Business Management

List of Articles

財閥経営者とキリスト教社会事業家 II

Author: 瀬岡誠
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1983年
Main Text (PDF version)
目 次

は じ め に・・・・・・・・・・2
Ⅰ 住友におけるキリスト者たち・・・・・・・・・・3
Ⅱ 諸集団へのコミットメント・・・・・・・・・・10
 1.早川千吉郎との関係・・・・・・・・・・10
 2.道徳的企業家(moral entrepreneur)・・・・・・・・・・10
 3.中央報徳会青年部・修養団など・・・・・・・・・・15
Ⅲ 住友の労務管理と留岡幸助・・・・・・・・・・18
 1.小倉正恒と留岡幸助の連帯性・・・・・・・・・・18
 2.大阪での活動・・・・・・・・・・26
 3.む す び・・・・・・・・・・28
 注・・・・・・・・・・31


 はじめに

 筆者はこれまで機会あるごとに,住友財閥の経営者小倉正恒とキリスト教社会事業家留岡幸助の連帯性の高さを強調してきた1)。
 小倉正恒が留岡幸助の家庭学校の理事に就任するのは,昭和2年5月のことである2)。
 筆者は,小倉と留岡の連帯性の形成過程の分析において,とくにこの事実(小倉の家庭学校理事就任)が意味するところを非常に重視するものであるが,本稿は,主として『留岡幸助著作集』全4巻3)と,大正末期から昭和初期にかけて作成された留岡の日記4)にもとづいて,この事実の背後にある小倉と留岡に固有の準拠集団の機能5)を剔出することを第1の目的としている。また,この点に関連して,住友財閥を中心とする財閥経営者の思想と行動が,これまで想定されてきたほども単純で浅薄なものではなかったことを明らかにすることを第2の目的としている。

 注
 1)拙稿『財閥経営者とキリスト教社会事業家Ⅰ-小倉正恒と留岡幸助の連帯性の形成過程 を中心として-』国連大学,人間と社会の開発プログラム研究報告,HSDRJE-74J/UNUP-398。 これは本稿の前部として位置付けられる。
 2)小倉正恒伝記編纂会編『小倉正恒』(昭和43年)981ページ
 3)同志社大学人文科学研究所編『留岡幸助著作集』全4巻(同朋舎,昭和53~55年)。
 4)留岡幸助日記編集委員会編『留岡幸助日記』第5巻,(財団法人矯正協会,昭和54年)。
 5)方法論的には,拙著『企業者史学序説』(実教出版,1980年)とくに第4章を参照。

 Ⅰ 住友におけるキリスト者たち

 留岡幸助が編集した『二宮翁と諸家』が発行されたのは明治39年7月である1)。これには,留岡幸助,岡田良平,清浦奎吾,桑田熊蔵,井上友一,井上哲次郎2),徳富猪一郎,狩野享吉,横井時敬,鈴木藤三郎らの諸論稿とともに,内村鑑三の論稿「愛土心と翁」が掲載されている。
 留岡と同じ岡山県出身の江原萬里3)が第一高等学校に入学,内村門下の一人に加えられたのは明治41年のことである。江原は明治44年に東京帝国大学法科大学政治学科に入学した。ここで,黒崎幸吉,矢内原忠雄ら内村門下生から成る「柏会」に参加したのであった4)。(「皇運を扶翼し,国民道徳の振興を図らん」とする「三教会同」に日本キリスト教会が参加したのは明治45年2月である)。
 江原と義兄弟の関係を結ぶ黒崎幸吉は,ちょうどこの頃住友入りしている5)。
 黒崎は新渡戸稲造を通じて鈴木馬左也の存在を知った6)。新渡戸は黒崎にたいして,鈴木が「財閥をして国家の発展に寄与せしめん」という意識7)をもった人物であると説いている8)。「その二,三年前から内村鑑三先生の聖書講義に毎週出席」9)していた黒崎は,鈴木に会うまでは「実業界に入りたいとは全く思いませんでした」10)と書いている。黒崎もまた,のちの江原と同じく,鈴木が長い時間とエネルギーをかけて鍛えあげてきた人格にもとづく態度とことば[・・・]の「捕虜」11)となったのだと述べている。鈴木が黒崎に語ったことば[・・・]は,黒崎をして「無条件に喜んで住友家に入る決心をさせた」12)という。
 鈴木はキリスト教が「余りにも個性を主張し過ぎて遂に国家を忘れるに至る」13)と批判したというが,実兄黒水長平や三好退蔵の影響もあり,キリスト教を全面的に否定しなかった。キリスト者であっても住友「財閥をして国家の発展に寄与せしめる」14)うえで有用な人材が住友入りすることをけっして拒まなかった。さらに鈴木は,江原萬里がいうように,「会社を修道場とした一禅坊主」15)であった。「修行」とか「修養」ということに異常な関心があり16),キリスト者であれ仏教徒であれ,「修行者」や「修養者」にたいしては大きな共鳴盤を用意していた17)。そうでなければ,黒崎幸吉を住友寛一(住友春翠の長男)18)の「付人[つきびと]」とするわけがなかった。
 黒崎幸吉が住友寛一の「付人」となったのは明治45年頃である。「総本店経理課にゐた黒崎幸吉の為人[ひととなり]を見て,之を麻布別邸勤務とし,寛一の付人とした」19)とある。黒崎はのちに住友別子鉱業所副支配人となるが,この頃は文字通り住友寛一の「付
人」として尽力した20)。
 江原・黒崎義兄弟の住友人としての生活は長くはない21)。しかしたとえ短期間であっても,内村鑑三門下生のうちでも卓越していたといわれるキリスト者たちが,矢内原忠雄をも含めて,一時鈴木馬左也の下で働いたということは,近代住友の経営理念を考えるうえで重要な事実となろう。もちろん,かれらの住友退社[・・・・]の社会的・文化的背景を分析することは,住友財閥の経営理念を逆照射するうえで有効性を発揮するであろう22)。ここではさしあたり,明治43年に鈴木馬左也が柴垣前定宛23)に書いた次の書簡24)に注目しておきたい。
 唯今大阪ニテ集中伝道トカイヘル事実行中ニ候。明晩長田時行・牧野虎次・綱島健吉・露無 文治ノ四氏来宅会食会談之筈ニ御座候。長田氏ヨリ訪問セントノ来書ニ付右之通ニ御座候。 小生ハ禅学ニテ大道ヲ研究シ実践セントスルモノニ候得共真理ハ唯一ニ付何レヨリスルモ同 ジ事ト存候。宗旨相違ナリトモ又共同尽力ヲ要スノ有益ナル事モ可有之ト存候事ニ御座候。 又本日二十五日西京同志社卒業式ニ小生ニ参リ話ヲセヨト社長ヨリ依頼ニ候。コレモ引受申 候。何レ親類分ト見ナサレタル事ト存候。何トナク面白ク存候事ニ御座候。
 『鈴木馬左也』の著者はこの書簡より,鈴木が「他の宗教に対して排他的の偏見を持たず,ともに真理を求める道として共感同情していたこと25)」を知りうるとしている。この点は,黒崎幸吉,江原萬里,矢内原忠雄らと住友の関係を思想面において分析するうえで重要であろう。すくなくとも明治43年頃の鈴木には(したがって住友には)牧野虎次や留岡幸助のような同志社出身のキリスト者との交流を拒む理由はなかったのである。だがこのことは別に明治43年頃と限定する必要もなかろう。また同志社出身のキリスト者と限定する必要もなかろう。
 住友の経営者たちはキリスト者をキリスト者であるという理由から排除することはなかった。たとえば,昭和8年に江原萬里が死去したさい,大阪住友倶楽部において「故江原萬里氏記念会」(司会田中良雄)が開かれた。これには北沢敬二郎,宮島又信他40名が出席したという26)。この会の司会者田中良雄は昭和16年に住友本社常務理事となるが,とくに大阪の実業教育の発展に大きく貢献したことで知られる。この田中が昭和11年に協調会大阪支部主管の興民学院における成人教育講座の講師として話した「職業と人生」が書物となり,黒崎幸吉や三谷隆正という内村鑑三門下の人々の共鳴を得るにいたった。住友部内の人々が注目しはじめたのはこのあとであるという27)。
 私は,このような田中良雄と黒崎幸吉や三谷隆正ら卓越したキリスト者との共鳴作用の要因として,黒崎がかつて住友人であったことをそれほど強調する必要はないと考えている。ここではむしろ真正面から,田中と内村門下生との間にまさに思想的な共鳴盤が用意されていたことを主張したい。そして,この共鳴盤を用意したのは,明治43年当時の鈴木の柴垣宛書簡に見られる住友の経営者の思想的体質であるし,田中個人の思想的経験でもあると思われる。
 とくに後者の点に関しては,田中が,小倉正恒と同じく金沢出身の西田幾多郎と緊密に交流していたことからも知りうるように28),第一級の「文化人」であったこととけっして無関係ではあるまい。また,田中のみならず,そもそも鈴木馬左也や小倉正恒らのキリスト教観も西田幾多郎のそれ29)とけっして無関係ではないように思われる。
 私は,近代における住友財閥の経営者の思想や理念が,西田哲学や鈴木禅学の生成・発展と,どのような形で絡み合いながら展開していったかという問題に異常な関心をもっている30)。西田幾多郎も鈴木大拙も,少くとも両者の日記をみるかぎり十四会を核[・]とも原点[・・]ともする鈴木や小倉の準拠集団の成員であったと言明しうるからである。もちろんこの問題の解明は,結果的には,住友財閥の経営者の理念や思想が想像以上の歴史的な「重み」をかかえこんでいたことを明らかにする作業となる可能性が十分にあるが,詳細は別稿にゆずりたい。ここでは西田が北条時敬を唯一の師として崇敬したこと,西田哲学が西田の参禅の体験とけっして無関係ではないこと,鈴木大拙と緊密な関係にあったことなどをあげるにとどめたい。要するに準拠集団の存在を無視することができないのである。

 ところで,明治43年の鈴木の柴垣宛の書簡もまた,その背景に準拠集団が存在したことを考えないかぎり理解できないものである。それは留岡幸助の盟友牧野虎次(のち同志社総長)と鈴木馬左也の関係を物語る資料であるからである。また鈴木と同志社(当時原田助総長)との関係をも物語る資料でもあるからである。
 牧野虎次はいわゆる「北海道バンド31)」といわれる人々の一人であった。キリスト者として,同志社出身として,北海道の教誨師として,牧野は留岡幸助,大塚素32),水崎基一,山本徳尚,松尾音次郎,阿部政恒らと,非常に連帯性の高い集団を形成したのは,留岡が教誨師として空知集治監勤務を始めた明治24年以後のことである。その後,留岡も牧野も内務省嘱託となった33)。牧野は大正9年から10年にかけて中央報徳会機関誌『斯民』に内務省嘱託として投稿している34)。同じ頃,鈴木馬左也,湯川寛吉,早川千吉郎35)らも熱心に投稿している。もちろん留岡幸助36)はもっとも熱心な
投稿者であった。
 ここで注目すべきことは,早川千吉郎と牧野虎次の緊密な関係である。早川は,『斯民』第17編第1号(大正11年)に南満州鉄道株式会社社長として「日支共存共栄」なる論稿を発表している。早川は大正10年に三井から満鉄に転出したのである。牧野はこの早川の強い「懇請黙止がたく,新設の社会課長として」満鉄入りする37)のだが,早川は大正11年10月に死去してしまうのである38)。
 留岡幸助が中央報徳会や十四会を中心とする準拠集団を通じて早川千吉郎と緊密な関係を築いていたこと39)は周知の事実である。たとえば早川死去の直前(大正11年3月23日)北条時敬と留岡幸助が早川邸での集会に参加している。ここでも北条の日記の記述と留岡のそれとが完全に重なるのである40)。また同年6月6日の中央報徳会には北条も留岡も出席した41)。これより5日前(6月1日)早川邸での「満鉄社会事業42)」についての会に留岡は出席している。留岡の盟友牧野虎次が満鉄に新設された社会課長に就いた背景には,早川と留岡の「満鉄社会事業」にたいする情熱があったわけである43)。もちろんここでも準拠集団が機能していたことはいうまでもない。留岡は『人道』201号(大正11年5月)に「牧野虎次君を送る44)」を発表,牧野をはげましている。また留岡と緊密な関係にあった徳富蘇峰は,大正11年4月19日の送別会45)において,「床次ハ流石牧野ヲ能ク離シタ,之ハ大局ヲ見タト思フ」「我々御互ハ同志社出身者ハ業ヲ異ニスルモ,思フコトハ一である46)」と述べたという。当時の内務大臣床次竹二郎が早川千吉郎,北条時敬,鈴木馬左也らの賛同を得て大正7年に花田仲之助が創設した「一一会」の有力メンバーであったことを想起したい。さらに徳富蘇峰が,同年8月から9月に留岡と同行し北海道各地を視察しているように47),留岡が一生涯崇拝し信頼しつづけた人物であることに注目しておきたい。
 以上が同志社と小倉正恒の関係について牧野虎次が述べていること48)の背景なのである。牧野は小倉と同志社の関係が小倉のロンドン遊学時代から始まったと述べている。つまり,ロンドンでの大塚素との交流が出発点であるというのである。小倉のロンドン遊学時代は明治33年4月から35年12月までの間である。それから約10年後の明治43年に,鈴木馬左也と牧野虎次らが会い,鈴木が同志社で講演することとなったのである。おそらくこのとき,牧野らが鈴木を文字通り突発的に[・・・・]訪問したのではなかろう。
 小倉と大塚の関係,中央報徳会を通じての鈴木と留岡の関係が,すでにそのころ成立していたことを考えると,大塚や留岡ときわめて高い連帯性を築いていた牧野が鈴木を訪問することは,すでに10年前から予想されたことであった。そしてわれ
われはここでも,準拠集団の機能が活性化していることを認めないわけにはいくまい。とくに,牧野が述べているような,第2次大戦中の小倉の同志社にたいする逸脱的[・・・]ともいいうるほどのコミットメントは,そのような準拠集団を中心とする住友の経営者たちと北海道バンドとの長年にわたる交流をぬきにしては考えられないものである。
 牧野虎次は大正14年5月,小河滋次郎の大阪府救済事業指導嘱託の辞任を受けてその後任となる49)。『社会事業研究』(第13巻第6号)では,「客年府嘱託小河博士の辞任後適任者の物色中図らずも氏の如き人格学殖毫も遺憾なき人物を発見し就任の快諸を得た」と記されているが,事情はそう単純ではなかった。同年3月14日から4月12日までの留岡の行動50)の,最大目標の一つは,牧野を小河の後任に据えることであったといっても過言ではなかろう。このため,留岡は4月2日から12日までの間,小倉正恒宅を常宿とし,小倉正恒と深い交流を続けるかたわら,そうしたのである。
 まず,同年3月21日,留岡は,大久保利武,牧野虎次,秋月左都夫らと茅ケ崎の家庭学校分校に行っている51)。大久保,秋月,鈴木馬左也の緊密な関係を想起したい。とくに大久保は大阪府知事時代,小河滋次郎を府嘱託として招いた入物であることに注目せねばならない。
 3月30日,留岡は伊勢山田教化講習会において講演したが,牧野虎次,田子一民らと同宿している。31日は奈良で牧野と同宿している52)。
 4月2日,留岡は「住友へ小倉正恒氏を訪ひ,牧野君と北港に住友の病院及北港住宅会社の住宅を見53)」た。
 4月3日,「小河滋次郎氏葬儀のことにかんして54)」,林市蔵、中川望(知事),岡島伊八(大阪府救済事業協会長)らと相談。のち牧野らと昼食。「相談」の結果,「謝恩葬」となる。『社会事業研究』(第13巻第50号)は「故小河博士追悼記念号55)」として5月に発行されている。
 4月4日,「九時小倉氏と阿部野橋迄歩み,九時半住友本店に行き,牧野虎次平戸ヨリ上(阪)の鞍掛大佐に面会。十二時十五分前に大阪具楽部に行き,伊藤忠兵衛氏ニ牧野君と共に招かれ食事ヲナス56)」とある。
 4月5日,「九時過ぎ牧野君と中川知事を官舎に訪ひ懇談」,「七時阿部野小河博士宅を訪ひ,二時間通夜し,九時小倉氏方に帰り,主人と一時間閑談57)」とある。
 4月6日も「住友本店」で牧野と「一緒になり」,2,3の会社をまわった。翌7日も牧野と住友本店で「出逢ひ」会社を訪問後,小河の葬儀に出,「中央社会事業協会の弔辞58)」を朗読した。なお牧野はこの日東京に帰った59)。
 4月8日,「林市蔵氏を訪ひ,牧野虎次君大阪府嘱託になることにつき悃談60)」とある。
 4月9日,「住友本店ニ行キ電報,手紙をかき……」のち「中川(望)知事ヲ大手前の官舎ニ訪ヒ,牧野虎次氏招聘ニツキ懇談」とある。この日,牧野に2回打電している61)。
 4月10日,中川知事と懇談後,「牧野虎次氏の件に関し」山口銀行を訪問している。のち住友本店に戻っている62)。
 4月11日,牧野が大阪府嘱託に決定する前日である。留岡の日記には次のように記されている63)。
 九時半住友本店へ小倉氏の自動車に乗せられ行く。十時久原鉱業会社へ山県吾一氏64)を訪 ひ懇談。同氏五口三ケ年の寄付あり。去って大阪駅に林東京ヨリ来ル牧野虎次君を迎へる。 十一時過,信託銀行二階に林市蔵氏と会合。三人寄って閑談。大阪府に中川知事ヲ訪ひ,牧 野君府嘱託として就任につき前々日のことを談し,年俸四千円,官舎付の条件65)にて小河 滋次郎氏の後継として大略話まとまる。但し床次竹二郎氏の考により,拙者帰京の上床次氏 と懇談して,確定を条件として中川知事へ渡り[・・]もつけた。(傍点瀬岡)
 留岡がこのとき「渡り」をつけた相手の中川望66)は,既述のように,留岡とのみならず岡田良平,早川千吉郎,鈴木馬左也らと,報徳会の活動を通じて,非常に高い連帯性を形成していた。また小倉正恒とは,内務省時代からの友人であったから,毎日小倉宅から通ってくる留岡の要請を重視したのは当然のことである。もちろん,私のいう準拠集団が機能したにすぎないのだが。
 4月12日,留岡は東京で会うはずの床次竹二郎が大阪にいたので「面談」した。「牧野虎次君大阪府嘱託トナルコトニツき[ママ]賛成セラル67)」とある。牧野は,既述のように,床次が非常に信頼していた部下であった。前年(大正13年)政友会を脱党,政友本党総裁となっていた。この年(大正14年)12月に「大阪床次会68)」が発足していることにも注目しておきたい。留岡は4月20日の東京での「床次会」に出席している69)。
 なお,留岡幸助の日記には,大正15年5月24日,「朝食と共に牧野氏と閑談。…住友合名会社に戻り用弁。六時北浜二丁目花外楼に小倉正恒氏主催満鉄大平副社長の歓迎会あり70)」とある。
 住友と満鉄との関係は,あらためて,別稿で詳述するとして,ここでは,既述のように住友私立職工養成所の設立に大いに尽力した大平駒槌が,鈴木馬左也の大正11年12月の退職とともに理事を退職したのち,満鉄副総裁に就任していること71)に注目したい。この人事について伊藤隆は,大平駒槌と伊沢多喜男72)(鈴木馬左也の親友)との緊密な関係を重視しているが73),故早川千吉郎,大塚素,牧野虎次,河井昇三郎74)(昭和18年株式会社住友本社常務理事)などの存在も無視できない。
 Ⅱ 諸集団へのコミットメント

 1.早川千吉郎との関係
 ところで,「東洋と西洋の修業の統合」に関してけっして無関係ではない一生を送った鈴木貞太郎(大拙)75)が北条時敬の弟子であったことは周知の事実である。鈴木は明治24年上京,同郷・同窓の先輩早川千吉郎の紹介により[・・・・・・・・・・・],早川,北条,鈴木馬左也らの禅の師今北洪川(円覚寺)の下に参禅した76)。当時東京には「加越能三州出身者の寄宿舎として前田家主宰に係る久徴館があり,多数の学生を収容した77)」といわれる。この久徴館の運営が早川千吉郎ら十四会78)のメンバーにより真剣になされていた。とくに早川は久しく館長をつとめ,石川県出身の青少年の育成に大いに尽力した79)。早川の青年団運動への多大の関心は,すでに明治10年代から始まっているのである。早川が中央報徳会青年部を創設し,その理事長として青年団運動に貢献するのは,大正5年のことである。
 ところで留岡幸助と早川千吉郎は,この頃すでにきわめて緊密なコンタクトをつづけている。大正4年8月には早川が渡辺勝三郎(当時内務省地方局長)らとともに留岡の農場を訪問している80)。また,同年9月22日には,家庭学校理事会が早川邸において開催されたのである81)。早川は井上公二とともに家庭学校の理事であった82)。(同じく早川邸において平沼,秋月,織田,河村,北条らが「無窮会ノ事ヲ協議決定83)」したのは同年12月15日のことであった)。
 早川千吉郎と家庭学校との緊密な関係は,「家庭学校創立14周年記念会」(大正元年)において早川千吉郎が理事を代表して挨拶していることから84),すでに明治時代から形成されていたことになる。この記念会には,井上公二,床次竹二郎,徳富猪一郎,大久保利武,小河滋次郎,大倉粂馬,丸山鶴吉,古河虎之助,後藤文夫,昆田文次郎らが参加している85)。本稿のパースペクティブからして,注目すべき人物が多い86)。とくに古河財閥の人々は,家庭学校の創立時代から有力な支援者であった87)。

 2.道徳的企業家(moral entrepreneur)
 大正5年1月,早川千吉郎は,田中義一や伊達源一郎とともに,中央報徳会青年部を結成した。中央報徳会青年部を構成する役員が「十四会」を核とする住友の準拠集団の成員とかなり重なっていることについては別稿88)で詳述した。ここでは留岡幸助との関連において述べることにする。留岡は,早川千吉郎,岡田良平,一木喜徳郎,田中義一,井上友一,中川望,国府種徳らとともに,常務委員[・・・・]20名の内の一人として参加しているからである。留岡はまた,新渡戸稲造,北条時敬,床次竹二郎,田沢義鋪,矢作栄蔵,山崎延吉,二木謙三,手島精一,秋月左都夫,沢柳政太郎,白石正邦らとともに,商議員としても名を連ねている89)。常務委員として留岡は(小倉正恒の青年時代の指導者)井上友一ともっとも深くコミットしていた90)。また新渡戸や矢作との関係91)も,本稿においては,重要であろう。また,伊達源一郎は中央報徳会青年部の設立運動の中心[・・・・・・・]であったといわれるが,同年3月2日留岡と「報徳会の将来」について相談している92)。伊達は留岡の強力な支援者であった徳富蘇峰93)の『国民新聞』の記者をしていた。
 同年(大正5年)3月25日,留岡の長女富恵子は鴨原篤二と結婚した。井上友一夫妻が「仲介者」であった94)。4月6日,留岡と伊達は『帝国青年』について協議している。また,北条の女婿丸山鶴吉の盟友後藤文夫と「信仰談」をしている95)。後藤は自彊舎の創設者鷲尾勘解治の友人であった96)。修養団運動の創始者蓮沼門三に「共鳴」,有力な賛助員(のち本顧問)として尽力した。修養団運動は,のちに,小倉正恒を中心とする住友の経営者たちと緊密な関係を形成するが,ここでは留岡幸助が5月2日,修養団運動にもっとも貢献した社会教育家の一人小尾晴敏とともに地方改良講演を行っていること97)に注目しておきたい。小尾はのちに(大正10年代初期)小倉正恒の「畏友」安岡正篤98)や大川周明らと社会教育研究所を中心に活動99)した。
 同年(大正5年)5月16日,北条時敬は田中義一の「青年会ニ関スル演説」を聞いている100)。田中は早川や井上とともに青年部創設101)に大いに尽力したが修養団評議員102)をもつとめた。他方,留岡は,同月19日井上知事官舎に「投宿」し懇談している103)。また23日には早川邸において家庭学校理事会を開いている104)。さらに6月1日にも井上邸に投宿・懇談,3日も井上と行動をともにしている。7月8日,旭川で北条時敬は井上友一の実兄井上一次らと会合している105)が,留岡もまた同月5日井上邸に宿泊,翌6日井上とともに府庁へ出,北条の弟子二木謙三博士(のち修養団団長)の健康診断を受けている106)。二木が住友春翠の健康管理者であったことは周知の事実107)だが,ここにいたり,留岡は住友人[・・・]の準拠集団(十四会を核[・]とも原点[・・]ともする集団)の成員といってもよいような行動をとっている108)。たとえば,同日(7月12日),留岡は肥後8八次109)(のち住友入りし理事)を訪問,小口保険のことで相談している110)。
 ところで住友の総理事鈴木馬左也は,同年3月31日,「中国・満州・朝鮮視察」のため出帆し,6月7日に帰っている111)。鈴木は7月26日,北条時敬と河村善益を自宅に呼び,「支那視察ノ談話」会を開いた112)。この翌日,鈴木は中央報徳会理事会に出席している。このときの出席者として,留岡幸助のみならず,早川千吉郎,井上友一,中川望らが名を連ねていることに注目しておきたい113)(留岡はその前々日と8月1日と16日に早川を三井銀行に訪問しているし,同2日には井上邸に宿泊している)114)。
 小倉正恒や平沼騏一郎が東京の居宅としていた大久保に「無窮会」の会館が新築されたのは同年9月である。9月17日,北条はこの建物の「竣成ヲ一見シ相談会ニ出席」した。この会には,秋月,平沼,早川,井上,河村,織田らが出席した115)。無窮会(すくなくとも北条が出席した無窮会)は,10月11日・12日,11月1日・2日,12月17日にも開かれている116)。北条が当時東北帝国大学総長をつとめていたことを考えるならば117),その連帯性の高さにはおどろかざるをえない。
 ところで,留岡幸助は11月5日・6日の全国道徳団体講演会の世話人として尽力した118)。このとき早川は講師として出ている(また同9日には留岡が早川を訪問している)。11日早川は,床次竹二郎,蓮沼門三らと修養団「東京高等工業支部大会」に出ている119)。のちに蓮沼が「忘れ得ぬ人々120)」として,新渡戸稲造,松村介右らとともに留岡の名をもあげるにいたった事情は十分には知りえないが,すくなくとも,留岡が早川を仲介者として修養団の情報を得ていたことは否定できまい。昭和5年住友の総理事小倉正恒が留岡幸助,本間俊平とともに蓮沼門三を招き教化事業中心者懇談会を開くにいたるのだが121),この懇談会はすでに10年前から着々と用意されつつあったのである。
 留岡と早川の「出会い」,留岡と小倉の「出会い」,留岡と蓮沼の「出会い」など,以上の「出会い122)」には,早川や小倉の準拠集団の機能を考慮に入れなければ説明できないような(単なる人脈[・・]123)からでは解明できないような)さまざまな機会を相互に供給しあった[・・・・・・・・・・・・・・・・・]のである。したがってこれらの「出会い」は遇然[・・・]に用意されたのではない。もちろん人脈[・・]のみにもとづいて用意されたものでもなかった124)。
 かれらの準拠集団の核[・]とも原点[・・]ともいいうる「十四会」とは,出身地・出身校・血縁などを媒体として集まった前途有為の青年たちが,宗教・学問・思想 武術・儀礼・芸術などの共同の修得を通して,強靱な主体性を確立することを目的として結束した,非常に連帯性の高い相互扶助的な組織であった。もちろん客観的には,この組織の成員の一人一人が出発点において,政治や文化の中心から絶えず無効化の圧力をかけられつつあることを知っていたために連帯してこの無効化の圧力に対抗し,可能なかぎり一歩でも政治や文化の中心に接近することを意図してつくられた組織であったといえる。かれらはともすれば失いがちな自己のアイデンティティをこの組織(=準拠集団)のなかで確認しあったのである125)。
 大正6年の臨時教育会議の「決議」は平沼,早川,北条の三名と大東文化協会設立の中心人物江木千之が提出者といわれる126)。詳細は別稿にゆずるが,この決議が当時の鈴木や小倉の思想とけっして無関係ではなかったことを強調しておきたい。準拠集団の重要な機能の一つに,成員間の思想的連帯性の強化をあげることができるからである。また,この決議の採択は「十四会」を原点としておよそ30年前に出発した平沼,早川,北条,鈴木らの準拠集団が政治や文化の中心に到達してしまったことを如実に物語っている。
 ところで,同年(大正6年)に出版された河上肇127)の『貧乏物語』からも知りうるように,大戦後の社会的アノミー状況が深刻さを増しつつあった日本において,留岡幸助が社会事業家[・・・・・]として大いに活動したことはいうまでもない。『留岡幸助著作集』第4巻の「解説」には次のように記されている128)。
 とくに米騒動(大正七年)以後は,戦後恐慌と相俟って,社会運動,階級的対立が勢いを増 し,ロシヤ革命の影響も受けて政治・労働運動も活発化していった。こうした社会的背景の 中で,従来の「慈善事業」或は「感化救済事業」は,「社会福祉事業」とともに今日に至る 迄なお使用されている,いわゆる「社会事業」という概念に集約され,留岡幸助もその成立 ・発展に重要なプロモーターとして[・・・・・・・・・・・・],大きな役割を果してい くのである(傍点瀬岡)。
 ここでは「プロモーター」という言葉が使われているが,これはまさに,H・ベッカーがいう「道徳的企業家129)」(moral entrepreneur)のことであると考えても,あながちまちがいではなかろう。
 ベッカーは「道徳的企業家」の類型として「規則創設者」と「規則執行者」(rules creators and rule enforcers)をあげているが,前者(規則創設者)のプロトタイプとしての改革運動家(crusading reformer)と,19世紀アメリカにおける禁酒運動の関係を詳述し,「禁酒法は,その法律によって利用可能な労働力の供給を増大させると考えた一部の工業家(industrialists)の支持を得た130)」という事実を紹介している。
 留岡幸助は明治42年の「禁酒の経済的位置131)」なる論稿において,「第一酒飲の労働者は真正の生産者にあらず,飲酒の多く行ハるる所に真正の生産ハ起らざる也」と言明している。また大正9年の「失業の原因132)」という一文において,「酒癖によりて失業するもの」と記している。
 留岡幸助が熱心な禁酒主義者であったこと,住友や古河の経営者たちと緊密な関係にあったことなどを考え合わせるならば,留岡を「道徳的企業家」と呼ぶことにさしたる異論はないと思われる。
 鈴木馬左也,早川千吉郎,北条時敬らとともに今北洪川のもとで禅の修業をした沢柳政太郎133)も熱心な禁酒運動家で,大正8年4月に「禁酒問題と教育者」(『帝国教育』第441号)を発表,大正9年には日本国民禁酒同盟の結成とともに理事に就任,大正10年には「禁酒問題」(テンペランス・トラクト第2編,日本国民禁酒同盟本部)を発表「貴族議員の肩書きで,大正9年1月から米国で禁酒が断行せられたのに力をうけて『禁酒の法律の制定』に期待134)」したといわれる。沢柳はまさにH・ベッカーがいう,「道徳的企業家」であったわけだが,この沢柳と留岡の緊密な関係135)が留岡の禁酒運動への傾斜を促したことはいうまでもなかろう。
 留岡は大正9年4月24日の日記に,「禁酒雑誌に筆を取ることに決す136)」と記している。禁酒雑誌とはテンペランス・トラクトのことであろうか。留岡は『人道』179号(大正9年5月)にも「アルコール飲料の国禁問題137)」を発表している。さらに,『人道』244号にも「禁酒法案138)」を発表している。これは大正15年2月のことだが,同年5月,留岡は巣鴨禁酒会を結成し評議員となっている。5月13日には家庭学校礼拝堂において,巣鴨町禁酒演説大会が開催され,「盛会139)」であったこと,5月28日には禁酒同盟理事会に出席したこと140)などが,留岡の日記に記されている。
 沢柳政太郎や鈴木馬左也とともに今北洪川のもとで禅の修業をした北条時敬も,一貫した禁酒主義者であった。北条も沢柳と同じく飲酒が修養や学修のさまたげになると考えたのである141)。『沢柳政太郎全集』第2巻(「修養と教育」)の解説者は,沢柳の禁酒運動が,「酒の害は国を亡ぼし,将来欧米の二の舞になるという強い国家的危機意識から生起している142)」と述べているが,既述のように,伊藤隆により平沼騏一郎や早川千吉郎とともに「第1次大戦後の復古主義者143)」というラベルをはられた北条時敬も,沢柳と同じような国家的危機意識をもち,「国家発展の基礎である国民精神の統一」を企図する「道徳的企業家」の1人であった。もちろん,北条らと同一の準拠集団を形成し,「財閥を国家の発展に寄与せしめたい144)」という意識をもっていた鈴木馬左也や小倉正恒が,沢柳や北条が展開していた「道徳的企業家活動」にたいして無関心でありえなかった。
 鈴木馬左也は,大正7年4月23日の「主管者協議会訓示145)」において「我国の現状を見ますと,道徳はよほど頽廃したやうでもありますが,尚未だ綱常地に墜ちざるものもあります。併し誰人も之を盛り返す者なく,其侭にして抛って置けば益々堕落に向むばかりである。其間にあって我住友家が実業界の有力なる清涼剤となり,社会を風靡して行きたいと,切に思ふのであります146)」と述べ,住友家の職員の連帯性の必要性を強く主張するとともに「傭員一般の風紀を立派に保ちたいと考へます。風紀を保つことは個人としても社会としても最も望ましきことでありますから,住友の店員たる御同様の間に於ては特に此点に重きを置き,甚しき状態に陥らざる様すべきであります147)」と言明したのである。鈴木はこれに続いて飲酒などを強くいましめている。小倉正恒が鈴木以上に強い修養意識[・・・・]をもち,飲酒など思いも及ばぬ生活を送っていたことはいうまでもない148)。小倉は鈴木の先にあげた「訓示」を共鳴しながら聞いたであろう。かれはこの年(大正7年)の1月に理事となり総本店支配人として,同じ金沢出身の松本順吉とともに149),活躍していた。
 要するにここでは,留岡,沢柳,北条,鈴木,小倉らの「修養」という一つのライフ・スタイルが,安丸良夫のいう「自己鍛錬による主体性の確立150)」をめざす個人により担われていたことを,とくに第1次大戦後の社会的背景との関係において分析した。このライフ・スタイルが,留岡や早川の戦後民力涵養協議会(大正8年5月151))への積極的参加や,鈴木や小倉の「財閥を国家の発展に寄与せしめたい152)」という意識や行動とけっして無関係ではなかったことはいうまでもなかろう。近代における通俗道徳が国家との関わりにおいて大きく変質していったという安丸良夫の主張が正当性をもつのは,そのような意味においてであろう153)。

 3.中央報徳会青年部・修養団など
 大正5年11月,中央報徳会青年部は青年団中央部として,一応中央報徳会から独立したかたちとなった。青年団中央部が第1回全国青年団連合大会を開催するにいたったのは大正7年5月5日である。北条も留岡154)も参加している。会期は3日間であった。初日には,早川千吉郎による教育勅語,戊申詔書捧読,一木喜徳郎の開会の辞,文相岡田良平や東京府知事井上友一らによる告辞その他があった155)。『大日本青年団史』(127~130ページ)によれば,この大会に先立ち,4日に準備協議会が開催されたが,留岡も一木,田中,井上,伊達らと出席している156)。また大会後も,井上,早川,岡田,一木らと会談している157)。
 留岡の日記に小倉正恒が登場するのはこの頃である。6月16日の留岡の日記には社名淵農場(北海道)を訪問した大久保利武と小倉正恒が留岡の「宗教上の話」を聞いたとある158)。小倉は前年(大正6年)2月にすでに北海道鴻之舞金山を買収していた。その視察のためにも何度も北海道に行ったであろう。
 この直後(6月26日),小倉のロンドン留学時代に知己となった大塚素が,この社名淵農場を訪問していること159)にも注目しておきたい。
 他方,北条時敬は,同月13日と14日の両日,鈴木馬左也と会っている。また21日には花田仲之助が北条宅で「時事ニ付懇話」し,宿泊している160)。そして30日,修養団の田尻稲次郎団長推戴式161)に,井上友一,渋沢栄一,阪谷芳郎162),床次竹二郎,二木謙三,筧克彦らと出席した。田尻稲次郎163)が,のちに住友において小倉と勢力を二分するに至ったといわれる八代則彦164)の叔父であることを想起したい。さらに7月26日には,平沼騏一郎(のち第2代修養団団長),斉藤実,大迫尚道,床次竹二郎らと「花田ノ会」に出席した165)。
 「花田ノ会」とは「一一会」のことである。これは同年(大正7年)7月に結成されたもので会員には,『鈴木馬左也』(299ページ)によると,一戸兵衛・伊集院彦吉・北条時敬・床次竹二郎・土岐〓・大迫尚道・田尻稲次郎・根津一・上原勇作・山下源太郎・小山秋作・斉藤実・平沼騏一郎・鈴木馬左也・花田仲之助らがあり,牧野伸顕と秋月左都夫(鈴木の実兄)という2人の義兄弟は顧問格であった。この会の目的は「時局問題の研究討議」といわれるが,その設立の背景は,同年小河滋次郎が林市蔵と連帯して大阪に創設した「方面委員制度」のそれと同じようなものであった。つまり米騒動(大正7年)以後の一種のアノミー状況である(同年留岡は内務省の諮問機関である救済事業調査委員に任命されている)。
 なお,修養団の第3代団長は二木謙三だが,この年(大正7年)8月26日,留岡は重病であった息子(安男)を見舞い,日記に「二木博士の賜なり」とその回復を二木の尽力に帰している166)。修養団は「一一会」のメンバーの大半を有力な支援者としてかかえていた。床次竹二郎などがその代表者格であった。床次は9月7日の「一一会」にも北条,大迫,斉藤,平沼,鈴木,花田らと出席している。この床次と留岡はすでに緊密な関係を内務省嘱託時代から築いていた。したがって同年10月に床次が原内閣の下で内相に就任したさいに,ただちに内務省に床次を訪問し,「社会政策につき献策」したのである167)。修養団運動の創始者蓮沼門三が崇敬した168)床次が留岡の準拠人(レファレント・パースン)169)であったことは注目しておきたい。
 ところで留岡のもう一人の準拠人井上友一が小倉正恒や蓮沼門三の準拠人でもあったことは既述のとおりだが,その井上が大正8年6月12日に他界した170)。(北条,早川,平沼らとともに,臨時教育会議委員[・・・・・・・・]として尽力した井上が,その功により勲2等旭日重光章を授けられたのはその直前である。
 留岡は『人道』169号(大正8年7月)に「井上明府171)」という長文の論稿を発表,また『斯民』第14巻第70号に〔井上友一追悼文172)〕を発表した。大正9年5月に『斯民』の主幹で小倉正恒の竹馬の友であった国府種徳や同じく『斯民』主幹近江匡男らが井上の義兄早川千吉郎や清水澄と協力して『井上明府遺稿173)』を出版している。もちろんこれに先立ち,既述の『斯民』第14巻第7号174)(大正8年7月)は「井上友一追悼号」を組んだのである。「追悼録」として,北条,清水,江木,床次,一木,阪谷,渋沢,土岐,国府,徳富,中川,矢作らの文章が掲載されている。
 留岡は同編8号と10号175)にも「予の観たる井上明府」上・下編を発表した。さらに,第15編第7号(大正9年7月176))には,「故井上博士一周忌に際して」として,一木,岡田,早川,中川,土岐,北条,沢柳らとともに,留岡幸助と小倉正恒の文章が掲載されている。準拠集団の機能は否定できまい。
 ところで,さきにあげた井上友一追悼文や「井上明府」において留岡は「井上の業績を詳しく述べ,その人柄を心から賞賛,愛惜している177)」といわれる。また「二人の友誼関係の深さ,さらに留岡と内務省との関係を知る上でも注目される一文である178)」という見方もあろう。だが本稿の視座にあっては,留岡と井上や内務省との関係[・・]のみならず,そういう関係を媒体とした留岡と小倉の関係,換言すれば,卓越したキリスト教社会事業家と財閥経営者の関係を知る上でも注目されるのである。もちろん,準拠集団論の視座との関連においてである。たとえば「井上明府」における「同情の人」,「志ある人物を優遇する」,「自然よりは人物を好む」という各節の文章179)は,井上が森川のいう「他者との出会い180)」を大切にした人物であったこと,浜口のいう「レファレント・パースン181)」として機能する属性を十分に備えていたことを如実に物語っている。

 Ⅲ 住友の労務管理と留岡幸助

1.小倉正恒と留岡幸助の連帯性
 大正9年1月,鈴木馬左也と同じく,留岡も協調会評議員となる。19日には内相床次竹二郎に「献策182)」している。同年2月2日,「一一会」が内相官邸において開かれ,北条,「斉藤朝鮮総督,一戸,上原両大将,平沼,小山」らが出席した183)。
 ところで協調会は11月田沢義鋪を常務理事とした。床次内相と渋沢副会長の懇請によるといわれる184)。田沢は,この年1月に「独力修養団員二千名獲得185)」を宣言していた。その田沢が4月18日に「岡崎県立師範」で開かれた「修養団発表会」で講演したが,留岡はこれを聞いている186)。
 同年6月13日,北条,一木,岡田,沢柳,清水,織田,土岐,伊沢らとともに,鈴木と留岡が会っている187)。井上友一の追悼会であった。15日,鈴木と北条は「一一会」に出席した189)。花田,平沼,大迫,土岐,上原,床次らも出席している188)。留岡は10月29日に内務省社会事業懇談会,協調会,中央報徳会などに出席,30日に内相床次に会っている。12月14日には早川を訪問後,協調会に出席した190)。
 大正10年に入ると留岡は「社会改良事業」のため各地で講演している191)。
 大正10年は,いろいろな意味において特筆すべき年であった。本稿の視座からすれば,小倉正恒が住友合資会社常務理事となったこと,修養団運動の住友への導入,小倉と留岡の強力な連帯性の成立などがとくに重要であろう。
 大正10年2月,田沢義鋪や修養団員らは協調会主催第1回労務者講習会を世田谷の国士館で開催した。この会に住友製鋼所の森重候が参加している。これが住友人の修養団へのコミットメントの本格化のはじまりであった192)。後に小倉正恒の命令で別子にはじめて修養団運動を導入するにいたる三村起一は次のように述べている193)。
 大正十年といえば,第一次世界大戦が終わり,日本は戦争景気で一時良かったが,大正九年 の横浜七十四銀行の取付に端を発した,財界の動揺は,軍縮によってさらに輪をかけられ産 業界一般に不況の風は吹き荒んだ。事業縮小に伴う労働者の解雇は随所に見られ,ついに所 々で労働争議が勃発した。
 阪神地方の争議は,神戸の川崎造船所を初め大小工場に及び,とうとう流血の惨事を惹き起 こした。六月には,大阪の住友電線製造所,次いで住友製鋼所がストライキに突入した。
 私のいた住友伸銅所(現在の金属工業)の組合は,居中調停と称して退職手当の増額及び団体交渉権獲得を要求した。伸銅工組合長は賀川豊彦氏で,私はごく懇意の間柄 であったが,欧米労務管理を調べて帰国したばかりの私は,色々交渉の末,住友の争議は円 満妥結して,退職手当の改訂と工場協議会制の実施に踏みきった。
 戦後の労務管理はすこぶる困難であったが,特に重点を労資協調に置き,そのころ創立され た労資協調会の常務理事田沢義鋪さんに相談して,協調会主催の四日講習会を開くことにし た。この講習会の方法とその指導精神は,当時いまだ産業界に十分知られていなかった,蓮沼先生中心の修養団の指導方針に則ったものであった。
 第一回の修養講習会は,その年の秋,東京・世田谷の原頭に建てられた,国士館において開 催され,百四十名の職員工員が参加した。もとよりこれには,組合は資本家の労働組合懐柔 策だといって反対したが,あえて断行した。ただし,主催は労使協調の中立団体を標榜した ,協調会としたのである。
 この講習会は,蓮沼先生の修養団の講習会方式を全面的に取入れたものであって,田沢先生 を中心に,国民体操は松元稲穂先生,講師には小林大巌先生等が御指導下さったが,あくま で修養団精神を中心としたものであった。
 蓮沼主幹が火のごとき情熱をもって高く掲げられた,「愛なき人生は暗黒なり,汗なき社会 は堕落なり」と汗愛の大精神を天下に鼓吹された白色倫理運動の真髄に触れ,四日の修養講 習会は,最大の感激の中に真の日本精神への目醒めに,講習生一同は,われ汗愛運動の行者 とならんと心に誓ったのであった。組合の幹部もいたが,最後の夜の感話は,涙の中に心情 を打ちあけたのには深く打たれた。
 第二回,第三回と講習会を続ける中に,工場内は激しい組合運動の中にあって,汗愛運動は 堂々の進軍ラッパを吹き鳴らし,工場に,家庭に修養団の根本精神は根を下ろして行った。 (三村起一「住友の修養団講習会と蓮沼門三先生」)
 三村起一は大正8年に日本を出,約1年間欧米の労務管理を調査し,帰国後この調査を第101回救済事業研究会194)で発表,のちこれを『救済研究』に掲載した195)。この論稿に於て三村は「日本の工場主は何うしても労働問題の解決を図るに就ては精神的道徳的でなければならぬと云って居られますが,私共が考へて見ても是れは何うしても心的改善,物的改善,それから組織の改善,此の三つのものが揃はなければ到底労働問題を真面目に解決することはできない196)(傍点三村)と述べている。修養団運動は三村があげる3つの「改善」のうちの1つ「心的改善」を実現するため
のものであった。もちろん,修養団運動のみが住友における「心的改善」に貢献したのではなかった。留岡幸助や本間俊平の思想と方法も少なからず貢献したのである。
 既述のように,住友の経営者にはかれらキリスト者にたいするある種の(ある程度までの)共鳴盤が形成されていた。小倉正恒と留岡幸助の「パーソナルな関係197)」は大正10年ごろから急激に緊密化する。すくなくとも留岡の日記によればそうなのである。この「パーソナルな関係」の緊密化の企業者史的な背景に,既述のようなキリスト者による「教化」の思想と方法を財閥の労務管理に積極的に採り入れていこうとする(常務理事)小倉の経営理念があった。そしてこの「パーソナルな関係」を,両者が属する準拠集団(「十四会」を核[・]とも原点[・・]ともするもの)が支持していたのである。したがって,留岡幸助もまた,自己の「教化」の思想と方法を,あたかも革新的なアイディアの普及・伝播のように198)財閥経営の領域にまで普及・伝播させようとしたのである。
 小倉と留岡の「パーソナルな関係」の急激な緊密化を推し進めた歴史的要因としては,この年(大正10年)の6月に発生した電線製銅所・製鋼所労働争議や9月の安田善次郎の暗殺,11月の原敬の暗殺をあげることができる(もちろんこれは既述の修養団運動の導入の要因の1つでもあった)199)。
 留岡幸助は既述のように,古河虎之助や古河財閥の経営者たちと,家庭学校の経営を通じて親密な関係にあった。かつて古河財閥の経営者であった原敬の暗殺は,留岡と古河人からなる準拠集団を,基底から揺さぶるほどの大事件であった。この事件にさいして留岡は『人道』196号(大正10年11月)に「原首相の暗殺と青年団の必要200)」という論稿を発表している。この論稿において留岡は「彼我青年団の相違」「基督教青年会の発達」,「都市の膨脹と農村の疲幣」などを説明したあとで「都市青年の指導者」という節を掲げ,次のように述べている201)。
 青年時代は最も堕落し易いものであり,而して都会には青年を堕落せしめる誘惑物が多い。 安田善次郎翁を刺殺した〔九月二十八日〕朝日平吾も青年であり,原首相を暗殺した中岡良 一も青年である。世の中に青年が悪化する程恐しいものはない。犯罪に対して本人の責任は 云ふまでもないが,青年を取巻く周囲のものも又大なる責任がある。
 留岡の「逸脱と統制」の思想がよくあらわれている文章である。この年の7月に,「六大都市発企の第一回全国青年団大会202)」が大阪市で開かれていること,また同月に発生した神戸三菱,川崎造船所ストに軍隊が出動していることなどを考え合わせるならば,次に述べているように203),「青年の指導と宗教」という節をあげ,逸脱者の主要な供給源としての都市の青年を,YMCA方式で教化(統制)することの必要性を強調していることには,非常に大きな意味が含まれている。
 留岡は「原敬首相暗殺事件(大正10年11月4日)を契機として,青年団を社会教化のために重視するようになった204)」結果,「基督教青年会の活動方式」を青年団に採用することを説いたのであった。そしてこの「社会教化」のための指導者として「市町村長,政党の首領,住職,牧師,産業組合理事長を挙げるが,その筆頭に青年団長が置かれ,その役割が期待された205)」とのことである。
 この点に関して別に異論はないが,本稿のパースペクティブからすれば,この指導者として,小倉正恒をはじめとする財閥経営者の存在を無視することはできない。財閥経営者もまた「財閥を国家の発展に寄与せしめん」という意識(安岡重明206))をもっているかぎりにおいて,「国家社会の為に富力を充実するもの」(留岡幸助207))であるかぎりにおいて,「逸脱と統制」という問題に大きくコミットしていたのである。またそのような意味において,とくに国益志向的な労務管理において,小倉と留岡の高い連帯性の存立基盤があったといえる。
 安岡重明は,「日本財閥の歴史的位置」において,「財閥の維持・発展が日本の国家社会の発展に有用である」という信念をもった経営者をえた財閥こそが大きい発展をなしえたこと,「経営者がたんにその商家または財閥の維持・発展のみを,狭い意味で追求していた場合は,その財閥は十分発展しえなかった」(傍点瀬岡)ことを主張している208)。
 財閥経営者が財閥の発展を狭い意味で追求するか,それとも広い意味で(国家的見地に立って)追求しうるかどうかは,ある程度まで主家(ないし主人)にたいする忠誠心の高さに関係があろう。しかしここではなによりも,財閥経営者の準拠集団の機能を重視したい。要するに,あまりにも国益志向性が高い財閥経営者は,「家」の維持・温存のみを唯一の規範とする人々からすれば逸脱者であった209)。安岡重明も「財閥を国家の発展に寄与させようとする意識が強すぎると,その人物は危険視され,孤立する210)」と述べ,中上川彦次郎の場合211)などをあげている。そして逸脱者を物心両面において支持する準拠集団が欠如している場合の悲劇を指摘している。つまり,「名家・旧家を維持・温存させるだけなら,危険な事,見通しの不確実な事業への投資を避け,ごく安全な投資からの収入をもってしても生活と蓄財は可能212)」とする規範から逸脱し,あまりにも213)「国益意識が強く,広い視野をもった経営者たちに指導された財閥の場合,経営者は出資者である財閥家族と相剋214)」せねばならなかったのである。
 ところで住友の場合,そういう「相剋」は鈴木や小倉が異常なほど国益志向的であったにもかかわらず,最小限におさえられた。それは鈴木や小倉が,安岡のいうように,「財閥内の活動を調整するタイプ215)」の組織人[・・・]であったためにパーソナルな関係216)を大切にしたからである。とくにこのことは鈴木と家長友純(住友春翠)とのパーソナルな関係においてあらわれている。もちろんこの関係の存立基盤を提供したのは,鈴木がその成員として長年参加してきた準拠集団(十四会や一一会を核[・]とするもの)であった217)。とくに,友純とその実兄西園寺公望との関係,西園寺と鈴木の実兄秋月左都夫との関係,秋月とその義弟牧野伸顕との関係,以上の諸々のパーソナルな関係が十四会や一一会にみられる集団レベルでの関係と交差し絡み合いながら形成され維持されていた準拠集団の機能を無視するわけにはいくまい。そのようなコンテクストから考えるならば,小倉正恒と留岡幸助の強い連帯性は,明治44年の恩賜財団済生会設立を契機として家長と鈴木が国家的見地から住友私立職工養成所の設立を決断したときに,すでにその存立基盤が用意されていたといえよう。
 ところで留岡幸助は,既述の「原首相の暗殺と青年団の必要」を発表した年(大正10年)の4月7日にこの住友私立職工養成所を視察しているのである218)。また25日には小倉正恒と会っている219)。さらに27日には「此日半日(午後)小倉正恒氏夫人に精神上のことを説く220)」とある。留岡と小倉のパーソナルな関係をあらわす事実であろう。既述のように小倉の妻は十四会の成員河村善益の長女信であった。また河村善益の妻六(信の母)は鈴木馬左也の従妹であった221)。鈴木も河村も小倉も禅による修業には卓越していたが,キリスト教にはあまり関心がなかったことを考えると,留岡が小倉の妻に半日も「精神上のこと」を説いたという事実は,彼女と十四会の成員との,緊密な,あまりにも緊密な関係からして,おどろくべきことであろう。留岡はこの時点において,鈴木や小倉の準拠集団の成員として参加しつつあったのである。
 さらに5月27日,留岡は「皇室慈善ノコトニツキ」鈴木の実兄秋月左都夫の義弟牧野伸顕宮内大臣の招きで大臣官邸を訪問した222)。11月9日には「夜小倉正恒氏方にて協議会をなす223)」とある。
 大正12年に入ると,留岡の日記には小倉との関係をあらわす記述がかなり多くなる。2月6日の「家庭学校大阪後援会」には,「一金壱百円也。小倉正恒氏」「一拾円也。小倉氏取賛事務費224)」とある。さらに24日「午後八時大阪天王寺阿部野,小倉正恒氏宅に安着,一泊す」とあり,25日には「小倉氏御影の鈴木馬左也氏(故人)宅に用ありと行かれければ,住吉辺まで同行225)」とある(鈴木は前年12月に他界している)。また12月の「大阪集金日誌」には「一,弐拾円小倉女中さん方,子供さん方」とある。留岡が小倉正恒宅を大阪での常宿としはじめたのである。
 大正13年1月,留岡は中央教化団体連合会理事となる。この年4月,修養団では平沼騏一郎(十四会,一一会,無窮会メンバー)を第2代団長とした。留岡は4月3日から4日にかけて小倉宅に宿泊226),7日には「午後七時より小倉氏宅にて宗教談をなす227)」とある。この会には「有志ハ,九名青年男女集る」とある。住友の会社ではなく,小倉の私邸でこのような会が開かれたことに注目したい。さらに翌日(4月8日)の日記には次のような記述がある228)。
 ……十時住友本社に出て近藤常太郎君と会計事務を見,鴻の池銀行に野村政也氏に面会。二 百二十円落手皆納。小倉正恒君の好意にて小河滋次郎,前田宇治郎君を招かれ,小倉,近藤 両氏と午餐を食し,午後二時分袖……
 この記述から,家庭学校大阪後援会の事務所のようなものが,住友本店内に置かれていたこと,小倉正恒と小河慈次郎229)ら大阪の社会事業家との関係を知ることができよう。4月27日には,小倉の「立会」の下で留岡の部下の結婚式がなされている230)。さらに30日には留岡は小倉を訪問した231)。同年7月232)は留岡と小倉の緊密な関係をあらわす記述が多い。
 〔7月14日〕……六時天王寺村阿部野小倉正恒氏方に投宿。不相変歓待を受く………
 〔7月15日〕……九時小倉氏の自動車に乗せられ中川知事を大手前官舎に訪ひ,令夫人知事 233)に悔を述べ,十時住友本社に行き,近藤常吉[ママ]氏の世話になり,後援会ビジネス を執る。事務運ぶ。午後五時小倉氏の自動車にて阿部野同氏の宅に帰へり………
 〔7月16日〕……九時小倉氏の自動車にて天神橋に出て下車。……午後四時半小倉氏の自動 車にて帰宿ス。夜は山本源吉氏来訪。令娘の事につき小倉正恒御夫婦と四人悃談………
 〔7月17日〕……八時半自動車にて小倉氏と外出。南堀江勝本忠兵衛氏及前田秀実氏,藤田 組,朝日新聞,上野精一氏,住友本店等を訪ふ……
 〔7月18日〕……午前九時前小倉氏と自動車にて出発。住友本店に行き,永田仁助氏を訪ひ 閑談………
 〔7月19日〕……住友本店に行き,……午後一時土屋元作氏ヲ大阪クラブに訪
 ひ悃談ス。夜ハ小倉氏方ニテ閑談……
 〔7月20日〕……十時坪野平太郎氏ヲ慰問……三時再ヒ坪野氏宅ニ戻リ閑談。互ニ喜ビ午後 八時辞去。十時小倉氏宅ニ帰り,十一時感謝の眠につく。
 〔7月21日〕……十一時岩井勝次郎氏ニ面語賛成ヲ得ル。……六時小倉氏宅へ帰リ十一時感 謝ノ眠ニツク。
 〔7月22日〕……八時住友本店に行き,十時小林利昌氏方を訪ひ……四時住友に帰へり,小 倉君と同伴してあしや仮寓に来り,十時感謝の眠につく。
 〔7月23日〕……小倉氏往来迄見送レル………
 ここで注目すべきは7月20日の記述である。坪野平太郎は,小倉正恒の神戸時代234)「勤務の上にも家庭生活にも庇護を受け,深い心の交流のあった一人235)」であった。もちろん留岡幸助は「当代稀に見る識見家にして亦人格者である236)」坪野を崇敬していた。石川県出身で河村善益や鈴木馬左也らと緊密な関係があった坪野が十四会のメンバーであったことはまずまちがいなかろう237)。そして坪野と留岡の関係のみならず,留岡と小倉の緊密な関係も,私のいう準拠集団の機能にもとづくところが大きいと考えられる。
 坪野平太郎の他界は大正14年5月だが,坪野をカリスマ的に崇敬した留岡幸助は,知人に坪野の「逸話」を聞いて廻った。それが「坪野氏逸話238)」である。ここで同年住友の総理事となる湯川寛吉は,坪野が「仕事に熱心で強い感化力を持って居た」ことや,住友に「人を紹介して来るが,凡て精神的であったこと」を強調している239)。留岡もまた坪野が「自己鍛錬による主体性の確立をめざした人240)」であることを強調している。大正8年に設立された坪野の家塾「南陽社」の早大出身の塾生苅込豊は大阪住友伸銅所において「職工服を纒ひ,職工と同じやうに労役に従事して居る精神家241)」であったといわれる。当時人事第一課長であった田中良雄(のち住友本社常務理事)は,「仕事が人を育てる242)」という信念をもち,大阪の実業教育界に大きく貢献したが,その弟も坪野から教えを受けた243)。このため「私の弟ハ考が変って,心のすがすがする人となった」という。さらに小倉正恒は,坪野は「琴線にふれる磁石のような人で,三十分で六ケ敷い人間を得心させる……修養の結果也244)」と述べている。坪野の「精神主義」はかなり強力な人間変革のエネルギーを秘めていたようである。もちろん,安丸良夫がいうように,「そのエネルギーの射程は,当該思想によって鍛えぬかれた人格と密接な人格的関係にあって感化される人々の範囲にとどまらざるを得なかった245)」,のである。しかしこのことは,準拠集団の機能というものに焦点をおいている本稿の場合には,むしろ当初から想定されていたのである。坪野や小倉によって代表される「精神主義」は準拠集団に属する人間を変革せしめるだけでことたりたのである。
 坪野や小倉の「精神主義」を支えていたのは禅による修業であった。森川英正は住友財閥の経営理念を考えるさいに見落せない要因として,「国家的見地」とともに「禅に対する傾倒246)」をあげている。この森川の視座は二つの点において正しい。一つは,既述のような「精神主義」の形成において,禅による修業が大きな有効性を発揮したことである。もう一つは,参禅による準拠集団の形成と発展である。たとえばこの頃(大正14年)住友入りした田中外次(のち住友金属鉱山会長)によると,田中の住友入りを最初にすすめたのは草鹿任一(当時海軍少佐,のち人事局長,司令長官などを歴任)であった247)。草鹿は石川県人で十四会のリーダー北条時敬の二女絲の夫であった248)。しかも草鹿と田中の「出会い249)」は,北条や鈴木ら十四会員の禅の修業の場であった鎌倉の円覚寺においてなされた。また当時の住友合資会社の人事部長が小倉正恒であった250)。時[・]も場所[・・]も人[・]もすべては,準拠集団の機能性ということを軸として回転しているのである。
 このように参禅を媒体とする人と人との「出会い」はどのように強調しても強調しすぎるということはない。しかし,「禅と企業者能力」という間題を無視してはなるまい。すなわち,参禅が企業者能力そのものを高める可能性にも注目せねばならない。とくに労務管理の面からいうと,財閥経営者は,安岡重明が述べているように,「主家との相剋」を処理する能力のみならず,「部下から忠誠の対象となりうる人格的スケールを備えていなければならなかった251)」のである。そしてこのような能力や人格は禅の修業により,ある程度まで修得可能なものなのである。またその有効性も「せまい同信者集団252)」や限定された準拠集団の範囲を越えないかぎり,かなり高いものなのである。この点については,不二禅会・帰一協会などの創始者辻雙明が同じ堯道門下の田中外次と禅の関係253)を詳述していることに注目し参照したい。辻は鈴木馬左也をはじめとする十四会員の参禅について254)も詳しく述べている。それによると鈴木は「禅機に富み禅味ゆたかな人」で「天性禅を体得す」といわれたとのことである。
 辻雙明は,白隠禅師の「資生産業,皆,実相と相違背せず」の一句や道元禅師の「治生[ちしよう]産業固より布施に非ざることなし」の一句を体現するのが,大乗仏教者からみた実業家の最高の理想であると述べている255)。田中外次が古川堯道老師に初相見のさい,老師から「君は参禅しても,自分一個のためにやるというようなことでは駄目だ。国家社会のためになるようにと思ってやるのでなくてはいけない。最初から,そこを間違えないように」と言われ,この一言を肝に命じて座禅をした,とのことだが256),この老師の言葉も自隠や道元のそれとけっして無関係ではあるまい。また,森川英正が「住友財閥の経営思想は,伊庭,鈴木,小倉正恒ら経営者たちが伝統的に禅に傾倒した事情と切り離して考えることはできない257)」として,住友の経営者と禅の関係を強調していることともけっして無関係ではあるまい。
 ところで,キリスト者留岡幸助もやはり禅に関心があった。たとえば,大正5年6月11日,留岡は永平寺を視察したが,このときの日記に「永平寺座禅及宗規ハ教育上大に参考となる258)」と書いている。

 2.大阪での活動
 留岡幸助による住友の労務管理への最初の積極的なコミットメントは,大正13年11月末から12月初旬にかけてなされた。
 留岡は11月28日から12月7日までの9日間の宿泊所を小倉正恒宅とし,この小倉宅を根拠地として東西奔走,多くの人物と会っている。とくに住友関係では,12月1日の日記に「住友本店へ行き報告会の通知状ヲ出ス」とあり,2日にも住友本店に行き,3日には,「住友伸銅所工場肥後八次,西崎伝一郎」を訪問,「後援会加入を約セラル259)」とある。肥後と留岡の関係については既述のとおりである。ここでは,西崎伝一郎が,小倉正恒と同郷同窓であったことに注目しておきたい。私のいう準拠集団機能が活性化しつつあったのである。
 さらに,12月4日も留岡は住友本店へ出た。翌5日の日記には「住友本店小倉正恒氏の紹介で安宅弥吉氏を高麗橋五丁目その商会に訪問面談」とある。住友化学の会長である長谷川周重の義父安宅弥吉が大正10年前後,西田幾多郎を物的に援助していたこと260)は,よく知られている,西田も鈴木や小倉の準拠集団に属した。(この点については別稿で論じたい)。さらに同日「大阪倶楽部に家庭学校後援会開催」として,「林市蔵,小倉正恒両氏の外有力者四十名集る。余の二十五年間の報告と林委員長の開会の辞及小倉会計監督の会計報告あり261)」とある。林市蔵が家庭学校大阪後援会の委員長を小倉正恒が会計監督をつとめていたことが知られよう。住友本店内に家庭学校の後援会事務所が設けられたのもこのためであろう。なお林市蔵は明治32年に警察監獄学校教授となっているが,このとき留岡幸助も教授として,小河滋次郎は講師としてつとめている262)。林,小河,留岡の3人の連帯は20年以上も前から築かれたものである。
 さて,12月6日,本稿のパースペクティブにおいてはもっとも重要な行動を留岡はとっている。この日の留岡は午前中「住友本社」へ行き,「午後三時過北港住友電線工場にて千人の職工に講話263)」をしている。おそらくこれが,留岡の最初の本格的な住友の労務管理へのコミットメントであろうと思われる。
 さらにこの3日後(9日),留岡は「雨潤会」において「家庭学校ニツキ講話264)」したが,これを秋月左都夫と志立鉄次郎が聞いていることに注目したい265)。雨潤会は,すくなくとも留岡幸助,秋月左都夫,志立鉄次郎の関係において,住友と古河の接点としての位置にあったといえよう。また「雨潤会」は家庭学校茅ケ崎分校の建築にみられるように266),留岡の社会事業を大きく支援した。
 留岡と小倉の緊密な関係(というよりも小倉の社会事業にたいするコミットメント)は,翌年(大正14年)7月の留岡の日記からも十分にうかがうことができる。5月22日,日本橋の住友銀行で小倉正恒と会談した267)留岡が,7月1日の「故坪野平太郎追悼会268)」に出席した翌日(2日)にも,日本橋の住友銀行に小倉を訪問269),おそらく7月14日から21日にかけての大阪行を相談したと思われる。
 7月14日,留岡は天王寺の小倉宅から小倉正恒の車に同乗し「住友合資会社」に行く270)。
 7月15日,留岡は「住友合資会社」で用弁ののち,小倉と会談した。日記には次のように記されている271)。
 ……八時過ぎ大手前中川知事官舎を訪ふ。懇談。十時住友合資会社を訪ふ。用弁。小倉正恒 氏の好意に依り十七日鶴屋にて午後五時半より中川知事,谷控訴院長,関市長272),池上四 郎273)その他数氏を招き,余の為に晩餐会を催すことに決定す。十一時小倉氏の添書を持っ て弘世助太郎274)(日本生命保険専務),日本生命済生会理事長手塚太郎氏275)を訪ひ,弊 校後援会加入承諾を得たり。手塚氏の好意により大阪倶楽部にて午餐に招かる。食後小倉正 恒氏,土屋元作氏276)等打寄って悃談す。日没前原田公郎氏,岡島相隆氏,八浜徳三郎氏27 7)等を訪ひ,五時半帰宿。夜は小倉正恒令夫人と悃談。十時感謝の眠につく。
 7月16日,留岡は「住友総本店に行く。事務を近藤氏の室にて弁じ……278)」と記している。
 7月17日,留岡は林市蔵と懇談後,林安繁279)(宇治水力電気株式会社社長)を訪問,「後援会に賛成を願ひ快諾」得た。その後「住友本店」から(小倉が15日に企図した留岡のための)晩餐会場へ向った280)。
 7月18日,「午後三時住友本店に立寄り,四時小倉氏ト天王寺阿部野の宅にかへり,七時住友鰻谷の寧静寮に寮生七十名の為に講話281)」とある。
 7月20日,「十一時住友本店へ行き,午後一時大阪商船会社に堀啓次郎,太田平四郎(専務取締役)両氏を訪ひ,……」とある。堀啓次郎は大正3年に大阪商船の社長に就いた。また大正7年から住友銀行にはじめて外部から取締役として名を連ねていた282)。この日留岡が堀らを訪問したのは,かれが小倉とともに崇拝していた坪野平太郎のことを聞くためであった。このため留岡は太田平四郎の母恒子にも会っている283)。
 7月21日,留岡は「十二時半住友本店を訪ひ,午後二時前市長池上四郎氏を訪ひ,十三時小倉正恒氏方にかへり,帰京の準備をなし,午後五時過ぎ住友本店に小倉氏を訪ひ別れをなし……284)」とある。
 留岡の大正14年7月の大阪行はおよそ以上のようなものであった。7月14日から21日までの間,小倉正恒宅を根拠地として活動したことが明白となった285)。

3,む す び
 大正13年9月6日,留岡幸助の北海道社名淵農場を2人の住友人が訪問している286)。田中弥太郎と小島善訓で両名とも,小倉正恒が買収した鴻之舞金山に関係していた。鴻之舞は大正7年の製錬所創業開始以来着実に発展し,同年(大正13年)11月の全泥式青化製錬への転換,翌14年9月元山本鉱床の富鉱帯への着脈など活気にあふれていた287)。
 留岡はちょうどこのころ,鴻之舞を訪問している。大正14年9月20日,21日の日記には次の記述がみられる288)。
 〔9月20日〕……余ハ角藤光雄及佐藤猪之助ノ両氏ヲ伴ヒ,五里ノ地点ニアル鴻之舞住友鉱 山ニ行ク。日没着。住友鉱山宿泊所ニテ食事シ,七時半小学校ニテ鉱山ノ鉱夫等ニ講話ス。佐 藤校長モ児童ニ話ス。来会社百五十名。九時半閉会……。
 〔9月21日〕……八時鉱山事務所ニ行キ,小池主任289)ノ鉱山ノ説明ヲ聞キ,製錬所ノ案内 ヲ受ケ,十一時凡テヲ見終リ……
 おそらくこれが留岡幸助の住友の労務管理への第二の本格的なコミットメントであろう。留岡は,小倉との関係において協調会評議員としての「教化」を住友の労務管理の領域で実現しつつあったのである。このときも留岡の講演記録はない。しかし同年他の場所で「労働観念の改造290)」を講演している。おそらく同じ主旨にもとづいていたものと思われる。この論稿において留岡は「労働観念の改造と云ふ題を提出した訳291)」を次のように述べている。
 其処で今日労働問題が叫ばれると云ふのは何の点に於て叫ばれて居るかと云ふと,生活が困 難であるから労働者の賃銀を増して呉れ,労働時間を短縮して呉れと云ふ事であって,かう 云ふ事は何事でも同盟罷工や社会上の忌はしい問題が起って来る原であります。其要求に応 ずれば良し,応ぜぬければ同盟罷工を行る。近頃,労働は商品に非ず,労働者の人格を認め るやうにと云ふ問題が叫ばれて居りますが,今日の社会問題,労働問題の多くは物質条件の改善であら うと思ふのであります。物質条件の改善も今日大切であるが,其れと同時に,総て此の労働に 従事さる人間の観念も,精神を改造せんければ此の問題は決して治まらない問題である。此の 問題は解決の出来ぬ問題であると,かう思うのであります。
 そして留岡は,「労働観念の改造」の根本として,「自分の天から享けた才能,力と云ふものを認識して,其れを社会の教育などを以て訓練をして,自分が一番社会に適当なる処に立って働くと云ふ事」を強調し,「茲に於て国威と云ふものがあがり,茲に於て人格と云ふものが尊重せられて来る292)」と述べている。
 この留岡の労働観と蓮沼門三のそれとの間に一つの共鳴盤があった。大正14年2月11日,修養団は創立20周年記念式を開催したが,留岡は,団長平沼騏一郎や平沼の盟友北条時敬の女婿丸山鶴吉らとともに参加している293)。さらに翌年5月14日,留岡は平沼を訪問,「国家問題ニツキ懇談ス,予ト説同一点多キヲ見出ス294)」と書いている。平沼は当時国本社を設立し「国本運動」に専念していた。この国本社の理事の一人に住友の総理事であった中田錦吉がいたこと295)にも注目しておきたい。

 大正から昭和にかけての住友は一つの転換点に立っていた。大正14年10月,総理事中田錦吉が退職し,湯川寛吉が後任となる。12月には別子銅山に「未曽有の大争議296)」が起きた。鈴木馬左也はすでに大正11年に他界していたが,住友吉左衛門友純が昭和元年3月に他界した。その直前(2月),中田錦吉も他界している。「元老297)」の伊庭貞剛も10月に他界した。さらに大正13年10月に制定された停年規定が新陳代謝を促し,多くの古参幹部が消えていったのである。
 昭和2年7月,別子鉱業所は住友別子鉱山株式会社となる。取締役会長は湯川寛吉で,小倉正恒はその取締役に就いた。小倉がこの年の5月11日に留岡から家庭学校理事に就任することを要請され,これを「快諾298)」したのも,以上のような背景とけっして無関係ではあるまい。とくに,大正末に生じた争議では,「労働総同盟が力を入れてこれを指導したので問題は大きくなり,ついに交渉は大阪に移り,合資会社から重役の私宅まで面会を求めて押しかけるようになった299)」といわれる。昭和元年1月8日の留岡の日記には,「此朝大阪小倉正恒氏の令夫人より正月元旦乱暴者来り家の内到る処破壊す,夫人と子供さん神詣の為ふ在,主人在宅。難を避ける。電報を以て病気直り次第訪問の由電報す300)」とある。この「乱暴者」が大正末に生じた争議となんらかの関係があったことはまちがいなかろう。大正14年の年末には「争議団員数人が,手に手に得物をたずさえて六甲山麓住吉の住友本邸に押し入った301)」こともあったからである。
 とにかく小倉正恒は以上のような事件を体験し,ますます「逸脱と統制」という問題を重視するにいたったのである。小倉の家庭学校理事就任はたんなる名誉職として引受けられたものではなかった。従来の財閥史研究では,財閥経営者の生活史[ライフ・ヒストリー]を内在的に分析することを怠たってきたために,財閥経営者の社会的役割(たとえば小倉の場合は家庭学校理事という社会的役割)を真面目にとりあげることが少なかった。このため,たとえば財閥の経営理念や経営思想が非常にかたよった視座の下で分析されざるをえなかった。このような反企業者史的な研究態度は,日本の財閥経営者のように,「財閥を国家の発展に寄与せしめたい302)」(安岡重明)という意識を十分にもっていたと思われる経営者の生活史や思想を,内在的に把握しえず,たんなる観念的・イデオロギー的批判を陳述することに甘んじた論稿を多数生み出したにすぎなかった。
 本稿は,「財閥を国家の発展に寄与せしめたい」という意識を十分にもっていた住友人,とくに小倉正恒と,キリスト教社会事業家としても報徳運動を中心とした地方改良家(あるいは社会改良家)としても卓越した業績をあげた留岡幸助との連帯性の形成過程を詳細に分析することによって,財閥経営者がいかに「パーソナルな関係303)」を自己の国益志向的な企業者活動304)(とくに労務管理といわれるもの)の展開に活用するにいたるかという,日本財閥史における普遍的な問題に取り組んだものである。この問題の解明が本稿において成功しているかどうかは読者の問題意識如何によりずいぶんと評価を異にするであろうが,すくなくとも本稿が,「財閥形成の文化的・社会的背景305)」のみならず,「財閥展開の文化的・社会的背景」をも視野に入れた,すぐれて企業者史的な財閥史の研究の発展を一つの可能性として一貫して保持している著者により作成されたことだけは理解いただけることと思う。
 なお本稿では小倉正恒と留岡幸助の連帯性の形成過程のみが分析された。小倉が住友の総理事に就任するのは,家庭学校理事を引受けてから3年後の昭和5年のことである。この昭和5年以降こそ,小倉と留岡の連帯性の展開過程がみられるはずである。この過程の分析は別稿にゆずることにする。


 1)留岡幸助編『二宮翁と諸家』,東京巣鴨家庭学校人道社,明治39年。これは『人道』8 号「報徳記念号」に掲載された諸論稿により再編集されているが,内村の論稿は何故か『人 道』には掲載されておらず,新たに加えられたということになる。なお,『人道』8号は2万 部印刷されたが「月余にして殆んど其全部を売り尽くし」たといわれる。前掲『留岡幸助著 作集』第2巻235,634ページ。
 2)井上哲次郎と内村鑑三が同じ書物に投稿していることに注目したい。明治25年からの「 宗教と教育の衝突」をめぐる論争では,井上と内村は完全に敵対した。たとえば森岡清美『 日本の近代社会とキリスト教』(昭和45年)230ページ以下。
 3)前掲『江原萬里全集』第3巻,635ページ。江原は明治22年に岡山県津山に生れた。十四 会のメンバー平沼騏一郎や阪谷芳郎と同郷であることに注意。
 4)「柏会」には塚本虎二,黒木三次,三谷隆正,高木八尺,三谷隆信,金沢常雄らも参加 している。同書,同ページ。
 5)前掲『住友春翠』524ページ。
 6)黒崎によると,新渡戸は「鈴木氏は一富豪の番頭ではなく,全く天下国家の為に商売を して居られる人で,実に珍らしい人である」と述べたという。黒崎幸吉「思い出」611ペー ジ(前掲『鈴木馬左也』611-13ページに所収)。
 7)安岡重明,前掲論文「日本財閥の歴史的位置」31ページ。
 8)新渡戸は鈴木を「稀に見る国士である」とも述べたという。黒崎幸吉,前掲論文,612 ページ。
 9)同,613ページ。
 10)同,612ページ。
 11)前掲『江原萬里全集』94,98ページ。
 12)黒崎幸吉,前掲論文,613ページ。「実業というものを,如何にして国家の為め人類の 為めに経営して行くべきかという様な事」について話したという。鈴木の念頭には,「経営 ナショナリズム」(森川英正)の如きものが,黒崎によると,「一時の暴利を追わず,国家 的見地に立って,住友という大財閥として負うべき責任を果すこと」があった。森川英正『 日本型経営の源流』(昭和48年)を参照。
 13)前掲『江原萬里全集』第1巻,94ページ。
 14)安岡重明,前掲論文,31ページ。
 15)前掲『江原萬里全集』第1巻,98ページ。
 16)「修養意識の過剰性」は小倉正恒にも共通している。拙稿「小倉正恒」217ページ(安 岡重明編『財閥史研究』昭和54年,201-26ページ)を参照。
 17)鈴木が「東洋と西洋の修行の統合」を考えていたとまでも言わないが,少なくともある 程度までは「キリスト教と禅の修行体験」の共通性を認識していたのではないか。この点に ついては,門脇佳吉編『修業と人間形成』(創元社,昭和53年)とくに,「Ⅲまとめ-東洋 と西洋の修行の統合」(228ページ以下)を参照。
 18)住友寛一は明治29年5月23日に生れた。前掲『住友春翠』297ページ。
 19)住友春翠が黒崎に対して次の「返翰」を送っている。同書,525ページ。
 郵書披見,時下愈御清康之事大賀候。扨寛一爾後之動静御詳報被下,先々少しづつにても宣 布方に向居候事喜居候。何分御盡力之程切望候。小生明後六日より四五日間伊予行,帰平早 々出来致度存居候間,多分十二三日頃には御目に掛り得られる事と存候。委細は其節承り度存居候。
 草々不備
 十一月四日
 住友春翠の黒崎にたいする信頼をうかがいうる資料といえよう。
 20)同書,524-44ページ。547,568,647,668ページ。たとえば,黒崎は,大正4年5月14 日,住友寛一と米国へ渡っている。大正5年8月8日,住友寛一と別子へ出かけている。
 21)江原は住友に満6年,黒崎は約10年いた。前掲『江原萬里全集』第1巻「はしがき」,黒 崎幸吉『奴隷の生涯』(1粒社,昭和6年)3ページ。
 22)江原は住友の『井華』に平野国臣と尊壌英断録」を投稿している(『江原萬里全集』第 1巻,563ページ以下)。また昭和6年に「皇室中心主義の特徴」,「我が国体の危機」など の論稿を発表した(同書,563-70ページ)。江原の「国体尊重」の意識はかなり高かった と考えられる。他方,黒崎は前掲書において住友退社の理由を「黙示」(9ページ)による としている。しかし,黒崎がいうように「発狂」を黒崎の住友退社の理由にあげる人がいた ということが事実ならば,これはまさに「逸脱の社会学」に関わる問題である。黒崎,前掲 書,5-7ページ。たとえば黒崎の住友退社の意味は,黒崎が厳格なプロテスタントであった こと(世俗内禁欲主義にもとづくビジネスヘの没入という生活様式を重視していたはずであ ること)を考えるならば,十分に分析される必要があろう。
 23)柴垣については,『鈴木馬左也』697-700ページを参照。
 24)同書,316ページより引用。
 25)同書,同ページ。
 26)前掲『江原萬里全集』第3巻,638ページ。
 27)田中良雄『私の人生観』(四季社,昭和29年)282ページ。
 28)田中良雄は四高時代西田幾多郎に学んだ。同書,19-20ページ,192ページ。田中と西 田の交流がその後も維持されたことは西田の日記から確認しうる。『西田幾多郎全集』第17 巻(岩波書店,昭和41年)。たとえば,459ページ(昭和5年2月11日),483ページ(同7年 2月29日),559ページ(同12年6月20日),同ページ(同年7月3日),643ページ(同16年9 月12日)など参照。
 29)さしあたり武藤一雄「西田・田辺哲学とキリスト教」(下村寅太郎編『西田幾多郎-同 時代の記録-』岩波書店,昭和46年,53-59ページ)を参照。
 30)前掲拙稿「住友の経営理念」(『季刊日本思想史』第14号所収)62-63ページ。
 31)前掲『同志社百年史』(通史編1)497ページ以下。キリスト者として最初に北海道の教 誨師となった原胤昭らと留岡が同情会を組織し,囚人のための雑誌『同情』を刊行した。
 32)小倉のロンドン遊学時代からの知人でもある大塚素の満鉄入社は明治42年である。大塚 は『斯民』(第14編第4号,大正8年4月)に投稿している。大塚については同書,483,498 ,533,598ページなどを参照。また大塚の死去(大正9年9月4日)にさいし,留岡は『人道 』183号(大正9年9月)に「彼れ死して物言ふ」という追悼文を発表している(『留岡幸助著作集』第4巻,26-32ページに所収)。大塚と留岡や井上友一との関係を十分に知ることが できる資料である。
 33)留岡は明治33年に,牧野は大正8年に,内務省嘱託となった。
 34)『斯民』第15編第8,第9号,第16編第11号。留岡から大きな影響を受けたといわれる生 江孝之(のち日本女子大学教授)も,明治36年に米国より帰国後内務省嘱託となり,『斯民 』にさかんに投稿している。たとえば第15編第1,第3,第4,第7号など。投稿回数は50回を こえる(「『斯民』目次総覧」における「筆者名索引」を利用した)。
 35)「『斯民』目次総覧」によると,鈴木は第15編第4号に,湯川は同第5号に,早川は同第 4,第7号,第16編第2号に,投稿している。
 36)同書によると,留岡は第15編第4,第6,第7,第9号,第16編第9号に投稿している。
 37)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,219ページ。「前任者たる大塚素君は不幸にして中途に 廓れた」とある(同上,220ページ)。
 38)早川が北条と留岡双方にとり,いかに重要な存在であったかは,早川の死去にさいして ,北条も留岡も多大の時間とエネルギーをかけ,事後処理に没頭していることからも十分に 知りうる。『廓堂片影』750ページ以下,とくに10月13,15,16,20,22,24日,11月7日の 記述を参照。さらに『留岡幸助日記』第4巻,553ページ以下,とくに10月14,18,19,20, 21,22日の記述を参照。もちろん『斯民』は,井上友一の場合と同じく,追悼号を出してい る。第17編第12号(大正11年12月)がそれだが,北条,留岡のみならず,河村善益(小倉の 義父),阪谷 芳郎,内田康哉,床次竹二郎,米山梅吉,池田成彬,岡田良平,一木喜徳郎 ,田中義一,矢作栄蔵,高木亥三郎らの追悼文を掲載している。「『斯民』目次総覧」205 -06ページ。
 39)留岡の早川に関する論稿としては,「海の如き包容力」(『斯民』第17編第12号),「 早川社長終焉の地より」(同上,第18編第1号),「早川千吉郎氏の死を悼む」(『人道』 207号)などがある。とくに第3の論稿(『留岡幸助著作集』第4巻,247-52ページに所収) は,留岡と早川が報徳運動や家庭学校を通じていかに連帯したかを詳述している。
 40)大正11年5月22日の江原素六の葬儀にも,北条と留岡双方が出ている。『廓堂片影』742 ページ,『留岡幸助日記』第4巻,519ページ。留岡と江原の関係については,『留岡幸助著 作集』第4巻,221-25ページ。江原は貴族院議員,高等教育会議議員,麻布中学校長,日本 基督教育青年会理事長などをつとめるかたわら,16年間家庭学校理事として留岡を支援した。
 41)北条は6月5日に鈴木馬左也とその娘に会い,6日に中央報徳会に出席し,7日に鈴木馬左 也・秋月左都夫兄弟に会っている(『廓堂片影』743ページ)。留岡は6月4日江原素六翁追 悼会に出席,5日中央報徳会に出席,11日井上知事追悼会に出席している(『留岡幸助日記 』第4巻,524ページ)。
 42)同書526ページ。「営利会社デアルガ,公益ニ資セラルヽコトガ営利ノ上ニモ間接ニ利 益ヲ及ボス。社会的施設ハ利益不利益ト申スコトモアルガ,人心緩和策トシテ尤モ大切ナリ ,人心緩和ハ従ツテ圧轢ヲ減少スルコトニヨリテ,スツライキ抔ヲモ減少スルコトヽナル」 と記されている。早川と留岡の「満鉄社会事業」の理念の一端をうかがうことができよう。 なお,早川の盟友鈴木馬左也が明治39年に南満州鉄道株式会社創立委員とな っていることにも注目しておきたい。同年報徳会(のち中央報徳会)が創立され,鈴木が監事を引受けて いるからである。
 43)ここでは紙面の都合上十分にとりあげることができなかった留岡幸助と国沢新兵衛の緊 密な関係にも注目せねばなるまい。国沢新兵衛(元治元年生れ)は東京帝国大学工科大学土 木科を卒業後,九州鉄道株式会社を経て,明治39年南満州鉄道株式会社設立と同時にその理 事(のち副総裁)に就任している。国沢は大正12年日本通運(株)初代社長に就任したり鉄 道協会会長をつとめたりした人物として著名であるが,留岡幸助の家庭学校の発展に大きく 貢献したことも知っておかねばなるまい。(国沢の詳細については,『日本財界人物列伝』 第2巻,青潮出版(株),昭和39年,234-37ページを参照)。なお,留岡は大正7年10月と 大正13年3月に「満州視察」に出かけている(『留岡幸助日記』第4巻,258ページ以下。同 書第5巻,82ページ以下)。大正7年当時は未だ大塚素が健在で,満鉄社会部で活躍していた 。同年10月17日の日記には,「大塚君と横山理事(満鉄),国沢理事長,政野耕蔵(理事) の諸氏を問ふ」とある(第4巻,259ページ)。その後留岡は大塚素や国沢新兵衛と何度も面 談している。留岡がすでにこの時点で満鉄の社会事業にコミットしていたことは,10月21日 の日記に「中村雄次郎関東都督を其官邸に訪ひ,満鉄の社会事業井に宗教問題につき談じ……」とあること,11月22日の日記に「満鉄社会事業部連数氏と大塚君を中心として協議会を 開らき……」,翌23日の日記に「満鉄本社理事長,理事諸君大和ホテル楼上ニ集マラレ,予 カ今回沿線事業ヲ見タルコトニツキ報告会あり」とあることなどから知りうる(同上,260 ,286ページ)。なお,「満鉄の社会部」という論稿(291-93ページ)も参照。なお,国沢は当 時,早川千吉郎,井上公二,大倉粂馬,江原素六らと家庭学校の理事をしていた。(古河の 井上公二は大正6年に総理事に就任している)(136ページ)。
 44)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,219-21ページに所収。「時恰も早川社長は新課を創設 して君を主脳者たらしめたのであるから,君の責任もまた尋常一様のことではなからう」と ある(同上,220ページ)。
 なお,大正13年の満州行では留岡は牧野虎次の官舎を常宿として牧野とともに講演してまわ っている。演題は,「労働観念の改造」,「道徳と経済」,「社会上ヨリ観タル農業」, 「労働神聖」などについてであった。当時すでに大塚素は他界しており,3月23日には牧野 らと大塚の墓へ参っている。『留岡幸助日記』第5巻,75ページ以下。
 45)前掲『留岡幸助日記』第4巻,510ページ。
 46)同書517ページ(「蘇峰先生送別辞」)。留岡と牧野は4月15,17,19,21,24,25,28 日と頻繁に会っている。この内24日が内務省での送別会であった。
 47)同書,543-46ページ。このときの留岡と徳富との旅行については,「徳富先生を案内 して」(『人道』206号,大正11年10月),(『留岡幸助著作集』第4巻,239-43ページに 所収)を参照。昭和2年12月に徳富が家庭学校基金募集趣旨書を依頼していることからも, 留岡と徳富の連帯性がうかがえる。『留岡幸助日記』第5巻,460-61ページ(12月6日から 12月8日までの記述)を参照。
 48)牧野虎次「小倉正恒先生を追想して」(『小倉正恒』919-20ページ)。ここで牧野は 第2時大戦中に小倉の指示により住友銀行から「莫大な援助」を受けたこと,デントン教授 のインターンを解き,自由人の行動を許すうえで小倉が尽力したことなどはすべて,当時の 状況では非同調的な行動であったことを強調している。なお,牧野は,『社会事業研究』( 第16巻,第3号,昭和3年3月)に「経済的自由の主張」なる論稿を発表している(54-63ペ ージ)。これは,小倉正恒が家庭学校理事に就任した(昭和2年6月)直後のものであるだけ に,牧野と小倉の関係(とくに思想上の関係)を考えるうえで注目すべきであろう。ここで 牧野は,「国家経営の事業が理想的であるとは,社会主義者の常套語であるが,事実は正に その反対である。孰れの時代や孰れの社会にありても,官業は民業に比して,従業員が多く ,経費が嵩み,能率が挙らぬのは明白なる事実である」と述べ,積極的に経済的自由主義を 主張している(同上,58ページ)。小倉が総理事に就任するのは昭和5年8月のことだが,す くなくともこの時点までは,小倉も財閥経営者の一人として,「自由企業システム」として 財閥が存続しえなくなることを恐れていた(森川英正『日本財閥史』213ページ)のではな いか。なお大島久太郎「追憶(ご訓話を中心に)」(『小倉正恒』760-64ページ)を参照。
 49)『社会事業研究』第13巻,第6号,36ページ以下の「大阪社会事業協会会報」を参照。
 50)牧野が満州より帰国,留岡を訪問したのは3月14日である。その後,留岡と牧野は,19 日にも会談している。『留岡幸助日記』第5巻,190-91ページ。14日には大久保利武(もと 大阪府知事)と田子一民(もと内務省社会局長及び社会局第2部長,中央社会事業協会評議 員)を加えた4人で「懇談」している。
 51)このときの同行者は大正6年に結成された「雨潤会」のメンバー(協議員)とかなり重 なっている。陸奥廣吉,古河虎之助,小田川全之,秋月左都夫,荒川已治らがそうである。 『古河虎之助君伝』520ページ。『留岡幸助日記』第5巻,191-92ページ。
 52)同書192ページ。
 53)同書197ページ。小倉宅に宿泊。
 54)小河滋次郎は大正14年4月2日に死去。全大阪社会事業界の謝恩葬が4月7日に執行された 。ま
 た,第7回全国社会事業大会総会(5月13日)では留岡が追悼演説を行なった。また『人道』 236号(大正14年6月)の「社会改良家としての小河滋次郎君」には「井上明府と小河博」の 一節があり,留岡が小河をいかに高く評価していたかを知ることができる(『留岡幸助著作 集』第4巻,380-88ページ,とくに387ページ)。
 55)『社会事業研究』(第13巻,第5号)39-95ページ。同じく小倉宅に宿泊。
 56)前掲『留岡幸助日記』第5巻,197ページ。小倉宅に宿泊。
 57)同書198ページ。小倉宅に宿泊
 58)『社会事業研究』第13巻第5号,25ページ。留岡は渋沢栄一(中央社会事業協会長)の 弔辞を代読した。当時,渋沢は修養団(団長平沼騏一郎)の後援会委員(のち会長),中田 錦吉と小倉正恒も委員。『蓮沼門三全集』第12巻,320-21ページ。
 59)牧野は12日に満州へ出立予定。なおこの両日も留岡は小倉宅に宿泊した。『留岡幸助日 記』第5巻,198ページ。
 60)同書同ページ。小倉宅に宿泊。
 61)同書159ページ。小倉宅に宿泊。
 62)同書同ページ。小倉宅に宿泊。
 63)同書。この日も小倉宅に宿泊した。
 64)山県吾一は小倉と留岡が崇敬した坪野平太郎の弟子。『留岡幸助著作集』第4巻,395 ページ,676ページを参照。
 65)大阪府知事大久保利武と林市蔵から「先生」を以って遇され,知事室の隣に部屋を与え られた小河の場合,大久保時代の俸給が2千円,林時代のそれが5千円であった。吉田久一「 『救済事業』解説」12ページを参照。なお,牧野虎次「大久保侯と小河博士」(『厚生事業 研究』第31巻第1号,昭和18年1月,30-31ページ),大久保利武「感懐深き大阪の社会事業 に寄す」(同上,32-33ページ),生江孝之「『救済研究』時代と指導者達」(同上25-29 ページ)などの諸論稿も参照。
 66)前掲拙稿「報徳会と財閥経営者」9-10ページ。修養団評議員をもつとめ,「平沼,二 木両団長,小倉後援会長らと親交深く……」とある(『蓮沼門三全集』第5巻,348ページ) 。小倉と中川の関係は,井上友一の仲介により成立した(『小倉正恒』866ページ)。
 67)前掲『留岡幸助日記』第5巻,200ページ。この日5時「小倉正恒君宅に帰り,同氏と悃 談夕食シテ天王寺駅ニ至ル。小倉氏見送ラル」とある。
 68)前掲『床次竹二郎伝』巻末年譜11ページ。留岡は4月12日にも床次を訪問し,床次の家 族と夕食している。留岡と床次の緊密な関係を知ることができる。『留岡幸助日記』第5巻, 200ページ。
 69)同書201ページ。
 70)前掲『留岡幸助日記』第5巻,300ページ。なお留岡はこの前々日(5月23日)垂水の小 倉の別荘に小倉と1泊,その翌日は住友別荘を訪問後,牧野虎次宅に宿泊した。同書299-300 ページ。
 71)前掲『小倉正恒』237ページ。なお川田順『住友回想記』28ページ以下。89ページ以下 も参照。
 72)伊沢多喜男と鈴木馬左也の関係については,河井昇三郎「伊沢多喜男と別子銅山の煙害 問題」(『追想録河井昇三郎』,昭和50年,454-71ページ)を参照。
 73)伊藤隆,前掲書,82ページ。
 74)河井昇三郎は伊沢多喜男長女高と大正8年に結婚。実兄河井弥八(のち参議院議長)が 大日本報徳社のリーダーとなっていることに注目したい。河井弥八は,岡田左平次,岡田良 一郎,岡田良平,一木喜徳郎らの流れをくむ大日本報徳社(大正13年創立)に大きくコミッ トした。中央報徳会と大日本報徳社が緊密な関係にあったことはいうまでもない。
 75)鈴木は明治42年に,実に,14年ぶりに欧米から帰国している。たとえば,ビアトリス・ レンと明治44年に結婚,E・フロムとともに精神分析と禅の親和性に注目など,文字通りマージナル ・マンとしての生活を送った。マージナル・マンと革新性の関係については,前掲拙著『企 業者史学序説』第4章を参照。
 76)鈴木大拙『鈴木大拙の人と学問』(春秋社,1975年)(『鈴木大拙禅選集』別巻)183 ページ。鈴木大拙の北条時敬,早川千吉郎,秋月左都夫,鈴木馬左也,川村善益,鳥尾得庵 らとの交流については,同書169-72ページを参照。鈴木の一生を貫く心友西田多 郎も明治24年に上京している。西田も北条の愛弟子であった。前掲『廓堂片影』(北条の日 記)は西田が中心になって編集した。
 77)『堀啓次郎翁追懐録』(昭和24年)1-2ページ。
 78)明治16年当時の久徴館の館長は早川千吉郎であった。この年,早川千吉郎,一木喜徳郎 ,阪谷芳郎,鈴木馬左也らが東京大学に入学している。久徴館は明治29年に廃絶したが,の ちに明倫館として復活した。もちろん小倉正恒も先輩の世話になった。前掲『小倉正恒』 66-67ページ。
 79)北条の日記『廓堂片影』には,久徴館の母体である石川県育英社に関する記述が,少な くとも大正14年まで見出される。同書773ページ。
 80)前掲『留岡幸助日記』第4巻,54ページ。
 81)同書57ページ。
 82)当時の家庭学校理事には,早川千吉郎,原熙,国沢新兵衛,木下淑夫,井上公二,江原 素六らがいた。古河財閥の井上公二は大正6年総理事となる人物だが,留岡と同郷(岡山県 高梁)であった。前掲『古河虎之助君伝』419-21ページ。
 83)前掲『廓堂片影』548ページ。
 84)前掲『留岡幸助著作集』第3巻,597,227ページ。
 85)同書598ページ。
 86)とくに古河人の井上公二,古河虎之助,昆田文二郎らの参加,大倉粂馬(大倉喜八郎女 婿),大久保利通の三男で牧野伸顕,秋月左都夫と関係の深い大久保利武(のち大阪府知事 ),北条時敬の女婿[・・]丸山鶴吉とその盟友後藤文夫らの参加に注目したい。
 87)家庭学校の明治34年度の「寄付金報告」によると,たとえば1月の寄付金総額は50円50 銭だが,このうち古河鉱業事務所が7円,井上公二が1円,古河潤吉が3円,昆田文二郎が1円 ,木村長七が1円,それぞれ負担している。井上,昆田,木村の3名はともに古河財閥の経営 者として,古河虎之助の「補翼」として働いた。前掲『古河虎之助君伝』405ページ以下。 森川英正『日本財閥史』(教育社,1978年)95-98ページ。140-42ページ。なお詳細につ いては,『留岡幸助著作集』第2巻,616-37ページを参照。
 88)前掲拙稿「鷲尾勘解治と自疆舎精神」142ページ以下。同「住友の経営理念」(『季刊 日本思想史』第14号)59ページ以下。以上の2編は,平山和彦『青年集団史研究序説』(下 巻,新泉社,1978年)から多大の示唆と教示を得たことを明記しておく。
 89)20名の常務員中19名が商議員も兼ねていた。平山和彦,前掲書,51ページ。
 90)同年(大正5年)2月27日「日暮れて井上友一氏ヲ訪ヒ,富恵子の挙式日を三月二十五日 と定メ,報徳会その他ノ用談ヲナシ,その夜同氏宅ニ止泊ス」とある。前掲『留岡幸助日 記』第4巻,81ページ。さらに86ページ。
 91)新渡戸と留岡の関係の成立については,前掲『留岡幸助著作集』第3巻,300ページを参 照。留岡の空知集知監時代と新渡戸の札幌農学校時代が重なった。
 92)前掲『留岡幸助日記』第4巻,81ページ。伊達と早川,井上,中川,一木,田沢,後藤 らとの関係については,平山和彦,前掲書42-46ページを参照。伊達は大正4年8月まで『国 民新聞』の記者をしていた。「青年部結成後は常務委員(のち理事)として機関誌『帝国青 年』の主幹に就任した人物」。
 93)前掲『留岡幸助日記』第4巻,532ページ,546ページ以下。『留岡幸助著作集』第4巻, 239ページ以下。
 94)前掲『留岡幸助日記』第4巻,86ページ。
 95)同書88ページ。
 96)新居浜市編『鷲尾勘解治翁』(昭和29年)の「序」を参照。後藤は昭和5年に日本青年 館,大日本連合青年団の各理事長に就任する。修養団運動にも尽力した。前掲『蓮沼門三全 集』第5巻,260ページ。
 97)同書,第6巻,174ページ,194ページ。第12巻,126-30ページ。小尾は「修養団天募講 習の元祖,本団基礎確立の盟友」といわれる。同書126ページ。『留岡幸助日記』第4巻,96 ページ。
 98)前掲『小倉正恒』229ページ以下。947ページ以下。
 99)伊藤隆,前掲書,199-201ページ。
 100)前掲『廓堂片影』552ページ。
 101)平山和彦,前掲書,42-52ページ。
 102)前掲『蓮沼門三全集』第6巻,175ページ,193ページ。
 103)前掲『留岡幸助日記』第4巻,98ページ。
 104)同書同ページ。
 105)前掲『廓堂片影』558ページ。
 106)前掲『留岡幸助日記』第4巻,118ページ。
 107)前掲『住友春翠』540-45ページ,673-74,708-23ページ。『小倉正恒』314,719- 20ページ。小倉正恒翁追悼号として出た修養団機関誌『向上』(昭和37年2月)において, 二木(修養団団長)は,修養団顧問,同後援会会長,東京青年文化館館長として尽力した小 倉とのきわめて緊密な関係を吐露している。同書720ページ。
 108)留岡は同年(大正5年)7月12日にも二木を訪問している。二木がすでに北条時敬,織 田小覚,秋月左都夫,土岐〓,平沼騏一郎,井上友一,鈴木馬左也らの準拠集団の正[・] 成員とみとめられていたことは,北条の日記(大正3年12月15・16日)から明らかである。 前掲『廓堂片影』533ページ。
 109)肥後八次が逓信省から招かれて住友入りしたのは大正11年である。肥後は明治8年に鹿 児島に生れ,東京帝国大学独法科卒業後内務省入りした。明治32年のことである。この翌年 留岡も内務省地方局嘱託となっている。肥後はその後逓信省参事官,九州逓信局長,郵便振 替貯金局長[・・・・・・・・],電気局長を経て,株式会社住友電線製造所の常務取締役 に就任した。『社史住友電気工業株式会社』(昭和36年)452ページ。
 110)前掲『留岡幸助日記』第4巻,119ページ。
 111)前掲『鈴木馬左也』727-28ページ。
 112)前掲『廓堂片影』561ページ。
 113)前掲『留岡幸助日記』第4巻,122ページ。
 114)同書122-27ページ。
 115)前掲『廓堂片影』564ページ。
 116)同書566-73ページ。
 117)大正6年8月,北条は学習院長に就任する。
 118)前掲『留岡幸助日記』第4巻,165ページ。
 119)前掲『蓮沼門三全集』第12巻,285ページ。
 120)同第5巻,217ページ。
 121)同第12巻,348ページ。前掲『小倉正恒』297-99ページ。
 122)森川英正,前掲『日本型経営の展開』232-33ページ。
 123)「人脈」という概念には,すくなくとも「他者との出会い」というすぐれて社会学的 な意味あいは含まれてはいない。私のいう「準拠集団」 (reference group)という概念にはそういう多分に現象学的な意味あいをも内包したすぐ れて歴史社会学的な分析概念なのである。また「人脈」という概念には ,準拠集団が果す重要な機能が含まれていない。この点については,前掲拙著『企業者史学 序説』136-48ページを参照。特に現象学的社会学者バーガー=ルックマンの視座は重要で ある。P.L.Berger and T.Luckmann,The Social Construction of Reality-A Treatise in  the Sociology of Knowledge,New York,1966。
 124)森川英正はこの点について次のように述べている。同書236ページより引用。
 「産業開拓者が力と頼んだ他者というのはまことに多種多様である。中には,開拓者の同 窓,同郷,同僚だった者もいるし,彼らもしくは開拓者の一族縁者の線を通して初めて知り 合った者もいる。野口遵の飲み友達や蟹江一太郎の軍隊時代の上官のように,まったくの宿 命的出会いとしかいいようのない者もいる。どれかに特定して,わが国産業開拓者を特徴づ けることは困難である。
 しかし,とにかく,産業開拓者が,出会いによって形作られた他者とのパーソナルな関係 を,目標達成のために実に賢明に活用したという事実だけは間違いないところである。」
 なお,「出会い」説は,個人の逸脱性の形成過程の分析の基本視角として,現代の社会学に おいて重視されている(拙著『企業者史学序説』4章で明らかにしたように個人の革新性の 形成過程と個人の逸脱性の形成過程には,多分に共通要素が観察されるので,同一の分析方 法を用いることはけっして不可能なことではない)。なお「出会い」とは大村と宝月による と「他の誰にもできなかった仕方で自分を評価した人物との遭遇」のことである。大村英昭 ・宝月誠『逸脱の社会学』(新曜社,昭和54年)41-43ページ。なお,E・ゴッフマン著, 石黒毅訳『スティグマの社会学』(せりか書房,昭和45年)110-20ページ(「生活誌上 の他者」),A・W・グルードナー著,栗原彬他訳『社会学の再生を求めて(3)』(新曜 社,昭和50年)49-76ページ,P・L・バーガー著,水野節夫・村山研一訳『社会学への招 待』(思索社,昭和54年),P・L・バーガー=B・バーガー著,安江孝司他訳『バーガー 社会学』(学習研究社,昭和54年),P・L・バーガー=T・ルックマン著,山口節郎訳『日 常世界の構成』(新曜社,昭和52年)などを参照。
 125)前掲拙稿「住友の経営理念」(『季刊日本思想史』第14号)56ページ。もちろん,歴 史的には,鈴木の準拠集団が機能する場[・]を,伊庭貞剛や河上謹一と杉浦重剛との強力 な思想的影響力が用意していた。同上,52-55ページ。
 126)伊藤隆,前掲書,391-94ページ。とくに392ページ。伊藤隆は「いわゆる民間右翼を 考える場合,まず第1次世界大戦後の新しい状況に対応せんとする政治的支配上層の"復古" 主義的な部分の運動に注目しなければならない」として,まずこの「決議」をとりあげたの である。同上,391ページ(なお伊藤はこの臨時教育会議の会長は岡田良平,副会長は一木 喜徳郎であったとしている)。
 127)河上肇は河上謹一(住友の近代化に大きく貢献した人物)を叔父としてもつ。森川英 正『日本型経営の源流』(東洋経済新報社,昭和48年)68ページ。
 128)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,683ページ。
 129)H.S.Becker,Outsiders,Studies in the Sociology of Deviance,1963,pp.147- 64。村上直之訳(新泉社,1978年)では「道徳事業家」となっている(『アウトサイダー ズ』214ページ)。
 130)Ibid,p.149.
 131)前掲『留岡幸助日記』第3巻,542ページ。
 132)同書第4巻,617ページ。
 133)成城学園・沢柳政太郎全集刊行会編『沢柳政太郎全集』第2巻「修養と教育」,355ペ ージ。沢柳は文部次官,東北帝大初代総長,京都帝大総長などを歴任したが,ここでは北条 時敬が大正2年沢柳の後任として東北帝大総長に就任していることに注目しておきたい。明 治40年3月21日の北条の日記には,北条が帝国教育会における中央報徳会に出席し,沢柳の 「修養団」を聞いたあと,岡田良平,沢柳政太郎,井上友一,白石正邦らと「共に歩行談話 シツヽ帰ル」とある。沢柳が帝国教育会長に就任したのは大正3年だが,同年8月5日,北条 は沢柳を訪問している。『廓堂片影』407,529ページ。
 134)同書519ページ(中内敏夫・上野浩道「解説」501-25ページ)。
 135)沢柳と留岡の緊密な関係は主として両者の中央報徳会へのコミットメントによる。沢 柳は中央報徳会の機関誌『斯民』に多くの論稿を発表している。たとえば第2編第5号(明治 40年8月)には,牧野伸顕,清水澄,留岡幸助,井上友一,北条時敬,中川望らとともに投 稿した。また,第3編第14号(明治42年3月)には,北条時敬,留岡幸助,二木謙三らととも に投稿した。投稿は17編にも及ぶ。前掲『「斯民」目次総覧』の「著者名索引」22ページ。 沢柳は,大正5年に早川千吉郎や留岡幸助らが創設した中央報徳会青年部にも,秋月左都 夫,北条時敬,田沢義鋪,矢作栄蔵,二木謙三,手島精一,白石正邦,杉浦重剛らとともに 商議員として参加している。平山和彦,前掲書,51ページ。
 136)前掲『留岡幸助日記』第4巻,400ページ。
 137)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,16ページ。
 138)同書432ページ。
 139)前掲『留岡幸助日記』第5巻,297ページ。
 140)同書301ページ。
 141)前掲『廓堂片影』895-98ページ。この「廓堂先生年譜後附」には北条の禁酒主義の詳細 な記述がある。また,同書20ページには,北条が第四高等学校長をつとめていた明治31年9 月の「節酒会発表会式演説條目」があり,北条が「米国英国ニ於ケル『テムペランス,ソサ イチース』発達ノ状況,『セオバルド,ファザー,マシュー』ノ慈愛及熱心ト其事業」, 「社会改良ノ目的」「克己自重ノ鍛錬忠告善導ノ習慣中に生活スルコト」などを内容とした 演説を行なったことが知られる。また,広島高等師範学校長をつとめていた明治36年4月の 「入学式告諭演説條目」(同書42-43ページ)によると,北条は入学生に対し,「禁酒ヲ守 ルベキ事」として,「本校ハ飲酒の習慣ハ学生ノ生活ト両立スベカラザルモノト認ムルニ由 リ本校生徒ハ飲酒スルヲ禁ズ内外表裏ノ区別ナク絶対的ニ飲酒セザル様此禁令ヲ守ルヲ要ス」 という主旨の演説を行ったことが知られる。その熱意にはおどろくべきものがある。
 142)前掲『沢柳政太郎全集』第2巻,518ページ。
 143)伊藤隆,前掲書,391ページ以下。
 144)安岡重明,前掲論文,31ページ。
 145)前掲『鈴木馬左也』414-20ページ。
 146)同書416ページ。
 147)同書419ページ。
 148)前掲拙稿「小倉正恒-ある財閥経営者の精神的風土-」217ページ以下,とくに注84を 参照。
 149)前掲『小倉正恒』209ページ。小倉と同じく金沢出で東京帝国大学を小倉と同時に卒業 し,のちに住友入りした松本順吉が,中央報徳会の創立時,文部省書記官として『斯民』に 大きくコミットしたことはすでに述べておいた。『斯民』第1編,1,2,3,4,10,11,12 の各号を参照。
 150)安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木書店,昭和49年)とくに第1編。
 151)前掲『留岡幸助日記』第4巻,337ページ。

 152)安岡重明,前掲論文,31ページ以下。
 153)安丸良夫,前掲書,第1編第2章を参照。
 154)北条はその前々日(3日)に中央報徳会にも出席している。前掲『廓堂片影』634ペー ジ。前掲『留岡幸助日記』第4巻,239ページ。
 155)平山和彦,前掲書,66ページ。 
 156)同書67ページより引用した。留岡はこのとき青年団中央部理事をつとめていた。
 157)前掲『留岡幸助日記』第4巻,240-41ページ。5月11日から17日までの間。
 158)同書242ページ。大久保利武は大正元年から6年まで大阪府知事をつとめていたが,こ の時代「積極的に社会救済の問題に心を注ぎ,救済研究会を開催し,感化救済事業の展開に 寄与するところが多大であった」という。前掲『留岡幸助著作集』第3巻600-01ページ。な お留岡の『人道』100号(大正2年8月)には「大阪府にては大久保知事就任以来,斯道の発 展と其向上に勗め,而して小河博士は其の方面の嘱託となりて,経営政策に任ずるあり。 (中略)住友其他の大阪紬商が慈善界に活動するありて,大阪の慈善会は面目新ならんとし… …」とある。同上,265ページ。
 159)前掲『留岡幸助日記』第4巻,243ページ。『小倉正恒』919ページ。同志社の大塚素は 牧野虎次(のち同志社総長)らと同じく,留岡の尽力により監獄教誨の仕事に入った「北海 道バンド」の一人である。なお大正4年に大塚素は同志社で講演している。同年に留岡幸 助,山室軍平,徳富猪一郎,新渡戸稲造らも講演していることに注目したい。なお,留岡は 大正6年に同志社評議員となっている。
 160)前掲『廓堂片影』636ページ。注目すべきは6月15日に「丸山鶴吉ノ為メニ晩餐会」が 開かれ,岡田,河村,織田,田所,三好,土岐らが出席していることである。
 161)同書637ページ。前掲『蓮沼門三全集』第12巻,292ページ。
 162)阪谷芳郎は,秋月左都夫,岡田良平,一木喜徳郎,林権助とともに,「学生時代ノ十 四会員」であった。前掲『廓堂片影』579ページ。阪谷は留岡や平沼と同じく岡山出身,渋 沢栄一の女婿。のち西園寺公望内閣の蔵相。阪谷の父阪谷素は,留岡の故郷の,「川下二里 の所に出られた人」であった。前掲『留岡幸助著作集』第3巻,170,594ページ。
 163)田尻については前掲『蓮沼門三全集』第12巻,26-29ページを参照。田尻はこの年 (大正7年)東京市長に就任した。また修養団は田尻の団長時代に,財団法人となった。同 上,第6巻,192ページ。
 164)前掲『小倉正恒』150,337ページ。西野喜与作『住友コンツェルン読本』(春秋社, 昭和12年)291-93ページ。
 165)前掲『廓堂片影』638ページ。
 166)前掲『留岡幸助日記』第4巻,253ページ。留岡はすくなくとも健康管理に関しては, 北条や住友春翠同様,二木を完全に信頼しており,たとえば昭和3年の脳溢血のさいにも 二木の診察を受けた。同上,第5巻,716ページ。
 167)同書第3巻,258ページ。とくに10月1日と2日の記述を参照。
 168)前掲『蓮沼門三全集』第12巻,34-37ページ。北条は同年(大正7年)12月22日,「床 次竹二郎主催の会合」に出席している。前掲『廓堂片影』648ページ。
 169)いわゆる「レファレントパースン」については,浜口恵俊編著『日本人にとってキャ リアとは・人脈のなかの履歴』(日本経済新聞社,昭和54年)を参照。また,同書のパース ペクティブにたいする興味深いコメントとして,森川英正,前掲書236-37ページ〔付記〕がある。
 170)前掲『井上明府遺稿』46ページ。この直前に(大正8年5月)留岡と井上は戦後民力涵 養協議会に出席している。『留岡幸助日記』第4巻,339-40ページ。
 171)前掲『留岡幸助著作集』第3巻,543-52ページ。
 172)ただし『「斯民」目次総覧』には,留岡の名前は出ていない。同書170-71ページ。
173)「叙」を早川が,「例言」を清水澄が,「故井上友一君断片断」を国府が書いている。編集兼発行者は近江である。
 174)前掲『「斯民」目次総覧』170-71ページ。
 175)同書172-73ページ。
 176)同書181-82ページ。なお,鈴木馬左也は同編第4号に,井上公二(古河合名会社総務理事),早川千吉郎(三井合名会社副理事長),一木喜徳郎(枢密顧問官),岡田良平(貴族院議員),中川望(山口県知事),留岡幸助(家庭学校長),白石正邦(学習院教授), 生江孝之(内務省嘱託)らと投稿している。同編第5号には,湯川寛吉も投稿している。当 時,鈴木は中央報徳会監事であり,早川,一木,岡田,中川,留岡は理事であった。同書 178-79ページ。
 177)前掲『留岡幸助著作集』第3巻,617ページ(「解説」)。
 178)同書同ページ。
 179)同書547-50ページ。
 180)森川英正,前掲書232-37ページ。
 181)浜口恵俊,前掲編著,100-55ページ。
 182)前掲『留岡幸助日記』第4巻,362ページ。他方,北条は床次らと「一一会」に何度も 出席している。さしあたり『廓堂片影』661ページ(大正8年5月23日)から755ページ(大 正9年6月13日)までを参照。
 183)同書688ページ。「内務省民力涵養宣伝ノ報告ヲ陪聴」とある。
 184)前掲『田沢義鋪選集』1098ページ。
 185)同書1097ページ。田沢の次男河野義克は次のように述べている。
 父は大正4年,内務省の明治神宮造営局総務課長を拝命した。東京の生活では青年と接触の 機会が少なくなり,これを淋しく思ったためでもあろうか,修養団運動に熱中した。前述の 第1回の桧原湖畔の講習会,第2回富士山麓白糸の滝の講習会を初め,団の多くの行事に欣然 として参加した。
 父が内務省にいた大正9年までは,終始この調子であった。特に大正9年には,年頭に団員2 千名を独力で獲得することを宣言し,3千名の入団を果たした。
 修養団に対する父の,この熱情は団の精神に共鳴し,主幹の実践躬行に感激したためである ことはいうをまたない。田沢が作詞し青年によって愛唱せられた『貴く生きん』の中にも汗 愛精神が謳われている。
 大正8年の頃,従来人一倍嗜んでいた酒と煙草を一挙に断ち,生涯禁酒・禁煙を実行したの も他の動機もあろうが,修養団生活にもとづく内心の要請が主因であったのである(河野義 克「蓮沼先生と父田沢義鋪」)。
 前掲『蓮沼門三全集』第7巻「月報」2ページ。田沢の禁酒論は当時の北条や,鈴木の禅友沢 柳政太郎らのそれと異ならない。沢柳政太郎「禁酒問題と教育者」(大正8年4月1日『帝国 教育』第441号),『沢柳政太郎全集』第2巻(「修養と教育」),(国土社,1977年,529 ページ以下。
 186)前掲『留岡幸助日記』第4巻,399ページ。『廓堂片影』683ページには,大正8年12月2 日「修養団ニ沼津遊泳場ヲ貸スコト約定」とある。また大正10年7月18日には小尾晴敏が北 条を訪問,「青年会幹部員養成ノ事業ヲ視ンコトヲ求ム」とある。同書730ページ。
 187)同書700ページ。なお,伊沢多喜男の長女高は河井昇三郎の妻である(大正8年結婚)。 河井は大正10年当時,住友伸銅所尼崎工場に勤務,のち住友本社常務理事(昭和18年)と なる。河井が昭和10年に大阪キリスト教青年会(YMCA)の評議員になっていること,河井の 実兄河井彌八(当時貴族院書記官長,のち参議院議長)の存在などに注目しておきたい。北 条はこの会の直前(6月9日)河井彌八と会っている。同上同ページ。
 188)同書701ページ。
 189)前掲『留岡幸助日記』第4巻,436ページ。11月4日には,小倉のロンドン時代からの知 人大塚素の追悼会があった。
 190)同書446ページ。
 191)1月3日床次と会談後,4日から7日にかけて本間俊平(山口県秋吉)を訪問した。小倉 の畏友本間俊平は明治22年に「大倉土木組」に入っているが(のち秋吉で大理石採堀に従 事),大倉組,とくに大倉粂馬(大倉土木組店主)が留岡の有力な支援者となることに注目 しておきたい。同書,449,453-54ページ。また,修養団運動と本間の関係については『蓮沼門三全集』第6巻, 140,151ページを参照。蓮沼は山室軍平とも親交があった。
 192)前掲拙稿「近代住友の経営理念」432ページ以下。
 193)前掲『蓮沼門三全集』第3巻「月報」(昭和44年7月)3-4ページ。なおこの時期の住 友の労働運動に関しては千本秀樹氏の卓越した論稿を参照されたい。千本秀樹『日本労働総同盟の発展と若き日の西尾末広」(『人文学報』48号,1980年3月)。
 194)「明治末年における専門経営者の進出」というパースペクティブから「三村起一のケ ース」をとりあげたものとして,森川英正の著作に注目したい。森川英正『日本経営史』 (日本経済新聞社,昭和56年)111-12ページを参照。
 なおここでは,三村起一が欧米より帰国後発表した論稿の内容そのものよりも,この論稿が 『救済研究』に掲載されたという事実に注目したい。大久保利武は留岡の最大の支持者の一 人であるが,大阪府知事時代,留岡の同志小河滋次郎を嘱託とし,大阪府の社会事業を担当 させるとともに,小河の献策を入れ毎月官邸で社会事業の研究会を行い,同時に『救済研 究』を発行した。なお,この『救済研究』には小河のみならず留岡も多くの論稿を投じてい る。留岡と大久保・小河の緊密な関係については,牧野虎次(のち同志社総長)の次の論稿 がある。牧野「大久保侯と小河博士」(『厚生事業研究』第31巻第1号,昭和18年,30-31 ページ)。なお,大久保利武に招かれた小河が「大阪府救済事業指導嘱託」となったのは大正 2年(1913)である。前掲『小河滋次郎集』404ページ。
 195)三村起一「米国に於る労資問題解決策如何 上」(『救済研究』第10巻第2号,大正 11年,60-69ページ)。同「米国に於る労資問題解決策如何 下」(同上,第10巻第3号,大 正11年,58-243ページ)
 196)三村起一,前掲論稿 下61ページ。
 197)森川英正,前掲書,第6章,とくに第4節「パーソナルな関係の重視」を参照。
 198)前掲拙著,第4章を参照。
 199)杉純夫他編『住友電工労政史』(住友電工,昭和45年)125-26ページ。千本秀樹,前 掲論文,54ページ以下を参照。
 200)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,104-08ページ。
 201)同書107-08ページ。原首相を暗殺した中岡良一が西巣鴨町居住の青年であったこと, 留岡の家庭学校が巣鴨村において明治33年に開校されたことに注目しておきたい。この論稿 は西巣鴨町青年団発会式(1月13日)における講演にもとづいている。
 202)前掲『田沢義鋪選集』1098ページ。
 203)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,108ページ。ここで留岡は「我が国の青年団には宗教 がないから,青年を精神的に訓練するには遺憾の点が多い」と述べている。修養団は「禊」の 行[ぎよう]を重視した。
 204)同書686ページ(「解説」)。
 205)同書同ページ,304ページ。
 206)安岡重明,前掲論文,30-32ページ。
 207)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,398ページ。住友の経営者と緊密な関係にあった坪野 平太郎(明治30年神戸市長)を留岡はカリスマ的に崇拝した。その坪野が「誠心一に国家人 類に存すれば,商士として国に尽すも,軍人として国に尽すも,其間少しも撰ぶ所はない」 とし,実業家は「国家社会の為に富力を充実するもの」であることを力説したといわれる。 留岡「鳴呼坪野平太郎先生」(『人道』238号,大正14年8月)。
 208)安岡重明,前掲論文,31ページ。
 209)逸脱と準拠集団については,前掲拙著,140ページ以下を参照。
 210)安岡重明,前掲論文,31ページ。
 211)安岡重明「中上川彦次郎(三井銀行専務理事)-業なかばに倒れた理想主義的企業 家」(『日本の企業家』第1巻,明治篇,1-41ページ,有斐閣,1978年)。中上川は国益志 向性が高い(過剰な)革新的財閥経営者であったが,その逸脱性をカバーするにたる準拠集 団に属していなかった。とくに中上川が福沢諭吉の死にさいして辞職も覚悟 しなければならなかったという事実(同上38ページ)は,中上川を支援する強力な準拠集団 が欠如していたことを如実に物語っている。
 212)安岡重明,前掲論文「日本財閥の歴史的位置」31-32ページ。
 213)小倉正恒の「国益志向の過剰性」については,前掲拙稿「小倉正恒-ある財閥経営者 の精神的風土」216-17ページ。
 214)安岡重明,前掲論文,32ページ。
 215)同書30ページ。
 216)森川英正,前掲書,232ページ以下。
 217)前掲拙稿「近代住友の経営理念」421-23ページ。
 218)「午後一時住友職工学校」とある。前掲『留岡幸助日記』第4巻,471ページ。
 219)なお,留岡は4月23日から25日にかけて,牧野虎次,林市蔵,小河滋次郎,土屋元作ら と会っている。同書472ページ。
 220)同書472ページ。
 221)前掲『小倉正恒』137ページ。
 222)前掲『留岡幸助日記』第4巻,474ページ。
 223)同書495ページ。
 224)前掲『留岡幸助日記』第5巻,3-4ページ。
 225)同書5ページ。
 226)同書105ページ。
 227)同書106ページ。
 228)同書106ページ。
 229)小河はこの年(大正10年)8月に大阪府嘱託を辞任する。後任は留岡の盟友牧野虎次。 9月に日本生命済生会常務理事となるが翌年4月死去。5月13日の第7回全国社会事業大会総会 では留岡幸助の弔演説がなされた。前掲『小河滋次郎集』405ページ。
 230)前掲『留岡幸助日記』第5巻,109ページ。「午後四時半校内錦古里氏室ニテ孝次君ト 静子トノ結婚式ヲ挙グ。司式拙者。小倉正恒君立会」とある。静子とは留岡の三女静(明治 41年生れ)のことであろうか。
 231)同書同ページ。
 232)同書122-23ページ。
 233)翌日(4月16日)に「中川大阪府知事十九歳の令嬢を失はれ……」という記述がある。 中川は大正12年に大阪府知事に就くとともに,小河滋次郎が主催する社会事業研究会会長と なった。中川と小倉の関係については,『小倉正恒』866ページ以下。
 234)小倉は明治33年に住友神戸支店に入り,明治39年に神戸支店長となっている。
 235)前掲『小倉正恒』140ページ。「坪野は石川県の出身で明治18年に東京大学法科大学を 卒業した。……河村等の縁で正恒は坪野の家に出入し,結婚の後は夫妻そろってよく往来し た。……禅学修道のこと,養生をもって長寿したこともまた正恒と同じで,正恒は後々もこ の人を敬慕してよく訪ねた。」同上,139-40ページ。
 236)前掲『留岡幸助著作集』第4巻,416ページ。留岡は坪野の死(大正14年5月)にさい し,『人道』238号(同年8月)に特別欄「坪野翁追悼」を設けた。そこに掲載された記事と しては,留岡「鳴呼坪野平太郎先生」,阪谷芳郎「友人としての坪野平太郎先生」,添田寿 一「坪野君に感心した事ども」などがある。同上,676ページ。
 237)北条時敬の日記には,明治22年7月8日「午後五時帰朝の坪野平太郎氏ヲ訪フ」とある。 『廓堂片影』354ページ。さらに同年11月2日には「土岐君新橋ヲ発ス,早川,坪野,織田, 平沼四氏ト共ニ大森迄見送リ……」とある。同上,同ページ。その他,401-02ページ, 780ページなどを参照。阪谷芳郎が十四会員であったこと(同上,579ページ)とともに,阪 谷の心友坪野が十四会員であったという記述は『小倉正恒』にはない。
 238)前掲『留岡幸助日記』第5巻,225ページ以下。
 239)同書225ページ。
 240)安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(青木書店,昭和49年)とくに第1篇。『留岡幸 助著作集』第4巻,393-95ページ。
 241)同書(第4巻)414ページ。
 242)田中良雄『私の人生観』(四季社,昭和29年)155ページ以下。田中は住友工高,住友 病院,大阪実業教会各理事長,産業教育中央審議会委員などを歴任した。
 243)前掲『留岡幸助日記』第5巻,225-26ページ。田中は四高から東大へ進んだ。東大時 代,小倉の義父河村善益から儒教を教えられたという。田中良雄,前掲書,192ページ。
 244)前掲『留岡幸助日記』第5巻,228ページ。なお,留岡は小倉とともに大正13年11月28 日,坪野平太郎の娘の婚礼披露会に出席したのち,小倉宅に宿泊している。同上163ページ。
 245)安丸良夫,前掲書,47ページ。安丸はこの文章につづいて「これら諸思想の現実変革 の有効性は,事実上,家か村,あるいはせまい同信者集団のなかに住む人間を変革せしめる ことにだけ存在した」と述べている。
 246)森川英正,前掲書『日本財閥史』109-10ページ。
 247)前掲『小倉正恒』845ページ。(田中外次「公私にわたる因縁を憶う」845-86ペー ジ)。
 248)前掲『廓堂片影』880ページ。草鹿任一と北条絲は大正5年2月26日に結婚した。媒妁は 小倉正恒の義父河村善益夫婦がつとめた。もちろん草鹿丁卯次郎(大正7年小倉とともに理 事)も出席した。同上548ページ。草鹿竜之助(丁卯次郎息)が海軍中将になっていること にも住友と海軍との関係において注目しておきたい(『鈴木馬左也』696-97ページ)。
 249)森川英正,前掲書『日本型経営の展開』233ページ以下。
 250)小倉は合資会社常務理事兼人事部長であった。田中の面接試験にさいして,「修養 は,宗教は,と矢つぎ早の質問」がなされたとのことである。『小倉正恒』845ページ。な お,田中外次と禅については,とくに,辻雙明「禅と実業家」290-91ページ(『講座禅』 第5巻,「禅と文化」,筑摩書房,昭和43年,287-97ページ)を参照。
 251)安岡重明,前掲論文,30-31ページ。
 252)安丸良夫,前掲書,47ページ。
 253)辻雙明,前掲論文,290-91ページ。
 254)同,293-95ページ。
 255)同,295ページ。さらに辻雙明は,「維摩経仏道品の中の偈[げ]には,菩薩は時とし ては『商人の導,国師及び大臣と作って以って衆生を祐利す』と説き,そのように『欲に在 って禅を行する』ということは,『火中に蓮華を生ずる』ように『希有なること』であると 言い,これこそは大乗仏教者の理想であると説かれてある」と述べている。
 256)同書290ページ。
 257)森川英正「財閥型資本の確立と財閥の思想」(住谷一彦・長幸男編『近代日本経済思 想史 Ⅰ』263ページ以下)280ページ。
 258)前掲『留岡幸助日記』第4巻,103-04ページ。この日,留岡は福井中学校において 「青年会と時代の要求」につき講話した。
 259)前掲『留岡幸助日記』第5巻,166ページ。「伸銅所」はまちがいであろう。
 西崎は住友電線製造所の独立時(明治44年)に支配人として入社した。西崎は「正恒と同時 に四高の工科を出,同時に東京帝国大学機械工学科を卒えた」(『小倉正恒』171ペー ジ)。住友入社以前は芝浦製作所につとめていた。大正13年当時,肥後八次,西崎伝一郎の両 名が(株)住友電線製造所の常務取締役をつとめていた。また,当時住友合資会社常務理事 であった小倉正恒は,この年1月住友電線の取締役に就任していたし,西崎や小倉と同郷・ 同窓で当時住友合資会社理事をつとめていた松本順吉も,住友電線の監督役に就任してい た。『社史住友電工株式会社』476ページ。なお,当時修養団と電線工組合との会員獲得争 いが盛んであったといわれる。前掲『住友電工労政史』126ページ。
 260)『西田幾多郎全集』第18巻(岩波書店,昭和41年)229ページ(大正9年7月8日付の山 本良吉宛書簡),239ページ(大正10年12月28日付の山本良吉宛書簡),240ページ(大正11 年1月25日付の山本良吉宛書簡)などを参照。
 261)林市蔵は「東京帝国大学卒業後内務省に入り,一九一八年大阪府知事に就任した。こ の年米騒動がおこったが,小河滋次郎の考案を採用して方面委員制度を創設し,全国の模範 となった」。吉田久一「『救済研究』解説」16ページ(『救済研究』第10巻,第1-第7号の 巻末)より引用。
 262)前掲『小河滋次郎集』404-06ページ。
 263)前掲『留岡幸助日記』第5巻,166-67ページ。
 264)同書167ページ。「雨潤会」は陸奥廣吉が古河潤吉の遺志に基づいて「寄贈を受けた, 公債額五拾万円」を基金として,古河潤吉を記念すべき事業を行う目的で,大正6年2月に設 立された。協議員には,陸奥廣吉,黒田清輝,古河虎之助,小田川全之,秋月左都夫,志 立鉄次郎ら19名があげられている。『古河虎之助君伝』520ページ。
 265)当時,秋月左都夫は京城日報社社長在任(実弟鈴木馬左也は大正11年に死去)。志立 鉄次郎は明治43年3月退身。住友総本店理事兼銀行支配人として活躍した人物。住友退出後 は日本興業銀行第2代総裁に就任(第1代は阪谷芳郎や坪野平太郎の心友[・・]添田寿一)。
 266)前掲『留岡幸助日記』第5巻,192ページ。とくに3月27日の記述を参照。
 267)同書208ページ。6月12日には,北条時敬とともに,井上明府追悼会に出ている。同書 212-13ページ。『廓堂片影』771ページ。北条はこの日,早川千吉郎の追悼会にも出ている。
 268)北条時敬も出席した。『廓堂片影』771ページ。他に,阪谷芳郎,添田寿一,床次竹 二郎,石渡敏二と,おそらく[・・・・]土岐〓らが出席した。『留岡幸助日記』第5巻, 217ページ。
 269)同書217-18ページ。
 270)同書220ページ。小倉宅に宿泊。留岡は「住友本店」,「住友総本店」,「住友」, 「住友合資会社」などの表現をしているが,住友合資会社の設立(住友総本店の事業を継 承)は大正10年2月である。
 271)同書同ページ。小倉宅に宿泊。
 272)大阪市長関一と住友,小倉との関係については,『小倉正恒』303-04ページ。
 273)池上四郎と住友との関係については,『住友春翠』589ページ。651-57ページ,692ペ ージ。住友家茶臼山本邸の敷地と茶臼山を公園ならびに美術館建設用地として大阪市に寄付 したのは大正10年12月だが,当時の市長池上四郎と中田・小倉両理事の一致協力によるとこ ろが大きい。
 274)小倉正恒は弘世助太郎を「人間の本質をかみしめながら自らの道を生きようという風 がある」と評している(『小倉正恒』534-35ページ)。小倉健二(正恒の3男)によると, 父正恒の「哲学」とは「本心に従うことが誠であり,天の道である」というものであったか ら(同上,968ページ),小倉の弘世評は小倉の人物評としては最高のものである。
 275)小河滋次郎が大阪府嘱託を辞任後(大正13年),日本生命済生会の常務理事に就任し ていることに注目しておきたい。小河の謝恩葬において弔辞を朗読したのは,内務大臣若槻 礼次郎,大阪府知事中川望,大阪市長関一,中央社会事業協会長渋沢栄一,日本済生会理事 弘世助太郎の5名である。ただし,若槻の弔辞を相田良雄が,渋沢の弔辞を留岡幸助が代読 した。『社会事業研究』第13巻第5号(大正14年5月)322ページ。
 276)土屋元作は鈴木馬左也,北条時敬,早川千吉郎らと同じく今北洪川の下で禅を修業し た。鈴木大拙『今北洪川』1975年,42ページ。前掲拙稿「近代住友の経営理念」408ページ。
 277)八浜徳三郎は留岡幸助と同じく岡山県出身で同志社大学神学科を卒業している。大阪 ・神戸の伝道に従事,明治44年の内務省細民調査の嘱託。大阪職業紹介所の創設において, 豊原又郎とともに職業紹介事業のパイオニア的存在。吉田久一「『救済研究』解説」15-16 ページ。『留岡幸助著作集』第4巻,130,672ページ。
 278)前掲『留岡幸助日記』第5巻,221ページ。この日も小倉宅に宿泊。
 279)林安繁と小倉との関係については,『小倉正恒』293-94ページ。「林安繁は正恒に一 年後れて金沢に生れ東京帝国大学を出ると大阪商船に入り,明治四十二年には宇治川電気に 転じ……」とある。
 280)前掲『留岡幸助日記』第5巻,221ページ。この日も小倉宅に宿泊。
 281)同書同ページ。この日も小倉宅に宿泊。なお寧静寮は大正7年11月初旬に建てられた, いわば,「住友の青年社員の一種の修養道場」であった。『鈴木馬左也』154ページ以下を 参照。
 282)前掲『小倉正恒』294ページ。金沢出身で早川千吉郎らと同じ準拠集団を形成してい た。小倉より8歳年長。詳しくは,小倉正恒「同郷の先輩」(『堀啓次郎翁追懐録』16-20 ページ,『小倉正恒』556-59ページ)を参照。
 283)このときの詳しい内容は『留岡幸助日記』第5巻,225-28ページに掲載されている。 また「鳴呼坪野平太郎先生」が『人道』238号(大正14年8月)に発表された。なお,この日 も留岡は小倉宅に宿泊した。
 284)同書(第5巻)222ページ。
 285)7月19日のみ和歌山県の粉河行のため小倉宅に宿泊しなかった。『留岡幸助日記』第 5巻,221ページ。
 286)前掲『留岡幸助日記』第5巻,138ページ。『小倉正恒』206,219-22,252ページ。
 287)住友金属鉱山(株)編『住友金属鉱山二十年史』(昭和45年)「年表」6ページ。
 288)前掲『留岡幸助日記』第5巻,245ページ。
 289)小池主任とは小池宝三郎のことである。小池は藤田組小坂鉱山,大阪高工助教授から 住友入りした。鴻之舞鉱山鉱長同所支配人を経て北日本鉱業所長に就任した。『小倉正恒』 197,206,222ページ。中西利八編『財界人物選集』(昭和14年)122ページ。
 290)留岡幸助「労働観念の改造」(『社会事業研究』第13巻第4号,47-55ページ),同 「労働観念の改造(続)」(同上,第13巻第6号,9-18ページ)。これは「大正14年2月16 日中央公会堂に於ける精神作興共励委員大会席上講演大要筆記」である。
 291)留岡幸助,前掲論文「労働観念の改造」51-52ページ。
 292)留岡幸助,前掲論文「労働観念の改造(続)」18ページ。
 293)前掲『蓮沼門三全集』第12巻,320ページ。『留岡幸助日記』第5巻,182ページ。
 294)同書297ページ。
 295)伊藤隆,前掲書,353-54ページ。
 296)栂井義雄『小倉正恒伝,古田俊之助伝』302ページ。
 297)前掲『小倉正恒』249ページ。
 298)前掲『留岡幸助日記』第5巻,405ページ。
 299)前掲『小倉正恒』247ページ。
 300)前掲『留岡幸助日記』第5巻,268-69ページ。
 301)栂井義雄,前掲書,139ページ。
 302)安岡重明,前掲論文,30-32ページ。
 303)森川英正,前掲書,232ページ以下。
 304)同書227ページ。森川によると,国益志向的な経営理念とパーソナルな関係の重視は, 日本の産業開拓者の共通属性である。
 305)安岡重明「財閥形成の文化的・社会的背景」(『経営史学』第10巻第1号,昭和50 年)。