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足尾銅山鉱毒事件

著者名: 東海林吉郎
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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目 次

Ⅰ 渡良瀬川の沿革・・・・・・・・・・2
Ⅱ 魚類の絶滅と農地被害の顕在化過程・・・・・・・・・・4
Ⅲ 被害農民の対応と示談契約・・・・・・・・・・12
Ⅳ 日本資本主義と足尾銅山の位置・・・・・・・・・・17
Ⅴ 鉱毒反対闘争と第1次調査会・・・・・・・・・・23
Ⅵ 鉱毒事件処分の内実・・・・・・・・・・30
Ⅶ 鉱毒反対闘争の高揚・・・・・・・・・・35
Ⅷ 鉱毒世論の第2次調査会・・・・・・・・・・43
Ⅸ 田中正造の闘いの思想・・・・・・・・・・54
附 録・・・・・・・・・・64


Ⅰ 渡良瀬川の沿革

 1.渡良瀬川の水源と枝川
 渡良瀬川は,那須火山から分岐した足尾山塊―栃木県上都賀郡足尾町地区に源を発している。皇海山(2143メートル)を源流とする松木川(沢),社山(1827メートル),半月山(1753メートル)を源流とする久蔵沢,庚申山(1901メートル)を源流とする仁田元沢が合流して松木川となり,流下して薬師岳(1420メートル),茶ノ木平(1617メートル)を源流とする神子内川と合流して渡良瀬川を形成する。
 渡良瀬川は,さらに足尾山塊において,内ノ卆川,渋川,庚申川,巣上沢,餠ゲ瀬川,楡沢川等を合流する。これらの枝流を含む足尾山塊における渡瀬川の水源面積は,1万7827ヘクタールにおよぶ。足尾山塊の溪谷を西南に向って貫流する渡良瀬川は,群馬県勢田郡東村,同郡黒保根村を経て,同県山田郡大間々町にいたる。ここで平地に出た渡良瀬川は,笠懸野と呼ばれる雄大な扇状地をつくり,ここから東南に向けて流れを転ずる。そして群馬県桐生市,栃木県足利市と,かっての日本有数の機業地に接して流れ,栃木県佐野市と群馬県館林市の中間を通り,栃木県藤岡町,茨城県古河市を経て利根川に合流する。その全長は,91.5キロメートルに及び,この間,桐生川,松田川,袋川,才川,矢場川,菊沢川,秋山川,思川等を合流している。

 2.産業・水路・交通の発展
 この渡良瀬川は,16世紀ごろから内陸水路交通が開かれ,沿岸地帯の産出する物資の,最大の消費地である江戸(東京)への輸送路として,重要な役割りを果していた。ちなみに,1881年(明治14年)における渡良瀬川沿岸,栃木県安蘇・足利・梁田3郡の東京への物資輸送量を,水路輸送と陸上輸送を比較すると,つぎのようになる。
 また渡良瀬川は,桐生・足利等の機業地において,染色用水,水車を動力とする撚糸・紡績車・織機に古くから利用されていた。水路輸送は江戸時代から,沿岸地帯の産業の発達と密接にかかわっていたのである。1898年(明治31),180馬力のタービン水車が導入されていた時期においても,渡良瀬川では産業用動力源として,約4000の水車が利用され,その総馬力数は,1700馬力に達し2)ていた。
表1 東京への物質輸送量比較1)

 3.灌漑水源として
 これら産業用動力源にもまして,主食である稲作の灌漑用水として,沿岸地帯農民の生活を支える重要な役割りを果していた。渡良瀬川における灌漑面積は,ほぼ1万町歩3)流域人口は30数万を教えた。このように渡良瀬川は,東京への水路輸送の動脈として,また産業用動力源として,つねに一定の水量を確保するために,足尾山塊―水源地帯の水源涵養材の保護・育成に江戸時代から力が注がれてきた。
 それは,灌漑用水としても同じであった。旱魃期にさいしても,つねに一定の灌漑用水を確保し,あわせて集中豪雨・長雨等による水害,堤防の破壊・人命・家屋・家畜などの被害を防ぐために,水源涵養林の保護・育成は大きな関心事であった。
 このように,水路輸送・産業用動力源・灌漑用水として,それぞれ目的は異なるものの,一定の水量の確保とその調整は,一般住民を含めて,渡良瀬川沿岸住民を一致した意識のもとにおいた。それは,渡良瀬川沿岸地帯の治水思想と呼びうるものであった。

 4.沿岸地帯の治水思想
 渡良瀬川の一定の水量の碓保とその調整―,この課題は,とくに江戸時代において,沿岸住民の民生安定と貢租の安定的確保のための施策として,支配者をして,水源涵養林の保護・育成に力をそそがせたのであった。もっとも,渡良瀬川は江戸時代から,3~5年に1度,洪水があったといわれている。だが,ここで明確にしておかなければならないのは,堤防の破壊・人命・家屋・家畜に被害をもたらす水害と,流域の田畑に冠水する洪水を区別することである。堤防を分水しての洪水は,それによって堤防の破壊・人命・家屋・家畜の被害を防ぐ,調整機能をもつものであるからである。
 この3~5年に1度の洪水は,水源地帯の山林に堆積した腐葉土・游泥などの天然肥料を大量に水田を運びこみ,たとえ農作物に若干の被害はあっても,農民たちはかえって喜んだという。天然の肥料によって,2~3年は肥料を要せず,しかも魚獲によって補うことができたからだという。洪水によって,魚類がおびただしくふえた4)からである。このような渡良瀬川の恵みを,沿岸住民から奪いとったのは,足尾銅山であった。30教万といわれる渡良瀬川沿岸住民にとって,まことに不幸なことは,その足尾銅山が,渡良瀬川の水源地帯―足尾山塊のほぼ中央に位置していたことであった。
 なお,足尾町の面積について,ヘクタール(0.9917町歩),町歩など,異なった尺度が用いられているほか,時代によって官庁資料においても,その面積に若干の差があるので,予め断っておきたい。

 注
 1) 奥田久編著『栃木の水路』栃木県文化協会,1979年,38ページから作成。
 2) 須永金三郎『鉱毒論稿第1編,渡良瀬川,全』足尾銅山鉱毒処分請願事務所,1898年(東海林吉郎・布川了編著『亡国の惨状』伝統と現代社,1977年所収)42ページ。
 3) 前掲書,36ページ。
 4) 永島与八『鉱毒事件の真相と田中正造翁』,佐野組合基督教会,1938年,1ページ(以下『真相』とす)。

Ⅱ 魚類の絶滅と農地被害の顕在化過程

 1.古河市兵衛と足尾銅山
 足尾銅山は,維新変革を経て明治政府の支配下に入り,1871年(明治4),はじめて民業が許可された。そして1876年(明治9)12月,古河市兵衛が,旧領主相馬家(名儀は家令・志賀直道)と組合契約を結び,当時の操業者・副田欣一から買収,翌1877年(明治10)から操業した。さらに80年,国立第一銀行創立者・渋沢栄一が組合契約に参加。この三者の共同経営となった。古河市兵衛は,旧領主資本および有力政商資本の援助をうけ,それと結合の上で足尾銅山の経営に当った1)のである。そして1881年(明治14)の鷹[たか]の巣[す]直利,84年の横間歩大直利の発見によって,足尾銅山の産銅量は急激に上昇していった。この産銅量の上昇は,たちまち渡良瀬川の鉱毒汚染を招き,その後の沿岸農地の鉱毒被害の前徴としての魚類の大量死,そして絶滅をもたらした。この魚類の大量死を,その後の被害予測と防除に役立たせえなかったことは,やはり惜まれなければならない。それは,渡良瀬川の魚類と漁獲に関する史料が,きわめて少ないことと無関係ではない。つまり,そこに棲息する豊かな魚類を,自然―渡良瀬川の恵みとしてではなく,ごく当り前のこととしていたことが,その成文化―史料を生み出す契機を欠き,鉱毒による魚類の異変に対しても,きわめて鈍い反応しか示しえなかったことにつながっている。

表2 山田郡町村の鮎の年産額3)

 後年の鉱毒反対闘争において,魚類の大量死―,鉱毒被害の顕在化を,1879-80年(明治13-14)のコレラ流行期の予防規則を改変し,藤川為親県令布達という虚構2)によって措定しなければならなかったのは,当時ですら魚類の大量死の年次を正確に把握しえなかったことを意味している。ただ,これらの少ない史料は,その嗜好と需要にもとづく経済性によって,とくに鮭・鮎等に偏っている。しかしこれらの高級魚は,その他の低級魚としての魚類に比して鉱毒に弱く,逆にそのことによって,鉱毒の深化過程を追跡する有利な対象であることも,指摘しておかなければならない。
 さて,これらの少ない史料のなかで,渡良瀬川の豊かな漁獲の一端を伝えるものとして,「明治九年の山田都村志に記されたる鮎年産額」がある。
 古河市兵衛が,足尾銅山を操業する前年の史料であるが,これにみられる豊かな鮎の漁獲は,鉱毒に汚染されない以前の渡良瀬川における,その他の魚類を含めての豊饒な棲息状況と考えてよいであろう。
 しかしそれから数年,渡良瀬川の魚類に関する史料が欠落する。その後に現れる史料も計量的数値を明らかにしたものはほとんどない。だが,そこに鉱毒が影を落しているか否か,その判断の材料にはなる。これらの史料に若干の説明を加えながら,年次別に魚類の大量死までを追跡し,さらにその後の農地被害の顕在化にいたる過程を,たどってみることにしたい。

 2.渡良瀬川の豊かな魚類
 ① 1881年(明治14)―「十一月七日快晴……当館林を発して桐生の途に上る。……渡良瀬川を渡る。水色正に緑にして而して澄徹鏡の如く細鱗の水中に往来する歴々数ふ可し4)」後年の鉱毒反対闘争の指導者・田中正造を先頭とする栃木自由民権運動に深くかかわった野村本之助の手記の一節である。
 ② 1882年(明治15)―「(5月)十日晴,小俣を発し五十部を過ぎ……渡良瀬川に漁す。水清く,砂浅く,螢徹底をあらわす,魚梁を設けて侯つ,忽ちにして銀刀迸入尾撃?溂,香魚鮎も亦た従って入る,僅に三,四寸,之をやき之をなますにす新鮮比いなし5)」詩人・高木五峯の「足利紀行」の一節である。
 ③ 「下野国渡良瀬川は毎年秋季を迎ふる頃ともなれば鮎鮭の漁猟多く土地の者は誰彼の別なく漁猟に従ひしが本年は殊の外鮭の多猟にて始めの程は九百目にて三円六十銭前後に売買せしが,昨今は次第に下落して七八十銭位になりしと同地の者より通知あり6)」。この鮭漁の模様を伝える新聞記事は,鮭に関する具体的な明治期の史料として,ほとんど唯一のものである。足尾銅山の鉱毒によって絶滅するまで,豊漁年とそうでない年はあっても,渡良瀬川を毎年遡上してきていたのである。
 ④ 1883年(明治16)―「此頃もある家に……小僧が鮎を売りに来た,主人は……アー好い鮎だ,此鮎で思い附いたが小僧,此間度々投身の有った増所を知っているだろうなと言ふに,小僧ハ面色を変え……此鮎は……彼所よりグット川上で捕った……頻いに言ひ訳,主人……投身の害魚売迄に及ぶかと笑ひながら鮎を買ひ取りしと7)」この時期,松方財政――デフレ政策による全国的な不況のなかにあり,足利では9月半かばまで渡良瀬川に4人の投身自殺があった。「投身の害」とは,鉱毒の影響のない魚類の豊なことの別名として,鮎が新聞に登場したのである。
 つぎの記事も,この投身自殺の幽霊が出るという噂にからんで,渡良瀬川の魚漁の一端が新聞にとりあげららたものである。
 ⑤ 「足利町……の大河何某が渡良瀬川へ網打ちに行しに平常よりも獲物の多ければ夜の更るをも知らず頻りに打行ながら……8)」。
 ⑥ 1884年(明治17)年―「暴風雨の影響……渡良瀬川は毎年秋季になると鮎の多く漁猟ある所なるが,本年は去月甘六日の暴風雨の為の同地も洪水となり……春子は不残大川へ流出し更に瀬に附かず実に不漁にて……沿岸の足利,梁田両郡辺は浅瀬の多き所なる故鮎瀬の第一等とも云う地にて毎年三百人(土地の人のみ)の漁師が五六拾円づつの収獲あるに本年はげた僅に一人にて拾四五円なりと……9)」毎年足利,梁田両郡の約3百人の漁師が50~60円,全体で約1万5千~1万8千円の収益をあげていた事実は注目されよう。この年の14~15円の収入は,「足利相場(9月30日)において,玄米8斗(120キロ)で4円40銭10)と比較して,おおよそ,その程度を想像できよう。
 ⑦ 1885年(明治18)年―「鱸 渡良瀬川に鱸の登るは是迄もあることながら本年の如く多く登ることは未だ嘗てなき処なりと魚漁をなすものの話し11)」この年7月,渡良瀬川を大量の鱸が上ってくる。それは,まさに渡良瀬川の異変の前徴であった。つぎの新聞報道が明確にそのことを示している。
 3.鉱毒による魚類の大量死
 ⑧ 「香魚皆無 栃木県足利町の南方を流るゝ渡良瀬川は如何なる故にや春来香魚少なく人々不審に思ひ居りしに本月六日より七日に至り夥多の香魚は悉く疲労して游泳する能はず或は深渕に潜み或は浅瀬に浮び又は死して流るゝもの尠なからず人々争ひて之を得むとて網又は狭網を用ひて之を捕へ多きは一二貫目少なきも数百尾を下らず小児と雖でも数十尾を捕ふるに至り,漁業者は之を見て今年は最早是れにて鮎漁は皆無ならんと嘆息し居れり,斯ることは当地に於て未曽有のことなれば人々皆足尾銅山より丹礬の気の流出せしに因るならんと評し合へりとぞ」12)。足尾銅山の鉱毒による魚類の大量死と,その時期を明確に示す初出の史料である。駐在記者によるこの中央紙の記事を,地元紙『下野新聞』は二日後,「多きは一二貫目」を,「多きは二三貫目」と訂正して転載した。
 この鮎の大量死は,沿岸の漁師たちにとって初体験であり,それがそのまま渡良瀬川の鮎の絶滅につながるとは思っていなかった。「今年は最早是れにて」という気持ちには,まだ来年への期待があった。
 だが,足尾銅山の鉱毒は着々と深化し,この鮎の大量死よりも早く,すでに前年から,銅製錬の亜硫酸ガスによる煙害が顕在化していた。『下野新聞』(明治18年10月3日)は,全国的な不況のなかで,「足尾銅山」の好況を伝え,その記事の末尾で,つぎのように述べている。
 ⑨ 「又銅鉱を焙焼するストーブの煙は丹礬質を含み居て人身に害あれば,煙筒も遠く山下に延きて畑の構内に飛散せざる様仕掛ありしかば,近傍諸山の樹木は昨暮以来多くは枯れ凋みたりといえり」。この記事は,山元において1884年来,かなりの規模で煙害が顕在化していた事実を示すものである。煙害の顕在化を伝える初出の史料である。これによって,1884年(明治17)年来,煙害がかなりの規模で顕在化して,翌1885年(明治18)8月にいたって,渡良瀬川の鮎の大量死が起った事実が明らかになる。
 さて,この鮎の大量死のあと,渡良瀬川の魚類に関する史料は,激減する。そして梁田郡野田村・梁田宿・福富村による「渡良瀬川筋古今沿革調」(「明治20年6月調之」足利市図書館所蔵)は,魚類に関してつぎのように記している。
 ⑩ 1887年(明治20)―輓近水源ナル足尾ノ銅鉱開ケシヨリ頓ニ魚類ヲ減シ為メニ漁者産ヲ失フ者多ク自今ハ殆ト絶無ニ帰ス蓋シ鉱穴ノ毒水(丹礬又ハ銅末ナリト云フ)流出シテ本川ニ人リ生魚悉ク他川ニ逃去セシニ因ルナリ」。この時期,近くの枝川などはまだ魚類が豊富であったとみられ,渡良瀬川の魚類が,「悉ク他川ニ逃去セシ」ものと捉えているのが,この史料の特徴である。そしてすでに,「漁者……殆ト絶無ニ帰」していたことは,そのまま渡良瀬川の魚類が絶滅寸前にあったことを示している。
 『群馬県邑楽郡町村誌材料』(邑楽郡役所1889年)28ページに,つぎのような記述がみられる。
 ⑪ 1889年(明治22)―「鯉鰻鮏鯔鰓等ノ類漁猟アレトモ……敢テ物産トナスニ足ラズ」。この記述は,調査時点―前年のものと思われるが,かっての豊かな魚類の面影はここにはない。もはや,量的にも「物産」とはいえぬ絶滅寸前の状態であることがわかる。すでに高級魚の鮎はなく,僅かに名をとどめ鮏も,史料に登場する最後である。生業としての漁業は成りたたない。

 4.渡良瀬川に魚類絶つ
 ⑫ 1890年(明治23)「渡良瀬川に魚族絶つ 渡良瀬川は栃木県下足利,安蘇,梁田の三郡を貫流する一大河にて,……其の水源なる足尾銅山……製銅に従事せし以来……同河の魚類減少し今は全く其の跡を絶ち沿岸の漁夫等は為めに活路を失するに至れり。此に於て同三郡の人には……,コハ全く足尾銅山にて……丹礬を同河に流失する……為めなることを発見し,……遂に此試験のことを東京の該地方人に申し来り,昨日同地出身の人々等は今川小路玉川亭に会し……先づ鉱学会に依頼して丹馨有毒の如何の試験を乞ふ事に決したりと云ふ13)」。すでに,あの鮎の大量死から四年半を経過して,はじめてその対策にとり組む動きが生まれたのである。この時期,渡良瀬川には比較的,鉱毒に強い雑魚類にすぎないが,その数ももはや微々たるものである。
 「吾妻村の概況」(『下野新聞』明治23年8月24日)は,つぎのように伝えている。
 ⑬ 渡良瀬川は近来炎天打続きたる為め水量大に減少せしかば漁猟も之に比例してか朝夕垂綸するも獲物いと少なし」。史料を通観すれば,水量の問題ではなく,そこに鉱毒の影響が色濃く影を投げていることが明瞭である。またこの渇水は,水源地帯の山林の乱伐とも重なっている。そしてこの山林の乱伐は,沿岸農地の鉱毒被害を一挙に顕化させる大洪水に変貌するのである。これが報道される前の8月21日から降り出した大雨は,23日大洪水となって渡良瀬川沿岸一帯を襲ったのである。
 ⑭ 「8月21日,午前九時頃より雨降り始め同夜十時頃丑寅の吹込みと変じ,翌二十二日に至るも更らに雨間なきのみならず,午後に及んでは益々はげしき上げ雨となり,夜十二時前後遂に暴風大雨掩ひ至り……二十三日未明より渡良瀬川暴漲し来り14),足利町にて……九尺余増水15),実に五十年以来の大洪水16)となった」。
表3 足尾銅山の産銅量の推移17)(明13~23年)
第1図 産銅量の推移と魚類の被害の深化過程と農地被害の顕在化
この大洪水によって,渡良瀬川沿岸の栃木・群馬7郡の田畑に鉱毒被害をもたらしたのである。これによって,絶滅しつつあった魚類に決定的な打撃を与えたことは想像に難くない。

 5.魚類の絶滅と産銅量
 そこで,鉱毒による渡良瀬川の魚類の絶滅への過程と,農地被害の顕在化への過程を,足尾銅山の産銅量の推移,およびそのグラフに,いま通観してきた史料番号を位置づけて両者の関係をみることにしたい。
 渡良瀬川の魚類の絶滅と農地被害の顕在化は,足尾銅山の産銅量の増加にともなう硫酸銅等の鉱毒流出の増大と,製錬に要する薪炭およびその他の用材としての水源涵養林―山林の乱伐。さらに煙害による山林の荒廃がもたらした洪水の相乗作用によるものであった。

 6.山林乱伐の進行
 煙害の進行に関する資料はないが,鉱毒の深化過程の背景をなす山林乱伐と,その後の鉱毒被害の激化を裏付けるものとして,1881~96年(明治14~26)の山林乱伐の模様を確かめておきたい。そこで,まず足尾町の土地区分(地目)別面積からみておくくとにしたい。
 つぎにその伐採面積をみると,1884年(明治17)の横間歩大直利の発見以来大幅に増加し,1887年には1584町にも達し,農地被害の顕在化した1890年までの合計面積は,4539町に達している。このような水源涵養林の乱伐は,洪水のみならず,旱魃をも促進することになるのである。以下実際にその伐採の模様をみることにしたい。
 このような水源涵養林―山林の乱伐は,1890年(明治23)8月の渡良瀬川の渇水と,同23日の50年来の大洪水を招いただけでなく,足尾山林を急速に荒廃させていった。1893年(明治26)における足尾山林の荒廃の模様を,つぎにみることにしたい。
 山林の伐採跡地と無立木地の合計は,官林については全体の約74%に達し,官有山野と民有山野は,ほぼ100%に及んだ。

 7.山骨露出の惨状
 さらに,これに加えて,1884年(明治17)末,「すでに近傍諸山の樹木は……枯れ凋」むほどの煙害のその後の進行は,1000町におよんで,鉱煙害のために一木一草を止めず山骨露出して漸次地?落して岩石の崩壊をきたすべき惨状を呈した21)のであった。
 それらすべては,銅の生産を至上の目的として,県知事ら官僚との結托による有利な官有林の払下げによってもたらされた結果であった。
 伐採した山林は,木炭・薪木・一般用材・坑内支柱等に用いられるが,なかでももっとも多く必要とするのが,製錬に要する木炭原料としてであった。
表4 足尾町土地区分18) (地目)
表5 足尾官林の伐採面積19)
表6 足尾山林の荒廃の模様20)
 当然のこととして,これら木炭の生産に従事する労働者は,過酷な条件のもとにおかれた。現在発見されている史料を見るかぎりでは,足尾銅山において,もっとも早く.こうした労働条件に対する異議申したてを行なったのは,この木炭を生産する薪炭夫であった。
 『下野新聞』(明治23年8月10日)は,「足尾薪炭夫の暴行」として,つぎのように報じている。
 「足尾山字小滝[こたき]銅山の薪炭夫三百余名は,何事か不平を唱え去る七日午前銅山会社倉庫課に迫りて暴行に及びたるを同所請願巡査松本某が出張して説諭中重ねて暴行に及び同巡査の頭部へ負傷せしめ(以下略)」。
 以上のように,1890年(明治23)は足尾銅山の鉱毒によって,渡良瀬川の魚類が絶滅した年であり,沿岸一帯の農地被害が一挙に顕在化し,また水源涵養林の荒廃は乱伐と煙害によって,覆い難い惨状を呈した年であった。そして,労働問題も表面化した年であった。なお,本稿の課題ではないが,この時点における煙害の進行状態からみて,労働者の健康破壊が急速に進みつつあったことは疑問の余地がない。

 注
 1) 鹿野政直「鉱毒被害の顕在化」,鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』,三一書房,1974年,19ページ。
 2) 東海林吉郎「藤川為親県令の布達について」,布川了『虚構と事実』,渡良瀬川鉱害シンポジウム刊行会,1976年,1-64ページ。
 3) 山田郡教育会『山田郡誌』,山田郡教育会,1939年,945ページ。
 4) 野村本之助「東北紀行」,『東京横浜毎日新聞』明治14年12月1日。
 5) 高木五峯「足利紀行」,須永弘『足利今昔物語三巻』足利史談会,1958年,28ページ。
 6) 『自由新聞』,明治15年10月1日。
 7) 『栃木新聞』,明治16年9月15日。
 8) 『栃木新聞』,明治16年10月11日。
 9) 『下野新聞』,明治17年10月11日。
 10) 『下野新聞』,明治17年10月7日。
 11) 『下野新聞』,明治18年7月29日。
 12) 『朝野新聞』,明治18年8月12日。
 13) 『郵便報知新聞』,明治23年1月27日。
 14) 『下野新聞』,明治23年8月27日。
 15) 『下野新聞』,明治23年8月24日。
 16) 『下野新聞』,明治23年8月24日。
 17) 古河鉱業株式会社『創業百年史』1976年,82ページ。
 18) 栃木県上都賀郡役所『上都賀郡統計書』明治28年版。
 19) 笠井恭悦ほか「明治前中期の足尾銅山と山林」栃木県教育委員会事務局『栃木県史研究 19』,1980年,98ページ。
 20) 前掲書98ページ。
 21) 鈴木丙馬「足尾鉱山煙害地の復旧治山造林に関する基礎的研究第一報」宇都宮大学農学部『学術報告』第6巻第3号,1967年,31ページ。

Ⅲ 被害農民の対応と示談契約

 1.鉱毒被害と農民の対応
 1890年(明治23)8月23日の大洪水は,渡良瀬川沿岸一帯の農地を襲い,いっきょに鉱毒被害を顕在化させた。もっとも,灌漑を渡良瀬川に仰ぐ農地において,部分的には,すでに1888年(明治21)から,一粒も収獲がない1)という被害を避けえなかった。この局部的被害は,8月の大洪水によって,多数の家屋の侵水を含む,2県7郡の農地を鉱毒の泥の海と化し,農作物が悉く腐るという,鉱毒被害となって現れたのである。
 この衝撃的な鉱毒による農地被害は,渡良瀬川沿岸農民の間に,さまざまな動きを生起させた。足利郡毛野村の早川忠吾は,県立宇都宮病院に水質検査を依頼。亜硝酸・銅・安謨尼亜等を含2)むことを確認。また同郡吾妻村では臨時村会を開き「一個人営業ノ為メ社会公益ヲ害スル者ニ付其筋ヘ禀請ノ上該製銅所採掘ヲ停止3)」するよう,栃木県知事に上申した。この「鉱業停止」要求の上申は,鉱毒反対闘争を貫く,最初の鉱業停止要求であり運動の先駆4)であった。
 12月栃木県会は,「丹礬毒の儀」を,また群馬県会では,翌1891年(明治24)3月,「精密調査」を遂げるよう,それぞれ知事に建議した。4月,栃木県知事は被害町村を巡回,臨時常置委員会で調査の支出を決定,農科大学に被害調査を依頼した。また群馬県でも,6月と7月農科大学と農商務省に,耕地被害の原因調査と除毒法研究をそれぞれ依頼した。
 一方,これら行政当局の動きとは別に,被害農民と被害町村の連帯的行動が醸成されていった。栃木県足利・梁田両郡の町村は,この問題を下野西南地方の緊急大問題としてとり組み,その結果を満天下に訴えることを定め,長祐之・早川忠吾・亀田佐平がこれに積極的に当った。
 足尾銅山の現地調査,農科大学の古在由直への土壤分析の依頼も,その一環として行なわれたものであった。これらの活動をとおして,これに参加する各町村の有志は,「鉱毒被害町村有志会6)」を結成するにいたった。
 注目すべきことは,この有志会は鉱業停止を目的として組織され,目的達成のために群馬県山田・新田・邑楽三郡と組織的連合をめざしていたことであった。
 7月,さきの被害地町村の有志による,農科大学古在由直への土壤分析結果が,その他の調査等と併せて,長祐之の編集によって,『足尾鉱毒 渡良瀬川沿岸被害事情』として刊行された。だが,この『沿岸被害事情』は,すぐさま発禁処分となった。
 農商務相陸奥宗光の違法性と責任追求が,その鉱業停止要求とからんで当局の禁忌するところとなったものとみられる。
 ともあれ,鉱毒被害の顕在化は,その基本的な解決をめざして,鉱業停止要求を掲げる先駆的農民を生み出すだけではない。鉱毒による被害は,すべての農民になんらかの対策を迫ると同時に,被害の補償を求める動きを派生させることも,きわめて自然ななりゆきであった。

 2.鉱業停止と示談契約の対立
 一方,これとは別に,県当局が古河市兵衛―足尾銅山側とその補償について,被害農民との調停を意図したことも,きわめて必然的な動きといえた。
 1891年(明治24)9月,栃木県当局は,被害町村に対し,鉱業主古河市兵衛の被害補償について一定の条件を示し,県知事がその仲介に当ることを通達した7)。
 この通達は,より広い被害地域の連帯のもとに,鉱業停止をかちとろうとする動きに対して,足利郡6ヵ町村,梁田郡3ヵ町村長による通達受諾の動きとなり,富裕層を代表する町村長と中下層被害農民の対立を生み出した。かって鉱業停止要求を先駆的に掲げた吾妻村村長亀田佐平はこの時点で,被害補償を求める側に転じた。こうして鉱毒被害に鉱業停止を求める動きと,鉱業の継続を前提とする補償を求める動きとが渦まいた。
 1891年(明治24)12月,第2議会で栃木県選出衆議院議員田中正造ははじめてこの問題をとりあげた。
 田中は,帝国憲法「日本臣民ハ其所有権ヲ侵サルゝコトナシ」(第27条)を根拠として,被害農民の立場から足尾銅山の鉱業停止を要求,併せて農済務相陸奥宗光の責任を鋭く追求した。政府の「答弁書」は,議会解散後,『官報』に掲載された。この「答弁書」は,(1)被害原因確ならず。(2)原因は専門家が試験調査中。(3)鉱業人は鉱毒予防に努めるほか,粉鉱採聚器を設置して一層鉱物流出を防止するというものであった。とくにこのなかで問題になるのは,粉鉱採聚器が与える鉱毒予防の幻想であった。これこそは,被害農民を示談に動員する強力な武器となったのである。
 1892年(明治25)2月,栃木県では折田知事主導のもとに,県会議員の代表による被害補償の仲介機関,仲裁会が設置された。足利地区は,別に鉱毒査定会をつくって分裂するものの,栃木県においては,主として,これらの仲裁会と査定会の仲介によって,鉱毒被害地補償の示談契約が結ばれてゆくのである。

 3.示談の先頭,待矢場水利組合
 一方,群馬県では直接,知事は関与せず,主として県会議長が仲介の任に当った。こうしたなかで,とくに待矢場両堰水利(土功会)組合は,いまだ示談反対の動きのあるなかで,新田郡長がその管理責任者であるという事情もあって,1892年(明治25)4月,両県の先頭をきって直接,古河側と示談契約を結んだ。この待矢場両堰水利組合の示談契約の成立は,その後の栃木・群馬両県の示談契約の推進に,大きなはずみをつけるものとなった。古河側の狙いは適中したのである。
 示談契約の内容は,およそつぎの3点に要約できる。
 (1)徳義上の示談金を払う。
 (2)粉鉱採聚器の効果をみる期間を,明治29年6月30日とし,契約人民はそれまで一切苦情をいわない。
 (3)古河市兵衛は,水源涵養に努めること。この示談契約の前提となすべき被家調査は,県庁→郡役所→町村役場という行政機構を通して,町村有力者層を組織して進められた。つまり,この調査から示談成立にいたるあらゆる過程で,行政機構は古河側の意図を補完するものとして機能したのである。そしてこのとき,すでに述べたように粉鉱採聚器は,被害農民を示談に動員する強力な武器であった。

 4.示談のおどろくべき実態
 しかも,その補償金たるや,被害の実態とまったく無関係な,きわめて少額の一時金にすぎなかった。栃木県安蘇郡植野村・界村・犬伏町の鉱毒被害農地面積1163町2反歩に対する補償額1万円についてみると,1反歩当り,その補償額は,わずか85銭9厘にすぎないのである。
 渡良瀬川沿岸地帯の農地の生産性は高く,平年作で鉱毒被害のない時代は,反当りの米の収穫は,300~360キログラムあった。これをこの年,1892年の米価,150キログラム=7円30銭で計算すると,14円60銭から17円52銭の収益があったことになる。85銭9厘という補償額は,ほぼその20分の1にすぎない。
 さらに,これを1890年(明治23)の鉱毒被害から,粉鉱採聚器の効果をみる期間,1896年(明治29)6月までの収穫期6か年で割ると,おどろくべきことに1年当りの補償額は,14銭3厘にすぎない。
 農村地帯では,俗に日手間(1日の労賃)2升5合(この年の米価換算で18銭8厘)といわれ,85銭9厘の補償額は,5日分の労賃にも足りず,14銭3厘は,1日分にも充たない8)のである。
 なお,この時点における被害補償の対象農地面積は,つぎのごとくであった。

表7 1891年11月調査農地被害9)

 出所:『群馬県庁文書』「渡良瀬川沿岸耕地不毛の原因及除害法研究成積」古在由直,長岡宗好の報告書より作成,原表は町村別調査。
 註:群馬県の水田中262町7畝16歩は2毛作田,田は1毛作田と2毛作田の合計。
 5.永久示談の策動
 被害農民が示談契約に動員されてゆくなかで,田中正造は1892年(明治25)5月,第3議会で再び足尾銅山の鉱業停止を要求した。しかし,示談契約反対・鉱毒停止要求のその叫びは,政府はおろか,被害農民する耳を傾けなかった。こうしたなかで1893年,足尾銅山はベッセマー式精錬法を採用し,生産設備をさらに増強させていった。
 そして,1892~93年にかけて,第1回示談契約を完結させると,さらに古河側は,1894~97年にかけて,第2回示談(永久示談)を押しつけてきたのである。
しかも,地方官が日清戦争で招集した兵士の家を威嚇して契約書に盲印を押させ,あるいは郡長代理・郡吏らが被害町村に出向いて,威力と金銭によって示談契約をすすめ,さらには,これを拒むものには夜間壮士をもって強要,欧打して負傷せしめるなど10),第1回示談より,より強権的な恫喝・恐迫によって押しつけてきたのである。
 第1回示談が,粉鉱採聚器の設置を条件に,3年間苦情を申し立てないことを被害農民に約束させたものであるが,第2回示談は,永久に苦情を申し立てないことを,恫喝・恐迫等を手段として,強制的に被害農民に約束させたものであった。
 この示談金額は,さきの例では,1反歩当り85銭9厘であったが,栃木県全体でみると,第1回が1反歩当り平均1円70銭,第2回はそれよりも低く,1円40銭位11)と算定されている。また,個々の示談契約書による別の調査では,群馬県の場合,第2回示談で1反歩1円から25銭,最低はわずかに5銭であった。群馬県海老瀬村では,もっとも多いのが1反歩当り25銭12)であった。
 このような隔差は,被害補償としてまったく誠意が認められないというだけではない。官権と結託した恫喝・恐迫・強制に加えて,足尾銅山はもはや鉱脈がたえて1年位しかもたない。だからいま50銭でも30銭でもとりどくだ,という欺瞞を手段として,永世苦情をいわないとする示談契約を結んだ13)事実を裏付ける以外のなにものでもない。海老瀬村の例などはその典型であろう。
 第1回示談に引きつづいて,このような第2回示談への移行は,国内政局の危機を転化させる侵略政策―,天皇制支配権力によって準備・主導された1894年(明治27)8月に始まる日清戦争が,被害農民をより苛酷な条件のもとに屈従せしめることを,より容易にしたためといえるであろう。
 だが,かかる強権的欺瞞的な示談契約は,鉱毒被害の激化とともに,被害農民の潜在的エネルギーを爆発に導き,やがて粉砕されることになるであろう。事実,1896年(明治29)の大洪水による鉱毒の激化と,それによる反対闘争は,より激越な形態をとって展開されてゆくのである。
 ともあれ,この示談契約に象徴される被害農民に対する足尾銅山の対応は,銅生産の政治的経済的な歴史的背景と,密接にかかわるものであった。そこで,少しふりかえることになるが,とくに日本資本主義における銅生産の意義と,足尾銅山の占める位置,およびその役割を明らかにし,足尾銅山鉱毒事件の性格等を明らかにしながら,その後の経過をたどることにしたい。


 1) 吾妻村「上申書」,長祐之『足尾銅山鉱毒 渡良瀬川沿岸被害事情』自家本,1891年(編纂委員会『近代,足利市史,別巻史料編,鉱毒』,足利市,1976年)66ページ。
 2) 前掲書62ページ。
 3) 前掲書44-46ページ。
 4) 菅井益郎「足尾銅山鉱毒事件 上」,『公害研究』,第3巻第3号,1974年,68ページ。
 5) 前掲『足利市史』48ページ。
 6) 前掲書64-65ページ。
 7) 前掲書67ページ。
 8) 関口幸一「足尾鉱毒事件における示談の考察」,渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究2』,伝統と現代社,1979年,46-47ページ。
 9) 前掲 菅井論文 掲載誌68ページ。
 10) 『田中正造全集』第7巻,岩波書店1977年,464ページ。(『田中正造全集』は全19巻,別巻1を1977から80年にかけて刊行。以下刊行年を抄略)。
 11) 前掲 菅井論文 掲載誌69ページ。
 12) 布川了『足尾銅山 鉱毒史』,自家本,1973年,7ページ。
 13) 前掲書7-8ページ。

Ⅳ 日本資本主義と足尾銅山の位置

 1.主要な輸出品としての銅
 維新変革によって成立した明治政府は,旧幕府諸藩から継承した軍事工場・鉱山等の官営事業をみずから経営し,かつ私的企業の保護・育成に努め,産業の近代化をはかった。しかし,後進資本主義国として出発した日本は,資本の本源的蓄積が不充分であり,幼弱な産業資本による近代化は殆んど無理であった。
 明治政府は,殖産興業政策に基づいて,1870年(明治3)工部省を創設。軍事工場を除く大部分の官営事業の管掌と,私的企業の保護・育成に加えて,農民収奪による資金を用いて,幾多の新企業を興した。
表8 主要鉱産物の産出量および価格2)
それらの業種は,鉱山・製鉄・鉄道・電信・土木・造船・測量等きわめて広範囲にわたった。1885年(明治18)に廃止されるまで,先進資本主義国から新技術・機械の導入による,これら新企業の設立は,殖産興業政策推進の柱であった。
 この上からの近代化は,法制の整備と相まって,着実に成果を示していった。1877年以降になると,その重点育成産業のひとつであった鉱業は,官営鉱山こそ赤字であったが,民間の鉱業生産は急速に伸びていった。とりわけ銅は,多額の外貨を獲得する主要な輸出品1)となっていった。
表9 銅の輸出率3)
 このような銅生産の発展を支えたのは,海外の銅需要であった。表9によれば,銅生産の約80%は輸出向けであった。とくに1899年(明治32)から輸出税の免除もあって,輸出はいっそう促進された。
表10 銅生産量に占める古河の比率7)

 この銅の総輸出額に占める位置は,明治10年代後半から明治期を通じて一貫して数%を保っていた。銅以外の輸出品では明治初期においては生糸と茶が圧倒的で,この2品目で総輸出額の約60%を占め,これに続いて米・銅・石炭があった。しかし明治20年(1887)以降になると,生糸・茶・米の比率は下り,銅・石炭が漸増し,特に銅は明治23年には総輸出額中の9.5%にも達し,欠くことのできない重要輸出品としての地位を確立した4)のである。
 しかも,その産銅量のほぼ80%が輸出されていることにみられるように,アメリカ,チリ,ドイツに次ぐ有数の産銅国5)として,日本の銅は世界市場に直結しつつ,近代化のための工場設備・軍備・鉄鋼等の輸入の対外支払い手段として,日本資本主義国の成立・発展に不可決な一環を担っていったのである。

 2.のしあがる足尾銅山
 一方,足尾銅山は,1877年(明治10)古河市兵衛が操業し,はじめの4年間の産銅量は100トン以内にとどまったものの,鷹の巣直利,横間歩大直利の発見によって産銅量は急激に上昇していった。
表11 古河産銅量に占める足尾の比率8)
とくに1884年(明治7)の横間歩大直利の発見を背景に,この年2286トンに達し,古河産銅量合計の68%,全国産銅量の26%を占めた。こうして足尾銅山は,別子銅山を抜いて全国一の銅山になった6)のである。また古河は,1885年,官業払下げによる阿仁鉱山を傘下に加え,その翌年には古河産銅量は,全国産銅量の52%を占めるにいたった。
 その後,全国産銅量は上昇をたどり,古河の上昇率を上まわり,対全国比率は低下し,1887~1901(明治20~34)年は,30~40%代,1902年以降20%代を上下するが,その比率は依然として全国首位にあった。
 そして,この古河産銅量を対全国比を,つねに首位にあらしめたものは,足尾銅山であった。
 これにみるように,古河市兵衛は,まさに足尾銅山の経営的成功によって,全国一の産銅資本に成長し,日本資本主義においてきわめて重要な位置を占めることとなった。そして,はじめ志賀直道と,ついで渋沢栄一の加入によって,3者の組合契約による足尾銅山は,実質的には古河市兵衛の経営によるものであったが,1886年(明治19)に志賀が,1891
年(明治24)に渋沢が協議離脱し,文字どおり古河市兵衛の単独経営となった。

 3.特権資本・古河市兵衛
 しかし,それは古河の地位を低下せしめるものではなく,逆に特権資本としての地位を碓立したことを示すものであった。渋沢は依然として盟約資本であり,さらに,古河がその二男潤吉を養嗣子にもらいうけていた陸奥宗光は,かって失脚したもののその後復活し,1890年(明治23)第1次山県有朋内閣に農商務相として入閣していたのである。また後に古河鉱業の副社長となる原敬は,このとき陸奥の秘書官であった。
 これより少し前,1889年(明治22)大日本帝国憲法が公布され,天皇制絶対主義は,その統治形態を一見ブルジョワ立憲制的に修正された。しかし,天皇。文武官僚の権力は強化され,かえって絶対主義的人民統治を強化しつつ,粉飾したのである。翌90年に開設された国会の機能も,地主階級と資本家階級を天皇制権力の支柱として編成・完成させた10)ものであった。この憲法公布・国会開設をもって,明治政府は,それまでの専制政府から藩閥政府に呼び変えられる。
 この時期,いずれにせよ古河市兵衛は,全国一の産銅資本として,さらに藩閥政府の権力の中枢に,盟約をかわした陸奥宗光が農商務相として存在していた事実は,特権資本と呼称するに十分なものであった。足尾銅山の鉱毒による農地被害の顕在化から,第1回示談を経て第2回示談にいたる背景には,いま述べたように,日本資本主義における対外支払を手段としての銅生産の役割,そして全国一の産銅資本古河市兵衛と,それを支える足尾銅山であること。さらに古河と権力中枢との結びつきに加えて,日清戦争が大きく作用していた。戦争は国民的規模の犠牲を強いるだけでなく,被害農民の抑圧すら正当化する。
 さて,この日清戦争は,連勝につぐ連勝のうちに1895年(明治28)3月終結した。近代日本史上,最初の本格的な外戦での勝利は,全国民の感情を戦争に動員し,軍の威信と軍人の社会的地位も高まった。連戦連勝の陸海軍を統率する天皇は大元帥として,民衆的な基盤に定着していった。こうして日清戦争は,軍国主義と軍事的天皇制イデオロギーの確立に,きわめて大きな役割りを果したのである。

 4.日清戦後経営……銅は国家なり
 しかし,日清戦争の賠償としてえた遼東半島は,ロシア,ドイツ,フランスによる三国干渉によって,返還を余儀なくされる。この遼東半島の返還は,藩閥政府と軍の指導者に軍備拡張の必要性を痛感させた。
第2図 鋼鉄の生産量と輸入量3)
そして陸軍は,利益源としての満州を侵略するために,ロシア陸軍を撃破できる陸軍の近代化と増強を,また海軍は,ロシアにドイツ,もしくはフランスが連合して,東洋に派遣できる艦隊を撃破できる艦隊の増強を目標とした。これは陸海軍ともほぼ2倍の軍備拡張計画であった。
 ロシアを仮想敵国とするこの軍備拡張計画は,三国干渉を利用し,「臥薪嘗胆」を合言葉に国内各層の復讐心を煽動しつつ,軍国主義化に拍車をかけるなかで進められた。この藩閥政府の至上の課題である軍備拡張計画を基軸に,それを支える工業立国策を中心とする殖産興業政策を主柱とする政策の総体を,日清戦後経営と呼ぶ。この日清戦後経営は,日清戦争の勝利と三国干渉の打撃を前提に日本支配層が朝鮮・清国をめぐる帝国主義列強の領土分割競走に参加するための政策であり,日本帝国主義の原型12)と呼ぶべきものであった。
 ともあれ,軍備拡張を基軸とする日清戦後経営は,必然的に鉄鋼生産の増強を必須な課題とした。しかしその製錬設備,冶金技術ともに未熟であり,1896~1900年において,銑鉄はほぼ需要を満たしえたものの,鉄鋼は需要の約20分の1の生産量しかなく,その殆んどを輸入に頼らざるをえなかった。したがって,鉄鋼をはじめとする軍備・工場設備等の輸入は,世界有数の産銅国として,きわめて銅生産のもつ意味は重要であった。
 先進国における鉄鋼生産を中心とする工業生産体系において,「鉄は国家なり」といわしめる比重をもつ。さきの対外支払い手段に加えて,鉄鋼生産を中心とする工業生産体系成立への過程的かつ先導的役割を担う銅生産は,日清戦後経営において,まさに「銅は国家なり」といわしめる時代であった。
 かてて加えて,軍需原材料としての銅の需要の増大は,足尾銅山を帝国主義的生産の枢要な一翼に組みこんでいった。したがって,この足尾銅山の排出する鉱毒に対する反対闘争は,必然的に帝国主義的生産を推進する国家・総資本を相手とする性格をもたざるをえなかった。

 注
 1) 前掲 菅井論文 掲載誌65ページ。
 2) 前掲『創業百年史』73ページ。
 3) 前掲書73ページ。
 4) 前掲 菅井論文 掲載誌65-66ページ。
 5) 前掲『創業百年史』73ページ。
 6) 前掲 菅井論文 掲載誌66ページ。
 7) 前掲『創業百年史』76ページ。
 8) 前掲書76,82ページより作成。
 9) 前掲書89-92ページ。
 10) 遠山茂樹『明治維新』岩波書店,1973年,218ページ。
 11) 藤島道生『日清戦争』岩波書店,1973年,218ページ。
 12) 前掲書213ページ。
 13) 藤井松一「近代技術の導入」『岩波講座,日本歴史17,近代4』,岩波書店,1976年,74ページ。

Ⅴ 鉱毒反対闘争と第1次調査会
 1.示談のくびきを超えて
 被害農民が永久示談のくびきにおさえこまれるなかで,日清戦争は鉱毒被害をより激化・深化させていった。渡良瀬川を灌漑用水とするかぎり,それは避けられなかった。洪水と鉱毒の度合は年々深まり,農作物は収穫もなく,沿岸農民は貧困にあえいだ1)。水源地帯の山林の荒廃が山岳を崩壊させ,渡良瀬川中流では河床が五尺も埋まり,しきりに鉱毒水の氾濫を招く2)ことになったのである。
 1895年(明治28)10月,栃木・群馬県知事は連名で,足尾地区の調査をもとに,「渡良瀬川水源ニ関スル儀ニ付キ上申書」を,野村靖内相と榎本武揚農商務相に提出。足尾銅山の傍若無人な操業ぶりを指摘し,鉱毒被害の激化への不安を表明している。
 つづいて11月,栃木県議会が採択した内相宛の「建議書」も,官有林伐採跡の土砂崩壊の禁止,水源涵養林の伐採禁止,植林の励行等について建議。これも来るべき被害の予防を訴えている。1896年(明治29)3月第9議会での田中正造の政府追求も,鉱毒被害の深化と今後の不安を背景にしていた。
 まさにこの不安は適中した。1896年9月,7月につづいて,山林乱伐を怒るように7月の洪水を上まわる大洪水が来襲し,戦時中に蓄積された鉱毒が,予想をはるか上わまわる規模で沿岸地帯を呑みこんだ。
 しかもその被害地域は,栃木・群馬に加えて,茨城・千葉・埼玉5県に及んだ。
1897年2月,四県連合足尾銅山鉱業停止同盟事務所が発行した「足尾銅山鉱毒被害概表」(表12)によれば,その被害農地面積約3万4000町歩,侵水戸数約1万8000戸にものぼった。
表12 足尾銅山鉱毒被害調査表3)
 この鉱毒被害は,調査が進むにつれて拡大し,その被害は,東京府下南葛飾郡に及んでいることが判明した。その結果,被害地域は,1府5県12郡136ヵ町村,被害農地面積4万6723町歩,被害総額2782万9856円4)にのぼった。おどろくべきことに,その被害総額は,当時の足尾銅山の年間売上額のほぼ10倍に達する額であった。
 田中正造は,鉱毒被害地をさして,古河市兵衛の治外法権(外人居留地)と呼んだ5)が,まさに鉱毒被害地は,足尾銅山の帝国主義的生産がもたらした,新たな差別地域の創出といってよいものであった。この資本と権力の治外法権的被害から解放,鉱毒の基本的解決は,鉱業を停止する以外に求められなかった。こうして,鉱業停止要求をかかげて,鉱毒反対闘争が組織化されてゆくのである。

 2.被害農民の組織化へ
 1896年(明治36)9月の大洪水の直後の翌10月5日,群馬県渡良瀬村の雲竜寺に,田中は,栃木・群馬両県下10ヵ町村有志とともに,「群馬栃木両県鉱毒事務所」を設け,鉱毒事件の基本的解決をめざして盟約を結んだ。そして,この盟約は,さらに拡大されていった。
 こうして,いままで個別的,あるいは近接町村による部分的連合にすぎなかった運動を,鉱業停止を目標として,全被害地を包含する町村の連合による鉱毒反対闘争へ,大きく道を開くこととなった。
 この時期,被害町村は,個別的に,あるいは近接町村が談合して県知事,鉱山監督署,農商務省等に,鉱業停止または地租免租の請願を行なっていたのである。
 雲竜寺に設立された両県鉱毒事務所は,これら被害町村の意向を集約しつつ,鉱業停止を主目標としながら,当面,鉱毒被害農地の地租免租をめざして,全被害町村を一丸とする組織化に努め,それ以降の高揚に胎動していった。あの屈辱的な示談契約の教訓から,鉱毒による生活破壊を,一資本の責任とみなすよりは,政府・体制の責任とみなす鉱業停止要求への転換であった。
 一方,主務官庁である農商務省も,明らかにこれまでとは異なった対応を見せ始めていた。農商務省は1896年(明治29)11月農事試験所技師を群馬・栃木両県へ出張させて,鉱毒被害調査報告の提出を求め,翌12月には,省内に足尾銅山鉱毒調査委員会を設け,委員5名を任命していたのである。
 農商務省のこれまでとの対応のちがいは,古河市兵衛と特殊な関係にあった陸奥宗光が外相に転出し,旧幕臣の榎本武揚が農商務相に就任していたことと無関係ではないかも知れない。だが,その主たる理由は,あくまで歴史過程としての日清戦後経営における農商務省の役割と,その政策立案・推進過程に見出さなければならない。

 3.鉱業と農業の対立矛盾
 日清戦後経営において,鉱工業・農林漁業・商業部門等の殖産興業政策の立案・推進は農商務省がその中心であった。とくに日清戦後経営において,工業立国策がその柱であった。この工業立国策とは,輸出増進により兵器その他の重工業製品の輸入を実現する富国策であり,輸出品の国際競争力を強めるために,農民と労働者の犠牲の上になされる飢餓輸出的なものとなる方向性をはらんで6)いた。
 そして,この工業立国策を担当する農商務省主流官僚に対し,その補足的地位を担うものとして,傍流として同じ農商務省に,農業対策・農民対策を担う農務官僚が存在していた。しかも,この農務官僚は,1875年(明治8)には,租税収入のうち,地租収入が実に88.2%を占め,その後,漸減しつつあったとはいえ,つねに50%以上を占めていたことにみられるように,農務官僚は,かつて農商務省における主流官僚であった。
 この地租収入が,1896年(明治29)には,ついに租税収入の50%を割り,歳入総額に対して,20.1%に低落したのである。
 租税収入における地租の比率の低下は,そのまま農務官僚が,主流から傍流への転落を示すものといえよう。だが,1896年(明治29)においては,前年の地租の比率が50%を超えており,まだ農務官僚の主張が通る時代であり,さきの足尾銅山特別調査委員会の設置と委員の任命は,低落しつつある傍流官僚の低抗の一環とみてよいであろう。
 確かに,日清戦後経営期全般を通観するとき,工業立国策に立つ主流官僚の政策立案・推進によって貫徹していることは疑いない。だが,主流に対する傍流の抵抗が,この時期はまだ可能であった。1897年(明治30)3月18日付,樺山内相と榎本農商務相による田中の質問に対する「答弁書」に,「将来鉱業ト農業ト衝突スル場合ニ適用スベキ方針ヲ確定スルノ必要ヲ認メ,之ニ関スル各般の調査ヲ7)」を行なうとしていたことは,足尾銅山鉱毒事件をめぐる主流と傍流の抗争に,まだ結着がついていないことを示すものといえよう。
表13 政府歳入・租税における地租
 しかも,この「鉱業ト農業」の衝突事件としての足尾銅山鉱毒事件は,単なる農商務省内部の問題ではない。政府部内各省はもちろん,世論の土壤としての全国的な規模において,大きな波紋を投げかけた問題であった。……農業は人の生存に必須なものとする意識。また農は国の基として,当時の教養としての儒教的農本思想,さらには近世以来の伝統的農本意識に挑戦して,切実な危機意識を与えた問題であったのである。
 さて,1896年9月の大洪水による鉱毒被害の拡大・深化を背景に,田中は翌97年2月の第10議会において,帝国憲法に人民の反抗権を含ませて,鉱業停止を要求した。これが新聞に報道されるや8),組織化されつつあった被害農民800余名は,永久示談の呪縛をみずから断ち切り,議会の田中の活動に呼応して,3月2日第1回の大挙東京押出を決行するにいたったのである。

 4.政治闘争―大挙東京押出し
 この大挙東京押出しは,田中の議会闘争に連?し,関係各省庁への請願・陳情とともに,世論に訴えることをめざしたものであった。そしてまさに世論は高揚した。この世論の盛りあがりを背景に,榎本農商務相の被害地視察が行なわれた。被害農民はこの好機を捉え,榎本農商務相の被害地視察に重なる3月24日,3000余名による第2回大挙東京押出しを,官憲の阻止行動を突破して決行した。
 世論の高揚と被害農民の直接行動のなかで,この日,第1次鉱毒調査委員会(以下第1次鉱毒調査会)の設置が発表された。この調査会は,法制局長官神鞭知常を委員長とする11名で構成されたが,2日後さらに7名の委員が追加され,合計18名で構成された。この調査会の設置後,榎本農商務相はいままで鉱毒問題を放置してきたことの責任をとって辞任,外相の大隈重信が兼務することとなった。
 第1次鉱毒調査会は,3月下旬から各委員が被害地の視察を行ない,4月13日以降,鉱毒事件処分方針の検討に入った。
さて,こうして第1次鉱毒調査会は発足するのであるが,この調査会の設立に関して,政府の意図を知る上で,見落してはならないまひとつの側面があった。それはつぎの資料に明瞭に示されている。
 足尾銅山鉱毒事件ニ関シ今回政府ニ於テ調査委員ヲ設ケラレ急速之カ調査ニ従事セシメラレ候に就テハ其旨県下人民ニ懇諭シ多衆上京スルガ如キ不穏ノ挙動無之様御取計相成度此段及御通牒候也
 明治30年3月24日
 内務次官中村元雄
 群馬県知事 石坂昌孝殿
 この通牒は,調査委員の発表された3月24日当日に出され,翌25日には,「足尾銅山鉱毒事件ニ関スル件ニ付内訓(内訓第11号)として,早くも群馬県知事から被害地の各郡長宛に送られていたのである。この事実は,調査会の設立が,被害農民の大挙東京押出しを抑制せる目的をも,同時に併せもっていたことを示している9)のである。

 5.第1次鉱毒調査会への期待
 この第1次鉱毒調査会の設置に対する新聞報道は,「若し適当なる除毒の方法を見出し能はざる時止むを得ず鉱業を停止すべしとの意見を主務省に提出するに至るやも知れず……鉱業主古河氏にして其損害を永遠に弁償することを約し被害人民之を承諾するに於ては固より禁止説を断行する必要なかるべし10)」と,鉱業停止の可能性の強いことが示唆されていた。
 また別の新聞は,「今回調査委員に任命されたる後藤(新平)内務省衛生局長は此問題に関しては衛生上より観察すれば断然鉱業を停止するの外なしと主張し居る由11)」と,ここでも鉱業停止の可能性が強い見透しであることが報じられていた。
 そして3月31日,天皇の意向を受けたものとしての広幡侍徒の被害地視察に続いて,4月9日,樺山内相が被害地を視察するなど,足尾銅山鉱毒事件をめぐる舞台は,鉱業停止に向って進展していくかにみえた。
 4月13日からの調査会の討議を,「足尾銅山鉱毒事件調査委員会速記録(要約)12)」,および,「明治30年鉱毒調査委員会報告要領13)」をみると,その当初,確かに事態は鉱業停止に向けて進んでいたようにみえる。委員会の討議は,予め神鞭委員長が用意した決議案の草稿をもとに進められるのであるが,そのもっとも重要な部分は,4月14日夜8時25分から討議されたつぎの個所であった。
 以上ノ事由ニ依リ当委員会ハ左ノ件々ヲ各主務省ニ下命アランコトヲ上申ス
 (イ)一日も速ニ足尾銅山附近ノ山谷ニ相当ナル方法ヲ以テ砂防及植樹を為サシムベキコト
 (ロ)一時足尾銅山鉱業の全部若ハ其幾分ヲ停止し鉱毒の防備ヲ完全ニ且永久ニ保持スル方法ヲ講究セシムルコト
 (ハ)相当ナル方法ヲ以テ渡良瀬川ノ鉱毒含有ノ土砂ヲ浚渫若ハ排除セシムルコト
 このうち,もっとも重要な(ロ)は,渡辺渡の修正の提案によって,最終的につぎのよう改められる。
 期日ヲ指定シテ鉱毒及煙害ノ防備ヲ完全ニ且永久ニ保持スベキ方法ヲ講究実施セシムルコト,且必要ナル場合ニ於テハ官ニ於テ直ニ之ヲ実検シ其費用ヲ鉱業人ニ負担セシメ若ハ鉱業ヲ停止セシムルコト

 6.鉱業停止ならず
 この修正によって,鉱業停止はありえず,予防工事命令を主とする第1次調査会の方向は決定した。しかし,さきの部分の修正によって,直ちに鉱業停止が潰え去ったのではなく,そのはじめから,内務省土木技監工学博士古市公威,非職御料局技師工学博士渡辺渡ら鉱山派は,草案の逐条審議のあらゆる過程でその骨抜きを図り,農商務省主流官僚和田国次郎もこれに同調,中立委員をまきこんで,鉱業停止にもちこもうとした農科大学助教授長岡宗好,農事試験所技師坂野初次郎は,押しきられてしまったのである。
 だが,後にみる鉱毒予防工事命令の発動を,この第1次鉱毒調査会の自主的決定とみなすことはできない。その速記録,報告要領および他の資料との関連において,その決定に到る過程において,藩閥政府による有形無形の圧力が看取されるのである。
 たとえば,5月18日の委員会の「具陳」,「徳義上鉱業人ニ懇諭セラレ相当ナル補償金ヲ被害人一同ニ差出サシムルノ道ヲ取ラレムコトヲ希望」したのに対し,「鉱業人ト被害民トノ間ニ於ケル関係ニ付テハ政府ハ干与セサルコトニ閣議決定シタル趣」が伝えられ,この件は,まったく立消えになってしまうのである。明らかに藩閥政府による第1次鉱毒調査会への制肘である。
 また,「断然鉱業を停止するの外なしと主張していた内務省衛生局長の後藤新平は,委員会の討議において殆んど発言せず,あまり事態の推移に関係のない文案の語句の修正について,意見を述べているにすぎない。後藤のこの変貌は何に由来するか。その背後の事情をさぐれば,つぎのような事実が浮んでくる。
 このときの内相樺山資紀は鹿児島県出身,日清戦争において海軍軍令部長として,黄海海戦で勲功をあげ,伯爵海軍大将となった人物で,藩閥薩摩の長老であり,海軍の薩摩の頂点に立つ西郷従道の直系である。この樺山から後藤は,さきの新聞での発言で注意を受けた可能性は充分にある。
 たとえそうでなくとも,樺山内相のもとにあって,軍備拡張を基軸とする日清戦後経営期において,足尾銅山の鉱業停止を主張,または足尾銅山に不利な発言をして,兵器・軍艦の輸入に差支えるような振舞いは,官僚である限りまったく許されるべくもないのである。
 いずれにせよ,第1次鉱毒調査会は,軍備拡張を基軸とし,それを支える殖産興業政策に狂奔する日清戦後経営と,それにおける足尾銅山の担う役割に,大きく制約されたものであったのである。

 注
 1) 前掲『真相』99ページ
 2) 前掲『亡国の惨状』64-65ページ。
 3) 前掲 菅井論文 掲載誌69ページ
 4) 前掲『田中正造全集』第8巻,13ページ
 5) 前掲『田中正造全集』第7巻,80ページ。
 6) 石井寛治「日清戦後経営」『岩波講 日本歴史 16近代3』岩波書店,1976年,78ページ。
 7) 前掲『田中正造全集』第6巻,551-55ページ。
 8) 栗原彦三郎編『義人全集』第3巻,「鉱毒事件」上巻 中外新論社,1925年,125ページ。
 9) 前掲 菅井論文 掲載誌70ページ。
 10) 『東京日日新聞』明治30年3月28日。
 11) 『読売新聞』明治30年3月28日。
 12) 『栃木県史 史料編近現代9』栃木県史編纂委員会,1980年,635-37ページ。
 13) 前掲書641-813ページ。

Ⅵ 鉱毒事件処分の内実

 1.鉱毒予防工事の内実
 足尾銅山の鉱毒予防工事命令は,同1897年(明治30)5月27日付で,古河市兵衛に伝達された。その工事内容は,第1回(1896年12月),第2回(1897年5月13日)の予防工事命令とは,比較にならない規模のものであった。
 東京鉱山監督署長 南〓三によるこの命令書は,37項から成り,その主とするところは,「亜砒酸及煙媒を凝結降沈せしめ且硫酸製造又其他脱硫の方法を以て亜砒酸瓦斯を除却」する脱硫塔,「沈澱池濾過池」,「泥渣堆積所」,「畑道及大烟突」等々の建設であった。そしてこれらの建設を,期限をきって義務づけ,37項に,「此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停止すべし」としていた。明らかにこの命令書は,藩閥政府の意図に沿った鉱業継続を前提にしたものであった。
 とくにこの37項は,政府部内と農商務省内部の鉱業停止派,そして被害農民への申しわけと,さらに世論の鎮静化を狙いとしていた。この命令書がはらむ欺瞞と空洞性は,この予防工事の完成後,その命令責任者であった南〓三が足尾鉱業所長に就任したことに,みごとに象徴されている。
 その内容において,類例のないこの予防工事は果して実効を収め得るものだろうか1),と古河側すら危ぶむありさまであった。とくに脱琉塔は,いかなる装置によるべきかは全く成案を欠き,確信のもてない古河の設計,そのまま承認・施工させる2)という,馴れあい工事であった。これについては,つとにつぎのような指摘もある。
 はじめ古河側が危惧したようにその効果は薄く,脱硫装置に至っては全く機能せず,煙害は一層激化した。そのため製錬所の上流にある松木村民は,明治34年1月に「煙害救助請願書」を政府に提出することになるが,結局解決されずにこの年の暮に廃村となったのである。そして古河は最初の危惧をも忘れ去り,予防工事後は「足尾銅山に在る,脱硫塔は世界稀有の,殆ど,絶一の事業」と自慢し,以後は完全に開き直ってしまうのである3)。
 この工事に要した費用は,賃金47万円,材料費42万円,食料雑費15万円,総計104万円4)で,その一部の資金は,第一銀行の渋沢栄一の融資でまかなった。
 この鉱毒予防工事命令の発動を,被害農民たちは,どのように受けとったであろうか。多くの被害農民たちが,みずからの闘いの成果として受けとめたことは疑いない。被害農民の一人,永島与八は,「我々の願うところは防禦[○○]ではなく停止[○○]にあるとしながらも,長年の間田中代議士が東奔西走身を〓して運動を続け,議会において幾度か血涙を揮って政府に質問を為したことが刺激となり,一方,「我々被害民が生命がけで運動したことが動機となって,ともかくこれだけの命令を下した5)」としていることにも,それはうかがわれる。

 2.免租処分の内実
 鉱毒処分の決定は,この予防工事命令に加えて,地租の免租処分の決定がある。第1次調査会では,この免租処分の問題について,5月3日,7日に集中的に論議が交された。そして,つぎの「具陳」が参考のためとして提出された。
 本件ハ決議ヲ以テ上申スルニアラサレトモ参考ノ為メに具陳ス
 一.被害人民ノ救済ハ地租条例ニ依ルノ外ナシト決議セリ,然レトモ斯ノ如キハ其ノ恩恵ナシ,然レトモ国ニ於テ此ノ上ノ救済ヲ為スノ適法モナク又必要モナシト認ム,故ニ徳義上鉱業人ニ懇諭セラレ相当ナル補償金ヲ被害人一同ニ差出サシムルノ道ヲ取ラレンコトヲ希望ス,其ノ金額ハ鑑定人ヲ選ミ定ムルコト(委員長ヨリ委員ヘ報告,鉱業人ト被害民トノ間ニ於ケル関係ニ付テハ政府ハ干与セサルコトニ閣議決定シタル趣ナリ,又委員決定ノ報告ニ基キ農商務外2省ニ於テ各命令ヲ実施スルコトトナリタリ)
表14 1898年(明治31)5月群馬県鉱毒免租地表
 こうして免租処分の実際については,農商務省外(内務・大蔵と思われる)2省によって,地租の免租処分が決定されるのである。
 実際に,この免租処分が実施されたのは,翌1898年(明治31)5月2日のことであった。この1年にも及ぶ遅延の原因は,被害調査の困難,大蔵省と農商務省の不一致,中央官庁と地方自治体(県)との連絡の不充分,被害農民と税務所側との被害地等級判定に際しての紛争等々であるが,最大の原因は免租処分にともなう公民権の喪失をどう取扱うかにあった6)。
 免租処分の状況について,栃木県関係分については,県庁の火事等によって史料が存在しないので,群馬県関係分についてみよう。
 この第1回免租処分直後の1898年(明治31)9月初旬,再び大洪水が来襲した。前表にみるように,その大部分を占める五等免租地は,このとき免租期限明けになり,被害農民たちは,免租継年期願を提出しつつあったときであった。この重なる被害によって,被害調査後の翌99年7月,第1回目と殆んど同様の農地に,前回同様の免租処分が行なわれた。
 表15にみるように,被害面積合計は2万5500町歩であるが,実際の被害面積はこれの2~3倍の5~8万町歩と推定されている。

 3.町村自治の破壊
 こうした地租の免租処分は,すでに第1次調査会の「具陳」にみられるように,被害農民に「其ノ恩沢少ナ」く,「鉱業人ニ……相当ナル補償ヲ」出させるべきものであるが,「政府ハ関与」せずの閣議決定によって,最少限度の措置として実施されたものであった。
 しかも・これによって被害農民は,地租の納付によって得ていた公民権・選挙権を喪失し,地租(地価等)に依拠して徴収されていた地方自治体の財源の減少と枯渇がもたらされた。
表15 免租面積・地価・地租9)
それは,鉱毒被害に対してとられた行政措置による人権?奪であり,地方財政の逼迫,町村自治の破壊であった。
 当時,選挙権は25歳以上の男子で,衆議院議員については,国税15円以上,県会・郡会議員については,国税3円以上,町村会議員については,国税2円以上納めた者に与えられていた。つぎの表は,公民権の喪失率に比して,衆議院議員選挙権の喪失率が非常に高くなっている。その原因は,『群馬県文書によれば,被害農民は町村自治を守るために,公民権の存続になみなみならぬ努力を払ったが,衆議院議員の選挙権を確保するためには,その負担があまりにも重すぎたためという。
 また,公民権の喪失による町村自治の破壊は,当時の地方財政制度と関係していた。わが国の地方税は,国(県)税に対する附加税としてあったために,国税たる地租が免除されると,同時に地方税も減収となったのである。たとえば,殆んど全村が免租地となった群馬県邑楽都大島村では,村の財源が皆無にひとしくなり,他方,公民権所有者も激減したため,この両者から町村自治の運営が不可能になって,邑楽郡書記が職務管掌して村長の任務を遂行した。同様の町村に,栃木県足利郡久野村等がある。
表16 公民権喪失調(群馬県)10)
表17 衆議院議員選挙権喪失調11)

 注
 1) 前掲 菅井論文 掲載誌71ページ。
 2) 五日会編『古河市兵衛翁伝』五日会,1925年,248ページ。
 3) 前掲 菅井論文 掲載誌71ページ。
 4) 前掲『古河市兵衛翁伝』233ページ。
 5) 前掲『真相』223-24ページ。
 6)~9) 前掲 菅井論文 前掲誌71ページ。
 10)~11) 前掲誌72ページ。

Ⅶ 鉱毒反対闘争の高揚

 1.鉱毒反対闘争と田中正造
 第2回目の免租処分の直接の原因となった1898年(明治31)9月初旬の大洪水は,前年5月の鉱毒予防工事命令による足尾の沈澱池決潰による鉱毒水を,沿岸地帯に氾濫させ,鉱毒被害をさらに激化させた。そして予防工事命令への疑惑と不信,怒りと不安に被害農民を駆りたてた。
 被害農民たちは,2度の大挙東京押出しが,予防工事命令を引き出した経験から,堤防増築・救助窮済・自治破壊1)に対する新たな政府の措置を引き出すことを狙って,第3回目の大挙東京押出しを計画。9月26日,1万1千余の被害農民が雲竜寺を出発,途中,憲兵・警官の阻止行動を排除して,主力部隊は9月28日,東京府南足立郡保木間村に到着した。
 このとき病038137を押して駈けつけた田中正造は,惣代50名を残して帰村することをすすめ,もし政府に対する願意が徹底しないときは,田中が先鋒になって運動する2)ことを約束した。
 確かに,この時期の鉱毒反対闘争は,かつての鉱業人を相手とする補償要求から,その基本的解決をめざして,鉱毒によるもろもろの被害の発生を,藩閥政府の責任とみなす鉱業停止要求に転換していた。それは,単なる請願・陳情運動ではなく,明確な政治的要求をもつ政治闘争として展開されていた。
 だが,対権力闘争を支える思想性と,官憲の弾圧に耐えて闘う被害町村の組織体制も,また充分とはいえなかった。田中は,この帰国の説得によって,いままで,部分的あるいは個人的に与えていた指導的影響力を,鉱毒被害地全域を包含する組織化を課題として,その指導権を,鉱毒反対闘争の帰趨にかかわる責任とともに確立するのである。
 それ以後,田中は対権力闘争に耐えうる思想性を注入しつつ,組織的強化を図り,その後の反対闘争を,一定の戦略構想のもとに展開してゆくのである。第4回大挙東京押出しは,この帰国の説得の段階から構想されてゆくのである。
 ところで,田中はさきの説得のなかで,いまの内閣は諸君の内閣である3)といった。だが実は,自由党と進歩党の合同によって,1898年(明治31)6月に成立した民党内閣,大隈重信(総理・外務)・板垣退助(内務)のこの内閣に対して,田中はその成立過程から強い不信を抱いていた。

 2.半身不随の大隈・板垣内閣
 もともとこの内閣は,その成立過程において,陸海両軍部大臣の入閣拒否によって,その成立が危ぶまれていた。だが結局,陸相桂太郎,海相西郷従道は,大隈・板垣と会見し,異分子とし入閣することを明らかにするとともに,新内閣が軍備縮小方針をとらないことを入閣の条件4)とし,それを承諾して成立した隈板内閣は,その当初から,「半身不随の内閣として出発したのである。
 こうして隈板内閣は,藩閥に追随し,軍備拡張を基軸とし,それを支える殖産興業政策の推進―日清戦後経営を承認し,富国強兵政策をみずから担ってゆくのである。隈板内閣は,この年の総選挙に大勝するが,かつて自由・改進両党を結びつけていた政治スローガン,「民力休養」「地租軽減」を完全に空洞化させて,成立後わずか1ヵ月後の11月に崩壊してしまうのである。この内閣に,足尾銅山鉱毒事件の解決など,その当初からありえなかったのである。

 3.現地町村の組織強化めざして
 さて,被害農民の組織強化を課題とする田中は,1899年(明治32)3月9日,第13議会の最終日,議場でその決意を披瀝した。
 「私ハ是ヨリ地方ノ方ニ事務ヲ多ク執ル積デゴザイマシテ,地方ノ寧ロ被害地ニ自分ノ家ヲ引移シテ,被害民ト一緒ニナッテ,是ヨリ運動スル積デゴザイマス,……被害ニハ法律ナシ憲法ナシ,法律憲法ハ独リ加害者ノ利器トナッテ,被害者一般ニハ,法律ナシ憲法ナシ政府ナシト同一5)」の状況を打破するために〓身することを明らかにしたのである。
 そして田中は,翌4月,雲竜寺において,町村長の選挙に際して,鉱毒問題に熱意の不足している町村長は,青年と謀って,「打落シテ仕舞」うことと,今後の運動に関して,いままでのように県庁に出向いたり,出京することをやめて,その攻撃目標を,「郡衙」だけにしぼることを指示6)した。
 行政機構の末端機関である町村長に,鉱毒問題に熱意のあるものを充てることは,被害農民の立場から,町村自治をみずからのものとして捉え返すことである。それはまた,鉱毒反対斗争の兵站部としての各町村の組織を強化することにもつながる。そして,この町村長を抱きこみつつ,その至近距離にある郡衙への攻撃(陳情・請願・申入れ)を開始する。この郡衙もまた,可能なかぎり抱きこむに越したことはない。
 郡衙を目標とすることは,より広い層を結集しつつ,その組織化を狙い,中堅指導層の組織的訓練を重ねながら,自郡内組織の整備・点検を行ないながら,組織の強化を果してゆく。いわば,大挙東京押出しが遠心運動であるとすれば,この救心運動は,その組織的強化と相まって,やがて全鉱毒被害地を一丸とする組織的エネルギーを,必然的に外部に向けて爆発することになるであろう。
 一方,この郡衙攻撃に併せて,東京では在京委員による政府・関係各省庁への請願・陳情運動,および政党,報導機関に対して,鉱毒事件と被害農民への理解を求める運動もすすめられていった。
 この年,1899年(明治32)中,貴族院において,足尾銅山鉱毒事件に関する請願書が,8件も採択されていることに,この面での運動の一端が知られよう。

 4.「非命ノ死者」の仇を討つ
 しだいに,被害地での郡衙を直接の対象とする運動は高まり,それに平行して組織的強化も進んでいった。その組織的強化と相まって,蓄積されたエネルギーは,藩閥政府に向けて爆発することを志向した。
 鉱毒被害地での田中の活動も,精力的にすすめられていった。そして1889年(明治32)11月から翌1900年2月にかけての第14議会の会期中に,第4回大挙東京押しを決行することを決定したのは,官憲側が入手した情報によれば,この年の8月30日であった。
 「渡瀬村下早川田雲竜寺群馬栃木県鉱毒委員三十余名秘密集会ヲ催し……第14議会ノ開会ヲ待チ被害人民総員ニシテ青年4,50名ヲ先鋒トシ米麦薪炭船ヲ要意シ途中如何ナル障礙ニ遇ッテモ一歩モ退ク事ナク内務農商務両省ニ逼迫シ素志ヲ貫徹スル事ニ決議シタリ」7)。
 この日の決議は,その後,正式な組織決定にもちこむため,指導層による前駆的な決議であった。この決議を背景に田中は,「鉱毒問題ヲ軽視スルカ若シクハ之ニ反対シテ鉱毒問題勢力ニ防[ママ]害トナルベキ行為アルモノアレハ我々ハ之ヲ以テ国家社会の公敵ニシテ又被害地方ノ仇讐ナリトシ震ッテ此奴輩ヲ撲滅シ又訓誡スル事ニ勤メザルベカラズ8)」と,反組織的な行動を警告した。
 また田中は,第13議会にもち出した,乳児死亡等,鉱毒による死者の増加―,「非命ノ死者」の存在を明確化し,スローガン化することをめざした。この「非命ノ死者」,あるいは「鉱毒殺人」なる言葉は,第4回大挙東京押出しに向けての組織強化と,その正当性の主張の根拠として,さらに8月30日の前駆的決議を,正式な組織決定にもちこむ〓子としてスローガン化していったのである。
 この時期,田中は殆んど被害地を巡回して,「非命ノ死者」を挺子として,正式な組織決定にもちこむことと,その後の組織強化に努力しているのである。この間の田中の行動は,「口演」と題したリーフレットで,みずから明らかにしているが,その内容は,およそ次のようなものである。
 九月一日 栃木梁田村斉藤ニ少数人ニ鉱毒非命死者ノ談話ヲ為シ泊ス
 同 二日 群馬西岡一文渡少数人ニ鉱毒非命死者ノ談話ヲ為シ泊ス
 こうして,第4回大挙東京押出しは,9月12日,正式に組織決定をみたのである。「室田忠七鉱毒事件日誌は,「最後之運動方法ニ就キ大運動必用[ママ]ヲ見留メ就テハ各村参謀長撰任シ二十日迄ニ死亡調査及上京スル人名等記シ事務所ニ集合」としている。この死亡調査こそ,「非命ノ死者」問題をスローガン化するとともに,運動論の〓子にすえたことを意味するものであった。つぎの表は,これにもとづく,統計調査を集計したリーフレットである。
 なお,この正式な組織決定をみた日,「尾行巡査の手控9)」によれば,田中はきわめて重要な発言をしている。
 鉱毒事件については政府があると思うとも違うし,また帝国憲法があると思うても違うから,諸君は自分を頼みて運動して,目的を達するということが必要である。
 目下は古河市兵衛に多人数が殺されておる場合であるから,政府がそのかたきをとってくれなければ,諸君が手を下して,そのかたきをとるという考えで運動せなくてはならぬ。
表18

 5.第4回大挙東京押出しに向けて
 ここにはもはや,かつてのように帝国憲法あるいは藩閥政府に依拠して,鉱業停止をかちとるという運動論はない。「非命ノ死者」の仇を討つのだという,実力行使によって鉱毒被害からみずからを解放する心構えを説いているのである。
 さらに田中は,この年の12月,第4回大挙東京押出しに向けて,革命的思想性の注入―戦闘性の高揚をめざしつつ,その定着と発展への組織的課題を担うものとして,鉱毒議会を成立せしめた10)。この鉱毒議会は,国家の行政単位組織を超えて,鉱毒被害地を一丸とする解放への自治的な制度化を図ろうとしたものであった。その組織地域は,2県4郡18ヵ町村であった。
 かくて,鉱毒被害地―被害農民の組織的高揚のなかで,1900年(明治33)を迎えた。そして1月18日,雲竜寺で僧侶18人,鉱毒委員および青年300余名が参列して鉱毒被害非命者の施餓鬼が行なわれた11)。終って,列席者はつぎの鉱毒悲歌」を歌った。
 人の体も毒に染み 妊めるものは流産し
 なぐくむ乳に不足なし 二つ三つまで育つるも
 毒のさわりに皆たおれ 又悪疫も流行し
 悲惨の数は限りなく 時の政府への嘆願も
 悪人ばらにさえぎられ 九年の長きその間
 今に清めぬ渡良瀬川 時の政府への嘆願も
 費用に今はつかれはて 親子は悲命にたおさるる
 早く清めよ渡良瀬川
 この鉱毒被害非命者の施餓鬼は,まさに「非命ノ死者」の怨念を,戦闘性に転換するものであった。1月21日,「青年請願委員五十名死ヲ決シテ入獄ヲ覚悟シ素志ヲ貫カザレバ帰止セザル大決心12)」のもとに,「青年決死隊」を組織。また,これら青年によるオルグ活動・演説会・宣伝活動等が,とくに組織的に低調な町村に対して重点的に行なわれた。こうして第4回大挙東京押出しに向けて,被害地は急速にもりあがっていった。

 6.官憲側の警備体制強化さる
 一方,官憲側の監視・探索・取締りも厳しさを加えていった。栃木県警部長は群馬県警部長と連絡のもとに,すでに前年の9月30日付で,「秘第1407号13)」によって,「鉱毒被害民多衆運動取締方別紙」を,管下該当警察署ならびに駐在所に発し,
大挙東京押出しに際しての県警部長への報告と,各警察署の連絡,さらにその取締り方法について指示していた。
 また,1月30日には,大挙東京押出しの偽装のために,東京見物・年賀・成田山参詣として三々五々出発する計画のあることを察知して,「秘第154号14)」によって,「説諭差止」めを,栃木県下該当警察署に指示したのであった。
 さらに栃木県警保安課長は,2月6日佐野・足利・御厨・部屋等の警察署長と,大挙東京押出しに際しての対策を協議決定15)。翌7日には,栃木県警部長が,群馬・茨城両県警部長と,各県警察の取締分担とその方針を協議決定16)した。そして2月8日には,栃木県警は警部10名,巡査部長11名,巡査162名17)によって,大挙東京押出しの阻止体制をとった。また群馬県警は,雲竜寺に警部3名巡査50名を配したほか,総員185名18)の厳戒体制をとった。憲兵隊は佐野では待期中であった。
 この緊迫した情勢のもとで,2月9日夕刻雲竜寺の住職黒崎禅翁の梵鐘を合図に,植野村・吾妻村・渡瀬村等でも警鐘や梵鐘を乱打し,約300名の青年が雲竜寺に集合。鉱毒悲歌を歌い,翌日午前4時にかけて各町村への勧誘を行なった19)。官憲の監視下におけるこのような示威行動は,被害農民,とくに青年層の尖鋭化の一端を示すものであった。
 同10日,室田忠七は東京事務所へ打合せのため上京,田中代議士,村長諸氏に面会,種々打合せの上,翌11日帰京,そして雲竜寺で報告した20)。室田のこの上京は,大挙東京押出しの最終的な日時の打合せであったと思われる。室田によれば,この日,「大運動ノ計画アルタメ憲兵警官千名計警戒21)」中であった。

 7.流血の弾圧川俣事件
 この日,雲竜寺には約140名が集合,「左部彦次郎,小野政吉,野口春蔵等ハ青年上京ニ関スル煽動的談話ヲ為シタルノミニシテ上京の期日ハ口ニセズ23)」と,官憲側は,2月12日の前半の情報でも,まだ正確な決行ノ期日をつかんでいなかった。そして同日,「鉱毒被害民明13日午前3時ヲ期シ雲竜寺ニ集合シ未明ニ出発スルコト確定セリ23)」との情報がもたらされる。一方,大挙東京押出しを明日に控えて,雲竜寺内の動きもまことにあわただしかった。
寺内俄然煩劇多忙ノ状ヲ呈シ,重立者ノ往復旁手織ルガ如ク,火急親展ノ封状ヲ各村へ発シ,青年ニハ徽章ヲ付シ4名ノ医師ヲ雇入レ,騎馬ニテ指揮ヲ警戒地ニ派シ警備ノ状況ヲ偵察シ,利根ノ深浅ヲ探ル等用意頗ル周到ナリキ。斯クシテ午後7時ニ至リ雲竜寺の警鐘,太鼓,法螺貝ヲ鼓吹シ瞬時ニテ蓑笠草鞋ニ身ヲ固メタル被害民鉱毒悲歌ヲ高唱シツツ雲竜寺付近ニ蟻集シ喧噪ヲ極メ,カガリ火ヲタキ不穏ノ形勢益々ソノ度ヲ加エタ24)」。
 そして,翌2月13日午前8時30分,「5万6千余町歩の鉱毒被害地を城郭となし,30有余万の鉱毒被害皆兵となり,正義の旗を渡良瀬川沿岸の毒風に翻し,一は以て社会の同胞に訴へ,一は以て非道の悪漢〔政府〕と闘25)」とした。第4回大挙東京押出しの出発となった。
 実力行使的,この大挙東京押出しがめざしたものは,新聞報道あるいはみずからその媒体となって世論を活性化し,中央における支援活動の強化等による反政府世論の台頭を促し,藩閥政府の日清戦後経営に基づく殖産興業政策の転換,なかんずく足尾銅山の鉱毒対策の全面的な転換,譲歩をかちとることにあった。
 さて,隊伍を整えて雲竜寺を出発した2千5百余名の被害農民の部隊は,館林に達した午前10時頃には,1万2千を数える大部隊となっていた。そして「川俣ニ向ケ行進シ大佐貫ノ繩手ニ於テ26)」,「実にその光景酸鼻にたへざるものありたりき。警察権なるもの此の如き点まで及ぼし得べきものなるか27)」と,新聞記者を慄然とさせた凄惨な大弾圧が,3百余名の警官によって行なわれたのである。
 もし,三々五々の発進方針をとっていれば,それぞれが警官の目標となって警備体形を分散させ,その間際を縫って屈強な青年たちが多数上京することも決して不可能ではなかったであろう。大部隊となって隊伍を整えて進んだために,逆に相手の弾圧を容易にしたのである。栃木県警部長も,「三々五々出京ノ策ヲトルトキ28)」,警察の阻止行動としての司法処分等は,「到底其目的ヲ達スルコト至難ナルニ付被害民ノ多数ハ其処分ニ漏レ上京ノ途ニ就クベシ29)」と,警戒していたのである。
 この川俣事件で,現場逮捕および事後逮捕(とくに有力指導層が多い)で計100余名30)が逮捕された。このため,第1次に続いて2次,3次と出京する案は,ついに実現されなかった。大挙東京押出しの挫折であった。
 一方,会期中の第14議会で,田中正造はこの弾圧事件―川俣事件および足尾銅山鉱毒事件のあらゆる問題について,連日政府を追求した。だが実は,この第14議会において,殖産興業関係の主要法律のすべてが成立し,日本帝国主義の原型としての日清戦後経営は,この年1900年を画期に新たな展開をみせてゆく。
 ともあれ,この川俣の弾圧によって,足尾銅山鉱毒反対闘争は,大きく組織的な退潮をたどってゆくことになるのである。
 注
 1)~3) 「室田忠七鉱毒事件日誌」,前掲『足利市史』280ページ。
 4) 三谷太一郎「政友会の成立」『岩波講座 日本歴史 近代3』1976年,159ペー ジ。
 5) 『田中正造全集』第8巻,189-190ページ。
 6) 邑楽郡長から知事宛[申報」(甲第195号)1899年4月2日付。
 7) 「館林警察記録」8月30日。
 8) 田中正造「口演」リーフレット,1899年9月。
 9) 森長英三郎「田中正造と鉱毒事件の裁判」日本弁護士会『昭和42年度 特別研修叢書』129ページ。
 10) 東海林吉郎「『鉱毒議会』の成立過程をめぐって」渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究』2,伝統と現代社,1979年53-70ページ参照。
 11) 前掲『足尾銅山 鉱毒史』18ページ。
 12) 「館林警察署記録」1月21日。
 13) 『栃木県警察史』上巻,栃木県警察本部,1977年,1051ページ。
 14) 前掲書1050ページ。
 15) 前掲書1052ページ。
 16) 前掲書1053ページ。
 17) 前掲書1054ページ。
 18) 前掲『足尾鉱毒事件研究』323-24ページ。
 19) 前掲『栃木県警察史』上巻,1049ページ。
 20)~21) 前掲『足利市史』326ページ。
 22)~23) 前掲『栃木県警察史』上巻,1055ページ。
 24) 「館林警察署記録」2月12日。
 25) 松本隆海名「足尾銅山鉱毒被害民諸君に檄す」リーフレット,1899年11月
 26) 「館林警察署記録」2月13日。
 27) 『下野新聞』明治33年2月14日。
 28~29) 前掲『栃木県警察史』上巻,1051ページ。
 30) 前掲書1058ページ。

Ⅷ 鉱毒世論と第2次調査会

 1.法廷闘争の組織化と直訴の画策
 川俣事件で逮捕された100余名のうち,68名が凶徒聚集罪,官吏抗拒罪,官吏侮辱罪等によって,予審にまわされた。
 そして,同年7月の予審終結決審によって,この68名中,凶徒聚集罪41名,凶徒聚集罪・集会及政社法違反6名,凶徒聚集罪・官吏抗拒罪3名,凶徒聚集罪・官吏侮辱罪1名,計51名1)が,前橋地方裁判所における公判に付されることとなった。
 田中正造は,川俣事件による被害農民の戦闘意識の低下と,組織的退潮を懸命に支え直そうと奔走する一方,公判弁護団の編成,さらに法廷闘争の組織化にも心を砕いた。
 また田中は,第4回大東京押出しが阻止・弾圧されてしまったために,達成しえなかった課題を補うものとして,その直後から,ひそかに天皇への直訴の決行を考えていた。決して天皇へ直訴することで,鉱毒事件の好転を狙ったのではない。すなわち,天皇への直訴という行為が与える社会的な衝撃―,田中はより効果的衝撃を用意していたが,それによって報道機関を動員して世論の沸騰に点火し,川俣事件以後の退潮過程をたどる鉱毒反対闘争の活性化を図り,さらにこの世論の沸騰によって,藩閥政府の譲歩を引き出そうというものであった。

 2.直訴の協力者現る
 はじめ田中は,その協力者として,毎日新聞記者木下尚江を当てこんだ。だが天皇への直訴は,その決行まで厳に秘匿されなければならない。相手の口からそれが洩れては,すべてが台なしてある。それと語らずに,相手の協力を得なければならないのである。この田中の直訴を,自分から田中を指嗾する形で協力を申し出たのが,同じ毎日新聞の主筆石川安次郎であった。
 それは,1901年(明治34)6月8日のことであった。新橋で石川と出会った田中は,石川に会談を求めてその石川宅を訪ねた。そして夕食後……。石川安次郎の「当用日記」6月8日の条に,つぎのように記されている。
 田中曰ク 調査会云々 余冷然之を評して曰ク 鉱毒問題を解決スルニ調査会ハ無用ナリ 平和手段ハ君ノガラニナキ所 十年平和手段を取テ尚解決スル能ハズ 今ハ唯一策アルノミ 唯君ノ之ヲ行ハサルヲ怨ムノミ
 田中曰ク何事ダ 余曰ク容易ニ語ル可ラズ 田中曰ク謹デ教ヲ受ケン 僕曰ク君ニシテ若シ行フナラバ僕之ヲ云ハン 君唯佐倉宗五郎タルノミ 田中蹶起快之誓断行 僕乃チ其方略ヲ授ク。
 こうして田中は,直訴するに当ったての必要条件,対新聞工作をも含めて,石川をその協力者として獲得するのである。石川は,さらに翌々6月10日,直訴状を執筆することになる幸徳伝次郎(秋水)に会う。「朝幸徳を訪ふて田中正造の件を協議す相携へて出社す」。
 田中の直訴は,かくてその6ヵ月前に,その協力者等を含めて準備が整ったのである。
 3.凶徒聚集事件裁判
 一方,前橋地方裁判所における,鉱毒被害農民弾圧の正当化装置としての公判では,川俣事件後の1900年(明治33)3月10日に公布された。新たな弾圧立法―治安警察法を適用し,この年の12月22日,治安警察法違反6名を含む官吏抗拒罪等によって,有罪29名,無罪22名の判決がなされた。
 これに対して,被告・検事側とも控訴,凶徒聚集被告事件裁判とよばれる川俣事件の公判は,この前橋地方裁判所の判決を経て,翌年9月,東京控訴院にその舞台が移された。
 確かに,凶徒聚集事件の被告として,公判の場に立たされることは,被害農民として苦痛にちがいなかった。だがこれまでの政府・地方官・警察や古河側の,ときに陰微な圧迫や攻撃の下での運動に較べれば,裁判は少なくとも公開の場を用意した3)ものであった。それは同時に,積極的に被害の実情を訴え,みずからの正当性を主張する法廷闘争の場となったのである。
 こうして被告人たちの主張は,公判の舞台が前橋から東京控訴院に移ったことによって,傍聴した記者の手で逐一報道されることになった。そして,川俣事件後,一時鳴りを潜めていた中央の各新聞は,この公判を契機として再びもりあがっていった。
 この凶徒聚集被告事件の公判の報道が,その問題の核芯としての足尾銅山鉱毒事件の報道に転換してゆくことになるのは,公判の過程で実施された被害地臨検であった。この臨検は,公判劈頭,弁護人一同から被告人の行為を公正に審理し,その責任を明らかにするためには,まず鉱毒被害地を臨検して,その鉱毒被害の状態程度が,果して被告の言の如きものなるや否やの證拠決定をなすを要すと申請,受理されたものである4)。

 4.被害地臨検と鉱毒報道の活性化
 被害地臨検は,10月6日から12日までにわたり,農科大学の専門学者―鑑定人として農学博士横井時敬,農学士長岡崇好,同豊永真理を加え,裁判長,陪席判事,検事,書記,立会弁護人が,被告人および有志総代を案内人として行なわれた。これに,毎日新聞,日本新聞,時事新報,朝日新聞,萬朝報,二六新報,報知新聞,日の出新聞等8社8人の記者が同行した。
 眼界の及ぶ処満目只茫々一大砂原の状を呈し,小丘の如きもの無数散在するを認めたり。被告人の所謂毒塚之れなり。
 鑑定人による「検証調書5)」の一節は,すべての記者たちもまた眼にしたのであった。また,昼食をとった茶店の老人から,鉱毒流出後の生活の変化,窮乏化の模様を聞き,永久示談を拒否したために村八分になり,ついに縊死を遂げたという悲劇を知るにつけても,事態の想像以上の深刻さに心を動かされずにはいられなかった。鉱毒被害が一目瞭然であるため,鑑定人が「鑑定の必要なし」といい出すことも一再ではなかった。こうして,臨検における人びとの注意は,しだいに横井博士ら鑑定の言葉,彼らの手許に集中していった。臨検の1日は被害人にせきたてられるように始まり,鑑定人の熱心さに予定時間をすぎて終るのが常であった6)。
 この結果は,臨検に同行した記者たちによって,見聞きした事実,体験とともに報道された。
 全く驚いた。有り体いえば被害地人民の騒わぎ方も非道過きはせぬかと思ったが,実地に視れば其被害が栃木群馬の両県に亘り,恰[まる]で此世からの地獄の体だ。人民の騒わぐのも無理は無い。而して政府が十年も之を捨てて置いたのは全く驚いた7)。
 同行記者の記事は,この記事に代表されるように,その論調の変化となり,同時に鉱毒事件の報道紙面を拡大させていった。
 しかし鉱毒問題の解決策如何ということになると,新聞は必ずしも被害民の側に立っていたわけではない。ことに1897年(明治30)の予防工事以降も,鉱山から鉱毒が排出されているという被害民の訴えに対しては,殆んどの新聞が疑問視し,あるものは否定的態度をとった。そのため多くの新聞が,まずもって政府が鉱毒の原因を調査することを提案したにとどまり,鉱業停止のような具体策を打出すことはしなかったのである8)。

 5.直訴に向けての新聞づくり
 こうしたなかで,もっとも熱心にこの問題をとりあげたのが毎日新聞であった。すでにみたように,主筆の石川安次郎は田中正造と直訴について謀議をとげ,幸徳秋水の協力をもとりつけていた。こうした毎日新聞の鉱毒事件の報道は,その日を報道に圧倒的な効果をもりあげるための準備をも兼ね備えていたのである。
 また石川は,編集責任者としての主筆であるだけでなく,経営面においても,その実質的な責任者9)であった。経営・編集の頂点に立つ石川の社内における実力は,鉱毒事件の報道に,意のままに力を注ぐことを可能にしていたのである。
 田中は,第16議会の開院式当日の直訴に備えて,10月23日,衆議院議長に辞表を
提出,鉱毒事件の解決に稔りのなかった長い議員生活と決別した。
 鉱毒事件関係の報道のもりあがりのなかで,毎日新聞は,松本英子(筆名みどり子)の「鉱毒地の惨状」と題したルポルタージュを連載,女の眼で見た被害地の実情を訴えた。この間,鉱毒事件関係の記事がトップをかざるようになり,その論調もしだいに劇しさを加えていった。それらは,まさに田中正造の直訴に照準を当てての舞台づくりであった。
 そして,この毎日新聞の鉱毒事件の報道は,その他の報道の牽引的な役割を果しながら,世論成形の土壤と支援活動の拡大に,大きく寄与してゆくのである。11月30日の古河市兵衛夫人ため子(60)の神田橋下での入水自殺は,こうした世論のもりあがりを背景にしたものであった。

 6.直訴の決行と鉱毒世論のもりあがり
 ついに田中正造の直訴の日がさた。この日,1901年(明治34)12月10日,第16議会の開院式をすませた天皇が,午前11時45分に貴族院を出て,貴族院脇の大路を左に進みつつあったとき,直訴状を手にした田中が,「おねがいがございます」と叫んで,天皇の馬車に迫った。警衛の騎兵曹長が鎗を振った瞬間,馬が暴れ出して落馬,田中もまた躓いて転び,警戒中の警官に捕えられた。
 これが,外見的な田中の直訴の事実である。だが,相手の天皇が,神格・壮厳化された存在であるところに,田中の直訴の社会的政治的な直訴の意味があったのである。
 天皇は,帝国憲法体制において,「神聖ニシテ侵スベカラス」(帝国憲法第3条)として,統治権を総攬し,立法権はもちろん裁判もその名によるものであった。そして法律の裁可・公布,またあらゆる制度的規定に優先する勅令・戒厳の発令者として,唯一の憲法改正の発議権をもつ存在であった。
 また議会の制肘を許さぬ。陸海軍を統率する大元帥であり,宣戦・講和・条約締結の大権をもつ,絶対主義的・軍事的専制国家の頂点に立っていた。さらにつけ加えれば,157万町歩の山林原野を所有する大地主であり,1894~95年(明治27~28)において,株式投資・公債証券等2000万円に達し,日本経済の根幹を握る資本家10)であった。
 かかる天皇であればこそ,田中の直訴は,その身の危険とともに衝撃的な意味をもつはずであった。こうして田中は,神格化された天皇に,衆目の前で鉱毒事件解決への善処を求めるという,人民の天皇として捉え返す形での直訴を演じたのであ

る。
 田中の直訴決行の知らせをうけると,石川安次郎はすぐ幸徳秋水と協議,幸徳は自分が執筆した直訴状の写しを通信社を通じて各新聞社に流す一方,木下尚江に昨夜田中が直訴状執筆の依頼に現れ,仕方なく執筆したという贋の情報を伝えた。こうして木下は,田中の直訴は,田中自身が計画して行なったという,その謀議の存在を覆い隠す,恰好の贋の証言者となったのである。
 一方,捕えられた田中は,?町警察署長ならびに川渕検事正等の取調べのほか,奥貫医師によって,身体検査も行なわれた。その結果,精神錯乱と認むる点なきほか,身体に異常のないことが認められた11)。また,謀議の秘匿によって,不敬罪の成立する余地もなかった。こうして田中は,逃走の恐れもなく,また老人であるところから,当日の午後7時30分に釈放された12)。

 7.真夜の直訴の総括
 そして,いったん芝口2丁目の越中屋に帰った。田中の釈放は,直訴決行の衝撃的な電報から7時間後,東京の鉱毒事務所から,被害地の12ヵ町村に打電された。この頃,さきの電報によって,被害地から鉱毒事務所のある越中屋に続々と見舞客たちが訪れた。
 だが,越中屋の下座敷に閉じこもる田中は,毎日新聞の石川と会ったほかは誰とも会わず,深夜,風邪を理由に内幸町の植木屋に転宿した。そして,この植木屋で田中正造・石川安次郎・幸徳秋水の3人によって,直訴の総括がなされた。石川の「当用日記」によれば,つぎの如くであった。
 余田中に向て曰く 失敗せり 失敗せり 一太刀受けるか殺されねばモノニナラヌ 田中弱りました
 余慰めて曰く やらぬよりも宜しい。
 ここに田中の直訴の狙いが,よく示されている。田中は,直訴という行為をとおして,警護の近衛兵によって,「一太刀受けるか殺され」ること,つまり,それによって世論の沸騰に点火しつつ,鉱毒反対闘争の活性化と政府の譲歩を引き出すことを真の狙いとしていたのである。「余は謹奏状を御馬車の窓に投げ入れて其の場に刺し殺される積りなりしが,投げ入るることも出来ず殺されもせざりしは遺憾なり13)」という言葉に,偽りはなかったのである。
 こうして,田中が直訴にこめた狙いは,完壁に果すことができなかった。だが,石川が,「やらぬよりも宜しい」といったように,「空谷の響音の如く世間を『あっ!』
と驚かし14)」,衝撃的な効果をもって,もりあがりつつあった鉱毒世論の沸騰に劇的な点火をもたらしたのである。
 この衝撃的な世論喚起ともりあがり,拡大を背景に社会各層が支援活動に参加していった。そして現地における窮状への認識が深まれば深まるほど,問題解決の限界を感じ……鉱毒問題の抜本的解決としての足尾銅山の鉱業停止が問題と15)なってくるのであった。
 また,田中の直訴による世論のもりあがりを背景に,「鉱毒視察修学旅行16)」が企画され,当日の12月27日には,予定人員を300名上まわる約40の大学。専門学校・中学校の学生。生徒800名が参加した。参加した学生たちは,鉱毒被害地の惨状に心を動かされ,その報告演説会において,広般な一般市民に鉱毒地の窮状を訴え,救済募金を募集する学生路傍演説隊が組織された17)。わが国における学生運動の生起であった。

 8.第2次鉱毒調査会の設立
 このような世論の沸騰と支援活動の拡大を背景に,議会でもこの問題が論議され,藩閥政府は1902年(明治35)3月15日,勅令45号をもって,「鉱毒調査委員会官制」(第2次調査会)を裁可公布した。
 実は,この第2次調査会の設置は,すでに1月17日に閣議決定され,内務・農商務・大蔵の3省に通牒ずみのもので,この日,東京控訴院における川俣事件の2審判決に合わせて,世論の鎮静化の操作の狙いのもとに公布された18)ものであった。
 この2審判決は,凶徒聚集罪の成立を否定し,治安警察法等による有罪3名,無罪47であった。この判決にたいして,被告・検事ともに上告し,大審院にもちこまれるのであるが,この判決は,そのまま第2次調査会への被害農民や世論の期待となった。だが同時に,第1次調査会を想起するとき,不安や警戒をもたざるをえなかった。
 とくに,委員の人選は,その期待を完全に裏切るものでしかなかった。第1次調査会の鉱業停止派坂野初次郎や古在由直も入っていたが,中心メンバー奥田義人委員長はじめ,調査会発足以前から鉱業停止などありえないと発言してはばからぬ田中隆二,内閣書記官井上友一,大蔵書記官若槻礼二郎らの少壮官僚に加えて,第1次調査会において,きまりかけていた鉱業停止を逆転にもちこんだ古河のお抱え学者渡辺渡,御用学者の河喜田能達らであった。このメンバーをみれば,最初から鉱業継続が前提であることは,一目瞭然であった19)。
 調査委員は4月,2隊に分れて現地を視察,4月15日,10項目にわたる調査事項の要綱を桂首相に報告した。そしてこれらの各調査項目は,大学助手,各省の技師等21人に委嘱して調査に当らせた。
 この調査は9月の台風による洪水等の発生によって遅れ,各委員の報告が提出されたのは10月すぎであった。これによる第2次調査会の正式な報告書が,新委員長の一木喜徳郎から桂首相に提出されたのは,翌1903年(明治36)3月であった。
 そして5月,第18議会に,「足尾銅山ニ関スル鉱毒調査委員会報告書」として提出されたのである。だが,この報告書だけが第2次調査委員会の報告ではなく,別に,「被害民生業及衛生状況ノ改善ニ関スル意見書」が,同時に提出されていた。しかも,この意見書こそ,被害農民の生活やその後の運動を,より直接的に左右するものであった20)のである。

 9.治水問題へのすり換え
 こうして提出された報告書を貫く要点は,渡良瀬川や被害地に存在する銅分は,「明治30年予防命令以前ニ於ケル鉱業ノ排出物」の「残留物」が大部分であり,「足尾銅山現業ニ基因スルモノハ比較的小部分ニ過キ」ない。したがって,現実の鉱毒被害は過去の鉱山に根源があり,「現業」には原因がないと規定する。そしてこの規定のもとに,現実の被害にたいして足尾銅山を免罪し,その鉱業継続を保障する。
 さらに,この規定のもとに,農作物被害は,残留する多量の銅分と洪水による農地冠水に原因があるという,鉱毒洪水両因説によって,鉱毒事件処分の根拠にすえるのである。
 ここから導き出される処分案は,洪水の原因が,足尾銅山の煙害と山林乱伐による水源涵養林の荒廃によるものであることすら,まったく無視して,もっぱら土木工事を中心した洪水対策が中心にならざるをえない。まさに,鉱毒問題の治水問題へのすり換え21)でしかありえなかった。

 10.地価修正の内実
 さて,より直接的に被害農民に影響する意見による鉱毒処分の方法は,つぎの6項目から成っていた。
 (1)足尾銅山における除害。
 (2)林野経営。
 (3)治水事業。
 (4)灌漑水における除害。
 (5)被害地農事の改良。
 (6)渡良瀬川沿岸被害地地価修正。
 このうち,(1),(3),(6)が重要なものであるが,本稿では(1),(6),(3)の順に,その概略についてふれておくことにしたい。
 (1)足尾銅山における除毒は,1897年(明治30)の予防工事の不充分な部分の「補修」を目的とし,煙害に関しては,「未タ適実ナル方法ヲ発見スルニ至ラス」とサジを投げ,15項目より成る除毒工事命令(通算5回目)を,1903年(明治36)7月,古河に下した。
 (6)地価修正は,被害農民の地価減額要求に対して,立法措置によって応じたもので,同年10月閣議決定し,翌1904年(明治37)3月,衆議院(第20議会)に提出可決され,法律16号として4月1日公布された。
表19 地価及び地租減額表24)
 これは,被害程度により田畑を一等(地価8割減)から10等(1割5分減)に分類。年期明けになった土地について,1904年(明治37)度から適用された。これによる地租の減額は,ほぼ2万3000円であった22)。
 この地価修正は,被害農民最少限の要求であった。たび重なる鉱毒被害で土地の生産性が回復しないのに免租期限が切れ,その継年期願いが却下される状況のもとで,この地価修正による地租の減額が,最少限の方法であり,第2次鉱毒事件処分において,唯一の被害農民の救済策23)的内容をもつものであった。

 11.棄民化政策―遊水池化案
(3)治水事業は,利根川及び渡良瀬川,その支川の大改修工事を行ない,併せて利根,渡良瀬の合流地附近に大遊水池の建設をもくろんだものであった。その根拠は,渡良瀬川下流の被害は,渡良瀬川の勾配は利根川のそれより小さく,そのため利根の逆流水によってもたらされるものであり,実際に,「所謂鉱毒激甚地タル堤外池及無堤池ハ出水アル毎ニ常ニ氾濫スル所トナリ天然ノ遊水池タル作用ヲ為スモノ」である。したがって,この激甚地を積極的に遊水池にした方が得策であるというものであった。
 しかし,この時点では,まだその予定地を発表せず,その面積を2800~3800町歩というにとどまった25)。
 また意見書の生業善後処分は,つぎの3点であった。
 (1)農民に鉱毒被害を軽減する方法を講習すること。
 (2)農事や諸般の生産事業を振興させるよう努力し,善後基金として国庫から補助金を出すこと。
 (3)被害農民の北海道移住をはかること。
 このうち,(1),(2)については,どこまで実施されたか,いまのところ不明である。だが(3)被害農民の北海道移住案は,強権的に実施されてゆくのである。この案は,表向き鉱毒による窮民の生業善後処分として,遊水池計画と別個に出されたものであるが,事実上,表裏一体をなすものであった。
 遊水池計画は公表されるが,移住案は公表されず,秘密を保持するよう指令されていた26)のである。
 藩閥政府は,これを最終的な鉱毒事件処分として,鉱毒問題を治水問題にすり換え,鉱毒事件そのものを遊水池に埋没させ,被害農民の棄民化政策の総仕上げをなすものとして,北海道への移住を企図したのである。まさに,帝国主義的国内政策の展開としての遊水池計画であり,北海道への移住案であった。
 1903年(明治36)12月30日,藩閥政府は閣議において,ロシアと開戦の際の清国・韓国に対する政策を決定(清国は中立を維持させ,韓国は支配下におく)こととし,また翌31日には,小村外務大臣が林公使に,対露開戦前の財政的援助を英政府に要請するよう訓令27)したことにみられるように,日露戦争に向けての早熟な日本帝国主義の準備過程にあった。そしてこのとき,国内世論の統一が切実な課題であり,鉱毒世論の震源地の封殺が,緊急な課題となっていたのである。
 凶徒聚集被告事件―川俣事件裁判は,1902年(明治35)5月,東京大審院は検事側の主張を全面的に認めて,東京控訴院の判決を棄却。宮城控訴院に移送されたものの,同年12月,検事の控訴状が適法を欠くとして事件を棄却,すでに被告全員の無罪が確定していたのである。国内世論の統一と銅生産への支障をとり除くためにも,遊水池計画と移住案は,日露戦争前に解決すべき藩閥政府にとっての課題であったのである。

 注
 1) 前掲『栃木県警察史』上巻,1058ページ。
 2) 半山石川安次郎「当用日記」6月10日。
 3) 佐藤能丸・五十嵐暁郎「内閣鉱毒調査委員会と“鉱毒処分”」,前掲『足尾鉱毒事件研究』333ページ。
 4) 栗原彦三郎編『義人全集』第4巻,「鉱毒事件」下巻,中外新論社,1925年,63-64ページ。
 5) 前掲書101ページ。
 6) 前掲 佐藤・五十嵐論文 掲載書336ページ。
 7) 『日本』(新聞)明治34年10月9日。
 8) 前掲 佐藤・五十嵐論文 掲載書337ページ。
 9) 東海林吉郎「足尾銅山鉱毒事件における直訴の位相」渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究』1,伝統と現代社,1978年,146-47ページ。
 10) 田中彰『体系日本歴史』5,『明治国家』日本評論社,1967年,222ページ。
 11) 『毎日新聞』明治34年12月11日。
 12) 岡田常三郎『空前絶後の大椿事』日本館,1901年(『田中正造と足尾鉱毒事件研究』2),159ページ。
 13) 『毎日新聞』明治34年12月12日。
 14) 師岡千代子「風々雨々」(『幸徳秋水全集』別巻1明治文献,1972年)147ページ。
 15) 工藤英一「鉱毒問題とキリスト教徒」渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究』1,伝統と現代社,1978年,40ページ。
 16) 『毎日新聞』明治34年12月19日。
 17) 前掲 工藤論文掲載誌39ページ。
 18)~19) 菅井益郎「足尾銅山鉱毒事件」下,『公害研究』第3巻第4号,1974年,61ページ。
 20)~21) 前掲誌62ページ。
 22)~24) 前掲誌63ページ。
 25) 前掲誌62ページ。
 26) 前掲誌63ページ。
 27) 岩波書店編集部『近代日本総合歴史年表』岩波書店,1968年,176ページ。

Ⅸ 田中正造の闘いの思想

1.思想原基としての自治思想
 田中正造の闘いの思想の在りようをさぐる手がかりとして,まずはじめに,その思想原基としての自治思想からみることにしたい。
 田中は,1879年(明治12)みずから創刊した『栃木新聞』に署名論稿,「国会ヲ開設スルハ目下ノ急務1)」を発表し,人民の抵抗権を含意する天賦人権論にたって,立権共和国家の国家構想を描き出している。
 この共和制国家は,人民のもろもろの権利はもとより,人民の福祉と災害保障が約束される,小国としての平等福祉国家として規定されている。これが小国として規定されているのは,この年の琉球処分による日清両国家の緊張を背景に,専制政府の軍事整備・拡張を,人民の福祉と災害保障と対立するものとして捉え,軍事大国よりも,福祉と災害時の保障こそが,戦時において,国家に対する人民の忠愛心と,士気を奮起させるものだとしたのである。いわば,戦争に勝つためにという論理を借りて,覇権を否定する,小国としての平等福祉国家像を呈示したのである。
 当然,このような国家は,これを規定しつつ,その課題を担う政治主体が重要な問題になる。田中はこれを,世界史に革命的な影響を与えたといわれる孟子の井田制―,集落の農家は共同で共有田を耕作し,その収穫を共同体の維持・運営に当て,各農家は平等の耕地によって生活を維持し,また疾病にさいしては,集落がそれを扶養するという,共同体原理にたつ農民に見出している。
 したがって,ここでは平等・互恵の原則のもとに,お互いの労働をとおして,福祉災害ともに保障され,抑圧と搾取のない社会的進歩が約束される2)。
 田中が,孟子の井田制についての知識をえたのは,おそらく若年のころのことであろう。この知識としての井田制に加えて,藩政時代の水・旱・風・虫・病害等による減収に対する減免制を,災害保障として発展させ,ブルジョア民主主義運動としての自由民権運動において,立憲共和制平等福祉国家の主体的下部構造をなす自治思想として結晶させたのである。
 この国家構想および自治思想に,いささか理想主義の傾きをみるかも知れない。だが田中は,思想とは,実践と分ち難くないあわされた課題を担うものだと捉えていた戦闘者であった。この国家構想の下部構造に人民自治を規定したことは,そのまま理想とみずからの日常・身辺をむすぶ各層のレベルにおいて,つねに新たな課題と闘いをはらんでいった。
 しかも田中は,1857年(安政4)17歳で名主になり,1862年(文久2)には,財政破綻を村落支配の再編強化によって解決しようとした3)領主権力と,ほぼ10年にわたって闘い,入牢もした。また1870年(明治3),江刺県(現岩手県)の小吏となり,後に無罪となるものの,上役斬殺の嫌疑によって,3年におよぶ獄中生活を体験している。田中の不屈の精神は,すでにこの時期から確乎たるものがあった。

2.思想的実践をかけて
 田中は,1880年(明治13)県会議員に当選,全国の民権運動家と親交を深め,全国府県会議員有志とともに,「国会開設建言」を元老院に提出4)。また全栃木国会開設運動の統一的同盟を基盤とする,組織的確立にとり組んだ。このとき,田中が創立した「栃木新聞」は,その有力な武器となった。
 さらに田中は,みずからの自治思想にたって,地方政務の改良と確立をめざした。田中によれば,この地方政務の改良とは,地方に自治の制度を確立することを許し,地方は中央政府の干渉を受けずに,自由に地方の政治を行うことのできる5)ものであった。
 このような地方自治の捉え方は,中央集権か地方自治か,……資本主義化へのコースを規定する本源的蓄積をめぐって国の富(二国家資本・政商資本)か,民の富か6)を争点とするあらゆる法案において,専制政府と鋭く対立した。痛烈な専制政府批判を貫くそのとり組みは,他の指導者との比較において,田中をもっともすぐれた栃木民権運動指導者として,衆目に認知させたものであった。
 田中の闘いは,弾圧立法―,集会条令のもとにおける国会開設運動へのとり組みがあり,県議会へのとり組みがあり,さらに,讒謗律・新聞紙条例のもとにおける,新聞発行者としての闘いがあった。
 「栃木新聞」は,一般商業紙として,全栃木自由民権運動,国会開設運動の組織化と,その指導と同盟をめざして創刊された。しかし商業紙であるあぎり,多数の読者を獲得して経営基盤を安定させなければならない。その目的と手段の背理を,どのように埋めてゆくか。
 この問題を田中は,弾圧立法違反を「罰金五円」(讒謗律5条違反)の範囲にとどめ7)つつ,文章のあらゆる工夫をこらして,専制政府批判を展開することとする。だが,こうした工夫が,つねに有効であるとはかぎらない。創刊の目的からして,そのような状況に対応する用意が,その背後に用意されていなければならない。まさに,そのような事態が現出した。
 北海道開拓使官有物払下げ問題の一連の報道によって,「栃木新聞は突如として,発行停止・発売禁止処分をうけた。この弾圧の洗礼に少しもひるまず,再刊が許されるやつぎのように論じて,言論の自由と専制政府との闘いにおいて,一歩も退かぬ決意を表明した。
 言論の自由を阻むものがあるときは,これとの闘いにおいて,たとえ罪科に付されても退かない。邪説妖言を排撃し,もって自由の成果を得ることはわれわれの職分であり,そのために刑罰などは考えてはいられない8)。

3.先駆的な編集権確立の思想
 このような編集姿勢を持続しようとする田中にとって,経営の安定をめざす資本が,つねに大衆の興味をそそる編集を要請し,讒謗律・新聞紙条例と同じく,新聞の良心を阻害するものであることに着目せざるをえない。こうして田中は,真に人民的要請に応えるべき編集者の責任を問いつめることによって,資本から編集権を独立せしむるという,きわめて先駆的な編集権確立の思想にたどりついてゆくのである。
 また田中は,これに先だって,自由党の創立と改進党の創立による民権派の分裂のなかで,栃木県においては両党の共調時代をつくったのである。そして福島事件の勃発の,その元凶ともいうべき専制官僚の典型,三島通庸が栃木県令として赴任するや,収奪に基づいての土木工事および不正と壮絶な闘いを開始する。
 そして群馬事件につづく加波山事件の勃発によって,これに関係するものとして,田中は逮捕される。この間,秩父事件,名古屋事件,飯田事件などの激化事件があいつぐ。しかし田中の闘いは,三島県令の転任をかちとり,県民の歓呼に迎えられて出獄する。その出獄祝賀会の答辞で田中は,目的に思想がなければ,政治のことは何事もなしえない9)と述べているが,三島県令との闘いは,まさにその思想的実践をかけた闘いであった。
 とはいえ,あいつぐ激化事件の勃発と,専制政府による悽惨な弾圧政策,さらにはその渦中での自由党の解答にみられるように,ブルジョア民主主義革命運動としての自由民権運動は,急速に退潮し,封建制の最たる遺制,出生の特権を排除するどころか,逆にこれに馴致されてゆくのである。
 1886年(明治19),田中は栃木県県会議長に就任する。国会開設以前における県会議長への就任は,その自治思想に若干の変化をもたらすものであった。88年の「市制・町村制」への対応に,そのことが如実にみられる。
 この「市制・町村制」は,在来の町村共同体を改変・再編成し,納税額によって人民の政治的権利を差別,資産家による町村支配と官僚統治機構を一体化し,1890年の「府県制・郡制」と併せて帝国憲法体制へ,擬制の自治を上から強制したものであった。それはまた,町村事務のほか徴税・戸籍等の国政委任事と経費負担のため,大規模な町村合併を不可避にしたものであった。
 これに基づく町村合併を,田中は,村々の合併を団結と捉え,この合併が全郡の合併に好影響を与えるもの10)だと解していたのである。もっとも,この時期といえども,田中は町村自治体に対する監督権の濫用には警戒していた。だがその背景には,田中はすでに中央集権国家を必然の理として,その下部構造としての市町村を考えていたのである。それは,体制内改良主義を一歩も出るものではない11)。

 4.絶対民主制自治思想の確立
 1889年(明治22)2月,田中は県会議長として,帝国憲法発布記念式典に出席するが,この時期,田中は憲法に対してきわめて慎重な態度をとっている。翌90年,田中は衆議院議員選挙に当選し,91年の第2議会における憲法論議をとおして,憲法はすでに死んだ法律であり,この憲法によって国家の発展を望むことは危険である12)と指摘するにいたった。
 前年8月,足尾銅山の鉱毒による農地被害が顕在化し,田中はこの第2議会ではじめてこの問題をとりあげた。このときから田中は,鉱業停止要求を掲げるのであるが,鉱毒の基本的解決に向けて,藩閥政府に鉱業停止を要求するとき,この憲法を法的根拠とするのが,もっとも力あるはずであった。こうして田中は,その後も憲法を武器として,鉱毒反対闘争において掲げてゆく。
 だが,田中の掲げる憲法は,帝国憲法そのものではない。確かに鉱業停止要求については,「日本臣民ハ其所有権ヲ侵サルゝコトナシ」とする,帝国憲法第27条を根拠としたが,さらに田中は,みずからの法理念による新たな生命―,人民の抵抗権,さらには自治思想をも注入し,その運動論的要請をも担うものとして掲げたのである。
 鉱毒反対闘争の経過はすでにみたとおりであるが,田中が絶対民主制自治ともいうべき自治思想にたどりつくのは,川俣の弾圧によって鉱毒反対闘争があしでとめがたい退潮を迎えたときであった。
 田中は,自治とは,そこではすべての人民が自由と安全をえて,決して人の命令に服従または苦役をさせられるものではない。すべての人民が,あらゆる創意を自由のままに発掘させてゆくべきもので,もしこれらが抑圧させられたとき,自治は死滅したものと同じであるとした13)のである。
 そこでは,すべての人民が個人として尊重され,自由と安全が確保される。個人はあくまで個人の顔と表情をもち,あらゆる創意と可能性の探求をとおして,自治の発展を支えてゆく。このような絶対民主制自治は,1人は万人のために,万人は1人のためにという,共生の論理と倫理を自明の前提のもとに成立するであろう。
 かつて田中は,第4回大挙東京押出しに向けて,鉱毒被害地としての自治体を結合し,人民的抵抗の合議制として,鉱毒議会を成立せしめた。だが,川俣事件によって鉱毒議会はあえなく潰え去り,鉱毒反対闘争そのものが組織的な退潮を示していた。このとき,鉱毒談会への反省を含んで,思想の領域において,絶対民主制自治思想として結晶したものといえるであろう。

5.非戦争論から谷中村へ
 1901年(明治34)第15議会において田中は,これだけ申上げても政府が鉱業停止をしなければ,政府は被害人民に,軍[イクサ]を起す権利を与えるのであると,明確に被害農民の反抗権を主張して,議員を辞して議会を去った。そしてこの年の12月,世論の沸騰に点火し,鉱毒反対闘争の活性化への衝撃的な効果をめざして,あの戦略的直訴を決行したのである。
 この直訴を経て田中は,1903年(明治36)2月,「非戦論14)」を構築していた。日露戦争を前にしての日本における非戦論のはじめとされる木下尚江のそれより,ほぼ10ヵ月前のことであった。しかも田中のそれは,海陸軍全廃15)と不可分のものとして成立していた。
 世界史の帝国主義突入段階において,田中は,帝国主義列強の世界的領土・経済再分割に呼応する日本の,対ロシア・満州侵略政策の推進―,その満州問題を煽動するものとして,大倉,三井,三菱,浅野,古河等の財閥資本の特質を,明確に把握していた16)。しかもこれら財閥資本は,古河の如く鉱毒被害地を治外法権,居留地して収奪のかぎりを尽して,自国の弱き人民を侮る17)存在であった。
 そして軍備こそは,これら資本と権力を象徴する帝国主義的化身であった。田中の非戦論が,世界の海陸軍全廃と結びついて提起された背景に,この年の1月,栃木県議会に遊水池計画の一環として,谷中村の買収案が提出されたという事情があった。日露の事,大事にあらず。内地の自滅を大切なりとする18)とする田中は,栃木県議会に谷中村の買収案が提出された直後,政府がこの鉱毒激甚地を捨てるのであれば,これを拾って天国を新造せん19)と,来るべき谷中村入を宣言した。
 日露戦争を前にしての遊水池計画は,早熟な日本帝国主義―,その国内政策の展開として捉えられるものであるが,田中もほぼこのことを把握していた。そして,日に日に日露戦争への足音の高まるなかで,ロシアはわが敵にあらず20)とし,社会主義は時勢の正義21)であるという認識を深めていった。
 1904年(明治37)2月10日,日本がロシアに宣戦布告するや,外国と交戦中,なおも人民を侮蔑虐待し,貧苦と病苦に悩む人民を鉱毒で殺す22)国家への怒りを日記に記す。そして,谷中村の問題は,征露問題よりも重大であり,これを捨ててロシアと戦う23)日本帝国主義に,みずからの谷中村入りを対置させて,この年の7月,田中はさきの宣言どおり,谷中村に入った。

6.谷中村の闘い
 国家権力によって,破壊・亡滅させられようとする谷中村に,みずから移り住むことは,相手の国家を否定し返し,国家以前の人民の権利を主張して,国家と闘うことである。そして,この闘いのなかで,そこに絶対民主制自治をうち樹てることが,田中にとって天国を新造する闘いであったといえるであろう。
 1904年(明治37)12月,日露戦争下の栃木県議会秘密会において,堤防修築費名目による谷中村買収費が可決され,また第21議会においても,災害土木補助費(谷中村買収費)が可決される。ほぼ40名といわれた谷中村からの日露戦争に出征中の兵士の家庭にあっては,まさに留守中の老幼女子を掠めて,村を奪われるにひとしいものであったといえるであろう。
 日露戦争下における谷中村の遊水池計画の推進は,まさに天皇の統率する軍国の優越性を喧伝しながら,その名のもとに,社会を蹂躙する権力,私欲をむさぼる資本との人民に対する攻撃にほかならなかった。田中はこれらを悪魔と捉え,悪魔を撲滅して人民は人民の権利を保全すること24)を訴えた。
 またこのような谷中村に対する権力の暴逆は,露都のそれと同じツァーリズムによるもので,日本もまさに同じであるとし,日露両国の抑圧と殺戮を通じて,両国人民の連帯をその視野に収めていたのである。
 1905年(明治38)11月,谷中村買収にかかわる「谷中堤内土地物件補償に関する告示」が出され,買収を承諾した村民が移住しはじめていた。かつて田中のもとにあって,鉱毒反対闘争の組織的中枢を担っていた左部彦次郎は,栃木県土木吏となって,その買収をすすめる手先となっていた。
 翌1906年3月,栃木県は谷中村内官有地の借用者に対し,4月17日までに退去を通告。また谷中村会に諮ることなく,第1・第2尋常小学校を廃止。さらに4月の村会で藤岡町との合併を否決したにもかかわらず,村長職務管掌の鈴木豊三は,7月藤岡町との合併を強行し,戸数約450,人口約2700の谷中村は,こうして消えていった。それこそ,遊水池化の地ならしであった。
 この間,買収勧誘員による農耕の妨害,漁具の掠奪,用水路の破壊,警官による婦女子拘引のいやがらせ,不当逮捕等の職権の濫用,さらには買収強要に加えて,醜官俗吏が日夜暗躍した25)。
 1907年(明治40)1月,西園寺内閣は,谷中村に土地収用法適用認定公告を行なった。谷中村残留民は,知事に土地収用法適用不当の意見書を提出するが却下され,再度意見書を提出するが,栃木県は5月,受領を拒否した買収金を供託して,事実上,買収となった。さらに6月,谷中残留堤内居住16戸に対し,6月22日まで立退かなければ強制執行するという戒告書を手交。6月22日再戒告書を手交し,6月29日から,7月5日にかけて,栃木県は谷中堤内残留民家16戸の,強制破壊を行なったのである。
 強制破壊後,残留民たちは耐えがたい憤怒の情を抑えながら,破壊された跡に自分の手で,原始人の住むような仮小屋を建てて暮した。辛うじて雨露をしのぐといいたかったが実に雨漏りが甚だしく,とてもしのぐとはいえないようなものであった。残留民はこの仮小屋に住み,明日にも浸水の危険にさらされている畑の仕事と漁業などで暮した26)のである。それはそのまま,権力に対する闘いであった。

 7.辛酸亦佳境に入る
 田中は,残留民と生活をともにしながら,請願・陳情,および意見書・質問書の提出,さらに谷中村問題に対する理解の輪を拡げるのにあらゆる努力を重ねた。もはや,一歩も退くことの許されぬ闘いの深みに身をおいて,帝国憲法下の制約された人民の権利を行使するという手段をもって,闘いの前進への寧日のない闘いの日を送った。
 田中は,鉱毒反対闘争から今日の谷中の闘いへの帰趨について,率直に,かたちからみれば人道軍の大敗軍だという。とくに谷中村の闘いは,日露戦争で日本軍に攻撃された旅順に籠城したロシア兵と同じであり,わたしはその一兵卒27)であり,今後も困難な闘いを一兵卒として支えてゆく覚悟を表白する。
夜も着たままなり。枕あるの夜は稀れなり。又二泊せし事は少なし。飯は麦めしを以て最上とす。ただ湯はあります。衣類の汚れたるは却て見よし。
 それはまさに,「辛酸亦入佳境」といって過言のない生活であった。
 田中は,谷中村の闘いを自治回復の闘いであると捉えていたが,それはそのまま,権力の谷中村の遊水池計画と対立する治水論と結びつき,その治水論に根ざす流域の連帯思想のもとに,国家批判に発展させていった。
 治水と自治は,人民の希望に添いうるものであり,それは朝顔に支柱をたててやるように,干渉するのではなく援けるようにすればよいのであるという28)。さらに田中は,水を人民に例え,人民を水に仮托して,国を治めるのは水を収めると同じだという。四面みな堤防をもって収めんとすれば,かえって潰烈するであろう29)と,強権による統治と,人民自治を対比させるのである。

 8.晩年の渇仰
 谷中村の仮小屋で生活する晩年の田中は,ますます国家・憲法批判を強め,日本を君主専制と断定し,君主専制は汽車のようなもので,人民はレールの上にいれば殺され30)てしまうときめつける。またいまの日本には法律も憲法もない31),もしそれで国家もなく,政府も無いのであれば,人民は安心して暮すことができる32)とさえいう。そしてこのように国家を腐敗させたものは,かえって国家に対する忠誠心である33)と田中は捉える。
 このような天皇制と帝国憲法体制否認の背後から,革命への渇仰がおしとどめがたいものとなってきたのも当然であった。田中の意識に,国際的につねに困難な課題を担った国として,親近感をこめて見守りつつあった国がある。ロシア,中国,日本にはさまれた朝鮮である。
 1907年(明治40)7月,ハーグ密使事件を契機に,日本によって行政権を?奪され,義兵闘争が生起するのであるが,その先駆的蜂起を,田中は限定された新聞報道から,それこそ朝鮮が未来の安全を守るゆえん34)であると,その意義を明確に把握できたのである。
 そして田中は,わが身をふり返るように,渡良瀬川独立論35)に思いを馳せ,矯風会の演説草稿に,国家の革新改革革命をなすべきである35)ともなるのである。谷中村蘇生せば国また蘇生という確信は,確かに革命的展望の彼岸にのみ望見しうるものであったといえるであろう。
 こうして田中は,戦うべし,政府存在する間は政府と戦うべし,敵国襲い来らば戦うべし,人侵さば戦うべし37)と,戦いの宣言を日記に記す。この戦いの宣言は,政府との戦いを第一義とする宣言である。しかも政府存在する間とは,現にいま存在する藩閥政府をさすのみでなく,中央集権国家としての政府が存在する間はという意味である。
 それは,国家消滅をかけた戦いを宣言したのである。しかもこの戦いは,侵略する国があればそれと戦い,また人民のレベルにおけれ民主化の戦いと平行してすすめられるべき戦いである。
 田中の日記は,1912年(大正2)8月2日(文面)まで書かれているが,その110日前,いまや死した児の年,焼跡の火の用心38)と記されている。当面,谷中村は復活の見込みもなく,いまの闘いは,ただ死んだ子どもの年を数えるにすぎないのでは,という思いがその背後にある。だが,この闘いは,再び谷中村の悲劇をつくらないための教訓としての意義があるのだという,ひそやかな確信もその背後にはある。
 それから5日後,この不屈の闘士は,きわめて寓意にとんだ物語39)を日記に記している。
 昔,絶世の美人といわれたあい木森之助の妻が,悪ものに襲われ辱めをうけた。これを見た土地のものが,あい木にこのことを告げた。あい木は鎗をふるって,この数名の悪ものを斃して妻を救った。これは人道の盛んな時代のことだという。
 さらに田中は,渡良瀬川沿岸を絶世の美人あい木森之助の妻になぞられる。そしてこの絶世の美人ともいうべき土地が災をうけ,辱められたが,あい木は夫であるにもかかわらず妻を救うどころか,それを告げた土地のものを殺し,妻を殺して爽快な気分に浸っていると,あい木を川俣で被害農民を弾圧した憲兵警官になぞらえ,さらに従五位に任官した古河市兵衛になぞらえる。
 そして最後に,日本の名誉,維持回復を思うものはあい木森之助を殺すべし,あい木森之助とその妻を救うに,決して手段がないわけではないとして終っている。
 この寓話のあい木と鎗に,人民の自衛権が仮托され,さらには権力と資本に独占された武装を意味していることは確かである。田中がこの寓話にこめたものは,人民の平和と安全,そして自由のためにその奪還を渇仰したものといえるであろう。
 田中正造は,1913年(大正2)9月4日,その生涯を非転向の闘いを貫いて,この世を去った。

 注
 1) 『栃木新聞』明治12年9月1日,15日。
 2) 東海林吉郎『共同体原理と国家構想―田中正造の思想と行動』2,太平出版社,1977年,61-76ページ。
 3) 稲葉光国「田中正造の民権思想形成の特質」渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究』2,伝統と現代社,1979年,21-37ページ。
 4) 前掲『共同体原理と国家構想』94ページ。
 5) 『田中正造全集』第6巻,10ページ。
 6) 大江志乃夫『日本の産業革命』岩波書店,1968年,88-89ページ。
 7) 前掲『共同体原理と国家構想』54ページ。
 8) 『栃木新聞』明治14年12月1日。
 9) 『田中正造全集』第2巻,474ページ。
 10) 『田中正造全集』第14巻,136ページ。
 11) 東海林吉郎「試論・田中正造の自治思想の起伏」『栃木県史しおり』(史料編,近現代9),栃木県教育委員会事務局,1980年。
 12) 『田中正造全集』第9巻,271ページ。
 13) 『田中正造全集』第10巻,169ページ。
 14) 前掲書547ページ。
 15) 前掲書307ページ。
 16) 『田中正造全集』第16巻,95-96ページ。
 17) 前掲書1528ページ。
 18) 前掲書91ページ。
 19) 『田中正造全集』第15巻,581ページ。
 20) 『田中正造全集』第10巻,461ページ。
 21) 前掲書552ページ。
 22) 『田中正造全集』第16巻,164ページ。
 23) 前掲書240ページ。
 24) 前掲書156ページ。
 25) 島田宗三『田中正造翁余録』上,70-98ページ。
 26) 前掲書147ページ。
 27) 『田中正造全集』第11巻,78ページ。
 28) 『田中正造全集』第12巻,306ページ。
 29) 『田中正造全集』第10巻,513ページ。
 30) 『田中正造全集』第11巻,286ページ。
 31) 『田中正造全集』第13巻,209ページ。
 32) 『田中正造全集』第17巻,159ページ。
 33) 『田中正造全集』第10巻,231ページ。
 34) 『田中正造全集』第17巻,56ページ。
 35) 『田中正造全集』第11巻,101ページ。
 36) 『田中正造全集』第4巻,598ページ。
 37) 『田中正造全集』第12巻,246ページ。
 38) 『田中正造全集』第13巻,534ページ。
 39) 前掲書542ページ。
附録1 渡 良 瀬 川 沿 革 図
附録2 煙 害 地 略 図
附録3 鉱 毒 被 害 地 略 図(1897年)