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技術と産業公害

論文タイトル: 第3章:砒素ミルク中毒事件
著者名: 東海林 吉郎/菅井 益郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第3章:砒素ミルク中毒事件

はじめに

 1955(昭和30)年6月から8月にかけて,近畿・中国・四国・九州など西日本一帯で,森永乳業株式会社徳島工場製の育児用調整粉乳,商品名=森永ドライミルクMF(以下MFミルク)の生産工程で砒素が混入し,乳児1万2,131名が中毒症状を呈し,うち130名が死亡した(1956<昭和31>年厚生省調).この悲惨な事件は,森永砒素ミルク中毒事件として,全国民に衝撃を与えた.
 財団法人ひかり協会によれば,26年後の1981(昭和56)年3月現在,1万3,389名のMFミルクの飲用が確認され,事件以後600名が死亡したほか,乳児期の砒素中毒による知恵遅れ,発育障害,脳性マヒ等による運動機能・言語・聴覚・視覚・心身障害など,重い後遺症に悩む624名を含む6,093名が,なんらかの後遺症を訴え,日常生活,労働,結婚その他のすべての面で著しい制約のもとに生きることを余儀なくされている.
 この事件を,ただ単に乳児用人工栄養の大量生産方式の過失に帰すならば,課題の把握は十分ではない.母乳哺育が社会的背景・医療行政・小児医学界・医療機関の在りようと関連し,乳業資本による消費構造に組みこまれるなかで,この事件は生起したのである.

Ⅰ 消費構造に組みこまれた授乳

 戦後の公衆衛生行政は,GHQの「公衆衛生対策に関する覚書」に基づいて,1947(昭和22)年保健所法の全面改正のもとに,保健所を第一線として,戦前からの課題である母子衛生・結核対策を,その主な柱として展開された.
 戦前の日本は,一国の健康と社会の状況の指標となる乳児死亡率(図3-1)・青少年の結核死亡率の高いことを反映し,平均寿命の対欧米比較(表3-1)において,大きく劣っていた.とくに子どもの体力・栄養・発育の源である妊婦の死亡率が高いことは,その社会的環境の劇的な表現(図3-2)であった.
 日本政府は,侵略戦争遂行に際し,人的資源対策を重視して,1936(昭和11)年厚生省を設立し,その改善を意図した.その際,1960(昭和35)年の人口目標を1億に設定し,幾つかの母子対策を樹立した.だがこれは戦争の激化によって満足に実施されることなく終わり,1945(昭和20)年連合国側に降伏の後は,母子対策・結核対策は,戦後の課題として残されたのである.
表3-1 平均寿命の国際比較[1929~1940(昭和4~15)年]
図3-1 各国の乳児死亡率[1901~1905(明治34~38)年,出生1,000について]
図3-2 出生・乳児死亡率・妊婦死亡率・死亡率推移
 1948(昭和23)年7月,空前のベビーブームを背景に,人口対策を含む優性保護法が制定され,翌8月,妊産婦および乳幼児保健指導要領にもとづいて,戦前の課題を引き継ぐ新しい母子衛生対策が定められた.そして悪化した食糧事情のもとで,ユニセフ無糖粉乳などが配給された.また占領軍によって煉・粉乳が緊急放出され,1947(昭和22)年からアメリカの脱脂粉乳による学童給食が実施されていった.1949~50(昭和24~25)年のアメリカの経済恐慌に際し,余剰脱脂粉乳の輸入が強制され,これらの輸入品は国内の乳製品市場を圧迫しつつ,日本の乳製品食習慣を拡大していった.
 そして1949(昭和24)年から,育児衛生・育児教育の普及を目的として,厚生省・読売新聞社による“赤ちゃんコンクール”が,全国衛生行政組織を動員して実施された.それは前年3月に出生の1歳児のうちから,市町村・保健所・都道府県ごとの検診・審査で男女各1名を選び,5月5日の子どもの日に,全国一・都道府県一を表彰するものであった.
 人間にとって,最もむつかしく,かつ危険な時期は生涯の初めである.新生児がこの危険を乗り越えるための基本的な条件は,十分に母乳が与えられるか否か,にある.母乳は蛋白質・脂質・糖質・無機質・微量元素・ビタミン類など,最もヒトの子の発育に適切な栄養組成をもつだけでなく,母親がかつて感染した無数に近い微生物に対する抗原が含まれ,さらにいろいろの非特異的な殺菌物質と,もろもろの微生物に対する抗体が含まれている.そして消化器系・呼吸器系感染,細菌・ウィルス血症から乳児を守るなど,強い感染防御能力をもつほか,異種蛋白の侵入を阻止し,アレルギー性疾患をも防ぐ.人工栄養に,このすばらしい母乳の機能を与えることは不可能なのである.
 だが,人工栄養の浸透と乳児死亡率の低下が並行して起こっていることから,人工栄養の発達が,乳児死亡率低下の理由と誤解する向きもないではない.しかし,その主な理由は,抗生物質の開発によるもので,現在も人工栄養児の死亡は,母乳栄養児の死亡の数倍の割で起こっているのである.
 このように母乳は,新生児にかけがえのない最高の栄養を補給しつつ,新生児を感染から守るほか,幼い命と母の相互の働きかけによって,母と子の絆を確立する.そして,この母乳による哺育を軸として展開する母と子の関係こそ,まさに人間の尊厳を容易に,かつ効果的に獲得してゆく最も自然な方法なのである.
 母乳は,乳児の泣き声などの精神的刺激と,乳首を吸う際の刺激,いわゆる吸啜(せつ)刺激によって分泌される.出産時,母乳は分泌準備状態にあり,新生児の吸う力が弱いことと重なり,しばらくは十分に分泌されない.新生児の体重が出産時より減少する生理的な体重減は,普通のことである.
 この乳児に人工乳を与えると,瓶の乳首から乳汁がほとばしり,乳児は楽に満足できる.このため乳児は瓶をほしがり,母の乳首を本気で吸わなくなる.病・産院でも授乳指導はさて措いて,人工乳で太らせ,1日も早く送り出し,つぎの分娩を扱えば営業成績もあがる.
 また病・産院の新生児管理は,母子別室が多く,乳児が泣くと口封じに人工乳を与える.しかも人工栄養児は生理的体重減もなく,かた肥えの母乳栄養児よりも健康そうに見える.コンクールで入選したまるまると太った赤ちゃんの宣伝写真は,母親を母乳から人工乳に傾斜させてゆく.
 こうして小児医学界の権威歴々の推薦と,病・産院,小児科・産科医を動員した人工乳の包囲網は,赤ちゃんコンクールによって,母たちを積極的な人工乳の受容に向かわせた.1951(昭和26)年,森永乳業が開始した8カ月児のベビーコンクールは,乳業資本が赤ちゃんコンクールによって利益を享受していたことを表現していたといえるだろう.1953(昭和28)年以降のNHKテレビの赤ちゃんコンクール(関東圏)は,人工乳受容の度合の高さを示していた.そしてこれらは,さらに母乳の駆逐をおし進めていった.
 また戦後復興による婦人就業者の増加(表3-2)は,哺育制度の貧困なわが国において,簡便な人工乳の浸透に一層の拍車をかけた.1920年代,混合栄養を合わせて10%にすぎなかった人工栄養児は,1970年代に70%にも達するのである.
表3-2 就業状態及び性別人口数[1947~1956(昭和22~31)年]

Ⅱ 調整粉乳の生産拡大と森永乳業

 日本の育児用粉乳の製造は大正期に遡るが,戦前の市場を制していたのは輸入品であった.日本の人工乳が質量ともにその地位を確立するのは,戦後復興と統制廃止による牛乳・乳製品市場の拡大と原料牛乳の生産増加など,乳業資本の新しい発展の条件が形成される過程においてであった.
 すなわち1950~1954(昭和25~29)年の5年間に,主要乳製品(煉・粉乳・バター・チーズ)の生産額(表3-3)は,名目で2倍半に達した.この間,1951(昭和26)年,省令で育児用調整粉乳の定義と規格が定められ,ビタミン・ミネラル強化,ソフトカード化など,新加工技術による調整粉乳が各社から市販され,市場を拡大していった.
 このとき各社は,自社の商標を宣伝の強力な武器とした.森永乳業は,群小の菓子製造業者と競争しながら,工場生産によるミルクキャラメルの市場を拡大してきたが,ここで確立した森永の商標(エンゼルマーク)が威力を発揮した.バターの雪印,ミルクチョコレートの明治など,乳業資本の発展(表3-4)においては,一般に知られた商標が効果的であったという事実を示している.
表3-3 煉・粉乳,バター,チーズの生産額の増大
表3-4 5大乳業会社の資本金の推移[1946~1957(昭和21~32)年]
 また森永乳業は,戦前に医師・看護婦による乳児診断車を東京・大阪で巡回させ,医師・看護婦の協力が,宣伝に大きな効果があったことから,医師・看護婦,そして医学界に対する働きかけを強化していった.
 一方,1952(昭和27)年の乳製品の輸入減による好況を背景に,製菓業を含む乳業資本は,原料乳確保に争奪戦を演じた.北海道を本拠とする雪印乳業が東京に進出し,明治乳業と森永乳業が北海道に再進出して,熾烈な争奪戦を展開した.このため北海道の乳価は,1954(昭和29)年に50%も上昇したのである.
 しかし好況は持続せず,1954~1955(昭和29~30)年にかけて,乳製品の売れ行き停滞・厖大なストック・金融行詰り等の不況に見舞われた.だが調整粉乳の需要は拡大し,生産量・消費量(表3-5)共に上昇する.またこの不況を通じて雪印・明治・森永の三大乳業資本は著しく伸長し,1961(昭和36)年の全国乳製品製造業の出荷額において70%を占め,表3-6の業績をあげて独占的地位を確立した.この間,森永乳業は調整粉乳部門においてトップに立ち,砒素ミルク中毒事件発生当時,全国シェア60%,関西地区で65%を占めるにいたったのである.
表3-5 調整粉乳の生産推移
表3-6 3大乳業会社の売上高・利益金の推移[1958~1962(昭和33~37)年]
 ともあれこの時期,乳業各社は懸命に合理化を推進した.1955(昭和30)年3月,雪印乳業の脱脂粉乳による学童2,000名のブドウ状球菌中毒事件が起こったが,混入経路も解明されず,業界は自粛と自主検査の強化を申し合わせたにすぎなかった(『朝日新聞』1955<昭和30>年8月27日号「社説」).だがこの事件こそ,実に乳業各社の合理化の一端を覗かせたものであった.
 利潤を第一義とする生産姿勢,大量生産と合理化は,つねに有害食品製造の危険をもつ.大量生産にともなう輸送と保管の面から,原料乳の鮮度が落ちて酸度が高くなる.このため製品の溶解度―品質が低下する.この問題をかかえて森永乳業徳島工場は,1953(昭和28)年4月から,乳質安定剤として第2燐酸ソーダを添加していた.しかも日本薬局方によるものではなく,価格3分の1の工業用のものであった.そして,1955(昭和30)年4~7月に購入した砒素含有の380キログラムを,検査もせずに原料乳に添加したのである.

Ⅲ 砒素ミルク中毒事件と森永乳業の対応

(1) 奇病発生から砒素検出まで
 1955(昭和30)年6月ごろから西日本一帯で,乳児が元気がなくなり,機嫌が悪くなる,下痢あるいは便秘がつづく,乳を吐く,腹部が異様にふくれる,皮膚が黒くなるなど,共通の症状を呈す原因不明の奇病が続出した.
 7月23日,岡山大学医学部付属病院(以下「岡大病院」)に,はじめてのMFミルク中毒患者が訪れ,以後ぞくぞくと入院した.8月5日,これらの乳児が,いずれもMFミルクの飲用者であることが指摘され,また同様の症状をもつ多数の外来患者も,MFミルク飲用者であると,8月12日,医局で公表された.だが原因究明の手段は講じられなかった.
 また日赤岡山病院(以下「日赤病院」)にも,類似患者が多数入院した.小児科医長は8月13日,森永岡山出張所に徳島工場の製品が奇病に関連することを警告した.8月19日,岡大小児科教室教授浜本英次は,徳島工場責任者に,報道対策と生産工程の不安な箇所の是正を助言した.その直後から徳島工場は,規格品の第二燐酸ソーダを市内の薬局から買いこんだのである.
 8月22日,岡大病院医局はMFミルクと砒素の関連は明白であり,全国にラジオ放送するよう浜本教授に申し入れた.だが浜本は放送せずに,日赤病院の回診にまわったが,そこで関連データを付して重症患者の処置を求められ,ついに砒素解毒剤BALの注射を指示した.
 そして翌23日,岡大法医学教室がMFミルクから砒素を検出,浜本から岡山県衛生部に届出がなされた.MFミルクに疑惑がもたれてから,実に18日後のことであった.
(2) 被災者闘争の組織化と発展
 8月24日,岡山県衛生部はMFミルク砒素中毒の事実を公表した.厚生省はMFミルクの回収と販売停止,徳島工場の閉鎖を命じた.ラジオ・テレビ・新聞でこれを知った全国の人工栄養児の母親たちは,不安のあまりわが子を抱いて,もよりの医療機関に駆けつけた.
 翌25日,森永乳業は「お詫びとお願い」を各新聞に掲載したが,ベーター乳糖入りは心配ないと別製品を宣伝した.しかし,この松本工場製MLミルクと,平塚工場製MCミルクによる砒素中毒患者も,現実に発生したのである.
 一方,岡山県内の患者家族の動きが急速に高まり,日赤病院,岡大病院,倉敷中央病院に相ついで被害者家族中毒対策同盟が結成され,9月30日に岡山同盟を組織し,つぎの三項の要求と,最終的解決までの運動と組織の存続を決議した.要求は,①治療・入・通院費と諸費用の負担,②後遺症への補償,③死亡250万円,重症100万円,中等70万円,軽症30万円の一時金を支払うこと,であった.
 森永乳業は,この要求にまったく誠意をみせず,このため被害者側の全国的な団結と統一要求による闘いが求められた.9月19日,岡山市で全国9府県の代表による全国協議会が開催された.森永ミルク被災者同盟全国協議会(以下「全協」)を結成し,岡山同盟の三項目の要求を当面の活動方針とした.同日,全協はさらに4県の同盟を加え,被災者は全協に結集した.
(3) 乳業資本と五人委員会
 全協は10月5日,第1回中央交渉をもち,見舞金等の協定書をとりつけた.世論の支持と全協に結集した運動が,森永乳業を交渉に応じさせたといえる.だが被害の規模と深刻さは予想を越え,莫大な補償が見込まれたことから,森永乳業は斡旋機関の設立を政府に陳情した.厚生省は全協側には図らず,10月21日,つぎの委員による五人委員会を発足させた.
内海丁(テイ)三 (時事新報社取締役主幹)
小山武夫 (東京済生会中央病院長)
田辺繁子 (専修大学講師・人権擁護委員)
正木 亮(リョウ) (弁護士)
山崎 佐(タスク) (弁護士)
 この五人委員会は,公正中立の第三者機関を標榜していた.だが委員費用を乳製品協会が負担したことからも推察できるように,その内実は雪印,明治,森永など乳業独占資本による,補償低減をめざした共同戦線にほかならないという批判を受けた.
 しかも,五人委員会の診断基準を作成する小委員会は,「後遺症は心配ない.いま引き続き治療を受けているのは,砒素中毒と関係のない原病の継続である」とする西沢委員長によってひきいられ,彼と同意見の,岡山大学の浜本教授ら6名で構成されていた.この小委員会のメンバーは,乳業資本のめざす母乳の駆逐に功のあった,日本小児科学界の一方の権威者たちであったといってもよいだろう.
 五人委員会の発足に際し,森永乳業はその「意見書」に従うと声明し,その一方で,森永乳業こそ被害者であるという立場をとって,全協の切崩し工作をはじめた.果たせるかな,12月5日に出された五人委員会の「意見書」は,被害者の要求とかけはなれたつぎのような内容のものであった.
 ①死亡25万円.②患者一律1万円.③入院患者2,000円程度.④後遺症はない.
 それは患者,家族の実態を全く無視して,森永乳業の免責を狙うものであったとしかいいようがない.全協はその不当性を衝き,直接交渉による解決をめざし,①弔慰金50万円,②定期検診の実施,③研究機関の設立,など最終的な要求を提起した.だが12月26日,森永乳業はその全面的な拒否を通告してきたのである.
 全協は直ちに厚生省に抗議し,各府県の同盟も憤激し,街頭デモ・不買運動・森永乳業各支店への座り込みなどを展開した.しかし世論の十分な支持もえられず,一方入院患者は費用打ち切りで退院を余儀なくされ,病む子をかかえた母親たちは,運動を盛りたてることもできず,疲労の極に達していたのである.
(4) 「守る会」の結成
 こうして疲労と焦りを誘いながら,森永乳業は「意見書」をやや上回る妥協案を,全協と同盟の解散を条件に1956(昭和31)年4月上旬,全協委員長との間に成立させた.全協と各府県同盟もこれを承認し,同月下旬に解散した.だがこの妥協案は,全協の解散のほかに,何一つ得るものはなかった.このため岡山同盟の一部が,ついに民事訴訟に踏みきった.
 1957(昭和32)年2月,森永乳業は財団法人森永奉仕会を設立した.それは「乳幼児の栄養,とくに牛乳・乳製品の品質改善」を目的とするもので,全協が要求した後遺症の研究とは無縁のものであった.奉仕会は医学・官界の権威を集め,事件に関する専門医の批判と母乳派台頭に対する組織的威圧,さらに情報収集と監視のほか,研究費の分配による人工栄養派の再結集をめざすものとうけとられた.またいままで意思を疎通してきた全国の病・産院,医師とその従事者に,研究重視の姿勢を示し,調整粉乳の信用をつなごうとするものであるとみられた.
 岡山県では,全協と同盟の解散のあと,岡山県森永ミルク中毒の子どもを守る会(岡山守る会)を結成し,関係各方面に要望書を提出するなど活動を続けた.そして1957(昭和32)年7月,森永乳業と交渉し,中毒症の検診とその治療費を支払うという覚書をとりつけた.そして19名が,後遺症があるという診断を得たのである.このほか岡山守る会は,1960~62(昭和35~37)年には,第6回日本母親大会で報告するなど,世論の支持を得るための活動にも力を注いでいった.だが徳島地方裁判所は,1963(昭和38)年10月,被害児の親たちの期待を裏切り,刑事被告人である森永乳業徳島工場の責任者らに無罪の判決を下したのである.この判決に怒りを新たにした岡山守る会は,岡山の文字を削除し,全国単一の組織として被害児を守るための永久の闘いを決意したのだった.ところが1966(昭和41)年3月,高松高等裁判所はさきの無罪判決を破棄し,徳島地方裁判所に差し戻す決定を下した.また同年,岡山県薬害対策協議会(民間団体)は,MFミルク中毒患者の実態調査を行い,深刻な後遺症の実態を明らかにした.刑事裁判による無罪判決の破棄や,協力医療陣の出現など,ようやく被害児とその家族たちの前途にも微かな曙光が見えはじめてきたのであった.
[東海林吉郎]

Ⅳ 「14年目の訪問」―丸山報告―

 このように砒素ミルク中毒の被害児の親たちの訴えは,1960年代後半にはいって少数ながら良心的な医師の関心をひくようになったのであるが,しかし森永砒素ミルク中毒事件は,社会的には依然として過去のものに変わりはなかった.森永ミルク中毒の子どもを守る会(守る会)の親たちは,後遺症に苦しむ子どもたちに励まされながら,暗闇の中に一筋の光を求めて執拗に闘いを続けた.「そうじゃ.毒を入れたのは森永じゃけど,飲ましたのは私たちじゃけん.一人前に元気になるまでは,親の責任を果たした事にはならん.頑張りましょうで! 10年戦争絶対やりますで!」1)という親としての責任感と子どもにたいする愛情が,いつ成就するかわからない困難な闘いを持続させたのであった.
 砒素ミルク中毒の被害児たちの一部には治癒宣言がなされた1956(昭和31)年当時,すでに砒素中毒の後遺症の典型的な症状が現れていた.当時軽症と見られた被害児の多くは,成長するにしたがって後遺症が明らかになってきた.しかし中枢神経をおかされた重症者も,視力障害や皮膚疾患,さらには発育不全や精神不安定,学力の遅れなどすべてが先天的な原因によるもので,砒素中毒とは関係ないとされていたのである.また明確な後遺症の症状がない場合でも,被害児の親たちにとって心配の種は尽きなかった.だが公的には何の対策もとられぬまま14年間が過ぎ,被害児たちはすでに14~15歳に達していた.同じ頃,砒素ミルク中毒の被害児の後遺症に気づき,彼らが義務教育を終えてちりぢりになる前にその実態を把握しなければならない,と考える人々が,実態調査にのり出した.それは養護学校の教師や保健婦,医学部の若手研究者たちであった.彼らは大阪大学医学部の丸山博教授の指導の下に,森永ミルク中毒事後調査会を組織し,砒素ミルク中毒の被害児とその親たちに面接して,14年前の事件当時の症状,森永側の対応,行政機関や医療機関の対応,およびその後の14年間の被害児の発育状況,後遺症の有無,親たちの子育ての苦労や心配事などについて聴取り調査を行った.彼らの調査結果はガリ刷り93ページの「14年目の訪問」としてまとめられたが,調査対象人数68人の8割が何らかの異常を訴えていることが明らかにされた.
 丸山教授は,同じように疫学的調査を行っていた岡山大学医学部の青山英康助教授とともに,1969(昭和44)年10月18日記者会見を行い,「14年目の訪問」を公表したが2),公害世論が高まりつつあった時期であっただけに,その社会的反響は大きかった.守る会の親たちはようやく見えてきた一筋の光に向かって全力を尽して突き進んだ.「14年目の訪問」は,10月30日の日本公衆衛生学会の総会において丸山教授によって発表された.丸山報告にたいしては,旧態依然とした学者たちからの反論や否定,さらには発表の妨害すら予測されたが,1960年代後半の学園闘争の中で,大学における研究のあり方を根本的に問い直しはじめた若手研究者たちの周到な配慮によって,丸山報告は最後まで討論された.また彼らの努力によって被害児の親たちも,学会の場で直接発言する機会をもつことができたのであるが,それは学会の慣例から見て異例のことであった3).
 こうして1969(昭和44)年秋の日本公衆衛生学会総会を契機にして,森永砒素ミルク中毒事件は14年後に再び社会問題化することになったのである.
 これまで黙りこんでいた多くの被害児の親たちは,丸山報告に勇気づけられ,再び森永ミルク中毒のこどもを守る会に結集しはじめた.守る会は11月30日に第1回の全国総会を開いて,全国単一組織による運動,後遺症の究明,完全治療,森永の企業責任の追及などを決議し,12月には守る会の機関誌「ひかり」の第1号を発行した,守る会は本部を岡山におき,翌1970(昭和45)年になって奈良,広島,香川,京都,兵庫,大阪など各地域にも支部を設けて,組織の拡大と地域に見合った対策の実現を目ざした.守る会の組織化は急速にすすんだが,会員たちはかつての「森永ミルク被災者同盟全国協議会」の誤りを繰り返さないよう細心の注意をはらった.守る会の第1回全国総会で決議された,
1. 完全治療・完全看護を要求して,こどもを元に戻して貰おう!
2. 人道的医療陣の協力で後遺症を究明しよう!
3. 世論を動員して森永の企業責任を追及しよう!
4. 全国の被害者はこの会(守る会)に結集し,一致団結して要求貫徹のためにたたかおう!
という四つの獲得目標は,補償金の要求によって組織的自壊を招いた過去の経験が踏まえられていたのである.また守る会の運動をめぐる客観状勢は,1955(昭和30)年当時と比較して守る会にとってはるかに有利に展開していた.すなわち全国的に反公害運動が高揚し,新聞やテレビなどのマスコミによる公害撲滅キャンペーンがはられており,また1960年代後半の学生運動によって学者たちの権威が一定程度失墜していたからである.
 事件の再燃にたいして行政側の対応はきわめて鈍く,森永にいたっては「こんな大量の後遺症患者がいたとは信じられない……補償を打ち切ったとは考えておらず,会社の負担で,いつでも治療を受けていただく」と,後遺症の存在自体に仰天して見せたのだが,この発言は,守る会の親たちが14年間にわたって森永に被害児の健康診断と治療とを要求してきた事実をまったく無視したものであった.行政や森永の責任回避に対して,良心的な学者や批判精神に富んだ若手研究者たちは,1970(昭和45)年1月より守る会の親たちとともに各地の被害児の自主検診を開始し,後遺症の発見と治療,その疫学的分析を行った.大阪大学と岡山大学がその拠点となった.丸山教授らは,日本公衆衛生学会をはじめ,日本小児科学会,日本衛生学会にも働きかけ,各学会もそれを受けて後遺症の調査,対策を目的とした委員会を発足させた.
 守る会の親たちは協力医療陣や市民の支援運動に支えられて運動の強化をはかった.また自らも積極的に支援の輪を拡大するために,カネミ油症患者4)や水俣病患者など各地の公害被害者たちと手を結ぶとともに,労働組合や生協,消費者団体の集会から,小さな研究会や大学祭などにまで出かけて,森永砒素ミルク中毒被害を訴えた.かつてわずか数家族でもちこたえた守る会は,丸山報告から1年後には会員数が800名に急増していた.守る会は運動の活性化と支援の輪の拡大を背景にして,1970(昭和45)年12月6日の第9回全国理事会で森永からの交渉申し入れに応じることを決定した.対森永交渉は,本部交渉と現地交渉の二本立てとし,本部交渉は守る会の指定する場所と日時に従うことが約束された.こうして12月12日守る会の本部と森永本社との間で,第1回の本部交渉が岡山で開かれた.以後1971(昭和46)年7月11日まで,毎月1回計8回の本部交渉がもたれたが,森永側は意図的に交渉を引き延ばして責任回避をはかったとみられる.そして8回目に至って森永側は交渉を拒否し,岡山県粉乳砒素中毒調査委員会の結論が出るまで交渉を中断するとした.またしても森永は,行政側の第三者機関なるものに救いを求めたのである.
[注]
1) 森永砒素ミルク闘争20年史編集委員会『森永砒素ミルク闘争20年史』,医事薬業新報社,1977(昭和52)年,28ページ.
2) 『朝日新聞』1969(昭和44)年12月19日号.
3) 第27回日本公衆衛生学会自由集会“若い公衆衛生従事者の集い”事務局編「学会を告発する」,1970(昭和45)年,を参照.
4) カネミ油症事件は,1968(昭和43)年10月に発生した大きな食品公害事件で,原因は熱媒体のPCBが製品(食用油)に混入したためであった.被害者は1万人以上にも達し,現在も損害賠償請求訴訟が継続中である.

Ⅴ 被害者救済運動の拡大

 厚生省は森永ミルク中毒のこどもを守る会の運動と世論に押されて,砒素中毒被害児の検診を行うことに同意したが,その実態はまたしても「権威ある」
学者たちからなる第三者機関に委託して,「後遺症なし」という結論を生むものでしかなかった.厚生省は先ず守る会運動の拠点である岡山県において検診を行うことを決め,実際の業務については岡山県に委託した.岡山県では衛生部を窓口として,1970(昭和45)年10月岡山県粉乳砒素中毒調査委員会を発足させた.しかしこの委員会は,委員長以下主要ポストのすべては,守る会と協力医療陣が独自に行ってきた自主検診にたいして偏見をもつ医師たちで占められているとみられたし,そこでの審議内容や検診データは被害児のプライバシーの尊重を理由に,守る会や自主検診に携わる医師にたいしてさえ非公開とされた.守る会側は1955(昭和30)年当時のように被害児抜きの密室審議によって,被害児の切捨てが行われることをおそれ,厚生省と岡山県に異議申立てを行ったが,行政当局は「官製検診」を強行したのだった.岡山県の「官製検診」の報告書は2年後の1972(昭和47)年12月に当局側に提出されたが,そこでは守る会側が危惧していた通り「当時の患児達は特に憂慮すべき経過を辿っているとは考えられない」1)と結論づけていた.なお後に国会質問で明らかになったことだが,「官製検診」費用のうち1,000万円は森永乳業が負担し,厚生省はわずかに130万円を負担したにすぎなかった.
 守る会は「官製検診」の本質を見抜き,その結論を待って本部交渉を再会しようとした森永を激しく非難した.世論は守る会の側についた.公害問題の深刻さを認識した多くの消費者たちは,森永の企業責任を問い,森永乳業のみならず森永製菓など森永グループの一切の商品の不買を開始した.不買運動は福島県の生協連合会の不買決議を皮切りに,1970(昭和45)年秋以降全国各地にひろがっていった.森永側にとってそれは予想もしえない事態であった.森永は企業のイメージ・ダウンを避けるためか,本部交渉の一方的な打切り後5カ月目には再び交渉の席に着いた.しかし世論向けには,「責任を問われれば平身低頭して認めるばかりだ」とか「補償に誠意を尽くす」とか公言しながら2),交渉の席では企業責任を否認し,道義的にのみ被害児の救済を行うとうたった「恒久措置案」なるものを提示した.しかしそれは守る会にとって,到底受け容れられないものであった.
 こうした森永側の不誠実な対応にたいして守る会は運動の強化をはかると同時に,1972(昭和47)年8月の第4回全国総会で,「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」3)を承認し,それを軸にして森永との交渉に臨むこととした.同対策案は森永乳業の企業責任と政府の行政責任を前提として,さまざまな後遺症の症状に対応した具体的な救済対策,死者に対する補償や生存者の過去の損害にたいする補償の要求を掲げていた.またその救済対象は登録患者,未登録患者を問わず,1955(昭和30)年当時森永砒素ミルクを飲用した全被害者と規定していた(「飲用認定」)が,この考え方は他の一般の公害病の認定が,もっぱら特定の症状と特定の原因物質との数量的因果関係に基づいているのとは根本的に異なり,真に被害者側に立った画期的なものといえる.
 守る会と森永乳業との本部交渉は,森永側の引き延ばし戦術によって進展しなかったが,1972(昭和47)年12月の第15回本部交渉は森永側の約束違反によって遂に決裂したのであった.守る会は交渉の場を第2回の全国集会に切りかえ,森永側を追及する手段として不買運動と損害賠償請求の民事訴訟の提起を決議した.不買運動はすでに全国的に行われていたが,守る会の正式な決定により燎原の火のごとく急速に各地にひろがっていった.森永の粉乳市場におけるシェアは「14年目の訪問」以降急速に減少し,明治乳業,さらには雪印乳業にまで市場を開け渡し,業界第3位に落ち込んだ.事件の再燃前には粉乳市場における森永乳業の市場占有率は45%であったのに不買運動後は17~18%に低下したのである.10数年前の「砒素入りミルク」が危険な有害食品の代表として再登場したためであった.森永の経営状態は当然にも悪化した4).
 守る会では1973(昭和48)年4月に近畿ブロックの会員36名が大阪地裁に損害賠償を求める民事訴訟を提訴したのに続き,8月には岡山地裁,11月には高松地裁にも提訴し,森永と行政側の責任を公判廷においても明らかにしていった5).刑事責任のほうでは,徳島地裁の差戻し裁判で,同年3月に検察側が森永側の被告(徳島工場長と製造課長)にたいしてこの種の事件としては最高刑の禁固5年を論告求刑し,森永乳業は民事,刑事のいずれにおいても追いつめられたのである.
 守る会は不買と民事訴訟を車の両輪として運動を展開したが,それはあくまで「恒久対策案」実現のための手段として位置付けられていた.森永との癒着を批判された政府は,苦境に立つ森永とは一定の距離をとるとともに,行政責任の一端を認めたうえで1973(昭和48)年9月になって,守る会と森永双方に事件解決のための三者会談を呼びかけた.両者ともこれに応じ,10月に第1回の三者会談が開かれた.そして12月23日の第5回三者会談において,守る会会長,厚生大臣,森永乳業株式会社社長の三者の間で合意が成立し,5項目からなる確認書に三者が署名した.確認書の骨子は,森永が全面的に企業責任を認め,守る会の提唱する救済対策案を尊重して同案に基づいて設置される救済対策委員会が必要とする費用の一切を負担すること,および厚生省は行政サイドから恒久対策案の実現に協力すること,問題の全面的解決まで三者会談を継続すること,などであった.
 次いで1974(昭和49)年4,月に開かれた第6回および第7回三者会談において,森永ミルク中毒の被害者救済事業のための財団法人ひかり協会の設立と,その運営に関する具体的諸問題の検討が行われた.このように守る会,国,森永の三者の会談は急速に進行したが,その間にも不買運動と訴訟は続けられた.また1973(昭和48)年11月28日には,森永の刑事責任を問う徳島差戻し裁判で森永に有罪の判決(製造課長禁固3年)が下り,不買運動にも拍車がかかった.
[注]
1) 森永を告発する会編『砒素ミルク3―岡山県粉乳砒素中毒調査委員会会議メモ』,1974(昭和49)年,付録資料,7ページ.なお同書は,「官製検診」がいかにして被害児の切捨てを行ったか,その実態を克明に解明している.
2) 『日本経済新聞』1971(昭和46)年12月13日号,大野勇社長の言.
3) 森永ミルク中毒のこどもを守る会全国本部事務局機関紙『ひかり』No,39 1972(昭和47)年10月20日.
4) 『日本経済新聞』1972(昭和47)年4月11日号,『広島新聞』8月24日号.
5) 森永ミルク中毒被害者弁護団編『森永ミルク中毒事件と裁判』,ミネルヴァ書房,1975(昭和50)年.
Ⅵ ひかり協会の設立

(1) ひかり協会の事業

 1974(昭和49)年4月,砒素ミルク中毒の被害者救済のために財団法人ひかり協会が設立された.事件発生以来実に19年目のことであった.森永ミルク中毒のこどもを守る会は,三者会談での合意に基づいて5月の全国理事会で,不買運動の中止と民事訴訟の取り下げを決議し,以後守る会の運動の主要目標をひかり協会の事業の充実においたのであった.ひかり協会の役員は一部の有識者たちをのぞいて,ほとんどが守る会の親たちで占められた.したがって守る会とひかり協会は組織的には重なり合うことになった.ひかり協会の本部事務局は大阪におかれ,そこには多数の医療関係者や教育関係者などからなる専門委員会が設けられた.また各地に地域事務所がおかれ,個々の被害者にたいして具体的な救済事業を行う窓口とされた.地域事務所は1981(昭和56)年4月現在で17都道府県に設置され,その運営は守る会の親を中心に医療や教育関係を専門とする多数のボランティアの協力で行われている.
 ひかり協会の救済の対象となる被害者の数は,1983(昭和58)年3月末現在で1万3,396名,そのうち常時ひかり協会と連絡を希望するものは,6,389名に上がっている1).ひかり協会の事業は「被害者の発達の保障と社会的自立」に最大の重点をおいて,金銭給付をはじめ健康管理や相談指導,教育,就労訓練,被害者の交流などさまざまな分野にひろがっている2).金銭給付は,障害の比較的重い被害者に支給される基礎手当(旧「調整手当」),医療費,生活困窮者のための援助金など多岐にわたっている.基礎手当の対象者は1981(昭和56)年の3月段階で593人,うちとくに重度の障害をもつ者は181人を数える(表3-7).ひかり協会ではこのほかに被害者自身の組織である「太陽の会」や守る会にも活動資金の援助を行っている.
 ひかり協会の予算規模は1974(昭和49)年に発足した当時は年間3億4,890万円であったが,その後毎年拡大し,1981(昭和56)年度には9億2,760万円に上がっている.これらの資金はすべて森永乳業からの「寄附金」で賄われているが,協会の事業が拡大するとともに今後さらに増大するものと思われる.
表3-7

(2) 残された課題
 このように被害者の救済はひかり協会によって一応順調に進められてきてはいるが,そこに問題がないわけではない.第1に未確認患者の存在や認定保留者たちの取扱い(表3-8参照)をどうするか3),第2に恒久対策案の大きな柱の一つでもある死亡者にたいする補償や生存者の過去の損害にたいする補償,さらに成人の飲用者にたいする補償問題の処理など,協会が早急に取り組まなければならない課題は少なくない.被害者救済運動に関わる人々の中には,協会は「全体の被害者救済に運動の方向を広げるべきだ.森永乳業も国も,一部の救済だけなのに“社会的救済を果たしている”かのように協会を隠れみのにしている」として協会のあり方をきびしく批判する人々もいる4).
表3-8 事業対象者の推移
 さてこの章を終えるにあたって,われわれは森永砒素ミルク中毒事件の特徴と問題点について整理しておくことにしよう.第1にこの事件が広範囲にわたる地域で多数の被害者を出した背景として,この事件の発生した時期がちょうど日本の高度経済成長時代の開始期にあたっていたために,賃金水準の低い若年労働力や女子労働力にたいする需要が急速に拡大していたということを指摘しておかなくてはならない.つまり大部分の若い母親たちが,家庭を離れて工場などで働くためにはどうしても粉ミルクの助けを借りる必要があったのである.
 第2にそうした一般的な経済的背景に加えて,当時の日本の民衆の間に「無条件の近代化志向」あるいは「近代化万能論」ともいうべきものが根強く存在していたことが,粉ミルクの需要を高め,それが被害拡大の間接的な要因になったという点である.日本の民衆のほとんどは,第2次世界大戦中から続いていた食糧をはじめとする慢性的な消費物資の不足に悩まされてきたがゆえに,それだけ欧米諸国の物資の豊かさ,とくにその技術や工業製品,文化にたいする羨望を強くもっていたのである.そのことは早く欧米並みになろうとする目本人の向上心と努力の源泉となった反面,抜きがたい外来信仰ともなって現れた.粉ミルクの場合もまさにそうだったのである.戦後アメリカから導入された栄養学は,栄養分析表の数字こそ近代的で合理的な食生活の基礎であると教えていたが,それは逆に栄養分析を表示した加工食品を絶対視する社会的風潮(一種の「数値万能主義」)を生んだのである.こうした状況の中で,栄養i分析表を付し,きれいな容器に入った有名メーカー製の粉ミルクに,人々が魅力を感じたのも無理からぬことであった.そのうえ森永を先頭にして乳業各社が「粉ミルクの方が母乳より栄養価も高く,子どもの発育にすばらしい効果を発揮する」と激しい宣伝戦を展開したので,母乳の出にくい母親たちが,母乳を出す努力をするよりも,きそって当時としてはまだきわめて高価であった粉ミルクに走ったのであった.
 第3に,この中毒事件を拡大激化させたのは,加害者の森永乳業はもちろんだが,当時の小児科学会の権威者や産院の医師,さらには地域の保健婦や助産婦たちの対応の仕方にも大きな問題があった,という点を強調しておかなければならない.それは戦後一般化する分析的な栄養学と乳業各社による宣伝が,母親たちのもっとも信頼していた権威ある学者や医師たちによって深く浸透させられていったという事実である.森永乳業側に立った学者や医師の責任がきわめて重いことはすでに繰り返し述べてきたが,粉ミルクを無批判に受け容れて普及させたその他の地域医療関係者たちにも,被害が拡大激化したことについて少なからぬ責任があるといえる.医師や保健婦たちは母親たちに,粉ミルクが栄養面では母乳に遠く及ばないこと,あくまでも母乳の出ない母親や働く母親が止むを得ない場合にのみ使用すべきものであることを教えるべきであったのである.次の意見は女性解放運動に逆行するものとして批判されるかもしれないが,われわれは育児期間中については,母親は外に働きに出なくとも育児に専念できるような社会制度をつくることが望ましいと考えている.
 第4はこの事件の解決形態である.形式的には第三者機関である財団法人ひかり協会を通して被害者の終身救済をはかるという救済方式に関するものである.ひかり協会方式は,他の公害事件において一般的に見られるような一時金による打切り補償方式とはまったく異なっている.その具体的方法は,被害者側が作成した「恒久救済案」に示されているが,それは当時としては考えられるかぎり最高の救済案であったといってもよいだろう.しかしながら,実際には被害者を十分救済しているとはいいがたいし,将来的にはとくに二つの大きな問題点を残していると思われる.一つはひかり協会がその救済事業の財源を全面的に森永乳業に依存している点である.そのため,森永側が経営内容の悪化を口実にして,ひかり協会の救済事業に必要な資金を十分提供しなくなる危険性がまったくないとはいえず,その場合には被害者側が加害者責任の一端を救済事業の制約という形で担わされる結果になるであろう.
 たしかにひかり協会は,現段階では森永乳業の経営内容によって救済事業が左右されないだけの態勢を整えているとしても,しかしながら森永乳業もまた営利を追求する私企業であるから,最終的にどのような形で救済事業が保障されるのか,その点がもっとも懸念される点である.
 このことに関連してもう一つの問題点を挙げると,森永乳業と並んでこの事件に大きな責任のある政府が,自らの行政責任を曖昧にしたままで,もともと社会保障制度の対象とすべぎことをも,ひかり協会の事業に肩代わりさせていることである.政府は自らの行政責任を明確にして対処するとともに,日本の社会保障制度の不備,とくに身体障害者対策の遅れを認識すべきなのに,守る会と森永乳業,厚生省の三者による合意確認書においても,この事件にたいする直接的な行政責任には一言も触れず,ただひかり協会の事業には行政面から協力すると約束しているにすぎない.しかもその後政府は,未だに行政面での具体的な施策をほとんど実施してはいないのである.ひかり協会方式と呼ばれる財団法人の設立による公害や薬害被害者の救済方法は,サリドマイド事件などにも採用されているが,この方式がけっして政府の行政責任放棄の手段とされぬよう監視し続ける必要がある.
 さてこの事件に特有な第5の問題点は,ひかり協会が「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(1983<昭和58>年6月に「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」と名称変更)の指導権の下にあるといっても,ひかり協会はあくまでも第三者機関なのであって,森永乳業側からみれば,それは守る会や被害者との唯一の公式の接点であり,したがってまた被害者工作のための橋頭堡としても位置付けられるものである.つまりひかり協会は被害者救済機関であると同時に,守る会と森永乳業双方の攻めぎ合いの場なのである.それゆえに被害者の救済は,究極的にはひかり協会を支えている運動体である守る会の力量如何にかかっているといえるのである.とくに守る会の活動の担い手である被害者の親が高年齢化し,次第に活動力が弱まりつつある現状においては,比較的軽症の被害者を中心とした守る会の再組織化活動は,今後いっそう重要になると考えられる.それとともに事情をよく理解したボランティアによる支援と協力が,これまで以上に高まっていくことが望まれるのである.
[注]
1) 財団法人ひかり協会機関誌『恒久救済』No.22 1984(昭和59)年1月,9ページ.
2) ひかり協会の事業の実施状況については『恒久救済』の各号を参照.
3) 確認者数は1955(昭和30)年当時,厚生省や各地方自治体が森永ミルク中毒の被害者として被害者名簿に登録し,確認した人数.このときの未登録患者が後に「未確認問題」として,被害者と森永との交渉上の争点の一つになる.確認者数が減少しているのは,被害者が死亡したことによる.認定者数は,ひかり協会が設立された後に,協会内の認定委員会で新たに被害者として認定された人数.ひかり協会で認定した被害者は,自動的に厚生省によって被害者として認定されることになっている.したがって認定保留者は,かつての未登録患者(回収漏れのMFミルクを飲んで被害を受けた者や,1955〈昭和30〉年当時中毒被害に気づかなかった者が多い)でありながらMFミルクを飲用したという物的証拠(証言)が不十分であることを理由に,協会の事業の対象となっていない人々のことである.
4) 『朝日新聞』夕刊,1981(昭和56)年5月7日号.
[菅井益郎]

[参考文献]
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