交通・運輸

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殖産興業政策と野蒜築港

著者名: 増田広実
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次
はじめに 2
Ⅰ 起業公債募集・・・・・・・・・・2
Ⅱ 築港計画・・・・・・・・・・5
Ⅲ 築港工事・・・・・・・・・・9
Ⅳ 関連開発工事・・・・・・・・・・12
Ⅴ 築港の成果・・・・・・・・・・14
むすびにかえて・・・・・・・・・・20


はじめに

 殖産興業政策が具体的に展開していく中で,起業基金事業として,内務省所管土木事業のひとつ野蒜築港が行われる。
 この野蒜築港の構想は,まず石巻港修築を考える中で具体化されていくのであるが,石巻港修築が考えられた背景と,それが野蒜築港に発展していく過程について明らかにしたいと考える。そして,築港の進められ過程で築港のみにとどまらず,より広範囲の地域開発へと発展していくのであるが,それら関連の地域開発についても,野蒜築港――殖産興業政策との関係を通して考察することとしたい。
 以上の経緯の中で野蒜築港は失敗し,女川築港が計画され,やがて野蒜築港は中止されることとなるが,そこには鉄道時代へと内陸運輸の主役が代って,新しい運輸網が整備されて行く過程がみられる。この失敗の原因についても考察し,その分析を通して,お雇い外国人と内務官僚との関係,お雇い外国人の役割等について考えたい。
 このような考察を通して,最後にこの壮大とも言える総合的開発事業をなしとげた力は,いったいどこに由来しているのかについて問題にしたい。そして,その事業遂行にはたした明治政府の官庁機構について再び考えることとする。以下順をおって筆を進めることとしたい。

Ⅰ 起業公債募集

 有能な官僚政治家であった大久保利通が,明治初年以来繰返される政府指導者層内部の派閥的対立と,官庁人事をめぐる政治勢力の対立抗争の中で,ようやくにして独裁的支配を確立することのできた時期は,1873年(明治6)11月から翌74年1月にかけての内務省開設のときであるとされ,この大久保を中心に,内務省-工部省-大蔵省の官庁機構の結合を前提として成立したいわゆる「大久保政権」は,この結集された官庁機構内部の政治勢力をもって勧業機構を構築し,「富国強兵」「殖産興業」の政策課題を具体化していったとされている(石塚裕道『日本資本主義成立史研究』「第1章大久保政権の成立」)。
 しかし,このような政策課題の具体化は,士族反乱と初期民権運動に代表される国内の政治的分裂と,外国資本による利権獲得と干渉のため,容易に進展しなかった。しかも,国内における財政危機は,西南戦役の戦費調達のための不換紙幣乱発により一層深刻化し,政策課題の具体化を阻害していた。
 かかる状況下にあって,一気に政策課題の具体化を推進させたものは,1878年(明治11)3月6日内務卿大久保利通より太政大臣三条実美に提出された「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」と題された伺書と,大久保内務卿の意図する諸事業を遂行するための財源として,公債募集の許可を求めた大蔵卿大隅重信から三条太政大臣への上申書であった。
 大久保内務卿の提出した「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」(『大久保利通文書』第9巻39-52ページ)によれば,その目的について次のように述べられている。「国土固有ノ物産ヲ改良シ国人恒有ノ産業ニ安ンシ以テ国家ノ元気ヲ養成スルモノ百務中最急」であるが,華士族は秩禄処分以来恒産を失い,徒食放懶の生活により,居常鬱屈不平をもち,他日国家を害するのではないかと憂慮される。そのため金禄公債発行後,内務省内に授産局を設け,その方法を考えてきたのであるが,西南戦役等により空しく日月を過してしまった。今や国内の静定を得たので,士族の社会的安定と,庶民の着実な事実の発展を願い,授産の方法たてて,華士2族をして産業を開かせ,国力の伸長をはかりたい。この経費概算は600万円であるが9分通り返納を予定している。国費多端のおりではあるが裁可を願いたいというものであった。
 裁可を得たならば,その都度詳細取調べの上伺書を提出するとしながらも,第1等より第3等まで,各事業の入費予算・方法について以下列記している。第1等とは,地方官より適応の土地を選定させた上,政府がそこに家屋・農具等を備え,土地とともに貸与し,華士族を遠近から移住させ開墾事業を営ませるもので,1万3000戸を目的とする。これは,この伺書の提出された翌3月7日さらに大久保内務卿より提出された「原野開墾之儀ニ付伺書」(『大久保利通文書』第9巻55-78ページ)でいう「東北地方移住第一着手」の事業,「福島県下岩代国安積郡字対面原及接近諸原野開墾」を,具体的内容とするものであったことがわかる。
 第2等とは,華士族の所在の地から1里内外の場所において,開墾事業を希望する者に官有荒蕪地を貸与し,営業させるものであった。
 第3等とは,前者と異なり一般殖産をはかるため資本金350万円を内務省に準備し,各地固有物産の保護改良を主として,運輸の便にまで及ぼそうとするもので,次第に諸業の改進や各物の蕃殖のために必要な資本として給与するものであった。この第3等に掲げた諸事業は一般殖産を対象としながらも,特に運輸に関しては7件の優先事業を示している。その7件は次のようであった。
 (1) 宮城県下野蒜開港――北上川より運河を開削し野蒜に開港する。予算およそ35万円。
 (2) 新潟港改修――予算31万円。
 (3) 清水越道路開削――新潟県・群馬県間の新道開削と改修。
 (4) 大谷川運河開削――茨城県下北浦・洞沼間運河開削により那珂港に連絡させる。予算20万円。将来那珂港改修の設計を予定する。
 (5) 阿武隈川改修――同川を改浚。運河を開削し塩釜の内海・野蒜新港に結び福島地方の利便をはかる。
 (6) 阿賀川改修――これにより会津地方の運便をはかる。
 (7) 印旛沼・東京間運路整備――印旛沼を検見川に連絡させ,深川新川に通す。予算およそ20余万円。
 以上のように,大久保内務卿の伺書に示された諸事業は,総額600万円をもって内務省が行うものであるというが,その経費は第3等とも貸与を前提にしており,第一国立銀行からの借入による起業を目算していた。しかし,この伺書と同じ3月6日に大隈大蔵卿から提出された上申書によれば,内務省のみでなく,工部省・開拓使により行われる殖産興業のための諸事業を一括し,予算総額1250万円とし,公債募集による基金をもって起業しようとするものとなっていた。(『明治財政史』第8巻131-134ページ)
 この1878年(明治11)3月6日の内務・大蔵両卿より提出された稟議は,大蔵卿のものが裁可され,同年4月30日太政官布告第7号をもって,起業公債募集とそのいっさいを大蔵卿へ委任する旨が発表された。これにより,第一国立・三井両銀行が募集事務を行い,同年8月末日までに全額募集を終え,9月各省への配分が決定した。その内訳は,表にみるように内務・工部省各420万円,開拓使150万円,大蔵省10万円(公債発行費)であった。
 内務省に配分された420万円は,土木費120万円と勧業経費300万円に分れるが,同年3月6,7日に大久保内務卿より提出された2つの伺書に盛込まれていた諸事業の多くが,具体化された。特に野蒜築港は,土木事業中最優先事業としてすでに7月に着工されていたのであった。
 野蒜築港は,以上のように,大久保政権下における「富国強兵」「殖産興業」政策具体化の過程の中で,他の重要な諸事業とともに,起業公債による一連の事業のうちの1つとして行われた内務省直轄土木工事であったと位置づけることができる。
 それならば,どのような必要性から野蒜築港が行われることとなったのか,次に
考察することとしたい。

であり,内航の発達のためにも港湾の整備充実を必要としつつあった。
 また,殖産興業政策を推進し,富国強兵の道を進むためには,国家財政の基礎を強化しなければならない。国家財政は貢米によっていたが,73年(明治5)地租改正条令発布以来次第に金納化が進められることとなった。しかし,金納化のためには,米を商品化するための米市場の整備発達を必要とし,他方米価格の安定が必須条件であったから,米を市場操作し,価格の安定をはかるための米価調節を必要とした。
 政府は,米価調節のため76年(明治9)「貯蓄米条例」を制定し,大蔵省出納寮に事務を担当させたが,78年(明治11)1月常平局を設置し,事務を専任させることとし,翌79年7月より発足させる。ここでの米価調節に大きな役割を担ったのは,殖産興業政策の目的の1つである「輸入防遏」をはたすための民業振興政策と一体となった,外貨獲得のための米麦の海外輸出であった。
 ところで石巻港は,北上川河口にあって東北地方太平洋岸のほぼ中央に位置し,江戸時代は仙台藩の重要な港として栄え,維新以後は,新開拓地北海道と東京を結ぶ中間港として重要性を増しつつあった。東廻り廻船の寄港地であり,全国的内航運輸上重要な地位を占めた同港の最大の輸出品は,仙台藩が国産品と称した「仙台米」であった。
 この仙台米は,年間20万石もの量が仙台藩の手によって江戸に送られた(『宮城県史8』433-37ページ)。このため,仙台藩の米倉だけでも45棟(13万5000石収納可能)あり,その他北上川を下す南部藩米倉もあった。明治に入ると,政府は70年(明治3)3月「水運ノ便ニ因リ有無ヲ通シ物利ヲ興シ爰ニ大ニ理財ヲ開」くため石巻商社(後の三陸商会)を設立し,貢米の一手販売を委託としている(『大隈文書』A450,「石巻出張ニ付奉伺候書付」)。
 このように,仙台米の集散港としての石巻については,政府は多大の関心をもっていた。そのことは,78年1月大隈大蔵卿の常平局設置の稟議にも東京・大阪・神戸・長崎と並んで石巻が米価調整の拠点に数えられていることでもわかる。事実78年10月米価引上げのため,政府は東京・大阪をはじめ全国各地で53万石の米の置収計画をたてるが,その約6%にあたる30万石を「陸前陸中地方ノ米穀運輸交通ヲ開」く目的で石巻で買収を予定している(『明治前期財政経済史料』第11巻,「明治年間米価調節沿革史」635ページ)。
 以上長くなったが,石巻港が選ばれたのは,東北経営への配慮と交通運輸発達を促し,米価調節による財政確立をはかる必要性とが,殖産興業政策の具体化の中で
Ⅱ 築港計画

 1878年(明治11)3月6日の大久保内務卿の伺書の表題が示すように,殖産興業と士族授産とは一体化され,起業基金事業中に内務省所管として,猪苗代湖疎水事業に,あるいは勧業経費中の諸事業に具体化された。これはいうまでもなく,西南戦役を頂点とする不平士族に対する宥和政策のひとつであったが,こうした維新内乱以来の旧勢力への宥和政策的意図は,先述したこれら特定事業のみではなく,起業基金事業――中でも内務省所管事業の中に色濃くある。
 維新内乱の最後まて抵抗した東北・北海道南部――特に旧仙台藩の行政区域と重なる宮城県への投資が重視されていることは,政府の宥和政策的意図を示すものであろう。このような東北経営に対する政策的意図は,これより先,77年(明治9)明治天皇の第1回東北巡幸の行われる契機となった。同年6月はじめから7月下旬に行われた東北巡幸にあたり,大久保内務卿は,5月東北視察のため東京を出発し,仙台で巡幸を迎え,さらにその後巡幸に先行して7月に帰京している。この視察の結果,野蒜築港・猪苗代湖疎水・対面原開墾等が起業基金事業中に具体化されることになった。
 このようにみると,東北経営に対する政策的意図と不平士族への宥和政策とが,殖産興業政策に結びつき,起業基金事業中に内務省として具体化したといえよう。
 一方,殖産興業政策中最も基本的事業は,交通運輸を発達させることであるという考え方は,所々にみることができるが,起業基金事業中でも,これは「本邦ノ急務」(78年3月6日大蔵卿申上書)とされていた。すなわち交通運輸関係事業は内務省所管の内航のための築港と,内陸交通運輸のための河川・道路の修築,工部省所管の鉄道とに大別され具体化されていった。これは,内陸交通運輸にあって鉄道の敷設を希求しながらも,財政・技術上の理由から急速の発達がえられず,依然として道路・河川に依存しなくてはならなかったこの時期の交通運輸状況を反映したものであった。すなわち,一部鉄道の敷設を行いながらも,他方内陸交通運輸を内航に結び,全国的交通運輸網を構築するため,その結節点としての港の建築を進めようとするものであった。それは,三菱会社を育成し,内航を整備して内陸交通運輸との連絡を円滑にし,外国汽船会社からの利権回収をはかり,殖産興業政策の実効をたかめようとする目的が,ようやく成果をあげはじめていたことに対応するものひとつに結びあわせられたことによるものであったと考えることができる。
 このようにして選ばれた石巻港ではあったが,当時ここは次第に大型化する内航船が利用する港としては,必要な機能が低下しつつあった。その様子については,76年7月東北視察から帰京した大久保内務卿の命により,同年9月から約半年間石巻港を調査したファン・ドールンが,内務省土木局長石井省一郎に,77年2月27日提出された「日本水政第110号」の報告に詳しい(『公文録』明治11年4月内務省第三「陸前蒜築港伺」に添付)。
 それによると,北上川河口は水深干潮時6尺以下である。そのため載荷して吃水13尺以上の船は入港できず,洋上で貨物の積おろしをしなくてはならない。たまたま積荷のない時でも,満潮時でなくては入港は困難であるが,これは河口への土砂堆積によるものである。しかも河口は洋上から吹く南風および東南風の激風に見舞れることがあり,このため30日間も海舟が出港できないことがあるが,これはいずれも河川の吐出口が悪いためであり,北上川の利益を妨げていると述べている。
 このような石巻港の現状について,その対策は砂洲に至るまで海中に2突堤を築き,北上川の吐口を修理するのが第1であるとし,水深17尺としてそれに必要な工費は18万円になるとしている。しかし,これで日本船の使用は可能となるが,将来大型汽船が入港することを考えると,少くても25尺め水深を必要とするが,それを保持するためには,多額の費用と技術を必要とし,それでもなお他に大型汽船のための港を求めなくてはならない。そうなれば積荷は,日本船をもって輸送することとなり,こうした不便の状態では,時間的損失,複載の冗費,危険性の増大となる。したがって,石巻港改修する計画を捨て,石巻の近距離にあって,北上川に水路を通ずる港,あるいは繋船場を求める方が良策であるという結論にいたったと述べている。
 この結論に従って,適地を求めると,折浜(荻浜)を推奨する者もあるが,ここは運河をもって石巻港と連絡できないので不適であり,むしろ石巻港よりおよそ3里ほどの鳴瀬川河口が良い。ここには,投錨する繋船場があり,一連の島々により南風の害をうけず,石巻よりも水深があり,地質的に築港に適し,水路を開削して北上川に結ぶことが容易であるという理由から,石巻修港にかえこの地に築港することを提言している。
 すなわち,東北地方内陸交通運輸に重要な役割を担う北上川と石巻港を,改修により機能を高めようとする発想の中で,その目的をはたしながらかつ一層の効果をあげるため,野蒜に築港し,運河をもって北上川と石巻港に連絡する計画がたてら
れたのであった。
 先にあげたファン・ドールンの調査報告書にある築港計画によれば,同工事は,(1)北上運河(北上川一(閘門)-高屋敷村-赤井村-大曲川-深川-鳴瀬川)および鳴瀬川河口に内港を築港する第1期工事。(2)宮戸島近傍に外港としての繋船場を設ける第2期工事。とに2分することができる。
 第1期工事は,「北上川ヨリ深川ニ至ル溝洫」との表題の示すように北上運河と,「深川ノ港」と称された鳴瀬川河口に接する深川を利用する港――内港とを主体としている。これらの付帯工事として,北上川取入口には閘門を設け,港口を保護するため鳴瀬川吐出口は西側に移転し,新たに設ける(しかしこの港口と吐出口の位置については,図によってわかるように,港口に暗礁があることがわかり後に変更となり,ほぼ当初計画による吐出口が港口に,港口が吐出口に位置を逆転することとなる)。
 北上運河は,全長3里5丁,水深干潮時5尺,幅員30尺とし(後35尺に変更),岸には幅員8尺の駆道(舟引道)と,堤頂には幅員11尺の道路(馬車道)を有する設計であった。また,北上運河め開口する深川西側に設けられる港口は,水深干潮時14尺,両突堤間の幅員300尺,全長1500尺とし,この港内には日本船30艘を収容する。突堤は東堤幅員40尺,西堤幅員30尺としている。なお突堤の構造は,柴枝及び石を用い,図で示すように沈床を重ね,周囲を捨石(間立方200個程度の大きさ)でおおい,上部は上置用捨石(5尺立方以上の大きさ)の上を?石と蓋石(2尺5寸立方但し厚さは1尺2寸以上)でととのえ,蓋石の隙間は細石をもって充?する。そして,全体を補強するため銅板をもって被った角材(9寸角,長さ20尺)250本と,普通丸太(2尺7寸廻り,長さ15尺)300本を打込んでいる。この用材は東突堤の場合についてであるが,西突堤についてもほぼ同じである。但し,西突堤については,普通丸太は用いられないなど,全体的に簡略な構造になっている。(この突堤の構造はオランダ特有の工法であり,遠浅の波の静かな海では経済的有効なものではあるが,野蒜ような外洋に開き,深水海岸に近い海には不適とされている(広井勇「日本築港史」28ページ)。
 以上の第1期工事に対し,第2期工事は外港として,南風・東南風を避けるための投錨地として考えられた。ファン・ドールンによれば,吃水15尺から18尺の船は,深川の港もしくは宮戸島の北西側に入れば,特別の防護がなくても南風・東南風を避けることができる。もし,将来吃水20尺から30尺の大型汽船の来航が繁くなった場合,こうした大型船は南風の折は無事宮戸島の北側に風を避けることができるだろうし,颶風・東南風の折には,折浜(荻浜)に停泊すればよい。しかし,そのための時間や費用の浪費を嫌うならば,宮戸島とその周辺の島に突堤を設ければよいと述べ,この突堤は,南西より北東に全長900尺,堤頭は低水位下30尺,柴枝と石で作り,工費は約6万円としている。そして,この工事の必要性は工費の比較的少ないことをあげ,「其命アラン事ヲ待ツ」と起工命令を待望していることを記している。
 この第1期,第2期工事の概略の後,見積書を付けているが,それは第1期工事が10%の予備費を含めて17万1000円であった。第2期工事の見積りの内訳がないが約6万円とすると,合計約23万円であった。
 このファン・ドールンの計画と工費概算を基礎に,翌78年3月内務省土木局内務四等属早川智寛・同五等属黒沢敬徳の連名で「仕様目論見帳」(『公文録』明治11年4月「陸前野蒜築港伺」に添付)が,第1期工事について作製されている。それによると総工費25万5544円余となっていて,ファン・ドールンよりは8万4544円余,約50%の増額になっている。それは,設計上では,僅な変更しかないが,用材や賃金の単価引上げを行い,予備費と当初見込まれていなかった機械工具費を加えたためであることが,両者の比較からわかる。
 このようにして,77年2月のファン・ドールンの調査報告を基礎に,翌78年3月21日大久保内務卿は野蒜築港伺を上申し,宮戸島突堤については第1期工事中に仕様目論見を提出することとし,凡満2か年の工期を目途に着工許可を求めた。その結果4月4日付をもって許可され,7月1日より着工したのであった。

Ⅲ 築港工事

 78年7月,野蒜築港工事は北上川閘門と北上運河開削をもってはじめられた。以下その進捗の跡をたどると次のようであった。(『公文録』明治13年5月内務省第二「野蒜築港経費増額ノ件」)
 着工1か月後の8月からの霖雨による出水と湧水に悩まされ,9月9日には閘門附近は14尺に達する出水のため埋没し,工師の指導により水揚器螺器数十挺を作り水替えを行い多額の出費を生じた。また閘門で使用した和製セメントは亀裂を生じるなど失敗の連続であった。こうした中で11月には50余名の請負人と2,000余人の人夫が離散し,一時休業に陥り利根川方面や岩手県などから,人夫を招募するなどの苦労が続いた。
 こうした様々な事により,多額の出費となり,それに加えて78年9月から激しい物価上昇がはじまり,80年(明治13)4月には,当初予算の77.3%もの上昇になった。中でも米価は1石4円から8円,賃銭は人夫16銭が25銭,石工大工鍛治など職人は25銭ないし30銭が45銭から55銭と平均76%も上昇し,木石など用材も79%もの上昇となった。このため,現場では予算執行に苦心し,様々な努力を行ったが,結局当初予算の42%にあたる10万7807円余の増費要求を提出さぜるをえなかった。
 これに加え,運河の幅員を30尺と設計してあったものを,西洋型汽船の航行を予測して35尺に変更し,先述したように港口予定地に暗礁が発見されたことから,突堤を西側に600尺移動することとなり,新吐出口を開削することとなったため,増工事分13万3770円の増額となった。したがって,物価上昇による増額とを合計すると24万5580円余となり,80年4月に要求された。この増費は,翌5月12日全額認められたが,これにより工費は一躍2倍近くにはねあがった。それにさらに82年4月27日,着工当初以来工事費中から支出してきた職員の旅費出張費等4万6550円が,内務省所管起業基金中から出されることとなったので(『公文録』明治15年4月内務省第四「野蒜築港費増額ノ件」),築港費総額はさらに増し,後述する野蒜市街造成費13万4519円余を加えると合計67万8194円余に達することとなった。(表参照)。
 このような困難と,予算膨張はあったが,オランダより輸入した蒸気浚泥機3台(毎時40トン)水中手転機6台等の利用もあり,82年末には船溜の浚渫と市街地造成を残し,7分通り成功をおさめ,数か月後には完成するところまでになった。(『公文録』明治16年2月「野蒜港ヨリ松島湾ニ達スル運河開設ノ件」)
 しかし,このように当初計画された工事を旋行していく中で,新しくいくつかの関連工事がでてきた。
 その最初は,北上運河の開削により妨げられた排水を処理するための悪水堀開削工事であった。これは,閘門入口から定川までは運河両側に,延4500間,敷6尺,深さ5尺5寸で,定川より五郎兵衛川までは片側2610間に同様のものを開削するものであった。これは当初計画になくても,当然必要なものであったから,78年11月20日宮城県知事松平正直の要請により,運河開削に平行して行われることとなり,工費9696円は土木費中から支出し,内務省直轄工事として行われた(『公文録』明治11年12月内務省第三「宮城県下運河堤防外へ悪水堀開鑿伺」)。
 また82年末になり,北上運河と野蒜築港が次第に完成に近づいてくると,野蒜と松島湾との連絡が問題にされはじめた。これについては,先述のように78年3月7日の大久保内務卿の提出した伺書第三等の内で,阿武隈川改修に関しふれられていたが,宮城県会側からの強い要請もあり,ここに運河開削が行われることとなった。
当時,野蒜と松島湾は宮戸島が陸繋島になっていなかったから,この海峡的部分-椿湾を通航するのが定路であった。しかし,ここは年々埋没し,水深僅か2尺ほどとなり,数年のうちに閉塞の状態にあったから内務省は82年12月運河開削を稟議し,翌83年2月21日許可された。この工費8万7000円は,野蒜築港費から2万円をあて,北上川改修費5万円中から82年度に2万円と83年度に2万3000円を流用し,坂井港波止堤費残金1万4000円を流用する計画であったが,坂井港分は認められず総額7万3000円で施行を命じられた。(『公文録』明治16年2月内務省第三「野蒜港ヨリ松島湾ニ連スル運河開設ノ件」)しかし,この1万4000円については,83年12月内務省からの稟議により,翌84年(明治17)2月14日阿武隈川等7川改修費20万円中からの流用が認められ,当初申請通り総工費8万7000円で施工された。こうして東名運河全長1800間,幅員35尺,水深5尺と北上運河に同じ幅員・水深で84年に完成した(『公文録』明治17年2月「開鑿費増加の件」)。
 築港工事の進行とともに市街地造成問題が表面化してきた。その理由は,市街地が移住者の負担により造成されることとなれば,負担は莫大となり,港の繁栄は期待できず,多額の政府の投資も無駄になる。そこで造成工事を政府が行い,その土地を売却すれば一挙両得となるというものであった。そのため官有地10万坪を造成し,そのうち4万4964坪を単価2円50銭で売却すれば,11万2411円余の収入となり,造成費7万1624円余を支出しても,差額4万787円余となるから,これを築港費に組入れたいと81年5月19日に稟議し,同年8月6日許可された(『公文録』明治14年8月内務省第五「野蒜港市街官有地売却代金ヲ以同所工費ニ支出ノ件」)。
 その後,82年4月この造成費は,売却代金の得られるまで7万円を限度として,内務省所管起業基金土木費120万円中からの流用を認めて欲しい旨稟議したが,それまでの造成費総額は13万4519円余と報告している。しかし,土木費は2万9289円しか残額がないことを理由に,この額内での流用しか認められなかった(『公文録』明治15年4月内務省第四「野蒜市街地修築費別途操換渡ノ件」)。その後,日時は不明であるがこの造成費13万4519円余は,内務省所管起業基金土木費中清水越新道開鑿費から流用が認められた。しかし,83年4月1日からの市街地売出しはまったくの不成功で,同月10日清水越新道開鑿費売上げ金を戻入するのは困難の旨上申し,開鑿費は別途に83年・84年度にわたり支出される旨6月21日に決定した(『公文録』明治16年6月「野蒜市街地競売ノ件」)。
 当初計画に入ってはいなかったが,結局施工せざるをえなかった悪水堀・東名運河の工事費9万6696円余を加えると,先述した北上運河及び野蒜築港(市街地造成費を含む)工事費67万8194万円との合計は77万8490円余となり,84年中に工事を終了したのであった。
 その間,工期は2か年から約6か年に延長し,工費も25万円余から約3倍に膨張し,ようやくに完工をみたのであった。

Ⅳ 関連開発工事

 北上運河を開削し,野蒜に築港しようとする本体工事に附属して悪水堀・東名運河・野蒜市街造成など直接関連工事が行われ,次第に広範囲の地域開発へと発展していった。すなわち,野蒜港を中心に北上川はもとより,北上運河・東名運河・松島湾・貞山運河から阿武隈川へと結ばれ,その他中小河川と道路の整備によって開発が進んだ。それはまさに,政府による上からの殖産興業政策の成果とみることができる。次のそうした関連開発工事の様子について考察したい。
 内務省は,78年起業基金土木事業の中で,野蒜港に関連する道路整備を2件決定している。ひとつは,宮城県と山形県を結ぶ作並・関山間の新道開削であり,他は岩手県と秋田県とを結び北上川に連絡する黒沢尻・横手間の新道開削であった。
 作並・関山間については,すでに78年3月宮城県令宮城時亮と山形県令三島通庸の協議がなされ,その許可と隧道部分の官費負担を上申し,5月13日に路線実測査定の上目論見帳と実測図面の提出することを指令されている(宮城県史料9,政治部工業,宮城ヨリ山形ニ達スル新道開鑿費御下渡之儀ニ付伺)。しかし,両県よりその後再三申請し,ようやく80年6月1日になり,総工費8万9854円余をもって,両県協議の上起工を許るされた。そして7月1日に着工し,翌81年8月に至り工費不足から両県で1万4570円の増額請求がだされ,82年7月ようやくにして認められ,その年の9月3日に完工した(宮城県史料17,15年政治部工業,作並街道竣工)。この工事は,内務省直轄工事でなく両県協議の上行われたものだけに,予算上も非常な苦労をしたことがわかる。しかし,完成により「仙台ヨリ山形ヘ腕車ハ勿論大七大八等ノ荷車モ易々通過スルニ至レリ故ニ貨物運送ノ遅滞スルナク随テ輸出入トモ大ニ其数増加シ自然物産興隆ノ基ヲ開ケリ」という宮城県史料17の記事は,その影響の大きかったことを如実に物語っている。
 このような起業基金事業に組込まれたものの他,宮城県にみるように,県単位で独自に行われたものも多かった。特に79年府県会規則が制定され各県県会が開催されると,県行政の方向づけとも関連して開発計画が打だされることとなった。それに加え,81年8月明治天皇の第2回東北巡幸は,東北地方の開発に大きな刺戟を与えることとなった。
 当時,宮城県会議長であった増田繁幸等は,81年8月13日・14日巡幸中の明治天皇の代理として野蒜・石巻を視察した有栖川宮と大隈参議を訪ね,宮城県において将来起工すべき事業について述べその賛同をえた。その時の事業の概略は,同年9月あらためて書類にまとめ大隅参議の許に提出しているが,その内容は地方税・国庫・県債・有志の出資により行われるものの4つに大別され,19項目にわたっている(大隈文書A989「宮城県地方ニテ将来起スベキ事業ニ関スル意見書」)。
 このうち,県債に関しては「宮城県起業意見書」として残されている。(大隈文書A988「宮城県起業意見書案」)これによると,82年4月以降3期にわたり合計100万円を募集し,北上川・阿武隈川の中間を運河で結ぶなど5大事業を行おうとするものであった。県債募集を求める上申は,82年3月30日宮城県より内務省に出され,同年4月12日上申通り県会の意見によっては許可する旨指令された(『公文録』明治15年4月内務省第四「宮城県道路運河修築ノ為県債募集ノ件」)。しかし,県内には県債反対の声も強く,ついに県会に提出されることなく終った。
 県債募集による起業計画は実現しなかったが,翌83年の通常県会では,種々論議されてきた事業のうち県内道路改修5件と貞山堀改修・松島湾浚渫の7件が総工費68万4600円で着工を決定した。この工費のうち3分の2の45万6400円は,地方税と協議費から支出し,残り3分の1の22万8200円を政府補助によりまかない,7か年で完工されることとした。宮城県からの伺によれば,野蒜を中心として盛岡・秋田・山形その他と連絡する水陸両路の改修により,東北7州への運輸の動脉はできたが,その間を結ぶ小脉?が必要であるというのが,伺の主張であった。これに対し,83年6月18日,政府は総予算68万4600円のうち,未決定の鬼首峠改修分15万7300円を除いた52万7300円に対し,3分の1の17万5766円の補助を決定し着工を指令した(『公文録』明治16年9月内務省第二「宮城県道路運河開築費補助ノ件」)。
 このようにして,野蒜を中心とする運輸網の整備が進み,地域開発工事もそれに関連して次々に開始され,82年11月30日には井上勝鉄道局長の助言により,野蒜から仙台を経て福島に至る鉄道線路の測量が,日本鉄道に認可された。しかし,野蒜港は当初予想されたようには機能せず,繁栄を迎えるには至らなかった。それは,83年4月1日からの野蒜市街地の競売に端的にあらわれてきた。造成した市街地の売れないのは「米価下落不景気」のためと現地から報告されたが,より根本的な理由が他にあったのである。

Ⅴ 築港の成果

 1884年(明治17)11月,野蒜港の現地を視察した山県有朋内務卿は,その実情について大略次のように述べている(『公文録』明治18年7月内務省第一「野蒜築港事業ノ件」)。
 工事は概ね完成し,市街に商人の移住するのを待つ状態となったが,いまだに「連擔〓比」にはいたっていない。それはこの地が東南に面しているため,四時烈風が絶えない。このため,大船巨舶の繋留に便利でなく,この地方へ輸送されるものは,荻ノ浜に行き野蒜港によるものはほとんどない。従って商人が開店を躊躇し,移住する者がなく,この築港の大事業も徒労になるのではないかと疑る者もある状態であるので対策をたてる必要があると述べている。
 84年実測の別掲の「港口之図」(広井勇「日本築港史」第一図)で知られるように,この時点ですでに港口周辺の土砂の堆積が激しく,水深が減少している。東突堤端は水深6~7尺に過ぎず当初計画の15尺の2分の1以下になり,15尺線は,はるか沖合に移動している。それに加えて,ファン・ドールンも主張した宮戸島近傍への突堤工事――第2期工事が行われていないため,大型船が投錨しても,南・東南風を避けることができず,荷役など不可能であった。従って,この港を利用できる船は,北上・東名運河を利用できる吃水5尺程度の小船のみであった。しかし,この小船とても,連絡する内航船が入港しなければ,内港を利用しないわけであり,いずれの面からも港としての機能を発揮していなかった。
 このような実情を目にしては,港関係者が野蒜への移住をためらうのは当然であった。それでも,84年9月27日農商務卿西郷従道は野蒜は,「将来米穀運搬上枢要之地」となるとの判断から,米商会所設立を許可した旨,三条太政大臣に届出ている。(『公文録』明治17年10月農商務省第一「野蒜米商会所へ開業免状下付ノ件」)しかし,これも半年後の翌85年5月5日には,宮城県令の意見を付しての出願をうけ,野蒜米商会所の名義を残して「当分之間石巻ニ移転営業」することを許可した旨,同様に届出ざるをえなかった(『公文録』明治18年5月農商務省第三「宮城県下野蒜
米商会所移転ノ件」)。
 このような状況の中で行われた84年11月の山県内務卿の野蒜視察は,港の将来についてどのような結論が出されるか,地元では強い関心を抱いていただろうことは,容易に想像がつく。その視察報告は,85年6月2日山県内務卿より三条太政大臣に提出されている(『公文録』明治18年7月内務省第一「野蒜築港事業ノ件」)。
 ここで山県内務卿は,野蒜港の将来についての結論を出すにあたり,内務省お雇い工師ムルデル,同三等技師山田寅吉,坪井海軍中佐,三島土木局長,共同運輸会社船長J・M・ゼームス,三菱会社船長T・H・ゼームスの6人の調査意見を基礎にしている。それによると最終的には,野蒜港を機能させるためには,東南風を防ぐことが大切であり,宮戸島に突堤を建設する必要がある。しかし,ファン・ドールンのいうように150間(900尺)程度のものでは不足であり,1000間を必要とし費用も200万円(ドールン6万円)が見込まれる。しかも工事は成功の可能性が薄く,その上鳴瀬川の遊砂のため埋没の慮れがあるというものであった。従って,他に良港を求めるとすると,女川湾が最適であり,これを運河をもって北上川・北上運河に連絡させるにしても,約60万円の工費でできる。いま,野蒜港の宮戸島突堤修築と,女川港修築とを比較すると,時間的にも経済的にも女川港が適している。しかも,当初計画の野蒜港関係の施設を利用し,女川港に中心を移すことで,大いに将来の期待ができるので,女川港修築を認めて欲しいというのが,結論であり上申書の内容であった。
 この意見は,ムルデルの主張を骨子として山田技師の計画によるもので,野蒜築港を最後まで完成すべきであるとする三島土木局長の主張は,まったく入れられなかった。
 この上申書に対し,同年7月4日詳細実測の上費用支出の方法等を付し,さらに伺出るよう指令が出され,女川築港計画は具体化の第一歩を踏みだした。そこで内務省は山田技師に実測の上計画予算書を作製させ,約3か月後の9月30日に上申したが,それによれば工費総額78万4981円余となっていた。(『公文録』明治18年11月「宮城県下女川湾築港計画ノ件」)この計画の概略を記すと次のようである。女川港は牡鹿半島基部東側にあるが,そこから西に向い幅員48尺,水深8尺の運河をもって万石浦に結び,万石浦に水路を浚渫して渡波から運河をもって北上川に連絡させ,石巻・定川間をさらに運河で結び北上運河に連絡させるものであった。従ってそこから以西は,野蒜・東名運河から松島湾を経て塩釜に連絡させることを考えていた。
 この上申書に対し,同年11月20日指令が出されたが,それは,上申の趣は聞届けるが事業着手については「目今財政上ノ都合有之ニ付追テ何分ノ可及詮議事」というものであった。
 女川築港起工の内務省からの上申書は86年1月にも提出されたが,さらに7月7日にも出されている。(公文類聚11-37,運輸門七橋道四「仙台ヨリ女川湾へ鉄道延長布設ニ付仙台以北幹線測量ノ節女川湾支線ヲモ測量セシム」)これによると,宮城県側も女川築港を推進させるため,総工費78万円余中約3分の1にあたる25万円を地方税より支出することを県会で決議し上申した。これをうけて,内務省も総工費の3分2,約53万円を土木費から支出することとし,87年より3か年をもって完工したい旨上申したのであった。この上申は,翌87年になり,運河部分の計画を廃止し,仙台からの鉄道幹線(東北線)から支線を延長し,直接鉄道により女川港に結ぶ計画に変更され,5月18日そのための測量と工費取調べが鉄道局長に訓令された。
 この計画変更により,女川港を建設しても運河をもって野蒜港と結び,野蒜港と関連の諸施設を役立てようとする計画は消え,76年以来の野蒜築港計画は終止符をうたれることとなった。
 なおその後,女川築港はついに日の目をみることなく終り,塩釜-上野間の鉄道は87年12月に開通したが,塩釜より女川に鉄道が延長されたのは約60年後の1939年10月であった。
 野蒜築港は,中心部分である港は完全に失敗に終ったが,北上・東名運河をはじめとする関連工事はそれぞれに一応の成功をみた。その結果,東北全域が仙台湾に直結され,野蒜にかわって近代港へと発展しはじめた塩釜が中心的役割を担うこととなった。特に東北線が開通し,上野-塩釜-青森が結ばれ,東北地方太平洋岸を従断するようになると,内陸交通運輸は従来の道路・河川に変り,新しい流れを生みだし,ますます東北地方の中心として仙台湾と塩釜の重要性を増すこととなる。それはまさに,起業基金諸事業開始にあたり,殖産興業政策と結びつけられた東北経営への配慮の成果と考えることができる。
 しかし,東北線の開通は,野蒜築港にあたり内航と連絡させることを考えていた河川交通運輸を急速に衰退させていった。例えば,東北線開通前後をはさむ1886年(明治19)と1899年(明治32)について北上川・鳴瀬川・阿武隈川3川の河舟の石数を比較すると,86年に対し99年は,それぞれ64.5%・56.5%・20.2%に減少している(近代日本輸送史所収「明治前期水運の諸問題」表3-1)。阿武隈川にいたっては,この間に約5分の1に激減している。それは内陸運輸が河川から鉄道へと急速に転換していった様子を物語るものであった。このことは,当然ながら3川の河口港である石巻・野蒜・荒浜の衰退を示すものであり,3港を結ぶ北上・東名・貞山の各運河も衰退しつつあったといえる。従って,内陸河川流域を後背地に持つのみであったこれら河口港と,石巻港のように上野-青森間の東北線の中央に位置し,関東より東北にわたる広範囲の内陸部を後背地とする港とでは,発展要因に大きな差があった。このような道路・河川から鉄道へと内陸での交通運輸の主役交替は,河川交通運輸を背景とする河口港を結ぶ内航から,鉄道を背景とする臨海港を結ぶ内航へと変ることとなり,伝統的河口港の衰退を一層早めさせた。
 このようにみる時,野蒜港にかわる塩釜港の地位は,1886年(明治19)日本鉄道が東北線建設資材の陸上げを塩釜で開始した時点で,決定的となったといえる。しかし,それも先述したように82年野蒜より仙台を経て福島に至る鉄道線路測量が決定した経緯があった点を考えると,野蒜築港の失敗が根本的原因であった。
 それならば,野蒜築港の失敗原因は何であったのか考えてみることとする。この失敗の原因については,1932年広井勇「日本築港史」の野蒜港について書いた附言の部分で指摘している。それを要約すると,第1は,築港のため野蒜を選定したことは,後背地に都市をもたず,経済的要因を無視した点。第2は,僅々50万円程の工費をもって,このような工事を完成しようとした点。第3は,技術経験の不足による計画上の誤りがあった点。その具体的内容として次の4項がある(1)ファン・ドールンは本来河川技術者であり,港湾技術の経歴が不足している。(2)調査が不完全であった。特に港口内港の暗礁を着工後に発見し,港口を西側に移動するような計画変更を行い,漂砂に注意せずこれを無いとした点は重大な過失であった。(3)外港を軽視し,これを第2期工事とし,築堤を必要とするにしても150間ないし600間あれば充分であり,工費も6万円程であるとした。(4)突堤の構造も数層の沈床の上に小形粗石もしくは混凝土塊を積む方法しかとっていない。このことはファン・ドールンの築港に関する知識を疑わざるをえない。など具体的な指摘を行い,計画を誤ったことが失敗の根本原因と断じている。
 港湾の設計にあたっては,事前調査が最も重要であることはいうまでもない。それは,経済的予測をたてるための経済的調査と,他方その立地的自然条件の調査とである。
 これら事前調査と将来計画にもとづき,技術的計画が進められ,全般的設計がなされなくてはならない。この点、野蒜の場合必ずしも充分ではなく,むしろ政治的意図が先行していたことは事実であろう。そのため立地的自然条件もさることながら,経済的効果等については,ほとんど考慮さえなされていない。しかし,この失敗は何と言っても,港として機能しない点にあったことを考えると,技術的な面が一番の問題であった。その点,広井の指摘は当然であるが,このように全面的な責任をファン・ドールンに負わすことは妥当を欠いているように考える。その1は,設計の基磯はファン・ドールンが作ったが,最終的責任者ではない。最終的責任者は内務省土木局長石井省一郎であり,石井の指揮下で同四等属早川智寛・同五等属黒沢敬徳によって目論見帳が作られていることを考えてみなくてはならない。すなわち,77年2月27日のファン・ドールンの見積書と,78年3月の早川・黒沢の作製したものとを比較すると,設計上はともかく新しく加えられた部分と,単価計算に相当の差異のあることがわかる。これは主として予算面についてであるが,80年3月に出された増費伺に示された増工事についてみると,これも黒沢によって見積られているが,これは,設計上の大幅変更によるものである。これは港口と突堤の移転を内容とするが,この伺の提出される以前,同年2月ファン・ドールンは辞職していることを考えると,この決定は日本側の責任で行われているといえる。その2は,ファン・ドールンはひとつの工事に専任しているのではなく,同時に2・3の工事に関係していることから,その全面的責任を負っているのではないと考えられることである。たとえば,78年7月の野蒜着工にあたり,同年4月ファン・ドールンは野蒜に出向しているが,その後11月より翌79年1月にかけては,猪苗代湖疎水工事の調査と設計にあたり,翌80年2月には野蒜築港の途中であり,猪苗代疎水工事は着工間もないにもかかわらず辞任し,やがて帰国している。これらの点を考えあわせると,ファン・ドールンは長工師の地位にありながらも,工事に関し調査し当初計画をたて,施工にあたっては指導助言はしても,決定的権限と責任を持つものでなかったとみることができる。このような立場にあるとすると,当初計画は日本側の判断によって変更されることとなり,ファン・ドールンが全面的責任を負っているものではないといえる。
 工事について調査及び当初計画はファン・ドールンに依頼し,着工後もその指導助言をうけ,例えば工事用機械等を輸入し使用するための技術的援助を受けながらも,なお工事に対する主体制と責任を日本側が維持した理由について考えると,次のような点をあげることができる。築港工事中運河開削と河川改修部分が大きい比重を占めていたが,これに関しては在来の工法・経験により施工が可能であり,あえて外来技術に全面的に依存の必要がなかったと考えられる。また突堤部分については,築港の突堤に応用するのははじめての経験ではあった蔭,そこに採用されたオランダ式柴工法は,すでに河川工事にあってオランダ人工師から指導され,多くの経験を積んでおり,それ自体それほど複雑困難な工法ではなかった。従って,運河開削・河川改修部分ほどではなかったが,外来技術への依存度はそれほどに高くなかったと考えられる。この2点が鉄道などとは違い相当に日本側に主体性と責任を維持させることとなった理由と考えられる。とは言え,広井が指摘しているようにここでの様々な経験は,後年多くの教訓としてこの種の事業のために伝えられ役立てられたのであった。(「日本築港史」35ページ)
 この野蒜築港の時期は,猪苗代湖疎水事業なども行われたが,技術的にはオランダからの土木・河川工学の影響を最も強く受けた時期であった。後に女川港の設計に従い自力で設計書を作製した山田寅吉は,76年フランス留学から帰朝して内務省に入ったが,79年には猪苗代疎水工事設計主任として,ファン・ドールンの下で設計に従事していた。また古市公威も80年フランス留学より帰朝して内務省土木局に入り,沖野忠雄も翌81年にフランス留学よ1)帰朝して82年に土木局に入っている。このようにして,新しい土木・河川工学を身につけた技術官僚が土木局に集まり,オランダ人技術者に代って指導的立場につくこととなる。ファン・ドールンが1872年に来日して80年に帰国するまでの約10年間,オランダ式低水技術を中心とする河川・港湾工事の時代から,高水技術を中心とする時代へ変る中で,オランダ式技術により設計施工された野蒜築港は,失敗の烙印をおされたのであった。
むすびにかえて

 野蒜築港と関連開発事業について,大久保政権による殖産興業政策の一環である起業基金諸事業との関連を通して,考察してきた。ところで,こうした壮大ともいえる総合的開発事業をなしとげた力はなにであったのだろうか,考えてみなくてはならない問題であろう。これら諸事業は成功したものばかりではない,例えば野蒜築港のように部分的に成功したものもあれば,また新潟港のようにたちまち中止してしまったものもあった。しかし,全体的にはほぼ成功であったといえる。そうした成功・不成功はあったにしても,これをなしとげた力は,大久保政権の下で作りあげられた官庁機構と,それを支えた官僚群であったといえよう。
 これを野蒜築港についてみると,内務省の設置以来次第に官僚群が育成され,ファン・ドールンの計画をうけてこれを事業化するだけの能力を充分備えていた。しかし,本文中でも述べたところであるが,技術的な面ではまだ充分でなかったことは事実であり,そこにお雇い外国人技術者への依存を必要としていた。一方,古市公威の例にみるように,大学南校卒業後ヨーロッパ留学に派遣された者が帰朝し,技術官僚となるに従い,次第にお雇い外国人技術者と置き換えられていった。
 このような本省における官僚とともに地方官の存在も重要な意味をもっていた。例えば宮城県の場合,野蒜築港が78年7月1日に起工されると,その月の20日県令宮城時亮を依願免職させ,松平正直を権令に任命し,同月25日に早くも県令に昇任させている。松平は,維新内乱で功があり新政府に出仕し,74年内務省開設後内務少丞から内務権大丞に進み,77年1月内務権大書記官として,大久保内務卿の股肱として手腕を発揮していた。従って大久保内務卿が松平を宮城県に送ったのは,このような人的関係が基礎にあり,大久保内務卿の野蒜築港にかける期待と意欲を示すものであり,また松平への信頼と期待を示すものでもあった。事実,松平はこれに応え政策の具体化に努め,以来14年間宮城県にあって同県はもとより東北地方の発展に尽力したのであった。
 このように個人的関係や人脉を利用すると同時に,大久保内務卿は地方官会議を通して殖産興業政策の啓蒙と貫徹に努めている。その結果,三島通庸のように,山形県令として松平と協力して作並・関山新道開削をはじめとする道路開発勧業につとめる者が輩出し,殖産興業の成果を一層高めることとなった。
 このようにみてくると,大久保政権成立の前提となった官庁機構の結合により結集された政治勢力をもって,勧業機構を構築するにあたり,最も有能な官僚群もまたここに結集されたのであり,その技術的弱点を補強するものとしてお雇い外国人技術者が付属していたこととなる。従って,「殖産興業」の政策課題を具体化していく際も,その政治的意志決定とその事業化はこの有能な官僚群の構成する官庁機構内部で行われ,その責任もまたそこが負った。従って,お雇い外国人技術者は,あくまでもこの官庁機構に附属するものとして,権限も小さく,大きな責任も負うものではなかった。その意味では,官庁機構内部の技術的弱点を補強する存在として,臨時的な過渡的な存在にすぎなかった。このため官庁機構内部に新技術官僚が育成されることにより整理されていくべきものであったといえる。
 技術は,それを受容するための地盤のないところに導入することはできないというが,この明治政府の官庁機構とお雇い外国人技術者との関係を考える時,外来技術の受容地盤が,どのようにして形成されてきたのか,官庁機構についての検討が今後の重要な課題となってくる。
 主な参考図書・文献
 「流域をたどる」 東北地方 ぎょうせい
 高橋富雄 「宮城県の歴史」 山川出版
 「宮城県史」8土木篇
 広井勇 「日本築港史」 丸善
 「日本技術史大系」16 土木技術篇 第一法規出版
 「明治財政史」8 国債(一) 吉川弘文館
 吉川秀造 「日本財政経済史研究」 法律文化社
 石塚裕道 「日本資本主義成立史研究」 吉川弘文館
 「近代日本輸代送史」 成山堂書店
 公文録・公文類聚・太政類典 国立公文書館所蔵
 宮城県史料等府県史料 国立公文書館内閣文庫所蔵
 大隈文書 早稲田大学所蔵
 「大久保利通文書」 日本史籍協会
 野蒜新港図(東北新報明治13年) 出所:高橋富雄『宮城県の歴史』,昭和44年より。
 出所:広井勇『日本築港史』,昭和2年5月より。
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