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新潟県の金属加工産業

Author: 池田庄治[ほか]著
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
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 目 次

序 説 池田庄治・・・・・・・・・・2
Ⅰ 洋釘の輸入と普及による影響と対応 池田庄治・・・・・・・・・・5
Ⅱ 金属洋食器産業発展の基盤と条件 神子島義平・・・・・・・・・・26
Ⅲ 電動工具の普及による影響と対応 鈴木捷雄・・・・・・・・・・68
結 語 池田庄治・・・・・・・・・・84

受託責任者 池 田 庄 治(新潟大学教授)
共同研究者 神子島 義 平(新潟県立燕高等学校教諭)
 〃 加 藤 新 蔵(日本金属洋食器工業組合専務理事)
 〃 斎 藤 義 信(新潟県立新津高等学校教諭)
 〃 鈴 木 捷 雄(新潟市立沼垂高等学校教諭)
 〃 鈴 木 昌 清(新潟県立燕工業高等学校教諭)
 〃 外 山   登(三条金物青年会会長)
 〃 若 槻 武 雄(三条市立図書館館長補佐)


序説 燕市・三条市の沿革と問題の所在 池田 庄治

 (1)燕市・三条市の位置
 新潟県の穀倉地帯である蒲原平野の中央で,信濃川と五十嵐川が合流するところに,“金物の町”として有名な「三条市」(1934年,市制施行)がある。この三条市の表玄関である東三条駅は,国鉄の信越線と弥彦線の交差点に当たり,特急で上野駅へは約3時間40分,鈍行で新潟駅へは約50分で行ける。そして,この東三条駅から弥彦線に乗り約10分で,“金属洋食器の町”として国際的に知られる「燕市」(1954年,市制施行)の燕駅に到着する(第1図参照)。このような燕市は,人口4万4633人,世帯数1万991世帯(1979年9月末現在,以下同じ)で,人口8万5086人,世帯数2万2286世帯の三条市に隣接している。
第1図 燕市・三条市の位置
 (2)燕市・三条市の産業現況
 燕市は,通産省の『工業統計』(1977年版)によれば,その事業数は3048で新潟県で最も多く,出荷額約461億円のステンレス材スプーン,フォーク,ナイフなどの金属洋食器と,出荷額約332億円のステンレス材フライパン,鍋,急須,灰皿,お盆などの金属ハウスウェアーとの製造を基幹産業として,ステンレス加工技術では世界的に有名な産業都市である。
 他方の三条市は,上記と同じ『工業統計』によれば,三条市の金属関係工業の事業数は2106で同市の工業総数の79.6%,その従業員数は1万2936人で同総数の76.4%,その製造品出荷額等は約979億円で同総額の80.9%である。また,通産省の『商業統計』(1976年版)によれば,三条市の金物卸売業の商店数は全国区・市・町・村で最も多い412,そして同市の商店総数の17.5%。その従業員数は3297人で同総数の26%,その年間販売額は約792億円で同総額の33.8%である。したがって,三条市は金物卸売業と金属加工業との,まさに文字通りの“金物の町”である。

 (3)燕市・三条市の産業沿革
 1625年(寛永2)から1628年(寛永5)まで,三条城に在任していた出雲崎陣屋代官の大谷清兵衛は,その当時,毎年のようにおきる風・水害で疲弊していた三条・燕地域領民を救済するために,江戸から和釘(洋釘輸入までは家釘と呼称)鍛冶職人を招き,農民の副業として和釘の製法を指導・奨励した。これが,三条鍛冶,燕鍛冶の,つまり三条と燕とにおける金属製品製造業の濫錫であるという1)。その後は,たびたびの「江戸の大火」2)で和釘の需要は甚だしく,生産は繁忙を極めた。
 さて燕町は,このような和釘生産を中心としながらも,元禄年間(1688―1703)に自家用鋸の目立用として刃鈩が,明和年間(1764―71)に仙台生まれの藤七という人が来住して銅器が,そして同じ明和の初期に江戸から「住吉張り」(第2図参照)の技術が,さらに安永年間(1772―80)には会津から「村田張り」(第2図参照)の技術が移入されて煙管の製造がはじまった。さらには釘の製造によって断金作業の技術が進み,銅器・煙管に文様彫刻が行われるようになり,寛政年間(1789―1800)には矢立の製造がはじまった3)。
 そして他方の三条町では,やはり和釘の生産を主力としながらも,1661年(寛文元)には会津地方(現在の福島県)から鋸,鉈などの新しい製法が伝来して鍛冶が一層盛んとなり,明和年代(1764―71)には越後国(現在の新潟県)の外でも金物行商が本格的に活躍をはじめた。さらに1818年(文政元)には鉄鋲が造りはじめられ,鎌,庖丁,鋏も製作され,1830年(天保元)には黄銅曲尺が,次いで1844年(弘化元)には京錠が,そして1861年(文久元)には鋼製曲尺が製作された4)。
第2図 「住吉張り」と「村田張り」
 このように,燕町と三条町の鍛冶は,和釘生産によって始められ,それを主力とし基幹としながらも,両町とも思い思いに種々の独自な金属製品を製造してきた。
 明治時代に入って西欧から機械生産の洋釘が輸入され,それが国内に次第に普及して燕町・三条町にも漸く入荷されるに及び,全国的に有名な和釘産地としての燕町・三条町は,大きな転換と新たな出発を余儀なくされるに至った。

 (4)問題の所在
 ともあれ,「人間と社会の開発のための技術移転・技術変容・技術開発」の「日本の経験」における地方産業の1つの事例として,新潟県の代表的金属加工産業都市である「燕市・三条市の経験」を挙げるとすれば,それは次のような具体的かつ現実的な3つの絳験について,それぞれの考察が必要である。
 ① 明治時代初期からの洋釘の輸入・普及にともなって,和釘産地としての燕町・三条町は,どのような影響を受け,そしてどのようにそれに対応して行ったのか。
 ② 大正時代初期,雪国の辺鄙な燕町に近代的でモダンな金属洋食器産業がわが国で初めて勃興し,今日まで発展してきた,その基盤条件,および構造は何であったのか。
 ③ 戦後の高度成長期に,電動工具が国内に普及するにともない,古くから大工道具産地として有名な三条市の金物産業――つまり金物問屋と金物製造業――は,どのような影響を受け,そしてどのようにそれに対応して行ったのか。

 以下,それぞれの経験について考察してみることにする。
 注
 1)神保新一『大川のほとり,燕史考(2)』燕市教育委貝会,1967年,30ページ,71-72ページ。渡辺行一『三条の歴史』野島出版,1966年,45-46ページ。
 2)「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれて江戸の名物であった江戸の大火は,江戸時代(1603―1868年)を通じて史上に残る大火が86回もあり,とくに明暦の大火(1657年)は江戸市街の大部分を焼き,焼死人10万人といわれている。
 3)石田清『燕市工業一覧表』1961年。捧吉右エ門『『日本洋食器史年表』叢文社,1972年。
 4)渡辺行一『三条市歴史年表』三条史料調査会,1961年。三条史料調査会『三条市史資料Ⅰ』三条市,1954年。

Ⅰ 洋釘の輸入と普及による影響とその対応 池田庄治
 1 洋釘の輸入と普及
 2 燕町の影響とその対応
 3 三条町の影響とその対応

 1 洋釘の輸入と普及
 (1)洋釘の輸入
 1858年(安政5)の「日米通商条約調印」以来,並角または線香鉄と呼ばれる細線状の製釘原料がわが国に輸入されて,従来のように鉄材を小割する労が省けるようになった1)。続いて,1869年(明治2)には西欧の機械生産製品である「丸釘」の若干数量が,わが国の港町に陸揚げされた2)。この「丸釘」は,通称「西洋釘」,略して「洋釘」,これに対して在来の手造り製品の国産釘を「角釘」または「和釘」と称した(第3図参照)。
 その後,1877年(明治10)頃,横浜168番館(商館名不明)に見本商品として4,50樽(100ポンド入りの樽)の洋釘が届いたが,これを日本橋新和泉町の中村重兵衛が引取って,浅い木箱に入れて店先へ出しておいたところ,通行人は足を停めて「珍しい釘だ」と誰もが批評するけれど,さてこれを実際に使ってみようという人は殆んど皆無であったという3)。

 (2)洋釘の普及と東京の大災害
 さて,そのような洋釘が次第に輸入量を増加して,国内に普及・滲透していった主な原因の1つとしては,明治維新(1868年)後の文明開化の風潮で,ヨーロッパ風の建築が漸次行われるようになってきたり,さらに一般民家の建築にも洋釘が漸次使用されるようになってきたことが挙げられる。
第3図 和釘と洋釘
 そのほかに,次のような東京での1880―81年(明治13―14)における一連の突発的な大災害,すなわち4),
 ① 1880年(明治13),10月2日,東京・横浜を中心とする大暴風(東京市内だけで倒壊家屋住宅・納屋約2000戸,死傷者120人)。
 ② 翌1881年,1月26日の東京の大火(神田松枝町から出火,日本橋・深川・洲崎海岸まで延焼し,1万2521戸を焼失)。
 ③ 同年,2月11日の東京の大火(神田柳町から出火,日本橋区大伝馬町・村松町まで延焼し,7300余戸を焼失)。
などの復興のために,和釘の需要は急速に拡大した。
 しかしながら,この需要激増は,従来からの主な供給源である新潟県の燕町・三条町の和釘だけではとても急場に間にあわず5),この時まであまり顧みられなかった洋釘をはじめて使用することにした。すると,それが意外にも「使い易い」,「仕事の能率を上げる」などの利点のあることを実際に体験して知り,これを契機として洋釘が大いに普及した。
 このようにして,明治20年代(1887―97)の間に和釘は殆んど没落して,洋釘が日本の国内市場を完全に支配するに至った6)。かつての「江戸の大火」は,燕町や三条町などの和釘生産を勃興させ隆盛にさせたが,明治時代になっての東京大火は,かえってそれらの和釘生産基盤を潰滅させ,和釘にかわる洋釘を普及させる転機とさえなったのである6)。

 (3)和釘と洋釘の長所・短所
 しかし,和釘と洋釘の交代期には,種々の混乱が当然あった。はじめ,洋釘に対して次のような様々の非難があった7)。
 ① 和釘,洋釘ども頭部と莖部の二つからできているが(第3図参照),和釘はその莖が四角なので利きが良い。これに対して洋釘は,莖が丸いので十分に利くはずがなく,日が少したつと脱げ出すおそれがあるであろう。
 ② 和釘の莖はその尖端から頭まで錐体になっているので,楔の理屈によって良く物体に刺さることができる。これに対して洋釘は,その莖の一端だけが尖っていて,ほかのところは同じ太さなので,その長さの割には効力はないであろう。
 ③ 洋釘の莖は,錐体になっていないので,これを打ち込むときには無理を生じて,曲りやすいであろう。
 ④ 洋釘は,和釘に比較すれば錆やすく,黒いシミを生じて体裁の上から醜いであろう。
 したがって,大工のなかには洋釘を用いることを罪悪のように思って,和釘を以前のように,そのまま大切に使う者もあったし,また建築主のなかには不安な洋釘を使用することをひどく嫌って,洋釘を用いないことを大工との請負契約書の中に1つの条件として提示する者さえあったという8)。

 (4)和釘と洋釘の生産方法
 和釘の生産方法は,1枚の地金または鎌などを,2人以上の「バンゴシ」または「バンゴヤ」と呼ばれる作業者が1/3,1/4と「大割り」し,それをさらに1人の和釘鍛冶職人が「小割り」(第4図参照)して,その2,3本の「小割り」を炭火で9)「ふいご」によって焼き,1本の「小割り」の先端を鉄床の上で細め,鉄床の前に立てた「検張」又は「立材」と呼ばれる細い鉄棒と三角タガネの間によってその寸
法を定め,鉄鎚で鉄床の角に一撃して切り離し,漸く1本の和釘ができる10)。
第4図 「小割り」の方法
 これに対して洋釘の生産方法は,ワイヤー・ロッドを一定の長さに切断してその一端に頭をつくり,他端を尖らせるだけの簡単な工程で,毎分150~600本のスピードで作られる11)。
 このように,洋釘は機械生産なので,①その価格が甚だしく安い,②頭に鉄鎚の滑り止めがあるので打ち込みに曲ることがない,③頸にギザギザの刻みがあるので抜けにくい,④和釘に比してやや長めのものを使えば,さしたる劣点はない等々12),が追々知られてきて,遂に和釘にとって代るようになってきた。

 (5)洋釘の輸入状況
 わが国に輸入された最初の洋釘は仏国製であり,続いて英国製,次がドイツ・オーストリア製,そしてその後の1890―91年(明治23―24)頃からは米国製であった13)。
 このような洋釘のわが国への輸入額は,第1表のとおりで,1883年(明治16)には6万3909樽(268円90銭5厘)で,1897年(同30)にはその約5倍の30万2915樽(1458円29銭4厘),そして1907年(同40)にはその約8倍の49万8273樽(3548円35銭7厘)と,輸入量が急激に増加してきた。

 (6)洋釘の国内生産
 わが国への洋釘の輸入は,第1表でみるとおり,第一次大戦の直前の1913年(大正2)になって漸く減退を示したが,それは輸入に代って国内の洋釘生産が漸く産業的に確立してきた結果にほかならない。
 すなわち,1897年(明治30),安田善三郎によって洋釘を国内生産する目的で,東京市深川区猿江町に安田製釘所が設立され,翌年試売されたが,①技術の未熟,②販売上の困難,③近隣住民の迫害などのほかに,全工場が焼失したことも加わって1903年(明治36)には工場を閉じた。その後,1908年(明治41)に再開された工場は,原料鉄の確保と輸入関税防壁の保護とによって,次第に洋釘生産を産業的に確立し,外国釘に漸く対抗することができた14)。
第1表 洋釘輸入樽数および金額
 このような和釘の完全衰退によって,その後は「洋釘」という特別に区分する呼称をしなくても,一般に「釘」といえば洋釘を指すようになった。

 (7)洋釘の普及と和釘産地の影響
 ともあれ,前述のように1869年(明治2)に輸入されて以来,文明開化品と謳われ,優れた利用価値を認められた洋釘は,はじめは中央の都市で使用されていたが,それが次第に地方へ普及していき,遂に新潟県三条町へ初めて入荷したのは,1876年(明治9)の秋頃であったという15)。
 このような洋釘の出現は――伊勢国(現在の三重県)の松坂町,和泉国(現在の大阪府)の堺町,若狭国(現在の福井県)の小浜町などとともに,江戸時代から古く和釘産地として全国に有名な越後国(現在の新潟県)三条町・燕町に対して,以下に述べるような文字通りの致命的な影響を必然的に与えることになった。

 2 燕町の影響とその対応
 (1)和釘鍛冶業者の転業
 江戸時代も末になった1864年(元治1)に出版された紀興之著『越後土産』という書物に,当時の越後国(現在の新潟県)の主要物産を相撲番付に見立て,「燕釘」を西の前頭上位にランク付けしている(第2表参照)。このように燕町は,隣接した三条町よりも優る越後国第1の和釘産地であり,しかも若狭国(現在の福井県)の小浜町とともに天下を東西に二分するほどの産地であった。
第2表 越後国産物見立取組
 燕町の和釘は,江戸時代末期まで同町生産の8割を占め[16)],いわば町ぐるみの和釘産地であった。当時,和釘鍛冶業者は隣村の者を含めれば優に1000人を越え,これを取扱う釘問屋は数十軒16),そのなかには現在でもその屋号を残しているものもある(たとえば「釘荘」,「釘冶」など)。
 このような燕町であるので,洋釘の出現とその普及によって町の産業の主力であった和釘生産は急減していき,これを転機として多数の和釘鍛冶業は明治10年代から20年代にかけて,鈩,煙管,銅器,矢立,彫金などの他業種へ漸次,思い思いに転業を余儀なくされた。技術的にも,たとえば和釘の断金法などは和釘から鈩,または銅器か煙管への転業を容易にさせたし,しかも幸いに銅器は当時最盛期にあったので,転業者の多くを受け入れることが可能であった。
 ① 和釘から矢立への転業
  和釘鍛冶からの転業者のなかで,最も多くの人たちが矢立の製造を始めた。矢立とは,「蓋付きの墨つぼ」と「筆を納める筒」とが一緒になったもので,蓋と墨つぼをつなぐ蝶番の製造技術が燕町に伝えられたことによって,寛政時代(1789―1800)に矢立が燕で製作され始めた。商人等が使用し,墨つぼに墨汁を入れ,筒に筆を納め腰に差して持ち歩いていたが,明治の文明開化にともなって教育が普及し,文具として矢立が利用されるようになって,需要が急増した。
 そこで,彼ら転業者は,持ち前の和釘鍛冶技術を駆使して矢立製作に取り組み,数多くの種類の矢立を製作して,やがては矢立への銅使用量が銅器を凌ぐほどになり,遂には西の姫路(兵庫県)とともに日本を代表する産地となって,燕町には一時期,矢立製造業者が300軒を数えた17)。
 この矢立と並んで,「真鍮櫛」,「火箸」,「灰ならし」などへの転業者も多かった。
 ② 和釘から銅器への転業
 さらに,和釘鍛冶からの転業者の一部は,技術的にも転業が容易であった銅器製作へと移行した。しかし,銅器の代表的製品である鎚起銅器は,すでに技法が深化し工芸品的色合いを強めていたので,それ以外の手軽な,そして手っ取り早い,たとえば銅線を扱う,いわゆる「ハリガネ屋」へと彼らは転業した。
 それは,近郷農村で使う農機具(たとえば千石〓),漁具,民家屋根瓦のグシなどに用いるハリガネ板金の製造であった。しかし,これもアメリカからアタンを伸ばす技法が導入されたので,たちまち「ハリガネ屋」も壊滅して18),花瓶,水差,湯沸,香炉,床飾品などの工芸と実用を兼ねた銅器や,薬罐,風呂釜,金だらい,銅鍋などの純実用品の銅器の製作へと再転換し19),この結果その生産が急増した。
 ③ 和釘から鈩への転業
 さらに,和釘鍛冶からの転業者にとって,最適な製品の1つとしては,技術的にもそれへの転業が容易であった鈩製作が挙げられる。
 さて,和釘の製造工程については既述したが,親方(問屋)は鉄資材を供給 し,「バンゴシ」(又は「バンゴヤ」)と呼ばれる人たちによって釘の地金が「大割り」されて,和釘鍛冶業者はこれを「小割り」し細分して釘を作り,親方はこの和釘鍛冶業者に対し出来高に応じた工賃を支払い,和釘を包装し販売する。したがって,和釘鍛冶業者が鈩製作へ転業するのと同時に,上述の「バンゴシ」(又は「バンゴヤ」)も鈩の地金製作へ転ずるのに,何の抵抗もなかった20)。
第3表 燕町職業調査表(1886年)
 ④ 和釘から煙管への転業
 煙管は火皿のある雁首(第2図参照)と吸口,それに羅宇をすげることで一本の煙管になるが,その製作工程は次のようである21)。
 へりきり(原型に合わせ地金を切る)→しおり(丸味をつける)→まるめ(管状に丸める)→ろう吹き→首きめ(雁首の火皿のつく部分修正)→火皿の切上げ→火皿の抜上げ→皿つけ(雁首に火皿をろう付する)→槌上げ(凸凹曲折の修正)→仕上げ(鈩みがき,ホオの木炭をつけみがく,さらに炭とぎ,油つけ)→羅宇すげ
 このような製作工程は,和釘鍛冶業者からの転業者にとって技術的にも最適なものの1つであり,さらに後述の間瀬銅山からの豊富な原料の有効利用として,転業者は煙管製作へと進んでいった。

 (2)転業途上の職業構成
 燕町で和釘鍛冶業者の転業がほぼ終ったのは,明治20年代とみられるので,未だ転業途上の1886年(明治19)5月の燕町戸籍によって,当時の職業構成をみると,第3表のとおりである。
 すなわち,町内総世帯数996戸のうち,鍛冶職が最も多く359戸で燕町全戸数の36.0%を占め,2番目は日傭149戸(14.9%),3番目は鍛工44戸(4.4%),4番目は雑業36戸(3.6%),5番目は鉄物31戸(3.1%)などから,燕町は当時すでに金属加工の町であったことが明らかである。なお,次いで6番目に舟乗30戸(3.0%)もあることは,信濃川,中ノ口川の水上交通がかなり盛んであったことを示している。そして銅鍛冶は4戸,彫鍛冶は2戸であった。
 なお,この第3表には幾つかの疑問箇所があるが,これを次のように考えれば一応の納得ができよう22)。
 ① 鍛冶職が多数あるが,それは銅器,煙管,矢立,鈩など殆んどの業者を含んでいるのであろう。
 ② 鍛工とは,金敷や鳥口などの道具を作る人にしては多すぎるので,釘や鈩などの地金を伸ばした,いわゆる「伸師」のことであろう。
 ③ 銅鍛冶4名の町内別内訳は,上町1,仲町2,宮町1となっているが,銅器は穀町には有名な玉川堂をはじめ本多忠八,本間七造,本間倉作などがいた筈であり,したがってこの表の銅鍛冶とは,後述する間瀬屋のような精銅業の意味であろう。
 (3)銅器・鈩・煙管への転業時期
 さて,1914年(大正3)に現存する常時職工を5人以上使用していた工場のうち,銅器,鈩,煙管の創業年度は,第4表のとおりである。この表で,銅器は1872―81年(明治5―14)に2工場,そして1892―96年(明治25―29)に4工場が創業し,鈩と煙管は1882―86年(明治15―19)に各1工場が創業している。したがって,この表が常時職工を5人以上使用していた工場の統計としても,銅器は1881年(明治14)までに,そして鈩と煙管は1886年(明治19)までに転業がほぼ一応,終ったとみても差支えないのではなかろうか。
 そもそも銅器は,前掲の『越後土産』という書物の産物見立取組(第2表参照)に,「燕釘」につづいて「燕銅物」として挙げられており,当時の越後国物産のなかでは優位を占めていた。銅器のなかでも鎚起銅器は打上げの際に最低5,6人の人手を必要としたので比較的多人数の工場が多かったが,それに対して鈩や煙管は1,2人のところが多く,したがって工場総数ではむしろ後者の方がずっと多かった23)。
第4表 常時職工5人以上使用工場の創業年度
第5表 生産数量・生産額
 (4)転業を受け入れて銅器・鈩・煙管業の盛況
 ちなみに,1910年(明治43)の新潟県編『新潟県産業調査書』によると,1905年(明治38)から1909年(明治42)までの銅器,鈩(刃鈩),煙管その他の生産数量と生産額は,第5表のとおりである。これによると,1906年(明治39)までは銅器が年産約10万円で1位を占めていたが,1907年(明治40)からは鈩の年産が銅器のそれを僅かに上回って1位に飛躍している。そして,当時の銅器業者は30余戸で従業員200人,鈩業者は50余戸で従業員1000余人(目立・削り等下請多し)であったという24)。なお,1908年における銅器・鈩・煙管その他の生産数量・生産額のおしなべての減少は,燕町のその年の4月20日の大火によるものと思われる。
 ともあれ,転業を受け入れて,銅器・鈩・煙管業界は一段と盛況さを増してきた。

 (5)銅供給源としての間瀬銅山
 燕町の和釘鍛冶業者が,このように転業に成功した大きな要因の一つとしては,彼らの取扱い材料が鉄から銅へと円滑に転換ができたことと,しかもその銅は燕町から18キロメートル西北の間瀬銅山(西蒲原郡岩室村,第1図参照)から豊富に産出され,しかもそれが純良でかつ伸暢に富む緋色銅であったことが挙げられる。
 この銅山は,1701年(元禄14)に初めて採掘され,明治初めまで銅の精錬は住友家が実権を握り,誰も精錬を許されなかったが,明治維新になってからそれは自由になった。しかし,技術的にも経済的にも難しく,燕町ではただ1軒,間瀬屋だけがこれを行っていた。
 精錬所で型に流された粗銅は1本24.4~30キログラム(6貫500匁~8貫目)あり,「スケゴ」と呼ばれる女たちが銅山から2本ぐらい背負って船着場へ運び,海路で新潟へ送り,信濃川,中ノ口川の水運で燕町へ移送する(第1図参照)。または,弥彦山の東麓,間瀬峠の樋曾の馬方が,馬に粗銅を8本くらい積んで燕町まで運んだが,時には間瀬から細野橋を渡って歩いて運んだという25)。
 この間瀬銅山も,大正初年から衰退して,1921年(大正10)には正式に閉鉱した26)。

 3 三条町の影響とその対応
 (1)三条町における和釘の生産
第6表 三条町における主要金物生産(1872年)
 1871年(明治4)の廃藩置県により,新潟県の行政区分として大小区制が制定されて,「第七大区小一区」に所属した三条町の1872年(明治5)に生産された主要金物の数量と金額は,『三条町土地産物并諸色値段書上控』によれば第6表のとおりであった。この表によると,三条町における主要金物の生産額の首位は鎌で主要金物生産総額の49.2%を占め,次いで鋲釘の24.6%,そして鋏,小刀の順になっている。
 ここでいう鋲釘とは,和釘と鉄鋲の混合ではあるが,それにしても当時,三条町にとって和釘の生産は主要金物のなかで大きな比重を占めていたことは明らかである。

 (2)三条町と近村との金物生産比較
 1873年(明治6)に柏崎県が新潟県に合併されたので,三条町および近村の行政区分は「第十八大区小一区」に変更となった。1875年(明治8)の『第十八大区小一区物産取調書』27)と,その前年(1874年)の『三条町物産取調書』28)から,主要金物の生産数量とその金額を抜粋すれば,第7表のとおりである。この表の数値は,現在のような正確な統計など企て得ない時代の概算数字であるが,それにしてもこの表によって,三条町とその近村との主要金物生産におけるそれぞれの特徴は,次のように明らかになる。
第7表 主要金物物産取調
 ① 鎌,銚,小刀,庖丁,鋸などは,ほとんどすべてが三条町で生産されていた。
 ② 和釘と矢立は,三条町では生産されず,近村ですべて生産されていた。
 ここで注目すべきは,1874年(明治7)の『三条町物産取調書』のなかに,「和釘」の数量が記載されていないということで,その生産が皆無ではないにしても,戸長に提出する公的な物産取調書としては「記載するに足る生産量」でなかったことは確かである。
 そうだとすると,第6表のように1872年(明治5)のときには,三条町の和釘生産は鉄鋲を含めたとしても6480万本で,生産額でも鎌に次いで多かったのに,僅か2年後の1874年(明治7)に至る間に,なぜこのようにまで和釘生産は急激に減少したのであろうか――。

(3)三条町の和釘生産が急減した理由
 三条町の和釘生産を,このように急減させるのに,最も重要な役割を一貫して演じてきたのは,ほかならぬ同町の金物問屋であった。
 ここで,三条町の金物問屋について,その沿革,商圏,および鍛冶屋との関係を,
次に特記しておく必要がある。
 ① その沿革
 既述のように,1661年(寛文元)に会津地方(現在の福島県)から鋸,鉈などの新しい製法が伝来して,和釘に加えて三条町の鍛冶が盛んになってきた。そのため,今まで三条町および近郷だけを商圏としていた地廻り金物商人が,やがて越後の国内は勿論のこと,国外へも足を伸ばす金物行商人として本格的に活動をはじめたのは,明和年代(1764―71)以後のことと伝えられる29)。
 ② その商圏
 江戸時代末期における三条町の金物問屋の商圏は,関東地方,信州・甲州方面,会津・奥州方面にまで及んでいた30)(第5図参照)。
 (イ)関東地方
 三条から信濃川を遡行し,支流の魚野川によって六日町に上陸,ここから馬または背負荷で三国峠を越え,上州の倉賀野に出る。ここは利根川の支流の烏川のほとりにあるので,川舟で利根川を下り,江戸に運ぶとともに,鬼怒川を遡行して北関東にも達するなど,関東全域におよんだ31)。
第5図 三条町金物問屋の取引先
 (ロ)信州・甲州方面
 三条から川舟で信濃川を下り新潟に出て,新潟から日本海を舟に乗って直江津へ直行し,そこから馬または背負荷で陸路,信州へ,さらに甲州にも達した31)。
 (ハ)会津・奥州方面
 三条から川舟で信濃川を下り新潟へ出て,さらに海路を舟で北行して阿賀野川を津川まで遡行し津川に上陸,そこから陸路で会津を経て奥州各地に達した32)。
 ③ 鍛冶屋との関係
 三条町の金物問屋は,自分の専属として特定の鍛冶屋を何軒か持っており,その関係は,いわば「親方」と「子方」の結びつきであった。たとえば,金物問屋は自分の専属の鍛冶屋に対して,常に経済的援助を行って保護育成をはかり,他方,鍛冶屋の方は自分の唯一の親方である金物問屋に対しては,親方の意向どおりに骨身を惜しまず良く働いた。鍛冶屋は1日働くと,その日に出来あがった製品を夕方までに親方のところへ納入して工賃を受け取り,その金で米や味噌などの日用必需品を買い,それから地金屋へ行って明日の仕事の材料を買い,それを手にぶらさげて家に帰る……,という毎日を過していた。
 金物問屋の鍛冶屋に対する役割のなかで最も重要なことは,彼らが行商先の各地でできる優良な製品や新種の製品を見本として三条へ持ち帰り,それを自分の専属の鍛冶屋に見せて研究させたり,同じものを模して作らせたり,また行商先から技術者を連れてきて自分の専属の鍛冶屋に教授させたりしてきたことである。
 ともあれ,三条町の金物問屋は,このように広い商圏をもつが故に,全国各地の情報に詳しく,したがって1869年(明治2)の洋釘輸入とその普及状況から「洋釘時代の早期到来」という“天下の大勢”をいち早く的確に察知し得たであろうし,また上述のような鍛冶屋との関係であるならば,自分の専属の鍛冶屋に対して,“天下の大勢”にそうべく和釘製作を早速にやめさせ,それ以外の製品を作るように指導・指示し,そのための資金援助も強力にしたであろうことは疑うべくもないことである。
 こうして,三条町へ洋釘がはじめて入荷した1876年(明治9)以前には,近村は別として,すでに同町内はほぼ完全な洋釘時代になっていたと推察できる。たとえば,1880年(明治13)の通称「糸屋大火」は,三条火災史上最大のもので,焼失戸数2484戸,焼死者60余人,怪我人百数十人であったが,この家屋建築の復興には,すでに和釘は使用されず,すべて洋釘が使用されていたという33)。

 (4)三条町和釘鍛冶業者の転業過程
 三条町金物問屋の上述のような指導と助成とによって,三条町の和釘鍛冶業者たちはどのような製品製作へと転業して行ったのであろうか。それには,次のような3つの転業過程があった。
 ① 和釘から鋲釘を経てプレス加工への転業過程
 これは,和釘からまず鋲釘(太鼓鋲,下駄鋲,格子戸鋲),次いで釘しめ,うちぎり,又は針金細工(目かすがい等),そしてセンター・ポンチかプレス加工へと,常に最も移行しやすいものへ順次に転業していった過程で,転業者のなかで1番多い事例であった。
 ② 和釘から小荒物への転業過程
 「小荒物」とは,「大荒物」との対立的な呼称で,その両者の相違は次のようである
 ③ 和釘から高級刃物への転業過程
 鍛冶業者として,和釘の製作だけにあきたらず,いつかは高級な金物,つまり刃物の製作を志向していた農村の副業的和釘鍛冶業者にとって,この和釘潰滅は,かねての念願を実現する絶好の機会となった。
 しかし,刃物製作の技術は,和釘製作に比べて遙かに高度・複雑なので,それを習得するために町の刃物鍛冶業者に「年期入れ」をする者が多くなってきた。

 (5)三条町近村の金物問屋
 第7表からも知り得るように,和釘の産地は三条町ばかりでなく,その近村(とくに一ノ木戸村)でも,そうであった。むしろ後者の方が盛んでさえあった。
 或る古老は,次のように語る34)。「現在の一ノ木戸郵便局のわきの小路(菅田小路)は,松沢安右衛門,五十嵐嘉平,玉木勝造など多数の和釘鍛冶がいて,その小路を歩くと足に和釘がささって,あぶないと言われたほどであった。」
 したがって,三条町の近村も,前述の三条町と同じようなさまざまな転業過程をおのずとたどったのであるが,しかしそのなかで次のことを特記しておかねばならない。
 第7表において,一方の三条町ではすでに和釘生産を廃止していたのに,他方の近村ではその生産を急減しながらも,なお生産を続けていたという相違は,実は三条町の金物問屋と近村の金物問屋との実力の相違に原因している,ということである。すなわち,明治の新政府による1872年(明治5)の「職業自由の通達」によって三条町の近村にも金物問屋がはじめてできたが(第8表参照),近村の金物問屋は三条町のそれに比べて,規模,売り上げ,商圏,資本力などすべてにおいて懸絶の差があって,とても“天下の大勢”を察知するほどの実力もなく,ただ村内や近郷近在のみの商売に終始し,洋釘時代への転換に対応できなかったのである。
第8表 三条町および近村の鍛冶屋・金物問屋軒数(1884年)
第9表 三条町および近村物産取調(1875年)

 (6)三条町および近村の転業による社会的影響
 第9表にみるとおり,1875年(明治8)の三条町および近村における農工具・鉄鋼類(つまり金物)の生産額(約1万3244円)は物産総額(約5万3565円)のうちでは僅か25%にしかすぎず,他に織物類が23%,足袋・甲掛が9%を占めていたので,和釘鍛冶業者における転業問題は三条町および近村地域としては,ほとんど町全体が和釘生産をしていた燕町に比べれば,それほどには深刻な社会的問題にならなかったとみるべきである。

 (7)三条町で洋釘製造が失敗した理由
 さて,三条町では故鉄と蒸汽鉄板(船舶解体故鉄板)は江戸時代末期から使用され始め,銑鉄は1877年(明治10)頃,洋鉄は1879年(明治12),洋角鋼は1883年(明治16)頃に,それぞれ三条へはじめて入荷した35)。
 そのなかで,蒸汽鉄板の販売先駆者であった相場長松は,1883年頃,新規機械を導入して洋釘製造に苦心したという36)。この長松の直系曾孫の長一郎が先ほど急死したので,長松の洋釘製造の事情は全く不明であるが,相場家の古い文書を見てもこれに関して何も記載されていないところから察すると,その洋釘製造は成功の兆しなく,その新規機械は購入して間もなく他人に売却したと推測される。
 当時,洋釘を製造するには,第6図のような生産過程があり,(ロ)の「銑鉄」から(ホ)の「ワイヤロッド」までを製出するためには,設備は大規模であることを必要とし,かつ仕事は複雑多岐に分れて大変である。したがって便宜的に(ホ)のワイヤロッドを外国から輸入して,それを適宜の太さに抽き,釘の原料とする方法をとるにしても,①少くとも製線機,製釘機,原動機など一応の設備の必要。②製釘技術の困難から機械職工の養成。
第6図 洋釘の生産過程
③自製販売上の困難。④機械騷音に対する近隣住民の迫害対策などの諸問題37)を考慮すれば,当時の鍛冶屋は勿論のこと,相場長松のような大富裕な金物問屋でも,それだけの資力は到底あり得なかったとみるべきであろう。このことは,既述したように1898年(明治31)に東京の大資本家,安田善三郎が東京市深川区猿江町に安田製釘所を設立し,わが国ではじめて洋釘製造に乗り出したが,早くも4年後には工場を閉鎖せざるを得なかった諸事情を考えれば充分であろう。

 4 結 び
 上述のように,洋釘の輸入と普及による燕町・三条町の影響とその対応については,次のように要約されよう。
 ① 燕は明治10年代から20年代にかけて,和釘から矢立,真鍮櫛,火箸,灰ならし,鈩,銅器,煙管,彫金などへ,思い思いに転業し,なかんずく,矢立,次いで銅器への転業者が多かった。これに対して三条町の転業時期は燕町のそれよりも遙かに早く(第7図参照),三条町に洋釘がはじめて入荷された1876年(明治9)以前に既に転業がほぼ終了し,その間に(イ)和釘から鋲釘,次いで釘しめ,うちぎり,又は針金細工,そしてセンター・ポンチ又はプレス加工へ,(ロ)和釘 から小荒物へ,の和釘から高級刃物へ,の3通りのそれぞれの転業過程を経てきた。
第7図 三条町・燕町・全国の和釘時代と転業期間
 ② このような,燕町と三条町との転業時期のズレは,燕町の近くに「越後鎌」の産地として有名な月潟村や中之口村,味方村,白根町があり,その鎌の目釘として燕町の和釘がのちのちまで需要のあったことが一因でもあろう。しかし,それよりも本質的には燕町の金物問屋と三条町の金物問屋との実力の相違によって,転業時期のズレが生じたとみるべきであろう。三条町の金物問屋は,広大な商圏から得られた情報に基づいて,“天下の大勢”が「洋釘時代の早期到来」であることを的確に察知して,いち早く自分の専属の鍛冶屋に対して,和釘生産を中止させ,和釘以外の新時代に即応した製品を作らせた。これに対して燕町の金物問屋は,三条町近村の金物問屋と同様に近郷近在だけを自分で天びんをかついで一生懸命に売り歩いていた。鍛冶屋の町であり,古くから三条商業資本の支配下にあった燕町には,有力な金物問屋など存しようもなかった。
 ③ 洋釘の輸入と普及による影響は,町のほとんどが和釘鍛冶業者であった燕町の方が,和釘を含む金物生産額が物産総額の約25%にすぎない三条町よりも,遙かに甚大で正に文字通り致命的であった。しかし,燕町には和釘製作に代りうる数多くの他の金属加工業があり,しかもそれらが全国的な需要のちょうど最盛期であったため転業者に対して受容能力が充分にあったことが,燕町にとって文字通りの救世主となった。
 燕町・三条町の和釘・洋釘交代期に関する資料は全く絶無に等しく,ただ,今でも残る燕市内の「釘荘」,三条市内の「釘屋」という屋号に,和釘時代の遠い昔が,しのばれるのみである。

 注
 1)佐々木博「燕市における洋食器工業の存立基盤」,『筑波大学 人文地理学研究Ⅱ』所収,1978年,47ページ。
 2)石田清『燕市工業一覧表』1961年。
 3)安田善三郎『釘』博文館,1916年,117-18ページ。
 4)同上書,118-19ページ。
 5)「1881年(明治14)1月26日の東京大火のとき,……三条から船積みで和釘を大量に東京へ送り,相当の利益を得たという。」『東京金物組合史』東京金物連合商工業協同組合,1969年,15ページ。
 6)捧吉右エ門『日本洋食器史』叢文社,1971年,13ページ。中村金治『中小企業政策研究』協同出版,1965年,111ページ。
 7)安田善三郎『釘』博文館,1916年,122-23ページ。
 8)同上書,123ページ。
 9)「釘鍛冶といえば,大抵,夜なべをするに,燈火をつけず,その炭火の微かな光で釘を打ったもので,……燈火をつけて油を使っていては,とても引合はない……。手間が馬鹿に安かった……。」安田善三郎『釘』博文館,1916年,78ページ。
 10)神保新一『大川のほとり,燕史考(2)』燕市教育委員会,1967年,70-71ページ。
 11)『東京金物組合史』東京金物連合商工業協同組合,1969年,16ページ。
 12)神保新一『大川のほとり,燕史考(2)』燕市教育委員会,1967年,72ページ。
 13)安田善三郎『釘』博文館1916年,120ページ。
 14)同上書,125-93ページ。
 15)鳥羽万亀造『三条金物小史』三条商工会議所・三条市役所,1957年,21ページ。
 16)石田清『燕市工業一覧表』1961年,1ページ。捧吉右エ門『日本洋食器史』叢文社,1971年,13-14ページ。
 17)『燕市史双書(1),燕乃銅器』燕市教育委員会,1966年,36ページ。
 18)同上書,36ページ。
 19)佐々木博「燕市における洋食器工業の存立基盤」,『筑波大学 人文地理研究Ⅱ』所収,1978年,48ページ。石田清『燕市工業一覧表』1961年。
 20)同上書,48ページ。
 21)神保新一『大川のほとり,燕史考(2)』燕市教育委員会,1967年,91-92ページ。
 22)玉川正作『玉川堂と燕銅器の話』1976年,2ページ,20ページ。
 23)同上書,6ページ。
 24)同上書,6ページ。
 25)『燕市史双書(1)燕乃銅器』燕市教育委貝会,1966年,19-20ページ。
 26)玉川正作『玉川堂と燕銅器の話』1976年,14ページ。
 27)三条史料調査会『三条市史資料Ⅰ』三条市,1954年,542ページ。
 28)渡辺行一『三条の歴史』野島出版,1966年,143-47ページ。
 29)三条史料調査会『三条市史料Ⅰ』三条市,1954年,399ページ。
 30)宗村彰夫「江戸末期三条金物の販路」『地方史研究』第9巻4号所収,1959年,26ページ。
 31)池田庄治監修・土田邦彦著『三条金物――その形成と構造――』野島出版,1977年,24ページ。
 32)小西勝次郎『国産金物発達誌』文書堂,1934年,121-22ページ。
 33)鳥羽万亀造『三条金物小史』三条商工会議所・三条市役所,1957年,21ページ。三条史料調査会『三条市史資料Ⅰ』三条市,1954年,458ページ。
 34)三条市仲町,松沢安衛氏談(もと鋲釘鍛冶職人)。
 35)三条史料調査会『三条市史資料Ⅰ』三条市,1954年,460ページ。
 36)三条商鉄組合『商鉄のしおり』1977年度版,12ページ。
 37)安田善三郎『釘』博文館1916年,145-75ページ。
Ⅱ 燕市の金属洋食器産業発展の基盤と条件 神子島 義平

 はじめに
 1 金属洋食器産業の勃興とその基盤
 2 金属洋食器産業の発展とその条件
 3 金属洋食器産業の発展とその諸構造
 はじめに――燕町と金属洋食器産業
 (1)金属洋食器産業勃興前の燕町産業
 明治時代初期の洋釘輸入とその普及が,和釘産地としての燕町にどのような影響を与え,そして燕町はそれにどのように対応したかについては前述のとおりであるが,その後,鑪,煙管,矢立,彫金,銅器へ転業し,とくに銅器の生産は最盛期を迎えた。
 1901年(明治34)大阪に高木アルミニウム製造所が設立され,引き続いてアルミニウムの器物工場が設立された。このような低廉なアルミニウム製品は,生産の拡大とともに急速に普及し,やがて銅製の器物を衰退に導いた。
 他方では,日露戦争頃の刻みタバコに代る巻タバコの出現は,煙管の需要を減退させた。また,万年筆の普及も矢立を後退させた。かくて,燕産業の壊滅的打撃は大きな社会問題を生んだ。
 このため,失業した職人は信濃川支流の大河津分水工事(1907―22年)に,その糊口(糧)を求めなければならなかった。

 (2)金属洋食器産業発展の史的区分
 前述したように燕産業が苦境にたたされ,重大な社会問題を惹起しつつあった時期に,燕金属洋食器産業が誕生したのである。
 燕金属洋食器の生産の歴史をみると,次の2期に分けられる。
 ① 金属洋食器産業の勃興期(1914―45年8月)
 ② 金属洋食器産業の発展期(1945年8月―現在)
 さて,勃興期の金属洋食器は材質的には真鍮材が主体であった。手作りから機械による生産技術・生産体系を確立した時期であった。そして,発展期の金属洋食器は材質的にはステンレス鋼が主体である。勃興期に確立した技術を基礎に,ステンレス鋼の加工技術を開発するとともに,市場開拓も進み,アメリカ市場への輸出を
中心に生産量も飛躍的に増大した。やがて,各国の輸入制限や自主規制が強いられた時期であった。

 1 金属洋食器産業の勃興とその基盤
 (1)洋食器産業のパイオニア「十一屋商店」
 東京銀座の十一屋は舶来品のランプの輸入商であったが,明治時代の洋食の普及とともに洋食器も輸入した。それに,首都の中心街という恵まれた環境もあって,高級洋食器専門店として非常に発展をとげた。
 日露戦争1904―05年(明治37―38)後,牛鍋屋が西洋料理店を兼業するものが多くなった時期に,電灯が石油ランプにとって代わり,一般家庭に本格的に普及していった1)。こうしたランプの凋落で,十一屋は1907年(明治40)洋食器に積極的に取組み,諸外国の洋食器を模倣して国産化を目指すようになった。東京の神輿の錺職人や刀剣・槍などに関係した金工職人を下請けとして金属洋食器の製作を試みた2)。洋食器の輸入や国産化の努力の結果,宮内省をはじめ,諸官庁,帝国ホテル,精養軒,風月堂,宮家,財閥などが主な納入先となった。
 1911年(明治44)十一屋は日本石油の内藤久寛から洋食器36人分の注文を受け,東京の下請業者に発注したが,高級品のため製作は不可能であった。そこで,十一屋は鎚起銅器の花瓶,壼などの工芸品を納入していた燕の〓商店(当時金物商,現燕物産㈱)の銅器技術を高く評価して,ひょっとしたらできるかも知れないと3),製作依頼のため来燕した。おそらく,この時が燕に洋食器の注文がきた最初であり,こうした燕洋食器製造の基礎は十一屋によってつくられたのである4)。

 (2)金属洋食器の生産
 欧米の諸国では,1914年(大正3)7月第1次世界大戦の勃発とともに,洋食器工場が軍需工場に徴用され,生活必需品の洋食器の生産を肩代りできる国々を探していた。なかでも,米国オネダー社や英国マッピー社などは東京,大阪,堺などの取引先を通して燕の金属加工技術を知った。
 燕の金属洋食器の本格的な生産の開始は,試作後3年目の1914年(大正3)であった5)。燕の金物問屋が洋食器の注文を受け,出入りの職人を下請として製作させた。翌年,大阪多田商店を通じて,ロシア向け洋食器日産200ダースを受注し,活況を呈したが,ロシア革命によって輸出中止となった。大型であったため国内向けに転用できなかった。このことが,オランダ製品が杜絶した蘭印(現,インドネシア)
市場開拓の契機となった。
 このように,洋食器生産は金物問屋主導で始まった。前述の〓商店の他に,カクヤマ商店,井上商店(加賀屋),共信商会,久保田重松商店(花松)を加えて「五大問屋」と呼ばれ,ほぼ時期を同じくして金属洋食器を取扱っていた。
 勃興期の金属洋食器の材質は真鍮6)が主体であった。手作りの金属洋食器の生産工程は7),
第1図 手作りフォークの製造工程
 ① 先ず真鍮板づくりから始める。真鍮の煙管やランプの金具などの屑を熔かして,糠の型の中を通して地金をつくる。真鍮の丸棒はフイゴで吹き,鉄床と鎚とで叩いて地金をつくる。
 ② 地金を手ごろの厚さになるよう叩いて薄く延ばす(文出し)。
 ③ 柄の部分を厚く細くし(柄延べ),スプーンの皿の部分やフォークの刃の部分を薄く平らにする(平延べ,首寄せ)。
 ④ ケヒキで皿や刃の部分の形に傷をつけ,その線にそって切ばし(鋏)で切断する。
 ⑤ 鑪8)で切断部を削り,コバスリをする。
 ⑥ スプーンは欅の木の台に凹みをつけ,才槌の凸の部分か,金型の凸で皿の部分をサンドウィッチ状にはさんで,鉄鎚で叩いて凹みをつける。フォークの場合,鋸で切って刃を1本1本つける。
 ⑦ 鑪で削り,柄の部分の丸みをだす。
 ⑧ 柄の部分の模様づけをする9)。
 ⑨ セン(金属製の削る道具)やサゲ(竹製の削る道具)で,傷を取り除く。
 ⑩ 柔かい朴木炭で1本1本磨き,さらに臼に朴木炭を入れ,砕いて粉にして濡らした布につけて仕上研磨をする。
 ⑪ ニッケル・メッキを施す。
 ⑫ 検品,包装,出荷となる,であった。
 このように,手作りのスプーンやフォークの生産工程には,煙管や銅器の製作技術が,そのまま生きていた。
 1915年(大正4),金属洋食器の生産が継続する見通しがたつと,手動による機械の導入が行われた。先進産業の鈩や煙管から手廻し猫プレス,蒸気発動機によるバフ研磨,足踏丸鋸や三条のポケットナイフの技術,手動のパープレス,錠前の金型などの技術や機械が取り入れられた。1920年(大正9)国産品奨励政策により高級品の銀メッキ製品に10割の輸入税がかけられたため,燕製品の高級品化が進み,宮内省や華族会館からの受注もあり,一段と機械化に拍車がかかった。
 1921年(大正10)にはマニファクチュアの段階に至る工場もみられ,また,ナイフ製造技術の確立のため,先進刃物産地の岐阜県関から10名の技術者が招かれた10)。1922年(大正11)には動力をひく工場は4工場となり,機械化工業時代に入った。1927年(昭和2)にロール機が導入され,生産工程の基本的な工程が機械化されるに至った。
 スプーンの製造工程のうち,基本的な工程は,次の5工程である。
 ① 地抜(パープレス)~初めの形に金型で打ち抜く。
 ② 荒横延(ロール機)~皿の部分を必要な厚さに薄く延ばす。
 ③ 柄押(フレキションプレス)~柄の部分にデザインの型を押し,模様をつける。
 ④ 半抜(パープレス)~皿の部分を丸く打ち抜く。
 ⑤ つぼ起(フレキションプレス)~皿の部分を型によって凹みをつける。
 生産技術のうち生産体系を大きく変えたのは,金型とロール機の導入であった11)12)。一方,生産工程の機械化は,産業機械業者の進出を促した。1921年(大正10),長岡から日本機械(田中豊七)が燕に鈩の目立機械を納入した縁もあり進出した。東京の黒板徒弟養成所を出た早川栄松は,日本機械に弟子入りし,その技術を受け継ぎ,1925年(大正14)早川鉄工所として独立した。翌年弟子入りした霜鳥平三郎は,1935年(昭和10)に霜鳥鉄工所として独立し,その技術を発展させた。かくて,洋食器生産の産業機械が燕産地で調達が可能となった。三条の野水機械のレース盤とともに,技術の開発や発展に大きな貢献をした。

 (3)金属洋食器の生産構造
 1919年(大正8)の燕町の職業は第1表のとおりで,まだ金属洋食器の職業は分類されておらず,真鍮物職となっている。その職工数も11名,ナイフ14名と少なく,鑪,煙管職に遠く及ばない。
第1表 1919年の燕町の職業
洋食器の生産に従事した職工は,不況に喘いでいた銅器,矢立,錺職などの職工が圧倒的であったという。
 1921年(大正10)頃,「洋食器は年間を通して売れる商品でなく,5~6月が売れる季節商品であった13)。」
 燕金属洋食器の生産は,五大問屋をはじめとする問屋主導型で開始されたことは,前述したとおりであるが,その定着には問屋の販売網や朝鮮,中国,南洋(東南アジア)をはじめとする海外市場の開拓に負う所が大きかった。
 また,洋食器の生産業者は零細で,原材料の支給や機械購入資金の前借などで問屋資本に隷属し,工賃を受け取るだけの下請職人であった14)15)。同時に,問屋~生産業者~生地業者~研磨業者の系列化も進み,ピラミッド型の社会分業体制を形成していった。
 一方,金融面では燕町には1897年(明治30)設立の燕銀行の一行しかなかった。貸出金は主として役員や株主などを対象としていたため,零細な生産業者は利用できなかった。1916―17年(大正5―6)資金需要を緩和するため,寺泊銀行の支店を誘致した16)。1920年(大正9)開設された寺泊銀行燕支店は生産工場に対して,設備資金,原料購入資金,手形割引資金を積極的に融資した17)。当時,金物問屋は為替金額の少ない燕の二行の他に,三条の三条銀行,三条信用銀行,北越商業銀行を利用した。生産工場にとっては地主や金物問屋から資金を借りる以外に方法がなく,その上機械化工業時代に突入していただけに,寺泊銀行燕支店は生産工場に対して設備資金の融資をした。工場の設備投資が急速に進んだために,生産業者の経済的な基盤がつくられた。
 昭和初期の不況期には,燕洋食器産地として知った県外商社が来燕し,直接生産業者と交渉する機運が生まれ,みずから生産・販売する傾向がみられるようになった18)。
第2表 燕金属洋食器業の規模(1938年)
こうして1927―28年(昭和2―3)には問屋,生産・販売業者,生産業者の三派がしのぎを削るようになった。1938年(昭和13)には,第2表のとおり,生産・販売業者は14~15社を数えるようになった。
 金属洋食器の勃興期における燕商人の資本力や商圏は,まだ大きくなかった。取引先である高儀商店,高喜商店,長沼商店などの三条商人によって,その金物販売ルートにのって,金属洋食器の国内市場が開拓されていった19)。
 三条でも,「1929―30年(昭和4―5)頃,高橋中儀(高儀商店)と長沼直吉(長沼商店)は共同で4~5人の従業員を雇い,真鍮製のスプーン,フォークを製造し,三井物産の販路を利用して奉天支店へ納品したが思うように売り捌けず,数年後,製造を中止した20)。」また,ナイフ製造については三条食器,斎藤吉三郎,加藤峯吉の3工場があったが,1930年代後半に原材料の確保が思うにまかせず,メリットがなく廃業せざるを得なかった。三条の場合は,下請関連工場の形成,原材料の圧延,生産技術,販売網など,経済情勢の変化に対応できる生産構造や流通体系が確立できなかったところに,洋食器産業として定着し得なかった要因があろう。

 (4)金属洋食器の出荷額と材料の確保
 (ア)金属洋食器の出荷額の推移
 金属洋食器の出荷額および輸出額の推移をみると,第2図のとおり,出荷額のピークは3つある。
 1914―18年(大正3―7)までは,第1次世界大戦の勃発を契機に試作に成功し,輸出向け洋食器の生産が増大した時期であった。1918―26年(大正7―15)までは,第1次世界大戦の終結によって各国の民需産業の復活によって輸出額が横バイを続けたが,生活様式の欧風化や関東大震災によって内需が増大し,ゆるやかに出荷額が伸びた時期であった。1925年(大正14),中小企業の輸出品振興政策によって輸出額が伸びたが,1929年(昭和4),世界恐慌によって輸出額が落ちこんだ。1931年(昭和6),鈴木商店(現,味の素)発注のスプーン10万6000ダースの大量注文によって燕産地が活気づくとともに,満州事変を機に輸出市場も回復した。1933―36年(昭和8―11)までは,金属洋食器の出荷額,輸出額とも勃興期の最大の伸びを示し,燕町の主産業としての地位を確立した時期であった。1935年(昭和10)の生産高700万ダース,出荷額350万円をピークに,日華事変以降洋食器工場は軍需工場の下請工場へと徴用され,金属洋食器生産は衰退していった。
第2図 金属洋食器の出荷額と輸出額の推移
 (イ)燕洋食器工業組合の設立
 金属洋食器の手作り時代は,煙管やランプ金具などの真鍮屑をいかに地金にするか,という技術的な解決が先決であった21)22)。しかし,機械が導入されると,真鍮板の安定供給と確保が産地の重要な課題となった。それは燕洋食器工業組合設立の内部要因でもあった。
 地金の仕入先は京浜,阪神市場であった。井筒商店(大阪)から「燕が来た時分に品物(地金)を送ると,雁の来る時分にやっと金が入る23)」と言われた位,上得意様でなかった。設備投資に追われ,資金力に乏しい燕産地では,五大問屋を中心に地金の共同購入を試みたり,伸銅所(真鍮材圧延工場)の誘致を行った。ついに,1922年(大正11),清峰伸銅所が操業を開始した。真鍮板の供給,スクラップの有効利用,輸送コストの軽減など大きな効果をあげた。
 1920年(大正9)3月の経済恐慌を機に,金属製品価格の暴落など,燕産地も打撃を受けた。政府は慢性的不況,国際収支の悪化から中小企業の振興をかかげ,1925年(大正14),「輸出組合法」「重要輸出品工業法」を制定し,金属洋食器を含めて全国22業種を指定した。
 1926年(大正15),〓商店を推進役に五大問屋が設立発起人となり,「燕洋食器工業組合」の設立を申請し,認可された。「地金屋を入れてくれ」という産地の要望に対して,「燕は特殊地域だから,今後問屋業は成り立たないのだから,リスクを少なくするため,小さくともお前達(生産業者)でやれ24)」との商工省の指導で,組合員資格を「地区内ニ於テ輸出品トシテ洋食器ノ製造ヲ業トスル者」(組合定款第5条)とした。理事長捧吉右衛門,専務理事玉橋一事で,組合員11人,出資金100口の1万円であった。出資金の内訳は,五大間屋で80%を占め,生産業者6人で20%であった。
 工業組合の中核事業は,原材料の安定供給と確保のための伸銅所の建設であった。県商工課長梁井淳二の尽力による国の補助金2万円を基金に,上海に進出する清峯伸銅所を買収した。原材料の共同購入,圧延の事業は,生産業者に安い真鍮板の安定供給を確保させ,経営上大きなプラスとなった25)26)。

 (ウ)戦時下の金属洋食器の生産
 1936年(昭和11)の洋食器生産は,第3表のとおりである。真鍮材が広く使用され27),ニッケル,クローム,銀メッキを施された。高級品は洋白(銅とニッケルの割合9:1)に銀メッキが,低級品は鉄にクロームメッキがなされた。ステンレス鋼も僅かだが,使用されていた。
第3表 1936年の洋食器生産
 1937年(昭和12)の日華事変以降,金属洋食器生産の規制は年ごとに強化された。「輸出品等臨時措置法」で,金属洋食器は不要不急品として輸入許可品目となった。1938年(昭和13),「国家総動員法」や「銅使用制限規則」の施行で,銅や銅合金の洋食器製造には,県知事の許可が必要となった。しかし,工業組合加入の62工場が特殊保税工場の指定を受けた。アメリカから真鍮,銅,亜鉛などの屑を,スウェーデンからステンレス板や丸棒を,生産量に見合う数量を無関税で輸入した。また,海軍の指定工場は1社あったが経営を刺戟するほどの注文はなかった。1940年(昭和15),「奢侈品等製造販売制限規則」によって技術保存工場7工場を除いて,洋食器の製造が禁止となった。1941年(昭和16)太平洋戦争の開戦後,「物資統制令」が施行されて軍需工場へと徴用され,洋食器の生産が急速に縮少されていった。
 燕町に金属洋食器産業が勃興し,存立し得た経済的社会的な諸要因を要約すれば,次のとおりである。
 需要側の要因
 ① 欧米諸国では,第1次世界大戦の勃発で,洋食器工場が軍需工場に徴用された。
 ② 生活必需品の洋食器の生産中止で,自国の洋食器生産の肩代りできる国を探していた。
 ③ 米国オネダー社や英国マッピー社などは,取引先の東京,大阪堺の商店を通して燕の金物問屋に洋食器を発注した。
 ④ 十一屋などの洋食器の輸木商は,輸入杜絶で洋食器生産の国産化を推進した。
 ⑤ ロシア向け洋食器はロシア革命で出荷不能となった。
 ⑥ 大正中頃の生活様式の洋風化,関東大震災でカレーライスが流行しはじめた。
 ⑦ 政府は経済不況時に小冊子を町村役場に配布し,国産品使用奨励を訴えた。
 ⑧ 昭和恐慌の折,満州事変がおこった。
 ⑨ 寺泊銀行は事業拡張のため,燕町に支店を開設した。
 ⑩ 政府は中小企業振興のため,重要輸出品工業として金属洋食器を指定した。
 供給側の要因
 ① 燕には和釘,鑪,銅製品の生産を通して圧延,切断彫金(錺),鍍金,研磨などの金属加工技術の蓄積があった。
 ② アルミニウム器物,万年筆,巻煙草の出現で,銅器,矢立,煙管などの職人は失職していた。
 ③ 五大間屋主導で洋食器生産が始まり,生産業者,研磨業者の系列化が進んだ。
 ④ 十一屋は取引先の〓商店に洋食器の試作を依頼した。手作りで,煙管や銅器の技術が生かされた。
 ⑤ ロシア向輸出中止は,オランダ製品杜絶の蘭印(インドネシア)市場開拓の契機となった。
 ⑥ 内需を刺戟し,テーブルスプーンを中心に生産が拡大した。
 ⑦ 国産品の奨励によって,銀メッキ製品に10割の輸入税が課せられたため,高級品の輸入が減少し,高級品化が進んだ。
 ⑧ 満州事変で,朝鮮,満州,支那などの輸出市場が拡大した。
 ⑨ 寺泊銀行燕支店は問屋に隷属する生産業者へ融資を行った。そのため,設備投資が急速に進み,機械化に大いに役立った。
 ⑩ 燕洋食器工業組合を設立し,伸銅所を買収した。銅屑の輸入による低廉な真鍮材の安定供給は,生産コストの引き下げ,経営基盤や国際競争力の強化に役立った。

 2 金属洋食器産業の発展とその条件
 1945年(昭和20)8月以降の燕金属洋食器産業の発展の経過は,第4表のとおりである。

 (1)安い材料の確保と供給
 (ア)ステンレス鋼の廃材を求めて
第4表 金属洋食器小史(1945年以降)
 第2次世界大戦後,燕の金属洋食器の生産は,1946年(昭和21),進駐軍設営用向特需11種類176万本を受注し,再開された。さらに,2万世帯分のミートフォーク,ナイフの4万本の受注をみた。1947年(昭和22)の米第8軍の50万本,英濠軍の4万1000本のステンレス鋼洋食器の注文,スーベニア5万4000ダースの注文が舞いこんだ。1950年(昭和25)の朝鮮戦争直前,PX――酒保向けの受注があった。輸出品と同じ取り扱いで物品税免除,ドル決済であった。しかし,大量の注文があっても,当時は戦後の統制経済下で,生産資材は極度に不足していた。
 そこで,圧延業者はステンレス鋼の廃材――上陸用舟艇の解体品,潜水艦の潜望鏡,軍刀用残材――を求めて,全国の旧軍需工場を探し求めた。1954年(昭和29),鋼材1トン当りの単価は,鉄5万円,ステンレス鋼15万円,真鍮30万円,洋白60万円であった。真鍮はステンレス鋼の2倍であり,ステンレス鋼にとって代えられる要因の1つでもあった。

 (イ)八幡製鉄(現,新日本製鉄)との結びつき
 ステンレス鋼廃材の不均一な品質や品不足の不安に悩む燕産地に,「1950年(昭和25),高島屋材料部から,八幡製鉄に交渉すれば,八幡製鉄でステンレス鋼材をつくってくれるかも知れないという,耳よりな話が届けられた28)。」
 燕洋食器工業組合の専務理事南波憲厚は,県,市,業界代表と協議し,早速,八幡製鉄を訪れた。営業部長斎藤英四郎(現,社長)の紹介で角野副社長を訪れ,依頼した。国策に協力するということで,ステンレス鋼材供給のO.K.がでた。
 燕産地では,天下の八幡製鉄がちっぽけな燕を相手にする訳がないと,危惧の声があがった。1956年(昭和31)6月,八幡製鉄からステンレス13cr100トンが届いた29)。八幡製鉄がステンレス鋼材を生産したとの情報が伝わると,大阪特殊製鋼,関東製鋼,東北特殊鋼などの製鋼メーカーが,早速ステンレス鋼生産を開始した。
 燕産地が八幡製鉄からステンレス鋼の供給を受けたことのメリットは,次の3点であった。①バイヤーに八幡製鉄の材料を使用している燕製品ということで,燕産地のイメージの向上に役立った。②燕産地はステンレス鋼の値下げ交渉については直接八幡製鉄と行った。他の製鋼メーカーは八幡製鉄が決定した鋼材価格に追隨せざるを得なくなった。③ステンレス鋼の市場価格より約20%位安く供給を受けたことは,コスト引下げに連がり,燕産地の国際競争力の強化に役立った。

(2)ステンレス鋼の加工技術の開発
 ステンレス鋼洋食器の本格的な生産がはじまる1950年代,硬質,防錆性のステンレス鋼の加工技術として,超音波洗浄機(1951年)や電解研磨技術(1952年)30)が開発された。とくに,電解研磨はステンレス鋼の加工には不可分の技術で,ステンレス13crを錆させない技術,ステンレス16crの品質程度にまで高めることのできる技術と言ってよく,金属洋食器の生産工程や産地構造に変化が生じさせた
 従来のバフ研磨なら,20年の熟練工で日産200~500本,当時の研磨代は1本2~3円であった。電解研磨なら,未経験の女子工員で日産8000~1万本,その上,若干のバフ研磨を加えるとしても,半値以下で量産が可能となった。
 電解研磨の営業に対して研磨業者の根強い妨害,圧迫があったが31),1952年(昭和27),燕洋食器輸出量の約60%のシェアをもつ岡谷鋼機㈱東京支店が,必ず電解研磨を条件とする注文書を出すに及んで,他の商社もこれに準ずる風潮になった32)。
 1947年(昭和22)に結成された県鍍研工業協同組合(鍍金40名,研磨95名)は,メッキ不要による不況のため,解散を余儀なくされた。鍍金業者は他分野への転換や鉄製品のクローム鍍金に変った。一方,研磨業者はステンレス研磨に転向し,1953年(昭和28)頃,家族労働を主体とする零細工場数は約300に達した。
 また,バフ研磨の際,研磨材の油が付着し,金網で熱し,油を拭き取って除去するのにかなりの人手を要していた。山崎虎雄によって超音波洗浄機が開発され,急速に普及していった。
 一方,真鍮製金属洋食器時代の圧延機,ロール機などの産業機械は,硬質のステンレス鋼の使用で,全部壊される危険があった。ステンレス鋼をロール機にかけるために,なましたこともあった。ロール機のコマの材質がチルドからベアリング(SUG2種),ハイス(高速度鋼)に切り換えられた33)。
 ステンレス鋼の加工技術の確立が34),世界の需要に応えて伸びてきた要因の1つである。ステンレス鋼の加工技術が比較的高く,他業種への転換が可能な技術だと言える。

 (3)一手買取,一手販売への試み
 (ア)生産業者による共同販売会社
 1945年(昭和20)8月,終戦と同時に燕では,煙管,洋食器,銅器,鈩の生産は活況を呈した。なかでも食うことから始まっただけに,洋食器は脚光を浴び,その60%は真鍮材,20%は鉄製品,20%は洋白とステンレス鋼であった。地金,石炭,コークス,研磨材も割当制であり,電力制限もある困難な状況下で,生産が再開された。
 1947年(昭和22),蘭印のミッション貿易の開始に当たって,燕の大手洋食器生産業者10社が,戦前は商社に操られ,お互が血で血を洗う過当競争を余儀なくされた悪弊を,再び繰り返す愚を避けるべきだとして,「一手受注,一手販売,仕事の公平妥当な分配35)」を目指す共同会社「日本洋食器貿易㈱36)」(通称「日洋貿」)を設立した。資本金500万円で,協業化の先駆をなした。燕生産量の80%以上を完全に統御できる力があり,商社が来燕しても,競争見積の相手がなかった位であった。品質の安定,均一化をめざし,電解研磨の共同開発を企画した。
 これに対して,新興の洋食器生産業者10社は「大洋食器製造㈱37)」(通称「大洋貿」)を設立した。「日洋貿」「大洋貿」に参加しない生産業者は,燕洋食器施設組合に「輸出部」を結成した。三者は熾烈な受注合戦を展開した。1948年(昭和23),「事業者団体法」「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」に触れるとして,解散を余儀なくされた。
 これら共同販売会社の果たした機能は,五大問屋の没落に代って生産業者の台頭,企業エゴで協業化がむずかしい中小企業の共同化など,その意義は大きかった。

 (イ)鮎川構想
 1959年(昭和34)4月,燕市において「燕産業に関する構想」(鮎川義介の名を付して「鮎川構想」)が発表された。その骨子は,およそ次のようであった。
 ① 燕市に輸出金属洋食器工業組合を中小企業団体法に基いて設立する。
 ② 同組合を輸出金属洋食器の一手買取り,一手販売(輸出)機関とする。
 ③ 上の買取行為のために,商工組合中央金庫が同組合に対して行う,買取資金貸付にともなう損失には,一定金額(10億円)を限度として,新潟県が損失を補償する38)。
 日本輸出金属洋食器工業組合総会では,この構想に対して,組合員の70%以上の賛成があった。しかし,金融機関や商社筋からの反対,それに中小企業政治連盟の選挙違反に対する感情なども手伝って,鮎川構想は失敗に終った39)。
 その後,金融機関によって,三井や三菱による一手販売の構想の代案が示されたが,生産業者から振り向かれなかった。

(4)アメリカ貿易と輸出規制
(ア)アメリカ市場への輸出
 1946年(昭和21),燕洋食器の輸出の再開は,ヨーロッパ,東南アジアなどの旧市場を仕向地としていた。先ず進駐軍の特需として受注,続いてスーベニアとして受注があった。このことがアメリカの知るところとなった。アメリカのバイヤーが,朝鮮戦争勃発直前の1950年(昭和25)春,来燕して金属洋食器を買付けたことが,アメリカ貿易の契機となった。
 1950年(昭和25)11月,燕金属洋食器のアメリカ輸出が始まった。ステンレス製洋食器は,アメリカ市場で大変好評だった。それ以前,燕産地の1ヶ月の総輸出額は1200~1300万円に過ぎなかった。ところが,アメリカ市場向けで,1951年(昭和26)1月,3000万円,同年4月,4000万円と,急上昇した。燕産地にとってプラス・アルファに過ぎなかったアメリカ市場が,主たる仕向地になった。「こんなに調子がいいと,大変だぞ。」とばかりに,燕産地では設備投資に次ぐ設備投資で機械化につとめた。
 そんな矢先の同年5月,アメリカ向けとして輸出した洋食器に錆が出たとクレームがつき,キャンセルとなった。材料は戦前物資の廃材であった。錆びない最低の品質である13crステンレスを分析すると,実際は8~10crステンレスであった。
 1951年(昭和26)6月~1953年(昭和28)6月頃まで,燕産地は全く火が消えたような不況期dark age40)であった。

 (イ)対米輸出の自主規制
 アメリカの輸出再開の許可がおりた1953年(昭和28)後半以降,燕金属洋食器41)42)の集中豪雨的輸出量の増大によって,1956年(昭和31)1月,592万2226ダースとなった。同年8月,International Silver Co.のウィルコック副社長は,「アメリカ洋食器工業の一大脅威」の論文を発表した。アメリカ洋食器業者は,日本製品の安値に破滅の危機に瀕していると実状を訴えた。
 日本の外務省や通産省は「洋食器だけならこわくない。田舎の町がやっているのだから。洋食器の規制が他の品種に及ぶのを恐れる」と,「燕は何をしているのか」と大騒ぎとなった。
 1957年(昭和32)「中小企業安定法」に基いて「日本輸出金属洋食器調整組合」(組合員73社,翌年,日本輸出金属洋食器工業組合に改組)を設立した。理事長中野寿一郎,専務理事南波憲厚であった。組合では,通産省軽工業品局日用品課栗林課長補佐の指導で自主規制に取り組んだ。出荷枠だけの組合にという指導だった。当時燕産地では,アメリカへの出荷業者は約50軒,生産業者は約200軒であった。工場をもたない問屋,元請より大きい下請,生産・出荷業者と複雑だった。出荷枠だけの設定ではおさまらず,生産業者にとっては死活問題だということで流血の騒ぎも懸念されて,下請加工業者保護のため,生産枠(生産加工枠)を設けた。
 自主規制の枠,出荷枠・生産枠とも,1956年(昭和31)を基準にして590万ダースとした。その配分については,調整組合は各社の輸出量の資料をもたず,1955―56年(昭和30―31)2年間の輸出実績の申告制をとった。申告数量の合計は,590万ダースをはるかにオーバーした。通産省による一週間以上にわたる綿密な検査の結果,
 590万ダース×α(輸出実績)/1,200万(申告数量の合計)
で計算された数値が,各社の出荷枠・生産枠として配分された。
 次に,輸出商社の輸出枠の設定であった。輸出枠が生産枠より小さいと,輸出商社の力が大きくなり,買手市場となる。輸出商社は納期,デザイン,価格および支払条件の決定権をもっている。輸出商社の来燕の報が伝わると,生産業者が列車の中まで出迎えるなど43),商社の奪い合いもあった。燕産地として,輸出条件についての発言権を生産業者にもたせるには,売手市場,すなわち生産枠より輸出枠を少し大きくしておく必要があり,強力に通産省をはじめ,諸官庁に陳情を行った。このようにして,1959年(昭和34)のアメリカの輸入規制が行われるまで,一時的にもアメリカを釘づけにし,その間,わが国の洋食器の総生産をコントロールすることに努力した。自主規制による生産過剰分はカナダ輸出へふりむけられた。
 反面,生産枠・出荷枠には利害得失がともなった。出荷枠は必ず販売=輸出の見通しのある輸出権であった。能力があっても枠のため伸びられず,枠を買って伸びる以外に道がなかった。洋食器1ダース100円位の当時,枠もそれに相当する金額で売買された。
 みんなが互恵平等,従来の実績の大きいものは仕方がないとの結論で,枠の配分が行われたけれども,枠をもたない生産業者からは,「座蒲団の上であぐらをかいて儲けている44)」との批判がでて,枠撤廃の要求が出された。組合専務理事南波憲厚は「途中で枠が撤廃できるか。籠の鳥というのは逃がしたら,自分で喰い方を知らないから死ぬ」と,一挙に大混乱に陥るであろうと警告した。組合総会では,枠を撤廃すれば,韓国に追いあげられるだろうという意見が大勢を占めた。

(ウ)再度に亘る関税割当制度
 燕産地の自主規制では金属洋食器の洪水的な輸入を食い止められない45)とみたアメリカでは,1959年(昭和34)10月1日「ダース当り3ドル以下,長さ12インチ(26センチメートル)以下の分につき年間輸入量575万ダースまでは従来通りのガット譲許税率とし,これを超える分は1934年(昭和9)関税率の50%の新税率」とのアイゼンハワー大統領の裁定が下り,11月1日から実施された(第3図参照)。
第3図 米国における日本製ステンレス鋼洋食器の輸入数量と発展途上国製品の輸入比率の推移
 日本輸出金属洋食器工業組合は,2年前の実績を基準にして,アメリカ,カナダ,その他の3地域ごとに,完成品を取り扱う生産業者に輸出・出荷枠割当を,半製品を取り扱う生産業者に生産枠割当を行った。
 実績がなく輸出・出荷枠や生産枠の配分を受けなかった業者は,長さ26センチメートル以上か1ダース3ドル以上,木やプラスチックなどの異種材柄などの洋食器製造に生きる道を求めなければならなかった。
 一方,アメリカ市場では,プレミアム商品としての金属洋食器の需要が増大した。1965年(昭和40),ジョンソン大統領は,575万ダースから700万ダースに修正した。これはオーバークォータ税率を実質的に引き下げたと同じ効果をもった。続いて,1967年(昭和42),関税割当制度が8年振りに撤廃された。
 燕産地では対米輸出量が再び急上昇した(第3,4図参照)。輸出の好調は多くの生地製造業者や家族労働を主とする研磨業者を数多く発生させた。
 再び集中豪雨的な輸出量の急増によって,1970年(昭和45)8月28日「1971年(昭和46)10月から1975年(昭和50)までの5ヵ年間の時限で,関税割当制度の復活」とのニクソン大統領の裁定が下った。
 関税割当制度は一定の輸出量を確保するものであったし,さらに,輸出伸張の障害,韓国,台湾などの追い上げを防ぐ安全弁としての2面的な役割を現実に果たしてきた。
第4図 日本の輸出金属洋食器の使用材質別数量の推移
逆に,自由化対策発展途上国対策を遅らせる原因にもなった。一方,日本輸出金属洋食器工業組合では,通産大臣の指示や承認に基づいて関税割当制度による枠の配分46)やチェックプライスを行っている。工業組合ではその設立当初から輸入国の輸入制限にはじまって,輸入制限対策で明け暮れている。輸入国の政権交代や政変が起るごとに,その貿易政策に変更が生ずるかどうか情報の収集につとめ,その対策に追われているのが現状である。

 (5)金属ハウスウェアーの台頭
 明治時代燕には銅板から薬鑵,鍋,花瓶,十能などを作る「やかん鍛冶」の技術があった。1914年(大正3)第1次世界大戦の勃発で銅が高騰し,そのため銅器は衰退し,わずかに鎚起銅器として継承された。
 1935年(昭和10)〓商店(現燕物産㈱)はステンレスの鍋,カンピン,盆などを試作した47)。第2次世界大戦中,深海新一郎はプレス加工でアルミニウム製薬鑵,アルマイトメッキの弾丸入れなどを製造し,器物の先鞭をつけた。1943年(昭和18)本間製作所,玉虎堂製作所はステンレス板を使って軍需用の鍋,湯沸等を生産した。
 1945年(昭和20)10月,フライパン,中華鍋,湯沸,弁当箱などの日用品,台所用品の生産が再開された。1950年(昭和25)頃,器物用のステンレス材が供給されると,長谷川精工はコーヒーセット,吉川製作所はキッチンセットを生産した。
 1958年(昭和33)頃から規格薄板ステンレス材を使用するようになった。1959年(昭和34)10月1日,アメリカの金属洋食器の関税割当制度の実施によって,先行きを不安視した金属洋食器業者の中から,古巣の器物,調理用具へ再転換する者がさらに増えていった。1960年代の後半に入って,金属洋食器と並ぶ業界としての地位を確立するに至った。
 1964年(昭和39)7月,日本輸出キッチンツール工業組合(1966年日本金属ハウスウェアー工業組合に改組)を設立し48),理事長吉川雪松,専務理事川口泰弘で発足した。
 金属ハウスウェアーは,世界的に恒常的な需要のある洋食器に比して,梱包がコンパクトにいかない,ガラス,陶磁器などライバル商品が多すぎる,輸出の際のオーシャンフレートが高い。また,柄のパターンデザインしかない洋食器に比して,形状はあらゆる形のもの,他材料の複合性も求められる。機械も大型で汎用性がある。不況期には他のものに対して新しい転換が可能である。業界では開発されたデザインを登録することによって過当競争を防止している。
 金属ハウスウェアーの台頭によって,燕産地には銅製品の加工技術,金属洋食器のステンレスの加工技術,金属ハウスウェアーの絞りや熔接,表面加飾,着色などの加工技術の3つの技術的系統の蓄積ができた。

 (6)中小企業政策と燕産業
 金属洋食器産業の発展は,戦後における中小企業政策の展開――近代化政策,輸出振興政策,金融政策,労働政策,社会保障制度の確立に負う所が大きい。また,為替レートの変動に対する経済政策の影響を強く受けている。日用品雑貨としての金属洋食器は,繊維とともに対米交渉に使われるなど,経済外交の手段となった。
 燕の工場団地は,①燕産地が自然発生的な発展による道路や敷地の狭隘,工場の老朽化などの産業障害,騒音,振動,粉塵,排水などの公害が問題化していた,②活発な工業活動によって各企業がスケールメリットを求めていた,③西隣の吉田町が1961年(昭和36)工場誘致条例を制定し,1963年(昭和38)低開発地域工業開発地区の指定を受け,交通の分岐点,土地の低価格などの有利な条件を生かして工場団地を造成し,その積極的な誘致によって,燕の有力企業が吉田町に進出していた,④1966年(昭和41)中小企業近代化促進法(設備)の指定を受けたことなどが契機となって造成された。
第5表 工場団地と国の補助金
 燕周辺の工場団地は,第5表の県および国が事業主体となって造成された団地の外,燕市が事業体となって造成された団地が4つある49)。公害防止事業団(国)が事業主体の協同組合燕洋食器センターの場合,土地の取得造成に9億6000万円,組合協同施設に2億3600万円,組合員の工場等に23億4400万円,総額35億4000万円を投資した。国からは土地関係95%,公害防止施設に80%,工場等に65%,それぞれ資金調達された。償還は2年据置,12~13年の返済である。土地の頭金5%で,不足の資金は工場等集団化事業,工場共同化事業,共同公害防止事業などの高度化資金貸付制度を利用している。
第6表 中小企業円高対策特別制度利用状況
 また,1977年(昭和52)4月にはじまった円価の急騰は,9月にその影響が現われ,為替差損,受注不成立,受注減,自宅待機の企業,休業補償,金属洋食器の部門の縮少・廃止など深刻な事態を迎えた。下請工賃の引き下げ,人員整理,事業転換などの企業努力だけでは根本的な解決とならず,国および県,市の特別融資の救済と円価,為替レートの安定を待つ以外になかった。燕産地全体の円高対策特別制度の利用状況は,第6表のとおり,792件,49億2600万円であった。特別制度の産地全体への波及効果と為替レートの安定によって,燕産地は苦境から脱しつつあるのが現状である。
 国および県,市などの貿易政策,産地診断,行政指導,金融政策は,燕意地の産業発展の浮沈の鍵を握っているとさえ言える。

 3 金属洋食器産業の発展とその諸構造
(1)生産工程と生産構造
 金属洋食器の生産工程は,その材質や品質によって13工程から42工程である。
 オールステンレスの中級品のスプーンの生産工程は,次のように25工程である。図に示されていないが,柄の部分に刻印の工程が入る。
 従業員14人のM社は,中級品のスプーンを生産している。自社内で行う工程は,1.材料切断,3.地抜き,4.荒横延べ,11.柄押し,12.半抜き,15.つぼ起し,21.製品洗浄,22.ふきとり,23.検品包装,24.出荷,の10工程である。15工程を下請工場へ外注している。
第7表 デザート・スプーンの外注費
 燕金属洋食器は,第7表のとおり,下請工場への外注依存によって生産されている。電解研磨およびコバスリ・面とりなどの研磨,メッキ,型加工・彫金の工程がそれである。外注の依存度が高いのは,金属洋食器の基本工程をこなしきれない従業員9人以下の工場が,全体の75.2%を占めていることと,スプーン・フォーク・ナイフの金属洋食器がその形状や寸法により約70種類に及ぶ多品種少量生産に起因している。燕産地では1本のスプーンが数工場を廻って製品化されるのが普通である。
 金属ハウスウェアーの生産工程は,10数工程から90数工程50)と複雑である。コーヒーポットの生産工程は,次のように18工程である。
1.材料切断,2.地抜き,3.第1絞り,4.焼鈍,5.第2・第3絞り,6.焼鈍,7.ロール淵切り,8.酸洗,9.外面研磨,10.内面研磨,11.口出し肩曲げ,12.仕上研磨,13.柄付け,14.蓋付け,15.超音波洗浄,16.検品,17.包装,18.出荷。
 金属ハウスウェアーは,金属洋食器の場合よりも,生産のロット数がさらに小さく作業上の隘路となっている。
 金属洋食器の生産構造は,第5図のとおり,「元請け」「親工場」とよばれる生産・出荷業者を頂点に,細分化された生産工程を担当する専門業者である生地製造業者,プラスチック成形業者,金型・彫金業者,研磨業者,鍛造・プレス・メッキ・熔接などの部分加工業者などを下請け・再下請けという形で組みこんだピラミッド型の社会分業体制となっている。「協力工場」とよばれる下請工場は3~4社の親工場,数社の第2次下請工場と発注,受注関係をもっている。純然たる系列関係にないのが特徴である。
第5図 生産流通形態
第6図 日本輸出金属洋食器工業組合,日本輸出金属ハウスウェアー工業組合員の分布
 K社は自社ブランドをもち,金属洋食器・卓上器物を生活の一環として高級な製品開発を進めている。第7図のとおり,下請工場はナイフ15工場,スプーン・フォーク19工場,器物26工場,彫金1工場,印刷・箱2工場の62工場である。その分布は5キロメートル以内に集中し,下請工場の技術水準は高い。
 金属洋食器の親工場数は約45社,第1次下請工場数は約170社である。金属ハウスウェアーの生産構造は金属洋食品の場合と同様であり,親工場数は約52社である(第6図参照)。
第7図 K社とその下請工場
 1973年以降,ドルショック,オイルショック,円価急騰など国際化の波にもまれながら,燕産地が生産活動を維持してきた最大の要因は,金属洋食器や金属ハウスウェアーの分野で,技術開発に限らず,生産流通体系,通信,運輸,金融,市場調査や消費者ニーズの情報活動を含めて,一大産業コンプレックスが構成され51),いつ,いかなる品質,種類,どのような単位の注文でもこなせる受注体制をつくりあげてきたことが挙げられる。

 (2)労働力の構造
 燕産地の形成の要因の1つは,輸出市場における価格競争に打ち勝ってきた低コストによる強い国際競争力があげられる。その低コストを支えたのは,周辺農村地域の余剰労働力の存在であった52)。燕市の全製造業の従事者1万7000人の約73%にあたる約1万3000人が金属製品製造業に従事している。
第8表 試作機械の開発状況
 従業者数の推移は,第8図のとおり,1971年(昭和46)から,金属洋食器および金属研磨の各従業者数は下降線を,金属ハウスウェアーは緩やかだが上昇線を描いている。
第8図 金属洋食器,金属ハウスウェアー,金属研磨業の各従業者数の推移
第9表 従業員の年齢構成
第9図 K社の通勤圏
第10図 K製作所の通勤圏(男女別)
近代化促進法による構造改善によって,第8表のとおり,手加工部分の半自動化,自動化の省力機械の導入が一層その傾向に拍車をかけている。とくに,景気の風見鶏と言える金属研磨の場合,輸入制限,ドルショック,円価急騰による工賃単価の引き下げ,バレル研磨機,自動研磨機の普及によって減少している。
 年齢構成では,第9表のとおり,中高年層の占める割合が高く,若年労働力が逼迫していることである。また,女子従業員の占める比率が46%と高い。低廉な労働力としての中高年および女子従業者の比率が高いのは,生産工程に鍛造工程が少なく分業化ができること,単能機械が開発され多年の技術練磨がなくとも就労可能なこと,単品としての製品が重量物でないことに起因している。女子労働の多くは検査,包装,雑役などに従事している。ただ,女子従業者の比率が高くなることは,燕産地の技術水準の維持,労働条件の面など多くの課題をかかえることになろう。
 燕金属洋食器従業員の通勤圏は,中ノ口川以西の西蒲原郡の農村地域に限られ,利器工匠具,作業工具の三条市の通勤圏と競合していない。
 労働者の募集方法には,職業安定所を通しての募集と口コミ・縁故による募集とがある。前者は大手メーカー10社程度で,後者が大多数の企業の募集方法である。大手メーカーK社(232名)の場合,第9図のとおり,通勤圏は約20キロメートルである。燕市在住者が多いのは1956年(昭和31)から4年続けて採用した県南,県北の中卒者が持家制度によって市内に定着したことによる。中堅メーカーであるK製作所の適勤圏は約10キロメートルで,口コミによるため,通勤圏は狭く,部落に2~3人と片寄る傾向が強い。従業貝名簿(87名)によれば,女子従業者は約53%で,兼業農家からの従業者は約30%である。
 周辺の兼業農家との関係をみると,第10表のとおり,耕地3ヘクタール以上の農家の世帯主や主婦の通年勤務がみられる。昭和30―40年代にかけて,農村地区へ工場が進出した。「農家の土地売却代が農家の2,3男の工場建設,設備投資,回転資金という形で,燕産地を支えている資本面での結びつきも見逃せない53)。」
 また,労働組合の組織率は低く,10指を数えない。組合のオルグ派遣によって,組織された場合が多い。組合活動が低調な原因には,若い優秀な人材は加工技術を覚えると独立し,研磨屋になり,金をためて生地屋になり,やがて洋食器屋に成長できること,経営者の大半が職人から独立稼業し,組合活動を嫌う面があること,同族経営的な色彩が残存しているなどの産地の体質が考えられる。一方,洋食器業2社,メッキ業1社が,近年,精薄者を雇傭し,その成果が期待されている。
第10表 兼業農家の就業実熊(1978年)
 (3)流通体系
 国内向けの金属洋食器の流通経路は,第5図のとおり,他の一般商品の経路と同じく,産地の問屋を通じて,消費地の問屋に卸売され,百貨店,小売店の販売によって,消費者に届く。
 金属洋食器業者と産地問屋との関係は,燕産地の場合,産地問屋の発言力も弱く,産地問屋が生産業者に仕入れに伺う程度だった。燕の産地問屋は約150軒である。生産業者主導型から問屋主導型に移行したのは,1973年(昭和48)のオイルショック,狂乱物価以降である。現在,生産業者が直接,産地間屋に売り込みに行くとともに,産地問屋の情報に基いて製品づくりが行われている。自社のブランドをもつ産地問屋も現われてきている。完全な隷属関係はないが,やや系列化が進行してきている。産地問屋の中には,金型を生産業者に支給しているケースもみられる。
 近年,高速自動車道の開通,長距離トラックなどによる交通体系の高速化は,消費地問屋の在庫量の縮小,産地問屋の在庫量の拡大傾向を生んでいる。電話で受注すると同時に,直ちに発送せざるを得なくなった。産地問屋の在庫量が生産業者のそれより大きくなり,在庫負担費も大きくなった。従業員36名のM商社は,取り引きの生産業者約250社,燕製品約4000種類の商品を扱っている。常時,販売ルートにのって流れる商品は700~800種類を数える。
 輸出向け金属洋食器の流通経路は,日本輸出金属洋食器工業組合(1979年,日本金属洋食器工業組合に改組)を通して行われる。同組合が設立された1957年(昭和32)までは,金属洋食器の輸出量のほとんどを輸出業者(サプライヤー)――大阪,名古屋,東京の洋食器関連の中小輸出商社約100社を通して行った。輸出商社は,品質,デザイン,価格決定権をもち,生産業者は輸出商社の指示に迅速に対応しなければならなかった。
 現在,燕産地と取り引きしている輸出商社は472社を数えている。「金属洋食器の元請(親工場)のうち,市場調査力,生産技術の開発能力,資金力,人的資源――製品開発力をもつ企業は約30社である54)。」金属洋食器の輸入規制が撤廃されたのを機に,直接貿易(直貿)を手がけ,現在,12社が行っている。新潟県貿易関係者名簿55)によれば,輸出品製造業者は,金属洋食器関係67社(燕市47,吉田町13,弥彦村5,分水町1,和島村1),金属ハウスウェアー36社(燕市30,吉田町2,三条市2,弥彦村1,西川町1)である。輸出商社と生産業者との関係は,どちらかというと産地問屋より支配力は大きい。輸出商社は他人資金調達であり,契約がしっかり成立しているため,産地問屋,消費地問屋より資本力は小さくともやっていける。しかし生産業者への技術指導や販売指導は全然行っていない。生産業者から納品される製品に対して全然責任はもたない。輸入業者(インポーター)の諸条件を生産業者に遂行させるどけである。いわば通訳料として5%の手数料をとっている。産地として,流通面の合理化,コスト引き下げに,通訳料の廃止を掲げているが,枠が存在する限り,「輸出商社はその上にあぐらをかいて商売している56)」という批判はいつ迄も残るであろう。産地でも,枠がはずされれば,過当競争となり,数社による寡頭支配が懸念されて,撤廃の論議に至っていない。
 1967年(昭和42)1月デザインの自主登録制度を実施した。燕産地で開発された金属洋食器のデザインの登録は,現在1万3000点余を数えている。国内需要動向調査57)(1977年)によれば,東京,大阪の消費者の指定ブランドに――ラッキーウッド,のりたけ,吉川があがっている。金属洋食器に関する流通実態調査58)(1978年)によれば,東京の百貨店取扱いブランドにはラッキーウッド,のりたけ,マウントフジ,やまこうが名を連ねている。また,日本輸出金属洋食器工業組合は,世界の金属洋食器の統一商標の秩序の維持のため,統一商標ツバメマークを設定し,1966年(昭和41)統一商標規格を通商産業大臣に申請した。燕産地の要請に応えて,「輸出中小企業製品統一商標法」が制定された。1972年(昭和47)3月,「金属洋食器統一商標規程」が通商産業大臣より承認された。市場調査報告書59)(1977年)によれば,「燕統一商標を知っているか」の問に,地域別では,北海道22.9%,大阪20.0%,東京9.1%の順で,店舗別ではスーパー54.5%と断然知られ,百貨店19.4%,小売店17.1%となっている。メーカーブランドも,統一商標ツバメマークも,知名度はあまり高くないと言える。
 統一商標ツバメマークについては,1979年(昭和54)9月,第1回の審査を行い,5社7品目に使用許可がおり,月間婦人雑誌にその広告が掲載されるようになった。燕産地のイメージの向上および定着統一商標ツバメマークのPRに一段と力を注いでいる。

 (4)事業転換と経営指標
 燕産地は1969年(昭和44)中小企業近代化促進法の業種指定を機に,構造改善事業が計画され,事業転換も取りあげられた。工場誘致を含めた産業の再編成を主体としたものであった。現有設備と技術で可能なものを主体にプレス,鍛造,研磨等の技術でタイプライター部品などを試作した。
 事業転換は,第11表のとおり,金属洋食器の枠の少ない中堅業者の自主転換事業としてはじめられた。第2次ドルショック,石油ショックによって,一層事業転換が押し進められた。
第11表 事業転換の状況
集12表 燕市産業開発促進条例による交付金
 1977年(昭和52)の「事業転換臨時措置法」の適用を受けてからは,資材・原材料の種類と入手方法・生産技術・製品の機能と性格・流通経路等の産地の特牲を生かし,ステンレス鋼材を中心とした自動車関連,住宅関連,精密部品関連等,ステンレス複合加工基地化の実現を目指している。すなわち,機械化によって生じた生産余力を他業種の導入に当てている。燕市では,第12表のとおり,ある一定額以上の工場建設に対して,固定資産税に見合う額を交付金として補助している。
第13表 デザートスプーン(下級品)の原価計算
 第13表は下級品のデザートスプーンの3時期における原価計算の比較を示している。1970年(昭和45)2月は為替レート1ドル360円時代,1974年(昭和49)9月はオイルショックで副資材が高騰した時期,1978年(昭和53)9月は円高が急騰した時期であり,原材料のステンレス13crは1トン当り,それぞれ12万5000円,12万5000円,20万5000円であった。
 下級品は材料費が30%以下でないと赤字になる60)といわれているが,オイルショック期,円高急騰期へと収益率が悪くなり,欠損の幅も大きくなっている。
 この経営面の悪化を反映して,金属洋食器業者の転廃業が,第14表のとおり,1973年(昭和48)のドルショック以降,急速に進んだ。従業員9人以下で廃業が目立ち,30人以上の規模で倒産のケースが多い。失職した従業員の大半は,産地内の他の洋食器工場へ再就職している。工場の転業の場合,金属雑貨への転換が圧倒的である。
 ステンレス鋼材の高騰で,日本輸出金属洋食器工業組合の西ドイツの鋼材の共同輸入や生産工程を徹底的に省いた皿と柄の部分が同じ厚さのエンボスと呼ぶ洋食器の出現もみられる。
第14表 金属洋食器業者(洋工組合員)の転廃業
第15表 金属洋食器および金属ハウスウエアーの経営指標の比較
 金属洋食器と金属ハウスウェアーの経営指標の比較は,第15表のとおりである。総平均で対比すると,金属洋食器は金属ハウスウェアーよりも,資本の利用度は高いが企業の収益性や売上高に対する利幅の程度は小さい。財務面では,固定資本のうち自己資金率は232.9%で理想の100%にほど遠い。長期の借入金が多く,固定化しており,債務の支払能力は小さく,長期安全性は低い。輸出比率が高く船積すれば換金ということもあって,売上代金の回収速度は早い。生産面では,従業員1人当りの生産高は1662万円であるが,年間加工高は漸減している。設備資金の効率的利用も低く,在庫比率が高くなっている。販売面では,製造原価が77.4%と高く,収益性,経常利益ともに低い。流通ルートが確立し,問屋依存の販売であるため,販売コストは低い。
 金属洋食器を規模別でみると,20~50人規模では従業員1人当りの生産高は1718万円とかなり高く,1人当りの人件費や機械装備額も小さく,小回りがきく。
 欠損企業では,従業員1人当りの機械装備額が高い。これが長期借入金を大きくし,債務の支払能力を弱くし,支払利息を大きくして,経営を圧迫している。

 4 結 び
 燕金属洋食器産業の発展の要因を要約すれば,次のとおりである。
 ① 第2次世界大戦後,進駐軍設営用特需,スーベニア,蘭印ミッション貿易,PXなどの大量受注をこなし,ヨーロッパや東南アジアなどの戦前の仕向地から,銀製品に代わるステンレス鋼洋食器の本格的な販売期にはいったアメリカ市場の開拓に成功した。
 ② 戦後の資材の統制下で,高価な真鍮材からステンレス鋼の廃材利用,引き続いて,大手製鋼会社と提携して鋼材の安定供給を受けるとともに,金属加工技術者の煙管,鈩生産業者の転換を促して,ステンレス鋼洋食器の生産基盤を確立していった。
 ③ 地場の経済活動の限界を超えた国際経済の動向,通貨調整による交易条件に対して,国・県・市の貿易政策,産地の振興政策,資金援助が適切・有効になされた。
 燕産地は生存競争の激しい産地である61)。品質や価格や納期などあらゆる面で競い合うことで,産地全体が強くなり,大きくなってきた。反面,職人的手法の元見本主義の脱却,燕ブランドや燕統一商標の知名度の向上,地場のフェニックス伝説は本当か62),に指摘されるように,低水準の賃金や労働環境,古い経営体質など,解決すべき諸問題を抱えている。
 燕産地がドルショック,オイルショック,円価急騰など国際化の波にもまれながら,産業活動を維持できたのは,技術体系,生産流通,金融,通信,運輸,市場調査,貿易対策を含めた産業コンプレックスの形成と,いつ,いかなる品質や単位もこなせる受注体制であろう。
 第1次のアメリカの金属洋食器の輸入規制が金属洋食器業者の金属ハウスウェアーへの転換を一層速進させた。第2次の関税割当制度が住宅関連品,カーブミラー,自動車部品,レジャー用品を生みだした。
 円高急騰によって,燕産地では生産設備や人的な面で,生産余力がでている。その余力を附加価値の大きい高級品化や自動車関連,住宅関連,精密部品関連などのステンレス鋼複合加工への道に振り向ける必要があろう。


 1)KS憩談会『洋食器物語』叢文社,1970年,18ページ。
 2)前掲書1),28ページ。
 3)前掲書1),163-65ページ。
 4)「おそらくこの時が燕に注文がきた最初ではないかと思う。――中略――十一屋があったからこそ,燕に洋食器をつくるようになり,板金や成型,彫金などの職人を養成して,洋食器の製造技術を植えつけることができたのであって,燕洋食器製造の基礎が十一屋によってつくられたと言っても,決して言いすぎではないと思う。」捧吉右衛門『日本洋食器史』叢文社,1967年,23ページ。
 5)「1914年(大正3)浅草三沢商店のスプーン見本を,〓(筆者注…カネキチ商店)は小関の星野駒蔵これに試作せしむ。――中略――堺市浅香久平本店と各年取引ありし,〓平田勇吉(筆者注…カクヤマ商店)にスプーン注文,〓は武田与三治に試作せしめ,之亦成功す。」竹林庄太郎『中小工業経営の研究』(同志社大学研究所研究叢書1)ミネルヴァ書房,1961年,68-69ページ。
 6)「銅は緑青がでて毒だが,亜鉛がはいる真鍮は毒が少なく,色は金色よりやや白っぽく固くなる。」中山由市氏談(中山工業㈱社長)。
 7)中山由市氏談(中山工業㈱社長)。
 8)燕は鑪の生産地であり,広島県仁方と並ぶ2大産地であった。
 9)「柄のデザインはディクソンパターンのワンパターンだった。」加藤与一郎氏談(加藤金属㈱社長)。
 10)「本多光太郎の弟子もおり,焼入れに熱したナイフの上から水を落すやり方など技術は確かだった。月給と同じ位料理屋に支払いがあり,半年我慢したが,暇をとらせた。帰関したが,燕で教えた者は村八分で受け入れられず,再び来燕して久保田重松商店で技術指導に当った。」捧吉右衛門氏談(燕物産㈱会長)。
 11)「小林乙蔵さん(現,小林工業㈱)の所ヘロール機が入ったのがはじめてではないかと思う。エアハンマーで叩かないでも延べられる機械が東京か大阪から入った。早川栄松さん(早川鉄工所)についてロール機のスタンドが割れて,そのバンド掛けの修理に行った。その後,早川さんが研究してつくられたロール機を玉栄堂,山崎工業,中沢,高桑重一さんへ納め,組み立てた。」霜鳥平三郎氏談(霜鳥製作所㈱社長)。
 12)「鎚で叩いて真鍮板を延ばすのは難儀な仕事だった。外国人はこんなことはしないだろうからと機械に取り組み,上野の電気磨きや商工省の助成金をもらったスプーン工場のドイツ製ロール機を写真に撮ってきて,日本機械につくってもらった。」山崎文言氏談(山崎金属工業㈱会長)。
 13)武田直治氏談(武直製作所㈱社長)。
 14)「エアハンマーが使われた1923年(大正12)頃,五大問屋のうちカクヤマ商店,井上商店の仕事をしていた。職工4人,兄弟4~5人の10人位の工場だった。真鍮を買って製品にして売ったこともあったが,材料を出してもらって工賃のみの場合が多かった。メッキは結城屋,藤田屋に出した。規模は小さかった。機械を買うのに問屋が金を貸してくれた。」中山由市氏談(中山工業㈱社長)。
 15)「お金を貸して機械を買わせた。材料は全部親工場(問屋)から供給し,工賃稼ぎさせた。屑代は工賃に含ませておった。」加藤与一郎氏談(加藤金属㈱社長)。
 16)第四銀行『第四銀行百年史』,1976年,740ページ。
 17)「1920年(大正9)から1929年(昭和4)までの燕産業のいき方をみると,問屋は非常にずるいことをしていた。下請は地金を買わんない。自分が買って製造家にあつける。そこに1つの儲けがあった。やがて製品になり,先進地の市場によって損害があると下請にばせる。下請は大きくなり得なかった。これじゃ産業は成り立たない。直接製造家に金を貸した。それが縁となって相当伸びた。その当時,問屋さんから,大分いやがられた。」田野三右衛門氏談(元,寺泊銀行燕支店長)。
 18)「20代できかん坊だった。大阪へ出て地図買うてさ。何も地理分らんで。何の因果でこんな所に商売に来たんだと,天王寺の橋に腰かけて泣いたことがある。得意先もなく,商工会議所で聞いてさ。10軒のうち,洋食器を買うのは3軒くらいしかなかった。」山崎文言氏談(山崎金属工業㈱会長)。
 19)「燕町は鎚起銅器の特産物を主とし,鈩,煙管,矢立,黄銅度器等の種類あり,鎚起銅器を除く外,概ね三条商人の手によりて販出せらる。」「新潟県産業調査書下巻」,『三条市史』資料編,近現代二,552ページ。
 20)高橋一夫氏談(㈱高儀社長)。
 21)「手作り時代は材料の真鍮板は自工場で調達した。真鍮屑を溶解して地金をつくった。しかも地延には3貫目のハンマーを右からも左からも振られないと一人前ではなかった。」外川公仁衛氏談(外川製作所㈱社長)。
 22)「地金づくりは大変難儀な仕事であり,やがて地延職として専業化されていった。スプリングハンマーやエアハンマーの導入後は,燕で地延べを行うようになった。」中山由市氏談(中山工業㈱社長)。
 23)捧吉右衛門氏談(燕物産㈱会長)。
 24)捧吉右衛門氏談(燕物産㈱会長)。
 25)「1933年(昭和8)材料の3分の2にあたる真鍮屑,銅屑,亜鉛のほとんどは東京,大阪から,3分の1は燕で発生する真鍮屑を使った。洋食器の生産に組合の圧延した板が使用されたが,旅板よりも加工の際切れやすかった。1日800貫の圧延,1貫目2円50銭であった。」久保田元作氏談(久保田伸銅所㈱社長)。
 26)「1935年(昭和10)組合の他に4伸銅所があったが,組合価格より安い価格でないと売れなかった。組合の価格を上げてくれとの話もあった。一時は組合の賃加工もしていた。」小黒三男吉氏談(燕市役所商工課長)。
 27)「洋食器の材質のうちでは,真鍮材の加工が一番苦労がなかった。しかし真鍮の銅と亜鉛の配合には9:1配合から5:5配合までがあり,それがわかるまでは大変だった。また,燕では,ニューヨーク,ハンブルグ市場の銅相場が載っていた『中外新聞』がよけい読まれた。下請の加工工賃がなく,3分の1でる屑を売った代金が工賃であったこともあった。銅の相場が高くなりそうだと,下請は絶対に地抜をしなかった。」外川公仁衛氏談(外川製作所㈱社長)。
 28)南波憲厚氏談(燕市長)。
 29)「初期の八幡製鉄のステンレスにはロール機の傷か――縦傷がついており,燕産地では,傷をとる板ズリという下請業者を生んだ。」南波憲厚氏談(燕市長)。
 30)「電解研磨技術は――メッキとは逆の方法で,品物に+の電流を通し,液中(強い酸)の極板に-の電流を通し,高電圧,大電流でもって金属肌を溶かしながら,1000分の2~1000分の4を剥ぎとる――燕という特殊地帯の実情に添った技術開発であった。その利用,活用の範囲も当初のスプーン,フォークの柄の部分だけの電解から,凸凹の極端品,深絞りのステンレス器物の内面まで可能となった。電解研磨によって,燕産地はステンレス製品を敏速に大量に生産を可能にすることができた。」兼古敏男氏談(㈱東陽理化学研究所社長)。
 31)「深夜の作業場に侵入し,電解槽の中に多量の泥の投入や電解研磨を利用する洋食器工場の仕事には,一切協力を拒否するいう業者間の申し合せの実行であった。」兼古敏男氏談(㈱東陽理化学研究所社長)。
 32)兼古敏男『燕の一業者から観たステン製スプン・フォークの二十年』,1972年,6ページ。
 33)「ステンレスの使用によって,従来の機械が全部こわれっちゃう。1952年(昭和27)以降,圧延機,ロール機,フレキションプレスなど一切の機械に強度をもたせた。」霜鳥平三郎氏談(㈱霜鳥鉄工所社長)。
 34)「ステンレスの金属素性,金属分析,表面処理,表面加飾などの試験研究や生産業者への技術指導を通して,三条金属工業試験場や県工業技術センターが燕産地のステンレス加工技術の開発に果たした功績は大きい。」加藤新蔵氏談(日本輸出金属洋食器工業組合専務理事)。
 35)前掲書32),2ページ。
 36)相場工業,燕振興,平田合名,燕物産,中由(中山工業),燕軽金属,花松(久保田製作),遠藤工業,山崎工業,小林工業,の10社。
 37)遠初工業,渡辺洋食器製作所,第一金属,大泉工業,杉山工業,本間工業,和田鍛造,吉田製作所,荒沢洋食器製作所,池徳製作所,の10社。
 38)中村金治『中小企業政策研究』協同出版,1968年,236ページ。
 39)「鮎川構想はいい構想だったが,個人差のある借金返済の項がなかったのは失敗の一因であった。一年間の販売停止期間,工賃だけでは借金を返せないからだ。」外川公仁衛氏談(外川製作所㈱社長)。
 40)「工業組合として,県を背景に,はじめて年越し用として1000万円借りた。製品価格の6割を貸した。倉庫に製品の山。業者は誰も取りに来ない。叩き売ったつもりのようだった。組合として,7~8年かかって,難儀して借金を返した。」南波憲厚氏談。
 41)「金属洋食器業者の急増した時期は昭和27―28年で,煙管,鑪業者の転業が多かった。誰でも簡単に洋食器をつくれるのが大きな要因である。洋食器は無限だということで,儲かる儲からないのは二の次だった。」霜鳥平三郎氏談(㈱霜鳥鉄工所社長)。
 42)「納屋や軒下を改造して工場にした。モーターやレース盤などの機械の支払いは1年後から,大工は10ヶ月払い,副資材は半年間待ってくれた。現金で支払うのは電力代のみで,翌月から金になる。5年位で屋敷を買い,工場が建てられた。」加藤新蔵氏談(日本輸出金属洋食器工業組合専務理事)。
 43)「帽子は岩室,体は新潟,靴は三条。」南波憲厚氏談(燕市長)。
 44)南波憲厚氏談(燕市長)。
 45)「ナショナルシルバー社などの大手が支配した日本の製品の輸入販売ルートに新しい商社が入りこみ,支配体制が崩れ,その経済的利潤が減少したことが輸入規制問題に連がった。」加藤新蔵氏談(日本輸出金属洋食器工業組合専務理事)。
 46)「元請も下請も組合員であり,常にもめ続けた組合であった。何故か。組合員でないと輸出出荷枠,生産枠を貰えない。誰もが入ろうとする。理事となって発言力を増そうとする。協力工場(下請)を組合に入れる。理事会で貸し借りをつくっておく。派閥の中でどんどん加入する。高度成長の下で下請も成長し,引きあげてくれた人より発言力をもつようになった。」川口泰弘氏談(日本輸出金属ハウスウェアー工業組合専務理事)。
 47)「カネキチ商店(現,燕物産)の工場長であった私は,旋盤,シェーバー,ドリングなどの機械を使って作った。熔接で苦労した。三越で展示会を開き,試作品に高値をつけると全部売れた。日本列車食堂東洋軒から花立300ケの注文があり,やっとつくった。」外川公仁衛氏談(外川製作所㈱社長)。
 48)「1960年(昭和30)頃,吉川雪松さんから近代化促進法(設備)という恩恵があるなら,器物も入れてくれと申出があった。全国を調査し,通産省の指導で,東京,関,燕の3産地を対象として組合を設立した。」加藤新蔵氏談。
 49)小池第2工業団地,小関工業団地,小関第2工業団地,物流センターが造成されている。
 51)板倉勝高『地場産業の町 下』古今書院,1978年,361-62ページ。
 52)「金属洋食器の輸入制限が起こるたびに,アメリカ側から,労働者の低賃金――ダンピングだとやられた。名目賃金が上昇してからは,ダンピングの話は出ないで,労働環境はどうだと問われるようになった。」加藤新蔵氏談(日本輸出金属洋食器工業組合専務理事)。
 53)渡辺潤氏談(吉川メタルウェア㈱常務取締役)。
 50)営業用ポットの生産工程(W社,従業貝77名)
 54)大橋清氏談(日本輸出金属洋食器工業組合常務理事)。
 55)新潟県商工労働部商業振興課『新潟県貿易関係者名簿』新潟県商工労働部,1979年,1-30ページ。
 56)加藤新蔵氏談(日本輸出金属洋食器工業組合専務理事)。
 57)生活用品振興センター『昭和52年度国内需要動向調査(金属洋食器)』,71ページ。
 58)日本輸出金属洋食器工業組合『昭和53年度金属洋食器に関する流通実態調査(報告書)』1979年,23ページ。
 59)新潟県商工労働部『金属洋食器,金属ハウスウェアー市場調査報告書』1977年,11ページ。
 60)「付加価値の低い安物は,材料費が30%以上になると赤字になる。」板谷金次郎氏談(㈱板谷製作所社長)。
 61)「燕は生存そのものの町である。どんな小さな分野でも,今まで造られなかったものを造りだす。産地の企業に貢献できない者はどんどん陶汰されていく。」兼古敏男氏談(㈱東陽理化学研究所社長)。
 62)「地場のフェニックス伝説は本当か。燕市を支えてきた地場産業も,若者は勤めたがらないし,それに従事している人々は自分の子供達を勤めさせたがらない。地場産業は誇りを持てない職場なのか。」三菱総合研究所『燕市長期整備計画策定調査』,1979年,24ページ。
Ⅲ 電動工具の普及による三条市の金物産業の影響とその対応
 鈴木 捷雄

 はじめに
 1 電動工具の普及とメーカーの売り込み
 2 三条市の金物産業の影響とその対応

 はじめに――三条市の金物産業の沿革
 (1)戦前の三条金物産業(1898年以後)
 明治時代初期の洋釘輸入とその普及が,和釘産地としての三条町にどのような影響を与え,そして三条町はそれにどう対応したかについては,既述のとおりであるが,その後,1898年(明治31)に北越鉄道(現在の信越本線)が開通して,三条町とその隣接の一ノ木戸村(1901年,三条町に合併)に駅が開設された。この鉄道開通は,従来の「馬と船による交通」の一大革命であり,河港として多年,繁栄してきた三条町にとっては,まことに致命的な一大打撃となって,「商業・金融」の三条町から「金物工業」の三条町への転換がなされた。
 その後,1904―05年(明治37―38)の日露戦争の時には,鋸,鉈,鋏,鉞,ナイフなどが軍需品として直接買いあげられて金物の需要は一時に激増し,金物業界は著しく活気を呈した。そして1910年(明治43)には三条金物同業組合が設立されて金物問屋数が37,製造業数が700と実にめざましい増加を示した。
 1914年(大正3),第1次大戦が勃発したが,当時の町の人口1万8322人のうち金物製造従業員は1880人(総数の10%),そして町戸数3145戸のうち金物製造戸数は470戸(総戸数の15%),動力使用戸数は19戸,金物卸売業者は40戸であった。この大戦の勃発によって主要原材料の鉄は暴騰し,時にはその供給が絶える状態であったために不況はますます深刻化し,鍛冶職人は続々と日雇,土木などに転業した。しかし,戦争が長期戦に移行するにおよんで交戦国における日用家庭金物などの生産が停止されたので,その肩代りに三条の受注は激増するところとなった。
 すなわち,1915年(大正4)の生産額の最高がナイフの8万5000円,次いで鋸が7万円,鋏6万5000円,南京錠3万円,鉄鋲2万3000円の順で,なかでもナイフと南京錠はその生産の7割から9割を金物として初めて外国へ輸出した。やがて1918年(大正7)に終戦となり,20年(大正9)に入るや戦後の不況に襲われたが,23年(大正12)の関東大震災で復興用の利器工匠具・家庭金物が大量受注されるにおよび漸く活況を呈し,そのなかでも三条の大工道具は関東市場にその声価をあげ,「金物の三条」の名を全国に高からしめた。
 1931年(昭和6)に満州事変が勃発,日本経済は一転して軍需産業拡充へと突入し,そして37年(昭和12)に日華事変が勃発して非軍需品と認められた鋼製品135点が製造禁止,続いて屑鉄もまた統制となった。
 1941年(昭和16)太平洋戦争に突入し,各家庭から蚊帳の吊環や寺院の梵鐘などまでの貴金属・銅製品類が供出され,44年(昭和19)に三条軍需工業株式会社が設立されるにおよんで,全三条は完全な戦時体制になり,当然に兵器部品の下請業も活発となって金物工業は発展し,それとともに産地問屋もまた伸長して機械器具・金物・金属品関係問屋を合計すれば,三条市問屋のうち1939―40年(昭和14―15)は約50%,1941年(昭和16)には約70%,1942年(昭和17)には約80%となって,三条市経済を完全に支配するに至った。

 (2)戦後の三条金物産業
 1945年(昭和20)に漸く終戦となり,三条金物業界のこの時から翌年春にかけての好景気は,古今未曽有であった。それは,終戦直後の物資窮乏に対処して,非戦災工業都市としてすでに全国に誇る強力な機械設備をフルに使用して生産にはげみ,産地問屋の強大な販路とあいまって,全国市場を完全に席巻し得たからであった。
 復興の混乱期には,品物さえあれば売れた時代であったので,金物産地である三条の工場は作れば売れるし,問屋は製品を確保すれば売れたので,とくに問屋へは新規の参入者が相次いだ。
 やがて,復興景気も終り,その後の朝鮮戦争(1950―53年)による特需景気も終り,世の中が正常に戻ると景気も安定し,商売も儲けるのが難かしく,好景気に乗って思い付きで問屋を始めた業者は,1960年(昭和35)頃までの間には転・廃業し,どうしても金物で生きようとした問屋だけが残った。
 ちなみに,1951年(昭和26)の金物製造事業所数,従業者数,および出荷額は第1表のとおりであり,これを戦前の1935年(昭和10)と比較すると第2表のようになる。なお,三条の金物産業のうち製造業数と問屋数の推移は第3表のとおりである。

 1 電動工具の普及とメーカーの売り込み
(1)マキタ電機進出以前の電動工具の販売方法
第1表 金物製造事業所数,従業者数,及び出荷額
第2表 戦前と戦後との比較
第3表 三条の金物産業の推移
 1955年(昭和30)頃,すでに「携帯用の電動工具」(以下,略して「電動工具1)」)が,電動工具の先発メーカーである日立工機㈱(本社は茨城県勝田市)によって市販されていた。それは,鉄工用が中心で,日本の木造建築の作業に使えるものはほとんどなかった。当時,木工用としては電気ドリルと電気丸鋸がすでにあったが,そのメーカーである日立工機は,機械工具店や電気店・電材卸店などへ販売して,大工道具や建築金物を取扱う「大工の出入りする金物店」へは販売していなかったので,その需要層をまだ十分に掴んでいなかった。
 また,木材を加工する据置式の木工機械も既に市販されていたが,まだ普及していなかった。その理由は,古くから建築発注者は材木屋から材木を買い,大工を手間賃計算で雇って材木屋で仕事をさせていたからである。この場合,大工は自分の定まった仕事場をもたず,道具を持って材木屋へ出向いて仕事をしていたので(建築現場が広い場合はそこで仕事することもあったが),仕事場に据え置く木工機械は必要がなかったのである。

 (2)マキタ電機の木工用電動工具とその売り込み方法
 ㈱マキタ電機製作所(本社は愛知県安城市)は,もともと木工機械に使用する電気モーターの専門メーカーだったが,アメリカの電動工具メーカーのスキル社が発売していた小型携帯用電気カンナをコピーしてそれを少し大型にして,木造建築の四寸柱が一回で削れるように改良したものを,1958年(昭和34)1月に国産で初めて発売した。
第4表 電動工具メーカーの比較
 当初,今までの取り引き先の木工機械の商社を通じて発売したら,あまりに好評であったために自社で独自に販売網を作ることとなり,金物店・大工道具店(主に目立屋)へ直接に宣伝・販売を始めた。その後,これらの金物店ルートに,販売力を持つ利器工匠具の問屋を通じて,全国的に販路を広めることとなった。そして,このようにしてマキタ電機は,自社の木工用電動工具を,大工が最も道具を買いに出入りする金物小売店に対して,このルートに強い問屋に伝票マージンの利益を与えて売り込ませた。
 KK.マキタ電機製作所の場合
第1図―1 電動工具の流通経路(その1)

 日立工機KKの場合
第1図―2 電動工具の流通経路(その2)
しかも,問屋や小売店にはアフター・サービスの心配をさせないで,売り込みに専念出来るようなユニークな販売方式を採用した。このことによって,当時,独占的な市場を持っていた日立工機が注目していなかった市場を,急速に掴むことができた(第4表参照)。
 しかし,これまで金物店ルートで電気機械類が組織的に売られたことがなかったので,小売店の主人は修理の必要な機械類の販売にはじめは不安を持っていたし,問屋もまた,クレームやアフター・サービスを恐れてはじめはその取り扱いに消極的だった。これに対して,マキタ電機は,各地に直営の営業所・出張所を作り,すべてのユーザーがメーカー直接の最高の技術でアフター・サービスを受けられる態勢を作り上げた。
 こうした営業所は,やがて全国をカバーするように設置され,アフター・サービスの他に製品を在庫して,小売店への売り込みも始めた。
 マキタの営業所は,伝票を必らず小売店を紹介した問屋へ回したため,取り引きのうえで金銭的な混乱が発生せず,しかも「アフター・サービスをしてくれるエンジニア」として客からも頼られることとなった。
 また,紹介する問屋にとっても,技術を要するアフター・サービスやクレーム問題には立ち入る必要がなく,支払いのしっかりした小売店を紹介するだけで,伝票マージンが稼げるという割にあう商売となった(第1図参照)。
 その後,電動工具市場に新規参入の高速電機・大和電機・アイチ電機・東和電機等が相次いだが,アフター・サービスの問題でマキタ電機をおびやかすほどには至らなかった。

 2 三条市の金物産業の影響とその対応
 〈パート1〉金物問屋の影響とその対応
 (1)三条の金物問屋の拒否的対応
 マキタ電機が電動工具を最初に直販をした場所が関西地方であったため,代理店の設定も大阪と兵庫県三木市(三条市と良く似た大工道具産地)の問屋が先行し,その後,名古屋,東京方面に進出し,一番遅れて三条に代理店が設けられた。
 これに先立って,マキタ電機は,最初に三条で大工道具の問屋としては最大の高儀金物株式会社(現在の株式会社高儀)へ電動工具の取り扱い方をお願いに行った。これに対して,高儀金物の社長 高橋儀平(三代目襲名)は,
 ① 当時,電動工具は値くずれしており,一品あたりの単価が高い割には,今までの商品と比べて極端に利益が少ないこと。
 ② 将来,需要が高まるとは,予想できぬこと。
 ③ こんな品物が普及したら,三条の在来工業製品である大工道具が売れなくなること。
 以上三点などを考慮して,マキタ電機の代理店になることを断った2)。そこで結局,両社の仲介役をした清水友平商店(現在の清新産業株式会社)3)が,代理店に決定した。
 電動工具を販売すると,売り上げは増加するが,利益率は少なくなるなど4),今までの商品にない特性があり,そのうえ一番利益率の良い大工道具(なかでも手鉋)を食い荒らすために,体制の整った問屋ほどその対応が消極的であった。このため大阪・三木などで電動工具を真っ先に取り入れた問屋をみても,やはり新進気鋭の若い経営者が多かった。

 (2)三条の金物問屋が電動工具の取り扱いに積極的になってきた事情
 古来より大工は,仕事の能率を左右する道具を“職人の命”と思い,良く切れる使いやすい道具の入手に情熱を傾けてきた。このような大工道具は,三条の問屋にとっても大切な商品だったので,どの金物店でも,両刃鋸・鉋・のみ・小鉋類・錐類・曲尺など,一通りの大工道具は品揃いしていた。
 このような大工道具とは異なって電動工具は,近代的量産品の典型で,量産すれば原価が下がるため,電動工具の数をより多く売る販売店にはそれだけ価格が安くなるようにリベート制度を適用したため,「売れる店」と「売れない店」とでは価格の差がついてきた。
 やがて,電動工具の販売に力を入れて電動工具を売りこなす事に成功した店は,「売れるからさらに電動工具の数を買う」→「数を買うから価格がさらに安くなる」→「そのため多くの大工が買いにきて,ついでに細かい道具類も合せて買っていく」→「大工道具専門店として繁栄」した。
 これとは反対に,電動工具の販売に力を入れなかった店は,客が買いにきても,価格が高いので客が集まらなくなった。このように大工道具が売れない店は,必然的に大工道具以外の製品(たとえば建築金物や二次製品,あるいは家庭雑貨又は工具類等)を取扱うようになった。
 したがって,大工道具を大切な商品としていた三条の問屋にとっては,電気カンナの出現によって,儲けのあった手鉋が売れなくなったことや,金物店の専門店化による大工道具市場の変化や,当時の景気停滞対策も兼ねて,問屋自身での何らかの対応が必要となってきた。
 これは,ひとり三条の問屋だけでなく全国の他の金物産地においても同じ理由で,メーカーと問屋とはともに新しい市場を開拓する必要に迫られてきた。そのため,三条の金物問屋の強大な販売網に着目して,それを利用しようと三条に売り込みに来はじめ,電動工具メーカーも代理店を経て順次,三条へと進出してきた。
 この時,たまたま,新しい商売を模索中であった三条の金物問屋は,これ幸いと他産地商品も,そして電動工具も,積極的に取り扱うようになってきた。つまり,電動工具の普及がその大きな要因の一つとなって,三条の金物問屋は産地問屋から集散地問屋化へとおのずと変貌してきたのであった。

 (3)産地問屋から集散地問屋へ
 電動工具が普及するにつれて,一方では問屋自体も電動工具を取り扱うことで,この流れに乗ろうとしてきた。とくに,マキタ電機の電動工具は,問屋がマキタ電機の代理店に登録してその特約店になれば,どの問屋でもそれを売ることができた。
 また,電動工具が普及するにつれて,他方では問屋の商品研究が盛んになってきた。たとえば,電気鉋で代替できぬ「仕上げ鉋」を高級製品化して,その数量減を価格のアップでカバーしようとしたり,包装を工夫したりして,問屋自身で商品のレベルアップに努力してきた。
 さて,三条の金物問屋がこのような集散地問屋化へ変貌するにつれ,今まで取り扱わなかった商品を新たに取り扱うようになってきた。その商品は,たとえば次のようなものであった。
 ① 先ず,三条の製品と良く似た他産地製品を取り扱うようになった。
 ○三木の利器工匠具(この中に電動工具用の替刃類も入っている。)
 ○大阪の工具・雑貨類
 ○関の刃物類
 ○堺の刃物類
 ② 三条に出来なかった他産地製品を取り扱うようになった。
 ○建築金物類
 ○アルマイト等家庭器物類
 ○シャベル等土工具類
  ○化成品類
  ○その他
 ③ 三条製品もあるが,他産地製品の暖房器具類の石油コンロ・ストーブ等を取り扱うようになった。
 ④ 三条製の新製品を取り扱うほか,今まで直販か輸出主体だった三条工具メーカーの製品を取り扱うようになり,また燕の金属洋食器や金属ハウスウェアーの取り扱いがふえてきた。
 なお,新しい他産地製品を取り扱うことにより,取扱い商品の特化が進み,専門卸問屋が出現してきた(たとえば建築金物専門卸問屋とか工具専門卸問屋など)。
 さて,問屋は今まで金物小売店だけをお得意としていたが,集散地問屋化すると新しい販路も開拓するようになった。たとえば,
 ① 花屋やお花のお師匠さんに木鋏やお花用具を卸す。
 ② 石油コンロ,ストーブを燃料店へ御す。
 ③ 流し台を家具屋へ卸す。
 ④ 農協へ金物を卸す。
 ⑤ 盆裁店に盆裁刃物や道具を卸す。
 ⑥ スーパー,量販店へ金物工具類を卸す。
 ⑦ その他に,魚釣具・スポーツ・ギフト・船舶関係等に卸す。
 ちなみに,三条市の金物問屋数とその従業員数の変遷は第2図のとおりであった。
第2図 三条市における金物問屋数と従業員数の変遷
 〈パート2〉大工道具製造工場の影響とその対応
 (4)三条の大工道具の影響
 マキタ電機の木工用電動工具は,電気カンナの後にも続々と携帯用の新機種を増して,その販売網も次第に広がり,日立工機やその他の電動工具メーカーからの木工用への参入もあって,木工用電動工具は急速に普及が進んだ。
 これにより,今まで大工用にはそれほど売れていなかった電気丸鋸やその他の電動工具も使われはじめ,順次人件費が高騰して省力化が必要だったこともあって,高能率でしかも小型で取り扱いやすい電動工具が,ますます使用されるようになってきた。
 そして,電気カンナによって手鉋が,電気溝切機によって小鉋類が,角のみ機・チェーンノミによってノミが,電気ドリルによって棒刀錐が,電気丸鋸によって手引鋸がなど,手道具の市場が侵食されることとなった。
 これらのなかで,一番はじめに大きな影響を受けた大工用手鉋は,やがて荒削→中仕上げ→仕上げの三工程のうち,「仕上げ」だけは電気鉋が出来ないことがわかって,仕上げ鉋の売れ行きが持ち直し,機械で出来ない工程をする仕上げ鉋は高価であるというイメージで,問屋と工場は営業政策的に売り込んだ。そして,1974年(昭和49)頃に「超仕上げ」5)が普及するまで,仕上げ鉋は有力商品となっていた。

 (5)三条の大工道具製造工場の転・廃業
 手道具の市場が電動工具に侵食されている間,三条の工具メーカーは,輸出の進展によって増産しており,また,暖房器メーカーも成長期であったため,工場の増員と下請け工場の増加が必要だったが,時流に乗れなかった職人は,これらの下請け工場になった。
 その理由は,完成品を作る職人は,鍛造・火造り・グライダー加工・焼入れ・研磨仕上等,すべての工程の技術を持っており,それ以外のプレスや機械加工にも理解力があり,即下請け工場になることが出来たからである。下請けになれば材料の手配は不要だし,品物の搬出入は親請メーカーがやるし,売り上げ金を集める手間もいらず,賃金だけを計算しておれば気楽にやれるので,仕事の減った職人は,簡単に下請けに転業する者が多かった。
 また,職人間では,どの業種が好不況か,いつも関心が持たれており,自分の工場で作れる商品で売れる品物がないかをいつも探していた。
 これらの情報の中で,下請け仕事が気楽で手間賃も良い等という話も案外早く職人間で知れわたった。
第3図―1 工場転廃業後の模式図(短期間の場合)
第3図―2 工場転廃業後の模式図(長期間の場合)
 結局,電動工具の普及は,三条の大工道具の工場に,多くの転廃業を促したが,これを図示すると第3図のようである。
 三条の金物工場は,問屋ほど変化に対応できず,多数の工場が転廃業した。これは一面で敗退を意味するが,三条には,これらの技術労働者が別な商品を作る良質な労働力として生きており,その後も三条の金物製造業の生産額が順調に上伸していることを考えれば,地域発展のための必然的内部転廃業であったともいえる(第4図参照)。
第4図 三条の工業出荷額と利器工匠具(手引鋸含む)の出荷額割合
 この点,三木の工場は,新しい技術をマスターして,直接代替する商品の製造を始めた工場が多く出現し,以前より大きな市場を掴むことができて,大工道具職人の転廃業者以上の労働力を,これらの工場が雇い入れるなど,三条の工場よりも理想的な展開がなされていった。

 〈パート3〉金物工場の後進性と問題点
 (6)電動工具用替刃の製造に進めなかった三条の金物工場
 電動工具は,モーターで刃物を駆動して加工するので,それが普及するにともない,この部品の電動工具用刃物の需要が生まれて来た。
 この電動工具用刃物は,メーカーから機械の附属品として又は純正部品として市場に流れるほかに,刃物メーカーが電動工具メーカーを通さず,直接自社ブランドで販売するアウトサイダーによる市場参入もあった。また,純正部品を電動工具メーカーに納めている刃物メーカーでも,自社ブランドで替刃の販売も始めた。
 ちなみに,電動工具に使用される替刃物と消耗部品の種類は,マキタ電機の1979年(昭和54)6月現在のカタログから作成すると(第5表)のようである。
第5表 電動工具の種類と替刃物
 電動工具の宣伝と普及において,三条より遙かに先行した兵庫県三木市では,これらの替刃類を作るメーカーが全品種にわたって出現し,それも各々複数のメーカーが,品質の向上や価格競争をしながらシェアー争いをしている。そのなかで一部のメーカーは,マキタ電機,日立工機その他メーカーの純正部品を納めるまでになっている。これら三木のメーカーは,第6表のようである。
第6表 三木市における電動工具用の替刃メーカー
 同種産地の三木では参入した工場が,これだけあったにもかかわらず,三条にはこれを造る工場が現われず,現在までこれを製造して軌道に乗せた工場は一軒もない。
 三条の金物工場にとって,たとえ純正部品の納品が出来なくとも,純正部品以外のものを作ってでも参入することは,手道具の代替されるべき魅力のある新しい市場であった筈であった。
 このようなことは,電動工具が普及しつづけるなかにあって,利器工匠具産地としての三条金物業界にとって大きな損失となっている。

 (7)三条の金物工場の後進性とその原因
 さて,三条の金物工場が,電動工具の替刃類市場に参加できなかった主な理由の一つとして,三条の金物工場の後進性――つまり,金物工場の問屋に対する強い依存性――があげられる。戦前まで,三条における金物問屋と工場の関係は,概して「親方・子方」という関係であった。
 問屋は資本を握っていたので,自分の仕事をさせている何軒かの工場(ほとんどが極少人数で従事する鍛冶屋)からその買い値をある程度左右することが出来たが,工場の生活の保証だけは常に考えてやった。たとえば,職人に金がない時は前金を出したり,仕事がない時は問屋は在庫を積み増して仕事を与えてあげたり,仕事が手一杯の時は取り引きの職人間をやり繰りして,不足している製品を造らせたり,旅から新種の見本を持って来て職人が何を作るべきかを指導したりした。
 このような問屋の指示に対して,職人は全力を上げてその指示どおりに作り上げ製品にした。そして,とくに一軒の問屋だけの仕事をする職人を「専属」と言った。
 その後,戦後の何回もの好景気の折に,工場の生産が間に合わない事が多く,その度に工場側は優位となり,経済力もつけて来て,問屋の資本を必要としなくなった。やがて,商売上では対等な取り引きができるようになり,一部では,問屋の販売力を支配するメーカーさえも出て来た。
 ところが,工場は,これだけ力をつけてきていながら,一部には古くからの問屋と工場の関係に安住して,依然として世間を見る時は問屋を通してしか見ようとせず,自分の眼で見て市場と関連ある商品を作ろうとする努力をしなかった。
 また,中央の大都市から遙かに離れた三条という立地条件の悪さから(三木は京阪神地区に隣接している),急激な技術革新の波に乗り切れなかった。
 他方,問屋も,売れ行きの鈍った利器工匠具からの脱皮をはかるため,扱い品の多様化に追われていたし,問屋数は増え続けても(第2図参照),一軒あたりの力は分散して強大になれなかった。しかも,昔の手作りと違って,技術革新が進んだた
め,新製品を作ろうとすると量産を必要とし,大資本を投入せねばならず,そのため問屋の工場に対してのリードが減っていた。
 当然「専属」と言う関係はなくなり,問屋が工場に仕事を与えねばならないという責任感もなくなってきた。
 以上のような,工場サイドと問屋サイドの状況と理由によって,三条の金物工場は電動工具の替刃類市場に参加できなかったのである。

 3 結 び
 以上のように,電動工具の普及に対して三条の金物問屋は,電動工具を積極的に取り扱うとともに,今までに作りあげた全国的な販売網と活力ある販売力を利用して,他産地製品を積極的に取り入れることで,売り上げを伸ばし発展してきた。
 すなわち,三条という小さな地域に多数の問屋があり,その集中力によって,他産地から多数の有力商品を有利に仕入れることができたし,それをこなす事により,又,新しい商品の売り込みをも誘うことができた。
 古くから産地問屋として成長して来た三条の金物問屋は,集散地問屋の要素を取り入れ,とりあえず今のところ成功してきた。
 それに引きかえ,伝統を誇る三条の刃物工場が,この電動工具の出現という技術近代化の流れのなかにあって,本来は利器工匠具刃物に代替されるべき電動工具用替刃類の市場に一工場も参入出来なかったことは6),理由はどうあれ,ますます変化の激しくなるこれからの時代に大きな不安を示唆している。
 しかし,三条の工場は利器工匠具の工場だけではない。現在,三条の工業出荷額に対する利器工匠具の比率はわずか6.1%(第5図参照)であることや,三条の工場は全体として工場数・出荷額その他ますます発展していることを考えるならば,以上のことを大きな経験として,明日への飛躍の糧としていきたい。

 注
 1)ここでいう「電動工具」とは,「電動機で刃物,砥石,研摩布などを直接駆動させる携帯用の工具」(参考図参照)で,鉄工に用いる鉄工用と木工に用いる木工用の2種類がある。
  たとえば,穴あけ作業には「電気ドリル」,切削作業には「電気カンナ」,切断作業には「電気マルノコ」,溝切り作業には「電動溝切り」,角穴・抜き穴作業には「電気カクノミ」,面とり作業には「電気ルーター」,研削・研摩作業には「ディスクグライダー」,釘打作業には「電気釘打」・「電気タッカ」。その他,「電気コテ」,「ウインチ」,「ブロウ」,「草刈機」を含むものである。
 2)高儀金物株式会社は,1866年(慶応2)創業。1969年(昭和44)現在の株式会社高儀となる。その後,同会社はマキタ電機の特約店となって,1974年(昭和49)は自社売り上げ約10%を電動工具が占めているという。
 3)1948年(昭和23)創業。清水友平商店が,1963年(昭和38)に清新産業株式会社として法人組織となった。
 4)当時の三条の問屋は,従業員1人当たりの1ヵ月の売り上げが,40~43万円ぐらいで,マキタの電気カンナが1台,21,800円,これを売っても利益は5%ぐらいだったので,「金額だけがかさみ,こんなに利益の少ない品物は危険で扱えない。」と言われた。(清新産業株式会社社長 清水友平談)
 5)「超仕上げ」とは,手鉋の数倍の能率で仕上げ工程のできる据え置き式木工機械のこと。本来据え置き式の重量機械で携帯用電動工具のなかには入っていなかったが,マキタ電機や日立工機がこれを小型にして100V電源に使えるようにしたもの(本来は200Vかつ直流だった)を発売した。
 6)三条市に隣接した金属洋食器産地の燕市の本宏製作所では,1978年(昭和53)に溝切カッターとチップソーの製造を開始した。

結 語 池田 庄治

 以上のように,本研究の「新潟県の金属加工産業都市――燕市・三条市――の経験」において,その在来の技術や産業が,“移入”または“開発”された新しい技術や産業によって,どのような影響を受け,そしてどのように対応――並存・競合・交代・高次復活などの諸類型で――してきたかの経験を,「洋釘」,「金属洋食器」,「電動工具」という具体的かつ現実的な三つの事例に基づいて,それぞれを考察してきた。
 国内的には勿論のこと,国際的にも“金属洋食器の町”,“金物の町”としてそれぞれに有名な燕市と三条市とが,“移入”または“開発”された新しい技術や産業に対して,ともあれ成功裡にそれに良く対応し得た主因としては,
 ◆ 燕市における昔からの水準の高い金工技術とその多数の関連的技術集団,それに不撓不屈の創意ある職人根性。
 ◆ 三条市における昔からの手堅い鍛冶技術と勤労意欲旺盛な鍛冶屋根性,それに広大な商圏から得られる全国の情報と,鍛冶屋に対して絶大なリーダーシップをもった金物問屋の存在。
などが,顕著に挙げられる。
 このように,かつては“技術の受け入れ側”であった燕市と三条市も,今では“技術の送り手”となって,たとえば現在,燕市の金属洋食器技術に対して中国からその移転が正式に要請されており,燕市としては過去に同じく金属洋食器の技術移転が,一方のフィリッピンでは失敗し,他方の韓国では成功した事例を検討しながら,燕市は中国からの要請に応じるか否かを真剣に協議中である。
 したがって,燕市と三条市における,このような他国への「技術移転問題」を,本研究の続きとして,なお継続して調査・研究することが必要であろう。
 なお,本研究の執筆には池田庄治(序説・Ⅰ・結語)・神子島義平(Ⅱ)・鈴木捷雄(Ⅲ)が担当し,それらの企画・立案と校閲・監修には本研究の受託責任者である池田庄治が担当した。
 そして,ここで特記すべきは,Ⅰには若槻武雄・斎藤義信,Ⅱには加藤新蔵・斎藤義信・鈴木昌清,Ⅲには外山登が研究協力者として,資料収集・調査報告・研究協議・原稿検討などその他に絶大な協力・支援をされたからこそ,本研究が遂行できたということである。
 このほか,燕市・三条市の市役所・商工会議所・商工業組合,それに広く市民各位から御教示・御協力をいただいた。ここに記して,衷心より謝意を表する。
 しかしながら,所与の調査・執筆期間が極めて短かったため,充分に意を尽くせなかった憾みもある。それにしても,本研究の内容に思わぬ不備や誤謬が若しあるとすれば,それは執筆内容の監修者であり研究受託の責任者である私の,すべて責任である。なにとぞ,御寛恕を戴きたい。