技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第2章:水利開発史をめぐる技術と推進者
著者名: 旗手 勲
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第2章:水利開発史をめぐる技術と推進者

 Ⅰ 日本における水利技術の特徴

 (1) 日本の水利開発と小農
 稲作を農業の基幹とするモンスーン・アジア地域のなかで,日本は資本主義的な体制を先発させることができた最初の国である.他方,発達した資本主義諸国のなかでは,日本は農業の資本主義化がほとんど進まず,零細な小農経営が圧倒的に優勢である.そしてこれらの特徴が,日本の資本主義を支え、さらにその「二重構造」を維持した基本的な条件と考えることができる.
 もともと日本の稲作は,季節的に適量ともいえる降雨や融雪,夏季の高温と日照,地形の傾斜による用水の流下などの自然的な諸条件を活用し,亜熱帯地方に原産した水稲を,農民や支配者たちが栽培したものである.土地と水,改良した品種や肥料,農具などの生産手段と,綿密な栽培管理によって,稲作は各時代ごとに,農作物のうちでもっとも高い土地生産性をあげることができた.
 そして日本の場合,初めは用水の得られる場所に水田をできるだけ開発し,水が得にくい限界地のみが畑地に残ったといえるほどである.このように,日本の自然条件を活かし,それに働きかけることによって,水稲はもっとも安定した作物となり,弥生時代(B.C.300-A.D.300ごろ)から2000年以上も主食の地位を占めてきたわけである.
 ところで,稲作に必要な用水を,降雨などの自然的な条件のみで入手できる「天水田」は,日本でもきわめて少ない.ほかの地域から余った水を導入したり,非利用期の水を貯留することなどが必要である.したがって,自然の余水を堰や水路,溜池やダムなどの灌漑施設をつうじて,取水し,分水し,導水し,配水せねばならない.このため,灌漑施設の建設と補修に必要な土木技術の発達度合いが,日本における稲作の発展段階を規定してきたほどである.
 しかも稲作は,生存に不可欠な主食の役割を果たしたのみではなく,貢納や年貢,地租や小作料として,その時代時代の支配者たちの致富の源泉でもあった.したがって,稲作を拡大充実させる灌漑施設を,積極的に建設・補修できた階層のみが,日本の場合でも支配者たりえたのである.
 とくに水は,「高きから低きに流れる」という自然的な特性をもっているため,これを特定の個人や地域が独占することができないという性格が強い このため,水量や水質利水や排水などをめぐり,上流と下流などの地域的な対立がはげしい.さらに,農業と治水,あるいは発電や都市用水(工業・上水道)などとの,産業間の競合も激化してくる.そして,これらの地域的または産業的な「我田引水」を調整できたのは,最終的には支配者だけであった.
 とくに稲作は,用水が耕地などと複合することによって,高い生産性を結果する.さらに品種の改良や施肥,深耕や排水などの綿密な栽培と管理によって,耕地の豊度を増大できる.したがって稲作は,営農の意欲に燃えた小農経営には,かえってより適合した作物といえる.これらの事情から,とくに江戸時代より現在の日本農業に至るまで,零細な稲作経営が優越できたわけである.
 同時に,用水の共同利用という特徴があるため,村落の井組や水組などから展開した水利共同体が,昔から水を利用したという事実を基盤にした慣行にもとついて,農民の自治的な管理が持続してきたのである.反面,小農たちの自立性が弱いといわれる東南アジアの稲作農村などでは,日本のような水利共同体は一般に支配的ではないといえる.
 他方,小農経営では資力も乏しく,また水をめぐる地域的な利害対立を調整することはむずかしい.受益する地域が広汎な灌漑施設については,支配者が建設と管理の責任を負わざるをえない.逆に支配者たちは,これらの基幹的な施設の保持と用水の調整を軸にしながら,水利共同体を媒介することによって,農村と農民を把握できたのである.
 (2) 水利技術をめぐる導入と普及
 農業水利を不可欠とする日本の稲作は,国内から自生できなかった以上,海外からの移民や技術などの文化の導入を契機に発展せざるをえなかった.
 事実,日本の水利開発は,紀元前2-3世紀ごろからの発生期をはじめ,7-8世紀ごろにおける古代国家の成立,あるいは荘園制(8世紀中葉-12世紀)を基礎にした平安時代など,いずれも中国における水利技術を,直接あるいは朝鮮半島を経て導入したことを契機としている.たとえば,鉄器による取水施設や溜池,水路および耕地区画などの建設や,平安時代における水車や竜骨車[りゅうこつしゃ],「はねつるべ」や「なげつるべ」などの水利用具である.
 もちろん,これらの水利技術の導入も,日本における雨量や気温,地形や地質などの自然条件に適合した形で再編されなければ,普及は行われない.したがって日本の稲作は,.初めは中国や朝鮮南部と似た自然条件にあった西日本地方や小河川地帯を中心に普及していったのである.やがて寒冷地に合った品種の改良などが進むにつれて,稲作は東日本地方にも伝播した.さらに田植えや「根刈り法」(それまでの穂首[ほくび]刈りから,鎌で根元から刈る),脱穀や施肥などの栽培技術が拡がった.また,これまでは水のかからなかった高地に,水車や「なげつるべ」などで揚水できるようになるなど,稲作の面積と生産力は増大していった.
 こうなると,古代には日本の稲作も大規模な面積を,農奴[のうど]などを使った領主たちが直営していたが,それよりも規模の小さい面積を隷農[れいのう](土地は借りるが,農具や種子などをもち,自分の責任で経営する農民)に耕作させた方が,収量や所得も増大するようになってきた.とくに12世紀ごろから,排水が良く,乾田の多い西日本地方から,秋に稲を収穫した後に冬まき麦を植付ける二毛作が拡がった.この結果,直接に耕地を経営する生産者の自立性はさらに伸び,勤労意欲も上昇しやすかったといえる.
 このように日本における水利開発は,中国を中心とした優れた水利技術が導入され,やがて日本の自然と社会の条件に適応した方法が普及していったところに特徴があった.
 この動きは,13世紀における二度の元寇(1274(文永11)年・文永の役,1281(弘安4)年・弘安の役)と中国人や朝鮮人を含めた「大和寇時代」(1336(延元1)-1639(寛永16)年ごろ)に,ふたたび活況を示した.中国の宋代,あるいは元・明代に蓄積された優れた水利技術が,日本に導入され,応用され始めた.これらが後にのべる,室町時代(1338(延元3)-1467(応仁1)年),とくに戦国時代(1467(応仁1)-1575(天正3)年ごろ)における日本の水利技術を飛躍的に発展させる契機になった.そして,これまでは治水が不可能であったため,水利の開発が及ばなかった中河川の本流や,筑後川や木曾川,利根川や信濃川などの大河川における稲作が,初めて進行した.これらを基礎にして,いわゆる「戦国の群雄」が生まれ,初めて日本的といえる水利技術が成立してゆく契機になったのである.
 さらに徳川家が日本を統一した江戸時代(1603(慶長8)-1867(慶応3)年)になると,中国の清代における水利技術も導入され,日本の各地における在来技術と複合して,「伝統的」といわれる土木技術が完成した.そして幕府が,ヨーロッパとの交流を禁じた鎖国政策のなかで,唯一の開港地であった長崎をつうじて,オランダを中心とした「近代技術」も導入された.たとえば,石塘[いしども]などの石積みの治水や水利の工法が,九州を初めとする西日本地方から普及してゆくのである.
 やがて,1868(明治1)年の明治維新を契機に,資本主義の道を選んだ日本は,欧米の先進諸国から近代的な水利技術を大規模に導入した.しかし気候や地形,地質や土壌などの自然条件に左右されやすい水利は,工業や商業などの「非自然的産業」とは異なり,日本の風土に規定される.それまででも,2000年以上にわたって中国や朝鮮などの優れた技術を導入し,日本の風土に適合した「伝統的な水利技術」を発展させていた農民や支配者たちは,ふたたび外来の近代技術を日本の条件に適合させようとしたのである.ここに日本的といわれる水利開発が,資本主義の展開のなかで進行していったわけである.
 以下,日本の水利開発をめぐる問題を,日本的な水利技術が成立した戦国・江戸時代と,欧米技術を中心とした近代化が試みられた明治以後の二期にわけ,それぞれの.水利技術の特徴と,その推進者について簡単な整理を行いたい.ただし,第2次世界大戦の終わった1945(昭和20)年までにとどめた.

 Ⅱ 日本的な水利開発の展開

 戦国時代(1467(応仁1)-1575(天正3)年ごろまで)から織田・豊臣(1575(天正3)-1600(慶長5)年ごろまで)を経て,江戸時代(1603(慶長8)-1867(慶応3)年まで)にかけ,日本の歴史上で古代に次ぐ水利開発の躍進期をむかえた.
 そしてこの時期に,日本独特ともいえる伝統的な水利技術が,初めて形成されるのである.
 (1) 河川の開発と封建的統一
 i 戦国大名と河川の開発
 応仁の乱(1467(応仁1)-1477(文明9)年)からの約100年間は,荘園制を基盤にしていた室町時代の守護領国制がはげしい「打ちこわし」をうけ,戦国大名-近世大名が形成され,封建制の再編が実現した.
 これらは室町時代に展開した水系中心の村落自治体である「惣村[そうそん]」や,これを基礎にした農民反乱や新興宗教の一向[いっこう]宗徒による一揆などが,まず支配体制を崩したことが前提になっている.さらに以上の社会的な動揺の過程で,実力を伸ばしてきた「地侍[じざむらい]」(有力な上層農民が武士化したもの)や「国人[こくじん]」(地方の地頭や土豪が武士化したもの)などが,支配者である守護や領主などを排除する「下剋上[げこくじょう]」が拡がり,約800年も持続していた古代からの荘園制はついに崩壊してしまった.
 これらの新興武士層を自分の家臣団に組みいれた戦国大名たちは,それまでの分散した領国制から,支配地を統合する「一円[いちえん]支配」を固めた.そして自領の富国強兵と殖産興業をはかるために,まず未開地の水利開発に力を注いだ.築城などの軍事技術が進み,また貨幣鋳造や製鉄などを増大するための鉱山開発にともなって排水やトンネルなどの工法が向上し,これらを治水や利水に応用したのである.
 その結果,これまでの土木技術では治水が困難であった大河川の上・中流や中河川の本流などについても,水利の開発が進展した.とくに大河川の多い日本の中部・関東・九州西部地方には,これらの治水と水利の開発にもとづき,新田開発をはかった支配者たちが輩出し,「戦国の雄将」として「天下統一の覇」を争ったのである.
 たとえば,北条の酒匂[さこう]川・荒川や今川の安倍川,上杉謙信の信濃[しなの]川や武田信玄の釜無[かまなし]川・笛吹[ふえふき]川,毛利の太田[おおた]川などが,当時の有名な治水開発である.そして,これらの治水にともない,それまでは未開発であった洪積台地や扇状地,沖積地などに新田が開かれ,また水が不足していた旧田の改良も進んだ.
 ii 封建的な再編と水利技術
 とくに日本アルプスを含む中部地方は,降雨と融雪にめぐまれ,木曾川・信濃川・天竜川・富士川などの大河川が多い.これらの治水と利水に成功した戦国大名のなかから,上記の雄将が生まれ,ついに織田信長・豊臣秀吉・徳川家康によって,「天下の統一」が完了するのである.
 そして織田の家臣から権力者となった豊臣は,木曾川を改修して木曾材の流送や美濃(現在の岐阜県)地方の開田につとめ,また京都周辺の木津[きづ]川・宇治川・桂川など淀川水系の治水と利水を実施した.これらにともなう大河川ぞいの新田開発や水運などを基礎に,豊臣が天下を統一する物的条件が増大したといえる.
 このほか,戦国時代に織田と最後の覇を争った武田信玄も,独創的な治水技術(その流派は甲州流とよばれた)によって水利開発を拡めた.しかし武田の根拠地は,甲州(山梨県)などの盆地や河谷を地盤にした農村が主体であり,大河川と沖積地を開発した織田や徳川に比べ,その拡がりは限定されていた.
 とくに1543(天文12)年にポルトガルから日本へ伝来した鉄砲技術を,織田・徳川らはいちはやく実戦化し,旧来からの騎馬戦に重点をおいた武田勢を圧倒した.この結末が1575(天正3)年の「長篠[ながしの]の戦」であり,日本がいわば中世から近世へ移る画期点となったものである.
 iii 太閤検地と近世農民
 織田信長の死後(1582(天正10)年)に実権を握った豊臣秀吉は,ただちに農民の土地所有権を確定する「太閤検地」を開始した.これまでの荘園制における重層的な支配体制を廃止し,「一地一作人」と定めた「本百姓[ほんびゃくしょう]」(自作農)から定額の年貢を徴収し,大名が直接統治するという「近世封建制」が出発した.
 さらに秀吉は,1588(天正16)年からは農民の所有する武器はすべて徴発するという「刀狩り」を強行した.そして農民は生産に専心し,武力は支配者である武士階級のみが所有するという「兵農分離」を実施したのである.このように,欧米諸国には珍しい支配階級による武器独占にともなって,以後は国内の治安が比較的安定しはじめた.しかし同時に,14世紀半ばころから興隆した民衆の活力は,これを契機として政治抗争では抑圧されてしまうのである.
 以上のような日本における封建制の再編は,その基盤として耕地の拡大と農民の自立が前提になっている.戦国時代からの新田開発によって,日本の耕地面積は荘園制時代の10-15世紀平均の約105万haから,太閤検地(1598(慶長3)年ごろ)では約206万haへと約2倍にふえている.さらに二毛作や排水,品種改良や施肥,販売作物の増大などの結果,農業の生産力と所得は上昇と安定を示した.
 とくに耕地の拡大によって,農家の二・三男や名子[なご]・下人[げにん]などの隷属民が一家を独立させうるようになった.やがて夫婦を中心にした小家族が,農業経営を自立できるようになり,従来からの名主層とともに,「本百姓」を形成した.これらが近世封建制の社会的な基礎となり,独立した小農民たちは喜んで生産にはげんだといえる.農民の首をしめるような「刀狩り」が,それほどの抵抗もなしに受けいれられたのは,永い戦乱に飽いた民衆が生産と生活の安定と向上を求めたことを背景にしている.そしてこれらの事情を前提にして,農民の耕作権と年貢の割合を確定した太閤検地が進行したわけである.
 (2) 日本的な水利技術の展開
 i 耕境の開発と江戸幕府
 戦国大名や近世大名が発展させた水利技術は,各地の自然的あるいは社会的な諸条件に対応して,上方[かみがた]流(近畿地方から西日本に発達)や美濃流(木曾川水系を中心),甲州流(武田信玄の流派)などとよばれた.これを集大成したのが,江戸幕府の官僚技術といえる初期の関東流(関東代官になった伊奈備前守が開祖,関東地方から発達),中期の紀州流(紀州藩主から8代将軍になった徳川吉宗の技術者であった井沢弥惣兵衛[いざわやそうべえ]が開発)である.
 この背景に,徳川家康の関東地方への転封がある.1590(天正18)年に日本を統一した豊臣秀吉は,最大の強敵であった家康を,京都から遠い江戸へ移した.かえって家康は関東に基盤をおいた鎌倉政権の故知にならったのであろうか,当時は未開地や荒地の多かった利根川流域の開発に力を注いだ.
 そして戦国時代から発達していた水利技術,たとえば大河川の上流から取水して,トンネルや長大な水路を掘り,原野や畑地の多かった洪積台地や段丘,扇状地の扇央などに開田する方法などを応用した.さらに大河川の中流から取水して沖積平地を開発する技術をひろめ,また治水のために本流の瀬替えと蛇行を行い,.高水を遊水[ゆうすい]地や堤外[ていがい]地(堤防にはさまれた河川の余地)に越流させる技術が進んだ.
 とくに,1603(慶長8)年に家康が江戸幕府を確立したあとには,これらの関東流の技術によって,利根川中流の葛飾[かつしか]平野や木曾川中流の尾張平野などの新田開発が拡大した.徳川政権の場合でも,これらの耕境地域を開発し,それにともなう富強を前提にして,はじめて日本を統一できたといえる.
 そして,これらの技術は,各地の在来技術と融合しながら,それぞれの近世大名も自領の開発に応用したのである.たとえば,仙台の川村孫兵衛[かわむらまごべえ],岡山の熊沢蕃山[くまざわばんざん],土佐の野中兼山[のなかけんざん],佐賀の成富兵庫[なるとみひょうご],熊本の加藤清正などは,当時の有名な水利官僚や領主たちである.
 なおこれらにともなう水利開発には,一面では中国からの技術導入の影響を推測できる.中国の明(1368(応安1)-1644(正保1)年)時代には,その後年に黄河の改修が進んでおり,これらの知識や技術が交易の拡大とともに流入したことが考えられる.とくに中国の土木技術書である『天工開物』や,農業書の『農政全書』などが導入されており,これが日本の水利技術にも応用されたものといいうる.たとえば,中国四川省の都江堰を参考にしたといわれる岡山県高梁[たかはし]川の湛井[たたい]堰や,筑後川の山田堰,あるいは佐賀の「象の鼻」などの取入堰がみられる.
 ii 日本的な水利技術の完成
 江戸時代において,小農民経営からの封建地代に寄生していた近世の領主財政は,収入を上まわる支出増にともなって18世紀ごろから窮迫してきた.これを補うため,諸国の大名たちが商人などから借用(大名貸しという)した金額は6,000万両をこえたといわれる.
 こういった封建財政の建てなおしをはかる方法の一つとして,地代を増収するための新田開発が試みられた.江戸幕府でも徳川吉宗が8代将軍となり,いわゆる「享保[きょうほう]の改革」(1716(享保1)-1745(延享2)年)を実施した.その水利開発の幕府技術となったのが,紀州(和歌山)時代からの家臣である井沢弥惣兵衛の紀州流(井沢流ともいう)である.
 この紀州流に代表される江戸時代中期の土木技術は,高水を河川の本流内に閉じこめ,流末の河口にできるだけ早く排出するところに特徴があり,要所には連続した堤防を設けた.初期の関東流(伊奈[いな]流ともいう)にもとづく蛇行した河川をできるだけショート・カットして直線化し,遊水地や堤外地は廃止してこれを耕地に変えようとした.江戸時代になって各地に城下町などの近世都市がふえ,また河川流域の耕地が拡大した結果,これらの都市と耕地を防御するための技術も兼ねている.
 いわば河川に対する人間の「管理」を深め,「過開発」ともいえる耕地の拡大と集約的な農業の展開を目ざした方法である.このような技術は,欧米諸国はもちろんのこと,モンスーン・アジアの諸国でもあまり発達せず,日本独得の集約的な治水の水利技術ともいえる.それまでの日本の水利や稲作は,ほかのライス(稲作)・アジア諸国とほぼ同じ技術水準にあったとみられる.しかしこの紀州流を契機に,江戸時代中期以後には明らかに他国とは異なった展開をとげる基盤ができあがったといえるほど,画期的な技術の普及が進むのである.
 しかし他方では,これまでの関東流では,堤防外などの耕地に溢れた排土などによって,相当な肥効を得ることができた.かえって紀州流では,連続堤防がふえて河流が流末に排出され,自然の肥料にかわる金肥[さんぴ](購入肥料)に対する依存度が深まった.このため農産物の販売や農業技術が発展し,農民内部の貧富を拡大させる契機とさえなった.自作農が中心を占めた近世農村のなかでも,農地を集めた地主と土地を失った小作人がふえてきたのである.
 このほか,紀州流によって河川の高水を連続した堤防の内部に閉じこめた結果,中流や下流の地域において洪水の場合の被害が増大しはじめたのである.
 いずれにしても,この連続堤防の方式によって,それまでは未開地が多かった大河川下流のデルタ地帯における水利開発が可能になった.それまでこの地域の耕地は水利などの条件に応じて散在していたが,ここではじめて平野一面が水田化して充填されるようになり,新田面積が急増していった.
 さらに,これまでは中流地域などに越流していた排土が,河川の流末へ直流するようになった結果,河口から沿岸に干潟などが拡大していった.これらを活用して,18世紀ごろから西日本地方などでは海面の干拓,主として東日本では湖面の干拓が進行しはじめたのである.
 iii 耕地と人口の拡大
 以上,戦国時代から江戸時代におよぶ水利開発の拡大によって,日本の耕地面積は急増した.
 すなわち,8世紀ごろの条里制時代の区分田約84万ha,荘園時代の10-15世紀平均の約105万haから,太閤検地(1598(慶長3)年ごろ)では推計して約206万ha,江戸時代中期の享保期(1716(享保1)-1745(延享2)年)には約297万ha(うち水田が約165万ha)にふえ,江戸時代末期とほぼ同じ1873(明治6)年には実測で約413万ha(うち水田約227万ha)に拡大した.戦国時代から江戸末期までの約400年間に,実に300万ha以上の耕地が開発されるという大躍進を示したわけである.
 これにともなって農村の数も増大した.江戸時代初期の1645(正保2)年には村落数は約5万5000であったが,1697(元禄10)年には6万3276にふえ,1873(明治6)年には約6万9000に達している.1970(昭和45)年現在の日本の集落数(大部分が明治以後の開村である北海道を除く)のうち,その95%が江戸時代から以前に成立しているのも,以上の新田開発が前提になっていると考えうる.
 このほか,各地に適合した備中(今の岡山県)クワやスキなどの鉄製農具が末端まで普及し,牛馬耕や大豆カス・魚カスなどの金肥の使用がふえたなどの結果,単位面積当りの農業生産力も急激に上昇した.これらの結果,農業全体の収穫高を米に換算した場合,9世紀には約700万石(1石は150kg)から,太閤検地(1598(慶長3)年ごろ)では約1850万石,17世紀のおわりごろには約2600万石にふえ,江戸時代の末期の1829(文政12)年には3056万石に拡大した.
 以上にともなって,日本全体の人口もふえはじめるのである.通説では,古代の推古時代(592-628年)の約500万人,聖武時代(724-749年)の約860万人から,戦国時代末期にあたる1580年代には約1900万人(ただし,速水の推計では約814~980万人)にふえ,江戸時代中期の享保期(1716(享保1)-1745(延享2)年)には約2700万人を示している.
 他方,イギリス連合王国の1751(宝暦1)年における人口総数が1052万人,1801(享和1)年のフランスが2735万人,1816(文化13)年のドイツが2288万人,1800(寛政12)年のアメリカ合衆国が531万人であった(宮崎犀一ほか『近代国際経済要覧』,東京大学出版会,1981年,1-2ページ).これからも,18世紀ごろの日本は,当時の先発資本主義諸国に対抗,あるいはそれをこえる,世界でも有数の「人口大国」であったことがわかる.そしてこの背景には,以上の水利技術の展開と新田開発が前提になっていたといえる.
 (3) 日本的な水利開発の特徴
 i 日本的な水利開発の形態
 戦国時代から江戸時代におよぶ水利開発の進展にともなって,河川からの灌漑がいわばはじめて日本の稲作の基軸となった.これは,日本的な水利技術にとって,第1に重要な特徴となっている.
 荘園制ごろまでの水利開発では,小地域ごとの溜池や小河川からの引水,あるいは湧水などが,用水源の基幹であった.しかしこの時期になって,大・中河川の本流にまで開発が進み,上流の水源から下流末端の河口までの河川水の利用が可能となった.さらに溜池も,河川から取水しない非灌漑期に,その余水を貯留し,河川灌漑の体系下に入れるという方法が普及してきた.
 河川を中心に,その利用量や未利用量をできるだけ活用し,水田をできるだけ開発し,また利水体系を一元化する方向が支配的になった.そして治水と利水が整備されるにつれて,日本独得ともいえる「樹枝[じゅし]状」あるいは「葉脈[ようみゃく]状」の河水利用や,集約的な水利の維持と管理の方法が展開した.
 支配者たちは,大規模な土木工事を行うとともに,水利用にともなう地域的な利害対立を調整した.また農民たちも,自分だけで個別に水を利用できないため,村落を中心に水利共同体を結ばざるをえなかった.農民はこの共同体をつうじて上から支配されながら,同時に農業生産の基礎となる水利の日常的な維持管理と小規模な水利工事を運営したのである.そして,このような村落の自治を前提にしながら,近世封建制が維持できたところに,日本的な水利開発の第2の特徴があるわけである.
 こういった戦国-江戸期の水利開発と,それにともなう水利管理や村落共同体を支えた骨組みは,現象形態には変動がみられたとはいえ,明治期から1955(昭和30)年ごろまでの日本農村における水利組織に継承されていたといえる.
 とりわけ,18世紀ごろから世界的に資本主義生産が展開する時代の前後において,日本におけるような水利開発や農村構造を生んだ地域は,欧米諸国や乾燥アジアはもちちんのこと,ライス(稲作)・アジアにおいても見出すことはできないほどである.
 ii 日本的な水利開発の推進者
 この期における水利開発の推進者たちは,もちろんこれまでにのべた戦国大名や江戸幕府,あるいは近世大名などの領主およびその土木官僚たちである.とくに集落をこえた大地域や,河川水系の広域にわたる治水や利水については,これらの支配者たちが担当せざるをえなかった.
 他方,末端の集落などの事業や管理については,在地の実力者たちや農村の指導者たちが実際の推進者であった.これらは,戦国時代から織田・豊臣時代ごろには,「土豪見立[どごうみたて]」(在地の豪族が自分の計画で新田開発を行うこと)や「藩士知行[はんしちぎょう]」(家臣が自分で開発を行って領地にすること)などと呼ばれ,武士的な要素が強かった.
 やがて江戸時代の初期ごろからは,近世大名による「藩営」や以前から存在した旧村による「村受[むらうけ]」(村の責任で開発する方法)による新田が優勢になってきた.関東流などにもとづく土木技術の展開によって,やや規模の大きな水利開発が可能になったわけである.
 さらに江戸時代の中期ごろからは,紀州流などによって,河川下流のデルタ開発や干拓が拡大した.そして商品生産(自給よりは販売のための農作物に力を注ぐ)が発達した近畿から瀬戸内海の地方,あるいは江戸や城下町の周辺などでは,資力を蓄えた上層農民や町人層などが出資する「百姓寄合[ひゃくしょうよりあい]新田」(農民が共同で開発する)や「町人請負[ちょうにんうけおい]新田」(町人の責任で開田する)が盛行するようになった.
 この動きは,一面では領主財政が窮乏化したため,資力のある上層農民や町人層に新田開発を委任せざるをえなかったことを反映している.他面では同時に,領主的な土木技術のほかに,これらの上層農民(富農)や町人層たちも水利開発の技術や方法を習得したことを背景にしている.そして,これらの新田開発への貨幣投下を契機に,領主と農民の間に地代の中間搾取が可能になった「寄生地主」が発生し,近世大名や徳川政権の経済的な基盤を蚕食するようになってゆくのである.
 なお,現在までの西アジアやライス(稲作)・アジアなどの水利開発では,耕地の末端まで政府が建設と管理を行う例が支配的である.これに比べて日本では,戦国-江戸期,とりわけ江戸後期になるにしたがって,水利の開発や統制は,末端の生産耕地については村落の共同体や地主層が掌握していったのである.ここに,日本的な水利開発の欧米諸国や他のアジアとは異なった,最大の特徴があるといいうる.
 iii 日本的な水利開発の諸条件
 以上のように,戦国-江戸期の水利開発にともなって,他国にはみられない日本的な水利開発の特性が形成された根拠は,いずこに求められるのであろうか.とりあえず,その自然的および社会的な諸条件を簡単に整理してみよう.
 まず自然的な条件の一つとして,西アジアやライス(稲作)・アジアの地域などに比べ,まず日本の降雨量が相対的に安定していることをあげうるであろう.さらに他の熱帯や乾燥地帯などのように,日本では滞留水がはげしく蒸発するという例は少ないといえる.これらの結果,河川の流水量をより計画的に水稲の補給水として灌漑に利用しやすいのである.
 もちろん,日本でも洪水や旱魃による被害は大きい.とりわけ日本の地形は,細長くて幅の狭い列島に急峻な山岳が優勢であるため,豪雨期などには激しい洪水に襲われる例が多い.しかし,その代わりに,分散した小河谷ごとの中小河川が支配的である.西アジアやモンスーン・アジアの大陸部におけるような巨大な世界的河川に比べ,国際的には零細な日本の河川では,その流水のコントロールはより容易だといえる.
 しかも日本の平野部では,扇状地型の地形が優越しているため,谷口などから取り入れた河水を「自然流下[しぜんりゅうか]方式」(自然の勾配[こうばい]にしたがって,上から下に用水を流すこと)によって,いわばより容易に配水しやすい.低平な巨大平野が優越するエジプトや西アジアなどでは,「苦汗的」ともいえる揚水労働(水を低所から高所に揚げる)が不可欠である.しかし,日本の場合,河川の最下流やクリーク地帯などの一部を除いて,この農作業は支配的ではなかった.したがって,揚水労働のかわりに,耕起や施肥,品種改良や多毛作などの集約栽培の方に力をふりむけることができたといえる.
 これらの自然的な環境を背景にして,次のような社会的な諸条件が,日本的な水利開発の特徴を強固にしたといえるであろう.
 まず稲作における適当な灌漑と栽培の集約化は,日本における農業生産力を他の諸国より相対的な高位に上昇させた.領主などによる粗放な直営大経営よりは,生産者による零細な面積を集約経営する方が,生産力も高く所得も多くなった.
 この結果,ヨーロッパの封建制では領主経営が優勢であったのに比べ,日本の近世封建制では小家族による隷農(直接に生産する農民が農地や農具を占有し,自分の責任で経営する)的な零細経営が支配的であった.日本の小経営では,自力で労働や資本を投下すれば,その成果がただちに生産力と所得の上昇を結果しやすい面が強く,農民の営農意欲と自立性はより大きいと考えうる.
 他方,水利投資が主軸ではなかった乾地農法のヨーロッパでは,土地生産性の相対的な低さから大面積の耕作を必要とした,このため大農具や大役畜が不可欠となり,さらに家畜からの堆肥[たいひ](家畜の糞尿を農廃物にしみこませ,醗酵させた肥料)に力点をおかざるをえなかった.やがて西ヨーロッパから,耕作の休閑地(地力が低いためなどから,3年おきぐらいに作付しない耕地.三圃[さんぽ]農法の構成分)に飼料作物などをうえ,生産力の上昇をはかる近代的な輪作法(ローテーション)が普及してゆくのである.
 このほか,日本的な特徴として,それぞれの地域における立地条件の差が大きいことをあげることができる.日本の地形では世界的な規模の大平野は少なく,またあっても小規模な沖積地と扇状地が優勢である.しかも高い山岳によって細かく分散しているため,小地域ごとの独立性がより強いといえる.このため各地域ごとに品種や作物,農具や農法の特殊性が強く,しかもかえってこれらの相互間の交流と競争を刺激した結果,農業の発展を促進したといえる.
 他方,日本が海に囲まれた極東の島国であったため,他国からの直接的な侵略を受けにくかった.これが欧米や他のアジアの諸国と異なり,たとえば水利ストックの破壊をまぬがれ,「民富」の形成を支えた一因ともいえる.

Ⅲ 近代日本の水利改良

 明治維新後の日本は,先発の欧米資本主義諸国から技術や制度などの文化を導入し,近代化の道を強行した.とくに18世紀の後半からの産業革命を契機に,欧米の列強はアジア諸国に対する植民地化を進め,19世紀前半にはその脅威がさらに拡大した.これらの情勢のなかで,植民地化の危機に直面した極東の日本は,それをさけるために資本主義化の方向を選び,富国強兵と殖産興業の政策を推進した.
 この過程でアジアの他の諸国が,ほとんど植民地化の苦難に陥るなかを,ひとり日本だけが資本主義を成立させた.やがて資本主義が展開するにつれて,逆に日本は近隣のアジア諸国に侵略を開始したのである.
 以下,日本の資本主義化にともなって,土地改良にも近代技術が輸入され,日本的な在来の伝統工法と複合しながら,水利開発が進行した過程を概説したい.
 (1) 日本資本主義の発足と土地改良
 i 明治維新と士族開墾
 1868(明治1)年の明治維新を契機に,日本はアジアにおける最初の資本主義国の道を選んだ.しかし当初の農業における土地投資は,江戸時代の末期における町人層による請負新田や地元の上層農民による開墾や水利工事などの方法が持続していた.
 ところで,明治維新後には旧武士階層(士族という)は支配者の位置から脱落し,その大部分が失業せざるをえなかった.そこで,彼らに対し,生活の基盤を与えることは,当時の重要な社会的課題となった.
 しかし,当初は農業のほかに労働力を吸収できる産業が少なかったから,彼らによる未開地開拓が主要な対策であった.そして未開地や入会原野などの多かった関東や東北,北海道などの地方に士族開墾が拡がったのである.とりわけ1879(明治12)年から福島県の安積[あさか]原野で行われた国営の開墾や,関東や北海道などの地方に多かった士族団体や旧領主の保護による士族開拓などが有名な事業である.
 しかしこれらの士族開墾も,農業の技術や新しい環境に適応できなかった例が多く,大部分は失敗に終わってしまった.わずかに,政府や旧領主などから手厚い保護をうけ,しかも市場と自然の条件に恵まれた開拓地,たとえば国費で疏水(通水施設)が完成した安積や那須など一部の地方で,ようやく土地所有者になりえたにすぎなかった.
 ii 地租改正と農民的な土地改良
 1873(明治6)年以後の地租改正によって,領主制は廃止され日本史上でも,公地公民制(646年)や太閤検地(1582(天正10)年から)とならぶ画期的な土地改革が進行した.そして小作人を除き,江戸時代からの自作農や地主には土地所有権が与えられた.これらの土地所有者たちは,封建時代に比べて一般に生産意欲が向上し,とくに米価が上昇傾向にあったから,収量を増大させようと努力した.このため,地主や上層農民(富農)たちが指導した土地改良の事業が拡大した.
 たとえば,明治維新直後の1868(明治1)年には,富山県氷見[ひみ]郡の十二町潟[じゅうにちょうかた]で逆水止水門による排水が行われ,また愛知県の入鹿[いるか]溜池が決潰したため62村共同による改修工事が実施された.さらに翌1869(明治2)年には静岡県富士郡沼川[ぬまがわ]で石水門が建設され,1874(明治7)年には京都府乙訓[おとくに]郡久世[くぜ]村で排水工事が進んだ.これらは,当時の有名な工事であり,とくに河川下流などの低湿地に対し,技術的にもより簡単であり,また地域の対立を調和させやすい排水事業が主体になっている.
 このほか,とくに愛知・静岡地方では,とりわけ大規模な土地改良が続出した.たとえば,1876(明治9)年に灌漑(受益500町)と舟運のために黒川[くろかわ]を開削し,1879(明治12)年には立田[たつた]輪中の鵜戸[うど]川排水と明治用水(受益7,800町)を起工している.また1881(明治14)年には両国[りょうごく]輪中の排水を26村共同で行い,翌1882(明治15)年には灌漑(受益5300町)と舟運のために木津[こつつ]用水の改修をはじめている.さらに静岡県磐田[いわた]郡では,1872(明治5)年から道路や水路,畦畔[けいはん]の改良工事が進んでおり,明治20年代(1887-1896年)における「田区[でんく]改正」時代の先駆的な事業が拡大していたほどである.
 おそらく,これらの東海地方は,西日本の近畿や瀬戸内海などの地方よりは開拓すべき余地が残され,関東から北部の地方よりは自然条件に恵まれていたことが,土地改良が先発した一つの条件なのであろう.さらに東京と京都・大阪の両文化地域の中間に位置し,交通や農作物の販売などの諸条件にも優れていた,このほか,後背地には,日本でも最大の豊水量を誇る中部山岳地帯が控えていたことも,用水開発を容易にしたといえる.これらの好条件が重なった結果,地主や農民たちが土地改良への意欲を増進させたのであろう.
 iii 農業水利の組織整備
 土地改良によって建設された施設は,いわば土地と分離せずに合体し,固定資本の一種として維持および管理される必要がある.また日本の稲作のように湛水を前提とする農業では,灌漑や排水などの水利統制が不可欠である.
 これらの水利支配は,江戸時代には幕府や藩→代官や郡[こうり]奉行所→庄屋や名主[なぬし]を通じて,末端の農村に及んでいた.しかし,末端の村落における水がかり地域では,井組[いぐみ]や水組[みずぐみ]などを組織し,それらの総代が旧来からの慣行にもとづいて,用水の配分や費用の分担,労力の動員や水路の維持などを運営していた.
 明治以後になると,近世封建制が崩れたため,新しい政府は地方自治制を整備し,それらの組織の再編を急いだ.とくに1873(明治6)年からの地租改正によって,地主と自作農は土地所有者となり,農村の支配者としての位置が確定してきた.政府はこれらの土地所有者を基礎にしながら,1878(明治11)年の「郡区町村編成法」などによって,農村における自治制の再建をはかった.
 さらに1880(明治13)年の「区町村会法」の制定にともない,江戸時代の井組や水組などをそのまま活かした水利土功[どこう]の組織を設けた.区・町・村などの行政地域のほかに,これらと区域や役割の異なった水利組織を温存し,昔ながらの自然村の役割をも重視したのである.やがて1884(明治17)年に「区町村会法」が改正され,水利土功会を制度化することによって,国→府県→郡役所を通ずる水利組織の支配体制を整備したのである.
 これを明確に法制化したのが,1890(明治23)年の「水利組合条例」である.土地所有者である地主と自作農たちは,利水のために普通水利組合,治水のために水害予防組合を設け,行政機構とは別に地域の水を管理できることになった.同時にこれらの組合は,内務省→府県→郡役所の監督の下におかれることになり,農村の水利機構の一本化と支配体制が確立したのである.
 もっとも,これらの組合は比較的に受益面積が大きい地域だけに組織された.村落や大字[おおあざ]などの末端地域では,組合を設けない例が多く,旧来どおりの井組や水組が存続し,慣行にもとづいた「申[もう]し合[あわ]せ組合」が優勢であった.
 (2) 水利技術をめぐる伝統と近代
 i 治水技術の転換
 稲作の生産を行う場合,灌漑用水を確保すると同時に,洪水などの「外水[がいすい]」を防ぎ,湛水などの「内水[ないすい]」を排除することが不可欠である.したがって,これらの洪水や湛水などの過剰な余水をコントロールする治水事業が,生産の基礎である耕地を維持し,また改良をはかるための前提となるわけである.
 このような治水事業は土地投資の一種に含まれるが,普通の小農民では独力で実施することは難しく,わずかに自分の小さな作付地において部分的な内水排除を行う程度にすぎない.その理由は,外水とくに洪水の防御は河川の水系を単位とした大規模な事業が必要であり,技術や計画,資金や資材,労働力などの運営には,公的な権力や広域のまとまりが必要なためである.いわば私的な農業投資として成立しにくい性格から,公共事業として実施せざるをえない.
 これらの結果,明治以後の治水においては,大河川は内務省,中小河川は府県が,それぞれ実施と管理にあたっていた.また末端の村落における外水と内水の排除は,水害予防組合などのほか,井組や水組などの「申し合せ組合」が慣行にもとづいて対応していた.
 ところで江戸時代の末期から明治初期にかけて,政治的な動乱などの影響で治水への対策が鈍り,河状の乱れや土砂の堆積などが目立ち,水害が増大していた.
 そこで新政府は,1872(明治5)年にオランダから土木技師を招き,近代的な土木技術にもとづいて,翌年から「低水[ていすい]工事」を直営した.この方法は,水源に砂防工事を行って土や水などの流下をやわらげ,また舟運や取水を容易にするために,河川に水制工や護岸を設け,また浚渫を行って水深を維持しようとした.江戸時代以前でも,在来からの技術を応用して実施していた例が多いが.とくに水源砂防工ははじめて輸入されたものである.
 これは同時に,1890(明治23)年ごろまでは日本の鉄道がまだ未発達であり,河川や運河,港湾などによる舟運が,当時における運輸交通の主要手段であった段階を反映している.
 しかし平坦地の多いオランダから導入した近代工法では,条件の異なった日本の急流河川の治水に対しては,それほど大きな効果は生まなかったようである.あいかわらず洪水が頻発し,とくに耕地の増大につれて新田が河道に接近し,都市が拡張するとともに,水害や湛水による被害が拡大した.
 このため1886(明治19)年ごろからは,河川の堤防を増築したり,あるいは本川を分流させるなどの「高水[こうすい]工事」も併用せざるをえなくなった.とりわけ,1889(明治22)年に東海道線の新橋・神戸間が全通したのをはじめ,各地の鉄道が拡大したため,それまでの低水工事を基礎にした河川舟運が衰えはじめてきた.
 やがて1896(明治29)年の全国的な大洪水を契機に,本格的な高水工事が治水事業の主流へ上昇した.同年に「河川法」,翌1897(明治30)年に「砂防法」と「森林法」が制定され(以上を治水三法という),行政的な治水機構が整備された.そして,淀川・利根川・信濃川・筑後川など日本の主要な14河川について,内務省が直轄して治水工事を実施することになった.またそれ以外の中小河川は,各府県ごとに改修工事を行うことになり,はじめて近代的な治水事業が発足したわけである.
 これらの動きは,1897(明治30)年前後から,日本の土木技術者たちもヨーロッパ流の近代技術を消化できるようになり,日本の条件に適合した工法を実施しうるようになった結果である.
 ii 田区改正から耕地整理へ
 以上のような治水事業の進行は,それまでは水害に苦しんできた河川の中下流や沿岸の流域をしだいに安定させ,やがて農業の生産力をも上昇させるようになった.
 生産意欲が向上しはじめた地主や自作農たちは,さらに湛水や低湿地などを改良して乾田化し,馬耕による深耕や正條植(田植をバラ植でなく直線條にする)によって所得の向上をはかろうとした.
 すでに1872(明治5)年の静岡県における畦畔[けいはん]改良を初め,各地で水田の区画整理が進展していた.とくに1884(明治17)年の「地租条例」にともない,土地に対する地租が固定した反面,鉄道や産業,都市の発達によって米価が上昇しはじめた.これらを背景に,1887(明治20)年ごろからは区画整理がいよいよ活発となり,いわゆる「田区改正」時代をむかえたほどである.
 この田区改正には,はじめ二つの流れがあった.一つは,古代における条里制区画の技術や干拓地における耕地区画の方法が伝習され,また江戸時代から存続していた在来型の畦畔改良=区画整理の技法である.二つは,農商務省の招聘外人技師や技術官僚などがヨーロッパ風の「土地整理論」を導入し,これを上から農民に奨励したものであり,1888(明治21)年の石川県における田区改正がその最初の事業であった.
 やがて,この両者が結びつき,日本の各地に普及していった.そして区画の整理や農道の整備を行い,そのうえで牛馬によって深く耕転し,正條植や品種の改良,肥料の多投や労力の節減をはかった.これらの結果,稲作の生産力は上昇しはじめ,さらに田区の改正によって正確な面積の計算が可能となり,所有地の名目面積が増加(増歩[ぞうぶ]という)した例が多かった.
 他方,日本の資本主義が成立するにつれて,工業や都市の人口が拡張しはじめ,1890(明治23)年ごろから米穀への需要が増大してきた.それまでの日本では,米の輸入よりは輸出が多かったが,1894(明治27)年ごろから逆に輸入の方が輸出を上まわってきた(入超という).とくに1894(明治27)年からの日清戦争や,その後の国際緊張にそなえ,軍事的にも食糧を国内で自給する必要にせまられた.かくて政府は,1893(明治26)年に国立の農事試験場を設け,水稲の増産品種の本格的な改良に着手するなど,稲作生産が農業政策の基軸に上昇したのである.
 さらに1899(明治32)年には「耕地整理法」,1902(明治35)年には「北海道土功組合法」を定め,農地条件を整備するための基本法とした.このほか,1897(明治30)年には中央に日本勧業銀行,各府県ごとに農工銀行,1899(明治32)年には北海道拓殖銀行が発足し,農地を担保にした金融によって,田区の改正が容易になってきた.
 これらの結果,地主や自作農たちによる土地投資が拡大し,1900-10年代にはいわゆる「耕地整理」時代をむかえたほどである.
 iii 大農論と土地改良技術
 1886(明治19)年ごろからの「企業勃興」を契機に,日本にもようやく資本主義生産の動きが拡大しはじめた.そして,当時の茶やマユを中心とした農産物輸出の活況や,米や畜産物の価格上昇などを背景に,農業への資本投下が増大した.
 以上が,前節にのべた田区改正の興隆をもたらした前提であり,さらに日本の農業そのものの資本主義化をはかろうとする「大農論」をさえ具体化させた.
 すなわち,1887(明治20)年ごろから華族や高級官僚,政商や豪農たちが,関東・東北・北海道地方などの低利用地や未開発地,あるいは干拓地などにおいて,欧米の近代農法を模倣した大規模で資本主義的な農牧場や稲作などを直営しはじめた.しかし三菱社長岩崎家が所有した岩手県の小岩井農場など,ごく一部の成功例のほかは,これら大農場の試みはほとんど失敗におわった.そして直営を放棄した大農場は,1897(明治30)年ごろから水利開発を加味しはじめ,やがて小作制大農場=不在大地主に転換し,日本における地主的土地所有制の頂点を形成してゆくのである.
 他方,江戸時代以前から在来技術を蓄積していた海面干拓では,大農論に呼応して大規模な開発が進んだ.たとえば,1888(明治21)年には元の長州藩の家老であった毛利祥久[もうりしょうきゅう]が,愛知県の豊橋地先において約1000町の大干拓に着手した.しかし完成後の1892(明治25)年に台風が襲い,潮受堤防が決潰して水没したため,名古屋の豪商の神野金之助[かんのきんのすけ]に譲った.神野は愛知県高浜の職人であった服部長七[はっとりちょうひち]を用い,その「人造石」(三和土[みわど].三州たたきともいう)の工法によって,1885(明治18)年に神野[じんの]新田を完成している.
 このほか,政商の藤田伝三郎[ふじたでんざぶろう]もオランダ御雇工師ムルデルの調査にもとづいて,1887(明治20)年に岡山県児島湾の干拓を計画し,1899(明治32)年から工事をはじめ,1904(明治37)年にはその第1期である1758町が竣工した.また熊本県の八代[やつしろ]郡役所は,1899(明治32)年から地先を公営で干拓し,愛知県から先にふれた服部長七を招き,彼の「二和土」(天草産の種土[たねど]と消石灰を混合して固める)などの新技術によって,1905(明治38)年に1046町を造成している.
 そして,以上のような大面積の干拓が成功したことを契機に,干潟などの多い有明湾や伊勢湾,あるいは瀬戸内海などの適地に,海面干拓が進行していった.
 これらの動きにつれて,服部長七に代表されるような在来からの伝統的な工法が展開したほか,セメントの利用や蒸気罐などの西欧技術が日本にも普及していった.
 たとえばセメントは,すでに1872(明治5)年から当時は国営であった深川工場で産出され,しだいに土木工事に応用されはじめた.農業水利でも,1879(明治12)年から明治期では最大の国営灌漑事業であった福島県の安積疏水[あさかそすい]において,堰堤やトンネル底,水路底などの補強に利用された.また民間でも,小野田セメントが1883(明治16)年から製品を市場に供給しはじめ,1887(明治20)年ごろから全国に普及した.そして1897(明治30)年ごろからは,農業用水を取り入れる堰や水門などにもコンクリートが実用されるようになり,さらに1910(明治43)年ごろからは鉄筋をも挿入しはじめている.
 また高低差のある耕地の灌漑や排水にとって,画期的な役割をもった蒸気ポンプも,はじめは輸入品が利用された.まず1881(明治14)年の安積疏水の工事において,トンネルや掘割の排水に蒸気ポンプが導入された。ついで1885(明治18)年の静岡県庵原[いはら]郡における揚水灌漑,1891(明治24)年の新潟県西蒲原郡におけるポンプ排水など,全国的に拡大していった.
 そして蒸気ポンプの原動機も,はじめは欧米からの輸入品が大部分であったが,1900(明治33)年前後からは日立製作所や池貝製作所,石川島工業などの国産品が普及していった.とりわけ1905(明治38)年ごろから蒸気機関が大型化しはじめたため,各地で国産による大馬力の排水や灌漑のポンプが登場し,大規模な水利の開発や改良が進むようになった.
 さらに蒸気機関の燃料も,はじめの石炭から,しだいに石油に移っていった.やがて1910(明治43)年ごろから水力式の発電所が勃興した結果,電気式の発動機が優勢になってきた.このため,それまでは湛水や低湿に苦しんできた大河川の下流地帯などでも,大型の機械排水によって乾田化の方向が可能になってきた.これらが,大規模な排水や干拓の事業を盛行させる促進剤ともなったのである.
 このほか,輸入技術にもとづく近代工法の成功例の一つとして,1888(明治21)年から起工された兵庫県の加古台地の淡河[おおご]川・山田川疏水におけるサイフォン工がある.これは,横浜や大阪の水道建設などに貢献のあったイギリス工兵大佐パーマーが設計し,輸入材料を基礎にしたものである.日本でも江戸時代から,利根川中流の見沼代用水における「伏越[ふせごえ]」などのサイフォン技術が存在していたが,これを契機に以後は大規模な鉄管式サイフォンも普及してゆくこととなった.
 (3) 日本資本主義の展開と土地改良
 i 地主主導の耕地整理と公共投資
 1896(明治29)年の「河川法」,1899(明治32)年の「耕地整理法」などによって,治水と土地改良についての法制が整備された.そしてこれらを契機にして展開した耕地整理事業も,はじめは労力を節約して稲作生産力を上昇させるという経営的な立場が基盤になっていた.しかし実際には,灌漑や排水などの土地に合体する投資が主力となり,品種の改良や肥料の増投などの技術改良が加わり,結果的には土地生産力が上昇し,地主に対する地代(小作料)を増加させる方向が主流に変わってきた.
 とくに1897(明治30)年ごろから日本の資本主義が確立しはじめ,農業でも土地を耕作しない「寄生地主」がふえてきた.地主たちは,自作するよりは,小作料の安定と増大を目的にするようになり,区画整理よりは土地生産力を高める水利改良を優先しはじめた.
 ついに1905(明治38)年に「耕地整理法」を改正し,これまでは同法の範囲に含まれていなかった灌漑と排水の工事を加えた.さらに1909(明治42)年には新しい「耕地整理法」を定め,逆に用水と排水の事業を主目的にかえてしまい,地主を主導とした土地改良が進展することになった.
 これらの動きは,日本における資本主義の成立とともに,産業的には農業が工業などに押され,また地主も自作中心から寄生化へ力点を移し,それぞれ生産の主力でなくなったことを反映している.
 事実,1910(明治43)年前後ころからは,農業の生産性は工業よりも相対的に低下し始めた.これにつれて地主たちも,これまでのように農業生産の投資に力を入れるかわりに,農業以外の工業や商業などに投資したり,あるいは株式や公債・信託などを所有する動きが強まっていった.とくに関西地方などの先進地では,地主たちが農地を売り,かわりに有利な都市の宅地などに切りかえる者さえ現われたのである.
 しかし1904(明治37)-1905(明治38)年の日露戦争が終わった後には,日本の資本主義はさらに展開し,工場労働者や都市人口は拡大した.これらの消費者に対し,食糧(とくに低価格のもの)を供給することは,日本の国策であった「殖産興業」を維持するために不可欠な課題となった。
 他方,農村では地主の自作意欲は減退していたから,政府が食糧増産のために補助金や奨励策を実施せざるをえなくなった.土地改良についても,1906(明治39)年から府県が実施する耕地整理や土地改良の調査や設計,工事の監督の費用について,政府ははじめて国家補助を開始した(はじめは5割を補助).さらに1908(明治41)年からは,府県がこれまで民間の耕地整理や土地改良の事業に補助していた金額の一部を,政府が支給することになった(はじめは5割).
 このほか1910(明治43)年からは,政府は土地改良に対して,郵便貯金などの大蔵省預金部資金を,銀行などより低い金利で融資することを決め,事業の促進をはかった.
 以上のように1910(明治43)年前後から,土地改良に公共投資や政策融資が初めて供給されることになり,地主の後退と政府の介入という新しい画期をむかえたわけである.
 いずれにせよ,これらの公共的な投資と金融に助成されながら,小作料の増収をねらった地主たちが中心になり,「耕地整理事業」がはなばなしく展開していった.
 ii 食糧問題と耕地拡張
 1910(明治43)年前後から,営農意欲が減退しはじめた寄生地主による土地所有が支配するなかで,農業生産力の相対的な低下がとくに目立ってきた.他方,資本主義の展開にともなって消費人口はさらに増大し,食糧の需要に供給が追いつかなくなり,いわゆる「食糧問題」が発生した.
 このため政府は,増産効率がより早くて高い灌漑と排水など,まず既耕地の改良奨励に力を注いだ.さらに米穀増産のため,未開発地の多い北海道に,1910(明治43)年から拓殖15年計画を実施した.このほか,1913(大正2)年から本州における低開発地調査を行い,多数の開拓計画を樹てるなど,国内における「耕境」(フロンティア)の開発による食糧増産を奨励した.
 他方,植民地からの米の移入と増産にも力を入れた.すなわち,1895(明治28)年に領有した台湾と,1910(明治43)年に合併した朝鮮からの食糧の輸入を推進した.とくに日本の米と同類の朝鮮米については,1913(大正2)年からその移入米に対する関税を廃止し,流入の増大をはかった.
 やがて第1次大戦が終わった直後の1918(大正7)年8月に,日本各地に「米騒動」がおこり,食糧問題の矛盾が爆発した.これを契機に,政府は食糧の自給と耕地の拡張改良に拍車をかけた.そして1919(大正8)年には「開墾助成法」を定め,民間の開墾や開田,干拓など開発投資に初めて利子を補給した(1929(昭和4)年からは,さらに事業費のうち4割を支給).
 これまでの政府補助は,府県が民間の土地改良事業に与えた補助金の一部を交付するという間接的な助成や,あるいは低利の融資などが主体であった.しかしその方針が変更され,民間の事業費に対する利子補給さらには事業費の支給という,直接的な助成へと一歩を進めた.まさにこの「開墾助成法」が「農耕地拡張事業に対する画期的補助政策」といわれたわけであり,これを契機に政府や府県による公的な介入はさらに浸透してゆくのである.
 このほか,植民地における増産政策も強行された.1920(大正9)年からは朝鮮において米の増産計画が加速しためをはじめ,1923(大正12)年ごろから台湾に適合した日本種の改良が進み,台湾でも甘〓畑の水田化が進んだ.かくて稲作においても,日本の植民地依存が拡大し,これらの増産と移入にともない,日本の稲作にも重大な影響が及んできた.
 iii 治水・発電投資と農業水利
 ところで,日本における資本主義の展開にともない,都市の区域や耕地が拡張するにつれて,逆に洪水による被害も強まりはじめた.たとえば,1902(明治35)年と1907(明治40)年には全国的な大水害がおきたほか,とくに1910(明治43)年には各地でこれまでになかったといわれる大洪水におそわれた.
 これを契機に,政府は「臨時治水調査会」を設け,その答申にもとついて,1911(明治44)年から全国の重要な65河川について,内務省が直轄した改修工事に着手した.そして,これらの河川の改修や堤防の築設に付随して,河川から取水していた農業水利の施設も,改修や取入口の工事などが国費で実施され始めた.
 このほか,治水事業が進むにつれて,高水などの外水の統制がより容易となり,流域農地における湛水や低湿などの内水の排除がより効率化してきた.この内水改良を契機に,耕地整理などの土地改良事業がさらに拡大できたわけである.
 以上の大河川において高水工事が進展すると同時に,これらの支流や中小河川についても,府県が関連した治水事業を併行した.とくに後者の中小河川では,古来からの慣行にもとづいて取水する農業の堰や水利権が支配的であった.したがって,これらの改修や水利用をめぐって,地元の農民との間に,さまざまな利害対立や問題が発生してきたのである.
 同時に,1910(明治43)年ごろから河水の落差を利用した水力発電が展開し始めた.当初は上流で余水をカットし,水路式などで発電したが,それでも河水の平水[へいすい]量の大部分を利用することの多い農業用水とは,その水利権をめぐって対立をおこしやすかったのである.
 このように近代的な治水事業や水力発電が拡大してくると,江戸時代以前からの慣行に依存していた農業水利は,大きな圧迫をうけざるをえなくなった.とくに農業では,零細な小農たちが集まって共同で水を利用するほか,開発した起源が古い伝統的な施設が多いため,降雨や水害などの自然的条件に支配されやすい特徴が強い.
 他方,水力発電などのような資本主義的な水利用や,治水などの公共土木は,近代的な性格が支配的である.これらの結果,近代以前から持続していた伝統的な農業用水は,とくに小農経営という性格が加わり,近代的な利水や治水の事業や管理に圧迫をうけざるをえなくなったのである.
 この動きは,第1次世界大戦後に日本においても重工業や都市が展開するにつれて,さらに強まっていった.水力発電のほか,工業用水や上水道の需要にもとづく「他種利水」が急増し始め,河川の平水量を利用する農業水利の既得権さえをもおかすようになったのである.
 (4) 日本資本主義の転換と土地改良
 i 自作農維持と公共投資
 第1次世界大戦後になると,日本でも小作人を中心とした農民運動が激化し,さらに工業などに比べた農業の生産性はより低下してきた.農村を支配していた地主中心の土地所有制と小農的な生産方法はいわば危機に直面したといえる.
 それをめぐる政府の対策の一つが,自作農創設維持事業であり,寄生地主の土地を小作人に売りわたし,また自作農を保護しようとした.これは第2次大戦後における「農地改革」の前提となったものであり,農業政策にとって決定的ともいえる転換点であった.
 すでに1920(大正9)年から日本勧業銀行が自作農になるための資金の貸付を開始していたが,1922(大正11)年からは政府も自作農創設維持資金の貸付を実施した.さらに1926(大正15)年からは「自作農創設維持補助規則」をまとめ,本格的な自作農の助成策に転換した.
 このように1920年代になって地主制が動揺し始めると,それまで地主たちが主導してきた耕地整理事業も,地主の土地改良意欲が減退したため,停滞してきた.そこで政府は土地改良事業についても,食糧増産を目的にしたほか,新しく自作農を育成するという方向を強めざるをえなくなった.
 もともと土地改良事業が進展するにつれて,個別経営の農業生産力が上昇するだけではなく,地域的な生産力の平準化と安定をもたらす.さらに第1次大戦後の小作争議によって,小作料の引上げが困難になったため,不在地主たちは生産改良や土地投資の意欲を失い,「農地の売り逃げ」さえ進行した.にもかかわらず,食糧の自給確保と農村の維持発展のためには,稲作の開発改良は不可欠である.
 他方,土木技術においても,セメントや機械などを用いた近代工法が普及しはじめた.たとえば,用水や排水の改良にも大型ポンプが導入されるなど,水利開発にも大規模な設計や施行,資金や技術が必要になってきた.農民たちだけの組合や連合では,このような大規模な土地改良はいよいよ運営しにくくなり,さらに政府や府県による介入が強まらざるをえなくなった.
 かくて1923(大正12)年から,水利開発史上で画期的といわれた「府県営大規模用排水幹線改良事業」が開始された.すでに政府は,1920(大正9)年から受益面積500町以上の農業水利改良地区の調査と事業の奨励を行っていた.これらを契機に,府県が直営する500町以上の用・排水の幹線水路や設備の改良事業に対し,政府が5割以内の国庫補助金を支給することになった.このほか,府県からの支出金が加わったから,これらの用排水事業によって利益をうける地元農民の自己負担額は,事業費総額の3,4割にすぎなくなった.
 このため,大規模な府県営の用・排水改良事業が,これ以後は全国的に拡大した.かくて1900(明治33)年ごろからの耕地整理事業についで,近代的な土地改良の第2の躍進期をむかえたほどである.同時に,公的な補助金の支給をつうじて,政府と府県による土地改良への直接的な介入はさらに強まり,農民と農村に対する公的な支配力はいよいよ深まっていった.
 このほか,第1次世界大戦中から戦後にかけて,日本でも重化学工業が展開しはじめた.これにともない,工場や住宅,道路などの用地のために農地の転用が目立ってきた.しかし食糧の自給と増産を確保するためにも,潰廃した耕地を補充することが必要になった.
 このため,さらに耕境の開拓政策に力が注がれた.たとえば,1927(昭和2)年から北海道の第2期拓殖計画を開始したほか,1929(昭和4)年には「開墾助成法」を改正し,それまでの開拓事業に対する利子補給から,さらに事業費の4割給付という優遇策を実施した.そのほか,1928(昭和3)年からは,直接生産者の末端耕地における暗渠排水の工事に対してさえ,政府は補助金を支給し始めた.これは,暗渠による排水が水稲の増産について,急速で確実な効果のあることをとりあげ,これまではこの事業に補助金を支給しないという前例を改めたものである.
 以上のように,1920年代以降になると,土地改良に対する政策的な介入が深まり,食糧の増産や耕地面積の維持だけではなく,自作農の助成を基盤にして農村救済という社会政策的な方向も強まったのである.
 ii 農業危機と国営土地改良
 1910年代,とくに1920年代における農地と水利の開発と改良が進展するにつれて,耕地の拡大と単位面積当りの生産量が上昇してきた.
 たとえば,日本全国の水田面積は,1880(明治13)年ごろの約250万haから,1912(大正1)年には約300万haに達し,1932(昭和7)年には第2次大戦以前までの最高である327万余haを数えた.また稲の収穫高も,1880(明治13)年の3143万石(1石は150kg)から,1904(明治37)年には約5000万石,1919(大正8)年には6000万石をこえ,1932(昭和7)年には7083万石の最高を示した.
 このほか,日本の植民地であった朝鮮と台湾における米の増産が進み,両地方から日本に対する移入米が拡大してきた.たとえば,移入米の合計は1912(大正1)年には93万石(うち朝鮮から26万石)にすぎなかったが,1928(昭和3)年には10倍以上の950万石(同じく706万石)に急増し,1934(昭和9)年には最高の1461万石(同じく937万石)に及んだのである.
 以上の結果,1920年代後半になると,日本の本州では歴史上で初めてともいうべき,米穀の相対的な過剰問題がおこってきたのである.このため,米の価格はとうぜんに停滞し始め,さらに低落の傾向を示してきた.とりわけ1923(大正12)年の震災恐慌や1927(昭和2)年の金融恐慌などの経済的な危機が重なり,この動きを促進した.たとえば,1石(150kg)あたりの年間平均の米価は,1919(大正8)年には最高の45円89銭に達したが,1927(昭和2)年には35円23銭に落ち,1929(昭和4)年からは30円を割り,1931(昭和6)年には18円36銭にまで急減してしまった.
 そして,このような米価の低落によって,地主のなかには土地改良事業の負担金を支払えないものさえ増えてきた.このような農村の危機に対して,前にふれたように政府は自作農の創設維持などの政策や,開拓や用・排水改良,さらに暗渠排水の事業にも補助率を高め,農村そのものを保持せざるをえない情況になった.
 これらの動きに拍車をかけたのが,1929(昭和4)年10月末からの世界大恐慌である.日本もいわゆる「昭和恐慌」を併発し,資本主義は最大の危機をむかえた.1930(昭和5)年からはとくに農業へも恐慌が波及し,米を初めとする農産物の価格が暴落した.さらに1931(昭和6)年と1934(昭和9)年には東北と北海道の地方に大冷害がおそい,これらの結果,日本の農村は破局的な危機にみまわれたのである.たとえば,1932(昭和7)年12月における全国農家の負債総額は45億円の巨額に達した.また東北地方などの農家のなかには自家用の食糧さえ収穫できず,所得を確保するために「娘を身売り」したなどの悲劇さえ続出したほどである.
 これに対して政府は,1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけて応急の「救農土木事業」を実施し,いわば農村の失業対策として,就業した農民に所得を与えた.このほか,1931(昭和6)年に一時中止し準暗渠排水への国庫補助も,翌1932(昭和7)年から復活するなど,土地改良の面からも小農の保護政策を強化した.
 他方,1933(昭和8)年からは,画期的ともいえる国営開墾を開始した.これは京都府巨椋[おぐら]池を干拓し,耕地2344町を造成した大事業である.そのうち700町の干拓については,全額を政府が負担する国営事業であり,明治時代初期に実施した安積疏水(1879(明治12)年起工)と那須疏水(1884(明治17)年着工)の国営や国庫補助の事業以来,はじめてのことである.このように昭和初期の農業恐慌を契機に,国営の開発事業が登場したことは,土地改良においても公的な介入や影響力が決定的に強まったことを明示している.
 そしてこの巨椋池干拓は,1937(昭和12)年以後に進行した青森県の三本木[さんぼんぎ],秋田県の田沢湖疏水,福島県の矢吹原[やぶきはら],宮崎県の川南原[かわなんばる],大分県の昭和井[しょうわい]など,第2次世界大戦中に実施された国営開墾事業の先駆例となったものである.やがてこの方法は,第2次大戦の敗戦後には,急速に拡大した国営の土地改良事業の原型を築いたわけである.
 このほか,1933(昭和8)年には佐賀県における有明海の県営干拓や,岡山県の児島湾における第2期の干拓などの大規模事業が開始された.国営事業のほかに多くの府県でも公営の土地改良が進行したのである.さらに政商出身であった藤田農場が,大資本と近代的な技術を背景にしながら,児島湾干拓のために大投資を継続したことは,寄生的な大地主が後退する動きのなかで特異な事業といいうる.
 いずれにせよ,1930(昭和5)年からの農業恐慌のなかで,経済的な基盤の弱かった小農民を前提にした日本の農村は,壊滅的ともいえる打撃をうけた、そしてこれと相前後しながら,支配的な勢力であった地主階級も後退をつづけた.そこでこれらの地主たちに代って,政府はその矛盾を解決するため,みずから小農保護的な土地改良事業や「農村経済更生運動」などを実施せざるをえなくなったのである.
 しかし,ついに根本的な国内の社会的な矛盾を解決することはできずに,やがて1937(昭和12)年以後には本格的な中国侵略や第2次世界大戦へ突入してしまった.とくに戦争経済が展開するにつれて,1920(大正9)年前後から衰退を示していた寄生的な地主による土地投資の動きは完全に力を失ってしまった.食糧の自給と増産のためには巨額な公共資本が投下され,政府が土地改良事業のいわば第1線にのりだしてきたのである.そしてその中軸を占めた国営事業をつうじて,政府と耕作農民が直接に対応することになり,第2次大戦後から現在におよぶ土地投資の特徴が築かれたのである.
 iii 都市用水の発展と農民的技術
 第1次世界大戦ごろから,日本でも重化学工業が展開し,都市の人口も急増し始めた.これらにともなって,水力発電や上水道,あるいは工業用水などに対する非農業的で都市的な用水への需要が拡大してきた.この結果,河川の平水量の大部分を利用し,江戸時代以前からの水利慣行を中心にしてきた農業用水は,『その使用する水量や水質におおきな圧迫をうけるようになった.
 とりわけ水力発電では,それまではその余水が再利用しやすかった水路式から,流水をカットして大量に貯留するダム式が優勢となってきたため,その影響は重大化した.すなわち,農家や耕地が水没したうえに,ピークの発電時に流量や水位が変動したり,バック・ウォーター周辺の堆砂やダム堤直下の洗掘などの被害が拡大した.このため,これまでの取入施設では農業用水の利用そのものが困難になる例がふえ,農民と電力会社との紛争が各地で増大したのである.
 その代表例が,木曾川に新設された大同[だいどう]電力会社の大井[おおい]ダムと,下流から取水していた木津[こつつ]用水(受益面積は約5000ha)および宮田用水(同じく約1万2000ha)との水利紛争である.すなわち,1924(大正13)年に宮田用水の取入堰の上流約40kmに,日本で最初の本格的な重力式コンクリートダムである大井ダムが完成すると,木曾川の水位はたちまち1m前後も低下してしまった.
 もともと木曾川の河床と水位は毎年変動していたので,宮田用水の取水は常に不安定であり,渇水時には地域ごとに時間給水を行う番水[ばんすい]を実施していた.そのうえダムによる水位低下が加わり,取水はいよいよ困難になった.とうぜん宮田用水では,慣行にもとついて大同発電会社に水位の安定を要求したのである.しかし発電会社は,「河川法」などにもとづいて許可された法定水利権を根拠にして,農業側の主張にしたがわなかった.
 両者の紛争と交渉はなかなか決着をみず,実に15年間にもおよんだ.ようやく1939(昭和14)年になって,発電会社がダムと取水口との中間の今渡[いまわたり]に小さい調整用のダムを新設し,農業用水の水位を維持することになり,どうにか解決をみたのである.
 これらの動きは,水力発電会社に代表される資本主義的な近代企業が,昔からの慣行水利を前提にした小農的な稲作経営に圧迫を与える例を明示している.そして結果的には,河川を利用する水利についても,産業資本により有利な方向で解決されるのが一般的であった.
 重化学工業や都市の展開が進むにつれて,以上のように,水利用をめぐって,資本主義と農業の矛盾と対立は,いよいよ深刻にならざるをえなくなったのである.
 そこで,河川の治水と農業水利,発電と都市用水などを総合的に開発しようという,「河水統制」の考え方や事業が新しく登場してきた.たとえば,1933(昭和8)年に愛知県は庄内[しょうない]川の支流である山口川に小規模なダムを設け,治水と灌漑,および上水道を目的にし,翌年の旱魃におおきな効果をあげた.また同じ1933(昭和8)年にも,青森県と東北配電会社が共同で,浅瀬石[あさせいし]川の総合開発事業に着手し,内務省から中小河川改修補助をうけながら,治水と発電,および灌漑を含めたダムを建設した(完成は1945(昭和20)年).
 これらの動きは,ちょうどアメリカ合衆国で地域総合開発の推進力となったTVA(テネシー河谷開発法)が制定されたのと同じ年に,開始されたものである.日本のこれらの事業は,小規模な「河水統制事業」であったとはいえ,世界的にはもっとも早い公共投資を軸とした河川総合開発の先駆例といえるのである.
 やがて1935(昭和10)年ごろから,各府県の土木部を中心に,江戸川・相模[さがみ]川・桂川・淀川・遠賀[おんが]川などの多目的な開発計画が立てられた.政府でも,1937(昭和12)年より「河水統制調査」を開始したほか,1940(昭和15)年からは府県が行う河水統制事業には財政補助金を与えることになった.
 さらに,政府は内務省が直轄した江戸川や淀川,北上川などの開発事業に着手した.しかし第2次大戦が激化し,労働力や資材・機械などが不足したため,江戸川だけが完成し,そのほかの河水統制事業は戦後にもちこされたのである.
 いずれにせよ,これらの「河水統制」は公共管理的な色彩が強かったとはいえ,日本では最初の治水と利水,農業と発電・工業・上水道などの総合的な永利開発計画を具体化したものといえる.そしてこの動きは,第2次大戦後になって河川利用を中心にした国土総合開発方式の母胎となったのである.
 このように日本の資本主義と近代化が進展するにともなって,農業とその水利も国民経済の一環のなかに再編成されざるをえなくなった.こうしたなかでも,直接生産者による末端耕地の改良は,えいえいとして持続していたのである.
 たとえば,急速に確実な増産効果を生む暗渠排水や床[とこ]じめ,客土[きやくど]など在来からのいわゆる農民的な小規模改良の技術がさらに普及していった.とりわけ,冨田甚平[とみたじんべい]の留井戸[とめいど]と水閘[すいこう]土管の考案によって,1910(明治43)年前後に確立した日本独特な暗渠排水技術は,1930(昭和5)年前後の農業恐慌前後から急激に拡大した.そして,増産や冷害の対策におおきな効果をあたえ,現在でも耕地改良の最終的な投資として重要視されている.
 このほか,1920(大正9)年ごろから農村にも電力が普及し,発動機による電気揚水や排水が発達した.とくに佐賀県のクリーク地帯や岡山県の児島湾沿岸などでは,1,2馬力の小型ポンプを用いた個別的な水利用を開始し,昭和時代(1927年以後)に入ると各地に拡大していった。
 たとえば佐賀県のクリーク地帯では,1年間に稲を2回生育させる「二期作」が普及していた.そしてモーターポンプが普及するまえには,夏季になると耕地より低いクリークから,踏車[ふみぐるま]を2段がけ,あるいは3段がけなどの方式で揚水し,農家の年雇[ねんやとい]などがこの重労働にしたがっていた.しかし第1次世界大戦ごろからの産業発展にともない,年雇が北九州や阪神などの工業地帯に流出し始めた.このため,踏車の重労働にしたがう人手が不足するようになり,二期作は危機に直面した.
 そこで1923(大正12)年に,大井手[おおいで]普通水利組合(受益面積は約4224ha,農家4452戸)が電気灌漑の事業を実施した.合計して約190kmの電気を配線したうえ,1,2馬力の小型ポンプ465台をすべて農民の負担で設け,クリークからの揚水の電化を成功させた.この動きは,佐賀県内や筑後川ぞいの福岡県三潴[みずま]地方などにもたちまち普及していった.
 そしてこの電気式小型灌漑にともない,揚水労働の節減のほかに,稲作の技術が進んで生産費が下がり,また農家の副業なども加わった。やがて昭和期になると,この地域の農業経営は「佐賀段階」とよばれ,日本における稲作生産力の最高水準を示すまでに発展したのである.

 以上のように,農業水利を軸とした日本の農地開発は,近代的な資本主義の下で小農経営を優越させることになった.
 その理由は,日本の個別的な自然的環境のなかで,古代からひきつづきばく大な土地改良への投資が蓄積されたことが基盤になっている.そして水利開発にともなって,農業における土地生産力は相対的に上昇し,このうえに零細で分散した小経営と在地を支配する強力な土地所有者を生んだのである.
 しかも日本では,地域的な水利共同体という,ほかのアジア諸国には少ない農民による自治的な組織が展開した.同時に,治水や幹線水路の開発,民間の土地改良に対する補助金や特別融資,あるいは地域間の水利対立の調整などについては,政府の公的な介入が強化されるという,「アジア的」な形態も拡大してきたのである.
 したがって,今後は近代的な技術や財政支出などを活用しながら,農民的な土地改良を伸ばし,小農的な生産の限界をこえることが,残されたおおきな課題となってきたわけである.

[参考文献]
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4. 土木学会編『明治以前日本土木史』,岩波書店,1936年(その後しばしば復刻).
5. 日本学士院編『明治前日本土木史』,丸善,1956年(1981年に改訂版).
6. 牧 隆泰『日本水利施設進展の研究』,土木雑誌社,1958年.
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10. 旗手 勲『米の語る日本の歴史』,そしえて,1976年.
11. 今村奈良臣・佐藤俊朗・志村博康・玉城 哲・永田恵十郎・旗手 勲『土地改良百年史』,平凡社,1977年.
12. 旗手 勲『淡河川・山田川疎水の成立過程』(国連大学「人間と社会の開発プログラム」研究報告),国際連合大学,1980年.
[旗手 勲]