Iron and Steel

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日本鉄鋼技術の形成と展開

Author: 飯田賢一
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1979年
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 目 次
Ⅰ 序 論・・・・・・・・・・2
 1 人間と技術と鉄・・・・・・・・・・2
 2 鉄鋼技術史の時代区分・・・・・・・・・・3
 3 日本の鉄鋼技術・・・・・・・・・・5
Ⅱ 知恵としての技術の時代・・・・・・・・・・9
 1 「わざ」と「たくみ」・・・・・・・・・・9
 2 土着製鉄技術の成立と発展・・・・・・・・・・12
 3 鉄の思想・・・・・・・・・・22
Ⅲ 伝統技術から洋式技術へ・・・・・・・・・・24
 1 洋学,ことにオランダ技術学の組織的な摂取・・・・・・・・・・24
 2 反射炉から高炉へ・・・・・・・・・・27
 3 コークス高炉法の確立・・・・・・・・・・32
 4 官営八幡製鉄所の成立と発展・・・・・・・・・・36
 5 民間製鋼業の発展・・・・・・・・・・40
Ⅳ 科学的技術の時代・・・・・・・・・・43
 1 日本鉄鋼協会の創立とその後・・・・・・・・・・43
 2 両大戦間における技術的蓄積・・・・・・・・・・45
 3 臨海銑鋼一貫製鉄所の展開・・・・・・・・・・47
 4 技術導入から自主開発へ・・・・・・・・・・51
 5 これからの技術のために・・・・・・・・・・57

序 論
 洋の東西を問わず,そして国の先進たると後進たるとを問わず,人間の生活のあるところには必ず技術があり,鉄が存在し,人間の知恵がはたらいている。鉄の使用とともに人間は文明の門にはいり,技術をおし進め,知力を発達させてきたと考えてよい。
 そして,鉄が民衆と,つまり人間の生活とともにあるかぎり,鉄の技術と経済の流れは,どの国の大地をもうるおし,やがてはひろく世界の文化という大きな海へと合流し,また時には逆潮(さかしお)となって,いろいろの国に注がれていくにちがいない。
 私はこのような認識のうえに立って,世界の鉄の歴史のなかでの日本の鉄鋼技術史を明らかにしたいと考える。

1 人間と技術と鉄
 紀元前400年ころに成立したといわれる『旧約聖書』のイザヤ書とミカ書には,「なんじの剣を打ち変えて鋤とし,鎗を打ち変えて鎌とせよ」ということばがある。これは,鉄がいろいろと人間の役に立つ形に自由に加工できるすぐれた性質をもっていることを語るとともに,その技術を行使するのはかかって人間の思想であり,それらを戦争のためではなく,平和のために使うべきことがさとされている。
 キリスト教と同じくセム民族の宗教の聖典である『聖クラーン』(コーラン)にも「鉄の章」(第57章)があり,アルラーが鉄を人びとに下したが,それは偉大な力があり,人間のために種々の便益を供するからだということが記されている。鉄は,謙譲,誠意,慈愛などの美徳が由来する,力と確実さの象微なのである。
 日本にも鉄と民衆生活とのかかわり合いを語ることばは,古くから多く存在する。
 たとえば古代の万葉人は,
 ひらたまの くるに釘さし 固めとし
 妹が心は あよくなめかも
と,壮大な建築物の木材の接合材料としての鉄釘に寄せて,妻への恋ごころと操を『万葉集』(795)の歌に託している。
 鉄の生活のなかではたす役割を,最も的確にとらえているのは,日本の18世紀が生んだ科学思想家・三浦梅園(1723-89)の経済論の著作『価原』(1773)に表われる,つぎのことばである。
 金とは五金の総名なり。分っていえば金・銀・銅・鉛・鉄。合わせていえば皆金なり。五金の内にては鉄を至宝とす。銅これにつぐ。鉛これにつぐ。
 如何となれば,鉄その価,廉(れん)にして,その用広し。民生1日も無くんば有るべからず。
 梅園は,鉄は多くの人びとに広く使われ,日常生活に1日も欠かすことのできないゆえに,いちばん大切な宝物だと,みごとに言ってのけたのである。
 梅園の思想的流れをくむ福沢諭吉(1835-1901)が「鉄は文明開化の塊なり」(『民情一新』1879)とも強調するころとなると,すでにヨーロッパにおける鉄の量産システムを日本に受容する基盤が整い始めていることを示していると,言ってよいであろう。

2 鉄鋼技術史の時代区分
 古代から現代にいたるまでの鉄鋼技術の歩みは,欧米も日本も,基本的にはまったく変らない過程をたどっている。一言でいえば,それは鉱業技術から工業技術,さらに科学的技術としての鉄鋼技術への発展史であったということができる。
 世界と日本の鉄鋼技術の発展段階を図式化して対比的に示すと,第1,2表のとおりである。
 欧米では18~19世紀,日本では20世紀初頭のまえ・あとのころに遂行された「産業革命」が転機となって,製鉄用燃料(還元剤)が,木炭からコークス(石炭)へと転換し,また動力源が水力(水車)から熱力(蒸気機関)へと変革されたこと――この二つが大きな原動力となって,①コークス高炉による銑鉄の量産と,②転炉・平炉・電気炉による溶鋼の工業的生産が可能となり,やがて③銑鋼一貫の製鉄システムが確立される。そして,これからあと,かつては経験的な技術にとどまった鉄冶金術は科学的な技術へと脱皮し,現代工業の基礎材料としての多品質・多形状にわたる鋼材を大量につくる生産体系が,新鋭銑鋼一貫製鉄所を中心に,大型化・連続化・自動化をともなって実現されてゆく。
 大づかみにとらえると,以上が近代鉄鋼技術史の大きな流れである。
第1表 世界史における鉄鋼技術の歩み
第2表 日本鉄鋼技術史の時代区分

3 日本の鉄鋼技術
 周知のように近代日本の鉄鋼技術は,欧米技術の移植を基軸として形成されてきたものである。さきの第2表でいうと,第Ⅰ期の「たたら製鉄法の時代」(古代―1857)を除くと,第Ⅱ期以降は欧米からの技術導入史が,日本鉄鋼技術史の大きな部分を占めることになる。
 しかし,それにしても,今日世界第3位の製鉄国,第1位の鉄鋼輸出国にまで発展した日本の鉄鋼技術の力量とその蓄積は,ほかならぬ日本人自身によってなしとげられてきたものである。日本の科学と技術とにおける力量は,かって三枝博音博士も指摘したように,ひとつは日本人の創造的知力,もうひとつは日本人の組織的生産力,これらによってできたものである。
 私はまず欧米からの技術を受けいれるにあたって,1850年代までの日本は,長年にわたる手づくりの経験を通じて,科学の体系をもつことなしに,すぐれた技術的知恵を,いいかえれば豊かな土着技術の土壌を用意していたことを指摘しておきたい。
 現代アメリカの金属学者C・S・スミス博士は,その著書『金属組織学の歴史』(1960年)のなかで,日本刀に具現されている技術に関連させて,近代以前の日本の鉄鋼技術の特質を,たくみにヨーロッパと対比させて,つぎのようにのべている。
 日本の刀の仕上げは,類のない卓越した金属組織学者の技術である。日本人は視覚的にとらえられる金属の構造を正しく評価し,これを鍛造と熱処理の制御に役立てたのであるが,しかし,金属の本性または凝固と変態の科学的理解にはまったく貢献しなかった。顕微鏡と知的好奇心の2つが17世紀から前進していったヨーロッパでは,研究に使用できた表面といえば,破面または完全に構造をかくしてしまう研磨とつや出しのほどこされた表面だけであった。もし日本人が科学に心を傾け,逆にヨーロッパ人がよりすぐれた金属の技術者であったならば,金属学の歴史はひじょうにちがったものになったであろう。
 スミス博士がいみじくものべたように,顕微鏡という科学的な観察・測定のための器械が金属の研究に利用されたとき,ヨーロッパではアジアに先がけて金属の科学が成立した。しかし日本では,このような科学上の理論,物理や化学の法則を知らなくて,ヨーロッパに先がけて鋼の熱処理の技術を確立させていた。ここに江戸時代までの日本の鉄鋼技術の無類の特質がある。いわば知恵としての技術である。
 そして,このような特質が幕末以来のヨーロッパ技術学との接触によって変貌し,およそ100年にわたる欧米風の工業的量産技術確立の過程で,今日の科学性,計測性に富む鉄鋼技術の段階へと発展ないし止揚された,ということができる。
 知恵としての技術の時代を,第Ⅰ期たたら製鉄法の時代(古代―1857)とすれば,安政4年12月(新暦では1858年1月),南部藩(いまの岩手県)釜石の大橋鉄山で洋式高炉の操業が始まり,従来の手工業的な「たたら製鉄法」に代って,量産を基本とする近代製鉄技術への第一歩が記されたときから,第Ⅲ期たたら製鉄法から洋式製鉄法への移行の時代(1858-1900)が始まる。この期の最大の特徴は,釜石でコークス高炉法=銑鉄の量産技術が確立され,それまで日本の鉄産地の中心であった中国地方の鉄を駆逐したことである。
 つぎに,1901年(明治34)の官営八幡製鉄所(正式には農商務省所管「製鉄所」)の創業をもって,日本鉄鋼技術史の第Ⅲ期がはじまる。
 山へ山へと 八幡はのぼる
 はがねつむように 家が立つ
 この句は,詩人北原白秋が1930年につくった歌の一節で,いま北九州市八幡東区の高炉台公園という市民いこいの小高い丘のうえに碑文が立っている。近代資本主義社会への歩みとともに,臨海製鉄所を中心に,せまい国土をたくみに利用して形成されてきた日本鉄鋼業の立地条件の一つの典型を,よく表現しているといえよう。
 さて,八幡の創業によって初めて製銑・製鋼・圧延という一貫生産のシステムが確立され,近代溶鋼法(平炉・転炉・電気炉)による各種の鋼と,産業用鋼材の製造ができるようになる。金属鉱業でなく金属工業の技術としての鉄冶金技術が形成され,副産物回収式コークス炉が導入され,鉄鋼・製造化学両技術の密接な結びつきによるコンビナート指向が定まるのも,この第Ⅲ期の特徴である。
 つぎに,1915年(大正4)の日本鉄鋼協会(最初の鉄鋼専門工学会)創立,あるいは1919年東北帝国大学鉄鋼研究所(いまの金属材料研究所)創立をむかえる1910年代のころから,日本の鉄鋼技術はその科学との結びつきの拠点をもち得るようになり,鉄鋼科学ないし金属工学上の研究成果に基づく新しい鉄鋼技術の創造がしだいにみられ,工業技術から科学的技術への移行が始まる。
これが第Ⅳ期である。
 しかし,たとえば本多光太郎博士のKS磁石鋼,増本量博士の超不変鋼など,世界にほこる合金鋼の発明がなされたものの,戦時経済への突入は,めばえた科学・技術のいっそうの発展をこばみ,ほんとうの科学的技術としての開花は,第2次大戦後にもちこされる。これが第Ⅴ期である。
 この時代は,戦前までの技術的蓄積の土壌のうえに,あらゆる導入技術が摂取・吸収され,臨海鉄鋼一貫製鉄所を基軸に,原料事前処理→大型高炉→純酸素上吹き転炉(LD転炉)→連続鋳造法→圧延の連続化・高速化といった生産システムが,規模の経済性の追求という路線に沿って展開されるのが特徴である。しかし同時に,いわゆる環境汚染,公害問題が顕在化し,NOx,SOx対策をはじめ,省資源・省エネルギーなど,化学技術・装置工学上の多くの課題に直面し,新しい環境創造への挑戦が試みられる。また鉄鋼エンジニアリング部門の拡充と海外への鉄鋼技術輸出が積極的に意図され,日本鉄鋼業の国際化が進展するようになる。
 さて,以上のように世界と日本の鉄鋼技術の歩みを概観したうえで,つぎの3つの章に分けて,わが国における近代鉄鋼技術の形成と展開を叙述することとしたい。
 (1) 知恵としての技術の時代
 (2) 伝統技術から洋式技術へ
 (3) 科学的技術の時代
 とくに,(1)においては“近代日本鉄鋼技術の土壌となった土着技術の再評価”,(2)においては“ヨーロッパの大量生産システムとの出会いにおける土着技術と導入技術とのかんけい”,(3)においては“日本鉄鋼技術の自主的発展と第三世界への寄与”が,それぞれ扱われることになろう。

Ⅱ 知恵としての技術の時代―近代鉄鋼技術形成の基盤

1 「わざ」と「たくみ」―農業労働力との結びつき
 ドイツの技術史家A.ノイブルガー(Neuburger)が「古代の技術」(Die Technikdes Altertums,1921)という書物のなかで,「鉱業がなくてはどんな技術もない」といったことは,古代ギリシャ・ローマのころに「農業がなくてはどんな技術もない」ということが真実であったように,中世の終わりのころにはもう十分にあてはまる,ひとつの技術観であったと考えられる。16世紀ドイツの医師であり鉱山学者でもあったG.アグリコラ(Georgius Agricola,1494-1555)は,近世技術の集大成ともいうべき『デ・レ・メタリカ(De Re Metallica)』(公刊は1556年)を著わし,まさしく鉱業がなくてはどんな技術もないという技術思想を全ヨーロッパに向って打ち出したのである。
 それは,いっさいの産業技術が鉱山の現場のなかに相寄り,相集まって,ひとつの鉱業が開営されるのみでなく,そこで行われる鉱物資源の開発や金属の生産が,じつにあらゆる産業の近代的発展のための基礎になっているという考えを意味している。
 ドイツの文豪ゲーテ(Goethe)も,絶賛を惜しまなかった「デ・レ・メタリカ』(鉱山冶金論)は,技術の世界が科学の法則の世界へと近づいてゆく第一歩をしるした実証的精神にみちた技術書として知られているが,ここで私がとくに注目したく思うのは,鉱業(金属)と農業との関係を,この書は技術史的にはじめて的確にとらえた技術古典として,他に類をみないと考えるからである。
 アグリコラは1550年12月付の序文のなかに,つぎのように記している。
 鉱山業は産業経済のすべての部門のうちで決して農業より古くはないかのように見えるでもありましょう。けれども鉱山業は事実農業よりは古く,少なくとも同じくらい古いのでございます。なぜかと申しますに,道具がありませんでしたら農耕はできなかったのでありますし,そうした道具は,その他の諸技術も同様でありますが,金属からつくられますか,それともまた金属の助けをかりないではつくられなかったのでございますから。かようにして,鉱業は人間たちにとってこの上なく必要なものでございます。道具なしになにものもつくられはいたしません。
 周知のようにわが国の農耕文化の起源は,鉄器文明の定着・普及とともに始まっている。なぜ鉄が農業を支えたかは,上記のアグリコラの指摘によっても推察がつく。3~4世紀ころの水田遺構とされる有名な静岡県登呂遺跡に出土をみたおびただしい数の木製農具・生活用具が,すべて鋭利な金属器(鉄製工具)によって加工されたものであることは,考古学者の報告をまたずとも,現物をみれば一目瞭然である。
 近年私は「常陸風土記」(ひたちふどき)で名高い茨城県の鹿島地方をはじめ,岩井・結城(ゆうき)・水海道(みつかいどう)などの下総(しもうさ)各地に数多く存在する製鉄遺跡の総合調査に参画し,出土する鉄滓(かなくそslag)や羽口(はぐち)片など,路上にも発見できる関連遺物を精力的に収集して,これを自然科学・工学・人文科学の専門領域を異にする人びとと学際的に共同研究することを進めつつあるが,興味深いことに,これらの製鉄遺跡は同時に貝塚や縄文土器を近くに伴出する場合もあり,人間にとって暮しやすい生活の場が同時にもの(金属)をつくるに適した場でもあったと考えられる複合文化遺跡が多い。
 常陸国・下総国(いまの茨城県)を中心とする関東平野一帯の農業生産を鉄が支えたことは,これらの調査からも明らかである。
 ところで逆に,農業と製鉄との密接な結びつきを考えるにつけ,製鉄加工技術のために農業労働力が寄与することまた多大のものがあったとみるべきではあるまいか。もともと製鉄技術はその生成期以来,原料(砂鉄・鉄鉱石),燃料(木炭),炉材(粘土),送風用ふいごの動力(風力,水力)など,自然環境条件に左右される要素が多く,この意味で農業と同じく土着性を濃厚にそなえている。このことは現代の鉄鋼技術においても基本的に変らない。たとえば,マレーシアのマラヤワタ製鉄(Malayawata Steel Co.,Ltd.)がゴムの廃木による木炭を,中東カタールのカタール製鉄所(Qatar Steel Co.,Ltd.)が天然ガスを製鉄用還元剤に使用しているごとき,その好例であろう。
 いったい人間による技術は自然環境条件の良さを得て初めて成立しうることについて東洋(中国)は,はやくすばらしい技術の古典をもっている。紀元前30年ころの書とされる『考工式』がそれで,同書にはつぎのような見解が示されている。
 「天に時あり,地に気あり,材に美あり,工に巧あり。この四者を合わせて,しかるのち良となすを得べし」。
 天に時ありとは季節の移り変り,すなわち自然条件の重要さを表わしており,地に気ありとは,海・山・川など環境条件に対する配慮を示している。つぎに材とはいうまでもなく素材・材料のことで,美ありとは,すぐれた美しい材料を選ばねばならぬことをいっている。そして最後に,つくる人(工人)の巧みが指摘され,本当の技術とは自然環境・素材など,ひろい意味での自然全体の協力をえて初めて完全なものとなる,という識見がここに打ち出されている。ここには天・地・材・工といった四っのモメントの組合せ,つまり生産をひとつのシステムとして総合的にとらえようとする思想が流れている。いわば「土着技術の知恵」である。
 ここで私は「わざ」と「たくみ」ということばを考えてみたい。渡辺茂教授ののべるところによると,技術の「技」は「わざ」と読むが,「わざ」は「わさ」のにごったものであるから,両者はほとんど同義であり,その「わさ」とは古語辞典が明らかにするように「わせ」の古形であり,「早稲」を意味している。さらに一般には,「わせ」とは稲にかぎらず植物などの早く熟するさまをあらわしている。
 これらのことばのかかわり合いから,「わさ」「わせ」は,促成栽培植物をさし,「わざ」「わぜ」は本来促成栽培技術をあらわしたものであることは十分に首肯しうる。渡辺教授は,さらにこうもいっている。
 「わざ」は,産業技術として生産の基礎を支えるものである。人間の行うすべての仕事には,固有の「わざ」が付随しており,これが高度に発達すると,個々の産業技術となる。つまり個々のよい「わざ」は,よい産業の母胎となり,未熟な「わざ」は,産業の衰退につながる。
 つぎに「わざ」と同じく農業用語に由来すると考えられることばに「たくみ」がある。古代人が生活の場で口から口へと伝えあった古語の一つとして,それは「田組」すなわち「田を組みあわせる」という意味を物語っている。渡辺教授の表現によれば,「わざ」が促成栽培技術であるのに対し,「たくみ」は田畑をどう組合わせて何を植えるかというシステム技術を意味している。たとえば「早稲の技術は,当然,稲と麦との二毛作システムへと発展」してゆく。また「主食と野菜とを,どう組合わせて育てるかというノウ・ハウにもつながる」技術思想をもっている。「組合わせる」ことが重要な点であるから,「たくみ」は「多組」と解釈してもよいほどである。
 以上の叙述から,土着技術としての農業技術の経験的な知恵のなかに,生産性向上の思考とシステム的思考とが,本来用意されており,たとえ論理的に自然の法則を認識するという能力を欠くとしても,自然環境条件をたくみにとらえて,総合的に生産力を組織化する資質が,日本の農業労働力に蓄積されていたことを,私たちは理解してよいであろう。1850年代から第2次大戦後の高度経済成長期にいたるまで,わが国の産業労働力,したがって鉄鋼業の生産労働力の実際は,農業労働人口からの転出によって,その大きな部分が維持されてきたが,それは単に量的な変化にとどまるのでなく,江戸300年を通じて形成されてきた質的に高度の技術思考をもつ労働力の製鉄分野への転化であったと考えられるのである。
 すぐれた水稲耕作を基本とする農業技術をもちえたことが,やがて近代製鉄技術をこの国におこす原動力ともなったこと,しかし製鉄原料として,東北地方を除くと,一般に砂鉄をながく基本としたため,水田農業のための灌漑用としてはやく水車をもちながら,ヨーロッパのようにこれを製鉄炉と結びつけて炉の大型化,つまり大量生産のシステムを生み出すにいたらなかったこと,これらの点を明治前における日本鉄鋼技術史のひとつの特質として,とらえておく必要があると考える。

2 土着製鉄技術の成立と発展

 (1) 個人と民衆との創造的活動
 中世もなかばすぎ,完全に古い貴族の勢力が滅ぼされ,足利氏のもとに天下が統一されて,いちおう社会に平和が取戻されると,中国との貿易がひらけ,15世紀のころからは,そのための重要輸出品として刀剣や金銀銅に対する需要が次第に盛んになった。すでに鎌倉時代(13世紀)に起っていた商工業者の座の結成も著しく増加し,商業・工業は急速な発達ぶりを示した。
 革新は製鉄の分野でも顕著で,『戦国の光と影』(1975年)を著わした技術文明史家の井塚政義教授は,とくに砂鉄の採取・選鉱作業における「かんな流し」,製錬(冶金)段階での「高殿たたら」(工場の形態をもつ「たたら炉」)と「吹差しふいご」による設備革新とその普及などをあげ,「室町技術革命」という概念を提唱される。
 井塚教授によれば,この革命は,「農業と製鉄という生活と生産の基幹物質ともいうべき2大生産の技術革新の相乗循環作用を推進軸として展開」された。したがって,この製鉄革新は「技術主権」を回復した「個人と民衆との創造的活動」の結果である。
 事実,鉱業技術の全般にわたって,日本の16世紀なかば(天文年間前後)のころにその近世的発展の基礎が急速に形成されたのである。
 当時創始された日本の銅の酸化製錬法の一つに山下吹きというのがある。興味深いことに,この山下吹きは『鋼の時代』(1964年)の著者中沢護人氏も指摘されるように一種のベッセマーライジング(bessemerizing,空気吹き込み製錬法)であって,江戸時代を通じて世界有数の産銅国としてヨーロッパにも知られていた日本のこの技術は,あの転炉(Converter)製鋼法の発明者として世界的に有名なイギリス人H. ベッセマー(Henry Bessemer,1813-99)の革新的な着想にも影響を与えている。大著『鉄の歴史』(Die Geschi-chte des Eisens in Technischer und Kulturgeschichtlicher Beziehung,5 Bande,1884-1903)の著者L. ベック(Ludwig Beck)は,その第1巻(1884年)に,日本の伝統的な冶金技術をとりあげ,J. A. メンデルス(Mendels)の『航海と旅行』(Voyage and Travels,1669年)という本に日本の鋳掛屋の吹精技法が紹介されているところから,つぎのような叙述を行なっている。
 薄い滓釜の鋳造について,日本人は中国人と同じくらい上手である。鍋や釜を修理する鋳掛屋(Kessel-flicker)は,溶けた鉄を流動状態に保つために注目すべき方法を使用している。フイゴで活発に上から風を吹きつけるのである。炭素の一部が酸化し,鉄もまた酸化することによって十分な熱が発生し,鉄が湯の状態を保持できるのである。この方法は,近代製鉄法の最大の改革であるベッセマー法の先行者であるとみなしうるということで興味がある。
 今日の日本の鉄鋼生産を支えている純酸素上吹き転炉(Oxygen top-blownconverter,LD転炉)のなかに土着技術の知恵が生きていることを,私たちは見出すのである。

 (2) たたら吹き―砂鉄の系譜
 さて,16世紀日本の鉄の先人たちは,水という自然資源(天恵)を一種の道具に使って,独得の採鉱・選鉱法を生み出した。これが鉄穴(かんな)流しとよばれる新技術で,山の険阻なところを選んで水を頂上から流しかけ,砂鉄をふくむ風化した花崗岩(山砂鉄)を崩壊流出させ,下方に設けた池に重い砂鉄を沈澱させる仕組みである。一種の比重選鉱法である。これによって従来砂鉄の淘汰ないし選鉱に多大の時間と労力をついやしていたものが,いちじるしく能率的になったことはいうまでもない。
 ところで,このような砂鉄によるたたら製鉄技術の近世的発展を考える場合,私たちは種子島の砂鉄冶金史上に占める歴史的意義をとらえねばならない。
 近世ヨーロッパ技術の日本における受容の発端となったものは,いうまでもなく16世紀なかばにおけるポルトガル船による鉄砲の伝来である。すなわち,1543年(天文12)わが国最南端の地,種子島にポルトガル船が漂着し,はからずもこれをきっかけに日本と西欧との交易がひらけ,これまでとはまったく異質の民族・文化との接触が始まったのである。
 ヨーロッパとの直接の交流は,鎖国(1639年)までの,わずか100年たらずの短い期間であった。しかし,わけても日本の製鉄と鉄加工技術とは,種子島銃と南蛮鉄の普及とによって,多くの刺激と影響とをうけた。そして,種子島銃の製法は,やがて泉州(いまの大阪府)堺や近江(いまの滋賀県)国友の鉄砲鍛冶につたわり,諸国の刀鍛冶を通じて各地に伝播し,日本独特の原料鉄(和鋼=玉鋼,たまはがね)を用いて,数多くの鉄砲が鍛造されるようになったのである。
 さて,種子島,ことにその南部は,南シナ海の海流と地理的環境のために,現在にいたるまで,漂着船が多い地点として知られている。こうして中国大陸をはじめ大洋州その他海外諸国との文化接触を通じて,かえって種子島はすぐれた文化的能力,いいかえれば新しい技術を受容しうる特質をもちえたことを,私たちはあらためて認識しておく必要がある。
 少くとも種子島ではすでに鎌倉時代の初(13世紀)には製鉄・加工技術が発達しており,同島ならびに近接する屋久島の随所に豊富な浜砂鉄と製鉄遺跡がみられるという事実は,たまたま16世紀にポルトガル船によって伝えられたヨーロッパの鉄加工技術とその作品も,それを受容する側にすでに高度の技術能力があってこそ,はじめて自主的に摂取,吸収され,新しい日本の技術として定着しうるのだという歴史的真理をともなっている。(種子島銃の伝来とその製作技術の伝播のありさまは,1607年(慶長2)に著わされた「鉄炮記」が如実に知らせてくれる)。
 要するに,種子島に伝えられたただ2挺の鉄砲から,日本の鍛冶たちはその製作法を学びとり,諸国の刀鍛冶を通じて,種子島銃製作の技術は堺・国友の2大産地をはじめ各地に伝播していったのである。
 従来の鉄の鍛造技術は,これによって著しく多様さを増した。だがそれにもまして,新鋭武器としての鉄砲の大量な登場が,従来の刀と槍による戦術を一変させ,やがて16世紀の武将たち(信長,秀吉,家康)による天下統一の一大原動力となったのである。近江国の国友鉄砲鍛冶が,当時の権力者たちの手厚い保護をうけ,やがて江戸幕府の砲兵工廠(軍事工場)的な役割をはたしたことは知られている。
 さて,近世初期にはわが国の製鉄技術は,さきにのべた採鉱の技術における「鉄穴(かんな)流し」と並んで,製錬の技術において「たたら炉」(鑪とも高殿とも書く。高殿たたらとよぶ研究者もある)へと発展をとげた。いわば今日の工場の形態をともなう製鉄炉である。一般に「野だたら」とよんでいる古い,きわめて素朴な炉型から「たたら炉」へと砂鉄製錬のための炉が移行するのは,だいたい18世紀後半とみられている。
 このような発展にともなって革新をとげたのは,送風装置としての「ふいご」である。かつての「てびきふいご」は「ふみふいご」に変り,さらに改良されて「てんびんふいご」にいたり,江戸時代の製鉄炉=たたら炉は,その最も完成されたかたちを獲得する。
 てんびんふいご(天秤鞴)の発明は1691年(元禄4)と伝えられているが,この送風装置の導入によって,ふみふいごでは約10人も要した番子(ばんご,送風労働者)は半減し,逆に炉容は大となり,作業能率は著しい進歩をとげた。また露天工場から屋内工場に変ったことは,年中作業を可能とし,1回の操業にかかる3昼夜を一代(ひとよ)として,1ヵ年に60代の製錬を行うことができた。
第1図 てびきふいご
第2図 ふみふいご
第3図 てんびんふいご
 出雲(いまの島根県)産の砂鉄は,純良さにおいて,まずいい鋼をつくるための第1の条件をみたしている。火山国である日本では,これよりも良い鉱石は探し出せない。
 第2には製錬するときの燃料に,不純物のないものを使わねばならない。硫黄分の多いコークスでやっては,絶対に優秀鋼の製造は不可能である。良質の鋼(玉鋼)は,木炭から製錬される。第3の条件は,製錬温度が低いことである。高温になると,炉の壁などからも悪い成分がはいってくる。幼稚な方法であっても優秀鋼ができるのは,これらの点に起因している。
 以上のような三つの条件にかなっているために,「たたら吹き」は,世界的に今日優秀鋼の生産で知られるスウェーデンでも製造することのできないような,すぐれた鋼をつくりえたのである。ある意味で日本のたたら吹きは今日のウィーベルグ(Wiberg)法など直接還元法の先駆だといえる。しかも,村下(むらげ)とよばれるその主任技術者は,今日の科学の科の字も知らない60,70歳の老人であった。
 玉鋼をつくる仕事は,この村下(いまのことばでいえば工場長)の指揮のもとに,3日3晩72時間,継続して行われ,従業員はこの間家へ帰らず,工場(高殿,たたら)のなかで暮す。作業の間に休息時間があるから,そのときゴロリと横になって眠るが,仕事があると真夜中でも起き上って炭を投入したり,砂鉄をいれたりする。工場は厳重な女人禁制で,弁当をもってくる妻や娘は,入口で渡すことになる。
 72時間の作業が終ると,高さ約90センチ,長さ約1.8メートルほどの炉をとりこわす。中にタタミ1枚くらいで厚さ30センチ余の「けら」(鉧)すなわち一種の鋼塊ができる。今日ではふつう,鋼をつくるには鉱石から銑鉄をつくり,それから鋼をつくる2段作業(これを間接法という)であるのに対し,玉鋼は砂鉄から,直接につくる1段作業(これを直接法という)である。こうした作業が純粋無比の鋼を生み出す原因の一つともなっている。いわば土着技術の知恵である。
 1969年秋,島根県飯石郡吉田村菅谷で,日本鉄鋼協会などが中心となって,たたら製鉄法の復元実験が行われ,その成果が『和鋼風土記』(1970年,岩波映画製作所)というフィルムに記録され,また『たたら製鉄の復元とその鉧について』(1971年,日本鉄鋼協会)という報告書にまとめられた。これは,たたら製鉄には「現代冶金学を更に発展させる可き珠玉のごときヒントがあり,アイディアがある」からにほかならない。
 しかし,砂鉄を主原料とするたたら製鉄は,ついにヨーロッパ流の大量生産システムになりえなかった。一般に江戸時代までのわが国では科学がなくて技術が成立し,ヨーロッパの近世のように物理学や化学に関する自然科学上の成果の相互交渉のうちに生産技術が発達するということがなかった。生産現場のなかに,計測という作業が容易に生れ育たず,日本人は科学的な法則をつかむことは,あまり得意ではなかった。しかし,長い間の技術の経験をへて,そこに多くの知恵,いわば技術的真理を日本人は体得していたのである。
 ヨーロッパの『デ・レ・メタリカ』(1556年)にも比肩されるべき冶金技術の古典『鉄山必用記事』(下原重仲著,1784年)には,このような技術的真理がいたるところに盛りこまれている。
 よい鋼をつくるには,何としても良い砂鉄を選ぶことが大切である。砂鉄を火にくべてその音や色で見分ける方法も重仲はのべているが,これは今日のの火花による金属分析と相通ずるものがある。
 「砂鉄は性の甚だ重き物の粒,至てこまかなる物也。適々(たまたま)大粒に見ゆるは,砂にまぎれ付たる故也。粒に大小はなし,重きと軽きとの違い計(ばか)り也。」―これはかんな流しによって洗いとられた砂鉄の性状を示している。いったい砂鉄の種類は,大別すると鋼(玉鋼)にする真砂(まさ)砂鉄,銑(づく)(銑鉄)にしやすい赤目(あこめ)砂鉄との2つに分れるが,いずれの場合にもその良し悪しの選別は,もっぱら重いか軽いかにあり,比重選鉱の原理がつらぬかれている,重い砂鉄が上質なのである。
 しかし,それとともに個々の砂鉄粒に大小がなく,いわば粒度調整をおえた製鉄原料としての砂鉄が,水流という自然の力の協力をまって得られること,これがたたら吹きの大きな長所である。今日の巨大な製鉄所の高炉の操業にさいしても,装入される鉄鉱石の粒度調整をまって,はじめて高性能が発揮されていることを考えると,たたら製鉄の原理的な優秀性は,たやすくうなずくことができる。
 たたら炉の構造にとって見落してはならないことは,その精緻をきわめる炉床構造である。たくみに炉熱をたくわえ,その放散を防ぐための大きな努力がつみ重ねられているのである。しかし,上部構造の炉壁は,1回のたたら操業(一代=ひとよ,3昼夜)ごとにこわされる。たたら吹きでは,炉壁は同時に造滓材料であるからである。じっはここにもすぐれた日本の鋼を生み出した大きな知恵がかくされている。造鉄の工程になんら人為的なさからいがない。送風に人力による「ふみふいご」あるいは「てんびんふいご」が必要とされるわけは,この造鉄の工程に応じた加減が自在にできるからで,欧米流の機械ではもともと適用が困難なのである。ここでは,いわば自然のわざと人間のたくみとが一体となって,鉄づくりの操作が遂行されるのである。
 和鋼がすぐれているのは,一にかかって手づくりの故である。とてもヨーロッパ近代流の量産には向かない。だがそれ故に,日本刀のような世界的にも有名な金属の芸術品が生まれるのである(芸術品としての日本刀の材料を生産するために1977年島根県横田町に「たたら炉」が復活し,新しい地域文化の発展が芽ばえつつある)。
 合わせ鍛えの原型については,私たちはたとえば建立時(607年)以来の法隆寺金堂の鉄釘の冶金学的な調査からも,それを発見することができる。そして,このような伝統を経験的にうけつぎ,さきのスミス博士の文にもあるように,江戸時代の日本の鍛冶屋は,合わせ鍛え,着け鋼,焼き入れ等々の面で,ヨーロッパに対比して決してまさるとも劣らないわざを持ちあわせていたのである。
 ところが,自然そのものへの対処の仕方においても,私たちの先人は,今日かえりみて注目すべき配慮を行なっていた。吉田光邦教授は「伝統技術はいつも自然を生かすものである。自然に抵抗して自然と戦うものではない」とのべているが,公害環境のなかで生きる現代の私たちにとって,江戸時代の職人たちの知恵は,あらためて見直し,発掘し,現代的に生かすべきものを多くもっている。
 伝統的な土着の技術が科学をもたなかったということは,決して非科学でも反科学でもあったのではない。いかなる科学的技術といえどもそれがある一定の環境条件においてこそ生れ育つことができた以上,かならず当該国の土着文化と調和しないことにはほんとうの技術としてなじまないことを私たちは理解すべきであろう。

 (3) 東北地方の土着技術―鉄鉱石(もちてつ)の系譜
 江戸時代に定着し普及したわが国独特の土着製鉄技術史のうえで,中国地方(山陰・山陽地方)を中心とする砂鉄製錬法=たたら吹きと,この方法から生れた質のよい鋼とが,大きな役割をはたしていたことは,今日だれしも否定しない。
 すると,明治維新前における日本の製鉄法の歩みには,砂鉄製錬によるたたら吹き以外のものは存在しなかったのであろうか。この問いは,否と答えられねばならない。
 これまで諸文献のうえで「餅鉄(もちてつ),すなわち餅のごとき岩鉄」と記されているにとどまった天然産の鉄鉱石「もち鉄」の実証的解明が,ここ10年間にたいそう進み,岩手県釜石地方を中心とする東北に,かなり広範にわたって鉄鉱石の製錬を基本とする土着製鉄技術の伝統が,連綿として続いていたことが確められたのである。
 「もち鉄」は鉄分平均60%以上を含むかなり高純度の磁鉄鉱で,成分は世界的にも有名なスウェーデン鉱に類似し,すぐれた還元鉄ができる。原鉱にだいたい1%以下の砂鉄しか含まない中国地方の「鉄穴流し」による採鉱と製錬より,量・質ともにはるかにまさる特質をもっている。
 その分布は,北は宮古のあたりから南は大東(大原)のあたり,すなわち平泉や一関近くを流れる北上川の支流・砂鉄川の上流に及んでいる。
 大きさは,にぎりこぶし大のものから粉状のものまであって,磁性に富むから今日でも沢山採集することができる。釜石市甲子(かっし)町の山中で採集作業を精力的に行なった郷土史家の新沼鉄夫氏によると「餅鉄のある場所の土までいっしょに採集し,これを洗面器に入れて水洗いをすると,洗面器には粉状のものが多量に残り,土砂は軽いので水とともに流れ出す。大・中の餅鉄はハンマーを用いず普通の石でたたいても簡単に破砕できる。粒状の餅鉄は木炭による簡単な製錬実験で低温還元が可能である。粉状にいたっては砂鉄製錬と同様低温還元が容易にできた」。
 もち鉄には,純粋の天然産のものと,脈石を含み水流で丸味をおびたものと2種があるが,ことに前者は硫黄や燐など有害成分が少なく,鉄分含有量の高い優秀な磁鉄鉱であることが確かめられた。
 岩手県の釜石市に隣接する町に,上閉伊郡大槌町があり,同町の小槌(こつち)というところに在住の小林家に古い鉄の製錬・加工の絵巻が伝わっている。絵巻の最初に「大道=酉歳=月十六日」とある。大道を大同とするなら,807年にあたり,わが国の製鉄絵巻としては最古の部類に属する(ただし大同2年は,亥年である)。巻末に「大冶」とも書きこみがあり,年代はさだかではないが,農具・漁具を加工している絵巻中の道具類から推して,中世期までさかのぼり得ることはまちがいない。
 炉を中心に,絵の左側には烏帽子をかぶり,大きな匙のようなスコップをもって立っている吹(ふき)棟梁(親方)がおり,右側には小匙をかかげて原料を投げ入れている作業長のような人がいる。炉の両側に番子(ばんご,送風労働者)の6人がおり,革と板とでつくったふいごで,炉に風を送っている。
第4図 岩手県大槌町につたわる製鉄図(絵巻)
 さて,問題はここで装入している原料は何かである。前記新沼氏は,小林家の周辺に所在する小槌製鉄遺跡に残存する鉄鉱石と鉄滓を分析した結果,操業年代は不明だが,鉄鉱石は高純度の磁鉄鉱であり,鉄滓はその磁鉄鉱を製錬したさいのものであることを確かめた。この絵巻にみられる原料は鉄鉱石,つまり粒状のもち鉄と考えられるのである。
 新沼氏やその協力者の多田・斉藤両氏は古代の製鉄炉を想定した試験炉で採集もち鉄の低温還元を実際に行ない,その結果を1975年10月の日本金属学会大会で発表された。砂鉄製錬のたたら吹きよりも簡単な作業で,しかも「砂鉄製錬でいういわゆる鉧(けら)状の卸し金(おろしがね,はがね)を餅鉄によって得る」ことが,実験的にも確かめられたのである。
 この成果のうえに立って,東北地方の製鉄をあらためて調査すると,久慈方面に代表される砂鉄製錬とならんで,「もち鉄」の製錬が,岩手県中部および南部一帯にひじょうに普及し,東北文化の一翼を支えていたことが明らかになった。
 私たちは東北地域における土着技術の先進性の故にこそ,やがて容易に洋式高炉法という新しい技術を受入れることができたものであることを,あらためて確認するのである。

3 鉄の思想
 東北地方で先進的に切りひらかれ,あるていどの普及をみていた鉄鉱石=もち鉄製錬の場合を除くと,わが国の江戸時代の製鉄技術は,砂鉄製錬の技術,いわゆる「たたら吹き」を主流として形成されてきた。広島県安芸郡地方でのたたら吹きをえがいた『芸州加計隅屋鉄山絵巻』や山口県北部の日本海寄り一帯における砂鉄の採取と製錬・加工の有様をえがいた『先大津阿川村山砂鉄洗取図』(さきおおずあがわむらやまさてつあらいとりのず)などは,それぞれ復刻されて,幕末1850年代ころの砂鉄製錬技術のひとつの到達点を如実に私たちに示してくれている。
 しかし,わが国における近代製鉄技術は,砂鉄とたたら吹きのなかから生れたのではなく,洋式高炉の移植とともに始まったのであった。それは「もち鉄」という名の鉄鉱石製錬という東北地方の土着技術の系譜と,ヨーロッパではぐくまれた近代鉄冶金の理論とが結びついて,新しく日本の土着技術として成立したものであった。
 大量生産システムとしての近代製鉄技術と,たたら製鉄法との間には明らかに「断絶」(discontinuity)がある。しかし,私たちは近代製鉄法の開始をみる場合に,たたら製鉄やもち鉄の製錬という在来の技術とそれが連綿と生み出してきた鉄の利用技術,いわば「知恵としての技術」が経験的につくり上げてきた鉄に関する日本人の産業技術思想,これらの土壌のうえにこそ,新しい技術はもたらされ,定着・普及・進化の歩みをたどることができたことを,見のがしてはならないのである。
 大分の国東半島に生れ育った江戸時代の最もすぐれた科学思想家の一人,三浦梅園が「鉄は多くの人びとに広く使われ,日常生活に1日も欠かすことができない故に,いちばん大切な宝物だ」と言ってのけたことは,すでに序論で指摘した。
 このような鉄の理解をもつ人びとは,江戸時代につぎつぎにあらわれた。さきにあげた『鉄山必用記事』の著者,下原重仲(1738-1821)は,「鉄は諸民百姓(人民大衆)の徳に預る事大なり」といい,「凡そ農は政養の本,鉄は農の柱礎(いしずえ)なれば,おろそかにすべき物にあらず」とのべている。幕末の経済思想家であり,採鉱冶金学者でもあった佐藤信淵(のぶひろ)(1769~1850)が『経済要録』(1827年)のなかで「鉄は人世に功徳あること七金中第一たり」ということばをのこしていることは,知られている。
 このほか注目すべき技術思想をあげれば,佐賀藩についで反射炉を成功させ,全国に先がけて「洋式熔鉱炉」(高炉)を鹿児島に築造した薩摩藩主,島津斉彬(1809~58)が「勧農ノ第一」を農具製造にありとし,「農ハ国ノ本ナルハ和漢洋何レノ国モ同ジ。農ノ本ハ鉄ナリ」とその産業技術政策を展開していることである。
 さて,このように鉄の思想が日本の土着文化のなかに根づいていたころ,一方では長崎を通じて日本人はヨーロッパの科学・技術書に接し,すすんでオランダ技術学を摂取・吸収しはじめていた。わが国最初の近代冶金学書ともいえる『泰西七金訳説』が成立したのも,そのころである。
 この書のもつ意義と,ヨーロッパ(ことにオランダ)の技術学摂取の状況については,つぎの章でふれることにするが,要するに洋式製鉄法を受容するための技術思想の土壌は,すでに19世紀前期の日本では十分にととのえられていた。そして,そのゆえにこそアジアのなかで日本はいちはやく近代への「離陸」をなしとげることができた,といえるのである。

Ⅲ 伝統技術から洋式技術へ
 ――ヨーロッパの大量生産システムとの出会い

1 洋学,ことにオランダ技術学の組織的な摂取
 (1) 日本最初の西欧冶金学書―『泰西七金訳説』
 近代ヨーロッパ冶金学のわが国最初の理解を示す文献である『泰西七金訳説』は,もと長崎のオランダ語通詞で,のちに幕府の天文方(蕃書和解(ばんしょわげ)御用掛)における翻訳(蘭・露・英など)の仕事に大きな貢献をはたした幕末の洋学者,馬場貞由(さだよし)(1787~1822)の訳述書である。貞由の没後33年目に当る1854年(嘉永7)に,200部の限定版として刊行されたものである。木製活字本で,近代印刷史のうえからみても,貴重なものとされている。
 題名の示すように,「七金」について訳述し,巻頭に「泰西七金製錬法図」と題する冶金術の7図を付している。巻1,2,3,4,5の5冊から成り,巻1には金,巻2には銀・銅・鉄,巻3には錫・鉛,巻4および巻5には水銀が収められ,それぞれの産地・産出状態・種類・製法・性質・用途などについて述べられている。
 貞由自身の医学上の素養と関心によるものか,あるいは当時著名な本草(ほんぞう)学者であり,幕府の医師であった渋江長伯(しぶえちょうはく)の監修に成る故か,とくに製薬材料としての金属の効能(用途)にくわしく,冶金術に関する訳述書というよりは,むしろ化学・薬学の書としての内容をそなえている。私は,西欧の金属についての知識の近代日本における最初のまとまった紹介書ともいうべき本書において,なによりもまず民衆生活の基本のところで七金のもつ意義が把えられ,わけても鉄の役割が正当に位置づけられていることに着目するのである。
 貞由は『遁花秘訣』(とんかひけつ)という医学書の訳者としても知られている。『遁花秘訣』(1820年完稿,1850年刊)は,イギリスのジェンナー(Edward Jenner)が1798年に天然痘予防の良法として発表した「牛痘接種法」(An Inquiry into the Causes and Effects of the Valiolae Vaccina Known by the Name of the Cow-pox)を,わが国に紹介した最初の本である。
 しかも,小川鼎三博士の研究によれば,この牛痘接種法はジェンナーの発見後,じつに半世紀をへてはじめて日本で成功し,だれの目にも明らかな天然痘予防の効果をあげ,『解体新書』とならんで西洋医術の優秀さを,実地の面で証明したものである。
 貞由は医者ではないが,「牛痘接種により天然痘を予防する新法に多大の興味をもち,その重要性を信じて『遁花秘訣』を書き,医学の発展に大きな功績を残した」のである。
 人間生活の基礎物質としての金属,わけても鉄に関する西欧の知識が,このような洋学者によって開かれてきたことを,私たちは近代日本の夜あけがもちえた誇りの一つと考えてよいであろう。
 貞由の幅広い西洋学術に関する知識が,このように一方ではロシア語文献に接することによって,さらに広まり,他方ではショメール(Chomel)の百科事典に接して一層深まり,その活動が最も精力的に展開された1810年代のころ『泰西七金訳説』は著述され,1854年(安政元)にいたってようやく上木されたのである。
 さて,馬場貞由は『泰西七金訳説』の巻1「金」(Gold)の総論において「諸金(metals)の中,別て鉄の如きは人間に尤も有益の物にして,暫くも闕くべからず。最も貴重すべき物なり」といい,「家用になすところを以て論ずれば,鉄は尚諸金の長と謂つべき物なり」と断言する。この発想は,土着技術思想の土壌からおこったさきの梅園・重仲・信淵らのそれと,まったく同じ路線にあると考えてよいであろう。
 貞由はまた巻2「銀・銅・鉄」の項で,鉄を結ぶにあたり,「鉄は人間の日用に暫くも闕くべからず」とくり返し,「即ち器具となし,且つ薬用となして,其の功,最も貴重すべき物なり」とその「主冶」をも説いている。
 要するに,人間の生活の原点に立ちもどって思索するとき,土着の思想も先進ヨーロッパの思想も,まったく同一の基盤に立ちうることが示されているのである。
 なお,日本の江戸時代の先人たちの「鉄の思想」のなかに,軍事的なものへの指向が一片だにないことを注意しておこう。それは民衆の生活に根ざした上記のような土着技術思想の延長としての開明思想であって,明治政府確立以後に醸成された軍事優先(偏重)の鉄の思想とは,まったく異なるものであることを,私は指摘しておきたい。

 (2) 蘭書・鉄冶金学の摂取―「リエージュ(ロイク)国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法
 つぎにここで,わが国1850年代に先駆的な洋学者,技術者たちが,オランダの技術書に直接にふれて,製鉄技術そのものの理論と実際を精力的に理解し,摂取したことを私は紹介しようと思う。
 その技術書を『ロイク(いまのリエージュ)国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』(Het Gietwezen in s'Rijks Iizer-Geschutgieterij,te Luik.1826)という。当時いまのリエージュにあったオランダの国立大砲鋳造所における鉄の弾丸や大砲のつくり方を詳述した軍事技術・造兵工学の本で,著者はその所長オランダ陸軍少将ヒュゲエニン(Ulrich Huguenin,1755-1834)であった。しかし,この書は同時に当時のオランダにおいて近代製鉄技術を解説した最初の労作でもあって,鉄の製造や性質についてもくわしく,冶金学書の役割をかねていた。
 幕末にあって諸外国から軍事的圧力をうけつつあった日本の知識人たちの知的要求に,この書はまさしく適応していた。いろいろの訳名のもとに各地でこの翻訳がなされ,やがてこの技術書が手びきとなって1850年代の日本の各地(佐賀,鹿児島,萩,韮山,水戸など)に反射炉が築造され,大砲の鋳造が始まった。そして,この本はさらに洋式高炉を日本の西南地方の鹿児島と,東北地方の釜石と,北海道の函館とに導く原動力の一つともなった。
 この書の「鋸鉱炉」の部には,ドイツの鉄冶金学者カールステン(K. J. B. Karsten,1782-1853)の説がしばしば引用されており,歴史的理解も示されている。カールステンは製鉄技術の基礎理論とその実際とを,一つの指導書『採鉱冶金学集成』(Archiv fur Bergbau und Huttenwesen)に著わし,鉄冶金学を初めて近代科学としての工学に高め得た技術者である。つまり,ヨーロッパのなかでも英・仏勢力に圧せられて,製鉄技術の後進国であったオランダ(ネーデルランド王国)において,その後進性からの脱却を意図してまとめられた技術学書が,たまたま長崎を門戸にして展開された日本の洋学の土壌と結びついた。そして,これがわが国における高炉の築造と,それに基づく銑鉄製造のための一つの源泉となった。
 次節でのべるように,長崎で蘭学を学んだ南部藩(いまの岩手県)の洋学者大島高任(たかとう1826-1901)はヒュゲエニンの原著を学友の手塚律蔵と訳出し,ヨーロッパの製鉄原理を学ぶことから,近代技術の道の開拓へと向ったのである。
 江川坦庵(たんあん 1801-55)の主宰した伊豆韮山の場合は,ヨーロッパの科学技術を総合的かつ組織的に摂取,吸収するために,一種の翻訳情報センターを設け,藩をこえて共同研究を推進したことは,注目に値しよう。

2 反射炉から高炉へ
 1850年前後のころとなると,欧米諸国からの開国の要請や軍事的圧迫をうけ,製鉄法の根本的な変革,つまり量産システムに向っての近代化は,わが国の必須の課題となっていた。そして,砲鋳造のための反射炉用原料として大量の銑鉄を得る必要から,大島高任ら先駆的な技術者を中心に,洋式高炉技術の移植がなしとげられることとなった。
 高任は南部藩医を父として盛岡に生れ,1846年(弘化3)から長崎に留学,手塚律蔵らとともに蘭学を学び,オランダ語の文献を通して「西洋の兵法,砲術,鉱山,製錬の方法」を修め,また「西洋流砲術の元祖」といわれた高島秋帆(しゅうはん)の子の浅五郎について,砲術の免許皆伝をうけた。この長崎時代に,前述のようにヒュゲエニンの『リエージュ国立鋳砲所における鋳造法』(1826年)の訳述にも当った。
 こうして,ヨーロッパの近代製鉄の理論に接することのできた東北(岩手県)生れの蘭学者,大島高任によって,日本における洋式高炉の工業化・つまり銑鉄の大量生産が始まった。
 南部(盛岡)藩士であった蘭学者の高任は,じつは水戸藩における反射炉作業に参画したことから,そのための原料銑鉄を得るために,郷里,東北の釜石鉄山の開発へと向ったのである。
 わが国最初の反射炉が築かれたのは,1850年(嘉永3)佐賀の築地(ついじ),多布施(たぶせ)においてである。
 『佐賀藩銃砲沿革史』(1934年)などの資料が示すように「蘭学者の知識と,算数家の計算と,鋳工ならびに刀工の技術とが,相協同することによって」まず佐賀藩における反射炉による砲鋳造が成功したのである。佐賀藩の反射炉創業の状況は,その主任技術者であり,技師長格であった杉谷雍介(すぎたにようすけ)が『反射炉の由来』(1852年)として克明な記録をのこしている。彼は後に伊豆韮山の反射炉築造を指導した肥前(佐賀)の技術者であるが,蘭医伊東玄朴(げんぼく)に学び,玄朴に協力して前記ヒュゲエニンの原著に基づき『鉄熕(てつこう)全書』(全12冊および付図)を訳述しているから,幕末の先駆的な冶金技術者たちに及ぼした影響は大きい。
 佐賀藩鋳砲事業の発展は,全国驚嘆の的となり,幕府をはじめ各地から鋳造術の伝授を願うものや,鋳砲を依頼するものが続出した。佐賀藩に次いでは,薩摩藩の反射炉作業がみごとな成功をおさめた。これには「西洋人モ人ナリ,佐賀人モ人ナリ,薩摩人モ同ジク人ナリ」といって,たえず技術者たちに適切な指示をあたえた藩主島津斉彬(なりあきら)の産業技術政策,わけても科学技術上の識見が大きく影響していたことを見落としてはならない。なお,佐賀・薩摩ともに,こうした洋式軍事工業創始の過程で「精煉方」という名のもとに理化学研究が生れ,一時化学工業や造船工業が勃興の機運に向ったこと,また幕府による長崎海軍伝習所,長崎溶鉄所(いまの三菱,長崎造船所)の創設と,立地的に密接な関係のあったことも付記しておこう。
 佐賀藩の技術協力をうけ,洋学者江川坦庵を中心に,1853年(嘉永6)から築造の準備にかかったのが伊豆の反射炉である。すなわち,同年,八田兵助(はったひょうすけ)という「洋式炉製砲技士」とよばれた技術者が,坦庵の命をうけ,その準備のため佐賀藩におもむき,操業中の佐賀の反射炉の見学と技術の研究など,新知識を得て韮山に帰り,やがて1857年(安政4)2月には佐賀藩から杉谷雍介・田代孫三郎らすぐれた技術者と職人たちが,韮山反射炉の再築(破損修理)のため派遣され,両者の技術交流のもとに,反射炉作業と鋳砲事業の大成がはかられた。この場合,これら第一線の技術者たちの,いわばバックアップ・チームとして,「韮山蘭書翻訳方」という共同研究組織がつくられ,洋学者たちを動員して鋳砲の事業にあたらせたのである。
 このように相ついで反射炉が登場するうちに,1854年(安政元)まず薩摩藩が鋳砲事業の必然的な成りゆきとして,洋式高炉の建設に先鞭をつけた。
 しかし,原料や需要の条件などに阻まれて,ついに本格的な工業生産をつづけることはできず,創業者としての栄誉をになうにとどまった。ついで炉は,函館奉行の管理下にあった北海道の古武井(こぶい)というところにも築かれた。武田斐三郎(あやさぶろう)というオランダ式築城(五稜郭)の設計でも名高いすぐれた洋学者が,1855年(安政2)に着手したものであるが,砂鉄を主原料としたこの高炉作業は失敗であった。
 さて,1855年に,反射炉は水戸藩においても,徳川斉昭,藤田東湖らの画策のもとに,南部藩士大島高任,薩摩藩士竹下清右衛門,三春藩士熊田嘉門らを技術者として築かれた。水戸反射炉は,翌56年には雲州銑(いまの島根県地方でつくられた銑鉄)を使ってのモルチール砲の鋳造に進んだ。ところが,この反射炉作業は大量に鋳砲用に適した銑鉄を得るために,大島高任の主唱によって洋式高炉の移植による南部藩釜石鉄山の開発へと発展し,やがてわが国近代製鉄技術の源流となったのである。
 すると,鹿児島でも函館でもなく,釜石のみがなぜ高炉による銑鉄生産の工業化に成功したのであろうか。
 蘭学者の高任がそれまでに獲得していたヨーロッパの製鉄法の知識,あるいは彼が学友の手塚律蔵とともに訳述した技術指導書『西洋鉄熕鋳造篇』の内容からいって,反射炉から高炉への発展の線は,当然の成りゆきだったといえないこともない。しかし,ここで私たちは,前節でものべたように,釜石を含む東北地方の各地が,すでに古代から鉄や金や銅などの鉱産物と,その加工とにおいて,むしろ先進地域であったことを思いおこしておこう。そして,大島高任は,いわば東北の風土の精神とでもいったものに貫かれていたと考えられるのである。
 高任は,1854年(安政元)7月,つまりまだ水戸反射炉の築造に着手していないときに,もう「南部釜石の鉄」の獲得と,洋式高炉の建設とを構想し,水戸藩の役人(反射炉掛元取)佐久間貞介(ていすけ)にのべている。それは佐久間の『反射炉製造秘記』という手記に手紙のかたちでのこっている。―「大島内存(ないぞん,心づもり)は件の鉄をヅク(銑鉄)に吹立て候にも,
一と通りのタタラなどにては参り申さず,やはり西洋流炉を新造いたし申さず候ては相なるまじく候間,反射の方成就いたし候はば,直ちに南部(釜石)へ下り,右の炉をつくり,それよりヅク鉄にいたし,御取寄せの方(ほう)然るべしなどと申す口気も御座候……」と。(カッコ内は引用者)
 じつに「洋法第一,鉄の性を吟味仕り候事にて,反射炉を造り候ても柔鉄(鉄鉱石による銑鉄)これなく候てはその詮これなく,柔鉄あり,炉ありて後鉄ありと申すものにて,一を欠き候てはその用を成さず候間,外の鉄にて銃製の儀は一円御受け仕らず」というのが,高任の技術家としての信念であった。かれはまた柔鉄とそれ以外の銑鉄(砂鉄による銑鉄)との性質の差異を,たくみな比喩を使って,表現している。―「外の鉄の性は,たとえば並米(なみごめ)のごとし。何ほど精にいたし候ても粘合(ねりあ)はざるが如し。柔鉄は糯米(もちごめ)のごとく,如何なる品にてもねれ合い候て,糯(もち)に成るがごとし」と。
 高任は,たたら炉そのものを否定しているのではない。水戸藩における反射炉の目的が砲鋳造のための銑鉄の溶解であれば,その材料にふさわしい鉄,つまり流動性にとむ均質で大量の銑鉄は,決してたたら炉からはつくるべきでないということを彼は理解していた。彼は東北の鉄鉱石製錬の土着技術をしっかりとつかみ,あわせてヨーロッパの製鉄法にも詳しかった。水戸反射炉の事業に参画した初めから,このような科学的な認識に達していたのである。
 こうして,まだ機械設備の海外先進国からの輸入が不可能な江戸時代に,ただその技術の指針のみをオランダの技術書や工学辞書にとり,地元の産業資本家の資金的協力を得,みずからの力量と,日本の資材と労力とのみによって,洋式高炉を築き,かつ成功にみちびくという大きな仕事は,大島高任を技術のリーダーとする南部藩(岩手県)の釜石においてのみ実現することができたのである。図にみられるように,自然の条件をたくみに生かし,水車動力を適用したところにも,釜石の最初の洋式高炉(燃料は木炭のため,木炭溶鉱炉ともいう)の特徴がよくあらわれている。
 砂鉄でなく鉄鉱石の工業的製錬に着目し,洋式高炉を創始したことは,古来の小規模・非能率な「たたら吹き」製鉄法から脱皮する最初のくわを打ちこんだ,画期的なできごとであり,まさしく日本の近代製鉄技術の夜あけを告げる
第5図 釜石鉄山大橋高炉の見取図
ものであった。なぜなら,高炉による銑鉄製造(製銑)技術の開始こそ,ヨーロッパからの300~400年ちかい製鉄技術のおくれをとりもどす最初のきっかけとなったのみでなく,やがて新しい製鋼の技術と結びついて,近代産業としての鉄鋼業を生み出す底力をもっていたからである。
 大島高任は,みずから創始した高炉のことを,「日本式高炉」とは唱えても,決して「洋式高炉」とはいわなかった。水戸藩の反射炉作業を動機とする釜石での洋式高炉移植のみが,ひとりわが国近代製鉄技術発展の原点となり得たのは,それが洋式である故ではなく,ヨーロッパにおける製鉄法の原理が日本の土着文化のなかに,高任という人物を得て科学的に生かされたからにほかならない。
 現代中国では,土着の文化,いわゆる「土法」の精神を,一口でいうと「就地取材」ということばであらわしている。これは,身近な作業,使いなれた在来の伝統的な手段に出発しながら,その土地や自然環境・資源の条件に適するかぎり,洋法を積極的にとりいれ,洋法自体をも改良してゆくという,新しい技術創造の方法を意味している。とすれば,高任のとった方法は,今日の中国が工業の躍進をはかるにあたって基本とする方法とも軌を一つにしている。

3 コークス高炉法の確立―釜石製鉄所の失敗と成功
 1858年,藩主徳川斉昭をめぐる諸事情や藤田東湖の急死などによって,水戸藩の鋳砲事業は挫折した。しかし,ひとたび釜石鉄山におこった洋式高炉による製鉄業は,鋳銭事業を中心に,農具や生活用具の製造などに加工目的を見出して,釜石地方一帯に急速た普及し,マニュファクチュア的規模の新しい地場産業へと発展していった。すなわち,洋式高炉は釜石鉄山の大橋から始まり,やがて今日遺跡の現存している橋野地区でも盛んになったが,このほか遠野に近い佐比内(さひない),砂子渡(すなこわたり),栗林(くりばやし)など,釜石の鉱山地帯の各所に設けられ,明治維新直前のころまでに,総計約10基,総生産高は年産70~80万貫(およそ3,000トン)にも達した。
 このような背景のもとに,1874年(明治7)明治政府はまず釜石の大橋鉄山の官業化を決定し,いわゆる殖産興業のスローガンのもとに,翌年から近代的規模の製鉄所の建設計画に着手することとなった。
 このころ,さきにのべた大島高任はすでに40代もなかばをこえていたが,旧南部藩時代における釜石鉄山での豊富な技術的識見は,薩長閥を主力とする明治新政府も高く評価せざるをえず,これよりさき岩倉具視を特命全権大使とする米欧視察団の随員に加わって帰国した高任を,工部省は技術行政官に据え,釜石に出向かせた。
 1874年6月,高任はお雇いドイツ人技師L. ビャンヒー(Bianchie)とともに新しい製鉄所の建設構想に着手した。ところが,釜石鉄山で採掘した鉄鉱石を,どこへ運び,どこで製錬し,加工するか,つまり新製鉄所の建設地点をめぐって,ビャンヒーとの間に意見の対立がおこった。高任にはみずからが生れ育ったふるさと,陸中の土地勘と,技術の開発経験のびさいに基づく信念があった。一方,ビャンヒーには先進ヨーロッパ人として自負があった。
 釜石より盛岡街道の出口北側の「大唯越(おおただごえ)」という地点を高任はえらんだ。ビャンヒーはその出口から八町ほど西にはいった,街道の南側にあたる「鈴子(すずこ)」という地点を主張した。製鉄作業にとって大切な用水,海港の利便,将来の拡張にそなえての地積等々,立地のための目のつけどころには両者の間に大きなちがいはない。ただ高任の主張する大唯越(大只越)の地形のほうが,「西北東三方に山を引廻し,南一方に面して相開けたるを以て,四季暴風雨なく,厳冬にも寒気緩くして,昼夜の作業にも妨げこれ無く候」とされ,より働く人びとの環境条件に重きを置いていることが注目される。
 しかし,創業計画全体との関連において,どのようにして生産技術をこの風土に定着させてゆくかという立場からみると,同じ盛岡街道沿いの釜石の海岸線でも,両地点の間には,互にゆずることのできぬ大きなちがいがあった。すでに産業革命期をへていたドイツから来日した技術者ビャンヒーは,比較的大規模で高能率の高炉2基と,これに鉄鉱石を運搬するための蒸気機関車による近代鉄道,銑鉄を錬鉄にし,さらにそれを圧延する工場などを予定し,一気に大工場を出現させることを意図した。これに対し,高任は従来の経験から,まず昼夜の作業にもっとも安全な地形をえらび,高炉は比較的小規模のものを5基とし,その運鉱手段は経済的にできる軌道馬車を採用するというように,当時の技術水準に即した創業計画をたてた。漸進的に,より抵抗の少ない道をとおってまず技術を軌道にのせようという,いわば「小さく生んで大きく育てる」という方法をとったのである。彼の選んだ地形はこの方法を前提としたものであった。
 今日,いわゆる発展途上国が,自分の国で高炉を建て,銑鋼一貫製鉄所という総合的な製鉄工場をおこすには,年間1人あたり鋼の消費量が20~30キログラムの需要段階に達していることが,国民経済的に最も適しているといわれている。そこで,官業(工部省所管)釜石製鉄所の計画がなされた当時の日本の鋼消費量を試算してみると,まだ1キログラムにも達していない。一つの国で新しい技術が育つには,需要の状況をも考慮にいれた,その土着文化に対する認識と,そこに生産力を定着させてゆくための技術学的な方法,総じて広い視野のもとに立った技術思想の有無がものをいう。
 不幸にして,外人技師尊重の立場から,工部省の幹部は高任の意見をいれず,ビャンヒーの意見を採用した。高任はやがて秋田県小坂鉱山へと転勤となり,釜石の現場を去ることになった。官営釜石製鉄所は,大規模のイギリス式高炉2基(もちろん耐火煉瓦などの資材もいっさい含めて)のほか,鉄道など関係設備すべてをイギリスから輸入することとなった。そして,新たに招いた同国の外人技師の指導を仰ぎ,1880年(明治13)9月工事は完成して,いよいよ製銑作業を開始したのである。
 その結果は失敗につぐ失敗で,1882年(明治15)12月に工部省は釜石製鉄所の廃止を決定する始末となった。工学士桑原政(まさ)は,『工学叢誌』という当時の雑誌(同年8月号)に「釜石鉱山景況報告」を寄せ,はやくも官業釜石の最大の欠陥をつき,つぎのように当局者への忠告を行なっている。「古人曰ク,其ノ本(もと)ミダレテ,而シテ末(すえ)修マルモノハ非ズト,夫レ採砿,運砿ノ如キハ砿業中ノ大本ナリ……」。
 たとえ一部に巨大な資本を投下し,最新・大型の高炉や機械や鉄道を据えても,これに関連する周辺領域の整備がおくれ,作業がまったく人力による原始的技術の段階にとどまったのでは,労働災害を激発する恐れこそあっても,とても技術の全体が円滑に進展してゆくことは不可能である。桑原はそれを批判しているのであるが,高任が製鉄立地論争のさいに,もっとも懸念し,警戒したのもこのことであった。
 明治の文明開化期にすぐれた啓蒙思想家として活躍した福沢諭吉は,1875年(明治8)の『覚書』のなかで「今の日本の役人共は,一時国の改革に骨は折りて手柄もありし者なれども,固(もと)より知識聞見は少なし」と指摘し,それゆえに「外国人を雇てこれを懐中宝剣と為し,この宝剣に依頼してみずから衛らんとするの勢いあり」と,明治官僚の自主性の無さ,いわば植民地的根性を痛切に批判している。明治維新のさい反薩長,つまり反官軍の側にあった南部藩の出身である高任の明治期における技術活動は,思えばこうした主体的な思想のない官僚たちとの戦いでもあった。もし,工部省の権限ある高級官僚に,欧米一辺倒でなく,真に日本の経済と技術の風土に立脚した思想の持主がおり,高任たち科学的精神と技術的思慮に富む人物の識見を採用する勇気があったならば,日本の近代製鉄技術の歴史は,大きく書き変えられていたにちがいない。
 コークスが鉄鉱石と「調和十分ノ適当ヲ得ザル」ことが,溶銑の流れ出てくる湯口をふさいでしまったことが命とりとなったのであるが,より根本的な失敗の原因は,採鉱・運鉱といった製鉄業にとっての基本作業に欠陥があったことである。
 こうして,1890年代以降における釜石製鉄所,いな日本の鉄鋼技術の進路は,官営釜石製鉄所の技術的失敗の徹底的な究明と,その克服のもとに切りひらかれることになる。
 官業釜石廃止のあとをひきうけて,ふたたび釜石に製鉄業をおこすことを企図したのは民間の一商人,田中長兵衛一族である。「鉄屋」を屋号とした長兵衛は,薩摩藩出入りの金物商から身をおこした糧食関係の陸海軍御用商であるが,大蔵卿(大蔵大臣)松方正義のすすめもあって,釜石製鉄所の機械部品などの払下げに着手したことから,製鉄業経営の分野に足をふみいれることになり,苦心の末,1887年(明治20)7月に「釜石鉱山田中製鉄所」を設立するにいたったのである。
 ずぶの素人の集まりといってもよい田中製鉄所の人びとにとって,当時「大高炉」とよばれていた工部省時代のイギリス式25トン高炉(25トンとは1日の出銑量を表す)を操業することは,技術的にとても手におえなかった。この巨大な炉を動かすことは,燃料木炭の調達ひとつを考えても,釜石の自然条件にはばまれて,困難なことであった。そこでかれらは,まず「薪炭ノ便利ヲ得ル」地域を選んで,ここにかつて大島高任が築いたような日産5~6トンていどの小型高炉を建設して,熟練の度合に応じて徐々に事業の拡張をはかるという方法をとった。
 こうするうち,たまたま当時新しい製鋼技術の分野で開拓的な役割をはたしつつあった陸軍大阪砲兵工廠で,釜石鉱山田中製鉄所産出の銑鉄を鋼に精錬し,その鋼で軍事用の武器や機械をつくる試みが始められた。1890年(明治23)8月,釜石銑で試製された弾丸とイタリアのグレゴリーニ銑による弾丸との比較試験が行われ,日本の釜石銑が世界的にも有名なグレゴリーニ銑にくらべ,まさるとも劣らないことが立証された。この結果,田中製鉄所は大阪砲兵工廠に自己の釜石銑鉄の強力な需要先を見出すことができ,資本蓄積もようやく進んで,いよいよ旧工部省時代の高炉の復活と,コークス製銑技術の確立が企図されることとなった。すなわち,1893年(明治26),当時帝国大学工科大学(いまの東京大学工学部)教授で鉄冶金学の権威者であった,工学博士野呂景義(のろかげよし,1854-1923)を顧問に迎え,同時にその門下の香村小録(こうむらころく,当時農商務技師試補,のちに工学博士)を技師長に招き,「大高炉」の再操業に直進することとなったのである。
 わが国最初のコークス高炉創業の模様を,野呂はつぎのように書きとめている。
 釜石鉄ニ於テハ,旧工部省ニ於テ建設シタル大高炉ヲ改造シ,一昨年〔1894年〕ノ1月ヨリ木炭ヲ以テ銑鉄ヲ鎔製シ来リシニ,昨年八月木炭ヲ廃止シ,北海道夕張ノ粉炭ノミヲ以テ製シタル骸炭〔コークス〕ヲ以テ吹立テタルニ,骸炭ノ質甚ダ脆弱ナルニモ拘ハラズ,極メテ良成績ヲ得タリ。比実例ニ由テ,本邦製ノ骸炭能ク製銑業ニ適スル事ヲ証スルニ足ル。
 これによると,はじめは木炭吹きとし,1895年(明治28)8月から北海道夕張炭によるコークスを用い,みごとにコークス高炉法を成功にみちびいたのである。この高炉の復活にさいして,野呂景義はその技術学的な識見に基づいて,内部の形状を改良し,熱効率の悪い,熱風炉とボイラーとの共用煙突の設計を改めてボイラー専用の低い煙突を建て,なお鉄鉱石の焙焼が不十分と推測されたので,新たに焙焼炉を設置するというように,その対策に万全を期した。
1880年代ともなれば,洋式技術を批判的に摂取し,科学的に日本の原料条件に適用させうる力量をもつ技術指導者が,生れ育ったのである。ちなみに野呂は,1882年(明治15)東京大学理学部の採鉱冶金学科を卒業後,イギリスのロンドン大学で機械工学と電気工学を学び,さらにドイツのフライベルヒ鉱山大学(Bergakadmie zu Freiberg)で,当時の鉄冶金学の第一人者アドルフ・レーデブーア(Adolf Ledebur)について,製鉄の理論とじっさいを修めた人物である。
 釜石鉱山田中製鉄所の銑鉄生産高は,1893年には約8,000トンであったが,翌年には約1万3,000トンを記録し,中国地方のたたら炉による全鉄類生産高を追いこし,対全国比65%という過半を占めるにいたった。1894年(明治27)は,この意味で,わが国近代製鉄業の基礎がはじめて確立された年といってもよいであろう。

4 官営八幡製鉄所の成立と発展
 1890年代までに達成された釜石鉱山田中製鉄所における製銑技術と,陸海軍工廠を中心とした洋式製鋼技術の成果とは,野呂景義ら先駆的な技術者の科学的な識見と,榎本武揚ら産業の開発に重点をおく開明的政治家の活動,さらには明治期の日本民族の旺盛な鉄鋼に対する需要と,相互にかみ合い,結び合わさって,1901年(明治34)における官営八幡製鉄所(農商務省「製鉄所」)の製鉄鋼作業開始へと結実する。そしてさらに,日露戦争(1904-05)を契機とする鉄鋼需要の伸びと,科学性に富む技術者たちの創造的な活動とに支えられ,官営八幡製鉄所において初めて銑鋼一貫作業の生産システムが,技術的に確立される。

 (1) 創業期の技術的失敗
 周知のように銑鋼一貫技術とは,まず高炉において,鉄鉱石(Fe3O4,Fe2O3)中の鉄分(Fe)が還元溶解による銑鉄となり,こうして高炉からとり出された溶銑が,平炉・転炉・電気炉などの製鋼炉において酸化精錬されて溶鋼となり,鋼塊として固化されて大部分は圧延工場に運ばれ,使用目的に応じた各種の形状の鋼材に圧延加工される。最終工程の圧延作業は,機械(ロール)を労働手段の中心とする物理的・機械的技術であるが,これに先立つ製銑・製鋼作業は,装置(炉)を主体とする化学的・冶金的技術であって,つくられる鋼材の質はいうまでもなくここで決定づけられる。
 1901年(明治34)2月に火入れされた官営八幡製鉄所の第1高炉は,ドイツの著名な高炉技術者F. W. リュールマン(Luhrmann)の設計になり,内容積495立方メートル日産公称能力160トンであった。しかし,操業の結果はきわめて不良で,銑質は悪く,製鋼用として不適当であったのみでなく,1日の生産高は平均わずか80トンにすぎず,しかもコークス比(銑鉄1トン当りの使用コークス量)は1.7トンという効率の悪さを示し,支障続出し,ついに1902年7月には休止のやむなきにいたった。技術的失敗の状況は官営釜石の場合と酷似している。
 この高炉の起死回生を依頼され,1904年(明治37)その技術的確立をもたらす原動力となったのは,当時故あって帝国大学教授の地位を辞し,民間鉄鋼業の技術指導に当っていた前記野呂景義であった。すなわち,製鉄所長官中村雄次郎(陸軍中将,のちの南満州鉄道株式会社総裁)に乞われて嘱託顧問となった景義は,不良結果の原因について徹底的な科学的調査を行ない,①高炉の購造欠陥,②装入物の調合不良,③炉内装入物の溶結,④数度におよぶ停風,などの問題点を明らかにした。そして要するに失敗は,「本邦産の原料に経験なき外国人に依頼したること,羽口の径ならびにその炉内への突出が共に過大なりしこと,不良なるコークスを使用したること,装入物の調合その宣しきをえずして鉱滓が塩基(basic)にすぎたること」などにあると結論づけ,ただちに原設計に対し可能な範囲の改造を加え,あわせてコークスの改良その他の準備をすすめ,高炉の再操業を軌道にのせることができたのである。
 このとき,野呂の門下の服部漸(はっとりすすむ,のちに工学博士)が八幡製鉄所銑鉄部長として,現場の指揮に当ったが,服部は『鉄と鋼』誌に「製鉄所の熔鉱炉作業に就きて」という論文を寄せ,「此の最初不良なりしものが今日の盛況に達したるは,単に暴風雨襲来後の快晴を見るが如く,自然的天候恢復の結果にあらずして,事毎に其原因を考究し,各般に渉りて改良努力を為したる結果に外ならず」と記した。
 もとより八幡製鉄所の創業期に外人指導者たちがわが国の製鉄技術を啓発した業績を否定することはできないが,しかしそこから外人技師の指導,海外技術の導入によってのみ日本鉄鋼技術は発展したと結論するなら,日本人の技術を過信することと同様誤りである(ちなみに製鉄所創業にさいして雇入れられた約20名のドイツ人技師・職工長たちは,1902年以後1904年3月末までに,転炉職工長1名をのぞき,すべて解約されていた)。
 私たちは日本の近代鉄鋼技術史・鉱山技術史のうえで,ヨーロッパ技術の移植を考察する場合,野呂景義のつぎのことばを十分に銘記しておいてよいと思うのである。
 抑々(そもそも)工場全部の計画及操業を外国人に委するの可否については,大いに考慮すべきことなり。我鉱業に関しては,佐渡・生野・院内・阿仁・小坂等に於ける外国技術の成績を見るに,何れも不良にして,殊に製鉄業,即ち釜石及八幡製鉄所の製鉄業の如きは皆失敗に終わり,我技術者に依りて初めて成功したる例を見れば,思い半ばに過ぎむ。
 (2) 海外技術の批判的摂取
 官営八幡製鉄所における技術的成功は,野呂景義とその教え子の服部漸らが,日本の技術者として,わが国原料の特殊性を無視した形式主義的な導入高炉の設計と,原料コークスのずさんな使い方あるいは処理の仕方とを積極的に批判検討し,これら製銑技術のための諸要素を,その技術学的な確信に基づいて再組織することを試みて,はじめてもたらされたのである。
 1904年(明治37)以後,八幡製鉄所の高炉は,炉型の改造,容積の増大,ならびに操業技術の進歩となって,その生産能率は著しく増進した。すなわち,かつて釜石・田中製鉄所で1894年に25トン高炉をコークス高炉として復活させたさいは,製出銑鉄トン当り炉容積は4~5立方メートルであったが,1910年代の八幡では2~3立方メートルとなり,1930年(昭和5)には大型高炉の端緒というべき500トン炉(八幡・洞岡第1高炉)の完成・創業によって,ついに1.2立方メートルを記録し,ほぼ第1次世界大戦前におけるドイツの銑鉄トン当り炉容積の水準に到達することができた。
 製鋼作業,ことに平炉部門においても官営八幡の初期には,高炉と同じような欠陥があり,その克服が必要であった。野呂景義の愛弟子(服部と同期)で,同所の初代製鋼部長であった今泉嘉一郎は,これについて「製鋼部に属する平炉はダーレン(R.M.Daelen)氏の設計に基づくものなりしが,これまた欠点少なからず,しかしてその方式が未だいずれの処にも実験せられたることなかりしいわゆる机上の成案なりしこと,1903年予がドイツにおいて親しくダーレン氏より確かめ得たるところなりし。最も重大なる欠点の内,噴出口の配置は実験の後これを改正することを得しも,噴出口の短かきに過ぐるを改むること,および鎔滓室を設くること等は,場所の関係上遂にこれを実行することを得ずして止みたり」とのべている。
 要するに「銑鉄部,製鋼部共にその重要機関にこのごとき設計上の欠点ありしため,幼稚なる当時の作業は一層その困難を加え,数年にわたりて十分なる活動をなし得ざりし」という状態で,これにコークスの不良が拍車をかけた。今泉はつづいて言う。
 製鉄所において当初使用せしごとき不良なる骸炭(コークス)を用ゆる製鉄所は,世中多くその例なきところなり。野呂博士の報告のごとく,これがため鎔鉱炉の作業に故障を生ぜしこと多かりしのみならず,製鋼工場において希望する塩基製鋼法用の銑鉄としては,余りに硅素含有量の大なるものか,然らざれば余りに硫黄分の多き劣等銑鉄の産出に傾き,しかも産額においても十分なるを得ず,鎔鉱炉設計の欠点と相まって,製銑及製鋼の作業に甚大なる障害を与えたり。これ実に製鉄所初期における銑鉄および鋼鉄製造費のすこぶる多大なりし一大原因なりとす。
 1910年(明治43),官営八幡製鉄所は創業以来はじめて黒字を出すが,この原因は製銑・製鋼設備の欠陥の克服とならんで,ソルベー(Solvay)式コークス炉の導入にともなうコークス技術の確立に負うところが大きい。すなわち,銑鋼一貫作業の発展は製鉄用燃料の面からみると,ますます製鋼・圧延工場の分野にコークス炉ガス,高炉ガスの利用を完全にし,可能なかぎりガス発生炉における石炭の消費量を軽減し,すすんで全作業に要する熱量をことごとくコークス炉に装入する石炭のみによって供給し,不足なしというかたちで実現することができたのである。
 かくて製鉄鋼作業の総合化・一貫化と,燃料経済の合理化とは,石炭使途のコークス集中化を指向し,おりから1910年代に急速に進展した動力の汽力から電力への転換とも相まって,八幡製鉄所における鋼材生産トン当り石炭使用量は,1920年ころまだ4トンを要したものが1933年には1.58トンへと激減した。

5 民間製鋼業の発展―経済的合理性の追求
 第1次大戦の時代まで,日本の鋼材生産の80~90%は,官営八幡製鉄所に負うものであった。しかし,この大戦を契機に,わが国の重工業,化学工業は急速な発展をとげ,これにともなって,わが国にも急速に民間製鋼企業が勃興し,これら諸産業からの鉄鋼材料に対する要請にこたえることができるようになった。ここに1917年に施行された「製鉄業奨励法」が,民間製鋼業の成立を促進した。
 しかし,これら民間製鋼業がすすんで採用した生産体系は,高炉をもつ銑鋼一貫技術の体系ではなく,安価なインド銑鉄とアメリカ鉄くずの輸入を基軸としての平炉製鋼法,すなわち鉄くず製鋼法であった。技術と経済とのバランスのとれた発展の仕方を重んずる民間企業としては,この方法は当然の進路でもあった。すなわち,第1表にみるように,インド銑(ことにタタ銑)は,日本製のいずれのものよりも安く,国際的にも最も低価格であったから,官営八幡に対し,また釜石のような高炉会社に対し,一般民間製鋼企業はここに一つの活路を見出したのである。京浜工業地帯における「日本鋼管」(1912年創立)はその先頭に立ち,銑鉄自給問題を解決していった代表的な民間企業の一つである。
 安価なアメリカ鉄くずと,インド銑の安定的な大量輸入は,民間製鋼業における経済的合理性の追究によくマッチした。いま1931年における銑鋼一貫製鉄所(八幡・釜石)と鉄くず製鋼法による単独平炉会社との鋼塊生産費を比較してみると,前者はトン当り48円04銭(25%鉄くず混入)であったのに対し,後者は40円32銭(配合比は銑鉄0.35,鉄くず0.65)にとどまった。前者の溶銑がトン当り32円72銭を要したのに対し,後者の冷銑は27円60銭ですんだのが,主な理由である。
 こうして,1933年度上期における主要鉄鋼会社の経営状況をみると,第2表のとおり日本鋼管などの平炉メーカーが,大財閥の三菱・三井系高炉メーカーより,経営的には,はるかに有利であったことがわかる。1930年代はじめには,日本の粗鋼生産は,すでに官業よりも民業のほうが大きな比重を占めるにいたったことは,特筆するに値する。
 だが,ちょうどこのころ,世界的にアウタルキー時代の暗雲が濃くなりつつあった。平炉製鋼法一辺倒の状況は,第1に,ひとたび安価なインド銑とアメリカ鉄くずという有利な経済的条件がなくなれば,その存立基盤を失うという矛盾を,つねにはらむものであった。第2に,すでに自動車産業を中心に高度の機械文明が発達して,鉄くずが豊富に発生するアメリカであればともかく,ヨーロッパの製鉄事情にみるときは,鉄くずを必要としない転炉をまったくもたず,本来優良鋼の生産に適する平炉で普通鋼の量産を行なうことは,技術的に決して正則的なものとはいえなかった。
 こうした矛盾の解決は,いずれ第2次大戦後へと持ちこされねばならなかった。
第1表 銑鉄生産費の国際比較
第2表 1933年度上期主要鉄鋼会社経営状況

Ⅳ 科学的技術の時代―日本鉄鋼技術の自立
 官営八幡製鉄所ならびに民間製鋼業における技術的発展,つまり銑鋼一貫技術と平電炉技術の併進のなかで,わが国鉄鋼業は完全に鉱業型から工業型へと移行した。そして,その成果のうえに,鉄鋼に関する理論と実践との相互交流の場が生れ,鉄鋼ないし金属全般にわたる基礎的研究が積極的に開始されはじめた。この意味でわが国鉄鋼史は1910年代から科学的技術の時代へと進むといえるのである。

1 日本鉄鋼協会の創立とその後―研究開発の進展

 1915年(大正4年)2月,「鉄及鋼に関スル学術,経済,其他一切の問題ヲ研究調査シ,本邦ニ於ケル該事業ノ改良発達ヲ期スル」ことを目的として,野呂景義,今泉嘉一郎,俵国一らの主唱によって,鉄鋼研究の専門学会として日本鉄鋼協会(The Iron and Steel Institute of Japan)が創立され,やがて野呂が初代会長に選ばれる。この鉄冶金学会はかれらの留学先でもあったドイツの鉄鋼協会(Verein deutscher Eisenhiittenlente)に範をとり,「学理と実業との合同」を標榜した。日本鉄鋼協会の創立は,わが国の鉄鋼の技術と産業とが,はじめてながい模倣・移植の時代を去って,真に合理的・科学的精神を日本の土壌に定着させることができた一つの画期を示すものと,私は考えるのであるが,このような理論と実践との歩み寄りは,鉄鋼の場合,理学博士本多光太郎(1870-1954)の登場をえて,いっそう確固たるものとなった。
 本多は,強磁性体の物理学的研究と,合金の物理冶金学的研究という基礎研究から進んで,1917年強力磁石鋼(いわゆるKS鋼)を発明し,さらに工学博士俵国一(1872-1958)を開拓者とする金属組織学的研究の応援をえて,独自の鉄鋼科学の体系を生み出し,1919年東北帝国大学に鉄鋼研究所(1922年,金属材料研究所と改称)を発足させたのである。彼はのちに『鉄と鋼』誌(1935年)に「本邦鉄鋼科学の進歩」という論文を寄せ,「本邦鉄鋼科学最近の進歩は実に目覚ましく,研究論文の数に於てのみならず,質に於ても,毫も欧米先進に劣る所なく,局部的には却って凌駕していると思われる方面もある位である」とのべ,それまでの過程をつぎのように回顧している。
 顧みるに鉄鋼学の研究が本邦に於て創められたのは,漸く明治末期から大正初期(1900-10年代)にかけての頃であったと思う。それ以前に,製鉄事業は起され,鉄冶金学は各大学に於て研究されたのであるが,主に製鉄及び製鋼に関する方面に限られ,鉄鋼の材質的方面,すなわち金相学の研究はきわめて寥々たるものであった。当時,鉄鋼学に関し,欧米先進はすでに確乎たる存在を示し,着々研究の実績を挙げていた。斯かる時機に際し,遅れ馳せながら起った本邦鉄鋼学の研究は,当初は先進諸外国に追従して行くに汲々たる状態であったが,大戦前後から急激に抬頭し始め,其後日進月歩,遂に今日の地位を占めるに至ったのである。其間僅かに20年余,実に驚くべき発達振りと云うべく,邦家のため誠に同慶の至である。研究機関は官公立各大学の冶金学教室,金属材料研究所,理化学研究所,陸海軍工廠の研究部の外,八幡製鉄所,’其他民間各会社の研究室等で,年々数多の研究論文が“鉄と鋼”,“金属の研究”,“水曜会誌”,其他民間各会社の研究報告に発表されている。
 これらの研究機関のうち,つねに鉄鋼研究の中心的存在として,真に開拓的役割をはたしたのが,本多のひきいる東北大学鉄鋼研究所で,1922年(大正11)に金属材料研究所へと組織拡大され,今日にいたっている。
 この研究所における諸成果を,本多光太郎は『鉄及び鋼の研究』(全4巻,1919~26)などのかたちで広く公刊するとともに,進んで海外専門学会誌に発表し,科学の国際交流につとめた。鉄鋼の本質的究明のために,①化学分析,②磁気分析,③顕微鏡的研究,④X線分析などの方法を駆使し,金属材料研究所を母胎にわが国が誇る新合金の発見を続々と世に問うたことは,日本の科学技術史上,きわめて高く評価されるものである。本多・高木弘のKS磁石鋼(1929年),加藤与五郎・武井武の酸化金属磁石=OP磁石(1930年),本多・増本・白川勇記らによる新KS磁石鋼(1932年)などが知られている。
 これらのうち,新KS鋼は,1931年(昭和6),工学博士三島徳七(1893-1975)が東京で鉄・ニッケル・アルミニウム合金のMK磁石を発明したのに対応して,ただちに東北の本多らが生み出した析出硬化型磁石(鉄・コバルト・ニッケル・アルミニウム・チタン合金)で,さきのKS鋼に対し2倍の磁性性能をもつものであった。

2 両大戦間における技術的蓄積
 本多と,彼を指導者とする金属材料研究所の科学的業績によって,わが国鉄鋼技術史は,まさしく工業技術の段階から科学的技術の段階へと突き進むことができた,と言ってよいであろう。
 もっとも,その科学的技術が産業面に適用されて実を結ぶようになる,つまり科学的技術がほんとうに開花するには,わが国は第2次大戦後までまたねばならなかった。それにしても,本多らの業績とならんで,両大戦間の時代にさまざまの独自技術開発の試みがなされたことが,戦後日本鉄鋼技術発展の土台ともなったのである。その数例をつぎにあげてみよう。
 第1は,梅根常三郎(1884-1956)を中心とする貧鉄鉱磁化焙焼法の発明である。これは1920年(大正9)南満州鉄道(株),いわゆる満鉄の鞍山製鉄所において着手され,22年に完成・特許をえたもので,鉄鉱石の事前処理技術に先鞭をつけ,第2次大戦後,とくに最初の銑鋼一貫製鉄所として川崎製鉄(株)千葉製鉄所が計画・建設されたさい,その成果は鞍山製鉄所(のちに昭和製鋼所となる)の徹底した熱管理・運搬管理技術などとともに生かされた。
 第2は,黒田泰造(1883-1961)による黒田式コークス炉(再生燃焼装置をもつ独創的な副産物回収式コークス炉)の発明で,「最小限の石炭をもって最大限の鋼を生産する」ことを目標に,複雑な熱工学上のあらゆる問題を克服して熱の生産および移動に対する基本的型式を創出したものと評価され,1918年に発明されて以来,ながく八幡製鉄所のみならず各一貫製鉄所,ガス・コークス産業工場などにおける副産物回収式コークス炉の原型となった。
 第3は,大型高炉の建設である。はじめ1930年(昭和5)に,八幡製鉄所の技師山岡武を中心に同所洞岡(くきおか)工場に日産500トンの高炉として計画・築造されたものが発端で,これは製鉄設備国産化のうえで歴史的に大きな意義をもつのみでなく,1937年以後における1,000トン(1,000立方メートル)高炉の基礎となったのである。1,000立方メートル高炉は当時の世界の最高水準でもある。
 第4は,1938年(昭和13)日本鋼管(株)川崎製鉄所において創始された日本的トーマス(Thomas)製鋼法である。今泉嘉一郎の考案にかかるこの生産体系の導入とその実績によって,今日の高炉→転炉→圧延という銑鋼一貫方法の基本は,一応戦前に準備されていたと考えてよいであろう。
 第5は,国内資源の有効活用の展開である。わけても輪西(わにし)(室蘭)製鉄所で国内炭のみによる高炉用コークス製造法として,いわゆるコーライト(coalite)技術が研究開発され,また道内鉱石使用の焼結鉱のみによる高炉操業が遂行されたことは,戦後における原料事前処理・省資源技術の先がけをなすものとして評価されてよい。
 第6は,総合的な臨海銑鋼一貫製鉄所の建設である。1939年(昭和14)に高炉の火入れをみた日本製鉄(株)広畑製鉄所がそれで,鋼材年産目標40万トン規模であるが,計画策定から第1高炉(1,000立方メートル)の作業開始までを,わずか2年半でなしとげた。戦後,占領下に,当時世界鉄鋼技術の最先端に立っていたアメリカの専門家が,日本の数ある製鉄工場のなかでこの広畑製鉄所のみをexcellentと評したことは,よく知られている。
 第7は,わが国最初のストリップミル(stripmill)の導入である。1940年まず八幡製鉄所の戸畑でコールド・ストリップ,翌41年ホット・ストリップミルが稼動し,42年には広畑製鉄所で連続厚板ミルが作業を開始した。もちろん,アメリカからの導入設備であるが,ヨーロッパに先がけてこの新技術に挑戦した意欲が評価される。
 さて,以上のような技術開発上の諸成果のほか,日本学術振興会(The Japan Society for Promation of Science)のなかの一つの共同研究組織として,製鋼ならびに製銑に関する研究委員会が,それぞれ1934年および1943年に設置され,俵国一博士(当時東大名誉教授)を委員長として活動を開始した。これは,従来日本の学問的風土ではなかなか育ちにくかった金属工学者たちと,基礎物理・化学者たちとの相互交流による共同調査研究の場をもたらしたものとして,特筆に値する。技術と科学との総合研究,わけても鉄鋼製造のプロセスに科学的計測の技術を適用させ,製銑・製鋼設備の自動制御をはかる今日の方向は,じつに学振共同研究委員会の活動のなかから芽ばえたのである。

3 臨海銑鋼一貫製鉄所の展開
 第2次大戦後における日本鉄鋼技術の発展は,周知のように1951年(昭和26)以来の3次にわたる設備合理化政策の路線に沿って,海外技術の導入をテコとしてなしとげられたものである。その結果,日本鉄鋼業は今日,粗鋼年産(戦後最高1973年,約1億2,000万トン)世界第3位,鋼材輸出世界第1位の段階まで達したのである。
 しかし,太平洋戦争によって壊滅的な打撃をうけた日本鉄鋼業が,このような位置を獲得することができたのは,第1にわが国が幕末以来すでに1世紀をこえる近代製鉄技術の経験と蓄積をもち,さきにあげたような諸成果のうえに,共同してみずからの方途を見定めて行く実力をそなえていたこと,第2に戦後における国際経済環境に対応しつつ,積極的に内外の技術交流を深め,導入技術の選定を見誤らなかったこと,第3に敗戦による軍需の解消によって,戦後日本鉄鋼業は国民生活の向上に結びついた平和産業の基礎資材を供給するという本来の姿に立ちかえることができたこと,第4にこうして産業構造の重化学工業化が進む過程で,戦前にはついに自立することのできなかった産業機械工業の基礎が確立したのをはじめ,鉄鋼関連部門における技術の全般にわたる進歩がめざましく,いわば「鉄が鉄をよぶ」,「革新が革新をよぶ」という産業技術環境が醸成されたこと,少なくともこれらの諸点はまず理解されなくてはならないであろう。

 (1) 鉄鋼対策技術委員会――自主的共同研究開発と技術交流の進展
 戦後の日本鉄鋼業が復興への第一歩を記すに当って,今日一般に最も効果的な政策であったとされるのは,1946年(昭和21)12月から経済安定本部のテコ入れによって実施された,いわゆる傾斜生産方式(Priority production system)である。鉄鋼と石炭とをまず重点的に生産の軌道にのせ,雪だるま式に日本の産業復興をはかってゆこうという方式である。
 だが,鉄鋼技術の分野では,戦前に学術振興会共同研究委員会を中心に進展をみせたような研究組織が,はやくも敗戦直後に日本鉄鋼協会を母胎にして生れ,工学博士三島徳七を会長,湯川正夫(のち八幡製鉄副社長)を委員長として官民・産学共同による学際的活動を開始した事実を,私は高く評価するものである。鉄鋼対策技術委員会(Steelmaking Technology Committee)がそれで,同会は1946年10月,はやくも「鉄鋼生産方式としては銑鋼一貫法が,資源の最有効利用が可能で最も合理的且効果的の製鉄方式である」と,戦後鉄鋼技術の基本方向を提唱した。
 そして,この基本に立って,あわせて,①高炉装入原料サイジングの徹底,焼結鉱の使用強化,原料炭の合理的配合,弱粘結炭による優良コークスの製造研究などを含む鉄鋼技術の向上方策,②作業の科学的合理化,技術の交流,発明考案等の奨励強化,③鋼材の消費を節約するための高級鋼材の活用,鋼質・鋼材形状の研究改善と溶接や熱処理の活用実施,④作業の機械化,作業管理および熱管理の徹底,機械修理保持(メンテナンス)の強化,ならびに,②鉄鋼研究機関の相互連けい,整備強化などを打ち出したのである。
 鉄鋼対策技術委員会の提唱は,やがて通商産業省,学界(日本鉄鋼協会(Iron and Steel Institute of Japan)・日本金属学会(Japan Institute of Metals),業界の三者共同による「鉄鋼技術共同研究会」を生み,酸素製鋼法に関する共同実験研究あるいは純酸素上吹き転炉(LD転炉)Oxygentop-blown converter=LD Converter特許の共同購入方向など,好ましい技術発展の土壌を急速に整えた。そして1950年(昭和25)における日本鉄鋼協会米国鉄鋼技術調査団のアメリカ派遣を発端としての海外との技術交流とも相まって,戦後日本の鉄鋼技術が臨海銑鋼一貫製鉄所を基軸に躍進してゆく諸条件が形成されたのである。

 (2) 経済環境への技術的対応
 戦後日本鉄鋼業における技術革新を一口で表わせば,高炉の大型化→LD転炉の全面的採用→連続鋳造法の積極的採用→圧延作業の自動化・連続化・高速化,という一貫生産システムを,科学的合理的な原材料輸送・製品流通システムと巧みに結びつけつつ,これを新鋭臨海製鉄所のかたちで確立させたことである。このうち,鉄鋼技術革新の主導的役割をはたしたものは,いうまでもなくLD転炉として知られる純酸素上吹き転炉の導入である。
 わが国LD転炉の起点は1957年(昭和32)9月,八幡製鉄所の洞岡(くきおか)工場,また大型高炉の戦後起点は1959年,同じく八幡の戸畑製造所(Tobata Area Works)においてであるが,当時わが国の鉄くず価格は国際的にみて最も高く,絶対量においても不足し,もはや戦前のような安いアメリカ鉄くずとインド銑の大量輸入に基づく平炉製鋼法(鉄くず製鋼法)のメリットは皆無に近かった。そこで,当然,安価で豊富な鉄源を安定的に得るために,高炉法を基軸とする生産システムに向うことが,経済的にも必須の課題となったのである。
 おりから,日本と同じく鉄くずにとぼしいオーストリアで,生産効率の高いLD転炉が工業化の軌道にのりはじめていたことは,日本鉄鋼業にとって大変幸せであった。LD転炉はちょうど大型高炉の経済性にマッチしたのである。
 戦後鉄鋼生産技術の発展は,このように国際経済環境に対応しつつ,恵まれない資源条件のなかから,いわゆる規模の経済性を追求し,生産単位当りコストを低下させ,もって国際競争力を強化させる,というかたちで実現されたのが特徴である。
 1951年(昭和26),日本鉄鋼業は一連の鉄鋼近代化計画を進発させたが,おりからの朝鮮動乱を契機に,日本経済のうえには建設用資材,造船,電気製品,自動車などの全般にわたる旺盛な鉄鋼需要がおこり,それまでに蓄積した自主的な技術開発の経験のうえに立ち,導入技術を基軸に徹底的にスケール・メリットの追求に向うことができた。
 第1次合理化計画(1951-55年)では,主として圧延設備の近代化,ことに熱間(Hot)・冷間ストリップミル(Cold Strip Mill)の新設に重点がおかれた。しかし,はやく戦前から銑鋼一貫企業への進出を目ざしていた技術経営者の西山弥太郎(1893-1966)を筆頭とする川崎製鉄(1950年川崎重工業から分離独立)は,この時代にストリップ・ミルまでの一貫製鉄所を計画し,これを千葉市に実現し,1953年戦後最初の銑鋼一貫製鉄所を出発させた。
 第2次計画(1956-60年)では,いよいよ大型高炉とLD転炉の建設が中心となり,さらに全般的に設備の近代化がはかられた。この期間に八幡・戸畑製造所,住友金属・和歌山製鉄所などが新発足した。海外資源の開発への協力参加のほか,ますます遠隔化してゆく資源供給地から効率的に原燃料を運ぶため,大型鉱石専用船の採用や港湾設備の改善など,わが国自然条件ならびに土木技術・造船技術の成果を巧みに活用して,積極的に輸送合理化が推進された。
 なお,八幡製鉄所の戸畑製造所に,この時代に大型高炉製銑→転炉製鋼→少品種鋼材の大量圧延というマスプロ方式が完成したことは,1901年以来,多種多様の鋼材をつくり出してきた八幡製鉄所(八幡製造所,Yawata Area Works)のごとき戦前の代表的製鉄所が,歴史的役割を終えたことを同時に示すものであり,「海に築く製鉄所」とよばれた戸畑製造所(Tobata Area Works)は,その後における臨海銑鋼一貫製鉄所の代表的パターンともなった。
 第3次計画(1961-65年)では,既存の各工場の設備強化と併行して,大規模な新立地一貫製鉄所の建設が行われた。現在の新日本製鉄(株)の名古屋・堺・君津・大分各製鉄所,日本鋼管(株)の福山製鉄所,川崎製鉄所の水島製鉄所,住友金属(株)の鹿島製鉄所,(株)神戸製鋼所の加古川製鉄所などが,いずれもこの時代に着工ないし企画されたもので,これら新鋭製鉄所は,それぞれ新しく造成された臨海工業地帯の中核となり,地域開発,コンビナートをともなったのが特徴である。
 なお,この時代にわが国産業機械工業がその技術的基礎を確立し,製鉄機械のなかでも最も製造が困難とされたすトリップ・ミルなどの高級圧延機分野において,国際的に劣らない設備を鉄鋼業に対して供給しうるようになったことは,その後鉄鋼メーカーとプラントメーカーとが提携して,製鉄事業そのものの海外技術協力をはかる基礎が,完全に整ったことを物語る。
 1960年代後半においても,鉄鋼業の拡大投資はつづけられ,大型化・連続化・コンピューター化が進み,粗鋼年産1,000万トン規模の臨海製鉄所が出現した。わけても,分塊圧延機をもたぬ全連続鋳造方式による世界最初の一貫製鉄所(新日鉄・大分)が発足したことは,省エネルギーその他あらゆる観点からみて技術史的意義をもつものである。戦後日本経済の重化学工業化の過程において,一つには産業機械工業,化学工業,土木・建設工業が発達し,いま一つには自然科学,・工学理論が発展し,この二つの方向と鉄鋼技術とがはじめて密接に結びついたこと,そうした総合性のなかに鉄鋼技術の進歩がもたらされたこのが,戦後技術の大きな特質である。
4 技術導入から自主開発へ――LD転炉とOG法
 日本鉄鋼技術の自主的発展のために多くのすぐれた論考をのこした工学博士雀部(ささべ)高雄は,その遺稿集『鉄鋼技術論』(1968年)のなかで,今日の日本のはなばなしい技術革新は,もともと第1次合理化計画以後のきわめて短期間のうちに海外から急速に導入したものであることを指摘し,じつは導入技術への依存が,ややもすれば自主的な技術の発展を阻害する大きな要因ともなっていると,警告を発したことがある。彼は言う。
 製銑部門の技術は,その主要部分をアメリカおよび西ドイツから導入し,純酸素上吹転炉はオーストリアから導入し,重油を使用する製鋼方式はアメリカから導入した。圧延部門のストリップ・ミルの導入は,アメリカから全圧延機設備を購入したほかに,ストリップ・ミルで圧延する粗材の製鋼技術の指導から,図面および操業法の提供,外人技師による指導,日本人技術者の教育等々まで,いっさいを含む技術導入であった。大企業各社は,だいたいこれと類似の方法で繰り返し,個々にそれぞれストリップ・ミルを導入した。
 じっさい,この通りで,戦時下の立ちおくれを日本鉄鋼業がいっきにとりもどそうとするには,導入技術をテコにすることは,最も有効な方法であった。だが……と雀部はつづける。
 純酸素上吹転炉法の現在の発展は,長い目でみれば,酸素発見の化学者,転炉の発明者,冶金学者ドゥラー(Robert Durrer),物理学者カピツァ(P. L. Kapitsa)等々の優れた個人的の貴重な創意活動が積み重なって得られた賜である。ここに見失ってならないことは,そのどの一つ一つの業績も多くの人びとの協業を条件として始めて完成しえたものであり,さらにそのどの一つをみても,世代から世代へと多くの人びとが積み重ねてきた科学・技術に関する蓄積のうえに積み上げられた成果なのである。自主的な技術発展にはこの面が重要である。ドゥラーは1932年から研究を始め,1953年に初めて工業的生産に入った。わが国はこれを買って現在盛んに操業を行なっている。わが国の技術者,労働者の高技術水準を土台にすれば,金さえ出せばそのうえにすぐ海外の新技術を導入できる。いかにはなばなしく見えても,このような技術発展の本質は,金で新しいものを買う商取引的であり,商業的な技術発展の面が強く,そのために自主的な技術の展開がはばまれている。
 研究開発されたもの,導入されたもの,それはたとえ同じ設備であっても,みずからが営々とつくり上げてきた場合と,その成果のみを金で買った場合とでは本質的にちがう。創造的精神は自主的に協力してつかみとるものであって,決して金では買えない。雀部はその点を指摘するのである。
 したがって,かれが「科学・技術の研究に直接に力を入れることはもちろん必要ではあるが,特殊性の強いわが国においては,それ以上にまず社会科学的の立場からの研究に力を入れなければ,行くべき正しい方向がきまらない」と主張し,自主的技術発展のために,社会科学者・自然科学者・技術者・労働者による強力な経済研究体制の確立が必要であることを提言していることは,卓見だといってよい。じつはこのような社会的経済的条件にとぼしく,また好ましい学際的な研究環境の創造を怠ってきたことは,戦前からの日本の一つの大きな欠陥であったのである。
 しかし,自主的技術発展を阻害する要因とたたかいながら,とにかく戦後日本鉄鋼技術の第一線の人びとは,たくみに経済環境の変化に対応しつつ,導入技術をテコに,すすんで新しい技術を創造し,国際競争力を蓄積してきたこともまた事実であったことを,私は「LD転炉からOG法開発へ」という具体例に即して,少しく明かにしてみたい。
 その技術指導者の名を湯川正夫(1903-69)という。湯川はみずからが委員長として提唱した前記鉄鋼対策技術委員会の報告書の路線を忠実に実施するかのように,八幡製鉄所の戸畑地区を先頭に,
 鉄鉱石の事前処理→大型高炉→純酸素上吹転炉→連続鋳造→電子計算機制御を具備する高速精密な圧延機→必要に応じての熱処理,表面処理という大量生産方式をもつ「海に築く銑鋼一貫製鉄所」を実現し,一方,旧八幡地区を高級品質鋼材生産工場に特化させ,さらにわが国の海外への技術協力の原点といえるブラジル・ウジミナス製鉄所(Usinas Siderurgicas de Minas Gerais(USIMINAS)in Brazil)を完成させ,なおわが国最初の鉄鋼科学技術国際会議を準備して,その技術者・経営者としての生涯をおえたのである。
 湯川の友人でもあった現代世界の鉄冶金学の権威,前ドイツ鉄鋼協会会長H・シェンク(Hermann Schenck)博士は,彼を「近代製鉄技術史上に光彩を放つ偉大な人」とたたえ,その業績はすべての国の鉄鋼業界の専門家にあまねく知られているとのべている。
 湯川は第2次大戦後,積極的に欧米からの技術導入を推進した1人である。しかし,同時にその過程で日本人みずからによる創造的な技術開発力を確信し,若手技術者たちをたくみに組織づけ,育成し,ひろい視野のもとに,日本鉄鋼技術が逆に国際的にひろく世界諸国に寄与しうる地盤をつくり上げた。
 ここで,戦後日本における臨海銑鋼一貫製鉄所の原点といえる戸畑製造所(Tohata Area Works)について,みることにしよう。
 第2次合理化計画がまとめられた1956年8月のころ,八幡製鉄所はすでに半世紀をこえる歴史をもち,相つぐ工場の増設によってレイアウトも悪く,生産系統は複雑で,作業能率,品質管理上の隘路となり,「風通しをよくする」ことが痛感されていた。いわば工場群の体質改善が必要であった。
 八幡製鉄所技師長兼管理局長として,湯川は,この旧八幡地区から逐次高炉部門をはずして,厚板工場,珪素鋼板工場,軌条工場などの設備増強と改造をはかり,収益性の高い高級品質鋼材の生産に重点を移してゆくとともに,新しく「鉄源からの増強計画」として,高炉以下の一貫体制による効率のよい少品種大量生産を地積のある戸畑地区に集中するというマスタープランを立てた。前者の高級鋼化に対しては,1950年代はじめから,米国アームコ社との間に①帯鋼の亜鉛メッキ技術,②熱延珪素鋼板製造技術,③ストリップ・ミルによる平板製造技術,④ボンデ処理鋼板など長期技術契約を結んだのをはじめ,西ドイツ・ハインツマン社と⑤可縮坑枠鋼,アメリカン・カン社と⑥製造協定=電気ブリキ製造技術というように,導入技術を基軸としての製品の質的向上を推進していった。
 そして後者,量の拡大と新技術の具体化をめざす戸畑地区における新規立地としては,
 1 可能なかぎり大量生産の形態として高能率作業を目標とする。
 2 原料および成品の輸送,流れを能率化する。
 3 成品の種類を極力単純化する。
という3本の柱を目標とし,既設の戦前からのストリップ工場との関連も考慮して,今日のレイアウトが決定された。こうして,①1,500トン高炉2基,②60トン純酸素転炉3基,③分塊圧延設備,④80インチ半連続式熱間圧延設備,80インチ送転式冷間帯鋼圧延設備,⑥亜鉛メッキ設備・錫メッキ設備・ボンデ鋼板設備などを基本設備とする,最終粗鋼年産250万トン規模の計画工事が進発したのである。
 ここでまず1,500トン高炉が戦前の水準を大きく打破る大英断であり,つぎに将来の自動車生産の伸びを見通して,連続式冷間圧延設備(前記⑤)を導入し,それまでアメリカから輪入されていた乗用車用の広幅冷延薄板の自給自足態勢を整えたことが注目されるのであるが,これらにも増して特筆に値するのが,大型高炉に対応して計画された60トン純酸素転炉(LD転炉)の採用である。
 オーストリアで戦後はじめて工業化に成功したこのLD転炉については,わが国ではトーマス転炉(Thomas converter)の技術的伝統をもつ日本鋼管がまず着目し,1950年末に西ドイツの“Stahl und Eisen”誌に載った紹介記事に刺激されて調査を進め,ヨーロッパに転炉技術視察に赴き,52年には秘密実験にのり出していた。これより一歩おくれ,八幡の若手技術者たちも,イギリス鉄鋼協会誌(The Journal of Iron and Steel Institute)が1952年に発行した新転炉特集号をもとに,その採用に情熱を燃やしはじめていた。この声をいちはやく吸い上げたのが,1930年代前後のヨーロッパ留学のころからすでにイギリス製鋼協会の終身会員として,海外技術情報への着目を怠らなかった技術部長湯川正夫であった。1953年春には,湯川の指示によってそれまでの1トン程度の実験炉に代って,直ちに横吹きおよび上吹き可能の5トン試験転炉が設置された。酸素発生器などの研究では進んでいた八幡が,このため転炉開発プロジェクトでは日本鋼管より先行することとなった。試験に先立って,技師長湯川は吹精製鋼法の発展に不可欠なドロマイト系転炉用煉瓦の研究開発を指示することを忘れなかった。実験結果と各種の調査から,LD転炉法の将来性について見通しがえられると,製鋼部長武田喜三(きぞう)がヨーロッパに派遣され,1955年5月,同法の特殊管理会社(BOT)との間に,技術導入のための交渉が開始された。
しかし,時を同じくして日本鋼管でも先方と接触をはじめたことが判明し,八幡当局は国家的な見地から窓口を日本鋼管一本にしぼることを提唱し,日本BOTグループLD委員会を組織した。こうしてその後に新規参入する各社にもLD転炉に関しては公平に権利を再供与する紳士協定が結ばれ,大手会社技術陣の相互交流の場が開かれた。これは,戦後技術革新の大きな起爆剤となったLD転炉が,まず受容のための周到な準備の積み重ねのうちに,「自主的に」導入されたものと評価してよいであろう。
 設備の主要部分はヨーロッパ(Demag社など)に発注され,その交渉や転炉操業の実習のため製鋼関係技術者が相ついで派遣され,並行して炉の建設が進められた。折あしく1956年10月のハンガリー動乱につぐスエズ動乱があり,炉体の納期遅延は決定的となった。このとき湯川技師長は,国産技術によって工期を遅延させないよう決断し,ただちに代替炉体を石川島重工業に発注し,デマグ社からの導入炉体は結局第2号炉に転用された。
 こうして1957年1月,わが国最初の純酸素転炉は計画どおり稼動のはこびとなった。しかし,国産技術に基づく炉体に切かえるとき,ヨーロッパでは可動装置に通常のベアリングを採用していたのに対し,八幡では試験転炉で好成果をみた軸受鋼によるローラーベアリングを採用し,小さい動力で操業させるという手ぎわのよさをも示している。
 さて,革新は革新をよび,この導入技術を土台に世界に知られる技術開発がめばえる。酸素転炉による製鋼精錬のさい発生する排ガスを回収し,処理して,資源エネルギーの再生をはかり,あわせて公害を完全に防ぐ技術である。酸素転炉排ガス回収システム(OG法=Basic Oxygen Furnace Waste Gas Cooling and Clearing System)とよばれるこの新方式のアイディアを出したのは動力設備の建設を担当する電気技術者の秋田武夫であった。ところが,基本特許はボイラー・メーカーの横山工業(のち川崎重工業と合併)がすでに取得していた。そこで湯川らは,1955年夏,横山工業との協力路線をとり,OG法の共同開発委員会を組織し,製鋼技術者の相原河州美らに専念させることとなった。「技術の履歴書,OG法」という論考は,OG法開発の近況をつぎのように伝えている。
 委員会は2トン試験炉を使ってOG法の概念設計,安全性,経済性を徹底して詰めた。一酸化炭素は防爆,防毒に,ことに気を配らなければならない。この費用を計算すると何と本体と同程度かかる。建設費を見積ると20数億円になった。だから湯川らが即座にOKを出した時は委員長の相原自身,半信半疑だった。
 実施化に当っては最終的な技術の詰めは転炉掛長の前原繁(まえばらしげる)を主査とするOG実施小委員会に引き渡される。メンバーは,八幡,横山のほか,富士電機製造から現場の係長,作業長クラスの働き盛りが約60人,昼は工場内で各種試験,夜は夜で近くの旅館でコップ酒をあおりながら,議論を繰り返した。ばらばらに集められたそれぞれの道のエキスパートたちは,こうして一体となって協調し,実力をフルに発揮する。
 ガスの自動分析計,計量器,各種安全装置などのほか,現在のミニコン制御と同様の発想を駆使した自動化システムなどを立て続けに開発。さらに今日でも転炉操業の聖書といわれる電話帳3冊ほどの「試運転方案」も作成した。危険な一酸化炭素を扱うだけに,ささいなミスも許されないから,キメ細かいマニュアルが必要だったのだ。
 この間,研究実績の見通しから,湯川は1960年12月にOG法を国内最大の戸畑第2転炉工場(130トン転炉)に適用することを常務会に提案して決定し,まだ前途多難を思わせるものがあって苦労を重ねていた関係技術者たちを驚かせた。同工場は62年3月に操業を開始し,その後きわめて順調に新鋭戸畑第3高炉(1947立方メートル)と歩調をあわせて生産量を飛躍的に伸ばすこととなり,戸畑製造所における量産システムの完成に有終の美をかざったのであった。
 OG法は,エレクトロニクスの分野におけるエサキダイオード(1957年)やソニー・マグネット・ダイオード(1968年)などとならぶ,戦後日本技術史における画期的な発明となった。設備費が少なく,廃ガスをうまく回収でき,公害防止の役割をはたすために,戸畑での導入以来,住友金属工業,大阪製鋼など国内各社で次々に実績を上げ,やがてアメリカのアームコスチール社,U.S.スチール社,イギリスのスチールカンパニー・オブ・ウェルズ社などから続々と引合いが舞いこみ,技術輸出商品の花形となった。今日の鉄鋼技術貿易バランスのなかでOG法のはたす役割は大きい。
5 これからの技術のために
 ―小さくともその国土と地域に見合った鉄鋼技術を
 日本鋼管輸出組合(Japan Iron&Steel Exporters'Association)の委嘱をうけて,アメリカのミドル・テネシー州立大学(Middle Tennessee State Univ.)の2人の経済学者,Hans MuellerおよびKiyoshi Kawahitoがまとめた近年の労作に“Steel Industry Economics”1978がある。これは事実上1977年5月に日本のダンピング輸出などを問題にした米鉄鋼協会白書に対する反論といわれるが,私にとって興味深いのは,ここ20年間における米・日・ECの鉄鋼生産設備能力を比較した第3表に示すようなデータがあることである。表中の1956年という時点は,日本鉄鋼業が臨海銑鋼一貫製鉄所を中心に第2次合理化計画を進発させた年に当る。この20年間に,日本の生産能力は1億3,700万トン(net ton)増加した。しかし,アメリカはこの間わが国よりはるかに多くの設備投資を行いながら,わずか4,000万トンの増加にとどまった。このちがいは日本の生産能力拡大がおもにグリーン・フィールド(新規立地)のかたちでなされたのに対し,アメリカは既存製鉄所の改造,再建によって行われたことに由来する。
第3表 米国・日本・ECの鉄鋼設備投資額と生産能力の比較
 EC(6ヵ国)では,この間1億800万トンの能力増加がなされたが,新規立地は比較的に少なく,日本と似かよった額の設備投資をしながら,その効果は大分落ちる。つまり日本鉄鋼業はスケール・メリットの実現という点で,アメリカよりもECよりも,はるかにまさる成果をあげたのである。
 アメリカで史上最大の鉄鋼トラストUSスチール社が,資本金14億ドル,鋼材1,060万トン(metric ton)の規模をもって1901年に成立したとき,東洋最初の鉄鋼一貫製鉄所として年産9万トンを目標に瓜々の声をあげたのが官営八幡製鉄所であった。この八幡は,戸畑製造所を含めて,今日では粗鋼年産約800万トンの大製鉄所に発展した。しかし,新鋭製鉄所として70年代のチャンピオンになった君津製鉄所にくらべると,効率はいかんともしがたく,第4表にみるように1人当り生産性はおよそ1/4~2/5といったところである。大量生産体制をめざすかぎり,既存製鉄所をベースとすることが,いかに割に合わないかは,この一例でもわかる。
 日本鉄鋼業はスケール・メリットをあざして驀進し,粗鋼生産は1964年には西ドイツを抜き,73年には1億1,932万トンと最高を記録し,同年1人当り見掛消費量もまた802キログラムという驚異的なデータを示した。
第4表 新設および在来製鉄所の生産性比較
 ところが,1973年秋,第4次中東戦争を契機として起ったオイル・ショックは,それまで高度経済成長の波にのって革新につぐ革新に明け暮れ,一方,公害問題を各地で激発してきた日本技術のあり方に,このうえない反省の機会をもたらした。私はそれをつぎのように整理してみた。
 ① このかけがえのない地球の,有限の資源をもっと大切にしよう。それに は,これからの技術は省資源・省エネルギー・省力化,さらにリサイクリングの追究を徹底しなければならない。
 ② 資源ナショナリズムのよってきたるところを理解し,資源をもつ開発途上国と資源をもたぬ先進工業国との真の国際交流の道を考えよう。これからの世界のなかでの日本技術の方向は,相互の「自力更生」の精神を基底として,南北問題の解決に資するところがあるものでなくてはならない。
 ③ 総じて,もの(自然)と人間との対話をとりもどそう。自然とともに生きる技術思想の探求のうえにこそ,人間が人間としての存在をおかされることのない真の技術創造が形成されるにちがいない。
 石油危機後,世界経済の態様は変り,円高不況のもと日本鉄鋼業は年産能力約1億5,000万トンという巨大な生産設備をかかえ,需要(ことに土木建設・造船部門)の落ちこみによって生産は伸びなやみ,アメリカ,EC諸国の例にもれず70%台の操業を余儀なくされている。
 U.S.スチール社を抜いて世界最大の鉄鋼企業の座にある新日本製鉄(Nippon Steel Corp.)は,1978年10月,「低成長時代」に対処しての全社的な合理化計画を発表した。要点は,釜石・八幡などの古い設備を休止して,君津・大分を主力とする新鋭設備に生産を集中し,効率を向上させるとともに,エンジニアリング事業部門を強化し,世界のなかでの地歩を固めようというにある。地域経済への影響には目をつむっても,なおスケール・メリットを生かしつつ企業としての競争力を強化しようというわけである。日本鉄鋼技術は一つの大きな転回点に立っているといってよいであろう。

 現代製鉄法の主流は,いうまでもなく高炉―酸素転炉法である。経済性の点から,ひきつづき大型高炉からの一貫方式は動かないであろう。しかし,先見性のある前記湯川氏がはやく指摘したように,鉄鋼資源としての鉄鉱石は,世界各地に高品位の大鉱床が発見されて長期にわたる供給力が見込めても,還元剤源としての石炭,すなわち従来の製鉄用原料炭については,その埋蔵量について楽観は許されない。そこで,これまでの一応のアイディアとして取扱われてきた「石炭以外の還元剤による鉄鋼の生産方式,すなわち,天然ガス,重油等による鉄鋼生産方式」が,地域的に条件のそろったところでは経済性も生れ,直接還元製鉄法として工業化への道が開かれ出すのは,自然の勢いである。
 西ドイツの冶金学者L・Von Bogdandyは,年産500万トン以上の規模の製鉄所では「高炉―LD転炉法」が有利であり,年産40~50万トン規模では「還元鉄―電気炉法」が有利,なお中間規模の製鉄所では,電気炉,LD転炉法の共用も考えられると論じている。もちろん,その地域におけるエネルギー・資源条件,わけても溶銑コストと鉄くずおよび還元鉄コストの相対比較,さらに公害技術の動向によって大きく左右されるが,一般に年産粗鋼200万トン規模を,高炉―酸素転炉法と,直接還元―電気炉法の分岐点と受けとめてよい(年産100万トン規模で両者の設備費を比較すると,直接還元―電気炉法が30~40%安い)。
 後者には,前者とちがって還元と酸化という二つのプロセスを通る原理的なムダがない。そのうえ還元に強粘結炭を必要としない利点がある。したがって,近年大型高炉の建設がむずかしい地域でも,経済的に有利な一貫製鉄所が建設されており,日本鉄鋼連盟は「1985年には直接還元製鉄法による生産が6,000万トンに達する予想」と報じている。
 直接還元製鉄法のなかで,今日もっとも普及しつつあるものの一つに,シャフト炉法に基づくMidrex法がある。神戸製鋼所では,この方法を基本に1974年10月,中東のカタール政府と合弁会社Qatar Steel Co.を設立し,直接還元―電気製鋼―連続鋳造―圧延という一貫生産システムをもつ粗鋼年産40万トン(棒鋼25万トン,ピレット約6万トン)の製鉄所を建設し,78年3月に操業を開始した(次図参照)。
 国庫収入の約97%を石油が占める典型的な産油国カタールでは,排出される天然ガスのおよそ8割が未利用のままであった。しかるに,その主部分を占めるCH4が還元剤(H2+CO)源としてみごとに生かされたのである。ここでは原燃料の制約条件がほとんどないうえに,このプロセスの特徴として公害要素が(Closed systemのため)少なく,大きな投資も不必要で,高炉―LD法以上の自動化,省力化も可能であった。
 かつてマレーシアのMalayawata Steel Co. Ltdではゴムの廃木が還元剤源(木炭)として活用され,当初170トン木炭高炉をもつ鋼材年産12万トン程度の規模から出発したが(1967年),近年産業連関理論の立場からも,この行き方が効果的であったことが立証されている(鳥居泰彦「マラヤワタ・プロジェクトの経済効果」『鉄鋼界』1978年10月)。
カタール製鉄所で採用したMidrex法の原理図
マレーシアでもカタールでも,「就地取材」をたてまえとする地域に適した新しい土着の技術が,日本の鉄鋼技術陣の協力のもとに,科学の原理と経済的合理性をともなって創造されたのである。
 銑鋼一貫製鉄所といえば,かつて世界第1の製鉄国であったスウェーデンでは,いま日本でいうといちばん小さい釜石製鉄所程度の100万トン台が最大で,国全体の粗鋼年産は約500万トン,つまり日本の20分の1ほどとなっている。しかし,はやくすぐれた鉄鉱資源と電力資源とを結びつけ,高級鋼・合金鋼分野に先鞭をつけ,世界に直接還元法(Wiberg法)をはじめ,電気シャフト炉,自溶性焼結鉱などの発明をもたらすとともに,鉄鋼貿易でも量では入超だが金額では出超という理想的な状況をつくり上げ,1人当り粗鋼見掛消費量ではつねに世界の最高水準を示している。
 小さくともその国土と地域に見合った,公害のない美しく新しい技術の道を,北(スウェーデン)も南(カタール)も,私たちに語りかけ,これからの鉄鋼技術のあるべき姿の一つを示唆しているように思われる。

 付 記
 以上の叙述の基礎資料,統計数字などについては,1979年4月刊行の拙著『日本鉄鋼技術史』(東洋経済新報社)をご参照願えると幸甚である。また拙稿に基づく英文の文献として“History of Steel in Japan”(NipPon Steel Corp.1973)があり,年表と若干の文献目録・解題を付してある。