技術と都市社会

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日本資本主義の生成と不動産業

著者名: 旗手勲
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1981年
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目次

Ⅰ はじめに――後発資本主義と住宅構造・・・・・・・・・・2
Ⅱ 日本資本主義の発足と不動産業・・・・・・・・・・4
 1 大家=店子制度とその改変―不動産業の前史・・・・・・・・・・4
 2 武家地・寺社地の解放と地租改正・・・・・・・・・・9
 3 不動産業の萠芽・・・・・・・・・・12
Ⅲ 日本資本主義の成立と不動産業・・・・・・・・・・14
 1 東京の市区改正と三菱の丸の内開発・・・・・・・・・・14
 2 サラリーマンむけ貸家と建売家屋・・・・・・・・・・18
 3 不動産企業の生成・・・・・・・・・・22
Ⅳ 日本資本主義の展開と不動産業・・・・・・・・・・29
 1 産業・交通の展開と市街地の拡大・・・・・・・・・・29
 2 貸家経営とアパート業の展開・・・・・・・・・・36
 3 住宅問題の発生と田園都市論・・・・・・・・・・38
 4 郊外私鉄の展開と分譲住宅・・・・・・・・・・42
 5 不動産業の展開と諸形態・・・・・・・・・・46


Ⅰ はじめに――後発資本主義と住宅構造

 主に欧米の先発資本主義国からの「外圧」を契機として,展開した近代日本の社会では,住宅街の形成や構造は次のような個性をもっている。
第1に,江戸時代からの都市を主要な基礎として,近代的な産業や行政,文化などの制度を移植したため,住宅構造においても,まず前近代的な遺制と資本主義的な改革が併存し,やがて相互に浸透しあうなかで,日本的な特徴を形成していった。土地や建物の供給や流通などにあたる不動産業にも,前近代的な色彩の強かった零細な小経営と,政商や地主などから発生した特異な大企業という,二重構造が存在していた。
 第2は,日本の家屋の構造に由来する特性である。日本の住宅では,木材を中心とした木造平屋造りの簡易で安価な「焼け家」的建築が一般的であった。このため,ひとたび出火すると密集した住宅街が多い結果,大火となる。そのうえ,日本は世界でも有数の地震国である。かくて,たび重なる火災や地震などへの対策として,安価で短期的な木造家屋がさらに優先したわけである。欧米風な石造やレンガ,あるいはコンクリート造りなどの堅固な建築は,はじめは庶民にとって「高嶺の花」であり,またその必要にも迫られなかった。これらの結果,日本の家屋では,固定性のある不動産という意識はすぐには根づかなかったのである。
 第3に,家屋にくらべ,土地そのものの所有権は強く,借地権や貸家などの利用権はその下風に立たざるをえなかった。その根拠の1つは,土地からの豊度(農業の生産量や住宅地からの収益)がきわめて高く,このため単位面積の上で多数の人口を扶養できた(人口密度が高い)ことをあげうるであろう。日本の米作に代表されるように,相対的に高い生産力のために,より狭小な経営面積で一家の経営が可能となる。そして多数の人口を養うために,さらに集約的な経営を行って,労働を多投する。増大した収益の多くは支配者に先取されるため,直接的な生産者の所得は一般に生活ギリギリであった。零細な経営に比例しながら,その低所得性が加わり,日本の農家では欧米にくらべて零細で安価な住居が支配的となった。そのうえ,日本の可住地面積は国土の2割前後にとどまり,欧米諸国にくらべて極端に低い。土地の高生産性と零細経営,そして多数の人口,これが土地の競争価格を引きあげる。土地所有権への「執着」の強さや借地権などに対する所有の優位性が結果されたわけである。
 農業を基盤とした封建社会では,都市の構造も農村と相互に規定しあう。多くの農民が都市に移住し,また農産物などとの交流が都市産業の基盤であった。江戸時代の都市でも,狭い地域に多数の人口が密集し,相対的に過剰な人口をかかえうるため,庶民の賃金を低く押えることができる。そのうえ,火事と地震が加わる。安価で密集した,劣悪な木造家屋が支配せざるをえないであろう。
そして明治以降になると,江戸時代に発展したこれらの封建都市をまず前提にして,日本の近代化が進むのである。一方では,江戸時代以来の住宅構造が持続するとともに,他方では,欧米風の近代的な住宅開発がはじまる。産業革命の進展につれて,会社や銀行,公共機関などを中心に,石造やレンガ,コンクリートなどの大規模で堅固な建物が普及していく。これまでの動産的な性格の強い「焼け家」から,資本の生産物である不動産的な建築が拡大し,やがて借地権や借家権が土地所有権に対抗するようになるのである。
 いずれにせよ,前近代的な都市を中心にして,日本の近代化が進行する。都市における産業や行政などの増大にともなって,人口が集まってくる。産業や行政などのほか,増大した人口に呼応して,土地や家屋に対する需要と供給が増大する。交通や通信の発達は,この動きをさらに促進していく。住宅構造においても,前近代的な形態の維持と改良,そして近代的な開発が交錯し,新しい特性が複合されていくのである。
 本文は,日本における住宅構造の特徴を,資本主義の展開にともなう不動産業の推移にしぼり,ほぼ明治末期ごろまでについて,3期に分けて考察する。その場合,近世からの政治都市であった東京と,古くからの経済都市であった大阪を中心に比較しながら,日本の宅地建物をめぐる供給・需要・流通の流れについて,その個性の形成過程を整理したい。
Ⅱ 日本資本主義の発足と不動産業

1 大家=店子制度とその改変―不動産業の前史
(1) 江戸時代の借地・借家制度
i)借地・借家の動き
 不動産業の萌芽形態ともいえる貸家の成立は,すでに室町時代(14―16世紀)の中世都市に成立したといわれる。さらに江戸時代になると,城下町や宿場町,港町や門前町などの近世都市の形成や,商品流通や産業の発展にともなう人口移動などの結果,貸家需要はますます増大した。
 すでに江戸時代の初期にも,江戸・大阪・京都などの大郡市では,総戸数の1/2から2/3ぐらいまでが借家住いによっていたとされている(文献1,60ページ)。そしてこの動きは,江戸時代末期になるとともに,さらに拡大した。たとえば,文政年間(1818―30年)の江戸では,日本橋・京橋地区を除いた総戸数のうち,平均70%前後が店借であった。また1851年(嘉永4)から1869―70年(明治2―3)ごろの日本橋区内では,問屋だけで総数2876軒のうち,その約3割にあたる757軒が店借であったという(文献2,(一),18ページ)。
 他方,居住用の宅地では,江戸時代には所有権の移動禁止が法制上の建前になっていたから,産業や都市の発達につれて借地の方法が拡大した。たとえば,江戸時代末期の江戸では,総戸数のうち,外神田・湯島・本郷では20%以上,北本所・小石川では5%前後,平均して10%以上が借地であった。とくに日本橋区内の問屋では,総数2876軒のうち,約6割にあたる1648軒が借地であった。
 しかし,このように借地比率が高いのは,江戸だけの現象だといわれている。すくなくとも大阪では,借地の割合はきわめて小さかったという。その理由は,江戸では土地面積の約6割が武家地で占められ,借地の慣行が土地処分制限の比較的ゆるかった武家地や社寺地(全面積の約2割)から進んだためである。これに対し,大阪では町地が大部分を占め(江戸では約2割),さらに商品流通がより優勢な結果,これにつれて事実上の土地処分が進み,借地の慣行が成立しなかったといわれている。とくに大阪は,商業都市としてはやくから貨幣経済が浸透しており,土地所有のみを尊重する意識はそれなりに動揺しているうえに,封建権力は下風に立ちがちであった。これにくらべ,江戸は幕府の「お膝元」であり,土地所有を偏重する考え方が強く,したがって借地形式が優勢になったとされている(文献2,(三),
66-70ページ)。
 このように,借地をめぐる江戸と大阪の相違は,明治以後における両者の都市構造や不動産業の性格などの格差に結びつくものであり,注目すべき現象といえる。
 ii)大家=店子制度
 これらの地主や家主には,所有する土地や家屋に居住する居附地主(家主)または自地地主(家主)と,区域外に住む他町地主(家主)の2形態があった。後者と,所有する貸地や貸家の多い前者の場合,その管理を委託するために差配人である地守や家守をおいたのである。
 そして,江戸時代には,家屋敷の持主だけが,正規の町人として町政に参加する資格が与えられた。これに対し,家主や地主の「家の子」扱いにされた借家人や借地人たちは,この資格がなかった。さらに借家人(店子)は,表店借(表通りに面して商売の可能な家の賃借)と裏店借(裏通りで商売に適さない家や裏長屋などの賃借)に分れ,それぞれ格式が違うなど,封建的な身分関係が支配していた。
 なお家守(屋守ともいう)は,家主の使用人にすぎなく,また家主から家屋を借りている場合が多かった。このように,家守は中間的な地位にもかかわらず,公的な身分関係では家主と同様に自地町人なみの待遇をうけた。家守は家主の代理人(差配人)として,五人組や町役人などの公的な権利義務を負い,町奉行の末端用務を担っていたわけである。しかも,この差配人である家守のことを,しばしば家主とさえ呼称した。そして,一般の借家人(店子)にとっては,家主のもとで「家の子」扱いをうけるとはいえ,家賃の取立てや戸籍・保証・相談などのため,日常に接触するのは,これらの家守であった。江戸時代の末期ごろには,一般住民の6割以上を占めたという借家人の取締りは,この大家=店子関係に規定されたのである。
 さらに大家=店子制の中枢に位置した家守は,町役人などの権限をもったほか,家主の管理人として給料を入手した。また借家の肥代(屎尿の代価)はすべて家守の収入となり,借家人の出入時には樽代をうけ,盆や暮の祝儀なども収得した。さらに,土地や家屋の仲介業のような役割も兼ねたとみられるから,これらによる所得は多かった。このため,家守の地位は,株として売買の対象にさえなっていたのである。
 なおこれらの家守は,天保(1830―44年)ごろには江戸で合計2万117人に及び,そのうち半数は専業で,のこりは別な家業をもっていたという。また江戸時代末期の家守数は,平均して総家数の7~9%を占め,地主一人につき家守2人弱,地借・店借9~13人ほどにつき家守1人になる割合であった(文献3,73ページ)。そして江戸の日本橋区内の商人のうち,6%強が家守を兼業し,これらの多くは薪炭仲買・精米屋であったという。米や薪炭などの日常生活必需品を扱う商人の方が,家守として一般店子の生活管理や実情把握に,より適していた結果であろうと考えられる(文献2,(二),7-8ページ,4,680ページ)。
 なお,江戸時代の不動産仲介業については,詳しい資料を入手できなかった。おそらく,地主や家主の代理人にあたる大家が,しだいに併業しはじめたものと推測できる。また江戸時代末期における都市人口の増大にともない,「雇人口入業」といわれるものが現われており,これらが貸家のあっせんなども兼ねたであろうことを推定しうるにすぎない。
(2) 明治維新と賃貸長屋の拡大
i)大家=店子制度の改変
 明治維新後になると,以上の大家=店子制度は,名主制や家主の廃止にともない,おおきな変化をうけた。
 たとえば,江戸を改称した東京では,1868年(明治元)10月に天皇が京都から遷都し,翌1869年(明治2)6月の版籍奉還を契機に,政治関係機関の東京集中がはじまった。これに呼応して,1869年(明治2)3月以後には,幕府による江戸支配の下部機関であった名主238人を罷免し,町役所や五人組を廃したほか,市内(朱引内という)を50区に分け,家主や家守の町政参加を禁止し,新しく町年寄を推せんさせるなど,首都行政の改変をはかった。
 さらに1869年(明治2)10月には,家守を俗称で「家主」と呼ぶことを中止させ,その後は「地所差配人」(地面差配人ともいう)に改めさせた。これらの結果,それまで都市行政の末端を支えていた家守は,その地位を失うことになった。
 このように,明治維新後の制度改革や身分差別の徹廃の動きとも呼応して,法的な建前では家守は家主や地主の代理人となり,一般の借家人と同等な資格に落されたわけである(文献2,(二),10ページ)。
 しかし実際には,これら差配人の勢力は相変らず強いため,彼らを除いて町政を運用することは困難であった。そこで,彼らを含めた合議制に改めざるをえなくなり,1870年(明治3)閏3月から差配人の一部を無給の町用取扱に命じている。やがて無給から,各町に有給の町用掛をおくことになり,その多くはこれらの差配人が選ばれ,のちの区役所や町会の仕事を受けもち,「町代さん」と呼ばれ,月給12円のほか,盆や暮の収人などが多かった。また町用掛をおかない町内では,家主や差配人が地主や店子の代理人として,用務を弁じたという。したがって,行政の末端支配関係では,相変らず江戸時代からの大家=店子制度が優勢であったわけである。
 しかし1876年(明治9)2月には,ついにこれらの町用掛も全廃となった。かわって区務所がおかれ,東京府庁から派遣された書記が執務するようになった。あとの区役所に近い機構ができあがり,家主や地所差配人たちも,ついに江戸時代以来の地方行政的な機能を制度上は失なってしまうのである。そして明治政府による中央集権的な地方行政制度の整備にともない,1878年(明治11)9月の「郡区町村編制法」にもとづき,東京も朱引地よりいくらか広い範囲で15区が新設され,官選の区長が任命された(文献4,680-82ページ,5,309-10ページ)。
 もっとも,実際の地方行政についての運営では,東京の区役所の場合でも,末端の住民を把握するためには,旧来からの町内会などの機能に依存せざるをえなかった。この場合,町内会などの「自治組織」の実権を握っていた,家主や地所代理人などの力が温存されたわけである(文献7,518ページ,8,27ページ)。
 こういった社会的な関係に加えて,明治初期には経済や産業の展開もまだ鈍かった。「殖産興業」といっても,一部の海外技術を導入した官営や移植の大企業を除くと,手工業が家内工業を中心としたマニュファクチュアが主力であった。労働者の賃金も一般に低く,彼らの住居も江戸時代以来の「裏長屋」の借家が主流とならざるをえなかった。ここに,大家=店子関係が行政的な改変をうけたとはいえ,庶民の日常生活において,なお事実上は土地・家屋賃貸の基軸をなしていた根拠があったのである。
ii)賃貸長屋方式の拡大
 日本における借家方式の原型は,江戸時代にみられた都市への人口流入と,町人の階層分化にともなう細民の増加によって,大いに発達した「長屋」である。入居者ができるだけ少額の家賃負担しかできないことと,高密度の住宅建設が一般であるという,経済および社会的な特徴が,長屋方式を支配させたといえる。
 そして,江戸時代的な環境がまだ持続していた明治時代においても,この長屋はなお貸家の典型であった。とくに大阪では,少なくとも第2次世界大戦ごろまでは,貸家といえば長屋ときまっていた。このように,この長屋方式は,日本における不動産業の生成期には,家屋賃貸の基本的な形態であったのである(文献6,83ページ以下,2,(一),23-24ページ)。
 一般に普通の長屋は「裏長屋」といわれ,この裏通りにあって商売に適しない家屋を借りることを「裏店借」といった。そして1戸あたり間口9尺(2.7メートル余),奥行2間(3.6メートル余)――2畳間と入口・台所つきで約10平方メートル――の小屋が,10軒ずつ背中あわせに2列(1棟で20軒)に並ぶ。また,各棟は間に幅3尺(0.9メートル余)の露地(中央にドブ)をはさんで向かい合い,その奥に共用の井戸や便所,はきだめ箱などをおく。これが,江戸時代から引きつづいた,標準的な長屋方式であった(文献2,(一),24-25ページ)。
 このような裏店借の居住形態は,基本的には変化せずに,産業革命が進行する以前の明治時代中期ごろまでは,支配的な地位を占めていた。とくに明治以後の地租改正や貨幣経済の浸透にともない,没落した下層の農民や職人層,旧武士などが都市に流入した。他方,移植産業や洋式商品の展開につれて,労働者への需要が増大した。これとともに,これらの新規流入者たちが,旧来の中・下層の町人や職人層などが住んでいた裏長屋に吸収され,賃貸長屋の拡大を生んでいったのである。
 次に,長屋形式をとるもののうち,表通りに面して商売のできる家の賃借が「表店借」である。明治以後になって産業の展開や都市人口が増大するとともに,貸家形態のなかで重要な位置を占めてきた。
 このほか,表店借のなかに含まれるが,裏店借との中間にあり,社会的にはやや地位が低いとされ,「横町の店子」と呼ばれた商人の中層階級もふえてきた。これには八百屋・魚屋・豆腐屋・煮豆屋・そば屋などの小商人,葬儀屋・建具屋・経師屋・桶屋・提灯屋などの居職の店もち職人,大工・左官などの棟梁・親方,踊・芸事などの師匠,医者や隠居・2号などが含まれていた。そして,これらの地域は,表店と裏店の中間を結ぶ,「横町」,「新道」,「小路」などといわれたのである。
 これらの営業的な借家は,都市の拡大とともに,その重要性をましてきた。とくに貨幣経済の進展につれて,借家・借地人である商人の社会的な実力はますます向上してきた。やがて,彼らと家主や地主との間の社会的な力関係が縮まっただけではなく,時には逆転する場合もふえてきた。これらの結果,当初の借家関係には濃厚に残存していた前近代的な色彩も,しだいに薄まりはじめた。とくにこれらの上層部は,やがて資本主義経済の担い手にまで上昇していき,政治的にもおおきな発言権をもつようになるのである。
 もっとも,営業用の建物や土地の借家・借地人といっても,その下層はきわめて零細な資本による「生業」が主体であった。資本主義的な性格の少ない前近代的な色彩が強いため,旧来の店借の居住形態と意識をもち続け,大家=店子的な性格を強く残存せざるをえなかったのである(文献2,(一),23・28ページ,(二),20・27ページ)。
2 武家地・寺社地の解放と地租改正
(1) 武家地・寺社地の解放と賃貸
i)武家地・寺社地の解放
 1869年(明治2)の東京市内では,全面積の68.6%にあたる1169万2591坪(約3898ヘクタール)が武家地であり,寺社地が15.6%の266万1747坪(約887ヘクタール)を占め,残りの15.8%が269万6000坪(約899ヘクタール)が町地であった(文献9,2ページ,10,133ページ)。したがって,明治維持後に新政府の政治・軍事都市として再編成されつつあった東京において,全面積の84%をこえる武家地と寺社地の処理が,その後の都市構造を規定する重要な課題となった。また,これらの武家地と寺社地の圧倒的な比率が,政治都市東京に経済都市大阪をはじめ,その他の地方都市などときわだった相違をもたらせた,基本的な物質的な前提であった。
 新政府は,まず1869年(明治2)5月に諸藩の江戸藩邸の数を制限したのをはじめ,旗本などの武家屋敷を処分し,さらに1871年(明治4)1月には寺社地の「上地」を実行した。そしてこれらの広い屋敷跡などに,新たに必要となった官・軍・学校や府・市・区などの施設,殖産興業のための官業工場や特権的会社などの敷地に転用した。かくて,これらの武家地と寺社地の解放によって,明治維新政府の権力を支える政治・軍事・経済・社会的な物質的基盤が形成されたのである。
 もちろん,すべての武家地と寺社地が没収されたわけではない。たとえば,寺社の境内地や直営・貸付耕地などは除かれ,武家地の「上地」も約300万坪(約1000ヘクタール)に止まった。したがって,残りの約1135万坪(約3785ヘクタール)近くは,ひきつづき旧来の武士や寺社に保有が認められていた。しかし維新直後の東京の武家地は,旧幕臣が徳川家に従って静岡へ移住したり,諸藩の家臣も郷里に引上げるなどの結果,極度に荒廃した状態にあった(文献11,149-84ページ,12,24-28ページ,13,161ページ)。
 他方,大阪でもこれと同時に各藩の蔵屋敷や寺社地の一部が上地された。これらは大蔵省や大阪府などの官用地に当てたほか,不用地は一般に払下げや貸下げを行った。とくにそれまで大阪の経済に大きな影響を与えていた蔵屋敷の廃止は,強い打撃であった。しかし東京に比べると,大阪における武家地や寺社地の比重はきわめて小さかった(文献14,第1巻57・185-86ページ)。
 なお,1369年(明治2)の身分制の徹廃によって,当時の日本における全人口約3100万人の1/16にあたる約190万人(約40万戸)の武士階級は解体されることになった。つづく「禄制改革」や1873年(明治6)からの「秩禄処分」,そして1876年(明治9)発行の「金禄公債」によって,旧武士層はその封建的な特権を失なってしまった。もっとも,金禄公債の支給総額1億7457万円(当時における政府の経常収入は6~7000万円,うち約85%は地租)のうち,支給総員31万3517人のわずか0.2%を占めるにすぎない519人の領主層が全額の18%(1人平均6万527円)を取得した。これに対し,人員の95%を数えた下級武士層は67.7%の公債を支給されたにすぎず,1戸平均して415円,利子収入は年29円5銭(月平均わずか2円42銭)にすぎなかったから,これらの士族層の窮乏は深化せざるをえなかった(文献15,232ページ)。
 他方,1戸平均して6万円以上の公債を入手した旧領主層は,広大な屋敷地の一部を引きつづき所有した。そして他の上級士族などとともに,その後は土地所有者や株主,あるいは産業資本家などに転進し,新しい支配階級として再生の好機に恵まれたわけである。
 さらに1872年(明治5)には,全国の地券税法の最初の施行として,東京府下に「地券発行地租収納規則」が公布された。それまで無税地であった武家地と寺社地にも,課税が実施されることになった。いわが町人地と武家地・寺社地の区別が徹廃されるとともに,新しい地租の納入をめぐり,負担能力の大小に応じて,とくに武家地での分解が進んでいくのである。
ii)武家地・寺社地の賃貸
 もともと武家地は,江戸時代にも土地処分制限令が及ばず,公然と自由に賃貸が行なわれていた。明治維持後はその制限も撤廃され,とくに当初における中・下級武士層の窮乏化につれて,屋敷の一部を賃貸する動きが拡大した。そして,はじめは武家屋敷内に付属した中間長屋などを貸家する程度であったが,やがて広大な屋敷地を大規模に貸地する例がふえてきた。とくに旧大名などが,その屋敷跡地を宅地に開発し,大規模な宅地地主に転化してゆく者さえふえてきたのである(文献16,149ページ,17,231ページ,2,(四),2ページ)。
 たとえば,1874年(明治7)5月発行の高見沢茂『東京開化繁昌誌』にも,ある旧大名が家令の献策にもとづいて,地券を担保にして金を借り,長屋を新設して貸与したが,ついに失敗して土地を売却した例をあげている(文献17,251ページ)。また1876年(明治9)4月出版の服部撫松の『東京新繁昌記』には,地租改正にともなう土地課税によって,旧大名があらそって屋敷地に新街を開いて貸地とするほか,屋敷や長屋までも貸家としたことをのべている。そして,これらの新街には最大の愛宕下をはじめ,小川町・神保町・蛎殼町・浜町の中央繁華街や,芝切通しから新橋通りにまで及び,「百貨の肆店,櫛比軒を列ね,侯邸の跡を見」ない状態に変った。そのほか,山の手や本所・深川などの大名屋敷や武家地にも,貸地や貸家が急増したことを示している(文献18,225ページ)。
 そして,以上にもとづく「市街の新開」は565町におよんだ。そして,これらの貸地や貸家には車夫・職人・大工・左官などのほか,料理屋・質屋・劇場,あるいはそば屋・あんま・牛肉屋などが入居し,「新街に住む者は十中八九新商人に属し,乃ち帰商の徒也」とのべている。これらからも,当時における新商売の展開と都市人口の増大状況,さらに旧大名や武家地における貸地・貸家の盛行を読みとることができるであろう。
 このほか,寺社地についても,ほぼ同様な傾向がみられた。たとえば,徳川家の菩提寺である東京上野の寛永寺では,1868年(明治元)の彰義隊の乱による罹災と,維持変革にともなう寺禄の消滅のため,寺院の財政は困窮した。そこで,市街地に隣接した余剰地を地ならししたり,寺院の合併や墓地の移転などを行ない,しだいに宅地を新設して賃貸しはじめ,維持費の一部をまかなうことになった。これらの結果,1889年(明治22)までに6679坪(約2.2ヘクタール),さらに1902年(明治35)までに3889坪(約1.3ヘクタール),1908年(明治41)までに3409坪(約1.1ヘクタール),1914年(大正3)からは8693坪(約2.9ヘクタール)の宅地をそれぞれ開発し,第2次世界大戦までの合計で実に2万2670坪(約7.6ヘクタール)という大宅地地主に転進したのである(文献19,181ページ)。
(2) 地租改正と宅地所有
 以上の武家地と寺社地の解放は,封建的な特権の解消をねらうとともに,さしあたって中央や地方の行政施設や殖産興業関係の必要用地などを,確保する手段でもあった。同時に,当時きわめて不安定であった新政府の財政的な基礎を,確立するための地租改正の一環として実施されたものである。
 1871年(明治4)7月の「廃藩置県」によって,はじめて権力の統一をはたした新政府は,翌1872年(明治5)には江戸初期から課税免除の特権を与えてきた東京府の宅地に,全国に先がけて地券を発行し,地租を賦課することになった。つづいて,「地所永代売買禁制」の廃止を行ない,全国に「壬申地券」を公布した。かくて,地券所有者は土地所有者に公認され,地租を政府に上納するとともに,地券の売買・担保をつうじて自由に土地の取引を行えることになった。この過程で,江戸時代からの封建的な土地所有権が解体されたわけである。
 これらの動きは,1873年(明治6)の「地租改正条例」によって,さらに整備されることになった。地租改正事業の進行とともに,1876年(明治9)からは土地評価額の3%(翌1877年からは2.5%に減租)にあたる中央地租(ほかに府県が収納する地方税の付加地租がある)が上納されることになった(文献20,40-42・360・556ページ)。
 この結果,当初は地租を主要な財源としていた新政府の財政的基盤が,はじめて固まった。同時に地券所有を契機として,農村における田畑・山林・原野などのほか,とくに都市における宅地の売買異動の自由を公認することになったのである。このため,これ以後は急激な土地所有の移動が進み,農地や宅地の大土地所有が拡大しはじめる条件がととのい,不動産業の生成と展開に決定的な刺戟を与えたのである。

 3 不動産業の萌芽
(1)文明開化と不動産業
 明治初期における不動産の取引は,主として,これまでのべた居住用の裏店借と営業用の表店借が中心であった。そして,現在では不動産業の主力を形成する仲介業については,それを示す資料が乏しい。おそらく,大家=店子関係の中核を占めた差配人が,実質的に地所と家屋の仲介などを兼ねたであろうことを,推測できるにすぎない。
  しかし,そのなかにあって,次のような不動産仲介業の萌芽形態も現われている。たとえば,1872年(明治5)2月の『新聞雑誌』第30号には,福島嘉兵衛などが「小義社」を設け,東京三田の教育所跡など地戸数区を借用し,窮民救済のため長屋ならびに金銭を貸与することを報じている(文献7,482ページ)。この例は,当時の不況対策として難民対策を目的にした貸家や貸金の比重が高く,かならずしも本来の仲介業とはいえない。しかし,貸家とともに生活補給のための金融を兼ねていることは,一般の大家=店子関係の性格を反映したものといえる。
 このほか,翌1873年(明治6)9月の同じ『新聞雑誌』第141号には,柳原上手通りに「媒酌業」の看板をかかげ,「華士族平民,養子・縁談,地面・家作売買世話仕候」とあり,このような新業は文明開化の現われだとのべている(文献7,507ページ)。おそらく,地所・家屋売買仲介業について,ごく萌芽の事例とみることができる。この場合,同時に養子・縁談のあっせんも兼ねていることは,人事の周旋と未分化であった当時の地所・家屋仲介業の性格を示すものであろう。
 他方,すでに明治初期においても,売家や貸家の新聞広告が現われている。たとえば,1874年(明治7)12月9日の『朝野新聞』第400号には,英語まじりで,東京麻布に玄関と3間,2階1間に台所つきの新築家屋の貸家広告がのり(文献21,31ページ),これに類するものが時どき掲載されていたとみられる。この例の貸家は,瓦ぶき2階だて4間という,当時としては大きな屋敷であり,商人らしい所有者が賃貸に出したものとみられ,とうぜん一般の裏店借ではない。その他の広告も,「官員方・華族方の御別荘」や「閑静ノ地」が多かったようである(文献21,35ページ,文献22)。したがって,官吏や華族などの上層階級むけの需要に応じたものと考えられる。当時の家屋差配人や小規模な仲介業者の網にかからないような「高級」な不動産取引は,このような新聞広告によったものであろう。なお,一般の貸家では,空屋の戸口や露地の入口に「空家札」をはり紙することによって,希望者を募るのが通例であったようである。
 このほか,1874―75年(明治7―8)の不況期には,「風もなく地震もいらぬ其中で大きな家がやたら潰れる」(1875年―明治8―2月1日の「読売新聞』)と報じている(文献16,154ページ)。多くのものが「身代限り」とされた結果,売家や貸家が日ましに増加する状況(1874年―明治7―11月の『新聞雑誌』第334号)であったのである(文献7,544ページ)。これらの事情が,東京における不動産の取引や仲介業の前進を生んだものと考えることができる。
(2) 殖産興業と不動産業
 明治初期の殖産興業政策,とくに1877―81年(明治10―14)のインフレーションを契機に,移入産業や在来産業が一応の展開を示した。これとともに,賃金労働者や職人層の増大をもたらし,貸家需要を拡大させた。このため,前にのべた賃貸長屋方式の拡大や,華族・上層士族・賃幣所有者・近郊農村地主などによる貸家・貸地の供給増加がみられた。
 これらの過程で,不動産の流通部門を担当した仲介業者などの成長がみられたはずである。しかし,この期でも,これらの仲介業者の実情を示す資料は少ない。ここでも,大家=店子関係の中核を占めた差配人などの町内の有力者が,実質的に地所や家屋の仲介などの主役を担っていたであろうと,推測しうるにすぎない(文献23,5・11-14ページなど)。
 他方,1870年(明治13)ごろの東京には,相当な数の空屋や新築の1戸建て貸家が増加していたことを推測させる資料もある(文献23,13ページなど)。この動きにつれて,とうぜん不動産の仲介業も発生したとみられる。
 たとえば,『にごりえ』などの作者である樋口一葉の父が,その1人といえる。彼は甲州(のちに山梨県)の上層農家の出身で,江戸時代の終りごろに知人を頼って江戸に上った。力行して同心株を買い,幕府直参の御家人となり,明治維新後には東京府庁に勤め,1877年(明治10)には警視庁の雇となっている。そして1880年(明治13)には,「勤めのかたはら闇金融,土地家屋の売買に力をいれて利潤」をえたという(文献24,454-55ページ)。彼は,当時の東京市内の民生治安の元締めであった警視庁に勤め,その職権などで入手した情報などをもとにして,不動産の売買を副業にしたものと推測できる。同時に闇金融(高利貸)も行なっていたというから,不動産の取引や土地家屋の担保などと,高利貸が密接な関係にあったことを反映しているものであろう。
 このような小金をためた中・下級の役人や商人などが,しだいに不動産の売買や仲介にのりだしたものと考えうる。同時に,産業の発展や土地取引の拡大につれて,大規模な不動産業者も発生しはじめたことが,この時期の特徴といえる。
 たとえば,1881年(明治14)末からの松方正義大蔵卿によるデフレーション政策が,功を奏しはじめた1883年(明治16)6月には,株主31人で資本金2万3884円の共地社という地所賃貸の株式会社が,東京の日本橋蛎殼町に設立された。同社は,1884年(明治17)中に収入2209円,経費741円,純益1487円をあげているが,その後の動きについて知ることができなかった(文献25,明治17年,170・173ページ)。地租改正にともなう私的な土地所有権の確立や,そのころからの資本主義の漸進につれて,ようやく不動産業にも萌芽が現われたことを示すものであろう。

Ⅲ 日本資本主義の成立と不動産業

 1 東京の市区改正と三菱の丸の内開発
(1) 東京の市区改正と都市構造の変化
i)東京の市区改正
 1869年(明治2)以降,京都に代って首都になった東京の整備をはかるため,すでに1872年(明治5)から最初の都市計画事業が実施された。その中心が「銀座煉瓦街」の建設であったが,地元住民の反対や建築技術の未消化などの結果,やがて計画を縮小し,1878年(明治10)には事業そのものを打切らざるをえなかった(文献26,11-12・158ページ,12,486-88ページ)。
 やがて,1885年(明治18)からの内閣制度の発足や,1889年(明治22)の帝国憲法の発布,翌1890年(明治23)よりの帝国議会の開設をひかえ,さらに外国との「条約改正問題」に対応するためにも,首都東京の整備充実が,ふたたび新政府の大きな課題となった。
 かくて,1888年(明治21)8月の「東京市区改正条例」を契機に,道路の拡張や新設,河川の改修や上・下水道の敷設,公園の整備などを含めた,本格的な都市計画事業が実施されることになった。もっとも,事業そのものは,その後の軍備拡張政策の圧力をうけ,予算は縮小してしまい,計画自体は道路の改修と上水道の敷設にしぼらざるをえなくなった。これが,現在の東京における社会資本の不足や,都市公害に対する大きな遠因となったといえる。
 しかし,中心事業になった道路の改修は,宮城の付近で幅20間(36メートル余)以上の道路が10線のほか,幅15間(27メートル余)以上の道路が市内で8線も新設された。これによって,都心を中心として東京全市を結びつける道路網がはじめて完成し,産業の興隆や人口の流動など,都市構造の形成に決定的な影響をあたえたのである(文献5,312・318ページ,12,489-96ページ)。
 このほか,この計画の進行につれて,もとの藩屋敷を活用した欧風建築の霞ヶ関官庁街が形成されていったのである。さらに丸の内一帯における軍用施設の青山・麻布移転をめぐって,同用地が1890年(明治23)に三菱会社に払下げられた。この結果,官制の市区改正事業とは別に,三菱による私的な都市開発が試みられた。そして,1894年(明治27)の三菱1号館(一部を貸付,日本における最初の近代的な貸事務所)の建設を契機に,これ以後の丸の内一帯はイギリス風の煉瓦建ビルディング街が形成され,銀座や京橋などとともに,日本の中心的なオフィス・センター街に発展してゆくのである(文献27,12ページ,12,58-60ページ)。
ii)東京の都市化と住宅事情
 以上の市区改正事業の進行は,産業の展開や交通機関の発達とあいまって,東京の地域構造におおきな変動をあたえた。1890年ごろの明治前期までに支配的であった,江戸時代と同じような旧武家屋敷町や町人町は,しだいに様相を一変しはじめた。都心の官庁・会社・学校街や卸売・小売の商業地,山の手の住宅地,周辺の工業地帯などに分化していった。
 もともと東京は,江戸時代から,まず地形的な立地条件などの差にしたがって,武家屋敷の多い「山の手」と家内工業や商業の多い「下町」に区分されていた。これを基礎にしながら,市区改正前から,まず宮城周辺における旧来の大名屋敷を利用した官庁街が麹町付近に集中してきた。また丸の内には欧風のオフィス街の建設が進み,伝統的な商業中心地であった日本橋・京橋・神田・浅草・下谷地区などには,新興の会社・銀行・百貨店などが固まってきた。さらに新しい教育機関の所在地として,神田や本郷などの学生街には,学校や書店が集まってきた。これらの都市部に対して,主として官吏や軍人,教員などの住宅地に変っていったのが,麻布・牛込・四谷・小石川などの山の手地区である。
 しかし,これらの文明開化や資本主義化の恩恵を受けることができたのは,一部の支配階級のみであった。東京の住民の大部分を占めた小売商や居職人,出職人や工場労働者,日雇いや人力車夫などの一般大衆は,東京の全域に拡がって居住していた。とくにその下層は,地価や家賃の安さを求め,たえず浸水に悩まされるなど,住居環境が劣悪な本所や深川などの江東地区に居をかまえざるをえなかった(文献5,312・326・335ページ)。
 とりわけ,産業や社会の基盤を支えた工場は,水陸の交通に恵まれ,とくに地価の安い隅田川や荒川,東京湾や目黒川ぞいに集中せざるをえない。これにともない,労働者が徒歩で通勤できる工場の近接地帯に,労働者の住宅街が集中するようになったのである。
 そして,低賃金に苦しんだ下層労働者たちは,中小や零細な工場が多い本所や深川,浅草などに固まっていた。彼らは,横山源之助の名著『日本之下層社』(1899年-明治32-刊)にのべられた「細民」を代表していた。たとえば,その住居は,相かわらず裏店借の共同長屋が主力を占め,家賃は月に2円80銭ぐらいで,大家が毎日の朝と夕方に集金するという日払が多かった。1世帯で4.5畳(約7.5平方メートル)に住み,便所は15~20戸が共用という状況であった(文献32,227-28ページ)。
 これらの下層労働者の増大にともない,後にのべるように,一部には寄宿舎などの「給与住宅」も発生した。しかし大部分は,旧来どおりの裏店借がその需要をまかなったと考えられる。これらの仲介は,家屋差配人である大家が担当したとみられるほか,高利貸を兼ねた小貨幣所有者が土地や家屋の売買・担当や仲介にあたったと推測できる。また労働者の周せんなどをつうじて,いわゆる「雇人口入営業」も不動産業の開祖の1人と考えられている(文献28,188-91ページ)。
(2) 三菱の丸の内街建設
i)東京丸の内の三菱払下げ
 丸の内一帯は,江戸時代には大名屋敷や評定所,奉行所などが立ちならび,明治以後も兵部・司法などの各省や兵営・練兵場などに転用されていた。しかし1889年(明治22)の東京の市区改正計画にもとづき,将来は市街地に区画されたため,陸軍の兵舎などは麻布や赤坂方面へ移転することになった。
 そこで政府は,新兵舎の建設費150万円を調達するため,丸の内の軍用地を入札による競売にかけた。しかし当時の丸の内付近は未開発なために,利用価値が小さかった。さらに1889―90年(明治22―23)の経済不況によって,地価が暴落してしまった。これらの結果,入札は予定の価格に達せず,払下げは中止となった。
 ついに松方正義蔵相は,三菱2代社長の岩崎弥之助に同地の一括買収を懇請したといわれる。かくて1890年(明治23)3月に,丸の内と神田三崎町の軍用地合計10万7026坪(約35.7ヘクタール)余が,128万円(現在の推定時価で約150億円)で処分された。坪(3.3平方メートル余)あたりの平均価格は11円96銭(同,約13万円)であり,当時としては相当に高価であったという。しかし三菱では,「半ばは献金の趣意をもって政府の要請を受諾した」とのべている。これが,今日の丸の内ビジネス・センターの発端となったわけである(文献29,419ページ以下,27,12ページ)。
ii)丸の内街の建設と貸事務所業
 しかし,三菱の丸の内買収は,実際には当時イギリス滞在中の三菱幹部である荘田平五郎と末延道成の進言にもとづいて,決定されたという。さっそくこの「三菱ヶ原」に,イギリス風の洋風オフィス街の建設を計画した。東京の市区改正事業と相まって,1892年(明治25)1月に三菱会社は丸の内建築所を新設し,私企業でありながら,いわば日本最初ともいうべき,独自な都市開発事業に着手したのである。
 そしてイギリス人コンドル(Josiah Conder,当時は内務省の御雇建築家)の設計にもとづき,三菱第1号館(後の東9号館)の建設を開始した。やがて1894年(明治27)6月には,日本における初期洋風建築の代表傑作といわれた同館が完成した。これが,日本における近代的な貸事務所の発端になったのである。
 三菱は,その後も丸の内に洋風建築をつづけ,1895年(明治28)には第2号館,翌1896年(明治29)に第3号館(日本で最初にエレベーターを据つけ)が完成した。さらに,1900年(明治33)からふたたび建築を再開し,1905年(明治38)までに第4~7号館が関業している。そして,1894年(明治27)の東京府庁舎や,1899年(明治29)の東京商業会議所などの完成とともに,これらの馬場先門通りには洋風の近代的な大建築が建ちならんだ。かくて以前の丸の内軍用地も,やがて「一丁ロンドン」と呼ばれるようになり,銀座・京橋・日本橋地区などとともに,日本の代表的なビジネス・センターに発展していったのである。
 なお三菱の丸の内経営では,当初から木造建築を排し,耐火や耐震,そして都市美観を考慮しながら,一定の規格にもとづいた建築を行なっている。イギリス風を模倣したとはいえ,1970年(昭和45)ごろまでは残っていた赤煉瓦づくりの洋風建築や,鉄筋コンクリート建築(1914年-大正3-の第21号館が最初)などにみられるように,私企業でありながら,三菱は新しい都市計画の建設事業を実施したのである。
 その後も,三菱は貸事務所の建設をつづけた。とくに,1911年(明治44)に警視庁や帝国劇場などが建ち,1914年(大正3)には東京駅が完成して全国交通の中心地になるなど,丸の内一帯には日本経済の代表的な大企業が集中する条件が整備された。これとともに,丸の内一帯の土地や建物を独占し,その賃貸と管理などにあたった三菱の利益は,結果的には巨大なものになった。そして,貸事務所の管理などを対象に,1906年(明治39)7月には三菱合資会社のなかに地所部門を新設した。やがて,これが現在の三菱地所株式会社に発展していくのである(文献29,423-31ページ,30,46ページ以下,16,1367ページ)。
iii)三菱の貸家経営
 なお三菱では,これらの丸の内街の貸ビル経営のほかに,すでに1877年(明治10)から貸家収入がみられる。すなわち,同年から貸付用の宅地を買収しはじめており,1893年(明治26)までに判明しただけでも約24万4800坪(約81.6ヘクタール)に達している。そのうち,とくに芝・深川・日本橋地区などからの貸家収入の比重が高かった(文献31,17-21ページ)。営業むけの表店借が多かったのであろう。
 さらに1890年(明治23)に丸の内軍用地とともに払下げをうけた,神田三崎町の陸軍練兵場跡地(現在の日本大学付近)2万2717坪(約7.6ヘクタール)は,三菱の所有後にまず宅地として区画された。そして木造の賃貸用の住宅や店舗などを建設して,翌1891年(明治24)から一般に貸付けている。その戸数は,1902年(明治35)ごろに600余戸に及んだが,大正時代になって,土地と家屋をすべて売却している(文献27,12-13ページ,29,431ページ,16,1103-04ページ)。おそらく,個人むけの貸家経営のわずらわしさや,他に比較した場合の家賃収益率の低さ,さらには大正期における借地・借家問題の発生などの諸要因のため,これらを売却し,貸ビル一本に集中していった結果であろう。

2 サラリーマンむけ貸家と建売家屋
(1) サラリーマンむけ貸家の発生
i)サラリーマンの形成と住宅需要
 明治時代の中期ごろから,1885年(明治18)の内閣制度をはじめとする中央官制の整備,あるいは1889年(明治22)からの市制や町村制,府県制や郡制の施行にと
もなう地方行政制度の展開,そして軍備拡張による兵員の増大,さらに教育制度の普及にもとづく大学以下の教員数の増加などが進んだ。また資本主義の発展にともなって,会社や銀行などの企業がふえ,これらの事務にあたる人員が拡大してきた。これらの結果,当時の主な都市には,俸給生活者(サラリーマン)という,新しい階層が生成しはじめたのである。
 そして,これらのサラリーマンは,週単位の勤務と休日をもち,職場と住居がはるかに分離するという,これまでの一般の住宅や商人などを中心とした在来の生活様式とは異なった形態をもたらした。このため,市内における居住分布を拡げるとともに,城下町などを基盤にして当時の多くの都市の地域構造に対して,大きな変動要因を加えることになった(文献4,688-89ページ)。
 これらのサラリーマン階級のうち,とくに官吏は,明治の初年ごろには,空家や売家となった旧大名や旗本・御家人などの邸宅を使用し,あるいはこれを収納した「官舎」に居住した。やがてこの武家住宅の様式が,そのまま官吏の住居形態に引きつがれ,これが新しいサラリーマンの住居様式を規定するようになった。しかも官吏には転勤が宿命ともいえ,官舎が与えられた場合のほかは,多くは借家ずまいによらざるをえなくなった。そして明治中期ごろからは,官吏のほかに軍人や教員,会社員や銀行員などにも,転勤形式がふえていった。このようなサラリーマンという新しい上・中層の支配階級の形成につれて,これまでの裏長屋や裏店借の形式とは異なった借家が要求されてきたわけである。
 このため,新たに旧来の武家屋敷を形式どったサラリーマンむけの貸家が増加しはじめたのである。たとえば,明治20年代はじめごろまでの東京では,入口と台所が一緒につづいた長屋建ての借家が多かった。しかし1891年(明治24)ごろからは,造作づきの1戸建ての貸家の張紙が多かったという。このごろになると,サラリーマンむけの貸家の供給が,ようやく増加しはじめたことを示しているといえる(文献4,290-300ページ)。
ii)サラリーマンむけ貸家の成立
 1887年(明治20)ごろから拡大した,これらのサラリーマンむけ貸家の展開は,それまでの支配的な借家関係に対して,大きな影響を与えざるをえなかった。
 まず第1に,これらの貸家は武家屋敷の方式を引きつぎ,門構えや庭をそなえ,坪数や間数も多い一戸建の家屋が主体となった。このため,これまでの長屋様式とは大きな相違があったが,明治中期以降になると,この型の貸家が東京などの都市に普及していった。他方,大阪では,商工業の本拠で,官吏むけの住宅需要も少なく,武家屋敷風な貸家の影響をほとんどうけなかった。したがって,大阪地方では最近まで貸家といえば長屋建てのものが支配的であり,江戸時代以来の貸家形式が持続してきたといえるのである。
 第2に,サラリーマンむけの貸家は,主として転勤者むけであるため,畳やふすまなどの造作つきを必要とした。それまでの貸家は,造作なしが一般的であったから,これまでの賃貸方式に変更を加え,明治中期ごろからは東京では造作つきの貸家が普通となっていった。これに反して,大阪では,この方式は支配的ではなく,比較的あとまで,造作なしの貸家が多かったのである。
 第3に,借家人となるサラリーマン層は,一般に当時の支配階級に属した者が多かったから,家主と借手の間には,これまでの長屋方式にみられた上下の身分関係がなく,逆にその地位が逆転した場合もみられた。このため,賃貸契約でも借家と家賃の提供という等価交換が中心となり,単に月1回の家賃を収支するだけで,平常はほとんど無関係に近い形態が多かった。したがって,これまでの長屋式の貸家に支配的であった,大家=店子関係に左右されなくなったのである。こういった近代的な貸家方式が拡大した結果,やがて在来からの借家関係一般に大きな変動要因を与えていくわけである。
 したがって,明治中期ごろから現われたサラリーマンむけ貸家の需要が増大するにつれて,彼らの居住に適した地域では,これまでの長屋建の貸家に依存していた家主のなかから,1戸建の貸家に切りかえるものがふえていった。そして,これらの貸家主は,これまでどおりの地主や家主のほか,さらに商業や高利貸を通じて蓄積した者や,資産をもった上級士族や寺社,および華族や政商,実業家や小金をためたサラリーマン,あるいは都市近郊の農地地主などが加わっている(文献2,(一),30-31ページ,(二),5-6・20ページ)。
(2) 安田系の建売販売と不動産金融
i)東京建物会社の発足
1884-85年(明治27-28)の日清戦争前後から,軽工業を中心とした日本の産業革命が進行中であり,産業や交通,そして都市の展開がいちじるしかった。東京市でも,市街の近代化をはかるため,市区改正と上水道敷設の2大事業が実施された。そして経済界の活況や火災保険業の発達と相まって,建物の新築や改良の機運が高まっていた。しかし,これらに必要な資金は当時は信用のある不動産金融がまだ整備されていないため,周旋人や金貸などに依存する例が多かった。このため,不当に高い利息や悪条件が支配的で,多くの弊害がおこっていた。
 これらに対応するため,財界の有力者であった安田善次郎や馬越恭平らが発起人となり,東京建物会社を創立することになった。同社は,土地建物の担保金融や,日本では最初ともいうべき月賦による建築販売のほか,一般の不動産の賃貸売買も予定した。1895年(明治28)の事業計画調査にもとづき,翌1896年(明治29)10月に資本金100万円で営業を開始した。
 その「創立目論見書」のうちで,とくに注目をひくことは,5~15年以内の月賦償却契約によって,東京市内においていわゆる「建売販売」を開始したことである。第2に,長期の月賦契約のうち,その元資の6/10以上を償却したものには,その受取証券に対して相当の貸付(いわゆる証券担保金融)を併用しようとした。とくに後者は,建物所有者だけではなく,借地人や借家人をも含んでおり,いずれも日本では最初の試みとして好評を博したのである(文献33,5-14ページ)。
ii)東京建物会社の事業
 同社は,まず東京市日本橋区の呉服町で不動産業を経営していた三固商会の営業権および資産を買収して本社としたほか,1896年(明治29)11月には横浜市北伸通りに支店を設けた。日清戦争後の好況によって,貸付や月賦建築,土地建物の売買などが順調な発展を示した。とくに資本金100万円で安田系の大会社であり,しかも新しい試みの建売販売と不動産貸付は,当時は同社の独占事業であったから,その業績と利益は急増を示した。
 なお同社は,1897年(明治30)4月23日の『東京日日新聞』の第1面に,地所売買の物件28件を広告している。いずれも,大邸宅や別荘むけの地所家屋が大部分を占めていた(文献33,14ページ)。これらは,産業革命の進展にともなって,富や地位を高めはじめた当時の支配階級である華族,官吏,紳商,銀行会社員,医師,弁護士などを,主な取引先としていたことを示している。もちろん,なかには京橋や日本橋地区における,表店むけの物件も散見している。このほか,月賦の建売販売などによって,上昇しつつあった中産階級をも対象に加えたことは,手堅い安田系の経営方法を実践したものといえる(文献28,30-36ページ,1,229ページ,34,275-76ページ)。
 いずれにせよ,日本の財閥のなかでは,当初から金融的な色彩の強かった安田系の不動産会社として発足した東京建物会社は,このような注目すべき特徴を示した。すなわち,すでに1896年(明治29)以来,月賦の建築販売や不動産および証券の担保金融を開始するという,それぞれの分野で近代的な開拓者となったのである。
 3 不動産企業の生成
(1) 宅地地主の生成
i)都市における宅地大地主
 以上のような産業や都市の発展,それにともなう人口の増加と地代や地価の高騰は,宅地地主の発生をうながした。たとえば,時期はやや下るが,1906年(明治39)末における東京15区内の宅地所有者は2万1295人を数え,その面積合計は1150万8232坪(約3836ヘクタール)に達した。このうち,1000坪(約0.33ヘクタール)以上の宅地大地主は,総数の9.1%にあたる1936人で総面積の60.5%を集中し,1人平均して3593坪(約1.2ヘクタール)を所有していた。とくに,1万坪(約3.3ヘクタール)以上の巨大地主は,全体のわずか0.5%にすぎない108人か,東京15区内の宅地全面積の23%を独占し,1人平均でも実に2万4700坪(約8.2ヘクタール)をこえていた(文献35,186ページ)。
 これらの宅地地主のうち,旧大名だけでも190人,128万2558坪(約427.5ヘクタール)におよび,全宅地面積の11%以上を占めていた。なお巨大地主のうち,主なものは,首位が三菱会社と同社長岩崎家の累計で23万1792坪(約77.3ヘクタール)であった。2位は三井銀行と三井一族を合わせて17万258坪(約57.5ヘクタール),3位に峯島一族の11万917坪(約39.7ヘクタール)がつづき,以下5~10万坪(約17~33ヘクタール)台には,旧大名の阿部正桓(6万5536坪―約21.8ヘクタール)と酒井忠道(5万1478坪一約17.2ヘクタール),実業家の渡辺治右衛門(6万3123坪―約21ヘクタール)と安田善次郎(安田銀行をふくみ5万7432坪―約19.2ヘクタール)などが並んでいる。このように,これらの巨大地主は,旧大名などの華族や政商,あるいは実業家や豪商などが主力であったことがわかる(文献35,179-209ページ,36,34-37ページ,32,36-37ページ,37,143-44ページ)。
 もちろん,これらの宅地の一部は自分の住宅用に使用されたはずであるが,大部分は地代の収入を目的にして貸地にしたり,あるいは所有地のなかに貸家などを設けたのである。そして,これと相呼応しながら,借地または自地のうえに住宅を建設し,これを賃貸する純粋の貸家業も広い範囲に成立しはじめた。
 以上の動きは,首都東京だけの例ではなく,産業や交通の発展などにともない,人口の増加がいちじるしかった大阪や神戸,名古屋や横浜などをはじめとする各地の都市にも浸透していった。かくて,明治中期以降になると,いわゆる「都市地主」が勢力を拡大していくのである。
ii)宅地大地主の成立事情
 たとえば,東京下谷区谷中清水町の大河内家は,旧大名であったが,江戸時代に設けた屋敷地が,明治以後もそのまま所有権を認められた。やがて,1888年(明治21)の市区改正事業を契機に,下谷地区はしだいに住宅地や商店街,工場地帯などに変ってきた。そこで大河内家では,1893―1901(明治26―34)年かけて,邸宅地付近の高台の土砂をけずり,それまで小作に出していた田地や沼地の一部を埋立てたり,あるいは原野の開発を行ない,これらをしだいに宅地として貸付けていった。これらの結果,大河内家は下谷区内だけでも1万9000坪(約6.3ヘクタール)――1945年(昭和20)には9784坪(約3.3ヘクタール)――の貸地地主になっている。そして,下谷区外を含めた大河内家の宅地面積は,1906年(明治39)には2万坪(約6.7ヘクタール)を数え,東京市内では42位の宅地地主となったのである。
 このほか,上野の寛永寺も,前にのべたとおり,1889年(明治22)ごろから宅地を造成しはじめ,累計2万2670坪(約7.6ヘクタール)以上の宅地を貸付けたのである。
 これらのなかで,とりわけ特色のあるのは,新潟県北蒲原郡において農地の「千町歩地主」であった市嶋家が,東京市内で宅地を購入した例である。まず同家では,1896年(明治26)にて下谷区入谷町の付近に宅地や田地,池沼など1万9592坪(約6.5ヘクタール)を,坪あたり1円50銭,総額3万円で入手している。1906年(明治39)における同家の宅地だけの面積合計は1万7161坪(約5.7ヘクタール)で,東京市の大地主のなかで50位を占めた。そして1945年(昭和20)には,下谷管内だけで宅地1万2934坪(約4.3ヘクタール)を所有していたのである。
 これらの所有地は,はじめは新潟から上京した時に,市嶋家の居住用地にあてるためといわれた(同家は,たびたび貴族院議員となり,東京での役職も多かった)。しかし,市街宅地の将来性を見こし,やがてばく大な費用をかけて邸宅周辺に私道や下水道などを設け,住宅地を建設した。そして,地代収入を目的とした土地投資にもとづき,これらを宅地として貸付けたのである。
 このほか市嶋家では,さらに明治末期から1938年(昭和13)にかけて,地価上昇率の高い関東地方の一帯に,さかんに宅地の購入を拡大した。すなわち,1907年(明治40)に横浜市の金沢町で約1500坪(約0.5ヘクタール),1907―13年(明治40―大正2)に鶴見町生麦で5862坪(約2ヘクタール)を買収している。また大正中期から激しくなった新潟県下の所有農地における小作争議の対策として,1920―28年(大正9―昭和3)にかけて,同じく生麦で3340坪(約1.1ヘクタール)を取得し,文化住宅地の建設を計画した。このほか,1923年(大正12)には東京本郷の駒込林町に4072坪(約1.4ヘクタール),1935年(昭和10)に静岡県伊東町で2663坪(約0.9ヘクタール)を入手し,さらに1938年(昭和13)には千葉県の弥町と穴川町に住宅の建設用地などに6530坪(約2.2ヘクタール)を集中している。これらのうち,文化住宅の分譲計画は,いずれも失敗におわった。しかし市嶋家の場合,農地における巨大地主が,首都圏内外への宅地大地主に転進を試みた代表例として,注目にあたいする(文献19,176-89ページを参照)
iii)近郊農村地主の宅地地主化
 明治中期ごろから都市が拡大するにしたがって,近郊農村にも都市化の波が押しよせるようになってきた。これとともに,農村地主のなかには,そのまま都市の宅地地主にかわるものがふえていった。たとえば,東京下谷区の入谷町周辺における朝顔や万年青の栽培農業者が,宅地地主に転化したことは,その好例といわれている。
 このうち,金杉1丁目に住んだM家は,1888年(明治21)の市区改正事業にともない,将来の地価値上りを見こして農地を買い集め,翌1889年(明治22)ごろには約2ヘクタールを入手した。これらの土地は,すべてそのころから盛況に向かいつつあった「入谷朝顔」などの栽培人に賃貸し,小作料を収得していた。しかし1905年(明治38)ごろからは,この付近の住宅化が進み,強い住宅需要がおきてきた。このため,宅地として貸した方がはるかに有利となってきたので,これらの栽培地や田畑などを,しだいに転換してしまったのである。なお1945年(昭和20)におけるM家の宅地面積は,7911坪(約2.6ヘクタール)であった。
 また入谷町に住んだS家は,明治維新後における田畑の自由耕作を契機に,朝顔や蓮の栽培を拡大した。さらに蘭や菊の温室経営にも手をそめ,その優れた技能によって高収入をあげ,1887年(明治20)ごろまでに急速に小資本を蓄積することができた。そこで朝顔栽培の拡大に必要な耕地を買入れ,合計の経営面積は約2ヘクタールを数えた。しかし周辺の宅地化が進むとともに,朝顔栽培などによる経営利潤よりは,居ながらにして多額の地代を入手できる宅地地主の方がきわめて有利となってきた。これらの結果,ついに1907年(明治40)ごろからは温室栽培を中止し,さらに朝顔や蓮の面積も縮小しはじめた。ついに大正初期(1912年以後)にかけて,S家は宅地地主に転化してしまうのである。なお,1945年(昭和20)におけるS家の宅地面積は,3110坪(1ヘクタール余)であった(文献19,176-81ページ,2,(四),2-3ページ)。
 以上のように,東京市の市区改正にもとづく道路の拡張や産業の展開,人口の増加などにともなって,宅地に対する需要が増大するようになり,市街宅地の地代や地価はしだいに高騰を示しはじめた。このため,それまでは特産的な農産物の販売によって,高い農業利潤をあげていた篤農家や,あるいは耕地における低い金納固定地租と高い小作料の差額に寄生していた農村地主たちも,都市近郊においては,より有利な宅地地主に転化していくのが大勢となったのである。
(2) 貸家業の展開
 以上のような宅地地主の展開とともに.宅地のうえに家屋を建築し,これを賃貸する貸家業もとうぜん拡大した。しかし江戸時代にくらべ,土地所有の比重よりは建物投資の重要性が増加したにもかかわらず,前にのべた三菱などの例を除くと,一般に大貸家業主の成立は進まず,大部分が零細で副業的な経営が支配的であった(文献2,(二),5-6ページ)。
 これは,貸家経営による家賃収入が,一般に宅地からの地代所得や地価の上昇率を下まわり,また日本の家屋が一般に安価で固定費の少ない,「焼け屋」的な木造建築が多いという住宅構造を反映するものである。したがって,貸家業主とくに零細な低所得者を相手とした裏長屋の所有者にとっては,資産の重点が家屋よりは,むしろ敷地にあるといった寄生的な性格が強かったといえる。
 いま,東京大学社会科学研究所が1949年(昭和24)3月に行なった,東京都台東区下谷管内の家主調査から,貸家業の一般的な形態を整理してみると,次のとおりである(文献19,197-99ページ)。
 これらのうち,主要な大家主は最大でも1471坪(約4860m2)であり,その他は300~500坪(約990~1650m2)ぐらいでも上位を占めていた。一般に貸家業は零細なものが多く,副業的な利殖手段と考える寄生的な性格が強いといえる。そして,その形態は,第1に,商業や高利貸によって,とくに明治維新後に貨幣を蓄積し,明治中期(1890―1900年前後)から大正初期(1910年代)ごろにかけて,家主を兼ねたものが多かった。第2は,旧来の農村地主が,前にふれたように明治中期ごろから宅地地主に転化するとともに,家屋を建築して貸家業を行なったものである。そして,このなかには,高利貸を兼ねたものが現われている。第3に,江戸時代からの家主で,明治以後にも,ひきつづき貸家だけの収入で,生計を維持しているという例もあった。
 以上のような,下谷地区における貸家業の形態差は,他の一般の都市にもみられたものであろう。とくに調査した家主の大半が,質屋や金貸などのような,小規模な金融業を営んでいた。これは,家屋賃貸という生活にもっとも密着した社会関係では,借家人層の所得の低さと相まって,まだまだ前近代的な性格が残存していたことを示すものであろう。
(3) 不動産業の成立
i)不動産仲介業の成立
 以上の宅地地主や貸家業などの展開につれて,とうぜんその流通や仲介などを担当する本格的な不動産業の生長をもたらしたのである。
 もともと不動産仲介業は,宅地や建物の生産供給者と消費利用者との中間にあって,その売買や賃貸抵当などの流通取引や金融のあっせんなどの仲介にあたるものである。そしてその成立には,1つは不動産所有者により密着したものから発生した流れと,他は借地や借家を需要する直接の利用者により近接したものからの流れと,大別して2つの潮流に分けることができる。
 前者は,不動産の売買や抵当により重点があるため,対象も不動産所有者が多い。また仲介の取引額が融資額も大きいため,一定規模以上の資金を必要とした。同時に,一般の金融も取りあつかうことから,その上層は動産の仲介,さらに有価証券の取引を併用する会社形式の業者まで発生したのである。
 他方,後者の借地や借家を求める直接の利用者に密着した流れは,より小規模で零細な業者が多く,大家にあたる地面差配人や家屋差配人が兼ねた例が支配的とみられる。このほか,庶民を相手にした「小金貸」や,地方自治や治安警察などの末端業務を分担したいわゆる「町内の顔役」なども,実質的には関連のある不動産の仲介にまで手を拡げたことが推測できる。また東京の江東地区などのような新興の工業地帯では,労働者の流動が激しかったなどの理由から,労働力の周旋にあたった「雇人口入業者」も,おそらく不動産仲介の一役を担ったであろうと考えることができる。
 このほか,1897年(明治30)ごろからの学制の整備とともに,東京や京都などをはじめとする日本全国の教育中心地には,学生が集中した。これらを収容するために,学生下宿の異常ともいえる急増を生んだ。短期的な借家方式とはいえ,これにつれて,在地的な仲介業も展開したはずである。
 さらに,労働者が増加した工場地帯などでは,「指定下宿」や個人下宿,あるいは貸間などの形態で,単身出稼型の労働者を吸収したのである。これらの新しい賃貸形式の拡大は,零細な仲介業者を多発させたといえるのである(文献38,119-20ページ)。
ii)東京の不動産会社
 1890年(明治23)ごろから,東京でも会社形式の不動産業がしだいにふえてきた、たとえば。1891年(明治24)10月に土地家屋収入保証合資会社(資本金3000円)が,本所区緑町に設立された。同社は,地代や家賃の代理収納と仲介を目的とした特異な業者である。これは,当時における貸地や貸家の増大傾向につれて,小規模な地主や家主たちが直接に賃貸料の取立てにたずさわることの繁雑さをさけるため,その収納を代行しようとしたものである。同社への需要は多かったらしく,1898年(明治31)以降にも活躍していたのである(文献25,明治31年,311ページ)。
 なお,このころから,商店むけなどの表店借や,会社や銀行などの営業用地,あるいはサラリーマンむけの1戸建ての貸家さらに上流階級むけの別荘用地などの需要が,しだいに増加しはじめた。これとともに,1884―85年(明治27―28)の日清戦争以後から,これらの土地や建物の売買や仲介にたずさわる大小の不動産会社が出現している。
 たとえば,前にのべた安田系の東京建物株式会社が発足した1896年(明治29)には,神田区旅籠町に地所仲介株式会社が開業している。同社は株主45名,資本金5万円という大企業で,地所や山林,船舶や家屋の周旋にあたった(文献25,明治30年,274ページ)。しかし経営がうまくいかなかったらしく,1898年(明治31)には姿を消している。しかし,これに代って多数の不動産会社が発生した。前にのべた土地家屋収入会社(1891年―明治24―の創業)が引きつづき活躍していたほか,1897年(明治30)には土地建物売買明治合資会社,翌1898年(明治31)には東京貸家貸金株式・石橋合名・共栄社合資・浅草丁酉株式・東京競売株式の5会社が,新しく開業している(文献25,明治31年,306-16ページ)。
 これらのうち,貸金を併用する東京貸家貸金会社は資本金20万円,浅草丁酉会社は資本金15万円(株主100名)という,当時では巨大な株式会社であった。また動産や不動産の競売を主業とした東京競売会社(資本金3万円,株主60名)が現われるなど,当時における不動産取引の拡大を推測することができる。また,これらの不動産会社の所在地は,日本橋・神田・浅草・本所・本郷の各区に固まっている。いずれも商店や会社,あるいは工場や住宅の密集地であり,当時の東京では,不動産取引のもっとも多い地域に集中したことを明示している。
 もっとも,不動産業界は経済の景気変動をとくに受けやすい分野であるため,好況と不況にともなう盛裏がいちじるしい。たとえば,1898年(明治31)に7社(資本金の累計は40万9000円)を数えた東京の不動産会社も,翌1899年(明治32)には4社(同15万3000円)に減り,1900年(明治33)には3社(同20万円)に落ちている。しかし,景気が回復を示した1901年(明治34)には8社(同167万3000円)に回復し,その後は6~7社を維持したあと,1905年(明治38)には10社(同161万5500円)に上昇したのである(文献25,明治31―大正元年から加工)。
 なお,これらの会社組織のほか,個人営業による中小の不動産業者も,ふえたはずである。たとえば,現在でも東京の神田須田町で活躍している光正不動産は,1900年(明治33)に創業したなどの例が多い。これらは,零細な貸地や貸家の所有者と,低所得な一般の住宅利用者の間に入って,仲介取引にあたったものであろう。
iii)大阪の不動産会社
 他方,大阪においても,日清・日露の両戦争(1894―95・1904―05年)をはさんで,繊維工業を主軸としながら,産業がいちじるしく発展した。市域の拡大とともに,急増した労働者などを中心に,住宅への需要が拡大したのである。
 これにつれて,不動産業の展開がみられた。すでに1893年(明治26)に,資本金5万円の貸家保険株式会社が大阪市の西区西表堀に発足した。同社は,単に家屋貸借の仲介や家主の家賃収納の代理を担当するだけではなく,借家人の無断退去(いわゆる夜逃げ)や家賃不払いなどによる,家主の収入減少を防止するため,家賃保険をも併用している。これは,いかにも大阪らしい実際的な試みであり,日本の不動産業史においても特異な経営といえる。その家賃保険は,家賃の1/10から1/30の保険料を集め,万一の場合には契約した保険金を支払ったものである。このざん新な方法は好評をうけ,加入者は3500名をこえたというから,当時の大阪地方の貸家主がいかに多数にのぼったかを察知できるであろう。同時に,借家人の夜逃げや家賃不払いが,どんなに多かったかを反証したものといえる。
 貸家業の盛行に乗じた同社は,1899年(明治32)に貸家保証株式会社と改称した。しかし保険業務自体は,保険料の支払いの方が多かったためであろうか,あまり純益を生まなかったらしい。翌1900年(明治33)には,この家賃保険事業を放棄し,貸家貸借の紹介と家賃収納の代行業務に限定してしまった。しかし失敗したとはいえ,日本では珍らしい家賃保険を試みたことと,さらに大阪ではおそらくもっとも古い不動産会社の一例として,注目に値いするであろう(文献14,第4巻,391-96ページ)。
 なお1897年(明治30)ごろからの大阪では,各区ごとに不動産売買の世話をする有力者が10人ほどもいたといわれる。そしてこれらの人びとのうち,大阪における不動産個人経営業者の元租と称されたのが,萬成舎(1918年―大正7―に萬成社と改称)である。萬成舎は,1896年(明治29)に大阪市の東区で開業し,信託業と称しながら,不動産の売買仲介を営なんだ。そして住宅需要の波にのって,大阪で最初に公然と不動産業者の看板を掲げただけではなく,他の有力な業者もほとんど出入りしたという。萬成舎には,当時の大阪における不動産の情報や資料が豊富に集められ,いわば一種の取引所にも似た機能をもつようになったといわれる。なお,その取引先は,繊維関係の商社や問屋が多く,また大阪の宅地地主とも関係が深かったという(文献14,第4巻,171-76ページ,28,85-91ページ)。
 このほか,会社形態の不動産業者もふえている。たとえば,1897年(明治30)には起業合資会社(資本金10万円)が,西区で「地所売買荒地復旧工事及建築又ハ賃貸」業を開始した。また,同年に同じ西区で発足した大阪運河株式会社(資本金67万5100円)も,運河を開いて交通料を徴収するほか,土地家屋の所有賃貸を併業している。これらは,1897年(明治30)からの大阪市の第1次市域拡張にともない,整地や道路などの土木事業が興隆し,それとともに宅地や家屋への需要が増大したことを反映している。さらに1903年(明治36)には,浪速銀行を中心とした関西財界の有力者が参加し,資本金が実に71万円という泉尾土地株式会社が発足している。また1905年(明治38)には,土地の開発や売買賃貸を目的とした桜堤開墾合名会社(資本金1万円)が西区に開業するなど,その後に大阪の不動産業が展開する,橋わたしを形成したのである(文献39,220ページ,40,明治37年,附録16ページ,40,明治38年,附録36ページ)。

Ⅳ 日本資本主義の展開と不動産業

1 産業・交通の展開と市街地の拡大
(1) 産業革命と市街地の拡大
 日清戦争(1894―95年)前後から軽工業部門の成熟を生んだ日本の資本主義は,さらに日露戦争(1904―05年)後における重工業部門の充実によって,欧米の先進諸国に遅れたとはいえ,産業革命の確立をみたのである。これにつれて,とくに日清戦争以降に人口の激増と都市への集中がみられた。さらに1910年(明治43)前後からは,ようやく近代的な都市の形成が進んだのである。たとえば,日本の「内地」(北海道と植民地を除く)人口合計に占める都市部人口の比率も,1890年(明治23)の10.3%から1903年(明治36)には14.5%にふえ,とくに1908年(明治41)には17.5%に急昇している。このうち,10万人以上の大都市の人口累計だけでも,1908年(明治41)には全人口の10%をこえるようになったのである(文献4,602-06ページ)。
i)東京における人口増加と市街
 このうち首都の東京市は,江戸時代の最盛期に100万人以上といわれた人口も,1872年(明治5)には52万人に減ったあと,1878年(明治11)に67万人,1887年(明治20)には106万人に回復した。さらに,中央集権的な行政制度と産業革命の進展につれて,1897年(明治30)には133万人を数え,1903年(明治36)には181万人に及び,1912年(明治45)には200万人をこえる大都市に発展した。とくにその基盤となった工業では,1897年(明治30)の工場数333,労働者数3万22人から,1907年(明治40)には768工場,5万5944人へ増大した。さらに第1次世界大戦直後の1919年(大正8)には,実に7233工場,18万8786人に急ぼうちょうしたのである。これとともに,居住用から,さらに営業用の住宅や土地の需要が高騰したのである。
 もっとも,1912年(明治45)ごろにおける東京の市街地の範囲は,現在の東京駅を中心として,ほぼ4キロメートルを半径とする地域内にすぎなかった。そのうち,とくに低湿地などの悪条件のたため,開発が遅れ,地価が安く,水陸交通の便利な隅田川ぞいなどの江東地区には,中小企業を中心とした工場の建設が進んだ。そして,これらの地域が,明治期における産業革命の基地となったのである。同時に,これらの工場に接近して労働者の住宅街が形成され,裏長屋式のきわめて劣悪な居住条件が支配していった。
 他方,東京の西部では,国鉄の環状山手線の内側1~1.5キロメートル以内が,市街地の限界であった。わずかに新宿と渋谷で山手線に接しているにすぎず,当時の山手線が貨物輸送に重点のあったことを示している。また工場の展開も東部よりはるかに劣っており,恵比寿以南の高台などにいくらか散在していた程度であった(文献41,38-39ページ,32,228ページ,42,221ページ)。
 やがて明治末期になると,東京市内の人口は飽和状態を示した。それまでの都市を含む下町の高密度地域から,山の手の住宅地区や周辺の工業地帯に密集するようになり,さらに東京府の荏原郡や北豊島郡などの隣接町村へ溢れだすようになった。そして,これらの人口と住宅の集中と拡大に大きな役割を果たしたのが,後にのべる東京市電であった(文献43,7-9・16-17ページ,44,9-25ページ)。
ii)大阪の工業化と住宅需要
 大阪地方の工業化は,明治維新後の堺紡績所や大阪の造幣局・砲兵工廠などの官営工場の開設を契機に進展した。そして,繊維工業を主軸にしながら,日清・日露の両戦争をはさみ,急激な展開を示した。たとえば,これら大阪市の工場職工数は,1883年(明治16)の4512人(工場数432)から,1895年(明治28)には10倍以上の4万8556人,さらに1914年(大正3)には実に17万5045人(工場数3万2041)に急増している。これらの工場は,はじめは天満・南・北の「大阪三郷」を中心とした東・西・南・北の旧市内4区約1539ヘクタール(うち宅地842今クタール)に集中していた。やがて,しだいに東成・西成2郡などの周辺部から,さらに河内や泉州などの府下へ拡がっていった(文献32,223ページ)。
 これにともない,大阪市では1897年(明治30)4月に第1回の市域拡張をおこない,東成・西成2郡の一部4075ヘクタールを編入した。さらに1925年(大正14)2月には,第2回の市域拡張を試み,2郡の残地約1万2700ヘクタールを合併したのである。そして,大阪市の総人口は,江戸時代の最盛期の50万人から,1878年(明治11)には29万人に急減したあと,1987年(明治20)には42万6846人に回復した。さらに1897年(明治30)には,市域拡張によって76万人にふえ,1904年(明治37)には100万人,1916年(大正5)には151万人に達している(文献14,第1巻,57-69・98-99ページ)。
 こういった大阪における産業や人口,そして都市の拡大とともに,労働者などを中心とした住宅需要も急増を示した。しかし,これらの居住条件は,農商務省の『職工事情』(1903年―明治36―)や横山源之助の『日本之下層社会』(1899年―明治32―)における記述のように,きわめて劣悪な状態にあった。たとえば,「カゴの鳥」といわれた紡績女工の場合は,寄宿舎や指定下宿が一般的であった。そして,1910年(明治43)における日本全国の繊維工業従業員(大部分は女性)の6割以上が,寄宿工であったという。このほか,紡績や機械の工場などでは,近くに長屋を新設し,社宅として貸与する例もあった。なお,これらの「給与住宅」は,産業の拡張にともなって,他会社から労働者が「ひきぬき」されるのを防ぐ意味が強く,当初は大工場などのごく一部にかぎられていた。このため,大部分の労働者は,「路地の棟割り長屋」といわれた劣悪狭小な「裏店借」に頼らざるをえなかった。かくて,増大する労働人口を対象にして,地価の安い市内の低地部などに,工場と隣接しながら,これらの不良住宅が建設され,「工住混在」の劣悪な居住条件を形成していった(文献32,223ページ,1,179ページ以下,12,293-95ページ)。
 なお,一部の富裕者のなかには,これらの悪環境から逃がれるため,明治末期になると,まず大阪の上町台地の東側へ,ついで帝塚山一帯の阿部野台地へ逃避しはじめた。やがてこの動きは,明治末期から大正期以降にかけて,「郊外住宅」を展開させる先駆となったのである(文献32,223-24ページ)。
(2) 都市交通の発展と住宅地
 産業の展開にともなう労働人口の増加は,工場周辺などにおける既成の住宅による供給増をたちまち上まわってしまう。低地価や低家賃を求めて,周辺地区に住宅地が拡散せざるをえない。したがって,これらの新興住宅地から工場などの就業地への交通手段が,新しい住宅地の開発前提となるのである。とくに,まず大都市における市街電車の発展が,住宅の需要と供給や,不動産取引の拡大に決定的ともいえる刺戟を与えている。
 ところで,日本における市街電車の発展は,産業革命が進行した日清戦争以後にみられたものである。1895年(明治28)1月に開業した京都の電気鉄道会社を最初に,1898年(明治31)5月に名古屋市,ついで1903年(昭和36)8月になって東京の市街電車がそれぞれ運転をはじめ,同年9月には大阪市でも開業している。
 そして,これらの市街電車に加え,さらに日露戦争前後からの東京・横浜地方,とくに大阪・神戸地方における郊外私鉄が発展し,さらに東京近郊では「省線電車」(鉄道省営の電車,第2次世界大戦後は国鉄)が展開した。これらと呼応しながら,とくに大都市の周辺や近郊地域に住宅地開発が進むのである。
i)東京の都市交通と住宅地
 東京では,1870年(明治3)に創立した京浜間乗合馬車につづき,1882年(明治15)6月に開業した東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社に発展し,1903年(明治36)8月から新橋・品川間に市街電車がはじめて開通した。ついで,同年9月に東京市街鉄道会社(「街鉄」と略称)が数寄屋橋・神田間を操業し,さらに翌1904年(明治37)12月には東京電気鉄道会社が御茶の水と土橋の間を運転しはじめた。これら3社の競争によって,東京の路面電車はしだいに延長され,はじめて乗客の大量輸送が可能になった。
 やがて,1906年(明治39)9月には,3社が合併して東京鉄道会社に拡大し,ついで1911年(明治44)8月には東京市が同社を買収した。そして,1970年(昭和45)ごろまでつづいた「市電」(都電)として,乗客輸送の主要な手段となり,これを利用できた東京の旧15区内では人口が急速に増加していった。たとえば,年間の乗客数も,1907年度(明治40)の1億5822万人(1日平均で43万2313人)から,年々増加し,1912年度(大正元)には2億2549万人(同じく61万7795人)を数えた。また,1919年(大正8)の市内交通の利用者のうち,その79%はこの市電に依ったほどであるなど「東京市民の足」として不可欠な交通機関となった(文献45,136-37ページ,4,425-26ページ,44,58・83-84ページ)。
 なお,1910年(明治43)ごろにおいて,この市電の乗客数がもっとも多い路線は,新宿と青山を起点とした両国・築地・九段間,塩町・赤羽橋間,品川・新橋間,三田・桜田・本郷間などであったという(文献4,427ページ)。以上の動きから,明治末期ごろには,市電終点の新宿や青山の付近,さらにそこから中央線や私鉄などを通じて郊外地にまで,住宅地が拡大していったことを推測することができる。
 もっとも,当時は都市部における職場と住宅のある居住地との分離が,現在ほど進んではいなかった。したがって,都心部における昼間人口の集中度は,比較的まだ小さかった。やがて,人口の膨脹と市域の拡大にともなって,乗客の輸送需要が強まってきた。新しい交通手段が必要となり,郊外私鉄や国電がようやく発達しはじめたのである。このうち,東京周辺の郊外私鉄は,都心と住宅地を結ぶ都市交通機関という性格よりは,当初は東京周辺の中小都市と連絡するという特徴が強かった。明治末期ごろまでには,東武鉄道(1899年―明治32―,北千住・久喜間)や京浜電鉄(1905年―明治38―,品川・神奈川間),玉川電鉄(1907年―明治40―,渋谷・玉川間)や王子電軌(1911年―明治44―,大塚・飛鳥山間),京成電軌(1912年―大正元―,押上・江戸川間)や京王電軌(1913年―大正2―,笹塚・調布間)などが,ようやく山手線の外にある新しい市域や郊外地を結びはじめたにすぎなかった。
 これは,当時における東京の交通政策が,山手線の内側はすべて公共機関に委ねていた結果である。このため,東京の国鉄電車は,都心から周辺の住宅地までを結びつける交通手段として,もっとも重要な役割を占めた。これが,大阪をはじめとする他の都市と東京との,交通機関におけるいちじるしい相違をもたらした要因である。
 すなわち,国鉄の中央線では,1904年(明治37)8月に飯田橋・中野間が電化し,「郊外国鉄」の役割を担った。なお同線は,1912年(明治45)からは万世橋,1919年(大正8)からは東京が,それぞれ始発駅に変っている。また山手線も,1909年(明治42)12月に上野・新宿・品川・新橋間が電化したほか,路線も1914年(大正3)には東京までのび,さらに1925年(大正14)には全通して環状化が完成した。このほか,1914年(大正3)には東京・横浜間に電車を運転するなど,国鉄幹線の近郊区間が都市交通の上にも大きな比重をもつようになったのである。なお,東京市区内外における国電の乗客数は,1908年(明治41)の年間1638万人(1日の平均4万4889人)から,1910年(明治43)には2255万人(同6万1769人),1914年(大正3)には2997万人(同8万2101人)にふえたが,同じ年の市営電車にくらべると1/10から1/8の比率にとどまっている(文献45,137-38ページ,44,54-140ページ,42,219ページ)。
 以上のように,東京における市街電車の発達は,通勤時間を節滅させたことによって,当時の居住限界地であった低地価や低家賃の旧市内周辺地において,住宅地の開発を増進させた。これとともに,中央線や山手線を主力とした「近郊省線電車」(国電)は,当時の東京市郊外(これらは1932年―昭和7―に東京新市域に合併)における住宅地の開発に,大きな影響力を及ぼしたのである。なお,大阪をはじめとする関西地方にくらべ,発達がおくれていた東京地方の郊外私鉄も,明治末期ごろからしだいに整備されはじめ,東南部地域を中心とした郊外の住宅地を拡大していったのである。
 なお,1909年(明治42)9月2・3日の『二六新聞』では,郊外地の展開につれて,東京の大井町海岸は上等住宅地,淀橋方面は中等以下の住宅地,千住や王子方面は工場や低家賃むけの貸家住宅地に変ったことを報じている(文献4,425ページ)。このほか,市街電車の終点地付近に位置した品川・渋谷・大久保・淀橋・巣鴨・南千住・寺島・亀戸の地域では,人口の増加率がもっとも高かった。たとえば,1898年(明治31)の人口指数を100とすれば,これらの地域では,10年後の1908年(明治41)に201,1913年(大正2)には344,1918年(大正8)には実には517へと,わずか20年間に5倍以上の急増ぶりを明示したのである(文献44,9-25ページ,38,139-40ページ)。
 さらに,資本主義の展開にともなって,主として農村から析出された無産労働者や,近代化の波に洗われた職人や人夫,人力車夫や荷車ひきなどの日雇労働者などが主流を占めた低賃金者たちは,以上の地域にも居住することがむずかしかった。そこで,深川や本所をはじめ,浅草や小石川などにスラム街が形成されたのである。これらの住民は,その他の「木賃宿」の宿泊者などとともに,横山源之助の『日本之下層社会』のなかにのべられた「細民」の代表例であり,貧窮な居住条件に苦しまざるをえなかった(文献42,215ページ)。
 そして,このような住宅における地域差と階層差は,やがて,これらをめぐる不動産業にも形態差を拡大させていったのである。
ii)大阪の都市交通と住宅地
 他方,大阪では逆に国電が未発達であったのに対して,路面電車とくに郊外私鉄の展開がいちじるしかった。これは,東京が政治都市的な性格が強いのにくらべ,大阪は「商人の町」といった,地元の資本蓄積を優先した経済都市的な特徴の反映ともいえる。
 このうち市街電車は,はじめから市営形式で営業された。しかし,当時は4間3尺(約8.2メートル)以上の待道はほとんどなかったように,もともと大阪の道路は幅が狭小であった。そのうえ,東京と違って武家地などの上地による官収地も少ない。したがって,「市区改正」事業も実施しにくかった大阪では,市電用地の確保にも難航した。このため,第1期線は土地の買収に面倒の少なかった花園橋・築港間が,1906年(明治39)9月にはじめて開業した。しかし,利用客も閑散として,「魚釣電車」とよばれたほどである。やがて,1906―09(明治39―42)に第2期線が建設され,九条二番通・末吉橋間の東西線と梅田・難波・恵美須間の南北線が開通した。さらに,1909―16年(明治42―大正5)に第3期線も開通するなどの結果,大阪市内の交通事情もようやく整備された(文献14,第1巻,268-74ページ,同第2巻,255ページ,同第3巻,822-26ページ)。
 たとえば,大阪市電の年間乗客数も,1907年度(明治40)の266万9千人(1日平均で7312人)から,1912年度(大正元)には9749万人(同じく26万6369人)に急昇し,1921年度(大正10)には2億6709万人(同73万1499人)に達している。そして大阪市の総人口につき,1人1年あたりの平均乗車回数も,同じ期間に,2.3回から73.1回へ,さらに1921年度(大正10)には実に206.1回を数えたのである(文献14,第3巻,861ページ,38,145ページ)。
 なお大阪市では,市営電車の事業利益を財源として,道路拡張による市街地の整備をはかるという,独特かつ実際的な都市計画事業を実施した。このため,市電線路の施行にともなって,それまでは狭小であった大阪市の道路も面目を一新してきた。たとえば,第1期線の施工とともに,1903年(明治36)には西区九条の花園橋から八幡町の築港埋立地の間に長さ2800余間(約5.6キロメートル),幅が6~16間(約11~29メートル)の道路が竣工した。これ以後,市街電車の敷設につれて,大阪市では市区改正の事業が同時に併行されるという,他の都市にはみられない優れた都市整備の効果をあげたのである(文献14,第3巻,926-28ページ,46,169-74ページ)。
 以上の市街電車と道路拡幅の進展にともなって,大阪の市街地もしだいに整備されはじめ,地域的に分化が進んできた。すなわち,官庁などが江之子島・堂島・中之島の地域に固まり,また銀行や会社は土佐堀・中之島・堂島・堺筋・北船場に集中しはじめた。そして,船場や島之内には富裕な旧家が多くまとまり,また上本町の一帯も住宅地に変っていった。やがて,郊外私鉄の整備が進み,郊外住宅が発展する以前の時期には,上本町9丁目や堂ヶ芝,鳥ヶ辻町の一円や,阿部野付近が別荘地として栄えていったのである(文献14,第1巻,832-33ページ)。
 他方,一般の勤労者たちの多くは,これまでとおりの裏店借に頼らざるをえなかった。とりわけ,下層が固まったいわゆる貧民窟は,従来は大阪の日本橋長町の付近が有名であったが,道路の整備や都市計画の進行などにつれて,しだいに整理されてしまった。しかしこれに代って,新しく釜ヶ崎の付近に集中がみられた。
 以上のような,住宅地の階層差や地域的な分化にともない,大阪でも不動産の取引にも地域差を生じてきたのである。
 なお,以上の市街電車や区画整理の発展,これに呼応した商工業の隆盛や人口の増加につれて,土地価格の自動的な騰貴がもたらされた。これらの結果,所有地の価格上昇がいちじるしくなり,とくに大地主層は「暴富」をえたのである。たとえば,当時の大阪の富豪の99%は,土地の値上りでもうけた人たちだといわれたほどである。さらに郊外電車の伸長や市域の拡張にともない,住宅地を供給できた近郊の農村地主のなかには,中農でも「財産家」の列に加えられたものが多かったのである(文献47,37-38ページ,14,第2巻,348ページ)。かくて,これらを契機に,大阪でも土地投機の傾向が拡大していくのである。

 2 貸家経営とアパート業の展開
 明治末期における産業と交通の展開にともなう日本本主義の確立は,都市における市域の拡大や人口のぼう脹を生み,住居用や営業用の土地や建物に対する需要を激増させた。これと同時に,その増加速度に応じきれない建物,とくに土地の供給趨勢の後遅性にもとづき,家賃と地代や建築費と地価のいちじるしい高騰を結果した。
 この動きは,一面では上昇する経営利潤を求めて,賃貸家屋の増設を盛行させ,旧来からの裏長屋方式とともに,さらにサラリーマンむけの1戸建貸家を増加させた。そのうえ,ブームにのって,貸家を経営していた資産家むけに「建売屋」という新しい不動産の供給業もあらわれたのである。他方,地価の上昇対策や土地利用の効率化をねらって,建物の高層化が進行した。すでに三菱経営の貸事務所業などや,大正期から普及した貸ビル業と同じ方法を応用し,明治末期からは「集合高層賃貸家屋」ともいうべきアパート業の発生をみるのである。
(1) 貸家経営の展開と貸家むけ建売
 日露戦争前後からの産業革命にともなう都市人口の増加によって,大都市における住宅需要は急増した。とくに,一般の勤労者にくらべ,より多くの所得を入手できたサラリーマンや上層労働者などを対象に,1戸建の貸家供給も拡大していった。
 たとえば,1905年(明治38)には,東京の富裕者の間で貸家を建てることが流行し,商人や高利貸,高級サラリーマンや近郊の農村地主などによる小規模な貸家経営がふえはじめたという。もっとも,戦後不況がおそった1908年(明治42)には,逆に借手の急減によって,東京の旧15区内だけでも実に2万3460戸の空屋がみられた(文献43,18ページ)。貸家への需要は,とくに経済の好・不況に影響されやすい。不況による所得の減少や失業などのため,借家人の一部が一級下位の賃貸家屋などに移ったり,あるいは郷里に帰省したなどの結果,一時的な貸家の供給過剰を生んだのである。
 なお,好況期の貸家ブームに呼応して,これまでの持家むけ建売住宅販売とともに,すでに明治末期には,貸家経営むけの建売住宅が現われている。たとえば,大阪では「家建屋」といわれた業者が出現した。地所を求めてマッチ箱のような貸家を建て,これを担保にして次の建設資金を借りて増設したり,利益があると貸家経営者に売却した。これらの家建屋は,一時は大阪の各地で2000余名を数えたという。しかし零細な資本をもとに,高利に依存した投機的な性格が強いため,失敗する者も多かった。しかし地価の高騰などによって,わずか2~3年で10余万円という巨利をえた業者も5~6人あったという(文献47,35-36ページ)。
 やがて大正期,とくに第1次世界大戦後になると,都市への人口集中と郊外への発展にともない,とうぜん住宅需要は急増し,貸家経営が盛行を示した。これに呼応して,大都市とくに私鉄の発達がいちじるしかった大阪近郊では,「建売大工」による「貸長屋の建売」さえ拡大したのである(文献32,147ページ)。1戸建の貸家だけではなく,在来からの「裏長屋」方式への需要も強かったことを示している。
 貸家むけの建売販売が進むにつれて,とうぜん貸家経営も拡大し,さらに家屋の賃貸仲介業者も企業として展開しはじめたのである。たとえば,大阪市社会部の「家屋案内業者調査」(1921年―大正10―)によると,1918年(大正7)に大阪府で37人(すべて大阪市内)にすぎなかった仲介業者も,5年後の1923年(大正13)には実に453人(うち大阪市内318人,府下135)に達し,とくに大阪近郊における増大がいちじるしかった(文献48,255ページ)。
(2) アパート業の発生
 以上のような貸家経営の発展にともない,さらに地価の上昇に対応しながら,賃貸家屋の供給業者のなかから,家賃収入の拡大をはかるため,土地利用の高度化が試みられた。これまでの平屋建の長屋形式から,「高層集合貸家」ともいうべきアパートへの移行が必然的な動きとなってきた(文献49,557-58ページ)。
 すでに,1908年(明治42)に東京の下谷に2階建の洋式長屋が建ち,翌1909年(明治43)には東京上野の不忍池畔に日本では最初のアパートメント・ハウスといわれた木造5階建の「上野倶楽部」(1943年―昭和18―6月に、自火で焼失)が開業している。さらに同年に,帝国劇場の女優であった佐藤某が東京の麹町三年町に3階建の「佐藤別館」を設立した。つづいて,三笠ハウスや芸術クラブなどが,映画館や劇場などを改造してアパートに変えるなど,やがて大正期におけるアパート業の盛行への先駆例になったのである(文献50,48ページ,16,1366-67ページ,12,320ページ,28,132-33ページ)。
 なお,これらのアパートには,当時では会社重役や大学教授,高級技術者などの上層階級に属する高級サラリーマンが主として入居したといわれる。資本主義の展開にともない,高所得を入手できた階層が拡大してきたことを明示するものである。それとともに,大会社の本社や学校が集中した東京において,大阪などの他の都市よりは,これらの階層が多く生活し,またアパート業の発祥をうながしたといえる。そして,一般の労働者や勤労者の大部分は,主として裏長屋やスラム街に居住せざるをえなかったのであり,住居形態においても格差が拡大していったのである。

 3 住宅問題の発生と田園都市論
(1) 民法典の制定と不動産取引
 日本における産業革命の進展にともなう,都市への人口流入は,居住または営業用の家屋需要を増大させた。それはまた,とうぜん建築用地としての宅地の大量供給を必要とした。しかし,一般に人口の増加率よりは,家屋の建設と供給の速度はおとり,さらにもともと自然物である土地の開発は地域も限定され,しかも個別性が強い。したがって宅地の開発には,他の商品の生産とは異なり,きわめて強い制限要因が多かった。
 したがって,産業や人口,あるいは都市のぼう脹とともに,家賃や地代,さらに建築費や地価はいよいよ高騰せざるをえない。このため,人びとは低家賃や低地代,そして低地価を求め,あらそって交通や立地条件,あるいは生活条件のより劣った限界地に進出するようになるのである。他方,これらの人口や住宅の拡散につれて,道路や電車,鉄道などの交通手段への資本投下が拡大し,一面では地代の圧縮をもたらすのである。これと同時に,土地利用の効率化をねらって,家屋の高層化が進み,都市開発事業や資本家的なビルあるいはアパート経営が展開していくのである。
 この場合,家屋建築の基盤となる土地については,すでに明治以来の地券制度や地租改正などを通じて,その所有権が法認された。そして,1884年(明治17)の「地租条例」の施行を契機にして,地租の固定と上昇する地代や地価の差額を収得できる,土地所有者の優位が確定した。さらに,1899年(明治22)には地券の廃止と土地台帳の整備が行なわれ,1886年(明治19)の「登記法」にもとづき,土地の所有権は登記によって規定されることになった。
 とくに,1898年(明治31)に施行された「新民法」によって,土地制度は最終的に確立したのである。もっとも,借地権の独自性を認めた1890年(明治23)のボアソナードの起草をもとにした「旧民法」にくらべると,「新民法」では所有権の優位性は明白であった。もともと,立法者の主観的な意図としては,借地権が所有権に対抗力をもっていたのは江戸時代からの慣行であり,とくに借地権登記によって,その権利を主張できると考えていたのである。なお1899年(明治32)6月には,新しく「不動産登記法」も施行された。しかし,実際に「新民法」が実施されると,借地権を登記するものは少なく,とくに土地所有者がそれを好まなかった。これらの結果,宅地の使用権をめぐって,多くの弊害がおこった。これに対応するため,1900年(明治33)には「地上権に関する法律」を定め,使用権の強化がはかられた。もっとも,この改正は民法の原則を根本的に変更するものではなく,民法典の起草者の見とおしのあやまりを,手なおししたものにすぎないとされている。
 いずれにせよ,実際の運用においては,土地所有権の優勢さが,問題の根源にあったのである。そして,この動きは,明治末期のいわゆる「地震売買」をめぐり,「建物保護法」の制定にまでおよぶのである(文献51,60-76ページ)。
(2) 「地震売買」と建物保護法
i)「地震売買」の流行
 日清戦争(1894―95年)後の経済発展にともない,市街地における地価上昇はいちじるしく,地代の値上げなど多くの紛争がおきてきた。これらをめぐる裁判において,大審院の判決は,無期限の宅地貸借については地代増額の請求権を認めただけで,有期限のものには適用されなかった。このため,日露戦争(1904―05年)後の景気上昇期には,多くの問題が生まれ,地主による「地震売買」の現象が続出した。すなわち,市街地における地価の騰貴や一般の物価上昇にくらべ,地代の値上りは比率が緩漫であった。そこで,借地人が地代の値上げに応じないときには,かりに借地を他に売却し,新しい地主がもとの借地の明渡しを請求し,借地人を土地から振いおとそうという新戦術が激増したのである(文献32,37ページ)。
 もともと,借地権が地主に対抗力をもちえたのは,江戸時代からの慣行であり,1890年(明治23)に公布された「旧民法」でも,借地権は物権的な色彩が強かった。しかし,1898年(明治31)に施行された「新民法」では,登記をしない賃借権は物権的要素を失なってしまった。1900年(明治33)の「地上権に関する法律」で一部が補正されたとはいえ,土地所有権の優位性はゆるがなかった(文献49,1557-58ページ)。
 この動きに対して,居住用に借地するものや,とくに営業用に借地しているもの,さらに賃貸用の建物を建築するものが中心になって,反対運動を開始したのである。たとえば,東京日本橋区の商業団体では,法律新聞社社長の高木益太郎を国会に送り,主として地震売買問題の立法的な解決をはかることになった。そこで,高木は1908年(明治41)に衆議院に立候補し,「商工業の発展政策の実行を期する都市代表者,江戸ッ子出身の新候補者,官権及び富豪の援助を潔しとせざる独立的法制家」(『法律新聞』1908年―明治41―4月20日号外)と名のった。かくて,多数の借地権者らの支援をうけ,高木は最高点で当選し,「建物保護法」制定の立役者となったのである(文献51,67-74ページ)。
ii)建物保護法の成立
 これらの運動の結果,1909年(明治42)5月に「建物保護法」が施行された。そして,借地上の建物登記をすると,借地権を登記したのと同じ効力が生まれることになった。このため,いわゆる「悪徳地主」による地震売買は禁止され,借地人の建物だけは保護されるようになった。
 したがって,この法律は民法の原則を根本的に変更するものではなく,借地権上の建物の保護という,江戸時代からの慣行を法認したにとどまり,補充的な措置にすぎないといわれたわけである。しかし,これまでの土地所有権のいわば絶対的な優位性にくらべ,所有家屋の借地利用権に対抗力を与えたことになる。この動きは,やがて大正期における「借地法」立法の出発点となったというべきであろう。とくに,借地上の営業用建物や貸家主を保護するという法律的な効果は,借地上に投下した建築資本物を固定資産として,その優位を認めたことによって,同法に財産保護的な性格を与えたわけである。いわば,投下資本に対する保護維持の観点から,利用権や用益権を強化するという,近代法的な動きを明示したものである。これは基本的には,日露戦争(1904―05年)後における資本主義の展開にともない,資本投下物である建物を保護し,「土地所有に対する資本の相対的優位」を認めたことになり,資本保護立法の先駆的な役割を担ったものというべきであろう(文献51,68-760ページ,52,167ページ以下)。
 このほか,同法は不動産金融,とくに市街地における建物金融の環境整備となった点でも重要である。不動産金融は,すでに1897年(明治30)に開業された日本勧業銀行や翌1898年(明治31)以後に発足した各府県の農工銀行,あるいは1900年(明治33)に出発した北海道拓殖銀行などの特殊銀行をつうじて,不動産の担当にもとづく長期の産業資金の供給が行なわれていた。さらに,この「建物保護法」による建物担保力の増大や,産業資本の確立にともなって,1911年(明治44)からは新しく市街地の担保金融や工場財団の抵当貸付が認められることになった。これは,住宅担保の金融や住宅の購入などのための金融が展開する契機となったものであり(文献1,228-29ページ),その後の不動産業の展開におおきな刺戟を与えることになったのである。
(3) 住宅問題と田園都市論
 日本における住宅問題は,以上のように,すでに明治末期に発生している。しかし,これが社会問題として本格的な課題となるのは,民法典の原則を変更したとされる1921年(大正10)の「借地法」や,さらには「借家法」制定運動などを待たねばならなかった。
 ところで,日露戦争(1904―05年)後ごろからの,重工業を中心とした日本資本主義の展開にともなって,労働者の都市への流入が増大した。同時に,経済の好況を契機に,中・上層の勤労者には賃金収入などの上昇がみられ,住宅需要も間貸から借家へ,借家から持家へという希望が拡大してきた。その反面,建築費やとくに地価の高騰,あるいは貸家業より有利な他の事業への投資機会の増大などによって,貸家供給の停滞さえみられはじめた。ようやく,住宅数の供給不足という,「絶対的住宅難」の現象がおきてきたのである。
 他方,経済の発展にもとづき,超過利潤などの一部を取得できた中流以上のサラリーマン階層のなかには,過密化しはじめた旧市街地をのがれ,郊外に住宅を求める動きが強まった。かくて,明治末期から大正期にかけて,郊外私鉄の展開とともに,阪神や京浜地方などを中心に「田園都市」の形成と,郊外における分譲住宅の隆盛を生むのである(文献32,231-33ページ)。
 これらの動きの,促進剤となったのが「田園都市論」である。すでに1898年(明治31)に,イギリスの田園都市協会の理事であったエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard,1850―1928年)が「田園都市論」を発表した。そして1902年(明治35)には,ロンドンの北西50キロメートルに位置するレッチワースに第一田園都市株式会社を組織し,3818エーカー(約1550ヘクタール)の新都市建設に着手した。これが最初の田園都市事業であり,ハワードらはその後も運動を推進したが,新しい都市開発のモデルとして世界的な注目をあびるにいたったのである。
 そして,この田園都市論を日本ではじめて組織的に紹介したのが,「内務省地方局有志」の編による『田園都市』(菊判,本文380ページ)であり,はやくも1907年(明治40)12月に発刊されている。同書は,ハワードらの推進したイギリスの田園都市運動を中心に,各国の住宅政策や生活改善運動を豊富にとりいれ,日本の農村改善事業などにも言及している。内容は多岐にわたり,政策や開発技術に直接は結びついていないとはいえ,「田園都市論」の最初の紹介書として,評価されたものである(文献46,180-83ページ,53,380ページ,42,98-99ページ)。
 ところで,日本における最初の田園都市論を,「民治」の元締めである内務省地方局の若手官僚たちが,他に先がけて発表したことは,注目にあたいするであろう。1つには,欧米先進諸国の文物をつねに輸入消化しようとした,日本の官僚の「先取的性格」を明示したといえる。それとともに,2つには,当時ようやく住宅問題が発生しはじめていた日本において,行政官の立場から「過密問題」の解決策の1つを,外国の先例に求めたものといえる。
 いずれにせよ,こういった田園都市論が,当時の政界やジャーナリズムの一部,そして不動産業界などにも,一種の流行とさえなった。やがて,郊外私鉄の展開につれて,郊外住宅の分譲が実現していくのである。

 4 郊外私鉄の展開と分譲住宅
(1) 関西における私鉄と沿線開発
i)関西私鉄の成立
 「専用敷をもつ旅客本位の高速電気鉄道」といわれた郊外私鉄を,日本で最初に開通させたのは1905年(明治38)4月の阪神電気鉄道株式会社である。大阪の出入橋から神戸の三の宮までの海岸ぞい19マイル(31.2キロメートル)を,広軌で1時間20分かけて走った。はやくも翌1906年(明治39)中には,大阪市内からの乗客者の総数は152万人を数え,大変な好評をよんだ。そして,明治40年代(1907―12年)に入ると,大阪を中心とした近郊電車は,いちじるしい発達を示した。たとえば,1910年(明治43)には箕面有馬電気軌道株式会社(1918年―大正7―に阪神急行電鉄と改名,現在の京阪神急行)と京阪電気鉄道株式会社(大阪の天満橋と京都の朱雀野の間)が開通したのをはじめ,翌1911年(明治44)11月には大阪と和歌山をむすぶ南海鉄道株式会社の南海線が電化を完了した。さらに1914年(大正3)には,大阪電気軌道株式会社(いまの近畿日本鉄道)が大阪と奈良の間を営業するなど,郊外私鉄はいちはやく関西地方で発達を示したのである(文献4,428-29ページ,32,222-23ページ)。
 しかし,これらの私鉄は,関西の中心都市である大阪と神戸・京都・奈良・和歌山などの都市やその中間市町村を結び,はじめは用務や観光などのレジャーを中心とした性格が強い連絡鉄道であった。したがって,大都市から郊外への人口分散や,近郊町村における都市化を前提として,開通されたものではなかった。
 このように,鉄道の建設が沿線の都市化に先行して実施された場合,輸送需要の確保だけではなく,運輸からの収入で私鉄経営の採算を維持するため,沿線の宅地造成や住宅分譲が多角経営の基幹として重要視された。ここに,やがて不動産業の一翼を形成するようになった,郊外私鉄の沿線開発が実施されたわけである(文献32,224-25ページ)。
ii)関西私鉄の沿線開発
 ところで,明治末期から大正初期(1907-15年ごろ)にかけて,郊外に住宅を求めることができたのは,少数の資産家階級や中産階級の上層部に限られていた。しかも,その住宅需要は好適な環境が優先した。したがって,この時期に宅地開発に着手できた私鉄は,これらの適地を沿線にもっていた阪神電気鉄道会社と箕面有馬電気鉄道会社のみであった。ほかの京阪電気鉄道会社や南海鉄道会社は,はじめはそれに成功することができなかった。
 そして,日本で最初に郊外住宅の開発にのりだしたのは,阪神電気鉄道会社である。同社は創業当初から住宅分譲につとめ,すでに1908年(明治41)1月には『市外居住のすすめ』という宣伝書を発行して,都会人によびかけた。このほか,土地や家屋の無料紹介や引越し家財の無料運搬通勤定期の大割引などのサービスを行なった結果,沿線への移住者はしだいに増加してきた。しかし,当時の阪神電鉄の沿線にはまだ家屋が少なく,家賃も高かった。そこで同社では,「安くて住みよい家」のモデルという意味をも含め,1909年(明治42)9月に西宮の駅前に,最初の貸家として棟つづきの30戸を完成した。ついで翌1910年(明治43)9月には,現在の甲子園の東南にある鳴尾西畑の枝川ぞいに,約70戸の「文化住宅」を分譲したほか,同年には御影の山手にも約20戸の高級住宅を建設した。
 さらに阪神電鉄では,土地と住宅の経営に力をそそぐことになった。1911年(明治44)の春から同社が着工した北大阪線の沿線の発展を予想して,鷺洲地域の土地3万6000余坪(約12ヘクタール余)を46万余円で買収したのをはじめ,しだいに同沿線の所有を拡大し,大正期に入ると淀川の左岸にまで達した。そして,明治期の経営住宅は139戸を数え,以後の本格的な展開を準備したのである(文献32,225・233ページ,54,13・21ページ)。
 また,より熱心に大規模な住宅経営に取りくみ,他の私鉄にも大きな影響を与えたのが,小林一三が中心となった箕面有馬電気軌道会社(現在の京阪神急行電鉄――いわゆる阪急)である。同社は,1907年(明治40)に大阪と有馬・宝塚・箕面の保養地や景勝地とをむすぶレジャー鉄道として発足した。そして同社は,沿線の予定地において,きわめて安い価格で土地を買収した。1910年(明治43)3月に梅田・宝塚の間と箕面線が開通すると同時に,池田宝町と箕面桜井で宅地や家屋の分譲を開始したのである。
 そして池田住宅地では,総面積3万3020坪(11ヘクタール余,2万7000坪――9ヘクタール余――という説もある)を100坪(約333平方メートル)1区画に分け,2階建5~6室で20~30坪(約66~99平方メートル)の住宅200戸(和洋折衷のいわゆる文化住宅)を,中産階級の上層むけに建設した。分譲価格の標準は2500円で,最初に50円を払いこみ,残金は毎月24円払いの10年賦という好便さであり,たちまちのうちに売りつくしてしまった。さらに,1914年(大正3)には,豊中住宅地5万坪(約17ヘクタール)を,個人住宅地だけではなく,会社や銀行の寄宿舎用地にも分譲した。これらの結果,明治期における阪急の経営地は27.56ヘクタール(約8万2680坪)にふえ,その後も目ざましい発展をつづけたのである。なお大正期(1912―26年)における,同社の分譲面積は117ヘクタール余(約35万1000坪)にも達している(文献32,225-26・233ページ,文献57を参照)。
 このように,阪神地方において一般の土地住宅関係の会社がまだ十分に展開を示さない時期に,阪神電気鉄道会社や箕面有馬電気軌道会社に代表される私鉄が,すでに有力な不動産業者として活躍しはじめたのである。そして,これらの私鉄を中心に,大阪の西部や北西部から,しだいに郊外住宅の開発が進んでいった。
(2) 東京における郊外開発
 他方,東京では,明治末期ごろの都市区域が東京駅中心の半径4キロメートル以内が主体であり,都市交通も市街電車と国鉄の山手・中央・常磐・総武の各線などが主力であった。さらに,当時における郊外私鉄の未発達と相まって,東京における郊外の住宅分譲は大正期(1912年―)以降を待たねばならなかった。
 これらの動きのなかで,とくに注目されるのは,1906年(明治39)に発足した東京信託株式会社による住宅分譲である。なお同社は,日本で最初の信託経営といわれ,三井銀行の地所係長であった岩崎一が,資産家の要望にこたえ,1903年(明治36)9月に個人経営で出発した。やがて,日露戦争(1904―05年)後の土地ブームにのって,三井や財界などの有力者が加わり,資本金150万円の株式会社に拡大した。
 はじめは,主に東京市内にある三井家の土地や建物をはじめ,三井銀行の得意先や華族などの不動産の管理を請負い,さらにその売買や仲介などによって利益をあげた。とくに日露戦争以後になると,同社が管理した不動産が東京の全域におよぶようになったので,1906年(明治39)9月からは小石川・赤坂・淀橋・深川・芝・下谷に差配所を設けた。また不動産担保金融の拡大とともに,横浜をはじめ全国7ヵ所に支店をふやし,当時の不動産業界で抜群の成績をあげていた。さらに,大阪にも勢力をのばし,1907年(明治40)に発足した大阪信託会社が,土地投機に失敗して苦境に陥った折に,東京信託がテコいれを行った。ついで1912年(明治45)に,増田ビルブローカー銀行などと協力のうえ大阪信託を改組発展して,聞西信託会社(資本金200万円)を創立し,大阪方面の基地とした。
 とくに東京信託は,1912年(明治45)に関東地方ではじめて田園都市の建設を計画し,玉川電鉄の桜新町駅の南側一帯にあたる,東京府荏原郡の駒沢村から玉川村にかけて約7万1000坪(約24ヘクタール)を買収した。そして駒沢村にまず「新町分譲地」を造成し,翌1913年(大正2)から売りだしている。1区画を100~500坪(約330~1650平方メートル)に分け,同年中に147区画,約5万坪(約17ヘクタール)を分譲し,その後も販売をつづけた。
 (文献58,3・37・46-47ページ,59,622ページ,60,690ページ,14,第1巻,369-71ページ,14,第4巻,167-69ページ,28,73-75ページ,61,巻末広告)。
(3) 名古屋の不動産会社と郊外開発
 東京や大阪における産業や人口の拡大にともなう巨大都市化の動きにくらべ,明治期の名古屋はまだ集積力が低かった。したがって,名古屋では住宅への需要もより弱く,不動産会社もそれほど展開を示していなかった。それでも人口は,1878年(明治11)の11万5000余人から1809年(明治22)に15万7000余人にふえた。ここでも,日露戦争前後における産業革命の影響をうけて,1907年(明治40)には35万4000人をこえ,1912年(大正元)には43万5000人に達している。
 この動きにつれて,貸家の需要や供給も増大し,この取引や周旋にあたる仲介業もあらわれた。このうち,組織の大きい不動産会社では,すでに1898年(明治31)6月に広盛合資会社(資本金2万4000円,株主10人)が泥江町に地所建物の貸借業を開始している。また1907年(明治40)には丸三合資会社(同3万円,株主4人)が撞木町に土地や建物,金銭の貸借と仲介を開業した。このほか,これらとともに,零細な仲介業が発生したことが推測できる(文献62,187ページ,文献63を参照)。さらに,1898年(明治31)には東洋不動産株式会社が発足し,1909年(明治42)には関谷保全合名会社が設立している。いずれも,資産家の財産保全を中心にしたものである。そして,本格的な不動産会社としては,1912年(明治45)に発足した名古屋信託株式会社や,1913年(大正2)の山田株式会社などがあり,大正期になってようやく展開をみたのである。
 これらの動きのなかで注目されるのは,愛知電鉄株式会社(1935年―昭和10―に名古屋鉄道株式会社に発展)の発足にともなう,郊外開発である。1912―13年(明治45―大正2)にかけて,同社の常滑線が全通すると,これに呼応して,知多半島の別荘開発が企画されるようになった。すなわち,1912年(明治45)7月に,資本金100万円の新舞子土地株式会社が創業し,知多郡旭町の伊勢湾ぞいにある御料地7.56ヘクタールの払下げをうけ,「新舞子文化村」と銘打って別荘地の分譲を開始した。同時に旅館や海水浴場,遊園地なども造成したのである。産業革命の進展につれ,名古屋周辺の資産階級のなかから,ようやく別荘地に対する需要が発生したことを反映している。同時に,大阪や東京にくらべ,名古屋地方ではまだ郊外における住宅開発が進んでいないことがわかる。
(文献64,14・689-93ページ,65,508-09ページ,32,236ページ)。

 5 不動産業の展開と諸形態
(1) 不動産業の諸形態
 日露戦争(1904―05年)ごろからの重工業の展開は,日本の資本主義をさらに拡大させる推進力となった。やがて京浜地方や大阪地方,あるいは小規模ながら名古屋地方などの大都市に工業地帯を拡大させた。そして労働者やサラリーマン,商人などを主力とした人口の膨脹は,住宅への需要を急増させた。さらに,1903年(明治36)ごろからみられた,東京や大阪などにおける市街(路面)電車の発展や,東京の市内や近郊における国鉄の電化,あるいは京浜や阪神,中京地方,とくに阪神地方における郊外私鉄の展開は,住宅の拡大と集中をもたらした。
 これらの動きは,とうぜんに宅地と建物の供給を増大させた。したがって,この頃になって,その後に展開した不動産業の主な潮流がそれぞれ出揃い,出発点をむかえたといえるのである。
 まず第1に,生活用の賃貸家屋の生産・供給・管理業ともいうべき流れがみられた。これには,江戸時代からの大家=店子の裏長屋方式が底流として残り,それが拡大したものである。また賃労働者階層の増勢に対応して,その下層むけの下宿や間貸業も,零細な宅地や家屋の所有者によって試みられた。他方,経済の興隆にともない,一般的に労賃水準が上昇しはじめると,中・上層の労働者のなかには,これまでの裏店借や下宿・間貸から1戸建の貸家を望むようになった。そして明治中期ごろから展開したサラリーマンむけの貸家と相まって,たとえば1905年(明治38)には東京の富裕者のなかに貸家を建てることが流行したのである。また明治末期には,大阪地方などで貸家むけの建売住宅の販売を行なう「家建屋」という新しい不動産の生産供給業も現われたのである。さらに,このころから急上昇した地価対策として,土地利用の効率化をはかるため,一般に建物の高層化が試みられた。貸家の供給でも,集合賃貸家屋ともいうべきアパート業が,明治末期の東京などから発生し,当初は主として上層階級を目的にしながら,大正期以後の展開を準備したのである。
 第2は,営業用建物の生産・供給・管理業ともいうべき流れである。以前からの表店貸方式に加えて,建物の高層堅固化や投下資本の増大とともに,三菱の丸の内街建設に代表されるような貸事務所業が主流にのし上ってきた。やがて大正期に鉄筋コンクリートの建築が興隆すると,財閥系などの大資本を中心とした貸ビル業が発展していくのである。
 第3の流れとして,宅地や建物の建設や分譲を行ない,需要者を小所有者たらしめる生産供給業が発生した。たとえば東京建物会社が,一種の「建売住宅」の販売や宅地分譲を試みた。また1907年(明治40)ごろからの「田園都市」ブームにのって,とくに郊外私鉄の発展した阪神地方を中心に,沿線の建売分譲が開始された。このほか京浜地方でも,東京信託会社による宅地分譲が行なわれるなど,大正期からの郊外の住宅分譲の盛況を準備したのである。
 第4の流れとして,本格的な不動産業が発展してきた。これは,以上のような宅地と建物の供給・需要環境の充実とともに,これらをめぐる売買・仲介・金融などの流通部門に関与したものである。これらのなかで,需要者により近接した在来どおりの零細な売買斡旋業が,まず増大した。さらに,宅地建物の供給業者が大規模化するとともに,巨大な本格的不動産業者が続出している。そしてこれらの業者は,同時に,土地や建物の不動産担保によって,金融貸付の業務も拡大した。これはまた,不動産需要の急増に呼応して,その供給や売買・取引の増進を,一面では推進した要因ともいえる。
(2) 不動産企業の発展
 ところで,不動産の売買・仲介・金融などの流通部門には,三菱合資会社地所部や東京建物・東京信託,あるいは阪神電鉄や箕面有馬電軌など,不動産を生産供給する大会社が直接に併営する場合もあるが,以前から持続していた仲介業者が巨大化する例がふえてきた。
 1つには,金銭や有価証券,担保つき社債の信託などを取扱う信託会社から発展したものである。信託のほか,実際には不動産の自己売買や管理も兼ね,やがて営業の主力を不動産の売買仲介や抵当貸付,土地投資などに移し,さらに不動産の評価鑑定や設計製図などにも手を拡げた。たとえば,東京信託会社(資本金150万円)をはじめ,1907年(明治40)開業の大阪信託(のちに資本金200万円の関西信託に発展)・神戸信託(資本金100万円)や,1912年(明治45)発足の名古屋信託などの大会社をあげることができる。
 2つには,本来的な不動産の取引・仲介業から拡大したものである。1907年(明治40)前後までは,資本金1―2万円ぐらいから,せいぜい10万円ていどの中小企業が大勢を占めていた。しかし1911年(明治44)ごろから,大阪土地建物会社(資本金300万円――以下いずれも1921年―大正10―現在),岡町住宅経営会社(同60万円),大阪港土地会社(500万円),浪速土地会社(242万円),摂津土地会社(350万円),千日土地建物会社(500万円)などの大会社が,阪神地方に続出した。また京浜地方でも,1902年(明治45)に創業した東京土地会社(資本金500万円)などの大会社が出現している。
 これらの不動産業者は,経済の景気変動の波を直接にうけやすく,その盛衰はいちじるしかった。しかし明治末期になると,住宅需要の急増と地価の上昇につれて,本格的な不動産大会社が展開したことがわかるのである。
 なお,これらの不動産業の興隆にともなって,日露戦争前後ごろから,不動産関係の業界交流や広告もひろがり,また図書や雑誌・新聞なども発刊されはじめた。たとえば,1912年(大正元)から東京市区調査会が雑誌『東京土地月報』を発刊し,主として土地の売買異動を記載した。また1916年(大正5)8月には,住宅改良会が月刊雑誌『住宅』(1943年―昭和18―12月まで続刊)を発行したほか,同年にはそれまで公刊された『土地と家屋』が廃刊になっている。このように,不動産関係の情報もようやく整備されはじめたのである。
 他方,新聞では,『国民新聞』が不動産関係の記事を多く載せたらしく,たとえば,すでに1894年(明治27)3月と1896年(明治29)8月には東京の貸家事情を示す記事がある(交献66,138・146ページ)。また国民新聞社では,大正初期ごろに「理想的郊外生活地,理想的新別荘地」を投票で募集している。これにもとづいて,同社の市政記者である渡辺利喜松が,府中・市川・調布・我孫子・鳩ヶ谷などの新住宅地と,白河・保谷・飯能・仙石原・大宮・塩山・青堀村・浦和・白子村・沓掛・公津村・鴨川町・臼田村・石神井村・沼津村などの新別荘地を,『国民新聞』紙上に紹介した。当時,郊外住宅や別荘地に対する需要がいかに強かったかを推測できるであろう。なお,この記事を改訂して1冊にまとめたのが,中柄正一の『郊外住宅と新別荘地』(至誠堂,1916年―大正5―10月,新書版で本文184ページ)である。
 また大阪では,明治末年ごろに西本春次が地勢研究会を設け,月3回発行の『地所要報』を創刊し,「全国唯一地所界の機関新聞」と唱えた。毎号に土地建物業界の著名人物の意見や参考記事を連載したほか,大阪・京都・神戸における不動産売買の登記内容や人物論を加えている。なお,これらの記事をもとにしたのが,西本春次の『大阪と不動産』(地勢研究会,1913年―大正2―6月,新書版で本文98ページ)である。これらからも,明治末期からの不動産業の展開と隆盛の一面を知ることができるであろう。

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