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近代日本同業組合史論序説

Author: 藤田貞一郎
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1981年
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目次
1 問題の所在・・・・・・・・・・2
2 株仲間から同業組合へ・・・・・・・・・・6
3 同業組合準則から工業組合法へ・・・・・・・・・・11
4 同業組合の実態と対応・・・・・・・・・・20
5 財閥経営者の同業組合観・・・・・・・・・・31
6 結論的覚書・・・・・・・・・・33


1 問題の所在

 高橋亀吉は,生涯一貫して野に身を置きながら日本資本主義の研究に打ち込んだ。1924年(大正13)の『日本資本主義経済の研究』,1928年(昭和3)の『日本資本主義発達史』は,その初期の研究成果である。
 研究史上に高橋亀吉の名を逸することは許されないが,学界におけるこの分野の問題意識,分析視角,分析手法の礎石を築いたのは,1934年(昭和9)の山田盛太郎『日本資本主義分析』である。同書の中で,山田は日本資本主義発達における産業資本の確立についてこう述べる。
 総じて,産業資本の確立は,一般的には,生産手段生産部門と消費資料生産部門との総括に表現せられる社会的総資本の,それ自体の本格的な意味での再生産軌道への定置によって示され,特殊的には,衣料生産の量的及び質的な発展を前提条件とする所の,労働手段生産の見透しの確立によって示される。かかる確立の時期を,日本においては,略明治30年乃至40年の頃と推断しうる所である。蓋し,第1に。衣料生産における2大副次部門,即ち(1)棉作,紡績,綿織の3分化工程を串く綿業と,(2)養蚕,製糸,絹織の3分化工程を串く絹業と,以上の2系列の原料取得から加工精製に至る迄の諸分化工程を基準とする衣料生産における生産旋回=編成替へは,30年前後には一応の展開を遂げる。第2に,労働手段生産の見透しの確立は,その素材たる鉄の確保とその製造技術の成立とを所要するのであるが,それについて,(1)鉄の確保は,日清の役を機縁とする大冶鉄確保=八幡製鉄所設立と日露の役を機縁とする満洲鉄確保=鞍山製鉄所設立とによって実現し,(2)技術の成立は,一般には,右の両役を通じて世界的水準を凌駕した所の,綜合工業としての造船=製艦技術によって,又,厳密な意味においては,機械を造る機械たる工作機械の,生産指標としての,旋盤の完全製作(38年)によって,解決されてゐる1)。
 このような分析視角を受けて,以後数多くの優れた研究が積み重ねられて来たことは周知のところであろう。だが,ここで反省を要するのは,軍事的半農奴制的日本資本主義における産業資本確立過程を再生産論を適用して明らかにするという山田の研究を余りにも墨守しすぎたために,とりあげられてしかるべき課題でありながら従来比較的等閑視されて来たものが幾つか生じた点である。前田正名の名とともに看過することが許されぬ,いわゆる在来産業問題もそのひとつである。
 由井常彦『中小企業政策の史的研究』(1964年,東洋経済新報社),古島敏雄「産業史Ⅲ』(1966年,山川出版社),尾城太郎丸「日本中小工業史論』(1970年,日本評論社),祖田修『地方産業の思想と運動――前田正名を中心にして――』(1980年,ミネルヴァ書房)の4著は,そうした研究動向の中で逸し得ぬ重要な達成である。
 この在来産業問題と密接不可分の関係を有する一方,徳川期の株仲間の解体過程とも他面関連をもって,戦前期日本の経済史にその存在を主張するのが,ほかでもない本稿の主題たる同業組合問題である。
 山田盛太郎が在来産業問題もさることながら,同業組合問題に全く関心を示さなかったことは,その著『日本資本主義分析』を読めばわかる。本文中では「日本輸出絹同業組合」(45ページ),「長野県生糸同業組合聯合合」(57ページ)と固有名詞の引用が2ヵ所認められるに過ぎず,巻末の付録年表でも,1884年(明治17)の農商務省の同業組合準則,1897年(明治30)の重要輸出品同業組合法,1900年(明治33)の重要物産同業組合法のことは一切触れていない。1900年の産業組合法を基礎的経済過程の事実として記載するにもかかわらずである。
 とはいえ,幸いなことに同業組合問題についても,研究をすすめるに際しての座標軸とすべき先学の業績が幾つか,われわれに与えられている。それら既存の研究を通読するに,同業組合の性格規定ならびに研究方法についてほぼ以下の特徴を指摘できる。
(イ) 徳川期の株仲間との関連に留意する説
 尾城太郎丸2),宮本又次3),岡田与好4),竹内庵5)の4者の理解が,その代表である。一例として宮本又次の表現を引用しよう。
 この株仲間は幕藩体制の動揺によってその特権の稀薄化をきたし,そして明治維新による解放となったわけであるが,その間,通商会社下の市中商社などコンペニーの発生と深くかかわりあいをもちつつ,結局,西洋のギルドより会社への発展過程をとらなかった。ギルドからジョイント・ストック・カンパニーへの道があったのとは異なり,新たに西洋からのコンペニー思想の導入によって発生したのが,日本の会社であった。しかも,この会社組織はなかなかに普及せず,明治5年の株仲間解放令後,多くの会社が成立したように見えても,それはまだ本来の会社ではなく,また別に新しい事業である銀行・海運・鉄道・その他の新事業にのみ採用され,江戸時代からつづく都市商人たちは,むしろ株仲間的性格を濃厚に残存させている仲間組合,ついで準則組合,重要物産同業組合というような,いわゆる組合的結合を再編成することにより,旧くからの経済体制を温存したのであって,とくに大阪においては,この同業組合設置運動が盛んであり,商法会議所もまたこの線にそって旧商業資本の仲間的結合により,経済の不振・沈滞を回復しようとはかっている。このような形で前期的資本の近代化・脱皮がはかられたともいえるし,営業自由の原則もさることながら,それとのかかわりあいにおいて,旧い経営様式がある程度生きのびたことは日本的企業の特色であったといえるであろう。同業組合制度が明治より大正へ永きにわたり存続したようなことは西洋では見ざる所であって,この点日本の経営における特殊性といえるであろう6)。
 上の叙述から容易に理解出来るように,この説は徳川期の株仲間の解体過程の側面に留意しながら同業組合問題を理解しようとし,かつ,営業の自由を否定ないしは制限する組織として把握せんとする。
(ロ)株仲間との関連を否定し,明治政府の営業の自由の基本原則の範囲内にあるものとする説
 由井常彦7),正田健一郎8)の2者の理解が,その代表である。一例として正田健一郎の表現を引用しよう。
 多くの組合は品質・丈量などの規格を定め,それを実現させるために,証紙の貼用,巡回員による作業場検査などの制を設けているので,また,後に産業組織化の推進者達を全国的に糾合する前田は「営業意見」の中で,江戸時代の株仲間の例を引き,今日もそのような組織が必要であるなどと述べているので,産業組織化運動は結局,株仲間=産業規制の復活を企図するものでないかとの見解もあるが,こうした解釈は妥当ではない。何故ならば,いずれの組合の規定にも,営業独占(株の固定)をねらった条項は見当らない。加入に当っては,組合役員の承認を必要とするとの条項は,組織である以上,必ず挿入される形式的条項であろう。信認金の条項もあるが,いずれの場合も非常に少額である。したがって,前記のような産業組織化の趣旨,目的は少数者の私利=規制・独占を粉飾する宣伝文句ではなかったと考えられる。(中略)
第4条(同業組合準則……引用者注)の「組合ノ設アル地区内ニ於テ組合員ト同業ヲ営ム者ハ其組合ニ加入スヘシ……」の文言をもって,強制加入規定とする者もあるが,その理解は正しくない。(中略)
前段で検討したところからも,また,一連の官僚達の理念に徴してみても,民業不干渉方針を見せかけやごま化しとして無視しさることはできないであろう。
それは明治政府の官僚層がもっていた,したがってまた,彼らのおこなった政策に付与された一面の事実であり,特徴であったのである9)。
 上の引用からわかるように,この説は組合と株仲間との関連をきっぱりと否定し,組合非加入者,除名者の営業を禁止するなどの規定を組合は設けてはならないとする態度にも示されるごとく,政府は組合による営業の自由の侵害を許さなかったとする。また経済に対する政府の態度が放任的なものになったと理解している。
(ハ)株仲間との関連は否定するが,明治政府の画一的・干渉的政策の対象であったとする説
 上山和雄10),上川芳実11)の2者の理解がその代表である。一例として上山和雄の表現を次に引用しよう。
 そこには(明治政府の同業組合設立政策のこと……引用者注),組合を単なる同業者の福利増進の機関としてのみ位置づけるのではなく,明らかに同業組合を当時の国家の最大の課題の一つ=「殖産興業」に答えうるものにしていこうとする政策がある。また,その「改良蕃殖」は政府によってなされるのではなく,「協同相結」ぶ同業者の組織によってなされるべきだと把握されている。(中略)注意しておかねばならないことは,組合が生産制限・価格協定などを行ない,「旧幕府ノ治下ニ行ハレシ彼ノ株仲間」の再現になることは強く否認していたということである。(中略)
それは(農商務省の間接的勧業政策のこと……引用者注),『経済雑誌』等が主張していた自由放任政策への転換と信はて非なるものであった。実業者の「自奮ノ気象」を創出し,「殖産興業」の主体として彼らを定置していくために,農商務省は画一的・干渉的な政策を取らざるを得なかったのである12)。
 上の表現も示すように,この説は明治期の同業組合はただ単に株仲間が洋装しただけの組織でもなく,株仲間の延命策を狙った組織でもなかったと,その関連を明確に否定する。が,明治政府の産業政策,すなわち明治10年代以降の間接的勧業政策の一環を構成するものとして同業組合準則に基づく同業者組織化政策を高く評価する。
 以上のごとく,管見するに(イ),(ロ),(ハ)の3説がある。ただし,尾城太郎丸・由井常彦2者の研究以外は,いずれも主として明治期を対象とするにとどまっている13)。また,尾城・由井2者の研究は中小工業問題を討究するに当って同業組合問題に副次的に触れるという手法を採っており,由井にいたっては,同業組合は明治末年以来単なる有名無実な団体であったと評価して,その存在意義を余り認めない。
 このような研究動向にあって異彩を放ち,極めて注目に値する,重要な研究が,小池金之助『同業組合及準則組合』である14)。1939年に昭和図書株式会社から出版されたこの書物は,同業組合そのものを主題とし,しかも座・株仲間から説き起し,明治・大正・昭和の3代にわたって同業組合問題を追跡し,付録として当時の主務省の通牒・裁判の判例を多数掲載する。しかし,どうしたことか,小池のこの書物は従来殆んど利用された形跡がない15)。該書は戦前期にまとめられたものであるだけに,当然のことながら戦後の歴史学の研究成果は取り入れられていない。したがって,殖産興業政策あるいは日清戦後経営策その他の政策展開との関連で,同業組合問題の位置付けをはかることはない。とはいえ,同業組合問題研究史上の極めて重要な成果であることに,いささかの疑念もないといって良いであろう。
 以上に瞥見したような研究状況を念頭にしながら,以下幾つかの論点について同業組合を観察し,その歴史的意義を究明することにしよう。『日本資本主義発達史の基礎知識16)』を執筆した同人連と異なり,同業組合問題は戦前期日本資本主義の重要問題のひとつであると私は考えるからである。本稿以前に筆者はすでに2つの作業17)をまとめ,京都における株仲間のゆり戻しの動き,1934年の全国(商工)同業組合大会における同業組合復権の動きの事実などを,岡田与好のいう「営業の自由」を手がかりに,整理している。そこで,この2つの作業からの知識をも勘案して,論点を以下のごとくに定め考察をすすめることにしたい。
 (ⅰ)維新期,「営業の自由」を宣した明治新政府の主導権のもと解体させられる株仲間体制は,爾後の同業組合体制に対していかなる関連を有するのか。(ⅱ)殖産興業政策あるいは日清戦後経営策など戦前期日本資本主義の経済政策体系の展開過程の中で,同業組合はいかなる位置付けを与えられたか。(ⅲ)そうした政策に対して,同業組合の実態ならびにその対応はいかなるものであったか。(ⅳ)戦前期日本を代表する経済主体のひとつである財閥経営者は,同業組合問題をいかにみていたか。

2 株仲間から同業組合へ

 株仲間とはいかなるものであったか,といまさらここでくだくだしく説明する要もないとも思われるが,行論の便宜上一言触れておこう。以下は,たまたま手近にある高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』(第2版,1974年,角川書店)の説明である。
 江戸時代,幕府・諸藩の許可した独占的な商工業者の同業組合。江戸初期以来商工業の発達に伴い,業者は自己の権益を守る組合・講などの私的な仲間を結成したが,それらを幕府・諸藩が公認,保護したもの。そのため初期の株仲間は外国貿易品統制・警察的取締り・品質管理・価格統制など,御免株と呼ばれ,おもに領主側から設定されたもので,仲間は冥加金を上納した。株仲間には行事(司)・年寄・取締などの役員があり,会所で寄合い,事を決めた。また仲間は独自の行動は許されず,新規の加入は制限された。しかし江戸中期に農村の商品生産が発展し,貨幣経済が浸透し在来の流通機構を破壊する動きが活発になると,既存の問屋商人らは既得の権益を守るためさらに幕府諸藩の力に依存する必要が生じ,また領主側も享保の改革の仲間統制にみられるように問屋商人を特権化して新たな商業統制を行なうことになり,そのためこの時期は未公認の内仲間が出願して,株仲間を結成する願株が普通であった。田沼時代になると,幕府・諸藩は株仲間から冥加金を取り立てこれを保護し,それが重要な財政収入源となったので,この時期には数多くの株仲間が公認された。しかし江戸後期になると仲間の独占が,物価騰貴の一因となり,幕府の利害と一致しなくなると,幕府は天保の改革で,株仲間解散を命じた。だがその結果,いっそう経済を混乱させたため,1851年(嘉永4)新たな商人層を組み入れて再興することになった。しかし開港にはじまる新たな市場関係の動きによって,株仲間の期盤はくずれ,72年(明治5)解散した。
 この辞典は,その「編修のことば」によると,専門的研究者のみならず受験生の利用に耐え得るものとして,また「近代史には特に力を加え」て,編纂されたもののようである。1872年(明治5)の株仲間解放令にみる行政当局の主導性への配慮が余りうかがわれない点が少し気になるが,この650字余りの説明は全体としては株仲間についての今日の共通の理解として良いだろう。ところでこの辞典の不思議な所は,同業組合あるいは重要物産同業組合なる項目が設けられていないだけでなく,一言の言及もされないことである。
 この辞典の編纂に参画した人々の問題意識がいかなるものであるにせよ,日本近代史における同業組合の意義は無視すべからざるものがあるから,これに関する史料は数多く残されている。そうした同業組合の位置付けについては,前節で先学の理解をすでに紹介した。(ロ),(ハ)説の主張するように,時の政府が株仲間の再現を望んでいなかったことは,たしかに否定し得ない一面の史実である。が,ここで注目を要するのは,そうした政府に対して旧来の株仲間業者がとった態度である。1872年10月大阪の藍仲買商の永続組18)あるいは同年11月京都の魚仲買会社19)にみる旧株仲間的性質を濃厚に継承した同業組合の発生などにみえるゆり戻しの動きを看過することは許されぬと思われる。この動きの中に群生する組合が旧来の株仲間の復活そのものでないことは,(イ)説の宮本又次もすでに述べている20)。いま,われわれにとって必要なことは,徳川期久しきにわたって存続した株仲間体制は果して一片の株仲間解放令でもって何らの痕跡も残すことなく雲散霧消したのか,しからずとすればいかなる影を日本資本主義の一環を構成することとなる同業組合体制に残したかということを,木目こまかに究明することであろう。
 大阪におけるゆり戻しの動きが1881年(明治14)10月大阪府達甲第222号大阪堺市街商工業取締法,京都におけるゆり戻しが1883年4月京都府達甲第19号なる制度的措置=法規を生み出すにいたったことはよく知られているところである。また,1884年11月農商務省の同業組合準則が各府県に布達される以前の各府県の同業者組織化(同業組合)政策についても,全国的にかなりの広がりをもっていたことが解明されて来ている21)。株仲間解放令以後における流通秩序の再建という商工業者の要請を主たる背景に設立された大阪商法会議所は,ゆり戻しの動きの中から結成される同業組合の排他性や自由の束縛を弱めようとしたとの指摘もある22)。
 上にみるように,一片の解放令でもって株仲間体制は雲散霧消したのではない。その影を残すのである。次にしばらく,比較的資料が整理されている和歌山県の事例をとりあげよう。
 1884年『和歌山県第7勧業年報』所載の「新宮商法会議所沿革23)」に次の一節がある。
 東牟婁郡新宮地方ノ商業ハ旧藩政ノ頃ニ在テハ商業ノ主ナルモノ其種類ヲ分テ藩庁之ガ株ヲ定メ何商ハ何軒何々ト夫々制限ノアルアリテ恣ニ其業ヲ営ムヲ得ス,之レ甚タ検束ニ過ルモノノ如シト雖モ自然商則立テ其便尠カラス,然ルニ維新以降明治5年ニ至リ諸株ノ制ヲ解カレ従来ノ検束ヲ脱シテ何商業ニ限ラス人民自由ニ営ム事ヲ得ルニ抵リ,商民ノ福利之ニ過キスト雖モ一利アレハ一害来ルハ数ノ免カル可ラサルモノニシテ,従来ノ商況忽チ一変シ随テ好商陸続輩出シ地方ノ公益ヲ顧ズ投機者百出,唯一己一時ノ利ヲ得ン事ヲ計画シ,大ニ地方ノ衰頽ヲ醸成スルヲ以テ,此発起者等痛ク之ヲ慨嘆シ此弊害ヲ矯正シ一般商業改良ヲ謀ルハ商法会議所設置ノ他ニ得策ナシト,終ニ協心合力シ該会所ヲ新宮横町117番地ニ設立スルニ抵レリ,之レ実ニ明治14年12月1日ナリ
 これから,株仲間解放以後の「商況」ノ混乱に直面して,「此弊害ヲ矯正シ一般商業改良ヲ謀ル」べく新宮商法会議所が設置されたことがわかる。「好商陸続輩出シ地方ノ公益ヲ顧ズ」と非難の言葉があることから,商法会議所に結集したのは旧来の商人層であったとして良い。1884年中の会議所記事に次のようなものが認められる。
 同月(明治17年1月のこと……引用者注)12日臨時開会木材及山林物仕込金取締ノ方法ヲ議ス決セス,翌13日続テ開会シ前日ノ議題ヲ審按議了ス
 2月2日定式開会シ木材等ノ価格追々下落スルヲ以テ物品ノ製法ヲ改良シ価格ヲ挽回スルノ途ヲ〓メン事ヲ議ス決セス翌17日再ヒ開会シ前日ノ議ヲ決ス
(中略)
 5月17日定式開会商船ノ水夫賃及仲仕賃ノ事ヲ議ス
 6月14日定式会ヲ開キ新規営業者ノ等級ヲ議ス
 (中略)
 8月16日定式会ヲ開キ米塩問屋総代人ニテ仲仕ノ取締ヲ為サシムルノ事ヲ議ス
 (中略)
 10月18日定式会ヲ開キ諸商業者従来取引上ノ弊害ヲ矯正セン事ヲ議ス決セス翌日前議ニ続キ開会議決ス
 11月15日定式会ヲ開キ物産製造ノ改良ニ着手セン事ヲ議ス
 農商務省の同業組合準則が,和歌山県下に布第82号として布達されるのは1884年(明治17)12月17日のことである。同業組合準則布達以前の新宮では,旧来の商人層が商法会議所に結集し,木材および山林物仕込金の取締方,水夫賃・仲仕賃などの賃金規制,ひろく諸取引上の弊害矯正それに物産製造の改良問題などについて討議していることを,この年度の記事は明示している。
 次に同業組合準則布達の翌年である1885年の会議所記事に目を移そう。
 5月2日定式会ヲ開ク,昨17年12月布第82号及本年2月達第129号達ニ依リ物産改良ノ為メ営業組合ヲ組織シ其規約ヲ設ケン事ヲ議ス
 同業組合準則の布達もあって組合の組織化がいよいよ現実の課題となり,翌1886年にそれぞれの業種につき組合規約が議されることとなる。
 2月(明治19年……引用者注)2日定式会ヲ開キ呉服小間物荒物商ノ組合規約ヲ議ス
 3月6日定式会ヲ開キ米塩問屋及卸小売商ノ組合規約ヲ議ス
 (中略)
 4月4日定式会ヲ開キ木材問屋商ノ組合規約ヲ議シ決セス同七日再議ス5月8日定式会ヲ開キ木材卸売商ノ組合規約ヲ議ス
 6月5日定式会ヲ開キ山物問屋商ノ組合規約ヲ議ス
 (中略)
 9月4日定式会ヲ開キ明治17年10月11月12月議決セシ諸商業者従来取引上ノ悪弊ヲ矯正スルノ件,物産改良ニ着手スルノ件,木材木炭等ノ輸出高米塩等ノ輸入高1ヶ月毎ニ取調ヲ為ス件,及明治18年議決セシ同業組合準則ニ基キ物産改良ノ為メ営業組合ヲ組織シ其規約ヲ設ケントスルノ件,又之ヲ実施スルニ当リ他府県ニ交渉スルモノニアリテハ実際施行ニ困難ノ恐レアルヲ以テ,新宮川沿川[ママ]各村大阪府吉野郡十津川北山等ノ諸郷村及三重県下南牟婁郡ノ内新宮ニ関係スル諸村ノ同業者ト聯合シテ営[ママ]地区ヲ定メ規約ヲ設ケン事ヲ議ス決セス
 上の史料からはその内容を知ることはできぬとしても,商法会議所で同業組合準則に基づき,呉服小間物荒物商・米塩問屋及卸小売商・木材問屋商・木材卸売商・山物問屋商の組合規約についての議論が行なわれたことはたしかである。
 新宮の場合は組合という形をとった同業者組織化の動きは同業組合準則以後のこととなるが,名草郡の蝋燭業ではそれ以前からはじまっている。1882年7月設立の「自治的同業組合」交信社は名草郡日方浦の旧蝋燭仲間に系譜を有し,濫製品の取締を最大の眼目とし,同業者の生産・流通過程に一定の規制を加えようとするものであった24)。
 株仲間解体以後の「商況」の混乱に対処する必要を,行政当局たる県も認めたのであろう。1884年4月1日県庁で開催の勧業諮問会の諮問事項に次の文言が記されている25)。
 一商工業同業組合ノ区域並ニ従前ノ慣法
 説明 商業工業ヲ論セス同業者ハ各組合莫ル可カラス 今其組合ヲ設ケントセハ郡区若クハ町村孰レノ区域ニ依ルヲ便利ナリトスルヤ,亦維新前仲間組合ノ慣法アリシモノハ其組合ノ区域仲間申合ノ要目及組織ノ模様
 同業組合準則が制定される以前すでに,和歌山県は商業工業を問わず同業組合の必要を認めている。そうした同業組合を設立するために,「維新前仲間組合」=株仲間の「申合ノ要目及組織ノ模様」を無視することなく,これを把握した上で方策を樹てようとしているのである。株仲間体制のことはいまだ記憶に新たなものがあったと言わねばなるまい。
 1885年(明治18)10月に結ばれる田辺の「商頁雇主組合規約書26)」に次の条項が認められるのは事の自然の成行であろう。
 第8 甲者ノ雇人ヲ乙者ニ之ヲ望ム事アルモ甲者ノ承諾ヲ経ズシテ之レヲ雇入ルルヲ得ズ
 第9 雇ハレ人不勉強不正ノ事アルトキハ之ヲ解傭シ組合員へ報告スベシ,組合員此報告ヲ受ケタル以上ハ決シテ之レヲ雇ヒ入ルベカラズ
 株仲間は使用者団体的機能を有していたが,そのうちの紛争処理機能を想い出したい。その内容は「雇用する(「抱える」)徒弟の数の制限,養成方法,徒弟および職人の労働条件についての協定,それにかれらの争奪防止が主要なものであった。つまり,労働力の養成・確保と労働条件の協定27)」であった。
 以上,1872年(明治5)の株仲間解放令後もその影が色濃く残っていることを和歌山県についてみて来たが,兵庫県の名塩紙漉業についてもこれが認められる。名塩紙漉仲間は徳川期の1769年(明和6)に確立28)するが,株仲間が解散した後であるはずの1876年に「上ノ兵介」は「紙漉仲間相除カレ」たために,年番行司に詑一札を差入れている。また1884年3月10日に結ばれた漉直し仲間約定書は同年2月17日付の兵庫県甲第13号布達により作成されたものだが,その第2条には以下の文言が認められる。「左之条々ハ勿論,我々営業之者申合規則ヲ犯シ候節ハ,直ニ止業可仕候事29)」。

3 同業組合準則から工業組合法へ

 農商務省は1884年(明治17)11月27日達第37号をもって同業組合準則を定め府県に命令した。その趣旨は,「同業者組合を結び規約を定め,営業上の福利を増進し,濫悪を矯正するを図る者不勘候処,往々其の目的を達すること能はざる趣に付,今般同業組合準則相定候条向後組合を設け,規約を作り認可を請ふ者あるときは,此の準則に基き可取扱此旨相達候事,但し認可の都度当省に届出づべし」ということであった。翌年8月農商務省第35号で「同業組合準則は,専ら重要物産の改良増殖に関する,農商工業者の組織に限り適用すべき儀と心得べし」とあらためて示達したことからも分るように,政府の目標は重要物産の改良増殖にあり決して株仲間の再現そのものを策していたわけではない。しかし,前節で明らかにしたようなゆり戻しの動きはいかんともしがたく,政府の予想を超えた範囲にまで同業組合は設置された。1886年11月末には,全国で商業の組合628,工業の組合404,商工業の組合147,計1579組合に達した30)。
 同業組合準則の第4条は同業者4分の3の同意により同業組合ができた場合,他の4分の1の同業者に対し,その組合に加盟すべき義務を負わせていたが,加盟を拒む者に対しての制裁を加える方法は規定されていなかった。これに対して同業者の間から今一段厳格なる法令を求める声があがり,その結果,1890年勅令第208号(省令府県令等の罰則に関する件)の範囲内で罰則を付し,あるいは違警罪中に組合未加入者を処罰する条項を加えることとなったようである31)。
 組合不加入者に対する罰則を規定した1892年7月京都府令第46号「同業組合取締規則32)」は,こうした流れの産物であろう。
 さて,先にも述べたように和歌山県が同業組合準則を県下に布達33)するのは1884年12月17日のことである。次に掲げる。
 布第82号
 農工商ノ業ニ従事スル者ニシテ同業者或ハ其業上ノ利害ヲ共ニスル者ハ成ヘク組合ヲ設ケ適宜ニ地区ヲ定メ其地区内同業者4分3以上ノ同意ヲ以テ左ノ準則ニ基キ規約ヲ作リ当庁ノ認可ヲ請フヘシ
 同上組合ヲ設ケタル地区内ニ於テ組合員ト同業ヲ営ム者ハ其組合ニ加盟スヘシ但事業ノ規模及趣向ヲ異ニスルカ為メ加盟シ難キカ或ハ加盟ヲ拒ムヘキ事情アルトキハ当庁ニ申出テ認定ヲ請フヘシ
 右布達候事
 明治17年12月17日
 和歌山県令 松本鼎
 さらに翌1885年2月26日,次の布達34)が出される。
 達第129号
 名草海部郡役所
 同郡各戸長役場
 一商工業組合ノ義ハ其営業上福利ヲ増進シ濫悪ヲ矯正スルニ於テ不可欠ハ勿論ノ義ニ付差向左記営業者ハ本県客年12月布第82号布達同業組合準則ニ基キ其組合ヲ設ケ本年4月中認可ヲ受ケ候様郡区長及ヒ戸長ニ於テ専ラ之ヲ督励示諭致スヘシ
 一組合ノ種別ハ左ニ示ス所ニ依ルヘシト雖モ若シ不得已事情アルモノハ分合スルモ妨ナシ但此場合ニ於テハ予メ当庁農商課ニ打合スヘシ
 一組合ノ区域ハ概ネ郡区ノ区域ニ依ルヘシト雖モ其営業上他郡区ニ交渉スルモノハ共ニ聯合シ又ハ営業者一部分ニ集合シ郡区ノ区域ニ依リ難キモノノ如キハ先ツ其重ナル地方ヨリ組合ヲ設ケ随テ他ニ及ホス等ハ実際ノ便宜ニ任スベシ
 右相達候事
 明治18年2月26日
 和歌山県令 松本 鼎
 業名 組合種別
 一漆器 工業者限り
 一綿フラネル 仝上
 一和綛糸 仝上
 一蝋燭 製造問屋仲買
 一酒類 醸造者限り
 一烟草 製造仲買小売
 一売薬 製造者限り
 上の布達から,和歌山県は「営業上福利ヲ増進シ濫悪ヲ矯正スルニ於テ不可欠」として,同業組合準則に基づき組合を設けるよう,漆器・綿フラネル・和綛糸・蝋燭・酒類・煙草・売薬の7業種の営業者に指示したことがわかる。商人仲間と職人仲間は別個の仲間を結成していた株仲間体制と異なり,同業組合体制にあっては商・工業者の区別なく同業者全員の業界団体として組織され得たことは,上記史料も示すごとくである。
 ついで1886年11月12日次の指示35)が下る。
 県令第38号
 左ノ業ヲ営ムモノハ当県明治17年12月布第82号布達同業組合準則ニ基キ同業組合ヲ設ケ又ハ組合ニ加盟スベシ違背シタルモノハ当県違警罪ニ依リ罰セラルベシ
 明治19年11月12日
 和歌山県知事 松本 鼎
 一フランネル製造
 一漆器製造 黒江
 一木材
 一木炭製造
 一醤油製造 湯浅
 一傘製作 日方名高
 一製紙 有田日高
 一綿布製造 伊都
 一綿糸製造 和歌山名草海部
 一建具製造 和歌山
 一霜草烟草 伊都
 この指示から,和歌山県は「同業組合準則ニ基キ同業組合ヲ設ケ又ハ組合ニ加盟スベシ」とし,これに「違背シタルモノハ当県違警罪ニ依リ罰セラルベシ」と,フランネル・漆器・木材・木炭・醤油・傘・製紙・綿布・綿糸・建具・霜草煙草の11業種の製造業者に命じたことがわかる。先にも述べたように,小池金之助の研究によれば,1890年に勅令第208号の範囲内で罰則を付し,あるいは違警罪中に組合未加入者を処罰する条項を加えることとなったとされる。が,和歌山県のこの例はそれよりも4年程先んじている点で注目される。
 正田健一郎は前掲論文で,1885年に政府が愛知県と山梨県の伺に対して出した回答を資料にして,農商務省は準則第4条規定が実現するか否かは組合の自主的な強制力の有無にかかわるとしたのであり,たとえ組合の私約といえども,非加入者,除名者の営業を禁止するなどの規定を設けてはならないと政府は考えていたとする。しかし,そこで引用されている1885年(明治18)3月25日愛知県伺に対する指令も明示するごとく,「同業組合準則第4条ハ組合ノ設アル地区内ニ於テハ,其組合ニ加入セサレハ,組合員ト同業ヲ営ムヲ得サラシムルノ精神ナリ」とするのがその基本的態度であるから,正田論文の説くがごとく準則第4条規定が実現するか否かは組合の自主的な強制力の有無にかかわるとの方針を農商務省がとったとしても,それは一時のことにすぎなかった。1886年の和歌山県令第38号,1890年勅令第208号,1892年京都府令第46号が出現するゆえんである。営業の自由とは相いれない強制加入の精神を,行政当局が認め,かつそれを自ら実践していることは疑い得ない。
 こうして,同業組合準則は違警罪中に組合未加入者処罰条項が付加されたためにその力を増し,全国的に同業組合制度は発達したようである。
 ついで,1897年重要輸出同業組合法が制定される――ただし,同業組合準則は強制加入条項を除き,なお効力を残す。いわゆる準則組合が同業組合法による組合と以後併存することとなる――。いわゆる日清戦後経営の名の下に日本資本主義の再生産構造の重要な一環を形成するものとして同業組合政策は推進された。この点は,竹内庵が「明治中期同業組合政策の展開日本資本主義との構造的連関を中心に――」(1978年度社会経済史学会全国大会自由論題報告,於創価大学)で詳しく追求している。また,小池金之助もはやくから次のように指摘している。「各地方に於て漸次組合制度の発達を見るに至ったけれども,一地方に於て重要なる海外輸出品に粗製濫造のもの其の跡を絶たず,斯くては我が国の貿易全般の上に其の声価を失墜する虞あるを以て,全国同業者の鞏固なる団体を設くるの必要ありと認め,政府は重要輸出品同業組合法を制定し,明治30年4月法律第47号を以て之を公布したのである36)」。
 小池には日清戦後経営の視点は欠けているが,重要輸出品同業組合法が日本資本主義の再生産構造を構築するに際しての重要な礎石の一つをなすものとして据えられていたことは間違いないと思われる。
 それはもとかく,竹内報告のレジュメに重要輸出品同業組合法をめぐる1897年「衆議院議事速記録第32号」の一部が採録されている。その一節に,草刈親明が「此案ハ……個人ノ自由ヲ害スルコト最モ甚シキモノデアル」と述べるに対して,小畑岩次郎が「海外ニ出テ国家ヲ代表シテ出ル所ノ物産ニ対シテハ,個人ノミノコトバカリ言フテ居レマセヌ」とするくだりがある。この点は氏も注意を払って報告されたが,同業組合が「個人ノ自由」――これは営業の自由と読みかえてさしつかえないであろう――を否定する精神に立っているとする批判が,この時,加えられていることに留意しておきたい。こうした批判を押えて,強制加入制の原則に立つ重要輸出品同業組合法が成立するに至るには,小畑岩次郎の意見にみる戦後経営論の立場が強力な発言権をもったことに一半の理由があるのは事実であるにしても,他方,株仲間解散後いちはやくゆり戻し運動をはじめた,強制加入制の理念に立つ商人=問屋主導の同業組合の歴史が大きな影響を及ぼしたことも間違いないところであろう。
 さらに,1900年重要輸出品同業組合法を受け継いで重要物産同業組合法が制定公布される。衆議院では単に重要輸出品ばかりでなく,重要工産品にまでその適用範囲を広げようとして重要物産同業組合法が提出され,両院通過の後,政府もこれに同意したのであった。
 株仲間が使用者団体的機能を有したことは前節でも言及したが,同業組合もまたそうであった。したがって,1898年の第3回農商工局等会議で諮問された工場法案の「第3章職工」の部に,次の条項37)が記されることとなる。
 第20条 農商務大臣ハ同業組合ノ申請ニ基キ必要ト認ムルトキハ該組合員ノ使役スル職工ニ職工証ヲ所持セサルモノハ該組合員之ヲ雇入ルルコトヲ得ス
 第21条 職工証ハ原籍地又ハ住所地ノ市町村之ヲ交付スヘシ但前条ノ場合ニ於テハ同業組合之ヲ交付スヘシ
 諮問案は論議紛糾の末,修正され,委員案が採決された。この委員案にはこの条項はみられない。それにしても,この時期にあっては同業組合の使用者団体的機能が無視できぬものであったことをうかがわせて看過し得ない。
 同業組合の使用者団体的機能が工場法案からいちはやく消えたことを忘れてはならないが,これでもって同業組合の存在意義が消滅したわけではない。日本資本主義の再生産構造の重要な一環を構成するものとしてこれを位置付ける政府の方針は,第1次世界大戦勃発前の1914年(大正3)1月までは堅持されていたと判断して差支えないようである。
 1912年9月,農商務大臣は同業組合の強化を策して,生産調査会に,「重要物産同業組合法改正ニ関スル件38)」を諮詢している。その前書はこうである。
 重要物産同業組合法ハ明治33年ノ制定ニ係リ同業者ノ協同一致ニ依リ営業上ノ弊益ヲ矯正シ其ノ利益ヲ増進セシムルノ目的ヲ達セムトスルモノナリ今ヤ同法ニ依リテ設立セラレタル組合ノ数834,聯合会ノ数33,其ノ経費総額271万余円ニ達シタリ然ルニ之レヲ既往ノ成績ニ徴スルニ事業ノ挙ラサルモノ多数ニシテ法律ノ所期ニ副ハサルモノアリ惟フニ之レ組合経営者ノ管理其ノ宜キヲ得サルニ因ルト雖抑亦法律ノ規定ノ不備ニ由ル所尠カラス仍テ同法ノ改正ハ極メテ必要ナリト認ム是レ本問題ヲ提出スル所以ナリ
 その改正事項は15項目にわたるが,その第5項目は次の通りである。
 5 組合地区内ノ同業者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ加入ヲ免除セラレタル者ノ外別段ノ手続ヲ須ヰス当然組合員ト為ルコト
 生産調査会は幾つかの修正意見を提出しているが,この項目については次のように修正した。
 組合地区内ノ同業者ハ法第4条但書ニ依リ加入ヲ免除セラレタル者ノ外別段ノ手続ヲ須ヰス当然組合員トナルコト
 諮詢案と修正案には若干のちがいがあるにしても,加入強制の精神は一貫して堅持されている。
 また,1914年1月に公刊された農商務省編纂になる松尾音次郎『我国商工業之現在及将来(一名企業集中ト国家)』によると,政府は企業集中奨励法を立案するに際して,同業組合による方法をも構想している39)。
 以上に明らかにして来たごとき,同業組合を日本資本主義の再生産構造の重要な一環を構成するものとして位置付ける政府の方針が一転するのは,第1次世界大戦中の1916年ごろのことと思われる。
 1916年3月,法律第15号をもって重要物産同業組合法は改正される。制定以来はじめてのことである。この改正に関連して同年6月に出された「商第8999号次官通牒 重要物産同業組合及同聯合会ノ取扱ニ関スル件」のなかに注目すべき条項がある。それは「第3 定款ニ関スル事項」についての一節であるが,次に引用する40)。
 3 外国貿易上ニ於ケル売崩ノ弊ヲ防クタメ必要ナル場合ノ外商品ノ価格ヲ組合ニ於テ定ムル規定ヲ設ケシメサルコト
 4 極メテ特別ノ事情アル場合ノ外口銭,手数料又ハ賃金等ヲ組合ニ於テ定ムル規定ヲ設ケシメサルコト
 (中略)
 6 組合員ノ使用スル職工又ハ雇人ヲシテ直接ニ組合ニ対スル義務ヲ負ハシムル規定ヲ設クルハ定款ヲ以テ組合員外ノ者ヲ覊束セムトスルモノナルニ依リ不可ナルコト
 7 既ニ解雇セラレタル職工又ハ雇人ト雖前雇主ノ承認ヲ経ルニ非サレハ他ノ組合員ハ之ヲ使用スルコトヲ得サル旨ヲ規定シ之ニ違背シタル者ヲ違約処分ニ付セムトスルカ如キ規定ヲ設ケシメサルコト
 政府が「同業組合定款ノ規定ニ付テハ左記事項ニ注意スルコト」として,このような内容の指示を与えたことはいったい何を意味するか。3と4の条項から,同業組合の価格規制機能と賃金規制機能を否認していると理解できる。6と7の条項からは,雇傭規制機能を否認していることが明らかである。すでに述べたように,株仲間には使用者団体的機能があったが,その後に登場した同業組合もその機能を保持し続けていたことは,1885年田辺の「商頁雇主組合規約書」あるいは1898年第3回農商工高等会議で諮問された「工場法案」の案文が明確に示唆している。
 価格規制機能と賃金規制機能の否認については,すでに1911年の8月と12月の工務局長通牒に「準則組合ト雖モ組合ニ於テ販売価格ヲ一定スヘキ規約ヲ設クルハ穏当ナラス」,同年11月の「大臣ノ変更命令」に「組合ニ於テ製品工賃ノ等位ヲ定ムルハ産業ノ自由ヲ妨害スルノ弊ヲ生スル虞アルヲ以テ如斯定款ノ規定ハ之ヲ無制限ニ認容スヘキモノニ非ス41)」とある。したがって,政府の同業組合政策の転換点は少し時期を遡らせる必要があるかとも思われるが,1912年の「重要物産同業組合法改正ニ関スル件」の前書ならびに諮詢案,1914年の企業集中奨励法立案の際の構想,それに爾後の工業組合法制定に至るまでの政策展開の有様から判断して,決定的転換点は第1次大戦中の1916年ごろと考えたい。
 このように,営業の自由とは対立する理念=加入強制に基礎を置く同業組合を否定する動きが,政策に明確にあらわれて来るのは第1次世界大戦期のことと思われる。
 1918年に登場する公設市場は,1922年の「公設市場改善要項」が「市場商品の販売価格を牽制せんとする同業組合の取締を励行すること」と明示するように,本来同業組合否定策のひとつとして同一種類の商人を競争状態におき,掛売・掛買制度をとらず,買手に選択の自由を与える市場機構として政府が期待をかけたものであった。
 また,1910年代に入って急速な成長を遂げる百貨店と同業組合の間に加入義務をめぐって数十件の訴訟事件が起きたが,当時はことごとく百貨店側が敗訴せしめられた。この紛争はその後も繰り返されたが,1928年6月に至って,重要物産同業組合法第4条但書に基づき,商工大臣は百貨店は同業組合に加入する必要なしと決した。百貨店側は同業組合を拒絶する理由の第1に「百貨店は極めて多くの種類の商品を扱ってをる故,一一それに該当する同業組合に入っては莫大な経費を支出せねばならなくなり,かくては営業に対する妨害となるからである」とした。また第2に「各同業組合には夫々の規約なり定款なりがある故,一一これを守ってゐては一個の商店としての統一が失はれて了ふ」ともした42)。営業の自由という用語は明示されていないが,それに近い内容のものを百貨店側が追い求め,商工大臣が認定したと判断してよいように思われる。
 少し時日が遡るが,1926年に商事調停法が公布・施行されたことも,同業組合否定の動きとして看過できない。重要物産同業組合法は施行規則において,仲裁判断ないし調停の権限を同業組合に与えているからである。
 こうした政府の側からする反同業組合政策については,由井常彦の前掲書が豊かな資料を提供しているので,以下本稿の問題意識に従ってそこから摘記しよう。
 1917年の末ごろから,農商務省当局は中小工業者間の協同事業促進のために重要物産同業組合法の改正を検討しはじめた。しかし,同業者全貝の強制加入制による同業組合法の趣旨からしても,また当時商業資本を支配的勢力とする同業組合の実情からも,改正案の成立はきわめて困難とみられ,結局実現されなかった。
 中小工業を近代的な産業資本として維持・育成し中小工業経営をめぐる従来の流通・金融機構は,いまや積極的に排除さるべき前期的な存在とみなす動きは1924年頃から顕在化する。1926年に印刷された商工省商務局の「内地向重要商品取引事情調査」は中小工業の維持育成をはかる道は,産地の商業資本の排除にあると明記している。
 右のような動きの中に制定されたのが1925年の重要輸出品工業組合法である。工業組合の事業のひとつに,従来同業組合の機能であった品質・製品の検査取締りも加えられたのは,まことに当然といっていい。
 昭和恐慌後の1931年,同業組合に対する政府資金の融通案が政治的運動として台頭したが,政府ことに商工省は,すでに確立した工業組合の育成を根本方針とする中小工業政策に相反するとして認めることができなかった。
 同業組合組織を足がかりとする商業資本の勢力を抑制しながら,産業資本としての中小工業の経営の維持・安定をはかろうとするのが商工省の政策観であった。1930年3月の商工省工務局「重要輸出品工業組合法ノ改正ニ関スル資料」の一節を左にあげよう。
 1 工業組合ヲ重要輸出品ノミナラズ中小工業全般ニ及ボスベキコト
 2 問屋資本主義ノ勢力駆逐ノ為工業組合ニ商人ノ加入ヲ許サザルコト
 3 大工業ヲ加入セシメテ統制ノ実ヲ挙ゲルタメ聯合会ヲ設ケ大工業ハ1組合トシテ取扱フコト
 4 加入ニ就テハ任意ナルモ一定地区ニ於テハ全部ガ強制的ナル統制ヲ愛クルモノトスルコト
 5 同業組合カラ工業組合ヲ脱退セシメルコト
 この趣旨を盛り込んで,重要輸出品工業組合法が改正され,適用範囲が国内向産業にまで拡大した工業組合法が成立するのは,翌1931年のことである。ついで1932年には商業組合法が制定され,商工を分離する組合体制が,ここに制度的に完成する。
 以上で明らかなように,株仲間解散後の政府の同業組合政策は,制度的には同業組合準則――重要物産同業組合法――工業組合法・商業組合法という経過を辿って来た。が,ひとつ不思議なことは,これらの法制が相互に否定し合うのではなく,制度的には併存していたという事実である。小池金之助もはやくからこれに気付き,前掲書中にこう記している。「我が国の組合法制中で著者(小池のこと……引用者注)が実際奇異に感ぜられるものが二つある。一は同業組合準則を廃止せずして同業組合法を制定したることと今一つは工業組合,商業組合,貿易組合の制度を設けながら,同業組合を其の儘と為しあることである43)」。
 その理由を究明することは,興味ある今後の課題である。
 それはともかく,同業組合に国法上の依り所を与えていた重要物産同業組合法が廃止されるのは第2次世界大戦の最中1943年3月12日のことである。この時,同じく工業組合法と商業組合法も廃止されて,あらたに商工組合法が同年7月20日から施行される。
4 同業組合の実態と対応

 前節で述べたように,同業組合準則あるいは重要輸出品同業組合法ならびに重要、物産同業組合法を制定するに当って,政府の目標は輸出品を中心とした重要物産の改良増殖にあり,決して株仲間の再現そのものを策していたわけではない。1911年11月の「大臣ノ変更命令」の文言にもあるように「産業ノ自由」を政府が標榜していたことは疑い得ない事実である。しかし,1897年の重要輸出品同業組合法をめぐる衆議院議事速記録に記された小畑岩次郎の「海外ニ出テ国家ヲ代表シテ出ル所ノ物産ニ対シテハ,個人ノミノコトバカリ言フテ居レマセヌ」の発言に示されるように,こと対外関係という次元になると,「個人ノ自由」を害するとする批判を容易に押し切り得たのが,営業の自由についての当時の一般的思潮であった。そうした思潮はいったいどういう事情から形成されたのか。ここで,検討を要するのが,同業組合の実態である。
 前節までの関連も考慮に入れ,和歌山県の事例を見ることにしよう。
 1886年2月の『和歌山県勧業報告』52号所載の名草海部2郡フランネル織同業組合の規約44)に次の条項がある。
 一職工ノ賃銭ハ組合定額ヲ以テ支給シ私ニ之ヲ増減セサル事
 一同業者ニ使役セラルル職工ヲ其承諾ヲ得ス私ニ雇使セサル事
 (中略)
 一組合同業者製造ノ布類ニ証紙ヲ貼用セサルモノハ互ニ売買スヘカラス又地区内ニテ組合ニ加盟セサル同業者ト一切取引セサルモノトス
 賃金規制機能・雇傭規制機能を有する,使用者団体としてのフランネル(=綿ネル)織同業組合であること一目瞭然であろう。3番目の条項は,取引規制機能を示している。
 上の状況は,1902年頃も続いていたようである。同年6月の『和歌山市の商工事情』の一節に綿ネル業についての次の記事45)がある。
 同業組合
 和歌山市・海草・有田二郡の製織業者は組合を組織せること前述の如くなるが,其目的は粗製濫造並びに職工誘奪の弊害を防止し,職工の賃銭を一定し,又下受人及び職工を監視するにありて,明治18年の創立に係り,現行規約は33年1月に改正せられしものにして,左の6種業者の組合なり
 1 綿ネル織業
 2 毛糸交せ織業
 3 金巾織業
 4 綿布織業
 5 綿ネル着尺物織業
 6 前項織物の仲買業
(小売業者を除く他,委託販売其他を総称す)
 和歌山市に於ける組合員中10分の6は製織業者にして,其余は販売業なり,而して此組合に加盟せざる同業者とは一切取引せざるものにして,取締の目的を達する為め組合者が確守すべき条項左の如し
 (中略)
 2 職工賃銭は組合の定額を以て支弁すること
 3 組合同業者に於て雇使する処の織工機場下受人は,其雇主の承諾を得ずして組合同業者中之を使用せざること
 同業組合の賃金規制機能は海草郡製傘同業組合の場合にも認められる。次は1903年10月の決議46)である。
 海草郡製傘同業組合総会決議
 我組合は従来より職工賃金上下に関する場合は直下げにありては組合総会を開き職工行司を招き一朝直下げの報告するや職工行司等は悉皆工者を召集し実況如何に不拘同業組合より提出せる直下げを取消さんと企図し数日間冗議と冗日とに時日金銭を費消せざるはなく又直上げにありては職工人総会を開き前叙に異ならざるの手段を以てす,之に要する費用嵩み来り工者自弁する能はさるの結果終に我組合より補助を与ふるか或は貸与せさるを得さるに至らしむ,依て我組合は今般総会開催の上従前の悪慣を一掃し之を矯正せんがため左之条項を決議す
 1 自今賃金上下に関する場合生したるときは組合員過半数の申込あらざれば集会をなさざるものとす
 2 自今賃金直上げのために職工人より組合へ直接に集会申込あるも一切係せす又直上げの請求は各職工人は各自雇主に就き請求なさしむる事
此請求を受たる同業者は直に組長へ其額及理由を記名調印の上報告すべきものとす
 3 自今賃金直下げの場合は組合員半数の申込あるときは組長は組合総会開き
練議其額を定め其決議に基き書式を交付するを以て各自使用工人に通知すべし
 但此場合に於て職工人に於て承諾せさるものあるときは此旨組長へ報告すべし
 4 賃金直上げのため我組合総会を開きたるときは其額を定め決議に基く書式を交付し其上組合員より各使用の職工人に其旨通知すへし
 此場合に於て職工人承諾せざるものある時は其旨組長へ報告すへし
 やや長い史料引用となったが,海草郡製傘同業組合が,従来「職工賃金上下に関する場合」,直下げ,直上げの両者とも,組合が「職工行司」と交渉するという形をとっていたことがわかる。この方式がこの時点で幾分改められたことをこの史料は示しているのだが,「自今賃金上下に関する場合生したるときは組合員過半数の申込あらざれば集会をなさざるものとす」とし,さらにまた「自今賃金直上げのために職工人より組合へ直接に集会申込あるも一切係せす又直上げの請求は各職工人は各自雇主に就き請求なさしむる事」として,一見組合が従来ほどには賃金交渉の矢面に立たなくなったかの感を与えるが,実は3と4の条項に明示するごとく,値上げ,値下げの両者とも組合総会でその額を定めることになんら変りはないのである。ただ,集会開催の条件が組合員過半数の申込を要すると,厳しく限定されるようになったにすぎない。
 材木商についての事情はこうである。1907年の調査である『農商務省山林局室蘭外16市場木材商況調査書47)』によれば,仲買の組合として和歌山木場立木材商同業組合があり,問屋と仲買を含む材木商の実態について次のように記している。
 問屋及仲買ハ,維新前迄ハ株制度ニヨリ営業セシニヨリ自ラ其人員ニ制限アリシモ,現今ハ此株制度廃止セラレタレバ,何人ト雖モ自由ニ木材商ヲ開店スルコトヲ後,然レドモ初メテ問屋ヲ開業セント欲セバ,入会金トシテ一時ニ金1200円ヲ出シ,荷主及仲買人ノ承認ヲ得ルヲ要ス,又仲買ヲ開業セントスル者ハ,50円ノ信認金ヲ出ス外ニ250円ノ加入金ヲ出シ,1人ノ保証人ヲ立テ其旨問屋へ通知シ問屋ノ承諾ヲ得サル可カラス,サレド仲買商タルニハ仲買組合員ノ推選(薦)承認ヲ得ルヲ要スルト,木場立市場ニ立ツテ売買ヲナスニハ相当ノ経歴ヲ要スルトニヨリ,何人モ直チニ仲買タルコトヲ得ズ,即尚隠然昔時ノ株制度実行セラレアレバ,一仲買人ニシテ雇人等ノ名義ヲ以テ,自己以外ニ二,三仲買名義ヲ所有スルモノアリ
 すなわち,明治期も後期の時点において,なお材木商にあっては,株仲間体制の商慣習が残存していることを報じているわけである。
 以上にみたような,和歌山のフランネル織同業組合・製傘同業組合・木場立木材商同業組合にうかがえる株仲間体制の残影は,地域的にも認めることができる。
 第2節で触れた兵庫県の名塩紙漉業者が1890年に締結した「名塩製紙組合規約」の第37条48)はこうである。
 傭入及ヒ職工ノ内,甲家ヨリ脱去シタル者ニシテ,乙家ニ傭入タル場合ニ於テ,若甲家ヨリ正当ノ理由ヲ以テ,故障ヲ申シ来タルトキハ,乙家ハ示談,又ハ解催(傭イ)スベシ
 1885年田辺の「商頁雇主組合規約書」,1886年名草海部2郡フランネル織同業組合の規約,1902年頃の綿ネル業の雇傭慣行にみられる同業組合の使用者団体としての雇傭規制機能が,この名塩製紙組合にも認められる。かかる同業組合の雇傭規制機能を明確に否認したのが,第3節であげた1916年6月の次官通牒であった。
 1894年の伊勢崎織物商工業組合規約の第3章第7条の8項目に以下の文言49)がある。
 賃業者及職工ノ取締法ヲ設ケ旧来ノ悪弊ヲ矯正スル事
 第7章第42条50)は以下の通りである。
 本組合ノ区域内ニ於テ第1条(本組合ハ織物製造業,原料染色業,原料染糸商,原料蚕糸商,織物買次商,織物仲買商ヲ以テ組織ス……引用者注)営業ヲナスモノハ必ス本組合ニ加盟スヘシ
 但シ区域外ノモノト錐モ此区域内ニ来テ営業ヲナサントスルモノ又[ママ]ハ本条ノ規定ニ拠ルヘシ
 第12章第70条51)は違約者処分を規定する。
 第3条ニ定メタル組合区域内(本組合ノ区域ハ佐位郡,那波郡,新田郡,南勢多郡,東群馬郡及前橋市トス……引用者注)ニ於テ本組合ニ加盟セスシテ同業ヲ営ムモノアルトキ組合ハ之ヲ其ノ筋ヘ具申スヘシ区域外ノ者ト雖モ此ノ区域内ニ来テ同業ヲ営ム者亦同シ
 同時に定められた「伊勢崎織物商工業組合規約付則第2」は「職工使用人賃織業者ニ関スル規程52)」であり,次のような条項が見える。
 第1条 本組合員ニ於テ職工又ハ使用人ヲ雇使セントスルトキハ其本籍姓名身分生年月日及当業ノ履歴書ヲ添ヘ組合事務所ヘ届出ツ可シ
 第2条 前条ノ届出アリタルトキハ事務所ハ左記雛形ノ証票ヲ付与ス
 第3条 職工又ハ使用人ハ常ニ証票ヲ携帯スヘシ
 (中略)
 第5条 職工又ハ使用人ヲ雇入ルルトキハ必ス雇傭者間ニ於テ給料其他当業事項等ヲ契約スヘシ
 (中略)
 第12条 職工又ハ使用人ニシテ雇主ニ対シ借越又ハ身分上ノ関係ヲ有スルモノハ其承諾ヲ得タル後チニ非サレハ他ノ職工又ハ使用人トナルコトヲ得ス
 伊勢崎織物商工業組合が1894年の時点で,加入強制の理念の上に立ち,賃金規制機能と雇傭規制機能を有する組合であったことがよくわかる。「職工使用人賃織業者ニ関スル規程」の第2条および第3条にあらわれている雇傭慣行が,1898年の第3回農商工高等会議へ諮問された「工場法案」に,同業組合が職工に職工証を交付するという条文が書き込まれるに至った理由,いわば社会経済的基盤であったとして良いであろう。
 1900年前後の時期の同業組合が雇傭規制機能を有していたことは,1898年の大阪府「泉南郡木綿同業組合定款」にも認められる。その第11章には「下職及ビ機場取締規定」が設けられている。しかし,1904年の「泉南郡木綿同業組合定款」には,前の定款では重要な意味を有していた下職・機織工規定がすべて脱落している。竹内庵はこれについて農商務省の政策方向と関りがあるという興味ある指摘を加えている53)。この頃から農商務省の政策は同業組合より雇傭規制機能を取り上げる方向を採ったのであろうか。
 間宏は,1888年大日本綿糸紡績同業連合会が,政府に同業組合準則の適用を申請したのは,同業組合の有する使用者団体的機能を制度の上で確保したいとするところに狙いがあったと指摘している。この申請は,同業組合準則は小事業に適用すべきもので紡績業のような大事業に適用すべきものでないという理由で,政府は却下した54)。それにしても,当時の同業組合の実態がいかなるものであったかをわれわれに示唆してまことに興味深い挿話である。
 加入強制の理念の上に立ち,価格規制機能・賃金規制機能・雇傭規制機能一もちろん信用保持機能を忘れてはならないがを有するのが少なくとも明治期の同業組合の実態であったように思われる。こうした同業組合から加入強制の理念はそのままにしておいて,価格規制機能・賃金規制機能・雇傭規制機能を制限して行ったのが明治中期以後の政府の対同業組合政策であったと判断してよいのでなかろうか。前節で引用した1916年6月の次官通牒は,そうした政策の仕上げであったといえる。
 1933年3月,東京商工会議所は「重要物産同業組合の価格協定に関する建議55)」を行ない,こう述べている。
 重要物産同業組合の価格協定に関しては,大正5年6月農商務次官通牒を以て之を禁止せられ,爾来十有八年を経過し其の間経済事情に著しき変化を生じたる為め,今日に於ては通牒示達当時に於けるが如く価格協定による当業者間の暴利若くは不自然なる物価下落阻止等の弊害を生ずる虞なきに至りたるのみならず,右通牒の実施は反って中小商業の統制を乱し価格売崩しを誘起し,其の弊宴に寒心に堪えざるものあり,加ふるに一方に於て工業組合並商業組合等に於て当業者の価格協定を認められたる今日に於ては,須く該通牒を撤廃し監督官庁の認可を得て当業者の合理的価格協定を許可し,以て健全なる斯業の発達に資せられんことを切望す
 この建議が全く受け入れられず,同業組合に価格規制機能が再び認められることのなかったことは爾後の歴史が雄弁に物語る。
 ここに触れた次官通牒以後も,1920年佐世保市では,同業組合およびこれに類似するものを直ちに解散して自由販売をせよとする佐世保海軍工廠職工の組織する不買同盟の運動,1921年東京府では,組合定款の変更を命じ,白米商・牛乳商・酒・醤油・売肉・洋服の各同業組合が標準価格の設定するを禁止し,値段の申し合わせを許さないとした事実などが記録されている56)。
 明治期に成立する同業組合が,価格規制機能を有していたことが,これでよくわかるであろう。
 前節で述べたように,加入強制の理念に立つ同業組合の切り捨てを決定的に宣したのが工業組合法の制定であり,ひいては商業組合法の制定である。
 工業組合の普及発達に,工業組合中央会主事として活躍した佐野卓男の著書『工業組合運動の第一線より』には,問屋資本を中核とする同業組合に対する反定在としての工業組合という図式が,明らかに根底に据えられている。佐野は冒頭の「工業組合とは如何なるものか」と題する章で,「工業組合制度の由来」を説明してこういう。
 同業組合法及産業組合法は共に明治33年に施行せられ,前者は営業上の弊害を矯正して業者の利益を増進し,後者は産業又は経済の発達を図る為,経済事業を営むを目的として居る。両者其の精神に於ては一つであるが唯手段方法に相違がある。前者は消極的施設をなすもので,後者は積極的経済施設を営むものと言ふことが出来る。即ち同業組合は製品検査を主とし,以前には価格協定や労働条件の取り極め等をも時に行ふことが出来たが,現在に於ては原則として之れを行ふことが出来ないこととなった。又産業組合は産業経済に必要なる物の共同購入,共同加工,製品の共同販売,共同作業場の経営,金融等の事業を営むものである。
 故に同業組合が其の事業である業界の弊害防止を徹底的に行はんとすれば,各種の積極的事業を併せ営むに非ざれば其の効果は期し難い所であり,これを行はんとすれば結局同一組合員を以て産業組合を組織する必要を生じ,其の不便なことは言ふ迄もない処であるのみならず,同業組合は工業者のみならず商業者を包含するから時に利害相反し,効果を挙げ難い場合もあり,又産業組合は主として農村に発達し来り,其の性質上工業者の組織に充分でない事情も存在し,従って工業に関する限り,真に其の実情に即して之が発達を策する為には,両者を打って一丸としたる組合制度の必要を認められたのである。
 そこで政府は従来の同業組合法及産業組合法の両制度を其の儘とし,一方新に大正14年重要輸出品工業組合法を制定公布し,かくて工業組合制度の誕生を見た。
 佐野の説明には産業組合問題に対する配慮が強くあらわれているのが特徴である。当時の農村問題に対する関心に出たものでもあろうか。それはともかく,先にとり上げた1930年3月商工省工務局「重要輸出品工業組合法ノ改正ニ関スル資料」と同じく,佐野が工業組合を問屋資本を中核とする同業組合と全く異なるものと理解し,その上で工業組合の普及発達に東奔西走したことに相違はない。以上に引用した文章に続いて「工業組合の組織」について記す。「要之同業組合が問屋商人をも包含して組織するのとは異り,工業組合は工業者のみを以て組織する仕組である」。
 以上で明らかになったように,政府の同業組合切り捨て策は大正期の1916年以後あらわになる。ここに当然,同業組合側からの反対運動が起きて来る。先に言及した1933年3月東京商工会議所の建議はそのひとつにすぎない。
 同業組合に対して決定的とも思える打撃を与えたのはいうまでもなく工業組合であるから,最大の反対運動はこれをめぐって記録されている。1934年大阪で開催された全国(商工)同業組合大会58)がそれである。
 近時工業組合或は商業組合等所謂任意加入制度による営利的組合制度の設けらるるに及び政府当局の方針は同業組合の存在を殆んど閑却せられたるやの観有之兎もすれば之等営利的団体の発達促進政策にのみ意を注がるるが如き傾向にも相見へ候,斯くの如き情勢にて放任せば全国に渉る八百三十有余の商工業関係同業組合の存立を危ふからしめ延ひては国家産業の隆替消長にも大影響を及ぼすべき儀と存候
 上記は,各種同業組合に対するその案内状の一節である。大会開催の動機をよく伝えているので引用した。
 強制加入方式をとる同業組合を否定する動きは,大正期以来様々な形をとってあらわれて来たが,この時最大の関心を集めたのは工業組合問題であったと思われる。大会決議のうちの「現行法規ノ改正並ニ運用ニ関スル件」に次の文言がある。
 (9)同業組合ニ生産統制権ヲ賦与スルコト
 (中略)
 (11)工業組合ニ付与スル工業者ノ利益偏重的統制ハ之ヲ是正セラレタキコト
 (12)同業組合ノ設置アル地域ニ於ケル商業組合,工業組合ノ構成分子タル業者ノ資格ノ有無ニ付地方官庁ハ当該同業組合ニ諮問セラレタキコト
 同業組合検査権確立問題について,大会当日,大阪織物同業組合が問題提起を行っている。すなわち,1925年の重要輸出品工業組合法の制定によって,「同一品種ニツイテ両組合ノ検査ノ競合トイフ問題力惹起」したとして,「業種ニヨツテモ異ルデアラウカ一部ノ商品ニトツテハ専ラ問屋テアツテコノ場合問屋ノ組織スル同業組合ニ絶対的ノ検査権ノ付与アルコトハ蓋シ当然ノ方策ト言ハネハナラヌ」と主張している。これからも,商人=問屋に主導権のある同業組合が,問屋から自立した工業組合によってその存立が脅かされていることがわかる。
 同業者は,商・工業者の区別なく各地における同業者全員の業界団体として組織されるものであっただけに,工業組合問題は同業組合に依拠する商人=問屋にとっては由々しき出来事と映ったのである。同業組合側は「工業組合法・商業組合法ノ制定発布ニ伴ヒ各府県当局ハ其新設ヲ懲悪スルニ急ナル為力其業種業目ニ属スル同業組合員トシテ資格ナキ者若シクハ資格アルモ同業組合加入ヲ拒否シツツアル者ヲモ其組合員トシテ認メ加入ヲ許可サレツツアルカ如キハ同業組合ノ強制加入権ヲ為政者自ラ破壊サルル結果トナル」と政府に対して苦情を述べた。
 大会は「商工関係組合ノ根本方策確立ノ件」について次のように決議した。
 同業組合,商業組合,工業組合,輸出組合ノ各組合ハ現在ニ於テ対立的ノ弊ニ陥リ之レカ機能ヲ失フ現状ニ鑑ミ宜シク同業組合ヲ母体トシテ緊密ナル関係ヲ保持シ相互協力ノ下ニ機能ヲ発揮シ完全ナル統制力ヲ具備セシムル様現行法規ノ適当ナル運用ヲ希望スルト共ニ必要ニ応シ之ニ伴フ関係組合法規ノ改正ヲ要望ス
 同業組合を母体とせよとの大会決議を提げて実行委員は1934年から35年にかけて5度にわたって商工省に陳情を繰り返したが,何の成果も得られなかったのである。大会決議の要求項目には,強制加入権の確立,商事紛議調停権の付与,価格協定の認可などがあったが,どうしたことか雇傭規制機能に関する分野の要求は一切行われていない。1911年に成立・公布され,16年から施行された工場法の重みをはねのけることはもはや考えられない。日本資本主義の発展はそうした段階に立ち至っていたからかも知れない。いずれにしても極めて興味ある事実である。
 前回大会の決議は実現されない。その挫折を乗り越えて,1938年3月18日再度,同業組合全国大会が,この度は東京で開催された59)。同年の第73帝国議会には「重要物産同業組合法中改正法律案」が原玉重ほか13名――第1読会で提案理由を説明したのは世耕弘一である――の議員により80名の賛成者を得て提出されていた。この法律案の成立を希望し気勢を挙げるためであった。
 宣 言
 今次支那事変ヲ契機トシ,今ヤ我国ハ未曽有ノ非常時局ニ際会シ,経済界ノ全面ニ亘ツテ統制強化ガ一層要請セラルルニ至レリ。
 仍テ統制強化ヲ本来ノ使命トナシ,而モ強制加入権ニ依リ同業者全部ヲ挙ゲテ,国家産業ノ発達ニ一大貢献セントスル職能団体タル,同業組合ヲシテ活動セシムルコトコソ,此ノ際最モ有効且適切ナル喫緊事ナリトス。然リト雖モ,同業組合ヲシテ現下ノ非常時局ニ即応セシメ,真ニ其ノ機能ヲ遺憾ナク発揮セシメントセバ,現行同業組合制度ノミニテハ,尚未ダ不充分ナル点勘シトセズ。
 茲ニ於テ時勢ニ即応スベク,重要物産同業組合法ノ適切ナル改正ヲ施シ,其ノ機能ヲ充分ニ発揮シ,以テ経済事情ノ変化ニ適応セシメ,現下ノ非常時局ニ際シ,一層国家産業ノ発達ニ貢献スル所アラントス。
 右宣言ス
 決 議
 吾人等ハ一致団結,以テ重要物産同業組合法中改正法律案ノ,今期議会通過ノ実現ヲ期ス
 右決議ス
 昭和13年3月18日
 同業組合全国大会
 このように同業組合全国大会が議会通過を希望した法律案の要点は,その「重要物産同業組合法中改正法律案理由書」に明記されるごとく,強制加入権の強化と経費の強制徴収権の獲得にあった。今回の同業組合全国大会の「同業組合法一部改正
ヲ要望スル理由」を,前回の大会決議と比べて特徴あることは,わけても商業組合の出現を非難していることである。前回のようには工業組合はもはや主たる攻撃目標ではない。「同業組合ノ全組合員が,其ノ儘工業組合ニ変リタル場合,又ハ同業組合ヲ背景トシテ其ノ資助ヲ受ケ,円満ニ事業ヲ遂行シツツアル工業組合ハ別トシ」という文言すら記されるに至っている。同業組合からはなれて,工業組合が設けられるという歴史の流れは食い止めることができない。その事実を認めたのであろうと思われる。しかし,強制加入を特徴とし問屋資本を中核とする同業組合は商業組合の出現を容認することはできなかった。同業組合全国大会で配布された実業組合連合会発行のパンフレットに注目すべき一節がある。重要なのでいささか長いがここに採録する。
 同業組合の歴史には,以上の如く其の時代の影響により消長推移はあっても,其間一貫して通ずるものは仲間の誼,同業の親みであって,如何なる圧迫に会するもこの精神的結合には些の変りもなかった。同業組合は斯の如く,其の真底に流るる美しき共存共栄の精神的集団力を有するが故に,消極的事業のみを以てしても,尚ほよく今日の発展を見るに至ったのである。
 殊に大阪市の如きは,旧幕時代より多くの株仲間,組問屋発達し,物資の生産,配給に特殊の機能を発揮してゐたから,其の勢力は今日に於ても牢固として抜くべからざるものがある。中小商工業発達の真因が問屋,下請業者の共存共栄的良コンビに基けることは,何人と雖も疑はざるところであつて,更に今後と雖も,我が大阪市の如きに於ては,全国的物資の配給上重大なる使命を有する問屋卸業者を除いては,如何なる組合を作るも全産業の健全なる発達を望むことの出来ないことは,あまりにも明瞭である。
 同業組合に於ては,特定の重要物産に付其の生産製造又は販売を業とするものは,総て之を同業者なる範囲に属せしめてゐるが,商業組合に於ては原則として同一種類の商業者を以て組合を組織すべきものと定め,特別の事情ある場合のみ2種以上の商業者を以て之を設立し得るものとしてゐる。(工業組合又之れに準ず)即ち商業組合に於ては,先づ生産者製造業者を除き,次に問屋,卸売業者,又は仲買業者等は仮令販売関係に於て同一であり取扱商品も同一であつても,業態を異にするものとして之を除外し,小売業者のみを以て組合を組織せしむることとし,卸売業者は卸売業者のみを以て組合を作らしむることとしてゐる。
 蓋し商業組合創設の当初に於ては,問屋,卸売業者,製造業者は小売業者と利害を異にし前者は常に後者を圧迫するの状態にあるを以て,弱小なる小売業者のみを団結せしめ以て大資本に対して自己の利益を擁護せしめんとするのが主要な目的であつたのみならず斯くすることによつて最も効果的に共同施設を行ひ得るものと解釈されたのである。
 併しながら製造業者,問屋業者,卸仲買業者が,常に小売業者と利害を異にし対蹟的関係にあるが如く前提するは,全く近時の商業事情を解せざるものにして,所謂楯の半面を見ざる謬見なりと言はざるを得ない。
惟ふに現時の製造業者乃至問屋卸業者は,小売業者を目して自己事業の最前線に活躍する最重要なる共(ママ)力者なりと心得ふるが故に,其の指導援助に最大の関心を抱きつつあるは言を埃たざるところである。手近の例を見るも,特価大売出,特種大奉仕計画等の如き,或は経営の改善,金融の疏通等の如き,孰れも問屋,製造業者の熱心なる援助がなければ到底完全なる遂行がむつかしい,最近高調せらるるヴォランタリーシステムの如きも,其の実施には必ず問屋,卸業者乃至製造業者との連絡を如何に円満にすべきかを重要なる指標としてゐる。
 之を以て観れば,小売業の振興乃至商業組合の発達には,単に横断的同業者の連繋のみを以て足れりとせず,之れに加ふるに製造業者,問屋,卸業者に対する縦の関係を,円滑にすることが最も喫緊事である。
 之がためには,従来我国に発達せる重要物産同業組合の存在を再認識しなければならぬ。本組合は其の縦の関係を最も具体的に連繋し,以て商工業の発達を促進し,本来の目的たる営業上の弊害を矯正し,組合員共同の利益を増進するに止らず,進んで商工経営の改善及其の指導,優良品生産の奨励内外販路の開拓並に其の取引方法の改善等,各般の商業振興策につき積極的努力を払いつつあるものである。
 此の縦断的関係を考慮することは,新時代に処する商業振興上実に必要で,此の縦横の連繋を完からしめてこそ,消費者に対する配給機能を完全にし,合理的に商業者双互の利益を増進することが出来るのである。
 もはや解説の蛇足を要せぬほど,論旨は明白である。「問屋卸業者」,すなわち問屋資本を中心とした「全国的物資の配給」機構それは「金融の疏通」といった金融支配をも含むが,かかる経済循環構造が当時存在していたことを雄弁に物語っている。この問屋資本を中心とした循環構造,すなわち生産者製造業者→問屋卸売業者→仲買業者→小売業者という縦断的同業者の連繋が,工業組合ならびに商業組合の出現によって破壊されることに不満を覚えているわけである。「従来我国に発達せ
る重要物産同業組合」は「其の縦の関係を最も具体的に連繋」するものであったと主張する。それは「旧幕時代」からの株仲問と深い関係があるとしているのである。
 さて,同業組合全国大会が期待をかけた「中改正法律案」は衆議院で,第1読会,第2読会を開き,第3読会は省略して委員長報告通り可決確定した。が,その際の委貝長の報告の弁に注目したい。「本委員会は2回開会致しました。本案に対しまして政府は,余り気乗りせないやうでありましたけれども,委員各位は熱心に審議を進められまして全会一致可決確定致しました」。この後,貴族院に法律案は送付されたが,議会会期切迫したため審議を終らずついに成立を見るに至らなかった60)。
 政府はむしろそれを幸いとしたであろうこと疑いない。かくて,今回も同業組合側の願いはかなえられることなく,1943年3月12日を迎えることになったのである。

5 財閥経営者の同業組合観

 それでは,戦前期日本を代表する経済主体のひとつである財閥の経営者は同業組合問題をいかに見ていたか。三井の益田孝と三菱の荘田平五郎の発言を取り上げよう。
(イ)益田孝の場合
 益田孝は,横浜の外国商館のクラークとして外国貿易の知識を身につけ,英語にも通じていた。三井物産の創立以来総括(のちに社長)として活動する。三井家の財力を日本の工業化に役立てようとした中上川彦次郎とは考えを異にし,中上川死去の後は,三井同族会管理部専務理事として,工業育成路線ともいうべき中上川の方針を徹底的に批判したとされる。三井本社を合名会社とし,傘下諸会社を株式会社とし,その全株を本社が所有して,傘下諸会社を管理する方式,すなわち三井の財閥化を完成させるに当って,その構想を提出するなど,財閥経営者として大きな役割を演じた61)。
 この益田が東京商工会の会員として,1884年1月の東京商工会の会議における発言がある62)。同業組合に関する取締規則制定の是非について,農商務卿から諮問があり,開かれた会議である。益田の発言を引用する。
 本案ノ文意ヲ案ズルニ蓋シ既設ノ組合ノ取締法ヲ設クルニ止マリテ組合外ニ立ツ者ヲモ包括セントスルノ意ニ非ザルガ如シ,是固ヨリ然ラザルヲ得ズ,今此法ヲ拡充シテ組合ニ加入セザレバ営業スル能ハサルカ如キ法制ヲ設クルノ説ニ数名ノ賛成アリタレトモ,若シ如此クスルトキハ其組合仲間ニ取テハ大ニ利スル処アルベシト雖トモ,組合外ノ者ヨリ見レバ強ヒテ規約ニ屈従セシメラレ為メニ不便不利ヲ蒙ムル事少ナカラザル可シ,加之ナラズ組合仲間ハ自然専売特許ノ弊ニ陥リテ往時徳川時代ノ組合ノ有様ヲ再演シ,商工業ノ不利ヲ醸スニ至ラン事必セリ,聞処ニ拠レバ往時越前敦賀ノ船問屋ハ厳重ナル組合規則ヲ設ケテ組合外ニ立チ営業スル者ナキヲ期シ,遂ニ同業者ノ「団結ヲ作リテ以テ恣ニ荷主等ヲ苦メタレバ荷主ハ遂ニ敦賀ヲ去テ下ノ関ニ往クニ至レリ,之が為メ一時繁栄ヲ極メタル敦賀ハ条忽ノ間ニ其富ヲ失ヒ,船問屋ハ組合規則ニ依テ利益セント欲シテ却テ意外ノ損失ヲ蒙リ,今日ノ衰凋ヲ来セリト云ヘリ,今此組合法ノ如キモ厳ニ之ヲ行フテ組合外ノ者ヲモ包括規正セントスルアラバ安ンゾ敦賀ノ船問屋タラザルヲ得ンヤ,故ニ組合法ヲ設クルハ可ナリ,之ラ厳ニスルハ本員ノ欲セザル所ナリ
 益田が加入強制の理念に立つ同業組合に反対していることは明らかである。株仲間は独占の弊害を生み,商工業の発達には阻害要因となるという認識を示している。益田は「政府ノ干渉」も好まないこと,次の発言に示されるごとくである。
 抑モ農商務卿ヨリ御諮問ノ趣意ハ只既設組合ヲ保護スルノ制法ヲ望ムヤ如何ト言フノ一点ニ在リ,然ルヲ今数歩ヲ踰ヘテ組合ニ加入セザレバ営業スル能ハズト言フガ如キ制法ヲ望ムノ論議アリ,是此御趣意ニ悖ルモノニ非ザル歟,蓋シ同業ノ福利ヲ進メン為メ各業組合ヲ組成スル事ハ余ノ固ヨリ望ム所ナリト雖トモ,只政府ノ干渉ニ依ルヲ以テ最モ不可ナリトス,故ニ此御諮問ニ対シテハ在来ノ私約ニテ十分ナリト答申スベシ,夫レ私約ハ効力ナシト言フ者アレトモ其約束スル所正当ノ区域ニ止マル限リハ現今ノ法律ト雖トモ充分之ヲ保護スルニ足レリト信ズ,尤モ独逸国ニ於テハ法律ヲ以テ営業ニ干渉スル趣ナルガ,英米ニ於テハ全ク如此法制ナク此等ノ事ハ総テ商工業者ノ自治ニ任スト言フ,然レトモ実際必要ナル場合ニ於テハ組合ヲ組成スル者多ク随テ商売ノ繁盛ヲ極メタリト言フ,余ノ望ム所ハ実ニ英米ニ在ルナリ
 上記の発言は益田が,同業組合準則に反対していることを示すと解釈して良いと思われる。
(ロ)荘田平五郎の場合
 荘田平五郎は1847年,豊後稲葉藩の武家に生れ,福沢諭吉門下の秀才として,三菱商会に入社する。入社したばかりの1875年,岩崎弥太郎の命により社則の制定に当り,三菱の組織のあり方をはじめて明確にした「三菱汽船会社規則」を作成した。荘田は海運業を失ったのちの三菱社を造船業の上に再建しつつ,日本に造船業を定
着させるに功があったとされている。三菱合資会社の支配人として活躍した。財閥の専門的経営者として代表的人物の一人であるとしてよい63)。
 この荘田が重要物産同業組合法が制定されたころ,恐らくは1902年に講演会で行ったと思われる発言がある64)。
 国家又は多数に依頼すべからず,世間の事業家と称ふる者が往々国家又は団体の力を借りて事をなさんとする者がある今日経済救済論等の世に行はるる所以であります,又事業家中同業組合を主張する者があります,其論ずる所を聞くに同業の悪弊を除くが為めであると云ふ或は外商の〓扈を防ぐが為めであると言ふ併しながら同業問に悪弊があるならば何ぞ自ら起つて其弊を除かぬか同業皆粗末な品を売り我独り良品を売らば他の事業衰へ我独り繁昌するであらうこれ我が利益ではないか此明白な道理を悟らずして多数の力を借りて悪弊を矯正せんとするは何か野心のあるに非ざれば自ら信ずること薄くして業務に忠実でないからであると思ふ又多数の力を借りて外商に敵当すると云ふに至つては唯其心事の卑劣軟弱なるを自白するやうなものであります。荀も独立自尊の大義を忘れず他人を害することなく我業務に忠実ならんか自然信用の厚くなるに従つて営業の繁昌を来す勢は求めずして到るであらう富は招かずして到るであらう他人の〓扈少も恐るるに足らない救済を叫ぶの必要もない之を察せずして徒に国家又は多数の力を藉りて事を為すと言うのは畢竟自ら眞[ママ]ずること薄くして独立自尊の大義に反する所為と言はねばならぬ立身の要は唯勉強忍耐事に当つて必成を期し荀も他力に依頼するの念を去るにありと私は信じて疑ひませぬ。
 「同業の悪弊を除くが為め」,すなわち粗製濫造を防ぐためなどという理由から同業組合を主張するのは,「何か野心」があってのことだなどと,荘田は同業組合に対して眞向から批判を加えている。
 三井の益田,三菱の荘田といった戦前期日本を代表する財閥の専門経営者が,強制加入の理念に立ち営業の自由を認めない同業組合に,いずれも批判的な態度を示していた史実は注目に値する。

6 結論的覚書

 以上5節に分って,大仰な問題意識のもと近代日本同業組合の歴史的分析を行った。その結果として,われわれは今後の作業継続のために,次のような覚書を作成することは許されると考える。
 明治政府が株仲間の復活を好むことはなかった。「産業ノ自由」,すなわち営業の自由は確保したかった。少なくとも標語としては。廃藩置県後の1872年株仲間解散を命じた政府としては,また当然のことであった。株仲間解散の効果はあらわれ,経済界における競争も実に激しいものがあった。営業の自由はたしかに上から与えられたのである。移植産業を主とする大企業,そうした大企業によってもって立つ,いわゆる財閥資本は営業の自由擁護の立場を取り,経済競争に打ち勝ち財閥としての地位を確立させることになる。
 にもかかわらず,その一方では,近代日本の経済社会には,経営理念の面で株仲間の色彩を牢固として残した同業組合がなお厳存していたのである。同業組合は賃金規制機能・雇傭規制機能・価格規制機能を有する同一地城内強制加入全同業統制力を有する組織であった。商人仲間と職人仲間に分れていた株仲間体制とは異なり,同一産業に属する商・工全業者強制加入の同業組合は,この段階にあっては問屋資本の利害に極めて有利な組織であった。株仲間とは異なり,特定の重要物産につき,その生産または販売を業とするものはすべてこれを同業者とする同業組合は,むしろ問屋資本の存在を補強,いや助長する面すらあったと思われる。まさに,1930年3月の商工省工務局「重要輸出品工業組合法ノ改正ニ関スル資料」のいうがごとく,「問屋資本主義」と称し得べき側面が戦前期日本の資本主義にはあったのである。
 この問屋資本主義を打破すべく力を尽したのは,何よりも政府であった。1916年には,雇傭規制機能・賃金規制機能・価格規制機能を決定的に取り上げた。ついで,重要輸出品工業組合法を制定することにより,同業組合の反対の鋒先をたくみにかわしつつ,次第に強制加入権を有名無実のものとさせてしまうのである。先の重要輸出品工業組合法を改正した工業組合法制定前の1930年臨時産業審議会の答申のなかに次の文言がみられる65)。
 工業関係同業組合ヲ今直チニ整理解散スルコトハ困難ナルヲ以テ工業組合員ハ同業組合ニ加入セス又ハ之ヨリ脱退スルコトヲ得シメ漸次同業組合ノ整理ヲ為スコト
 参照条文 重要輸出品工業組合法第9条 工業組合又ハ其ノ組合員ハ其ノ営業ニ関スル重要物産同業組合ニ依ル同業組合ニ加入セス又ハ之ヨリ脱退スルコトヲ得
 明治日本の輸出産業振興策と株仲間のゆり戻し運動の中から生れた同業組合は,かくして,最終的には政府の手によってその社会経済上の役割を取り上げられ,歴史の舞台から姿を消すのである。強制加入の理念が営業の自由という理念に相対立するものであると考えてよいとするならば,近代日本の同業組合の歴史は,日本における営業の自由を考える際の不可欠の研究素材たること疑い得ないと思われる。


1)山田盛太郎『日本資本主義分析』1934年,岩波書店,11―12ページ。
2)尾城太郎丸『日本中小工業史論』1970年,日本評論社。
3)宮本又次「株仲間とその変遷・解体」(宮本又次編『江戸時代の企業者活動』宮本又次・中川敬一郎監修日本経営史講座1,1977年,日本経済新聞社)。
4)岡田与好「日本の『自由経済』の思想上・中・下」『UP』72,73,74,1978年。
5)竹内庵「明治30年代における泉南郡木綿同業組合」(『泉南市史紀要』第7号,1979年)。
6)宮本又次前掲論文,261―62ページ。
7)由井常彦『中小企業政策の史的研究』1964年,東洋経済新報社。
8)正田健一郎「明治前期の地方産業をめぐる政府と民間」(高橋幸八郎編『日本近代化の研究 上』1972年,東京大学出版会)。
9)正田健一郎前掲論文,157,165,173ページ。
10)上山和雄「農商務省の設立とその政策展開」(『社会経済史学』第41巻第3号,1975年)。
11)上川芳実「同業組合準則改良運動の研究」(『大阪大学経済学』第30巻第4号,1981年)。
12)上山和雄前掲論文,64―65ページ。
13)もっとも,竹内庵「紀州柑橘業の発展と海外輸出」(『和歌山県史研究』第6号,1978年)だけは,大正初期にも及んでいる。
14)拙稿「同業組合と営業の自由」(『季刊日本思想史』第14号,1980年)を草したとき,私は小池の研究があることに気付かなかった。己れの不勉強と不敏さに恥入るのみである。
15)管見する限り竹内常善「都市中小ブルジョワジーをめぐる諸動向」(安藤良雄編『両大戦間の日本資本主義』1979年・東京大学出版会)が「同業組合の保守性と歴史的限界」を知るための参考文献として,その書名に言及するのみである。
16)大石嘉一郎・宮本憲一編『日本資本主義発達史の基礎知識』(1975年,有斐閣)は,同業組合問題に一言の言及もしないのが特徴のひとつであるといってよい。
17)拙稿「京都における同業組合の成立と衰退」(秋山國三先生追悼会編『京都地域史の研究』1979年,国書刊行会),「同業組合と営業の自由」(『季刊日本思想史』第14号,1980年)。
18)宮本又次『日本ギルドの解放』1957年,有斐閣,161―73ページ。
19)前掲拙稿「京都における同業組合の成立と衰退」。
20)宮本又次は『日本ギルドの解放』の中で,「本組合は旧株仲間の有した4機能の中,独占機能・権益擁護機能の2機能を排し,ただ信用保持・調整の2機能のみを残存せしめようとする意図にでた」(169ページ)とする。
21)大阪については,前掲宮本又次『日本ギルドの解放』,京都については前掲拙稿「京都における同業組合の成立と衰退」,全国については竹内庵「明治前期同業組合の一考
察」(『社会経済史学』第42巻第5号,1977年)。
22)宮本又郎「『財界』の萌芽」(『経済セミナー』1980年9月号)。
23)新宮についての資料の出所は,『和歌山県史 近現代史料5』1979年,和歌山県,114―18ページ。
24)竹内庵「準則組合の成立過程」(安藤精一編『和歌山の研究 第3巻,近世・近代編』清文堂,1978年)。
25)『和歌山県史 近現代史料5』155ページ。
26)同上書,118―21ページ。この組合は業種を越えた商人雇傭主の組合であり,文字通りの同業組合ではない。が,株仲間の雇用慣行の継続が如実に示されているのでここに採録した。
27)間宏『日本の使用者団体と労使関係』日本労働協会,1981年,20―21ページ。
28)作道洋太郎「尼崎藩における経済政策の展開」(宮本又次編『藩社会の研究』ミネルヴァ書房,1960年)。
29)『西宮市史,第6巻,資料編3』西宮市,1964年,473,488―89ページ。
30)小池前掲書,49―50ページ。
31)同上書,53―55ページ。
32)高橋眞一編『京都商工会議所史』京都府商工経済会,1944年,142―45ページ。
33)『和歌山県史,近現代史料2』和歌山県,1978年,1065―66ページ。
34)同上書,1066―67ページ。
35)『和歌山県史,近現代史料3』和歌山県,1979年,1185―86ページ。
36)小池前掲書,62ページ。
37)通商産業省編『商工政策史 第4巻 重要調査会』商工政策史刊行会,1961年,37,47―49ページ。
38)同上書,114―15ページ。
39)池島宏幸「日本における企業法の形成と展開」(高柳信一・藤田勇編『資本主義法の形成と展開,3,企業と営業の自由』1973年,東京大学出版会)。
40)小池前掲書,174―79ページ。
41)同上書,217―18ページ。
42)社会調査協会『現代職業総覧11 商業篇Ⅱ』春秋社,1931年,70ページ。
43)小池前掲書,13―14ページ。
44)『和歌山県史 近現代史料5』709―10ページ。
45)『和歌山市史,第8巻,近現代史料Ⅱ』和歌山市,1979年,297―98ページ。
46)『和歌山県史 近現代史料4』和歌山県,1978年,811ページ。
47)『和歌山市史 第8巻 近現代史料Ⅱ』331―32ページ。
48)『西宮市史 第6巻 資料編3』522ページ。
49)伊勢崎織物同業組合編『伊勢崎織物同業組合史』同組合,1931年,245ページ。
50)同上書,249ページ。
51)同上書,253ページ。
52)同上書,257―59ページ。
53)竹内庵前掲論文「明治30年代における泉南郡木綿同業組合」。
54)間宏前掲書,29,35―36ページ。
55)高城元監修『東京商工会議所85年史上巻』同会議所,1966年,1094ページ。
56)大門一樹『物価抵抗史」三省堂,1968年,105―07ページ。
57)商工省吉野次官閣下序・佐野卓男『工業組合運動の第一線より』1936年,明倫館,6―9ページ。
58)片桐秀一『全国(商工)同業組合大会記念誌』(同大会,1935年)が,基本文献である。この大会については,この文献を使用し,筆者は前掲拙稿2編ですでに解釈を試みている。
59)小池前掲書,14―31,134―45ページ。不勉強にして,筆者は本稿を草するまで,この史実を知らなかった。ためにこれまでの拙稿では1934年の大会をもって同業組合の最後の饗宴と評していた。ここにこれまでの怠慢を謝したい。
60)同上書,23ページ。
61)安岡重明「明治期の経営」(作道洋太郎他共著『日本経済史』ミネルヴァ書房,1980年)。同『三井財閥史近世・明治編」教育社,1979年,栂井義雄「最初に出現した総合商社」(宮本又次他編『総合商社の経営史』東洋経済新報社,1976年。
62)渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料 第18巻』,同刊行会,1958年,140―47ページ。
63)小川まゆみ氏の調査ノート,三島康雄『三菱財閥史 明治編』教育社,1979年,安岡重明前掲稿「明治期の経営」。
64)荘田平五郎「立身の心得」商業学会編『実業名家講話集』共成社,1903年,41―44ページ。
65)商工政策史 第4巻 重要調査会』354ページ。