鉄鋼

1850年代の日本、ただ1冊のオランダ語の技術書を手引きとして、各地で反射炉が築造され大砲の鋳造が始まった。大砲鋳造のための原料として大量の銑鉄を得る必要が生じた際に、この技術書を参考として、大島高任という技術者が、釜石に小型の洋式高炉を建設することに成功した。これが日本における近代製鉄所の先駆である。大島の成功は、原材料を吟味し、自然の条件を考慮し、西洋の製鉄法の原理を日本の土着文化のなかで生かしたところにある。
明治政府は、近代産業の基礎ともいうべき製鉄業を確立するために、近代的規模の製鉄所の建設計画に着手したが、外国人技師の構想に基づいた大規模高炉の建設は失敗し、製鉄所は廃止された。これと同様の失敗が、1901年に完成した官営八幡製鉄所でも繰り返された。しかし、この時には、卓越した技能を持つ技術者であり学者であった野呂景義によって、故障の原因の究明とその解決がはかられ、ついに高炉の操業を軌道にのせることができた。この時点より、日本の鉄鋼技術の自立と発展が始まるのである。
八幡の創業により、日本では初めて製銑・製鋼・圧延という一貫生産のシステムが確立され、産業用鋼材の製造が可能となった。さらに、1910年代頃から、金属工学に基づく新しい鉄鋼技術の創造がみられるようになり、KS鋼などの発明がなされた。しかし、日本が世界有数の製鉄国へと成長したのは、第2次大戦後のことであった。