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電気灌漑事業と地域社会

Author: 陣内義人
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1981年
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 目 次
1 電気灌漑事業成立の社会的背景・・・・・・・・・・2
2 3つの電気灌漑事業・・・・・・・・・・9
3 地域社会と地場産業・・・・・・・・・・18
4 農村における組織体制の整備・・・・・・・・・・24


1 電気灌漑事業成立の社会的背景

 筑後川下流の佐賀平野および筑後平野は佐賀,福岡の両県にまたがって約3万4千ヘクタール余の水田がクリーク灌漑形態をとっている1)。クリークという言葉は日中戦争後の新来語であり,地元では堀と呼んでいる。水田のなかにはりめぐらされた堀が不規則に走っており,灌漑期には水を満々とたたえている。このクリークの面積のみで3200ヘクタールに達しており,そのクリーク内貯水量も4500万トンに達するといわれている2)。このうち有効水量は2000万トンといわれるが,この水田地帯の稲作用水は主としてこれによってまかなわれている。
 クリーク内の貯水を反覆して稲作栽培に使うわけであるが,用水の利用効率としては抜群に高いが,その反面このクリーク灌漑は大きなハンディをもっていた。それは河川灌概が流水のもつ自然エネルギーを利用して圃場への配水をなすのに対して,クリークから圃場への配水は人為的な揚水エネルギーを必要とすることである。
 明治時代は,水車を人間が踏むことによって揚水していた3)。それが大正期,電動モーターによる機械揚水に切りかえられた。電気灌漑事業といわれるものがそれである。揚水体系の大きな変革をもたらした事業といってよい。
 そして昭和50年代の現在では,大正期の電気灌漑からさらに一歩高度化した体系へと変化した。国営灌漑排水事業によって貯水用ダム,幹線水路の整備が進められており,さらに県営の圃場整備事業によってクリークの統廃合と30アール単位の圃場区劃が整備と整置されるまでになっている。クリーク沿いに設けられたポンプ場で汲み上げた用水が田面下の地下配管によって各圃場に配水され,各圃場では取水口の操作によって用水の出し入れを自由に行うというシステムになっている。
 次節でも述べるが,筑後川下流地帯では3つの電気灌漑事業が行われている。しかし,クリーク揚水の機械化といわれるものはそのなかの2つの事業であり,いま1つは電動機による揚水であるが,主として開田を目的とした疏水事業であった。
 2つのクリーク揚水の機械化の1つは,佐賀平担の中央部で行われた大井手水利組合による事業である。大井手水利組合は佐賀平担の中央を貫流する嘉瀬川の用水を管理した普通水利組合であったが,その管轄内の水田はクリーク灌漑を行っていた。大正11年,12年2ヵ年間にわたって,この組合が主体となって約70万円余の資金を投じて,4225ヘクタール余にわたって電気灌概事業を行い,水車から電動ポンプによる揚水に一斉に切りかえている。いま1つは,筑後川の対岸である福岡県三潴郡で行われた電気灌漑事業である。この三潴郡は北部の町村が河川灌漑地帯であり,南部の町村はクリーク灌漑であるという違いをもっていた。そこでの電気灌漑事業も2つに分けられる。主として郡の北部の町村で行われた開田を主目的としたそれと,郡南部のクリーク揚水の機械化としてのそれである。この地帯では三潴郡南部耕地整理組合を組織して約4498ヘクタールの電気灌漑事業を行っている。
 大正期の電気灌漑事業は日本農業にとって大きな意義をもつ事業でもあった。その1つは揚水を機械化したというだけではなく,日本農業にとって農業機械化の口火を切るきっかけとなった事業でもあった。また第1次大戦後の日本資本主義の構造変化に対応して,日本農業を再編成していくといった動きの一環としての意味をももっている。
 電気灌漑が揚水労働を大きく省力化したことは勿論である。いままで代掻期の用水もすべて人間の足で踏車を動かしていたのが,電動機のスイッチを入れるだけで用水がほとばしるように圃場を走るようになった。その省力化の効果は大きい。しかし電気灌漑事業の意義はそれのみにとどまるわけではない。それは形成されつつある近代産業社会に適応する形態へこの地帯の農業構造を再編していったという意味をももっている。この後者の意義は重大である。
 近代産業社会へ農業を組み込むといっても西欧的なパターンのそれではない。それは日本農業の小農経営を小農経営としそ高度産業社会のなかに組み込むものであって,わが国の独自のパターンを踏み出した一つの典型例ともいえる。戦後の高度産業社会と農業の関連を明らかにしていくという点からみても興味深い課題である。
 従来この地帯の農業構造は地主制のもとにありながらも,一方に2~3人の年雇を使って2~3ヘクタールの経営を行う自作,自小作形態の年雇経営があり,その対極には年雇を供給する零細小作農が堆積するといった農家の構成をとっていた。ところが第1次大戦による非農業分野の雇用拡大はこの地帯の農林労働力までまき込み,年雇および零細小作農の農外流出をもたらし,年雇経営の維持が困難になってきた。電気灌漑事業はこのような事態に対応して打ち出されてきた事業であるが,それはこの地帯の農業経営の労働の構成を組み替え,年雇経営の家族経営への転換をもたらし,家族経営の間での生産力競争を一層促進する結果をもたらしている4)。近代産業社会における小農経済の対応形態の1つを打ち出したものともいえる。田中定氏の提唱した「自小作前進論」は近代産業社会における小農の対応モデルを明らかにしたものともいえる。
 独占企業体の隼中,集積が全国的な規模で進行し,労働市場が2重構造として再編されるこの時期に,寄生地主制のもとでも小作争議が一般化されている状況のなかで,自小作前進という小農再生産の生態モデルが打ち出されたことは,第2次大戦後の高度産業社会と小農の並存という国民経済の構造をみていく上からも興味深い課題である。
 第1次大戦後の好況とその後の不況は日本資本主義の構造的な変化をもたらしたわけであるが,九州の一角にある佐賀の農村社会でもその構造的変化に対応して農業の再編を行わざるをえなかったのは,すでにこの地帯が遠隔地とはいえ,資本主義経済のなかに深く包摂されていたことを意味している。
 従来,海上交通によっていた物資の輸送が鉄道に切替えられていくのは早い。明治も20年代にはいると,鉄道は北九州から西九州へ延びつつあった。24年には鳥栖―福岡間が開通し,佐賀にはじめて汽車が入ってきた。それが28年には武雄まで,30年には早岐へ延び,31年には門司から長崎,佐世保までの全線が開通している。さらにこれを幹線として31年には伊万里,36年には唐津へとのびており,この時期にほぼ佐賀県内を走る現在の鉄道網の原型が出来上がっている。
 筑後川から有明海に出る河口の地帯は,内陸部と海上交通を結ぶ交通上の要衝であった。その経済上の立地条件からして,筑後川下流の佐賀および筑後地方はすでに藩政期から地場産業が集中的に立地し,農業と地場産業を土台に商人資本の活躍もめざましかった。
 地場産業といっても,地域社会の需要にこたえる消費財生産部門が多かったわけであるが,生産手段生産部門もわずかであるが存在していた。いま明治後期の佐賀の在来産業をあげれば清酒,和紙,織物,麦粉,素めん,菓子,醤油,売薬でありそれに有田の陶磁器と石炭業があげられる。
 生産手段の生産分野としてはセメント,鋳物,金属製機械など僅かなものにすぎなかったが,それでも明治の後期には産業革命の波が及んできた。
 原動力として蒸気または石油を使った原動機,さらには電力を利用した工場組織をとり,工場制生産に基づいた製造工場がいくつかは出現した。後に詳述する谷口鉄工場(職工200人,労働人夫120人),佐賀器機製造所(職工35人),厚生舎(職工43人),佐賀セメント株式会社(職工321人,労働人夫265人),眞崎鉄工所(職工45人),それに唐津鉄工場(職工397人),香閑合名会社(職工266人)などがそれである。それに佐賀の場合には石炭業があげられる。
 炭鉱と地域社会の関係は,炭鉱がその納屋制度という特殊な労務管理および企業内工場制をとっていたことからして,地域社会との関連は他産業と比して特異なものがあり,地域社会と炭鉱をいかに取り上げるかはまだ定かでない部分が多い。
しかし,炭鉱での動力,機械利用は早く,佐賀でも炭鉱用の器材,機械生産が行われていた。炭鉱が排水用のために長崎の豪商,英人技師の手によって蒸気機関をもち込み,今迄の人力ポンプ(ふいご仕掛け)に代って,水揚げに利用したのは明治の6,7年といわれているが,これが広く使われるようになったのは明治21年頃とされている。
これによって蒸気ポンプによる揚水,炭車の捲上げなどの機械化が進行し,炭鉱業躍進の基盤となった。
さらに佐賀の芳谷炭鉱では明治32年には坑内に発電所を設け,37年には排水用蒸気機関を電動の機関に代えている。39年の坑内主要機械馬力数は1544馬力になっており,他の炭鉱が100馬力程度であったのに対して桁違いの動力源を有している。さらに圧搾空気力を使用し,採炭能力を上げ,抗員1963人,50万トンの出炭となっている。この炭鉱も44年には三菱の手に移っている5)。
 第1次大戦の好況期には既存の地場企業に加えて,佐賀紡績株式会社(職工1500人)や片倉組鳥栖工場(職工1500人)など,いままでの従業員規模をはるかにこえた大工場が進出しているし,地場企業も株式会社に再編されているが,これらの諸企業が大正後期を通じて閉鎖されたり,あるいは大資本に集中・集積されている。とくに石炭業では財閥大手資本による支配は一段と進展している。
 以上のような地場企業の状況に比して,この期の農業者の減少テンポは大きく,戦後の高度経済成長期のそれに次ぐ大きさをもっている。
第1表 大正9年の本業者の産業別構成(佐賀県)
 佐賀県は50年現在でも農家の構成比が高く,農業県的な性格が強い。総世帯に占める農家比率をみれば約3割であり,全国のそれが15.4%であるのに比すれば約2倍の高さとなっている。いまから約60年さかのぼる大正期にははるかに農業的色彩あるいは家内工業的な自営業主の社会という性格が濃厚であったのは当然であろう。大正元年の農家構成比は62.8%,大正9年で53.5%となっている。大正9年の国勢調査によって,本業者の産業別構成をみたのが第1表であるが,それによると農業者は17万4千人,55%を占め,非農業者は14万1千人である。しかも炭鉱やわずかの工場制工場(10人以上の工場をとったとしても171,従業員は1万人)を除いた他は家内工業的な就業者であり,非農業といっても自営業的な社会基盤からなっていた。
 しかし,それでも農業者や農家構成比の減少低下のテンポという側面に注目するならば,その変化率はかなりな大きさをもっている。農業者は明治43年の27万8千人から大正13年には21万6千人へと,15年間に約22.3%の減少率である。戦後,高度成長期の35年から50年の15ヵ年間の農業就業人口の減少が約29.3%であるのに対比すれば,その大きさがうかがえよう。総世帯に占める農家の構成比もこの間に10%を上廻った低下となっている。戦後昭和35年から50年の15ヵ年間の変化でさえも,41.6%から31.7%へと約10%の低下でしかない。ただ異なるのは高度成長期のそれが農家戸数の減少をともなっているのに対して大正期のそれは農家戸数にはなんらの変化もみられないのとである。それにもかかわらず農家の構成比が低下するのは,新規の世帯として独立するものが多く,世帯総数が約2割近く増加しているからである。世帯としての独立を可能にする経済的基盤がこの期に形成されていったのであろう。
 このような県内住民の就業構成の変化にあわせてこの時期にはまた労賃,米価といった所得分配の構造も大きく変っていった6)。
 主として福岡県,長崎県など九州管区で販売されていた肥前米の販売価格は第1次大戦時の高騰から一転して,大正11年以降は長期的な低迷を続けている。このような米価の低迷は米騒動を契機として行われた朝鮮,台湾からの植民地米の大量の移入という食糧政策の転換によってもたらされたものであるが,肥前米もこの影響をまともに受けている。明治後期から大正期にかけて行われた労働力の移動も,いままで米を基準として支給された労賃形態から,米価の推移とは別個に独立して変動する労働水準を形成するようになっており,不況期にも米価とは異なった動きをたどる傾向をとっている。
 日本資本主義の構造変化に歩調をあわせた佐賀県内での経済転換――すなわち,工業の生産形態,独占企業体の集中および集積,県民の就業構成,所後分配の構造変化――のなかで,農業も硬直したまま推移したわけではない。農業再編成の進行がそれである。とくにこの期の農業再編成のなかで注目されるのは,同じく年雇労働力の大量の流出ではあっても,明治期のそれは地主年雇経営から寄生地主への転換をもたらした。大正期,佐賀平野にみられるそれは年雇経営から地主としての寄生化の道ではなく,労働力流出を契機として農業経営の経営転換が行われていることである。おそらく日本資本主義が農家次元まで浸透し,その結果として,農家の経営を転換させながら,農業の再編成を実現していく,はじめての経験であろう。
 このような経営転換をもたらしたのは,すでに近代産業の発展によって生み出され,本格化されていきつつあった電力化,機械化であった。
 農業において,動力源として石油および蒸気機関が利用されるのは明治の30年代後半から40年代にかけてみられる。電力が農業用動力として利用されるのも大正初期にあらわれている。しかし,地主層の手によって行われる開田化や用水灌漑ではなく,農家次元で恒常的な生産手段として電力が使われるようになったのはこの大正中後期は早い方であるといってよい。
 佐賀の地で水力発電によって電灯がともったのは明治後期である。また石炭業や地元企業でも電力が活用されていくのは30年代後半からであるといわれている。
 九州でも明治後期に筑後川の中・下流河岸地帯で19ヵ所,合計して1094ヘクタールの水田に機械揚水を行っている。そして同じ筑後川下流地帯で大正前期には大型電動機を使った機械揚水が行われている。これらの機械揚水は蒸気機関あるいは大型原動機によって河川から用水路に汲み上げる疏水事業の一種であるが,クリーク地帯の機械揚水は,これとは多少異なっている。それはクリークから圃場へ用水を汲み上げる過程を水車から機械に代置するもので,大型の原動機を必要としたわけではない。そこで実施されたのが1~2馬力の小型電動機に連結した傾斜型ダービンポンプであった。
 この揚水機械化の過程で注目されるのは,この小型電動ポンプを改良開発したのが佐賀の地場機械産業のひとつであった地元企業であったということである。大正期の電気灌漑事業が成立してくる背景のひとつとして,農業と地場産業との間にこのような産業連関があったことは重要である。またこの電気灌漑事業は組織的に行われた大規模な事業としてははじめてのことである。
 戦後に形成されてくる管理化された農村社会―国の補助事業を主体に組織されている県および市町村のスタッフ,農業改良普及制度,農協組織,土地改良区などの農村振興の組織体制に比較すべくもないが,小農を主体とした農村社会における最近の組織的な事業が,どのような形で農村組織の整備の上に行われたかということを技術の蓄積,地元企業の活動,農村諸団体の整備といったことに重点をおいてふれてみたい。

 注
 1)筑後川下流地帯がクリーク灌漑形態をとるのは筑後川の特性にかかわるところが大きい。
 筑後川は有明海に注ぐわけであるが,有明海は干満差の大きい海域であり,5~6メートルの干満差をもつ。大潮時には河口から30キロ近い久留米近傍まで潮流がのぼってくる。潮流がのぼる時にはゆったりとした水の流れであるが引き潮には水面勾配が大きいので急流となり,河床を洗掘し,河床はえぐられ,河口ではマイナス5メートルと低い。筑後川は河川であるとともに,有明海の入り江という2重の性格をもっている。下流部では河床が低いので長い間筑後川の水を直接引水することは出きなかった。中小の支派川から用水を引いて水田灌漑を行うのが一般的であった。
第1図 筑後川下流のクリーク地帯
 有明海のいま一つの特徴は干満差が大きく,浮泥の堆積によって自然の干陸作用が進み,干拓事業とあわせて年々歳々水田が沖へ沖へと拡張を続けてきたことである。支派川からの水のみでこれらの干拓平野の用水をすべてまかなうことは出来ない。乏しい用水を貯え,しかもそれを稲作期間利用しつづける方式としてはクリーク灌漑は最適ということができよう。
 クリークへ貯えられる水も全て中小河川からまかなえるとは限らない。このクリーク灌漑地帯でも「河川水をいかにして貯えるか」ということについては地域ごとに大きく異なっている。用水不足地帯であるので,小地域ごとに用水は貯えられるが,その小地域ごとの水利慣行も厳しいものがある。「水と社会」という課題を立てたとしたら興味ある研究対象地域でもある。中小河川の用水系統別の地図を示したのが,第1図である。これによると六角川,嘉瀬川,城原川および田手川,山ノヰ川,花宗川,沖ノ端川とそれぞれ系統を異にしているし,水利団体の機構,配水および水管理の様式などすべて異なっている。
2)九州農業試験場「クリーク水田地帯における生態系の実態解析」1977年刊による。
3)クリークからの用水の汲み上げについては水車が用いられていたわけであるが,この水車は久留米藩三潴郡中村(現在の大木町)在の井口万右衛門(1743~1810年)の創作によるといわれている。それまで桶に縄をつけた道具を使い,4人が1日かかってようやく4反を湿すに過ぎなかった揚水作業を,2人踏みの水車で1日,1町6反に水を満たすことができるようになり,まさに画期的な労働手段の開発であった。
 これより前,1753年(宝歴3)柳川藩の奉行,四ヶ所通久が水車を水面に使用することを思いつき,領内に普及せしめたというから万左衛門はこれを軽く使い易いように改良したものであろう。
 沢辺恵外雄稿『福岡県立農業試験場百年史』昭和54年3月刊による。
4)山田龍雄,大田遼一郎『佐賀県農業史』昭和42年刊,第8章,第9章による。
5)井手以誠『佐賀県石炭史』による。
6)磯辺俊彦「いわゆる佐賀段階の形成過程」『主要地帯農業生産力形成史』下巻,昭和43年刊による。

2 3つの電気灌漑事業

 大正初期から後期にかけての十数年の間に筑後川下流地帯では全国的にも注目される大規模な農業水利改良=耕地整理がたて続けに行われている。この地域は,筑後川をはさんで藩政期には久留米,柳川藩と鍋島藩が対峙していたし,明治以後も福岡県と佐賀県の両県に分かれ,地域の農業構造も異なっているが,農業水利改良という側面にかんする限り共通した点が多い。
 大正期,この両県にまたがる筑後川下流の1万数千ヘクタールの地域にわたって,3つの事業主体に分かれてそれぞれ独自の揚水機械化事業が行われた。その第1は大正2年に端を発して13年に完了された三潴郡耕地整理共同会のそれである。福岡県三潴郡北部の12ヵ町村で3545ヘクタールの耕地を対象とした疏水事業を行い,あわせて出力1500キロワットの自家発電所を建設している。全国でもはじめての農業用発電所の建設であり,大正期徐々に地域独占を形成しつつあった電力資本に対抗して発電所建設に乗り出した地主層の意気込みのたくましさをみる思いがする。
 この事業が発端となって第2,第3の揚水機械化事業が取り組まれている。第2の事業は大正11,12年の両年にわたって佐賀県大井手普通水利組合の手で,佐賀市外12ヵ村の4224ヘクタールにわたって行われた電気灌漑事業である。この事業はその後も近隣の農村に波及していき,それぞれの地域で小地域ごとの耕地整理組合を組織して同様な事業が行われているので,大正15年には合計して7300ヘクタール余の水田にわたって一大電気灌漑網をつくり上げている。第3の事業は,第1の事業としてあげた福岡県三潴郡北部の耕地整理組合地区に接続した三潴郡南部の大川町外9ヵ村2716ヘクタールのクリーク灌漑地帯で行われた電気灌漑事業であり,事業内容としては佐賀県大井手水利組合のそれと全く同様な事業である。
 同じ揚水の機械化といってもその内容をみると,第1の三潴郡北部のそれと,第2,第3のクリーク地帯とのそれとは若干異なっている。これは単に事業の技術的内容が異なるというのではなく,大正初期と大正後期に行われた2つの事業の間での経済的な性格の相違を示しているようである。いま,三潴郡の南北の2つの事業について,その相違をみると次のような諸点があげられよう。
 (1) 北部はその対象地のなかにクリーク灌漑による地区を若干ふくんでいるが,河川灌漑に似た自然流水灌漑地帯であるが,南部はそのほとんどがクリーク灌漑方式によっている。
 (2) 北部は筑後川の流水を平均100馬力をこえる大型電動ポンプによって揚水し,地区内へ自然灌漑しており,総馬力数1991馬力,ポンプ18台であるのに対して,南部は地区内のクリークから圃場へ揚水を機械化したもので,クリーク河岸に固定したポンプ場を設置し,レンガ積の小配水路によって各圃場に配水するものであり,そのポンプ台数も410台と多きを数えるが,その総馬力数は558馬力にすぎない。
 (3) 北部では,対象面積3.4千ヘクタールのうちこの事業によって約3割近い約1千ヘクタールが開田されており,耕地の区画整理を行ったが,南部のそれは揚水を機械化したのみで,その他の事業は一切行われていない。
 (4) 所要経費は北部が307万円で,南部は70万円,反当り経費に換算すれば北部が約90円,南部25円となっている1)。
 この筑後川下流地帯は第1次大戦後の揚水機械化を発端にして,以後,農業機械化で日本農業の先端を切っていく地域となるわけであるが,1万数千ヘクタールにわたる揚水機械化が電力を原動源として行われていることは注目してよい。いまひとつの農業機械化の先進地である岡山県南部平野が,石油発動機によって機械化の端初を切ったことと対比して,わが国における機械化の2つの流れを示すことにもなる2)。
 この電気灌漑にもその前史があった。蒸気機関を利用した揚水の機械化がそれである。蒸気機関を農業分野に利用したのは明治25年信濃川下流の排水が最初のことといわれているが,筑後川下流地帯の河岸沿いの地区でも蒸気機関による揚水が数多く試みられている。第2表はこの蒸気機関利用の揚水事例を示した一覧表であるが,明治期後半にみられる九州での蒸気機関の利用はその大半が,この筑後川下流地帯に集中している。
第2表 筑後川水系における機械灌漑実施状況(明治30年以降明治末期まで)
 元来,筑後川下流は常習氾濫地帯であった。そのすざましさは,明治初期には「弘化3年より明治3年まで25ヶ年間の洪水度数は190度の多きにのぼり1年平均7.6度」ともいわれていることからも明らかであろう。筑後川はあれほどの大河であるにもかかわらず,下流地帯ではほとんど農業用水として利用されてはいなかった。したがって筑後川に注ぐ地域の中小河川から水を引き水田化していた。明治20年になってはじめて筑後川の改修工事が着工され,それによってはじめて「16年の長日月と267万円の大金とをついやして,水流の快通を計りしより水害頗る減じ沿岸の住民安緒するに至れり」という状況になっている。
 この蒸気機関によって揚水し,水田経営を行う試みも筑後川の治水工事の進行と河川の安定にともなって,いままで荒撫地,畑として放置されてきた河岸地帯が,これによって開田化されていったことを物語るものである。しかしその動力源としてなぜ蒸気機関が使われたかについては必ずしもその事情は明らかではない。第2表にあげられている鳥飼村の長門石についての調査事例では,蒸気機関の製作者は門司の藤田鉄工所であり,その機械の据えつけは勿論,機械の操作,運転も鉄工所が請負って行い,受益者は揚水費として反当り1斗6升,別に配水人給料として反当り5升の負担をなしてきたといわれている3)。そこでは地主層が米価の上昇や地価据置きで開田化の経済事業として行うまでになってはいるが,直接生産者が十分に原動力を使いこなすまでには至っていなかった事情がうかがわれる。
 この明治30年代から40年代にかけて行われた蒸気機関時代に踵を接するように大正期前半にはすでに電動機による機械揚水時代に入っている。その最初の事例が三潴郡耕地整理共同会の事業である。
 この地区は耕地整理事業の発想は,耕地整理法が発布された明治32年にさかのぼるが,基本は筑後川から直接揚水を行い,地域内に一大流水をつくり上げるというものであった。当時,福岡県技師鶴田多門氏にその調査設計を依頼している。はじめは三潴郡一帯の給水を目的としていたが,その水利の地域関係が幾重にも組み合わされているため,三潴,八女,山門,三池の4郡にわたる一大流水計画として構想されている。その構想の概要をみると,矢部川の水力を利用して3ヵ所の発電所を設け,これを送電して筑後川から毎秒200立方尺の揚水を行い,それを4郡の地域にわたって配水するというものであって,現在開始されている福岡県の筑後川下流土地改良事業に類似したものとなっている点は興味深い。ただ注目されるのは,すでにこの構想でも矢部川での発電,電力を原動力とすることが組み込まれていることである。
 大田遼一郎氏によれば,福岡県農業は次のように地域区分されている。
 三潴郡は大川,柳川の両市,八女,山門,三池の3郡とともに,筑後平野のなかに包括されている。大正期の三潴郡は「筑後平野」のなかの中心的な農業地域であり,1市20ヶ村からなり,水田面積7.8千ヘクタール農家戸数8.8千戸,人口4.3万,1戸当り耕地面積は9.2反となっている4)。
 明治30年代初頭にすでに雄大な構想が提示されているわけであるが,4郡にわたる広大な地域にまたがる計画では当然地域内の同意をうることが出来ず,成立の機運は当然のことながら熟していない。しかし,これによって,耕地整理に対する願望が消え去ったわけではない。その後,42年になって,耕地整理法の改正を機として再び燃え上がり,三潴郡内の6ヵ村が先づ設計調査を行い,42年10月には耕地整理の発起の認可をうけており,国および県からの補助金をえて,2万5千円余の調査費を投じて基本設計をつくっている。しかしこの時もついに郡内の一致をみるに至っていない。それはこの地域が筑後川に面しながらも,その水源はすべて筑後の山間から流れてくる小河川をそれぞれの小地域ごとに重複して利用し,その灌漑形態も,自然灌漑,クリーク灌漑,溜池灌漑と分かれて,地域ごとの利害の一致が容易でないことをあらわしている。
 このような度重なる計画の挫折に業をにやしたのが,地区の一村で村内の一部200ヘクタールの耕地整理地区を設立して蒸気機関による揚水を施行している。これが丁度旱魃時に遭遇して,揚水事業の見事さを実証することになったため,一挙に郡内の事業実施への機運を高める効用をもった。郡内の11ヵ村が共同して大正2年に第3回目の設計調査を申請している。福岡では直ちに技手5名,雇16名を現地に駐在させて設計調査に入り,大正3年には導水路,幹線支線の設計を完了した。
 この設計は大型揚水機で筑後川の流水を汲み上げる疏水事業であるが,その事業範囲は三潴郡一円からさらに縮小され,郡内北部の12ヵ町村とし,しかも水源の位置,設備の如何などによって5地区に分割し,それぞれの地区ごとに事業を行うことにしている。設置された揚水機は18ケ,その多くは大型の原動機であり,100馬力から400馬力で総馬力は1991馬力となっている。揚程は15尺から35尺であるが,動力源としては電力が選択され,大型電動機が据えつけられるわけであるが,この地区における電動機の利用が,これ以後行われるクリーク地帯の揚水機械化が固定式の小型電動機によったことにも大きく影響を及ぼしてくることになる。
 揚水機運転の総馬力数は2千馬力に及ぶが,その電力は耕地整理地区や組合が共同会として連合して,九州電燈鉄道会社と十ヵ年間電力受給の契約を締結して,1ヵ年(灌漑期5日15日より9月30日まで毎日18時間運転)1馬力平均10円弱としている。しかしその後電力料金は漸次高まる傾向があり,大正7年には1馬力15円支払っている。このような事情のなかで自家発電が計画され,大正8年には矢部川の水利権使用の許可をえている。大正13年の再契約時には1馬力43円という線が会社から出されてきたのを機会に,大正12年6月には東邦電力株式会社に111万円で工事を請負わせ,大正14年5月に完成している5)。
 この耕地整理共同会が耕地整理組合連合会とはならずに共同会と称するのは,傘下組合のなかに旧法によるものと新法によるものとの2様の組織をもっているからである。
第3表 三潴郡北部耕地整理による開田状況
 この三潴郡本部の揚水機械化は,総額310万円の巨額の資金を投入しているが,それは地主層の主導によるものであり,約1千ヘクタールに及ぶ開田化をその目的として施行されたものであることは第3表からみても明らかである。大正後期に施行されるクリーク地帯の揚水機械化は,佐賀平担でも三潴南部のクリーク地帯でも開田の利益は一切ない。ただ揚水労働の省力化のみがその利益となるにすぎない。
 福岡県三潴郡北部で行われた揚水の機械化がクリーク地帯の農業関係者にとってひとつの大きな刺戟,教材となったことは否めない。
 有明海沿岸に面する佐賀,筑後,熊本平野はいづれも螟虫被害の大きな水田地帯である。なかでも佐賀平野は耕作規模も大きく,用水にもっとも難渋した地帯であっただけに移植期の揚水労働の制約から,早中稲と晩稲の2回に分けて田植を行っていた。ために3化螟虫も多く,収量面でみただけでも被害も大きかった。明治42年から9ヵ年の被害調査をみても晩稲では平均毎年4.7%の収量減,大きい年では13%の収量減となっている。明治後期になって米穀市場での競争が一段と激しくなるにつれて,民間でも螟虫防除対策が切実さを増し,いろいろの施策が試みられてきたが,いつも揚水労働の非能率さがその実施のネックとなっていた。それに加えて第1次大戦による好況と農村労働力の流出,年雇労銀の上昇といった経済環境からして,クリーク農村にとって揚水労働の省力化は全く垂涎の的でもあった。
 三潴北部の大型電動機による揚水労働の省力化を実地に見学し,佐賀平担のクリーク地帯にこれを具体化していくには資金問題,技術問題などまだ多くの問題が残されている。
 のちに電気灌漑事業を担当していく佐賀郡長の早田辰次(大井手水利組合の管理者である)は,その顛末のなかで次のように記している。
 本職サキニ命ヲ本郡ニ奉スルヤ直チニ之(踏車揚水の多労,苦汗,多費を指す)ニ着眼シ機械力ヲ利用シテ労力ノ不足ヲ補ヒ収穫ノ増加ヲ計ルト同時ニ一期作ヲ励行シ品質ノ統一米質ノ改良ヲ促シ尚余力ヲ利用シテ副業ヲ興シ農村ノ繁栄ヲ聊カ国家ノ為貢献セント思ヒ或時ハ老農ノ意見ヲ質シ或ハ斯道専門家ノ門ヲ敲キ潜心之カ研究ニ努メ漸ク自信ヲ得タルヲ以テ去ル大正九年十二月水利組合会議ノ際主務科長ヲシテ腹案ノ大体ヲ発表セシメタルモ,其ノ事業ノ新奇ナルト計画の厖大ナルトハ未タ斯カル経験ナキ者ヲシテ容易ニ共鳴セシムルコト困難ナルヲ以テ農民ノ脳底ニ機械灌漑ノ概念ヲ注入スルノ必要アルヲ感ジ先ツ水利組合議員ヲ福岡県及本県三養基郡ヘ派遣シテ該事業ノ実施ヲ視察セシメ翌年九月県ノ技術員ヲ招聘シテ各村ニ巡回講演会ヲ開催シ機械灌漑ノ必要ヲ説キ之ヲ奨励シ時ニハ係員ヲ派シテ実行ヲ勧誘シヌ宣伝書ヲ配布シテ大ニ其気運ノ促進ニ努ムル所アリキ。超ヘテ大正十年五月巨勢村権現堂ニ於テハ県当局ノ指導ニ依リ耕地整理法ニ依リ吸入瓦斯発動機ニ依ル機械灌漑面積約五十町ヲ完成シ其ノ成績良好ナルヲ以テ農民ノ意向大ニ動キ各村競フテ之ヲ視察シ東川副及北川副ノ両村ハ率先之力実行ヲ決議シ耕地整理法ニ依リ工事ノ設計ニ着手シ続イテ巨勢・兵庫ノ両村ハ日本電機鉄工株式会社ニ依頼シ電気動力ヲ利用シテ之ガ実施ヲ企テ尚他ノ平坦部各村ニ於テモ其ノ実行ヲ企ツルモノ簇出スルニ至レリ。是ヨリ先キ主務科長ヲ大阪・兵庫・滋賀ノ各府県ニ派遣シ該事業ヲ視察セシメ其ノ計画及経済関係ヲ調査セシメヌ一面電気動力ト瓦斯発動機トノ可否利害,得失ヲ研究ノ結果電力ノ最モ経済上便利ナルヲ確メタルモ其ノ当時他ヨリ電力ノ供給ヲ受クルノ困難ナルヲ以テ苦心中管下巨勢村ノ日本電気鉄工株式会社ハ自発的ニ自家発電ノ計画ヲ立テ巨勢・兵庫ノ両村ト契約セントシモ九州電燈鉄道株式会社ノ供給区域内ナルヲ以テ許可ナキヲ確メ之ヲ中止シ尚各村個々ニ計画スルヨリモ共同施設スル方経済上多大ノ便利ナルヲ以テ数回協議ヲ重ネ足踏水車灌漑区域全部ヲ包擁スル大井手普通水利組合ノ事業トシテ一斉ニ施行スル事ニ決定シタリ。時恰モ九州電燈鉄道株式会社ニ於テハ季節事業ニ係ラス喜ンデ電力供給ニ応スル意思アリ。己ニ北川副及東川副,両村ハ同会社ト契約締結セシニ依り本組合ニ於テモ日本電機鉄工株式会社ノ発電許可ノ見込ナキヲ以テ九州電燈鉄道株式会社ヨリ電力ノ供給ヲ受クルの方針ヲ以テ協議ヲ進メ一同会社ト契約ヲ締結シ電動ポンプ及配電線其ノ他ノ建設ハ日本電気(鉄工)株式会社の製品比較的好良ニシテ且修繕ノ便利ナルヲ以テ同会社へ製作ヲ命シ大正十一年五月二日自家用電気工作物認可申請書ヲ提出シ翌六月十二日其ノ認可ニ接シタルヲ以テ直ニ工事ニ着手シ昼夜兼行大ニ努力ノ結果,六月三十日使用認可ヲ受クルニ至レリ。
第2図 大井手電気灌漑網略図(鎌形氏による)
而シテ該事業ハ大正十一年度ヨリ箇年ニ亘ル継続事業トシ大正十二年六月十三日全部竣工ヲ告ケタリ6)。
 大井手水利組合による電気灌漑事業の概要を図示したのが第2図である。これによると,佐賀市を中心とした12ヵ町村,4224ヘクタールに配電線がはられ,465棟のポンプ小屋に1~2馬力の電動ポンプが1台ずつ据えつけられ,ポンプ小屋からは数十間の配水路が圃場間を走っている。1馬力当りの灌漑面積は4.5ヘクタール,総馬力は946馬力である。その総工費は87万円余,反当りにして20円63銭となっている。この事業には国,県からの補助金はなく,政府および勧業銀行からの低利資金の借入れによって資金をまかなっている。
 この大正12年の電気灌漑事業は,佐賀平坦農村にとって劃期的な出来事であった。これを契機に明治期以来の多年の宿願であった水稲移植期の統一がやり遂げられたからである。大正12年2月16日に県告諭が出され,県,郡役所,農会,農事試験場などの農業技術者の協力のもとに,いまだ早中・晩稲と移植期のまちまちだった水稲作が6月20日以降の移植に一斉に切りかえられている。
 螟虫対策として移植期の統一はすでに明治10年,筑後農村の指導者益田素平によって提唱されていた技術であった。それが佐賀平坦で社会に受入れられ,実用化されるまでには約60年の歳月を要している7)。

 注
 1)並木正吉「三潴水田地帯の農業」『福岡県の農業』昭和29年刊による。
 2)福田稔,細川弘美「岡山県南部における農業機械化の展開過程」『主要地帯農業生産力形成史下巻』昭和34年刊による。
 3)九州農政局『筑後川農業水利誌』。
 4)大田遼一郎「福岡県農業の展開とその地域的分化」前掲『生産力形成史』下巻による。
 5)三潴郡北部の電気灌漑については,三潴郡耕地整理共同会から昭和4年にその事業の経過の取りまとめが「会誌」として出版されている。
 6)『佐賀市史』第4巻,昭和55年刊より引用。
 7)三潴郡南部のクリーク地帯では耕地整理組合を組織して電気灌漑事業を行ったわけだが,その事蹟のなかには農村の一大問題として,「小作問題」が起っていると関連させている。
 「本組合の地域は地勢平担にして高低傾斜少く且つ耕地に対する水源の見るべきものなく,わずかに溝渠に貯水し,踏車により給水せる実情なるを以て,一朝旱天連続するときは数段の踏車を要し,然かも渇水を訴うる状態なりしが,電化後は之が憂全く
要くなった。且つ収穫の確実性を大ならしめ,施肥,除草,害虫駆除を従前よりも非常に便利ならしめ,従って収穫増加,品質改良等の実益大ならしめた。旧慣による地方農業者は,時々起る渇水惨害も当然の事として之が改良に留意する所なく,農業経営の経済化に関しては何等考慮することなきを常としたが,民は労働の節約,農業経営の合理化は一に農事電化にある事を覚り,大正十一年大旱魃に遭遇するや,旱害に併せて虫害を伴い,また時世と共に農民の思想にも一大変化を来し,各地に小作問題の起る等面白からざる事態を惹起する傾向見えたるを以て斯くては憂慮すべき農村の一大問題なるを憂い,郡当局をして地方有志を説かしめ地方農村の救済を企図して従前の足踏式水車を廃し,耕地面積に動力線を延長して小口動力揚水機により灌漑することは農村救済の最大の急務なるを知り三潴南部十ヶ村三千余町歩をまとめ,氏自ら組織し大正十二年これが工事に着し……大正十四年五月これを完成せしめた。
 如上の成績は電動機四一六合計五八八馬力にして,電化面積二千七百十八町歩,工事費七十一万四千三百四十七円……一年に於ける労力節約の利益二十四万七千四百円,外に踏車節約費八万千五百六十円,合計三十二万八千七百余円と称される。」
(耕地水利事業功勲録上巻486‐87ページ)(力点引用者)

3 地域社会と地場産業

 明治末から大正期にかけての日本資本主義の構造変化を地域の立場からみるならば,そこには3様の流れがある。
 1つの流れは近代的な産業分野では技術の改新,大規模化の進行にともなって企業の集中,集積が大幅に進んでいることであろう。佐賀県の場合にも,銀行,鉄道,電力,石炭などの分野でそれをみることができる。第2のそれは中央大手資本の工場が地方に進出してくる流れである。佐賀でも地場産業の規模をはるかにこえた1.5千人の職工をもつ大規模工場(紡績)がこの時期に進出している。後にみるように,これらの進出工場の立地要因はもっぱら低労賃,低地価,労働者の勤勉さということであり,そこには労働力の有効利用のみが先行させた大手資本の利殖欲がギラギラしている。これらの独占大手資本を主体とした流れに対していま1つの流れがある。それは地域社会の経済循環のなかに足場をおいて地域で生産する資源を利用した在来型の地場産業あるいは地場機械産業が活発に活動していた事業である。クリーク地帯の揚水機械化に対応して小型電気ポンプを開発し,その製造と工事を引受けたのは九州電気鉄工株式会社であるが,この企業は明治中期,佐賀平坦の特産品であった素めん生産の機械を考案,生産することによって成長してきた地場機械産業である。
 地場産業がたんに地域の農産物,資源を加工するだけにとどまらず,零細な資本とはいえ,地場機械産業を成長させ,地域社会としての経済循環を行っていた事実は重要である。
 ここで地域社会,あるいは地域の経済社会という場合,その生産部門をなしているのはなにも農業に限定されているわけではない。地場産業といわれている分野もそれを構成する重要な生産部門の一つである。北部九州の農村社会のなかでも,ここで取扱っている筑後川下流の農村,とくに福岡県三潴郡の農村は地域の農産物あるいは資源を利用した数多くの在来型地場産業が伝統的に生産活動を行ってきた典型的な農村地帯の一つであった。そこでは農業がむき出しに中央大手資本に対面しているわけではない。農業そしてそれをつつむ地場産業,これらを両軸,あるいは基盤として,経済活動をなす地場機械産業,このように3者が経済循環として織りなす舞台,これが筑後川下流の農村社会であった。
 農作業を機械で代替する場合に,作業機は地域の土壌,気象,作付体系,耕種法と密接に関連しているから,業者は農家と直接連絡を保ち,農家の実験によって改良しつつ一応の定型をつくり上げ,それを普及している。したがって機械化の進行は同時に中小の農機具工場の存在とつながっていく関連をもっていた。戦後わが国に小型機械が最初に導入された岡山県南部平野やこの筑後平野の場合にも,もっとも農機具工場の集中した地域であり,これらの業者が機械の改良・普及に果たした役割は大きい。大正期の揚水機械化をみる場合にも,このような地域社会との関連からそれを眺めていくことも重要なことであろう。
 福岡県三潴郡の地場産業としてあげられるものは,久留米絣,木工業,酒造業,製瓦業,花莚業,和傘製造業,醤油業,それに機械製造があげられる。
 いずれの分野も地域内または周辺の各郡,農村から原料を仕入れて加工するものであるが,筑後川の舟運を利用してその河口近くに位置する三潴郡にもっとも数多く地場産業が集積したのであろう。しかし,地場産業の活動は労働力の調達,その販路という面からして,地域社会の商品経済の進展度に大きく左右される結果ともなる。明治末から大正期にかけては,その販路も地元に限定されず,福岡県内はもとより,佐賀,熊本,長崎といった北部九州,国内だけではなく,花筵業ではインド,東南アジア,アフリカにまで輸出されている。
 地場産業としてもっとも大きい分野を占めるのは久留米絣と木工業である。久留米絣は手織足踏と自動織機による方法が併存しているが,久留米を中心に筑後川下流地帯それも久留米地域で行われていた。明治20年,製造戸数900戸,職工数は1万弱であったが,明治の末には戸数1万5千戸,職工数は4万7千人を超えている。
木工業は筑後川河口の大川町を中心に,周辺農村に拡がりをもった家具建具専門の産業である。域内に900戸の製造業者があり,木工関係業者にすれば2千戸,従業者数にして4千人を超えている1)。
 これらの地場企業,農業へ生産手段の供給部門として郡内に数十の機械工場があった。このような地場の機械産業が農業の機械化にあたって,その作業機を開発した事例としては,ここで取上げている大正期では揚水機械化と眞崎鉄工場,さらに戦後では自動耕耘機の導入と竹下鉄工所の関係はその典型としてあげられる。
 クリークの電気灌漑に対して1~2馬力の小型電動機および配電線の建設を受けもったのは,佐賀郡内に工場をもっていた日本電気鉄工株式会社である。この会社の前身は眞崎鉄工所である。この鉄工場の創立者である眞崎照郷は嘉永4年,父祖代々酒造業を営む素封家に生まれた。時治7年,彼が24才の時にこの地域で盛んに行われた手延素めんの機械化を思いたったのが鉄工場のはじまりであった。その歴史をみてもこの鉄工場は,地域特産物である素めん生産と密着した生産手段製造業として発足している。爾来,研鑽を重ね,日清戦争後には新事業が勃興し,めん類製造機械の販路も開け,分工場を東京に設け,上海に支店をおき,大邱に出張所を設けて各地方に特約店をおくまでに成長している。日露戦争後の41年には製粉機の製造を手がけ,43年には電動機,高圧タービンポンプ,発電機等の電気器機の製造に入っている。大正5年には佐世保,呉の両工廠の指定工場となるまでにその技術は社会的信用をえている。
 第1次大戦後の好況期に,電気諸機械製作を順調に発達させるために法人組織に改め,藤山雷太(大日本製糖社長,東京商工会議所会頭)を社長として,日本電機鉄工株式会社として大正7年,組織替えを行っている。敷地1687坪,工場建物5棟695坪の本工場の他にも,敷地1046坪,工場211坪の分工場をもち,200馬力までの電気機械および電動機直結タービンポンプを製作し,一時は職工数250余名にまでなっている2)。
 この会社が農業の電気灌漑と関連をもつのは照郷の息子,眞崎伍一の時代である。具庁から平坦部の揚水機をつくってほしいという話を持ち込まれた伍一は,大正8年に3馬力位の小型の石油発動機を輸入して,これを舟に積みポンプと共にクリーク内を移動して,必要な場所にこれをつないで揚水するよう工夫し,自ら実験している。しかし,この方法では実用化するには至らなかった。原動機とポンプに何を選ぶかについて,技術的,経済負担の両面から諸々検討された結果,電動機直結のヒュウフルポンプが最適という結論に達し,機械および施設を一切自社で引受けている。
 このように大正期の電気灌漑事業は,外国製器機を直輸入した明治期のそれとは異なり,地元企業の創意工夫とその技術的力倆に負う部面が多い。佐賀のような遠隔地帯でも,地元の経済循環と結びあった地場機械産業は,数は少ないが,眞崎鉄工場に限られているわけではない。詳しく述べる余裕はないが,明治16年に創立された谷口鉄工場,唐津鉄工場,厚生舎など,いづれも地元との産業連関のなかで成長,発展してきた機械産業である。財閥,中央大手資本とは異なるが,地場産業の資力と技術の受皿があったからこそ,それが農業の機械化と結びついていくことにもなりえた。
 明治期末の恐慌を乗切り,大正期に盛んに経済活動を行った地元の中小企業も,大正期末の長期的な経済不況期に,整理統合される局面に立たされるものも多い。眞崎鉄工場(のちの九州電気鉄工株式会社)も,大正13年になると経営不振に陥っている。地域社会の産業連関が外部大手資本の集中,集積のなかで縮小を余儀なくされ,農業が丸出しの形で外部社会と対面する傾向が漸次強まっている。
 大手資本による集中,集積を電気灌漑事業と関連をもつ電力産業の場合についてみてみよう。
 筑後川下流のクリーク地帯の動力源の供給には大正期,九州電燈鉄道会社がこれを引受ける体制ができている。この九州電燈鉄道会社はすでに明治期,福岡,佐賀で設置されたいくつかの零細な電燈会社を合併しながら,福岡西部,佐賀,長崎の電灯,電力を一手に供給する事業体として成長してきた電力会社であるが,大正期には,明治44年に設立されて大分県から北九州の炭鉱地帯に電力を供給している九水と対応しながらその基盤を拡大し,大正11年にはさらに東邦電力と改名している。
 北部九州で電力事業がはじまり,アンドンからランプ時代をへて電灯時代に入るのは明治20年から40年の間であった。明治21年にはじめて熊本に電灯会社が設立され,24年には発電を行い,電力の供給をはじめている。日清戦争後,電灯時代がやってくるわけであるが,九州でも27年には長崎市,福岡市で電燈会社が出来営業している。30年当時の福岡の入口は7万人であった。日露戦争後,近代産業の創立とともに電力時代に入ったといわれているが,佐賀に電燈が入るのはそれよりもおくれ,41年になってからのことである。近隣諸県からしても十数年のおくれをとっている。
 佐賀で電力事業に着手されたのは日露戦争後である。明治39年になって地元の有力資産家が中心になって発電事業を構想し,株式の募集を行ったが,県内ではそれが十分調達できずに,松永安左エ門,福沢桃助などの中央財界人の支援をえて,11月に広滝水力電気会社を設立している。直ちに発電の建設にとりかかり,41年には完成して送電を開始した。はじめは佐賀,博多,久留米の市に供給する目的であったが,すでに博多電灯,久留米電灯があって供給地域が重なるため,その地域は佐賀県内に制限された。
 明治41年の広滝発電所(1400馬力)の建設事業については,佐賀市史に記述されているが,その器材,施設はドイツ製のそれを使用している。
 この発電所の規模は,水路の延長270m,トンネル240m,落差175mであり,その建設は地元の建設業者松尾組と外二業者で組織した。佐賀土木組合が請負っている工事請負の主管者は松尾組であった。建設用器材の主なものは主としてドイツ製であり,ドイツフォイト会社の800馬力水車,ドイツ・レーメンス・シュウケルト会社の1100ボルト発電機2基を使っている。これらの発電機は41年3月,神崎駅に到着した。それらの器材は余り大きく一度には運搬できなかったために,25ヶに分解,梱包して運んでいる。41年8月には2人のドイツ人技師が来日し,発電機の据えつけを行い,9月には試運転している。
 発電所建設に必要な資材は,セメント,石灰,大型導入管,並型導水管などであるが,大型導入管は地元企業である谷口鉄工場がつくり,並型導火管は筑後川対岸の大川市にある深川造船所でつくった。セメントは4万2千樽,火山灰7千俵,石灰6千俵,英国レンガ157万個を使っているが,レンガは北九州戸畑港に陸揚げされ,神崎駅まで汽車で運び,駅から現場までは馬車100台余の長い行列をつくって運んでいる。
 試運転成功後,佐賀市に本社を置き,久留米など数ヵ所に変圧配電所を設けて,41年1月1日から送電を開始した3)。
 広滝水力発電はその後,42年に武雄電灯,43年には唐津電灯を合併して,佐賀県内全域に電力供給をひろげるようになるが,増加する電力需要に応ずるため,発電所の増設が必要となってきた。そのため炭鉱の動力源として自家用発電されていた川上川(佐賀平坦の主要河川)の古湯発電所を買収し,さらに事業拡張のため,松永安左エ門の発想によって次々と川上川に発電所を建設していった。その後,火力発電のみにたよっていた福岡の博多電灯軌道と合併して,45年には九州電灯軌道株式会社となり,佐賀,福岡西部,長崎の北西部九州一円の電力供給を支配する企業体に成長していった。大正3年,第1次大戦の勃発によって電気,化学工業が飛躍し,電力需要は激増してくる。三潴北部で大規模な電気灌漑が施行されるのもちょうどその時期である。
 大正11年,九州電灯鉄道会社は東邦電力と改名している。三潴北部の共同会は自家発電に向うが,佐賀の大井手水利組合および三潴南部の耕地整理組合が電力の供給をうけるのは東邦電力からであった。この当時,九州の電力事業ではすでに東邦,九水,熊本電気,九州電気軌道,日本水力電気の5社に統合されており,そのうち,東邦と九水が覇をあらそう両雄となっている。それらの五社が宮崎の河川を利用した電源開発に向うのも大正後期になってからである。
 電力の供給者はいわゆる近代産業として急速に独占企業体に成長している。
 いま1つの経済の流れを代表するのは中央資本の工場進出である。この工場進出を代表するものは片倉組鳥栖工場および鈴木商店の系列にあった佐賀紡績会社の工場建設である。いずれも最盛時には工員数1500人といった,従来の佐賀県内の工場規模を幾倍も上廻る大工場の進出であった。第1次大戦の勃発によって,日本の紡績業は輸出産業として脚光をあび,この好況に刺戟されて各地に紡績会社が設立されている。そのひとつの事例が,佐賀紡績会社であろう。この工場は大正6年に地鎮祭を行い,工場建設にとりかかり,翌7年には開業式を行っている。大正9年には紡績機3万2千台,撚糸機6.4千台,織布機4百台で男子300人,女子1200人の職工数を誇った。
 佐賀がこのような進出企業にとって,どのような利点をもつかについて,当時の「佐賀新聞」では次のように報じている4)。
 絶好なる起業地,佐賀が紡績起業地として九州唯一たるは夙に紡績界に於ける定評の有するところ。元来,該業を起すに当ってその選択標準とするは,広大にして低廉な土地,職工募集の容易にして其労銀低廉,運輸交通の便利,動力供給に容易,等の諸点なるが,以上の諸条件を申分なく具備するもの九州中佐賀を措いて求むるに能はず,説明するまでもなく,佐賀の土地は比較的低廉にて,面積の如きは望むが儘なり,而して人は多く労銀随って安し,加ふるに佐賀より各地紡績に出稼する工女の成績を見るに,指先の技工こそ稍々劣れ,忠実にして勤勉なる点に於て斯界に歓迎されつつあり,又た交通には鉄道あり,動力には石炭あり電気ありて,紡績起業家の着目す亦所以なしとせず。
 そこでは立地条件の良さとして低労賃,低地価と労働者の勤勉があげられている。すでに大正期の工場進出にとって,地域は,労働力資源の有効利用という側面からのみ,とらえられるようになっていたことが,この報道でも明らかであろう。そこには地域社会の産業連関あるいは経済循環という視点はひとかけらもない。いわゆる財閥,中央大手資本による企業の集中,集積は,同時に日本経済の地域再編への第一歩でもあったといえよう。

 注
 1)福岡県三潴郡小学校教育振興会『新考三潴郡誌』昭和28年刊による。
 2)『佐賀県経済百年史』昭和35年刊による。
 3)『佐賀市史』第3巻,昭和55年刊による。
 4)『佐賀市史』第4巻による。

4 農村における組織体制の整備

 第1次大戦後の資本主義の構造的変革にあたって,電気灌漑事業という技術革新はこの水田地帯の小農経営を再編するという意義をもっていた。そこで展開される「自小作前進」という小農の動態化は,当時農村を風靡した小作争議とならんで,地主制から自作農制への転換といった土地制度上の改革に結びついていくものであった。それだけに電気灌漑という技術革新を受容していく農村の社会的基盤については従来から多くの関心を呼び,技術革新主体の階層的性格という問題に関してはすでにいくつかの研究が発表されている。この「技術革新の階層性」にかんする研究は重要である。しかしいま1つの問題がある。それは在来的な技術を継承してきた伝統的な農村社会のなかで,このような技術革新を受容するだけの農村の組織体制がいかにして形成・集積されてきたかということである。
 この電気灌漑事業は数千ヘクタール,数千戸の農家を包み込んだ組織的な事業として行われているが,明治期の耕地整理事業とは違って,大地主を中心とした地主制に基づいて組織されていった事業ではない。この事業が農村社会における地主制の再編ではなく,近代産業社会に適応した小農を再編成していくという意味をもった事業であるといわれるゆえんもここにある。それはちょうど,現在の高度産業社会における小農の再編という課題に共通した,その原型をなしたものともいえよう。そしてこの事業を組織していったのは旧来の地主制ではなく,新しくつくり上げられた農村の諸組織であった。この新しい農村の諸組織がいかに形成されていったかという問題は前述の「技術革新主体の階層性」という事柄と無関係ではない。両者は相互に関連した課題であるが,ここではこの後者の方に重点をおいてみていくことにしたい。
 筑後川下流地帯では3つの揚水機械化事業がそれぞれ独自の組織を編成して行われている。この3つの事業の間では技術的には電力を原動力としている点で共通し,連絡した一面をもっているが,それら事業の主体が,社会階層として占めていた階層的性格という側面からみると必ずしも同一ではない。対照的な2つの類型がそこにみられる。
 1つの類型は三潴郡北部耕地整理共同会の事業であり,いま1つは佐賀県の大井手水利組合のそれである。前者は明治後期から構想され,大正初期に着工された事業であるが,そのねらいは畑,山林原野の大規模な開田化によって米作収益の上昇と土地価格の引上げにあり,この地域の地主層を基盤とした事業であったといわれている。これに対して後者の佐賀平坦の電気灌漑事業では,開田化によって事業利益をうるという効果はない。すでにクリーク地帯では藩政期に開田し尽されていたからである。電気灌漑の効果は直接的には農家の日常的な農作業であった揚水労働を機械化し,省力化していくものにすぎなかった。そして事業推進の主体となったのも地域の地主層ではなくて自作農的な年雇経営をはじめとした直接生産者層であったといわれている1)。しかもその事業経費は三潴郡北部の揚水機械化では総額307万円,反当負担額70円余にたいして,佐賀平坦の電気灌漑では設備費66万6511円(反当15円78銭),水路工事費21万304円(反当4円97銭),合計87万6415円(反当20円75銭)の工事費となって格段と小さい経費で済んでいるが,その事業経費は小作農をふくめた耕作者が負担している。一見,連続して行われている電気灌漑事業ではあるが,その技術革新の主体がもった社会階層的な基盤からみるならば,その間に大きな断層があるともいわねばならない。前者が明治期の農村社会を継承するものなれば,後者は大正期のそれを代表している。
 大正期には小作料減免をめぐる小作争議が激発してくるし,この時期の耕地整理事業が小作料減免,小作争議に対する地主層の慰撫策として行われていることは,すでに指摘されているところでもある。さきに引用した三潴郡南部耕地整理組合の文書にも,この電気灌漑小作層が動揺している社会的状況と関連のあることを銘記している。また佐賀郡北川副村では耕地整理組合を編成して電気灌漑事業を行っているが,その耕地整理組合の附帯事業として小作人組合を設立して,小作人組合の目的として次の2点をあげている。
 (1) 本村耕地整理組合ノ事業ヲ賛成シ之カ達成ニハ応分ノ義務ヲ負担スルコト
 (2) 小作人ノ親密ヲ計リ小作道徳ノ向上発展ヲ期シ兼テ地主トノ関係ヲ親密円満ナラシムルコト
 この小作人組合は同村の小作農や自小作農をほとんど全て組織しているが,この
小作人組合長が11年の5月には耕地整理組合長,9月には同村村長になっているが2)、自小作農層が技術革新や村政までもリードするに至っていることを物語るものであろう。
 このように技術革新を推進した社会的な基盤という側面でいま1つ注目すべきことは,岡山県南部平野での揚水機械化と筑後川下流地帯のそれとの相違である。岡山県南部平野でも筑後川下流地帯とほぼ同じ時期,大正8,9年から大正後期にかけて揚水の機械化が進んでいる。しかし異なるのは岡山県南部平野のそれが移動式の石油発動機であり,個々の農家が個別に機械を導入し,利用するという方式をとっていることである。統計によれば,大正14年にすでに3948台(個人有2410台61.0%)と約4千台に近い石油発動機が個々の農家で利用されている。これに対して筑後川のクリーク地帯のそれは固定式の電動ポンプ場を設け,配水路をめぐらして集団的に揚水ポンプを利用する方式をとっているが,同じ揚水機械化でも一方が個別的な利用であり,他方が集団的利用といった2つの対照的な利用形態がとられていることは興味深い。これはそれぞれの地域の農村構造の違いと関連したことであろうが,この点はいまだ十分明らかにされてはいない。
 明治期の前半では地方行政制度は幾度となく改編を繰返しており,それが定着してくるようになるのは明治23年の町村制の施行および30年に郡制が施行されるようになってからのことである。それだけにこの時期の勧農体制はいまだまとまった組織体制とはなってはいなかった。むしろ林遠里の勧農社や各地で催された農談会といった,それぞれの地域の自作地主層を主導した個々の農業指導者につくられた個別的な組織が農事改良の活動主体となっていた。
 ところが明治も30年以後になると,わが国の国家体制や諸機関も整備されてくるし,勧農上の組織体制も政府の指導によって急速にととのえられてきている。水利組合法,耕地整理法,農会法などの法的体制が整備され,中央機関が設立されるというにとどまらず,佐賀や筑後といった違隔地地帯においても,そういう中央機関の整備と歩調をあわせて地方組織も短時日のうちにととのえられている。そのような農村の組織体制による活動の積み上げが,大正期の電気灌漑事業の実施にとっても大きな背景となっている点は重要である。
 電気灌漑事業を直接に遂行した団体は福岡県三潴郡では耕地整理組合(耕地整理組合法による)であり,佐賀県では普通水利組合(水利組合法による)である。これらの土地所有者を組合員とする農業団体が大正期には数千戸の農家をふくむ大規模な事業の実施主体となるまでに整備されてきていたという事実は重要である。前にも指摘したようにこれらの事業経費は国家財政からの補助金の交付はなく,全く組合の自前の経済事情として行われているが,土地改良投資を経済的事情として成立させるだけの経済的環境,とくに米価の動きが明治末から大正期にかけて形成されてきたことも大きな要因であることは否めない。しかし,それぞれの地域でこれらの大規模な土地改良,そして技術革新に方向性を与え,その段どりを準備してきたのは,なにもこれら組合だけの力倆によるものではない。明治後期から各地で整えられてくるその他農村の諸機関,諸団体の組織的活動の積上げが大正期になって,これら事業を軌道にのせ,盛上げてきたともいうことができよう。そのような農村社会の組織体制として注目されるのは,第1には地方官庁の勧農体制であり,第2には府県立の農事試験場による地域実態の調査・研究とその普及体制の整備である。さらに第3のそれとしては各府県ごとに設立された系統農会組織の活動があげられる。農会組織は郡や県の段階での組織はすでに明治期末にはととのえられていた。しかしそれが町村や部落といった生産現場にまで及んでくるのは大正期に入ってからのことである。
 地方官庁の勧農体制 明治期において農商務省の訓令に基づいて各県庁でも慣行的な農法に対して改良技術の普及浸透が,勧農施策として数多く実施してきたことについては,すでに多くの文献でもふれられている。佐賀,筑後,熊本といった有明海沿岸諸平野でとくに注目されることは,勧農施策の実施にあって地域特有の問題をかかえ込んでいたことである。それはこの地域の諸平野では螟虫被害が大きく,改良的な農法の実施にあたっては,この螟虫を駆除することがなによりも先決であった。とくにその被害は一戸当り耕作面積が大きく水稲の田植を早中稲と晩稲の2回に分けていた佐賀平野の場合がもっとも甚しいものとなった。毎年少なくとも1割以上の損耗をうけたし,6,7年おきには非常な大害をうけるという状態を繰返していた。このため作付けられる品種も百数十種から二百種に及んだといわれ,螟虫被害を少なくするため,苗代の厚播きによって苗を軟弱にしていた。これは軟弱な細苗には螟虫がつきにくいといった経験からである。雑多な品種構成,害虫の被害は当然品質の不統一,低下となるし,販売市場での声価をおとすことにもなる。しかし,優良品種の選択や統一,健苗の育成,改良栽培法などを普及しようとしても,螟虫の駆除が先立たねば,実用化も不可能であるといった悪循環をたどっていた。県の勧農対策も当然ここにおかれることになる。
 螟虫の駆除については,福岡県三潴郡の水田村の村長をつとめた益田素平によって,その発生経過やその駆除法はすでに明治10年に明らかにされている。その駆除法をかれの著書「稲蟲実験録」によってみると,(1)螟虫卵の採集,(2)幼虫の捕殺,(3)稲株切断,(4)ワラ中の螟虫除去,(5)点火誘殺,(6)稲作挿〓期の統一という6ヶ条からなっている3)。この明治10年に開発された螟虫駆除対策が佐賀平坦で完全に実施されるのは,なんと電気灌漑事業が行われた後の大正13年である。開発された技術が実用化されるまでに,おどろくなかれ,約60年近い歳月を要している。それは何故か。益田素平があげた第6項目の稲作挿〓期の統一が電気灌概事業による揚水の機械化まで実施されえなかったためである。
 明治期の螟虫駆除といった勧農施策も,その実施事項を県令によって定め,国家権力によってそれを徹底し,違反者には拘留または罰金を課すといった権力的な性格のものであった。このような権力による強制に対して明治13年には「稲株騒動」といわれる農民暴動が起こされていることは周知の事実である。
 佐賀県の螟虫駆除対策でも各郡,町村に害虫駆除委員をおいて農家の駆除を督促するとともに,県の技師,技手という職員とともに警部,巡査といった警察部関係者までも委員に任命し,県令の実施を監督するといった体制をとっている。警察権力の動員ということもさることながら,県の行政組織としても勧農関連の恒常的な組織体制が十分ではなく,臨時的に警察関係者も動員せざるをえなかった実情を物語っている。しかしそのような行政組織ではその効果も「その場限り」のものにすぎなかったのは当然であろう。
 権力丸出しの施策から,経済的刺戟による勧農体制へと漸次推移してくるのは明治41年以降になってからのことである。まず,41年の改正によって警察関係者を駆除委員からはずし,新たに専任の予防督督官をおき,県内の各委員の指導督励をさせるとともに,町村や部落に害虫駆除励行組合をつくらせ,その成績佳良なものには奨励金に交付するといった組織体制に切りかえている。ついで44年には管内を農区に分かち,農区ごとに農業技手を常駐させて,区域内の一般農事にかんする指導奨励をはかるようになった。さらに大正4年,6年には農区を細区分して技術員の増加・充実をはかり,各農区ごとに郡農業技手としての技術員を常駐させている。郡技術員の常駐しない町村には,村農業技術員をおくように奨励し,その経費は郡役所の費用によって補助している。このように県の勧農体制も,郡,町村単位にきめ細かく整えられ,農家と直接接触する技術員を恒常的に配置するという体制にととのえられてきている。ちなみに大正4年の佐賀郡役所の組織機構図4)を略示すれば,次のようになっており,いかに勧農施策に重点をおいていたかは明らかであろう。
 大正3年の郡役所経費は1万7650円,うち勧業費が1万1457円で64.9%を占めている。この郡内に23ヵ村あるが,その歳出合計額は30万6千円余,その内訳は教育費33.2%,土木費が17.3%で勧業費はわずか0.3%の割合となっている。地域の恒常的な勧農体制の中心は郡役所にあったといえる。当時の郡長は管内の水利組合の管理者であり,水利組合の書記は郡技手がこれにあたっていた。この郡役所の勧農組織が明治末から大正期にかけて,国,県から補助をえて急速に整備されており,あわせて勧農施策自体も「権力による強制」から,直接生産者の「経済的利益を刺戟する」ことへと変ってきていることは注目してよい。電気灌漑事業もこのように整備された勧農施策と組織体制のうえで行われたものである。さきに電気灌漑事業を発議した大井手水利組合の管理者早田辰次が佐賀郡長であったことは前記しておいた5)。
 このような県,郡役所による勧農組織の充実とその上で行われた電気灌漑事業と明治期の山形県庄内などの大規模な地主主導型の職員となっているが,稲作改良上の最大の問題が螟虫駆除であったことから,優良品種の選抜,螟虫にたいする抵抗品種の選抜が重要な課題であった。設立の翌年には菌虫室を設置して,2,3化螟虫にたいする調査研究をはじめているが,35年から経続して行われる点火誘殺蛾数調査は3化螟虫の第1回発蛾期が6月20日前後に終ることを実証的に確認しており,電気灌漑事業の実施と晩稲1期作への統一にとって大きな足がかりをなすものであった。
 明治40年代,地方官庁における農区技手の増員に対して,その教育の役割を受けもったのは農事試験場と農学校であった。農事試験場では43年以来,甲種農学校卒業生で実地研修を希望するものを見習生として入場せしめ,1年間の実地研修ののち,郡町村の技術員として配置するという技術員養成事業を行っている。当時,佐賀県内の甲種農学校は28年設立,31年甲種農学校となった1学校のみであったが,43年から大正7年までの耕地整理と比較してみるのも興味深い。
 農事試験場の調査研究と技術普及体制6) 国立の農事試験場ができるのが明治26年,その翌年にはすぐ府県農事試験場規定が出されているが,佐賀試験場ができるのは明治33年ですこしおくれている。しかし,国立の試験場ができてから7年目であるから,全国的に試験場体制が整備されていく経過としては,きわめて早いと言わざるをえない。福岡県では明治12年に勧業試験場および農学校ができ,職員4名,雇1名の計5名で発足している。20年には横井時敬が場長に就任している。当時の職員数は8名,雇3名,計11名の体制であった。それが28年には農事試験場に改称している。勿論,佐賀県でも勧業試験場が出来たのは早く,27年であり,その場長には駒場農学校卒業の楠原正三をすえている。
 佐賀の農事試験場は発足時,場長以下5名の9年間に38名の技術員を送り出している。大正8年以降は国庫からの補助をうけて,1ヵ年間の農業練習生養成を制度化し,終了後県内の農業技術者として勤務することを義務づけている。
 佐賀県に西欧的な農学素養をうけた農学者が県内で活躍するのは明治23年,県庁に農事巡回教師が設置され,駒場農学校卒業生の楠原正三が着任したのがはじめてであり,27年には同じく中村直が着任している。中村は28年に簡易農学校の設立と同時にその校長となり,はじめて,専門的な農業技術者の教育をはじめている。爾来,15ヵ年間をへて明治末期になって,県内で農業技術者が生産指導の第1線で働き出してくるわけである。大正期,佐賀平坦で電気灌漑事業の実施に活躍してくるのもこれらの現地教育をうけた農業技術者群であった。
 県農会の活動 明治20年代の後半になって創立されてくる府県の農会組織は一面では,農業者の団体という性格をもつものであるが,同時に地主的にヒェラルヒーを行政的機構の外郭にあみこんでいくというものでもあった。農会は建議,請願などの農政活動を行うとともに,農家に改良された技術の普及とくに指導督励をはかる役割を担わされていたが,農業技術が単に中央の画一的な技術ではなく,地方の実態にそう技術として確立されてくるならば,それは地域農業の技術進歩にとって,それなりの意義をもちうるものであった。
 佐賀県で農会は明治32年の農会法公布に先立って29年に設立されている。27年2月に県訓令を発して農会設置を促しつつあったが,28年3月には農会設置準則を発して,従来の農談会や集談会の活動に加えて病害虫駆除,肥料共同購入,副業,農事統計を併せ行うべきことを示して,その設置を勧告している。この準則に基づいて各郡の設置準備がすすみ,規約をつくり,県庁の認可をうけて郡農会をつくり,各郡が夫々若干名を選出して会員27名をもって29年県農会を設立している。
 32年,農会法の公布によって,中央機関として全国農事会がつくられ,県郡農会をその組織下におくことにより,全国的な農会の組織網がつくられた。農会の活動は農家に対して耕地の地価割に会費を徴集しているが,政府からうける補助金を上級の農会から下級の農会に流し,または下級農会から上級農会に対して費用を分担支出する体制となっており,各県でも県費から補助金を出していた関係上,各農会長には知事,郡長,町村長の兼任といった形が多くとられていた。農業者の団体とはいえ,官制的に組織された団体である。
 しかし,地方官庁の勧農組織の整備がととのい,農事試験場での地域実態についての調査がすすみ出してくる明治40年代になると,地方官僚にかわって民間の農村指導者が農会長の職についてくるようになる。佐賀県でも明治43年には,県農会長には西川副村の村長をやり,佐賀郡の農会長も経験した今泉良子がその職責についている。
 この今泉良子は県農会長として,すでに大正元年12月,螟虫被害の根絶の対策として「水稲の挿〓期を統一していく」ことを呼びかけ次のような意見を述べている。
 螟虫僕滅策に伴う麦作契励
 大正元年12月1日
 佐賀県農会長 今泉良子
 本県平坦部佐賀郡を中心最高点とし東は神崎三養基西は小城より杵島郡の東方一部5郡に亘り往古より3化性螟虫被害稲穂枯れ厳しく,毎年少くとも1割以上の損耗をなし居る外,6,7年目毎に非常の大害を蒙り大不作をなし大中小農共に相苦み,此場合に多くの小農倒産するものありて農を止め,商業に変じ,先代より住み慣れたる故郷を離れ炭山その他に一家を挙げて移転するものあるは一般に知らるる如く実に憤慨の至り,依て余が先年村長たりしとき此の大害を除かんが為め早稲田全廃晩稲一種作に更改するの思想を起し我が一村に試みんとせしも及ばず,其後此の目的を遂げんとの思念はありしも,之を発企するの時期を得ず知らず知らず10有余年経過しました。而かも年々農業者の知識も進歩し,公徳も次第に重んぜらるる様なるものなれば自然にも中稲廃止の傾向を来すものと相待相楽み居りたるが,事実幾分は進みたるも前途甚だ遼遠なる様に存ぜられます。此有様にして過ぎ行く間本年の如き螟虫繁殖の好気候に遭遇したる時は現に官農一致駆除に充分相努められたるも尚ほ斯の如き穂枯れの惨状を来したるをみれば,少々の弊害はあるとしても少々難事としても根底より撲滅の方法を講ずるの必要を認むる次第である。其方法としては現在相行ひある稲株切断及び螟卵採取其他稲株掘取焼却稲藁処分等種々あるも之れ多数の農業者の個人的事業なれば,何分にも根底より撲滅する様周到に励行するを得ず,或る程度までは出来得るとするも左記参考の通り此の2種作は3化性螟虫の蕃殖を相助くる不良の方法なれば之を改めざる限りは此平坦部農業者の辛労困苦は未世相免れず去り迚て一時果断に更改することに奨励するも亦た相行はれ難き様思はる。実に残念の極みなりとす依て爰に関係農業者に同意同情を得て再び此の中田廃止を徐々に相試み相遂げんと欲す。幸に本年は農業者各自にも麦作増加の意嚮あらるる由なるを以て今一層の大奮発を以て佐賀神崎小城郡の平坦部にも晩稲跡地には成る可く多く麦其他の夏毛を仕付け,其収利を得ることにし又た多くの晩稲を植えることに改しましたら万一にも晩稲が中稲より幾分の不作をなすも夫れにて相補ふことを得て格別の大損もなき結果とならん。而かして毎年此の法をして幾分づつ相増し相進むことにしましたら只今座上より思ふ様には難事でなき様にも考えられます。私が記憶する明治20年頃は佐賀郡南部当りは中田6歩晩田4歩位でありましたが,今は殆んど5分5分に近き割合の様に見受けられます。それで此の5分をして今より年に1歩づつ(但し1町歩作りは中田5反以内晩田1反づつ)多く晩稲を作ることにせば5年間には全部一種作5厘づつとしても10年間には其目的を貫徹するものなれば,思い立ちたるときが吉日とし多少の労苦は相忍んで公共のため御着手あらん事を希望す積善の家に余慶あるとは聖賢の語却て明年には晩稲満開するかも相知れず,是非御奮発を願ふ此の願望は不肖私一人の所見にあらず技術者を始め一般有識有志の人々が常々懇望せらるる事柄なれば詳細の利害は技術者と吟味せられたく又た一村或は一部落集会を催さるるなら可成県農会より出張せしむ。尚私にも日間あらば螟虫に関する説明を新聞紙にてなり委しく報導致すことに勉めます。
 このような現地の技術者,農会の活動力が,約10年後に電気灌漑事業の実施,大正13年の水稲一期作の実施として結実している。

 注
 1)山田龍雄『九州農業史研究』昭和53年刊による。
 2)磯近俊彦,前掲書。
 3)鎌形勲『佐賀農業の展開過程――佐賀県農政史――』昭和25年刊。
 4)佐賀郡教育会『佐賀郡誌』大正4年刊による,なお,明治22年市町村制の施行によって村長制が採用され,議会も設けられ,吏員もおかれたが,町村による業務組織がどうなっていたかは明らかではないが,同じ佐賀県内の多久村の事例でみれば,大正10年で,村長,助役,土木委員2名,学務委員4名,区長11名,区長代理11名は名誉職とし,収入役,書記3名,昭丁2名計5名の職員をおいている(『多久の歴史』昭和39年刊)。
 5)佐賀郡内での水利組合は,明治23年の水利組合条例,24年の県訓令で普通水利組合準則を定め,25年にはすでに川副樋管水利組合と大井手水利組合に成立した。次いで27年に横落水道普通水利組合,本庄村外二ヶ村組合が設置され,郡内のほぼ全域が水利組合に組織されている。これらの水利組合はいづれも佐賀郡長が管理者となり,その管理下におかれている。郡長の管理外としては八田江水利組合があるが,その管理者は東与賀村長である。
 このようにクリーク地帯の用排水管理は佐賀県では水利組合条例による普通水利組合によって行われているが,同じクリーク地帯でも福岡県では市町村制に基づく町村組合をつくり,市町村自治体が直接管理する方式をとっている。
 佐賀県内で最大の大井手水利組合の当時の機構をみれば,全区域を17区に分割し,佐賀市より4名,他の区はすべて1名ずつの割合で総数20名の組合会議員を選出し,そのうちから常設委員として10名を互選した。費用は事業収入と管内からの賦課金によってまかなったが,賦課金は土地賃貸価格を基準にして賦課している。
 6)この項は『福岡県立農業試験場百年史』昭和54年刊と『佐賀県農業試験場五拾年史』昭和29年刊によった。