Technology and Rural Society

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土地の商品化と貨幣の記号化

Author: 友杉孝
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
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 目 次

 はしがき・・・・・・・・・・2
Ⅰ 干拓と地名と景観・・・・・・・・・・4
Ⅱ 家[イエ]と村落[ムラ]・・・・・・・・・・12
Ⅲ 訪れる者から商人へ・・・・・・・・・・19
Ⅳ いわゆる佐賀段階への到達・・・・・・・・・・27
注・・・・・・・・・・34


はしがき

 前年度の報告において,筆者は兵庫県加古川台地の溜池の社会史について論じた1)。すなわち,溜池をたんに灌漑用水という経済的側面のみに狭く限ることなく,広く混沌不毛の自然から文化への変換を媒介するものとして論じた。この変換の媒介は一つの神話を伝承し,溜池に神聖性を付与した。神話は,溜池築造に際して,美女=蛇と霊僧という他界の存在の助力を不可欠のものとして物語る。歴史的現実は,美女と霊僧は巫女と行者の組合せに対応するであろう。水田稲作に基礎をおく定着農民と遊行する人々との交渉から歴史は形成された。溜池は,経済的有用性と超越的神聖性の両面において,村落社会の存続を可能としたのである。溜池は村落社会の連帯の象徴であった。
 本年度の報告は,佐賀平坦部農村社会を対象とする。網目のように細かく掘られたクリーク(堀)で特徴づけられる水田稲作で,日本で最高の土地生産性を実現した地域である。また,幕末まで地方知行が行なわれ,あるいは武士の身分のままで農業に従事する人々が少なくなかったことでもよく知られている。前年度の溜池には近世を遥かに遡る古い歴史があるのに対して,おおまかにみて,佐賀平坦部の農村社会はずっと新しい。平坦部の北部には條里とか環濠で示される古い集落も立地するが,平坦部南部には,近世の開拓新村が多い。日本で有数の干拓地域である。
 したがって,溜池にそなわる神秘的な神聖性はクリークに乏しい。クリークは経済的側面からのみ意味づけられる傾向を多くもつ。溜池を中心とする農村社会の共同体的な強固な結合に対して,クリークを共同に使用する農村社会の共同体的な結びつきはより緩かである。クリークの水利用は共同体的というより,むしろ個別的水利用である。ここでは遊行する行者と巫女も,すでに歴史形成の主要な契機となることなく,商人が農村社会をその外部世界に結びつける。
 しかし,クリークには超越的な神聖性は乏しいが,土地が独自の象徴作用をもって家(イエ)の永続を可能とする。土地は労働対象であるだけでなく,富,先祖,社会的威信など多様な意味作用をも併せもつ。土地を媒介として,農村社会は稲作だけでなく,経済的消費においても結びつく。貨幣もまた多義的に作用し,農村社会をその外部世界と結びつけてゆく。すなわち,土地と貨幣の象徴作用を媒介として,農村社会での人と人との社会関係が形象化され,農村社会の内部と外部でも一定の社会関係が形成される。土地と貨幣の多義的な象徴作用は,一方の極で呪物崇拝,他方の極で一義的な記号として現れる。農村社会の境界の外部に接する他界が信仰と怖れの領域,まったくの杜会内部が一義的な記号の意味作用領域である。社会内部に位置しているものでも,外部の他界を指示する場合には,強い呪物性を発揮する。すなわち,象徴の多義的意味作用であり,外部の他界が社会内部に侵入してくる領域である。多義的意味作用の根底には,他界との交渉にもとづく歴史形成の記憶が潜在する。
 土地と貨幣の象徴的意味作用には,以上のように,呪物崇拝から一義的記号へと変換するが,象徴の領域においては両者とも富として機能する。富は人々の生物的生存に必要であるというより,むしろ社会的生存に必要な象徴である。富は社会的威光,社会的勢力を表示する。富のこの力は呪物崇拝にもとづく。富が社会的な力であることは,富を社会的な借りに対する清算を可能とする。すなわち,支払い手段である。土地と貨幣がともに富であることから,両者の間には相互変換の可能性が存在する。この可能性を具体的に実現する条件は歴史的に形成される。土地は安定と停滞,貨幣は創造と破壊という社会的役割をそれぞれ歴史において果す。
 このように本稿は,土地と貨幣の象徴作用の視点から佐賀平坦部農村社会にアプローチするが,この作業は,人文地理・記号論的立場からする日本農村社会を考える試みである。土地と貨幣の作用を狭く経済的有用性に限定することなく,経済活動を支える象徴作用にまで眼くばりして,広く考えたいと筆者は意図した。これまでの社会科学の成果を文化記号論の視点から具体的に再構成して,地域社会の全体像を記述しようとする試みである。このような試みを実現するための一つの基礎的素描として,本稿は構想された。したがって,共時的レベルにおける農村社会の分析的記述が本稿の目的であり,社会の通時的記述それ自身は目的ではない。通時的な記述は,共時的レベルに潜在する意味を映す鏡である。
 一般的にみて,アジア諸地域の稲作との比較では,日本の稲作は格段に高い土地生産性を実現している。なかでも,佐賀平坦部農村の稲作の土地生産性は高い。したがって,このような稲作を可能とした土地と貨幣の象徴作用,とくに,富としての土地と土地の貨幣への変換に関する論述は,アジア他地域の稲作社会との比較において,日本稲作社会の特徴を明らかにするための一つの基礎作業とも言えよう。
 これまでの報告と同じく,農業経営,農業水利,農業経営史などについては,本稿はこの報告書シリーズに含まれる他の執筆者による詳細な論述にゆずりたい。本稿論述の基礎となるデータは,1980年9月と81年2月の現地調査での古老よりの聞取りである。古老の話しは,大体,大正から昭和初めに関する事柄が多かった。また,利用文献に関しては,全文の引用ではなく、要約して利用した個所が多い。これらはすべて参照文献として示した。

Ⅰ 干拓と地名と景観

 佐賀平坦部農村社会は,北の背振山地から南の有明海にいたる平野に立地する。平野の東は筑後川,西は杵島山地で限られる。この平野はまったく低平で,とくに佐賀市の南,海抜約4メートルの地点より海岸まではデルタ地形を形成する2)。世界的な規模での海退を基調にしながら,筑後川,嘉瀬川,六角川が運搬する多量の土砂によって,毎年,陸地が海に伸びつつある地域である。干潟形成速度は,南川副地先で年平均10メートル,上昇は年平均7センチメートルである3)。
 このような自然の干潟形成を基盤に,古くから干拓地を造成して,水田の拡張が行なわれてきた。
 干拓地形成の過程を『川副町誌4)』と『芦刈町史5)』からの引用と参照によって少しみておこう。干拓地形成を示す最古の文書は,正応元年(1288)の高城寺文書である6)。
 寄附 春日山高城禅寺
 肥前國河副庄三分一方,米津土居外旱潟荒野壱所事
 限東,米津并東故衛土居,限南,四至,米津土居
 限西,南里前通旱潟,限北,南里土居
 早以新開田之土貢,宜宛常住僧斉粥
 この文書は高城寺への土地寄進状である。土居は土堤で,この土地は東南北の三方が土堤で囲まれ,西方のみが干潟に向って開かれ,いまだ荒地の状態にある。早くこの荒地を開墾して,僧侶の食料を年貢として納めることが述べられている。荒地の開墾が,寺院への寄進を媒介として,進められたことがうかがえる。言うまでもないが,この寺院は中世寺院であり,中世寺院が象徴する霊力によって荒ぶる自然は人間化されるのである。荒地の開田はなかなか進展しない。事実,後年,干拓地がずっと広く展開した後でも,洪水でしばしば大被害を受けた。荒地の耕地化は非常に困難な仕事であった。
 しかし緩かなものであれ,干拓地は拡大してゆく。貞和2年(1346)の高城寺文書は,開墾の進展を示唆する7)。
 肥前國春日山高城護國禅寺御領,同國河副庄三分一方内南里新々田事 右,依為開発田地之功,宛給上者,毎年被遂御検注,於有限御年貢所当米者,不可有懈怠候,若又子々孫於令違犯者,可付給別人候他,個為後日之状如件
 貞和二年六月十三日 源有家
 前出の正応元年の文書より約60年後の文書であり,南里は米津の北と西にすぐ隣接する。米津の西に拡がる干潟が開墾されて耕地となり,高城寺に年貢米を納めるようになったのであろう。さらに,この文章で,「子々孫々」で表わされる超世代的な家族,すなわち,家族と土地所有との結びつきも示されていることにも注目しておきたい。人間化された土地の高い生産力が,特定の家族と一定の土地との結合を超世代的に永続させる。永続化の過程において,開発主体であった人間が,もともとは客体的な存在であるはずの土地に従属するという逆転が起る。土地が不変なものとして存在し,この土地に一定の家族が付属することになる。
 上記の高城寺文書による米津と南里は鎌倉時代の海岸線で,この線を西に延長すれば福島,上新ヶ江,下古賀,西道免,舎人,浜中,八技に至る8)。しかし戦国時代末には,海岸線は約4キロ南下し,犬井道,小々森,広江,大野,元相応,丸目,新村,東久,新村,道免,永田,六丁,戸崎を結ぶにいたる9)。戦国時代末までに干拓されたこれら地域は,海抜2.5~3メートルで,小潮時にも常に潟地が海中から露われ,高さ2~2.5メートルの土堤でもって干拓できた10)。干拓地が南に前進することで形成される集落は,古い土堤の上に立地した。高潮災害を避け,土堤両側のクリークの水を生活用水に使うに便利であるからである11)。小々森付近では,柳や竹が茂る細長い島がクリーク間に点在していて,中島と呼ばれる。戦国時代末の土堤の残りである12)。
 干拓は,近世において,一層前進した。寛永(1624)から寛文(1661)にかけて築かれたと推定できる松土居(本士居)は,干拓地城を高潮から守る大堤防である。海抜2メートル線に沿って,東の早津川畔から西の六角川畔に至る大規模な堤防で,早津江,犬井道南端,小々森,大野,元相応,新村,搦,新村,道免,永田,弁財の諸集落を結びつける。堤防上,松の巨木が潮風に対していて,干拓地形成過程の一時期を記念した。この松土居の建設によって,戦国時代末の旧岸線である堤防上に,前記諸集落が新たに立地した13)。すなわち,この時代までに現在の佐賀平坦部干拓地域の景観の原型ができあがる。
 言うまでもないが,松土居築造後も,干拓地は前進し続けた。一般に,松土居の内側の土地を揚,外側を搦と呼ぶ。揚は揚地とも揚田とも言われ,上田を意味する。干拓時期が早いため,水田は熟田であり,生産力が高かった。貢租地である14)。揚の安定した高い生産力を基盤に農村社会は一つの安定した領域を創りあげた。各部落はそれぞれの神社を祀り,各家族は特定の檀那寺の檀家であった。さらに,高い生産力に基づく経済剰余は,松土居の外側に新たな干拓地の形成を可能とした,搦である。
 搦の造成は村請け干拓である。したがって,一つの搦の規模は零細で,10町以下が大部分である。舫頭(ふうつう)が搦子(からみこ)を20~30人から50~60人集めて,干拓を行なった。舫頭は,もやいがしらである。まず,堤防心として松の丸太を5尺間隔に打ち込んだ。これら丸太に粗朶や竹を搦めて棚をつくり,5年間ほど放置して泥土を堆積させる。この後,小潮時,投打鍬で土盛りし,土杵でつき固める。造成された干拓地は搦子の人数で等分され,舫頭にはとくに一人分,あるいは割出しの剰余が報酬として贈与された15)。搦の名称も上述の工法による16)。
 このように零細な村請け干拓の結果,搦は小規模な鱗状の地片の連続として干潟に向かって伸びていった。次表は川副町の搦の形成過程を示す17)。第1堤塘は松土居である18)
。第2堤塘以下第7堤塘まで,干拓の進展にともなって新しい堤防がつぎつぎと建設されたことを示す。第2堤塘は天明(1830)頃の海岸線で,第3堤塘は化政期から天保(1830)頃の建設である。この第3堤塘までの間,きわめて零細規模の搦が連なる。第4堤塘は藩営で,嘉永(1848)に完成した。村請け干拓の堤防では高潮の害を防ぎきれないため,藩が六府方の一部局として搦方を設け,干拓地保護に当ったのである。第3堤塘の外側から搦の規模は大きくなる19)。
 このように,村請けの零細な搦の造成は,まったく農民労働の成果であった。すなわち,農民の身体的エネルギーの投入が,搦みという形態をとる一つの経済蓄積として永続する。この経済蓄積を基盤にして一つの農村社会の形成が可能となる。揚の農村社会をモデルとした新しい農村社会の形成である。具体的には,揚の農村社会を本家とする新宅(分家)として,搦の農村社会が再生産されるのである20)。さきに,一定の土地を媒介として子々孫々が絶世代的に連続することをみたが,揚と搦の関係では,新しく造成された土地を媒介として,超世代的な家が空間的に拡大される。言うまでもなく,搦の新宅は揚の本家に対して従属的な地位に立つことになるであろう。搦の固有名詞は,表にあるように多様であるが,舫頭の名前を付けた例は非常に多い。大左衛門搦,庄右衛門搦,伝兵衛搦,三兵衛搦,内蔵之允搦など,最多である。ほかに多様な名称があるが守護神の名による搦は弁天搦,中竜神搦である。干拓を始めた年かあるいは完成した年による搦は,寛政搦,文化搦などである。十二支による搦は戌年搦,亥年搦である。方向による搦は東弘化搦,中弘化搦,西弘化搦である。弘化という時期も述べられる。幸せの到来を願う名称は,幸搦,千秋搦,万才搦である。さらに実状をよく表現した名称として,秀搦の別名としてカッパ搦がある。堤防がよく切れて,水の乾く間がないことを示す。無税地搦をワラスボ搦とも言うが,堤防がよく破れて,ワラスボ(ダボハガ)が入ってきたことにもとづく21)。
川福南部搦一覧
このように多様な搦の名称は,芦刈町の搦でもまったく同様である22)。この多様な搦の名称は,時代的にも地域的にも開発主体の部落がもった多様性に対応する。藩あるいは大町人による大規模な一様な干拓とはまったく異なる。しかも,これら多様な名称には,干拓地に対する農民の気持が自ずから表現されている。たんなる物理的な土地に対する名称ではなく,有機的な生命をもつ,何か自分に親しい存在としての土地に対する命名である。
 カッパ搦とかワラスボ搦で示されるように,村請けの干拓地造成は大変難儀な仕事であった。非常な労働力投下で新たに干拓地を造成しても,頼みとする堤防が高潮で破れれば,それまでの成果は大損害を受ける。台風にともなう高潮の被害を干拓地は数多く受けてきたのである。江戸時代270年間,文献に記録されただけでも51回を数える23)。このような災害の多発と農村社会の基盤である土地を護るということが結びついて,農民は人力を超越する神仏に土地の安全を祈願した。『川副町誌』にある人柱伝説を引用しておこう24)。
 元禄十六年の申の年,下早と中津の渡し場の中間のあたりに堤防があった。その堤防が台風と大雨のため決潰してしまった。
 地元の人々は,堤防修理に努めたけれども,水がどうしても止まらなかった。そのため当時の庄屋さんが,
 「私が人柱に立つ」と言った。そして庄屋さんが人柱に立つことになったけれども,その奥さんが,
 「あなたにここに人柱に立ってもらえば,後を治める人が誰もおらん。だから,私があなたの代りに立ちます。」
 と言った。
 そして,奥さんが人柱に立った。すると,不思議にも水は止まった。村の人々は庄屋の奥さんに感謝した。村人の一人が,
 「こりゃどうしても,その人のために毎年供養をしてやらんといかん」
 と言った。村の人々は,供養することに賛成した。
 村の人々が,下早の土居の曲がったところに石の祠を祭り,その側に榎の木を植えて八竜大明神さまを祭った。
 村の人々は,庄屋さんのおかげで毎年,米も豊作になったと。
 それから,八竜大明神という旗と,志賀大明神という旗を掲げて戦いに行くと,負けたことがなかったと。
 この人柱伝説は,筆者が前年度の報告25)で紹介した溜池の人柱伝説と類似の構造をもつ。美女と旅僧の組合せが奥さんと庄屋に変化しているように,時代の相異により伝説の外見は一変する。しかし人力を超越する存在によって,荒ぶる自然が人間化された土地に変換することでは同じである。溜池では,人柱にたった美女(蛇)が守護神となったと同じく庄屋の奥さんは八竜大明神と合体し,守護神として祠られた。村落社会の外部から訪れるものに代って,内部のものが人柱となる,外部から訪れる行者が農村社会の歴史形成の契機となった時代が遠い過去となった時に語られた説話である。後述するように,八竜大明神は農村社会の生活全部を守護するのではなく,他の超越する神仏との関係性において,人々の生活の一部を守護することになる。
 松土居の内側と外側を揚と搦としてみ,さらに搦の固有名称についてふれた。揚にも多くの地名がみられる。もっともよくある地名は籠である。籠の地名は,内陸部の河川に面した低湿地,旧河道あるいは松土居の内側の干拓地に多く付けられる。籠の由来については,堤防工事の蛇籠,戦国の敗北武士の隠田村など諸説ある。一説として,農村社会の籠仲間による干拓説がある。農村社会では春秋2回,神社にお籠りし,共同で酒宴をもつ慣習があった。このお籠り仲間が干拓の主体であったことにもとづく26)。籠には植物名がよく付けられ,籠の固有名称として松籠,柏籠,柳籠,二本松籠などがある27)。現在,籠地名の由来に関する定説はないが,干拓地名との比較によって,籠名称の意味が探られる必要があるであろう。開との対比も興味深い。佐賀の干拓地では,開は河川に沿った湿地で,芦の茂る土地である。
 揚,搦,籠など,地名が干拓の由来を示すことをみたが,ほかにも平坦部農村には興味ある地名がいくつもある。川副町を中心に,簡単にみておこう。まず,津である。津は船着場で,米細津,中津,船津がある。現在は河川から遠く離れていても,かつては船の出入に便利であった。江は澪が入る入江で,早津江,鹿江,鰡江がある。旧い入江も,現在はずっと陸地に位置する。牟田は二期作の出来ない湿田であった。古賀は空閑で,かつての新開地である。牟田も古賀も現在では,言うまでもなく,熟田である。島は,大潮時に島のように海中から現われる意味で,干拓の拠点となった土地である。新村,新宿,新町はある時代の新しい集落の名称である。さらに,広江南のように広江から分出したことを示す地名もある。上ノ小路,中ノ小路,下ノ小路も,集落が分かれて新しい集落を次々と形成したことを示す28)。すなわち,現在の景観からは簡単に想像できないことが多く,これら地名は人々が自然環境に働きかけて自らの生活領域を創りだした農村社会の歴史を示唆しているのである。
 地名が歴史を示唆することをみたが,同じく景観も農村社会の歴史を物語る。干拓地形成でふれたように,景観は過去の自然環境に対する働きかけの成果である。すなわち,人々の過去の労働を絶えまなく表象するものとして景観は意味づけられよう。この意味において,景観は過去に対する人々が共有する記憶の源泉となる。したがって,過去の現在化としての景観は,この地域の人々によって生きられた時間を再構成するための重要な手がかりである。
 干拓地域の集落は,ほぼ東西を連ねる線上に並ぶ。過去の海岸線を画した旧堤防上に集落が立地するからである29)。したがって,周辺の水田より僅かに高い土地に集落は立地し,高潮時の洪水を避ける。集落内のもっとも高い地点に神社が設けられることもある。大部分の集落は塊村の形態をとる。集落の北側はクリーク(堀)である。旧堤防に付属した遊水池(潮遊び)がクリークになった30)。クリークの水は人々の共用である。農業用水は言うまでもないが,各種生活用水にも使われる。炊事,洗濯,風呂など生活全般にである81)。クリークは縦横に複雑に交差していて,干拓地ばかりでなく佐賀平坦部の全域をカバーする。幹線クリークの要所要所には樋が設けられ,クリークの水位は常に管理される。クリークはたんなる用排水路ではなく,むしろ,貯水池として機能しているのである。干拓地域東部では,筑後川を逆流する淡水(アオ)の取入れも樋門の開閉で行なう32)。まさに高い密度で建設されたクリークこそ,佐賀平坦部農村地域にわたる最大の特徴である。人々の生活はクリークの水と共にあった。
 このように,人々のクリークの水に対する近しい関係は,クリークの水に対して共通する経験と感情を人々の間に創りだす。この共有の経験と感情を祭礼的に表現する行事が「カワカミサンまつり」である。
 カワカミサンまつりはヒャーランさんまつりとも言われ,毎年,旧三月中に行なわれる。田植え前で,クリークは満水の状態にある。カワカミは川神あるいは川上で,成富兵庫をまつる行事である。成富兵庫は近世初期の人物で,佐賀平坦部の水利事業の設計・実施に当った。現在でも,この地域の水利は成富兵庫の事業の成果を基盤としている。子どもたちが藁で丸舟や三角舟をつくり,これに供物を乗せて流す。供物は円錐形の握り飯,煮〆,竹輪,カマボコである。川副町大詫間では,この日,子どもたちは床屋に行き,後頭部の襟首の毛を残した。この毛を「ひっちょんさんの毛」と言い,水に溺れた際,神様がこの毛を握って救うとされた33)。人々のクリークの水に対する近しい共有の感情が,実在の成富兵庫をヒャーランさんに変換した。ヒャーランさんは,人々とクリークの水との関係を象徴し,守護神として機能する。
 干拓地域の生活は,堤防により高潮洪水から守られたが,同時に,神仏の厚い加護の下にあった。現在,多くの石祠,神社,寺院が重要な景観の一部を構成する。注意してみると,これら石祠,神社,寺院はそれぞれ規則的に独自の地点を占めていることが明らかとなる。すなわち,石祠は堤防,旧堤防の傍である。神社は各集落の内部で,比較的高い土地を占める。しかし,寺院は干拓地域南部の集落には存在しない。ほとんどの寺院は干拓地域の北部に立地する34)。
 このような石祠,神社,寺院の立地は干拓地域形成過程の景観化でもある。まず,石祠である。さきの人柱伝説にもあるように,石祠は荒ぶる自然を耕地として人間化する過程で設立される。自然の土地から人間化された土地への変換点に立地する。すなわち,地理的には堤防の傍である。しかし,新たに人間化された土地での生産が安定すれれば,やがて新集落が形成される。この集落の中に,必ず農村社会の鎮守神をまつる神社が設けられる。干拓地域では天満宮が非常に多い。洪水防御の神である。神社設立に伴って,人々の信仰の中心は神社に移行する。石祠は非常の時にのみまつられる。たとえば,八大竜王への水乞いである。洪水防御の機能は神社に移り,石祠は干天時にのみ神頼みされる。石祠は弁財天,蛭子,大黒,観音,八天,八大竜王など多様である35)。これら石祠と神社で守護された土地は,たんなる経済基盤を超えて,人々の生存を保証する象徴としても作用する。すなわち,荒ぶる自然の土地は社会化されて,富の主要な形態に変換する。
 新たに集落が形成されれば,必ず神社は設立されたが,寺院は建立されない。新集落の人々は出身地あるいは本家の檀那寺を檀那寺とした。したがって,寺院は新しい干拓地,搦にはなく,古くからある土地,揚の北部に位置した。同一集落内に寺院が存在していなくても,新干拓地域の安定によって,従来の特定の寺院の檀家であることは永続した。神社が集落を単位とする農村社会の地縁的結合の中心であるのに対して,寺院は集落を超える家の構成員の結合を強めた。たとえば,法事の集まりは集落を超える。家の超世代的な連続は,寺院によって確かめられた。
 寺院が管理する墓は先祖累代の墓である。神社と寺院は明確に異なる社会的機能をもつが,寺院と石祠もきわめて対照的である。石祠は自然と人間化された土地の境界点に立地する本来的に不安定な存在である。荒ぶる自然のエネルギーの取入口といってよい。当然,非制度的である。他方,寺院は堤防からもっとも離れた場に立地し,家の永続を確かめる。寺院は檀家制度としてある。しかも人間の生から死という不安定性に寺院は関わるが,石祠はもっぱら現世利益の追求に関係する。すなわち,寺院は生から死への変換に関わり,石祠は死(自然の力)から生への変換に関わる。
 このように,石祠,神社寺院はそれぞれ独自の社会的機能を果しながら,同時にそれぞれは相互補完的に機能している。すなわち,農村社会の多様な経験と記憶が石祠,神社,寺院として象徴化され,これら象徴による一つの世界が構造的に創られているのである。この象徴の世界の構造は,現実の諸経験を分類する基準として機能する。
 寺院と檀家との地理的関係を芦刈町についてみておこう。芦刈町でも寺院は町の北部に集中している。したがって,南部に位置する集落に住む人々は北部の寺院を檀那寺とする。たとえば,八技に所在する観音寺の芦刈町内での檀家数81戸の中で,中三條,戸崎だけで68戸ある。小路の福田寺は69戸の中,中牛王,永田,佑ノ江に49戸をもつ。牛王の常光寺は135戸の中,永田,中林,辨弁,六丁,住ノ江にて100戸を占める。牛王の妙長寺は47戸の中,住ノ江,永田,戸崎に35戸である。中溝の永林寺は67戸のすべてを新村,永田,辨弁,住ノ江にもつ。小路の己身寺は46戸のすべてを辨弁,住ノ江にもつ。言うまでもないことだが,いくつかの北部の寺院は同じく北部に多くの檀家をもつ。光楽寺,宝泉寺,永明寺,報恩寺である。しかしながら,町内北部の寺院が南部の集落に住む多くの人々の檀那寺であることは明らかであろう36)。芦刈町の景観は,干拓地が北部から南部に向かって前進したことを示すとともに,農村での社会関係の形成が北部を中心として行なわれたことを物語る。しかし,この社会関係の形成・維持において,新たな南部集落の形成は不可欠であった。新たな集落が古い集落を安定させたからである。

Ⅱ 家[イエ]と村落[ムラ]

 これまで干拓地造成による新規開田が集落の形成,すなわち新たな農村社会の成立であることをみた。新たな水田が,旧い農村社会から新しい農村社会への地理的拡大の基盤であった。しかし,土地は生産活動の基盤であるだけにとどまらない。生産活動の基盤であることによって,同時に,人と人の間を結びつける社会関係の媒体としても機能する。むしろ,社会関係の媒体としての土地の重要性を,いくら強調しても強調し過ぎることはない。社会関係の媒体としての土地の存続は,社会的生存を象徴する富観念の形成を促す。本節はこのような意味での土地の視点から,家と村落について論述を進めたい。
 干拓地域形成でみたように,人間化された土地は人々の生活領域として永続する。干拓した個人の生命をはるかに超えて永続し,さまざまな経験が景観として土地に刻みつけられる。土地は濃密な生きられた時間を物語る。この土地を所有する家族にとって,土地は労働対象であるだけでなく,同時に精神的な拠りどころでさえある。いわゆる先祖伝来の土地である。家産として,象徴作用のレベルにおいても,土地は家族の存続を可能にする。すなわち,土地は富である。富一般がもつ呪物性を土地もまたもつ。土地所有とは,他界観念に基づく土地の呪物性を媒介として,人と人との間の社会関係の制度化である。制度としての物象化した土地は,経済的有用性という一義的記号として機能するが,しかし時として,潜在的に所有する呪物性を顕在化させる。家族を時間的に超越して,超世代的に連続するいわゆる家は,家産としての土地の永続性と不可分に結びつく。さきの高城寺文書にある「子々孫々」も特定の土地との結びつきにおいて初めて可能な家の表現である。世代的には離れる先祖と子孫を土地が結びつける。
 家族が家として永続するには,家産としての土地が不可欠である。したがって,人々は土地を自分個人の所有物とはけっしてみなさない。土地は先祖からの預り物と観念される。すなわち,土地所有の主体は超世代的な家であり,個人はたまたま管理人であるにすぎない。管理人の責任は非常に重大で,なにかの事情で先祖から相続した土地を一部でも手ばなせば,大変な恥となる。人々から「ホトクナカ(つまらない)」と陰口をたたかれる。逆に,新たに土地を取得すれば,非常な名誉である。このため,誰でも土地を増やす,あるいは少くとも減らすまいと,寸暇を惜しんで働く。労働の生産性は,当然,軽視された。人々の土地に対する執念には,経済基盤の拡大より,むしろ宗教的情念さえ感じさせられる。土地所有者であることによって,初めて一人前の農村社会の構成員でありえた。土地を所有しなければ,なにごとにつけ,保証人になる資格にも欠けた。土地所有は人々のアイデンティフィケーションの必要条件であったのである。
 恥とか名誉は,言うまでもなく,社会的である。農村社会での土地は,その土地を現に所有する特定家族の労働対象であるにとどまらず,他のすべての家族の秘かな関心事でもある。土地はゴシップ種である。土地売買はもちろん,水田の手入れの悪いことも陰口の対象である。他人,とくに隣り近所に負けまいと,人々は苦しい労働,たとえば田の草取りに耐え抜く。一方では,たとえば,隣り近所の相互扶助など,土地は家族と家族の間を結びつけ協力させるが,他方では土地は家族と家族を競争関係にたたせる。農村社会では各家族はすべて互いに競争相手でもある。他の家族はすべて,自分が現に所有する土地の可能的な所有者でありうるからである。
 他の家族に対しては協力関係とともに競争関係にあったが,一つの家族の内部では家族構成員は強固な協力関係のもとで生活する。経済的利害得失を無視して互いに協力する。この協力を規定する基準は,土地を所有する場合,家の永続と家産としての土地の保全である。この基準によって,家族構成員の秩序は維持される。したがって,土地は一子相続であり,原則として長男が相続する。先祖からの預り物の土地を相続する長男は,父親の死後,家長として家族の秩序を維持する責任をもつ。責任とともに,家長の勢力は大きかった。家長は家族構成員を家に媒介させる地位にあったからである。毎朝,仕事前に家長は仏壇に向かう。家長の特別な地位は,食事作法にもはっきりと現われる。家長だけが専用の箱御膳で食事をするのである。他の家族は粗末な平膳でした。板の間にあい膳を並べて,ありあわせのものに腰かけてである37)。言うまでもなく,農村社会で各家族を代表する人は家長だけである。このように家長は特別な地位にあったが,婿養子の場合には少し事情が異なる。土地相続者が女であったから,普通の場合より妻の地位が高かった。
 家長が特別に高い地位にあった一方,他方では対照的に妻の地位は低かった。姑に仕え,夫の命令に従った。朝は一番に起き,夜も遅くまで働いた。忍苦の生活である。最大の楽しみは子どもの成長をみることであった。女がどの家に属するかは,死んでみなければわからない,とまで言われた。忍苦の生活に耐えられなく,実家に戻る可能性を示唆した表現である。しかし,実際には離婚はほとんどなかった。このように低い妻の地位も,家産としての土地との関係による。家の永続を象徴する土地にとって,嫁はまったく他所者であるからである。嫁入り時の妻は,夫の家にとってまったく曖昧な存在であり,常に可能性としての他人性をひそかにもつ。この曖昧な存在から家の者になりきるためには,家の土地を相続する子どもの成長を待たねばならない。しかし,他所者である嫁が家の者である母になる過程で,家のしきたりが変化する可能性があり,永続する家は外的諸条件の変化に柔軟に対応する可能性が与えられて,形骸化を免れた。他所者出身の嫁と固定的で変化しにくい土地との間で,家は永続しえたからである。超世代的に連続する家は嫁の犠牲のもとではじめて可能であった。
 長男は家長として家の土地を相続した。次三男は他出せねばならない。新宅(分家)である。本家が相応の土地を所有していれば,新宅は5反前後の土地を贈与された。新宅の夫婦が本家の仕事に2~3年働いた後にである。この贈与された土地は,本家と新宅を結びつけ,新宅は本家に従う地位に立つ。本家と新宅は拡大した家の構成員として協力しあう。農作業の手伝いなどである。年中行事でも,たとえば正月,新宅が本家に出向いて挨拶し,ご馳走を受ける。餅,うどんなど,儀礼的食事をする。盆の行事では共通の先祖をまつる。冬のオクンチ(12月15日)では,堀の鮒と里芋,大根,蓮根を煮て,本家も新宅も互いにご馳走を出した38)。共同労働とともに,年中行事さらには冠婚葬祭を通して,本家と新宅の間は親密に相互に関係づけられる。一家族だけでは容易に自立し難いが,共通の先祖をもつ新宅との協力において,家の永続が可能となるのである。しかし世代を重ねれば,新宅は遠い親戚になり,やがては他人同然となる。かわって,新しい新宅が設けられる。嫁は他所者から家の者への過程を経験するが,新宅は家の者から他所者への始まりである。こうして家の固定化は避けられる。
 家産としての土地を媒介として家が永続する過程について議論したが,宗教がこの過程を究極的に正当化する39)。家の宗教としての仏教である。各家は必ず特定の寺院の檀家である。個人の判断で特定の宗派を選択したのではけっしてなく,個人は必ず生れついた家が属する宗派の信徒である。個人が選択する余地はない。家の先祖の墓は檀那寺にあり,先祖の供養は寺院によって営まれる。自分の家屋での葬式,法事も檀那寺からの出張である。寺院は先祖崇拝の制度化である。寺院では年何回か法話の機会がある。とくに,真宗は法話をよくする。法話の上手な人が他所から招かれる。法話は仏の広大無辺な慈悲を論じ,ただひたすらに仏の恩に感謝することが説かれる。仏の恩は祖先への恩に重なる。あるいは,先祖への想いが仏という普遍な存在に高められる,と言ってもよい。こうして,感謝の気持をもって,今日一日を励むことが人々に納得される。仏によって正当であると意味づけられた苦労は,もはや耐えがたい苦労ではなくなる。
 寺院での法会には,とくに老人と女性の出席が多かった。年をとるにしたがって,人々は祖先に対する感謝の念を深め,仏の慈悲にすがって生きる気持を強める。現在,自分が先祖を供養するように,将来,自分もまた子孫から供養されることを期待する。家が永続する限りはである。したがって,どうしても家の永続が図られねばならない。家が断絶してしまえば,供養する人のない無縁仏になってしまうからである。女性の犠牲の上に,家が永続したことを前述したが,寺院の法会は女性の楽しみでもある。ご馳走を用意して,寺院で食事した。法話もまた女性を感銘させた。布教師は人情の機微をよく心得ていて,独自の節をつけて訴えた。すなわち,法会は究極的な人生の意味を説くとともに,娯楽の場でもあった。
 寺院での娯楽もまた日常の苦労を慰める機能をもつ。信仰と娯楽を兼ねる寺院は,本山詣でにその最高の機能を発揮した。農村社会の寺院は,いずれも本山の末寺である。たとえば,佐賀平坦部農村社会でもっとも広く勢力をもつ真宗では,農村社会の寺院はすべて佐賀市の願正寺の末寺である。報恩講の際に,願正寺に参ることは人々の大きな楽しみであった。さらに願正寺は京都西本願寺に連なる末寺である。禅宗寺院ならば福井永平寺,天台宗ならば比叡山延暦寺が,それぞれ総本山である。人々にとって,これら本山詣りは一生の晴れの願いであった。講で費用を積立て,何日も旅した。地理的にも,寺院は人々を農村社会の限られた狭い生活領域から解放したのである。
 農村社会の日常生活を成立させるに必要な非日常の生活領域の中で,このように大きな分野を寺院は占めた。しかし,寺院経済は檀家の寄進で成立つ。原理的には寄進は自主的なものであるが,制度化した寺院にとって,寄進はなかば強制的にならざるをえない。大法要など,大きな行事の際,寄進が要請される。寄進の額はすべて本堂に書き出され,誰がどれだけ寄進したかすべて明かにされる。したがって,檀家は各自の経済状態,社会的評価に相応の寄進をせねばならない。真宗の場合,寺院の子弟が竜谷大学に入学すれば,檀家がその学資を負担した。寺院が非日常的領域で果す機能が,農村社会の日常生活を存続させるために不可欠であったからである。
 家産としての土地を視点として,超世代的に連続する家についてみた。家族構成員は土地を媒介に先祖と超世代的に関係する。他方,土地が家産として私的に所有されることから,土地は家族と他の家族とを競争関係にたたせた。しかしながら,農村社会では,一家族だけでは完全な自立はできない。新宅をはじめとする親戚関係が必要である。くわえて,隣り近所との協力関係も不可欠である。すなわち,土地は農村社会の各家族を競争関係にたたせると同時に,強力な協力関係をも必然的に要請する。親戚との関係より,むしろ隣り近所との関係が重要である場合はしばしばある。場合場合によって,親戚あるいは隣り近所との関係が使いわけられる。隣り近所関係について少しみておこう。
 各家族が土地を個別に私的に所有するが,土地は水の供給がなければ水田としての用をなさない。前述したクリークの水である。クリークの水は,部落を構成単位とする水利組合が共同で管理する。明治28年の川副普通水利組合の資料によれば,北川副村8個,東川副村28個,新北村15個,南川副村129個,西川副村49個,合計254個の木樋,石樋,石戸立が組合管理地域にあった。これら施設の維持・管理は番人が専業的に当った。番人には組合から給与が支給される。
 筑後川から逆流する淡水をクリークに導入して,一定の水位を保ちながらクリークを貯水池として使うためには,経験を積んで,クリークの水利状況に精しい知識をもつ人物が必要である40)。このように,部落構成員全員が加入する水利組合を媒介として,各家族の土地は,水田として機能することが可能となる。クリークの水位は,本来的に,部落が共同で管理するしか方法はない。クリークの水は農業用水だけでなく,各種生活用水にも使われる。クリークの水を共同利用することで,隣り近所は身近かに協力しあったのである。
 クリークの水への依存は,水位を一定に保つことにとどまらない。沈澱する堀を浚って,クリークの貯水能力の減少を防がねばならない。泥土揚げである。
 泥土揚げは,泥土をゴミということから,ゴミクイとも言われる。秋の収穫後,クリークの水を樋門から落してしまう。冬季は,溜まり水が残るだけで,水の流れもなくなる。2月,この溜まり水を汲み上げ,クリークの底に沈澱した泥土を浚える。この作業は,近隣7~8戸の家族が共同で行なう。20人位の人手であるが,まかないの女性を含めれば,さらに多い人数の参加である。厳寒,腰まで泥水につかる作業はきつい。クリーク底の泥土は,いったん,中間の溜り場まで上げ,さらに田面に上げる。クリークの泥を浚う人,田面に上げる人,足場の丸太を組む人など,すべて分業にもとづく共同作業である。作業の最終日の夜,堀でとれた魚を料理し,餅をついて,仕事仕舞いを祝う。作業に参加したすべての人が共食した41)。
 クリークの底から上げられた泥土は多くの有機質を含み,近くに採草地のないクリーク地域の稲作にとって,たいへん貴重な肥料となる。泥土を施した水田は,5年間,無肥料で満作であるとまで言われた。すなわち,水田の地力もまた隣り近所との共同作業で支えられたのである42)。この泥土は,クリークに接する水田の所有者に帰したが,泥土揚げしたクリークの坪数に応じて,水田所有者は1坪当り幾らと一定の金額を作業した人々に払った。したがって,作業した土地所有者は,一方では金を支払い,一方では金を受取った。土地所有の規模の大きい人は支払い分が多くなり,零細な所有者は受取り分が多くなるはずである。すなわち,泥土揚げ負担の均等化がある程度まで図られていた43)。
 クリークの水位調節と泥土揚げが,部落を単位とする協力関係のもとで実施されることをみた。隣り近所との密接な協力関係なしには,個別農家は生活の基盤である稲作が不可能となる。しかしながら,クリークに貯溜された水の利用については,各家族が自由に自分の水田に揚水できるのである。この結果,前述の部落単位の規制があるものの,実際には,各家族の農業用水の利用は大変自由である。筑後川から逆流する淡水があり,クリークの水量は十分にあったからである。一定の限られた水量を平等に分配する溜池灌漑とも,流下する水を分配する河川灌漑とも,クリークはまったく異なる灌漑様式にあると言える。すなわち,部落による集団的な規制はあっても,各家族の個別的水利用が大幅に認められ,行なわれていることである44)。
 隣り近所との協力関係は,クリークの維持・管理とか農作業にとどまらない。生活全般にわたる。小路,茶講内による相互扶助である。小路は隣接する10~20戸を単位とする組織で,部落内の位置関係から,たとえば東小路と呼ばれる。小路の中に茶講内の組がいくつかある。この茶講内の機能は非常に大切である。急病人の場合,医者を迎えにいく。出産後の家事手伝い,葬式の手伝いなど,すべて茶講内の仕事である45)。茶講内は一つの生活共同体である。かつて,各戸に風呂がなかった時,5~10戸の家族は共同で風呂に入った。まず,すべて男性が入浴しその後,女性が入浴した46)。入浴までも隣り近所の相互扶助であった。一家族の生活にとって,親戚以上に頼らねばならない組織である。したがって,一方では隣り近所と強い競争関係にあるが,他方,隣り近所と親しく交際せねばならない。不用意に波風を立ててはいけないし,他人に陰口を言われないように振舞わねばならない。
 たとえば,なにか行事の際,相応とみられる額より低い寄付をすれば,「コスカ」と言われる。「コスカ」の程度がひどければ,「ドッコスカ」である。少しでも土地所有を増やすために営々と貯金するが,「コスカ」であってはいけないのである。こうして,茶講内,さらには部落の共同体的社会関係は維持される。これは生活共同体である。部落の共同体的性格は,農業生産よりも,むしろ生産以外の生活全般の共同性において発揮される。共同飲食の機会である。
 部落単位の年中行事は春夏秋冬に分れていくつもあるが,部落によって相当に異なる。たとえば,近接する千代田町,川副町,芦刈町でも,細かくみれば行事内容は異なるし,一方にあって他方にない行事もある47)。しかし,祇園は各地で行なわれた。7月の暑い最中の夏祭りである。各家族とも酒,餅,うどんで親戚・知人をご馳走した。夜,神社の境内に提灯をつるし,若者組主催の浪曲,踊りがあった。神社,参道の両側に氷,飴湯,オコシ,アメガタなどの露店が並び,人々で賑わった48)。
冬には霜月祭りがある。11月下旬から12上旬までの間に行なわれる。10~15戸位が祭り組をつくり,当番の家族は亭主と呼ばれ,祭りの主人役である。まず,祭りの前祭,当番の家に祭り組の家長全員が集まり,酒を飲む。祭りの当日,朝食はおこわと塩いわし,組のすべての人が加わって食事する。畳食は,男は酒宴,女は御飯を食べた。この昼食の内容は慣習で厳重に定められ,文書化されている。夜はカメ洗いで,祭り組の家長は集まって酒宴し,来年度の当番に当る人に神社行事と食事に関する規約を書いたものを渡す。この祭りに関する費用は,祭り組が共有する祭り田からの収益でまかなわれる49)。祭り田は祭り組の共同体としての性格を,永く維持させているのである。
 部落の中にはいろいろな講があり,多様な仕方で人々を結びつける。伊勢講,権現講,庚申講,八天講,日待ち講,月待ち講,観音講などである。各講ともそれぞれ独自の活動をしている。たとえば,権現講は英彦山詣りの講である。春先の農閑期に講仲間の代表が英彦山権現を参り,帰りにお札,飯杓,英彦山カラガラ(魔除け)を持ち,講仲間に配る。英彦山に参詣する人の家族は茶断ちをし,陰膳をして無事を祈った50)。観音講は娘たちの講である。毎月,17日,輪番で決められた当番の家に集まり,各自米2~2.5合を持ち寄った。昔は男女交際のきっかけが生じる場でもあった。社交娯楽的性格が強い講である51)。観音講に限らず,すべての講には娯楽的要素があり,食事を共にする楽しみがあった。上述したように,この楽しみが部落の共同体的性格を生み出しているのである。
 部落は共同体的性格を持つから,当然,部落の境界は明確にされている。たとえば,クリークの真中が境界である場合でも,他部落の人が,この境界を侵せば,たいへんな争いとなる。部落の境界は,大般若経転読の行事においても明瞭に指示される。毎年,正,5,9月の各25日に大般若経が神社で転読される。魔除けである。この際,部落の入口と出口にしめ縄を張り,お札を立てる52)。魔性の存在は部落の中に入って来れない。すなわち,共同体としての部落はそれが領有する一定の土地と不可分に共存し,神社を中心とする超越する力で守護される。このことは家族の場合と酷似する。制度としての家は家産としての土地と不可分であり,家の永続は仏教によって正当化され,護られる。

Ⅲ 訪れる者から商人へ

佐賀平坦部農村においても、農村外部からやってきて,人々の日常生活に活気と楽しみを与える訪れる人々はいた。山伏,祭文語り,旅芝居などである。
 山伏はヤンボシ(山法師)さんと呼ばれ,正月,法螺貝を持って,農村の家々を廻った。英彦山の修験者で,毎年やってきた。山伏は戸口で祝言を唱えた。家の人はバケツに水を一杯用意して、山伏にかける。水は清浄と豊饒の象徴である。寒い季節にもかかわらず,山伏はびしょ濡れになりながら,一軒一軒訪れる。各家は米をお礼として差し上げる。権現講で英彦山の山伏と農村社会の人々はよく知り合っていて、春秋にも山伏は農村を訪れた。秋の収穫後はコメホーガ(米奉加),春はムギホーガ(麦奉加)を差し上げた。山伏は各家で経文を唱えた53)。
 人々の信仰厚い英彦山で修業を積んだ山伏は,農村社会の生活を守護し,禍いを祓い,幸福をもたらす呪術者である。徹底的に現世利益の信仰である。しかしながら,日常生活の安全を守るものと信じられ,一定の社会的役割を果してはいるが,山伏は超越的能力者とはみられていない。前年度の報告で触れた旅僧,すなわち人々の想像力の中で行基とされたカリスマ的な行者はすでに存在しない。山伏には新たな歴史をつくる契機はなく,水でびしょ濡れになる正月行事も,他の多くの行事と同じく呪術的なお祓いからたんなる見世物に変る可能性を実現しつつある。
 農村社会の外部から訪れる人々の中でまったく娯楽を演じる事例は祭文語りと狂言である。祭文は浪曲である。農閑期,刈取り後の水田に竹と莚で小屋を建て,人々はドテラを着て,藁の上に座り祭文を聞いた。「義士銘々伝」,「幡随院長兵衛」など,馴染みの仇討,孝行,義理人情,勧善懲悪がテーマである。笑いと涙を流し,人々は祭文を楽しんだ。狂言も大きな楽しみで,旅廻りの一座が莚囲いの小屋で芝居をした。人気役者の名を染めぬいた幟を小屋のまわりに立て,太鼓をたたきながら,開演時刻,演し物,役者名などを口にして賑かにふれ廻る。演し物は祭文と共通で,曽我兄弟,お軽勘平,高田馬場の仇討,壼坂霊験記などである。狂言祭文もある。舞台の袖から祭文語りが三味線にのって場面と筋を説明し,この語りに合わせて役者が芝居を演じる。
 農閑期だけでなく,神社の春祭りでも,境内の籠堂で狂言祭文が演じられた。人々は持参のご馳走を食べながら,夜更けまで芝居を楽しんだ54)。しかしながら,舞台の上では神仏の霊力が演じられていても,役者には呪術的超能力はない。かつて旅僧がもった神秘的な雰囲気を,もはや旅芸人はもつことはない。当然,新しい歴史を創るカリスマ性もない。このように歴史変革の契機はないが,非日常の場をかりそめにつくり,旅芸人は農家の日常生活の疲れをもみほぐした。かりそめにせよ,舞台の上に非日常の世界をつくりだすことでは,まさしく旅芸人は旅僧の流れを継ぐ。
しかし,主要な富としての土地が人と人の間を強固に結びつけている農村社会では,社会外部から訪れる人は一定の社会的役割を果しても,いわば流れ者であり,あるいは乞食でしかない。したがって,新しい歴史をつくるカリスマ性を発揮することはありえない。かつてのカリスマ性は流れ者のどこかうさんくさい感じに変った。
 土地を基盤とする農村社会は,かつて外部から訪れる者が担った超越的霊力を芸能化した。毎年,10月,神社に奉じられる浮立(風流)である。鬼の面をかぶった人が舞いをし,鉦と太鼓ではやしたてる。鬼は神秘的な超越的霊力を象徴する。農村社会の外部から内部に取入れられた鬼の力で,悪疫が退けられ,同時に農作とか水乞いが図られる55)。神秘的な旅僧による困難事の成就と類似の構造である。前述の山伏の正月行事も同じである。土地が象徴のレベルでも農村社会の生活を守護することが確立しているから,外部から訪れる旅僧は流れ者として排除され,かわって祭りの芸能を自らの中に農村社会は創りだしたのである。
 山伏とか旅芸人がつかのまの非日常の場をつくりだして,特定の土地を基盤とする人々の生活に緊張と楽しみを与えたことをみた。しかし,これら訪れる人々が新たに社会を変える契機とはなりえなかった。精々,社会全体ではなくて,個人に大きな影響を与え,この個人の将来を大きく狂わせる程度であった。これら外部から訪れる人々にかわって,決定的な変化を社会にもたらす存在が登場する。商人である。商人も農村社会の外部に存在し,商業活動を通して農村社会の内部に深く関わる。外部から訪れるものの一つの亜種である。すなわち,旅僧が担った超越的神秘力は商人が担う貨幣に変換する。まず農村社会内部の交易と貨幣についてみておこう。
 農村社会での商業活動は非常に少なかった。川副町の農村では,明治43年においても,店舗を開いて商業を営む事例は非常に少ない。商業活動の多くは行商であったが,行商の地域的範囲も規模もごく限られていた56)。行商が扱う商品は,おもに海産物,家庭薬(入れ薬),呉服物,日用品である。呉服物,家庭薬は風呂敷で包んで背負って来たが,海産物は天秤棒でかついで,ふれ売りした57)。しかし,行商との取引にはほとんど貨幣は使われない。いわゆる物々交換で,農家は米麦,さらには自家製鶏卵をも支払い手段に使った。とくに米が重要である。たとえば,塩鰯,塩鯖,塩鯨については,3斤と米1升が交換された。麦はうどん屋に渡しておいて,必要時にうどんを受取った58)。前述の山伏への奉加も米と麦である。すなわち,農村社会内部での取引には米を主とし,くわえて,麦,鶏卵,その他自家製品が補助的に使われた。この取引の場合,米は明らかに貨幣の役割を果している。いわば米は支払いという一つの目的に限定された貨幣である59)。金銀のような一般的貨幣ではないが,限られた地域内での商業取引の支払いには米は十分に機能し得た。稲作に使われた年雇に対する支払いも米であることが多かった60)。漁村からの魚の行商に対する米の支払いは,ずっと後まで残り,戦争中も広く行なわれていた。
 このように,米は単純に食糧であるだけでなく,支払い手段でもあったことは,米が富の一形態であることにもとづく。人々の生活を保証し守護するものとしての富,すなわち米には,生物学的な生命維持手段を超える神秘的な意味づけがなされる。神聖化されるのである。米を粗末に食べ残してはいけないとか,米俵の上に腰をかけるな,などは子どもたちに対するもっとも厳しい躾けであった。米を粗末に扱うと罰が当ると子どもたちは叱られた。米に対する呪物信仰である。米の神聖視は年中行事においてもしばしば演じられる。たとえば,正月の餅である。神棚,仏壇,座敷,荒神,農具類,馬小屋,船に供えられる。餅つきの際には,子どもたちは外に追いやられる61)。
 神事の一つである餅は,人々と神仏の間を媒介する。餅を食べて人々は新たなエネルギーを身内に得る。日常生活の疲れから生活を活性させる正月行事に適しい食物である。正月に限らず,祝事にはおこわと餅はつきものである。餅のもつ神秘的な力が人々のエネルギーに変換されるからである=62)。人々と神仏の間を媒介する餅は,一定の社会関係の形成をも確認する。新たに嫁をもらった家は,餅をついて,12月31日,鰤と一緒に嫁の実家に贈った。帰路,嫁は一回り小さい代り餅を婚家に持ち帰る63)。
 さらに,米に対する呪物信仰の一つとして粥占いがあって,同15日に粥を炊き,この粥を3月15日まで神社に保管する。かびの付き具合で年占いする。かびの色が赤ならば火事と怪我,青であれば流行病,干からびれば干魃,かびの上に粒々の粒子がたくさんつけば豊作と占われる64)。このように,米が多様な仕方で呪物信仰視されているからこそ,行商がもたらす物であれ,山伏のサービスであれ,受けとった物とサービスにもとづく借りを米支払いで無くすことが可能であった。たんなる食料としての有用性だけではないであろう。
 食糧としての有用性と呪物崇拝が結びついて,農村社会内部では米が有力な支払い手段であることをみたが,土地はさらに重要な支払い手段である。前述したように,土地はもっとも重要な富であるから,もっとも強力な支払い手段としての土地は,農業生産の基盤であるとともに,呪物崇拝の対象でもある。家産と先祖崇拝との結びつきについてはすでにみた。農業生産においても,田の神がまつられる。たとえば,田植えの当日,餅米を混ぜた「田の神さん握り飯」がつくられ,くどと荒神さんに供えられる。馬使い,田植えの加勢人の昼飯にもだされる65)。土地に対する崇拝が米に対する呪物崇拝と重なる。本来的に,米は土地の生産物であり,田の神信仰と対応する土地生産力の成果である。米の呪物性と土地の呪物性は容易に重なる。富としての土地が生み出す利子が米であるとも農民は言う。
 土地が多様な仕方で人々の生活に関わることに応じて,土地の呪物性も多様の形態をとる66)。家屋を建てる際にも,土地に神酒を供え,祭文をよむ67)。このような富としての土地の呪物性は,土地をもっとも重要な支払い手段とする。すなわち,土地は最高の限定的貨幣として機能する。一般的貨幣,あるいは米と異なって,土地は不動である。しかし,土地所有者の変更は,あたかも土地が移動したかのように社会的には現象する。自然としての土地は不動であるが,社会的には人と人の間を土地が移動して,旧い借りが支払い清算されるか,あるいは新たな借りがつくりだされる。人々の間の社会関係の更新である。
 さきに,家制度の関連で新宅についてみた。新宅は本家に対して借りのある状態である。借りのある状態であるからこそ,本家・新宅は上下関係にあるのである。土地移動が借りを負った状態をつくる事例は多い。地主・小作制度はその一事例である。この場合,土地所有権の変更はないが,一定の条件のもとで土地耕作者が変る。地主から小作人へと土地耕作者が変ることは,小作人が地主に借りを負った状態をつくり出す。小作料の支払いは経済的にこの借りの解消を意味するはずであるが,社会心理的には小作人が地主に借りを負っている状態が続く。
 別の事例では,累積した負債の清算は,ほとんどの場合,所有地の売却で済まされる。土地移動である。日常的な小さな借りは,米あるいは労働で支払われるが,しかし,多額の負債はとても米では清算しきれない。米をいわば利子仁して産出する土地が,最終的な支払い手段として登場する。この結果,限定的貨幣,すなわち土地と一般的貨幣の交換がなされる。しかしながら,これまでみてきたように,自然物としての土地がただちに一般的貨幣と交換されるのではない。まず,土地は最重要な富としてあり,限定的貨幣として局地的に機能していた。限定的貨幣としての土地と普遍的な富を象徴する一般的貨幣との間に交換が行なわれるのである。両者は富であることにおいて共通する。土地も貨幣も,ともに富であるが,富の背後には,農村社会外部の他界からの霊力が潜む。守護神あるいは旅僧が象徴した力である。
 これまで論じてきて米と土地は,地理的にも,使用目的においても,限定的貨幣である。すなわち,農村社会内部だけの貨幣である。しかしながら,農村社会はけっして孤立してはいない。山伏,旅芸人,行商など,外部から農村社会に訪れる人々は多かった。農村社会の人々も本山詣り講など,多くの機会に他所を旅した。さらに,他の農村社会,近接の町とも一定の社会関係をもつ。部落の明確な地理的であると同時に社会学的境界を往来したこれらの人々の中で,とくに町に住む商人は決定的な影響を農村社会に与えてゆく。
 商人は一般的貨幣の所有者であり,多くは米商人であるとともに金融業,酒造業,肥料商などを兼ねた。米が農村社会の境界の外部に出ることが米の商品化であり,境界の外部から入る一般的貨幣と土地との交換が土地の商品化である。依然として,土地は農村社会の中に位置していても,土地所有者は境界の外部に流出してしまう。言うまでもなく,米の商品化も土地の商品化も、境界の内外という視点から本稿は述べているだけであり,具体的にどのような商品化が起るかは,境界内部の農村社会の諸事情に条件づけられる。しかし,どのような商品化であろうとも,外部との関係という契機がなければ,商品化という社会現象は起りにくいであろう。
 商人が農村社会内部にもたらす貨幣は,米,土地のような限定的貨幣とは異なって,局地的に限定されることもない。一般的貨幣である。農村社会と他の農村社会,あるいは農村社会と町との商業取引には,限定された貨幣では取引は成立し難い。必然的に,一般的貨幣が要請される。素材それ自身がもつ特定の使用目的,たとえば食料に制約されることのない貨幣である。このものは貨幣であるとする一般的な承認,あるいは信念だけが貨幣の条件でみる68)。したがって,必ず一般的貨幣は農村社会の外部から内部に向かって機能することになり,農村社会内部だけで使われる限定的貨幣と交換される。しかし,いったん,一般的貨幣が農村社会内部に入ってしまえば,一般的貨幣がこれまで機能していた限定的貨幣にとってかわって用いられる傾向が発生する。
 この限定的貨幣から一般的貨幣への移行行過程において,一般的貨幣は強い呪物性を農村社会内部の人々に顕示する。たんなる商業取引の手段を超越する特別な感情を人々に喚起させる。たとえば,貨幣をかめに入れて床下に埋める。盗難を怖れたためだけでなく,貨幣に特別に感情が捧げられたからである。現在でも,時に,旧家屋跡と目される地中から,かめに入った貨幣が偶然に掘り出されることがあるという。家長が家族の誰にも告げることなく,特別視された貨幣はひそかに地中に埋められた。明治以降も,多く貨幣は仏壇の下にしまわれた。仏壇は家屋の中の聖所である。
 一般的貨幣が,限定的貨幣にとってかわる過程が終了すれば,この貨幣の顕示的な呪物性はなくなる。一般的には,戦後の農地改革後,農家が農協に預金するようになってから,貨幣の呪物性は消えたようである。しかし,貨幣の顕示的な呪物性はなくなっても,貨幣が信念体系を条件とする限り,潜在的には呪物性は存続する。現在でも,神棚の大黒像の傍に,穴あき銭(寛永通宝)がそえられている69)。穴あき銭は農作儀礼の対象であり,強い呪物性をもつ。
 新たな呪物性を帯びた一般的貨幣を農村社会内部に持込んだのは米商人であった。たとえば,干拓地域では,御用商人弥富家が大きな影響力をもった。弥富家は鍋島藩の武士であったが,商人となり,早津江に移住した。御蔵米の積出し港である。弥富家は千石船をもち,廻船問屋,米問屋として栄えると同時に,質屋,金貸し,酒造業をも営んだ。幕末までに40余町の土地を所有した70)。
 災害・凶作による農村社会の経済困難が米商人,金貸しの土地集積の契機であった。干拓地域では高潮の被害が大きい。たとえば,寛政4年(1792)の大風と蝗害,文化元年(1804)の大風洪水,文化13年(1816)の大風・高潮,文政5年(1822)の大風・高潮,文政11年(1828)の大風と高潮である。自然災害はただちに凶作と結びつく。被害を蒙った農家は,食糧としての米を得るためにも,土地を手放した。日雇いになるか,あるいは旧所有地の小作人となって新地主に加地子(小作料)を払った71)。藩に納めるべき年貢米が不足して,米商人から村借りで借米することもある72)。災害も藩の貢租も農村社会外部からもたらされた。同様に,農村社会外部から,商人は一方で農家に救いの手を出し,他方では農家の家産を奪った。
 家産としての土地が確立していない社会では,カリスマ性を帯びた旅僧による救済と,旅僧に対するもてなしと供養があった。旅僧と商人は対応するであろう。商人は俗化した旅僧であり,旅僧のカリスマ性は貨幣の呪物性に対応する。しかし,商人への土地集積は農村社会内部が貨幣流通で満たされることではけっしてない。貨幣は農村社会の内外部を媒介するだけである。農村社会内部では,前述の米が主要な支払い手段であり続けた。
 災害・凶作による農村社会の経済荒廃は,小作人・日雇いのほかに,雑業層をも増大させた。零細商業,行商,漁師,船頭,馬使いなどである73)。土地を基盤とする相対的に自立して変化しにくい農村社会が,貨幣で表現される農村社会外部からの働きかけと交渉して,家産としての土地を所有しない階層,すなわち雑業層をつくり出した。このような農村社会内部の変化に対抗して,天保13年(1842)より加地子猶子,嘉永5年(1852)と文久元年(1861)には旧小作地を旧地主と耕作者に返還させた。すなわち,いわゆる佐賀の均田制度で,年貢を負担する土地所有者としての農家を保護した政策である74)。
 明治維新後,再び米商人,金貸しへの土地集積が始まる。地租改正による高率地租,明治10年代の低米価が農家の経済生活を逼迫させ,金貸しのもとに土地が流れた。抵当流れである。農村社会内部に貨幣が充分に流通して,経済が市場経済化したのではない。むしろ逆である。農村社会内部で米が主要な支払い手段であり続けていたにもかかわらず,農村社会外部から高率の地租と低米価を押しつけられたためである。10年代より明治末までに,広範囲に地主制が形成される。さきの弥富家の事例では,明治10年頃は40町の所有であったが,40年代には233町にも拡大した。弥富家はとびぬけて大規模な地主であったが,他の地主もほぼ同じ傾向をもって土地を集積した75)。
 大地主は農村社会に差配人を置いて,小作料の徴収に当らせた。差配人には1俵につき米5合を手当てとして与えた76)。小作料は地域により,ある程度の幅をもって異なるが,おおよそ収穫の50%前後である。このような高率小作料は地主に大きな収入をもたらした。明治20年(1887)の弥富家の事例では,全収入の約3分の1を小作料が占める。貸付金利子もほぼ同じ程度の割合である。しかし米販売の収益は小作料の20分の1以下にすぎないのである77)。弥富家に集荷される米の量においても,明治19年では,小作米は全体の約3分の1をも占め,残り約3分の2は専属仲買人が近くの農村から買い集めた78)。明治末までに弥富家は米の買付けを止め,もっぱら小作米を市場で販売するだけとなる。大正初め,1万3千俵の小作米を佐賀の米問屋に売渡した。佐賀米は阪神市場に確実な販路をもっていた79)。弥富家は米商人として出発したが,いまや米商人をやめ,完全に地主に変った。
 上述の弥富家は,いわゆる寄生地主の一典型である。土地は富の象徴であることによって,限定的貨幣として局地的に機能した。災害,租税,低米価など、農村社会外部で決まることがらが契機となって,限定的貨幣は一般的貨幣と交換された。一般的貨幣が農村社会の内部に入ることに対して,土地所有権は外部に出た。この動きは,米の商品化と重なった。しかし,土地所有権は移動したが,土地そのものは農村社会内部にあり,富の象徴であることには変りなかった。したがって,新たな土地所有者から土地を借りて小作することは,小作人の大きな社会心理的な借りである。土地生産性が許す範囲において,小作料は高率となる傾向をおのずからもつ。土地は富であるから,単純に土地を生産の要素として規定して,経済計算の対象にすることはできない。富は経済計算の枠をはみだす。土地の稀少性だけが高率小作料の主要な原因ではなかろうか。さらに,地主と小作人との間柄は,明瞭な上下関係で,単純な経済的貸惜関係ではなかった。地主の温情で小作人が耕作できると言われた。
 一般的貨幣が農村社会内部で普及することは,農村社会が市場経済化されることである。しかし,この市場経済化は,従来の限定的貨幣による交易を一つの不可欠な基盤として展開される。したがって,土地と米が主要な限定的貨幣による交易がある程度以上に盛んであることが,一般的貨幣の流通にとって必要な前提条件となる。すなわち,日本農村社会では,土地と米を支払い手段とする交易が活発であったことが,自生的な市場経済の展開の前提となった。したがって,土地と米が主要な限定的貨幣であった農村社会においては,市場経済化の過程においても,土地と米の象徴作用が強く機能することになる。同じく農村社会の市場経済化でも,社会によって多様な形態と過程をとりうるであろう。日本農村社会の市場経済化にみられる土地の象徴作用の強さ,すなわち土地所有の強大にして多様な機能は,他の社会と比較する場合の日本の特徴である。この特徴を封建遺制と規定することは出来ないであろう。封建権力の残存によって説明できることではないからである。

Ⅳ いわゆる佐賀段階への到達

 限定的貨幣としての土地が一般的貨幣と交換されて,最終的に寄生地主制が形成されることをみた。しかし,言うまでもなく,すべての土地が寄生地主の所有に帰するのではない。自作地として農村社会内部にも多くの土地は残った。この場合,たいへん興味あることが生起することになる。すなわち,家産としての土地と一般的貨幣が結合して,非常に生産性の高い稲作が実現する。いわゆる佐賀段階と言われる日本稲作の画期となった高い生産力段階である。
 これまで佐賀段階について尨大な議論が行なわれてきた。日本農業の資本主義的発展の中で佐賀段階をどのように位置づけるかが問題であった。しかし,本稿は土地と貨幣の象徴作用という視点からのみ論述を進めたい。いわゆる封建論争については,本稿は関説する意図をもたない。
 佐賀段階は次の二つのことで特徴づけられよう80)。
 1 比較的耕地規模が大きく,土地生産性が高い。固定資本(機械)集約の方向にあって,労働生産性も高い。この特徴は,東北型とされる極度の労働集約性と低い土地生産性の稲作と明かに相違する。近畿型とも異なる。近畿型は,小規模の耕地を流動資本(肥料)集約的に用い,高い土地生産性をあげる。これら諸類型は明治から昭和初期にいたる特徴である。
 2 佐賀段階の達成は,いわゆる自小作前進といわれる過程で実現する。自小作前進とは,まず年雇あるいは零細小作人として出発した農家が,営々努力して小作地を拡大する。小作地経営の剰余で自作地を獲得し,さらに経営を拡大する。小作人は自作農となって安定する。しかし,やがて家長が老齢となる。この場合,後継者の他出,病気その他の理由により,家族経営は崩壊する。すなわち,自作農は地主になるか土地を失うかである。再び,小作人から始まることになる。
 以上に要約した佐賀段階は,電気灌漑の開始を契機として実現された。大正11年(1922),大井手普通水利組合が灌漑施設工事に着手,同12年に完成し,電気灌漑が実現した。灌漑面積4224町である。固定設備費の大部分は勧業銀行から調達された81)。この電気灌漑の実現は,クリーク地域の稲作を多方面にわたって画期的に変化させた。
 第一に,足踏水車を不用とし,苦しい揚水労働から農家を解放した。クリークは,当然田面より低い。したがって,クリークの水を垂直に上げて,田面に灌漑しなければならない。災天下,水車を踏んで,広い田面に水を揚げるには多くの労働力を必要とした。しかも苦しい仕事である。次のような聞書きがある。
 ・・・・・・・平坦部ノ農家ニハ嫁ニハヤラヌトマデイワレマシタ。ソレハ傘ヲサシテ子供マデ水車ヲ踏マセナケレバヤッテイケナイカラトイウワケデス。本当ニ水車踏ミハ大変ニキツイ仕事デ,ソノタメ冬中ニ身体ヲツクッテオカナケレバ水車踏ミハデキマセンデシタ。コノタメ薬モ沢山用意シマシタ。烏犀円ノヨウナ精分強メノ薬ガナイト身体ガモタヌノデス82)。
 電気灌漑が多量の労働力を不用にしたことは,土地に基盤を置く社会関係に,多くの影響を及ぼすことになる。
 第二に,馬耕労働を軽減し,簡単なものにした。水車揚水では,田面の水の保水にとくに注意した。水が下にもれないように,入念に田面の下の土を馬を使って犂き固めねばならない。水止めである。この作業は非常な熟練を必要とし,役馬の使い手が年雇いとして雇われる。馬使いである。電気灌漑の結果,年雇はなくなり,稲作は家族労働だけで済まされることとなる=83)。
 第三に,晩稲一期作への転換である。電気灌漑以前においては,早晩期の2期作であった。すなわち,早期の田植えは5月上・中旬で,晩期は6月上・中旬である。
両者の間に約1ヵ月の休みがある。この特異な2期作慣行は,災害の分散と労働力のピークを均らすことから行なわれた。入念な馬耕と足踏水車による揚水を同時に短期間に行なうことは困難であった84)。しかしながら,早・晩の2期作は激烈なる螟虫の被害を招いた。田植期のずれによる稲の成長期のずれが螟虫発生の原因となったからである。螟虫被害が稲作生産力の一つの主要な停滞原因ですらあった。電気灌漑による晩稲1期作への転換は,螟虫被害をほぼ完全に防ぐことになった85)。
 第四に,新品種の導入である。晩稲1期作が確立し,螟虫の被害の心配がなくなって,多収穫優良品種が急速に普及した。優良品種は多肥である。苗代の薄播き,正条植も普及した。千歯扱ぎにかわって足踏脱穀機,つづいて動力脱穀機も導入された。水田裏作の麦作も増加した86)。すなわち,電機灌漑を契機に農法は一新し,より生産性の高い技術が一貫した体系性をもって急速に普及した。佐賀段階への到達である。
 新しい農法の一般化は,当然,土地と貨幣を媒介とする社会関係の変化を伴なう。まず第一に,クリークの水を農業用水として利用するために必要であった部落共同労働が次第になくなった。クリークの水深を一定に保つために行なった泥土揚げ作業は,電気灌漑によって不必要となった。この結果,農業用水の利用に関して,部落の共同体的規制はほとんどなくなり,農家の自由な個別的水利用がほぼ完全に実現した。自由な個別的水利用は,個別の農業経営展開の基礎となる。共同体的規制に拘束されることなく,個別農業は経済合理性を求めて農業経営を行なった。経済合理性は貨幣計算のもとで追求され,貨幣の日常化が進んだ。貨幣に備わる呪術性は潜在化し,たんなる経済手段としての貨幣が流通するようになったのである。経済合理性を追求し,僅かの経済剰余も大事に蓄積して,土地購入に備えられた。
 第二に,年雇がなくなり,かわって田植え労働者が多量に流入する。クリーク地域の稲作にとって,年雇は馬使いとして非常に重要な役割を果した。年雇は多く近隣に住み,通勤で農作業に従事した。農村社会内部が,1町前後以上の耕地規模を所有する農家層と,零細な所有あるいは土地なしの農民層に分化していた。1町以上の経営者層が年雇を1~2名雇った。家族労働力の補充である。年雇は月何日という日割り計算で働いた。他県でみられた住込年季奉公人と異なって,年雇の労働力は貨幣計算されていた。しかし,年雇契約は身売奉公契約の形式である87)。すなわち,一方では共同体的な関係から自由な賃労働の特徴を備えながら,他方では,農村社会内部の共同体的な社会関係によっても,年雇は労働した。家産としての土地を基盤にして形成された農村社会内部の社会関係に支配されるから,年雇は農村社会内部の土地にとっての必要な付属物とされた。この土地への依存なしには,土地なし農民は生活できない。すなわち,年雇は人格的に土地に隷属することを意味する身売契約の形式をとった。
 しかし,電気灌漑は年雇を不要にした。一般的な賃銀の上昇も,年雇の雇用を困難にしていた。北九州における近代工業発達の影響である88)。この結果,土地なし農民など,多くの人々が農村社会内部から出て,佐世保の海軍工廠をはじめ,北九州工業地域,さらには朝鮮,中国に渡った。クリークの泥土揚げ共同労働の消滅だけでなく,年雇の形態で表現されていた農村社会内部の生産に基づく共同体的関係も急速になくなった。年雇にかわって,晩稲1期作にともなう田植え労働力のピークは,筑後川対岸など他地域から移動の労働者でまかなわれた89)。言うまでもないが,これら出稼ぎ移動労働者は,旧来の農村社会内部の社会関係とは無関係であり,自由な貨幣計算のみによって労働は行なわれた。
 第三に,家族農業経営の確立である。これまでの家族農業経営は,家産としての土地に基盤を置きながら,同時に農村社会内部の共同体的関係による補助労働をも必要としていた。しかし泥土揚げ共同労働はなくなり,年雇も消滅した。かわりに,自由な移動労働者が登場して,家族労働力を補助することになった。すなわち,農村社会内部での農業生産に関わる共同体的関係は解消し,貨幣が媒介する自由な労働力を農村社会外部から導入することが不可欠となった。この結果,貨幣を手段合理的に使用することで,家族農業経営が確立する。かつて泥土揚げで補われた肥料も,貨幣による化学肥料にかわった。
 このように,家産としての土地を基盤に,家族労働による経済合理性の追求は,僅かであっても農家に経済剰余を残す。経済剰余は貨幣で蓄積されて,土地購入資金となる。家産としての土地増大が農家の最大の名誉であり,したがって目的であったからである。家産としての土地は,農業生産の基盤である以上に家の象徴であり,農村社会内部での家の地位をも表示した。このため,農家はまさに骨身を惜しまず,寸暇を惜しんで労働した。しかしこの過重な労働は,永続する家の名誉という動機で十分に意味づけられていた。一般的に,意味のない労働は,どんな些細であっても耐えがたいが,十分に意味づけられた労働は,過重であっても成就される。こうして比較的大規模の耕地,高い生産力,意欲的に耕地規模の拡大を図る農家で特徴づけられる稲作がクリーク地域に実現する。すなわち,佐賀段階である90)。
 日本の他地方と異なって,佐賀クリーク地域においては,水田の地理的拡張が近世を通して行なわれていた。家産としての土地に手段合理的な貨幣が結合して,佐賀段階が実現したのである。手段合理的な貨幣はひとたび蓄蔵されれば呪術性を帯びる。たとえば,仏壇の下に蓄蔵されて富となる。富としての貨幣が土地と交換される。こうして貨幣の土地への変換が実現する。
 さきに寄生地主制の形成についてみた。家産としての土地が,農村社会外部の貨幣に引き寄せられて,地主のもとに土地が集積した。土地の貨幣への変換である。佐賀段階の場合,土地と貨幣の運動方向は逆である。農村社会外部の貨幣が,家産としての土地に結びついて,家族農業経営が確立した。すなわち佐賀段階と寄生地主制は,歴史変化の過程において,土地と貨幣が交渉した結果生れた2形態である。
 佐賀段階でも寄生地主制でも,いずれの場合でも,土地の象徴作用は強い。限定的貨幣として機能する土地とその生産物の活発な交易が,日本における自生的な市場経済の発達を可能にした。同時に,この条件が日本の市場経済の展開に独自の特徴を与えた。佐賀段階も寄生地主制も,市場経済発達過程における日本的特徴とすることができよう。さらに佐賀段階も寄生地主制も,抽象化すれば,土地と貨幣を要素とする1つの構造の一定の歴史段階での現われ方とみることもできよう。この構造は,歴史的にさかのぼれば,定着農民と遊行者の交渉が措定する構造である。論理的には,超越する存在に対する憑依にもとづく所有と交換によって成立する社会関係と,その物象化過程である。
 土地と貨幣が経済的有用性を基盤としながら,同時に強い象徴作用をもつことを,佐賀平坦部農村の社会史の素描によって明かにした。以下,ごく簡単に現代の問題を同じ視点から述べておきたい。
 言うまでもないが,土地と貨幣の象徴作用の具体的な現われ方は歴史的に変化する。たとえば,戦争中貨幣の機能は減少し,米が限定された貨幣として広く復活し機能した。いわゆる戦争中の物々交換である。魚,甘藷,呉服など米と交換された。
 戦後農業の出発は農地改革であった。前述の寄生地主制は,ほぼ完全に否定され,小作人に耕地は解放された。川副町の事例では,昭16年,水田の小作地は51%,畑は56%で,小作地は全耕地の51%にも及んでいた91)。畑面積は水田面積に対して僅少であるため,全耕地面積に対する小作地率には影響しない。この小作地がほとんど解放された。解放された耕地は家産としての土地になり,家族農業経営の基盤となった。しかし,戦争中の荒廃から回復し,戦前の佐賀段階の生産力水準に達するのは30年代である。稲の倒伏,クリークの荒廃,化学肥料の単用,地力減退,台風など悪条件が重なったからである92)。
 昭和40年代,再び稲作は飛躍的に生産力を高め,全国一の生産性を誇ることになる。いわゆる新佐賀段階である。新佐賀段階を可能とした農業技術は,倒伏に強い新品種の発見と普及,肥料の多用,密植栽培,適切な水管理があげられる。すなわち,新しい品種の開発を中心とした集約的栽培技術の完成である93)。この集約的技術は急速に普及した。米作近代化集団の母体は稲作モデル集団である。県・市町村・団体が指導する米の集団栽培である。このモデル集団の成果に従って,まず第1段階として実践組合が指定された。部落が基盤となる生産組合で,平均30~40戸の規模である。農業普及員,技術員の指導で,実践組合は1年間の作業日程,施肥基準などを詳細に決定する。ついで第2段階として米作近代化集団が発足する。実践組合の経験を踏まえて,作業の共同化が進められる。共同苗代,共同田植,共同の耕耘作業である。これら共同作業を遂行する過程において,集団内の分業体制も形成される。すなわち,実践組合は従来の部落組織の一部分でもある地域集団であるが,米作近代化集団は機能集団への指向性をもつにいたる94)。
 明らかに,新佐賀段階は佐賀段階とは異なる社会関係のもとで到達された。佐賀段階は,家産としての土地を基盤とする家が,手段合理的な貨幣と結びついて実現した。農家はそれぞれの家の名誉のために過重な労働をして,生産力を高めた。新佐賀段階では,米作近代化集団が大きな役割を果した。家は現在も存続しているが,戦前のように強固ではない。家族構成員が超世代的な家の存続のために,自らを犠牲にしてまでも協力することはずっと弱まった。家族構成員は,家よりは自分の生活を第一に考える傾向をもつ。したがって,農業も家の生業というより,むしろ世帯主,あるいは世帯主に代る誰か特定の人,たとえば世帯主の父母,配偶者の職業であると言ってよい。農家の子弟は家を出て他府県に就職してしまう。
 たとえば,川副町では青少年の町外就職が原因で人口減を続けており,町の人口構成は老齢化をたどる一方である95)。このような,家の弱体化による稲作の停滞を米作近代化集団は強力に補って,新佐賀段階を達成した。新しい集約的技術の画一的な適用は,兼業農家と専業農家の差を事実上なくし,稲作の生産性を画一的に引上げたからである96)。
 このような新佐賀段階は,土地と貨幣の象徴作用の変化に対応している。まず,土地についてである。依然として土地は家産であるが,家の弱体化にともなって家産意識も弱まりつつある。家の名誉のために土地増加を図る動機も弱くなった。経営規模拡大のための一手段か,あるいは財産の一形態としてみるか,どちらの場合においても,土地を先祖と結びつける意識は消えつつあるようにみえる。かつて富が所有した強力な象徴作用を資産はもたない。すなわち,土地の象徴作用は,顕在的には相当に弱まり,たんに土地は経済合理的に評価される一つの対象に変わりつつある。
 貨幣の象徴作用も,顕在的にはいちじるしく弱まった。以前のように仏壇の下に貨幣を蓄蔵する事例はまったくない。すべて農家は,農協その他近代的金融機関に預金する。すなわち,経済合理的手段としての貨幣が卓越する。新佐賀段階の技術も,すべて貨幣計算のもとで実施される。多義性を帯びた象徴より,単一の意味しかもたない記号としての貨幣への移行である。
 かつて貨幣は呪物崇拝の対象であり,多義的な象徴として機能した。現在は一義的な記号として,経済合理的に使用される。しかし,貨幣の呪術性がなくなるのではない。貨幣の呪術性は,人々の意識に内在化されていて,たんなる紙片を貨幣としてやはり信じさせる。貨幣の呪術性は,潜在化したまま経済合理性の追求に向かって人々に拍車をかける。
 貨幣の経済合理性が農業生産をまったく支配したかにみえる現在において,新たに呪術信仰が盛んである。むしろ家の宗教としての仏教は形骸化しつつある。家の弱体化は仏教,具体的には檀那寺のマンネリ化と対応する。しかし,個人化した家族構成員は,自己の幸福を求めて新たな信仰対象に向かう。家の檀那寺の停滞,部落の神社の衰退と対照的に,有名寺社は参詣する人々で混雑する。個人の現世利益である。加持祈祷,まじないも盛んである。たとえば,川副町西古賀の大蔵院は元文年代(1736~40)に創設された天台宗の寺院であるが,昭和27年にやっと本寺院に昇格した。住職は代々盲僧で,加持祈祷を行なった97)。部落の中に位置するが,檀家はまったくない。近年,この寺院が非常に繁盛している。加持祈祷による病気治し,つきもの落し,結婚の占い,子どもの命名など果す役割は多様である。自動車のお祓い,地鎮祭の出張もある。2月8日のほしまつりには多くの参詣人で賑わう。人々は,自分の意識の中の定義しがたい力を,盲僧の呪術を媒介として儀礼的に外面化させ,心の安定,あるいは清浄化を成就させているのである。
 かつて,定義しがたい超越する力は外部から訪れる旅僧が担った。さらに,芸能浮立では人々がつける鬼面が超越する力を象徴した。現代では,農村社会の内部と外部を分ける境界は稀薄となり,家も弱体化した。農村社会からも家からも,個人は相対的に自立しつつある。したがって,超越する力への祈願,あるいは自己確認は,自己の意識の周辺に拡がる定義しがたい領域に求めざるをえない。すなわち,盲僧の呪術は個人の意識と無意識の境界を媒介するドラマである。このような呪術こそ,現代に対応する宗教の一形態と言えよう。
 かつてあった農村社会の内部と外部の関係に基づく超越する神仏への祈願は,現在では個人の意識の中に取込まれ,意識と無意識の関係に変換しているとみてよいであろう98)。貨幣の呪術性の潜在も,この意識と無意識の境にである。大蔵院の繁盛は,さきにみた石祠信仰を想起させる。農村社会の境界であった堤防の傍に置かれた多くの石祠である。石祠は超越する力の取入口として機能した。すなわち,大蔵院の呪術は寺院の石祠化とみることができよう。どの寺院も石祠化するのではない。特定の檀家をもたない寺院であるからこそ大蔵院は石祠化しやすかった。有名寺社も,特定の檀家集団あるいは氏子集団をはるかに越える存在である。超越する力に対する旧い信仰が,寺院の形態を取って現代に実現する。廃れた石祠信仰と超越する力に対する現代の信仰の間に,佐賀平坦部農村社会が経験した社会変化の歴史がある。土地と貨幣の象徴作用の具体的形相の変換と不可分に対応しながら展開した社会変化である。

 注
 1)友杉 孝『溜池と社会形成―文化としての溜池―』国際連合大学,1980年。
 2)多田文男他『有明海北岸低地の地形と洪水』資源科学研究所,1966年,4ページ。
 3)同書4-5ページ。
 4)川副町誌編纂委員会『川副町誌』1979年。以下,『川副町誌」と略記。
 5)芦刈町史編さん委員会『芦刈町史』1979年。以下,『芦刈町史』と略記。
 6)『川副町誌』87ページ。『芦刈町史』20-21ページ。高城寺は佐賀県大和町にある古刹。引用の文書とその解釈は,上記の文献による。
 7)『川副町誌』89ページ。
 8)『芦刈町史』34ページ。
 9)『川副町誌』21ページ。
 『芦刈町史』35ページ。
 10)『芦刈町史』35ページ。
 11)前掲書,44ページ。
 12)『川副町誌』21ページ。
 13)『川副町誌』22-25ページ。
 『芦刈町史』38-44ページ。
 14)『芦刈町史』30ページ。筆者が中飯盛りの古老に聞取りした時にも,揚は上田であると言われた。水田の生産力が高く,その上安定的であるとされている。
 15)『川副町誌』26-27ページ。
 16)『川副町誌』39-40ページ。『芦刈町史』32ページ。
 17)『川副町誌』28ページ。
 18)前掲書27ページ。
 19)前掲書26,29ページ。
 20)おもに戦後の動向の分析であるが,揚と搦を本分家関係でとらえる田代洋一の仕事は非常に精細で,貴重な仕事である。田代洋一「佐賀農業の展開と自作農的土地所有」,田代 隆編著『土地経済論』お茶の水書房1980年所収。
 21)『川副町誌』40ページ。
 22)『芦刈町史』33ページ。
 23)『芦刈町史』48-49ページ。
 24)『川副町史』914ページ。
 25)友杉孝『溜池と社会形成―文化としての溜池―』国際連合大学,1980年。
 26)『芦刈町史』30-31ページ。
 27)『芦刈町史』32ページ。
 28)『川副町誌』39ページ。
 29)『芦刈町史』64ページ。
 30)同上。
 31)『芦刈町史」54ページ。
 32)佐賀平坦部のクリークについては,次の文献が詳しい。宮地米蔵監修 江口辰五郎著『佐賀平野の水と土―成富兵庫の水利事業―』新評社1977年。佐藤俊郎「佐賀農業におけるクリーク構造とその利用形態」水利科学研究所『日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究』1962年。
 33)『川副町誌』764-66ページ。
 34)『芦刈町史」51-52ページ。
 35)同上。
 36)『芦刈町史』53ページ。
 37)広江大元『千代田町誌』1979年,526-29ページ。上記文献を以下,『千代田町誌』と略記。
 38)『千代田町誌』525-526ページ。
 39)近江の事例であるが,真宗と経済倫理の相関を論じた内藤論文は興味深い。内藤莞爾「宗教と経済倫理―浄土真宗と近江商人―」『日本の宗教と社会』お茶の水書房,1978年所収。
 40)玉城 哲「水利用の体制と秩序」63-64ページ水利科学研究所[日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究]所収。
 41)『川副町誌』494-97ページ。
 42)上掲書495ページ。また,永田恵十郎「地力再生産構造とクリーク」水利科学研究所『日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究』所収。
 43)玉城 哲「水利用の体制と秩序」65-66ページ水利科学研究所『日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究』所収。また,山田龍雄「佐賀段階の農業史的意義」『九州農業史研究』農山漁村文化協会1977年所収。泥土揚げ労働について精しい記述がある。237-40ページである。
 44)玉城 哲 前掲論文67ページ。クリークの農業用水の利用を,個別的水利用と明確に規定した論文である。
 45)『千代田町誌」491ページ。
46)上掲書528ページ。
47)小正月,田植えなど,いくつかの行事の地域的相違については,下記の文献が便利である。新郷土刊行協会[佐賀県民俗地図]1980。佐賀県教育委員会の調査結果が地図化されている。
48)『千代田町誌』516ページ。
49)前掲書519-20ページ。
50)『川副町誌』780-81ページ。
51)前掲書784-85ページ。
52)前掲書761-62ページ。
53)前掲書781ページ。
54)『芦刈町史」717-19ページ。
55)前掲書696-705ページ。『川副町誌』919-34ページ。
56)『川副町誌』658-59ページ。
57)『千代田町誌』497ページ。
58)『千代田町誌』496-497ページ。
59)一般的貨幣と限定的貨幣及び富については,ポランニーを参照。K.ポランニー玉野井野芳郎,栗本慎一郎訳『人間の経済Ⅰ』岩波書店1980年186-227ページ。ポランニーに拠りながら,下記の文献に含まれる諸論考において栗本は貨幣について繰返し論述する。栗本の論述は貨幣の宗教性にまで及び,非常に興味深い。栗本慎一郎『経済人類学』,日本評論社,1979年。栗本慎一郎『幻想としての経済』,青木社1980年。
60)山田龍雄『"佐賀段階"の農業史的意義』275ページ。
61)『川副町誌』751-52ページ。
62)柳田国男『食物と心臓』所収の諸論考は米を象徴論にみるうえで,非常に示唆的である。『柳田国男集』第14巻所収。
63)『川副町誌』752ページ。
64)前掲書763ページ。
65)前掲書767ページ。
66)田の神と先祖霊の同一性に関わる議論は興味あるが,本稿では取扱わない。ただし,石祠が神社あるいは寺院へと展開する前述の過程と,田の神が先祖霊と重なる過程は対応するのではあるまいか。
67)『川副町誌』819-20ページ。
68)ダグラスは貨幣と儀礼の社会機能を比較して,貨幣は極端に特殊化された儀礼の一形態であると議論する。すなわち,儀礼と同じく,貨幣もまたconfidence trickであると規定する。Mary Douglas,Pccrlty and Danger,Routledge and Kegan Paul,p.69。筆者もダグラスの議論に賛成である。これまでみてきた限定的貨幣が呪物崇拝の対象であることも,貨幣に対するconfidence trickの成立と不可分の関係にある。
 さらに,貨幣と言語の相似にも注目しておきたい。言語もconfidence trickである。
 言語もまた,一方の極で呪物崇拝となり,他方では一義的な記号となる。たとえば,危機的状況では言語は呪物性を露わにする。「助けて」とか「ナムアミダブツ」とかである。詩的言語は多義的な象徴作用で特徴づけられる。日常言語は一義的で記号に近
 い。貨幣と言語との比較は,すでにK.ポランニーが行なっている。両者とも意味論的システムとして定義できると論じられる。K.ポランニー前掲書186-91ページ。なお,貨幣の呪物性については,以前筆者は小論を発表した。友杉 孝「貨幣の両義性」『現代思想』1977年3月号所収。土地(限定的・局地的貨幣)と一般的貨幣の対比は,地方方言と標準語の対比に類似する。
69)佐賀県文化課,仏坂勝男氏の御教示による。
70)『川副町誌』59-60ページ,652-54ページ。
71)前掲書211-15ページ。
72)山田龍雄「佐賀米流通構造の成立過程」農業発達史調査会編『日本農業発達史』別巻下所収中央公論社1959年507-08ページ。
73)『川副町誌』170-72ページ。
74)小野武夫『旧佐賀藩の均田制度』岡書院1928年。八木宏典「佐賀藩・幕末期の農民的土地所有」田代隆編著『土地経済論』お茶の水書房1980年所収295-99ページ。
75)『川副町誌』560-64ページ。
76)前掲書561ページ。
77)山田龍雄「佐賀米流通機構の成立過程」528-29ページ。『川副町誌』561ページ。
78)上掲論文539ページ。
79)上掲論文543ページ。
80)以下の文献による。山田龍雄「"佐賀段階"の農業史的意義」,344-56ページ,および宮島昭二郎『米づくり,その苦難の歩み』亜紀書房,1969年,61-71ページ。
81)山田上掲論文,306-14ページ。
82)『川副町誌』488ページ。
83)山田龍雄「"佐賀段階"の農業史的意義」,233-37ページ,328-35ページ。
84)宮島昭二郎『米つくり,その苦難の歩み』22-25ページ。
85)上掲書25-42ページ,47-55ページ。
86)上掲書,57-59ページ。
87)山田龍雄「"佐賀段階"の農業史的意義」246-50ページ。
88)磯辺俊彦「いわゆる佐賀段階の形成過程」,『日本農業発達史』別巻下所収,28-32ページ。
89)上掲論文38ページ。および『川副町誌』547ページ。
90)『野口家日記』は佐賀段階を担った一農家の弘化4年(1847)から慶応元年(1865)までの日記である。日記の存在自体が家と農業生産の不可分の関係を物語る。野口広助著『野口家日記』,『日本農業全書』第11巻,農山漁村文化協会,1980年所収。八木宏典の現代語訳と適切な解題が付されている。
91)『川副町誌』558ページ。
92)前掲書566-67ページ。宮島昭二郎『米つくり,その苦難の歩み』72-85ページ。
93)宮島前掲書94-113ページ。
94)前掲書114-24ページ。
95)『川副町誌』414-16ページ。
96)宮島昭二郎『米つくり,その苦難の歩み』114-16ページ。
97)『川副町誌』961ページ。
98)人間が生きることは,本質的に魔術に生きることにほかならないとする視点から,浮遊する魑魅魍魎,悪霊と守護霊,意識と無意識,能と歌舞伎,仮面,構造などを概説した山折論文は興味深い。山折哲雄「霊と肉の変身」,桜井徳太郎・小野泰博・山折哲雄・宮家準『変身』,弘文堂,1974年所収。かつては浮遊する魑魅魍魎を祭祀することで世界の秩序は維持できた。しかし,神殺しの現代においては,もはや魑魅魍魎は浮遊できず,自己の中に取込まれ内面化せざるをえない。現代は精神分析の時代である。