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公益質屋制度の導入と展開

Author: 渋谷隆一
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1983年
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 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
I 公益質屋法の制定過程・・・・・・・・・・2
 1. 欧州公益質屋制度の紹介・・・・・・・・・・2
 2. 質屋政策の変更と公益質屋・・・・・・・・・・7
 3. 公益質屋法の成立とその概要・・・・・・・・・・8
Ⅱ 公益質屋の展開と制約条件・・・・・・・・・・11
 1. 公益質屋の自主的展開・・・・・・・・・・11
 2. 公益質屋法公布後の展開・・・・・・・・・・15
Ⅲ 協同組合質屋の特徴と展開・・・・・・・・・・19
 1. 協同組合質屋の特徴と普及・・・・・・・・・・19
 2. 上田質庫組合の設立・・・・・・・・・・24
 3. 上田質庫組合の展開・・・・・・・・・・27
おわりに・・・・・・・・・・38


はじめに

 公益質屋は,もともとヨーロッパで発達した制度であるが,わが国でも社会問題,とりわけ庶民金融問題の発生・深化に伴う政府の社会政策的施策の一環として導入された。具体的にいえば,大正元年,宮崎県南那珂郡細田村に誕生した公益質屋がその嚆矢であり,その後昭和2年の公益質屋法の公布を契機に発展し,爾来幾たびかの浮沈を経ながらも今日まで存続しているのである。
 ところでこの公益質屋に関する調査・研究は,私営質屋のそれに比べると著しくたちおくれ,主として官公庁で行なった当該制度の概要,優良経営事例の紹介,公益質屋法の解説にとどまっている。こうした調査・研究の欠如は,公益質屋の歴史が新しいばかりでなく,当制度導入の目的であった高利貸・私営質屋の牽制効果が必ずしも十分ではなく,研究者にとって魅力に乏しかったことにもよるのであろう。
 もっともその理由は,高利貸・私営質屋の根強い存続と公益質屋に対する抵抗,およびこれに対する政府の施策上の失敗,たとえば質屋の貸付基盤の変化に関する認識不足,協同組合質屋に対する無理解と官庁間の縄張り争いなどによるものと考える。
 そこで本稿では,次の2点に焦点を合わせて考察を進めてゆく。第1に,公益質屋法の制定過程であり,ヨーロッパの公益質屋制度がわが国にどのような意図の下に紹介され,定着していったか,その間に公益質屋法がどうして立法化されたかを,社会問題の深化,その条件の下での政府と私営質屋業者との対抗の中でとらえる必要がある。
 第2に,公益質屋の性格と展開過程にみられる特徴についてである。そのさいに公益質屋には,同法に規定されたいわゆる公益質屋のほかに,産業組合法に規定され,公益質屋と同様の機能を果たした協同組合質屋をも対象に含める必要がある。いわゆる公益質屋は,公益質屋法公布以前と以後の組織,経営形態の相違,公布後の展開を可能にした条件と政策上の翻齬の実態,協同組合質屋の場合には設立の理念,組織,経営形態上の独自性,そして当制度の普及を阻害した事情などが問題である。
I 公益質屋法の制定過程

 公益質屋制度は,すでに『私営質屋の展開と政策対応』でふれたように,もともとヨーロッパに淵源をもち,高利貸の跳梁に対する抑制手段として発達してきたが,わが国では一本一利の原則の下に私営質屋制度を採ってきた。ところで後進資本主義国日本では,明治維新以降も高利貸・私営質屋の存立基盤が根強く残されており,社会問題の発生・深化を促す1つの要因として作用してきた。こうした事情の下に公益質屋制度は,社会問題に対処する社会政策的施設としていち早くに紹介され,法制化と相まって急速に定着していったのである。その間の事情を問題とする。

 1. 欧州公益質屋制度の紹介
 ヨーロッパの公益屋制度がわが国にはじめて紹介されたのは,明治2年,『開智』第5巻においてであり,パリの公益質屋が取り上げられている1)。それ以降ことに社会問題の発生が本格化した40年以降になると,紹介文献・資料が増加するが,その内容は大正5年ごろを転機として変化している。
 そこでまず前期における同制度の文献・資料をみると第1表のようである。ここに明らかなように当期の特徴は,執筆者が内務省(地方局,窪田静太郎.井上友一)と大蔵省(添田寿一,小野義一)の官吏や日本銀行でほぼ半数を占めていることである。なかでも窪田や井上らは,地方公共団体が当然に設立すべき救済機関として公益質屋制度の意義を強調し,その発展のためのいわば先導的役割を果たした2)。紹介の対象となっているのは,この制度を世界で最も早くに採用したイタリア(1462年)をはじめフランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,オーストリアなどヨーロッパ諸国に広く及んでいた。
 ではこの紹介が,具体的にどのような効果をあげたであろうか。先にふれたように,大正元年10月にわが国最初の公益質屋が宮崎県細田村に設立されたこと,およびその年に内務省が,「市町村ニ於テ細民救済ノ為メ質屋ニ類スル業ヲ経営スルハ差支無3)」き旨各地方長官に通達するとともに,「経営ノ公共団体ニ低利資金融資ノ途ヲ開4)」いたことなどである。とはいえ内務省が,この段階で当制度を立法化しようとする動きは全くみられず,ただその紹介に力を注いでいるにすぎない。
 さて後期になると,政府は公益質屋に対する従来の方針を変えている。というのは,前期にみられた当制度のたんなる紹介ではなく,その普及・立法化に施策の重点を移したからである。
第1表 公益質屋制度に対する文献・資料一覧
そのことは,ロシア革命,米騒動,その後の社会問題の深化に危機感をいだいた官僚の対応でもあるが,同時に帝国議会における議員の質問や世論の高まりにも多分に影響されていると思われる。
 まず議会の動向に目を向けよう。わけても第40回議会における鈴木梅四郎(立憲国民党)と横山勝太郎(憲政会)の質問演説が重要である。鈴木は大正中期の米価騰貴によって深刻化した社会問題の実態を指摘しながら,「私は来期議会に於て,来年度の財政計画を立てられる時に当っては,此社会政策の研究を充分に致して,相当の設備を為すべしと言うことを政府当局者に警告するものであります5)」と述べているし,また横山も「救貧行政ニ関スル質問」の中で,「救貧行政殊ニ公設長屋質屋官営ノ施設ニ関スル政府ノ所見如何6)」をただし,これを受けた後藤新平国務大臣は,「公設長屋及質屋官営ノ施設ハ救済行政上重要ノ事タルモ実際ノ状況及財政ノ関係等ニ付殊ニ慎重ノ考慮ヲ要スルモノアルコトヲ認ム7)」と書面で回答している。
 次に,第2表を参照しながら,公益質屋に関する世論の動向についてみよう。第1に,社会政策学会である。同学会の第11回大会(大正6年12月)の共通論題は,小工業問題であった。その席上服部文四郎教授は,当学会ではじめて先の宮崎県細田村営質庫を紹介し,そして市営質屋創設の必要性について,「東京の金利(私営質屋の,筆者注)を定める一つの標準になり,或る部分は直接に,或る部分は間接的に工業金融の便になる8)」とし,また内藤章教授も,「本邦に於ける下層金融機関」の報告の中で,「質屋に対しましては取締法の利息制限に改正を加へましてかつその計算方法に対し規定を設くる必要があります。進んで公営の質屋を設くることも適当であります9)」と指摘している。当時この学会の地位は極めて高く,世間もこの報告に耳を傾けていたから,その影響ははかり知れないものがあった10)。
 第2に,東京商業会議所の調査である。同会議所では,大正7年6月に『東京市内商工業金融調査資料』を刊行したが,その内容で注目を要するのは,ドイツやオーストリアの質屋制度を紹介し,わが国でもこれにならって公私質屋制度を併立すべきであると強調した点である11)。この主張こそ,実は後に政府の質屋政策の核となるのである。
 第3に,新聞・雑誌論調の動向である。その内容をみると,前期に引き続き相変らずヨーロッパ諸国の公益質屋の紹介が多いが,しかしそれだけではなく,たとえば松下禎二「質屋を公設すべし」(『大阪朝日新聞』大正7年1月10月付)のように,篤志家に対して公益質屋の創設を勧奨したり,前田稔靖「公設質屋問題(1)~(4)」,『福岡日日新聞』大正8年10月26~30日付)のように,ヨーロッパにおける公営質屋の実態をふまえ,同時に日本の特殊性を考慮に入れてその経営の在り方を論ずるものも現われたのである。
 こうした背景の下に,内務省ではもはやかつてのように,たんなる社会政策の理念の導入にとどまることなく,現実の政策課題として,公益質屋問題に取組まねばならなくなった。
第2表 公益質屋制度に関する文献・資料一覧(大正5年~同9年2月)
その端的な現われが大正7年6月に設置された救済事業調査会に対する小資金融の諮問12)や,8年7月に開催された六大市長会議における公設質屋間題の協議などであった13)。
 その成果は次の2点である。1つは,下村台湾総督府長官の提示した公益質屋設置の構想が,8年12月の勅令第485号をもって実現したことである14)。この勅令はいうまでもなく,植民地台湾にのみ効力を有するものであるが,昭和2年の公益質屋法公布のいわば布石となった点で重要な意義をもっている。いま1つは,大都市における公益質屋の実現である。大正8年12月に東京府社会事業協会が設立した武蔵屋質店がそれであり,同店は公益質屋普及の魁として大きな役割を果した。
ちなみにその営業内容をみると,貸付利率は私営質屋の半分,利息計算は月単位で行なうなど15)明らかに内務省の方針にそいながら,私営質屋に対抗しようとしたのであった。
 さらに注目したいのは,巨大財閥が社会奉仕の一環として公益質屋の設立を意図したり,援助したことで,具体的には三菱合資会社16)や安田修徳会17)の動きの中にみることができる。

 2. 質屋政策の変更と公益質屋
 大正末期になると,公益質屋の立法化の必要がいっそう強くなった。その契機となったのは,大正9年1月に公表された政府の質屋業法案が私営質屋業者のストライキによってあえなく消えさり18),これに代る質屋政策を改めて樹てねばならなくなったからである。政府の採った政策は,公私質屋の混合主義であり,一般世論もこれを支持した。
 以下,政府の施策を取り上げるが,それは内務,大蔵両省に分けてみる必要がある。
 はじめに内務省についてふれる。同省では大正11年8月に『公益質屋に関する調』,同15年7月に『質屋の現勢』を公刊し,公益質屋の実態ならびに私営質屋に対する牽制効果を確かめながら,その普及,奨励に乗り出している。もっともこの普及,奨励を行なう過程で新たに立法化を促進する必要が出てきた。第49回議会に山本芳治の提出した「社会政策ニ関スル建議案19)」がそれであった。山本はこの中で公益質屋法制定の必要について述べている。すなわち,公益質屋に現行の質屋取締法を適用すれば,質屋組合への加入によって貸付利率,流質物の処分が組合規約に知約され,したがって社会政策上必要な債務を超過した部分の質置主への返環ができない,また民法を適用すれば,貸付利率は利息制限法によらねばならず,小口金額を取扱う質屋の性質上無理である,そこで政府はこれらの点を考慮に入れた法律制定をなすべきである,というのである。
 こうして同省では,同法制定のため調査を進めたが,しかしその作業はあまり進捗せず,むしろ大蔵省の調査・立案に促進されるありさまであった。
 そこで次に,大蔵省の対策についてみよう。同省では,大正13年に庶民金融機関の整備の必要から私営質屋の調査を全国的に実施した20)。この調査に依拠しながら,同省では金融制度調査会準備委員会において立法準備を進めた。周知のように大蔵省では,大正15年9月,金融制度調査会規則に準拠して調査会を設置し,わが国金融制度の抜本的な改革に着手した。その対象には,もちろん質屋も含まれていた。
そして幹事によって作成されたのが『質屋制度ニ関スル問題21)』および『質屋制度の改善案22)』であった。
 この両資料の特徴をあげよう。第1に,この資料は,従来のように警察行政上(内務省警保局)や社会政策上(同省社会局)の観点からだけでなく,金融政策上の観点から,つまり「金融制度全体ノ一分子」として調査している。第2に,質屋を「単ニ細民金融機関トシテ観察スルニ止マラズ併テ中産階級ニ対スル金融機関トシテ観察」していることである。そのことは,おそらく当時深刻の度を増しつつあった中小商工業者の金融難に対処するための措置であったと思われる。第3に,質屋の公私混合主義の立場を採り,私営質屋との摩擦を極力さけようとしたことである。
 こうして調査準備委員会では,この調査に基づき,成案の作成を急ぐこととなった。そしてその内容をいっそう充実させるために,内務官僚を幹事に任命した。
 以上の経過をへて12月18日には,幹事会の『公益質庫制度ニ関スル調査』が成案となり,昭和2年1月17日には調査準備委員会で,また2月1日には同調査会本会議でそれぞれ採決され,公益質屋法案として第52回議会に上程されたのである。

 3. 公益質屋法の成立とその概要
 公益質屋法案は,昭和2年2月13日衆議院に上程された。ではその審議内容はどうであったか,また成立をみた同法の特徴は,いかなる点にあったであろうか。
 まず審議状況をみると,同法案に対する論議は貴衆両院のうちとくに衆議院において激しかった。論議の焦点となったのは,公益質屋に対する政府の優遇措置が私営質屋の営業にどのような影響を与えるかであった。なかでも同法第4条の「貸付金額ハ一口ニ付二十円,一世帯ニ付百円ヲ超ユルコトヲ得ス 但命令ノ定ムル所ニ依リ生業資金トシテ貸付ヲ為ス場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラス」という規定であった。
 この条文に関する政府の提案説明は,内務省社会局の調査によれば,「所謂細民階級ニ属スル者ト雖モ,一月ニ六十三円位ガ先ツ平均ノ生活デ……之ヲ一週間ニ致シマスルト十四円九十何銭,約十五円」であり,また軍事救護法による給付額も一週間に16円80銭となっているから,「約ソ二十円ト申シマスル金ハ,先ズ斯ウ言フ細民階級ノ一週間ノ生活費ガ二十円位ハドウシテモナクテハナラヌ」という点に根拠を求めた(衆議院本会議,俵孫一発言)というのである23)。
 これに対して,政友会や政友本党の所属議員から批判が集中した。要するに,その批判は貸付額が高く,細民救済よりも中産階級に便益が与えられており,真の社会政策とはいい難いという点にあった24)。
 なおまた,政府が公私混合主義を採るのであるならば,公益質屋の設置場所を「大凡細民窟ノ附近」に限定すべきである25)(衆議院委員会,本田義成発言)とか,既存の私営質屋業者に「相当ナ低利資金ヲ貸シ与ヘテ,質屋業者ヲ根本カラ取締ル規則ヲ厳重ニシテ,之力励行スル」とか,あるいは 1町内または数町内の私益質屋を糾合して公益質屋をつくり彼らに兼営させる(同上,安藤正純発言)など,さまざまな意見が出された。
 これらの発言は,細民階級に対する社会政策の徹底を求めながらも,明らかに当時私営質屋業者たちが要求していた公益質屋の営業制限に合致していた。
 一方,政府与党の憲政会や一部の政友本党所属議員は,これとはまさに反対に社会政策を推進するうえで,この法案のもつ微温さを批判し,たとえば1口貸付制限額を30円から50円に,利息を1割から8分位にして私営質屋から細民を守るべきである28)(同上,工藤鉄男発言)と述べている。
 さらに同法第3条「国庫ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ予算ノ範囲内ニ於テ市町村又ハ公益法人ニ対シ公益質屋ノ設備ニ要スル経費ノ二分ノ一以内ヲ補助ス」の具体的な適用についても批判が集中している。すなわち,政府委員が公益質屋を「年々十箇所ナリ,二十箇所ナリヲ設ケテ行キマシテ,現在ノ質屋に対シテ,大イナル打撃ヲ与ヘナイト同時ニ質屋改善ニ付テ多少ノ効果ハ現ハレル29)」(衆議院委員会,長岡隆一郎)と発言したのに対して,「今日ノ我国ニ於テ僅ニ十箇所トハ何事デアル30)」(同上,丸山浪弥発言),とのきびしい反論があった。
 さてこの法案の特別委員会は7回にわたって開かれたが,最終委員会で第4条に関する各党の修正案が出された。討議の結果,政友本党の修正案「貸付金額ハ一口ニ付十円,一世帯ニ付五十円ヲ超ユルコトヲ得ス 但シ地方長官ノ認可ヲ受ケタル場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラス」を可決した。
 貴族院においては,ほとんど議論がなくそのまま可決され,3月31日に公布されたのである。
 ここで公布をみた公益質屋法の内容を整理しておく。①経営主体-市町村または公益法人に限る(第1条),②助成方法-公益質屋に対して国庫補助(第2条),および低利資金を融資する,③貸付金額の制限-前掲の通り,④貸付利率-原則として月100分の1.25(年利15%)を超えることができない,⑤利子の計算方法-民法により月をもって計算し,月に満たない日数(16日以上は1月,16日未満のときは半月)とする(第5条第2項),⑥流質期限-4ヵ月以上とする(第8条),⑦違法契約は質置主に不利な部分はこれをなさなかったものとみなす(第16条),⑧質物の交換,受戻-利子の計算及び流質期限に関しては,質契約の変更がないものとする(第9条),⑨一部弁済-権利として認める(同条),⑩流質物の処分方法-競争入札を原則とする,⑪流質物処分前の返還-元利金および返還までの利息を支払うときは質物を返還する(第12条),⑫流質物処分残余金の交付-元利金,手数料を差引き残金があるならば,これを質置主に交付する(第13条)。
 以上のように,わが国の公益質屋制度は,明治20年代以降学者,官僚たちによるヨーロッパの公益質屋制度の紹介に始まり,その普及,奨励,さらに立法化を通してようやく発展の基礎をえた。この事実は,むろん私営質屋の後退に拍車をかける要因となったのである。

 注
 1) 「明治事物起源」『明治文化全集』別巻,昭和44年,869ベージ。
 2) この点については,たとえば井上友一「公立質制度ノ機運」『国家学会雑誌』第21巻第5号,明治40年5月を参照されたい。
 3) 武島一義『経済保護事業』昭和13年,155ページ。
 4) 社会事業研究所編『日本社会事業大年表』昭和11年,206ページ。
 5) 鈴木梅四郎『日本に於ける社会政策の基礎』大正8年,68-69ページ。
 6),7) 衆議院事務局編『第四十回帝国議会衆議院議事摘要』大正7年,1521ページ。
 8) 社会政策学会編『小工業問題』大正7年,82ページ。
 9) 『同上書』178-80ページ。
 10) 「公設の質屋」『法律新聞』大正7年2月27日。
 11) 東京商業会議所編『東京市内小商工業金融調査資料』大正7年(『日本金融史資料』明治大正編,第24巻に再録,638ページ以下)。
 12) この点については,たとえば大原社会問題研究所編『日本社会事業年鑑』大正9年版,3ページ。
 13) 「質屋の利子を引下ぐ可し」『報知新聞』大正8年7月19日。
 14) 『法令全書』大正8年,勅令,条約,417ページ。
 15) 「帳場格子を据ゑた武蔵屋質店」『時事新聞』大正8年12月5日。
 16) 三菱合資会社の公益質屋設立計画について,当時の新聞報道を紹介しておく。
 「現在の質屋業者の利子は一円に四銭であるが十円以上は利息制限法に拠らず法外の利子を徴収し又或る一部については金融梗塞を口実として貸出を中止する者がある。此傾向を見た三菱合資会社では社会事業として営利を離れた質屋を設立しやうと目下同社査業課に於て府や警視庁や当業者の意見を徴取し尚各区の状況を調査中であるが遅くとも本年十一月頃迄には実現せらるべき運びとなって居るといふ事である」(『河北新報』大正9年6月26日付)。
 しかしいかなる理由からか同社が公益質屋を設立した形跡は見当らない。
 17) 安田修徳会の場合には,公益質屋経営に直接乗り出したのではなく,諸公益質屋に対して低利の資金の供給を行なったようである。この点については,近代立法過程研究会編『結城豊太郎関係文書目録』昭和48年による。
 18) この点の詳細については,拙稿「質屋対策立法の展開(2〕」『経済学論集』(駒沢大学)第4巻第2号,昭和47年9月,71ページ以下を参照されたい。
 19)『第四十九回帝国議会衆議院議事摘要』大正13年,686-89ページ。
 20) 「大蔵省が突如質屋の大調査」『神戸又新日報』大正13年3月17日。
 21),22) 大蔵省蔵『昭和財政史資料』第1類第84冊の5。
 23) 『第五十二回帝国議会衆議院議事速記録』第13号,223-24ページ。
 24) 『同上資料』223ページ。
 25) 『第五十二回帝国議会衆議院委員会議録』第5類第17号(公益質屋法案委員会議録),第2回,6ページ。
 26) 『同上資料』4ページ。
 27) 『同上資料』第3回,18ページ。
 28) 『同上資料』15ページ。
 29) 『同上資料』第2回,4ページ。
 30) 『同上資料』第3回,10ページ。
Ⅱ 公益質屋の展開と制約条件

 公益質屋の展開過程は,昭和2年の公益質屋法の公布を転機として,前後2つの時期に分けることができる。周知のように,それはただたんに法制上の問題としてだけではなく,社会問題の深化を背景に,公益質屋の存在形態および組織,経営形態が政府の積極的な施策によって著しく変化したからである。

 1. 公益質屋の自主的展開
 この時期における公益質屋は,どのような展開過程を歩んだであろうか,その手掛りをえるため第3表をみると,公益質屋の開設(経営主体別)は,大正9,10年ごろから増加しはじめ,同14年には31となっている。この増加のきっかけとなったのは,大正8年に,内務省地方局長が鹿児島県知事からの照会事項に対して,「市町村ニ於テ細民救済ノ為メ質屋ニ類スル業ヲ経営スルハ差支無之」旨を回答し,同時に各地方長官に対しても同様の趣旨の通牒を発した点に求められる1)。
 その設立の具体的な契機は,地域や時期によって異なるものの,生活困窮に陥った下層階級を高利貸から防塞し,社会政策の実を挙げようとしたのであった。ちなみにわが国最初の公益質屋である宮崎県細田村営質庫の設立事情にふれると,次のようである。
 細田村は,人家約千戸足らずの一漁村である。漁民の生活には,不漁と言ふ不時の災厄が伴ふ。かかる時,平素貯蓄心に乏しき彼等は,その生活費にも窮して宅地家屋をも担保に供して高利の金銭を借入れる。而してこれが償却に一方ならざる人生の苦楚を嘗むる実情に鑑み,この状態を幾分にても救済して経済上の円滑を計り,内顧の憂を除いて生業に努力せしめたい……2)
 この設置を推進したのは,すでにふれた学者や政府官僚たちのヨーロッパ公益質屋制度の紹介と,これを実践に移そうとした同村村長隅本和平であった。
第3表 公益質屋の開設年度
 さてここでこの時期の公益質屋の地域分布,および組織形態の特徴についてみよう。第4表に示したように,大都市府県(東京,神奈川,京都,大阪)の大正14年6月末における営業者数は総計41のうち21で51.2%,貸付額は総額114万1千円のうち64万8千円で56.8%を占め,農村県よりも比重がやや高くなっている。かかる現象は,前稿で考察したように大正初期以降の質屋の貸付基盤の変化,すなわち農村から大都市への顕著な移動を示している。
第4表 公益質屋展開の地域性
 また,この公益質屋を経営主体別に整理し直すと府県1,市11,町村17,「その他法人」12となっており,「その他法人」の比率が29.3%で後期に比べて概して高い。
 以上の2つの事実は,この時期における公益質屋の存在形態の特徴をよく示している。いうなればこの時期の公益質屋は,内務省がその設立勧奨を積極的に行なったとはいえ,いまなお各地域の実態をふまえた自主的な設立と活動をしていたのである。
 こうした公益質屋の自主的な展開は,地域の実態に即した多様な組織,経営形態をとらせる。第5表によれば,次の6点が指摘できよう。
 第1に,貸付資金の源泉は,市町村の一般会予算の特別会計予算への繰り入れや基本財産,政府の低利資金,寄付金および法人出資金などに大別できるが,なかでも特別会計予算や法人出資金が最も多い。この点で後期の公益質屋が,政府の補助金や低利資金に強く依存しつつ発展したのと大いに異なっている。
 第2に,質草は私営質屋の場合と同様に,衣類を中心に日用品,家具,その他確実な動産が主であるが,公益質屋の趣旨から,貴金属などの質受け拒否(兵庫県都賀村,大阪市天六),また農漁村地帯の特殊性を考慮に入れた土地・建物担保貸や米券担保貸(細田村,宮城県坂元村,・北海道焼尻村)など私営質屋とは違った個性的な対応が看取される。
 第3に,貸付歩合(掛目)は,時価の70~80%以上のところが多く,私営質屋よりも高率となっている3)。質置主にとってみれば,それだけ有利な借入が可能であった。
 第4に,貸付利率は,地域によってまた貸付金額によっても相違があるが,おおよそ年利10~25%である。私営質屋に比べれば,この数値はかなり低利であり,後期の公益質屋のように貸付利率が年利15%以下に法定されることもなく,自由であった。なお重利の弊害を除き,半月利計算を採るところも存在している。
 第5に,流質期限は4ヵ月のところが多いが,公益質屋の特徴を示すものとして顧客の事情によっては,その延長を認める場合があった。
 第6に,流質物の処分方法は,競売が圧倒的に多く,私営質屋が古物商へ売却するのと異なっている。なお注目を要するのは,流質物の売却益が質置主に還元されるという事実である。
 以上の公益質屋の経営にみられる多様性は,おそらくヨーロッパの公益質屋制度を地域の実態に即応させて移植した結果によるものであろう。しかし私営質屋に対する影響は,いまだ質屋数が少ないため,ほとんど無視できるほどであったが,当該制度が法律によって公認され,政府の積極的な支援体制が整うや,私営質屋に脅威を与え,全国質屋組合連合会の再編・強化(昭和2年),公益質屋反対運動を促進することになるのである。
第5表 公益質屋の組織および営業規則

 2. 公益質屋法公布後の展開
 公益質屋法が公布された以降の公益質屋は,どのような特徴をもち,またどのように展開したであろうか。はじめに,当期の公益質屋の全国的展開の実態を確認しておきたい。第6表によると,店数は昭和2年の81から同10年の1,079へ,年度内貸付額はそれぞれ166万2千円から1,198万9千円へ約10倍強の伸びとなっている。こうした飛躍的な発展は,設備費(敷地購入費,倉庫,事務所建設費,既設公益質屋の改良及び拡張に要する費用など)の2分の1国庫補助や,低利資金の供給など政府の手厚い保護によるもので,わけても5年3月の貸付限度の拡張(1口50円,1世帯300円),7年6月の時局匡救事業の一環としての公益質屋200カ所増設,並びに低利資金360万円の供給などに支えられていた。
第6表 公益質屋の展開
 かくて公益質屋では,貸付財産のうち預金部の低利資金が驚くほど増加し,そのウェイトも高くなった。すなわちこの政府資金は,昭和3年には96万7千円で貸付資金総額262万8千円の36.8%であったが,同11年になると実に87.7%に上昇している。したがって当期,とりわけ昭和5年以降の貸付資金の急増は,その殆んどが政府資金によって賄われていたといっても過言ではない(第7表)。もっともこの貸付資金は,私営質屋のそれに比べるとかなり少なく,たとえば昭和12年中における全国公益質屋の貸付額2,185万3千円は,大阪市内の私営質屋の貸付額2,109万6千円にほぼ匹敵する程度であった。
 ところでこの公益質屋の目覚しい発達も,昭和10年3月,社会局長官名で出された「公益質屋の設備計画認可及国庫補助に関する通牒4)」によって補助金が打切られるや停滞してしまい,同15年には店数1,127,年度内貸付2,570万9千円にすぎなかった。
第7表 公益質屋の貸付財源
 次に,公益質屋の地域展開の状況をみよう(前掲第4表参照)。昭和13年5月末における大都市地帯の店数は185で,総店数1,142店の16.2%,貸付資金は435万3千円で貸付資金総額1,547万4千円の28.2%であり,大正14年の比率と比べると大幅に低下している。なお他の世帯については,東北の180店,221万1千円,中国の154店,141万6千円,九州の102店,127万円がこれに続き,概して後進地帯の増勢が目立っている。
 かかる公益質屋の地域展開は,すでにみた質屋の貸付基盤の変化とまさに逆行している。この不整合さは,現実を無視した政府の農村匡救政策推進の結果にほかならない。なおこの特異な地域展開は,いうまでもなく貸付階層の変化をも伴っている。いま第8表によって公益質屋の職業別利用者比率をみると,労働者・俸給生活者は,昭和2年には総数の50%であったが,同12年には40%に下り,逆に小商人が15.1%から20.5%,農民が8.8%から13.4%へと増えている。したがって,貸付地帯が大都市から農村へ変化したとはいえ,農漁民に対する貸付は思ったほど伸びておらず,おそらく地方における零細商人や「その他」に含まれるであろう雑業層を中心に増加したものと思われる。
第8表 公益質屋の職業別利用者数(内務省社会局調)
 最後に,公益質屋の組織,経営形態の変化を問題とする。第1に,経営主体別には市町村営が急増し,公益法人はわずかながら減っている。すなわち,前者は大正14年の29から昭和16年の1,048,後者は12から11となっている。この事実は,前述した政府資金の供給増大に支えられて,市町村が社会政策施策として,積極的に質屋経営に乗り出した結果を示すのであろう。ここに資本家をはじめとする寄付金の募集が公益社会事業によって奪われてしまい,私営社会事業の発展の余地が狭められたといえよう5)。
 第2に,前期の公益質屋にみられた経営面での自立性が,公益質屋法の公布と相まって薄れたことである。なかでも土地・建物担保貸が廃止されたことは,その象徴的な出来ごとであった。
 しかし,このように経営の一元化が進む中で,独自の経営形態も現れた。分庫制度の採用がそれであり,簡単に紹介しておこう。この制度は,福島県堂島村公益質屋が採用したもので,とくに農村に適合性をもっていた。当質庫では,いわゆる農村村落の拡散性に対処し,同時に質置主への利便をはかるために,本庫のほかに各村落に分庫を設置し,①質物の一時的保管,②質物保管証(伝票式)の交付,③質物に対する貸付見込額の評定,などを行ない,また質置主に対しては,①農産物(とくに穀類)などの重量質物の運搬による手数と経費の軽減,③分庫事務担当者との間の信用確認の便宜,④流質期限の到来その他の便利,を供与した6)。
 この制度は,公益質屋事務研究会でも取り上げられ,また岡山県久世町,同県落合町でも採用されたが,残念なことにそれ以上普及することはなかった7)。

 注
 1) 長岡隆一郎「公益質庫」『東京朝日新聞』大正15年11月21日。
 2) 東京市政調査会編『公益質舗』大正15年,169-70ページ。
 3) 大正初期における私営質屋の貸付歩合は,質物価格のおおよそ30~50%位であった。日銀調査は,次のように指摘している。
 「……質置主ノ方面ニ就テ問ヘハ彼等ハ日ク,質屋ノ貸金ハ質物ノ種類ニ依リ常ニ同一ナラサルモ,質物価格ノ半額若クハ三分ノ一ヲ超ユルコト極メテ稀ナリ」『質屋ニ関スル調査』大正2年,『日本金融史資料』明治大正編,第25巻に再録,91ページ。
 4) この通牒の内容については,『社会事業彙報』第9巻第1号,昭和10年4月,36ページ参照。
 5) 牧賢一「私営社会事業に於ける協同組合意識の自覚」『社会事業研究』第17巻第7号,昭和4年7月,2ページ。
 6) 詳しくは,社会局社会部編『公益質屋の実例』(公益質屋資料第1輯),40ページ以下参照。
 7) 清水虎雄「農村金融と公益質屋」『社会事業』第15巻第2号,昭和9年5月,25ページ。

Ⅲ 協同組合質屋の特徴と展開

 協同組合質屋は,いわゆる公益質屋と同様に下層階級を対象とした社会政策的施策のひとつである。その特徴を挙げると,金融機関の中に社会事業的性格を濃厚に織り込みながら,政府ではなく民間主導の下に経営が行なわれた点にある。したがってこれも一種の公益質屋の範疇に入れてよいであろう。
 ところで,本来中産階級の維持を目的に設立された信用組合が,なぜ下層階級を対象とした質屋経営に乗り出したのか,その展開過程の特質はどのような点に求められるであろうか。だが,この種の質屋の数は少ない。そこでここでは,便宜的にわが国ではじめて設立された上田市共同質庫信用組合(上田質庫組合と略称)を中心に,考察を進めてゆくことにしたい。

 1. 協同組合質屋の特徴と普及
 上田質庫組合が設立されたのは,大正15年12月である。これを嚆矢として中ノ郷質庫信用組合(昭和3年6月),都城質庫信用組合(同年7月),横浜庶民信用組合(4年7月)などが相次いで誕生した。このほかに商工業者への商品担保,庶民への質物担保貸を営む組合が全国で30ヵ所ほどあったとされているが1),その実態は明らかでない。
 まず,協同組合質屋制度の特質を知るため,上田および中ノ郷両質庫組合を取り上げる(第9表参照)。もっとも両組合は,存立基盤がそれぞれ地方中小都市と大都市におかれており,また設立母体や理念も異にしている。したがって両者の間には,当然に組織,経営形態に差異がみられるが,ここではできるだけ共通項を摘出してゆくことにしたい。
 第1に,設立の契機は,公益質屋がそうであったように,高利貸・私営質屋から下層階級を守る点では同じである。そしてその理念も,社会連帯思想(上田)やキリスト教的隣人愛(中ノ郷)といった相違があるにせよ,両者とも自主的な相互扶助をモットーとしているかぎりで共通している。
 第2に,組織は組合形態をとった金融的社会事業としての性格をもっている。公私質屋とは,貸付対象が組合員に限定されている点で,また一般の信用組合とは,組合員の構成が義務組合員と利用組合員(または特志組合員と一般組合員)とに分けられ,そのうえ組合事業推進のため区長や方面委員などと密接に結びついている点で,それぞれ違っている。
第9表 上田及び中の郷両質庫信用組合比較(設立当時)
 ところで,この義務組合員というのは,富裕者である彼らが,組合に多額の出資と低利の貯金を行ない,下層階級である利用組合員の社会・経済的向上をはかろうとするもので,後にふれる社会連帯思想の1つの現れであった。
 第3に,資金源泉が一般組合と同様に出資金,積立金,貯金から構成されている点で変らないが,①等しく出資金といっても,下層階級の出資能力を考慮して1口1円,10回分割払といった便宜を与えていること,②貯金も,もともとこれをなしえない階級を対象としているので,さまざまに工夫された形態,たとえば上田質庫組合の場合には,借金の支払利息の一部を強制的に貯金させること,③寄付金は,親組合や上部機関が質庫組合の資金吸収力の弱さをカバーしていること,などである。
 第4に,収益は組合が利益法人である以上,組合員に配当されてしかるべきであるが,実際には無配当全額積立か,あるいは低配当となっている。
 第5に,協同組合質屋は,産業組合法と質屋取締法の規制を受けるが,しかし公益質屋法の適用外となっている。この公益質屋法からの除外は,当組合の社会事業的側面を助長するうえで大きな障害となった。というのは,公益質屋に与えられた建築費補助の恩典が享受できないうえ,組合員外に対する貸付が認められていないからである。
 こうした特徴をもつ協同組合質屋は,公益質屋のように順調に成長したとはいえず,事実昭和4年以降設立がストップしてしまった。そのことは,協同組合質屋の法制化問題と密接な関係をもっているので,次にそれをみる。
 いまその手掛りをえるため,第10表を掲げる。協同組合質屋の法制化間題は,埼玉県忍町信用組合が第2回全国市街地信用組合協議会(大正11年10月)に,「市街地信用組合にて公益質屋を兼営するの件」を提出したのがその嚆矢である。
第10表 協同組合質屋の法制化運動
同案は否決されたものの,その後当該問題は議題として頻繁に提出された。その背景には,上田質庫組合の出現,引き続き公益質屋法の公布があった。この問題が長野県市街地信用組合協議会のつき上げによってとくにクローズ・アップされたのは,第5回(昭和2年9月)および第6回全国市街地信用組合協議会(3年10月)においてであった。そして産業組合中央会をはじめ三重,長野,青森,埼玉などの関係機関でも,質庫組合に対する公益質屋法の適用要請を相ついで提出し,第6回大会においては,ついにそれが決議されるにいたった。
 これを受けた産業組合中央会では,検討の結果法制化しないこととし,第7回市街地信用組合協議会(4年10月)および第26回全国産業組合大会(5年4月)で報告している。その理由の1つは,動産担保貸はすでに信用組合にも認められており,改めて法制化の必要がないこと,いま1つは,公益質屋法の適用を認めると,貸付対象を組合員外にまで拡げねばならず,組合原則に反すること,であった2)。
 だがこの決定はきわめて曖昧である。つまり一方で,協同組合質屋の機能を肯定しながら,他方で,組合原則をたてにこの機能の拡張を拒否しているからである。こうした決定を下した背景には,当時市街地信用組合の主管をめぐって農林省と大蔵省の間に争いがあったし,また産業組合主義を標榜しつつ資本主義の改良をはかろうとする千石興太郎ら産業組合指導者たちが,産業組合機構の中に下層階級を包摂した協同組合質屋を加えることに極度な警戒を示したためではないかと考える。
 もっとも,協同組合質屋に対する法制化問題は,これで終ったわけではなかった。たとえば第4回(昭和9年10月)および第5回長野県市街地信用組合協議会(10年11月)でも,質庫組合の拡張と法制化が問題となっている。それは産業組合拡充5ヵ年計画(8-12年)に基づく組合員の増加策として下層階級の組合加入が問題となったが,その促進策の1つとして質庫組合が取り上げられたのであった3)。かかる経緯があるにせよ,協同組合質屋は昭和4年をもって法制化,それによる組織成長の途が閉されてしまったのである。

 2. 上田質庫組合の設立
 ここでは,上田質庫組合の設立経過を追いながら,その特徴にふれる。その設立の契機は,客観的及び主体的との両側面からとらえられる。
 客観的側面としては,社会問題の本格的発現と,これに対する政府の下層階級対策のたちおくれが指摘できる。よく指摘されるように,当県の主要産業は蚕繭糸であり,大正15年の『長野県統計書』によれば,それは全生産価格の約70%を占めている。上田市の場合にもこれと変らなかった。ところで投機的に動いていたこの繭糸価は,大正9年の反動恐慌後不安定の度を増した。このことは,当然のことながら当地の金融機関の動揺を招き,その再編成を必至とした。その編成替は2つある。1つは,弱小銀行の整理・統合であり,11年4月,佐久商業(資本金25万円),信陽(100万円),神川(50万円),小布施(25万円)の各行が合併し,中信銀行が新設された。いま1つは,中小商工業者を基盤とする信用組合の設立であり,城下信用販売購買組合(大正9年3月)と上田市信用組合(11年2月)がそれである。
 しかるに,これら近代的金融機関の埒外におかれた下層階級に対しては,十分な施策が講じられないまま,高利貸・私営質屋の跳梁にまかされていた。ただ9年10月に信濃同仁会が設立され,いわゆる融和運動が始められたが,その活動は精神面に偏っており,したがって下層階級の社会的向上をはかるには,どうしても経済的施策の強化が必要であった。
 こうした施策を促進するには,社会政策や社会事業に深い関心をもち,しかも金融業務にも通暁した人物の登場が不可欠であった。次に述べる成沢伍一郎は,まさにそうした人物であった。
 さて,成沢は,大正3年7月,東京帝大法科大学を卒業し,直ちに家業(絹紬買次商)を継いだ。そして大正15年には,第11表のごとく上田市における政・財界および社会事業界で幅広く活躍するようになった。なかでも彼がとくに関心をもったのは,上田市信用組合と信濃同仁会であった。
 成沢のこうした行動や思想は,1つには,彼の在学当時の東京帝大が社会政策学派のメッカであり,ことに彼が私淑していた吉野作造が社会連帯思想を支持していたこと,なお同級生で後に社会事業官僚として名をはせた田子一民(大正11年当時,社会局長)と守尾栄夫4)(15年,同局部長),また郷里上田市の生んだ社会事業家小河滋次郎がいたことが,彼に何らかの教唆を与えたものと思われる。
 そこで改めて成沢の思想をさぐってみよう。彼は日本的な一視同仁観(天皇の下での人民の平等,国家の健全鞏固な発達5))を前提に,その実現の方法としてデュルケームやレオン・ブルジョアの社会連帯思想6)(社会内部の欠陥を他の一部で補おうとする社会有機体説)を併含していた。かかる思想の具体化がほかならぬ協同組合質屋であった。
 では当組合は,どのような経緯をへて設立されたのであろうか。前述のごとく,協同組合質屋や下層階級に対する貸付方法が検討されたのは,第2回全国市街地信用組合協議会であり,県内では第2回長野県市街地並に準市街地信用組合協議会(大正13年10月)であったが,その反応はきわめて鈍かった。ただここで注目しておきたいのは,長野県の協議会で松本信用組合から提案された「小産階級に対する適切なる貸付方法」に対して,成沢は「小産階級者ニハ先ツ貯金ヲ奨励シテ信用向上の途ヲ講シテ後チ資金ヲ融通スルヲ上策トス猶研究ヲ要ス7)」とノートにメモを書き残していることである。したがって彼は,このころから下層階級に対する金融に関心をもち,研究をはじめたものと想像される。
 この研究過程で成沢が着目したのは,おそらく大正9年10月に,下層階級を対象として設立された大阪庶民信用組合であったと考える。すなわち同組合は,郷里の先輩小河滋次郎の指導の下に,大阪府社会課と方面委員が協力しながら,市長を理理長として設立された8)。
第11表 成沢伍一郎の直治・経済・社会的活動(大正15年現在)
この組合の特徴は,組合員を名誉組合員と一般組合員とに分け,前者の犠牲(貯金利子の低率,出資金に対する低配当)の下に後者の貯蓄奨励(高利子)を行ない,彼らを無産階級から有産階級へ浮上させようとした点にある。
 成沢の質庫信用組合案は,上の貯蓄奨励-信用力向上,これを支える名誉組合員(義務組合員)と一般組合員(利用組合員)との分離・結合(=社会連帯思想),組合と方面委員との連繋を基礎に,①都市下層階級の住居の激しい移動性,信用力の欠如,担保力の薄弱とを配慮した質物担保による資金融通,②貸付金完済者に対する貸付利息割戻制度の創設による貯蓄と貸付との密着,③出資金の10回分割払,などを新たにつけ加えている9)。
 成沢のこの独特の組合案は,大正15年10月ごろには出来上り,直ちに県担当官の
内諾をえたうえ同月19日発起人会,11月2日に市内各区長および方面委員との懇談を経て認可申請,同月27日に開業したのである10)。
 最後に,同組合の設立理念が組合経営にどのように反映されているかをみよう。結論を先にいえば,親組合である上田市信用組合との一体的な経営をはかりながら社会連帯思想を貫徹し,将来この質庫組合員を親組合の組合員に,言い換えれば中産階級に上昇させる役割を担わせたのである11)。
 両組合の関係はこうである。
 第1に,資金面での連繋である。すなわち親組合は,質庫組合の余裕金の預け先機関である一方,質庫組合に対して毎年一定の寄付金を与え,その育成をはかっている。
 第2に,組合役員間の密接な関係である(第12表)。組合長の成沢は信用組合の組合長も兼ね,また理事,監事11名中3名は信組の理事,2名は同主事で構成され,このほかに区長4名,方面委員2名が加わり社会事業としての当組合の発展を期している。なお同組合では顧問制度を採っているが,総員10名中市長を除く9名が信組の理事,監事によって占められているのである。
 第3に,組合員の構成である。前述したように,当組合では社会連帯の実を示し,また資金吸収力の弱さをカバーするため,義務組合員を募っているが,その数は組合員総数の20~30%を占めたといわれている12)。参考までに上田市信用組合員中質庫組合員を兼ねる者を算出すると22.9%である(第13表)。もっともこの数値は,昭和12年当時のものであるから,設立当初にはやや高い比率になるものと考える。そして第14表によって質庫組合の出資口数別構成をみると,義務組合員と考えられる10口以上の出資者は総出資者の16.9%,その出資口数は総口数の63%にも達しているのである。

 3. 上田質庫組合の展開
 ではかかる特徴をもつ上田質庫組合は,どのような展開過程を歩んだであろうか。それは昭和8年から始まった産業組合拡充5ヵ年計画の実行を通して大きく変貌してゆくので,ここでは2期に分けて検討する。
 草創期の質庫組合経営 この時期も仔細にみると,昭和5年大恐慌,そして同年11月に起きた信濃銀行の休業による影響を契機に,さらに2期に細分できる。以下,このことを念頭において組合員数,組合の資金需給関係,組合の収支状況の変化についてみてゆく。
第12表 上田質庫組合の役員構成(大正15年末)
 まず組合員数の動きは,大正15年の395名から昭和5年の1,072名へと急増したが,その後8年の1,154名までは殆んど停滞している。また出資口数も,大正15年の3,323口から昭和3年の4,611口まで増加し,以後停滞状態にある。かかる変化は,利用組合員が増加したにもかかわらず,義務組合員の脱退が相次いだためであった。そのことは,組合員1人当り出資口数が大正15年の8.41口から昭和8年の4.05口に半減した事実に照らして明らかである(表15表)。『事業報告書』は,この実態についてこう述べている。
 組合員ノ増加ニ反シ出資口数ノ減少セルハ持口多キ組合員カ脱退シ小口ノ利用組合員カ多数加入シタルニ依ルモノナリ(第6,7,8年度)
いうまでもなく,かかる義務組合員の脱退の増加は,組合員を支えてきた社会連帯思想の稀薄化,存立条件の脆弱化を意味している。
第13表 信用評定区分別上田市,上田質庫両組合員の構成(昭和12年)
 次に,資金の需給状況を問題とする。当組合の主要勘定を整理すると第16表のようである。資金源泉にみられる特徴は,払込出資金,貯金とも昭和2年から5年にかけて増加したものの,それ以降前述の義務組合員の脱退によって影響を受け停滞している。ことに問題なのは貯金であり,義務組合員の行なう特別貯金が6年にはゼロになっている。つまり恐慌,引き続く不況が彼らの家業の経営悪化,さらに倒産を引き起こし,出資金や貯金のとり崩しを余儀なくさせたのであろう。
 一方.利用組合員の場合には,貸付金の利息が割戻貯金として強制的に組合に吸い上げられるから,本来増加してゆくべきである。しかるに,その伸びは7年以降明らかに鈍ってきている。次に述べる貸付金の減少がその原因である。
第14表 上田質庫組合員の出資口数別構成(昭和12年頃)
第15表 組合員と出資状況の推移(上田質庫組合)
 では資金運用面の特徴はどうであろうか。ここで注目を要するのは,貸付金と預け金の動きである。はじめに貸付金をみると,2年の7,594円から5年の2万622円へと増加しているがそれ以降停滞ないし減少して8年には1万4,189円となっている。この5年以降の減少は,主として昭和大恐慌下の質物価格の低下に基づくもので,資金需要が大幅に低下したためではない。ちなみに貸付口数をあげると,2年1,193口,5年1,455口,8年2,274口となっている。
 そこで,いま少し貸付金の内容についてふれよう。貸付金の用途別内訳は,農工商別生産資金と消費資金とに分けられる。第17表に示したように,昭和6年までは生産資金が消費資金を上回っているが,それ以降逆転している。いうまでもなく,この現象は,不況の深刻化に伴う組合員の生活苦を反映しているといえよう。こうした傾向は,この表では明らかにしえないが,おそらく不況を脱却する10年ごろまで続いたものと思われる。
第16表 上田質庫組合の主要勘定(昭和2~8年)
また当組合と上田市内の私営質屋の1口当り貸付額を比較したのが第18表である。ここにみられるように,当組合の1口当り貸付額は,大正15年の18円50銭から昭和10年の5円83銭へと低下しながらも,私営質屋のそれに比べると,およそ2~3倍高くなっている。このことは,もちろん質草と密接な関係をもっている(第19表)。質草のうち衣類の比重が高いことは,すでにふれたように,わが国の質屋に共通した現象であるが,同時に貴金属,有価証券,米穀,家具の比重も概して高い。通常,私営質屋では,いわゆる嵩張物の質受を拒むところが多い。しかし当組合では,組合員に生業資金を供給するために,むしろ評価可能な質物については出来るかぎり質受したし,また小作人の飯米投売り防止のため米穀担保貸もかなり行ない,それに必要な倉庫を上田市信用組合から借りたほどであった13)。その実情を紹介すれば下記のようである。
 質草は一般営業質屋で嫌ふ処の嵩張物でも評価の出来得るものは成るべく取扱ふ主義で,現に自転車,戸障子,戸棚,鏡台其他家財道具の如きもの迄山積して居る14)。
 ………一口の貸付最高は五十円と限定されて居るが平均では十三円二十銭になって居りお釜を持ち込んで来て一円を貸出したと言ふのが最小額のレコードになってをる質草は庶民金融の本質を現はしてガラクタが多く戸棚,畳,建具,人力車などが幅をきかせて居る……15)。
 ところで当組合の貸付金は,払込出資金と貯金を大幅に超過している。貸付資金の不足は,勧銀や県信連からの借入によって賄われている。その額は昭和2年の5,950円から5年の3万1,483円へと増加し,のち漸減している。言いかえれば当組合は,設立当初からこれらの資金によって支えられた借金組合であった。しかし問題なのは,当組合が借金組合でありながら,反面預け金が多いという事実である。わけても昭和4年以降,その額が1万円を超えるほどになっている。このことは,組合が資金需要の増大を見越して不用意に借入れた結果であり,後に問題となる。
 その預け金先は,第20表のように4~5年が県信連,6~9年が上田市信用組合に高い比重をおいている。
第17表 貸付金の用途別内訳(上田質庫組合)
第18表 上田質庫組合と上田市内私営質屋の貸付比較
この預け金先の変更は信濃銀行の破錠による影響と思われる。というのは,親組合である上田市信用組合の貯金が,信濃銀行が休業した5年11月の180万円から6年5月の124万へと56万円の減少を示し16),幾分なりとも貯金払戻金の確保が必要だったからである。
 最後に,組合の収支状況についてみよう。当期における組合の収支はすべて赤字である。もっともこの数値は,上田市信用組合や組合を脱退した義務組合員の寄付金を差引いているので,実際の赤字はさらに多い。
 このように当組合の赤字が多かったとはいえ,これを社会事業と心得えている成沢ら組合役員にとっては,親組合や義務組合員の援助を受けつつ,利用組合員=下層階級への利益還元→貯蓄増加→親組合の組合員=中産階級への上昇が進んでいるかぎり,設立当初の理念にほぼ適った経営であったといえよう。
 産業組合拡充計画の実施と質庫組合経営 周知のように産業組合中央会は,政府の強力な支援を受けつつ昭和8~12年(第1次),13~15年(第2次)の2度にわたる産業組合拡充計画を実施した。この計画の実施は,質庫組合にとってみれば,その特質が徐々に喪失され,普通の信用組合に解消させられる過程であった。この具体的契機は,この産業組合拡充5ヵ年計画の実行を前提に行なわれた長野県の組合会計監査(8年6月)と,その指導による定款変更(9年1月)とに求められる。いま会計監査の概評をあげるとこのようである。
第19表 質草別にみた年度内貸付金の推移(上田質庫組合)
 本組合ハ大正十五年十二月上田市ノ小産階級ノ金融機関トシテ設立セラレタル組合ニシテ従来余リニ温情主義ヲ採リ質物ノ処分緩慢ニシテ為メニ多数質物ノ在庫アリ資金ヲ固定シツヽアルハ遺憾トスル所ナリ依テ此ノ際速ニ根本対策ヲ樹立シ組合経営ノ刷新改善ヲ為スベシ17)
 県から指示された改善事項及び定款変更条項は,以下の7点である。
 第1は,自己資金の拡充・強化策であり,出資金払込過怠者に対して払込を督励する。その対象となったのは,第1回以降の払込過怠者377名で,極力貯金を出資金に充当させるよう勧奨した(会計監査指示事項)。
第20表 預け金先別金額の推移(上田質庫組合)
 第2は,準備金制度の確立であり,その措置の一環として,特別積立金や退職給与積立金制度を創設した(定款改正)。
 第3は,親組合からの寄付金の受入れ中止,および組合員の増加による質庫組合の経営上の自立をはかる(会計監査指示事項)。なお義務組合員の拡張策として,新たに特別当座預金を開設した。この指示事項は,当組合のもつ社会事業の性格止揚,利益法人への脱皮を意味する。
 第4は,従来の貸付利息割戻比率1ヵ月1銭から5厘への引下げである(定款改正)。具体的にいえば,契約期日までに貸付元利を完済した組合員は,貸付利息1ヵ月2銭(年利24%)のうち月1銭(同12%)が貯金に振り向けられてきたが,これを月5厘(6%)に減率したのである。したがってこのことは,貯蓄奨励→信用力向上→中産階級への浮上といった組合設立当初の理念から大幅に後退したことになるのである。
 第5は,昭和大恐慌期を通して累積した固定貸の整理である。その対象となったのは,10ヵ月以上経過した貸付件数1,274,金額9,522円であった(会計監査指示事項)。
 質庫組合の経営は,これらの改善策の実行を通して急速に好転したが,しかし一方,その個性は徐々に失われることになった。
 当期の組合経営は,昭和15年の戦時体制の強化を通して,さらに2期に細分できる。ここでは,このことを念頭においてみてゆきたい。
 まず組合員数であるが,昭和8年の1,154名から20年の1,348名まで漸増し,その出資比率もそれぞれ60.5%から71.1%へと停滞的ながらも着実に増加している。したがって2度にわたる産業組合拡充計画は,それなりの成果をあげたといってよい(前掲第15表参照)。
第21表 上田質庫組合の主要勘定(昭和9~19年)
 次に,資金の需給関係の変化を問題とする(第21表)。資金源泉の面で注目されるのは貯金の著しい増加である。すなわちそれは,昭和9年の3,584円から19年の6万4,827円へと約18倍となったが,とりわけ14年以降の伸びが目覚しい。その内容をみると,割戻貯金は殆んど横ばい状態であるのに,義務組合員を主たる対象に11年から開設された特別当座貯金が激増している。このことは,質庫組合から一般組合への傾斜を端的にうかがわせる現象であった。
 資金運用面では,預け金と貸付金とが対照的な動きを示して興味深い。というのは,貸付金は9年の1万1,973円から15年の2万8,181円に増加し,のち戦時体制下の資金需要の減退から停滞ないし減少に転じ,19年には2万3,267円となっているからである。その転機となったのは,15年7月から実施されたいわゆる7・7禁令によって奢侈品の売買が禁止され質草が極端に制限された影響であった。
 これに対して預け金は,9年の1万7,775円から14年の1,421円と一時減少したものの再び増勢に転じ,19年には4万8,539円となっている。また有価証券投資も,これまでのように産業組合中央金庫や県信連への出資金だけではなく,15年以降国債,その他が増えてきている。
 最後に組合の収支状況についてみると,この時期になってようやく黒字組合に転換した。そして親組合からの寄付金の廃止や固定貸の整理もほぼ13年までに完了した。
 以上のように,上田質庫組合は,戦時体制期を通して大きく変貌した。組織面では親組合から切り離され,また経営面では,利用組合員に対する貸付よりも特別当座貯金を基軸とする貯金組合へ,そのうえ産組系統機関に組み込まれてたんなる預け金機関に転換した。ここに親組合,義務組合員に支えられて社会連帯の実効を高めようとした設立当初の理念は,殆んど喪失するにいたったのである。

 注
 1) 中ノ郷信用組合編『中ノ郷信用組合五十史』昭和54年,29ページ。
 2) 「第七回全国市街地信用組合協議会」『産業組合』第290号,昭和4年12月,14ページ。
 3) 上田信用金庫蔵『県下市街地信用組合協議会書類』参照。
 4),5) 成沢伍一郎「信濃同仁会の十八年を顧みて」『融和事業研究』第44輯,昭和12年7月,52ページ。
 6) この社会連帯思想と社会事業との関連について詳説したものに田代国次郎『日本社会事業成立史研究』昭和39年,233ページ以下があるので参照されたい。
 7) 注4)と同じ。
 8) 小河滋次郎「社会事業と方面委員制度」『小河滋次郎集』昭和55年,258-61ページ。
 9) 『有限責任上田市共同質庫信用組合事業概要』による。
 10) 上田信用金庫蔵『自大正十五年五月二十五日至昭和弐年十二月三十一日日誌』による。
 11) 注9)と同じ。なおこの考え方は,大阪庶民信用組合と類似している。
 12) 『有限責任上田市共同質庫信用組合事業概要』5ページ。
 13),14) 同上8ページ。
 15) 「質草大きいのは人力車」『信濃毎日新聞』昭和2年3月12日。
 16) この点の詳細については,長野県信用組合連合会編『長野県信連史』昭和50年,238ページ参照。
 17) 上田信用金庫蔵『昭和八年度質庫公文書綴込』による。

おわりに

 以上,わが国における公益質屋制度の導入と展開過程について概観してきた。ここでは,公益質屋の存在意義と限界について要約し,むすびとしたい。
 わが国の公益質屋制度は,高利貸・私営質屋を撲滅するというよりも,その跳梁を牽制する公私混合主義の立場から立法化された。そしてその牽制効果は,それなりにあったものの,必ずしも十分とはいえなかった。その理由を整理しよう。
 第1に,政府の公益質屋政策が,昭和大恐慌期を通して農村に偏重し,存立基盤との乖離が生じたことである。このことは,農村地方の高利貸・私営質屋を圧倒する上で効果があったが,都市のそれに対しては明らかに失敗であった。
 第2に,経営面における制約である。その1つは,何といっても貸付資金が特別会計や法人出資金によって規制されているので,資金需要に対する弾力性に乏しいこと,この欠陥を補完したのが,他ならぬ政府の低利資金であった。いま1つは,流質期限が長いという公益質屋の性格上,貸付資金の回転度が低く,経営効率を悪くしていることである。
 第3に,官僚的運営の欠陥である。初期の公益質屋は,地域の実態に即して運営されていたが,公益質屋法公布以降になると,それが画一化され,個性が失われたこと,また質物の鑑定技術が未熟な段階においては,しばしば欠損を出したこと,さらに営業時間が市町村役場の事務取扱時間と同じ-後に延長-であり,顧客の利用上不便であることなどがあげられる。
 次に,協同組合質屋の存在意義と限界について整理しよう。
 協同組合質屋が,社会連帯思想やキリスト教などに導かれた社会事業である以上,救貧および防貧的内容をもちつつ,下層階級の社会的・経済的向上をはかり,階級的平衡をうちたてねばならなかった。そのためには,次の2つの問題処理が必要であった。1つは,高利貸・私営質屋の跳梁から下層階級を救済することであり,低利な貸付,貸付面での不合理性の除去,流質期限の延長,および流質処分益の質置主への還元などが,その具体的な施策であった。いま1つは,下層階級の貯蓄心の涵養,生活の安定,中産階級への浮上であり,貸付利息の割戻金制度がその媒介的役割を担っていた。
 協同組合質屋は,この機能を果しつつ,彼らを中産階級に浮上させ,資本主義の改良,社会主義に対する防塞の役割を貫徹しようとしたのである。
 では,協同組合質屋の機能はどのような限界をもっているのであろうか。産業(信用)組合は,本来,中小商工業者や小農民など中産階級の維持を目的とした組織であり,それ以下の下層階級は原則として除外されていた。彼らを加入させる方法は,直接にでなく,農村では生活共同体を基礎とした部落実行組合を媒介として可能であった。しかし市街地に存在する質庫組合の場合には,生活共同体の基盤が弱く,そのうえ彼らの居住の流動性,信用力の低さを前提とするから,生活用品を主たる質物担保とし,しかも他機関との連繋,援助が必要不可欠であった。たとえば政府-補助金,低利資金,親組合・機関-寄付金および余裕金の運用先,区長,方面委員などの町内有力者=義務組合員=出資,貯金,事業奨励金,その他がそれである。
 しかし,かかる諸連繋は,さまざまの社会・経済的諸条件によって寸断される。たとえば政府の補助金(家屋建築費)は,公益質屋法の適用を受けられぬために交付されなかったし,低利資金も上田質庫組合の場合には,余裕金があるとの理由で供給がストップされ,また義務組合員は昭和大恐慌期を通して脱落し,さらに産業組合拡充計画の実施や戦時体制の強化に伴う親組合からの寄付金が禁止されてしまったからである。ここに質庫組合を支えてきた社会連帯思想は,いや応なしに稀薄化し,たんなる信用組合化を余儀なくされたのである。こうした社会・経済的条件が存在せず,政府の積極的な支援があったならば,わが国における公益質屋の存在形態も大きく変ったであろう。