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満州への石炭業技術移転と労働力

Author: 村串仁三郎
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1981年
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目次
Ⅰ 研究の課題と方法・・・・・・・・・・2
Ⅱ 中国における石炭業の近代化過程・・・・・・・・・・3
 1 中国における在来石炭業の発展水準・・・・・・・・・・3
 2 中国における石炭業の近代化過程・・・・・・・・・・7
Ⅲ 日本資本による撫順炭鉱の開発・・・・・・・・・・17
 1 撫順炭鉱の概要・・・・・・・・・・17
 2 撫順炭鉱の開発過程・・・・・・・・・・19
Ⅳ 撫順炭鉱における中国人の雇用と労務管理・・・・・・・・・・30
 1 労働力構成と中国人の雇用形態・・・・・・・・・・30
 2 中国人労働者に対する労務管理の展開・・・・・・・・・・39
Ⅴ 撫順炭鉱開発の歴史的意義・・・・・・・・・・51


Ⅰ 研究の課題と方法

 われわれは,すでに二つの論文『日本石炭業の技術と労働』,『(北海道における)炭鉱技術の移植と発展』1)により,日本資本主義の成立・確立過程において,日本の石炭業が,欧米の炭鉱機械と近代的な採炭技術をどのように移入し変容しながら,近代化をはかっていったかを検討した。本稿の基本的課題は,以上の研究を踏まえて,欧米の先進的技術を導入して近代化をなしとげた日本の石炭業が,日本資本主義の中国侵略とともに,中国でどのように植民地炭鉱を開発し経営していったかを検討することである。この基本的課題は,具体的には第1に,日本の石炭業が,自から蓄積した炭鉱技術をどのように中国に移転し,異なった条件の下でいかにその技術を変容し,そこに独自の技術を創出していったかを明らかにすることである。この過程の分析はまた,植民地炭鉱の経営が中国石炭業の発展にいかなる影響を及ぼしたかを明らかにすることにもなる。
 第2に,日本に石炭業が中国において近代的炭鉱を開発し経営するために,中国人労働力をどのように調達し,管理していったかを検討することである。不幸にも中国においては,19世紀中葉以降,資本主義列強の支配によって,資本主義の発達が著しく抑圧されてきた。中国における資本主義と自由な労働市場の発展とが不十分であったため,日本の植民地炭鉱は,近代的労働力の欠如に悩まなければならなかった。ここでの課題は,植民地炭鉱の経営当局が,前近代的な性格の強い労働力をどのように近代的労働力として陶冶していったかを明らかにすることでもある。
 本稿の課題は,次の方法によって果される。第1に,われわれは,日本の植民地炭鉱経営の分析に先だって,中国石炭業の近代化過程を概観的に検討する。すでに日本の石炭業の近代化の分析に際して重視したように,ここでも,中国における石炭業の近代化の前提として,中国の在来石炭業の発展水準に着目する。第2に,われわれは,日本による近代的植民地炭鉱の開発過程を分析する。この分析に際してわれわれは,中国における近代的炭鉱の代表的存在であり,植民地炭鉱の典型でもあった撫順炭鉱の開発過程を取りあげる。その理由は主に紙幅の都合によるものである。われわれは,撫順炭鉱の開発過程をまず技術的側面について検討し,その後に労働力の調達,管理の側面を検討する。
 本稿は,主に日本の植民地炭鉱の経営史を分析することであるが,その問題意識は,あくまで近代的技術が先進国から開発の遅れた国へどのように移転されたか,そしてその際にそこにいかなる問題が惹起されたかを解明しようということにある。したがって,われわれは,日本の植民地炭鉱の経営が正当であったとか,やむをえなかったとかを些かたりとも主張しようとするものではない。むしろわれわれは,日本の中国に対する軍事的経済的侵略が日本民族の犯した社会的犯罪であったことを深く反省している。この反省の上に立って,われわれは,先に指摘した問題意識に基づき,中国における日本の植民地炭鉱経営という歴史的経験を分析し,「人間と社会の開発」という課題の解明に幾分とも寄与したいと願うものである。


1)国連大学,人間と社会の開発プログラム研究報告,『技術の移転・変容・開発―日本の経験プロジェクト』,鉱業研究部会・村串仁三郎『日本石炭業の技術と労働』,1979年,春日豊『(北海道における)炭鉱技術の移植と発展』,1981年。

Ⅱ 中国における石炭業の近代化過程

 1 中国における在来石炭業の発展水準
 中国における石炭の埋蔵量は,アメリカの地理学者N.F.ドレークによる1913年の調査によれば,9966億トンであり,中国人地理学者候徳封が1935年に発表した説によれば,2390億トンである1)。H.バウエルは,ドレークの評価を真実に近いものと指摘している2)。このように豊富な石炭埋蔵量をもつ,中国における石炭採掘は,中国文化の古さと同様に著しく古い3)。
 石炭は中国では,すでに紀元前2世紀から紀元3世紀初め頃の漢代に,燃料として使用され,10世紀から13世紀の宋代には,盛んに採掘が行なわれた。この頃には石炭は,日用燃料としてだけでなく,製鉄用や製陶用の燃料として使用されるなど,用途が拡大し,盛んに採掘された。石炭の商品化も進んで,石炭売場が各所に設立されていたといわれている。13世紀末の『旅行記』の中でマルコ・ポーロは,中国の石炭について「黒い石はこの国全土にわたって豊富な鉱脈となって発見され,これは木炭の如くに燃えるが,木炭よりも火もちがよく,夜から朝まで燃えつづけ,然も価は廉い」4)と記している。この記述によっても,中国では,石炭が盛んに採掘され,広範に使用されたことがわかる。
 14世紀から17世紀の明代に入ると,石炭の採掘技術も蓄積されて,石炭業は,雇用労働により大規模な採炭を行なうようになった。1637年に書かれた中国在来技術史の古典である『天工開物』は,石炭の用途と採炭法について注目すべき記述を残している5)。
第1図 17世紀頃の立坑
すなわち『天工開物』によれば,石炭の使用法には,塊炭をそのまま使用する法,砕けた石炭を水と土で板状にして使用する法,さらにそれを炉に入れて焼きコークス化して使用する法,粉末炭を水と土で板状にしてコークス化して使用する法などがあった。しかも燃焼法としてはふいごを使用して火力を高める方法もすでに発明されていた。石炭の用途は,炊烹用のほか,とくにコークス化したものは,製鉄用に使用するほか,鎔銅用,製塩用,窯業用などであった。しかも注目すべきは,製鉄用燃料が木炭3割に対し石炭7割であるとの指摘である。このように当時すでに石炭は広範な需要を形成しており,それは石炭業の著しい発展を示唆するものである。
 採炭法についてみれば,露頭の石炭を採掘して坑道を掘り進むほか,立坑の採掘が行なわれていた。立坑の深さは15メートルに達すると指摘されている。ガス排気法としては,立坑には大きな竹筒を挿入して,坑内から毒気を坑外に排出するという方法が指摘されている。採炭は主要坑道から,左右片盤を開削して,切羽をつくり,柱房式によって行なわれていた。支柱は板と木で行ない,崩落を防ぎ,土砂による充填も行われていた。運炭は,立坑では,簡単な巻揚器が使用されていた。こうして17世紀中葉には,原始的であるが一定の採炭技術が蓄積されてきていることがわかる。
 しかし,17世紀末に清朝が成立すると,清朝は,自然を重んじ,一般に鉱山の採掘を厳重に取締ったため,石炭業は,その後あまり大きな発展を見せなかったようである。それでも18世紀末になると,民間の鉱山経営が認められるようになり,石炭業も復活してきたようである6)。例えば,18世紀に河北省の門頭溝では,大量の農村流亡労働力を雇用して,マニュファクチュア的炭鉱経営が行なわれていたとの記録もありまた山西商人による石炭の販売も確認されている7)。19世紀中葉,中国の開港に至るまで,中国の石炭業は,一定程度の発展水準に到達していたと思われる。
 今われわれは,中国石炭業の近代化の前提となる19世紀末の在来石炭業の発展水準を示す直接の資料を欠いている。しかし,中国における長い石炭業の歴史を考慮すれば,われわれは,中国の在来石炭業の発展水準は,19世紀の中葉から末葉には,少なくとも日本の在来石炭業の発展水準程度には到達していたとみなすことができる。それは二つの面から傍証される。
 第1に,それは,19世紀中葉以降,中国への外国蒸気船の来航,洋式軍事工場の設立によって,石炭の需要が高まっていくなかで,在来炭鉱が大規模に開発されている事実によってである。第2に,それは,20世紀に入って,近代的石炭業の発展と並行して,存在していた在来石炭業の技術水準の確認によってである。まず第1の点についてみると,例えば,1880年に清朝の高官であった李鴻章は,中国の近代化をはかる試みの一環として,東山省棗荘地方の後の中興炭鉱の鉱区で,大規模な土法炭鉱を開削し,15年間にわたって経営している。この炭鉱は,水災と資金不足のために閉山することになったが,在来技術によるかなり大規模な採炭を行なったことを示している8)。また奉天省の撫順において,1901年に,地元の有力者により二つの土法大炭鉱が開削されている。王承堯は,株主を募って資本金10万両を投資し華公利公司を組織し,在来技術に基づき5坑を開削している。翁寿と顔之楽は,2万2000両を投資して,撫順煤鉱公司を組織し,「専ら支那式の原始的方法ヲ採リ」開坑している。しかもこれらの在来炭鉱には,後に小蒸気機関が据えられた9)。19世紀にこのような在来技術に基づく炭鉱開発は,後に主要な近代的炭鉱となる中原公司,井?,六河溝,賈汪,怡立,正豊などの炭鉱でも行なわれた10)。
 これらの在来炭鉱の具体的内容は,明らかではないが,20世紀に入ってからも広範に存在した土法炭鉱の実態からおよそ推測できる。1910年代の中国の土法炭鉱に関する二三の研究報告11)によれば,土法炭鉱の技術水準は以下のごとくである。開坑方式には,立坑,斜坑,横坑があるのは当然だが,その規模は,立坑では,坑口の大きさは,直径1メートルから2メートルで,坑深は,小立坑では10~20メートル,大立坑では30~50メートルであった。斜坑の規模は,坑口の大きさは,一般に梯形で上底1メートル下底1・5メートル,高さ1・5メートル位であり,坑深は,小斜坑で15~30メートル,大斜坑で60~100メートル位であった。横坑は,排水が有利であったため,坑深は小横坑では120~150メートル,大横坑では1500メートル位のものもあった。通気さえよければ,横坑はかなり延長されたようである。なお,小坑は,一つの坑により運炭,排水,通風,労働者の昇降を兼用したが,大坑では,それぞれ専用坑が掘られた。
 坑の大きさを規定したのは,主に湧水問題であるが,排水方法は,横坑では自然排水によったが,斜坑,立坑では,特別に配慮された。立坑では,坑底から,坑外へは捲揚ロクロで排水した。ロクロは人力による場合は,2~10人,馬匹による場合は2~8頭で行ない,馬による最大排水能力は,1機1日排水量60トン位であった。斜坑でも,排水立坑を掘る場合は,立坑の場合と同じであったが,斜坑による排水は,段汲法によった。この方法は,斜坑内に2~3メートルおきに階段状の溜池をつくり,坑底に溜めた水を順次排水夫が用器で汲みあげていくものである。立坑および斜坑の坑底までの揚水は,坑内の構造にもよるが,切羽部面に溜池をつくり,排水夫が用器で,より上部の溜池まで運搬した。水平坑があれば,溝をつくり自然流水させ,条件がよければ排水坑口を開削して自然排水した。
 採炭方法は,小坑での低水準のものは,坑口近くの炭層をたぬき掘りするものであるが,中・大坑での通常のあるいは高水準のものは,ほぼ炭柱式によっていた。坑底から斜坑か水平坑の主要坑道を掘り,左右に水平片盤坑道を開削し,そこに5~10メートル位の炭柱を切りつけ,残柱式で採炭した。炭柱は通常四角であったが,三角・五角というものもあったようだ。
 主要坑道は,それぞれ坑の規模,条件に応じて延長されていき,切羽が坑口からより奥に設けられていったが,排水,通気などの限界に達し採炭が困難になると,残柱の炭引きをしながら後退し,最終的に坑を放棄した。この坑の寿命は,短くて1~3年,長くて3~5年位であった。支柱は,坑木も使用して枠留めがなされ,採掘跡には土石で充填がなされる場合もあった。通気は,主に旧坑を貫通して自然通風によったが,坑内に風車並びに風門を設け,人力で換気する場合もあり,坑内に煖炉を焚いて通気をよくする場合もあった。照明で注目されるのは,油火を使用したほか,朽木や樹脂を使用して焔の出ない燈火を利用したことである。運炭は,坑内は人力によったほか,坑口運搬は,排水と同様のロクロを使用した。
 1坑の出炭能力は,年300日の稼働率という単純計算によれば,小坑では日産5トン,年産1500トン位,大坑では日産40~70トン,年産1~2万トンであった。坑夫1人当りの生産高は,日産200キログラムから500キログラム位とみられるから,年産1500トンで10~25人位,日産40~70トンで80~350人位だったと思われる。
 問題は,19世紀末に在来石炭業がどのような石炭市場を背景に,どの程度の石炭を産出していたかということである。この点を明らかにする資料はないが,1912年頃の土法炭坑の全国出炭量の推計,380万トン説,670万トン説から推測すると,100万~300万トン位の出炭があったと考えられる12)。その限りでは,出炭量からみれば,幕末の日本の出炭量よりかなり多かったとみられる。また採炭技術の水準についてみると,一般的には,幕末の日本の水準と同程度だったとみられるが,大炭坑は日本の水準より高いものが多かったように思われる13)。
 以上のように,中国における19世紀末の在来石炭業の水準は,少なくとも日本の在来石炭業の発展水準には到達していたとみなすことができる。そして,この在来石炭業において蓄積された炭鉱技術,および技術の担い手,すなわち採炭業者や坑夫頭,熟練坑夫などは,日本の場合と同様に,中国石炭業の近代化の基礎として役立ったと思われる。つまり彼らは,外国の炭鉱機械と先進的採炭技術の導入に協力し,いち早く先進的技術の担い手へと変容していき,中国石炭業の近代化を下から支えたであろうということである。

2 中国における石炭業の近代化過程
 第2次世界大戦の終了までの中国における近代的石炭業の発展過程は,およそ三つの段階に分けることができる。第1段階は,1870年代から1911年に至る時期であり,それは,中国の石炭業が近代化を開始し,近代的石炭業を成立せしめる時期である。第2段階は,1912年の民国政府の成立から31年の満州事変までの時期であり,それは,第1次世界大戦の好景気を背景にして,中国近代的石炭業が確立してくる時期である。第3段階は,満州事変後から日本が敗戦する1945年までの時期であり,それは,日本による軍事侵略が拡大し,中国石炭業が疲弊する時期である。
 中国における近代的石炭業の発展過程の概括的特徴は,4点にまとめることができる。すなわち第1点は,中国の石炭業の近代化は,列強外国資本の主導のもとに行なわれたということである。第2点は,中国の民族資本による炭鉱の近代化の試みは,一定程度なされたが,資本と技術の面で大きな限界をもち,十分な成果を達成することができなかったということである。第3点は,列強の支配により中国における資本主義の発展が停滞的であったために,全体として中国の近代的石炭業は,十分に発展することができず,前近代的な土法炭鉱を広範に残していたということである。第4点は,それにもかかわらず,日本の撫順炭鉱,イギリスの開?炭鉱という植民地2大炭鉱は,特別な発展を示して独占的地位を獲得し,中国の石炭業を著しく植民地的,跛行的なものにしたということである。以下,中国の近代的石炭業の発展過程を概観してみよう14)。

第1段階,中国近代的石炭業の成立期

第1表 中国における近代的炭鉱の開発年表
 中国における石炭業の近代化は,1850年代から来航した外国蒸気船,中国に設立されはじめた近代的工場,鉄道などへの石炭供給を目的として,1870年代から開始された。そして,第1表に示したように,後に中国の主要な近代的炭鉱となる炭鉱が,次々と開発されていった。第1段階における近代的炭鉱の開発過程の特徴は,第1に,すでに中国に対する列強の支配権が確立され,外国資本による炭鉱開発権が認められるという状況下に,外国資本主導のもとに開発が行なわれたことである。第2に,それは,一方では在来石炭業による開発が,排水,通気,運炭の面で限界を露呈し,外国技術の導入を不可避としたことであり,他方では中国独自の近代的炭鉱開発は,著しく資本を欠如しそのため,外国資本に依存しなければならなかったということである。第3に,中国の民族資本による近代的炭鉱の開発は,清朝政府の保護育成政策が弱く,資本も不足したため,十分な発展をみせることができなかったということである。こうしてみると,中国の石炭業の基本構造は,すでに第1段階に基本的に形成してきていると指摘しうるであろう。
 中国における炭鉱近代化の最初の試みは,中国人自身によって行なわれた。清朝の高級官僚であった直隷省(後の河北省)の総督李鴻章は,財政難を救う一手段として,また中国の近代化を進める意図をもって,1875年に汽船会社を設立した。そして李は,1878年に蒸気船用の石炭を自給する目的で,省内の唐山に120万両を投資して開平鉱務局を設立し,近代的炭鉱を開発した15)。彼は,イギリス人技師2名を雇い入れ,炭鉱機械を輸入して西欧式の炭鉱を開坑した。開平鉱務局は,1892年に林西に新坑を開削し,採炭,選炭,輸送の近代化をはかり,後の開?炭鉱の基礎を築いた。しかし開平鉱務局は,資金不足に悩み,1899年に20万ポンドの外債をロンドンで募集し,外国資本の導入をはからざるをえなかった。1900年の義和団事件の過程でイギリスは,100万ポンドを投資してThe Chinese Engineering and Minig Co.,Ltd.を設立し,翌年開平鉱務局を強引に買収し,炭鉱の植民地化をはかった。
 この事例に象徴的に示されているように,中国における石炭業の近代化は,中国人自身によって開始されたとはいえ,直ちに列強の外国資本に依存して行なわなければならなかったのである。このことは,日本における石炭業の近代化が,維新政府による外国資本の断乎たる排除政策と手厚い保護政策のもとで自立的に展開されたのと対照的であった。中国で石炭業の近代化が初めて試みられた1870年代には,清朝政府は,1842年の南京条約,58年の天津条約,60年の北京条約において,中国への列強の経済侵略を容認し,外国資本による鉄道,電信の敷設,工場,鉱山の経営を認めてしまっていたのである16)。中国が何故日本のように列強の経済侵略を排除できなかったのか,という問題をここで論じる余裕はない。ここでは,中国人民の強力な反植民地化運動が広範に起きたにもかかわらず,腐敗した清朝政府は,自からの延命をはかるために,列強と組んで人民の反植民地化運動を弾圧し,列強の中国侵略を甘んじて許してしまったという事17)を確認することにとどめよう。
 強力な外国資本による炭鉱経営が許容されている情況のなかで,中国人による自立的な近代的炭鉱の開発の試みは続けられた18)。しかし多くは途中で挫折したのである。例えば,開平炭鉱の植民地化に抗して,袁世凱の主唱により,1906年に開平炭鉱の近くに?州鉱務公司が設立された。しかし?州炭鉱は,資本の不足に悩み,鉄道を掌握している開平炭鉱との競争に敗北し,1912年に開平炭鉱に吸収併合されてしまった19)。河北省の井?炭鉱も1895年に地元民によりまず土法炭鉱として開発されたが,資金不足のため中止した後,1902年にドイツ人との共同出資により近代的炭鉱として開発された。そして同炭鉱は,1906年に利権の喪失を恐れた袁世凱により鉱区の省政府による買収が行なわれたものの,結局資本不足で,ドイツ資本との合併で経営されざるをえなかった20)。奉天省の撫順においても,1901年に地元の有力者たちによって土法大炭鉱が開削され,漸次近代化が試みられたが,カツシニー条約によって鉄道敷設権と鉱区権を獲得して満州に南下してきたロシヤによって支配されロシヤ資本の下で近代化されていった21)。撫順の炭鉱は,日露戦争下に日本軍の手におち,以後日本により近代化されることになった。
 山東省を中心に鉄道と鉱山の利権を獲得していたドイツは,1898年に江西省の萍郷炭鉱と山東省の坊子炭鉱を近代化した22)。開平炭鉱を入手したイギリスは,1898年に河南省において福公司(いわゆる北京シンジケート)を設立し,124万ポンドを投入して近代的炭鉱の開発を行なった23)。
 しかし民族資本独自の炭鉱近代化の試みが成功した例もないわけではない。例えば,山東省の中興炭鉱は,1880年に李鴻章により土法で開発され15年間経営された後に,1906年にドイツ資本の導入をはかって失敗し,1911年に民族資本150万両を集めて近代化され24),後に民族資本系の最大の炭鉱となった。これと同じ事例は,山西省の保晋公司,山東省の華豊煤鉱公司,河北省の怡立煤鉱公司,江蘇省の賈汪煤鉱公司25)などがある。なお,20世紀に入って,名地に土法炭鉱が多く開削されていったが,それらの幾つかは民国成立後,民族資本によって漸次近代化されていった26)。
 第1段階における中国石炭業の実態は,今のところ殆んど明らかではない。出炭高についても不明である。1912年にすでに1300万トンの出炭をみていたところから推測すれば,20世紀初頭には,年産数百万トンの出炭があったとみても大過あるまい。そして近代的炭鉱の設立状況からみて,そのうちの過半が近代的炭鉱の出炭とみなすことができる。そこにはまた一定の炭鉱労働市場も形成された。在来石炭業は,在来の技術者と熟練坑夫を集積していた。確かに近代的炭鉱の開発は,先進国の技術者と熟練労働者を移入し,彼らの指導の下で行なわれた。しかしすでに指摘したように,この近代化は,在来石炭業の技術者,熟練坑夫の協力によって実現されたことを無視することはできない。もし彼らが存在しなかったとすれば,中国石炭業の近代化は,はるかに遅れもっと停滞的となったといえよう。そして在来の技術者,熟練坑夫は,近代的炭鉱の開発に動員される過程で,漸次近代的な労働力として陶冶されていったのである。また近代的炭鉱の開発は,新たに中国人労働力を雇い入れ,彼らを近代的労働力として育成し,経営者は,鉱山学校を設立して,技術者の養成をはかった27)。ちなみに1902年に制定された鉱業条例「鉱務章程」は,第9章に「鉱山付近ニ鉱務学堂ヲ設ケテ儲材ノ用ト可シ28)」と規定している。こうして,徐々に中国人の近代的な技術者,労働力が形成され,そこに近代的な炭鉱労働市場が形成されていったのである。
第2表 中国の出炭高
第3表 中国石炭業の資本系列別出炭シェア
第4表 2大植民地炭鉱の出炭シェア
第2段階,中国近代的石炭業の確立期
 この時期には,中国石炭業の実態は幾分とも明らかになる29)。まず出炭についてみると,第2表に示したように,1912年に1300万トンの出炭をみせており,漸次増大し,10年後の1921年には2045万トンになり,約1・6倍に増大した。また1930年には2653万トンとなり,1912年の2倍となった。この出炭規模は,1910年代には日本の60%台,1920年代には同じく70%台,1930年代には80~90%台であり,中国石炭業の生産力水準は,ほぼ日本の水準に接近し,中進国的水準を示している。
 しかし中国石炭業の内的構造は,著しく植民地的跛行的傾向をもっていた。第1に第3表が示しているように,中国石炭業は,全国出炭量の46~56%近くを外国資本によって支配されていたということである。第2に,その反面,中国民族資本による炭鉱では,殆んど在来の土法炭鉱である小炭鉱が圧倒的に多く,全国出炭量の30%以上を占め,逆に近代的な炭鉱である大炭鉱のウエイトは10%台で,著しく低かったということである。第3に,しかも第4表が示すように,日本の撫順炭鉱,イギリスの開?炭鉱という2大植民地炭鉱だけで,全国出炭量の32~33%から,47~48%を占めており,両者は鉄道経営と結んで市場の独占的支配を行ない,中国民族資本による近代的炭鉱の発展を抑圧していたということである。第4に,第5表が示しているように,市場面でみると,石炭の消費は家庭用に偏していて,工場,交通などの資本主義的な近代的消費のウェイトが著しく低かったということである。日本との対比でそのことは明確であろう。
 この時期における近代的な炭鉱の具体的な状況をみると,産炭地は,第6表のように,開?炭鉱のある河北省と撫順炭鉱のある満州が主産地で,その他河南省,山東省,山西省といった地方が目だった産地であった。各炭鉱の出産高をみると,第7表のとおりである。すなわち2大巨大炭鉱は,日本の経営になる撫順炭鉱と中英合弁の開?炭鉱で,1926年にそれぞれ,662万トンと358万トンであった。年産50万トン級の大炭鉱は,民族資本の中興炭鉱と日中合弁の魯大炭鉱で,1926年にそれぞれ,60万トン,70万トンであった。
第5表 中国石炭の用途別構成(1934年)
第6表 中国石炭業の地方別出炭高
第7表 主要炭鉱の出炭高
30万トン級は3鉱にすぎず,日独合弁の井?炭鉱,日中合弁の本溪湖炭鉱,民族資本の保晋炭鉱で,1926年の出炭高はそれぞれ33万トン,41万トン,33万トンであった。その他は10万トン級の中炭鉱が9鉱,10万トン未満が12鉱であった。これら中国における主要炭鉱の近代化の進展度についてみると,二つの巨大炭鉱が著しく近代化されているのに対して,30万トン級50万トン級の大炭鉱は,すでにわれわれが日本の炭鉱において分析した1900初年代,明治末期の筑豊における大炭鉱の水準に近かったとみることができる30)。
第8表 中国の近代的炭鉱の規模(1926年)
 なお,炭鉱労働者の動向についていえば,ここでも資料を欠くが,1929年の『中国鉱業紀要』によれば,1920年代末には炭鉱労働者は,22万人位と推計されている31)。これに対しトルガシェフは,この推計は土法炭鉱での労働者を無視しているとし,出炭から推計して46万人位さらに増えるだろうとみている32)。この点を考慮するならば,中国における炭鉱労働市場は,近代的な職種の炭鉱労働者群と厖大な土法在来炭鉱労働者群から構成されていたとみることができるだろう。
第3段階,中国近代的石炭業の展開期・困難期
 第3段階における中国の石炭業は,1931年の満州事変を起点とし,日本の満州侵略,さらに1937年の日華事変を起点とする日本の中国全土への侵略によって,植民地的支配を一層強く受けながら,内乱状態のなかで疲弊していった。1932年に,日本は東北地方に満州国を建設し,諸鉱山,諸工場,資源を官収し,そこに植民地大帝国の設立を夢みた33)。また,1937年に日華事変とともに,日本は中国各地の諸炭鉱を軍事占領し,そこに大東亜共栄圏なる植民地帝国の樹立をはかろうとした。
 日本政府は,軍事占領とともに,日本の炭鉱技術者および一部の熟練労働者を派遣して,破壊された炭鉱を復旧し,新たに近代的な炭鉱開発を計画した。政府は,そのために中国資本を動員する日中合弁の炭鉱会社を設立し,日本側の投資を日本の有力な炭鉱業者からなる北支開発会社に行なわせ,炭鉱を統制経済の下においた。しかし,治安の不安定,資材確保と輸送の困難,労働力調達の困難により,炭鉱開発の大計画は,実施されなかった。そして反日抵抗運動と戦堝の拡大は,日本による石炭資源の一層の略奪的な開発をもたらした。日本の敗戦をもって,日本による中国侵略は終焉し,植民地炭鉱経営も消滅することになった。
 中国における石炭業の近代化の過程は,遅れた経済発展の国に西欧先進技術を移入して行なわれた点では日本と同様であったが,列強による植民地支配のもとで行なわれた点では,日本の場合と著しく異なった展開をたどった。とくに列強による植民地支配により,中国の経済発展が抑圧されたため,石炭業の近代化は,種々な困難性に当面せざるをえなかった。日本の中国における植民地炭鉱の経営も,そうした困難な状況のなかで行なわれたが,その経験はまた,社会的,経済的発展の遅れた社会における技術の移転とその変容が,どのような過程で行なわれ,そこにいかなる問題を現出させたかを明らかにする格好の素材を提出することになった。


1)手塚正夫『支那重工業発達史』,大雅堂,1944年,14ページ。
2)ハインリッヒ・パウエル『支那鉱業論』(高山詳吉訳),日本評論社,1936年,44ページ。Heinrich, Bauer; Chinas Schatze? Eine Studie uber den chinesischen Bergbau,
3)19世紀末以前の中国の在来石炭業の歴史については,芳賀雄『支那鉱業史』,電通出版部,1934年,83-84ページ,前掲『支那重工業発達史』,69-71ページ,その他後出の中国石炭業史の文献を参照。
4)前掲『支那重工業発達史』,70ページ。
5)宋応星『天工開物』,十一組出版部,1943年,290-92ページを参照。
6)『南満州鉄道株式会社十年史』,1919年,463-64ページ参照。本書は以下『満鉄十年史』と略す。また久保山雄三『石炭鉱業発達史』公論社,1942年,401-03ページ参照。
7)田中正俊『中国近代経済史研究序説』東大出版会,1973年,215ページ。および青柳篤恒『支那近世産業発達史』,栗田書店,1931年,2ページ。
8)久保山雄三『支那石炭事情』,公論社,1944年,63ページ。
9)『満鉄十年史』,464-66ページ。
10)前掲『支那石炭事情』,62,94,186,195,211の各ページ参照。
11)前掲『支那重工業発達史」の第三編第二章「土法鉱業の形態」および満鉄鉱業部地質課「満州ニ於ケル鉱山労働者』,1918年,101-05ページ参照。
12)380万トン説は前掲『支那重工業発達史』,257ページ,670万トン説はバウエル『支那鉱業論』(48ページ)による全国出炭量から土法炭鉱出炭量約5割とみて筆者が推計した。また19世紀末100万~300万トンの推定は,後にみるように在来石炭市場の大きさから推測したものである。
13)例えば,日本の在来立坑の深さは30メートルが限界であったが,中国では50メートルが限界であった。これは中国の捲揚ロクロの規模が大きかったことによる。また日本では坑内に風車を使用した記録はない。
14)中国の石炭業史に関する主要な文献は前掲の『支那重工業発達史』,『支那石炭事情』,『支那鉱業論』のほか,東亜同文会編『支那経済全書』第拾輯の第三編鉱山,1908年,木村和三郎「北支石炭経済論」日本学術振興会『東亜経済研究(1)』所収論文,有斐閣,1941年,等々を参照。
15)開平鉱務局の歴史については,前掲の『支那重工業発達史』,「北支石炭経済論」に 詳しい。堀内文二郎,望月勲「開?炭鉱の八十年』,1960年,をも参照。
16)この点については,胡繩『中国近代史』,平凡社,1974年,第1章,第2章を参照。
17)同上書参照。
18)詳しくは前掲『支那重工業発達史』,第一編第四章「国内資本炭鉱の勃興期」,第5章第二節「国内資本炭鉱業の発展」を参照。
19)前掲『開?炭鉱の八十年』,3ページ。
20)前掲『支那石炭事情』,202ページ。
21)前掲『満鉄十年史』,464-65ページ。
22)前掲『支那石炭事情』,64ページ。
23)前掲『支那鉱業論』,151ページ。
24)前掲『支那石炭事情』,64ページ。
25)前掲『支那重工業発達史』,101-04ページ参照。
26)同上,113ページ以下参照。
27)例えば,開?炭鉱には唐山鉱山専門学校が設立されている。前掲『支那石炭事情』240ページ。
28)章程の全文は前掲『支那経済全書』第拾輯,398-401ページ参照。
29)第2段階の中国石炭業の実態については,前掲の中国石炭業史に関する文献を参照。
30)詳しくは,前掲「日本石炭業の技術と労働」,42ページ以下参照。
31)トルガシェフ『支那鉱業労働論』,中央公論社,1943年,101ページ。Boris, P. Torgasheff; Mining Labor in China, Shanghai, 1930.
32)同上,101ページ。
33)第3段階における中国石炭業の実態については前掲の中国石炭業史の文献のほか,
中支建設資料整備事務所編『揚子江流域炭鉱調査報告』,上海,1942年,満鉄経済調査会『満州の鉱業』,大連,1933年など参照。

Ⅲ 日本資本による撫順炭鉱の開発

1 撫順炭鉱の概要
 日本は中国への侵略の過程で多数の炭鉱を経営した1)。中国における日本の植民地炭鉱にはいくつかのタイプが存在した。経営期間の面からみると,一つのタイプは,経営期間が比較的長かった炭鉱で,20世紀初頭から満州において経営された撫順炭鉱,本溪湖炭鉱をはじめ,第1次大戦後にドイツから取得した山東省の魯大公司の溜川炭鉱,坊子炭鉱などであり,もう一つのタイプは,1932年以後の満州国建設下に経営された一連の炭鉱,および1937年の日華事変後に中国全土への軍事侵略によって日本が獲得した開?炭鉱をはじめ中興炭鉱,井?炭鉱など一連の炭鉱である。さらにこれらを経営形態の面からみると,国策会社の経営になる炭鉱と民間会社による炭鉱のタイプがある。民間企業による経営は大倉組の本溪湖炭鉱だけである。その他はなんらかの国策会社が関与し,撫順炭鉱は,植民地大国策会社・南満州鉄道株式会社(以下満鉄と呼ぶ)の経営であり,その他の炭鉱は石炭関連会社の共同投資による国策会社の経営であった。
 本稿の課題に則っていえば,研究対象として特別に興味ある炭鉱は,軍政下のきわめて不安定な短期的で略奪的な経営に陥りがちだった炭鉱より,長期的な経営が行なわれた撫順炭鉱や本溪湖炭鉱などである。そこでわれわれは,日本の植民地炭鉱であった撫順炭鉱2)をとりあげ,日本から開発の遅れた国への技術の移転の問題を検討することにしよう。
 撫順炭鉱は,19世紀末に中国人により開発され,その後ロシヤにより近代化され,日露戦争下の1905年に日本軍に占領され,07年に満鉄の経営下に入って以来,半世紀の間日本の代表的植民地炭鉱として大々的に開発され近代化されてきた。撫順は,中国の東北地方,旧満州の遼寧省(旧奉天省)の中央部にあり,炭田は,東西17キロメートル,南北1~2.5キロメートルに細長く分布し,走向は東西にあり,斜度は20~40度の急傾斜で,南端は露頭しており,埋蔵量は1938年に7億5000万トンと推測された。
第2図
炭層は,第3紀始新世に層し,平均山丈(たけ)40メートルの厚層であり,炭田の東端は6メートル,西端は130メートルで厚層に変化がある。炭質は,有煙瀝青炭で,平均発熱量6960カロリーで,優良炭に属する。撫順には巨大な油母夏岩(オイルシール)層が存在し,その埋蔵量は5千億トンと推定され,撫順炭鉱の付属事業として化学工業を立地させることになった3)。
 日本政府は,日露戦争によって満州での鉄道と鉱山の経営権を獲得し,南満州鉄道株式会社(いわゆる満鉄)を設立して鉄道と撫順炭鉱を経営させた。満鉄は,撫順炭鉱の開発のために,1907年から1935年までに2億3535万円4)という莫大な投資を行ない,撫順炭鉱を中規模炭鉱から東洋一の近代的な巨大炭鉱に発展させた。満鉄による撫順炭鉱の開発過程は,技術的にみると三つの段階に分けられる。第1段階は,1907年から19年の第1次大戦後の恐慌前までの時期である。この時期に,当局は戦堝で荒廃した炭鉱を復旧し,二つの5ヵ年計画を中心に,日本の蓄積した炭鉱技術を移入して,大々的な開発を行ない,撫順炭鉱の植民地巨大炭鉱としての基礎を築いた。第2段階は,1920年から30年の満州事変の直前までの時期である。この時期に当局は,撫順炭鉱の独自な開発技術を蓄積すると同時に,さらに欧米の先進技術を導入して,撫順炭鉱をイギリスの植民地巨大炭鉱である開?炭鉱を凌賀する東洋一の近代的巨大炭鉱にまで成長させた。第3段階は,1931年の満州事変以後満州国の崩壊する45年までの時期である。この時期に当局は,植民地帝国の一つの拠点として撫順炭鉱を一層発展させるために,更なる開発を展開した。しかしながら,日本の敗戦とともに,植民地炭鉱としての撫順炭鉱は終焉した。
 約半世紀にわたる撫順炭鉱のこの開発過程において,われわれは,三つの特徴的傾向を指摘することができる。第1の特徴は,撫順炭鉱の開発が長期的かつ総合的に,そして慎重に行なわれたということである。その理由は,撫順炭鉱の開発が,半官半民の巨大な国策会社である満鉄によって行なわれ,個別資本すなわち三井,三菱,さらに新興の財閥や炭鉱資本などによる安易で短期的な,あるいは資源略奪的な開発が回避されたからである。この点は,大倉組による本溪湖炭鉱の開発5),イギリス民間資本による開?炭鉱の開発6)の事例と対比すれば明瞭である。第2の特徴は,撫順炭鉱が,日本の蓄積してきた最新の技術を十分に活用して行なわれただけでなく,個別資本では容易に投下しえない巨大資本を投下して,外国から先進的技術を積極的に移入し,それをマスターし,撫順炭鉱独自の技術を開発しながら行なわれたということである。こうして撫順炭鉱は,東洋一の近代的巨大炭鉱となったのである。第3の特徴は,撫順炭鉱の開発が,植民地的条件あるいは中国の特殊条件を十分に考慮しながら,慎重かつ漸進的に行なわれたということである。すなわち経営当局は,開発に際して,技術的な面では,撫順炭田と撫順炭の特質を漸次的に理解を深めつつ,日本の技術的経験を前提にしながらも,一挙的な変革をもとめず漸進的に撫順炭鉱に適した開発技術を探求し創出していったのである。また労働力の調達と労務管理の面でも,経営当局は,中国人労働力の調達と管理に際しては,中国の労働事情を十分に考慮して,日本的方式を機械的に導入せず,日本の経験を踏まえながら,例えば一見不合理で前近代的にみえる把頭制度を巧みに利用し,かつ経営の意志貫徹をはかれるように改変して,資本の論理を貫徹していったのである。以下にわれわれは,撫順炭鉱の開発過程を検討しよう。

2 撫順炭鉱の開発過程
(1)第1段階における撫順炭鉱の近代化
 日本による撫順炭鉱の開発は,満鉄による大々的な開発に先立って,日本軍の占領とともに始まった。日本軍は,1905年3月奉天付近の会戦でロシヤ軍を破り撫順炭鉱を支配下に治め,ロシヤ軍が敗走する際に破壊した炭鉱を復旧し,新たに新鉱を開削して,軍用炭と鉄道用炭の確保をはかった。すでにロシヤ軍政下の撫順炭鉱には,千金寨,楊柏堡,老虎台の3坑が存在し,年産10万トン近くを産出し,1000人近くの鉱夫を擁していた。日本軍は,新たに日本から技術者と熟練鉱夫を招き,従来から働いていた中国人鉱夫を説得して残留させ,破壊から免れた千金寨坑の採炭を開始し,さらに旧坑を排水し,新たに新坑を開削して,炭鉱の再建をはかり,満鉄への移管まで経営を行なった。7)
第9表 撫順炭鉱の投資額(1)
その他の項目には発電所,化学工場の投資が含まれている。
 1907年4月に,撫順炭鉱は,満鉄の経営に移管され,爾来大資本が投入されて開発されることになった。満鉄は,第9表に示したように,1907年から19年の12年間に政府による鉱区,既存の施設,機械などの現物投資4596万円のほか,新たに4591万円を投資した。経営当局は,この莫大な投資によって,旧坑を整備・拡充し,新たに6坑を漸次開削し,炭鉱の機械化をはかった。こうして撫順炭鉱は,第11表に示したように,経営当初は年産20万トン級の中炭鉱にすぎなかったが,7年後の13年には1挙に200万トン級の巨大炭鉱に成長した。撫順炭鉱の開発がいかに大規模で急速なものであったかは,日本最大の炭鉱であった三井・三池炭鉱の開発と対比すれば明らかである。三井は,第12表のように,1889年に政府より三池炭鉱を455万円で買収し,その後1919年までに新たに1897万円を投資した。買収費を入れても2353万円であった。それは撫順炭鉱の新規投資額の約2分の1であり,総投資額の約4分の1にすぎなかった。出炭高をみると,撫順炭鉱は,1912~13年頃に三池炭鉱の出炭高を凌賀し,日本一の巨大炭鉱となった。
第10表 1次5力年計画投資予算
第11表 撫順炭鉱坑別出炭高
 満鉄の主脳陣は,撫順炭鉱が有望であると知って,当時日本で最新の近代的炭鉱開発の経験をもつ三菱鯰田炭鉱の所長であった松田武一郎を撫順炭鉱の所長に迎え,第1次開発計画を立てさせ実施した8)。松田は,1883年に東大理学部採鉱冶金科を卒業して直ちに三菱に入社し,翌年高島炭鉱に赴任し,1897年には新入炭鉱の坑長となり,新坑の開発を指導し,1903年からは,鯰田炭鉱の支配人となり,同坑の近代化に努めた日本炭鉱技術界の第1人者9)であった。
 第1次5ヵ年計画の実施のためには,第9表に示したように868万円が投下された。第1次5ヵ年計画による撫順炭鉱の開発の特徴は,第1に,厚層炭の採掘に経験のなかった日本の技術者が,さしあたり暫定的に,日本の蓄積した近代的採炭法である残柱式採炭法に基づいて採炭を行なうにとどまったことである。第2に,開発の中心が大山坑と東郷坑の開削とその機械化であったということである。第10表からわかるように,第1次5ヵ年計画の投資額は,大半が2坑の開削費であった。大山坑は2年6ヵ月,東郷坑は1年9ヵ月かかって開削された大立坑であった。各坑には2坑ずつの大立坑が開削され,坑口の大きさは6.3メートル×5.4メートルで,坑深は372メートルであった10)。こうした大立坑は,当時の日本では三池炭鉱の宮ノ浦と万田の2坑にしかみられない極めて先進的立坑であった11)。第3に,小規模ながら発電所が設立され,炭鉱の電化がはかられ,また機械工場が設立されて炭鉱用機器の自鉱内生産が目指されたことである。
 こうして撫順炭鉱は,第1次5ヵ年計画の実施によって,開発の初年には23万トンの出炭にすぎなかったが,5年後には138万トンの出炭をみる大炭鉱に成長した。
千金寨,楊柏堡,老虎台の旧3坑は,漸次機械化され,出炭を伸ばしていった。例えば,千金寨坑は,2つの立坑と多数の横坑からなり,主要坑道の総延長距離は,5698メートルに達し,坑内捲揚用の蒸気機関として,ランカシャー型4台,コーニッシュ3台を備え,坑内排水ポンプ14台を備えていた12)。出炭は,第11表のように,1907年には10万トンであったが,11年には40万トンに拡大した。
第12表 三池炭鉱の投資額
 松田所長の死亡により新たに米倉清族が所長に迎えられた。米倉は第2次5ヵ年計画を立て,1415万円を投下し,炭鉱の近代化をはかった。その後1919年までの3ヵ年に2306万円が投下され,撫順炭鉱は,急速に近代化され,一挙に日本一の巨大炭鉱に発展していった13)。その間の撫順炭鉱の開発の特徴は,いくつかの注目すべき点がみられた。
 第1に,新たに万達屋,龍鳳,新屯の3坑が開削され,露天掘も開始され,第2段階での撫順炭鉱の発展の基礎が準備されたことである。第2に,暫定的に採用された残柱式採炭法が中止され,厚層炭に適した麗砂充填採炭法が導入されたことである。日本においては,残柱式採炭法はすでに旧式採炭法として衰退しつつあったが,撫順炭鉱においてもその弱点を露呈していた。すなわち,残柱式採炭法は,撫順炭鉱においては,採掘の深化,拡大に伴って各所に炭層の崩落を生じ,残柱の酸化による自然発火の危険を増大させ,また坑木,支柱,通気などの費用を増加させていた。また残柱式採炭法は,炭層の採掘効率が著しく悪く,埋蔵石炭の5~6%しか採掘できないという重大な欠陥をもっていた。こうした事情のため,厚層炭に適した合理的な採炭法が望まれ研究されていた。日本でも,すでに残柱の柱引きが広まり,保安上から炭柱引き後の充填が問題となっていた。麗砂充填法も先進的炭鉱である三池炭鉱ですでに研究が進められ,1908年に宮ノ浦坑で実験的に採用され,12年から実用化されていた14)。
 この麗砂充填法とは,ドイツの上部シレジヤ地方のミスロビッチ炭鉱において1897年に開発された厚層採炭法の一種で,傾斜している炭層を水平に採掘し採炭跡を土砂に水を混入して,地上からパイプで坑底に送り,充填し,それを土台にして上層を採掘していく累段水平払による方法である。この方法は,坑内の採炭跡の自然発火と崩落を防ぎ,坑内維持費を軽減し,厚層炭を残すことなく効率よく採掘することができた15)。撫順炭鉱の経営当局は,この方法に着目し,技術者を欧米に派遣して,その技術を修得させ,1912年に楊柏堡坑で試験的に実施し,良好な成績をおさめた。かくして撫順炭鉱の技術陣は,1913年から,大山,東郷の2坑に注砂設備を装備して,麗砂充填採炭法による採炭を開始した16)。そしてこの方法は,順次各坑に拡大されていった。しかし,この革新的採炭法は,この段階では,残柱式の延長線上にある柱房式の水準にとどまっており,短壁式であり,切羽が短く分散的で,切羽や坑道の維持費がまだ相当嵩み,傾斜している炭層を水平に採炭していくので採炭跡が不規則となり,落盤の恐れと充填作業の困難を伴うという欠陥をもっていた。この欠陥の克服は,第2段階の課題となった。
 この期の開発の第3の特徴は,発電所の増設と炭鉱電化の普及である17)。1909年に1000キロワット2基の発電機が設備されたが,それはまだ小規模なものであった。発電所の増設の大きな契機となったのは,麗砂充填採炭法の採用であった。この方法は,注砂装置を電力によって駆動しなければならなかったからである。こうして,麗砂充填採炭法の採用とともに,1913年には1500キロワット1基翌年には同じものが2基,15年には5000キロワット1基,17年には3000キロワット2基が設備され,電力供給量が増大した。第13表に示したように,1911年に518万キロワット時の電力供給量は,16年には3085万キロワット時となり,18年には6059万キロワット時に増大して,三池炭鉱の電力供給水準を凌賀した。
 第4に注目すべき点は,発電能力の拡大とともに,坑内外の機械化が著しく進展したことである18)。従来の蒸気力を電力に代えたことは,機械能力を飛躍的に増大させ,採炭コストの軽減をはかっただけでなく,蒸気力では困難であった坑内の機械化を促進することになった。すなわち1914年には,坑外での鉄道による運炭及び充填用土砂の運搬がすべて電化された。捲揚,排水,選炭などの機械も順次電化され,能力を拡大した。採砂には人力のほかスチームショベルやエキスカベーターが使用されはじめ,露天採炭には機械ショベルも使用されはじめた。坑内では,注砂充填装置はすべて電力によったほか,運炭系統がすべて電化され,機械化の部面が拡大した。また坑内の主要坑道,人道,ポンプ座,捲揚機械場には電燈が設備され,坑内作業条件の著しい改善がはかられた。もちろんこの段階では,切羽部面の機械化はなされず,採炭は相変らず手労働によっていたし,坑内外の運炭も人力による部面が少なくなかった。この段階の撫順炭鉱の機械化の水準は,ほぼ日本の先進炭鉱,例えば三池炭鉱の水準であった19)。
 第5に注目すべき点は,この期に炭鉱付属の機械工場が充実し,炭鉱機器の自鉱内生産体制が拡大し20),発電機にガス発電を採用したことが化学工業を立地させ21),撫順炭鉱のコンビナート化を促進したことである。
第13表 撫順炭鉱の電力供給量
機械工場は,1908年に千金寨坑に設立され,13年には,仕上・旋盤,製罐,鍛冶・鋳物・木型,電機の4工場の分業体制が確立した。1918年には,ボールド工場,鋳鋼工場が増設された。もとより撫順炭鉱は,日本本土より遠く離れ,中国の機械工業が弱体であったから,炭鉱用機器の自鉱内生産の必要があったのである。こうして機械工場は,この期に,注砂充填装置,捲楊機,運炭機,選炭機,ポンプなどを生産した。また1918年には機械工場は,満鉄の経営になる鞍山製鉄所の建設に参加した。もっとも撫順炭鉱は,機械製造技術が低位な面も少なくなく,日本の先進炭鉱と同様に,最新の炭鉱用機器の一部を欧米から輸入しなければならなかった。モンド式ガス発電機,アンモニア回収装置,タービン,大型蒸気汽罐などが,イギリス,アメリカ,ドイツから輸入された。
 モンド式ガス発電は,石炭しかも粗悪炭のガス化によったため,硫酸アンモニアを製造する化学工場を立地させた。1916年には硫酸工場が設立され,また17年には黒色火薬工場が,19年には酸水素工場が設立された。またコークス工場も設置され,撫順炭鉱は,一大コンビナート化していった。
(2)第2・第3段階における撫順炭鉱の近代化
 第2段階以降の撫順炭鉱の技術的発展の全体的特徴は,第1次大戦後の恐慌と昭和大恐慌とを媒介にして,著しい技術革新がはかられたことである。すなわち撫順炭鉱の技術陣は,12年間にわたる撫順炭鉱の経営で蓄積した技術を一層発展させ,さらに先進技術を欧米から移入し,その技術をマスターして撫順炭鉱独自の技術を開発し,撫順炭鉱を東洋一の巨大炭鉱に発展させたことである。
 1920年以降の撫順炭鉱への投資額は,資料的不備のため,二つの段階に区分することはできないが,第14表のように,1920年から26年までの7年間で4772万円,1927年から35年までの9年間で7806万円,16年間で1億3478万円に達した。
第14表 1920~30年代の撫順炭鉱の投資額
この額は,第1段階の新規投資額の3倍という莫大なものであった。ちなみに,もう一つの植民地巨大炭鉱である開?炭鉱の投資額は,開設以来1937年までに,イギリスの資本を中心にした外国資本が290万ポンド(4930万円)といわれ21),時価で550万ポンド(9350万円)22),と評価されている。開?炭鉱の投資額と比べると撫順炭鉱の投資額が如何に莫大であったかがわかる。
 かくして撫順炭鉱の出炭高は,第15表に示したように,1920年の320万トンから漸次急増して,26年には662万トンへと倍増し,30年には700万トンの大台に達した。昭和恐慌下には大幅な減産がみられたが,その後の産業合理化の展開の過程で,出炭は再び急増し,1930年代の後半には900万トンに達し,1937年には980万トンの史上最高の記録を残した。撫順炭鉱の出炭高は,1930年代には中国における出炭総量の約4分の1を占め,出炭量で中国随一をほこっていた開?炭鉱を1922年に凌賀して,その後漸次差を広げ,35年には開?炭鉱の2倍となった。撫順炭鉱の発展は,単に出炭の量的拡大にとどまるだけではない。後に詳しく指摘するように,開?炭鉱の技術的発展が停滞的であったのに対し,撫順炭鉱は,莫大な投資を行ないつつ技術革新を展開していったのである。
 撫順炭鉱の開発の第2・第3段階における技術的発展で注目される点は,第1に採炭方法に画期的な技術革新がなされたことである。撫順炭鉱では,1912年以来厚層炭の採炭に有効な麗砂充填法が導入され普及していたが,それは,短壁の水平式のもので著しい欠陥をもっていた。炭鉱の技術陣は,この欠陥を克服する研究を行ない,1920年に長壁の累段傾斜式の麗砂充填法を「独自」23)に開発し,翌年に新坑の龍鳳坑で試験して成功をおさめ,漸次この方法を全坑に導入し普及させた。
第15表 撫順炭鉱の出炭高
 この採炭法の要点は,炭層を層理に沿って2メートルほどの厚さに分割し,まず最下層の炭層を上向して採炭し,採炭跡を麗砂で充填し,さらに次の炭層を同じように順次採炭していくというものである。この採炭法は,まず立坑か斜坑に通ずる坑道から捲卸坑をつくる。この捲卸坑から炭層区域に対し,上片盤坑と下片盤坑を掘進し,前者を充填注砂鉄管用と排気用の専用坑に連結し,後者を運搬,排水,入気用の専用坑に連結する。下片盤坑に沿って80メートルから100メートルの準備坑進をつくり,上片盤からは下片盤に向かって中央に注砂坑をつる。採炭は,右左の切羽を山型に上片盤の方向に掘り昇る。払面跡が拡大すると注砂管から砂を流出させて充愼し,きらに掘り進む。採掘した石炭は,切羽の両端から片盤坑道にシュートし,そこから炭車で搬出される。分割された下層の炭層を採掘しおわると次層の炭層を同じように採掘する。以上を一切羽にし,この切羽を片盤の延長線に幾つもつくっていく。この採炭法は,切羽を長壁にすることによって採炭部面を集約化し,坑道の延長を短縮し,切羽と坑道の維持費を節減し,通気を容易にし,坑内の崩落,自然発火を防ぎ,採炭効率を著しく高めることになった。切羽の集中は,機械化の条件をつくることにもなった24)。
 第2に注目すべき点は,二つの恐慌をテコにして炭鉱の機械化がいっそう進展したことである。採炭部面の機械化では,1922年から電機穿孔機,圧機さく岩機が使用されはじめ,1930年代に普及した25)。
第3図 累段式昇払麗砂充填採炭法略図
第16表 切羽部面の機械台数 (1936年現在)
第16表のように1936年には電機穿孔機550台,圧機さく岩機200台の使用がみられた。截炭機は,1921年に輸入され試用されたが普及せず,1930年代になってやっと一部で使用されるにとどまった26)。さらに1936年には,コールカッター14台,コールピック58台が使用されていた。切炭は火薬発破によって行なわれたのである。採炭部面の機械化では,1930年から切羽にコンベアーが導入され,切羽運搬が機械化された27)。1936年には各種のコンベアーが545台使用されていた。1936年には老万大斜坑で切羽から坑口までコンベアーによる一貫運炭機械の導入がはかられた28)。
 坑内の機械化も進展した。第17表の通り,坑内輸送能力を拡大するために,坑内に電気機関車が導入され,漸次普及していった。1932年に開削された龍鳳大立坑には,東洋一の4段式で8函の炭車を捲揚げる大捲揚機が装備された29)。坑外の機械化では,1920年代に炭質を向上するために選炭機の導入が一般化し,1927年には,大山坑11台,東郷坑6台,老虎台4台,龍鳳坑4台の選炭機が使用された30)。1920年に洗炭機の使用も開始され,26年に古城子に日産1万6000トンの処理能力をもつ東洋一の大洗炭機がドイツから輸入されて設備された31)。
 なお1920年代に入って露天掘りが盛んになり,23年に露天掘りの総合開発が開始され,覆土の剥離,採炭,表土と石炭の運搬の機械化が進展した。すなわちエキスカベーター,電気ショベル,ダンプカー,電気機関車,スキップ捲などが導入された32)。もっとも露天掘の機械化は,機械の移動困難などのため手掘り領域を残し,手掘りを全面的に駆逐することはできなかった。以上のように1920年以降の炭鉱の機械化は目覚ましく,機械化の進展度を電気機械の馬力数でみると,第18表のように27年から36年までに炭鉱の総電力馬力数は約2.5倍,鉱夫1人当りの馬力数も約2.5倍に伸び,機械装備率は著しく高まった。
第17表 坑内電車の導入状況
第18表 電気機械馬力数
 第3に注目すべき点は,機械工場の自立的生産体制の強化33)と化学工場の発展である。機械工場では,1919年に設置した電気炉が20年から運転しはじめ,これまで外部から購入していた掘削機の良質の爪が自鉱内生産されるようになった。1920年に撫順鉄工株式会社が買収されて第2工場となり,機械土場の拡充がはかられた。機械工場は,1927年にこれまで輸入していたダンプカーの製造組立をはじめ,30年にはコンベアーの生産を行ない,32年には,撫順式の穿孔機も製造しはじめた。また1937年には,海綿鉄を原料とする特殊鋼工場が設立され,日米開戦とともに,製鉄工場,機械工作工場の増設がはかられ,炭鉱内自給生産体制が強化されていった。ちなみに,機械工場の作業額は,第19表のとおり1920年から36年までに4161万円に達し,同期の撫順炭鉱への総投資額の29%にも相当した。
 安価な電力を基礎にした化学工業の発展34)も注目される。1920年には油母頁岩の乾溜の研究が始められ,26年には撫順炭鉱独自の乾溜炉が開発され,960万円を投資して製油工場が設立された。1925年には発破用の黒色火薬工場が設立され,28年には硝安火薬工場も設立された。1928年には日本の液体燃料不足を補う目的で,撫順炭の液化の研究が始められ,38年に液化工場の完成をみた。こうして撫順炭鉱の化学工業は一層の発展をみせた。
 以上のように,撫順炭鉱は,国策会社満鉄の経営の下に,莫大な資本を投資して,すぐれた技術者を日本から移入し,かつ炭鉱内で養成しつつ,常に外国から先進的技術を移入し,それをマスターして撫順独自の技術に変容し,機械類を極力自鉱内で生産するように努め,巨大炭鉱として発展してきたのである。
第19表 機械工場作業高


1)中国における日本の炭鉱経営については,久保山雄三『石炭鉱業発達史』,前掲の『支那石炭事情』,鉱山懇話会『日本鉱業発達史」中巻,1932年,手塚正夫『支那重工業発達史』,木村和三郎「北支石炭経済論」等を参照。
2)撫順炭鉱の経営史については,満鉄による第1次,第2次,第3次の『満鉄十年史』,『満鉄三十年略史』,満州開発四十年史会編『満州開発四十年史』下巻,同史刊行会,1964年,撫順炭鉱編『撫順炭鉱読本』,大連,1937年,その他前掲文献を参照。
3)前掲『満州開発四十年史』下巻,35ページ参照。
4)後出の資料を参照。
5)本溪湖炭鉱の開発については,例えば鉱山懇話会『日本鉱業発達史』中巻,620ページ以下参照。同炭鉱は,40-50万トン級の大炭鉱にすぎなかった。
6)開?炭鉱の開発については,後にふれることになるが,さしあたり前掲木村和三郎「北支石炭鉱業論」第5章「開?炭鉱」を参照。
7)前掲『満鉄十年史』,467-79ページ参照。
8)同上,492-93ページ参照。
9)高野江基太郎『日本炭鉱誌』,九善,1911年,第三編の52ページ。
10)懇話会『日本鉱業発達史』中巻,585ページ参照。
11)農商務省鉱山局『石炭調査概要』,1913年,88ページ参照。
12)前掲『満鉄十年史』,509-19ページ参照。
13)同上,491-92ページ参照。
14)前掲『日本鉱業発達史』中巻,299ページ参照。
15)同上,586-87ページ参照。なお,麗砂充?法について詳しくは,『撫順炭鉱読本』,102-07ページを参照。
16)前掲『満鉄十年史』,493-94ページ参照。
17)同上,630-33ページ,『満鉄第二次十年史』,1928年,764-65ページを参照。
18)詳しくは,『満鉄十年史』,『満鉄第二次十年史』の各坑の採炭法の沿革についての記述を参照。また要約的には前掲『満州開発四十年史』下巻,51-55ページ参照。
19)三池炭鉱の技術水準については,前掲春日豊「三井財閥における石炭業の発展構造」,を参照。
20)撫順炭鉱の機械工場については,『満鉄十年史』,544ページ以下,『満鉄第二次十年史』,665ページ以下を参照。
21)木村和三郎「北支那石炭経済論」,前掲書,360ページ。ちなみに円換算は1ポンド=17円により換算,同書319ページ参照。
22)前掲『開?炭鉱の八十年』,23ページ。
23)前掲『撫順炭鉱読本』,102ページ。なおこの採炭法については,同上書102ページ以下を参照。
24)前掲『日本鉱業発達史』中巻,586-87ページ参照。
25)同上,587ページ参照。
26)同上,587ページ参照。
27)前掲『満州開発四十年史』下巻,62ページ参照。
28)同上,57ページ参照。
29)『撫順炭鉱読本』,136ページ。
30)『満鉄第二次十年史』,547ページ参照。
31)前掲『日本鉱業発達史』中巻,603ページ。
32)同上,591ページ参照。あるいは『満鉄第二次十年史』,587ページ以下,『満鉄第三次十年史』,1938年,1865ページ以下を参照。
33)詳しくは,『満鉄第二次十年史』,665ページ以下,『満鉄第三次十年史』,1865ページ以下参照。
34)詳しくは,それぞれ同上書,780ページ以下,同上書,1843ページ以下を参照。

Ⅳ 撫順炭鉱における中国人の雇用と労務管理

1 労働力構成と中国人の雇用形態

(1)労働力構成
 日本資本による約半世紀にわたる撫順炭鉱の開発過程は,そこに炭鉱経営に必要な一連の労働力群の需要を創出し,充足してきた。第20表に示したように,撫順炭鉱の全従業員数は,1907年の創立時には2,589人にすぎなかったが,その後炭鉱開発の進展とともに増大して,1911年には13,649人,19年には47,805人となった。第1次大戦後の恐慌の後には,従業員数は減少ないし停滞し,とくに1927年の昭和恐慌後の技術革新の展開過程では,従業員数は絶対的に増加したが,出炭の著しい増加に比して極めて停滞的であった。
 これらの労働力群は,いくつかの範疇からなっている。第22表に示したように,第1に炭鉱の開発と経営を技術的に指導し,または実現していく上中下級の技術要員,第2に,炭鉱の経営を指導し管理する上中下級の管理要員と事務員,第3に,炭鉱の具体的作業を遂行する一般労働力要員,第4に,機械工場,化学工場と,第5に,関連部門事業との一般労働力要員などである。
 撫順炭鉱は日本資本による植民地炭鉱であったから,一般的にみて,経営,技術の上級要員,そして一部中下級の要員,さらに炭鉱一般労働力,その他の一般労働力の指導的熟練部分は,日本から移入された日本人によって充用された。そして,経営権に係る上級の技術者,経営管理者を別にすれば,中下級の技術要員,経営管理要員は,中国人労働力に依存しなければならなかった。特に技術要員,熟練労働者層は,日本においても石炭業の発展に対応して,一般に不足しがちであった。
第20表 撫順炭鉱の従業員数
第21表 撫順炭鉱の中国人労働者(常傭工及び傭人)
第22表 撫順炭鉱の労働力範疇
第23表 撫順炭鉱の中国人傭人
そのため,日本から撫順炭鉱へ彼らを移入することは,なかなか困難であった。彼らを日本から招くためには,彼らの賃金や労働条件,全体として待遇を高めなければならず,そのため労務コストが上昇せざるをえなかった1)。したがって可能な限り,中下級の技術要員,経営管理要員,指導的熟練労働者も中国人労働力によって充用しなければならなかった。事業経営当局は,これらの要員を中国人によって充用した。第23表に示したように中下級の技術要員,経営管理要員の職階・職種であった中国人傭人の日本人社員及び傭人数に対する割合は,1907年には24・9パーセントであったが,その後急増して08年には41・1パーセント,12年には50・7パーセントに達し,その後漸次増加して,1920年代前半は60パーセント台を推移した。1927年からは,その割合も絶対数も減少するが,その原因は主に労務管理政策の変更によるものであった。
 反面,撫順炭鉱の全体としての労働力は,専ら中国人労働力に依存したということである。第20表に示したように,撫順炭鉱の全従業員に占める中国人の割合は,1907年には71・1パーセントであったものが,その後比重を増大し,12年には90・3パーセントになり,その後ずっと90パーセント台を推移したのである。

(2)中国人労働者の雇用形態
 撫順炭鉱の開発過程で,多くの中国人労働力の需要が創出されていったとすれば,彼らはいかなる雇用形態で編成されていったのであろうか。撫順炭鉱における中国人労働者は,一般的にみると,傭人(後に傭員),常役夫(後に常傭方),採炭夫(後に常傭夫)という三つの職階・職種に分けて雇用された。しかも彼らは,炭鉱資本に直接雇用される場合と中国人把頭を介在して間接的に雇用される場合とにわかれた。撫順炭鉱における中国入雇用の具体的な形態は,大別して三つの段階にわけられる。第1段階は,日本軍の軍政下から1911年頃まで,第2段階は,1912年から26年頃まで,第3段階は,1927年以降である。
第24表 撫順炭鉱における平均賃金(日額)
 傭入という形態は,中下級の技術者と各種の指導的熟練労働者の雇用形態であり,「専門ノ技倆」を持った近代的な労働力であり,一貫して炭鉱資本に直接雇用されていた2)。傭人の賃金は,「日給制」で,賃金水準は,第24表のように他の労働者より2-3割高かった。彼らの待遇は,満鉄社員に順じて定められ,社宅の貸与,毎季賞与金の給付,傭人救済規定による特別の扶助がなされた。人員的には,第25表に示したように,中国人従業員の10パーセント前後を占め,炭鉱労働力の指導的中核的存在であった。
第25表 撫順炭鉱の中国人労働者の職階・職種別構成
 常役夫(常傭方)は,はじめは技術的・経験的に傭人の水準に達していない傭人予備軍と傭人の水準に達する見込みのない中国人労働者からなっていた3)。しかし1920年代末頃からは,主に機械関連職種の労働者の雇用形態となったようである。常役夫も,炭鉱の近代的労働力であったから,一貫して炭鉱資本の直接雇用の下にあった。もっとも彼らの中には多分に半熟練や未熟練の労働者が含まれていたので,当初は募集に際しては把頭が介在することもあった。常役夫の賃金も一般に日給制であり,賃金水準は,第24表のように平均的採炭夫並であったが,日給制であったから安定的であった。彼らの待遇は,傭人より低かったが,常役夫扶助規定により一定の扶助が与えられ,人員的には,第25表のように当初多様な職種が含まれていたため,全体の比重は高く,1920年代末からは,機械関連職種に絞られるようになったため,比重が半減した。
 採炭夫は,これには仕繰夫や運搬夫なども含まれていたと思われるが,雇用形態の面では歴史的に大きく変化した4)。採炭夫は,撫順炭鉱の創立期には,ロシヤ経営下の雇用形態と同様に,作業請負人である把頭の雇用の下におかれていた。撫順炭鉱でも,1911年までは,中国の近代的炭鉱において一般的にみられたように,採炭業務が把頭と呼ばれる中国人鉱夫頭(親方)に請負されており,採炭夫は,この請負人に直接雇用されていた5)。撫順炭鉱の経営当局は,1912年に採炭部門の作業請負制度を廃止し,採炭労働者を直接雇用のもとにおいた。しかし直接雇用といってもそれは準直接雇用で,経営当局は,作業請負制度を廃止したが,把頭に鉱夫の募集と労務管理の一部の機能を請負わせた6)。ともに把頭制度と呼ばれているが,両者は区別されなければならない。この点は後に詳しく論じることになる。
 その後鉱夫の募集と労務管理を請負う把頭制度は,1927年頃から縮小改編された7)。すなわち1920年代の炭鉱の機械化の進展と採炭夫の近代化を踏まえて,経営当局は,把頭の機能を縮小し,それに代って領頭制度(工頭制度,作業頭制度とも呼ばれた)を導入して,資本の直接支配を拡大・強化した。しかし日本人による中国人労働者の完全な直接的支配は難しく,中国人把頭の存在を無視することはなかなか出来なかったようである。なお,作業請負制度も一部残存した8)。臨時的作業や土木,道路工事などの部門では,作業請負制度が残され,満州国建設下の労働力逼迫下では,拡大さえした。この請負制度は,日本的経営が好んで採用する制度としても注目されるところである。
(3)特殊な雇用制度としての把頭制度
 撫順炭鉱では,以上のような雇用形態の下にどのように労働力が調達され,管理されていったであろうか。この問題を検討する前にわれわれは,中国の特徴的な雇用形態である把頭制度についてやや立入って論じておきたい。撫順炭鉱における労働力問題は,すぐれてこの把頭制度に係っていたからである。
 把頭制度は,中国の鉱業,土建業,交通業にみられた請負制度のことである9)。炭鉱の把頭制度には,基本的に二つの形態が存在した。第1の形態は,把頭が炭鉱業務を経営者から請負う制度であり,中国の近代的炭鉱に一般的に存在した。この制度では,炭鉱経営者は請負作業量に対して一定の手数料を請負人に支払った。請負人は,労働者を集め,配下の小把頭を使って作業を指揮し,手数料の中から労働者に賃金を支払った。第2の形態は,作業請負はなく,把頭が主に労働力の募集と労務管理を経営者から請負う制度であり,撫順炭鉱をはじめ日本の植民地炭鉱にみられた形態である。この制度では,請負人は,専ら労働力の統括を経営者に代って行ない,手数料は,作業量に基づいてではなく,配下の労働者の稼働賃金量に応じて支払われた10)。
 いずれの形態も土法炭鉱ではみられず,近代的炭鉱にみられた制度であり11),その形態の前近代性にもかかわらず,その内容において近代的な傾向をもっている点が注目されなければならない。第2の形態は,明らかに第1の形態の変型である。事実,撫順炭鉱においては,すでに指摘したように,当初採炭部門では,作業請負に基づく第1の形態の把頭制度が存在していたが,1912年に,作業請負が廃止されて,労働力の統括請負に基づく第2の形態の把頭制度が導入された。こうした意味から,ここでは,第1の形態を前期把頭制度,第2の形態を後期把頭制度と呼んでおきたい。中国の把頭制度は,その内容の面からみれば,他の国においてもみられた炭鉱の請負制度と本質的に同一である。例えば把頭制度は,日本の頭領制度=納屋制度と本質的に同じものであり,しかもすでに別の論稿で明らかにしたように,把頭制度の二つ形態と同じものが,日本の頭領制度=納屋制度にもみられた12)。その限りで,中国の把頭制度は,中国にのみ特殊な制度ではない。
 中国における把頭制度の特殊性は,日本のように後期頭領制度が支配的でなく,作業請負に基づく前期把頭制度が支配的であり,石炭業の近代化がある程度進展した段階においても,把頭制度が広範に存在したということにある。こうした請負制度が存在した根拠は,一般的にみれば,第1に,炭鉱経営者が採炭業務に通じていなかったため,採炭業務を修熟した石炭業者や鉱夫頭に請負わせる必要があったことにある。第2に,とくに炭鉱の機械化が行なわれにくい採炭部面では,労働が分散的で労務管理が難しく,いきおい労働力の統括力をそなえた請負人にそれを委ねなければならなかったことである。第3に,自由な炭鉱労働市場の形成が不十分で,労働力の募集,確保が困難であったために,労働力の募集,確保にすぐれた能力をもつ把頭にそれを請負わせる必要があったことである。
 中国の把頭制度が長期間にわたって存在した理由は,上述の一般的な理由に加え,第1に,列強の支配により,中国の資本主義の発展が抑圧され,農民層の分解が不十分で自由な炭鉱労働市場の確立が著しく遅れたことであった。とくに中国には,言語や生活慣習の地域的差異が著しく,?(Pang)制と呼ばれるギルド風な地域的結合組織が存在し,労働力の調達が?組織に依存しなければならなかった13)。把頭制度は?組織を基礎にしていたのであり,把頭は?頭の頂点をなしていたのである。第2に,なにより近代的炭鉱の多くが植民地炭鉱であったため,外国人経営者は,直接中国人労働者を集め,管理することが困難であったから,やむなく把頭の仲介を必要としたのである。しかも把頭による労働力統括は,資本による直接的な管理より安価だったのである。
 しかし把頭制度は,すべての炭鉱労働者を包括したわけではなかった。炭鉱経営者は,石炭の捲揚,運搬,排水など直接機械化しえた部門の労働者を直接雇用のもとにおいた。機械関連部門の炭鉱労働市場は,不十分ながら早くから確立していた。したがって把頭制度は,機械化の遅れた採炭部門や運搬部門で支配的だったのである。把頭制度は,一般に請負制度に伴う種々の弊害をもっていた。乱掘や労働者に対する過酷な支配と搾取などである。把頭の勢力が強ければ,炭鉱経営において炭鉱資本の意志が十分に貫徹しにくい。炭鉱資本は,極力把頭の機能を制限しようとする。採炭部門の機械化は,炭鉱資本の労働者に対する直接的支配を拡大する条件を与えるものであった。
 撫順炭鉱の把頭制度についていえば14),すでに指摘したように,1911年までは,採炭部門では作業請負に基づく前期把頭制度であった。経営当局は,数年間の経営の経験を踏まえ,1912年に前期把頭制度を後期把頭制度に改編した。日本においては,大企業の炭鉱では,作業請負に基づく頭領制は殆んど存在しなかった。明らかに大企業においては,作業請負制度は,資本にとって不適合な制度であった。撫順炭鉱の経営当局は,日本の経験に鑑み,また採炭部面をある程度直接支配する能力を持っていたので,後期把頭制度を導入したのである。もちろん撫順炭鉱の経営当局が,採炭部門の労働者を純粋な直轄制度の下におかなかったのは,すでに指摘したような事情があったからである。すなわち,第1に,撫順炭鉱が植民地炭鉱であったから,日本人による中国人労働者の直接的な労働力統括(労働者の募集と管理)が困難であり,把頭に依存しなければならなかったことである。第2に,採炭部門労働者の労働市場の形成が不十分で炭鉱資本による直接の労働力確保が困難であったことである。
第26表 撫順炭鉱の把頭数及び配下労働者数
第27表 把頭の給与(1926年)
第3に,採炭部門の機械化が遅れていたために,採炭部門の労務管理が困難で,把頭による仲介的管理を必要としたことである。こうして撫順炭鉱では,1912年から27年頃まで,採炭部門を中心に後期把頭制度が存在した。その間に一時,採炭部門を機械的職種の労働者のように純粋に資本の直轄制度に改める試みも行なわれたが,成功しなかった15)。
 撫順炭鉱の後期把頭制度の具体的機能については,後に詳しく論じることにして,ここでは,炭鉱当局の把頭制度に対する政策を一般的にみておきたい。経営当局は,1912年に,後期把頭制度の性格を「採炭苦力把頭規定」によって定めた16)。この規定によれば,大体採炭夫100名以上を擁する把頭を大把頭とし,大把頭の下に採炭夫50名位を擁する小把頭を置いた。大把頭は,経営当局によって「多数ノ採炭苦力ヲ有シ之ヲ監督指導スルノ才幹アリテ炭坑ノ為メニ忠実ニ採炭ニ従事スル」と認められた者が任ぜられた。小把頭は,大把頭の推薦した者が経営当局により任命された。経営当局は,把頭の定員制をとらず,大把頭,小把頭の罷免権を保持した。把頭の給与は,大把頭については,所属苦力の総稼働賃金の1000分の35が毎月支給され,小把頭については,所属苦力の総稼働賃金の100分の5が常給とされ,100分の2が小把頭の成績に応じて配分され,毎月支給された。
 撫順炭鉱の大把頭は,第26表に示したように,1918年には13人で,1人平均796人の鉱夫を抱えていた。その後鉱夫数が増大したため大把頭数も増え,1926年には19人,30年には23人に達した。そして1931年の労務政策の改変により,その数は半減した。配下の労働者数は,1人平均600-700人であったが,等27表のように,個人差があり,勢力の大きな大把頭は,1000人以上を抱え,小さな大把頭は170人位であった。
第28表 把頭1人平均給与
第29表 撫順炭鉱の上級労働者賃金 (1926年)
 把頭の実際の給与は,第28表に示したように,1926年の例によってみると,大把頭は,平均月収249円,日収9円96銭であった。大把頭の給与は,小把頭の約3倍であり,第29表のように撫順炭鉱日本人職員の平均月収175円よりはるかに高く,小把頭の給与は,日本人の傭人給与に等しく,中国人傭人の給与の約3倍,一般鉱夫の4倍に相当した。把頭の給与の高さは,把頭制度の独自な機能を如実に示すものである。後期把頭制度の把頭は,本質的にみて,炭鉱資本に雇われた中下級の管理職であったが17),彼らの独自の労働力の統括能力は,炭鉱資本によって高く評価され,高い給与が支払われたのである。もっとも把頭の収入は,給与のほか,賄,販売店の経営,労働力募集に際しての手当などがあったが,すべて彼らの賃金的収入になるわけではなかった。把頭の独自の機能は,把頭の配下労働者に対する特殊な関係を基礎にしていた。把頭は,その関係を貨幣的に裏づけるために,帰郷する鉱夫への餞別,傷病鉱夫への帰郷費用を支払ったり,所属鉱夫への家父長的な福利厚生費用を負担した。またケツワリ坑夫の債務や規律違反鉱夫の罰金なども負担しなければならなかった18)。
 撫順炭鉱における把頭制度は,他の炭鉱と較べてはるかに炭鉱資本の把頭に対する支配は強く,それだけ把頭の独自性が弱かったといえよう。把頭制度は,それ自体多くの不合理性,前近代性を秘めていたが,日本資本による中国人労働者の統括のためには,欠くべからざる有効性をもっていたのである19)。1931年の労務政策の大改革後,把頭制度は縮小され,機能も著しく弱められた20)。また経営当局は,把頭を資本の直接的な中下級管理職に組み込むために領頭制・工頭制を導入した。領頭制は,主に作業上の監督機能を果すだけに限られた。こうして撫順炭鉱の把頭制度は,1910年代,20年代には,採炭部面での有力な雇用制度であったが,1930代になって一定の歴史的役割を果して著しく縮小し衰退していったのである。

2 中国人労働者に対する労務管理の展開

(1)中国人労働力の調達
 全体として資本主義の発展が遅れ,炭鉱労働市場の形成も不十分な過程において,急速な開発を行ない,労働需要を増大させていった撫順炭鉱にとって,大量の中国人の労働者を調達し管理していくことは,きわめて重要な課題であった。炭鉱経営当局は,中国人労働力をどのように調達していったであろうか。
 労働力の調達は,一般的にみれば,労働市場を通じて行なわれる。しかし中国における炭鉱労働市場は,必ずしも十分に形成されてはいなかった。少なくとも1930年代以前は特にそうであった。そこで炭鉱経営当局および日本政府は,炭鉱に必要な中下級の技術要員を積極的に養成した。満鉄は,中国人中下級技術者を養成するために,1912年に撫順簡易鉱山学校を設立し,23年にはそれを改組して撫順鉱山学校に発展させた。後者の修養年限は,予科は1年,本科は2年6ヵ月で,入学資格は,中国の高級小学校卒であった。この学校の卒業生は,1922年から26年までに18人に達した。また1928年には48人が在学していた21)。こうして炭鉱当局は少数ではあったが,中国人中下級技術者を自から養成していった。
 また日本政府も,植民地炭鉱の技術者を養成するために,満州において専門学校,大学を設立し,そこに採炭科や機械科を設置した。1910年には,日中共学の4年制大学である旅順工科学堂が設立され,採鉱科が設置された。1926年に廃校されるまで,600人の卒業生を出した。そのうち何人かの中国人が撫順炭鉱に入職したはずである。1922年には,新たに旅順工科大学が設立され,中国人のために特に1年の予科がおかれた。ちなみに1929年には,予科31人,本科16人の中国人学生が在学していた22)。このほか1923年に民国政府は,東北大学を設立し,工学部に採鉱冶金科を設置し,中国人の技術者養成を行なった23)。
 1932年の満州国の設立は,満州における開発ブームを呼び起こし,技術者不足を招いた。そこで満州国政府は,専門学校,大学の拡充をはかり,日本へ留学生を派遣し,中国人技術者の養成をはかった24)。1936年には旅順工科大学に付属臨時技術員養成所が開設され,修業は1年間で,鉱山科には中国人75名が収容された。1938年には立命館日清高等学校が設立され,修業は2年間で,採鉱冶金科には中国人15名が収容された。また哈爾濱工業大学が設立され,1939年に採鉱冶金科の中国人学生が16名卒業した。また4年制の新京工鉱技術学院,奉天技術学院が設立され,1学年70人の中国人学生を収容した。以上のように撫順炭鉱に必要な中国人技術者は,撫順炭鉱独自に,また政府の助力によって少しずつ養成されていった。
 技術者層,熟練労働者を含め,中国人労働者の一般的な調達は,労働市場を通じて行なわれた。しかし,中国における炭鉱労働市場の形成は不十分であり,1920年代まで,一般的に労働力不足の傾向があり,労働力の調達は困難であった。特に近代的な熟練炭鉱労働者の調達が困難であった。とはいえ撫順炭鉱は,急速に労働力需要を拡大し,大量の労働力を確保しなければならなかったので,積極的に労働力の調達を行なっていった。労働力の調達方法は,撫順炭鉱では現地採用と募集採用の二つの方法があった25)。現地採用にはまた二つの形態があって,炭鉱労働市場の形成を反映して,中国人労働者が自発的に撫順炭鉱に流入して,一定の手続きで採用される形態と,主に把頭制度の下にある労働者が炭鉱を移動し,ある坑の大把頭の雇用から別の坑の大把頭の雇用に転換する形態とである。募集採用は,募集人を各地に派遣して,労働者を集めてくる方法で,これも臨時的に募集人を派遣して集める形態と,地方に募集機関を設置して,恒常的に集める形態とがあった。募集機関も,大把頭の私的機関と炭鉱の直営機関とがあったが,前者の場合は,1916年から19年までみられただけで,一般に炭鉱の直営機関であった。
 いずれの方法にしろ,労働力を大量に調達し確保しておくためには,種々の積極的な方法が講じられなければならなかった。その方法は,第1に,賃金や福利厚生施設などを他の炭鉱より有利にし,労働者の調達を容易にし,かつ労働者の炭鉱への定着をはかることであった。事実,撫順炭鉱の賃金は,一般に他の地方の炭鉱より高かったといわれている。例えば,第30表に示したように,撫順炭鉱の賃金は,山東省の?川炭鉱の倍額以上であった。しかも撫順炭鉱では,炭鉱資本による一定の福利厚生施策が行なわれ,他の地方の炭鉱におけるような把頭による家父長的な福利厚生より一段と有利であった。特に良質の労働力を調達するために,自発的に炭鉱に来る労働者に対しては,一定期間働いた場合は,種々の手当が支給された26)。機械的職種の近代的労働力の調達は,こうした方法によって,ある程度は容易に行ないえたようである。しかし反面,労働市場が十分に形成されない段階では,特に採炭部門のように厳しい労働を要求される部門の労働者の場合には,単に賃金や待遇を有利にするだけでは,労働力を十分に調達し,確保することは著しく困難であった。そこで炭鉱経営当局は,労働力調達の第2の積極的方法として,把頭を動員して積極的に労働者の募集を行なった。
 撫順炭鉱の創設期には,鉱夫の調達は,労働者の自然流入にまかせ,特に労働者の募集は行なわれなかった。しかし開発の進展につれて,労働力の需要が拡大すると,もはや労働者の自然流入だけではまにあわず,経営当局は,労働者の募集を積極的に行なわなければならなかった27)。
第30表 日賃金比較 (1917年)
第31表 撫順炭鉱労働者の出身地構成比
当局は,1912年から,撫順炭鉱の創立前から伝統的に撫順炭鉱の労働者の主な出身地であった山東省と開?炭鉱をはじめ近代的炭鉱が多く,また周辺に多くの土法炭鉱が存在して大量の炭鉱労働者を集積していた河北省に招工所と呼ばれる募集機関を設置した。経営当局は,日本人炭鉱職員をそこに派遣し,中国人の把頭や熟練鉱夫を使って熟練および未熟練,不熟練の労働者の募集にあたった。第31表のように,こうして撫順炭鉱労働者の主要な出身地は,山東省と河北省に集中した。労働者の募集は,主に把頭により請負的に行なわれ,把頭には成績に応じて手当が支給された。しかもその際把頭に労働力の確保をはかるため,労働者が30日以上稼働した場合には,1人につき一定額の奨励金が支給され,30日以内に労働者が逃亡した場合は,一定額の罰金が科せられた。かくて招工所は,1920年までに,山東省に5ヵ所,河北省に2ヵ所,熱河区域に2ヵ所,地元奉天省に2ヵ所,計11ヵ所が設置された。その後労働力の確保が容易化するに従い,招工所は縮小され,1931年には廃止されるにいたった28)。その後,労働者の募集は,必要に応じ炭鉱資本の直接的指揮のもとに行なわれるようになった。
 この間に把頭によって行なわれた募集鉱夫の歩留りは,当時の労働力の質を反映して著しく低かった。例えば,第32表に示したように,1917年の募集成績をみると,2531人の募集予定人員に対し,1743人(充足率69パーセント)を実際に募集したが,ほぼ30日を稼働した者は,749人(歩留43パーセント)にすぎなかった。大方の労働者は,1ヵ月たらずの間に炭鉱から離脱してしまったのである。ここでは採炭部門の労働者が問題になっているのであるが,上記の事態は,採炭鉱夫の炭鉱への定着率が著しく低かったということ,また彼らが近代的労働力としての質を著しく欠如していたということを示している。
 第33表に示したように,炭鉱当局は,1912年以降,炭鉱の開発に併行して大量の労働者を募集させたが,第1次大戦後の恐慌後労働力の供給が安定したので,募集を著しく抑えた。それは,1920年代に入って,労働力の調達が,労働者の自発的流入による採用中心になってきたことを意味する。しかし彼らは,そのまま近代的労働力の質をそなえ,炭鉱に定着性を増したというわけではない。第34表は,募集鉱夫を含め,全体として採炭労働者の移動性を示したものである。採炭労働者の移動性は,1927年頃まで著しく高い。
第32表 募集採炭夫の定着率 (1917年)
第33表 撫順炭鉱の中国人採炭夫の採用方法構成比
すなわち,在籍労働者の4-5倍の労働者が入職しては退職している。この移動率の異常な高さは,労働者が一般によりよい賃金,労働条件を求め,また技能を高めるために移動するという近代的な要因のほか,第1に,撫順炭鉱に入職してきた多くの採炭労働者が,近代的大炭鉱の必要とする労働力として,まだ充分な資質を形成していなかったということに起因していた。すなわち,彼らは,近代的炭鉱で働いた経験が少なく,坑内労働に伴う労働秩序と保安上の規律を要求された撫順炭鉱の労働になかなか適応できず,高い賃金を求めて入職しても定着できず,短期間にして退職していったのである29)。
 労働者の移動率の異常な高さの第2の原因は,入職労働者の多くが出稼ぎ的性格が強く,出身地の共同体から完全に切り離されていなかったことである。半農的出稼ぎ労働者は,農繁期に帰郷したりして,長期間炭鉱にとどまることが少なかった。また土地から切離されていても,正月や節句やその他の郷里の行事に度々帰郷する者も少なくなかった。彼らの多くは,再び来鉱したから,移動率が一層高まった30)。第3の原因として注目されるのは,労働者が炭鉱内で激しく移動したことである。第33表をみると明らかなように,1910年代についてのみの資料であるが,新たに採用された採炭労働者の50-60パーセントは,ある坑から他の坑への移動にすぎなかった。これは,時には大把頭間の坑夫争奪によって起きたし,ある時は労働者がよりよい労働条件を求めて移動し,あるいは市場的原因とは別に,血縁者や知人のいる別の坑に移るということであった31)。いずれにしろ鉱内移動は,雇用を不安定にし,時には賃金上昇の原因ともなったので,炭鉱当局は,労働者の鉱内移動を禁じた。当局は,1912年に中央招工公所を設置し,各坑による随意の採用を禁じた。1924年には,指紋法が採用され鉱夫の鉱内移動をさらに抑制しようとした32)。しかし,これらは,必ずしも鉱内移動率を抑制することにはならなかったようである。
 以上のように,全体としての鉱夫の移動率の高さは,経営を不安定にしたから,炭鉱経営当局は,採炭部門の機械化を推進しつつ労働力の近代化をはかり,鉱夫の定着化をはかった。これが大量の労働力を調達し確保するための第3の積極的方法であった。1920年代以降の採炭部門を中心とする機械化の進展は,すでに述べておいたように,労働力需要の絶対的増加を抑えたし,労働者の募集の比重を著しく低下させた。そして労働力の調達は労働市場を背景とする自発的な労働者の流入にまかされるようになった。そして炭鉱当局は,労働力の質的向上をはかるために,労働者の採用条件を厳しく規制し,労働者の定着をはかるために賃金その他の労働条件の一層の改善をはかった33)。このような政策の成果は,1920年代末から現われはじめ,第34表のように,労働者の移動率は動激に低下し,採炭夫の移動率については,1930年代には,1倍以下となり,常傭方はその半分乃至は3分の1の水準にまで低下した。
第34表 撫順炭鉱中国人労働者の移動率
 第二次,第三次『満鉄十年史』586ページ,1723ページに基づき作成。
第35表 撫順炭鉱中国人労働者の勤続年数の構成比
これはまた労働者の勤続年数を増大させることになった。第35表に示したように,1930年には,2年以上勤続する採炭労働者は,28パーセントに達し,熟練的採炭夫の定着を示している。機械的職種を中心とする常役夫は,採炭夫より一層勤続年数は高かった。こうして撫順炭鉱では,1930年代になってようやく労働力の安定的な調達と確保が可能となったのである。この点については,具体的な労務管理の展開の検討の際に,もう少し詳しく論じることになるだろう。
(2)労務管理の展開
 ⅰ)炭鉱資本による直接的労務管理の展開
 以上のように調達された中国人労働者は,どのような労務管理の下で働いたのであろうか。炭鉱資本の下に直接雇用された傭人や常役夫は,資本の一元的な労務管理の下で働かされたことはいうまでもない。彼らは,日本人職制の管理の下で,働いた。ここで問題なのは,主に採炭部門の労働者の労務管理である。把頭制度の下にあった採炭部門の労働者の労務管理は,二元的であった。すなわち採炭労働者は,炭鉱資本の直接的労務管理と把頭の独自的労務管理の下におかれた34)。しかしあくまで炭鉱資本の労務管理が主導的であった。
 撫順炭鉱における労務政策は,雇用政策と同様に1911年頃までの旧来の成り行き的な第1段階と,1912年から26年頃までの撫順炭鉱独自の政策展開の試みられた第2段階と,1927年以降従来の後期把頭制を媒介とする労務管理が改変され,著しく近代的な労務管理が展開される第3段階に分れる。ここでは,第2段階と第3段階の労務管理の展開を中心に検討してみよう。
 第2段階の労務政策の基本的傾向は,1911年までの採炭部門を中心とする作業請負制度を廃止し,後期把頭制度を導入し,中国の労働事情を踏まえながら,炭鉱資本が近代的炭鉱にふさわしい労務管理を展開していったことにある。この段階における炭鉱資本の直接的労務管理の課題は,第1に,すでにみたように,良質の労働力を調達し確保することであった。そのために炭鉱資本は,一方では,一連の鉱夫優遇措置を講じて良質の労働力の自発的流入をはかりながら,他方では,把頭の鉱夫募集に対しては,募集費を負担し,良質の鉱夫募集には一定の奨励的手当を支給した。炭鉱資本の直接的労務管理の第2の課題は,把頭制度を利用しながらも,独自に労働力の質を高め,良質の労働力を維持し,かつ労働者を組織し管理しながら,生産性を高めていくことであった35)。すでに指摘したように,中国人採炭労働者は,撫順炭鉱のような近代的炭鉱にとって十分に満足すべき質を保持していなかった。彼らの多くは,近代的炭鉱が要求する厳しい労働規律に馴れておらず,生活水準の低さから労働意欲も低く,炭鉱への定着性が極度に乏しかった。こうした事態のなかで,経営当局は,各坑に「華工係」を置き,厳しい就業規則と保安規定を定め,資本自ら労働者の労働を組織し,指揮し,監督した。日本人管理職は,鉱夫の入退坑を管視し,煙草,発火具,其他の禁制品の持込みをチェックし,携帯工具,採炭札などを点検し,係員を巡回させて坑内の就業状況を監督した。規律違反者に対しては,罰金を科し,違反者を抱える把頭に対しても連帯責任の罰金を科した。経営当局は,また新規の不熟練労働者に対し,ある程度の技能を修得させるために一定期間の賃金を保障したり,自発的に来鉱した鉱夫に対しては,一定期間の就業の後に旅費を給与したり,賃金の割増を行なって生産性の向上をはかったりした。
 しかしここで注目しなければならないことは,第2段階においては,炭鉱当局の近代的な労務管理策がはじめから効を奏したわけではなかったことである。この期の採炭労働者は,一般に最低生活費以上を稼こうとせず,移動率も激しかったので熟練も蓄積せず,能率も著しく低かった。例えば1910年代の満鉄の資料は,採炭作業の能率を高めるために割増賃金や奨励給を定めても,「彼等ハ思想幼稚ニシテ且ツ其性質慣ルルニ従ヒ怠惰ニ流ルルヲ以テ?之ヲ改廃スルノ外ナク」という状況が存在したことを指摘している36)。したがって例えば,1917年の坑内外の鉱夫1人当りの日産出炭高は,採炭条件が有利であるにかかわらず平均0・35トンで37),日本における鉱夫より4分の1ほど低い。こうした状況こそ,把頭制度による特殊な労務管理が必要とされた所以である。
 炭鉱資本の直接的かつ近代的な労務管理が,かなり効果をあげるようになったのは,1927年以降の第3段階に入ってからである。それは,この期に,労働市場の形成がかなり十分になり,撫順炭鉱における採炭部門の機械化も進展して,労働需要が相対的に低下し,良質の労働力を精選しうるようになったからである。経営当局は,1927年に採炭夫募集規定及び取扱規定を改め,募集人の待遇を改善し,良質労働力の調達に一層優遇措置を講じ,逆に低質の鉱夫を募集してきた場合には,一定の賠償金を科した。また経営当局は,鉱夫の採用については,適性を厳しく検査して厳選し,鉱内移動に対しては,不採用方針をもって厳しく対処した。鉱夫の定着をはかるために賃金制度と福利厚生制度が改善された38)。これは主として把頭制度の弱体化を伴うものであった。
 すなわち,1927年からは,賃金は把頭を通じて支払う方法が廃止され,経営当局からの個人直接払いに改められた。また賃率もより合理的に改善され,とくに勤続の永い者には賞与が支給され,休業手当なども支給されるようになった。1930年には,これまで把頭によって自由に経営された売店が,炭鉱直営に改められ,把頭に請負わせたが,指定価格を定めて把頭の暴利を禁じた。また同年には,把頭による鉱夫への貸付金(前貸)制度が廃止され,炭鉱当局による直接の扶助制度が改善された。とくに住宅が改善され,家族持労働者に住宅が貸与されるようになった39)。こうした資本の直接的な近代的労務政策の展開は,1930年代の中国人採炭労働者の質を著しく向上させることになった。すでに指摘したように,移動率が激減し,年々勤続年数も高まった。
第36表 中国人労働者の家族持構成
第37表 坑内採掘夫の就業率
第36表のように家族持鉱夫も増大し,第37表にみられるように,就業率も高まり,第38表のように,鉱夫の労働生産生も著しく高まった。

 ⅱ)把頭制度による独自な労務管理の展開
 把頭制度は,近代的炭鉱においては,けっして把頭にすべて鉱夫の労務管理を請負わせたわけではない。把頭制度のもとでの労務管理は,二元的であり,特に撫順炭鉱においては,資本の直接的な労務管理を補完するものであった。すでにみたように,第2段階においては,資本の直接的な労務管理だけでは,極めて不十分であって,それ故把頭による独自の労務管理の必要が存在したのである。
 把頭による独自的労務管理の第1の機能は,すでに述べたように,労働力の募集であった。第2の機能は,炭鉱の直接的労務管理体制の下で,把頭が具体的に,鉱夫の労働を組織し,指揮し,監督し,生産性を維持・向上させていくことであった40)。把頭は,配下の鉱夫を先山と後山からなるグループに組織し,経営当局が定めた切羽に具体的に配置し,資本の定めた労働秩序を維持し,規律違反のないように監視した。また彼らの労働を記帳し,賃金を管理した。把頭は,自分の収入が鉱夫の稼ぐ賃金総量に依存していたので,熱心に鉱夫の就業を促進し,労働を督励した。把頭はまた,新入の鉱夫や未熟練の鉱夫に対し,配下の熟練鉱夫を配置して,彼らの技術を高めさせた。把頭制度は,鉱夫の技能養成機能をもっていた。特に日本人による中国人労働者に対する技能伝習が,言語上,また民族感情上著しく困難であったので,この点が無視されてはならない。
 把頭の第3の独自的機能は,特殊的な関係,すなわち?的関係を基礎に,鉱夫の全体的生活を管理し,炭鉱への彼らの定着をはかることであった41)。把頭は,配下の鉱夫を炭鉱から与えられる住居に住まわせ,彼らの生活を管理した。把頭は,鉱夫の食生活を賄い,日用品の売店を経営し,しかも掛売りを行ない,賃金の前貸をし,鉱夫を把頭に従属的な立場に立たせ,かつ炭鉱へ緊縛した。把頭は,鉱夫の逃亡や移動を防ぐために,鉱夫の日常生活を監視し,時には他の炭鉱の募集人から彼らを守った。
第38表 撫順炭鉱の生産性
把頭は,鉱夫の賃金を炭鉱経営当局から一括払い受け,掛売りの債務や罰金,その他の費用,債務を差引いて鉱夫に支払った。把頭はまた,配下の鉱夫に対し家父長的温情的な扶助や救済を行ない,時には反抗的な労働者や怠惰な労働者に暴力的な制裁を加えたりした。要するに把頭による独自の労務管理は,資本の直接的な労務管理が十分に効果を現わしえない面を補完するものであった。
 1927年以降労務政策の第2段階においては,すでに述べたように,把頭制度の機能は著しく縮小・弱体化された。労働力の調達の容易化と労働力の質的向上は,把頭による独自の労務管理をかなりの程度不要化し,資本による直接的労務管理を強めることになった。
 以上のように,撫順炭鉱における労働力の調達と労務管理は,全体として資本主義の発展が遅れ,労働市場の形成も不十分な過程にあって,急速な労働力需要の発展と炭鉱の近代化のために種々の困難を伴ったが,比較的円滑に困難を克服しつつ展開されてきたといえよう。


1)満鉄鉱業部『満州ニ於ケル鉱山労働者』,11-12ページ参照。
2)同上,235-36ページ参照。
3)同上,237-78ページ参照。
4)同上,242-43ページ参照。
5)前掲『満鉄十年史』,496ページ参照。
6)同上,496ページ参照。
7)この点も後に詳しく述べる。
8)前掲『満州ニ於ケル鉱山労働者』,238ページ,244ページ参照。
9)満州重工業開発株式会社編『労務政策研究(上)』,新京,1942年,10ページ参照。
なお,把頭制度について論じた文献は,上記のもののほか,前田一『特殊労務者の労務管理』,山海社,1944年,トルガシェフ『支那鉱業労働論』,中村孝俊『把頭制度の研究』,大阪屋号書店,1944年,等々を参照。
10)トルガシェフも二つの形態を区別している(前掲書,73-74ページ参照)が,一般に両者の区別はあいまいにされているので注意を要する。
11)前掲『把頭制度の研究』,2ページもこの点を確認している。したがって,把頭制度を単純に前近代的な制度と断定することは誤りである。この点は,本論の展開で証明されるのであろう。
12)詳しくは村串仁三郎『日本炭鉱賃労働史論』,時潮社,1976年,及び前掲『日本石炭業の技術と労働』を参照。
13)?については,小山清次『支那労働者研究』,東亜実進社,1919年,第一編第三章「労働者の団体(?)」を参照。
14)撫順炭鉱の把頭制度については,各『満鉄十年史』のほか,『満州ニ於ケル鉱山労働者』,満鉄労務課『南満州鉱山労働事情』,大連,1931年,等々を参照。
15)『満鉄第二次十年史』,573ページ参照。
16)この規定の全文は,『満州ニ於ケル鉱山労働者』,245ページ以下に掲載されている。
17)そうした論理は拙著『日本賃労働史論』において展開されている。例えば24ページ参照。
18)以上の点については,『支那鉱業労働論』,77ページ,『東亜経済研究(1)』,349ページ,『満鉄第二次十年史』,570ページ等々を参照。
19)したがってトルガシェフのように,「請負制度はどんな形態でも有害である」と指摘する(前掲書,78ページ)のは,極めて理念的な一面的批判であり,把頭制度の一定の歴史的役割を無視するものである。
20)詳しくは『満鉄第三次十年史』,1718ページ以下の記述を参照。
21)『満州開発四十年史」補巻,85-86ページおよび『満鉄第二次十年史』,1172-73ページ参照。
22)『満州開発四十年史』補巻,87-89ページ参照。
23)同上,94ページ参照。
24)この点については,満州労工協会『満州労働年鑑』,厳松堂,1941年,335-36ページ参照。
25)詳しくは,『満鉄第二十年史』,564ページ以下,および『満鉄第三次十年史』,1721ページ以下参照。
26)『満州ニ於ケル鉱山労働者』,63ページ参照。
27)募集については詳しくは,『満州ニ於ケル鉱山労働者』,57ページ以下,および各「満鉄十年史』を参照。
28)『満鉄第三次十年史」,1722ページ参照。
29)この点については,『満鉄第二次十年史』,568-69ページを参照。
30)同上,568-69ページ参照。
31)同上,568-69ページ参照。
32)同上,569ページ参照。
33)この点について詳しくは,『満鉄第三次十年史』,1718ページ以下の1927年以降の労務政策についての記述を参照。
34)したがって把頭制度では単純に労務管理がすべて把頭に委ねられるとみるのは誤りである。例えば,前田一は「把頭は作業上に於ては労務者の訓練・指導等一切の管理をなす」と指摘している(前掲『特殊労務者の労務管理』,214ページ)のは,完全に誤りである。
35)この点について詳しくは,『満鉄第二次十年史』,570ページ以下の鉱夫「使役制度及待遇」の節を参照。
36)『満鉄十年史』,497ページ。
37)『満州ニ於ケル鉱山労働者』,114ページ。日本の炭鉱の生産性については『日本鉱業発達史』中巻,211ページ参照。
38)詳しくは,『満鉄第三次十年史』,1718ページ以下の労務政策についての記述を参
照。
39)同上。
40)この点については,『満州ニ於ケル鉱山労働者』,第6章,第7章,及び247ページ以下を参照。さらに『満鉄第二次十年史』
41)同上の個所を参照。

Ⅴ 撫順炭鉱開発の歴史的意義

 われわれは,中国における日本資本による植民地炭鉱の開発過程と,その過程における中国人労働力の調達と管理のあり方を検討してきた。そこには種々の問題点が提起されているが,われわれは,最後にその二三重要と思われる論点にふれ,小論を終えることにしたい。
 問題点の第1は,撫順炭鉱の開発は,日本による中国石炭業の支配をもたらし,日本の植民地炭鉱の独占的地位を築き,中国における石炭業の近代化を停滞させ,民族資本による石炭業の発展を著しく抑圧したということである。土法炭鉱の広範な存在も,植民地炭鉱が景気変動の過程で,安定的経営をはかるための調節弁でしかなかったのである1)。逆に植民地炭鉱の開発と近代化は,もしも列強の植民地支配がなかったとすれば,中国の石炭業が一定の条件の下で十分に近代化を遂げたであろうことを示唆するものである2)。その条件とは,まず民族自立的な政府が出来,分散している資本の集中,集積をはかり,在来技術を基礎にしつつ,先進的技術の導入をはかり,中国人技術者と近代的労働力を養成しつつ,石炭業だけでなく,資本主義的再生産機構を可能な限り自立的に創出していくことであった。しかし残念ながら中国では,列強の勢力が強かったことに加え,清朝政府が腐敗していたため,そうした条件を創出してゆくことができなかった。清朝政府を打倒して,そうした条件を創出していく革命政権も成立しなかった。この点は,日本の場合と極めて対照的であったが,発展の遅れた国の近代化にとって,政府の主導性と自立性が極めて重要であることを明示するものである。
 第2の問題点は,日本の石炭業の近代化の過程も単線的でなかったように,撫順炭鉱の近代化の過程もジグザグな過程をたどったということである。その理由は,第1に撫順炭鉱の開発を行なった日本の技術が必ずしも十分ではなかったことである。撫順炭鉱の近代化は,単に日本の蓄積した技術を日本から移入して行なわれただけでなく,先進的技術を欧米からも移入しつつ,それをマスターしながら行なわれたからである。第2の理由は,日本人技術者が,撫順炭田という特殊条件を修熟するために一定の時間を要し,かつ先進的技術をマスターし,それを特殊条件を踏まえて創造的に発展させていくためにも一定の長い時間を要したからである。こうして撫順炭鉱の近代化は,一挙的に低い水準から高い水準に高められたのではなく,自立的な技術の発展を追求しながら漸進的に行なわれたのである。
第39表 中国における列強の産業別投資額
 第3の問題点は,撫順炭鉱が中国において例外的に先進的な近代化をなし遂げた原因がどこにあったかということである。一般に外国資本は,第39表からもわかるように,巨大な固定資本の投下を必要とする近代的炭鉱の開発にはあまり熱心ではなかった。その理由は,炭鉱が租界を離れて地方に立地しており,政治上治安上の不安が大きく,固定資本の比重が高く,資本の回転率が低く,軽工業のように投資の速効性が乏しかったことである3)。したがって,植民地巨大炭鉱の開?炭鉱の場合は,撫順炭鉱より投資額は小さく,近代化の水準も著しく低かった4)。開?炭鉱では,一通り巨額な固定資本が投下されて近代化が行なわれたが,固定資本の節約をはかるために採炭方法の近代化に熱心ではなく,資源略奪的な安易な開発にとどまった。すなわち採炭方法は,一般に崩落採炭法と呼ばれる柱房式で,残柱を残さず採炭し,採炭跡を充填せず自然崩落にまかせるという安上りで危険な方法にとどまっていた。運搬部面も主要坑道は電化されたが,切羽や片盤の機械化は行なわれず,もっぱら人力に頼った。炭鉱の開発は計画性を欠き,大立坑の開削は行なわれず,安価な斜坑と盲立坑が乱雑に開削されるにとどまった。動力の近代化のために,発電所は設置されたが,出力も小さく,25サイクルの発電設備は「技術水準の低さを示すもっとも良い例」5)であった。
 1920年代初頭から開?炭鉱の出炭の伸びが著しく鈍化したのは,こうした近代化の水準の反映であった。こうした外国資本による炭鉱近代化の停滞的傾向にあって,撫順炭鉱の近代化の水準は著しく高く,例外的であった。こうした例外を生んだ原因は,一方には,日本政府及び日本資本の植民地資源への強力な渇望にあったが,他方では,開発主体が,半官半民の満鉄という国策会社によって行なわれたことにあったといえるだろう。満鉄による撫順炭鉱の開発は,イギリス資本による開?炭鉱の開発のように,適当な近代化による安易で資源略奪的な傾向を回避し,莫大な資本を投下して,長期的かつ総合的な炭鉱の近代化を実現したのである。
 最後にわれわれは,撫順炭鉱への中国人労働力の動員と統括の方法についてふれておきたい。撫順炭鉱の開発は,基本的には日本人技術者の指導の下で行なわれた。しかし中国人技術者や中国人労働者の協力があってはじめて実現されたことも間違いない。そしてその過程は,中国人の中下級の技術者を創出し,中国人労働者を近代的に陶冶していったのである。われわれは,撫順炭鉱をはじめ,他の植民地炭鉱で中国人が修得し蓄積した技術が,解放後の中国石炭業の近代化のために,一定の積極的役割を果したであろうことを期待している。また中国人労働力の統括の方法についていえば,撫順炭鉱におけるそれは,労働市場が十分に形成されていない段階で,しかも近代的な巨大炭鉱を経営していくに際して,かなり円滑に展開されたということである。それは把頭制度の利用とその近代化に典型的にみられる。撫順炭鉱の経営当局は,日本の納屋制度の経験を踏まえながら,把頭制度を有効に利用したのである。誤解のないように指摘しておけば,ここで言いたいのは,前近代的な雇用形態や請負制度を礼讃することではなく,経営当局が,中国の労働事情を考慮しつつ,近代的な生産体制に遅れた労働力を把頭制を利用しつつうまく適合させていったことである。撫順炭鉱では,開?炭鉱のように作業請負制度に基づく前期把頭制度に依存することなく,より近代的な後期把頭制度に依存した。開?炭鉱では,略奪的かつ前近代的労務管理の下でしばしば大労働争議が勃発したが6),撫順炭鉱では,比較的安定した労資関係が推移したのである。
 21世紀の直前にある今日,もはやいかなる植民地的企業の開発も認められない。植民地的な技術の移転も,労務管理の巧妙さも,それ自体としてはなんの意義をもつものではない。ここで,それらの問題を論じたのは,植民地的形態を捨象すれば,日本の植民地炭鉱の開発の経験が,今日もなお発展途上の過程にある国々にとって,幾分とも歴史的な参考素材としての意義を持つかも知れないと考えられるからにほかならない。

1)前掲「支那重工業発達史」,272-73ページを参照。
2)列強の支配下で,民族資本と中国人技術者によって近代的大炭鉱として発展した中興炭鉱の存在は,中国人にとって注目されるところであった。同上書,115,148,335の各ページ参照。残念ながら紙幅に余裕がないので,中興炭鉱の近代化については考察することができなかった。
3)木村和三郎「北支那石炭鉱業論」,前掲書,294ページ。
4)詳しくは,同上書,355ページおよび『開?炭鉱の八十年』,12-13ページ,同上書に転載の呉慶成「開?炭鉱の採炭方法の大きな変革」,『煤炭技術』1959年,No 19-20,を参照。
5)呉論文,前掲書,256ページ。
6)詳しくは,木村和三郎論文,前掲書,363ページ以下を参照。
尚,本稿校正の段階で,高綱博文「開?炭鉱における労働者の状態と1922年の労働争議」,『歴史学研究』1981,No 491,が発表されたが,この論文は開?炭鉱の近代化の水準と労働力統括(把頭制度)を詳しく分析した労作であり,ほぼわれわれの立論を実証しており,小論と併せて参照されたい。