕種の19.0%は,国蚕系・地方原蚕系以外のものによって占められた(前掲『蚕糸統計年鑑 昭和5年版』)。
31) 普及伝播における府県単位のもつ意味については,拙稿「製糸技術の普及伝播……」
をも参照されたい。またプロビット分析の詳細は,医学統計を含む標準的な統計学の教
科書に譲り,ここでは詳しくふれないこととする。
32) 参考までに回帰分析による推定結果を掲げれば,次のようになる。
y=0.534+0.042x1-0.041x2+0.079x3+0.051x4+0.070x5+0.041x6
(1.34) (-1.41) (2.94) (2.11) (2.76) (1.57)
+0.056x7-0.045x8
(2.22) (-1.76) R*2=0.486
33) もちろん養蚕教師数の方が少ないが,その県別分布は『養蚕ニ関スル調査』(農林省蚕糸局 昭和2年)などから知られる(大正14年度調べ)。
34) 前稿の場合同様に,ここでも我々は北海道・東北・関東・中部地方を便宜的に東日本,近畿・中国・四国・九州地方を西日本と分類する。
35) 蚕種の移出入状況については,例えば前掲『養蚕ニ関スル調査』(大正15年度調べ)や早川直瀬『蚕糸業経済講話』(大正12年)などによって詳しい具体的状況が把握可能である。
36) 1代交雑種関係の蚕種・繭価格に関する統計資料としては,前掲『蚕糸統計年鑑』,『養蚕ニ関スル調査』や『繭相場調』(農林省蚕糸局)などがある。また養蚕労働賃金に関しては,前掲『農商務統計表』や『養蚕ニ関スル調査』などから知られる。
37) 古蚕地の普及率が,48.7%(春蚕61.9%,夏秋蚕32.8%)であったのに対し,新蚕地のそれはわずか30.0%(春蚕40.6%,夏秋蚕23.9%)にすぎなかった。前掲『蚕業取締事務成績(大正7年度)』より算出。
38) 前掲『蚕糸統計年鑑』によれば,3元雑種の流行が過ぎた昭和4年度においてもなお,その他交雑種の92.2%が3元雑種であり,うち5県をのぞく他の全県では,100%を占めている。
39) 大正11年以降,道府県の原蚕種製造所は(道府県)蚕業試験場と改称された。
40) 詳しくは『蚕業取締事務成績』の大正7-12年度版を参照されたい。
41) したがってこの当時の蚕種および繭の価格は,黄繭糸需要の強含みを反映して,日支交雑種よりも支欧交雑種の方が若干高めであった。もとより同じ交雑種でも,夏秋蚕に比べ春蚕の方が高値であることは,諭を俟たない。具体的には,脚註36)の参考文献などを参照のこと。
42) 前掲『農林行政史』921-22ページ。なお郡立校の多くは,大正8年以降府県へ移管された。『蚕糸要鑑』263-78ページも有益である。
43) 前掲『養蚕ニ関スル調査』参照。特に初期において果した役割は,過小評価されてはならない。また全体的に修学期間3年以上の卒業生数が,68.1%をも占めることは,その質の高さを表わしており,注目に値する。
44) 前掲『養蚕ニ関スル調査』による。
45) 詳しくは『日本蚕糸業史 第5巻』(長岡哲三執筆担当,学術史 大日本蚕糸会 昭和11年)を参照のこと。また概略は前掲の横山忠雄「蚕糸技術の発達史(6)(7)(9)(『蚕糸科学と技術』昭和40年4,5,7月号)などによっても知られる。
46) 前掲『養蚕ニ関スル調査』より算出。
47) 出版点数は,石川金太郎(編)『日本蚕糸学文献集 1576-1937』(昭和15年)および蚕糸研究会(編)『蚕糸関係書籍所在目録(Ⅰ)』(昭和52年)より枚挙。大正6年の13冊に次いで,8年の10冊,7年の8冊(再版・改訂等含まず)がピークの3年間を構成している。
48) 地域的には,長野や群馬,愛知はもとより福島,埼玉,岐阜,広島などの諸県にわたり,また伊達蚕種や上田蚕種の株式会社,青森,埼玉の原蚕種製造所,山梨の蚕種同業組合などからも出版された。片倉関係では,斉藤常雄の本のみならず,普及の促進を目的とした雑誌『蚕業之日本』を発行していた。
49) 例えば,明石弘『近代蚕糸業発達史』403-06ページなどを参照のこと。著作自身が農林省の官吏であったこの指摘は,簡潔ながら傾聴に値するところ大きい。