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実業教育

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実業教育

わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 序章
著者名: 豊田 俊雄
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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序章

Ⅰ 研究の趣旨とねらい
 本研究は,わが国離陸期における実業教育として徒弟学校をとりあげ,その成立と展開,変容の態様を産業化進展の視野の中で吟味しようとするものである.
 実業教育にはさまざまなものがある.この徒弟学校のほかに各種の実業学校(工業,農業,商業,すこし遅れて水産,商船など)や実業補習学校(農業,工業)があったが,ここでは地方伝統産業の育成のために設立され,産業が高度化,重工業化するとともに,その命運を終わった徒弟学校をとらえ,離陸期における実業教育のあり方を考察する.
 徒弟学校は,明治後期に登場するが,本研究は,木工,漆器,染織,陶器,竹工の五徒弟学校の事例研究を中心として,工業面の実業教育を,若干の企業内訓練とともに検討する.(農業,商業などの実業教育は継続の研究課題〈続編〉)
Ⅱ 研究の概要
(1)徒弟学校の成立の背景
 「徒弟学校」は明治27年(1894)の文部省規程により,新しい職工養成を目ざして成立したものである.徒弟学校には雛型として,明治14年(1881)設立の東京職工学校(のちの東京工業大学)があったが,明治20年(1887)代この学校は職工長,工師,教員,企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関になりつつあった.徒弟学校は殖産興業,富国強兵政策に基づく産業化が活況を呈してきたのに対応し,工業化が必要とする低度の技能者(小学校卒業者対象)を養
成しようとしたものである.農商務省の「興業意見」(明治17年=1884)にもあるように,伝統工業の保護は当時重要な問題であった.明治20年代,わが国に外貨をもたらしたのは,農産物の茶,鉱産物の銅を除けばすべて伝統工業製品である生糸,陶磁器,漆器であった.伝統工業を機械化し,近代化するためには新しい労働力の供給が必要である.そのため従来の年季徒弟制によらず,学校教育を媒介にして技能者の養成を試みたのが「徒弟学校」である.
 日本の産業は日清戦争(明治27~28年=1894~95)後,綿糸,製糸,製紙,織物,製糖などの軽工業を近代化し,10年後の日露戦争を契機にして,造船業,鉄鋼業などの機械工業を大きく発展させた.ここに至って,手工的熟練にかわって機械的熟練が必要となり,新しい質の労働力の組織的養成が重要な課題となってきたのである.明治政府は「学制」(明治5年=1872)以来,学校教育の中心に普通教育重視政策をおいてきたが,この期に至ってようやく産業教育の整備を実施に移すことになった.「徒弟学校規程」,および同年国会を通過した「実業教育費国庫補助法」は補助の重点を工業教育におき,工業教育(工業学校,徒弟学校)の整備,拡充を財政面から支援した.徒弟学校の開設にあたり,文部省は東京府下の工業組合に諮問を行なったが(明治27年),積極的支持は得られなかった.―「高尚に過ぎたる科学を教えても生徒は消化できず肝心の業を等閑にする」「徒弟を学校へやることは営業の邪魔になる」「学校は夜2時間くらいでよい……」という発言にみられるように,“徒弟に学問はいらない”という従前からの基調にかわりはなかった.しかも徒弟学校は開設された.(ここにもわが国教育の先行投資の例がみられる.)
 実業教育の振興の推進者であった手島精一は,「欧米の富強は工業技術のさかんなるによる.工業技術のさかんなるは,島国英国に見られるように,実業教育の整備による」とし,旧来の年季徒弟奉公の改革を主張したのであった.
(2)徒弟学校の展開と実態
 明治27年(1894)4校,同29年(1896)17校,同38年(1905)52校と徒弟学校は増加し,最盛期の大正7年(1918)には136校を数えるまでになった.「実業教育費国庫補助法」にみられるように,わが国における実業教育の気運は急であり,中級,下級の技能者養成が加速化された.第1表をみると,明治29年(1896)から同38年(1905)までの10年間に,実業学校は3倍(学校数)ないし4倍(生徒数)に増加したことがわかる.
第1表 実業学校の増加
徒弟学校には事例研究の会津,瀬戸,南都留,別府にみられるような産地型学校と,仙台にみられるような都市型があった.徒弟学校は「土地ノ民度ト工業ノ状態ヲ斟酌シ」て設立され,年限,カリキュラムなどに伸縮性があった.小学校の校舎や備品を借用して発足,一方小学校中退のものにも門戸を開いたため,入学の1~2年は初等教育の役割(小学校の補習)も担わなければならなかった.初期の頃はなかなか入学者が得られなかった.小学校の就学率が実質5割に達しない時代に,上位の教育をうけさせることは楽ではない.父兄は経済的にあるていど余裕ある家庭でないと子供を学校にやれなかった.すなわち,普通の中学校(5年間)には入れる余裕はないが,さりとて年季徒弟奉公に出すほど窮迫はしていない層の家庭である.校舎は前述のごとく当初小学校の間借りか,または寺子屋風.教員は校長以下数名の規模であった.校長には,資質の高いものが少なくなかった(瀬戸陶器学校の初代校長は東京職工学校〈のちの東京工業大学〉でF.ワグネルの指導をうけ,フランスに留学し,国内最高の学歴をおさめた人物.彼は教育目標を「学理と実地の調和」においていた).教員では,実習は地元の経験者が行ない,時に小学校の先生が兼務した(この場合は生徒募集に便利であった〉.授業料は町からの補助があり,納めなくともよかったが,学校の財政は乏しく,器具,薬品など教材は不足がちであった.生徒数が少ない関係で師弟間は親密であったという.当初はドロップアウトが非常に多かった.退学の理由は,学校に対する世間一般の理解も乏しく,生徒も学校がおもしろくなく,学校側も無理に引きと
めようとはしなかったことによる.教科では,物理,化学など難しいものが多く,初期の化学教科書など毛筆で写したものを使用した.助手などいないので,下働きも生徒が手伝った.普通教科と技術に関する教科が重視され,実技の習得に科学的根拠が求められた.また明治末期,労働運動がおこり,社会状態が不安になると,国民道徳のための修身教科が強化された.
(3)徒弟学校の変質など
 国の工業政策が伝統工業の保護,育成から重化学工業の振興へ転換するにつれ,徒弟学校は次第に変質していく.都市に設定されたタイプのもの(例:仙台市徒弟実業学校)は,都市に発達しつつあった近代工業に支えられて存続し,その相当部分は再編成されて甲種の工業学校となった(上昇型).一方伝統工業産地に立地されたものは,少ない例(瀬戸陶器学校)をのぞき,20世紀に入る頃から徐々に衰退した(下降型).変質過程を具体的にみると,明治末年(1910年代~)以降近代型工業の職工需要が高まり,行政当局は,その供給源として「工業学校」の拡張に重点を移し,一方伝統工業への需要は鈍化して徒弟学校には生徒が集まらず,地方政府の財政支出の根拠がうすれた.さらに大工業は企業内部で自ら技能教育を行なうようになり,徒弟学校の低度技能者育成に依存する必要がなくなったのである.
 徒弟学校が意図した年季徒弟制の合理化,新しい職工養成は都市産業(重化学工業)の発展とともに軽視され,政治権力が古い親方・子方関係を利用したことも手伝って,地方産業の近代化に役立たず,産業は二重構造を形成し,伝統工業は学校教育から見捨てられていく(伝統工業に共通な手工業的熟練を合理的,教育的に編成できなかったわけである).工業学校の学科は,当初染織科,工芸科中心であったが,やがて土木,金工,造船,電気などを加えて拡大された.企業内訓練は従業員に対する定着性をねらい,家族主義的経営観の下「子飼いの教育」を意図した.かくて徒弟学校は大正9年(1920)の法令(実業学校令改正)によって「工業学校」の中に吸収統合され,その生命をとじた.明治27年(1894)の文部省規程より26年間,東京職工学校(明治14年=1881)から数えると40年目であった.
[豊田俊雄]