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財閥経営者とキリスト教社会事業家 I

Author: 瀬岡誠
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
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目次

はじめに
Ⅰ キリスト教社会事業と報徳運動・・・・・・・・・・2
 1 留岡と住友人との媒介者・・・・・・・・・・6
 2 留岡の革新性の形成要因・・・・・・・・・・6
 3 中央報徳会をめぐる人々・・・・・・・・・・8
 4 内務省地方局をめぐる人々・・・・・・・・・・10
 5 住友家の社会事業をめぐる人々・・・・・・・・・・17
 6 十四会とその周辺の人々・・・・・・・・・・19
 7 社会事業と報徳運動・・・・・・・・・・21
Ⅱ 住友人とキリスト教・・・・・・・・・・26
 1 住友における社会事業・・・・・・・・・・26
 2 結びにかえて・・・・・・・・・・30


はじめに

 昭和53年,同志社大学人文科学研究所から『留岡幸助著作集』の第1巻が公刊された1).その「編集にあたって」によると,「近代日本の社会福祉事業において,留岡幸助の思想とその社会的実践のもつ先駆的な意義はきわめて大きい2)」とのことである.
 留岡幸助が近代日本の社会福祉事業史において真正の革新者としての役割を果したことには異論はない.また,留岡幸助の思想とその社会的実践が留岡に固有のマージナリティにもとづいていることを重視する「留岡幸助著作集編集委員会」の論旨には全く同意する.とくに,一方でのキリスト教への深いコミットと,他方での報徳運動への徹底的な傾斜に着目し,それぞれのすぐれて内在的な把握を終えたのち,「自らキリスト教信仰に基づきながら,日本の『近代化』を日本の独自な文化の内発性に留意してこれを展開しようとする,かれの思念の方向」(同書,第2巻,651ページ)を,きわめて緻密な形で明らかにしたことに敬意を表する.つまり留岡は「徹底してキリスト教信仰に生きながらも,日本の土着思想の上に立って,科学を存分に駆使して,対象者及び社会を全人格的に改善していこうという立場を貫徹することによって,日本の社会事業の将来を確保しようとした」(同上,655ページ)すぐれてマージナルな革新者3)であった.以上の点については,『留岡幸助著作集』の第1巻から第4巻における「解説」によって十分に論じつくされている(もちろんこの「解説」の卓越性はそれのみに限定されはしないけれども).
 本稿の第一の目的は,以上のような留岡幸助の革新性の独自性を認識しつつ,その革新性の形成要因の一つとしての準拠集団の生成と展開4)を,できうるかぎり事実に即して明らかにすることである.その場合に当然浮上しく来るのは,留岡の「日本の独自な文化の内発牲」や「土着思想」にたいする大きな関心を培養するうえで大きな役割を果した集団や組識の存在である.つまり本稿は,とくに留岡と住友を中心とする財閥経営者の緊密な関係をも含めて,留岡の社会福祉事業を物心両面から支えた集団や組織を,企業者史的なアプローチと知識社会学的アプローチの接点において抽出し,留岡の革新性の現実的基盤を別出するという限定された視座にもとづいている.
 ところで財閥経営者の理念が間題となる場合,住友財閥の鈴木馬左也や小倉正恒のそれに明らかなように,「大商家または財閥において企業者活動を行うことが国益に奉仕するものである」(安岡重明「日本財閥の歴史的位置」5))という意識の共有性が指摘される.財閥経営者のこの意識の形成要因の1つとしての準拠集団的機能への着目は当然のことであり,筆者はこれまでくり返しこの点を強調してきた.(もちろん住友財閥周辺に限定されているけれども6).)
 本稿の第2の目的は,この財閥経営者の国益志向的な意識の生成と展開を支えていた準拠集団の成員の1人としての留岡幸助の存在を別出することにある.この作業は,資料の欠如(とくに住友関係の資料の欠如)のために,留岡幸助側の資料にもっぱら依拠して,いわゆる逆照射の方法で,なされよう.(この作業については,昭和54年に財団法人矯正協会から発行された『留岡幸助日記」全5巻が大いに役立ったことを明記しておく.)
 留岡幸助の思想が(あるいは,留岡幸助を中心とするキリスト教的社会福祉事業家グループの思想が)財閥経営者の理念とある種の共鳴盤を有した第1の理由は,やはり,両者に共通した「日本の独自な文化の内発性」や「土着思想」への傾斜であろう7).第2の理由としては,留岡の「家庭学校設立趣旨書」8)に明らかなように,また鈴木馬左也や小倉正恒が内務省出身の財閥経営者であったことからも知りうるように,立場こそちがえ,両者とも「逸脱と統制」9)という古くて新しい問題に大きな関心をもっていた(あるいはもたざるをえなかった)ことに注目しておきたい.この点に関しては,逆説的に聞えるかもしれないが,鈴木馬左也や小倉正恒こそある意味において「道徳的企業家」10)と呼ばれうるのではないか.また,留岡幸助は,言葉の広い意味において,すぐれて革新的な企業者活動を展開しておりり,「真正の革新的企業家」と呼ばれうるのではないか.つきつめて言うと,卓越した創造性こそ両者の共通の属性なのである.
 留岡幸助と財閥経営者の連帯を支えた第3の要因は,両者とも「修養」や「修業」による「人間形成」を重視した点である12).これらの言葉が内包する意味と実態を解明することは,住友や三井を中心とする財閥の労務管理(あるいは社内教育)の構造と財閥経営者の経営理念史を究明するうえで避けて通ることのできない領域なのである.
 ところで,小倉正恒が留岡幸助の家庭学校理事に就任するのは昭和2年5月のことである.同年7月9日の留岡の日記には,「日本橋住友銀行ニ小倉正恒氏ヲ訪ヒ,本校の経営費につき協議,向ふ1年半の経費達成につき名案を出さる.氏自ら出資す13)」」とある.さらに同年10月28日には,「住友合名会社ヨリ『人道』誌への同社の広告をして呉れと云って注文あり.『人道』の如き雑誌に広告するとは珍らしきこと也」14)とある.『人道』は明治38年に留岡幸助が刊行した家庭学校の機関誌であった.さらに昭和3年1月27日,留岡は,「小倉正恒氏より340円後援会費送付し来らる」15)と記している.同年8月5日には,「小倉正恒氏社名淵行につき,同氏及場員より手紙来る.小倉正恒氏社名淵行につき大なる効果場員にありたり16)」と話している.留岡は大正3年,北海道北見国社名淵に家庭学校農場および分校を開設したが,小倉正恒が留岡のこの事業に大きな関心をもっていたことは,同年(昭和3年)10月14日の記述「小倉正恒氏来訪.北海道農場につき各方面より意見を述べられ,一々替同.大に参考となりたり」17)からも十分に知ることができよう.同年12月29日にも「小倉正恒氏送金並に電報送らる.親切鄭重也」18)とある.
 卓越した社会事業家留岡幸助と住友の総理事小倉正恒の連帯性は明白であろう.
本稿は,この連帯性の形成過程を,主に,前述の『留岡幸助著作集』と,『留岡幸助日記』(財団法人矯正会19))全5巻に基づいて,分析することにより,住友を中心とする財閥経営者の思想と行動が,一般に想定されている以上に,奥行きと幅をもち,歴史的な重みを有したことを,紙面の許すかぎり明らかにすることを目的としている.つまるところ,単純化の危険をおかして言うならば,安岡重明により主張された財閥経営者の「財閥を国家の発展に寄与せしめんという意識」の歴史的・文化的・社会的背景を解明することが,本稿の目的なのである20).


1)同志社大学人文科学研究所編『留岡幸助著作集』第1巻,1978年,発行者今田達,発行所株式会社同朋舎.その後,第2巻1979年,第3巻同年,第4巻1980年が出版された(1980年現在).
2)同書,第1巻,留岡幸助著作集編集委員会「編集にあたって」1ページ.
3)「マージナルな革新者」については,拙著『企業者史学序説』実教出版,1980年,第4章を参照.
4)同書,同章(とくに140ページ以下)を参照.準拠集団の成員は内的相互作用により連帯性を高め,他者との「出会い」の積み重ねによりその影響力と機能範囲を拡充していく.「出会い」の重要性については,森川英正『日本的経営の展開』東洋経済,昭和55年,232ページ以下を参照.
5)安岡重明「日本財閥の歴史的位置」(『日本経営史講座』第3巻,『日本の財閥日本経済新聞社,1976年)30ページ以下を参照.
6)拙稿「住友の経営理念」ぺりかん社『季刊日本思想史』第14号,同「近代住友の経営理念」宮本又次・作道洋太郎編著『住友の経営史的研究」,実教出版,1979年などを参照.
7)たとえば小倉正巨の土着性については,拙稿「小倉正恒」,(安岡重明編『財閥史研究』


 目本経済新聞社,昭和54年)を参照.
8)『留岡幸助著作集』第1巻,531‐32ページ,666-67ページ(「解説」).
9)Albert K.Cohen,Deviance and Control,1966.A・K・コーヘン著,宮沢洋子訳『逸脱と統制』至誠堂,昭和43年.H.S.Becker,Outslders,studies in the soclology of Devlance,1963.H.Sベッカー著,村上直之訳『アウトサイタース』新泉社,1978年,とくに巻末の訳者解説を参照.
10)Ibid.,H.S.Becker,Ch.8.村上直之前掲訳書,第8章を参照.
11)たとえば留岡による家庭学校の設立を,すぐれて革新的な「企業者活動」の要素を内包するものとみなすことは,理論的にも,十分に可能である.社会事業家であれ,企業者であれ,その革新性を構成する諸ファクターはすべて創造性(creativity)と緊密な関係にあるからである.拙著第4章を参照.
12)たとえば,留岡幸助「信仰と修業」(『留岡幸助著作集』第2巻,539ページ以下),同「人格教育の必要」(同書,第3巻,258ページ以下),同「制度よりも人」(同書,第4巻,51ページ以下)などの諸論稿と『鈴木馬左也』(昭和36年)や『小倉正恒』(昭和40年)における記述を比較されたい.また,前掲拙稿「住友の経営理念」,同「小倉正恒」なども参照.
13)留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記』(発行者福井徹,発行所財団法人矯協正会)第5巻(昭和54年)423ページ.
14)同書450ページ.
15)同書475ページ.
!6)同書5!1ページ.
17)同書532ページ.
18)同書552ページ.なお616‐17ページをも参照.
19)『留岡幸助日記』(注13参照)は,第1巻(昭和54年)から第5巻(同年)までが,財団法人矯正会から発行された.
20)この作業の基礎的視座構造は,すでに安岡重明の次の論稿により与えられている.
 安岡重明「財閥形成の文化的・社会的背景」(『経営史学』第10巻1号,1975年)87‐101ページ.

Ⅰ キリスト教社会事業と報徳運動

 1 留岡と住友人との媒介者
 留岡幸助は元治元年(1864)に,備中国上房郡高梁に生れた.明治21年に同志社を卒業し,丹波第1基督教会(福地山)に赴任し本格的な伝道活動を開始した留岡が,明治24年の教講師としての空知集治監勤務を契機として監獄学研究,獄事視察に多大の関心をもつようになり,ついに米国遊学に出発したのは明治27年5月のことである1).
 留岡が監獄学研究と獄事視察を終え米国から帰朝したのは明治29年5月である.留岡はこのころから三好退蔵らとともに感化院設立に奔走したといわれる2).
本稿の分析視角からすれば,留岡が三好とともに感化院設立に奔走したことの意味は非常に大きい3).同年(明治29年)は住友財閥の「近代化」に大きく貢献するにいたる鈴木馬左也が農商務省を退き住友に入社した年だが,この鈴木は三好退蔵ときわめて緊密な関係にあった.いや,鈴木馬左也の準拠集団が三好退蔵のそれと同一であったといったほうがよかろう.留岡と住友財閥の経営者との強力な連帯の第一歩がここにみられるのであるのである.
 三好退蔵は鈴木家4)の姻戚高鍋藩士田村極人の3男として弘化2年(1845)に生れた.鈴木馬左也の先輩であり,馬左也の養父である鈴木来助や長兄弦太郎の「盟友5)」でもあった三好は,「若くしてキリスト教の洗礼を受け,進歩的な思想を持っていて,わが国法曹界に異色の人物6)」であった.
 留岡が三好らとともに感化院の設立に尽力しはじめた明治29年には三好は大審院長を退き「錦?間祇候を命ぜられ,かたわら弁護士を開業7)」東京弁護士会長をつとめるにいたるのだが,ここでは三好と住友財閥の経営者の準拠集団の一員であった清水澄との緊密な関係にも注目しておきたい.
 清水澄は小倉正恒と同じく金沢人であり,小倉の先輩として,また鈴木の後輩として,住友人と深くコミットした人物である.三好退蔵の長女辰子と結婚した清水澄が住友財閥の経営者たちの準拠集団の一員であったことはいうまでもなかろう.この点については別稿8)において詳述した.ここでは,「鈴木の伯父様(鈴木馬左也一筆者)は吉田松陰先生がお好きで,隠退後は私財を施って家塾を開き,久保無二雄・井上友一・清水澄などの諸氏を招いて,人材の育成に尽したいと洩らされた事があります9)」という清水辰子(三好退蔵長女・清水澄夫人)の証言に注目したい.

また,鈴木馬左也の実父水筑種節は西南の役において獄死したが,獄中から三好退蔵に秋月左都夫(鈴木馬左也の実兄)と鈴木馬左也の将来を託する書簡を送っていることにも注目したい.三好退蔵も清水澄も鈴木馬左也や小倉正恒の準拠集団の成員であった.したがって留岡幸助が三好退蔵を媒介者として住友人を知るにいたったこと,あるいは住友人が三好退蔵を媒介者として留岡幸助を知るにいたったこと,以上の点は十分に考えられよう.
 三好退蔵は留岡幸助著『感化事業の発達』(明治30年)の「序」において,次のように述べている11).
 留岡幸助君夙ニ監獄改良ノ志ヲ懐キ,北海道集治監ノ教講師トナリ,親ク囚徒ヲ提講スルコト数年,其後米国ニ遊ビ,学術ニ,実際ニ研鑽ニ至リ,益々監獄改良ノ必要ヲ感ズルト同時ニ悪少年感化事業ノ最重ンズベキコトヲ悟リ,帰朝ノ後余ニ告ルニ其所感ヲ以テセリ.余大ニ意見ノ投合スルヲ喜ビ,君ト与ニ謀ル所アリ.
 ここで三好は,留岡が米国遊学によって監獄改良の必要性と「悪少年感化事業」の重要性を明碓に認識するにいたったことを強調している.後者についての認識は明治30年の家庭学校の開校の原点となるものであるが,ここでは前者(監獄改良の必要性)について,それが留岡や三好の問題にとどまらず鈴木馬左也や秋月左都夫の問題でもあったことを強調しておきたい.
 鈴木馬左也の実父水筑種節が獄死したことはすでに述べておいたが,長兄水筑弦太郎もまた「勤王の事に坐し,江戸小伝馬町の牢獄に12)」つながれたが「牢内で疫病に感染13)」病死した.短絡的かもしれないが,少くともこの点に関しては,留岡や三好と鈴木・秋月兄弟の間にはある種の共鳴盤があったのではないか.「悪少年感化事業」についてはどうか.
 留岡の日記によると「感化院の相談14)」が明治29年8月23日になされた.「清浦奎吾15),三好退蔵ノ両君ト  相談会ヲ開ク」とある.
 この会合では「出獄人保護」についても相談があった.とくにその「職業ヲ周旋セシムル」ためには「数種ノ人ヲ要ス」として,「実業家」「三井家ノ誰カ,安田善ニ郎」と書いている.さらに16名の「発起人」のうち三井高保,安田善次郎,岩崎弥之助の名をあげている16).住友人の名は末だ出ていない.
 留岡が「日本基督教徒慈善同盟の設立を計画し奔走する17)」にいたるのは翌年(明治30年)の6月のことだが,三好退蔵もこれに協力している18).留岡が家庭学校を開校したのは明治33年2月である.留岡の感化教育事業は,井十次の孤児救済事業とともに,「わが国におけるキリスト教社会事業としての近代的な最初の事業であった」といわれる19).それだけに「社会の注目と支援をえるまでには孤軍奮闘の感があり,まさにキリスト教の信仰と使命感によってその荊の道を切り開いた20)」といわれる.同年(明治33年)警察監獄学校教授兼務で内務省地方局の嘱託となった留岡は小河滋次郎らと貧民研究会を組織している21).さらに明治36年には報徳運動を開始した.同年7月,留岡は社会事業視察のため欧米に出張した.留岡の日記には「久米金弥,清野長太郎,井上友一諸氏ノ発起ニヨリ,余ノ為ニ一橋学士会ニテ送別会アリ22)」とある.久米,清野,井上の3名はともに,中央報徳会の出発点といわれる二宮尊徳翁50年記念会(明治38年)の発起人であった.もちろん,留岡幸助も発起人の一人であった.発起人は全部で11名だが,この11名のうちには,早川千吉郎(当時は三井銀行専務理事),岡田良平・一木喜徳郎兄弟(岡田良一郎の実子),井上友一(当時内務省地方局府県課長)など,住友の経営者(とくに鈴木や小倉)と一つの準拠集団23)を形成していた人々が含まれていたのである.
 
 2 留岡の革新性の形成要因
 報徳運動については別稿24)で詳述しているが,本稿のパースペクチブから注目すべきことは,留岡幸動がこの運動を通じて住友財閥の経営者の準拠集団の成員と緊密な関係を形成するにいたることである.とくに井上友一や早川千吉郎25)との関係に注目したい.井上は早川鼎子(早川千吉郎の妹)と明治42年に結婚している26).井上と早川は義兄弟として一つの準拠集団を形成していたのである.
 ところで明治36年に欧米に出張した留岡幸助は,翌年7月に井上友一へ旅先から書簡27)を送っている.この書簡において留岡は「我国ニ慈恵救済ノー基礎ヲ据ル28)」ためには非常な覚悟を必要とすることを力説している.この欧米出張には実にさまざまな体験が含まれているが,本稿のパースペクチブからすれば,「クルップ会社29)」
の視察が重要であろう.この点は,留岡と財閥経営者との関係を考えるうえで,とくに注目されねばなるまい.留岡は「クルップ氏30)」という一文において次のように述べている.
 彼ハ鉄エヲ以テ世界ニ名アルノミナラズ,其ノ傭役セル二万四千ノ職エトその家族タル九万六千都合拾弐万人ノ配下ノ為ニ長屋,学校,保険,銀行,病院等ヲ備ヘテ能クその身上ノコトニ至ルマデ注意セリ.是レ実ニ大ナル慈善事業ト云ハザル可ラズ.彼ハ一大工業家ナル而巳ナラズ,世界工於ケル一大慈善家ナリト云ハザル可ラズ.
 留岡がのちに財閥経営者と緊密な関係を形成するにいたったのは,この「クルップ氏」にみられる体験にもとづくところが大きいのではないか.「エッスン市31)」における「クルップ氏ノ慈恵事業32)」には留岡のマージナリティ33)と共鳴する要素が多分に含まれていたようである.
とにかく留岡はのちに「近代的社会事業の開拓者として石井十次と並ぶ傑出した人物34)」といわれるにいたるのだが,とくに「慈善事業に科学的な理論をもち込み,その検証としての実践活動を行い,理論と実践の統合を図った近代的社会事業の先駆者である35)」ことに注目しておきたい.換言すると留岡はこの分野での真正の革新者であった.留岡の革新性の形成過程は非常に重要な研究対象であるが,ここではとりあえず,留岡の革新性の形成要因としてのマージナリティ(marginality)を強調しておきたい.とくにこの明治36年から37年にかけての欧米出張の前後から報徳運動に深くコミットするにいたったことは注目すべきである.この点について住谷馨は次のように述べている36).
 留岡は北海道空知集治監の教講時代にワインズの『文明国に於ける監獄及救児事業の状態』を熟読し,1894(明治27)年からの1年半の留学で犯罪学を研究し,多くの感化院,監獄,救児院,慈善院の視察を行い,さらに,1903(明治36)年7月より,半年間,欧州諸国の社会事業施設,教育事業,田園都市グラスゴーなどを視察して,欧米の社会事業の実態や水準について認識を深めている.また1901年春,二宮尊徳の「報徳社」を知り,農村改良の日本的先駆者として尊徳研究を本格的に行い,1905(明治38)年には「報徳会」を創設して地方改良事業の基本的方針として,尊徳の至誠,勤労,分度,推譲の論理を適用して,地方自治の必要と確立に尽力した.留岡幸助にとってはキリスト教の教理と二宮尊徳の報徳とは矛盾するものでなく,この東西の二つの教理はむしろ,相乗的に相補い,社会改良の実践的理論として展開したのである.さらにイギリスのラスキンの道徳と人間性を重視した経済理論と尊徳の比較研究をしながら,日本の風土に適した農業政策を追求した.留岡は階級闘争を喧嘩主義と批判し,彼の階級間の調和協調を図る社会民主々義的立場はキリスト教の教理とともに,ラスキンと尊徳の農業政策の実践的成果を評価するところからきている.
 これは留岡の革新性が留岡に固有のマージナリティにもとづいていることを主張している点で本稿のパースペクチブにきわめて適合的な文章といえる.ただしこの文章では,既述のような留岡と経営者(とくに財閥経営者)との間の共鳴作用が無視されている.これは留岡幸助の革新性の形成要因の1つとしてのマージナリティは重視されてはいるが,もう1つの重要な要因である準拠集団所属性37)が無視されていることによるものと考えられる.
 留岡幸助が社会事業の領域における真正の革新者であったことは,かれがある種の準拠集団に所属していたことを意味する.個人は,なんらかの準拠集団に所属しないかぎり,けっして革新者とはなりえないからである.以下では,留岡の準拠集団と住友財閥の経営者のそれが予想以上に長期にわたって共通の成員性を保持しつづけた点を明らかにし,のちの財閥経営者たち(とくに住友の小倉正恒)と留岡幸助との緊密な関係の成立と展開が,この点とけっして無関係ではなかったことを述べてみたい.

 3 中央報徳会をめぐる人々
 留岡幸助は明治40年4月から5月にかけて井上友一とともに地方改良運動のための「愛知県及び関西方面視察38)」に出かけている.井上友一は鈴木馬左也の心友であり小倉正1亘の青年時代の準拠人であった39).井上は明治20年石川県専門学校を卒業後,第4高等中学校,帝国大学法科大学英吉利法律科を経て,明治26年に内務省入りしたが40),小倉正恒は井上とほぼ同じコースを意識的にたどって明治30年に内務省入りした.『井上明府遺稿』には,井上友一が,北条時敬,織田小覚,早川千吉郎,土岐?,鈴木馬左也,平沼騏一郎,岡田良平,一木喜徳郎,河村善益,秋月左都夫,清水澄らと同一の準拠集団に属していたことを示す記述が多い419.とくに清水澄は井上の親友であった42).
 留岡幸助が井上とともに「視察」に出かけた明治40年ごろ,留岡はさかんに中央慈善協会設立事業に参加している43).もちろん報徳会にも積極的に参加した.
 北条時敬はすでに述べた準拠集団のリーダー格であったが,かれも報徳会活動に大きくコミットしている.北条が明治38年に中央報徳会評議員を委嘱されたことは,前年(明治37年)に住友の総理事に就任している鈴木馬左也がその監事を引き受けたこととともに,注目すべきことである.留岡幸助によると,中央報徳会創立当時の経費はその相当部分を住友や三井が出した.留岡の「三周年を経たる予の感想44)」には次のように書かれている.財政上の事に就ては,鈴木藤三郎,早川千吉郎,鈴木馬左也[まさや],岡田良平,一木喜徳郎,床次竹二郎,桑田熊蔵の諸氏が直接間接に力を尽され又鈴木馬左也氏の尽力により住友家,早川氏を通じて三井家等また多大の援助を与へられ,井上友一氏の如きは自ら何も彼もやられた.
留岡があげている「財政上の援助45)」のうち,早川,鈴木,岡田,一木の4名が,井上友一とともに,かれらの準拠集団の核とも基盤ともいわれる「十四会46)」の有力メンバーであることに注目しておきたい.さらにこの中央報徳会の機関誌『斯民』の創刊当時(明治39年),「編輯は文学士白石正邦君(現東京府立第5高等女学校長)が,同郷の先輩たる井上友一博士から『君,遣り給へ』といふ調子で勧めろれ,引き受けられた47)」と留岡がのちに述べているように,「十四会」を核とする準拠集団が中央報徳会を物心両面から支援していたことが知られるのである.白石正邦は北条時敬の弟子であるとともに小倉正恒の妹廉子とこの前年(明治38年)に結婚していた.また,白石と小倉は明治40年代から一緒に石門心学の研究会を開いていた.その思想的連帯性にも注目しておきたい.
 北条時敬の日記によると,北条は明治40年3月,広島高等師範学校長として東京に出張している.3月16日には「井上友一氏訪問シ来ル」「報徳会乃ヒ大隈伯ヨリ生徒ヲ招待ノ意ヲ通シ来ル48)」とある.また3月21日には「帝国教育ニ於ケル報徳会ノ招待ニ赴キ」とか「井上氏専ラ斡施セリ49)」とか記されている.この会合には岡田良平や白石正邦も参加している.さらに明治40年5月から6月の上京においても北条が留岡らとともに報徳会に参加している.すなわち,5月27日に鈴木馬左也宅(谷町)に泊った北条時敬は,29日に織田小覚と会い,30日に織田と土岐?に会い,6月1日には,河村善益(小倉正恒の義父),井上友一,清水澄らとともに織田小覚から頼まれた談話会を前田侯爵邸で開いている50).注目すべきは翌6月2日である.北条は報徳会で演説後「井上留岡氏等ト共ニ」行動している51).さらに6月3日には岡田良平と,6月5日には土岐?と会合し,6月8日の加越能倶楽部の会には,土岐,井上らや小倉正直の親友国府犀東(種徳)(中央報徳会評議員・『斯民』主幹)が参加した.また6月9日には,北条は河村訓導を伴い留岡幸助の家庭学校(単鴨村に明治32年創立されたもの)を訪問し,家庭学校の生徒に「家」という題の訓話をしている52).この日は岡田良平,一木喜徳郎,床次竹二郎,井上友一,清水澄らが同行している.北条や井上の準拠集団が留岡幸助の事業に大きな関心を有していたことが知られる.鈴木や小倉も無関心ではなかったろう.
 北条時敬は同年8月2日に「新居浜在住ノ中田氏其他の朋友ヲ見舞ン為53)」に広島を出発している.
 留岡幸助が井上友一とともに地方改良のための視察と講演に出かけた明治40年の春別子に暴動が起った.北条も「六月六日暴動アリ54)」と記している.北条は8月2日,中田錦吉(のち住友の総理事)から夜1時頃まで「銅山暴動ニ関スル談話」を聞いた.さらに翌日(8月3日)には,中田錦吉,久保無二雄,松本順吉,木島鍬三郎らと「談話55)」した.さらに8月4日から6日までこの談話は続いたのである56).そして8月15日には大阪の鈴木馬左也宅に到着し午前中「談話」している.「銅山暴動ニ関スル事項主題ナリ57)」とある.
ここでは,北条が別子で「談話」した人々のうちに松本順吉がいることに注目しておきたい.松本も金沢出身で,小倉正恒と同時に内務省入りした.のち新潟県参事官,文部省書記官を経て明治40年に住友入りしたというから,この北条との「談話」の当時は,まさに住友人としては新人であった.松本は中央報徳会の機関誌『斯民』の創刊時さかんにこれに投稿している58).住友入り直前のことである59).松本も報徳会と住友をつなぐ役割を果した一人である.鈴木馬左也も松本を十分に信頼していたようで,松本宛の書簡(明治44年60))で「住友家が真正之発達ヲ遂ゲ,光輝ヲ放チ候様相成候得ハ国家ノ為メニモ為リ,社会ノ為メニモ為リ,又広ク人間世界ノ為ニモ相成,我等本分モ立チ候事ト存候」とはげましている.まさに報徳思想を基盤としたことばといえるが,このような鈴木の信念を支えた人物の一人花田仲之助もまた,明治40年6月の別子暴動の善後策を講じるため,同年11月に別子を訪問している61).花田は鈴木馬左也の心友であり,東亜報徳会の創設者だが,中央報徳会とも深くコミットしていたことは,『斯民』第1編第1号(創刊号)において「花田中佐の東亜報徳会62)」なる一文が掲載されていることからも十分に知ることができる.それによると,花田は「二宮尊徳翁の迹を欽慕の余り」東亜報徳会を設立したとのことである.中央報徳会の機関誌『斯民』第1編第1号には,留岡幸助をはじめとして,手島精一,井上友一,松本順吉,白石正邦,早川千吉郎,中川望ら,住友財閥の経営者の準拠集団の成員や準成貝が投稿している.花田仲之助は,もちろん,この集団の成員であった.留岡幸助がかれらとの間に思想的な共鳴盤を有したことはまちがいなかろう.もっとも個人個人によってそれぞれの生活史[ライフ・ヒストリー]とそれにもとづく思想形成に微妙な差異がみとめられたけれども.
 なお,松本順吉が正式に留岡幸助の家庭学校の後援会に加入するのはこれより約20年後の大正15年12月10日63)のことである.松本の留岡の事業にたいする関心は大きく,昭和4年7月27日に北海道社名淵の家庭学校農場および分校を訪問している64).
 さらに,留岡幸助の日記には,大正15年5月24日,「住友総理事湯川寛一氏の中央報徳会監事就任の快諾を得たり65)」とある.(この日留岡は小倉正恒宅に宿泊している66).)鈴木馬左也が中央報徳会の創立時から監事として尽力したことは既述のとおりである.住友の経営者の中央報徳会にたいするコミットメントが20年を経たのちも綿々と続いていること,住友の経営者と中央報徳会との間に留岡幸助があり,両者の仲介者としてよく機能していたこと,以上の2点を明記しておきたい.大正15年は二宮尊徳翁70年記念祭が開催された年である.鈴木馬左也が住友の総理事として中央報徳会の監事を引き受けたと思われる明治38年に二宮尊徳翁50年記念祭が開催されたのであった.鈴木馬左也は大正11年に他界したが,住友の経営者と中央報徳会の緊密な関係はけっして途絶えることはなかったのである.
 二宮尊徳翁70年記念祭は大正15年11月17日,日本青年館67)において開催された.この記念祭に参加したのち留岡らと,当時未だ家庭学校の理事になっていなかった小倉正恒とが会談,留岡は「種々有益なる談話あり68)」と記している.この事実もまた,住友の経営者と中央報徳会の間の橋渡し的な役割を留岡がよく果していたことを示すものであろう.

 4 内務省地方局をめぐる人々
 明治41年10月,中央慈善協会が設立され,留岡幸助は幹事(のち理事)として働いた.留岡はその直前(9月26日から30日にかけて)「愛媛,広島講演69)」に出かけている.これは内務省地方局嘱託としての任務であった.
 明治39年から44年にかけて,内務省地方局長は床次竹二郎であった70).床次は原敬(第1次西園寺内閣内務大臣)に抜擢されて秋田県知事から地方局長に昇進したといわれる71).原敬は明治37年l0月に古河入社を決め,翌年3月の古河鉱業会社創立とともにその副社長に就任し,文字通り財閥経営者として活躍したが,明治39年1月,内相に就任し古河を辞したのである72).
 すでに述べたように,床次が北条とともに,留岡の家庭学校を視察したのは明治40年6月のことであった.原敬が床次とともにどの程度コミットしたかは明らかではないが,のちの留岡幸助と古河虎之助の緊密な関係の成立になんらかの形で尽力したことはたしかであろう.しかしここでは,留岡が内務省地方局嘱託としてはじめて愛媛県(東予と南予)を視察したことに注目したい.留岡は日記において次のように述べている73).
 東予は人口多く,且つ地味よろし.広島県ニ接して出稼移住者多く,(別子ハ東予にあり),収入も多く生活よろし.然し儲けたものを消費するを以て,生活困難也(今治,西条等を含ム).北海道移住ハ東予地方なり.銅山ノアル為ニ,農業に惰ケル也.仮令バ俵装ノ改良もせず,亦害虫を取れと云っても,1日銅山ニ働ケバ此レ々々取レルト云フ.
 留岡はこの年(明治41年)『報徳の真髄』という書を世に問い「道徳は経済であって,経済は即ち道徳である74)」と主張している.はじめて別子銅山のある東予をおとずれた留岡が見たものは,そういう報徳教というフィルターを通して見たものであった.
 同年(明治41年)12月に京都府農会(会長大森鐘)は『報徳講演集』を発行している.これは同年8月4日5日両日,府立第1高等女学校において開催された「京都報徳講演会」にもとづいて作成されたものであるが,講演者として,早川千吉郎,清水澄,国府種徳,中川望,大久保利武,白石正邦らが参加している.もちろん留岡は「推譲論75)」という題で講演している.留岡はここで,「莫大の財産を貯へ,又莫大なる善事した人」としてカーネギー翁を紹介し,とくにカーネギーのいわゆる「図書館気狂ひ76)」たるゆえんを詳しく説明したのち,「金は大切である,私も其の金持を尊敬するが其の尊敬をするのは推譲する金持を尊敬するので寧ろ推譲せぬ金持なら無い方が宜しい77)」とかれの「推譲論」も説いている.
 大阪府立図書館が住友家の寄付によって建設され開館にいたったのは明治37年のことだが,以上の留岡の講演によると,住友はすでに「推譲の精神」を有していたことになろう78).
 もちろん,「無料図書館又は公立図書館の設備」の必要性は「推譲論」からのみ説かれたのではなかった.留岡が「大阪府図書館」という論稿を『基督教世界」(1118号,明治38年2月79))に発表し,「住友吉左衛門氏の建築費弐拾万円と図書購入費五万円とを醵出して,之を大阪府へ引渡したる所以80)」を詳しく報じたときに強調されたのは,まさに「逸脱と統制」の論理にもとづく図書館必要論であった.つまり「健全にして而かも有益に時間を消費せしめんと欲せば,図書館中の生活は慥に其一たるを失はざるべし.社会一般の人々が堕落して人生的破船を為す所以のものは,職として剰余的時間を害用するに由らずんばあるべからず」と述べ,「一賎民が数日の間徒手にして空費すとせば,彼は何事をか為すべき,如何なる事柄に其時間を使用すべきか,若し彼にして其時間を図書館に於て使用したりしならんには,最早徒に時間は消費せられざる可し81)」というジョン・ラボックの論を引いている.
 留岡は「欧米各国何れの郡市に於ても無料図書館又は公立図書館の設備なきはなき也.萄も国家が都市的文明の健全を保たんと欲せば,清健なる娯楽制度に加へて,無料若しくは公立図書館の設備なきはなき也82)」と述べ,国家的見地から都市におけ
る「逸脱と統制」の問題の解決策の一つとして「無料図書館又は公立図書館の設備」の必要性を強く主張したとき,留岡の念頭には,先にあげた「推譲論」と,明治36年から37年にかけての「欧米の社会事業視察」にもとづく新知識があったのだが,つまりすぐれてマージナルな間題意識があったのだがそれは図書館を寄付した住友友純や鈴木馬左也の意識とさしたるちがいはなかった.『鈴木馬左也』には,「家長も馬左也も,さきの欧州旅行で,つぶさに彼の地の文化施設を視察してその重要性を深く認識し,またこのような施設が富豪の寄付によって建設せられている実例を見ていたので,馬左也は心から家長の提案に共鳴し,その実現に努力した83)」とある.すくなくとも図書館建設という点では,留岡幸助と住友友純や鈴木馬左也との間にすでに思想上の一致を見出すことができる.
 のちに住友家では,懐徳堂の復興,住友私立職工養成所,大阪住友病院,大阪倶楽部,中央報徳会,東亜報徳会,良書の刊行などを通して「社会事業と教化活動84)」を実践したが,以上はすべて,明治37年に総理事となった鈴木馬左也の決断と尽力によるところが大きい.もちろん鈴木は,すでに述べたように,中央報徳会にたいして物心両面の援助を惜しまなかった.それは先の留岡の証言からも知りうるし,中央報徳会機関誌『斯民』第18編第2号(大正12年2月)その他に鈴木の死を悼む論稿が掲載されていることからも知りうる.すなわち「十四会」の有力メンバーであり,当時(大正12年)中央報徳会の理事長であった一木喜徳郎の「本会監事鈴木馬左也君を悼む」と先に登場した清水澄の「故鈴木馬左也氏の面影85)」がそれである.さらに小倉正恒も次号(第18編第3号)に「故鈴木馬左也氏を追憶して」を書いている86).

 明治42年には,内務省主催第1回地方改良事業講習会が開かれている.そして留岡幸助の家庭学校は東京府から代用感化院に指定されたり,政府の奨励金が下付されるなど87)など,留岡の活動が国家的・社会的なサンクションの対象となりはじめた.同年,小倉正恒のロンドン遊学時代からの友人88)で留岡幸助,牧野虎次,水崎基一,山本徳尚,松尾音次郎,阿部政恒らといわゆる「北海道バンド89)」を形成していた大塚素が満鉄に入社している90).当時鈴木馬左也は満鉄の創立委員として満鉄の発展に尽力した.
 同年(明治42年)11月12日,留岡は鈴木馬左也に面会している.これは留岡の宮崎行につき「紹介状ヲ貰フ」ためであった91).鈴木は文久元年(1861)に日向国児湯郡高鍋に出生しているからである.また鈴木の次兄黒水長平(1852‐1915)が「早くからキリスト教を信じ,兄弟のうちひとり郷里に留まって,郷土産業の振興に努め92)」ていたからでもある.かれは,岡山孤児院の創設者石井十次とともに高鍋では今なおその名を謳われているといわれる93).また鈴木馬左也の母久子の弟で,鈴木百助の三男として嘉永2年(1849)に高鍋に生れた堤長發がすでに東京から戻り「宮崎県殖産興業」の発展に尽力していたからでもある94).堤長襲は鈴木馬左也や花田仲之助ときわめて緊密な関係を一生涯維持した人であった95).児湯郡長や宮崎農工銀行頭取を歴任した.
 留岡幸助は鈴木馬左也の紹介状を手に,明治42年11月15日に高鍋に向っている96).
そして児湯郡の都農村や川南町を視察している.留岡が石井十次の茶臼原岡山孤児院殖民地に到着したのは翌16日である97).ここから宮崎町に行き,翌17日,師範学校で「教育上ヨリ見タル報徳」について講演した.さらに11月29日には鹿児島において花田仲之助主催の報徳会講演に出ている.この夜は花田宅に宿泊した.「歓待至ラザルナシ,12時半迄話シテ,花田氏と共に臥ス」とある98).当時,花田の東亜報徳会は鹿児島市山下町に本部を置き「其支部も諸所に設置せられ,漸次拡張の運に向ヘリ99)」と『斯民』創刊号は紹介している.鈴木馬左也の叔父堤長襲は「郷里の各所に報徳会を結成してその講演に臨み,教化運動の先頭に立った100)」といわれる.また鈴木馬左也も花田にたいして物心両面の協力を惜しまなかった101).
明治43年にいたると留岡幸助はさかんに民間企業を視察している.同年1月留岡は,「三菱造船所102)」,「兵庫鐘紡会社103)」,「尼ヶ崎紡績会社104)」,「日本燐寸製造株式会社105)」などを,「兵庫県下施設視察106)」として訪問している.また同年6月には「佐渡鉱山,三菱会社107)」を,「佐渡地方視察108)」として訪問している.留岡が「住友銅山東平109)」と「四坂嶋110)」を視察したのは同年8月のことである.
 8月9日に新居郡を視察した留岡は,「住友家ハ土地ヲ購入スル故ニ,従テ小作者多ク出来ル也」「大地主は住友,松平子爵也(西条主)///)」と記している.また「住友銅山東平[トウナル]」や「四坂嶋」において当時の状況をつぶさに報告している.とくに労務管理の分野や社内福祉に関する記述が多い.
 とくに四坂島製練所は明治38年に操業を開始したものである.しかし煙害問題が拡大し,鈴木馬左也らを悩ませていた.留岡の四坂島の視察から数ヵ月後(明治43年11月),一応煙害問題協議が成立しているものの,けっして根本的な解決にはいたってない112).
 ところで留岡はこの煙害問題にはふれていない.もっぱら「用員の住宅」,「職工の休日」,「用員倶楽部」,「販売所」,「請負人」「小学校」,「病院」などについてl13)記している.
 留岡のこの記述方針(公害問題にふれずという方針)が意識的なものか無意識的なものかはともかくとして,同年10月の「足尾銅山視察114)」においてもこの方針が貫かれている.(足尾銅山の鉱毒により被害を受けた人々が請願のため上京したのは明治30年のことである.)政府が1140万円の予算をかけた治水工事を開始したのはようやくこの年(明治43年)のことである115).

 5 住友家の社会事業をめぐる人々
 明治44年,政府は恩賜財団法人済生会を設立することとし,全国的な寄付募集をはじめた.住友家はこのとき30万円を寄付している(留岡はこのとき済生会参事として活動している).政府からの依頼額は100万円であったが,鈴木馬左也らは,「済生会寄付の問題に先立って,貧民救済事業を起す意志116)」をすでにもっていた住友春翠の意向も汲んで,済生会には30万円の寄付にとどめ,住友独自の貧民救済方法を行うことにし,大平駒槌117)をして徹底的に研究調査をせしめた.大平がこの点について真剣に相談したのは,本間俊平,山室軍平,手島精一の3名である118).
 本間俊平は小倉正恒が「精神運動家」として蓮沼門三や留岡幸助とともに,もっとも崇敬した人物である119).本間は明治30年に留岡からキリスト教の洗礼を受けた120)といわれる.
 山室軍平は,留岡と同じく,岡山県出身の卓越した社会事業家であった121).日本における救世軍のリーダーであった.留岡とともに日本の近代社会事業史における「同志社派」の中心であった122).修養団の蓮沼門三も崇敬した人物である123).その山室が大平駒槌にたいして「慈善事業はあまり効果が挙らないが,社会の欠陥を幾らかでも緩和出来ればといふつもりでやってみる124)」と述べたといわれる.当時山室は街頭に慈善鍋を出していた.また月島労働寄宿舎を開設したり,廓清会を結成したりしていた.救世軍病院は明治45年の創立である125).
 大平が相談した第三の人物手島精一は,鈴木馬左也や河上謹一とともに伊庭貞剛の下で理事をつとめた田辺貞吉の実弟であるが,いろいろな意味において住友の経営者と深くコミットした人物である126).手島と修養団との緊密な関係は周知のことだが,中央報徳会との関係もけっして無視できない.手島は中央報徳会の評議員をつとめていた関係もあり,『斯民』に何度も投稿している.内容は,「米国に於ける模範工場」(第1編第1号),「職工の教育」(第1編第9号),「補習教育の妙用」(第2編第8号),「職工教育と人格の養成」(第2編第11号),「工業教育の要項」(第3編第10号),「青年に対する偉大なる感化」(第7編第9号),「実業補習教育を義務教育とせよ」(第8編第5号),「社会教育としての工業補習教育」(第9編12号)などにみられるように,工業教育を報徳運動や修養団運動との関係から説いた.以上の手島の投稿は『斯民』の創刊後10年以内127)になされたものである.これは手島精一が,岡田良平,一木喜徳郎,早川千吉郎,清水澄,松本順吉,井上友一,中川望,留岡幸助,白石正邦,国府種徳らとともに,『斯民』創刊時に定められた「記事分担者128)」グループの一員であったからであろう.(ちなみに留岡幸助の『斯民』への投稿回数は約90回である129).)
 このように,手島は中央報徳会を通して留岡幸助らと深く交流したと考えられる.この手島に鈴木の命を受けた大平が相談に出かけた明治44年は『斯民』創刊後まもないころであった.このとき手島は「貧民の子弟に補習教育をやるのがよい」「そのためには,学校を造って生徒には飯を食はし且賃金をやるようにしなければならないが……」と述べたといわれる130)(住友私立職工養成所の開所式は大正5年4月に行われた).
 同年(明治44年)4月,鈴木馬左也は鹿児島で開催された東亜報徳会創立10周年記念大会に来賓ならびに講師として参加している.もちろん叔父堤長發も参加した.この大会では,鈴木馬左也の講演とともに,中川望(中央報徳会評議貝)の祝辞や金原明善の講演が注目される132).中川望は井上友一が内務省府県課長時代に市長村課長をつとめ,明治39年ごろから内務局長床次竹二郎の下で「地方改良」に尽力した人物で,小倉正恒とのみならず,留岡幸助と報徳運動を通して緊密な関係を形成した133).のち中央報徳会理事長となる.
 また金原明善は,天竜川治水で有名な企業家だが,明治29年ごろから既述の如く,留岡幸助や三好退蔵が尽力していた出獄人保護運動に大きく貢献し,「免囚の友134)」と呼ばれていた人物で,留岡と緊密な関係にあった.
 さらに社会事業史からすれば,同年(明治44年)8月に,岡山孤児院の創設者石井十次からの寄付依頼に答えて,住友家が毎年2千円ずつ醵出[きょしゅつ]することを決定した135ことも注目しておきたい.これは言うまでもなく,総理事鈴木馬左也と石井十次が「同郷であり同窓であった136)」ことによるところが大きいが,既述の如く,鈴木の次兄黒水長平や三好退蔵が卓越したキリスト者であったことや,石井十次と留岡幸助との緊密な関係によるところもあったと考えられる.山室軍平は「石井十次君と留岡幸助君137)」において,石井の岡山孤児院は「日本に於ける社会事業の魁をなしたもの」と述べている.留岡もまた,「石井十次と岡山孤児院138)」(『人道』20号),「孤児の父石井十次139)」(『福音新報』971号),「岡山孤児院の解散140)」(『人道』249号),「倫敦棄児院と岡山孤児院141)」(『人道』250号)などで石井十次の貢績を讃えている.実践的なキリスト教社会事業の歴史において,石井十次の孤児救済事業と留岡幸助の感化教育事業が「わが国における近代的な最初の事業」であったことはまちがいない142).そういう意味において,石井も留岡も真正の革新者であった.革新者には必ず準拠集団や準拠人がある143).石井と留岡の準拠集団や準拠人が完全に同一であったとは言わないけれども,少くとも財閥経営者やその周辺の人々から成る集団がかれらを物心両面において支援していたことはたしかである144).とくに石井の場合,既述の如く,鈴木を通じて住友家からも寄付をもらっていたが,とくに大原家からの支援を基礎として事業を展開した.小倉正恒は『関西財界先人十傑』の「序145)」において次のように述べている.
 大原孫三郎氏は,ずっと以前に私が住友総本店経理課主任の頃,よく訪ねてこられた.また私の道友で,家庭学校の創始者である留岡幸助氏と呪懇のようであったがこれは岡山孤児院を通じての交際であったと思われる.氏は紡績会へ進もうか,社会事業家として行こうか,と迷われたこともあるそうだが,結局両方共にまことに立派であったと思う.(傍点瀬岡)住友総本店経理課主任に小倉正恒が就いたのは明治43年11月である146).翌年(明治44年)7月には,既述の如く,住友家の社会事業の一つとしての住友私立職工養成所の設立に尽力した大平駒槌が住友入りしている.他方,岡山孤児院への住友家の寄付は同年8月から始まっている.以上のことと考え合わせると,この小倉の文章は,今後いろいろな意味において重要なものとなろう.

 6 十四会とその周辺の人々
 明治45年1月,留岡幸助は「福島県地方視察」に出かけている.内務省地方局嘱託としての任務であった.他方,北条時敬は,十四会を核とする準拠集団の成員たちと絶えず交流していた.すなわち,前年(明治44年)3月6日には鈴木馬左也宅を訪問し,「談話」した.「住友子息茨木氏方寄宿ニ関シ意見ヲ述べ打合ス147)」とある.さらに明治45年2月26日には,北条は岡田良平にたいし,「広島高等師範学校長として「生徒掛川報徳社参観ニ付キ」岡田良平の実父岡田良一郎に面会の依頼をしている148).報徳運動のリーダーであり,岡田良平・一木喜徳郎兄弟の実父でもあった岡田良一郎は大日本報徳社初代社長岡田左平次の息子であり,大日本報徳社の第2代社長をつとめた.
 明治45年3月1日,北条は内務省嘱託の生江孝之[なまえたかゆき]から書面にて「鐘淵紡績参観ニ付回答」をもらっている149).生江孝之は明治19年にキリスト教に入信,明治26年北海道伝道中に留岡を知り,留岡の影響を受けるにいたった.明治30年ボストン大学で社会学を学び36年に帰国,内務省嘱託として,また『慈善』(中央慈善協会発行)編輯者として,大いに活躍した150).
 同年(明治45年)3月12日,北条は報徳社本部で岡田良一郎に会っている151).
 4月25日,北条の日記には「外務省ノ坂田氏ヲ正客トシ土岐鈴木平沼ト殖民政策其他国事ヲ談シ11時散会152)」とある.土岐?,鈴木馬左也,平沼騏一郎はともに十四会のメンバーである.
 4月28日,北条は徳川達孝伯爵が花田仲之助のために開催した晩餐会に出席した.「高木兼寛,根津一,井上友一,鈴木馬左也,土岐債,前田侯爵,桑田博士,高木,国府,留岡幸助其他45人会談アリ153)」とある.鈴木馬左也と留岡幸助がともに参加していることに注目しておきたい.根津一は東亜同文書院や「根津精神」で有名な根津一である.花田の東亜報徳会は近衛篤麿や根津一の支援と鈴木馬左也の協力をえて発展した154).
 5月14日にも北条は花田仲之助と交流している.「学校ニ花田氏ヲ待受ケ報徳会ニ関スル談話会ヲ催ス155)」とある.5月18日には,鈴木馬左也,中田錦吉,久保無二雄という住友の経営者3名が「来校演習数番ヲ観ル」とある.さらに知事中村純九郎宅において「鈴木中田2氏ト共ニ晩食……156)」とある.同年7月5日,北条は大阪の鈴木馬左也宅に宿泊している.
 大正元年9月15日,北条は,河村善益,岡田良平,織田小覚,平沼騏一郎,井上友一,白石正邦らと会っている.全て十四会を核とする準拠集団のメンバーたちである.「時事肝要ナル私談ナリ157)」とある.この夜北条は織田小覚宅に宿泊した.織田と北条の連帯性は,北条の二男恭次郎(明治31年出生)が織田家の継嗣となっていること158)からも知りうるように,きわめて高いものであった.翌日(9月16日)には河村善益(小倉正恒の義父)とともに牧野伸顕を訪問している159).牧野は鈴木馬左也の実兄秋月左都夫と親戚であった.また,のちに述べるように,花田仲之助の「一一会」の顧問格であった160).さらに10月5日,北条は織田小覚を訪問したあと,井上友一夫妻とともに前田侯別邸に出かけている161).10月12日,北条は御影の鈴木馬左也宅に宿泊,ここで中田錦吉,久保無二雄,小倉正恒ら住友人と会っている162).
 大正2年においても北条の準拠集団的な行動は維持されている.すなわち,7月21目には岡田良平を,訪問,22日には織田,白石,土岐,平沼,河村らと面談,24日には秋月左都夫を,訪問,25日には「住友ノ主人」を別邸(須磨)に訪問している.当時住友春翠(友純)は懐徳堂記念会会頭として懐徳堂の復興に尽力していた163).もちろん鈴木馬左也も評議員として尽力していた.北条が春翠を訪問したのは,東北帝国大学総長に転任が決定したためである164).
 同年(大正2年)12月12日,北条は織田を訪問後,河村とともに秋月左都夫を訪問した.「秋月氏其子供ヲ宅ニ托スルノ意アリ165)」とある.秋月(鈴木馬左也の実兄)は当時オーストリア大使をつとめていた.「其子供」とは次男彦次(明治33年出生)のことであろう.鈴木馬左也も長男?太郎(明冶27年出生,のち大蔵省銀行局特別銀行課長)を北条時敬の家庭に預けている.北条の広島高等師範学校長時代,?太郎の中学時代のことである166).かれらの準拠集団の連帯性には驚くべきである.
 同年(大正2年)12月20日,北条は小倉正恒を住友総本店に訪問し,主として「教育談」を行った167).当時小倉は総本店支配人をつとめていたが,かつて『斯民』に論陣をはり報徳運動に尽力した松本順吉は別子鉱業所支配人になっていた.なお,このころより,小倉は三宅真軒(少太郎)を毎夏自邸に招き「講筵」を開いたといわれる168).三宅は小倉の第4高等中学校時代の恩師であった.(北条は明治31年に第4高等学校長に就任している169).

 7 社会事業と報徳運動
 大正3年3月,留岡幸助は内務省地方局嘱託を辞し家庭学校の経営に専念することとなった.地方改良事業のため全国を視察し指導するという内務省嘱託の任務はなくなったが,「家庭学校専従」としても講演旅行は続いた170).北条時敬の準拠集団行動も休まず続いている.同年3月11日には長女茂の夫丸山鶴吉宅を訪問171)後,織田小覚と平沼騏一郎と「要談」,平沼宅に宿泊している172).平沼は十四会を核とする準拠集団の有力メンバーだが,第2代修養団団長(大正12年)に就いたり,小倉正恒が『平沼騏一郎回顧録』の「序」を書いていることなどから知りうるように,小倉正恒をはじめとする住友の経営者と緊密な関係を形成した173).翌日(12日)北条は織田小覚宅で朝食をとり,平沼宅に戻ったのち河村善益を訪問している174).4月24日には,北条は新しく文相になった一木喜徳郎に面会したあと織田宅を訪問した.翌日,井上友一が北条のところへ来た.井上との談話ののち,北条は岡田良平を訪問,帰路丸山鶴吉宅に立ち寄った.同月26日,北条は牧野伸顕を訪問した.翌日,三宅少太郎が来訪した175).同月28日,二木謙三が来訪した176).二木は北条の山口時代の弟子で,東大学生時代織田の書生をしていた.のち第3代修養団団長となる177).注目すべきことは,この日(4月28日)報徳会に出席した北条が,「留岡氏ノ北海道感化農業企図ノ談178)」を聞いていることである.留岡が家庭学校農場を開くため北海道北見国社名淵へ出発したのは同年7月のことである179).留岡は,北海道庁から社名淵(現紋別郡遠軽町留岡)の1千町歩余の土地の払下げを受け,これを北海道における家庭学校農場用地としたのであった.留岡は中央報徳会機関誌「斯民』第9編第1号(大正3年4月)に「予が感化農場を建設せんとする動機180)」なる論稿を発表している.(おそらく北条が報徳会の会合で留岡から聞いた話と同じ主旨のものであったと思われる.)社名淵農場は,留岡の社会福祉思想が報徳思想と密接に絡み合っていたことを如実に物語っている.留岡はこの論稿において「感化事業の骨子」として次のように述べている181).
 然らば予は今後如何なる方針を執って,家庭学校の事業を拡張せんとして居るかといふに,従来本校が教育の主なる一要素であった農業方面を大に拡張しやうといふのである.元来感化救済事業の骨子ともいふべきは独立自営の人間を造るといふにあるので若し此を過れば却て遊惰の人間を造ることになって,社会の害物となるのである.されば病人童者以外,荷くも働く事の出来る者には,老幼を問はず適当な仕事を授けなければならぬ.而し其最も適当な仕事は農業である.即ち欧米の所謂コロニー・システム(殖民若しくは農業制度)を採る事が最も適当で且つ肝要である.(傍点瀬岡)
 さらに次の「真に九牛の一毛182)」という文章は,いわゆる「逸脱と統制」の思想が留岡の報徳主義と結びつくことにより「感化農場」を生み出したことをあらわしている.もちろんその基底には「キリスト教に基いた高い内面性183)」があった.いわゆる「世俗内禁欲主義」とけっして無関係ではなかろう184).
 今や不良少年は日に日に増殖しつつある.専門家の見る所によれば其数拾万以上ならんともいふ.然るに我邦の感化院は幾何なりやといふに,僅かに50有4,而かも此等感化院に収容してあります生徒は其の数千七百人に過ぎぬ.約拾万の不良少年少女のある我邦に於きまして,教育感化の実を挙げつつある者は以上示すが如く,僅々千七百人であるから,真に九牛の一毛に過ぎないのであります.かかる秋に於て,我感化農場を北海の原野に創設せんとするのは時機に適したるものと確信して居る.是れ予が内務省を辞し専心家庭学校の事業経営に当り,本月末より北海道に渡り,自ら農場経営に当らんと決心した次第である.
 「今や不良少年は日に日に増殖しつつある」という留岡の言葉には,この年(大正3年)の7月の第1次世界大戦の勃発や8月の日本のドイツにたいする宣戦布告を考え合わせるならば,大きな説得力があったろう.留岡幸助は国家的な危機状況こそ「道徳的企業家185)moral entrepreneurが活動する場であることを本能的に知っていたのである.もちろん留岡の存在の全体をこの概念が指示しつくしているわけではないが,少くとも留岡が「近代」における革新的な社会事業家であったかぎりにおいて,また逸脱者や犯罪者の群の存在(あるいは企図された存在)がかれの革新的な社会事業の第1の要件であったかぎりにおいて186),ある程度の有効性(経験的指示力としてのそれ)はみとめられよう.とくに,大正3年という危機的状況において,北条時敬ら中央報徳会を中心とする人々に訴えかけ,一般大衆の緊迫感や警戒心をかきたてることにより,自分の事業の必要性と正当性を認識させるには,留岡のように,首尾一貫しかつ卓越した道徳的企業家精神を壮大なスケールで展開する人物が少なからず登場した.翌年(大正4年)9月の一木文相(十四会メンバー)らによる青年団体の指導発達に関する訓令を受けて,大正5年1月に結成されるにいたる中央報徳会青年部をめぐる人々がそれである.この点については後述する.
 ところで北条時敬は,同年(大正3年)4月29日には,土岐?,織田小覚,河村善益,平沼騏一郎187)と会談,5月2日には,平沼宅を訪問後織田宅に宿泊,同3日には,秋月左都夫188)(鈴木馬左也の実兄),河村,白石正邦らと会談,同22日には,岡田良平を訪問,同25日には,早川千吉郎,織田,河村,平沼と会談というように189),あいかわらず準拠集団行動をとっている,この行動は6月に入っても続けられている190).このような北条の行動記録のなかに,留岡幸助の行動記録,たとえ
ば,同年6月9日の「早天より戸川,井上友一191),早川千吉郎等の人々を訪問して,午後5時……『感化事業懇談会』を開始す192)」という記述を見出すならば,留岡の社会事業の展開が北条の準拠集団とけっして無関係ではなかったことをみとめざるをえない.
 たとえば社名淵農場の開設である.この農場用地は北海道庁から払下げを受けたことは既述のとおりであるが,中村純九郎が大正2年2月から3年4月にかけて北海道庁長官の要職をつとめていること193)に注目したい. 北条時敬は明治35年5月から大正2年3月まで広島高等師範学校長をつとめた194).他方,中村純九郎は明治45年3月,福井県知事から広島県知事へと転出した195).北条の日記には,同年5月10日「十日会長沼ニ至ル会者18人ナリ新任知事中村氏ノ外香川中将新会貝ト為ル196)」とある.詳細は知りえないが,中村が北条の属する結社「十日会」に入会したのである.同18日には「鈴木馬左也中田錦吉久保無二雄三人揃フテ来校」後,中村知事宅において北条,鈴木,中田,中村が晩食会を催したことは既述のとおりである.24日には「経済会新知事中村氏出席197)」とある.27日には北条は中村らと呉に同行している.わずか1ヵ月の間の記録だが,北条と中村の連帯性は十分に表わしている.留岡幸助は社名淵農場開設に先立ち,大正2年9月に「北海道土地選定行198)」に出かけている.留岡は「大地積の払下は容易に許可されないが,幸にも官憲の同情により無慮1千町歩の払下を受くるに至ったのは自分に取って光栄至極199)」と述べているのみだが,おそらく,この「払下げ」には北条と留岡の関係と北条と中村の関係が一役買ったと考えられる.もちろん,留岡が長年地方局嘱託として勤務した内務省の「当局者」の「同情」もあった200).とくに,地方改良事業及び報徳運動を通じて,留岡は井上友一と深い親交があった201).北条と井上の緊密な師弟関係を考えると,留岡の社名淵農場開設というすぐれて企業者的な活動も,森川英正がいう「出会い202)」が幾重にも積み重ねられることによって,きわめて連帯性の高い機能的な集団が形成されていったことと無関係ではないのである.準拠集団の出発点は,森川のいう「出会い」によって形成されたパーソナルな関係の成立203)にある.北条と井上の「出会い」,留岡と井上の「出会い」,留岡と北条の「出会い」,北条と中村の「出会い」,以上の「出会い」はそれぞれ1つ1つのパーソナルな関係を成立させた.しかし,そもそもこういう「出会い」の舞台を設置したのが,既成の準拠集団の機能であるし,そういう「出会い」の集積と絡み合いによって,既成の準拠集団の連帯性と機動力が加速度的に高まってゆくのである.
 大正3年という年は,のちに住友の労務管理に大きな影響を与えるにいたる蓮沼門三や田沢義鋪の修養団運動204)にとっても注目すべき年である.
 同年6月6日から7月8日にかけて,蓮沼門三は「九州,中・四国205)」を遊説したが,このとき花田仲之助や金原明善206)と会っている.留岡は同年7月13日,家庭学校農場開設のため,東京を出発しているが,途中,15日に,函館のトラピストを「東京修養団の書生小塩氏209)」らと視察している.田沢義鋪の主催で日本最初の青年宿泊講習会が開かれたのは同年3月208)とも8月ともいわれる.いずれにしても山下信義が協力者として大いに尽力した.田沢は,のちに(大正10年)修養団が大阪住友仲銅所支部発会成を開催したとき講演している.これは「住友における第1号支部」といわれるが,このときの田沢の「講演以後全住友に運動ひろがる」と記されている210).ここでは田沢のことよりも,留岡との関係において,山下信義に注目しておきたい.同年(大正3年)11月の留岡の「静岡県富士郡教育総会行211)」では,教育総会において山下とともに講演しているからである.山下は社会教育家,農村指導者として知られるが,熱心なキリスト教伝導家でもあった212).田沢の盟友213)でもあった.
 田沢義鋪は大正4年7月,内務省明治神宮造営局書記官に任ぜられている.(既述のように,井上友一がこの時点まで神社局長をしていた.)田沢は日本における青年団運動の推進者の一人だが,ここでは,北条時敬との関係において,丸山鶴吉(北条の長女茂の夫)との緊密な関係214)を指摘するにとどめたい.田沢は昭和11年4月の大日本連合青年団理事長辞任まで青年団運動の発展に尽力したが,丸山は後藤文夫とともに田沢の「活動の支柱215)」であった.

 大正3年11月の山下信義との講演の直前,留岡は,井上友一の実兄井上一次(当時連隊長)を旭川の官邸に訪問している.井上はのちに陸軍少将となる人物だが,留岡との緊密な関係は井上友一の死(大正8年)後も続いた.他方,東京では,北条時敬が,同年8月から12月にかけて,岡田良平,澤柳政太郎,平沼騏一郎,秋月左都夫,織田小覚,一木喜徳郎,浜尾新,河村善益,丸山鶴吉,牧野伸顕,鈴木馬左也,鈴木?太郎,中田錦吉,二木謙三,土岐?,早川千吉郎などとさかんに会っている216).この年(大正3年)における北条と十四会のメンバーを中心とする準拠集団成貝との交流は異様なほどである.たとえば12月16日.北条は,午前中に二木謙三(のち修養団団長)と会談,井上友一とともに昼食,3時丸山鶴吉宅訪問,4時半土岐?を訪問,鈴木馬左也らと晩食,以上の行動記録を残している217).
 留岡幸助は同年11月23日,家庭学校満15年記念会を催している.これには井上友一も娘とともに参加した218).さらに12月3日,留岡は,岡田良平宅で開催された「報徳会幹部の会」に,井上友一,中川望,国府種徳らと出席している219).

Ⅱ 住友人とキリスト教
 1 住友における社会事業
 大正4年4月,留岡は関東東北感化院長協議会の発起人となっている220〕.他方,北条の準拠集団は休むことなく機能しつづけている.4月2日には織田,平沼,秋月と会っている.同4日には平沼邸において北条,秋月,河村,早川,土岐,織田が集まり「皇道講明ノ事業ヲ議ス」221)とある.この頃は未だ「無窮会」222)という名称は出ていない.
 4月9日,北条は岡田を訪問している.
 4月10日,北条は中央報徳会において「鶴見氏ノ支那視察」を聞いている223).
 4月12日,織田が北条を訪問した224).
 4月13日,平沼,秋月,織田,河村,久原,土岐,早川が早川邸に集まった225).
 4月15日,草鹿丁卯次郎226)と三宅少太郎227)が北条を訪問した228).草鹿は「北条の推輓によって鈴木が住友へ招いた」人物で,「以来,鈴木に心服して一生を住友のために尽した229)」といわれる.大正7年に小倉とともに理事となっている.報徳運動にも関心があったようで,『斯民』第25編第10・11号(昭和5年11月)(通算300号記念)には「創刊以来愛読者の感想」なる一文を投稿している230).
 5月2日,北条は中央報徳会の「記念会」に出席した.これは御大礼奉祝自治制(市制町村制)実施25年を記念するものであった.中央報徳会では『斯民』第10編第2号(大正4年5月1日)において「自治記念号」を組んでいる231).そして,平田東助,阪谷芳郎,早川千吉郎,一木喜徳郎232),水野練太郎,江木千之,新渡戸稲造233),桑田熊蔵,井上友一,手島精一,留岡幸助,渡辺勝三郎,湯原元一,中川望,大橋重省,矢作栄蔵234),道家斉,潮恵之輔,鶴見左吉雄,田子一見235),八田三郎,岡本英太郎,佐藤寛次,山崎延吉,生江孝之らが投稿している236).留岡は「我報徳会と自治の開発獅237)」なる一文を投稿した.
 同年(大正4年)7月,井上友一は東京府知事となる.留岡は7月10日に井上を訪問,祝辞を述べている238).他方,北条は7月下旬に上京,27日に織田小覚宅において平沼騏一郎,鈴木馬左也,秋月左都夫と「時事談道義論239)」をした.翌日鈴木馬左也と「東北大学研究事業ニ付内談240)」した.
 ところで鈴木は8月17日に高鍋に帰郷している.これは次兄黒水長平の死去のためである241).キリスト者黒水は,既述のように,同じく高鍋の出身で「岡山孤児院を起こし,後に業を茶臼原に移して,その聖業を完成した石井十次とは交誼深く,よき協力者であった242)」といわれるが,その石井のあとを追うように(石井は大正3年に死去している),他界したのであった.
 ところで鈴木馬左也自身はキリスト者ではなく江原萬里がいうように,「会社を修道場とした一禅坊主243)」であった.矢内原忠雄とともに,内村鑑三の高弟であった江原萬里が,東京帝国大学卒業後に住友総本店に入社し,経理課主計係を命ぜられて本店勤務を開始したのはちょうどこのころ(大正4年8月)であった244).

 鈴木馬左也を中心とする住友の経営者たちがキリスト者にたいしどのような考えをもち,どのような態度で接したかという問題245)は,のちのキリスト教社会事業家留岡幸助と住友の総理事小倉正恒との強い連帯性の背景を分析するうえでも,きわめて重要である.同じく内村鑑三の高弟であり,しかも江原と義兄弟の関係にあった黒崎幸吉246)や矢内原忠雄247)も住友に入社していることを考えるならば,この問題は是非とも解明されねばならない248).
 江原の住友入社は矢作栄蔵のすすめによる.江原は矢作の紹介で湯川寛吉250)に会い,大阪で鈴木馬左也251)と面接したのである.
 矢作は,既述のように,この年(大正4年)の『斯民』(第10編第2号)に留岡幸助らとともに投稿している252).矢作は当時東大教授で農学界の重鎮的存在になりつつあったが,東大生を住友に供給するパイプラインの役割を果した点253),鈴木の親友として住友家の「良書刊行」事業に協力した点254),以上の2点において注目すべき人物である.とくに後者は,住友の経営理念史における留岡幸助の位置を考えるうえでも,非常に重要である.矢作が鈴木に「良書刊行」事業として推薦したのは『国民高等学校と農民文明』(ホルマン著)の翻訳出版であった.
 この書物はデンマークのグルンドウィッヒが創設した国民高等学校に関する論述である.それはキリスト教的な歴史認識を基盤とする国民教育の重要性の認識のもとに構想されたものである.グルンドウィッヒは1783年に牧師を父として生まれた.彼も始めは牧師であったが,彼の「ルーテル的教会改革の精神255)」は,北欧の歴史や土着性を重視する態度と結びついて,国家教会の合理主義を強く批判するにいたったので,牧師の活動を停止させられたこともあった.
 鈴木が矢作のすすめにより同書の刊行に踏み切った第1の理由は,グルンドウィッヒが歴史性と土着性を重視するキリスト者であったからである.かれはあくまでも合理主義偏重を嫌ったのである256).留岡幸助の場合と同じように,「独自な文化の内発性」や「土着思想257)」を重視したのである.したがって,「然リト雖モ我国体国情自ラ異ル者有リ,是亦宜シク深ク注意スベキ所ナリ」と述べているように,鈴木もまた日本に固有の歴史性と土着性を重視していたので,デンマーク人グルンドウィッヒの思想を直輸入することなどは許さなかった.グルンドウィッヒの思想は,あくまでも,デンマークに固有のキリスト教を基底にした思想であったからだ.のちの『弘道館記述義小解』の刊行にみられるように,鈴木は,グルンドウィッヒの思想の歴史主義的・反合理主義的・愛国主義的な要素に相当するものとして,藤田東湖の朱子学的名分論によって貫かれた尊王思想を基調とする書物の価値を強調した258).また,江原萬里がいうように「会社を修道場とした一禅坊主」であることをあらわすために,『臨済録正本259)』の刊行を企図したり,茶隴山道場接心会260)を結成したりした.
 鈴木が藤田東湖の思想261)や禅による修行262)を重視したことと,江原萬里の住友入りのさい,鈴木がキリスト教の欠点をたずねられ,「それは余りに個性を主張し過ぎて遂に国家を忘れることである」と答えたことはけっして無関係ではあるまい.
 鈴木の理念は,朱子学的名分論,禅による修業,報徳思想などを基底としていた.それがかれの住友「財閥をして国家の発展に寄与せしめん」という意識263)を支えていた.もちろん,この意識は,北条時敬や織田小覚や岡田良平を中心とする鈴木の準拠集団のメンバーたちとの絶えまないコンタクトにより維持され強化されたのである.
 たとえば『弘道館記述義小解』刊行は,正確には,鈴木・秋月兄弟が織田小覚に相談後,決定された264).この註釈者は,三宅少太郎の弟子で当時宮内省につとめていた加藤虎之亮265)であった.また「序」を織田が266,「後序」を秋月が書いている.昭和2年に秋月が草したといわれるこの「後序」を次にあげておく.次男彦次が他界した直後に書かれたものである267).(なお,翌年3月,秋月はキリスト者の兄黒水長平の5男捷五を養子として入籍している)
 水戸藩に一種の学風ありたり,道を説くこと厳にして簡,而して気魄充溢せり,世之を称して水戸学と謂へり,若し意義ある名称を求めなば,和魂学と謂ふべきならん.(中略)抑水戸学が王政維新の気運を作りたりと云ふは,或いは過当なるべし.然れども之を盛んにし,之を促進したるの功に至っては,後世永く之を銘せざる可からず.然るに一たび維新の大業成るや,水戸学は委棄せられて,歴史上の事実として,僅かに世の記憶に存するの状態なりき.比時に当りて,畏友織田小覚兄は,水戸学の尊奉すべきを知りて,精究倦むことなかりき.今を距る十数年前,亡弟馬左也は風教に補ある書を得て之を刊行して頒布せんとの志を発し,織田兄に諮りしに,兄は第一に弘道館記述義を挙げたり.其見る所遠しと謂ふべし.予が水戸学の尊ぶべきを知るを得たるも亦織田兄の賜なり.註者加藤虎之亮君は学問該博,考覈厳密なるは,予の熟知する所にして,織田兄の選は実に当れりと謂ふべし.而して委棄せられたる古書の塵を吹いて之に註するが如きは,滔々時流を逐ふ者の能くする所にあらず.其期待する所,尋常にあらざるは予之を知る.要するに此三士は皆特立独行の操あり.姪[ママ]?太郎今述義小解を刊行して以て先考の志を成すは孝なり.小解が如何なる運命を見んとも,今日此の如きの企てを敢てする其事が,決して徒為ならざるべきを信ず.幕末の攘夷論は,水戸学の首唱に依りて起りたるか,将に時勢の産物たりしやは知らざれども,当時の攘夷論は,決して時勢に逆行せしものに非ず.(中略)抑今日より之を見れば,昔日の攘夷論は甚しき暴論たるが如しと雖,当時の西洋諸国の所為に想ひ到るときは,此論の起るは当然にして,西洋諸国を目して夷狄とし,虎狼の国なりとせしは正論にして,僚慨の余,刀を振ふ者あるに至りしは寧ろ幸なりしなり.然るに東湖には更に遠き慮ありしこと,前に記する所の如し.維新の衝に当りたる諸公も亦,口に攘夷を唱へつつ胸中に成竹ありしは,事跡に徴して明かなり.時流に投ずるも可なり,之に逆行するも亦不可なし.要は志の公私の如何を顧みるのみ.
 昭和3年10月14日井伊直弼の墓に隣せる寓居に於て 秋月左都夫
 同書の刊行は鈴木の決意後約30年を経た昭和3年のことである.昭和18年には再版も出ている.ここでは刊行そのものよりも,刊行にみられる準拠集団の連帯性の半永久性と,準拠集団のかかげていた理念の時間的な射程の長さに注目しておきたい.鈴木が青年時代から東湖の愛読者であったことは周知の事実だが,そのような朱子学的名分論にもとづく尊王愛国思想が,十四会における『弘道館記述義』の輪読や,十四会のメンバーを中心として構成された「講談会」における「維新勤王志士其他の言行録著書等」の輪読(明治21年から27年ごろまで268))などにより培われたものであり,のちの「無窮会」269)における「日本精神の研究」により補強されるにいたったものである.
 ところで,北条時敬や井上友一らを中心とする「講談会」が開かれていたと考えられる明治24年にいわゆる「不敬事件」が起きた.当時第一高等中学校教諭であった北条時敬と岡田良平は内村鑑三にたいする批判者たちの急先鋒であったといわれる270).北条は「基督教違憲者処分ノ議271)」において「元来基督教ハ施政者ヨリ之ヲ観レバ固ヨリ国家ニ有害ナル者ニ非ズシテ吾国民ノ無宗者ノ如キ者ヲ稗益スルコト甚タ多シトス」と述べながらも,「然リト雖モ独リ事ノ国体ノ栄辱国勢ノ隆替ニ関スル者ニ至テハ秋毫モ彼ニ仮ス可ラザルナリ」とし,国体の尊厳を損う場合のキリスト教を批判した.同じ準拠集団に属する鈴木馬左也が,内村鑑三の門下生であった江原萬里や黒崎幸吉(江原の妻祝[イワイ]の兄)を住友に入社させるにいたるのは,既述のように,「不敬事件」から二十数年後のことである.この二十数年の間に,準拠集団の理念も内村の思想も,なんらかの形で変質過程を経たことはたしかであろう.

 2 結びにかえて
 ところで,鈴木馬左也は,内村鑑三の愛弟子であった江原萬里の住友への入社試験において面接し,わざわざキリスト教をとりあげ,それが「余りにも個性を主張し過ぎて遂に国家を忘れるに至る」と批評したといわれる272).このことは,つきつめていうならば,たとえキリスト者であっても「国家を忘れる」ことがないかぎり,住友人としての十分な役割と機能を与えられるということを意味した.
 江原萬里や矢内原忠雄の住友入りや黒崎幸吉の住友人としての卓越した活動が,このことをなによりも雄弁に物語っている.そしてそれは,キリスト教社会事業家としての留岡幸助と住友の経営者(とくに小倉正恒)との連帯性の形成過程を分析するうえでの一つの準拠点を与えるものである.つまり,鈴木馬左也や小倉正恒の企業者活動を支えていた理念と留岡幸助の社会事業活動を支えていた理念は,「国家の発展」というオリエンテーションをともに内包していたという点において,高い親和性を示すことができたのである.鈴木や小倉の「財閥を国家の発展に寄与せしめんという意識」(安岡重明)の高さは疑うべくもないが,留岡の「杜会事業を国家の発展に寄与せしめんという意識」の高さもまたけっして無視できるほどのものではない.そして留岡と住友を中心とする財閥経営者との思想的な共鳴盤の形成要因の一つとしてのこの二つの「意識」が絡み合をみせながら,たとえば財閥の労務管理という場において,どのように具体的に展開されていったかということは,きわめて重要な問題である.この点については別稿において詳述する予定である.


1)留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記』第5巻,財団法人矯正協会,昭和54年,708ページ.
2)同書同ページ.
3)留岡幸助著『感化事業之発達』(明治30年)の「序」は三好退蔵と小河滋次郎が書いている.
4)鈴木馬左也の実父は高鍋藩主秋月家の一族で家老の水筑種節であり,実母は同藩総奉行鈴木百助の長女久子であった.馬左也は明治2年鈴木来助(鈴木百助養子)の後を嗣いでいる.鈴木馬左也翁伝記編纂会編『鈴木馬左也』(昭和36年)704‐05ページ.
5)同書32‐35ページ.
6)同書34ページ.
7)同書35ページ.
8)瀬岡誠「報徳会と財閥経営者」(『京都学園大学論集』第9巻第1号,1‐26ページ)22ページ.
9)『鈴木馬左也』700ページ.
10)同書同ページ.
11)同志社大学人文科学研究所編『留岡幸助著作集』第1巻(同朋舎,1979年)「月報1」2‐3ページ.
12)『鈴木馬左也』704ページ.
13)同書18ページ.水筑種節の死は明治10年,水筑弦太郎の死は明治元年である.
14)前掲『留岡幸助日記』第1巻,629ページ.
15)清浦奎吾は小河滋次郎の上司であり義父でもあった.留岡と小河の緊密な関係は明治24年に成立したが,清浦は明治17年から24年まで内務省警保局長であり,小河は明治24年に警保局監獄課長となった.小河は大正2年に府知事大久保利武(牧野伸顕の実兄)に招かれて大阪府救済事業指導嘱託となり,大正14年まで大阪府の社会福祉事業に大きく貢献した.土井洋一・遠藤興一編・解説『小河滋次郎集』(社会福祉古典叢書2)(鳳書院,昭和55年)403‐04ページ.大霞会編『内務省史』第4巻(原書房,昭和55年)671ページ.なお,小河の大阪での最大の業績の1つは,林市蔵知事との強力な連帯の下に創設した「方面委員制度」である.詳細は,留岡幸助「民衆の福祉と方面委員制度」(『人道』265号,昭和2年11月)(『留岡幸助著作集』第4巻,500‐17ページに所収)を参照.なお,小倉正恒は昭和4年8月,大阪府方面委員後援会理事に就任している.『小倉正恒』982ページ.
16)『留岡幸助日記』第1巻,629‐30ページ.「発起人」に高島嘉右衛門があげられていることにも注目したい.青年期の小倉正恒に大きな影響を与えた高島呑象の伝記『乾坤一代男』(昭和31年)に序文を記した小倉正恒は,この前年(明治28年)に初めて高島に会っている.高島の「永年にわたる久しい牢獄生活」の経験を小倉は強調している.小倉正恒伝記編纂会編『小倉正恒』昭和40年,72‐75,460,530‐33ぺージ.
17)『留岡幸助日記』第5巻,709ページ.
18)『留岡幸助日記』第1巻,662ページ.


19)上野直蔵編纂発行『同志社百年史(通史編一)』1979年,495ページ.
20)同書496ページ.
21)『留岡幸助日記』第5巻,710ページ.『小河滋次郎集」404ページ.
22)『留岡幸助日記』第2巻,280ページ.
23)瀬岡誠「近代住友の経営理念」(宮本又次・作道洋太郎編著『住友の経営史的研究』実教出版,1979年)408ページ,同「住友の経営理念―近代住友の多角化と理念―」(『季刊日本思想史』第14号)59‐61ページ.同「報徳会と財閥経営者」2‐3ページ.
24)「報徳会と財閥経常者」2‐26ページ.
25)『小倉正恒』63‐81,105ページ.瀬岡誠「鷲尾勘解治と自彊舎精神」『京都学園大学創立10周年記念論文集』昭和54年,134‐53ページ.
26)近江匡男編『井上明府遺稿』大正9年,32ページ.
27)『留岡幸助日記』第2巻,287‐88ページ.
28)同書288ページ.
29)同書253ページ以下,363‐66ページ.
30)同書365ページ.
31)同書362‐63ページ.
32)同書363‐65ページ.
33)瀬岡誠『企業者史学序説』実教出版,昭和55年,第4章を参照.なお「報徳会と財閥経営者」4‐5ページ.
34)『同志社百年史(通史編1)』500ページ.
35)同書同ページ.
36)同書503ページ.
37)瀬岡誠『企業者史学序説』第4章.
38)『留岡幸助日記』第2巻,489ページ以下.なお,留岡幸助と井上友一の連帯性の高さは,井上友一の死去(大正8年)後約10年を経た昭和2年5月に「井上会創立委員会」が結成されたことからも十分にうかがうことができる.同年5月8日,「中央報徳会デ故井上友一氏の『井上会』ニツキ,田子一民,相田良雄,岡弘毅,上野他七郎の諸氏ト予トデ,協議会ヲ開ラク」とある(『留岡幸助日記』第5巻,405ページ).ただし,この会の場所は別頁では,家庭学校となっている(同書402ページ).井上友一と小倉正恒の緊密な関係を考えると,小倉がその3日後(5月11日)に家庭学校理事就任を「快諾」していること(同書405ページ)は,本稿のパースペクティブにおいて大きな意味がある.「井上会」については,同年6月10日,11日,12日,13日(同上,414,420ページ)を参照.留岡が井上の死後も井上を崇敬し井上の遺族や兄一次と緊密な関係を維持したことは,大正9年1月1日(『留岡幸助日記』第4巻,361ページ),大正10年6月10日(同上478ページ),大正11年6月11日(同上525ページ),大正14年6月12日(同書第5巻,212ページ),8月3日(同上233ページ)8月12日(同上235ページ),大正15年3月1日(同上281ページ),3月7日(282ページ),5月19日(298ページ),6月12日(304ページ),10月9日(338ページ),昭和2年5月20日(407ページ),8月4日(429ページ),9月29日(443ページ),10月20日(448ページ),11月27日(457ページ),12月22日(464ページ),昭和3年1月9日(467ページ),1月


26日(471ページ),1月28日(471ページ),4月2日・3日(484ページ),4月23日・24日(488ページ),5月16日(491ページ),6月19日(497ページ),8月27日(517ページ),8月31日(518ページ),9月14日(523ページ),9月22日(525ページ),9月24日(526ページ),10月10日・11日・12日(531ページ),10月31日(535ページ),11
月2日(539ページ),11月4日(539ページ),11月12日(541ページ),12月4日(546ページ),12月17日(549ページ),12月27日(551ページ),昭和4年1月26日・27日(559ページ),1月31日(560ページ),2月9日・10日(560ページ),3月9日(580ページ),3月12日(581ページ),3月16日・17日(582ページ),3月19日(583ページ)3月22日・23日(584ページ),3月25日(584ページ),3月29日(585ページ),3月29日(585ページ),4月10日(594ページ),4月13日(595ページ),4月16日・17日(595ページ),4月18日(595ページ),4月20日(596ページ),4月24日・25日(597ページ),4月29日・30日(598ページ),5月3日(599ページ),5月5日(599ページ),5月7日(600ページ),5月10日(600ページ),5月19日(602ページ),5月22(603ページ),5月28日(605ページ),6月12日(609ページ),6月18日(610ページ),6月23日(611ページ),7月3日・4日(614ページ),7月9日(616ページ),8月4日・5日(621ページ),9月10日(626ページ),10月10日(629ページ),10月13日・14日(630ページ)などの記述から十分に知りうる.それにしても,留岡の日記における井上友一に関する記述の過多にはある種の異常性すら感じる.留岡は井上友一の実子鼎盛の結婚の仲人役をつとめたのみならず,鼎盛を北海道社名淵の家庭学校において「社会事業に従事」させた(同上594,603ページ).また以上の記述には,留岡と井上友一の実兄井上一次や井上友一と義兄弟の関係にあった早川千吉郎の遺族との交流も含まれており,たんに井上友一の遺族(未亡人と息子夫妻)との交流のみを含んでいない.まさに留岡にとっては,「故井上氏ノ遺徳タルヤ偉大ナルモノアリ」ということであった(同上304ページ).
39)拙稿「報徳会と財閥経営者」6‐7ページ.
40)『井上明府遺稿』8ページ.
41)同書8‐11ページ.26‐27ページ.
42)同書7‐8ページ.18‐19ページ.
43)『留岡幸助日記』第5巻,711ページ.
44)『留岡幸助著作集』第2巻(1979年),451ページ.
45)同書同ページ.拙稿「報徳会と財閥経営者」2‐3ページ.
46)拙稿「近代住友の経営理念」408‐09ページ.
47)拙稿「報徳会と財閥経営者」20‐21ページ.
48)西田幾多郎編『廓堂片影』,昭和6年,406ページ.
49)同書407ページ.
50)同書411ページ.
56)411‐412ページ.
52)同書412ページ.
53)同書422ページ.
54)同書同ページ.


55)同書422ページ.
56)同書422‐23ページ.
57)同書423ページ.
58)『斯民』第1編(明治39年),第1,2,3,4,10,11,12,の各号.
59)拙稿「報徳会と財閥経営者」7‐8ページ.松本はのちに住友合資会社の理事となる.
60)『鈴木馬左也』454ページ.
61)同書721ページ.
62)『斯民』第1編第1号,105ページ.なお,昭和4年に出版された『訓話説教演説集』(『修養全集』第9巻,大日本雄弁会講談社)には,花田仲之助「反省慎独の工夫」と留岡幸助「一路白頭に到る」が掲載されている.他に,本稿に関係ある人物としては,後藤静香,渋沢栄一,坪野平太郎,一戸兵衛,徳富蘇峰,新渡戸稲造,山室軍兵,海老名弾正,小崎弘道,床次竹二郎,井上哲次郎,江原素六,などの文章がある.
63)『留岡幸助日記』第5巻,364ページ.「午後3時迄住友本店ニ行ク.松本順吉氏加入.年60円3ヶ年180円快諾」とある.(松本は大正13年7月,理事兼人事部長となっている.)
64)同書619ページ.「午後2時10分馬車2台を以て社名淵へ出迎す.大阪住友松本順吉氏及其の一行山内孫太郎,山県義彦及海本大市の4氏を迎へて4時帰庵……」とある.
65)『留岡幸助日記』第5巻,300ページ.
66)後述するように,留岡は大正末から大阪における活動の拠点を住友内の事務所におき,小倉正恒宅を常宿とするにいたる.このときも(大正15年5月の来阪),5月21日,22日(ただし別荘),24日の3日,小倉宅に宿泊した.なお大正15年には1月16日,17日,18日,19日,21日,23日,26日,12月9日,10日,12日,13日,14日,15日,16日,などに,小倉正恒宅に宿泊している.同書270ページ以下,363ページ以下を参照.
67)この年の7月,北条時敬の女婿丸山鶴吉の後任として田沢義鋪(住友における修養団支部第1号の結成の原動力となった人物)が日本青年館と大日本連合青年団常任理事に就任した.『田沢義鋪選集』1101ページ.
68)『留岡幸助日記』第5巻,356ページ.このときの同会者は,留岡,小倉以外に,家庭学校の後援者として大いに尽力した大久保利武と国沢新兵衛であった.なお,大阪での二宮尊徳翁70年記念祭は同年12月9日,中の島公会堂で開催された.この日から留岡は小倉宅に約1週間宿泊している.『留岡幸助日記』第5巻,363ページ以下.
69)『留岡幸助日記」第3巻(昭和54年)65ページ以下.
70)『内務省史』第4巻,674ページ.
71)前田蓮山『床次竹二郎伝』(昭和14年)202‐205ページ.
72)古河虎之助君伝記編纂会編『古河虎之助君伝』(昭和28年)407‐412ページ.
73)『留岡幸助日記』第3巻,66‐67ページ.
74)留岡幸助「報徳教と報徳社」259ページ(留岡編『報徳の真髄』警醒社書店,明治41


年,所収論文)
75)京都府農会編『報徳講演集」(明治41年)44‐57ページ.
76)同書54‐55ページ.
77)同書58ページ.
78)安丸良夫は「勤勉,節約,分度は自分で守ればそれでよいとしても,推譲という社会的行為は,近代社会の一般的な利害対立のなかでは,本来の道徳的意味を発揮できない.推譲は道徳的説得力をもつときにのみ意味があるのだが,そうだとすれば狭い共同社会での,人格的な関係のもとでのみ有効なのだ」と述べ,「通俗道徳が近代(資本主義)社会のなかでは欺瞞的なものになってゆかざるをえぬ事情」を西田天香の一燈園の場合において考えている.安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木書店,1974年)50‐51ページ.以上のような安丸の推譲論にかんするコメントが本稿においても正当性を有するのは,財閥経営者が,当然のことながら,「狭い共同社会での,人格的な関係のもとで」のみ生きたのではなく,より大なる社会に積極的にコミットしたからである.つまり財閥経営者は,国家という組織と財閥という組織の境界にあって,両組織間の交渉と情報の交換にたずさわることを,一つの役割として期待されていたある種の「境界人」[マージナル・マン]であったからである.なお,組織連関論における「境界人」の重要な役割については次の文献を参照.今井賢一「日本型産業社会―その活力再組織化の方向」『季刊現代経済』1980年冬期号.この点については,安岡重明(「財閥形成の文化的・社会的背景」100ページ)が次のように述べている.「国家意識が強く,広い視野をもった経営者たちに指導された財閥の場合,工業化が本格化する明治後期以降の段階で,いくつかの産業分野において日本の工業化に大きい役割を果した.三井・三菱・住友などがそうである.その限りにおいて,それらの財閥は富国強兵の国策にそっていたわけであり,財閥と国家との結びつきが強くなり,国家権力と密着したといわれる現象が目立ったことも否定できない.」つまり,財閥経営者の推譲論は,安岡重明のいう財閥を国家の発展に寄与せしめんという意識」に支えられていたのであり,ここに,安丸良夫のいう近代(資本主義)社会での推譲論の「欺瞞性」が見出されるのである.
79)『留岡幸助著作集』第2巻,107‐09ページに所収.なおこの続編を『基督教世界』1120号(明治38年2月)に発表している(同上,109‐10ページに所収).
80)同書108ページ.
81)同書107‐08ページ.
82)同書107ページ.
83)『鈴木馬左也』277ページ.
84)同書275‐310ページ.
85)内政史研究会・日本近代史料研究会編著『「斯民」目次総覧』(龍渓書舎,1980年)208ページ.なお,十四会員一木喜徳郎は大正13年に枢密院副議長,大日本連合青年団(中央報徳会青年部の後身)の理事長,財団法人日本青年館理事長に就任している.一木は鈴木の死去にさいし,「畏敬の友として,又本会監事として同志の一人を喪うたといふのみならず,国家社会の為実に深く遺憾」と述べている.『鈴木馬左也』511ページ.

86)同書208ページ.
87)『留岡幸助日記』第5巻,712ページ.
88)『小倉正恒』915ページ.
89)『同志社百年史(通史編1)』497‐98ページ.
90)『留岡幸助日記』第5巻,712ページ.
91)同書第3巻,162ページ.
92)『鈴木馬左也』20ページ.
93)同書同ページ.
94)同書30ページ.
95)同書31ページ.
96)『留岡幸助日記』第3巻,163‐65ページ.
97)同書165ページ.
98)同書185ページ.
99)『斯民』第1編第1号,105ページ.
100)『鈴木馬左也』31ページ.
101)拙稿「住友の経営理念」57‐59ページ.
102)『留岡幸助日記』第3巻,199ページ.
103)同書,同ページ.
104)同書203ページ.
105)同書206ページ.
106)同書196‐209ページ.
107)同書238ページ.
108)同書237‐44ページ.
109)同書253ページ.
110)同書254ページ.
111)同書252ページ.
112)『鈴木馬左也』107‐08ページ.
113)『留岡幸助日記』第3巻,254‐55ページ.
114)同書288‐91ページ.
115)小林正彬「鉱害事件」166ページ(中川・森川・由井編『近代日本経営史の基礎知識』有斐閣,昭和49年,166‐67ページ).
116)「住友春翠」編纂会編『住友春翠』(昭和30年)500ページ.
117)同書501ページ.大平は当時,総本店副支配人.のち別子鉱業所長,満鉄副総裁,枢密顧問官などを歴任する.
118)同書502ページ.
119)拙稿「報徳会と財閥経営者」4ページ.
120)『小倉正恒』572ページ.『留岡幸助著作集』第3巻,608ページ.
121)和田洋一編『同志社の思想家たち(下)』(同大生協出版部,1973年).とくに,小倉譲二「留岡幸助・山室軍平」213‐76ページ.
122)同書226ページ.


123)蓮沼門三全集刊行会編『蓮沼門三全集』第12巻(昭和47年)55‐58ページ.
124)『住友春翠』502ページ.
125)小倉譲二「留岡幸助・山室軍平」247ページ.
126)拙稿「住友の経営理念」52ページ以下.同「報徳会と財閥経営者」5‐6ページ.
127)『「斯民」目次総覧』所収の「筆者名索引」により簡単に知りうる.
128)『斯民』第1編第12号の巻末における「記事担当者氏名」を参照.
129)前掲「筆者名索引」を参照.
130)『住友春翠』502ページ.
131)『鈴木馬左也』296ページ.
132)同書同ページ.
133)拙稿「報徳会と財閥経営者」9‐10ページ.中川は修養団評議員でもあった.
134)『留岡幸助著作集』第2巻,215‐16ページ.
135)『住友春翠』503ページ.
136)同書同ページ.
137)『留岡幸助著作集』第3巻付録「月報3」昭和54年,3‐5ページ.
138)同書第2巻,273ページ以下.
139)同書第3巻,287ページ以下.
140)同書第4巻,442ページ以下.
141)同書第4巻,449ページ以下.
142)『同志社百年史(通史編1)496ページ.
143)拙著『企業者史学序説』第4章を参照.
144)石井十次の場合,山室軍平は,大原孫三郎,林源十郎,徳富蘇峯などをあげている.山室,前掲論文,5ページ.
145)『小倉正恒』537ページ.
146)同書162ページ.
147)『廓堂片影』485ページ.
148)同書489ページ.
149)同書489ページ.
150)『留岡幸助著作集』第2巻,640ページの「注」226.『同志社百年史(通史編2)』505ページ.
151)『廓堂片影』491ページ.
152)同書498ページ.
153)同書498ページ.
154)拙稿「住友の経営理念」58ページ.
155)『廓堂片影』500ページ.
156)同書505ページ.
157)同書508ページ.
158)同書489ページ,878ページ.
159)同書508ページ.
160)拙稿「報徳会と財閥経営者」17,24ページ.『鈴木馬左也』299ページ.


161)『廓堂片影』509ページ.
162)同書510ページ.
163)住友春翠は明治43年9月に懐徳堂記念会の会頭となり,大正2年10月に会頭を辞し評議員となった.『住友春翠』497ページ以下.
164)『廓堂片影」516ページ.
165)同書517ページ.
166)黒木勇吉『秋月左都夫』(講談杜昭和47年)404‐06ページ.
167)『廓堂片影』519ページ.
168)『小倉正恒』51‐56ページ.168,260,455ページ.
169)『廓堂片影』877‐78ページ.北条は石川県専門学校教諭時代から大学院入学及び第一高等学校教授時代・山口高等学校時代を経て第四高等学校長となった.井上友一は
石川県専門学校及び第四高等中学校時代に北条時敬に「修養上私淑」した.『井上明府遺稿』9ページ.
170)『留岡幸助日記』第3巻,1‐32ページ.
171)北条茂と丸山鶴吉は明治44年4月に結婚した.丸山は東京市助役・朝鮮総督府警務局長を経て,昭和4年警視総監となる.『廓堂片影』880ページ.
172)同書520ページ.
173)拙稿「近代住友の経営理念」428‐29ページ.
174)『廓堂片影」520ページ.
175)同書同ページ.
176)同上,二木は昭和30年文化勲章を受ける.
177)『蓮沼門三全集』第6巻,51ページ.
178)『廓堂片影』520ページ.
179)『留岡幸助日記』第4巻,4‐28ページ.
180)『留岡幸助著作集』第3巻,298‐99ページに所収.
181)同書298ページ.
182)同書299ページ.
183)同書「解説」614ページ.
184)この点きついては小倉正恒の本間俊平にたいするコメントを参照.『小倉正恒』571ページ以下.
185)HowardS.Becker,Outsiders:studies in the Sociology of Deviance,NewYork:The FreePress,1963 ch.8.PP.147-163.村上直之訳『アウトサイダーズ』新泉社,1978年,第8章,214‐36ページ.
186)H・S・ベッカーによると,「逸脱とは企画の産物である」.Ibid,P.162.同邦訳書,234ページ.ここでベッカーは,主として「道徳的企業家」を「規則創設者」(そのプロトタイプとしての「改革運動者」)や「規則執行者」としてとらえているが,留岡の家庭学校創設や社名淵農場開設というすぐれて革新的な社会事業の展開をこのような概念によって十分にとらえきれないことは当然である.ベッカーの「道徳的企業家」という理念型は「社会統制が逸脱を導く」というラベリング理論にもとづいているのだが,このラベリング理論自体に限界がないわけではない.同邦訳書に所収さ


れている村上直之「ラベリング理論への招待」を参照.
187)平沼は当時「補検事総長(親補)」.平沼騏一郎回顧録編纂委貝会編(代表者小倉正恒)『平沼騏一郎回顧録』昭和30年,346ページ.
188)秋月は同年6月,オーストリア大使を「依願免本官」翌年(大正4年)10月「宮内省御用掛拝命」.前掲『秋月左都夫』439ページ.
189)『廓堂片影』521‐24ページ.
190)同書524‐25ページ.
191)井上は当時内務省神社局長.翌年(大正4年)4月,明治神宮造営局長,同年7月,東京府知事となる.大正8年知事在職中6月死去.『内務省史』第4巻,621ページ.
192)『留岡幸助日記』第4巻,4ページ.
193)同書644ページ.
194)三宅少太郎(真軒)は北条の尽力により当校教員となっている.『廓堂片影』900ページ.
195)『内務省史』第4巻,576ページ.
196)『廓堂片影』499ページ.
197)同書500‐01ページ.
198)『留岡幸助日記』第3巻,498‐505ページ.
199)『留岡幸助著作集』第3巻,305ページ.
200)同書318ページ.当時の内務省では,原敬が内務大臣(大正2年2月から3年4月まで)として,井上友一が神社局長(明治41年7月から大正4年7月まで)として,それぞれ在職していた.
201)同書543‐52ページ.「解説」611-7ページ.
202)森川英正『日本型経営の展開』(東洋経済新報社,昭和55年)232‐37ページ.
203)同書232‐33ページ.
204)住友と修養団運動については,拙稿「近代住友の経営理念」427‐35ページ.
205)『蓮沼門三全集』第12巻,279ページ.
206)金原明善は同年6月20日に修養団において講演している.同書278ページ.
207)『留岡幸助日記』第4巻,4ページ.
208)田沢義鋪記念会(代表後藤文夫)編『田沢義鋪選集』昭和42年,1096ページ.
209)『蓮沼門三全集』第12巻,278ページ.
210)同書306ページ.
211)『留岡幸助日記』第4巻,28‐29ページ.
212)『蓮沼門三全集』第11巻,242ページに山下と修養団の関係が記されている.
213)同書同ページ.
214)たとえば,大正13年,田沢は「日本青年館を丸山鶴吉に托して」東京市助役に就任した.(田沢は大正10年の財団法人日本青年館設立以来,創立理事として尽力していた.)大正14年には,田沢と丸山は,近衛文麿,緒方竹虎,後藤文夫らとともに「新日本同盟」を結成した.『田沢義鋪選集』1100‐01ページ.
215)同書1101ページ.なお丸山鶴吉は,大正元年9月,一高弁論部紹介演説会におい


て,矢内原忠雄(のち住友別子鉱業所に勤務)や三村起一(のち住友の労務管理部門で卓越した業績をあげた)とともに,演説を行っている.『矢内原忠雄全集』(岩波書店,1965年)「年譜」838ページ.このとき,丸山は「弱者の声」,矢内原は「野心論」,三村は「一心の心万人の心」という演説を行った.のちの3者の生活史を考えると非常に興味深いものがある.
216)『廓堂片影』528‐39ページ.
217)もっとも興味深い記録は12月13日のそれである.同書532ページ.拙稿「住友の経営理念」『季刊日本思想史』第14号所収,62‐63ページ.
218)『留岡幸助日記」第3巻,29ページ.
219)同書31‐32ページ.北条が岡田良平と会談しているのは,8月4日,8月7日,9月17日,10月16日,12月17日などである.
220)『留岡幸助日記』第5巻,713ページ.
221)『廓堂片影』534ページ.
222)無窮会の目的は「日本精神研究」とも「聖経賢伝講究」ともいわれた.『小倉正恒』387,476,527ページ.
223)『廓堂片影』534ページ.
224)同書535ページ.
225)同書同ページ.
226)「草鹿は慶応3年に加賀大聖寺藩士の家に生れたから,鈴木馬左也より6歳を後れ,正恒に8歳を長じていた.東京外国語学校を卒業して学習院の助教授をしばらく勤めた後,更にドイツのエナ大学に哲学と経済学を学び,帰国して2,3の学校に教鞭をとってから金沢四高の教授となった.明治31年,北条時敬が校長の時である.」『小倉正恒』179ページ.
227)真軒(三宅少太郎)は「北条時敬が明治35年に第四高等学校校長から広島高等師範学校校長に移るとまもなく,北条に招かれてこれも四高から広島高師に赴任した.更に北条は大正2年に東北帝国大学総長となって仙台に移り,真軒も大正5年に広島を去って,以後は東京に定住し,講筵を開くかたわら前田家の蔵書を整理して尊経閣蔵書目録を作る仕事などに携わった.」『小倉正恒』177ページ.
228)『廓堂片影』535ページ.
229)『小倉正恒』180ページ.
230)『「斯民」目次総覧』274ページ.
231)同書120‐23ページ.
232)十四会メンバー一木は当時文部大臣.同年(大正4年)8月内務大臣に転じた.
233)新渡戸は鈴木の経営ナショナリズム(森川英正)を高く評価している.『鈴木馬左也』612ページ.
234)矢作は東大生を住友に送るとともに,鈴木の「良書刊行」にも尽力した.また,渡辺斌衡(のち住友合資労働課長,日本電気㈱会長)は矢作の女婿.同書300,612ページ.
235)田沢は当時内務書記官.のち内務省社会局の第1課長,社会局長.昭和16年に第34代衆議院議長.修養団を支援.『蓮沼門三全集』第5巻,348ページ.


236)『「斯民」目次総覧』120ページ.
237『留岡幸助著作集』第3巻,363‐67ページに所収.
238)『留岡幸助日記』第4巻,45ページ.
239)『廓堂片影』540ページ.
240)同書同ページ.
241)『鈴木馬左也』726ページ.
242)『秋月左都夫』390ページ.
243)『江原萬里全集」第1巻,昭和44年,98ページ.
244)『江原萬里全集』第3巻,昭和45年,636ページ.
245)内村鑑三を中心とする無教会派と住友の経営者たちとの親和性は,おそらく,想像以上に高いものであったろう.
246)江原は黒崎幸吉の妹祝[イワイ]と住友入社後(大正7年10月)に結婚した.黒崎幸吉は「出羽庄内藩の儒者の家に生れた.父は黒崎与八郎(昭和3年死去).『住友春翠』525ページ.また,江原の娘錫子は矢内原忠雄の長男伊作と結婚した.矢内原と黒崎はともに江原と姻戚関係を築き上げたことになる.なお,矢内原は住友総本店に入社し別子鉱業所に勤務するとともに,新居浜においてキリスト教集会に参加したが,その主要メンバーとして,黒崎幸吉,松尾逸郎,山下陸奥,矢部忠治らがあげられている.『矢内原忠雄全集』第29巻(岩波書店,1965年)829ページ.
247)矢内原忠雄は明治26年,愛媛県越智郡富田村に生れ,明治43年に第一高等学校(校長新渡戸稲造)に入学したが,同級生に小畑忠良(のち住友本社経理部長を経て企画院次長,大政翼賛会企画局長,大日本産業報国会理事長,大政翼賛会事務総長などを歴任),2年生に近衛文麿,3年生に江原萬里らがいた.大正6年,東京帝国大学法科大学卒業後同年4月住友総本店入社,別子鉱業所に大正9年3月まで勤務.南原繁・大内兵衛・黒崎幸吉・楊井克巳・大塚久雄『矢内原忠雄―信仰・学問・生涯』(岩波書店,昭和43年)における「略年譜」による.住友時代については,同書617ページ(黒崎幸吉「新しい日本と新しい世界の建設のために」616‐23ページ)を参照.入社時の矢内原の部署は経理課で,課長は黒崎幸吉であった.山下陸奥「新居浜時代のことなど」54ページ(同書53‐57ページ)を参照.のちに矢内原自身が「この生活の間に,私の処女作『基督者の信仰』という本が出来たのです」と述べて,新居浜での3年間の「成果」を明記していることに注目したい.矢内原忠雄『銀杏のおちば』292ページ(東京大学出版会,1953年)を参照.また,当時別子鉱業所につとめ,矢内原を崇敬した松尾逸郎によると,『基督者の信仰』は,「内村,黒崎両先生と新居浜教友一同による三つの序文を付して出版された」が,10年後,同じく別子鉱業所につとめていた「教友」小西友作が退社して出版業を思い立ち,その最初の仕事として『基督者の信仰』第2版を刊行したとのことである.黒崎や矢内原の影響力の強さとかれらを中心とするキリスト者たちの連帯性の強さにはおどろくべきものがある.松尾逸郎「『基督教の信仰』出版のころ」59ページ(『矢内原忠雄』57‐60ページ)を参照.
 なお矢内原の兄安昌も大正8年より住友肥料製造所に勤務している.また,ここでは,新渡戸稲造という卓越したキリスト者が矢内原の学問上の師であり,矢内原の東大における講座の前任者であったことにも注目しておきたい.おそらく,新渡戸と鈴木馬左也の注目すべき関係から考えると,矢内原は住友人にたいして(あるいは住友人となることにたいして)すくなくとも抵抗感はなかったにちがいない.新渡戸が鈴木の兄秋月左都夫,北条時敬らと大正5年に結成された中央報徳会青年部の商議員になっていることや,鈴木馬左也のみならず早川千吉郎や留岡幸助とも交流があったことを想起したい.たとえば『留岡幸助日記』第4巻,497ページ(同年10月23日・24日)を参照.また,北条の日記には,明治40年8月3日「中田久保松本木島諸氏等ト談談ス 此月新渡辺氏阿部正義氏等又新居浜ニ来リ此夜共ニ晩餐ノ餐応ヲ受ケ新渡辺氏善談ス」(傍点筆者)とある(『廓堂片影』422ページ).この日北条は別子暴動の善後策を検討するため新居浜に滞在していた.
 なお,鈴木馬左也が監事として尽力した中央報徳会機関誌『斯民』第2編第2号(明治40年5月)には,新渡戸が,井上友一,留岡幸助,中川望らとともに投稿(「地方の研究」)している.さらに,第3編第6号(明治41年8月)には,井上友一,中川望らとともに投稿(「民の恩」),第10編第2号(大正4年5月)には,早川千吉郎,一木喜徳郎,井上友一,手島精一,留岡幸助,中川望,矢作栄蔵,田子一民らとともに投稿(「英国植民地に於ける自治の整善」)している.ちなみにこの号は既述のように「自治記念号」であった.さらに,第11編第7号(大正5年10月)には,一木喜徳郎,矢作栄蔵,後藤文夫,添田寿一,田子一民らとともに投稿(「青年と図書館」),同編第8号(同年11月)には,北条時敬,沢柳政太郎らとともに投稿(「青年会への注文」),第20編第3号(大正14年3月)には,矢作栄蔵,田子一民らとともに投稿(「国際教育の主眼と其趨勢」)している.『「斯民」目次総覧』による).このような新渡戸の中央報徳会へのコミットメントは,かれが,キリスト者でありながらすぐれて土着的・内発的な思想を培養していたマージナル`マンであったこととけっして無関係ではなかろう.周知の如く,新渡戸は,『農業本論』『修養』『武士道』などの著書を通して,そのマージナリティをいかんなく発揮したのである.とくに,みずから英語で書き下した『武士道』は,内村鑑三の「武士道」にたいする大きな関心を考えるならば,新渡戸と内村の「申し子」的な存在であった矢内原忠雄のもう一つのバイブルでもあったといえよう.この点については,隅谷三喜男「内村鑑三と現代」63‐63ページ(『世界』第422号,1981年1月,54‐66ページ),森有正『内村鑑三」(講談社,昭和51年)66‐67ページ,矢内原忠雄「新渡戸稲造について」(『銀杏のおちば』220‐32ページ)を参照.矢内原は新渡戸の『武士道』について次のように述べている.
「博士の意を明白な言葉を以て表現すれば,日本の将来は,武士道を以て養われた日本人の道徳が基督教に接木せられるか,はた功利主義的唯物論に接続するかによりて決せられるであろう,との事であった.換言すれば,武士道の徳は封建時代の過ぎ去ると共に,それを培養すべき新なる培養素を必要とする.よく之を培養するものは基督教である.若しも日本人の思想が功利主義・唯物論に赴くならば,武士道の徳はその培養素を失って,立枯れすべきことを憂いたのである」(『銀杏のおちば』224ページ).
 ところでこと「功利主義的唯物論」批判に関しては,鈴木馬左也や小倉正恒も,新渡戸や矢内原の思想とかけはなれたものを持っていたわけではなかった.たとえば『鈴木馬左也』において黒崎幸吉が証言している,新渡戸と鈴木との間の共鳴盤を支えていた要素の一つとして,両者の土着性・内発性の重視と「功利主義的唯物論」批判の志向性があったと考えられる.黒崎幸吉「思い出」612ページ(『鈴木馬左也』612‐13ページ)を参照.さらに『小倉正恒』512‐13ページをも参照.留岡幸助との親和性にも注目したし.
248)さらに重要な問題は,江原,黒崎,矢内原の3名とも住友人としての生をまっとうしなかったことである.3名とも住友を退社したことの背景の解明は,住友の経営理念史からみても,非常に重要である.なお,矢内原は大正9年に,黒崎と江原は大正10年に,それぞれ住友を退社している.さしあたりここでは,3人がほぼ同時に住友を辞していることに注目しておきたい.また大正10年2月に,住友が総本店を合資会社(資本金1億5000万円)に改組していること,同年5月に,中田錦吉と小倉正恒が常務理事に就任していること,また,別子鉱業所では四阪島製錬所の大改造が着手されていること,同年6月に住友電線製造所,製鋼所が労働争議に入っていること,翌11年に別子鉱業所が労働課(鷲尾勘解治課長)が新設されていること,翌12年には,別子鉱業所において,四阪島製錬所の大改造により,987名の大量解雇がなされていること(『新居浜産業経済史』516ページ)などの諸事実にも注目しておきたい.もっとも以上の諸事実と矢内原・黒崎・江原という卓越した3名のキリスト者の住友退社を直接に結びつけてしまうことは短絡的であろう.たとえば大正11年の労働課新設による鷲尾勘解治の戦線復帰は,本稿のパースペクティブにおいて大きな意味を内包するものである.
 鷲尾の自彊舎が,「別子の山に青年の塾を」というスローガンの下に,大正元年に本格的な活動を開始したものの,鷲尾自身の大正6年5月からの(謎めいた)休職のため,実質的な機能を停止したこと,大正11年の鷲尾の(新設の労働課の課長としての)実質的な復職までの約5年間において,別子鉱業所内にある種のコンフリクトが存続していたらしいこと(『鈴木馬左也』675‐77ページ)については別稿で詳述した(拙稿「鷲尾勘解治と自彊舎精神」).
 ところで既述のように,矢内原の別子鉱業所勤務時代は,鷲尾の休職時代とほぼ重なる.だからといって矢内原が鷲尾の自彊舎に反発したということにはならない.矢内原は,昭和2年5月,新居浜の聖書集会に出たあと,星越浮游選鉱場を見学し,「自彊舎で講話」しているからである.矢内原は大正13年10月に朝鮮総督府などを訪問後,(同月11日夜)「修養団に講話」しており,13日には住友林業出張所を訪問している.また,昭和3年8月21日には,留岡幸助の家庭学校農場(北海道)を訪問している.『矢内原忠雄全集』第29巻「年譜」816,824ページを参照.
249)前掲『江原萬里全集』第1巻,93ページ.江原と湯川の緊密な関係については,江原萬里「湯川寛吉翁の思出」(『聖書之真理」第48号,昭和6年10月)(『江原萬里全集』第3巻,105‐09ページ)を参照.
251)鈴木と江原の緊密な関係については,江原萬里「鈴木馬左也翁」(『経済往来』2・4)(同書,第1巻,92‐98ページ)を参照.
252)中央報徳会評議員をつとめた矢作の『斯民』への投稿は第8編第1号(大正2年)から第28編第2号(昭和8年)までに,実に,38回にも及ぶ.前掲『「斯民」目次総覧』
所収の「筆者名索引」による.
253)『鈴木馬左也』613‐15ページ.
254)同書300‐05ページ.
255)同書302ページ.
256)拙稿「近代住友の経営理念」419‐20ページ.
257)『留岡幸助著作集』第2巻,651,655ページ.なお留岡幸助は大正15年9月27日の日記に「デンマーク国民高等学校につき有益なる話を聞き,相互話して,大谷松太郎君と共に安眠ス」と記している.このときの話相手は,当時厚別宇都宮農場を経営していた出納陽一であった(『留岡幸助日記』第5巻,333ページ).なお留岡は昭和2年1月に家庭学校社名淵分校冬期学校を開校するが,この冬期学校の設立趣旨はデンマーク国民高等学校のそれとけっして無関係ではあるまい.留岡は「冬期学校を設立する由来」(『人道』253号,大正15年11月)において,「冬期学校設立の趣旨」として,農村中堅青年男女の教育,理論と共に実習の怠らぬこと,負担に堪へ得る丈の教育費を徴収すること,学生は教師と寝食を共にすること,人格教育に重きを置くこと,理論と共に実際を重んずること,以上の諸点をあげている.(『留岡幸助著作集』第4巻,457‐59ページに所収).なお,留岡は同年(大正15年)9月27日の「デンマーク国民高等学校」の話に大いに感銘し,「漣馬国民高等学校(9月27日)」という文章に詳しく書きとめている(『留岡幸助日記』第5巻,335‐36ページ).
258)拙稿「住友の経営理念」(『季刊日本思想史』第14号)61‐62ページ.
259)「清見寺の古川大航と左都夫は,馬左也の臨終に近いころ,その枕頭で,志を継いで『臨済録』翻刻を完成することを特に約した.」といわれる.『鈴木馬左也』308ページ.
260)同書158‐61ページ.茶隴山道場の原点は明治37年の「接心会」結成に求められる.鈴木馬左也の親友で小倉正恒の義父であった河村善益(当時大阪地方裁判所長)は,大徳寺管長廣州を河村の官舎に請じて毎月1週間ずつ接心をつづけた.同上,158ページ.
261)鈴木は若いころから藤田東湖の愛読者であった.同書398ページ.
262)鈴木の禅による修業は明治17年頃から始まった.「この頃,兄左都夫に導かれ鎌倉円覚寺の今北洪川について禅道に入る」とある.同書709ページ.澤柳政太郎は,「余は学生時代より宗教の書籍を愛読し,時々鎌倉に行って坐禅の真似事をしたことがある.当時共に坐禅した友人は住友家の鈴木馬左也,三井家の早川千吉郎,実業家の土岐?,民事課長の平沼博士,花田中佐等の諸君で其人数も至って少なかった.末だ今日の如く坐禅が流行して居らず,又鎌倉に行くには今日と違ひ横浜又は戸塚辺から徒[や]歩するのであったから,学生としては余程の熱心家でなければ行らかった.
 当時居士は少なかったが,老師は一代の高僧たりし洪川和尚で,――今の宗演師の先生である禅学流行の今日生存されたなら其門弟は非常に多数に上ったであらうと思ふ.」と述べている.『沢柳政太郎全集』第2巻,355ページ(「余等学生時代の参禅」).鈴木の禅への傾倒は明白である.
263)安岡重明,「日本財閥の歴史的位置」31ページ以下.
264)後述するように,中央報徳会青年部結成の年(大正5年)に『弘道館記述義』刊行が決定された.
265)「周礼経注音義校勘記の著者加藤虎之亮博士は,故真軒三宅少太郎先生に30年間親灸せられ,其の学問を継承されてをる.私(小倉正恒)も多年真軒先生に師事した」とある(『小倉正恒』510ページ).また「弘道館記述義小解は先生(三宅真軒)の注釈法の一斑を示し,此の周礼経注音義校勘記は先生考証学の一端を彷彿せしむるものがある」とある(同上511ページ).三宅真軒ははじめ朱子学を修め,のちに考証学へと進んだ「金沢の産んだ偉大なる学者」であった.
266)織田は水戸学,とくに東湖の朱子学的名分論により貫かれた尊王愛国思想を唱えている.「住友の経営理念」61‐62ページ.
267)『秋月左都夫』441ページ.
268)『廓堂片影」894ページ.
269)加藤虎之亮が「無窮会ニ採用セラル」にいたったのは大正6年4月である.同書585ページ.
270)小原信『評伝内村鑑三」中央公論社,昭和51年,119‐23ページ.
271)『廓堂片影』309ページ.
272)拙稿「住友の経営理念近代住友の多角化と理念」62ページ.