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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 III 道路
著者名: 山本 弘文
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 III 道路

 (1) 車両輸送の登場
 維新後の道路輸送は,国内の統一や海外貿易の進展にともなう輸送需要の増大と,封建的な輸送制度の廃止によって,1875(明治8)年ころから,かなり顕著な発展を開始した.このような発展は,車両輸送の増加に端的にあらわれた.すでにふれたように封建的な旧制度のもとでは,街道上の車両通行は原則として禁止されていた.しかし幕末期の1863(文久3)年には,荷車による貨物の輸送がはじめて許可され,また1870(明治3)年には,これを改造して乗用にした人力車も公認された.
 他方,馬車は,開港後すでに外国公館の自家用馬車が開港場周辺で運行していたが,1869(明治2)年には,日本人経営の最初の乗合馬車が,東京・横浜間で認可された.しかしこれは首都と開港場を結ぶ例外的なものであり,各地で広く認可されるようになるのは,最初の鉄道が開通した1872(明治5)年ころからであった.そして市内の辻馬車や乗合馬車だけでなく,街道上にいくつかのステーションを設けた駅馬車もあらわれたのであった.
 1872(明治5)年に出願された駅馬車は,東京・高崎間,東京・八王子間,東京・宇都宮間,境・福島間,大阪・京都間,函館・札幌間の六路線で,函館・札幌間を除けばいずれも民営であった.これらの路線は,東京,大阪,札幌という中心都市を終着駅とした点で,もともと輸送需要の多い路線であった.
第1表 1875―1890(明治8―23)年の諸車台数
しかし他方,高崎,宇都宮,福島,八王子は輸出生糸の主産地であり,これを東京に運ぶことに,もう一つのねらいがあった.東京からはいうまでもなく鉄道で横浜港へ運ぶことができた.いずれにしても民営の馬車輸送は,官営鉄道と違って,有望な輸送需要と当初からかたく結びついていたのであった.軽くて高い運賃負担能力を持ち,かつ価格変化に敏感な生糸は,こうした新来の輸送手段にもっとも適した貨物であった.なおこれらの駅馬車は,いずれも一般貨客のほか,官営郵便(1871(明治4)年3月創設)の輸送を請負い,官営郵便馬車の称号と章旗に保護されて運行した.これは当時まだ封建的な輸送制度が各地に残存し,民間貨客の通行をしばしば妨害したからであった.郵便物の輸送は,その意味で,固有の輸送手段を持たない政府と,政府の保護を必要とした業者の双方にとって,好都合なものだったということができるのである.
 次に東京・高崎間の馬車輸送を例にとって,輸送組織や輸送状態をやや詳しく紹介してみることにしよう.
 東京・高崎間の馬車輸送は,1872(明治5)年6月,中山道郵便馬車会社によって開始された.同社は開業に先立って同年2月,1日当たり37.5kgの郵便物を無料で輸送することを条件として,郵便馬車会社の称号と章旗を認可され,また約50アールの土地(東京市内)と無利息10ヵ年賦返済の資金(5000円)を政府から貸与された.企業形態はつまびらかでないが,パートナーシップのかたちをとったものと思われる.会社組織については,東京に本社,熊谷・高崎に支社,蕨・桶川・本庄に出張所が設けられた.運行車両は毎日,東京・高崎間に2頭牽2両,東京・熊谷間に1頭牽2両が運行し,合計50頭の馬が両端および途中の支社・出張所に配置された.
第1図 中山道郵便馬車会社営業路線図
発着時刻は東京・高崎とも朝6時発,夕6時着と定められ,運行回数は東京・高崎間,東京・熊谷間とも毎日1往復とされた.東京・高崎間の距離は約110kmであるから,約10kmの時速が予定されていた.運賃は上り勾配の東京→高崎が,150kg当たり2.37円だったが,下り勾配の高崎→東京間は2.13円で,同一区間でも勾配によって違っていた.このような運賃制度は封建時代のそれと同様であり,まだ近代的な運賃制度として確立していないことを示すものであった.またその水準は馬背輸送の約1.8倍に相当し,かなり割高であった.
 しかし同社の馬車輸送は,開業後たちまち劣悪な道路問題に直面しなければならなかった.車両通行の経験がなかったわが国の道路は,路床も路面もきわめて軟弱で,凹凸も多かった.そのうえ河には橋がなく,徒渉できない河川では,舟に積んで車両を対岸に運ばなければならなかった.したがって同社の馬車も定時の到着はきわめて稀で,2,3時間の延着は普通であった.とくに雨期の通行は困難をきわめ,車両の破損や転覆も珍しくなかった1).
 このような道路事情は,各地に奇妙なつぎはぎ輸送を出現させた.その好例は,1874(明治7)年8月に東海道で始まった陸運元会社(内国通運会社の前身)の郵便物の馬車輸送であった.
第2図 1877(明治10)年12月 東海道郵便物輸送路線
同社は,江戸時代初頭から信書・貨幣・高級貨物の運送請負業に従事してきた飛脚業者たちが,官営郵便の開設にともなってその下請業務に転業し,1872(明治5)年7月の会社創立以来,政府の特別の保護を受けてきたものであった.1874(明治7)年8月に始まった神奈川・小田原間の馬車輸送も,このような官営郵便の早達を目的としたものであったが,その後この路線は,1875(明治8)年11月に熱田まで,1876(明治9)年8月には京都まで延長されることになったのである.1877(明治10)年12月,同社に下付された郵政当局の命令書によれば,神奈川・京都間(495km)は14区間に分けられ,午後神奈川発の便は56時間で,夕刻の差立便は60時間で京都に到着する規則になっていた.しかし悪路のため,全区間の馬車輸送は不可能であった,たとえば小田原・箱根・三島,島田・日坂[につさか],熱田・桑名・土山間は脚夫による逓送,宇津[うつ]ノ谷[や]・島田間は人力車,浜松・新所[しんじよ]間は渡舟といった具合であり,馬車の走行が可能だったのは,残りの7区間に過ぎなかった.同社によるこのような郵便物の輸送は,1880年代に入っても続けられたが,つぎはぎ輸送の状態はほとんど変わらなかった.もっとも1883(明治16)年2月の命令書によれば,熱田・桑名・土山間は脚夫から人力車へ,宇津ノ谷・金谷(島田の西隣の駅)間は人力車から馬車へといった,多少の改善が行われたのであるが2).
 このような馬車輸送は,1880年代に入ると各地に広がった.馬車台数は1875(明治8)年の364両から1890(明治23)年の3万1965両へと急増した.
第2表 東京府内の諸車台数(1876―1890(明治9―23)年)
とくに荷馬車の増加はめざましく,1875(明治8)年の45両から1890(明治23)年の2万9088両へと激増し,1882(明治15)年には乗用馬車数(1920両)を追い越した(荷馬車は2623両).このような馬車輸送の発展は,いうまでもなく,国内産業の勃興と商品流通の増大を反映したものであった.事実わが国の産業は,1870年代末から,地方制度の整備や海外貿易の進展にともなって,一斉に成長を始め,水車動力を用いたマニュファクトリーが各地に出現した.そして製糸業や紡績業の分野では,在来技術の改良もかなり進み始めた.こうして,産業革命期に固有な馬車時代が,始まろうとしていたのであった.
 (2) 都市交通の発展
 他方,都市交通,とりわけ東京,横浜,大阪,神戸などの大都市の交通も,激しい変化を経験した.変化の第1は,急激な人口流入と車両交通の出現にともなう,過密と雑踏であった.たとえば東京府の人口は1880(明治13)年の95万7000人から,1890(明治23)年の153万1000人へと,1.6倍に増加した.また辻馬車,乗合馬車などの外来の輸送手段もはやくから登場し,市街の混合交通を激しくしたのであった.
 都市交通の様相を一変した馬車の通行は,開港後,横浜・江戸(東京)間を往復した外国公館の自家用馬車に始まったが,1869(明治2)年6月には,日本人による横浜・東京間の乗合馬車営業も認可された.また1870(明治3)年4月には,在来の荷車を改造して乗用にした人力車の営業も,認可された.人力によって牽引されたこの車は,簡便さと低速性のため,当時の道路事情によく適合し,1880(明治13)年前後にはすでに2万5000両にものぼっていた.また各種の荷車や駄馬の通行も増加したため,全体としてきわめて雑然とした混合交通の状態となったのである.
当時の錦絵は,その模様を生き生きと描きだしている.
 このような市街の交通事情は,各種の車両取締規則を相次いで制定させた.すなわち1869(明治2)年5月には,前記の横浜・東京間乗合馬車の認可に当たって,東京府から8ヵ条の規則書が出願者に令達されたのをはじめ,翌1870(明治3)年3月には馬車取締規則が,また4月には人力車制条5則が,それぞれ関係者に布達された.その内容はいずれも危険防止と安全運転を目的とするものであったが,その他運賃や貴族・高官・軍隊などに対する敬礼にも及んでいた.なかでも敬礼のため下車を求めた条項は,これらの規則がまだ近代的交通規則として成熟していないことを示すものであった.このような下車条項は,翌1871(明治4)年5月の馬車運行規則書や人力車渡世規則へも引継がれたが,1872(明治5)年4月の馬車規則や5月の人力車渡世之者心得規則からは姿を消した.なお馬車は当初から左側通行と定められていたが,この1872(明治5)年の規則では,人力車もふくめて左側通行が明示された3).
 (3) 道路の改修と建設
 以上のような道路交通の進展は,既存の道路の改修や新道開拓の気運を各地に呼び起こした.もともと江戸時代を通じて軍事・行政上の見地から整備された既存の道路網は,路線の選定や道路構造などの点で,地方産物の流通に不便な点が少なくなかったし,また軟弱な路面や狭い幅員のため,車両通行に耐えることができなかったからであった.
 このような道路の改修や建設の動きは,政府の指導に先立って,地方住民の請願と自普請のかたちで始まった.たとえば「内務省第1回年報」(1876(明治9)年刊)には,1875(明治8)年度中に各地で行われた主な改修・建設工事が収録されているが,41ヵ所にのぼる主要工事のうち,政府直轄工事は8ヵ所にすぎず,他はすべて民費による自普請であった.
第3表 1875(明治8)年度の道路・橋梁費と負担区分
第4表 道路・橋梁の新・改築件数(1875―1879(明治8―12)年)
また同年度の道路費総額66万4468円のうち,国費支弁はわずか9.5%にすぎなかった.
 他方,橋梁の改築・架換・新築工事の方は,主要工事49ヵ所分が収録されているが,うち26ヵ所は政府直轄工事で,国費負担率も同年度の橋梁費総額32万3154円の51.7%にのぼった.道路費にくらべて国庫負担率がはるかに高くなっているが,おそらくこれは民費負担に耐えない大工事が多かったためと思われる.事実この年の政府直轄工事には,両国橋・吾妻橋など,首都の大橋梁の架換(工費はそれぞれ5万3306円および2万6141円)がふくまれていた.
 このような住民の自普請に依存する傾向は,内務省設置(1873(明治6)年11月)前後からようやく変わり始めた.すなわち1873(明治6)年8月には河港道路修築規則によって1等から3等までの道路等級と,道路費の大まかな負担区分が定められ,また1876(明治9)年6月には太政官達第60号によって,あらたに国道・県道・里道の区分と,それぞれ1等から3等までの等級が定められたのであった.
 しかしこのような住民の自普請や政府の法令だけで,わが国の道路状態を改善することはもちろんできなかった.事実,イギリス公使パークスは,1877(明治10)年10月5日付で,次のような報告を本国政府に送っている.
 凡ソ日本諸国ノ大道路ハ,重モニ軍略上ノ便否如何ヲノミ顧ミテ経営セシモノニシテ,通商貿易ノ便益抔ハ殆ント顧慮セラレザリシハ明了ナリ.尚ホ之レノミナラズ,目本人ハ輓近ニ至ル迄,夫ノ「マカダム」法(小形ノ碎石ヲ道路ニ敷クヲ云フ)ノ工夫ヲ知ラザリシガ故ニ,軟質ノ物体ヲ以テ其道路ヲ築造スルモノトス.依之暴雨ノ後ハ,車輪殆ト通行シ難キヲ常トス.尤モ否ラザルモノハ,僅ニ二三道ニ過ギズ.
 是レ迄現今ノ道路ヲ修繕シ,又新道ヲ開カントテ,大ニ各地方ノ尽力セシアリト雖ドモ,目下日本国中ニ於テ可ナリノ道路ト称スベキモノハ,只僅ニ小田原ニ至ル迄ノ東海道筋ト,其他壱弐三ケ所ニ過ギズ.即チ奥州街道ハ宇津ノ宮迄,中仙道ハ高崎ニ至ル迄ノ道筋是レナリ.(『大隈文書』A2824「1877年,日本内国運輸ノ性質并ニ費用ニ関スル英国領事報告」)
 これによれば東京・高崎間の中山道は,当時のベスト・スリーのなかに入っていた.しかしそれでもなお,前述のように,馬車の定時運行は不可能だったのである.
 1880年代は,このような状況のなかで,府県主導型のかなり大規模な工事が行われた時期であった.たとえば東北地方では,奥羽山脈や北上高地を横断する道路の改修・建設が各地で進められたし,中国地方でも松江・広島,浜田・広島など,中国山脈を越える道路の建設が,各県の協力で進められた.また東京付近でも,小仏峠を越える道路の付替工事が,神奈川・山梨両県によって進められ,1888(明治21)年5月に竣工することになった.しかしこれらの大工事は,いずれも民費によって各地の国道幹線を整備しようとしたものであり,しばしば地域住民の強い反発を招いた.いうまでもなく長距離道路輸送時代の国道の受益者や破損者は,個々の地域住民というよりむしろ国や長距離道路輸送業者であり,道路費の負担も,当然彼らに帰属すべきものだったからである.しかし当時の道路費の負担は,相変わらず地方輸送時代の地方負担主義を踏襲していた.いま『日本帝国統計年鑑』によってその負担区分をみれば第5表の通りであり,道路費の国庫負担率は,国道費率をはるかに下回っている.なかでも政府紙幣整理の原資捻出のため,府県への工事下渡金が停止された1881,1882(明治14,15)年度は,地方負担を極度に加重した時期であり,国道費および国道橋梁費の大部分を地方に転嫁することになった.1882(明治15)年11月,福島県会津地方で起こった福島事件も,国道建設の労務と資金を,地域住民から強引に調達したためであった.
 他方,都市の道路も,車両交通の増加にともなって改修を迫られた.東京においてこのような道路問題が施政上にあらわれたのは,大蔵省から東京府に対して,車税に関する照会がはじめて行われた1870(明治3)年11月ころであった.
第5表 道路・橋梁費と負担区分(1879―1897(明治12―30)年)
しかし東京府は当時まだ,道路の改修や財源について明確な方針を持ち合わせず,営業用馬車に対して一定の課税(2頭牽1年につき25両,1頭牽はその半額)を行っている旨を報告するにとどまった.しかし前述のような混合交通の進展のなかで,翌年春には都心部の主要道路の改修計画を定め,その財源を差し当たり各種車税に求めることになったのである.
 1871(明治4)年春,東京府が作成した改修計画は,もっとも交通量の多い市内幹線道路に車道を設け,その経費を車両輸送収入の3%に当たる車税によっってまかなおうというものであった.新道の規格は,中央5.5―7mを車道とし,左右を歩道とするものであったが,路床・路面の仕様や歩道の幅員はつまびらかでない.しかし歩・車道の区分の採用は,わが国の道路史上において画期的なものであった.
第6表 東京府内の道路工事面積と経費の負担区分(1878―1882(明治11―15)年)
 しかし車税を中心とした地方負担によって,全国的な貨客の輻輳する首都の道路を改修・保全することは,きわめて困難であった.事実,東京府の改修計画は,車税収入や定額金の充当にもかかわらず,1872(明治5)年秋には,窮民救済基金として江戸時代以来積立ててきた,旧町会所の金穀・土地・建物を流用することを余儀なくされた.しかしこのような基金をもってしても,長期にわたって,上記の改修・保全費をまかなうことはできなかった.その結果東京府は,1879(明治12)年2月,内務省に対して基金の涸渇を訴え,日本橋から四方に延びる国道の改修費を,国庫負担に切換えることを要請した.しかし結局,国費多端を理由として,却下されることになったのである.いうまでもなくこのことは,首都においても,国道改修費の大部分が国から転嫁されたことを意味した.事実第6表によれば,1878(明治11)年度から1882(明治15)年度までの道路費のうち,14%は国道費であったが,国庫負担率は全体の3.4%にすぎなかった.いずれにしてもわが国の場合には,道路・橋梁などの社会資本の蓄積は,地方負担に負うところがきわめて大きかったといわなければならないのである4).

 [注]
 1) 山本弘文『維新期の街道と輸送』増補版,法政大学出版局,1983(昭和58)年.
 2) 神奈川県編『神奈川県史』資料編18,1975(昭和50)年.
 3) 山本弘文「明治前期の道路輸送と道路建設」,『交通史研究』第5号,1980(昭和
55)年.
 4) 同上.
 [山本弘文]