繊維産業

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衣服産業のはじめ

著者名: 中込省三
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1982年
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 目 次

ま え が き・・・・・・・・・・2
1 もめん・・・・・・・・・・3
2 古 着・・・・・・・・・・3
3 洋装のはじめ・・・・・・・・・・7
4 洋装化の普及・・・・・・・・・・15
5 洋裁技術の移植・・・・・・・・・・21
6 洋服屋と洋服職人・・・・・・・・・・35
7 既製服の誕生・・・・・・・・・・41


まえがき

 衣服は人間生活に不可欠というよりは,生活そのものの一部であり,人類の歴史とともに発達したために,その商品化が極度に遅れて,新産業としてその地位を確立したのは,近年のことである。しかし,これまで,衣服産業が繊維産業に包含されず,雑貨産業の一部と見なされてきた事実は,この新産業の本質をもっとも雄弁に物語っているといえる。
 ようやく近年にいたって,衣服産業が成立するようになったことは,単に時代がすすみ,繊維産業が発達して,生活が多忙となったばかりでなく,衣服を物神として崇拝する慣習から,われわれが解放された結果でもある。
  そして,一度衣服が既製化され,工業生産されると,もはや,衣服は単なる繊維製品となり,やがて,今日ではそれは単なる消耗品とさえなった。
本稿は「日本の経験」として,わが国の衣服産業の成立をテーマとする。衣服産業の中心は衣服の工業生産と流通にあるが,それは衣服の既製化の普及によってはじまった。
 わが国における衣服の既製化のはじめは,明治初年からであり,この既製化に甚大な影響を与えたのは,明治以来の衣服の洋装化である。衣服の洋装化は家庭内における衣服の製作を困難にして,職人による注文仕立をさかんにしたが,結局,その後は,工業生産が促された。
 一方,衣服の既製化のはじめをさかのぼれば,それが古着にまでたどりつく。古着は今でこそ,すっかり衰微してしまったが,江戸時代から明治時代にかけて,古着こそ,庶民の代表的な衣料商品であった。
 なぜ,江戸時代から古着がさかんとなったかを追求してみると,それがもめんの普及に深い関係のあったことがわかる。
もめんの渡来と普及は,それ以前の雑繊維からの,わが国の衣生活の変遷をたどらなければ,あきらかにすることができない。
 かくて,本稿では,いささか迂遠とも思われるが,序説として,「もめん」から筆を起して,古着,洋装化,既製化とたどって,主として明治期の衣服産業の萌芽までをのべる。
1 も め ん

 もめんが普及するまで,わが国で使用されていた衣料繊維は,どこの地方でも身のまわりで採集できるか,栽培可能なからむしとよばれた苧麻(ラミー)がもっとも多く,そのほか,さまざまな雑繊維が用いられた。この時代には繊維も衣料もすべて,自給自足の時代であった。
 もめんが普及しはじめたのは,江戸時代のはじめからであるが,栽培可能な地方は西日本にあった。その中でも遠州,三河,尾張などの東海地方,摂津,河内,泉州,大和などの幾内,中四国の瀬戸内海沿岸は,とくに名高い綿作地帯であり,ここから産出した繰綿,綿糸,綿織物などは大阪へ集められ,ここで加工,検査,格付けなどがなされて,寒冷と日照不足のために栽培できない東北,北陸,あるいは,最大の消費都市である江戸などへ大阪から供給された。もめんの登場によって,それまでの衣料繊維の自給自足体制は崩壊して,もめんは当時の最大の商品となって,全国に流通するようになった。
 当時,綿作地帯の農民が一着の衣服を手に入れるには,もめんの栽培からはじめたが,それ以外の農民や庶民も,160匁位の繰綿を手に入れ,これを紡ぎ,織って1反の綿織物をつくり,これを約200匁位の繰綿と交換した。これがカエモメンと呼ばれるもので,これを繰返して1着の服を手に入れた。したがって,1着の衣服を手に入れるのも容易なことではなく,女はくる夜もくる夜も糸を紡いで,その生涯を終えた。
 その時代では,衣服は形見分けで親から孫へ3代も着つづけられるほど,重要な資産,貴重品というだけでなく,それにはつくる者の愛隋がこめられ,着る者の身代りにさえなった。衣服は呪力をもつ物神でもあった。

2 古 着

 2.1 古着屋

 江戸時代まで,わが国では衣料品はきわめて貴重であり,重要な資産であったから,武士でも新しく仕立卸しの服を着ることは,生涯幾度もなかった。
 したがって,一度着るようになった服は,大事に着て,破れればつくろい,死ねば,家族や親戚に形見として遺贈した。
 こうして,一着の服が親から子へ,子から孫へと3代にわたって着つづけることは,珍しいことではなかった1)。
また,着つづけるのは肉親の服にかぎらず,他人が着古した古着もよく利用したので,古着屋は東京でさえ,非常に多かった。
 表1は明治29年1月31日現在の東京府下の商業戸数のうち,1000戸を越えるものを多い順に配列したものである。
表1 規模別従業者数
表2 業種別従業者数
 これによると,米,薪炭,生魚,野菜などの生活必需品と並んで,古着屋(問屋,仲買,小売の合計)がじつに1930軒もある。
表2は古着以外の織物と製品の従業人員だが,その合計でも1820人で,これから古着屋がいかに多いかがわかるし,当時,古着屋が衣食住のうち,表を代表していたこともわかる1)。
 なお,この古着という名称は関東地方にのみ用いられ,関西地方では,これを古手と称している。一般に東北地方でも,日本海側の諸地方が古手とよんでいるのは,早くから大阪より古着の供給をうけていた名残りである。

 2.2もめんと古着

 古着屋がいつごろからはじまったのかあきらかではないが,古着屋の発達ともめんの普及との間には,密接な関係があったことはたしかなことである。
 江戸の古着問屋の草分けは江口屋であるが,これは東北地方へもめん古着を供給するために創業した。江口屋の由緒書によると,
 一.只今木綿と唱候品は,天文(1532~54年)之頃,異国より渡候品にて,慶長,元和(1596~1623年)の頃は奥羽人は見る者稀に候由,今も右両国には木綿畑これなく候。
 一.先祖藤兵衛奥筋に木綿出来申さず候儀は承知仕候に付,元和八戌年(1622年)より古着を買入奥筋へ売渡し申候2)。
 大阪古手においても,関東,北陸,東北地方へもめん古手を供給することを専業とする注文屋という古手問屋があった。
 其売先キハ三越,奥羽及東国筋ニシテ其取扱フ品ハ総テ木綿物ノミトス。就中,越後地方ノ如キハポト(東国ニテ「ボロ」ト云,即襤褸ノコト)ノ類ノミニシテ其甚シキハ寸断セルモノノ注文アリ3)。
 江戸も大阪も,東北や北陸地方へもめん古着を供給するために,古着問屋がはじまったことはたしかである。
 1672年(寛文11),大阪より日本海を遡航する西廻り航路が開かれたので,大阪古手は,この航路によって北陸,東北,北海道へ供給された。
 日本海沿岸へは,大阪商人も多く入り込んだ。それらの中には古着商を営む者が多かった。そして,在郷町を利用して古手を農民達に売ったのである4)。
 また,江戸の古着も,単に江戸市中に売るばかりでなく,北陸,東北地方,北海道,千島まで出荷していた。
かかるくさぐさのふる物をあつめて,馬におはせ,船につみなどして,こしの国,みちのくのはてまでももて行きて,ひさぎうり,それよりえぞが千島の遠き境にもゆきわたることとぞきく5)。
また,1624~43年(寛永年間)に江戸の古着屋が増えた6)というのも,1596~1624年(慶長年間)すでに大伝馬町に,木綿問屋があって,三河や知多からもめんを江戸へ供給してきた結果であろう。

 2.3 大阪の古着屋
大阪はもめんとともに,古着の最大の集散地でもある。大阪古手のはじめは「古老ノ言ヒ伝ヘ或ハ流伝ノ古書等ニ依リ,溯ツテ之ガ濫觴ヲ尋ヌルニ其始メ高麗橋筋ニ於テ該業ヲ営ムモノ数多アリテ漸ヲ追ヒ互ニ仲間ヲ結ヒ,規約ヲ建テ取締ヲ設ケ茲此業ヲ拡張セシガ,其後正保年中二至リ,初メテ仲間ノ御改メアリテ古手株御免許ニ成リ株札ヲモ下渡セラレ不正品取扱方及ヒ取調ノ方法等御達アリタリ是レ蓋シ正保二酉年(1645)ノ事ナリ7)」。
 その後,問屋から小売にいたるまでの機能別分化がすすみ,それぞれの仲間が結成されたので,1781~88年(天明年間)に組合の構成をつぎのように変更して以来,明治まで変わっていない。
  大阪古手仲間で,古着問屋に該当するものを札付屋と呼び,船場本町に居住していた。注文屋は,札付屋の一種で,三越(越前,越中,越後)奥羽,および東国(関東)などの遠隔地と取引きするもの。継屋組は近国近在からボロを買い集めて諸国へ売るもの。流買組は市中の質流れ品を買集めるもの。迦組は市中を回って古着,紙屑,その他を買集めるものである。
「(大阪古手商は)元文,寛保(1736~43)の頃には,本町1丁目(本町1丁目より心斉橋)までに割拠し,本町組を組織した。古手の卸売りは,主として本町2丁目辺より4丁目にわたって多く8)」あった。

 2.4 江戸の古着屋
 江戸の古着屋には,大別すると,下り古手問屋と地古着問屋の二つがある。古着ももめんと同様,大阪から大量に供給をうけた。これを扱う問屋を下り古手問屋という。これは菱垣廻船十組問屋に加盟して通町組,内店組の下組に加わっていた。
 いま一つの古着問屋は,江戸市中と近郊から出る古着を扱う地古着問屋のことである。以下,単に古着問屋といえば,この地古着問屋のこととする9)。
 江戸の古着問屋のはじめは,すでにのべたように,1622年(元和8)に創業した江口屋である。1650年(慶安3)に株仲間が公認され,1701年(元禄14)には盗品探索のため総代と会所が設立されている。
 江戸古着の特色は,その初期から年間を通じて,無休の朝市がたち,ここを中心として活動してきたことである。前記の江口屋由緒書によると,
 古着朝市之場所は元神田紺屋町より鎌倉町川岸へ引移候処,富澤町之辺に古着渡世之者多く御座候に付,是又石谷左近将監様へ古着問屋共願上,御聞済之上に富澤町川岸通へ引移り申候10)。
 これ以後,江戸古着の中心は富澤町川岸から永く変っていない。しかし,江戸時代中期の1716~35年(享保年間)以降,古着屋は市中へ分散する傾向がみられた。その結果,市中各所に古着屋が軒をつらねる古着店(ダナ)ができた。
 1830~43年(天保年間)江戸の古着店としては,富澤町,橘町,村松町,芝日蔭町,浅草東中町,西中町が名高い。
 中期以降,山ノ手に武士を顧客とする古着店が牛込改代町,四谷伝馬町,市ヶ谷田町などにあった。
 また,1736~40年(元文年間)に柳原土手で,筋違橋から和泉橋までの間に土手見世が許され,その7割が庶民相手の下級の古着屋であった。いずれも路傍にムシロを敷き,その上に古着,ボロを並べて売る最下級の古着屋,天道干(テンドウボシ)か,ヨシズ張りの床店の古着屋であった。

 注
 1)平出鏗二郎著『東京風俗志』上の巻。「営生諸業」,明治34年(昭和43年復刻)40,41ページ。
 2)『徳川時代商業叢書』(第3巻)「古着問屋旧記」名著刊行会大正3年(昭和40年復刻)416ページ。
 3)前掲『徳川時代商業叢書』(第3巻)「大阪商業習慣録中第27古手商」118ページ.
 4)『風土記日本』第5巻,東北・北陸篇,昭和47年㈱平凡社,301ページ.
 5)石川雅著「都の手ぶり」とみ沢の市,文化6年(『日本随筆大成』5)292ページ。
 6)前掲「徳川時代商業叢書』(第3巻)「古着問屋旧記」416ページ。「寛永年中より同渡世の者追々出来候」
 7)前掲「徳川時代商業叢書』(第3巻)116ページ。
 8)大阪「東区史」(第3巻),昭和16年。
 9)前掲「徳川時代商業叢書』(第3巻)418ページ。「十組の内,下り古手問屋名目相たちおり候につき,唱え方混雑つかまらず候よう,右文政度より地古着問屋と唱え替えつかまつり,あらためて名前帳さし上げ候」
1 0)前掲『徳川時代商業叢書』(第3巻)416ページ。

3 洋装のはじめ

 3.1 秋帆の服装改革
 一般的に,洋装化とは,ヨーロッパ,アメリカの服装をわが国の服装にとり入れることだが,現在,われわれが洋装化と呼んでいるものは,1853年(嘉永6)以降に起った服装の変革のことである。
 16世紀後半の大航海時代,ポルトガル,スペイン人たちが通商とキリスト教布教のため,わが国へ来航したとき,その外国人と接触した者たちが,驚異と羨望から,その服飾の一部を採り入れたのが,わが国の洋装化のはじめである。その模倣した服飾の大部分は消滅したが,わが国の風俗に吸収同化されたものとしてはカッパ(合羽)ジュバン(襦袢)カルサンなどがある。
 1546年(天文15)以降,キリスト教は禁教となり,鎖国体制は年々きびしくなるとともに,海外とは全く没交渉の,平和な200年間の歳月が経過して,江戸時代の末期になると,しきりに,わが国の周辺に出没する異国船に,心ある武士は危機感をたかめた。
 1840年(天保11)長崎の町年寄,秋帆,高島四郎太夫は幕府に洋砲採用を建議した。これは直接には,アヘン戦争の衝撃による危機感のためである。秋帆自身は武士ではなく町人だったが,1818~29年(文政年間)オランダ流砲術,銃陣をオランダ人に学び,私費を投じて,小銃,大砲を購入して門下生によって調練し,教授もしていた。
 1841年(天保12)秋帆は韮山の代官江川太郎左衛門の推挙によって,江戸郊外,徳丸ケ原において,その砲術と銃陣の調練を披露した。調練は成功したが,同時に秋帆と門下生の,これまで見たこともない服装とかぶりものが人々の注目を集めた。当時,約200年以上の永い平和が続いたため,軍人である武士でさえ,大きな袂のある袖,長い裾のきものを着ていた。外出時には袴をはいていたが,それは労働や戦闘動作に適した服装ではなかった。
 秋帆は服装に関する厳重な制約などにこだわらず,戦闘動作に適する服として百姓,町人の働き者を採用して,それを服装改革として提案した。
 秋帆と門下生の服装は,腰より上は筒袖,下はカルサン(タッツケ)をはき,頭にはトンキョ笠とよばれる円錐形の帽子をかぶっていた。「守貞漫稿」によると,カルサンとタッツケは同じ形をした袴で,膝から下が脚絆になっており,タッツケはコハゼでとめるが,カルサンは紐でむすぶ。カルサンは本名を伊賀袴という。カルサン袴は(幕末より)100年前武士が旅行など専らこれを用いたのか,現在(幕末)江戸の呉服大店で,掃除やのれんかけをする下男はかならず,これを用いる。今の世も武士の旅行,火事場などには稀にカルサンやタッツケを用いるが,平日も用いない訳でもない1)。
 1842年(天保13)秋帆は幕府より「高島流砲術伝授勝手次第を達す」と申し渡されたが,「もっとも,異やうの冠りもの,衣服等は用ゆる事なく常躰の笠,或いは陣笠,陣羽織,野服,小袴にて稽古いたすべき申し渡すべく2)」の条件が付加されていた。
のちに,薩摩,長州,土佐,肥前,姫路などの西南雄藩の藩士たちは,秋帆について砲術,銃陣を学ぶと同時に,その服装をもとり入れている。ただ,冠り物のみはトンキョ笠を採用した藩は,薩摩位にすぎなかった。江川太郎左衛門が考案したといわれる韮山笠が便利なため,徳川も諸藩も広く採用している。

 3.2 ペリー来航の衝撃
 1853年(嘉永6)6月,ペリーの率いるアメリカの東インド艦隊が,開国を求めて浦賀へ来航した。祖法を盾に拒否する幕府をペリーは大艦巨砲で威嚇して,大統領の国書を久里浜で幕府へ渡した。
 この衝撃によって,この年幕府は,海防に力を注ぐことをきめ,品川沖に台場を築き,大船建造禁止を撤廃し,西洋砲術の採用を決定した。武士の服装がこれによって変わった。「嘉永年中,亜墨利加渡来より諸武士頻りに武芸を磨き,特に,炮術に非れば彼に当り難きを以て,西洋炮術を学ぶ者多し,其輩従来の扮にては炮をあつかう便ならざるを以て,久しく廃たる伊賀袴を着し,又筒袖の衣を着す。今人は古を知らず,夷狄の風也と云ふ人もあれど,筒袖却て古風に合へり。籔潜(ヤブクグリ,韮山笠)と笠を着すは新製にて古風にはあらざるべし3)」
 翌年3月,再訪したペリー艦隊によって,日米和親条約がむすばれ,のちに,イギリス,ロシヤ,オランダの3ヵ国とも同様な条約がむすばれた。1855年(安政2)長崎海軍伝習所が設置され,1856年(安政3)講武所が正式に発足した。この年3月,講武所では訓練生の服装として,「着服の儀,稽古始の日は麻上下,平日は略服,かつ伊賀袴,股引,勝手次第4)」とさだめている。のちに江戸築地に設けられた海軍操練所の服装についても同様に「着服の儀,稽古始めの日は,慰斗目麻上下,平日は略服か,伊賀袴,相用ひ候ても苦しからず候5)」とある。
 1858年(安政5)4月,日米通商航海条約が調印され,つづいて9月までにオランダ,ロシヤ,イギリス,フランスの5ヵ国と条約がむすばれ,横浜,長崎,函館の3港を開き,翌年6月から貿易が開始されることになり,以後多数の外国人が横浜へ移住してきた。その大部分はアメリカ人であり,商人と宣教師が多かった。江戸に近い横浜の居留地に限定されてはいるが,この時から,日常,外国人と接触することが可能となり,はじめてわが国の洋装化がはじまったといえる。幕府は外国人の服装を模倣する者が出ることをおそれて,1859年5月,洋装禁止の次のような布告を出した。
 百姓町人共,衣服かぶりものの儀は,風俗にかかわり候間,異風の身なりいたすまじき旨,前々より相ふれおき候趣もこれあり候えども,向後,異形の衣服,かぶりものなど相用ゐ候儀,いよいよもってご禁制に候。
 万一心得違いの者これあり候はば,見かけ次第召捕り吟味の上,きっと申しつけるべく候。右の通り相ふれ候間,武家の面々も右の心得にまかりあるべき旨,むきむきへ達せられるべく候6)。
 1861年(文久元)ようやく世情は騒然とし,内外の情勢は次第に緊迫の度を加えるようになった。この年の正月,幕府はこれまでの講武所の規模を拡大して,改めてオランダ流調練を課目に加えた。この頃,調練をうける若者の中には,洋装にまぎらわしい服装をしたり,革靴をはく者もふえたので,この年の7月に次のような布告が出された。
 異風の筒袖,異様のかぶり物,着用あいならざるおもむき,かねて相ふれおき候ところ,近年,密々着用いたすやからもこれあるやの由,いかがのことに候。以後心得違いこれなきようにいたすべく候。
もっとも,ご軍艦そのほか大船乗組の者,かつ,武芸修業の者,筒袖にこれなくてはさしつかえ候には船中または稽古場にかぎり,外国人の服にまぎらわしく,これなきよう仕立相用い候儀苦しからず候。かつ皮履の儀もご軍艦方など船中にかぎりあい用い候儀,苦しからず,百姓町人どもの儀も職業柄商売体により筒袖着用,雪中皮履相用い候儀,これまで在来の品は苦しからずとはいえども,外国の製にまぎらわしく相仕立候儀は相ならず候。心得ちがい之なき様その筋々へ堅く申しつけるべく候7)。
 この文中の筒袖は,元来は和服の袖の一種であったが,これを現在の洋服の袖のように仕立たものが,「異風の筒袖」であり,「外国人の服にまぎらわし」い服のことである。
 皮履は古来から使用されている革足袋のことで,革足袋はよいが外国の製にまぎらわしい靴は禁じている。

 3.3 洋式兵制と軍服
 1862年(文久2)激動する時代を反映して,幕府はついに軍制改革を断行した。これまで,徳川幕府の軍事編成は旗本,御家人とその家臣から構成されていたが,これをオランダ式の兵制に改めた。これまで単に陸軍であったものを歩兵,砲兵,騎兵の三兵にわけ,主力となる歩兵のみを重歩兵と軽歩兵にわけ,この重歩兵は旗本から禄高に応じてさし出した人数の足軽,百姓その他の者で構成した。これが一般に幕府歩兵とよばれる者で,その多くは市井無頼の徒が多かった。
この歩兵の服装は紺もめんの筒袖ジュバン,同じ生地のタッツケをはいていた。これをタッツケと称しているが,タッツケとは多少ちがっていた。まず,袴のように腰板がある。また,タッツケなら膝から下は脚袢になってコハゼで締めているはずだが,ズボンと同様,筒状になっていた。韮山笠をかぶり,脇差をさしてゲーベル銃をかついでおり,また,日常必要な物を入れたダンブクロとよばれる大きな袋を背負っていた8)。
 1859年(安政6)以降,外国貿易がさかんになると,大量の毛織物が輸入された。その毛織物の中では,オランダ語でゴロフクリン(Grofgrein)と呼ばれるラクダ,山羊,羊などの毛でつくられた。あらい梳毛織物が多かった。これは呉呂,呉羅と書き,幕末,これで洋服がつくられ,また,女帯としても大流行した9)。のちに明治末期には垢すりに用いられている10)。

出所:『日本近代軍服史」より

 1861~64年(文久・元治年間)わが国の洋装化の歴史上,画期的な変化が起った。それは毛織物(ゴロ)を材料として,洋服らしきものがこの頃,はじめてできたことである。
1861~4年間(文久,元治の頃)初めて採用された軍服に対して,以来,其の上衣を呉呂又は呉羅服と云ひ慣したのは,蘭語Grofreinなる語源より発して,これを略訛した言葉で,又其下袴を段袋服と通称せられたのは,偶々下袴の形状が袋を穿ける時の様子と克く以通って居た処より袋の俗名段袋なる俗称から来た言葉である11)。
これ以後,ゴロでつくられた軍服の上衣をゴロ服,ズボンをダンブクロとよぶようになった。すでにのべたように,ダンブクロは幕府歩兵が背負っていた袋のことであり,それから転じて,ズボンの名称となり,この頃から広く普及して,のちに幕府の布告にも採用されている。
 1864年(元治元)7月,第1次長州征伐のため,幕府は旗本や諸藩の銃隊を大阪へ集中させたが,この年12月,長州藩は恭順の意を表して謝罪したため,戦闘にはならなかった。
当時の軍服は文久初年(1861~63)ごろ,はじめて調整されたものに較べて,さして変化もないが,呉呂服と呼ばれた上衣の型の内,上官の中には,折衿型を用いた物がふえたのと,ダンブクロ服と呼ばれた舶来パッチ,即ちズボンの形状が普通の筒型を用い出したことなどが稍変った点であった12)。
 1865年(慶応元)この年,江戸では危機感を反映して,「諸家の銃隊調練次第に盛にして,隊伍をなし諸方の調練場へ至る。各西洋風の太鼓を鳴して群行せり13)」という有様であった。再び長洲藩の不穏の動きから,この年5月,将軍は江戸を進発して大阪へ入った。1866年(慶応2)5月,「銃隊操練,異様な着服を禁ずる布令」が出されている。
 「畢竟,近頃追々虚薄に流れ,着服等もっぱら,洋風を模し,異様の冠物,華美な筒袖,陣股引等相用い,修練の実理を失ひ,漸々士風を破り,一体の御趣意にも悖り,もっての外の事に候(後略)14)」の布告が出された。
 この布告の中の「着服等もっぱら,洋風に模し,異様の冠物,華美な筒袖,陣股引等相用い」とは,当時の若者の流行であった。それについて,当時の幕臣の林董は「此頃西洋学を修むる青年輩の間には,何事も西洋人に真似ることが流行し,予の友人仲間も平常の野袴より巾の狭き義経袴と称ふるを猶狭く仕立てて其形如何にも西洋服のズボンの如く見ゆるを穿き,西洋靴を用ひ,衣服も袖も短く仕立て羽織は腰迄の長さに詰め(後略)15)」とのべている。
 なお,この布告で注目すべき点は,「一,ダンブクロは袴腰(腰板)これある分,苦しからず候こと」とダンブクロという言葉を使用している点である。

 3.4 幕末の洋服
 1866年(慶応2)6月,幕府軍は四境から防長二洲へ攻め入ったが撃退され,ついに勝つことができなかった。8月1日小倉城が陥落して,幕府の敗色があきらかとなった。
 8月,江戸で幕府は,各旗本の禄高に応じて歩卒を出させ,家ごとに組合銃隊を設け,11月,小石川の講武所を陸軍所と改称して,ここで銃隊の調練をすることになった。
 このたび,御旗本の面々すべて銃隊に御編成相成り候につき,戎服の儀,向後,筒袖羽織,陣股引と御定め相成り候間,其の意を得られるべく候。ついては出火の節登城,着服の儀も来卯(慶応3年)正月より右戎服着用いたさるべく候。
但し,布衣以上,黒羅紗紋白,布衣以下黒羅紗,黒呉郎服連のうち紋黄,御見目以下何品にても黒き色紋萌黄相用い,いずれも紋所は背へ一つ相付け申すべく候16)。
 このように,将校に該当する幕臣の筒袖,陣股引にラシャやゴロの生地を使用することを公認した。ただし,兵士の服装は紺か浅黄木綿の筒袖に同色の陣股引とさだめられていた。ところが,末期の幕府は朝令暮改の傾向があって,同月中に名称変更している。
筒袖羽織,陣股引の儀,戎服と相達しおき候ところ,以来,そぎ袖羽織,細袴と相唱え,海陸軍々役の平服と相心得,その余,向々にても出火等非常の節は右服着用いたさるべく候17)。
 当時幕府は,長州征伐に失敗して威信を失墜し,さらに8月には将軍が薨去するという悲境にあった。9月,幕閣内部で陸軍はフランスをよしとする意見18)が主流を占め,本格的な訓練をうけるため,軍事顧問団派遣をフランス政府へ要請した。
1867年(慶応3)1月,シャノワン(Charles Sulpiece Jules Chanoine)を団長とするフランス人将校,下士官の軍事顧問団が横浜へ到着した。このとき訓練をうけた者たちを伝習隊という。この年3月,横浜太田陣屋にて本格的な訓練がはじまり,6月には江戸へ移転した。
 一方,2月,そぎ袖,細袴をもって武役以外も平服とさだめた。
 今般,衣服の儀,仰せいでられ候について,武役の分はもちろん,寄合,小普請支配組共,そぎ袖羽織,細袴を平服と相心得申すべく……19)
 しかし,このような布告は,すでに無意味となっていた。
15代将軍徳川慶喜は,フランス皇帝ナポレオン三世から金モール縫の華美な軍服,帽子,靴,馬具などを寄贈されたが,江戸城内で,この年,月日はあきらかではないが,この服を着て靴をはき,帽子をかぶって馬にのった。その姿を撮影した写真が今に残っている。
 約10年前の1858年(安政5)には,「見かけ次第召捕り吟味の上,きっと申しつけるべく候」ときびしく禁じた洋装をもはや,将軍さえするようになった。
 また,フランス士官から訓練をうける伝習隊も,この年,ほぼ完全な洋装となった。これは,この顧問団の来日と同時に,訓練に必要な武器などとともに,軍服,靴,帽子なども大量に送られてきた。それを着た日本人には大きすぎたので,適当に縮めても,なお,からだに合わず,すこぶる不格好であったという。
 その後,幕府は軍服のために黒,紺のラシャを大量に輸入して,日本人に適した軍服がつくられた。
 守貞漫稿によると,「慶応年中(1865~68)に至り,これ(ゴロ服,ダンブクロ)を廃して,衣服,帽履全く西洋風を用ふるに至る20)」とのべているのは,このことである。
 従来,諸藩の兵士間に尊重されて居た黒呉呂服なる上衣はマンテル21)(Mantelet)とて現今のフロック型の物と半マンテルとて現今の背広型の物との様式に改められ,ズボンも舶来パッチ,段袋の称を廃して,タローズと呼ばれるに至った。
蓋し,マンテルは将校級の着服にして,隊員の常服は一名達磨服とも呼び,在来の物,或は前述の半マンテル等を用ふるを例とした。総じて,之等をジャケット仕立と呼び,佛国教官シャノワン氏の着衣より原型を取ったものだと謂ふ22)。
 ここに達磨服とは,フランス騎兵の短い上衣(dolman)から転訛した言葉である。
1867年(慶応3)の冬,旧中津藩士で当時幕臣の福澤諭吉は,片山淳之助のペンネームを用いて,西洋衣食住の一書を刊行した。この衣之部には,男子服飾を下着から図解しており,これは小冊子にもかかわらず,洋装化の促進に大きな役割をはたしている。なお,ズボンツリの名称があるところから,当時すでにズボンの名称が用いられていたし,のちに大流行したトンビが,当時すでに知られていたこともわかる。

 注
 1)喜多川守貞著『近世風俗志』(守貞漫稿)榎本書房,昭和2年,405~06ページ。
 2)『国史大系』第49巻「続徳川実紀」吉川弘文館,昭和41年,464ページ。『勝海舟全集』11「陸軍歴史」1,講談社,昭和48年,74ページ。
 3)喜多川前掲書,467ページ。
 4)前掲『陸軍歴史』III「講武所稽古規則」190ページ。
 5)『勝海舟全集』8「海軍歴史」1,講談社,昭和48年,209ページ。
 6)前掲書第50巻「続徳川実紀」606ページ。
 7)前掲書第51巻「続徳川実紀」104ページ。
 8)太田臨一郎著,『日本近代軍服史』雄山閣,昭和47年,18ページ。
 9)山川菊栄著『武家の女性』女性叢書,三国書房,昭和18年,75-77ページ。
 10)平出鏗二郎著『東京風俗志』中の巻,「服飾」明治34年(昭和43年復刻)。「湯屋の三助に背を洗はしむることあり,『ながし』といふ。概ね呉呂服を以て垢膩(あか)を摺
り」。
 11)大阪洋服商同業組合編纂『日本洋服沿革史』大阪洋服商同業組合,昭和5年,60ページ。
 12)前掲『日本洋服沿革史』37ページ。
 13)斉藤月岑著『武江年表』2,「東洋文庫」平凡社,昭和52年,203ページ。
 14)前掲『陸軍歴史』Ⅲ,442ページ。前掲第51巻『続徳川実紀』904ページ。
 15)林董著『後は昔の記,他』「東洋文庫」平凡社,昭和45年,123ページ。
 16)前掲「陸軍歴史」Ⅲ,454ページ。前掲第52巻『続徳川実紀』61ページ。
 17)前掲第52巻『続徳川実紀』81ページ。
 18)前掲『陸軍歴史』Ⅳ,182ページ。「海軍は英国を以て最とし,陸軍は仏国を良とし,医,法,理は独逸。農業,牧蓄は米利堅を可とするが如きは,天下の公認する処にして,更に間然する処あるべからず」。
 19)前掲第52巻『続徳川実紀』157ページ。
 20)喜多川守貞,前掲書407ページ。
 21)マンテルの語源はあきらかではない。『服飾辞典』(文化出版局)はフランス語,太田臨一郎『日本近代軍服史』ではオランダ語としている。1855年(安政2年)発行の和蘭字彙1669ページでは,Mantelz・m(男性名詞)Zerer Opper Kleed(あるいは上衣):訳 外套 又 合羽
ヘボン著『和英語林集成』1886年,丸善商社(復刻昭和49年,講談社,378ページ)MANTERU マンテル(derived from Mantle)a frock Coat,made after the foreigin Style)
大槻文彦著『大言海』冨山房,昭和10年,第4巻440ページ。
マンテル(名)〔蘭Mantel〕:西洋服の上衣(ウワギ)マントル。マント。外套。マンテルの形状は勝山力松著「改服裁縫初心伝」の平服(俗ニマンテルト云)之図を見よ。
22)前掲『日本洋服沿革史』42ページ。

4 洋装化の普及

 4.1 明治維新の変革
 1868年(慶応4)9月をもって明治元年と改元され,この年4月,江戸城が開城して,徳川幕府は事実上消滅し,250年に及ぶ江戸時代は終った。
 徳川幕府に代った明治新政府は,これ以後矢つぎ早に重要な改革を実行した。1871年(明治4)7月に廃藩置県が断行され,これまでの幕藩体制の土台が崩され,つづいて,73年(明治6)1月には徴兵令が布告され,この年7月には,地租改正条例が公布された。これまでの永代土地売買の禁止を廃して,土地の所有を認め,作物栽培を勝手とした。また武士の秩禄処分も,76年(明治9)の金禄公債証書発行をもって一段落し,これをもって,幕藩体制は完全に解体された。
 以上の改革と平行して,封建制度の骨格をなす身分制度も廃止された。これまでの江戸時代には,社会階級は士農工商にわかれ,その身分,職業は世襲によって固定化され,結婚,居住から日常生活のすみずみにいたるまで,きびしい制限が設けられていたが,これが順次撤廃され,まず,営業,職業の選択の自由が保証された。これまでの士農工商にわかれた身分制度は解体して,69年(明治2)から,あたらしく,四民となり,これがすべて平等であるといわれた。71年(明治4)7月,断髪令と廃刀令が布告されたが,一片の布告をもってしては,なかなか,断髪も廃刀も行われなかったが,76年(明治9)にいたって,徴兵令のために特定の者以外の帯刀が禁止された。
この明治維新が,わが国の衣服ならびに衣生活に与えた変革の大きさ,多様さはほとんど測り知れないものがある。
 そのうち,もっとも大きな変化は,身分にもとつく衣服,繊維などの禁止令が維新後ことごとく撤廃されたことである。それより更らに,大きな変革は,個人の意識の変化,社会通念の変貌である。
 さらに,明治後期になると,外国から移植された繊維工業が発達して,各種の繊維品を豊富低廉に国内市場へ提供することにより,わが国の庶民の衣生活は一段と向上した。

 4.2 洋装化の推進
 江戸時代には,わが国のほとんどすべての人々が攘夷を是としてきた。
 しかし,徳川幕府が崩壊して,明治新政府が発足すると,その対外政策は一転して攘夷から開国に変り,広く世界に知識を求めることを国是とするようになった。そして,ヨーロッパ,アメリカの軍事兵制,政治組織法律制度,経済機構,教育機関などのすべてについて,わが国個有のもの,古来からあるものは,これを捨てて,外国のものであれば,ことごとく,これをよしとして採用し,あるいは模倣して怪しむことがなかった。
 このような政府の方針に対して,由来,極端から極端へ走る国民性をもつわが国では,政府が攘夷を禁じると,それまで根強く残っていた攘夷の底流は,一転して外国崇拝に変った。元来,攘夷といい,外国崇拝といい,すべて同じものの表裏にすぎない。
「苟も本邦固有のものに執着するものは,之を罵って旧弊とし,因循姑息を貶し,良否無差別,欧米の風を追ふては文明開化と呼んだ。それが実に72,3年(明治5,6)から明治中年頃までの一般社会の大勢1)」であった。
 明治以降,わが国の洋装化の,もっとも強力な推進力となったものは,この舶来崇拝の風潮であった。

 4.3 紳士服のはじめ
 江戸時代以来の封建社会の解体が,明治維新によって短期間に断行されたので,さまざまな混乱が引き起された。とくに,服装の混乱は,はなはだしいものがあった。1871年(明治4)5月刊行の新聞雑誌には,当時の服装の種類を次のように列挙して,その混乱ぶりを伝えている。
 「装束,狩衣,直垂,鎧直垂,白丁,上下,軍服,非常服,西洋服,羽織袴,平服,被布,雨羽織医者ノ十得,袈裟,腹カケ股引,トンビ,フランケットヲ着ル者」服制の混乱は,ひとり国民のみならず,当時の政府も,また朝令暮改をくりかえしていた。
 たとえば,70年(明治3)11月,政府は「百姓,町人共,襠高袴,割羽織ヲ着シ,脇差ヲ帯シ,士列ニ紛ラシキ風体ニテ通行致シ候儀相成ラザル事2)」という布告を出した。これは維新後,服装が自由になったので,町人が典型的な武士のみなりをして,往来する者が目につくようになったためであろう。文明開化評林の73年(明治6)の東京雑詠の項に「割羽織帯刀,着袴ノ者少シク増セリ3)」とある。
 しかし,これは四民平等に反する時代錯誤の布告であったから,71年(明治4)8月には「平民襠高袴,割羽織ヲ着用勝手タルベキ事4)」と取消している。
 72年(明治5)8月には「散髪,制服5),略制服,礼式之外,脱刀トモ自今勝手タルベシ6)」の布告が出された。
 この混乱している服制を統一することが,発足したばかりの新政府の当面する重要な課題であった。
 その服制統一の根本課題は,和装と洋装のいずれを選ぶかにあった。明治新政府は発足と同時に開国を国是としたことから,早くから服制は洋装とすることを予定していたのではないだろうか。そのことは70年(明治3)に制定された官員服と呼ばれる制服が洋服であることから推測できる。
 はじめて公式に洋装とすることを明らかにしたのは,高級官吏や身分ある者と一般通常の礼服を洋装とさだめた72年(明治5)11月の次の布告である。
 今般,勅奏判官員及ビ非役有位大礼服並上下一般通常ノ礼服別冊服章図式(省略)ノ通リ相定ラレ,従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト為シ,直垂,狩衣,上下等ハ総テ廃止仰出プレ候コト,但シ,新製ノ礼服所持コレナ・キウチハ礼服着用ノ節,当分是迄ノ通リ,直垂,上下相用苦シカラス候コト7)。
 このとき,一般通常礼服として燕尾服が指定された。
 さらに,77年(明治10)には,勅奏判官大礼ノ儀上下衣袴トモ黒羅紗地金飾章ノ大礼服着用致スベキ事。但シ,朝儀二係リ白鼠色ノ下衣袴着用ノ節ハ其旨兼日式部寮ヨリ通知二及ブベキ事。官吏通常礼服着用ノ場合ハ黒若シクハ紺色ノ上服(英語フロックコート)ヲ以テ換用スルヲ得ヘシ。但シ,判任以下ハ各庁長官ノ見込ニヨリ羽織袴ヲ以テ代用致スモ苦シカラズ候事8)。
 このうち下衣はチョッキ,袴はズボンのことである。このように,一片の布告をもって礼服が指定されても,当時はそのまま,円滑に実行されたわけではない。
 「何分主客,調整者(洋服屋)共に未だ洋服に関する充分の知識はなかったため,其の注文も六ヶ敷調整上にも非常の労を費した9)」洋服の知識が注文する者もされる者もともに欠けていただけでなく,当時,洋服は非常に高価であった。服地,その他附属品はすべて輸入品であり,これを仕立ることのできる洋服店もすくなく,仕立代も高価であったから,当時の洋服は貴重品であった。
 なお,判任官以下では「各庁長官の見込み」で礼服として羽織袴の代用を許しているのも,当時の洋服が高価で,下級官吏ではすぐには購入できなかったためである。
 明治のはじめの主な洋服の品種ごとの形状とその特徴をのべると,
(1) 呉羅(ゴロ)服は今の詰衿型と相似た処はあるが,其の寸法,余裕等あまりに充分過ぎて不恰好であった。
(2) 段袋(ダンブクロ)服は足脛に至る程細く縮められ,恰も今の半ズボン型に相似通ふ処があったやうである。
(3) マンテルは其の形状今のフロック型に相当して居たが,更に締りなく,殆どマントを上衣様の新形式に変へたとも云ふべき型であった。
(4) 半マンテルは今の背広服に克く似通ってゐたとは云ふものの,丈長く猶不体裁で詰衿型のものを多く有してゐたものである。
(5) 達磨(ダルマ)服は(中略)初めの呉呂服に比し稍々進歩した程のものであった10)」
 なお「当時,平服ではフロックが普通で,これを長マンテルと呼び,現在のような上衣は半マンテルといった11)」
 4.4 制 服
 明治初年から洋服は,高級官吏,その他,上流階級の,当時紳士とよばれた人々が着たから,洋服にはそのようなイメージが定着していた。この服を男子服とはいわずに,紳士服とよぶようになったのは,その名残りである。
 しかし,当時,紳士ではない,むしろ下層階級の人々が着た洋服があった。それは警察,鉄道,郵便などの官営事業の従業員の制服で,そのほとんどは官給品である。わが国で,そのような制服としては,軍服がもっとも古い歴史をもっている。
 洋服といえば,紳士服というイメージから,わが国では制服は一般に洋服とは見なされないが,これが洋服の一部であることは,いうまでもないであろう。わが国の洋服の歴史の中では,紳士服のそれよりは古く,その重要性はまさるとも劣らない。
 これらの官営事業または行政機構の一部の従業員は,官吏かもしくは官吏に準ずるものであるから,官吏の服装を洋服と決定すれば,その制服が洋服となることは当然のことであろう。また,これらの官営事業は設備から機構,組織にいたるまで,すべて外国のものをそっくり移植したから,従業員の制服を洋服とするのも当然なことであった。以上のような理由のほかに,その現場の従業員としては,動作に簡易軽捷な洋装でなければならない必然性もあった。次に引用する鉄道の場合が,その典型的な一例である。
 是月(3年12月)工部省各寮官員ノ著服諸官省ノ如ク羽織袴ニテハ身体屈伸不便ナルノミナラズ,器機運転ノ際,災害ヲ被ルモ計リ難ク依テ予メ仰出サレシ非常服,或ハ筒袖,股引勝手次第ニ著用シ,工場ノミナラズ,営中諸官省ヘモ其ママ出頭苦カラザル旨允可セラル12)。
警察 東京では71年(明治4)10月,それまでの各藩の兵士を選抜した府兵を廃止して,邏卒3000人を配置して東京府下の治安にあたらせた。これが最初の警官(巡査)である。
 この初期の邏卒の服装は「達磨服とて黒紺羅紗小倉製の詰襟上下に上より革帯を締め,手に3尺棒を持ってゐたものであった13)」。
郵便 70年(明治3)6月に郵便事業の建議が提出され,翌71年4月には,早くも郵便切手が発売され,東京,大阪,京都と東海道各駅に郵便の取扱いがはじまった。72年(明治5)2月には北海道の一部をのぞいて全国的に施行された。
 初期の郵便夫の制服は,「黒小倉製詰襟の上下を着用してゐたが,上衣は両袖口に白線の丸輪一筋,ズボンには又両側に白の棒状の竪線一筋附けられて,無帽草鞋穿きの姿であった14)」。
 この「小倉製詰襟」の服とは,厚地の綿織物製のダルマ服のことであり,当時の郵便夫の絵を見ると,あたかも「洋服を着た飛脚」と大差なかった。
 鉄道わが国の鉄道は72年(明治5)6月に品川―横浜間,同年10月には新橋―横浜間が開業した。89年(明治22)には東海道全線が開通し,19世紀のはじめには全国の幹線のほとんどが開通した。
 「当時の制服として,駅長,助役級は黒羅紗の長マンテル型,車長は半マンテル型,これ以下の者はコール天,又は紺の小倉服にて詰襟ダルマ乃至はジャケツ仕立の所謂汽車乗服と云へる一種独特のものであった15)」。

 4.5 一ツ物屋と数物師
初期の洋服は,高級官吏の礼服や上流階級の当時紳士とよばれる人々の着た洋服,いわゆる紳士服と下層階級で,政府の官営事業の現場で働く人々の着た洋服,いわゆる制服とにわかれる。後者の制服で生産量が最大なものが兵士の軍服である。
 洋装化の変遷を検討するためには,この2種類の服について比較しなければならない。
 その形状をみると,当時の紳士服はマンテル,ズボンと呼ばれるようにほとんどがフロックコートに似たマンテルで,のちには背広が増えた。これに対して,制服はそのほとんどが詰襟のダルマ服であり,両者のちがいは一見してよくわかった。
 重要なちがいは素材である。紳士服はラシャなどの毛織物が用いられ,しかも,その服地は輸入品にかぎられていた。
 これに対して制服のほとんどが,国産の小倉織とよばれる厚地の綿織物が用いらられている。仕立方を見ると,紳士服は注文する者の好みを入れ,その体格にあわせて製作する。しかも,たった一着しかつくらぬので,非常に丁寧につくった。この製作する注文仕立の洋服業者を明治初年には一ツ物屋と呼んだ。
 一方,制服は誰が着るかわからぬから,大体の体型を想定して,縫製工場で大量生産した。つまり,既製品である。同時に大量に製造するから,この製造業者を数物師という。服の価値としては,紳士服は明治初年には,きわめて高価であったから,貴重な資産として大事に扱われたが,制服の場合には量産した官給品であり,消耗品であった。
 豫ねて大礼服制定の当時から業界分立の形勢はあったが,10年代の一般洋服の普遍と洋服業者間の甲乙二様の営業手腕とにより遂に画然と,(一)一ツ物屋,(二)
数物師,の二業容を形成するに至った。即ち,一ツ物屋とは今の高等洋服店とも称すべき営業内容の店を意味し,数物師とは又後に既製品の自家販売者と,大口注文の請負供給者との二業容に分立した16)。

 注
 1)斉藤隆三著『近世世相史』創元社,昭和16年,205ページ。
 2)『維新日誌』第3巻,名著刊行会,1966年。
 3)明治文化研究会篇『明治文化全集」(文明開化篇)第24巻,昭和4年,263ページ。
 4)前掲『維新日誌』第3巻,34ページ。
 5)制服は官員服と呼び1870年(明治3)11月に制定され,72年1月に廃止された洋服。形状は『近代洋服史』531-35ページを参照。
 6)前掲『維新日誌』31ページ。
 7)前掲『維新日誌』第4巻,268ページ。
 8)前掲『維新日誌』。
 9)大阪洋服商同業組合編『日本洋服沿革史』大阪洋服商同業組合,昭和5年,93ページ。
 10)前掲『日本洋服沿革史』61‐62ページ。
 11)太田臨一郎『日本近代軍服史』雄山閣,昭和47年,48ページ。
 12)『日本鉄道史』上巻,鉄道省,大正10年,516ページ。
 13)前掲『日本洋服沿革史』82ページ。
 14)前掲『日本洋服沿革史』87ページ。
 15)前掲『日本洋服沿革史」87‐88ページ。
 16)前掲『日本洋服沿革史』125ページ。

5 洋裁技術の移植

 5.1 洋裁技術の移植
 現在,われわれが洋服裁縫(以下略して洋裁とする)とよぶ技術が,わが国へ移植されたのは,1869年(安政6)の開国以後のことである。
 すでにのべたように,1852年(嘉永6)以降,洋式兵制とともに戎服が採用された。初期の筒袖,股引などの場合には,いかに形状を変化させても,和装であることに変わりがなかったから,家族の女たちや長物師でも,つくることができた。
 もともと,衣服は自分自身が着るか,他人が着ているのを,しばしば観察することができなければ,満足な服をつくることができない。したがって,筒袖,股引からゴロ服,ダンブクロと年々洋装へ近づくにしたがって,もはや家庭内の女たちや長物師には手に負えなくなった。
 それにもかかわらず,依然として,女たちや長物師が戎服を製作したから,当時の戎服はすこぶるみじめなものであった。
 之等(ゴロ服,ダンブクロ)は多く密買人の手を経て,材料(ゴロフクリン)を購入し,家族中の女手,若しくは,和服の仕立職等に申付て可然(しかるべき)寸法に改縫し,以て着用してゐたもので,其の体裁,形様等迚(とて)も見られたものではなかった1)。
 かくて,本格的な洋服職人の登場が期待されたが,わが国の洋服職人は,そのような需要に応じて登場した訳ではない。
 そこが洋服技術の移植が,他の技術とは大きく異なる点である。わが国の洋服職人は,開港間もなくから居留外国人の需要に応ずるために,早くから育成されていた。
 1869年の開港と同時にヨーロッパ,アメリカ,清国人が横浜,長崎,函館などの居留地へ移住してきた。表3は横浜における,これら外国人の人口動態である。
 この表からあきらかな通り,多数のヨーロッパ,アメリカ人とほぼ同数の清国人がいた。これらの清国人には洋裁業者が多く,いずれも零細な業者であった。
 彼らは当時、横浜などの港町で,寄港する世界各国の船員を顧客とする洋裁業者であった。これは,船員のために短期間に必要とする衣服を製作する業者であり,このような清国人の親方に雇われて技術を修得したわが国の職人もいた。
表3 明治初年横浜外国人戸数・人員
 1869年(安政6)の開国以来,各国から居留地へ移住してきたヨーロッパ,アメリカ人の中で,裁縫が得意な婦人たちがいて,はじめは,おそらく在留外国人たちに頼まれて,婦人服を仕立てる内職をはじめたが,そのうちに,本格的な洋服店へ発展した例もある。
 その内職としてはじまった時期はきわめて古く,もっとも早い場合は,1860年(万延元)ごろからであり,これらの店に雇われたりあるいは,下請となって,外国人から直接技術指導をうけたものたちが,最初に婦人服の洋裁を修得した職人たちであった。
 居留地におけるヨーロッパ,アメリカ人の人口の増加とともに,やがて,男子服専門の洋服店が開業しているし,また,一般の商館で本国から裁縫師を呼ぶわけにもゆかぬので,日本人の徒弟を募集して育成した例もある。すでに仕立屋の職人であったが,このような店に雇われたり,下請になった者もいた。これらの職人が,はじめて男子服洋裁技術を修得した者たちである。
 中古洋服を手に入れて,これをほどき,型をとり,縫い方を調べて,洋裁技術を修得した者もあったらしい。ただし,これは独学にかぎらず,外国人から技術指導をうけたとしても,洋服を分解して研究することは,初期の職人は誰でも実行した技術修得の汎用手段であった。
 明治初期からキリスト教伝道のために,女子教育を志した外国婦人がいた。その教育内容として語学の外にも洋裁が教えられた。
また,御雇外国人として来日した女教師や,種々の理由から学校教師となった外国婦人たちが,女子教育の一環として洋裁を教えたこともある。この場合,技術を修得した者は女子学生であり,その技術は婦人子供服にかぎられていた。女性の洋装化がいちじるしく遅れた当時では,洋裁技術を役立てる機会は少くなかったであろう。
 明治年間,洋服の需要のほとんどは,男子服にかぎられていたが,その洋服店の数も増え,職人も多くなると,徒弟の養成が行われるようになったが,職人の自己の技術を秘伝とする気質があって成功していない。
 むしろ,正しい洋裁技術の普及に大きな役割りを果したのは,明治後期からの東京,大阪などの洋服学校である。
 これらの洋服学校は,すべて紳士服にかぎられているが,そのはじめは個人がはじめたので規模も小さく,経営も不安定で,永続したものはすくない。のちに組合経営の洋服学校もできた。
 明治中期以降になると,わが国の職人の技術も上達して,外国人を雇うこともすくなくなり,外国人から直接指導をうける機会もなくなると,外国の洋服学校へ留学する者が年々増えている。帰朝後,外国仕込みの技術者として,非常に優遇されていた。
 5.2 ブラウン夫人
 『日本洋服沿革史』によると,「此頃(1861年)横浜の居留地には独逸人のプランと謂ふ者及び英国人のローマンと謂ふ者が,倶に当該地区内に店舗を設け,居留外人の洋服を裁縫してゐた2)」とある。
 これは,わが国において,外国人による洋裁技術の移植に関する唯一の記録であったから,これ以後の,わが国の洋裁の歴史の本はすべて,これをそのまま引用している。このプランとは,次にのべるブラウン夫人のことではないかと推定されている。ただし,夫人はドイツ人ではない。
 1859年(安政6)5ヵ国通商条約がむすばれて,横浜,長崎,函館の3港が開かれると,多くの外国人が横浜へ移住してきた。
 この年の10月,アメリカのダッチ・リフォームド教会宣教師のサミエル・R・ブラウン(Samuel R.Brown)とその妻のエリザベス・ゴドウィン・ブラウン(Elzabthe Godwin Brown)が布教のために来日した。一足さきに来日していたヘボン博士夫妻が住んでいた神奈川の横浜村の成仏寺に一緒に住むことになった。
 ブラウン夫人は,成仏寺時代にミシンの使用を始めて日本人に伝えた婦人であった。アメリカにいたときオワスコの教会で「婦人裁縫協会」を組織し,この働きによって会堂建築資金の一部を助けたこともあった3)。
 ブラウン夫人は裁縫が得意で,当時,成仏寺には横浜に居留するヨーロッパ,アメリカ人たちがよく集まり,そのために在留外国婦人から婦人服を仕立ることをたのまれたらしい。
 「62年(文久2年)成仏寺をひきあげることにし,一時,横浜本町通りに移ったのち,64年(元治元)6月に横浜山之手に新居を構えることができました4)」。この本町通りの店が夫人の内職が発展して開いた洋裁店で,わが国でも,きわめて古い店である。
 この洋裁店は古いことと沢野という職人がいたことなどから,当時,横浜で洋裁を修業した多くの職人がこの店に出入りしたらしい。その点でブラウン夫人は,洋裁技術の移植に大きな功績があった。
 ところが,1866年(慶応2)春この山之手の新築した家が火事で全焼したため,一時店を閉じてブラウン夫妻はアメリカへ帰国した。
1869年(明治2)8月,新潟英語学校の教師として招かれて,再び来日した。
 このとき,ミス・メァリー・エデイ・キダー(Mary Eddy Kidder)を他人ではあったが娘として夫妻は新潟へ連れていった。
 契約は3年であったが,僅か8ヵ月で,横浜の修文館教師として戻ることになった。ブラウン夫妻はその後横浜にいて伝道に従事していたが,1879年(明治12)に帰国して,夫人は1890年(明治23)になくなった。

5.3 沢野辰五郎
 ブラウン夫人に雇われた唯一の日本人の職人は沢野辰五郎(1849年生)である。当時の事情はその思い出話から知ることができる。
 1859年(安政6)は夏の初めの事でした5)。神奈川本陣鈴木の会所より宿内の仕立屋足袋屋仲間に対し,職人1名を成仏寺に差出せとの達しがありました。その頃は異人と云えば全く畜生同様に心得,異人に近寄ると穢多臭くなるとか狗が吠えるとか,愚にもつかぬ事を云って騒いで居ました位ですから,誰一人行って見やうと云ふものがない。何程貰ったって,詞は通ぜず,鈍間をすれば靴で蹴り飛ばさるると云ふから,堪らねエと尻込みする者許りで,どうしても行くものがありません,ところが会所からは矢の催促,此の上愚図愚図すれば仲間一同がお叱り,どんなお咎めを受るかも測られないと云ふので,抽籖にて定めやうと,まるで人身御供と云ふ訳でした。其時私は或る足袋屋の職人で,齢は弱(わか)し,何ぞ変った事をとの野心もありましたので,夫れでは私が行って見ませう,なに異人だって,豈夫(まさか)蹴り殺しもすまいと,我から望んで出ました6)。
 いよいよ,沢野が成仏寺へ行くことになり,
 「初めてお目に掛かりましたが,ブラオン夫人は左様彼是60近い,見るから優さうな方7)」であった。当時,夫人は簡単な日本語がしゃべれたので8),挨拶がすむと,まず賃金の交渉からはじめられ,当時人足が1日150文,大工が300文の時に,朝8時から夕方6時まで700文と言い出し,「足袋屋の職入が1日700文とは,自分ながら法外だ,屹と高いと云ふに違ひないと思って居ますと,案外にも700文よろしい,夫れでは是非明日よりと相談が極りました。内心はビクビクもので翌日成仏寺に乗り込みますと,夫人が夫れは夫れは御親切で1から10迄手を取らぬ許りに教へて下さる許りか,ブラオン氏でも,バラ氏でも又ヘボン先生でも,誠に鬼と思った仏さまです9)」
 仕事は「寝台用の布団をミシンで縫ったのですから却々(なかなか)立派だ10)」。これを針一本でミシン同様の仕事をするので,なかなかはかどらない,やっと布団ができ上ると,「夫人は自分は目が悪くてミシンにも掛かられないで11),引続き勤めて呉れよとのお詞なので,其後も通って居りますうち,夫人より女洋服の裁縫方に付き親切な伝授を受け,足袋屋職人から洋服屋に変じました。ブラオン氏方には其後18年間引続き出入致しました12)」
 このようにして,維新後しばらくは婦人服は沢野1人で,東伏見宮殿下の御召用,井上公爵夫人の洋服を仰せつけられたが,次第に上手な者もでてきた上,貴顕の御用は役所から何月何日出頭致すべしで得意に迷惑をかけてきたので,「私は少し考えがあって,店も張らねば弟子も取らず,全く一本立ちですから,かたがた東京の御用は総て御辞退致し,其後は居留地のお得意だけを守って居ります13)」と浅間町,沢野辰五郎翁談は終っている。

 5.4 デビス夫人
 1863年(文久3)に来日した居留地団の統率者デビス氏の夫人は,若くして美人であった。夫人は十数着の美しい婦人服をもっており,服飾に詳しく,これが評判になったので,63年に横浜居留地の66番館に婦人服飾店(Mrs Davis Dressmaking Establishment)を開業した。この店はデビス夫人とレスレイ嬢(Miss Leslie)で仕事をしていたが,「次第に繁昌した店の仕事のため,日本人を下請に使うべく,洋服調製の技術者を養成しようと,その職人を募集したところ,女性は1人もおらず,4人の男性が弟子入りを申し込んできました。それは西島幾太郎の曽祖父片山伊三郎,伊藤金作,柳原守平,井上六茂の4人であります14)」。
 これら4人の職人たちが,その婦人服の技術を後世へ伝えた。

 5.5 ローマン商会
 明治時代には,わが国の洋服の需要はほとんどが,紳士服にかぎられていた。
 横浜の外国人経営のローマン商会は,男子服専門の洋裁店であったから,初期の洋服職人が,ここで洋裁技術を修得したと推定されている。このように洋裁技術の移植に大きな功績があったにもかかわらず,ローマン商会の実態はあきらかではない。
 先に『日本洋服沿革史』から引用した「此頃(1861年)横浜の居留地には,独逸人のプランと謂ふ者及び英国人のローマンと謂ふ者が,倶に当該地区内に店舗を設け,居留外人の洋服を裁縫してゐた15)」という文章とローマン商会をむすびつけて,
 万延元年(1860)に横浜の山下町70番館で,ローマン商会と呼ぶ独人プランの
経営する洋服店第1号が開店している。
 山下町の居留地内に住んでいる外国人に売るための洋服店で,日本人向けのものではなかったわけだ。そこの技術者である英人ローマンが,日本に洋服仕立技術を伝えた最初の人であり,そこで働く長谷川庄吉という人が,日本人技術者第1号ということになろう16)。
 ローマン商会はドイツ人プラン経営,イギリス人技術者ローマンという言い伝えがあるのか,この説がもっとも多い。すでにのべたように,プランとは実はブラウン夫人のことであるとする説も多い。次のはその一つである。「ブラウン夫人とイギリス人のド・ローマンが共同で,はじめたローマン商会(柳屋の広告にあるロースマンドはこれである)17)」。しかし,ブラウン夫人はローマン商会と関係がない。
 結局,はじめに引用した文章を信じて辻褄をあわせようとするから,次第に奇妙な説となる。そこで,信頼できる資料をつぎに例挙してみよう。
 ローマン商会の基本資料の第1は,明治19年刊行の『日本絵入商人録18)』である。ここには見開きで,図に示すように,二階建のローマン商会の図が掲載されている(次ページ)
 右肩の囲みの文字は,横浜本町通り53番裁縫店,ローマン商会とある。居留地の商館は番号で呼ばれていたから,ローマン商会は53番館である。これまで,この事実を1855年(明治18)に70番より53番へ移転と説明されている。
 第2の資料は,明治14年刊行の『横浜商人録19)』である。
 第53番地ロウマン 商会裁縫師旅装師
 ジュリヤス ペルゼル
 エツチ ロウマン
 エフ ロウマン
 この資料で意外なことは,ベルゼルが筆頭であって,ローマンではないことである。なお,ローマンは2人いるが,ローマン商会の名はエツチ・ローマンに由来する。そのことは次の資料からも推定できる。
 第3の資料はローマンが西村勝三に雇われたときの届書である。
ロウマン(エツチ)(国籍)独(雇主,雇期間)東京府下商人西村勝三(5年10月26日より1ヶ月)(職種)工(給料)200ドル20)
 これによって,西村勝三に雇われたローマンとローマン商会のローマンとが同一人物であることが判明した。この資料で驚くべきは,H・ローマンの国籍がドイツ人であることである。これ以外に英国人のローマンがいたのかも知れぬが,現在までわからない。
 第4の資料は,
 ローマン(エッチ)(年齢)6年当時26歳(国籍)独(雇主,雇期間)東京府下商西村勝蔵(6年11月1日より1ヶ年,雇継7年12月1日より1ヶ年)(職種)
 縫工(給料)月給200ドル21)
 これは第3の資料のつづきであるが,ロウマンがローマンとなり,勝三を勝蔵と間違えているなど些細な違いを除いて,重要な違いは年齢の項目があって,ローマンは1873年(明治6)当時26歳であったことがわかったことである。これから逆算すると,生年は1847年前後となる。だから,ローマン商会が60年(万延元)に開業したのは間違いであることが明らかとなった。なぜなら,60年ではローマンはまだ13歳の子供にすぎない。こんな子供の名前を商会の名とすることは,考えにくい。
 次にローマンは月給200ドルという高給を得ていた。もし,ローマンがいせ勝に丸4年勤務して,月給を全部貯金すると9600ドルになる。
以下は推測だが,のちにのべるようにローマンは勤めているいせ勝洋服店の経営不振に将来を不安に思っていた。1875年(明治8)ベルゼルが来日して,2人は知り合う。ベルゼルも男子服の技術者でドイツ人だから,2人は親しくなる。かくて,ベルゼルが経営手腕,ローマンが資本を出しあって,設立したのがローマン商会で,出資者であり,所有者をあきらかにするために,商会名にローマンの名を冠したのではないか。
 もし,以上の推測が正しいとすると,ローマン商会は1875年か76年(明治8,9)に設立されたことになり,意外に新しいことになる。
ベルゼルについては,「通称ベルさんで通っていた彼は1875年(明治8)来日し,88年(明治21)帰国するまでの13年間,53番館のローマン商会主として店の経営から,裁断,調整等に至るまで,大いにその手腕を発揮し,日本洋服界の先輩達のよき指導者であり,大先達として活躍した22)」。
 ベルゼルが帰国したのちのローマン商会がどうなったかわからないが,経営できないのでローマンは譲渡したのではないか。
1893年(明治26)刊の『横浜貿易捷径』23)によると,
 53番館 独商 ローマン商会
 洋服仕立兼服地及附属品卸小売
 館主 ビエンク
 輸入売品
 毛糸類,毛綿織物 同売係人
 小間物及帽子 黒川朝次郎
 手提及金物
 輸出買品 同買係人
 絹ハンカチーフ 黒川朝次郎
 木綿織物其他雑貨
となって,ローマンの名はなく,業務内容も一変している。
 1897年(明治30)発行の『日本紳士24)』では
 53番館 ローマン商会
 館主 イー・ビンダー(E.Binder)
 業務 西洋服裁縫,小間物類
 シャツ洋傘一式販売
と変わっている。このビンダーの時代にローマン商会は倒産した25)。
 ローマン商会には,すでにのべた長谷川庄吉の外に,長谷川の下で修業した職人で名高い小沢惣太郎がいる。小沢は武州忍の人で,1851年に生れた。
 初めは山城屋に住込み,鈴木徳右衛門について洋服裁縫の技術を習ったが,ここにおること数年で横浜へ行き,ローマン商会へ行き,修業すること8年余の後,森田屋へ勤めた26)

 5.6 商館で養成された職人
 また,明治以前に横浜の居留地の商館で,徒弟を集めて洋服職人として養成がはかられていた。それは鶴谷善吉(1849年生)という洋服職人の経歴から知ることができる。
 鶴谷は江戸八丁堀の足袋職人であったが,1865年(慶応元)善吉17歳のとき,人伝てに横浜の南蛮屋敷で洋服技術の見習生を募集していると聞いて応募した(中略)居留地にいる外人の公館,つまり南蛮屋敷というわけだが,ここに住む連中の洋服をつくった。つまり,本国から裁縫師を呼ぶわけにもいかず,人件費の安い日本人の弟子を教え込み,現地自給しようとした27)。
 ここに公館とか南蛮屋敷というのは,一般の商館のことを指しているのであろう。番館ともいわれた。
 このようにして,日本人の徒弟を育成して,洋服職人にすることは,すでに1865年以前から行われており,その中には大谷金次郎もいた。
 また,篠田鉱造の『銀座百話』に掲載されている洋服職人の談話は,いつ,誰が話をしたのか不明で,資料価値は低いが,その談話の中ですこぶる興味深い一節がある。
 私も洋服をハマの屋敷(商館のこと)で習った一人です(中略)洋服職人の扮装は,ズンドの洋服に,紺股引,紺足袋で舶来屋さんと称(よ)ばれました。大低背中は刺青だらけ,浜の何十番館といえば,幅の利いたものでした28)。
 この職人は鶴谷善吉と同様に,横浜の商館で育成された洋服職人であることは間違いない。明治以前に,横浜の居留地で,このようにして洋服職人を養成していたことは,ほぼ間違いないであろう。

 5.7 その他で修業した職人
 明治初年,横浜でミシンを習ったというと,ブラウン夫人の店と考えられがちであるが,必ずしもそうとはかぎらない。
 たとえば,『ミス・キダー書簡集』によると,「私がある日本人の洋服屋にミシンの縫い方を教えたので,その人は今ミシンを買いに行っているのです。日本人は皆ミシンを不思議なものだと思っています29)」。これは1870年11月,横浜から発信の手紙で,このように,思いがけない人がミシンを教えている。
 また,ある職人が横浜で男子服の洋裁技術を修業したが,その修業した店の名がわからないときは,それは多分ローマン商会ではないかと推定される。
 たとえば,大谷金次郎は1862年(文久3)14歳のとき,横浜へ出てローマン商会で修業した30)と伝えられているが,すでにのべたように,これは間違いであった。
 初期の洋服職人はローマン商会以外の,さまざまな店で修業している。一例をあげると,舶来屋与次郎と呼ばれた佐藤与次郎は,わが国の洋服屋の開祖という説31)もあるが,その前半生を例とすると,佐藤はもと松本伊平を名のり,京都の装束師であったが,事情があって放浪して信州へ行き,ここで,ある人から洋裁技術の修業をすすめられ,人の紹介で,横浜山下町外人居留地にあるセールス・フレーザー商会へ住み込んだ。その時期は1865~66年(慶応元,2年)のことである。
 この店には,元船員のフランス人(氏名不詳)の裁断師がいた。この裁断師が実はセールス・フレーザーであるという説もある32)。ここで松本は辛抱強く2年間学び,そのフランス人が1867年(慶応3)に帰国するとき,裁縫道具一切を松本へ与えた。
この時代,松本は野毛山下町の外人服商オランダ屋へ勤める山岸民次郎とも知り合った。1872年(明治5),松本は佐藤与次郎と名を改めている。
 以上は一例だが,次のような例もある。
 東京に於ける洋服裁縫の草分けとしては1881年(明治14)フランス人フジョレーの所へ入り仕事に行って技術を学んだ飯島栄次,1885年(明治18)頃横浜在留のイギリス人某に就いて修業した大島久兵衛,ロシヤ公使館への入り仕事が機縁で斯の道に入った田中栄次郎の名前を先づ挙げねばなるまい33)。
 彼らはいずれも初期の婦人服の職人である。

 5.8 港町の洋服屋
 明治以前,わが国の洋服の需要は,横浜などの港町へ在留している外国人にかぎられていた。この在留外国人の男子服は,紳士服にかぎられていたが,港町には,この在留外国人以外に,寄航する外国船員の服の需要があった。
アメリカでは,これらの服を供給する商人のうち,職人が暇なときに服をあらかじめ仕立てておき,これを船員に売ることによって,既製服製造業がはじまった。
 たとえば,アメリカではニューフォード,ニューヨーク,フィラデルフィア,ボルティモアなどの港町で,18世紀のはじめに既製服は生れた。
 18世紀のはじめにニューイングランドの港町で「数人の企業意識に富んだ商人,具体的にいえば,ブルックス・ブラザース(Brooks Brothers co.)が港に船が入っている短い期間に,あまり金をかけず,簡単に衣類の補給をする必要のある水夫たちに,安い既製のズボンとシャツを作って売ることを考えついたのがはじまりである34)」。
 しかし,これはアメリカのことであって,わが国の既製服は港町に誕生したわけではない。ただし,わが国でも開国すると,このような船員相手の清国人の仕立屋が,上海から横浜や神戸へ移住してきた。
 1879,80年(明治12,3)頃の横浜について見ると,洋服を製造する「舶来屋」は西洋人の店で主なものが3軒,小さいものを加えても,6,7軒で,中以下の店といえば,悉く清国人の店であった35)。
 この清国人の舶来屋は,寄航する外国船の船員の衣服を非常に短い時間に製作した。午前中船へ行って注文をとり,翌朝までに仕上げて納めた。この清国人の親方に雇われている職人たちは,昼間は寝ていて夜になると起きてもっぱら縫った。
 仕事は外衣ばかりでなく,下着からシャツまで全部を仕立たが,「清国人は地熨もせず,仮縫いもせず,註文をとると,直ぐに縫いにかかったというから,今日では想像も出来ない位に乱暴なやり方であったと謂わねばならぬ36)」。
 この清国人の仕事は,洋服とはいえ,船員用にかぎられており,しかも,外衣から下着までであったが,ともかく,この清国人の親方から洋裁を修得した職人たちもあった。

 注
 1)大阪洋服商同業組合編『日本洋服沿革史』大阪洋服商同業組合,昭和5年,26ページ。
 2)前掲『日本洋服沿革史』31ページ。
 3)フェリス女学院100年史編集委貝会『フェリス女学院100年史』フェリス女学院1970年,31ぺ一ジ。
 4)吉田元「黎明期に活躍した先人たち」②『洋装』No.246,45年3月号,114ページ。
 5)『横浜開港側面史』横浜貿易新報社,明治42年。1859年(安政6)の10月にブラウン夫妻が来日したのだから,59年の夏のはじめに雇うことはできない。沢野が18年間ブラウン家へ出入りしたことから逆算すると60年(万延元)の夏のはじめの思いちがいであろう。
 6)前掲『横浜開港側面史』125-26ページ。
 7)前掲『横浜開港側面史』。「ブラオン夫人は左様彼是60近い」とは,吉田元氏の研究によると,ブラウン夫人は,1813年7月16日生であるから,沢野を雇った年を60年(万延元)とすれば,約47歳であったのを60歳と見誤ったのであろう。
 8)前掲「横浜開港側面史」126ページ。『今日は』『あなた』『参ります』位の日本語は其時からお出来なすった。」
 9)前掲『横浜開港側面史』127ページ。バラ(James Ballagh)ヘボン(J.C.Hepburn)
 10)前掲『横浜開港側面史』126ページ。
 11)前掲『キダー書簡集』45ページ。「ブラウン夫人はミシンのことはあまりご存知なく,熟練していないからミシンに触れることも滅多にないのです。」1870年11月とあるが,真相は目が悪かったためであろう。
 12)前掲『横浜開港側面史』127ページ。
 13)前掲『横浜開港側面史』128ページ。
 14)吉田前掲論文,Nα245,45年2月号,103ページ。
 15)2)に同じ。
 16)江崎和男『服装百年の歩み』江崎織物,昭和42年,22-23ページ。
1の蛇の目ミシン社史編纂委員会編『蛇の目ミシン創業50年史』蛇の目ミシン工業,昭和46年,111ページ。
 18)『日本絵入商人録』明治19年。
 19)横山錦棚編集『横浜商人録』大日本商人録社,明治13年,62ページ。
 20)ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』小学館,昭和50年,466ページ。
 21)前掲『資料御雇外国人』470ページ。
 22)吉田元「日本裁縫ミシン史雑考」『ミシン産業』№ 107,昭和43年1月号,5ページ。
 23)日野清芳『横浜貿易捷径』拱浜貿易新聞社,明治26年,127ページ。
 24)寺岡寿一編『明治初期歴史文献資料集』第3集,寺岡書洞,昭和51年。
 25)吉田論文前掲『ミシン産業』Nα107,昭和43年1月号,5ページ。
 26)同上,16ページ。
 27)出口稔『日本洋服史』洋服業界記者クラブ日本洋服史刊行会委員会,1976年,55ページ。
 28)篠田鉱造『銀座百話』角川書店,184-86ページ。
 29)前掲『キダー書簡集』46ページ。
 30)吉田前掲論文『洋装』,昭和46年4月号,100ページ。
 31)江崎和男『服装百年の歩み』江崎織物,昭和42年,41ページ。
 32)吉田前掲論文『洋装』昭和46年5月号,141ページ。
 33)『東京婦入子供服業界30年史』東京婦人子供服製造卸協同組合,昭和35年,20ページ。
 34)J・Aジャーナウ・B・ジュデール著,尾原蓉子訳『ファッション・ビジネスの世界』東洋経済新報社,昭和50年,79ページ。
 35)前掲『東京婦人子供服業界30年史』19ページ。
 36)同上,19ページ。

6 洋服屋と洋服職人

 6.1 洋服屋
 江戸時代には,洋服はさまざまな名称で呼ばれたが,その中で,戎服という名称がもっとも多かった。明治になると,洋服を着る者が軍人から民間人主流に変わったので,呼び名も舶来服と変わった。洋服屋も舶来屋,舶来服仕立処などと呼ばれるようになった。
 ただし,洋服職人のことを舶来屋とよぶこともあった1)。1872年(明治5)ごろから,それまでの舶来服を西洋服,略して洋服とよぶようになり,それ以後,舶来屋も洋服屋と改められて今日にいたっている2)。
 日本人経営のもっとも古い洋服屋は,横浜では,1864年(元治元)横浜の弁天通りに開業した大黒屋であろう。東京の場合でも,明治初年から続々と大きな洋服屋が開業して,一時期非常に繁盛したが,永続していない。
 吉田元氏の研究によると,洋服屋はたとえ成功しても一代かぎりが多い3)。表4は同氏の調査による。全国で創業年次が古く,しかも現存している洋服店の一覧表である。初期の洋服屋はこれしか残っていない。
表4 現存する最古の洋服店

 江戸時代から明治にかけて,洋服屋の大半は横浜,神戸などにあったが,明治時代になると,東京,大阪でもにわかに洋服屋がふえた。しかし,それには仕立屋など,他の業種から転換したり,兼業した者が多く,1871年(明治4)の有名な東京の柳屋の広告を引用すると,当時の洋服屋は「唐物の古着屋か,さなくば,袋物師の変化したる洋服仕立屋4)」が多かった。このような過渡期の変則的な洋服屋から本格的なものへと変わると,東京と大阪では,その都市の伝統の違いを反映して,洋服屋の商品,経営形態にいちじるしい違いがみられた。
 東京は江戸時代からわが国の首都であったから政治都市・消費都市として栄えた。明治初年,幕府の瓦壊とともに諸大名が引揚げ,その上彰義隊などの戦乱もあって,東京は火が消えたように活気を失っていたが,明治新政府の基礎が固まり,再び,東京には顯官貴紳が集中すると,次第に洋服の需要がふえた。とくに,72年(明治5)以降,政府の洋装化の方針を反映してフロックコート,燕尾服などの礼服を中心として注文仕立の需要が増え,東京の洋服屋の主流は一ツ物師,注文洋服店となった。のちに,この注文洋服店のことを高等洋服店ともよんでいる。
 これに対して,大阪では東京のような高級な紳士服の需要がすくなく,明治初年の洋服の需要のほとんどが制服であった。つまり,71年(明治4)からはじまった大阪造幣寮,鉄道,警察などの制服と大阪鎮台の軍服などである。その洋服は制服が中心であるから,服地はラシャにかぎらず,厚地の綿織物も多い。大阪の洋服屋の中心は数物師であった。
洋服屋の外観もまた,いちじるしく対照的である。東京では,洋服屋はもっともハイカラな商売であったし,顧客は上流階級を対象とするから,銀座の洋服屋には石造りの洋風建築の店舗さえあった5)。
 しかし,大阪では,「洋服店の店頭は未だ洋服店とも思はれぬ粗末な店で,一見恰も今日の質屋の構への如くで,其處の入口に『舶来服仕仕立』とか又は『何々屋』とかの木札を掛けたに過ぎなかった6)」。
 東京と大阪のもっとも大きなちがいは,大阪では初期に洋服店が古服売買を兼業していたことである。1888年(明治21)調査によると,洋服組合員合計259軒のうち,27軒の約10%が兼業である。
 1886年(明治19)設立の大阪洋服商工業組合の規約第24条には「我組合ニ於テ古洋服ヲ取扱フ時ハ古着商組合ヘ兼業加入可シ7)」と規定しているが,東京の組合規則にはない。
 そののち,東京の洋服屋は紳士服を中心とし,ラシャを素材とする注文仕立が主流となったが,大阪では制服から出発して,のちには,既製服がさかんとなり,中心地となった。

 6.2 東京の洋服屋
 東京では1871年(明治4)ごろから,銀座を中心に本格的な洋服店の新規開業がふえ,また,それまでに横浜で開業していた者も東京へ移転してきた。
 それらの洋服店のうち,有名な店の経営者には,政商と職人とがあった。その政商としては,元佐倉藩士の西村勝三,長州奇兵隊出身の山城屋和助,江戸の土佐藩御用達の森村市左衛門,新潟県新発田の商人出身の大倉喜八郎などである。
 西村と大倉ははじめ銃砲商人となって,維新の動乱で荒稼ぎし,森村も戌辰戦争で土佐軍に武器や糧秣を供給してもうけている。明治になると,山城屋を除く3人は陸軍御用商人となり,大倉のみは政府の御用商人も兼ねた。
 彼らが政商として成功したのは,いずれも政府高官に知己があって,その引立てがあったからである。西村は大村益次郎のちに渋澤栄一。山城屋は山県有朋。森村は板垣退助など。次に西村を除いて,明治になると,それまでに荒稼ぎして得た利益を資本として,外国貿易にのり出している。
 この外国貿易によって,当時需要が多かった服地を容易に手に入れることができるようになった。彼らは洋服の技術や知識がなくとも,服地とよい裁断師さえいれば,よい洋服はできることを知っていた。優秀な裁断師としては外国人を招けばよいし,縫うのは日本人の職人で十分である。
そこで,西村はH・ローマン,山城屋はベ・プラント,森村はベ・ブランド,エステール(大倉は不明)などの外国人の裁断師を雇い入れて,外人仕立として評判をとった。
 西村は1871年(明治4)京橋の西角にいせ勝洋服店を開業した。翌年銀座1丁目1番地へ移転。裁断師(裁ち方)はドイツ人H・ローマンを72年(明治5)より76年まで雇っている。
 しかし,わが国最初の外人仕立ての洋服店も,結局,高級役人や富豪が相手だったから,思ったほどには店は繁盛せず,大衆の需要が追いつかぬままに赤字経営がつづいて失敗。10年の西南戦争までに店を閉じた8)
 山城屋和助は本名野村三千三,長州の医者の子で,奇兵隊に入って活躍し,このとき山県と知己となる。明治維新後,武士を捨てて商人となり,横浜南仲通3丁目に山城屋本店を構え,山県から陸軍予備費のうち50万両を借り出して生糸輸出にのり出した。また,当時,名高い洋服職人の鈴木篤右衛門を雇い入れて洋服屋も兼ていたので,1870年(明治3)明治天皇の御召服の製作を拝命,鈴木のほか,高橋安吉,三浦鶴吉,小沢惣太郎などで製作することになり,総指揮として,ドイツ人の職人ベ・ブランドを71年から73年10月まで雇い入れ,東京へ住まわせるための届が残っている9)。
 その後,生糸,その他の輸出などで失敗し,合計80万両にのぼる官金が返済不能となり,1873年(明治6)11月末日,陸軍省の玄関で切腹して果てた。初期の陸軍汚職である10)。
戊辰戦争では双方に武器を売って巨利を博した大倉は,1872年(明治5)にヨーロッパ,アメリカを視察して帰朝すると,大倉組商会を設立して貿易にのり出した。このとき洋服屋もはじめた。山城屋が和助の死で倒産すると,山城屋の陸軍御用商人としての地位を代った。そののち,大倉の洋服店も永つづきせず,洋服店の営業権を他へ譲ってやめてしまった。
 もっとも永続したのは森村で,「1896年(明治29)迄経営を持続したのは森村洋服店だけであった11)」。
 このように,ブームをあてこんだ政商による洋服店は,永続しなかったが,職人による洋服店の方も,熟練者である創業者の死亡などによって,やはり,永続していない。
 経営者が職人出身で名高い洋服店には,大谷金次郎の大金,山岸民次郎の大民,鈴木徳(篤)右衛門の麹徳などがある。
 大谷金次郎は1848年(嘉永元)岐阜に生れ,横浜の居留地で洋裁を修業して,68年(明治元)横浜で西洋服裁縫店大和屋を創業し,71年(明治4)に芝口2丁目へ移転した。80年(明治13)フランスへ行き,パリの男子服店エス・ブーシェーで服を仕立ててみせて,すばらしい出来栄えという証明書を得たのち,ヨーロッパ各地をめぐって帰朝した。84年(明治17)12月より天皇の服をつくる官内省御用達になったが,88年(明治21)6月に,若くして死んだ。
 山岸民次郎は1848年(嘉永元)越前で生れ,61年(文久2)13歳のとき横浜に出て,野毛山下の異人服商オランダ屋に勤めて,洋服の商売をしながら,洋裁をおぼえた。この時代に佐藤与次郎と親しくなる。77年(明治10)京橋区尾張町に大和屋洋服裁縫店を開店して,以後,大民とよばれた。また,築地の居留地で開業していたイギリス人,ジェームス・エステールを雇入れた。79年(明治12)にはヨーロッパ,アメリカをめぐって帰朝以来,各宮家,華族の御用をつとめ,89年(明治22)の憲法発布の際には天皇の服をつくり,以後,宮内省御用達となった。1909年(明治42)に死去した。

 6.3 洋服職人
 最初,洋服職人は裁縫する職人として一括して考えられていたが,やがて,縫いは洋服と和服ではかなりの違いはあるが,全く別個のものというほどのちがいがある訳ではない。ところが,裁断では洋服の場合は,和服の経験や知識が全く役にたたない。からだの丸みや凹凸にぴったり合う服をつくるという経験はこれまでになかった。そのため,裁断には,高度の技術を必要とすることがわかった。
このため,洋服職人は次第に裁ち方と縫い方に分化した。前記の横浜の商館で修業した職人の思い出にも「私ども裁ち方はカテといわれ,50円から70~80円給料を貰って,横の物を縦にもしない,見識張ったもンでした12)」。一般に裁ち方は裁断師のことであり,これを英語でカッター(Cutter)とよぶから,それが訛ってカテとなったのであろう。
 また,当時,裁ち方と縫い方とでは所得に格段の違いがみられた。「世界各国人民一日所得一覧表13)」によると,洋服裁縫(裁ち方)は1円。洋服職(縫い方)は57銭である。
 裁ち方の象徴がラシャ鋏だから,たとえ,縫い方でも洋服職人が放浪するときは,ラシャ鋏をサラシにまいて持ち歩いた。
放縦な生活―まず,一般の職人の場合には,12,3歳になると,徒弟として一定の年月の間親方の家へ住み込んで修業する。そこでは親方夫婦によって,人として守らねばならぬ最低限の倫理が教え込まれ,また,実際生活に必要な知識や職人仲間のしきたりも体得する。最大の時間は技術の修得についやされる。
 このようなきびしい訓練をつみ,年期があけると,さらに腕を磨くために,各地の親方を訪ねて修業をつむ。この修業が終わって,はじめて一人前の職人となる。
 以上は一般の職人のことであるが,初期の洋服職人には,親方がいなかった。技術指導をうけたのは外国人だが,これは親方ではない。
親方の場合は,自分が育成した職人の生活が放縦であるとか,人に迷惑をかければ,これにきびしく訓戒を与え,それでも改心しなければ,破門するとか,職人仲間から追放する。一般職人は職祖神を中心とする仲間の団結とか仲間同士の申し合わせがある。
 しかるに,洋服職人には,親方がいない。歴史と伝統がないから,団結の中心となる職祖神もないし,仲間の団結もない。洋服職人が一度放縦な生活におちいると,それをとがめるものがない。こうして初期の洋服職人の生活はだらしがないのが当然とされ,このような悪い面だけが後世の職人たちにうけつがれて,やがて,洋服職人はだらしがないことが定評となった。
 蓋し,彼等の性行は,日々の職業的技能の外に何等教養をも有って居なかった者のみであったから,其の日常の挙措は誠に放縦を極め,誰一人として姓名を呼ぶ者もなく,互に綽名を以て呼び合って居たといふ事である14)。
 綽名―初期の洋服職人の氏名はほとんどわからず,現在でも残っているのは綽名のみである。その中で,ごく一部に綽名と本名とがわかっている場合がある。主として,東京の職人たちで,禿文またはタコ文(増田文次郎)ホヤ市(塚本市太郎)おこぜの金(大谷金次郎)のん久(高橋久太郎)おばけの惣(上田惣吉)亀チャブ(木元亀次郎)。
 渡り職人通常の職人は,特定の親方に雇われて,そこで仕事をする。ところが,初期の洋服職人は仕事を追って転々と各地を放浪した。それが修業のためではなく,放浪することが常態であったところに洋服職人の特色が見られた。しかも,これは初期の職人にかぎらず,生活の放縦と同様,後世の職人も真似することによって,習い性となった。
 「当時(明治初年)の職入は,他の職人の如く年期を入れるとか,雇われきりとか言った風はなく,横浜が忙しければ横浜へゆき,東京が忙しいときけば東京へゆくという状態で,仕事を逐って右往左往することとて,俗に『渡り職人』と呼ばれ
たのも当然15)」であった。
 こうして,彼らは愛用するラシャ鋏をさらしに巻いたのを持って各地の洋服店を訪ねて歩いた。
 1877年(明治10)前後の神戸における洋服職人は「仕立職人は開港地の名に引かれて,東京7,長崎3の割合を以って,相当流れ来り,腹掛けに股引,突っ掛草履と云ふ風態にて二ツ名と腕を自慢に渡り歩き,持てば使ひ,仕事に溢れば,南京仕事に走り,又は椅子張りの仕事を獵るを常とした有様であった16)」。

 注
 1)篠田鉱造『銀座百話』角川書店,昭和49年,185ページ。「洋服職人の扮装は,ズンドの洋服に,紺股引,紺足袋で舶来屋さんと呼ばれました」。
 2)大阪洋服商同業組合編『日本洋服沿革史』,大阪洋服商同業組合,昭和5年,288ページ。「(明治)5年6月15日燕尾服ヲ以テ官民ノ通常礼服ト定メラルルニ及ビテ世人稍々洋服ヲ解シ舶来屋ヲ改メテ洋服屋ト称スルニ至レリ」。
 3)吉田元「黎明期に活躍した先人たち」『洋装』No.245,昭和45年2月号,101ページ。
 4)前掲『日本洋服沿革史』83ページ。
 5)出口稔篇『日本洋服史』洋服業界記者クラブ,日本洋服史刊行委員会,1976年,113ページ。
 6)前掲『日本洋服沿革史」205ページ。
 7)前掲『日本洋服沿革史』216ページ。
 8)井野辺茂雄,佐藤栄考『西村勝三の生涯』西村翁伝記編纂会,昭和43年。
 9)「法規分類大全」外交門開港開市,489ページ。
 10)小野秀雄篇『新聞資料明治話題辞典』東京堂出版,昭和43年,189-90ページ。
 11)『中央区史』(中),570ページ。
 12)前掲『銀座百話』184ページ。
 13)前掲『日本洋服史』155ページ。
 14)前掲『日本洋服沿革史』33ページ。
 15)岡村栄次郎『東京婦人子供服業界30年史』東京婦人子供服製造卸協同組合,昭和35年,19ページ。
 16)前掲『日本洋服沿革史』466ページ。

7 既製服の誕生

 7.1 王座の交代
江戸の古着屋の特色は,朝市を中心として活躍してきたから,江戸古着の中心地はその朝市が立つ場所といえる。
1648-51年(慶安年間)の頃,この朝市が富沢町に移って以来,江戸時代を通じて変っていない。そのため,江戸では富沢町といえば,古着を連想するほどであり,江戸時代には山形県鶴岡では江戸古着を富沢古手とよんでいた1)。
 これまで,古着の朝市が立つ場所は,鎌倉河岸でも富沢町でも常に河岸にあった。これは大阪から古着の供給をうけ,あるいは東北地方へ積み出すには,舟運が利用できる河岸からはなれることができないためで,富沢町は浜町川の河岸にある。しかし,江戸時代の末期に富沢町には古着屋(小売)はほとんどなかった。
 1855年(安政2)発行の「大江戸古着店日之出番付2)」は,江戸の古着屋(小売)を規模の大きい順に番付形式で配列したもので,292店が掲載されている。この番付に当時の江戸中の古着屋がすべて網羅しているわけではないが,主な店は掲載されているのであろう。この番付には,浜町川をへだてて富沢町の対岸にあたる久松町が,町単位でもっとも多く,24軒も集中しているのに対して,富沢町には2軒しかない。
 このように,久松町には小売が多いため,明治になると,古着の朝市は富沢町から久松町へ移転したらしい。それは1879年(明治12)刊行の『東京名物往来』に「橘町の糶〔せり〕呉服,朝市済て久松町,茲に古着市諸国をさして押下す」とあるところからたしかであろう。
古着市は一度動くと久松町から,浜町川を北上して緑河岸(現在の小伝馬町と,馬喰町の間の鞍掛橋附付)へ移転した。この緑河岸の古着市場が重要なのは,この時期に,最初の既製品がこの古着市場に登場したことである。「緑河岸に在った衣類市場(古着市場のこと)は其後火災の為め大和橋の処へ一時仮越しをし3)」結局,最後に東京の古着市場が落ちついたのは柳原である。
 大阪の古手問屋は江戸時代を通じて船場本町にあった。「守貞漫稿」では,本町,木綿呉服及古着等の商人多し,古着は古衣服也。古手とも云。専ら木綿呉服古着各々一業稀には之兼るもあり,並に諸国に漕し,或は当所の小店にうる,諸人に売るは稀也,しこうして問屋と云ず4)。
 本町は江戸の富沢町と同様,大阪古手の中心であったが,ここも,明治維新を境に古手屋は立ち去ってしまった。
 本町の古着問屋は既に維新前後に滅び,(古着の)小売商として御霊筋,坐摩の前の古着商の減少即ち之である。その後,日本橋筋及び玉造附近に出物屋として移り,かくて現代の東区内には,古手屋は殆ど見られなくなった5)。
 このように,東京と大阪は明治維新を境として,それまで江戸時代を通じて永い間,古着問屋仲間が占めていた富沢町や船場本町から,あたかも申しあわせでもしたかのように,同時に立ち去ってしまった。その立ち去ったあとの町は,東西共に,呉服太物問屋(集散地織物問屋)の問屋街となった。このことは,江戸時代の庶民の衣料品が古着であったのが,明治以降,呉服に変わったことを示している。

 7.2 柳原の古着市場
 江戸時代末期の江戸で古着屋について,『守貞漫稿』では,
 富沢町及び橘町の古着屋,毎朝晴天の日は大路に莚を敷き,諸古衣服を並べ又見世にも之を並,同賈及び諸人に之を売る。己の下刻には之を収めて表に格子を立つ。村松町は莚上に売ず,終日見世を開きて或は之を釣り或は掛並べて売る。
日カゲ町にもあり,日カゲ町は芝口より宇田川に至る大路の北の小路を云字也。
 浅草東中町,西中町等に古着屋多し6)。
 とのべている。
 しかし,明治維新によって,古着屋の密集していた町にも,大きな変動が起っている。これまで武士を顧客として栄えた牛込改代町,,四谷伝馬町,市ヶ谷田町などの古着店(ダナ)は武士とともに消滅した。また,富沢町,橘町,あるいは浅草東仲町,西仲町も衰え,かつて,淋しい場末であった柳原河岸が,賑やかな繁華街に一変した。ここは東京では古着の町として知られている。
すでにのべたように,日蔭町通り(現在の新橋駅南端に近い)は,江戸時代の末期から盛り場であったが,明治になると,一層賑やかな街となった。「芝の日蔭町は,ドブ板が半分を占めていた狭い三間位の町内で,芝口から芝神明まで,ずいぶん長丁場の,商店街でした。何でも,ないもののない。(中略)ことに古着屋が多かったこと,柳原と違わず,和洋服が店頭にブラ下っていて,通りがかりに,買っている男女のお客がすくなくなかったものです7)」この日蔭町通りの古着屋は,日々富沢町あるいは緑河岸へ古着を仕入れにきていた。
 柳原では,江戸時代から神田川に沿って,浅草橋から筋違まで,ヨシズ張りの床店やムシロを敷いただけの店がつづいていた。これらの床店は堤を背にして間口9尺,奥行3尺ほどで,夕方になると店を閉じて,それぞれの家に戻った。ところが,明治になると,江戸の市街が膨張して,かつては淋しい場末であった柳原も,次第に賑やかとなり,床店も堤を削って,ここに住む者さえ増えた。
 1873年(明治6)には無税の地にある,ヨシズバリの床店などが取り払われ,74,
5年には柳原堤をくずして,その土を州崎へ運び海を埋めたてた。当時,柳原の町並は,神田川に面して,昌平橋から和泉橋まで細長い神田柳町があった。和泉橋付近には神田川に面して岩本町,その隣が東龍閑町,豊島町とつづいていた。
 柳原川岸から追われた古着屋たちは,思い思いに,これらの町に安住の地を求めた。とくに東龍閑町には軒並み古着屋が集ったので,古着の町となった。
 すでにのべたように,富沢町にあった古着市場は,明治維新後,浜町川に沿って北上して緑河岸へ移り,ここからさらに大和橋へ移った。浜町川は名こそ川とはいうものの,実は堀割りで,馬喰町付近で行きどまりになっていた。この浜町川を北へ延長すると,東龍閑町を横断して,神田川へ到する。浜町川を神田川まで延長する工事が81年(明治14)に行なわれた。
 明治時代に移ってからは,営業の自由が公然と認められるに至り,日本橋,浅草等の殷賑な裏街には漸次古着商を営む者が現われて来たが,就中,神田東龍閑町には最も多く,逐年増加して櫛比する盛況を呈し,遂にこの一廓は特殊なる営業街を作って,市場の組織を見るに至った。この市場の中を貫流する運河(浜町川のこと)が堀られ,市場は日本橋久松町,神田富松町,同岩本町の3ヶ所に分離せられた。これ実に1881年(明治14)の事であった。分裂した自然の結果として,激烈なる競争をなし,岩本町の現市場が地の利と営業政策の上から三者中最優勢を示し,遂に他に他の二者を慴伏するに至った8)。

 7.3 古服と東京の御用商人
 明治時代になると,古着屋の店頭や古着二市場に新しい商品が登場した。その新商品とは中古洋服のことであるが,洋服とはいえ,紳士服はほとんどなく,軍服とか,警察,郵便,鉄道などの制服であり,とくに,中古制服の大半は軍服で占められていた。
 最初に大量の軍服が古着市場へ出廻り,注目されるようになったのは,1877年(明治10)2月に勃発した西南戦争である。この最後にして最大の士族の反乱が起ると,政府は延べ5万8000人の兵士を動員した。軍服などの軍需品は主として,大阪で調達したから,大阪ではミシンによる軍服の大量生産が行われ,72年に50軒しかなかった業者が一挙に150軒に増えた。
 その軍服と生地について,当時の東京芝高輪の洋服屋岩田公喜の思い出が残っている。
 あの頃の忙しさはお話にならぬほどで,軍服のごときは外套にボタンをつけるヒマもなく,ただ穴をあけ,ボタンをポケットに入れてやったくらいでした。ていねいな縫い方などやっておった日には,戦地に送るのに間に合わぬという騒ぎでした。そして,その軍服というのは小倉の表にモンパの裏で,外套だけはラシャでした9)。
 戦争が終わると,この粗製濫造された軍服は払いさげられた。この払いさげをうける者が陸軍御用商人とか御用達とよばれる者で,各師団に出入りして物資を納入したり,不要品の払いさげをうけた。これらの御用商人は,兵営ちかくで,軍用雑貨屋を兼業していた。
兵営近くには,どこでも軍用品の雑貨屋が店を張っていた。ふだんは軍隊に出入りしてその用達をしていたが,店ではあらゆる軍用雑貨を取扱っていた10)。
 払いさげは,入札で値ぎめしたが,西南戦争後,はじめて大量の払いさげがあったので,このとき,払いさげをうける御用商人同士が談合によって暴利を得たので,分捕屋とよばれた。「古服業者の一異名たる分捕屋とは,蓋し此の西南の役当時より起こされた名である。分捕屋とは,陸軍乃至警察方面の払下服を業者各自の間に予め相談を纒めて置いて,安く入札して買分けた処から呼び慣されるに至ったものである11)」。
 東京の御用商人は,多分に一獲千金を狙う政商的な性格があったから,払いさげ品の修理改造などの,こまごましたことはせず,そのまま卸売りしたり,小売りしたらしい。
 しかし,払いさげの中古服が古着屋の手に渡ると事情は違ってくる。古来,古着屋は仕入れた古着(和服)は,そのまま販売することはなかった。内職などを利用して,これをとき,破れていればつくろい,色がさめていれば,染めなおして,できるかぎりの手を加えてから,販売した。
 このことは,払いさげの中古の軍服,官庁制服などが古着屋の手に渡ったときも,和服の場合と全く同様に,修理改造して,つくりかえてから販売された。古服屋の中でも,このような専業を出物屋12)とよばれている。
 また,外国から古服を輸入して,これを修理改造して売る専業もあった。これを通称メリケン屋という。この輸入は明治時代にかぎらず,1919年(大正8)ごろでも行われていた。たとえば「当時,メリケンの古服を俵入りの儘買ひ取って,中味の改造を行ひ他へ転売するのを業とする者があった13)」。おそらくは,古軍服が大量に払いさげられた1877年(明治10)の西南戦争以降,古い軍服,諸官庁制服などの払いさげ品や輸入古服などの修理改造品が,古着屋の店頭をかざっていたものと思われる。
 日清戦争後,軍で過剰になった軍服,靴,革製品などの払い下げ品が放出されて,どこの馬具屋,雑貨屋の店さきにも山積みされたことがあった。そして,格安の払いさげ品を手に入れた人達が大勢それを着用しているのが目立つ時期があった14)。
浅草公園にあるパノラマ館は1896年(明治29)に公開されたが,それを多勢の画家がかくとき,着衣が垂れ落ちる絵具でよごれるので,全貝に陸軍払下げの中古軍服を支給して制作にあたったという15)。
 東京では赤坂,麻布,麹町,中野,世田谷などに兵営があったが,もっとも有力な払いさげ屋がいたのは,半蔵門外と九段坂下であった。とくに,半蔵門の付近にあった仁木商店が名高い。仁木商店の屋号は菊屋という。創業者の仁木伝吉は越後長岡の出身で,この仁木商店で育成された者はのちに柳原の東龍閑町へ進出して中古服業者となった。

 7.4 大阪の御用商人
 大阪は江戸時代を通じて,最大のもめんと古着の集散地であり,その中心地は船場にあったが,明治維新以後に消滅した。明治初年に大阪城に大阪鎮台が設けられると,陸軍御用商人はその門前町の東区谷町に集中した。
 「(谷町は)明治の初め大阪城下に鎮台の設けられた直後に,軍を目当にこの界隈に集り,軍服を始め軍帽,軍靴など払下げ品を店頭に吊し販売した商人により市井をなし,日清,日露の戦後から漸く繁栄を続け,綿布を商内(あきな)い,羅紗を取扱い,裁縫を行い,軍服の修理加工から厚司(アツシ)毛尻(モジリ)トンビ,マントなど,これら仕入製品の地方送りに商勢を伸展16)」させていた。
大阪の御用商人が東京のそれと異る点は,払い下げをうけた古服をそのまま右から左へと売ることはなく,大阪では払いさげ屋があたかも東京の出物屋のように修理加工も兼ねたことである。また,大阪では江戸時代以来のもめんの集散地としての伝統が生きていて,ラシャのみならず,綿布の裁縫まで手がけるところに大阪の特色があった。したがって,厚地の綿織物でつくられるアツシなどは大阪のみで,東京にはない。
 代表的な払い下げ屋から古服業者となった谷町の草分けには,宇佐見辰次郎がある。彼は1874年(明治7),21歳のとき愛知県一の宮から上阪して,大阪市東区釣鐘町でシジミ売りをしていたが,84年(明治17)古物商も兼ね,87年古服商に転じ,94年(明治27)の日清戦争の年,谷町2丁目に移った。
 釣鐘町で芽生え谷町に移った宇佐見は,すでに鎮台の出入商人として払下品を扱っていた。その品種は古服,古靴,毛布及びボロ屑その他に及ぶ一切の古物を地方に売捌き,毛布は主として北海道に仕向けていた。同時に綿を商い,毛織物におよんだが,製品では厚司(アツシ)マント,毛尻(モジリ)に始まり,次第に毛織物に代ってきたのである17)。
 糸岡熊司は宇佐見と並ぶ谷町の初期の払い下げ屋である。糸岡熊司は1864年(元治元)奈良県当麻に生れ,「78年(明治11)15歳で,大阪に希望をいだき洋服商の徒弟に住み込んだが,81年(明治14)兵隊を志願し,大阪鎮台に入営,83年(明治16)帰休除隊,88年(明治21)再び予備役に召集され,翌年満期除隊後は軍の御用商人に指定された18)」。1889年には東区谷町3丁目に羅紗洋服商を開業し,「その後,94年(明治27)日清戦争に応召,翌年凱旋,日韓貿易を思い立ち,他に率先して,韓国に被服その他軍需品を納入して,業果を挙げ,わが陸軍のほか海軍の調達も次第に繁劇を加わえるとともに諸官公衙,団体,学校などの制服調達も広範に伸び,頓みに名声を高めた19)」。
 福井弥助も宇佐見,糸岡と並ぶ初期の谷町の払い下げ屋として名高い。
 福井弥助は京都府伏見の産,谷町では宇佐見と相前後して起り,第4師団の軍需の払下げ,各官庁の衣料調達を請負い,宇佐見,糸岡などと相並び飛躍した人であった。1904,5年(明治37,8)の日露戦争当時は既に55,6歳の年輩で綿布商として確固たる基礎に立ち,毛織物でも特に色羅紗の問屋として知られた20)。

 7.5 ラシャ既製服の誕生
 一般に,売り払った衣服が古着になると考えられがちだが,実際には少なく,古着のほとんどは質流れであり,古着仲買人が質屋を廻って買い集める21)。
 すでにのべたように,仕入れた古着は染めなおし,仕立てなおして売られた。もし,古着を仕立てなおす代りに,新しい織物を裁縫すれば,和服の既製品となる。
 明治以後,このようにして,古着屋で和服の既製品が誕生した。明治以降,大阪では,併し,古手屋も亦社会的需要に応じて取扱品は必らずしも着古した物のみでなく,新着(既製品)も之に劣らず,多く見るに至った。蓋し,呉服卸屋に於て,季節遅れとなった反物は,古手屋において仕立て販売するの路が商品性の維持のために便宜であったからである22)。
 このようにして誕生した既製品は古着屋の店頭で売られた。これは
 古着といへば,古き着物の如くなれども所謂古着なるものは強(あなが)ち古き着類の謂にあらずして唯反物に針の目の透りたるを謂ふにあるのみ,敢て其仕立卸しと着古し物とを撰まざるなり,世間多くの古着屋は常に新反を裁して古着の如くなし,古着と名を付て是を売るは畢竟世間一般新調の衣を着るに吝なる事情あるが故なるべし23)。
和服の古着から既製品が誕生したように,古服からも既製服が生れた。出物屋が古服を仕立てなおす代りに,新しい原反を裁断して仕立れば,出来たものは既製服となる。古服といい既製服といっても,それは材料に新旧のちがいがあるだけで,その製造工程も製品にも本質的なちがいはない。
 洋服を新調する事を大袈裟に考へられた時代としては,先づ古服を買ひ需めて身に附けよふ,と云う考へ位が,勤労階級に起されたものと思ふ。斯くて洋服が幾分用ひられる様になってから,古い服ばかりでは不便だと云ふ処から,安い既製品が新規に作られて商品となるに至ったもので,其品種としては,多く長マンテルと称したトンビ様のものである24)。
古服改造品がさかんに製造されれば,それから既製服は唯一歩の距離のように思えるが,それはけっして,「古い服ばかりでは不便だ」という位の理由では,輸入のラシャをつぶして既製服をつくるはずがない。これはやはり,和服の既製品が「季節遅れの呉服」を活用するために製造されたように,キズもの,流行おくれなどの欠点のあるラシャを活用するために既製服がはじめて製造されたのではないだろうか。
 たとえば,明治18年の朝野新聞の,
 左れば日影町などの店前へ釣したる洋服(既製服)も売捌け方特に宣しく,従来,此の洋服は別に之れのみ拵へ居る人ありて,羅紗の小切れを買集め綴り合わせて「ズボン」或は「コート」を製し25)。
とある。ここに羅紗小切れとは裁断時の裁ち落しのことであろう。
 また,1923年(大正12)東京では「当時は,まだ婦人子供服用の生地はなく,大人服地の前年の売れ残りの格子・弁慶格子が白縮みを以て子供用の服や,簡単服を作る有様であった26)」なども,その一例である。
 次に重要なことは,中古服の改造品と既製服とでは,製品品種が異る点である。古服改造品がどのようなものかはわからぬが,おそらくは,詰衿のダルマ服のようなものであろう。これに対して,ラシャ既製品は,「長マンテルと称したトンビ様」なものである。長マンテルはフロックのことで,トンビ様のものを長マンテルとよぶことはない。したがって,これは単にトンビのようなもののことである。
 東京におけるラシャ既製品のはじめは,「洋服らしいものを作ったのは(中略)岩村吉兵衛氏で,明治14年(1881)頃,神田柳町4番地に店を構えて居た。当時は万世橋から浅草橋へ掛けて既製品商といえば,卸小売を併せて5軒位よりなかった。
 即ち,岩村氏の外,島村孫七,塚原元兵衛,三山万助,島田利右衛門等である27)」。このうち,卸は岩村と島村で,残りが小売であった。島田は大利商店ともいい,緑河岸に店を構へていた。島村,塚原,三山はこの店から既製品を仕入れて柳原で小売した。
柳原についで古着屋が多い芝の日蔭町には既製品商の布屋一家があった。茂田福太郎は布忠商店に奉公して,1890年(明治23)に布福商店として独立したが,その思い出に「入店当時(西南戦争の頃)布という(字が)頭についた商店は20店もあった。軍服の払下なぞ受け,古着として売買した28)」のであった。
 日清,日露戦争時代(1894~1905年)に古着と並んで既製服を売っていた店は,須田町~浅草橋にかけて100軒,日蔭町通り50軒,八丁堀の一角に30軒ほどあった29)。
 既製品の売先きは,市内が主なるものであったが,中仙道から近県地方へ売りに行くと,原価3円50銭程のものが10円位に売れて可なり儲かったものである30)。

 7.6 衣服産業のはじめ
1881年(明治14)に柳原へ移転した古着市場は,91年(明治24)の古物商法改正により,東京衣類市場組合として法人組織となり,理事長が市場を代表することになった。
 この組合の昭和2年ごろの現状は,
 1905年(明治38)市区改正の結果,従来の市場の中央を貫通する道路が設定せられた為に市場は新道路の両側に折半せらるるに至った。この機会を利用して従来の組合員の建物を買収し,資本金50万円の東京市場建物㈱を設立して,新たに建物を建て之を多数の小室に分ち組合員に賃貸した。かくて今日に至ったのである。
組合員は380余名を算し,これを営業種別に類別すれば,(1)古着商,(2)新衣類商
(絹綿衣類仕立卸帯袴の仕立太物卸)(3)羅紗製品商の3種であって,顧客としては主として,地方客である31)。
 この江戸時代の初期から続く古着市場が東京衣類市場となることによって,東京では,初期の既製品商はこの市場を中心として活動したから,ラシャ既製品では,そのはじめから製造卸と小売にわかれ,実際の製造は下請の縫製業者に一任していたのであろう。
 大阪は東京とはかなりちがった経路をたどって既製服は発達した。ここでは古着屋も古着市場もなく,東区谷町に集まったのは払い下げ屋であり,中古服業者だから,ここでは下請を利用して中古服の修理改造から,ラシャ既製品を製造し,これを店頭で小売する製造小売時代が初期にはあったのではないだろうか。このことは谷町の既製品の草分けといわれる森居保次郎の行動によくあらわされている。
 森居保次郎は明治24年(1891)島町で森居保商店を開業,翌年谷町2丁目に移った。始めは軍服の直し,などを店頭に吊し,毛尻(モジリ)厚司(アツシ)婦人コート,トンビ,外套(子供もの赤裏)の類が主たる業種であった。その後,明治35年(1902)に大阪で開かれた第5回内国勧業博の売店に出品したのも毛尻以下同様の商品であったから,およそこの業態が10年1日の如く続いたことも考えられる。
 そして,谷町におけるいまの既製服の揺らん期は森居保次郎に始まったように伝えられているのも,このような衣料を克明に改良精選すると共に,品種別に多量に生産した所謂仕入製品の地方卸に率先して手を伸したのは,谷町では彼を嚆矢とされている所以である32)。
 東京でも大阪でもラシャ既製品は,ラシャ既製品製造卸によって,下請を利用して製造され,それが全国の小売店へ卸売りされた。地方卸への卸は初期にそこあったが,間もなく一掃されてしまった。
 既製服の発達をかえりみるとき,3回の転換期があった。第1は1904,5年の日露戦争であり,第2は23年(大正12)の関東大震災であり,最後は第2次世界大戦である。
 1904,5年(明治37,8)の「日露戦後の39年(1906)以後は軍服の払下品といったものは,とんと売れなく33)」なった。また,「背広やオーバーの仕入製品が,ようやく市場にあらわれたのは,後の日露戦争後のこと34)」であった。
 日露戦争を境として,ラシャ既製品製造業は,大きく変貌した。それが第2次大戦後に本格化する衣服産業のはじまりであった。
 注
 1)『鶴岡市史』(上),鶴岡市,昭和37年,371ページ。
 2)一枚物,49・5×69.7センチ,東京都立中央図書館蔵。
 3)『京浜羅紗商同盟会沿革史』京浜羅紗商同盟会,昭和5年,19ページ。本書は事実上,斉藤利一郎が会員から資料を仰いで執筆したものであろう。斉藤はのちに昭和15年発行の『東京洋服商工同業組合沿革史』を書き,昭和33年発行の『日本繊維産業史』(各論篇)既製服の項を共同執筆している。既製服のはじめの記述はともにほぼ共通しているが,この本がもっとも信頼できる。
 4)喜多川守貞『近世風俗志』(守貞漫稿)榎本書房,昭和2年,94ページ。
 5)『東区史』第3巻,東区役所,昭和16年。
 6)前掲『近世風俗志』94ページ。
 7)篠田鉱造『明治百話』角川書店,昭和44年,304ページ。
 8)中村董『神田文化史』秀峰閣,昭和10年,208ページ。
 9)『洋装』洋装社,Nα211,昭和42年4月号,118ページ。
 10)仲田定之助『明治商売往来』青蛙書房,昭和44年,46ページ。
 11)前掲『日本洋服沿革史』125ページ。
 12)日本繊維産業史刊行委員会「日本繊維産業史」(各論篇)繊維年鑑刊行会,昭和33年,913ページ。
 13)神田区部編纂『東京洋服商工同業組合沿革史』昭和15年,200ページ。
 14)仲田定之助前掲書,46ページ。
 15)同上,142ページ。
 16)大喜多藻治郎編『既製服名鑑大阪風土記』毛織商報社,昭和34年,1ページ。
 17)同上,5ページ。
 18)同上,9ページ。
 19)同上,9ページ。
 20)同上,65ページ。
 21)『文芸界』臨時増刊,第3巻第2号,金港堂書籍㈱,明治37年,121ページ。
 22)『東区史』(第3巻)昭和16年。
 23)乾坤一布衣著『社会百方面』,明治30年,317ページ。
 24)前掲『京浜羅紗商同盟会沿革史』16ページ。
 25)『朝野新聞』明治18年12月3日。
 26)『東京婦人子供服業界30年史』同製造卸協同組合,昭和35年,72ページ。
 27)前掲『京浜羅紗商同盟会沿革史』17ページ。
 28)池田五郎編『明治100年松本洋服業界史』松本洋服商工業協同組合,昭和44年,195ページ。
 29)東京都経済局編「既製服,婦人子供服の実態分析」東京都,昭和32年,16ページ。
 30)前掲『京浜羅紗商同盟会沿革史』17ページ。
 31)中村董編『神田区史』神田公論社,昭和2年。
 32)前掲『既製服名鑑』21ページ。
 33)同上,5ページ。
 34)同上,21ページ。