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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第1章:徒弟学校の成立
著者名: 佐藤 守
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第1章:徒弟学校の成立

第1章 徒弟学校の成立1)

 明治27年(1894)7月25日,明治政府は徒弟学校規程(文部省令第20号)を制定し,本格的に低度技能者養成にとりくんでいくことになった.このことは,伝統的な住込み年季徒弟奉公による職人養成から,近代的な科学技術を身につけた技能者養成への転換を意味している.さらに明治中期以降の日本資本主義の発達は,そのような近代的な技能者を必要とするまでに至ったことを意味している.しかし,明治政府の近代的技能者養成の意図は,必ずしも順調な経過をたどっていったものではなかった.明治中期における義務教育・小学校への就学率はせいぜい50%程度であったから,義務教育終了者を原則として入学させる徒弟学校は,そこでは,あとでも述べるように変則的な形態を含まざるを得ず,地域によっては,入学者難に悩まざるを得ない事情も見受けられた.また,従来の年季徒弟奉公の強固な残存は,徒弟学校による伝統産業の近代化を阻止する要因としても働くことになった.それにも拘わらず,明治政府の殖産興業策の強力な意志は,紆余曲折を経ながらも貫徹していくことになる.明治32年(1899)2月6日,実業学校令(勅令第29号)の公布により,徒弟学校は工業学校の種類とされ,ついで同年2月25日,工業学校規程(文部省令第8号)が制定されるに及んで,徒弟学校は次第に同規程による工業学校として変質していき,やがて大正9年(1920)12月15日,実業学校令の改正(勅令第564号)によって,徒弟学校は工業学校に統合されていくことになった.このようにして,初期の徒弟学校は年季徒弟奉公に対立しながらも部分的に教育内容,方法などに前近代的な要因を含んでいたのであったが,およそ30年後においては名実ともに工業学校として近代的な技能者養成へと脱皮していくことができたのである.それ故,徒弟学校は伝統的な年季徒弟制による職人養成から,近代的な技能者養成へと移行していく過渡的な性格をになっていたといえるのである.
 この第1章においては,徒弟学校のたどった以上のような一般的経過をふまえて,特に徒弟学校の成立に焦点をあてて検討を加えていくことにする.まず第一に,徒弟学校が全国的に創設されていく以前に,徒弟学校の雛型として東京職工学校(明治14年8月設立),東京工業学校付属徒弟学校(明治23年8月設立)が創設されていた.それ故,徒弟学校の前史としてこの両校についてふれておくことにする.次に明治政府の殖産興業策について吟味し,最後に「徒弟学校規程」を通じて,徒弟学校の一般的な性格について検討を加えていくこととする.
Ⅰ 徒弟学校の前史
(1)東京職工学校
 東京職工学校は明治政府の工業に対する積極的な保護奨励策のもとに,明治14年(1881),東京に設立された.明治政府は当時の国際的環境からして,資本主義的生産方法の助長,育成をその任務とせざるを得なかった.しかも幕末から維新に至る過程においては,いまだ産業資本の発展は脆弱であったので,政府はひたすら先進諸国から近代的な生産方法,および経済制度を輸入移植し,殖産興業のスローガンのもとに資本制生産の温室的助長をはからざるを得なかったのである.すなわち,明治政府はみずからの手で欧米から近代的な機械を導入し,技術者を招き,官営で近代的工業を興すとともに,進んであらゆる手段をつくして民間における私的企業の保護育成をはかっていった.このような明治政府の強力な殖産興業策の一環として,明治5年(1872)の「学制」発布以降の教育政策が位置づけられている.すでに明治5年(1872)の学制「被仰出書」には,「人能ク其才ノアル所ニ応シ勉励シテ従事シ而シテ後初メテ生ヲ治メ産ヲ興シ業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ」として,殖産興業が学制の根幹であることを天下に声明している.しかし学制発布以降,およそ20年間の教育政策は,幕藩体制の崩壊による近代国家の成立と軌を一にして,近代学校の整備,特にその基礎としての小学校の整備,普及に主眼がおかれ,実業教育,工業教育にまで積極的に手をのばしていくことができなかった.明治10年(1877)ごろまでの職工養成機関としては,僅かに東京開成学校製作学教場,新潟学校,攻玉社,工手学校などが挙げられるにすぎない2).
 組織的な教育制度として職工学校がはじめて法規のなかに明示されたのは,明治13年(1880)の改正教育令においてである.その第2条には「学校ハ小学校,中学校,大学校,師範学校,専門学校,農学校,商業学校,職工学校,其ノ他各種ノ学校トス」とあり,さらに第8条には「…職工学校ハ百工ノ職芸ヲ授クル所トス」とある.明治13年(1880)2月9日付で文部省に上申された改正教育令草案第2条には,職工学校をあらたに加える理由として,「学術ノ生産力ニ関スルヤ大ナリト雖モ直接ニ其力ヲ現シ又社会ニ実業ヲ起サシメ,専門学校ニ並ンデ学校類中ノ要部ヲ占ムルモノハ職工学校ヲ以テ最ナリトス而シテ教育令中是名称ナキハ頗ル闕典ニ属ス」と述べられている.このように「社会ニ実業ヲ起サシメ」んとして「学校」のなかにあらたに職工学校をいれた改正教育令にもとづいて設置されたものが,東京職工学校である.
 すでに明治7年(1874),ドイツ人教師ワグネル(Gottfried Wagner,1831-1892)は当時の文部卿に対して,およそ一国の富を増進するには主として工業の発達をはかるべく,そのためには工業上もっとも必要な職工長,その他の技術者を養成しなければならぬ,という趣旨をもって低度工業教育実現の急務を建議したが,これが容れられて東京開成学校内に製作学教場が設置されたのであった.しかし明治10年(1877),開成学校が東京大学と改称されるに及び,同教場は廃止され,低度工業教育は等閑視されていたが,東京職工学校の設立によってふたたび職工養成がとりあげられることとなったのである.明治14年(1881)4月8日,文部卿・福岡孝悌が三条太政大臣に提出したっぎの伺書によると,東京職工学校のもつ任務があきらかに示されている.
職工学校ヲ束京ニ設置スヘキ件ニ付伺3)
 謹テ惟ルニ本邦細民ノ子弟ニ於テハ従来人間普通ノ教育ヲ受クルコトナク稍々成童ニ及ヘハ即チ早ク巳ニ人ノ雇役トナリ終身人道ノ何物タルヲ知ラサルモノ巨多ナリシカ今ヤ教育令ノ制アリテ苟モ本邦ノ人民タルモノハ必ス就学セサルヘカラサルニ由リ全国人民ノ品位ハ漸次上等ノ域ニ進ムヘキハ言ヲ侯タスト雖モ彼ノ細民ノ子弟ニ至テハ一タヒ小学校ヲ出ルノ後ニ於テ有用ノ職業ニ服スルモノ尠ク矢張従来ノ如ク人ノ雇役トナルカ故ニ復其智徳ヲ養成
スルノ暇ナキノミナラス其曾テ小学校ニ於テ折角養成セシ所ノ智徳モ年ヲ経ルニ随テ漸ク消耗シ遂ニ公ニシテハ国家ノ殖益ヲ稗補スル能ハス私ニシテハ自家営生ノ計ヲ画立スル能ハサルニ至ルノ情勢ヲ免レス蓋シ彼細民トテモ其子弟ヲシテ有用ノ職業ニ服セシメ其智徳ヲ養成セシムルヲ欲セサルニハアラス…今ヤ之ヲ拯フニ緊要ナル方法ヲ案スルニ新タニ職工学校ヲ設クルニアリ果シテ此校ヲ設立スルコトヲ得ハ則チ彼子弟ヲシテココニ就学セシメ常ニ其道徳ヲ薫陶シ其知徳ヲ磨磋スルニ足ルヘキ教員吏員ニ学科技芸ニ接見服習セシメハ必ス修学ノ際ニ於テ知ラス識ラス其品行ヲ醇美ニシ其智識ヲ明敏ニシテ以テ能ク有用ノ職業ニ服スルニ堪フヘクシテ其公私ノ稗益ヲ為スコト鴻大ナルヤ疑ヲ容レス然ラハ則チ今日ニ於テ職工学校ヲ設クルハ実ニ教育上ノ急務ト云フヘシ而シテ又工業上ノ一方ヨリ考フルニ従来本邦ニ於テ職工タラントスルモノハ必ス他ノ老工ノ徒弟トナル慣習ナレトモ其老工ニ於テハ概ネ之ヲ百般ノ雑事ニ使役シ殆ント奴僕ニ異ナルコトナク且素ヨリ一定ノ規則ヲ以テ其技術ノ要理ヲ教授スルニ非サルカ故ニ其徒弟ハ大約五年乃至十年ノ光陰ヲ費シ幾多ノ辛苦ヲ嘗メ然ル後僅カニ能ク其手術ヲ窺得ルモ到底其要理ヲ推究スルコト能ハス故ヲ以テ本邦ノ工芸萎靡振ハス之ヲ彼泰西ノ工芸ノ年々ニ巧緻ナルニ比スレハ殆ント天淵相反スルノ状況ヲ免レス…且又維新以来ニ於テ泰西ノ工業ヲ官ニ私ニ採用シ以テ我殖産ノ端緒ヲ開キシモノ勘カラサリシト雖モ動モスレハ目的ヲ誤リ事業ヲ敗リ其私営者ノ如キハ産ヲ破リ家ヲ亡ホスモノ僂挙スルニ暇アラス然ル所以ノモノハ職トシテ其学術ニ根拠ナク徒ニ模擬ヲ主トセシニ由ラサルハナシ今日本邦ノ工芸ヲ振作シ殖産ノ道ヲ啓カントスルニハ必ス先其学術ヲ修メ然後其実施ヲ図ラサルヲ得ス今其学術ヲ修メシムルノ方策ヲ求ムルモ亦必ス職工学校ヲ設クルニアリ果シテ此校ヲ設立スルコトヲ得ハ一ヲ以テ彼将ニ萎靡衰退セントスルノ工業ヲ挽回スヘク一ハ以テ世ノ起業者ニ憑式スル所アラシムヘク而シテ本邦ノ殖産ノ道ヲシテ旺盛ナラシムコト期シテ俟ヘキナリ…前所陳ノ如ク教育上ヨリ論スルモ工業上ヨリ論スルモ今日ニ於テ職工学校ノ設ケナカラヘカラサルコト明瞭ナリ而シテ此学校ヲシテ果シテ其巧ヲ奏セシメ公私ヲシテ普ク利ヲ享ケシメントスルニハ全国民僅ニ二三校ニシテ足レリトスヘカラス必ス毎県府其土地ノ情状ニ随ヒー校若クハ数校ヲ設立セサルヘカラス然レトモ本邦未タ曾テ此種ノ学
校ノ以テ標準トスヘキモノアラサルニ由リ府県ニ於テハ頗ル其制規ニ困ムモノ多カルヘク縦令否ラサルモ其教員ニ適当スルモノナカルヘキヲ以テ即今直ニ之ヲ起立スル能ハサル事情アルヘキニ由リ先其標準ヲ挙示シ右教員ヲ養成スルノ主旨ヲ以テ今般本省ニ於テ職工学校ヲ東京ニ設立スルノ儀ヲ許可アランコトヲ希図シ此旨至急高裁ヲ仰候
 上記の伺書に明らかなように,東京職工学校設立の趣旨は次の四つの目標にまとめられる.(イ)細民子弟の貧民教育,(ロ)年季徒弟制教育の是正と近代的職工教育の充実,(ハ)工業経営者の憑式たらしめ殖産興業に資すること,(ニ)全国職工学校の模型たらしめ,かつ全国職工学校の教員養成.
 明治14年(1881)8月制定の同校校則によれば,その目的として「師範若クハ職工長トナル者ニ必須諸般ノ工芸等ヲ教授スル」と述べられ,入学資格は高等小学校4年あるいは初等中学校卒業者であって,同校設立の動機たる細民子弟の教育機関としての本旨に副うものではなかった.後述されるように明治14年(1881)以降の経済界の不況は,貧民が高等小学校程度を卒業することをほとんど不可能にしていたことによっても,このことが推測される.貧民教育が設立趣旨として掲げられたのは,当時の功利主義的学校観とその軌を一にするものといえる.たとえば,学制「被仰出書」に述べられているように,「夫ノ道路ニ迷ヒ飢餓ニ陥リ家ヲ破リ身ヲ喪フノ如キハ畢寛不学ヨリシテカカル過チヲ生ズル」から,このような貧乏破産喪家の徒におちいらないために学校教育が必要であるという立身出世主義的教育観が,「伺書」のなかにも示されたものであると解される.それ故,東京職工学校においては貧民教育がその実質的な内容をもつのではなくて,むしろそれは明治政府の殖産興業策の一環として位置づけられたものといえる.当時の文部省専門学務局長・浜尾新は「本邦に於いては…工業工場あって而して工業学校を起すのではなく工業学校を起し卒業生を出して而して工業工場を起さしめたのである.…(かくして)職工学校の設置を見るに至ったのであります」4)と述べているが,この発言は東京職工学校の目的が貧民教育にあるのではなくして,殖産興業にあることを明らかに示している.
 明治14年(1881)12月,文部省が各府県の学務課長,学校長を召集して学事諮問会を開催した折に,職工教育の実状に関してつぎのごとく述べている.
 顧フニ本邦職工ノ旧慣ニ於ケル年季徒弟ナルモノアリテ工業ヲ伝授スルノ一途ナキニ非スト雖モ固ヨリ不完不備ノ俗習ニシテ即チ其徒弟タルモノハ大約五年乃至十年工師ノ使役ニ服シ其間許多ノ辛苦ニ堪へ手術ノ概略ハ稍々之ヲ学ヒ得ルト雖モ其要理ニ至テハ即チ到底之ヲ受学スルコト能ハス而シテ之カ工師タルモノ亦素ヨリ学識アラサルカ故ニ其要理ヲ徒弟ニ講授スルコト能ハス…本邦工業ノ振ハサルモ亦宜ナラスヤ5)
 上記の説明によっても知られるように,政府は当時,広範に存在した年季徒弟制の現況に鑑み,職工学校を設立してそれに代わる理想的な職工教育を企図したのであるが,前述のごとく,結果的には明治15年(1882)6月の校則改正において,「職工学校ノ師範若クハ職工長製造所長タルヘキ者」を養成することが同校の目的とされた.この改正によって同校の職工養成は,いわゆる職工(低度技能者)ではなくて,職工長(職工指導者)の養成に主眼がおかれていったのである.明治22年(1889)7月,東京職工学校卒業式に出席した当時の文部大臣・榎本武揚のつぎの訓示のなかに,端的にこのことが物語られている.
 …蓋シ技芸ナルモノハ工師・職工長・職工ノ三等ニ分チ得ヘキコト恰モ将・校・卒ノ別アルカ如ク,此三者相頼テ以テ始テ事業モ成リ成功モ期スヘキコトニテ此第一ノ王師ナル者ヲ養成スルハ工科大学ノ専門ニテ…第二ノ職工長即チ所謂「フォルメン」ナル者ハ工学士ヨリ一層多数ヲ要スルモノニテ之ヲ養成スルハ当職工学校ノ主務ノ一ナリ.
 かくて「伺書」に示された,(イ)貧民教育と,(ロ)徒弟制教育の是正と職工教育の二つの設立理由は,同職工学校の実質的な目標とはならず,前述の設立理由,(ハ),(ニ)が同校の実質的な役割であった.すなわち,維新以降,先進諸国からの近代的機械の導入による工場制工場の発展に対応して,学校教育の側面から殖産興業策に即応し,全国職工学校の雛型として,また全国職工学校の教員を養成していくという使命をになっていったのである.このことは,職工学校が貧民救済や年季徒弟制の是正,ないし職工養成に直接関与していくものではなく,日本の工業教育の指導的役割をその出発当初においてになっていたといえる.このような東京職工学校のもつ実質的な使命は,やがて日本資本主義の展開に即応して,同校を明治23年(1890)に東京工業学校とし,さらに明治34年(1901)には東京高等工業学校,昭和4年(1929)には東京工業大学へと
昇格させていったのである.かくて榎本武揚の言を借りると,同校は職工長から工師の養成へと転換していったことになり,ここで職工の養成は,次の東京工業学校付属職工徒弟学校において,別個に考えられなければならなかったのである.
 (2)東京工業学校付属職工徒弟学校
 東京工業学校付属職工徒弟学校の前身は,明治19年(1886)1月設置の東京商業学校付属商工徒弟講習所職工科である.同講習所は「商工ニ須要ナル実地簡易ノ学業ヲ授ケンカタメニ」6)設置されたもので,その規則によると,職工科,夜学科,別科の三科があり,職工科は「主トシテ現業者ノ子弟ニ適切ナル手工ヲ教へ」,夜学科は「昼間修学ノ暇ナキ者ニ日用必須ノ学業ヲ教へ」,別科は「他日東京商業学校へ入学セント欲スル者ニ必要ナル予備ノ学課ヲ授ク」ることとなっている.別科は東京商業学校予科であり,かつ夜学科は実際には開設されなかったので,商工徒弟講習機関としては職工科だけであった.明治23年(1890)1月,商工徒弟講習所を職工徒弟講習所と改称して,名称と内容の一致がみられたが,さらにふたたび同年8月,職工徒弟学校と改称して東京工業学校の付属職工徒弟学校となったのである.明治27年(1894)4月,同校卒業式における校長・手島精一の演説によれば7),同校は「木工ニ於テハ大工指物師,金工ニ在リテハ鍛冶鋳物師等タラント欲スル職工ヲ養成スル場所ニシテ決シテ学問ノミヲ授クルモノト日ヲ同クセス」として,同校の教育目的が述べられている.さらに「従来ノ子弟ニ職業ヲ授クルノ道唯年季徒弟ノ一法アリシノミ然ルニ近来此年季徒弟法モ世ノ風潮ニ従ヒ漸ク衰微ヲ顕」しはじめたし,他方,「本邦目下ノ工事中ニハ夫ノ製鉄業等ノ如キ漸次自家工業ハ大工業ノ組織ニ変シタルカタメ此ノ如キエ場ニ於テハ別ニ親方ト称スルモノアラサレハ随テ徒弟ヲ養ヒテ之ニ職業ヲ授クルノ道殆ト之ナキニ至」ったので,「一ハ衰ヘタル年季徒弟法ノ一端ヲ補ヒ一ハ大工場ノ職工タラントスル者ヲ養成」し,もって殖産興業に資していくことが,職工徒弟学校の任務であるとしている.ここで職工徒弟学校は在来の伝統工業と輸入された工場制工業との二つの工場に職工を供給していくという役割をもって出発したことになる.しかし伝統工業における年季徒弟法の改善には積極的な意欲を示したものとはいえず,それは全く消極的なものにとどまっていた.同じ演説における手島精一の次の意見は,
その消極性を明らかに示している.
 …徒弟学校ヲ以テ従来ノ年季徒弟法ニ代ラシメントスルハ固ヨリ不可ナリ 抑々年季徒弟法ハ 夫ノ生計ニ余裕ナキ職工ノ如キハ 其子弟ヲ他人ノ子弟タラシメ 父兄ハ啻ニ衣食ノ係累ナキノミナラス 職業ヲモ学ヒ得ルヲ以テ 此法ハ是マテ職工ヲ養成スルニハ最モ簡便ナルモノニシテ 仮令年季徒弟法ハ昔日ノ如ク盛ニ行レサルモ 尚ホ此法ノ永続セラルルノ必要アルハ弁ヲ侯タスト雖モ夫ノ従来行ルル親方ナルモノハ往々徒弟ヲ使役スルニノミ止り 別ニ之ヲ教フルノ法ナク 職業ノ鍛錬工夫ノ如キモ徒弟自身ノ啓発ノミニ一任スルヲ以テ 比較的ニ良工ヲ出スコト少キハ是レ実際止ムヲ得サルノ事情アルニ因ルト雖モ 抑々文明ノ利器一タヒ我工業界ニ利用セラレシヨリ其発達今日ノ如クナルヲ以テ 此輩ノ徒弟ヲ待タンカタメ 実業補習学校ヲ設置セラレ 夜学其他事務ノ余暇ニ於テ卑近ノ普通教育及業務ニ必要ナル学科等ヲ設クルハ 職工徒弟学校ト共ニ将来倍々我工業ノ進歩ヲ促スニ於テ最モ必要ナルコトト信ス…
 手島精一の意見によれば,伝統工業―手工制工業に従事している年季徒弟に対しては,職工徒弟学校における教育だけでは応じ切れないので,さらにパートタイムでの実業補習学校のごときものが別に考えられねばならないとしている.このように,職工徒弟学校は伝統工業の近代化に積極的に貢献していこうとするよりも,輸入移植された工場制工業に対応していく側面を強くもっていた.それ故,これを雛型として,明治27年(1894)以降全国的に設置されていく徒弟学校も,東京工業学校付属職工徒弟学校と同じく工場制工業への傾斜を次第に濃厚にしていくのである.手島精一の演説内容を一般向けに平易に書き改めたと考えられる次の同校「入学を勧むる趣意書」(明治40年)によると,職工徒弟学校の入学資格は高等小学校卒業程度であって,その大部分が貧民層である年季徒弟は同校に入るべくもなかった.同校および全国的に設立されていく徒弟学校に入学できるものは,家庭の経済的状況が中学校に入れる余裕はないが,さりとて年季徒弟奉公にまでは至らない,いわば経済的に中間層の子弟であったと考えられる.かくて貧民層の子弟にとっては依然として年季徒弟奉公がその職業教育として存続し,彼らが入り得る学校としては,せいぜい実業補習学校の段階にとどまらざるを得なかったのである.
入学を勧むる趣意書8)
 ・・・・・・もっとも得策なのは,その子供の職業を定むるために,実業の学校に入れて,早く一人前のものとしてやることである.この実業の学校はいづれも高等小学2年3年位の学力で,らくに入学ができ中学ほどには学資もかからず,そして3年位で卒業も出来るし,卒業すればすぐに金もとれるという結構な学校である.ことに徒弟学校などになると,大工,指物,鍛冶,仕上,電気,機械などいづれとも望みによってそれぞれの手職をさづけ,それについての学問も教ふるなれば,これらを渡世する人はもちろん,其他の人でも,子供の安全を計るならば,いっそかかる学校に入れて,職業を覚えしむるのが,なにより得策なことである.
 然るに世には,子供を職工にするなら,なにも学校に入れるには及ばない,かへって師匠のところへ,年季奉公にやるがましであるという人もある.なるほど奉公のことになれば,割合に金もかからず,仕着もされる.そして仕事はただで教へられるから,この点から見れば,それに相違ないが,しかし大抵の年季奉公は職工として,もっとも大事なところの,その仕事についての算用のことや,仕様のことや,図面のことなどになると充分には教へてくれず,年季があけて,御礼奉公の2,3年もしなければ,秘伝の一つも教へぬといふやうなさまである.それゆゑこれらのことは,おぼつかなくも,ただ永の間の,見やう見まねでおぼゆるか,以心伝心にさとる位の事でなかなか一人前の職工とはなれないのである.それから,人としてもっとも大切な修身のことや読みかきなどのことになると,ことさらかまうて呉れるものではないから,年季奉公では,とても品行もよし,腕もよし,読みかきも出来るといふ,三足そろうた立派な職工とては出来ない.やはり職工とするなら,必ずこれらの学校に入れて,そしてその教育をうけさせるのがかへすがへすも得策なことである.…(以下略)
Ⅱ 明治政府の殖産興業策
 さて,明治政府の殖産興業策は,軍事工業を中心とした重工業,ついで繊維工業に向けられていった.政府は重工業,繊維工業を官営にしてその範を示すと同時に,他方,勧業博覧会を通じて工業の発展を図ろうとした9).このような明治政府の各種の新規事業は必然的に不換紙幣,銀行券の増発をもたらし,その結果,貨幣価値の低落を示しインフレーションをまねいていったのである.かかる形勢に基づき,政府は財政整理を余儀なくせられ,明治13年(1880)11月,増税並びに国庫支出節減政策をとり,同時に「工場払下規則」を定めて官営諸工場の民営転化を断行していった.すなわち,官営長崎造船所,兵庫造船所,深川セメント製造所,広島紡績所,愛知紡績所等の重工業,繊維工業の諸工場を明治20年(1887)前後までに三井,三菱,浅野などの民間企業へ低廉な価格で次々と払い下げていった.このような財政整理の強行は必然的に不景気を招来せざるを得ない.明治13年(1880)までは在来各種産業の繁栄をみて,「去ル明治十年以降両三年ノ間ハ前古無比ノ大需要ヲ起シ物皆売レザルナク価格騰貴セザルナク農商工漁悉ク一時ノ利潤ヲ被ラザル者ナシ」という活況であったが,財政緊縮に伴って,明治14年(1881)以降は深刻な不景気に襲われ物価の下落,金利の低下,銀行会社商工業者の破産,および失業者の増大,なかんずく農民の窮乏が極端であった.明治17,18年(1884,85)の経済界について当時の「農商工概況」はつぎのように述べている.
 商況ハ又々沈倫シテ如何トモシ難ク私立銀行会社ノ閉店スル者陸続跡ヲ接シ…之ニ加フルニ諸国ノ農民前年ノ豊作ナリシニモ拘ハラス殆ト餓テ死スルモノアリ或ハ蕨根ヲ掘り松皮ヲ食フモノアリ…物価益々下落シテ工銀ノ下落ニ及ヒ諸職工雇夫車夫ノ職ヲ離レタルモノ多シ
 以上のような明治10年(1877)代における恐慌に際して,政府は新たに産業保護政策を企図せざるを得ず,この一環として農商務次官・前田正名に「興業意見」を調査立案させた.この「興業意見」で特に注目すべきことは,伝統工業の保護とその機械化の強調である.すなわち,外国品の廉価精良なるは機械の使用によるものであるから,本邦の伝統工業においても機械を採用し,その進歩を図ることが急務である,というのである.明治14年(1881)以降の不況打開のためには,生産費の低減,品質の改良がまず第一で,そのために伝統工業機械論がここに台頭してくることになったのである.しかしながら,遅れて出発した日本の資本主義は,諸機械を先進諸国から輸入しなければならず,さらに国内市場狭隘のために工業製品を輸出しなければならなかった.ここに貿易の正常を維持することによって,不況を打開することが必要であった.明治10年(1877)代の工業製品の主なものをあげると,伝統工業製品である生糸,陶磁器,漆器,マッチであって,農産品である茶と鉱産品である銅と共に重要輸出品目をなしている(第1表参照)10)
第1表 明治10年代および20年代初期における重要輸出品目
 明治14年(1881)以降の不況は広範に失業人口を造出し,その結果,低賃金体制の確立による物価安によって外国貿易に対抗でき,明治15年(1882)以降は従来の輸入超過に反し,輸出超過に好転することができた.第1表の重要輸出品目をみても,当時の輸出品の殆どは伝統工業製品であって,政府が維新以来国策として掲げてきた重化学工業製品が外国貿易を好転させたものではなかった.かくして明治14年(1881)以降の不況を契機として,日本の資本主義は次第に産業資本の確立を来し,明治23年(1890)には,資本家的企業熱による株式投機の高揚によって,ふたたび恐慌に突入していくことになるのである.
 とにかくこのような度重なる恐慌を通じて,伝統工業は中小企業,零細企業として,輸入工業は大企業として,いわゆる経済の二重構造が次第に確固としたものにつくりあげられていったのである.
 以上のような日本資本主義の展開過程のなかで,まず,東京職工学校,東京工業学校付属職工徒弟学校,ついで同付属職工徒弟学校を雛型にして全国的に徒弟学校が設立されていった.それ故,これら諸学校のなかに当時の資本主義の未成熟が反映され,これら諸学校は伝統工業と輸入工業の二つの工業にかかわることになるのである.明治15年(1882)10月,学務諮問会において文部省は「本邦古来工業ノ道盛ナラサルニアラス 職工ノ技巧ナラサルニ非ス 而シテ近来ニ至リ工業漸ク振ハス 技術更ニ進マス 其旧来遺伝ノ業ハ動モスレハ歩々却退ノ状ヲ呈シ輓近新起ノ業モ亦往々失敗ヲ免カレサル所以ノモノハ何ソヤ」と不況の原因を問い,それは年季徒弟法による旧慣が存する故に,外国の科学技術を基礎とする工業に対抗できないからだとしている.そこで職工学校を設置して近代的な「学理ト実験トヲ修メ」た職工を養成して,外国との競争に伍していかねばならぬと力説している.しかし,東京職工学校はその後,前述のごとく,資本主義の発展に対応して工業学校,高等工業学校,大学へと上昇し,職工養成には職工徒弟学校がそれに肩代わりすることになる.職工徒弟学校第一回卒業式における訓辞11)によると,同校は「新工業ヲ起シ又旧工業ヲ改良スルニ於テ最モ効益アラン」と述べられている.このように新工業と旧工業とに二股かけた職工徒弟学校を雛型にして,問もなく徒弟学校が全国的に設立されていくことになるのである.
Ⅲ 徒弟学校の成立
 すでに前節において述べたように,重要産業に対する明治政府の保護育成政策の結果成長してきた産業界は,明治20年(1887)代には急激な進展を示し,科学的知識と技能とをもつ職工(低度技能者)を必要とするまでに至った.しかし一般的には産業界は職工養成のための組織的教育機関設置には,いまだ積極的関心を示したとはいえなかった.このように産業界の職工養成に対する関心が低調であったとき,明治5年(1872)以降の普通教育中心の教育政策に加えて,実業教育振興の重要性を力説したのが手島精一,浜尾新,井上毅などである.ここでは徒弟学校の生みの親ともいえる手島精一の所説を中心にして徒弟学校の性格について検討を加えていくことにする.
 手島精一は明治19年(1886),雑誌『教育時論』12)において実業教育を論じている.それによると,「欧米諸国が今日の如き開明富強の結果を獲たる原因を繹ねるに其撥固より一ならすと雖も要するに工業技術の盛なるに職由す.而も工業技術の盛なるは主として実業教育の施設あるに由るのみ.然らば則ち今日の世界に在りては実業教育の事豈之を忽諸に附するを得んや」として,まず殖産興業の基盤としての実業教育の重要性を強調し,さらに英国と日本とは同じ島国として地理的条件が相似しているにもかかわらず,国民所得に顕著な差異のみられるのは,両者の実業教育整備の差異に基づくものとしている.英国においては実業教育が整備され,産業が科学的に運営されているに反して,日本の場合には旧来の年季徒弟法を墨守し職工養成が合理的に行なわれていないと慨歎している.そこで彼は日本の現状にてらして実業教育を振興していくために,つぎのような提案を示している.すなわち,「今や本邦において施設すべき実業教育の種類にて目下其多からんことを望む者は,小学校の手工,農業科,徒弟学校,女子職業学校とす.但以上の三種に学校の文字を用ふれども地方によりては講習所,授産所等の名を以て現に実業を授くる所あり此種に就て聊か学理上の事を交ふれば実業学校の性質を備ふる者となるべし」としている.ここでは,今ただちに全国的規模において実業教育機関を設置することは望めないので,まず差し当たって,小学校に実業科目を設けるか,または各地の講習所,授産所において学理上の教育を行なっていくという卑近な点から実業教育の充実を期していかねばならないというのである.さらに徒弟学校は「小学校の実業科とは大に其の趣を異にし生徒卒業の後は直ちに実業に従事するものを養成する所なれば,在校中職工思想を抱かしむるは勿論必要なりと雖も各地の工業によりて其工業を稗補すべき徒弟学校を設立するを可とす」としている.
 明治10年(1877)代における日本の工業は,若干の軍事工業,繊維工業13)を除いては一般的にはいまだ手工制工業の段階にすぎず,そこには旧来の年季徒弟制が広範に存在していた.このような日本資本主義の未成熟が,手島精一の実業教育論の背景にあったのである.彼の実業教育論のなかには,小学校,徒弟学校,女子職業学校において学理上の教育を施すことによって,従来の伝統工業における年季徒弟制教育の欠陥を是正し,それを近代化の軌道にのせることができるという安易な考えがあった.しかし,年季徒弟制そのものは,2,3年の学校教育によっては微動だもしない経済的体制によって伝統的に基礎づけられているものである.だからこの時点において,「職工思想を抱かしめ,直ちに実業に従事するもの」を養成する徒弟学校がもし実現していくとするならば,それは結果的には,旧来の親方・子方的身分関係に規制された年季徒弟奉公に迎合しなければならなくなっていく.それは手島精一の意図する伝統工業の近代化とは全く別個のものに変えられていかざるを得ない.このように,手島精一の実業教育論,ないし伝統工業近代化論は,当時の資本主義の未成熟によって,おのずからの限界を帯びていたし,また矛盾的性格をになわざるを得なかったのである.
 さて,「徒弟学校」なる名称が法規のうえに初めてあらわれるのは,明治23年(1890)の小学校令(勅令第215号)においてである.同令第2条に「小学校ハ之ヲ分テ尋常小学校及高等小学校トス・・・徒弟学校及実業補習学校モ亦小学校ノ種類トス」として,徒弟学校は小学校の種類と規定されている.さらに第9条では「専修科補習科徒弟学校及実業補習学校ノ教科目及修業年限ハ文部大臣之ヲ定ム」と規定しているが,明治24年(1891)11月17日文部省令第11号「小学校教則大綱」には,徒弟学校についての具体的規定は認められない.それ故,明治23年(1890)の小学校令による「徒弟学校」は制度的には成立しなかったとみて差しつかえないと考えられる.この時期においては,手島精一の所説にみられるように,徒弟学校が殖産興業策の一翼をになうものとして,伝統工業の近代化と輸入工業の発展に貢献していくという原則的な徒弟学校の任務については理解されていたとはいえ,徒弟学校を具体的に運営していく教科目,修業年限などについては,いまだ暗中模索の時期であったといえる.そこで前節において述べたように,明治23年(1890)8月,東京工業学校付属職工徒弟学校が設置され,それがやがて全国的につくられていく徒弟学校の雛型としての役割をになうことになったのである.
 明治23年(1890)公布の小学校令において,初等実業教育機関として法的に位置づけられた徒弟学校が,下級工業学校としての性格を帯びるようになったのは,明治27年(1894)の「徒弟学校規程」(文部省令第20号)においてである.手島精一はふたたび明治25年(1892),『教育時論』第24巻に「徒弟学校施設ニ関スル意見書」14)を掲載し,徒弟学校の具体的構想を打ち出している.
 手島精一の「意見書」においては,彼の付属職工徒弟学校長としての経験を生かし,明治19年(1886)における所説よりもより具体的に徒弟学校の教科内容,修業年限,諸経費などが些細に吟味され,さらに徒弟学校の種類もより整理されたかたちで述べられている.彼の「意見書」にしたがえば,旧来の年季徒弟奉公による職工養成は,「師家ノ為メニ職業ニ必要ナラザル百般ノ雑事ニ役セラレ・・・・・・一定ノ課程順序アルニアラズ」して,いたずらに歳月を徒過するものであるから,「各国貿易場裏ニ輸贏ヲ争フノ今日ニ在テハ」,それはもはや時代遅れの養成方法である.それ故,「本邦旧来ノ工業ニ向ヒテ漸次学理ヲ応用スルノ道ヲ講シ以テ著々発達改良ノ効」を奏するために,「良工ヲ陶冶スルノ道」を講じなければならない.徒弟学校は,このように旧来の年季徒弟法の欠陥を是正し,それに代わるべき合理的な職工養成を第1の目標としている.それは,本邦における殖産興業は必ずしも「我工業ヲシテ悉ク欧米偉大ノ規模ニ倣ハシムルヲ須ヒス」,徒弟学校を中心にした伝統工業の近代化を通じてなしとげられねばならぬからである.それ故,徒弟学校は「土地ノ民度ト工業ノ状態ヲ斟酌」して設立されねばならない.たとえば,「大工指物師等ノ職工多キ地ニ於テハ木工ニ関スル業ヲ択ヒ 鍛冶職多キ地ニ於テハ金工ニ関スル業ヲ要シ 又陶器織物ニ関スル地方ニ於テハ各其工業ニ関スル徒弟学校ヲ設置スル」ことが望ましい.また「木工金工ハ特殊工業地ノ外ハ諸般ノ職工中最多数ヲ占ムルモノナレハ 人口万ヲ以テ算スルノ市街地ニ於テハ便宜其設置ヲ要」する.ここで徒弟学校は,伝統工業の近代化に直接働きかけるものとして,特殊工業地(産地)を中心にして設立していくという方式と,他方,産地にこだわることなく,市街地(都市)を中心にして間接的に伝統工業の振興に貢献していく方式が構想されている.以上のような手島精一の構想に基づいて,次章における徒弟学校の事例を分類すると,特殊工業地の事例としては,会津漆器徒弟学校,瀬戸陶器学校,南都留染織学校,別府学校組合立工業徒弟学校があげられ,さらに市街地の事例としては,仙台市徒弟実業学校があげられる.
 伝統工業の近代化を通じて,明治政府の殖産興業策に対応していこうとする徒弟学校は,その教育内容として「職業ノ実修ヲ専トシ」,補助教科として「理学的知識及図画ノ技能」が特に重視される.しかし,徒弟学校は,「一般学校ノ風ニ倣ヒ執業時間短少ニシテ悠々業ニ従ハシメ 労作ノ監督厳正ナラザルトキハ 児童ヲシテ緩慢懶惰ノ気風ニ馴致セシメ 精励敏活ノ良工ヲ得サルノミナラス……世間一般ノ職工ヨリ劣ルモノヲ出スノ虞」があるので,「生徒ノ取扱ニ至テモ亦世間ノ徒弟ト同一ニシテ 学校生徒タルノ故ヲ以テ不知不識ノ間ニ奢靡ニ傾」かないように厳重に警戒されねばならぬと論じている.このように,手島精一の主張する伝統工業近代化論の内容は,技能教育を中心にした「精励敏活ノ良工」の養成であって,旧来の年季徒弟法に比すれば技能修得に要する年限は短縮されるにしても,徒弟の取扱いを「世間ノ徒弟ト同一」にしていくものである以上,雇主(親方)に対する絶対的服従,長時間にわたる労働等,旧来の年季徒弟制のもつ労働慣行を是認していこうとするものであった.それ故,手島精一の考える年季徒弟法の改善は,科学や技術の学習を通じて徒弟を人間として開放していこうとするものではなくて,どこまでも,殖産興業,富国強兵策の角度から年季徒弟法の再編成を意図するものであったのである.
 さて,手島精一はさらに,徒弟学校の種類として第一種徒弟学校,第二種徒弟学校および女子職業学校の三つの類型を設定している.本来あるべき徒弟学校は,第一種徒弟学校であって,それは尋常小学校卒業者を入学資格とし,修業年限は最少3カ年,職業実習を中心にして修身,読書作文習字,算術,図画,理科等を兼修せしめるものである.それに対して第二種徒弟学校は,小学校中途退学者を入学させるものであるから,尋常小学校の教科目と職業の初歩とを並行して授け,年齢の長ずるに及んで専門の職業を修めさせるものである.それ故,第二種徒弟学校は小学校の課程と第一種徒弟学校の職業教科とを併設し,尋常小学校中途退学者に対して小学校教育の補習を兼ねた実業教育を施そうとするものである.このいずれの徒弟学校を設置するかは,「土地ノ情況ト経済ノ関係」とによって決定されるとしている.第3に,徒弟学校に準ずる女子職業学校は,女子に手芸等を授け,他日家計を助けるために設置されるべきものである.この種の学校は,「人口饒多ノ市街等」に設置すべく,「女子ヲシテ遊惰ニ陥ラシムルカ如キ弊ヲ救ヒ 其裨益スル所少ナカラサルヘシ」としている.女子に対するいわば家計補助的職業教育というべきである.以上3種の徒弟学校は全日制であるから,現に実業に従事している者に対しては,これとは別個に定時制の職工補習学校が設置されねばならぬとしている.職工補習学校は,「別ニ校舎ノ建設ヲ要セス 通常ノ小学校教室ニ於テ毎夜若クハ日曜日等ニ之ヲ開キ 職工子弟等ノ既ニ小学校ヲ卒ハリタルモノ 又ハ半途退学シタル者等 昼日又ハ平日職業ニ従事スルモノヲシテ余暇ニ於テ其職必須ノ課目ヲ補習セシム可キモノ」であって,その教科は,「小学校ノ教科ヲ継続スルノ外 理科ノ初歩 工業 図画等ノ課目」を課し,3年ないし5年で修了せしめるように計画されねばならぬという.このように手島精一の「意見書」によれば,徒弟学校,職工補習学校あいまって,伝統工業の近代化を遂行していかねばならぬと考えられている.しかし,手島精一の所説における職工教育は,第一種徒弟学校が中等実業教育,第二種徒弟学校が初等教育と中等教育との中間に位置づけられているとはいえ,一般的には初等教育,ないしその補習教育の域を脱することができなかった.それは当時の小学校教育の普及がいまだ不徹底で,多数の未就学者が存在したことによって(第1図参照)15),徒弟学校は初等教育の役割をもになわなければならなかったからである.
第1図 学齢児童就学率
さらに伝統工業における広範な年季徒弟奉公の存在は,徒弟学校をしてそれに妥協させていく側面をもになっていた.つぎの佐久間貞一16)の意見は,徒弟学校における近代的職工養成の意図をはばみ,年季徒弟法に妥協させていこうとする考え方の代表的なものである.
 1.在来ノ徒弟ノ仕組ハ今之ヲ変スヘカラス
 2.故ニ徒弟学校ニテハ実業ヲ授ケス其ノ実業ノ発達ニ要スル智識ヲ授クヘシ(以下略)
 初等教育,職工養成,さらに年季徒弟奉公のそれぞれの機能をになった徒弟学校は,自己を職工養成として貫徹できず,未分化の状態に低迷することになる.それ故,徒弟学校がこの未分化的状態から脱して,伝統工業の近代化に積極的に貢献していくためには,単に産地の自発的な徒弟学校の設立を期待することだけでは不可能であったし,また地方財政の窮迫によって地方自治体にもその設立を期待することはできなかった.他方明治20年(1887)代の工業界においては,産業革命が急速に進行していたので,その状勢に適応していく職工の増加が至上命令として課せられていた.ここに「産業の発展と国家の富彊を図るためには実業上の智能を一般に普及せしむる」ことが緊急事とされ,そのために「国費の補助を以て地方実業教育の普及を図らねばならぬ」17)として,実業教育費国庫補助法(明治27年(1894)6月22日法律第21号)の公布をみるに至ったのである.それ故,この国庫補助法は,当時の国家的要請と徒弟学校などにみられる遅れた実業教育との間隙をうずめるものとして生み出されたものである.かくして,この法律の公布を契機にして,各種実業学校は急激にその数を増すとともに,その後の日本の実業教育を国家的統制の枠組のなかにはめこんでいくことができたのである.
 さて実業教育費国庫補助法の公布と時を同じくして徒弟学校規程(明治27年(1894)7月25日文部省令第20号)が発布されるにいたる.文部省は同規程を公布するにあたって,明治27年(1894)6月26日,東京府下の工業組合員21名を招き,徒弟学校に関する諮問会を開いている.『実業教育50年史』によれば,来会者14名,文部省より牧野文部次官,木場実業学務局長,寺田勇吉等列席し,つぎの諮問案を提出してそれに対する答申を得ている.この諮問案の(1)から(4)までは,まず従来の年季徒弟奉公の実態を把握し,さらに(5)から(9)にかけて徒弟学校に対する業界の要望を検討しようとしている.
 (1)工業中徒弟または幼工を使用するの習慣なきものありや
 (答申)徒弟を使用するの習慣は自ら存する事なれども業務の種類及び家風に依りて一定したるものなし
 (2)徒弟たる者の年齢は大凡幾歳より幾歳に至るや
 (答申)徒弟とは大体12歳より20歳以内のものを称せり
 (3)徒弟に職業を教ふるの順序は如何
 (答申)職業の順序は当人の賢愚により遅速あれども,尋常の順序は自ら存することなり
 (4)徒弟をして尋常小学校卒業の学力ある者と否らざる者とは職業上如何なる優劣便益の差あるや
 (答申)尋常小学校を卒業したるものと否とは大に事物の理解及入門進歩の遅速等に就いて差別あり,現に活版業徒弟の如きは大に懸隔あるものとす
 (5)学校を設けて徒弟及幼工に科学的の教育を施す必要ありや
 (答申)勿論当業者の希望する処なれども,去り迚従前〓失敗せし如く徒らに高尚に過ぎたる科学を教へ,生徒は之を消化するに苦しむの余り肝腎なる徒弟の業を等閑にするの弊に陥らざらしめんことを望む
 (6)学校を設けて徒弟及幼工に実地の作業を授くるの必要ありや
 (答申)徒弟は既に実地の作業を教習するものたり,殊更に学校教育を為すの必要なし
 (7)徒弟及幼工には読書,算筆の如き普通教育を有するもの少なきや,果して然らば学校に於て其教育を受けしむる必要ありや
 (答申)普通の教育とは如何なる程度なるかを知るに苦しむといへども,今日の徒弟は大抵尋常小学校位の業を終へたるもの多し,尚ほ進んで,高等全科を卒業せば是上なきことならん
 (8)以上必要ありとなす学校の教授の時間,如何なる時限に於て幾時間修業せしむるを得るや
 (答申)時間は本業の教習を妨げざる範囲に於て執らざるべからざるを以て夜間2時間位を適当とす
 (9)工業に必要なる学校を設立するものとせば,各工業者は其の徒弟をして進んで通学せしむべきや
 (答申)今日の児童にして学齢に達すれば,小学校に入らしむること殆ど国民の義務とまで為り居るに拘はらず貧苦其他の原因よりして自家最愛の児童さへ入学せしむるを得ざるものさへ多きに,進んで徒弟を通学せしむることは時間の点に於て,営業利益の点に於て如何あるべきや,世の発達するに従ひ自ら学問の必要を感ずる故に,漸次徒弟の学力を必要とするものの増加するは疑もなきことなれば,今日の処にては確く保証し難し
 上のように,文部省諮問に対する業界の答申は,徒弟学校設置に対して消極的態度を示している.当時の伝統工業においては年季徒弟奉公による低廉な労働力を使用することができ,そのことによって自己の存在を危うく確保できた業者にとっては,徒弟学校の設立は必ずしも好ましいものではなかった.このように業界の積極的賛同を得ることなく出発した徒弟学校は,その規程のなかで業界の意向に妥協していこうとする傾向を示している.それは徒弟学校規程のつぎのような諸規程の弾力性のなかに認められる.
 まず入学資格について同規程の第2条は,「年齢12年以上及尋常小学校卒業以上ニ於テ之ヲ定ムヘシ」として,その原則を示しながら,他方,「但尋常小学校卒業ノ者ニアラサルモ特ニ学校長ノ許可ヲ得テ入学スルコトヲ得」との例外規程が示されている.そして尋常小学校を卒業しないで入学したものに対しては,読書,習字,作文等の初等普通教育を併用する旨を第6条で規定している.ここでは前述の手島精一の所説である第一種徒弟学校,および第二種徒弟学校が同規程のなかで実現されていることを知ることができる.したがってこのことは,徒弟学校が基本的には下級工業学校として法的に位置づけられながらも,その教育内容において,初等普通教育を併用するという未分化な状態におかれており,この状態は当時の業界の実態に対応していることを意味する.また設置規定においては,「徒弟学校ハ尋常小学校又ハ高等小学校ニ付設スルコトヲ得 此ノ場合ニ於テソノ小学校ノ教授ヲ妨ケサル限ハ校舎及備品器具ヲ使用セシムルコトヲ得」(第3条)とし,修業年限は「6個月以上4個年以下」(第7条)で,授業の時期は「土地ノ状況ニ応シ季節ヲ限ル」(第9条)ことができるばかりでなく,「日曜日又ハ夜間タリトモ便宜教授時間ヲ設ケルコトヲ得」(第8条)として,設置,修業年限,授業の時期等に大幅な伸縮性をもたせている.このような伸縮性は,手島精一の「意見書」にみられたパートタイムの職工補習学校,ないし実業補習学校までも徒弟学校のなかに含むこととなり,徒弟学校と補習学校との識別を不明確にしている.そこで同規程省令説明において,「徒弟学校ハ職工タルニ必要ナル…職業教科ヲ授クル」ものであり,これに反し,補習学校は「小学校教育ヲ補習セシメ且実業ノ思想ヲ与へ又ハ準備ノ実業教育ヲ授クル」ものであるとして,両者の区別を明示しなければならなかった.そして徒弟学校において小学校教育(初等普通教育)を授ける理由は,「貧人ノ子弟小学ニ入ルコト能ハスシテ賃工トナリ労働ニ従事スルモノ」ないし小学校に入学できずに「一家生計ノ負担ニ急ナル多数ノ少年」のために設けられたものであって,これが徒弟学校本来の在り方ではなかったのである.当時実業界には,前述の答申にみられたように,「貧苦其他の原因よりして自家最愛の児童さへ(小学校)に入学せしむるを得ざるもの」が多数を占めている現状に鑑み,「夜学又ハ他ノ慈恵ノ方法」でもって,徒弟学校においても初等普通教育を授ける必要があったのである.
 つぎに徒弟学校の教科目については,「修身,算術,幾何,物理,化学,図画及職業ニ直接ノ関係アル諸教科目並実習」(第4条第1項)を課し,第4条第2項において「前項ノ教科目ハ修身ヲ除ク外学校長ニ於テ便宜取捨選択シ又ハ随意科トスルコトヲ得」として,修身以外の教科はすべて学校長の自由裁量に委ねられている.近代的職工養成においては,特に実習の整備が重視されねばならぬのであるが,「実習ハ設備上又ハソノ他ノ関係ニ依リ・・・之ヲ欠クコトヲ得」るとしている.これに関する省令説明においては,「設置ノ要スル所ハ地方ノ負担ニ堪ヘザルモノ少カラサルヘク又或ル工業ノ種類ニ依リ,職工ノ伴侶ニ入リ労働スルノ習慣ハ必シモ之ヲ学校ニ移スノ必要」がないので,この場合には実習を欠くことができるとしている.「職工ノ伴侶ニ入リ労働スルノ習慣」とは,いうまでもなく年季徒弟奉公を指しているので,徒弟学校における実習は徒弟奉公で代用することができることになる.ここで従来の年季徒弟制は,法的に公認されているといわなければならない.
 以上のような徒弟学校における前近代的性格の温存は,その教科目である「修身」のなかにおいても認められる.前述のごとく,徒弟学校の教科目は,校長の裁量によって大幅に変えられるにもかかわらず,ひとり修身のみはその例外として規定されていた.これに関する省令説明において,「徒弟学校ニ普通科ヲ授ケス 而シテ独リ修身ヲ必修科トスルモノハ凡百ノ少年教育ハ総テ修身ヲ本トスレハナリ」として,修身の重要性が強調され,さらに「徒弟学校ニ於テ教科用図書ヲ用フル場合ニハ,修身,読書,習字ニ係ルモノハ尋常小学校補習科又ハ実業補習学校用トシテ」(規程第11条)使用しなければならぬとされている.すでに小学校の教科用図書は,小学校令(明治23年(1890)勅令第215号)において,文部大臣の検定を経たものを使用しなければならず,また小学校教則大綱(明治24年(1891)省令第11号)によって修身の具体的内容が明示されている.それ故,小学校教則大綱に示された修身の内容が,そのまま徒弟学校においても教授されていき,それは小学校における修身教育の周知徹底であったのである.このことは,伝統工業に依存する親方・徒弟の擬制的親子関係を,修身教育のプリズムを通すことによって,やがて家族国家観のもとに再編成していくものとして注目されねばならぬ.またこのことは,年季徒弟制のなかに存する身分的秩序を国家的に承認し,保障したことを意味する.殖産興業のスローガンのもとに,伝統工業近代化の礎石として,近代的職工育成のために制度化された徒弟学校は,年季徒弟制のもつ前近代的要因をそのなかに温存し,さらに,それを修身教育によって補強していくという,矛盾的性格をになっていたということができる.
第2表 全国徒弟学校数および生徒数の変動
 さて徒弟学校規程に示された国家的意図は,伝統工業(旧来遺伝ノ業)の近代化はもちろんのことであったが,輸入工業をも含めて,この両者にまたがる職工育成にあった.しかし,明治30年(1897)以降の日本資本主義の発展に対応して,次第に重化学工業に対応していく徒弟学校が重視されてくることになる.明治32年(1899)の実業学校令(同年2月7日勅令第29号)はその第2条で徒弟学校を工業学校の一種と規定して,近代工業への職工供給という徒弟学校の性格を濃厚に打ち出していった.そして明治40年(1907)以降の日本独占資本の完成期を通じて,実業教育費国庫補助法による徒弟学校の急増をみるのであるが(第2表参照),それらの多くは近代工業に対応する徒弟学校か,もしくは女子実業学校であって,伝統工業に対応する徒弟学校は次第に影をうすくしていった.大正9年(1920),文部省令第2号,工業学校規程の改正を機にして,徒弟学校は廃止され,近代工業に対応してきた徒弟学校はここで工業学校へと上昇し,伝統工業のみに固執してきたほとんどの徒弟学校は廃校の憂目にあわざるを得なかったのである.ここでその機械化を貫徹できなかった伝統工業は零細企業として,その存続を維持していくために長く年季徒弟制を必要としていったのである.

[注]
1)佐藤守,佐田玄治,羽田新,板垣幹男共著『徒弟教育の研究』,御茶の水書房,昭和37年,21-49ページ.
2)文部省実業学務局『実業教育五十年史』,実業教育五十周年記念,昭和9年,111-13ページ.
『東京工業大学六十年史』,東京工業大学,昭和15年,51-55ページ.
3)教育史編纂会『明治以降教育制度発達史』第2巻,龍吟社,昭和13年,482-83ページ.
4)浜尾新「手島君の功績」『工業生活』第2巻第1号,大正5年.
5)前掲『東京工業大学六十年史』,65ページ.
6)明治19年1月27日付官報記事.
7)明治27年4月14日付官報記事.
8)前掲『東京工業大学六十年史』,518-20ページ.
9)明治6年(1873)ウィーン万国博覧会,明治9年(1876)フィラデルフィア万国博覧会をはじめ明治18年(1885)に至るまで前後20回にわたって海外における博覧会に参加し,日本品の宣伝と生産技術の輸入につとめているし,さらに明治10年
(1877),内国勧業博覧会の第1回を上野公園に開催し,次々に各地で勧業博覧会を催していった.
10)土屋喬雄『続日本経済史概要』,岩波書店,昭和14年.
11)明治26年7月27日付官報,学事欄.
12)明治19年8月,雑誌『教育時論』掲載論文「実業教育の振興」手島精一(1849-1918).『実業教育五十年史』,218-20ページ.なお手島は明治9年(1876),東京開成学校製作学教場事務取扱,明治23年(1890)より東京職工学校(東京工業学校)長,さらに文部省普通学務局長,実業教育局長を経て明治32年(1899),再び東京工業学校長となり,さらに東京高等工業学校長として大正5年(1916)までその職にあった.明治期における工業教育につくした功績は大きく,工業教育の父と称される所以である.
13)明治10年(1877)代までにおける軍事工業としては,東京砲兵工廠,大阪砲兵工廠,火薬製造所(東京板橋,目黒など),横須賀造船所,長崎造船所,兵庫造船所,石川島造船所等があげられる.これらの大部分は幕末における各藩の軍事工場を接収して官営としたものである.繊維工業としては,明治3年(1870)の富岡模範製糸工場をはじめとして,鹿児島紡績所,堺紡績所ほか愛知,広島等の十カ所に紡績工揚が官営として設立された.これらはすべて明治以降,次第に民間に払下げられていったことは前節において述べたとおりである.
14)明治文化資料叢書刊行会『明治文化資料叢書』第8巻・教育篇,風間書房,昭和36年,228-32ページ・前掲『実業教育五十年史』,242-45ページ.
15)第1図は『明治以降教育制度発達史』第2巻・学校統計,126-27および635-36ページ.さらに『文部省第21年報』「学齢児童百中修学累年比較図」を参照して作成した.
16)前掲『明治文化資料叢書』第8巻・教育篇.232ページ,十七「佐久間貞一氏ノ意見」を参照.
17)前掲『実業教育五十年史』,247ページ.
[佐藤守]