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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第2章:徒弟学校の実態(序)
著者名: 佐藤 守
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第2章:徒弟学校の実態(序)

 明治政府の殖産興業策の一環として生み出された徒弟学校が,地方的にいかなる発現形態をとり,どのような展開過程をたどっていったのかが本章における研究課題である.前章における手島精一の所説にしたがえば,徒弟学校にはつぎの二種類があった.すなわち,特殊工業地(産地)を中心にして設立し,伝統工業の近代化に資していこうとする産地型徒弟学校と,人口万をもって算する市街地(都市)に開設して,間接的に国内産業の発展に貢献していこうとする都市型徒弟学校とである.これは徒弟学校設立の動機から分類したもので,前者は主として伝統工業に対応し,後者は輸入工業に対応していく傾向をになっている.さらに手島によって,徒弟学校の教科内容の角度から,第一種徒弟学校は本来の職工養成を主眼とするに反し,第二種徒弟学校は,尋常小学校の補習教育的性格をになうものであった.このように分類された徒弟学校のいずれの形態をとり,いかなる変動をたどるのかは,各地方の経済的政治的状況,産業社会の諸条件によって規定されていくと考えられる.ところで,手島精一が分類した徒弟学校を,いま変動の視点から捉えると,「都市型プラス第一種」は上昇型徒弟学校,「産地型プラス第二種」は下降型徒弟学校として類型化することができる.前者はやがて工業学校規程(明治32年(1899)2月25日文部省令第8号)にもとづいて甲種工業学校へと上昇していくのに反して,後者は実業補習学校規程(明治26年(1893)11月20日文部省令第16号)にもとづく工業補習学校になるか,もしくは廃校になっていくことになる.
 明治23年(1890)の小学校令における徒弟学校は小学校の一種であったが,明治27年(1894)の徒弟学校規程においては,原則的には小学校の種類であり
ながらも下級工業学校としての性格を帯びていた.しかし,同規程においては明確に工業学校として法的に根拠づけられたものではなかったが,明治32年(1899)の実業学校令第2条において,徒弟学校は工業学校の種類と規定された.ここで工業学校には,工業学校規程によるものと,徒弟学校規程に準拠するものとの二種類が存することになったのである.工業学校規程による工業学校は,徒弟学校規程によるものに比して,その入学資格,修業年限,教科内容等において程度が高く,近代工業への職工供給がその主眼とされている.それに反して,徒弟学校規程による徒弟学校(工業学校)は,伝統工業に対応し,専らその近代化の役割をになうことになったのである.しかし,明治40年(1907)以降の日本資本主義爛熟期を迎えるにつれて,次第に伝統工業は国家の工業教育振興策の第一線から脱落していくことになる.このような国策の転換に対応して,近代工業が要請する教科内容をとり入れ,伝統工業から脱皮していく徒弟学校は,大正9年(1920)の工業学校規程の改正を契機とする徒弟学校規程の廃止によって廃校されるか,もしくは,工業補習学校として下降していかざるを得なかった.
 ここで,前者を上昇型徒弟学校,後者を下降型徒弟学校として類型づけることができ,さらに上昇型は前述のごとく,「都市型プラス第一種」徒弟学校,ないし「産地型プラス第一種」徒弟学校として,また下降型は「産地型プラス第二種」徒弟学校としての性格をになっているといえよう.本章の事例研究においては,すべて上昇型徒弟学校をとりあげて検討していくことにする.
[佐藤 守]