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私営質屋の展開と政策対応

Author: 渋谷隆一
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1981年
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 目次
Ⅰ はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅱ 私営質屋の展開と貸付基盤・・・・・・・・・・6
1 私営質屋展開の地域性・・・・・・・・・・7
2 質屋の貸付基盤・・・・・・・・・・12
3 資本主義の発展と質屋・・・・・・・・・・19
Ⅲ 利子生み資本としての質屋の特質・・・・・・・・・・28
1 質屋の利子収取と諸慣行・・・・・・・・・・28
2 流質物の売却と官没・・・・・・・・・・33
3 質屋の高利貸資本的機能・・・・・・・・・・35
Ⅳ 質屋政策の展開・・・・・・・・・・37
1 府県別質屋取締規則の制定・・・・・・・・・・38
2 質屋取締条例の制定・・・・・・・・・・40
3 質屋取締法の制定と改正運動・・・・・・・・・・43


Ⅰ はじめに
 質屋は金貸,無尽とともにわが国古来の金融機関であり,鎌倉時代以前から今日にいたるまで存続している。もっともこの質屋は,わが国固有の機関ではなく,洋の東西を問わず古く,かつ広汎に存在する高利貸資本の一形態である。とはいえもちろん,その存在形態は東洋と西洋では異なるし,国によってもそれぞれ特質をもっている。いまわが国の制度的特質を把えるため,欧米の質屋制度について概観しておく。
 ヨーロッパでは,まず「貧民を高利から守ろうとした高利に対する反動1)」として,公益質屋が生れた。具体的にいえば,1462年,イタリアの僧侶バルナバが,キリスト教の教義に基づく利子禁止法の下で,高利貸活動を行なっていたユダヤ人の跳梁を抑えるため,べルギアに慈善的質屋を設立したのが,その嚆矢である2)。この公益質屋は,その後16~18世紀にかけてべルギー,フランス,オランダ,ドイツ,スペイン,オーストリアなどヨーロッパ各国に普及した。一方,私営質屋も,ブルジョア革命後に起こった営業の自由を背景にドイツ,オーストリア,イギリスにおいて発達し,アメリカに伝播した(第1表参照)。
第1表 欧米・日本における質屋制度(1900年当時)
第2表 全国質屋数の推移
 以上の質屋制度を国別に整理し直すと,ドイツ,オーストリアが公・私混合主義,イギリス,アメリカが私営主義,その他の国々が公営主義を採っていたのである。
 ところがこうしたキリスト教的伝統のないわが国の質屋は,清国,朝鮮などがそうであったように3),はじめから東洋的な一本一利の原則(貸付元金以上に利子をとってはならない)の下で利子容認=利息制限法に制約されながら私営主義を採り,発展してきた。しかしわが国でも,昭和2年に,細民階級に対する社会政策的施策の一環として公益質屋法が公布され,公・私混合主義を採用するようになったが,その淵源は,明らかにヨーロッパの場合と相違していた。したがって,われわれ明治維新以降の質屋を問題とするとき,まずもって私営質屋の展開に目を向けねばならないのである。
第3表 府県別質屋数,年度内貸付口数の最高年度
 さてわが国の質屋研究は,質屋の歴史の古さ,庶民金融に果たした役割の大きさから法律学,日本経済史,金融論の各分野から取り上げられ深められてきた。ことに明治維新以降については,後進資本主義国に特有の社会問題の早期発生,深化に伴う質屋立法の改正問題を中心に発展してきた。しかしその内容をみると,一時期の,そして特定の地域を対象とした断片的な研究が多く,しかも日本資本主義の構造的特質との関連で質屋を把える分析視角が著しく欠如していたといってよい。
 本稿では以上の反省にたって,何よりもまず私営質屋に関する統計,資料をできるだけ発掘,整理し,日本資本主義の後進性とその発展段階をふまえながら,質屋業の展開と貸付基盤,利子生み資本としての質屋の性格と機能,さらに社会問題とりわけ庶民金融問題の発生,深化に対応しつつ政府の採った質屋取締政策の変質過程について検討してゆこうとするのである。
第1図 大都市府県と農村県質屋の店数,年度内貸付口数の増減指数

1)マルクス『資本論』向坂逸郎訳,第3巻第2部,756ページ。
2) この点については,さしあたり日本銀行調査局編『質屋ニ関スル調査』大正2年,『日本金融史資料』明治大正編,第25巻,昭和36年に再録,110ページ以下,東京市政調査会編『公設質舗 大正15年,320ページ以下など参照。
3)戦前,中国(旧満州を含む),朝鮮,タイにおける質屋業の紹介,研究がかなり行なわれた。これらについては,渋谷隆一編『近代質屋業文献目録』昭和44年を参照。
第2図 大都市府県と農村県質屋の年度内貸付額増減指数

Ⅱ 私営質屋の展開と貸付基盤

 資本主義の発展に伴いわが国の私営質屋は,どのように展開したか,その貸付基盤はいかなる階級(階層)に求められるであろうか。まずこの点の確認からはじめたい。

 1 私営質屋展開の地域性
 質屋に関する統計はきわめて不備である。周知のように『府県統計書』には,「質屋業統計」(「質屋ノ貸金」と「質屋ノ金利歩合」)が掲載されている。ところが同統計は,府県によって異なるが,金融機関中に占める質屋の地位の低下や,その重要性の減退から掲載を中途でやめてしまうところもあって,質屋の全国動向を時系列的にとらえることのできない欠陥をもっている。ただ大正中・末期以降大蔵省と内務省が,全国の質屋数を調査している。そこでこの数値と先の「質屋業統計」から推計した明治16~18年,及び26年の数値を示すと第2表のごとくである。これによると全国の質屋数は,明治10年代から20年代は約2万5千から約3万店存在したと想像されるが,大正期になると約2万店に減少し,さらに同8年を転期にほぼ一貫して減り続け,昭和9年になると約1万2千店となっている。
 このように資本主義の発展に伴う私営質屋の変化は著しい。しかしこの後退の過程は,後にみるようにかなり地域性があるので,この点を考慮に入れて変化の実態を探ってゆかねばならない。ここでは,資料の制約上次の便宜的な方法をとる。
 1つは,府県別に明治以降の質屋店数,年度内貸付口数が最高となる年度を整理し,質屋の地域性を概観することである。第3表に示したように,いずれの府県も,店数が貸付口数よりも早<に最高の時期を迎えている。そして府県別に特徴を拾い出すと,概して明治期にすでに多数営業地域1)であった福島,茨城,神奈川や農村でも静岡,三重,奈良,和歌山,愛媛などの先進農業地帯が最も早くに,これに北海道,青森,岩手,宮城,秋田,山形,宮崎,沖縄などの辺境・後進農業地帯が続き,大阪,兵庫,福岡などの大都市地帯が最もおくれて最高年度を迎えている。このことは,いうまでもなく各地域における質屋の貸付基盤の相違を反映しているのである。
 2つは,以上の事実をふまえて農村地帯と大都市地帯とに分けて質屋業の展開を時系列的に抑え,変化の画期を探ることである。いま「質屋業統計」が明治18年から昭和10年までほぼ一貫して存在する府県を取り上げると,農村県では,青森,秋田,福島,石川,長野,静岡,高知,佐賀,熊本,大分の10県,大都市府県では大阪,兵庫(明治22~34年欠)の2府県である。
 第1図は,農村県と大都市府県の店数と年度内貸付口数の合計額を,明治18年を100として指数化したものである。ここにみられるように,農村よりも大都市の方が変化が激しい。第1に,大都市の貸付口数は,明治20~35年ころにかけて飛躍的に増加し,それ以降景気変動の影響を受けて激しい起伏を繰り返しながらも漸増の傾向を示しているが,農村では明治25年にかけてゆるやかに増加したものの,それ以後大正2年まで停滞,そしてその後一貫して急減している。
第4表 東京市(区別)および秋田,静岡,熊本各県(市郡別)質屋の展開状況
第5表 質屋1店平均質置主数,貸付口数,1人当たり貸付額(大阪市内,大正8年10月)
第6表 私営質屋の職業別質置主数(大正12年)
第7表 東京,大阪両市における職工の生計状態(内務省社会局,大正10年3月調査)
 第2に,店数は農村,大都市ともこの貸付口数の伸縮に左右されながら,大正初期までほぼ重複しているが,この時期を転期に両者は決定的に分離するようになる。つまり大都市では,店数は貸付口数の漸増傾向とは逆に急減し,農村では両者が相変らず相互にからみ合いながら減少しているのである。こうした変化は,第2図に掲げた両者の年度内貸付額の指数からも明瞭に読みとることができる。ただここで注意しておきたいのは,両地帯とも明治18年以降,ほぼ同じテンポで微増してきた貸付額が,大正2, 3年ころから分離しはじめ,大都市が急増,農村が微増している事実である。こうした動きは,実は貸付額をそのまま指数化した結果なのであって,かりにこの数値を消費者物価指数でデフレイトするならば,貸付口数と同様に大都市微増,農村減少を示すのである2)。
第8表 1質店における職業別貸付状況(昭和9年9月現在)
 では一府県内における質屋業は,どのように展開したであろうか。ここでは,旧東京市内と秋田,静岡,熊本の3県について例証しよう(第4表)。
 まず旧東京市内では,店数,年度内貸付口数,貸付額ともに前期(明治18年対45年)に対して後期(明治45年対昭和10年)の伸びが鋭い。周知のようにこの事実は,同市の質屋が大正12年の関東大震災で潰滅的な打撃を受けた証左なのである。ただそうした中でも,官庁,会社,銀行,諸問屋などの密集する麹町,日本橋,京橋の各区が停滞ないし衰退,労働者,細民階級の集中する下谷,浅草,本所,深川の各区が,逆に質屋の根強い存在を示して注目される。
 秋田,静岡,熊本の各県ではどうか。ここでは,都市部と郡部とに分けてみよう。秋田,熊本などの後進農村地帯では,都市が郡部よりも貸付額の伸びが顕著であるが,当初から多数営業地域であった静岡県では,全県的に質屋が減る中で都市の停滞,郡部の急減が目立っている3)。
第9表 質屋の貸付金用途調(大正12年10月~同13年11月)
 以上のように,質屋の貸付基盤は,商品経済の発達に伴い農村では先進地から後進地へ,さらに大正初期を画期として農村から都市,とりわけ大都市へと移動しつつあることがうかがえるのである。

 2 質屋の貸付基盤
 では質屋の貸付基盤は,どのような階級によって構成されているであろうか。一般的にいえば,それは十分な生産手段をもたない,いいかえれば生活用具など動産を入質しなければならない非資本家的な農民,手工業者,零細商人及び労働者である。ここでは,貸付階級(階層)と質物種類(質草ともいう)を対象に具体的に考察してゆきたい。
 まず,質屋の貸付階級を問題とする。この点についても,調査資料はごく限られている。1つは,大阪市が大正8年に行なった調査である。第5表によれば,大阪市の1店当たり平均質置主数は,107人である。このうち職工・労働者が61人で最も多く,これに商業者16人,会社・銀行員・官公吏・教師などいわゆる俸給生活者9人,工業者8人と続いている。1人当たり平均貸付額では,芸娼妓・芸人が35円で最も多く,これに医師・弁護士,商業者などが続くが,職工,労働者は10円できわめて少ない。
第10表 店別にみた質物種類
第11表 年度別(1月・6月)にみた質物種類の推移 大阪谷質店(大阪府泉南郡佐野町)
 いま1つは,大正12年末に大蔵省銀行局が全国の私営質屋を調査した資料である。第6表によれば,質置主総数は617万人である。これを職業別に分けると,労務者が213万1千人で総数の34.6%と最も多く,これに商業者21.3% ,雑業層19.3%と続くが,明治初・中期ころまでかなり高いウエィトを占めたであろう農業者はわずかに10.7%にすぎなくなっている。
 以上のことから容易に分るように,質屋の主要な貸付階級は,大正中・末期に焦点を合わせるならば労働者と商工業者であり,これに雑業層や俸給生活者が加わっているといえる。しかしここで労働者,商工業者や雑業層といっても,その内容があまりにも漠然としている。そこで他の調査によって貸付階層の実体をさらに確認しよう。第7表は,内務省社会局が大正10年に,東京,大阪両市の職工の生計状態を調査した結果であるが,両市ともほぼ80~90円未満層が生計費の不足を,それ以上が余剰を示している。したがって職工のなかでも質屋の主要な顧客は,生計費の常時不足する薄給者層であることは間違いなく,なお余剰者も一時的な資金の需要者であったと思われる。
 また第8表により入質した商業者の内訳をみると,古着,露店,鼻緒商など,工業者は仕立屋,看板屋,大工など零細な生業経営者や職人であり,「その他」=雑業層は,無職のほかに待合,妾,俳優,運転手,女中などである。もっともこの調査は一質店の事例でしかないが,おおよそ質置主層の実相を示しているといってもよいであろう。
 では彼らは,どのような目的で資金を借入たのであろうか。ここに1つの興味ある資料がある。大阪職業輔導会公益質舗が,大正12, 13年度中の質置主を調査した第9表がそれである。ところでこの数値は,公益質屋のものであるが,同じ貸付基盤にたつ私営質屋の場合も,ほぼこれと類似していたと考えてよいであろう。さてこの用途別のうち明らかに生活資金とみられるのは,「生活費補助」,「病気のため」,「求職のため」などで,人員では総人員1736人のうち60.3%,口数では2821口の59.2%,貸付額では4万5928円の42.3%となっている。生産資金と目されるのは,「ミシン買入」,「商品買入」,「開業資金」,「道具買入」,「原料買入」,「老舗買入」などで,人員では37.3%,口数では38.9%,貸付額では54.6%となっており,生活資金に対して人員,口数では比重が低くなっているが,貸付額では逆に高い。
第12表 農林業,非農林業別人口推移
もっともこの生産資金の中には,生活資金もかなり含まれていると思われる。いまかりにこの生産資金の借手が生業的経営者であったとすれば,彼らは家計と経営とが分離されておらず,したがって生産資金といっても,実際には家計には向けられる部分が多く含まれていたであろうし,もともと借入利率の高い資金を生産活動に投入できないと考えるからである4)。
 次に,質物の種類(質草)についてみる。ここでは資料の制約上,断片的な資料をつなぎ合わせてみてゆかざるをえない。第10表にあげた5店の質屋は,都市,都市近郊,農村の各地帯に存在している。都市地帯では神戸市内の金場,植村両質店と京都市内の木島質店,都市近郊地帯では神奈川県登戸の原島質店,農村地帯では長野県北安曇郡の下条質店である。
 さて以上5店の質草で共通しているのは,生活用品の比重が圧倒的に高く,とりわけ衣類が点数で最低65%以上,貸付額では56%以上を占めている点である。とはいえ各質店の存在地域を反映して当然に違いがある。金場,植村両質店では,神戸市内の労働者や雑業層を主要な対象としていたためか,衣料が点数,貸付額ともに80%以上,これに質草の欠如を示す蒲団,蚊帳さらに僅少ではあれ最もミゼラブルな鍋,釜などもみられ5),1点当たり貸付額はそれぞれ50銭と78銭で比較的に零細である。これに対して京都の木島店では,衣料に次いで西陣の機業家の反物が貸付総額の18.1%を占め,また一時に多額の資金をえるための合質物(異種の質草を一括質入する)が多く,1点当たり金額も97銭と最も高くなっている。このことは,銀行が十分に発達していなかった当時,質屋が一時的な応急資金の需要に応えていたことを示す。
第13表 人口の市町村人口階級別構成比
第14表 階級構成の変化
第3図 実質賃金と貨弊賃金の増減指数
 多摩川々畔の都市近郊地帯に存在する原島質店では,農村雑業層6)の蒲団,蚊帳などのほかに生糸,漁具(川網),畳・大工道具など雑多な種類の入質が目をひき,1点当たり貸付額は44銭と他のどの質店よりも少ない。農村地帯にある下条質店では,農家の生産物,生産用具である農産物,農具の入質が目立ち,貸付総額の29.2%を占めている。しかし年度内貸付額がわずかに92円余にすぎず,いわゆる農間質屋といえる存在であった。
 では質草は時期によってどう変化したであろうか。ここでは,大正6年から昭和13年までの『質物台帳』を保存している大阪府佐野町(現泉佐野市)の大阪谷質店の事例についてみよう。ところで当店の貸付規模が大きく年度内貸付口数が約1万以上にのぼるので,資料整理の都合上,ここでは便宜的に大正6年,昭和2年,同13年を取り上げ,しかも1月と更衣期に当たる6月にかぎって質草をみることにしたい。第11表に示したように,次の2つの興味ある現象が指摘できる。第1に,1月と6月とでは質草に若干の相違があるということである。つまりいずれの年をとってみても,6月は1月よりも衣類,蒲団の入質点数が多い。この事実は,6月が向暑更衣期であるため,さしあたり不用となった冬物衣類や蒲団の入質を意味している。
 第2に,質置主の生活様式の変化を反映して,時期が下るに従い,例えば時計,装身具,勧業債券類などの入質が次第に増加しており,またここでは表示しなかったが,衣類の中でも3時期を通して圧倒的に多い木綿類のほかに絹物類が,和服に対して洋服が,それぞれ増加していることである。おそらく質置主中俸給生活者などの中産階級が増えてきたためと思われる7) 。
 以上のように,質屋は労働者,零細商工業者,雑業層,俸給生活者などを主要な貸付対象とし,彼らの衣類をはじめ生活用品を質受し,零細な生活資金を供給していたといえよう。

 3 資本主義の発展と質屋
 質屋の展開は,いうまでもなく資本主義の発展段階に規定されている。ここでは質屋業展開の画期,つまり大正初期以降の農村の衰退,大都市の漸増といった事実を念頭におき,その変容の契機を探ってゆきたい。それは,資本主義の発展に伴う貸付基盤の変化,金融機関とりわけ庶民金融機関の整備・発展,さらに質物価値の低下による中古品市場の変化に求められよう。
 まず,貸付基盤の変化についてみる。第1 に,農民に対する労働者,俸給生活者及び零細商工業者の数的拡大である。いまその手掛りをえるため有業人口構成の推移を示すと,第12表のごとくである。すなわち農林業人口は,明治5~8年の1555万5千人から同39~43年の1600万4千人へほぼ停滞的に推移しているが,この時期を転期に漸減しはじめ昭和11~15年には1390万4千人となっている。これに対して非農林業人口は,同じ時期に585万9千人から1806万8千人へと激増している。
第15表 銀行と質屋の貸付残高比較
とくに顕著な増加を示したのは,明治19~23年,同年~28年の企業勃興期,大正5~9年の第1次大戦中・戦後期であり,この時期以降農林業人口を凌駕するにいたった。なおこの人口は,地方町村から中小都市へ,さらに大都市へ集中する傾向がある(第13表)。こうした人口の動きは,質屋の主要な貸付基盤が農村から都市へ,なかんずく大都市へ移りつつあるとことを暗示している。そこでこの実態を階級構成別にみると第14表のごとくである。質屋の主要な貸付対象であった労働者,零細商工業者,俸給生活者(以上)は,農漁民(H)の停滞と対照的に急速に増加している。すなわち農漁民が明治21年の457万3千戸から昭和10年の581万4千戸へと停滞的であるのに対し,労働者等は同年の163万3千(戸または人)から1285万5千人へと増加し,大正3年以降前者を超えるにいたった。
第16表 農村・市街地信用組合の発展
第17表 公益質屋の展開
 第2に,彼らの実質所得の増加である。ここでは統計の制約から,大川一司編『長期経済統計』物価(昭和42年)に掲載された製造業における労働者の実質賃金をみると,第3図のようである。この指数は,昭和9~11年の貨幣賃金を100として算出したものであるが,明治18年の32.1から昭和6年の106.6にいたるまで消費者物価に左右されながらもほぼ増加傾向にある。ことに大正9年以降の増加が著しい。この実質賃金の増加は,質屋にとってみれば,貸付基盤の質的拡大を意味する。すなわち利子源泉(労賃一労働力の再生産に必要な最低生活費)の拡大と,質草の増加8)を示すからである。
 第3に,以上の2つの要因によって質屋の貸付金が増加するといっても,その契機は不時の災害,事業経営の失敗などの偶然的な要素を除けば,消費者物価が貨幣賃金の上昇を上回り生活が困難となるような,たとえば明治23年,同29~30年,同34~38年,同45年,大正7年などを契機に伸びたものと考える9)。そうした意味で,農民の資金需要が,米価の暴落した恐慌,慢性不況の比較的初期に増大する10)のとは異なる。
 もっとも質屋の展開が,こうした貸付基盤の変化に強く影響されるとはいえ,もちろんそれだけではない。次に他金融機関の整備・発展についてみる。
第18表 公益質屋展開の地域性
 第1に,商人・高利貸の発展である。これはとくに農村の質屋に影響を与えたものと考える。周知のように,徳川時代には,土地の永代売買が原則として禁じられていた。そうした条件の下で,質屋は動産だけではなく不動産質貸をも兼ね,農村における主要な金融機関として君臨していた。しかし明治5年3月,土地の永代売買が解禁されるや土地の商品化が急速に進み,また産業革命期になると農家経済が決定的に商品経済化されるにいたった。このことは,当然のことながら高利貸の分化,発展を促し,質屋の発展をチェックした。まず,土地の商品化を背景とする不動産抵当貸専門の高利貸(金貸会社,個人金貸業,私人)の簇生であり,次に,農家経済の商品経済化に伴う米穀・肥料商,その他商人の農村進出,ことに掛売信用の発達であった。ちなみに大蔵省理財局「全国農民負債調」(大正元年)によると,質屋からの負債は938万1千円で総額のわずか1.2%にすぎない。一方,高利貸は4億2128万3千円で実に53.4%を占め農村の中枢的金融機関となっており,商人も1232万6千円で1.6%を占め質屋よりも多い11)。
 第2に,銀行の目覚ましい発展である。前述のように明治10~20年代は,大都市,農村ともに質屋の発展期であった。しかし銀行に比べれば,その伸びは鈍い。いま参考までに銀行と質屋の貸付残高を比較すると,10年代後半には,質屋の貸付額は銀行(国立銀行)の約50~57%を占めていたが,同26年には国立・私立銀行に対し22% ,さらに同35年になると普通銀行に対し9%に落ち込んでいる(第15表)。ところで当時の銀行は,倉庫業を兼業するものが多く,また生糸,織物,その他商品・雑品を担保とする貸付がかなりあった12)。そのことは,先にみた京都の木島質店のように中小商工業者をも対象とする質店の発展を幾分なりとも阻止する役割を果たしたと思われる。
 第3に,産業(信用)組合の発展である。周知のように,政府は日清戦後の殖産興業政策及び社会問題の早期発生に対応して明治33年に産業組合法を公布した。そして同39年から40年には,産業組合中央会と密接な連繋の下にその普及,奨励をはかった。こうして産業組合は,第16表に示したように農村中心に普及したが,都市では不振であった。しかし明治末・大正初期に中小商工業問題が発生するや,大蔵省ではこれに対処するため,都市により適合性をもったシュルツェやルザッチ式組合原則をとり入れた庶民銀行を設立しようとした13)。この新しい試みは,大正6年の産業組合法の第3次改正(市街地信用組合の法認)となって結実した。農業問題や中小商工業問題が本格化した大正末期以降になると,信用組合は低利資金に支えられながら,貸付対象を当初の上・中層農家から下層農家に,また中小商工業者にも幅広く拡げた14)。このことは,貸付基盤を侵蝕された質屋,金貸に大きな打撃を与えた。しかしこのように市街地信用組合の貸付額が急増したとはいえ,農村の産業組合に比べればきわめて少なく,それだけ都市質屋に与える影響は弱かったといえよう。
 第4に,公益質屋の発展である。わが国の公益質屋は,大正元年12月に設立された宮崎県南那珂郡細田村営質庫を嚆矢としている。その後公益質屋は増加したが,大正14年9月末でわずかに39しか存在しておらず15) ,私営質屋に対してそれほど脅威を与えなかった。しかるに,昭和2年3月に公益質屋法が公布され,政府の補助や低利資金が供給されるや急速に普及した。第17表をみよ。公益質屋は,2年の81店から同12年の1134店へ,年度内貸付額は1弱万2千円から2185万3千へと約10倍強の伸びを示している。そして公益質屋は,貸付最高利率が年利15% ,流質期限が4カ月以上,流質処分益の債務者還元など入質条件が有利であったから私営質屋の経営を圧迫する十分な要因となった16)。したがって私営質屋の抵抗も凄じかった。とはいえその貸付額は,私営質屋に比べるとはるかに少なく,昭和12年の貸付総額はちようど大阪市内の私営質屋の2109万6千円に匹敵する程度であった。なお公益質屋の分布についてみると,第18表に示したように,大正14年には都市地帯に集中していたものの,昭和13年になると概して辺境・後進農業地帯に拡散するようになった。この事実は,私営質屋の発展の地域性を無視した政府の施策の失敗であり,政策効果のいちじるしい減殺を意味する。
 以上のように庶民金融機関の発達は,農村に偏重していた。このことは,貸付基盤の都市拡大,農村後退と相まって都市質屋の伸びを或る程度可能にしたのである。私営質屋の発展をチェックするいま1つの要因が芽生えつつあった。中古品市場の変化が質屋に与えた影響がそれである。質屋の貸付債権は,通常,質置主の元利返済によって回収されるが,流質期限が過ぎても返済のない場合には,質物を流質品として中古品市場で売却し,債権の確保をはかる。したがって中古品の供給者である質屋は,中古品市場の盛衰に強くかかわりをもっている。もっとも中古品市場では,書画・骨董・債券類など趣味・投資物件から衣類,蒲団など生活用品にいたるまで種々雑多な中古商品の売買を取扱っているが,質屋にとって重要なのは,質草の大宗をなす衣類である。
 さて資本主義の発達は,この中古品市場に変化を与える。いまだ生産力の低い段階においては,庶民の生活は概して質素であり,細民階級に限らず中古品に対する需要が多い。質屋は,かかる事情を背景に発展が可能であった。しかるに産業革命後,とりわけ第1次大戦期以降の資本制生産の飛躍的な発展は,大量生産による生活用品の価格下落,したがって質物価値の低落をもたらし,中古品市場における質屋の対応を次第に困難にさせていった。この段階における中古品市場の顧客は,急激に増大した職工,俸給生活者,零細生業経営者などであるが,彼らは一方において入質者でもあった。だが彼らも,新商品の廉価購入,都市生活の簡易化(たとえば貸衣裳業の発展)などから中古品市場における需要者の地位を次第に低めていった17)。
 このように都市,農村を問わず生活様式の変化は,中古品とりわけ生活用品の中古品市場を衰退せしめ,質屋の存立条件を揺がせていった。かかる変化に対して質屋も,質草を衣類中心から時計,装身具,債券類へと徐々に移行させながら,存立条件の維持に懸命となったのである。
 以上のように,資本主義の発展に伴う貸付基盤,庶民金融機関の整備・発展,中古品市場の変化は,それぞれ複雑に絡み合いながら私営質屋の展開過程,わけても大都市漸増,農村後退を規定しているのである。
第4図 静岡県下質屋と全国銀行金利比較


1)明治18年における府県別質屋店数900以上の多数営業地域は,大都市府県(東京,大阪,愛知,兵庫,神奈川)や幕末・維新期を通して問屋制家内工業の急速に発達した養蚕・製糸地帯(福島,群馬,埼玉,神奈川),及び東京周辺地帯(茨城,千葉)であった。
2) この試みについては,拙稿[質屋対策立法の展開(1)」『駒沢大学経済学論集』第4巻第1号,昭和47年6月,2~4ページ参照。
3)このように都市と郡部では質屋の展開に相違があるが,さらに同一都市内でも顧客階層の存在状態によって当然に違いがみられる。たとえば金沢市内については,日本銀行金沢支店『 北陸三県ニ於ケル小商工業者ノ資金融通情況』 大正2年,同行編『日本金融史資料』 明治大正編,第25巻,昭和36年に再録,351ページ参照。
4)東京市社会局編『東京市内細民の入質に関する調査』大正10年,13-14ページ。
5)明治期には,貧民窟を中心に鍋,釜や夜具類の入質がかなり見られ,質屋の貸付を象徴する事象とされてきた(西田長寿解説『明治前期の都市下層社会』昭和45年,58ページ)。しかし大正中期になると,こうした入質形態はいちじるしく減少したようである([警戒期の質屋業」『大阪毎日新聞』 兵庫県附録,大正8年4月24日)。
6)この概念については,牛山敬二『農民層分解の構造』昭和50年,21ページ以下参照。

7) 日本銀行編『質屋ニ関スル調査』大正2年,前掲『日本金融史資料』明治大正編,第25巻,97ページ。
8)被服費に対する支出は,賃金の上昇を上回っている(矢木明夫『生活経済史』 昭和53年,263ページ)。そのことは,質草の大宗をなす衣類入質の増大の可能性を意味する。
9)「庶民金融機関としての質商」『東洋経済新報』第800号,大正6年12月25日,15ページ,楠見一正『庶民金融機関としての質屋の研究』 昭和3年,15ページ,など参照。
10)この点の詳細については,拙稿「我が国貸金業の統計的考察」『農業総合研究』第16巻第1号,昭和37年1月,177ページ以下参照。
11)拙稿「明治末期の負債調査」『土地制度史学』第54号,昭和47年1月,参照。
12)『金融事項参考書』に掲載されている普通銀行の貸付抵当内訳によれば貸付残高に占める商品・雑品の比率は,明治26年16.2%,同31年11. 5%,同36年10.6%,同41年9.7%,大正2年7.8%となっており,時期を遡れば遡るほど高くなっている。
13)拙稿「社会問題の発生と下級金融機関調査」『金融経済』第129号,昭和46年8月,43ページ,より詳細については,麻島昭一「無尽業法の立法事情」「信託』 第90号,同47年4月,を参照されたい。
14)農村の組合については,佐伯尚美「日本農業金融史論』昭和38年,210ページ以下参照。
15)東京市政調査会編『前掲書』164ページ。
16)この点の詳細については,拙稿「質屋対策立法の展開(3)」『駒沢大学経済学論集』 第5巻第1号,昭和48年月,22ページ以下参照。
17)国政研究会編『植民地及び諸外国の質屋概況並びに質屋業に就いての総括』昭和10年,102-05ページ参照。

Ⅲ 利子生み資本としての質屋の特質

 質屋の収益は,質屋が利子生み資本の一形態である以上,もちろん利子の取得にあった。しかしそれだけではなく,流質の売買損益や警察署,税務署による質物の没収(官没と略称)も影響を与えている。本節では,近代的利子生み資本の運動を念頭において質屋資本の特質をみてゆきたい。

 1 質屋の利子収取と諸慣行
 質屋の利子は,後に詳細に検討するように,明治28年3月に公布された質屋取締法によって規制されている。すなわち同法第9条によれば,「貸金二十五銭以下ーケ月一銭,一円以下ーケ月百分ノ四(年利48% ,筆者注),五円以下ーケ月百分ノ三(同36%),十円以下ーケ月百分ノ二半(同30%)」となっている。しかしこの利子規制は,当時における質屋の貸付利率をほぼ肯定した微温的なものであった。各地の質屋組合では,この法定利率を基準として協定利率を定め,過当競争を除こうとした1)。
 では質屋の貸付利率は,実際にはどのような動きをしたであろうか。ここでは資料の制約上,静岡県下の質屋金利を例証として取り上げる(第4図)。質屋の貸付利率(1円と10円に対し)の特徴は,参考までにあげた全国銀行金利に比べるとかなり高く,しかもそれとは全く無関係に硬直的な動きを示している点である2)。こうした現象は,市場を独占する質屋が,質置主の資金需要を無視して法定利率の枠内でできるだけ高く貸付けようとしたことによる。
第20表 質屋の質物別,貸付利率別表
 ところで質屋の収取する利子は,こうした表面的な利子だけではなく,旧来から慣習として継承されてきた独特の利子計算方法によってさらに上積される。以下の4点がそれである。
 第1に,月利に基づく利子計算とそれにまつわる慣行によってである。ここで月利といっても30日を1カ月として計算するわけではなく,暦上の月を基準に,その月の何日に入質しようが原則として月末までを1力月として計算するのである。したがって極端な場合には,月末に入質し翌月初めに受戻をしても2カ月分の利子がとられる。ただし質屋には,利子支払い猶預の慣行がある。府県によって相違はあるが,概して翌月の2~5日のうちに利払いをすれば1カ月の利子で済むことになっている(第19表)。
第19表 府県別利子計算方怯(猶豫期間)
第2に,躍利(オドリ)と称する慣行である。これは,質置主が入質期間中に質物中の一部を受戻したり,あるいは質物の入替をするとき,質屋は当初の質契約が解除されたものとみなし,それぞれの質物に対して利子をとる,つまり利子が躍るのいいである。
第21表 受戻,流質の期間別口数
第22表 月間50円以上入質者の受戻,流質状況
 第3に,周旋人(質使または質置婆ともいう)に対する手数料支払いである。この制度は,徳川時代から存在したらしいが,しかし同時代には,質屋の質受け規制(質置主,証人同道の場合に質受け,ただし売人両判は不可3))が崩壊しながらもなお存続しており,周旋人の活動は自ら制約されていた。
第23表 府県別流質期限
明治維新以降,この規制が廃止されるや周旋人の活動は公然となった。この周旋人制度は,質屋にとってみれば常連ならともかく新規入質者の紛失物や臓品の入質を防ぐために,また体面を重んずる中産者の入質を代行するうえに必要であった。彼らは,入質者からまた稀に質屋から手数料を取っていた4)。その手数料は地域によって違うが,金沢市では入質額1円以上の場合に1円につき5厘一1銭5) ,名古屋市では3~4 銭6)の割合で収取していた。
 第4に,質物による貸付利率の相違である。通常,銀行の貸付利率は貸付期間によって差はあるものの,担保物件による差は設けていない。ところが質屋では,質草によって格差をつけている。質草の中でも衣類に対する貸付利率が最も低く,大道具,小道具などのいわゆる嵩張物は高い7)(第20表)。この質物による利子率格差は,質蔵収容能力を考量した保管料差額的意味をもっていると考える。
第5図 農村県における質屋の流質率
 以上のように,質屋の利子は,本来の利子のほかにさまざまの要素がつけ加わって質置主の利子負担を重くしている。
 質置主の利子負担は,彼らの質屋利用の仕方によっても加重される。1つは,質置主が零細な資金を借りれば借りるほど利子は高くなる。貧弱な質草しかもたない貧窮者ほどそうである。いま1つは,入質及び受戻の頻度が多ければ多いほど利子負担は重くなる。ここでは先にみた植村質店の入質事例をあげる。当店が明治39年1月中に受質した質物の受戻及び流質状況を示すと,第21表のごとくである。ここに明らかなように,入質した当日の受戻比率は,貸付総数2692件の14.5%,翌日が8.6%, 1週間以内が13.6%,わずか1週間以内で計36.7%に達している。この事実は,質置主にとってみれば,1週間以内の入質で1カ月の利子がとられるわけであるから,利子負担はきわめて苛重である。一方,このことは質屋にとってみれば, 利子を早期に収取できるので,それだけ資金の回転度を早め,収益を向上させることになる。
 かかる短期の入質は,労働の機会にあふれた日傭労働者の生活費の補損や,行商人,大道商人,その他雑業層の零細な仕入資金の借入であったと思われる8)。より具体的な事例をあげよう。いま同店貸付者のうち月50円以上の大口貸付者を取り上げ,その受戻,流質状況を整理すると,次の2つのグループに分けられる(第22表)。1つは,入質口数の少ない,しかも1口当たり金額の多い釣舟リエ,川口ツルらである。この質置主は,一時的な生活資金の需要者で返済も確実である。おそら<中小商工業者か俸給生活者の家族なのであろう。いま1つは,入質口数が多く,しかも1口当たり金額の少ない日傭労働者あるいは雑業層と思われる者である。最低は山下ヨネの1カ月18口,最高は松田喜代治の117口で,平均2日に1回から1日に3回入質したことになる。彼らの受戻状況は,1週間以内が入質件数のほぼ50%以上となっており,利子負担はそれだけ多くなる。そのことは,彼らの返済能力を超え結局流質率を高める。山下ヨネの流質率は50.5%で,これを筆頭に奥井ウメの30.7%など驚くほど高率である。

 2 流質物の売却と官没
 すでにふれたように質屋はあらかしめ流質期間を定め,質置主がこの期間中に元利支払ができない場合に,質物を古物商,その他へ売却し,債権の確保をはかる。この期間は,徳川時代には法令によって定められていたが,明治維新以降,この法令は廃止され,質屋の自由な処分に任せられた。その期間は地域によって異なる。大蔵省が調査した資料によれば,それはおおむね6カ月である。ただ東北6県だけが10~14カ月と長い(第23表)。 このことは,農業の比重の高い当地方経済が,水稲単作地帯に特有の農家経済の資金回転のおそさに規制されていたことを反映している。
 さてこの流質期間は,次第に短縮される傾向にある。というのは,質屋が資金の回転度数を早め収益を高めるために,とくに零細質屋の場合には,過当競争にうちかち顧客を引きつけるために,質物の鑑定価格に対する貸付(掛目)を無理に高めようとするからである。
 こうした流質を規定するのは,つまるところ質置主の利子支払能力である。それは彼らの所得の高低によるが,景気変動にも影響される。第5図に示したように,農村県の流質率は利子返済が困難となる不況期に増大し,逆に好況期に減少する傾向がみられる9)。
 質屋の流質物の売却損益は,売却価格と流質期間までの元利+保管料との差である。筆者が調べた限りでは,質屋が流質物の売却によって損失を蒙ることはごく稀で,わずかに昭和5~7年の大恐慌期に中古品に対する需要が減退し,価格が下落したときにみられる程度である10)。したがって質屋の流質行為は,質物鑑定価格をできるだけ低く抑え,はじめから流質物の売却益を取得しようと意図したものであるといえよう。
第24表 東京府下質屋別収支状況(大正14年中)
 本来,この流質物の売却益は,質置主に還元されねばならない。民法第346条によれば,「質権は元本,利息,違約金,質権実行の費用,質物保管の費用及び債務の不履行又は質物の隠れたる暇庇に因りて生じたる損害の賠償を担保す」となっており,質屋は質物の処分によってえた金額から元利その他費用を控除し,なお余剰のあるときは,これを質置主に返還し,不足したときには逆に質置主に請求できることになっている。しかし実際には,旧来の慣行に従い質屋の責任において流失物の売却損益が処理されている。11)この点でも,近代的金融機関といちじるしく相違している。
質物の官庁による没収損には,次の2つがある。
第1に,警察行政と密接な関連のある入質品中の遺失品や臓品の没収である。周知のように犯罪者は,これらの物品を入質し,できるだけ早くに換金しようとする質屋は徳川時代からこれらの犯罪捜査の拠点となってきた。この点の詳細については後にふれるが,入質品は官没されるのである。
第2に,税務行政との関係である。国税徴収法第13条によれば,「収税官吏滞納者ノ財産ヲ差押フルニ当リ質権ノ設定セラレタル物件アルトキハ質権設定時期ノ如何ニ拘ラス其ノ質権者ハ質物ヲ収税官吏ニ引渡スへシ」となっている。そのさいに,質屋は何らの補償措置をも受けないから,全くの損失となる。
以上のように,政府の官没は,質屋営業の自由を侵す行為としてつねに業者の憎悪の的となり,質屋取締立法の改正要求のーつとなってきたのである。

 3 質屋の高利貸資本的機能
 最後に,以上を総括する意味で質屋の収支状況を概観し,その対局にある質置主への機能を問題としよう。
 さて質屋の収支に関する資料は,他の資料よりもさらに少ない。大蔵省が東京府下18質店(直質13,親質4,子質1)を対象とし,大正14年度の『質物台帳』によって収支状況を調べたのが第24表である。これによると,質屋の収益の圧倒的部分は利子であるが,流質物の売上利益も利子収益の9.4%を占めてかなり高く,流質損はどの質店も計上していない。そして運転資本に対する収益率をみると,貸付金の多寡,資金の回転度数,親質・子質によって相違がある。親質店のそれは33~36% でほぼ安定しているが,直質店は23~42%でかなりバラツキがあり,子質店は1店の事例でしかないが,17%と最も低くなっている。なかでも問題なのは,直質店の収益率格差である。この収益率格差がなぜ存在するかは必ずしも明確ではないが,貸付額の少ない層と多い層が低く,中位層が概して高いといった山型の分布となっている。このことは,質屋の階層分解=中小質屋集中を規定する要因となっている。それにしても,子質屋を除けば収益率は驚くほど高い。ここに質屋の再生を支える根拠がある一方,質置主への苛酷な利子収取,そして社会問題を醸成する根拠が求められるのである。
 そこで次に,質屋の質置主に対する高利収取の社会的意義について考えてみたい。いうまでもなく高利貸資本の果たした歴史的役割は,小生産者とりわけ小農民に吸着しつつ彼らの生産手段を奪い,封建的所有を崩壊させた,点にあった12) 。 ところで等しく高利貸資本どいっても質屋の場合には,すでに分解を終えた,あるいは終えつつある労働者や零細商工業者,農民の生活用具・動産を担保に貸付を行なっている。したがって高利貸資本・金貸業のように生産手段の収奪といった生々しい姿はとらない。だが質屋も質置主中のとくに細民階級の生活用具の流質を通して彼らの貧困化をおし進めてゆくのである。 東京市社会局編『東京市内細民の入質に関する調査』(大正10年)は,この入質と貧困の関係について次のように述べている13)。
 例へば一般俸給者階級の夫れの如く一定の年限毎に増加すると云ふに非ざれば,入質せる物品は之を受戻し得ずして流質に流質を重ね,遂には典ずべき一物をも残さざるに至りて遂に己まむ。細民が比の危機に臨めば,未だ幼きその子女を工場に送りて家政を手伝はしめ,又は他家に奴碑として住込ましめてその生活費を減ずる等の手段に依り纔に窮境を脱するを常とすると雖,かくして保たる小康も長くは続かず,質屋との悪縁の為め久しからずして前同様の窮地に陥るは極めて容易に想像し得る所なり。
 ここで重要なのは,この入質がただたんに貧困の蓄積をおし進めるだけではなく,さらに社会問題を激化させることである。階級対立を緩和し,資本主義体制を維持しようとする政府が,社会政策的施策の対象にこの質屋を含めたのも,実はここに原因があったのである。


1) たとえば金沢市質屋組合の例をあげると, 40銭以下1カ月1銭, 10円以下 1カ月1円につき 2銭5厘, 10円以上1カ月1円につき 2銭, 50円以上1カ月1円につき1銭5厘~2銭であった(前掲『日本金融史資料」明治大正編,第25巻,352ページ)。
2)『同上書』25ページ。
3)内務省警保局編 『質屋考』大正8年参照。
4)この同旋人(質置婆)の実態はこうであった。「質置婆と言ふとこれは……他人の依頼を受けて質の出入れを周旋する,要するに質屋案内とも言ふべき一種の内職であるが,この内職は非常に割のいいもので『お婆さん。鳥渡之れを持って借りて来てお呉れ』と言へば婆さん早速自分の通帳を以て入質して来る,そして質の依頼者から其の出入に就て何程かの礼を貰ふと同時に,先方の質屋からもコミッションを取るのである。……大抵の質屋では機関として斯の如き婆さんを二三人専属的に置き,相当の日銭を払って居るのである」(「質屋の研究」「台湾日日新聞』大正5年9月17日)。
5)前掲『日本金融史資料』明治大正編,第25巻,352ページ。
6)日本銀行名古屋支店編『愛知,三重,岐阜三県下ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』大正2年,前掲『日本金融史資料』第25巻に再録,273ページ。
7)こうした慣行はかなり古くからあったらしく,東京府下一質屋業者の貸付利率をみると,明治1~2年の小物(衣類)は14.4%,嵩帳物は28.8%であった(佐藤佳馬「府下質屋利子」『統計集誌』第54号,明治19年2月,51ページ)。
8)この間の実相については,大阪市社会部編「日傭労働者問題』大正13年,220ページ以下に詳しい。
9)東京市社会局編『東京市内及郡部に於ける質屋に関する調査』大正15年,前掲『日本金融史資料』明治大正編,第25巻に再録,1072ページ。
10)たとえば静岡市内の中位質屋仁藤家では,昭和5年176円,6年1449円,7年219円の,また旧東京市の大質屋福島家では,5年7639円,6年4621円のそれぞれ流失物売却損を計上している。
11)前掲『日本金融史資料』94~5ページ,楠見一正『前掲書」8ページ。
12)マルクス『資本論』向坂逸郎訳,第3巻第2部,750ページ。
13)東京市社会局編『東京市内細民の入質に関する調査』大正10年,5ページ。

 IV 質屋政策の展開

ではこの質屋の展開に対して,政府はどのような政策を採ってきたであろうか。それは社会問題の発生・深化と深くかかわり合いながら変質したといってよい。いまこの変質過程を明らかにするため予めその原型となった徳川幕藩体制下の質屋法制の特質について概観しておきたい。
 徳川時代の質屋法制は,『徳川禁令考』によると,おおよそ次の 6つの内容に分けることができる。第1に,質屋統制・株仲間制度――紛失物や贓物の吟味を目的とした「質屋惣代並仲ケ間取極」(元禄5年,1692)の布達,「質屋古着屋共組合取極」(享保8年,1723)による八品商組合の組織,第2に,質受け禁止――質置主,証人同道の場合に質受け,ただし,壱人両判不可,及び社寺の汁器,古金銀,貨幣,鉄砲,御紋付道具類の質受け禁止(宝永3年,1706),第3に,質置主の保護――(1)利息制限――銭質百文につき利月3文(年利36%) , 2両以下月1分につき利3分5厘(同約29%) , 10両以下月1分につき利3分(同25%) , 100両以下月1両につき利1匁(同約20%) , 100両以上は相対(元禄5年),その後幾たびか改正,(2)流質期限――刀,脇差,諸道具諸品10カ月,衣類など6カ月(元禄5年),同14年にはそれぞれ1年,8力月に延長,享保8年すべて8カ月と改正,第4に,番所,奉行所への届出義務――身分不相応の物品の質入れ,呉服商の奉公人が紙付きの小袖,端物類を多数持参したとき(宝永3年),第5に,――盗品捜査のため役人の質屋に対する検査く寛政10年,1798) ,第6に,罰則規定――判あるいは壱人両判の質物を受けた場合質物のとりあげ,過料3貫文,無判で質取りした場合も同様,町触れの際または吟味の折に訴えた場合一判,無判の差別なく質物とりあげ,過料なし,などであった。
 以上のように,この時期の質屋政策は,商品・貨幣経済の発達によって封建制度の矛盾が表面化した18世紀初頭(元禄~宝永年間)に整備され,矛盾のよりいっそう激化した19世紀前後になると,役人の検査や罰則規定がつけ加わり,強化されるにいたった。1)ここで注目を要するのは,この法制が質受け禁止規定,番所,奉行所への届出義務に端的にみられるように,紛失物と盗品捜査に重点がおかれ2) ,いまだ質置主の保護規定がそれほど整っていない点である。この警察行政的性格こそ,明治維新後の質屋法制の根底を貫く政策理念なのである。
 以下,徳川幕藩体制下の質屋政策が,社会問題の発生,深化に伴いどのように変化したかを,府県別質屋取締規則(明治10年前後)質屋取締条例(同17年)質屋取締法(同28年)の制定を対象に検討してゆくことにしたい。

 1 府県別質屋取締規則の制定
 明治維新後,政府は自由化政策の一環として旧幕時代のきびしい質屋規制を大幅に緩和ないし廃止した3)。しかし同6年ころから再び条文の整備,拡充が行なわれるようになった。すなわち6年7月,三条実美太政大臣は,東京府知事に対して「其府下古着古金等渡世之者取締規則別冊之通被相達候条施行可致候事但警察寮へ打合可取計事」を示達4) ,これを受けた東京府では,早速[古着古金類等渡世之者取締規則」を布達した5)。この取締の対象となったのは質屋,古衣類,古銅鉄金銀類,古道具・古本類,両替,紙屑など,いわゆる八品商と称される業者であった。この規則の布達の趣旨は,徳川時代のそれと同様に,「盗之品並遺失品捜査便利」におかれ,その効果的な運用をはかるため各業種ごとの結社,取締規定の実施を義務づけたのである。
 いまその内容を紹介すると,i結社規則――各小区ごとに結社,ただし,質屋数の多寡によっては1小区2社あるいは2小区に1社を設け,頭取1人ないし数人をおく(第1則),ⅱ台帳類の整備,記帳――各戸ごとに明細帳や品触れ写帳の作成(第1条)典売者の記帳(第 2 条)ⅲ巡査やその詰所への届出義務――官庁印ある品,または官品と見定めた物を典売する者あるとき(第5条)典売主が怪しく見受けられるとき(第6条)さらに品触れ品に類似したものを発見したとき(第9条) ⅳ不正品を訴えた者に対する褒賞――品触れ以前に訴え,不正品であることが後に判明したとき質物の全価,品触れ以後の場合には原価の30%給付(第7条),などである。
第25表 府県別質屋関係取締規則の布達状況
ところでこの規則は,9年7月になると所轄官庁が東京府から警察庁へ移されるとともに,同年11月には当規則を母法として八品商取締規則と名称を変え,取締業種をいっそう拡大している。
東京府におけるこの2つの規則は,制定の趣旨が臓品と遺失物の捜査におかれている6)かぎりで,徳川時代の質屋政策の伝統を受け継いでいるといってよい。しかしその内容をみると,徳川時代の法制とはかなり性格を異にしていた。第1に,質受けの禁止,質置主の保護(利息制限,流質期限)警察官の質物台帳検査,質屋に対する罰則規定などが欠如していること,第2に,不正品の訴え出に対する褒賞が設けられていること7) などである。
 こうした事実は,当時における封建的諸規制の相次ぐ撤廃,自由主義化の路線にそった政府の姿勢を示すものであった。しかしそれも明治10年前後から次第に屈折しはじめる。そのことは,8~10年の政治・経済的危機を契機としてであり,政府・地方自治体が経済不況→中・下級士族,小農民,その他下層階級の窮乏→犯罪事件の続発に対処しようとするものであった。それは2つある。
 1つは,当該取締規則制定の各府県への普及である。第25表に明らかなように,筆者の調べたかぎりであるが,各府県への普及状況は,8年から11年にかけて顕著である8)。こうした普及の背後には,もちろん内務省の行政指導が有効に作用していた。
 いま1つは,規則違反者に対する罰則規定の復活である。参考までに警視庁が布達した八品商取締規則の改正を例にあげると,11年1月には,違反者に対して「鑑札取掲ゲ又相当之処分申付事」(第23条)また14年には「比規則ニ違背シタル者ハ違警罪ヲ以テ罰セラルへシ」(第24条)との2条を追加している。この改正が他府県の取締規則に影響を与えたであろうことは,前掲表に示すごとく11年以降罰則規定を採用する府県が増加していることからも明らかである。
 この罰則規定の復活は,次にふれる質屋取締条例の公布に連なる動きとして注目しなければならない。

 2 質屋取締条例の制定
 松方デフレ下の政治・経済的危機は,政府に深刻な打撃を与え,新たな施策を促すことになった。質屋取締条例も,もちろんその一環として考えられる。さてこの条例の立法化に影響を与えたのは,明治15,16年ころ(年代不明)に警視庁から内務省に提出された「八品商取締規則改正意見書9)」であり,後の条例のいわば政策理念を啓示したものである。
 その趣旨をみると,「……取締ノ法如何セバ可ナラン只質品ノ出入ヲ検束シ臓品ノ所在点検スルノー方アルノミ比法ノ順序夕ル常ニ臓品買(質屋ニシテ之ヲナス者往々アリト云)ノ巨魁某々ノ家ニッキ物品及帳簿ノ検査ヲ厳重ニシ豪モ妊悪ノ術ヲ施スニ暇ナカラシメ而後他ニ及スノ運ニ相至ラシメハ格別ノ手数ヲ不要シテ自裁制ノ力アリ」とし,臓品の集まる質屋に対して官憲による直接取締りの強化を指摘している。そして現行の品触れによる質屋の自発的な届出義務について「当府下ノ如キハ盗難ノ多キ臓品類似ノ夥シク触達ノ遅延ナル用度ノ困難アル夫レ是レヲ要スルニ到底為能サルノ設ニシテ亦其効力モ夫レ丈ケノ乏シキモノノ如シ」と反対し,全17条からなる改正条文案を添付している。
 さて松方デフレが深刻化するや,政府は従来の地方自治尊重の方針を一変させ,八品商関係の各職種別取締条例の布告を準備するにいたった。まず17年2月に,古物商取締条例を公布して従来の八品商取締規則リを廃止し,次いで翌3月には,質屋取締条例案を元老院に提出した。その提案理由をみると「不正品ノ集緊スル所ハ質屋モ亦同ーニ居ルヲ以テ苟モ質屋取締条例ヲ制定セサレハ縦令厳密ナル古物商取締条例ノ存スルモ賊徒ハ古物商ニ行カスシテ質屋ニ行キ其ノ臓物ヲ典売シ復タ些ノ苦慮ヲ要セスシテ巨利ヲ攫取スルヲ得ン是レ本案ノ制定ヲ今日ノ急務ト為ス所以ナリ10)」と述べ,先の意見書の趣旨を生かして取締りを強化しようとした。
 この条例案にみられる特徴は,第1に,わが国最初の,しかも全国的に効力をもつ立法であること,第2に,徳川時代以降ほぼ一貫して存続してきたいわゆる八品商へのよろずや的な取締立法ではなく,質屋のみに適用される単独法であること,第3に,取締立法的性格が前面におし出され,きびしい取締条項を含んでいること,ことにこの条例公布の目標が,もはやかつてのようにたんなる遺失物や臓品捜査の利便のためだけではなく,むしろ窃盗ノ犯罪の絶滅に向けられたこと,などに求められる。
 主要な条文をあげれば,ⅰ質受けの禁止――身元詳ならざる者よりの質受け(第4条),15歳未満の者,白痴・詐偽取財の罪,または刑法第399条,第401条の処断を受けた者が質入れしたとき(第6条)臓品の疑いある物品,または身柄不相応と認めた物品を持参した者あるとき(第7条)品触れによる類似品を発見したとき(第11条)ⅲ警察官の立入検査(第13条)ⅳ罰則規定――この条例に違背し,また詐偽の届出をなしたる者2~200円以下の罰金(第14条)1年以内に再犯した者の営業禁止または停止(第15条)などである11)。
 なお,前の規則でみられた不正品の訴え出に対する褒賞制度は廃止され,また次にふれる質屋取締法の中の質置主の保護規定も存在していない。つまりこの条例案は,警察行政上の取締立法であり,いまだ社会政策的な内客を具備していないといってよい。
第26表 質屋取締条例違反件数の推移
第27表 質屋取締条例の改正請願
 さて,この条例案が元老院に提出されるや,その内容があまりにも苛酷であるとの反論が出されたが,若干の修正をしただけで17年3月に公布された。
 以上のように,この質屋取締条例は質屋にとってきわめて苛酷であった。したがってこの条例は,当時不況によって営業不況に陥り増加しつつあった質屋の廃業にいっそう拍車をかける一方,当然のことながら彼らの激しい反発を招いたのである。
第28表 質屋取締条例改正法案の提出状況

3 質屋取締法の制定と改正運動

 日清戦中・戦後の社会問題は,労働問題の発生を契機に変質しはじめた。質屋取締法の制定も,こうした社会問題の変質との関連でとらえられるが,次の2側面に留意する必要がある。1つは,社会問題の変質に対応する内務官僚の政策理念の変化である。すなわち開明的な若手官僚たちは,当時和田垣謙三や金井延らによって導入されつつあった社会政策学派=新歴史学派経済学をいち早くに受容し,社会問題に対処してゆこうとした。いま1つは,苛酷な質屋取締条例に対する質屋業者の営業の自由を求める激しい運動が展開されたことである。
 はじめに,後者つまり質屋業者の法改正請願運動からみよう。明治17年に質屋取締条例が公布されるや,その苛酷な取締りによって検挙される業者が相次いだ12)(第26表)。これに対抗して質屋業者の条例改正運動も当然に活発となったが,帝国議会が開設されるや一段と激しさを増し,組織的に展開されるにいたった。いま同条例に対する改正請願運動をみると,第27表に示したように第2回議会以降執拗に提出されているが,ことに第5回次降になると請願地域の広がりが看取できる。この請願運動の盛り上りは,東京・大阪両質屋組合を中心とした組織的な勧奨によるものであった。
 こうして提出された請願の趣旨は,地域によって表現上の多少の相違はあれ殆んど差はなかった。いまその一例として,徳島市の質商福田丑太郎が27年5月に衆議院に提出した請願書13)によると,この条例は,警察の取締りが「峻厳ニ過ギ……検束ノ苛酷ニ失スル」ため「害業ノ権利ヲ妨ケ個人ノ自由ヲ営スル」ことになり,「人民ノ権利自由ヲ保障セラルル憲法ノ精神」に反しているので,速かに「立憲ノ治世ニ添へル適当ナル法規」に改正してもらいたい,という点にあった。
第29表 質屋取締条例の主要な改正内容
 この要求は,請願運動に呼応して第5回議会以降繰り返し提出された質屋取締条例改正法律案にとり込まれることとなった。そしてそれが実を結ぶのは,第8回議会に田口卯吉ほか9名が提出した質屋取締法案においてであった。この法案は,同議会に出された東尾平三郎ほか4名の同条例改正法律案と合同審議に付され,28年3月ついに成立したのである(第28表)
 では新たに公布された質屋取締法は,質屋業者の願望をはたしてどれほど充たしたであろうか。それは請願書に盛られた改廃要求ほど自由主義的ではなかったにせよ,ともかく旧条例のような苛酷な質受けの禁止や警官の立入検査などの大幅な修正,さらに罰則規定の緩和が実現したかぎりで業者の意にかなうものであった(第29表参照)
 次に,前者つまり内務官僚たちの社会政策的施策の導入に目を向けよう。内務省の政策意図を代弁したのは,政府委員の都筑馨六であった。彼は質屋取締法案の中に2つの社会政策的内容を挿入しようとした。第9条の質屋の貸付制限利率,及び第5条第2項の但書「質屋ハ質契約ノ証トシテ質札又ハ通帳ヲ質置主ニ交付スべシ」がそれであった。
 まず,質屋の貸付制限利率についてみると,この条項は,すでに第6回議会における小野隆助ほか2名提出の質屋取締条例改正法律案の審議のさいに,都筑によって取り上げられている。すなわち彼は,質屋取締条例と古物商取締条例との差異にふれ,「古物商ノ方ハ純然ト臓物品ノ取締丈テ済ム」が,質屋の取締りはそのほかに,「質置人ノ保護即チ貧民ノ保護」が必要であるとし14) ,この条項の挿入の必要をほのめかした。この都筑の発言は,先の東尾案にとり入れられ,そして質屋の貸付制限利率として実現した。その制限利率は,先にふれたように,「貸金二十五銭以下ハー箇月一銭,一円以下ハー箇月百分ノ四(年利48%) ,五円以下ハー箇月百分ノ三(同36%) ,十円以下ハー箇月百分ノ二半(同30%)」であり,当時の質屋の貸付利率に比べてやや低い程度の微温的なものであった。また条文の違反に対する罰則も,利息制限法の場合と同様に「其ノ違反セル部分ニ限リ無効トス」とあるように緩やかであった。
 次に,質屋の質置主に対する質札,または通帳の交付についてふれよう。
第30表 質屋取締法の改正請願
この問題は,第8回議会に提出された東尾案の第5条第2項但書に,「質屋ハ質契約ノ証トシテ質札又ハ通帳ヲ質置主ニ交付スべシ」とあったのを,衆議院で「質置主ニ於テ必要トセサル場合ハ此ノ限ニ在ラス」と修正可決したことに端を発していた。政府の姿勢は,貧民保護の観点からこれを削除し,原案に戻そうとする点にあった。貴族院がその論議の場となった。このことについて都筑は,商法第367条の質権設定は財産上の弱者が強者に圧せられる恐れがあるためにできたが,「質屋の質権……はどうかと云へば質置主は重に細民である,尚更商法の箇条の精神を貫くの必要は一般の場合よりは尚更余計であろう……質置主の即ち細民の保護と云ふ点から」必要である15) ,と強調し,修正条項の撤回を求めた。こうした政府の見解に対して反対もあったが,ついに修正案の削除原案への復帰が決まったのである。
 こうして成立した質屋取締法は,政府と質屋業者の意向を汲んだ法案提出者とのいわば妥協の産物であった。そうである以上,一定の条件が与えられれば,再び対立再燃の可能性をもっていた。
第31表 内務省と全質聯の改正法案
この条件は,日清戦後早くも現れ,爾来大正,昭和期へと持続する。つまり質屋業者からすれば,企業勃興に伴う外部投資の機会が拡大した反面,内部では業者間の過当競争や質屋取締法による営業規制の存続から経営に対する魅力が減退しており,したがってなによりもこの営業規制の緩和ないし撤廃が必要であった。一方,政府・官僚の側からすれば,社会問題の質的変化に対応し,より社会政策的施策の実行が要請されたのである。
 最後に,同法制定後の政府と業者との対抗関係についてふれておこう。この対抗は,質屋業者の請願運動の先行で開始された。いま貴・衆両院の『請願文書表』を整理すると第30表のごとくであり,それは明治末から大正中期にかけて激増している。そして大正8年11月には六大都市質業組合代表者連合会を開催し,「質屋取締法改正意見上申書」を内務大臣に提出した。これに対し内務省では,同9年1月,社会政策的内容をさらに盛り込んだ質屋業法案を作成し,真向から対立する姿勢を示した。両者の質屋改善策は,まったく対蹠的であった(第31表参照)。しかし9年1月に質屋業者がストライキを実施するや,政府は当該法案の議会提出を断念した16) 。こうした政府の態度は,結局,質屋のストライキが細民階級に対する金融杜絶をひき起こし,ひいては社会問題の深化にいっそう拍車をかけることになると判断したからにほかならない。
 それ以降政府は,質屋取締法の改正方針を後退させ,残された公益質屋の普及,さらに法制化をはかりながら私営質屋の営業をけん制しようとする,いわゆる公私併立主義を推進することになるのである。この点については,次稿において詳しく検討することにしたい。


1)質屋に対する幕府の統制が強化されたといっても,自ら限界があった。それは鈴木亀二氏も指摘されているように,取締強化→金融梗塞→人民の困窮が生ずるからである。それゆえに,幕府としては「防犯と融通の適当のバランス」を保ちながら強化してゆかねばならなかったのである(『近世質屋史談』昭和47年,51ページ)
2)内務省警保局編『前掲書」56ページ。
3)東京裁判所編『民事要録 』甲篇,明治8年,768~69ページ。
4)『法令全書」明治6年,787~90ページ参照。
5)東京都公文書館蔵『明治六年一月ヨリ十月ニ至乾部布令留』による。
6)東京都公文書館蔵『東京府布達全書』明治9年,所収の八品商取締規則を参照。
7)徳川時代の褒賞制度については,司法省調査部編『御仕置例類集』第1輯,古類集,昭和16年再版に掲載されているが,質屋のそれには全くふれていないので当時 は存在していなかったものと考える。
8)筆者が各『府県報』や『警察全書』で確認した明治9年8月までの布達府県は,東京,高知,愛媛,千葉,滋賀,奈良,三重,群馬の8府県であるが,内務省が施行府・県に示達した対象は,以上のほかに神奈川,埼玉,長崎,堺,熊谷の5県である(国立公文書館蔵『公文録』2A-9-(公)1847及び1891)したがって第25表に表示した府県よりもかなり多かったものと思われる。
9)当資料は,内務省警保局編『前掲書』に添付された草稿であるが,起案者は不明である。
10)前掲『日本金融史資料』明治大正編,第13巻,昭和34年,432ページ。
11)『同書』431-32ページ。
12)佐藤佳馬「金利沿革」『統計集誌』 第54号,明治19年2月,52ページ。
13)福田丑太郎『質屋取締条例請願書,同趣旨,質屋条例改正案理由書』 明治27年による。
14)『第六回帝国議会衆議院委員会議録』第21号,153ページ。
15)『大日本帝国議会誌』第3巻,昭和2年,163ページ。
16)この点の詳細については,前掲,拙稿「質屋対策立法の展開(2)」66ページ以下参照。
〔附記〕資料の収集にあたって石山昭次郎氏からご助力をいただいた。記して感謝の意を表したい。