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中小企業経営者の思想

Author: 中村秀一郎
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
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ま え が き
 この報告の目的は、日本経営史ないし経営思想史の研究でほとんどとりあげられることのなかった中小企業経営者の思想を検討することである。筆者は日本が先進国へのキャッチアップを達成しえたのは、社会の底辺から,シュムペーターのいう意味での企業的資質と能力を持った人材を多く輩出しえたことによることが大きいという仮説を持っている。
 これらの人材は,大企業エリート層よりも,みずから個性ある企業を創業した中小企業の経営者のなかに見出されるのであり,筆者が中小企業経営者の人と思想に関心をもつ理由もここにある。
 だが,このきわめて広汎な問題領域について,包括的な論議をいっきょに展開することはむずかしい。ここではその手掛りとして,自己の思想を明快に語っている中小企業経営者とその思想的代弁者のケース・スタディをおこなうこととしたい。
 前者は冨士レジン工業社長松本広治氏であり,後者は戦後流通業にたずさわる革新的な資質をもつ小売商人たちに強い影響力をもった,新しい商人道を提唱された倉本長治氏である。
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 松本広治氏は『信念の経営』(1971年),『不死身の経営』(1975年),『日本の経営参加』(1976年,ともに東洋経済新報社刊)の3つの著書を通じて,マルクス主義を信奉した氏が大企業の管理者を経て,中小企業の創業経営者となり,マルクス主義者としてのその思想信条を貫く努力を払いつつ,終局的にはマルクス主義そのものを超えていく,波らん多きパーソナル・ヒストリーを率直に語っている。
 氏の行動は政治・労働運動から経営活動を含む広い範囲にわたり,その実践にうらづけられた社会問題から経営問題におよぶ主張は,観察者としての立場に限定された学者・文化人の論文・評論にはみられない迫力を持つ。
 以下これらの著書によって,氏の思想の軌跡をたどってみよう。「革新的指導者の思想と行動」という副題をもち,「第1部ボルシェヴィキへの道」にはじまり,「第7部冨士レジン工業株式会社」に終る『信念の経営』の前半の部分は,氏の共産主義者としての社会運動への献身の記録であり,戦時下でのサラリーマンとしての生活を経た後半の部分は,工場経営の中に身をおき,大企業の管理者として,さらに中小企業経営者として,日本経済の民主化を念頭において行動した記録となっている。この後半の部分で一貫して追求されているのは,既成のイデオロギーによる労使対立,その裏がえしの労使協調をこえた新しい労使協力路線であることが印象的である。
 1904年,愛媛県の篤農家の長男として生れた松本氏は,父君の事業の失敗によって大阪に移り,家業の大衆食堂を手伝いながら,大阪府立今宮中学4年を経て大阪高等学校文科甲類を首席で卒業し,1925年東大法学部政治学科に入学し,そこでマルクス主義に接し,以後マルクス主義の研究に没頭しつつ社会運動の実践に飛びこんでいく。
 氏は東大入学の時点で「ある程度かたまった人生観」をもっていたという。その1つは,儒教の教えであり,1つはカントの流れをくむドイツ哲学の理想主義であった。前者は「惻隠の心は仁のはじめなり」「自ら顧みて直ければ千万人と雖もわれ往かん」などの言葉に触発された「世のため,人のため,正義のため,自己を顧みることなく尽すことが人間の尊さである」という。後者は「善とはわが魂に宿る良心の自律で(あり)……良心に忠実でなければならない」という信念となって結実する。「マルクス主義を眞理と信じ,眞理に従って実践運動に身を投ずるという,容易ならざる道に私を駆り立てて,退転を許さなかったのは,この2つのバックボーンであった1)」と氏は語っている。
 マルクス主義を絶対の眞理と信じた氏は1928年日共に入党し,29年検挙,懲役7年の判決を受け,1936年満期で出獄(非転向出獄)する。共産主義者の転向相次ぐこの時代に非転向での出獄とは英雄視される行為であるが,これは,いかに氏の信念が堅かったかを示すものである。共産主義者としての自覚をもつ氏はその後人民戦線理論の日本への適用を志すが,それは春日庄次郎氏をはじめとする人々の非合法活動路線の入れるところとならず,1939年より政治運動を断ち,社会人としての職業生活に入り,日刊工業新聞を経て三鷹航空(気化器の専門メーカー)の勤労部長として終戦を迎える。
 終戦直後徳田球一,志賀義雄氏ら共産党の指導者をたずねた氏は「近づくことのできない違和感」をもつ。「獄中18年は英雄の18年であったと同時に,ブランクの18年であったことを考えてほしかった……獄外にあった同志達は共産党の旗は巻いたでしょうが,魂まで売ったものは少ない……獄中18年の英雄は獄外にあった同志たちの泥沼の生活に対するいたわりの気持とその経験に学ぶという謙虚さから出発してほしかった2)」からである。
 そこで「一人わが道を進む決心をした」氏は,東大時代のクラスメートの紹介で1945年勤労部長として武田薬品工業に迎えられ,企業の場で日本経済民主的再建の道を探求するにいたるのである。
 敗戦直後この会社に迎えられた氏は,ストライキをもってする産別系労組の全面的経営参加の要求に対して,(1)労働条件に関する事項は会社と組合とが協議決定する(組合に拒否権を与える),(2)経理はガラス張りとして組合に公表し意見を述べる機会を与えるが,拒否権は与えない,(3)人事は刷新委員会を造り民主的な明朗人事を行うが,拒否権は与えない,(4)労働組合の健全な発達と共に経営の民主化を更に前進させる,という労働協約を結び,労使の権利の限界線を定めている。ついで新しい就業規則によって,社員は職務に関しては所属上長に対して命令服従の義務があるが,同時に社員は(個人または団体として)その職務に関する意見を所属上長に具申する権利と義務のあることを明示し,「強い労組と強い職制との調和,労働者の経営参加と職制を通ずる命令系統との調整という,民主経営にとって永遠の難問――それは社会主義経済においても起る難問ですが――に対して一応の答を出し,突破口を開いた」のである3)。
 当時経営陣に民主化の徹底の意志を図る意志のあったこの会社の労働組合は,1947年の3月闘争にさいし,大幅賃上げ要求とともに産業復興闘争の方針をかかげるが,しかし労組のなかには「労使の対立激化を第一とする階級闘争至上主義と,可能なところから労使の協力を実現しようとする労使協力コースとが併存しており」,後者は産別の「思想的影響下にあって階級闘争出義の公式の枷から脱しきれず,労使協力コースはすなわち産(業)報(国会)思想であるという批評の前にだんだん臆病となって別の方向に流されていった」。この組合のその後の動きは「生産復興が実はお題目だけで,実際にやることはただ節度なき賃上げ闘争にすぎないことを暴露してゆきます。そして激しい賃上げ要求が経営者を生産復興にかり立てる鉄のムチであると豪語してはばかりませんでした4)」。
 その結果,強い労組と強い職制との新しい協力関係によって産業復興運動を具体化しようとしていた松本氏は辞職を余儀なくされ,また2・1ストを境とした占領政策の転換による労働運動規制と労働運動内部における産別の強引な引回しに反発する産別民主化運動の動きのなかで,これらの組合幹部も職場を追われることとなる。
 松本氏による武田薬品における経営民主化の構想とその実践は,これと同じ時期に執筆された経済同友会の経済民主化研究会の委員長であった大塚万丈氏の「経済民主化とその具体策」(『経営者』1947年3月)と題する論文を貫く発想にきわめて近いものがある。この論文は戦後経営の側から提起された資本主義の内在的批判として最も徹底した内容をもち,その経済体制革新のビジョンは,今日においてもなお清新さを失ってはいないが,のちに大塚論文に接した松本氏自身,この論文によって「武田時代の私の仕事の意味を再評価することができた5)」と述べていることは興味深い。
 武田薬品を辞して自ら「低迷の4年間」と名付けた時期をすごしたのち,1952年,氏は,友人の依頼により,タイサント工業という中小企業の経営を引受け,出資者の間のトラブルに巻きこまれるが,従業員の支持と友人の協力によりこの会社の事業を断承し,1年後,資本金100万円従業員8名の冨士レジン工業を創立しその社長に就任する。
 冨士レジンは,樹胆ライニング(鉄またはコンクリート構造物の腐食を防止するために合成樹脂の被膜をつくる技術。使用する材料はあらゆる合成樹脂にわたり),塗装に近いコーティングから耐酸〓瓦張り工事まで多様)業界の草分けとしてスタートし,のちに耐食FRPによる各種の耐食化学装置の分野に多角化し,腐食問題を解決する新しい技術分野で業界のトップ・グループの企業に成長をとげるにいたっている。
 冨士レジンが,零細企業から中堅企業への成長を達成しえたのは,新分野での先発企業であったこと,ユーザーに対して責任施工の姿勢を崩さず,新しい技術の開発に積極的で実績を重ね,生産技術を蓄積してきたからであろう。このような,資本の蓄積よりも,新技術と信用の蓄積を優先する経営姿勢は,企業の高成長を実現させた反面,その過程で何度か企業を倒産寸前に追いこむことにもなっている。にもかかわらず,危機をのりこえて企業の存続を可能としたものは,氏の経営信条が,社内外の人々に支持され,かつ氏が武田以降一貫して主張実践してきた民主的経営の理念が,従業員の合意を獲得し労使一体化経営を指向するにいたったからであろう。
 すなわち氏は,私の経営信条として,(1)会社の社会的使命の達成(防蝕技術を深めひろめ向上させて社会の求めに答え,社会になくてはならぬ会社に育てあげること),(2)企業の社会的使命の自覚を全社員とともにすること(ここに働くすべての者を……社会になくてはならぬ生産人に育てあげること)を掲げ,この2つの信条は,「この会社を自分のものと考え,会社の仕事に誇りと喜びをもつのでなかったら……達成することはできず」,そのためには民主的経営の実現が不可欠であると考えているのである6)。ここで氏のいう民主的経営の理念は,「労働者の自覚を高め,自覚ある労働者,強い労働組合との間に新しい労使協力路線を見つけること。働くものの生活向上を第一義とすること。働くものの権利を尊重し,働くものに経営参加の道を開くこと,そのことによって働くものの自主的規律と自覚的協力を呼びおこすこと7)」とされている。
 だが,氏はこの民主的経営の実現は決して容易ではないことをはっきり自覚している8)。すなわち氏は,冨士レジンでは,労働協約と就業規則については氏の武田時代につくりあげた原則をそのまま適用しているが,この労働者の権利を可能なかぎり最大限認めた制度は,じっさいには十分活用されてはいないと指摘しており,学歴差なく,技能差,勤怠差をほとんど反映せず,上下差の少ない賃金体系による平等主義は,職場の空気を明朗にしても,社員のやる気と能力の向上は十分でなく,ガラス張り経営の徹底も,これと正面から取り組んで労働者の立場から会社経営に発言する強い組合に労働組合が育ってきていないと述べているのである。氏のいう「強い労組と強い職制との調和,労働者の経営参加と職制とを通ずる命令系統の調整という,民主経営にとっての永遠の難問」「民主化の基盤にたちながら命令系統を強く維持するということ,それは実際問題としては至難のこと」への取組みが続いているのである。
 松本氏が冨士レジンをユニークな中堅企業へと発展させた過程は,日本経済の高度成長の時代であった。この時代の氏の経営者としての体験は,氏を「マルクス主義の公式の呪縛」から解放することとなる。氏は体得した経済体制観をつぎのように述べている9)。「資本主義の変貌と発展の現実は,古いマルクス主義理論でははかり切れない」,「資本主義の時代適応性は思ったより大きく,矛盾をなし崩しに解消していく弾力性もまた大きい」,「資本主義は消費大衆を豊かにすることによって需要を拡大し資本主義のよりいっそうの発展の条件をつくり出す」,資本主義の発展が「社会主義革命を必至とする理論はアメリカや日本には適用しなくなった」。しかし資本主義は「手放しで謳歌すべき制度でないことも明らか」で「豊かさの中の矛盾もまた急速に現われてき」た。
 ではこれらの矛盾は社会主義によって解決されるだろうか。社会主義はたしかに「正義の論理」であるかに見える。だが「現実は生産手段を国有に移したからといってただちに真の人民管理が実現するもの」ではない。それは「官僚支配」に陥るほかなく,「産業進歩への起動力を欠く非能率の体制となる危険性をはらんでいる」。
「生産力のより大きな発展のために経済制度としての資本主義と社会主義のいずれかがすぐれているかといえば『五分と五分』(アンドレイ・サハロフ)と認めざるをえません」。このように体制を相対視した上で,氏は残された観点としていずれの制度が「人間に人間らしい生活を保証するかという倫理性」を問う。その答えは「古典的な姿ではともに落第」なのである。
 そこで氏は「今日の人類史の問題」として「一方で資本主義が個人の思想の自由,経済活動の自由を残しながら,資本の利潤追求をチェックし,経済の発展と人間〓復を両立させることが出来るか? 他方では社会主義が生産手段の国有を残しながら,思想の自由と経済の自由な発展の道を見つけることができるか」と問い,資本主義の側からは,「個人および個々の企業の創意と自由競争が残される限りにおいて資本主義であり,社会の富を統御するものが労働者である限りにおいて社会主義である」ような修正資本主義の制度化こそ目標であるという。
 その上で,氏はただちにその制度化を目ざすのではなく,実態をつくりあげることがさきとして,資本主義の修正に向って「一歩一歩前進を始めること」を主張し,その第一歩を労働者の経営参加に求めているのである。松本氏のこの見解はおそらく戦後経営者の側から提起されたもっとも水準の高い体制論であろう。松本氏の思想には,理論の水準でとらえるならば,根底的な変化があり,その意味で一貫性はない。にもかかわらず,氏みずから自覚されているように,氏の思想の波瀾と変化を通して「1つの変らないもの」が貫いている。それは事実に対する誠実さであり,その人生観である。氏は新しい時代の人間のバックボーンについて冨士レジンの社内報につぎのように説いている。それは,「個人の良心の尊厳」である。「この人間の自律の精神,外なる権力権威に盲従するのでなく,内なる良心にかえりみて,自ら正しいと信ずるところを主張し,如何なる迫害にも妨害にも屈せず義務感をもって自ら信ずるところに従うという精神,そういう崇高なものだけが民主主義に値する10)」。そこには,さきに指摘した共産主義者としての若き日の人生観が,より洗練された形で堅持されていることが見出されるのである。
 マルクス主義のイデオロギーによる労使対立観をこえて労使一体化路線を追求するにいたった松本氏のように,その思想の軌跡を明確に語りうる経営者はまれであるとしても,勤労出身の経営者のなかには,マルクス主義のなんらかの影響うけた人々は,日本の社会では少なくないようだ。このような経歴を持つ経営者として『鍍金と共に五十年』(表面処理ジャーナル社,1968年)と題する自伝を執筆されている平沢好男氏をあげることが出来る。戦後工業用クロームメッキ専業者として,超大型メッキ槽を建設し多くの新技術の開発と工業化を達成した愛国メッキの創業者となる氏は,1906年,愛知県三河地区の大地主の旧家に生れ,生家の没落とともに1918年東京墨田区の親戚のメッキ工場に丁稚奉公し,すでに15歳の頃20人の工場の実質上の工場長となっていた。この工場の主人の病没,工場の解散を契機として,氏は名古屋,関西地区のメッキ工場に,当時の熟練工を目ざした勤労者の多くがそうであったように「武者修業」に出かけ,1932年末独立するまでの15年間なんと70軒のメッキ工場で働いて経験を積んでいる。
 氏はこの間20歳頃から日本の社会機構に矛盾を感じており,昭和初期の不安な社会情態の下で「社会革命によって,貧乏人を救う以外に途はないと左翼主義思想の中に飛び込んだ」のである。氏は,江東地区を地盤とする宮崎竜介氏を総裁とする江東社会党江東政治学校(浅沼稲次郎,安倍茂夫,河野密氏らが講師となっていた)に1929年頃から2年間学び「かなり優等生」であったという。しかし,氏は実践活動はしなかった。父は家計をかえりみず,母が病身の妹を看護していたため一家の生活がすべて氏の肩にかかっていたからである。氏はつぎのように書いている。「人は,裸一貫を最低のように思っているが,私は裸一貫になるまで24年の歳月を要した。裸一貫ほど有難いものはない。母(と妹)の死後,左翼思想をもって,敢然と労働運動に飛びこみ,闘士として,眞先に立って暴れ回ったのはそれ以後である11)」。氏は墨田区の東洋ブロンデング工場で,ただ一人で「資本家と表面切った闘争」をおこない,中央一般労働組合に所属していたが,非合法であった共産党系の日本労働組合全国評議会(全協)の活動家でもあった。1932年4月メーデーの予備検束のために検挙された氏は,「同志たちのフガイなさにアイソをつかし」1932年8月,転向するとともに東洋ブロンジング工場を退職し同年末墨田区本所に2坪,バフレース1台,2馬力のモーター1台,たった1人で「愛国鍍金」を創立するのである。
 氏は転向についてつぎのように書いている。「左翼理論で行けば,認めない政府,認めない天皇の名においてする裁判,その他法律によって行われること一切は,否定しているのだから,転向でもなんでもすればよい。本当にやる気なら,保釈されてから,完全に地下に潜って運動すればよいので,18年も牢獄にいた有名な指導者がいるが,これは馬鹿な話である。天皇制・資本主義・私有財産などを認めれば,転向者として保釈されるのだ。肝心なことは,べらべら自白して観念的なことは認めないで,とらわれの革命運動などは,およそ無意味である12)」。
 氏の転向の動機は,イデオロギーの純粋性を実践活動よりも上位におく左翼インテリの発想に氏が強い異和感をもったこと,「社会主義を講義や本で習ったことは,実社会には矛盾だらけで通用しないこと」を知ったことであり,かつ「責められても,一言半句認めなかったことが後からわかって,敵ながら,あっぱれだということによる特高係の人間的な好意」にもとづく,独立して事業をはじめ,転向を立証するようにという「非公式な注意」を受け入れたからである。だが氏はこの活動家時代を否定せず,「人生修養の1コマと思えば苦しかったが良い体験」と語っているのである13)。すなわちこの時代のことを思えば「どんな困苦欠乏重労働にも耐えることができる。また精神の統一・物の見方・裏と表からの見通し,人の言動に対する観察,前記のどれ1つでもひとつ間違えば,死につながる文字通り体をはっての試練」だったからである。
 氏は愛国鍍金創業以降の経営者として,業界の通念に同調せず,たえずイノベーションに挑戦し,所有特許を侵害した大企業日本ステンレスに対して弱い下請の立場にありながら,6年間争いつづけ相当の補償金を支払わせたように,取引先に対しても正当な権利を主張し,社員に対し強力なリーダーシップを発揮している。若き日に社会革命を目ざした氏の達成動機は,企業のイノベーターとしての氏を支えるものとなっているように思われるのである。
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 数ある「経営ゼミナール」のなかで,その規模の大きさと参加者たちの熱っぽさで知られているのが「箱根ゼミナール」である。雑誌『商業界』の主催で,1951年から毎年1回開かれてきたこのゼミナールは,「人間3日くらい寝なくても死ぬことはない」という意気込みで夜を徹して討論する。
 しかし単なるモーレツ特訓ではない。新しい商店経営技術や広告・宣伝技法を教える一方で,商業の社会的役割や商人の生き方を説き,これら両者の内面的な結びつきを企図している。そこに参加者の情熱をかきたてる独特な魅力があるようだ。また『商業界』同人と愛読者が協力してゼミを運営しているので,商人が眞の友をつくる学校という役割をも果している。「親睦にはなるが,商売の検討はできない」といわれる業界団体の集会や,狭い視野から脱しきれない地域団体の会合では求められないものが,ここにある。倉本長治氏は『商業界』主幹であり,このゼミの開設以来の指導者なのである。
 氏は1899年生れ,中学校卒業後,山下汽船の研修生となった。第1次大戦の好況下にあった当時,山下汽船は中学卒の秀才を採用し,3年間の研修で幹部養成を試みていた。この社内学校で早大および立大の交通論・経営学の授業であった伊藤重治郎氏の講義を聞いて,氏は商業論に興味を持った。
 伊藤氏に目をかけられ,その紹介で知った『実業之日本』の戸川編集長の推薦で,東京商工会議所に開設されたばかりの調査課に入所した氏は,2年間,「だれもやるものがいなかった」商店経営の調査と研究に従事した。
 そのころ三越がセルフ・セクション販売方式を試みたが,米国で生れたばかりのセルフ・サービス店の情報によって,たまたまこれを批評した氏の論文が雑誌『商店界』主筆の清水正巳氏の目にとまり,同誌の編集に参加するようになった。
 『商店界』が誠文堂の直営に移った1924年,倉本氏は同社に入社,やがて経営全般を任され,専務となった。マネージャーとなってからも商業評論を続けたばかりでなく,広告・宣伝のコンサルタントとして活躍し,昭和初期にはすでに商業専門家として名が通っていた。
 戦後,誠文堂新光社の戦争関係出版物刊行の責任を問われて追放となった氏は,知人を頼って全国的に商店主を対象とした講演旅行をして歩いた。商人たちに,「物を積極的に売れ」,「足で仕入れに駆けまわれ」,「税金を恐れるな」,「利益のないものに税はない」,「早く商店街を作れ」などと説く一方で,改めて商業の実際を知った。ヤミとインフレのもとでの商人の売り惜しみ,無気力さ,ずるさをいやというほど見せつけられ,これでは商人は消費者の敵になってしまう,商人に道義を説かなければ,と痛感した。これが氏の転機となった。
 追放解除後,友人達によって創刊された『商業界』の主幹に迎えられた倉本氏は,経営コンサルトをやめた。中小企業診断制度が生れてそれは職業として確立していたが,顧客の経営の内部に「めり込む」以外に良心的な仕事はできないとし,それよりも道義を知る商人をふやし,その人々に友人として経験と研究成果をもとにした助言をしていこうと思いたったのだ。
 生きるよりどころを宗教に求めるまじめな商人は多い。また新しい経営技術の勉強と実践に熱心な店主も少なくない。この道義的なまじめさと技術面での意欲を内面的にいかに結びつけるか,これなくしては真の経営革新はあり得ないと思った氏は,このつなぎの役割を果す「むすびめ」になろうと決心した。『商業界』は商業への新しい米国式経営技法の導入と同時に,損得よりも商売の正しさを追求する「商道」を説くことになった。
 商業経営の指導者たちの多くは,いかにしてより多くの利潤をかせぎ出すかと商人に説き,それから一歩も外へ出ていない。これでは店の繁栄はないと倉本氏は説いている。商人たちはよく「三位一体」論を主張する。メーカー・卸・小売が一体となって共存共栄することだという。これを「消費者を向うにまわす経営論」とみる氏は,『愛と真実と利益』の三位一体論を主張する。それは「商人として物を考えるなら,(1)自分のやっていることが,仕入も販売も真実に徹しているかどうか,(2)世の中の人々に公平であり,親切であり,友愛を深めるかどうか,(3)お客にも自分にも店員にも,それは有利であるかどうか」に帰着し,この「3つが合理的に実現して,始めて立派な商売が成り立ち,美しい商人が生まれる」というのである14)。
 三位一体論の核心は,商店経営の目的は「金儲け」ではないと断じるところである。商店とは「人間の勤労の報酬が,その生活の喜びと化する神聖な場所」をいう「ここには深い愛情に包まれた勤勉と誠実の外,嘘やゴマカシなどが在る可きでない」と氏はいう15)。このような店を維持し,消費者を幸福にするように商売を維持し改善しつづけ,また拡張したり充実したりするためにこそ利潤が必要なのである。商売の真の目的を達成するために儲けを作り出さなければならないのである。このように利潤を1つの過程としてとらえるとすれば商売をして損をすることは罪悪となる。損しては店の充実はできず,経営の力は弱まり,消費者に不便な,不利益な商売をしなければならないハメになるだろう。それは商人として許されないことなのである。社会に対しても良いことではない。店員の待遇も悪化しよう。問屋にも迷惑をかけるだろう。それは「罪悪」なのである16)
 「商売をして儲かるということは,お客から金を奪うということではない」。店が「ヨリ多く利用され,繁昌するために,店は現在必要度の利益を挙げなくてはいけない。しかもその利益は,お店の利用者である生産者・問屋・お客・従業員等々の利益を損うことなく挙げねばならぬのだから,経営の技術が非常に大切なのが理解されてくる17)」。
 新しい経営技法の学習と実践の必要がここに位置づけられるのである。
 倉本氏の主張は氏みずから言及されているように,ピーター・ドラッカー教授の利潤論と共通の論理構成を持っている。すなわち三戸公教授の指摘されるように,ドラッカー教授が最大限利潤の追求を何のやましさもなく提唱しえたのは,利潤はいかに生れ,つくられたかという観点から一転して,利潤は何に使われるかという観点に飛躍し,利潤を未来費用として拡大再生産のための原資とみなしたからであるが18),それは,利潤を商売繁昌のための原資とみなす倉本氏の発想と全く共通している。
 だがドラッカー教授の主張には,現代企業は個人の私的所有にもとづく制度でなく,機関所有にもとづく社会的制度となっているという前提があるが,倉本氏の対象は私的所有にもとづく商店である。
 それゆえ氏は,利潤は企業に対する権利の要求ではなくして,企業の持つ権利としての要求とみなすとともに,「事業とこれを行う人間とに与えられる利潤と報酬との区別」を重視し,商店主に,「いくら取ったらいいのか」を自ら問うことをすすめ,「事業を行う,商売をするということの『人間の営み』についての眺め方を,もう一段高い所から行い,世の中の適当さ,中正な型というものを商人の報酬に求めること」をすすめており,『商業界』の同友の店主たちが「自己の報酬を自ら規制し,自制の上に立って,これで満足し,商売を己れの金儲けの具とは見倣さない」こと,「己れの商業活動に対しては,店から納得のいく報酬をキチンと,高い誇りをもって受けとっていること」「そのことは知恵や技術の問題ではなく,その人の商売に対する哲学の問題」であると説いている19)。いいかえれば,倉本氏はオーナー経営者に対してオーナーとしての報酬を求めるのでなく,経営者としての能力に応じて報酬を求めよと説いているのである。
 お客の喜ぶ,社会を利する商売なら,それを改善し拡張させ充実させなければならない。商売の真の目的を達成するために儲けを作り出さなければならないのだという信念に立つとき,初めて商人は,卑屈な商人の多い世の中で胸を張り,瞳を輝かせ深い呼吸をして,世間の人々の顔を正面から正視できるのである。このように商人を利潤追求へのうしろめたさから解放して,氏は「儲けない商売に誇りを持っても,儲からぬ商売を恥じよ20)」と商店主を激励している。
 倉本氏の商人道の主張には,石門心学の思想と共通性がみとめられる。すなわち石田梅岩は,商人のもつ利潤追求の正当性を根拠づけ,当時の身分制社会において,商人は決して士農工に劣った存在ではないとし,商人の劣等感を取り除くことに努めている。その反面かれは,利潤追求には一定の枠組のあることを強調し,「商人と屏風は曲っていないと立たない」,商人の世界はきれいごとではすまされぬといった通念に対して,屏風は地面が平でなければ立たぬという反論を加えている21)。梅岩は,利潤追求システムがよく機能するためには,それにたずさわる人間の心の問題が,決定的に重要であることに気付いていた。みんなが正直に徹し,他人に迷惑をかけず,楽をして金儲けに走らず,ムダを省くことによって世のために役立つという気構えをもつときに,そのような「統合システム」(ボールディング)のもとでのみ,利潤追求のシステムは良きパフォーマンスを発揮しうるからである。
 だが倉本理論は,同じ日本に生れた思想として,石門心学の説くところにきわめて近い発想があるにせよ,それは石門心学の現代版と見なすべきでなく,「現場主義」にもとづく,すなわち戦後の日本における繁昌店の店主の思想と行動の一般化であり,いかにすれば繁昌店をつくり出せるかという洞察であり,そこに,この理論の商人達に対する説得力もあるとみなすべきであろう。
 多くの著作と講演によって商人の「啓蒙の戦い」に徹した氏は,しかし商業エゴイズムとは全く無縁である。圧力団体としての商人の活動には批判的で,古い考え方から脱し切れない「商店主の泣きごと」には愛想がつきる。欲の深い,うそでかためたような商人には「哀れみ」を感じると語っている。商売不振で困っている人に対して,氏は,「嘘を言わないこと,他人に迷惑をかけないこと,進んでお客のタメになる商売をすること」を説き「始めて,あなたが開店したその頃の必死絶対の心構えと,思い切って切り詰めた生活様式にもう一度戻ること」「何もかも捨てる」覚悟をもつことを説いている22)。
 「サア諸君……消費者のために真実を尽くし,愛情ゆたかである以上,どんな力にも負けないのだ……と,おのおの信ずるところに向って大胆に努力する魂に徹しよう23)」。倉本氏の説くこの商魂は,単なる徳目の羅列ではない。氏はこれらのモラルと日々の経済行為および生活態度とのつながりを感じとらせて,商人の中に商業への使命観と情熱をかき立たせようと苦心しているのである。
 「君は商売で泣くことができるか」と氏は商人たちに問いかけている。「其の日の商売について心から楽しく笑ったり声を挙げて泣いたりする商人」,つまり理想と商売とを「同調させる24)」ことのできるような心のあり方こそが,安易の生き方と結びつき,うしろめたさと不安感につきまとわれた金儲け主義を克服するエネルギーを生み出すことができるというのである。
 倉本氏の説く新しい商道は,中小小売商人の経営革新を促すエートスとなり,それは青森の武田百貨店,酒田のトー屋,郡山のベニマル,熱海の八百半,大阪のダイエイ,ニチイ,姫路のフタギと四日市の岡田屋(現在のジャスコ)などをはじめとする小売業界における中堅・大企業を生み出す流通革命のエネルギーとなったのである。

1)『信念の経営』7ページ。
2)『前掲書』163-66ページ。
3)『前掲書』174ページ以下。
4)『前掲書』199ページ。
5)『前掲書』306ページ。
6)『不死身の経営』まえがき1ページ。
7)『信念の経営』270ページ。
8)『信念の経営』2,70ページ以下。『不死身の経営』215ページ以下参照。
9)『信念の経営』295ページ以下。
10)『不死身の経営』178ページ以下。
11)『鍍金と共に五十年』85ページ。
12)『前掲書』86ページ。
13)『前掲書』87-8ページ。
14)『儲けとは美しい哉』1966年,4ページ以下。
15)『店主宝典』1959年,69ページ。
16)『儲けとは美しい哉』123-24ページ。
17)『前掲書』92-94ページ。
18)三戸公『人間の学としての経営学』1977年,19ページ以下。
19)『儲けとは美しい哉』220ページ以下。
20)『儲けとは美しい哉』60ページ。
21)石川謙『石田梅岩と都鄙問答』1968年,167ページ。
22)『儲けとは美しい哉』199-200ページ。
23)『新しい商人像』1967年,193ページ。
24)『前掲書』第1章参照。
[付注] 倉本長治氏の著書・論文はきわめて多い。ここでは著書に限り,戦後の時期 における著作目録をあげておく,この目録は,商業界社長倉本初夫氏の作成によるものであり,氏の好意によってここに収録させていただいたものである。
昭和24年:
 店主讀本 青山書院
 これからの商店経営 青山書院
 経営者のための販売知識 ダイヤモンド社
昭和26年
 機会を活かせ(今日の教養書選第25) 池田書店
昭和29年
 商店讀本 商業界
昭和30年
 名菓を訪ねて 製菓実験社
昭和31年
 店主讀本 商業界
店は繁昌のためにある 商業界
店員と共に店は栄える(商業シリーズ) 東都書房
正札販売の勝利 商業界
商人と人生 商業界

昭和32年
 あなたも成功できる 東都書房
 百貨店の次に来るもの-米国の商売は変ってきた 再建社
 考える商人 商業界

昭和33年
 ショッピングセンターとスーパーマーケット 商業界
 小店繁昌の道 再建社
 商店経営の技術と精神 商業界

昭和34年
 店主宝典 商業界
 新商店読本 再建社

昭和35年
 商人の歓びと悩み哀しみ 商業界

昭和36年
 儲けとは美しい哉 商業界
 商人論語 商業界
 アイデアで勝つ-販売革命の先駆者たち 東都書房
 勝ち抜く商店経営 同文館出版

昭和37年
 孫子と商法 商業界
 チェーンストアヘの道(経営シリーズ8) 文化社

昭和38年
 経営の真髄―偉人の思想と販売革新の道(リビング・ライブラリー) 徳間書店

昭和39年
 無名商店のために 商業界

昭和40年
 商人の哲学 商業界
 倉本長治短詞集 商業界

昭和41年
 真商人譜(経営ライブラリー3) 商業界

昭和42年
 大工と天幕屋「商人の心の書1」 商業界
 日本商人史考 商業界
 仁の人義の人「商人の心の書2」 商業界
 仏陀と商人たち「商人の心の書3」 商業界
 戦かわぬ勝利者「商人の心の書4」 商業界
 街かどの忠告者「商人の心の書5」 商業界
 新しい商人像「商人の心の書6」 商業界
 道鏡と居酒屋-エピソード商人史- 人物往来社

昭和43年
 商店経営読本(経営ライブラリー13) 商業界

昭和44年
 店主帝王学 商業界

昭和45年
 異才商人 商業界

昭和46年
 着想の天才たち-広告界の先駆者 商業界

昭和48年
 商人と仏教 商業界

昭和49年
 商人讃歌 商業界

昭和50年
 此の人と店-わが半生の交遊録 商業界

昭和51年
 ここに店あり 商業界
昭和52年
 みち楽し 商業界
 おらんだエビス 叢林書院

昭和53年
 石田梅岩ノート 商業界
 商人要道 商業界

昭和55年
 商いの倫理 商業界

昭和56年
 商人と土根性 商業界