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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第2章:A 仙台市徒弟実業学校
著者名: 佐藤 守
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第2章:A 仙台市徒弟実業学校

Ⅰ 学校設立の経過
 明治28年(1895)10月発行の『宮城県教育雑誌』上において次のような記事がみられるという1).すなわち,明治27年(1894)施行の「実業教育国庫補助法」の適用によって設立された実業学校が全国的に37校に達しているのに,宮城県においては,1校もないのは慨嘆の至りであると記されている.その後,同じような論説が同誌上で繰り返されていくうちに,実業教育への県民の関心が次第に高まっていくことになった.
 このような気運が,仙台市徒弟実業学校の開設をもたらしたのであるが,その実現には数多くの困難があり,それを克服していくためには先見性をもったリーダーの尽力を必要とした.当時の仙台市長・遠藤庸治,秋田師範学校訓導・横沢多利吉などは,そのリーダーシップを果たしたといえる.
 仙台市長・遠藤庸治は,宮城県会議長を兼ねて政界の第一線で活躍していたが,特に文教面での功績が大きい.明治中期以降における当地方の文教施策の殆どは,彼の手によって推しすすめられていったといわれている.仙台市に徒弟実業学校が設立されたのも,彼の英断と尽力によるものである.他方,仙台市出身の横沢多利吉は,全国職工学校の教員養成を目的とした東京工業学校出身の技術畑の人物であったが,秋田師範学校在職中の明治27年(1894)9月,郷土仙台市の商工業不振を憂い,「仙台市商工業の振興に就いて」と題する意見書を遠藤市長に提出している.この意見書によれば,仙台市を長く旧態にとどめておくことなく,速やかに商工都市たらしむる施設をなすの急務なる所以を説き,その方策の第一歩として,とりあえず簡易工業学校,および簡易商業学校を設置すべきことを建議している.
 遠藤市長は,市議会の中に多くの反対論があったにも拘らず,この建議をとり入れ,明治28年(1895)度の市会で「仙台市徒弟実業学校設置ノ件」(明治29年(1896)3月25日市会)を可決,同29年9月1日,仙台市上杉山通尋常小学校内に仮教場を設けて,仙台市徒弟実業学校は発足した.仙台市議会に提出された同校設立理由書2)は次のとおりである.
仙台市徒弟実業学校設立理由書
 熟仙台市内工業ノ実況ヲ観察スルニ 開明ノ今日 機械的大工業未タ興ラス 従来ノ個人的小工業ニシテ猶見ルヘキモノナシ 之ヲ要スルニ地方概シテ工業思想ハ乏シキニ由ルト雖モ 抑々亦地方職工其人ノ乏シキニ帰因ス試ニ1,2ノ事例ヲ挙クヘシ 近来土木建築ノ事業大ニ起リ官衙学校等新築ノ観ルヘキモノ尠ナカラス 而シテ是等工業ハ概ネ他邦大工職ノ手ニ属シ 地方ノ職工ハ惟其?使ニ供スルノミ 指物職工 金物職工ノ如キ 共ニ意匠陋劣手腕遅鈍ニシテ絶テ其精巧ヲ見ル能ハス 故ニ愛重ノ貴品ハ他方ノ輸入ヲ仰キ 地方ノ製作品ハ僅カニ日常ノ雑具トシテ用ヰルニ過キス 然リ而シテ是等拙劣ノ職工猶本市ノ需要ヲ充タスニ足ラスシテ 漸次其数ヲ減スルノ傾キヲ来セリ 聞クカ如キハ近時職工ノ徒弟タランコトヲ望ムモノ漸々減シタルニ因ルト 顧フニ職工ノ慣習徒弟ノ年限極メテ長シト雖 其実際大半ハ師家ノ雑役ニ服シ 一半ハ現業ニ従事スルモ 教養固ヨリ目的ニ副ハス 故ニ歳月ノ長キニ拘ラス 得ル所ノ技術ハ甚タ短ナリ 会々出藍ノ徒ナキニ非レトモ 這ハ全ク以心ノ伝法独得ノ長技ニシテ教育ノ結果トハ謂フヘカラス又徒弟タラントスルモノハ早ク小学校ノ課程ヲ卒へ少シク事理ヲ解スルノ徒タリ故ニ旧慣ノ徒弟ニ服従スルヲ欲セサルハ自然ノ勢トモ謂フヘク 職工ノ数漸ク其数ヲ減スルニ至ルノ素因モ亦実ニ爰ニ存スルナルヘシ 果シテ然ラハ将来職工ノ訓練ハ何ノ所ニ依ラントスル 惟実業学校アリテ其教養ヲ満タシ併セテ工業発達ノ目的ヲ達スヘシ 是本校ノ設立ヲ要スル所以ナリ
 上記の理由書によれば,一般市民の工業思想の欠如によって機械的大工業の発生がみられないし,その工業思想の欠如は,年季徒弟奉公による職工養成に依存して,個人的小工業の段階にとどまっているからだとしている.すでに尋常小学校の普及しているこんにち,徒弟奉公の衰頽は自然の勢いであるから,これに代わって近代的職工を養成し,もって機械的大工業の発達に寄与していくことが,徒弟実業学校の設立の目的であるとしている.当時仙台市においては,尋常小学校の設立も一段落し,高等小学校の設置に多忙であった.それ故,この時期に徒弟実業学校,簡易商業学校の2校を一時に設立することは,市財政上困難を極めたと考えられる.このような事情を反映して,同校設立案審議の第一次会において,つぎのような同案に対する反対意見が述べられている.
 …本案理由書ヲ見ルニ事実上余儀ナキ精神ハ至極賛成ナルモ女子高等(女子高等小学校)及東六番丁高等校(高等小学校)建設費ノ成立アレバ一時ニ建築スルヲ見合セ1,2年間本案ノ建築ヲ見合セ方可ナラン…(括弧内筆者)
 この反対意見に対する原案賛成意見は,高等小学校は市が全額を支出して建築しなければならないが,徒弟実業学校の場合は国庫補助があるので,その設立は容易であるというものが多かった.特に同校は高等小学校と同種類の学校なので,むしろ徒弟学校設立をもって高等小学校に肩代わりさせるのが得策であるというのである.つぎの一議員の意見はその一例である.
 …蓋シ徒弟実業学校ナルモノハ小学校ト同一ナルモノニシテ…当市ノ高等小学校ヲ奨励スルニ於テハ現時ノ如キ好時期ヲ捨テテ将タ何レノ日ヲ待タントスルカ是レ本員カ実業教育ニ従事スル当市ノ着眼晩シト云フ所以ナリ…
 さらに徒弟学校,商業学校は工業社会,商業社会のみに利あるものであって,市民一般に関係するものとは考えられないとして,反対意見が出されている.これらの学校は,例えば「商業家ニハ概シテ富豪ヲ以テ鳴ル者」が多いので,「其社会ノ人物ヲ養成スルニ市費ニ依拠スルノ如キハ 仙台市商業家ノ不名誉」なので富豪家有志が出資して本案のごとき学校を設立すべし,と主張している.この反対意見に対する他の原案賛成議員はつぎのように反論している.
 …本案ノ如キハ将来市ノ工業商業ノ発達ヲ計ル基源ナレバ 市一般ニ関係スルモノニシテ必然市立トスヘキモノナリ 斯ノ如キ学校ヲ建設スルニ有志ノ寄附ニ依ル如キモノハ全国中見サル処ニテ…職工ト云ヒ商人ト云ヘハ単ニ其当事者ノミヲ指目スルモ工業思想或ハ商業思想ナルモノハ将来市一般ニ関係スルモノニシテ其利益敢テ尠ナカラサルベシ…
 以上のごとく,仙台市徒弟実業学校はその議案審議の過程で,ひとつは高等小学校の役割をもち,さらに他のひとつは工業思想を普及して機械的工業の発展に寄与すべき役割をになわされて可決されたのである.ここで横沢多利吉が初代校長として迎えられ,同校は明治29年(1896)9月1日,開校の運びに至るのである.
第1表 仙台市徒弟実業学校学科課程(明治29年度)

Ⅱ 学科課程
 仙台市徒弟実業学校規定によれば,創立当初の学科は木工科のみで,これを大工,指物の二分科に分けている.補助教科は修身,読書,作文,習字,算術,理科,図画および体操の8科目で,読書,作文,習字は随意科目(選択科目)であった(第1表参照).補助教科のなかで,木工に関係のある図画がとくに重視されている.第1学年前期の実習時間は全時間数の33%に当る16時間であるが,後期になると40%の20時間となり,さらに第2学年の前期は54%の27時間,後期は54%の29時間,第3学年の前期は80%の45時間,後期は83%の50時間と急増している.そして,補助教科は第2学年で,その殆どを終えることになっている.このような実習重視の学科課程は,すぐに現場に役立つ大工,指物師の養成を目指していることを物語っている.修業年限は尋常小学校卒業以上の者をもって入学資格とし,本科3年,現業練習1カ年で,4カ年で卒業させることになっている.ここでは尋常小学校の補習的性格は認められない.生徒定員は大工科80名,指物科40名,計120名で,3年の課程を終えたものには学業終了証書,現業練習を終えたものには職工認定書を与えることにしている.このように同校の学科課程,修業年限,入学資格等からすると,同校は前章で述べた手島精一の所説による第一種都市型徒弟学校として出発したといえる.

Ⅲ 金工科の増設
 当時の宮城県内の近代工業といえば,製糸・紡績などの軽工業が主であったから,蚕糸関係の学科を中心とした養蚕学校の設立が予想されよう.しかし,前述のように,仙台市徒弟実業学校はこのような軽工業を背景にしたものではなくて,木工科だけで出発し,それは大工と指物の二科に分かれたものであった.近代的な機械工業からすると著しくかけ離れた,住宅と家具の手工業従事者,即ち大工と指物師の職人養成機関であったのである.当時はこのような職人に学問は不要であるとする意識が一般的であったし,職人の養成は年季奉公にたよっていたから,そこで当然,業界や小学校教師の反対にあって,入学志願者を募るのに多くの困難を極めた.発足当初の同校に対する批判および生徒
募集の苦心について,仙台市徒弟実業学校当局者は次のような回顧録を残している3).
 「当時は工業教育に対する理解一般に薄かりしは予想外なりしも 伊達六十二万石の城下町たる本市の中堅階級は概ね藩政時代の永き伝統に育まれたる旧士族にして この人々が徒弟養成の如きは学校と称する機関の関与すべき処に非ざるが如く思ひ 本校の権威を傷つけその存続を脅かしたる事尠なからざるものあり 更に工業の当事者は技能に関する教育を机上に於て能く為し得べきものかと冷笑せるに加へて 小学校の教員諸氏亦之を普通教育の侵害なりと叫び 本校の教育に猛烈なる反対気勢を示したり その理由とする所は(一)数時間に亘る労働を課する教育は年齢僅か12歳を超ゆる小児の到底耐え得るものに非ずとするのみならず (二)完全なる次代の市民を作らんとせば先づ国民教育の徹底を期せざるべからず 従ってその為めに義務教育費として市の支弁すべきもの将来多く益々存在すべきに その未だ全からざるに先だち多額の市費を徒弟養成てふ如何はしき教育の為に支出するが如きは市の小学校教育を危殆に瀕せしむるものなりとす.(三)更に技術の修得は所謂紳士以外の業なりとするにあった.この故を以て入学志願者を得るは極めて困難にして 市当局を初め関係者を歴訪して子弟の入学を勧誘せるは例年の行事となりき.当時学校長を初め部下職員は勿論時に仙台市長までが握飯を腰に結び付け草鞋がけにて入学勧誘の為心当りの方面を歴訪したる事実は恐らく今日に於て想像も及ばざる処なるべし.生徒募集に関しては斯程の苦心を重ねたるにも不拘 小学校側は右の如き見解の下に児童を教育しつつありしを以て 勧誘幸に功を奏し その稀に本校へ入学を志願するものも素質概ね良好ならず 教育の効果を挙ぐるには頗る困難を感じたり…」
 以上の回顧録にみられるように,業界では,職人養成は伝統的な年季徒弟奉公にたよっていたから,学校教育の形態をとる職人養成を冷笑し,他方,小学校教師はいかがわしい徒弟教育に教育費を支出して普通教育を侵害するものであるとして,徒弟実業学校に激しく反対した様子がうかがえる.このような悪条件にもかかわらず,市長・遠藤庸治,校長・横沢多利吉を中心にした学校関係者の努力と,国庫補助金(五カ年間九百円ずつ交付)の梃入れとによって,独立校舎を新築して明治32年(1899)3月,その落成式を挙げるまでにこぎつけた.そしてさらに,同年4月,木工科のほかに金工科を増設し,金工場を新築する運びになっていった.同年4月1日,「徒弟ノ名称当世ニ適合セザルノ景況アルヲ以テ」学校名称変更を出願し,文部省告示第4号をもって仙台市職工学校と改称することになる.しかし間もなく実業学校令の公布(明治32年(1899)4月24日勅令第29号)を機として,同年4月24日付で徒弟学校規程によって仙台市工業学校と校名を変更し,更に明治34年(1901)4月29日付で仙台市立仙台工業学校と改称している.ここで仙台市徒弟実業学校はいち早く名実ともに伝統工業から手をひき,下級工業学校として専ら近代工業への職工供給をその任務とするに至るのである・明治32年(1899)2月,仙台市議会における次の金工科増設に関する討論4)は,徒弟実業学校から工業学校へと質的に転換していった事情を物語っている.
金工科増設理由書
 曩ニ実業教育ノ必要ヲ認メ徒弟実業学校ヲ設立シ国庫ヨリ経常費1ケ年900円ツツ補助ヲ得…先ツ木工科ヲ課シ来リタルニ世運ノ進歩ニ伴ヒ金工ノ今日ニ必要ナルヲ認メ今ニシテ金工生徒ヲ養成スルニ非ンバ他日事業ノ発展ヲ障害スルコト僅少ニアラザルベキヲ以テ金工科ヲ併設スルノ計画ヲナシ…
 上記の理由書に対する質疑において一議員は,「同学校ハ之ヲ器械完備ノ大々的機械学校トナスニアルカ…又単ニ模範的ノ職工学校トナスニアルカ」と質問している.これに対して市当局者は,「鍛冶鋳物仕上及板金等ノ業務ラ授ケントスルモノニシテ所謂模範的程度」の職工養成が同校の目的であって,さらに「世運ノ進歩ニ伴ヒ機械工手ノ生徒ヲモ養成」し,あいまって「工業技術ノ思想ヲ養成」するものであると答弁している.この答弁に対して他の一議員はつぎの理由で金工科増設に反対を唱えている.
 「…金工ハ木工ト違ヒ卒業ノ後モ容易ニ個人ノ財本ヲ以テ着手スル能ハサルカ故ニ 是等ノ卒業生徒ハ必スヤ衣食ノ為メニ会社或ハ工場ノ職工トナラサルヘカラザラン 然リト雖モ仙台ノ地未タ是等ノ職人ヲ使役スヘキ工場ナキヲ以テ勢ヒ他郷ニ出稼スルノ止ムヲ得サルニ至ル・・・・・・左レハ切角巨額ノ市費ヲ抛チテ幾多金工ノ徒弟ヲ養成シタリシトテ市ノ為メニ益スル所少カサルヘキカ 這般ノ事業ハ之ヲ一市ノ経済ニ拠ランヨリハ寧ロ管内ノ事業トスルノ当然ナルヲ信シテ止マサル程ナリ…」
 木工科であれば,比較的仙台市の利益になると考えられるのであるが,金工科に応ずる大工場(近代工業)を欠いている当市にとっては,金工科増設はなんら仙台市に貢献するところがないと主張し,かくのごときは「管内ノ事業」(宮城県内の事業)とすべきであるとして反対論を展開している.これに対して市当局は,まず国庫補助があるので市費を要するは僅少である旨を述べ,「是等器械的職工ヲ養成スルナクンハ 将来ノ工業社会ニ向ツテ一般工業者ノ立脚地ヲ失ハシムルノミナラス 全市工業ノ前途ニ於テ影響少ナカラサルノミナラス 遂ニハ是等ノ場面ニ向ツテ策ノ施スヘキモノナキニ至ラン」として反論している.すなわち金工科の増設は「世運ノ進歩」に伴って「器械的職工」を養成するにあって,もはやここには伝統工業は眼中になく,主として近代工業への職工供給に同校の任務があることを明らかにしている.ここで明治32年(1899)4月,校則を改正して,その入学資格を「年齢満12歳以上ニシテ高等小学校第2学年修業以上ノ者」にし,生徒定員を木工100名,金工100名の200名に増員することになる.そして金工科はさらに板金工,鋳工,鍛工,仕上工の4分科に分けることとなった.この年代における学科課程は第2表のごとくである.これを10年前の学科課程(第1表)と比較してみると,実習は学年が進むにつれて増加し,第2学年からそれが過半数となり,第4学年では,修身を除いてすべてが実習であるという点では基本的な変化は認められない.しかし,補助教科の算術,理科,図画の内容が大幅に改正されていった模様である.このことは,教科内容の面から近代的な器械的職工への脱皮を図ろうとしたものと考えられる.
第2表 市立仙台工業学校学科課程(明治39年度)

Ⅳ 学校経営の概況
 次に教職員,生徒,予算面の学校経営の概況についてみることにしよう.
(1)教 職 員
 同校発足当初の教職員は第3表のとおりで4名であった.校長・横沢多利吉は東京工業学校出身で,手島精一の愛弟子であり,訓導を兼ねて6学科を兼担している.さらに秋保安治も東京工業学校付設の工業教員養成所出身で4学科を兼担している.このように,同校は手島精一の薫陶をうけた両名によって実質的に運営されていったものと考えられる.さらに,この両名のほかに第2師団砲架職工の経歴をもつ助手が実習を担当している.
第3表 仙台市徒弟実業学校教職員(明治29年度)
第4表 仙台市工業学校教職員(明治32年度)
 同校発足後4年にして金工科を増設した明治32年(1899)度の教職員(第4表)をみると,その充実ぶりに驚かされる.すでに初代校長・横沢多利吉は恩師である当時の東京高等工業学校長・手島精一に招聘されて同校助教授として明治32年(1899)3月末に転任している.横沢のあとをうけて,第2代校長は同年3月から,第3表にみられる秋保安治が就任した.そして東京工業学校工業教員養成所卒業の2名を教諭として迎えることになった.このように,手島精一の薫陶をうけたメンバーが同校教諭として学校経営にその手腕を発揮していくことになったのである.実習については,地元の従来の職工ないし同校卒業生が,助教諭,助手,助手見習といった資格で分担している.いま同校教職員数を徒弟学校の生みの親である手島精一が示した「徒弟学校施設ニ関スル意見書」5)のなかの職員数の基準と比較してみると,仙台市工業学校ははるかにその基準をうわまわっている.このことからも,同校は創立後間もなく下級工業学校から中等工業学校へと質的に転換しようとする強い意志を読みとることができる.
(2)生徒の出身階層・卒業生の動向等
 明治29年(1896)度の同校第1回入学生徒は33名であって,その学歴,年齢および父兄の職業は第5表のとおりである6).
第5表 仙台徒弟実業学校第1回入学生徒の学歴・年齢・父兄の職業
 当時の小学校の修業年限は尋常科4年,高等科4年の8カ年であったが,第5表にみられるように,尋常科4年を卒業した者4名,高等科の各学年在学中の者16名,高等科4年を卒業した者13名というように,生徒の学歴はまちまちであり,したがって,その年齢もおよそ4歳程度の差がみられた.このような生徒の学歴差,年齢差のために,学級経営は困難を極めたのであったが,『仙台工業高校七十年史』によれば,「級ニ級長副級長ヲ置キテ其部下ヲ統率兼ネテ級ノ制裁ニヨリ自ラ治ムルノ法ヲ設ケタルヲ以テ大ニ管理ノ労ヲ省クヲ得タリ」としている.さらに,「生徒訓練法は親父主義ヲトリ生徒ハ之レ子ノ如ク教師ハ厳父ノ如シ是ヲ以テ生徒ノ其教師ノ命ニ従フコト子ノ親ノ命ニ走ルが如ク世評元ヨリ特ニ足ラザレドモ小学校ニ於テ放意ノ生徒トシテ見放サレタルモノノ本校ニ入学以来殆ト別人ノ如ク律義正直ニナレリト蓋シ今ノ日ノ一般学校ニ於ケル如キ生徒ノ取扱ヨリ寧ロ之ヲ子弟ノ如ク徒弟ノ如ク取扱フテ却テ訓育ノ効ヲ奏スベキガ如シ」7)と報告している.このように,多様な生徒をかかえた学級経営においては,級長,副級長は,いわば伝統的な年季徒弟奉公における兄弟子として,その他一般の弟弟子のうえに君臨して学級の秩序を保ち,加えて教師と生徒との関係は親方と徒弟との伝統的な手法を用いることによって,その教育効果をはかろうとしたことがうかがえる.
第6表 族別生徒数(明治31年度)
第7表 年度別・市郡別入学志願者・合格者数
 次に父兄の職業をみると,大工,指物師等の工業が全体の67%を占め,その他,官吏,農業,商業等の職業が3,4名程度でしかなかった.このように,同校の教育は伝統的な年季徒弟奉公による大工,指物師等の職人養成を学校制度の中で近代的に再編成していこうとする意図が明らかである.同校の明治31年(1898)度学事調によると,族別生徒数は第6表のとおりである.同表によると,各学年にわたって,平民が60%強から70%程度,士族が30%から40%弱となっている.このことから同校入学生徒の出身階層の大部分は平民層であり,加えて藩政期における下級武士階層の子弟によって占められていたといえよう.
 当時の各年度別市郡別入学志願者および合格者数をみると,第7表のとおりである.明治30年(1897)度から明治35年(1902)度にわたる6カ年間の志願者数および合格者数をみると,志願者のほとんどは合格しており,6カ年間の平均をみると合格率は91%にのぼっている.生徒の出身地域をみると,志願者,合格者ともに,6カ年平均で仙台市出身者が77%,郡部出身者が23%となっている.そして,年を経る毎に,志願者数の漸増がみられ,同校の存在が次第に一般に認められていったことを物語っている.
第8表 卒業生の動向
 次に同校の卒業生の動向についてみよう(第8表).木工,金工の職工として「県内において斯業に従事している者」の数が全体の過半数の60%を占め,さらに「県外において斯業に従事している者」の数が18%強にのぼり,この両者を合わせると,大部分の者が職工として働いていることになる.進学者は木工,金工あわせて僅か5名にすぎない.このように,同校卒業生の大部分は職工として斯業に従事していったといえる.この点からのみ考えると,伝統的な年季徒弟奉公による職工養成と結果として全く同様であるとも理解できよう.しかし,同校卒業生は従来の職工のリーダーとして,斯業の近代化に仕えていったと考えられる.この事実を証明する確実な資料を得ることは出来ないが,いま,同校「同窓会名簿」8)を調べてみると,明治33年(1900)から大正9年(1920)までの卒業生の勤務先名として,設計事務所,木工所,建築設計管理事務所,建設事務所等の名称が散見される.このことは,同校卒業生がやがて斯業のリーダーとして,これら事務所の経営者として上昇していった傍証となるであろう.
(3) 中途退学者について
 つぎに生徒数の推移をみると(第9表),同校発足当初の2,3年を除き,木工科,金工科ともに生徒定員を充足していない.強いて言えば,明治37年(1904)度以降,木工科の生徒定員に対して金工科のそれぞれの充足度が高いといえる.
第9表 生徒数の推移
さらに明治末期以降,両科の定員充足度が相対的に上昇していく傾向がみられる.このことは,日清,日露の両戦役を契機として日本の産業の基礎が築かれ,明治の末期より大正期に至って近代的な工業の発達が急速に上昇していった結果,実業教育に対する社会の関心が深まっていったことを示すものといえよう.このような一般的傾向に対応して同校は,すでに述べたように,明治32年(1899),金工科を増設し,加えて従来の木工科の大工,指物の両分科を建築分科,指物分科として時代に対応していったのであったが,さらに明治44年(1911)には木工科を建築科,家具科の2分科に改称して教育内容の革新に努めていったのであった.
 生徒定員が充足出来なかったことは,必ずしも入学許可者が定員を下回っていたことを意味するものではない.例えば『仙台工業高校七十年史』の明治39年(1906)度摘録によれば,同年度入学志願者は木工科41名,金工科124名にも達し,それぞれ定員25名に対して木工科1.6倍,金工科5倍となっている.そして入学許可者は,それぞれ定員を上回って木工科26名,金工科28名であった.しかし,第10表によって同年度の生徒数をみると,学年を上昇していくにしたがって定員充足の比率が低下しているのをみることができる.
第10表 生徒数(明治39年度)
このことは学年を経るにしたがって中途退学者が増加していることを示すものである.事実,同年度における中途退学者は木工科27名,金工科18名,計45名という大量の数にのぼり,全定員に対する比率は22.5%に達している.この年度の1年前の明治38年(1905)度の場合をみても中途退学者は木工科11名,金工科8名,計19名を数えることができる.中途退学者が多い事情について,同校関係者は次のように解説している.
 「半途退学する者の事情について,本年度ばかりでなく,今までに半途退学者が多かったことは,当時,学校の最も憂慮したことであった.これらの者はいずれも貧家に成長し,学業中途で家計の不如意から,他家に奉公または雇傭人などになって一家の生活のため働かなければならなかったわけである」9)
 この解説でもわかるように,学業半ばにして家計を支えるために,年季徒弟奉公として親方・職人の家に住み込む者がいかに多かったかを推測することができる.このような状況をふまえて,同校は明治39年(1906)10月22日から工業補習夜学校を開設していくことになった.同夜学校は1週月,水,金曜日の3日間,午後7時から2,3時間にわたって,主として大工徒弟を対象にして建築学上の技術修得を中心にして開設され,数年間継続されていった.いわば,この夜学校は中途退学者救済のためのものではあったが,次第に受講者を拡大していき,それは後述するように,大正4年(1915)の市立仙台工業補習学校の併設に発展していくことになったのである.
(4)予算について
 同校の明治30年(1897)度における「学事調」によると,同年度(明治30年4月~明治31年3月)の経費予算10)は次のとおりである.
・収入の部 2689円15銭7厘
内訳 1)授業料60人分,1人当り月25銭(10ヵ月分) 144円
   2)徒弟製作品其他売却代 95円
   3)国庫補助金 1200円
   4)市費 1250円15銭7厘
・支出の部 2575円15銭7厘
内訳 1)教員給料 1392円
   2)書記給料 96円
   3)雑給料 55円84銭
   4)需用費 927円80銭
   5)修繕費 50円91銭7厘
   6)雑費 43円
   7)恩給基金 9円60銭
 まず,収入の部の授業料をみると,全収入の5%余であってとるに足らない.月1人当りの授業料25銭から計算すると,60人分で10ヵ月分150円となるのであるが,収入は6円不足であるから,1人当りの授業料にすると24ヵ月分不足となっている.このことは,資力のない者は半減の免除措置をとり,1家族から生徒が2名,小学校に2名以上の通学者がある者は授業料を3割引きにしたことによるものである.次に生徒の製作品の売却代が95円を占め全収入の3.5%となっている.国費補助金と市費がほぼ同額で,全収入に占める割合は国庫補助金44.6%,市費が46.5%となっている.このように国庫補助金の全収入に占める比率がいかに大きいかを物語っているといえよう.次に支出の部をみると,教員給料,書記給料,雑給費,恩給基金等,給料関係の支出が全体の60%を超え,教材費(需用費),修繕費等は40%弱である.
 明治32年(1899)3月,仙台市議会提出の明治33年(1900)度同校予算中,歳入の部は次のとおりである.
1)授業料 264円(5.9%)
2)雑収入(工作品売却代)400円(8.9%)
3)国庫交付金 1400円(31.1%)
4)県交付金 1000円(22.2%)
5)市費 1440円41銭(31.9%)
計 4504円41銭(100%)
前述のように,同校はこの年度に木工科に加えて金工科を増設することになったので,明治33年(1900)度の歳入と明治30年(1897)度のそれを比較してみると,およそ1.8倍の歳入増となっている.ここで特に目につくことは,県交
付金があらたにつけ加えられ,それに国庫交付金を加えると,全予算の過半数が交付金で占められることになり,市費の支出は全体の3割強でしかないことである.さらに授業料収入は,全収入の僅か5.9%であって,生徒の製作した工作品売却代の8.9%を下まわっていることである.この同校の歳入について,手島精一の「徒弟学校施設ニ関スル意見書」5)の中で示した木工・金工両科を含む徒弟学校の1カ年当り基準経費2996円80銭に比較してみると,およそ1.5倍になっている.この事実は,徒弟学校規程にもとづいて創設された同校が,すでにこの時期に金工科を増設することによって,明治32年(1899)4月1日施行の実業学校令(勅令第29号),および同年の工業学校規程(文部省令第8号)による工業学校へと実質的に近づきつつあったことを意味するものといえよう.

Ⅴ 県立移管への動き
 創立後間もなく,下級工業学校から中等工業学校へと質的転換を示しつつあった同校は,さらに市立から県立となり,染織科を増設することによって,名実ともに工業学校規程による工業学校へと上昇しようとするのである。明治33年(1900)4月19日付で,仙台商業会議所会頭・遠藤敬止から,宮城県知事・野村政明にあてて,つぎのように,「仙台市工業学校ヲ県立トシ染織ノ二科ヲ増設セラレンコトヲ請ノ建議」が提出された.
 「…今ヤ貴庁ニ於テ過ル明治三十一年以来機業奨励ノ効果ト調査トニ因リ着々経営 本年度ニ於テハ一織物買次所 十生産販売所ノ設立ヲ勧奨セラルルト同時ニ染織試験所ヲ設ケ学理応用ノ途ヲ開カレントス コレ則チ染織智識ノ速成ヲ企図セラルル一方便ニシテ目下ノ場合誠ニ適当ノ順序ナリト思考ス 然レドモ放眸一番我国斯業ノ現状ヲ観察スレハ駸々乎トシテ進捗シ各地ニ至ル処斯業奨励ト共ニ教育機関ヲ具備シ 主トシテ智識ノ開発技術ノ鍛錬ニ勉メサルハナシ 本県唯リ今日ノ奨励方法ヲ以テ甘ンスヘキニアラス当ニ奮励シテ以テ先進地ヲ凌駕スルノ策ヲ講スヘキノ秋ナリトス 若シ逡巡日月ヲ送ランカ 他日噬臍ノ悔アラン 蓋シ本県ノ地位工業ト決定セラレタル以上ハ貴庁ニ於テ早晩工業教育機関ノ設備ヲ計図セラルヘキヲ信ス 当市曩ニ視ル処アリテ工業学校ヲ設立シ木工金工等ノ学科ヲ授ケ 将ニ進ンテ染織両科ヲ加ヘントスル内議アリト雖モ 目下市費多端急ニ其設備ヲ許ササル
ノ事情ナルニ由リ 此際該校ヲ県立トシ其規模ヲ拡張シテ不備ヲ補ヒ 且ツ之ニ染織二科ヲ増設セラレタランニハ実ニ一挙両得ニシテ独リ当市ノ幸福ノミナラス 管下工業上至大ノ利益ヲ享クヘキヤ喋々ヲ要セサルヘシ……」
 上記の建議書に対する何らの動きも資料的には認められないが,結果的には県立移管は成功しなかった.このような県立移管への動きは,手島精一が類型化した仙台市工業学校10)のもつ第一種都市型徒弟学校の性格からして当然考えられることであり,また前述の明治32年(1899)の金工科増設に際してみられた反対論,すなわち,金工科増設のごときは管内(宮城県内)の事業とすべきであるという意見にも沿うものであった.
 さて,施設,教職員等を次第に充実し,工業学校規程による工業学校へと上昇しつつあった同校は,その生徒定員が200名であるにもかかわらず,生徒数は漸く100名を若干うわまわる程度にすぎなかった.そのうえ,中途退学者が跡をたたず,しばしば同校の存続を危うくすることさえあったので,このような事情が県立移管を不成功に終わらせたのではないか,という推測も成りたつ.しかし,明治36年(1903)度,同校学事功程報告には,「本年度は募集人員50名に対して志願者数は15名の超過を示せり.入学志願者の数,募集人員を超過せるは開校以来未曾有の事に属す」との記事を載せるまでにこぎつけている.それにもかかわらず,中途退学者は依然として跡をたっていない.明治38年(1905)度の生徒調によると,木工11名,金工8名,計19名の中途退学者がみられるし,明治39年(1906)には,それが,木工科27名,金工科18名,計45名にも達している.このような状況に対して,学校当局はつぎのような説明を加えている.
 「中途退学の不得止事由本校の憂慮する最大苦痛にして是等は皆貧家に成長し中途家計上の不如意より他家に徒弟奉公若くは雇人様のものに日雇となり一家の生活上に働くものなり」
 学校当局者の憂慮にもかかわらず,中途退学者の続出は,同校がすでに徒弟奉公とは無縁に機能していることを示している.同校から貧家の子弟を中途退学者として排出することによって,工業学校規程による工業学校へと上昇していくことになる.
Ⅵ 工業学校への上昇
 同校が徒弟学校規程による下級工業学校から工業学校規程による中等工業学校へと上昇していくのが表面化してくるのは,大正7年(1918)2月の市議会に,「当市立仙台工業学校ヲ廃止シ大正7年度ヨリ工業学校規程ニヨル工業学校設置ノ件」11)が議案として上程されることによってである.同議案提案理由はつぎのごとくである.
 本校ハ徒弟学校規程ニ拠リ明治二十九年創立以来二十余年多数ノ卒業生ヲ出シ工業界ニ活動シ…現在本校ノ修業年限ハ四ケ年ニシテ徒弟学校中修業年限四ケ年ナルハ全国中稀ニ見ル所ニ有之候故ニ其卒業者ノ実際技量ハ徒弟的職工ト技術者トノ中間教育ヲ受ケタル姿ニテ 之ヲ徒弟トスレハ技術優秀ニ過クルモ 之ヲ技術者トスルハ聊カ其技能ノ不足ヲ感スル有様ナレハ卒業者ノ就職上モ多大ノ不利ヲ蒙リツヽアル次第ニ候…現下一般ノ工業界ノ状勢ハ優秀技術者ヲ要求スルト同時ニ又徒弟的職工ノ要求モ益々盛ナル次第ニ 候ヘハ今般規則ヲ改正シ 初等部ニ於テハ主トシテ実用的徒弟ヲ養成シ 尚進ンテ優良技術者タラントスル者ハ高等部ニ進入セシメテ其志望ヲ充タシ以テ益々発達セントスル工業界ノ状勢ニ順応セントス
 ここで高等部は優良技術者を養成して近代工業に,初等部は徒弟的職工を養成して伝統工業の近代化に対応しようとする.すでに第一次大戦後の輸入工業においては工場制工業として,伝統工業においては中小企業,ないし零細工業として位置づけられていたので,初等部,高等部の分割案は,このような工業界の一般的状況に対応するものといえる.分割案の構想は,大正9年(1920)4月1日,学則を改正して,工業学校規程にもとづく工業学校学科(修業年限3カ年)と,徒弟学校規程にもとづく徒弟学校学科(修業年限2カ年)の併置として実現されていった.さらに大正11年(1922)4月には徒弟学校学科を廃して,尋常小学校卒,修業年限5カ年の甲種工業学校のみになっていった.大正12年(1923)度からは土木科を増設,ここに木工,金工,土木の3科となり,大正14年(1925)からは木工科を建築科,家具科としてそれぞれ独立させ,金工科を機械科として,名実ともに近代工業への優良技術者養成に参加していったのである.
Ⅶ 市立仙台工業補習学校の併設
 大正4年(1915)5月25日付で徒弟学校規程による市立仙台工業学校に,市立仙台工業補習学校の併設が認可され,同年6月26日に開校した.同補習学校の誕生のいきさつは,およそ次のとおりである.
 仙台市徒弟実業学校の生みの親である初代校長・横沢多利吉は,明治42年(1909)6月15日付で再度,第4代校長として就任し,昭和8年(1933)9月退任まで実に24年4ヵ月の長年月にわたって発展途上にある同校の運営に努力し,幾多の改革を実施していったのである.横沢校長は明治末期から大正初期にかけての工業技術の進歩に対処すべく,まず,大工徒弟を対象にして,彼らに建築学上の基礎理論を与えて技術上の向上を図り,あわせて品性を陶冶することを目標として夜間のみの短期講習会を明治後期から数年間にわたって継続的に実施してきた.
 短期講習会の受講者も当初の大工徒弟に限らず広く各方面から志望者を集めて,それぞれ適切な技術指導を行ない所期の目的を達することに努力した.受講生の大部分は職業をもつ30歳以上の大工職,50歳前後の家具職の職人が多かったから,向学心が旺盛で新しい技術への情熱に燃えていた.この講習会の実情を当時の宮城県知事・俵孫一が伝え聞いて,横沢校長を呼びよせ,速やかに市立仙台工業補習学校を設置するように激励したということである.
 横沢校長は予算書を作成して,同工業補習学校の設立の件を仙台市当局に建議した.大正3年(1914)末の仙台市議会は,この建議を採択,宮城県あてに設立認可を申請し認可されたものである.県当局は同校の教育奨励の趣旨をもって,2000円の補助金を支出した.
 同工業補習学校の設立当初の学科課程は夜間部で,家具製作科,建築製図科,機械製図科,家具製図科,規矩術修科,鍍金実習科,木工象嵌科の7科であって,修業期間は3カ月ないし6カ月であった.このほかに昼間部として木工科,鋳造科,金属小細工科,刃物科の4科を設け,修業年限は1カ年とした.その後,大正8年(1919)には指物科と和洋建築科を昼間部に増設している.このように仙台市徒弟実業学校は最終的には中等工業学校へと上昇していったにもかかわらず,上述のパートタイムの工業補習学校を併置することによって,伝統
的な職人層の再教育を実施し,さらに貧民層の子弟にも同校を開放しようとしていったのであった.この補習学校は現在の仙台第二工業高等学校(夜間部)の前身となっていくことになった.

あとがき
 明治29年(1896),徒弟学校規程(明治27年(1894)7月25日文部省令第20号)に準拠して創立された仙台市徒弟実業学校は,設立当初,木工科のみで出発し,大工,指物師の伝統的な職人養成を近代的な学校レベルで養成していこうとするものであった.しかし,間もなく金工科を増設し,木工科の分科も建築科,家具科として装いをあらたにして,教育内容や方法の近代化をはかり,やがて大正9年(1920),工業学校規程(明治32年(1899)2月25日文部省令第8号)による甲種工業学校へと上昇し,近代工業への技術者養成へと転換していくのであった.
 この事例にみられる上昇型徒弟学校において特に重要な役割を演じたのは,実業教育国庫補助法(明治27年(1894)6月22日,法律第21号),および工業教員養成規程(明治27年(1894)6月14日,文部省令第12号)である.前者は学校建築をはじめ施設設備の充実において,後者は学校運営を具体的に司り,教育内容,方法等の近代化のために決定的に重要であるからである.最後に,このふたつの問題についてふれておくことにしよう.
 日本における実業教育が明治後半以降飛躍的発展をとげていったのは実に実業教育国庫補助法の制定によるものであった.仙台市徒弟実業学校の予算についてすでに検討したように,創立当初の予算において実に国庫補助金が44.6%を占めていたし,その後の予算においても全収入のおよそ3分の1の財源を国庫補助金でまかなっていた.このように,同校の設立,および,その後の学校教育の展開にとって同国庫補助法を無視して考えることはできない.
 すでに前章においても述べたように,明治前期における実業教育は東京職工学校,工部大学校13)等にみられるように,まず高等教育が起こって中等程度の実業教育は非常に遅れて発達している.明治政府はいろいろの施策を講じて実業教育の振興に努めたのであったが,当時の地方財政ははなはだしく〓迫していて予期する効果を収めることができなかった.しかも明治20年(1887)前後
より明治27年(1894)前後にかけて,日本の近代工業は驚異的な発展をとげていったので,近代的な科学技術を身につけた職工を大量に必要としたのであった.この時期に文部大臣として井上毅が就任した.彼は実業教育の振興にもっとも力を入れ,地方実業教育の振興をはかるには国費の補助によらなければならないとして万難を排して同国庫補助法の成立につとめたのである.同法案は明治27年(1894)の第6議会において成立し,同年6月22日,法律第21号として公布されたものである.この法案制定後,各種実業学校は全国各地におこり,年々その数を増加していくことになった.仙台市徒弟実業学校の創立とその後の発展は,同国庫補助法の成立なくしては考えることができない.
 次に工業教員養成規程にふれておこう.同規程は前述の実業教育国庫補助法第7条にもとづいて制定されたものである.すなわち,同7条は,公立の工業・農業・商業学校,徒弟学校,実業補習学校の教員を養成するために,文部大臣は国庫補助法に規定された年額15万円の国庫補助金の10分の1以内を支出することができることを定めている.この第7条にもとづき,工業教員養成規程(明治27年(1894)6月14日文部省令第12号)においては,徒弟学校および工業補習学校の教員を養成するために,東京工業学校に工業教育教員養成所を付設することにしている.生徒はすべて給費生で,本科(修業年限2カ年)は尋常中学校卒業者を入学させ,定員は100名,速成科(修業年限1カ年)の入学資格は東京工業学校長が定めることにし,定員は40名であった.このようにして,同教員養成所を卒業した者は全国の徒弟学校,さらには工業学校の校長,教員として,工業教育の発展の尖兵として全国的に活躍していくことになるのである.この規程の内容は明治33年(1900)3月3日公布の実業学校教員養成規程(文部省令第13号)に引きつがれ,さらに明治35年(1902)3月の同法改正によって,東京高等工業学校付設工業教員養成所が工業学校,徒弟学校,工業補習学校の教員養成にあたることになり,修業年限は3カ年に改められていった.いずれにせよ,東京工業学校,および同校の発展した東京高等工業学校を中心にして日本の工業教員養成を司っていったのである.すでにみてきたように,仙台市徒弟実業学校の生みの親である初代校長・横沢多利吉をはじめ,各代の校長,教諭はすべて東京工業学校,または東京高等工業学校付設工業教員養成所の卒業生であった.そして,同教員養成所の所長を長く兼任してきたのが,手島精一である.それ故,全国の徒弟学校,並びに工業学校の発展に尽力した手島精一の功績は高く評価されるべきである.いま,『仙台工業高校七十年史』各年度摘録に散見する,明治期における東京高等工業学校関係者の仙台市徒弟実業学校への訪問記事を拾ってみると,次のとおりである.
・明治34年6月17日 東京高等工業学校長 手島精一氏巡視
・明治35年8月28日 東京高等工業学校教授 吉武氏来校
・明治42年7月12日 東京高等工業学校教授兼文部省視学官 吉武栄之進氏来校巡視
・明治42年7月26日 東京高等工業学校教授 三守守氏来校巡視
 以上のことからも推測されるように,仙台市徒弟実業学校への教員供給のみならず,同校の経営上においても,東京高等工業学校の果たした役割は非常に大きかったといえる.いずれにせよ,明治政府の国庫補助と教員養成の梃入れによって,仙台市徒弟実業学校は?余曲折を経ながらも甲種工業学校へと上昇し,日本における近代的工業の発展に寄与することができたのであった.
[注]
1)宮城県教育委員会『宮城県教育百年史』第1巻・明治編,ぎょうせい,684-85ページ.
2)明治29年(1896)「仙台市参事会議事録綴」参照.明治29年(1896)2月20日,第9号議案「仙台市徒弟実業学校設置ノ件」,第11号議案「仙台市簡易商業学校設置ノ件」が同時に市議会に上程された.
3)文部省実業学務局『実業教育五十年史』実業教育五十周年記念会,1934,313-14ページ.
4)明治32年(1899)仙台市議会会議録,同年2月13日,第5号議案「仙台市徒弟実業学校へ金工科増設ノ件」が上程された.
5)明治文化資料叢書刊行会『明治文化資料叢書』第8巻・教育篇,風間書房,1961,229-30ページ.
6)仙台工業高等学校七十年史編集委員会『仙台工業高校七十年史』,五島幸雄,1971,14ページ.
7)前掲『仙台工業高校七十年史』,16-17ページ.明治29年(1896)度仙台市徒弟実業学校行程報告(明治30年5月27日付,仙台市長・遠藤庸治殿宛報告)による.
8)仙台工業高等学校・仙台第二工業高等学校同窓会編,佐藤良四治『同窓会名簿』,1977,25-30ページ.
9)前掲『仙台工業高校七十年史』,43ページ.
10)前掲『仙台工業高校七十年史』,25-26ページ.以下,予算,教科書等は,特に脚注のない限りは同七十年史を参照.
11)仙台市徒弟実業学校は明治32年(1899)4月1日付で仙台市職工学校,さらに同年4月24日付で仙台市工業学校とめまぐるしく校名を変更した.明治32年(1899)4月24日,文部省告示第4号「仙台市職工学校ヲ自今仙台市工業学校ト改称シ及改正規則ヲ認定ス」(勅令第29号実業学校令ニヨル).なお,明治34年(1901)4月29日,文部省令第11号によって,仙台市工業学校を市立仙台工業学校と改称した.
12)仙台市役所蔵『大正八年以降学則関係書綴』参照.
13)工部大学校の前身は明治4年(1871)8月設立の工学寮であり,明治10年(1877)1月,工部大学校と改称,明治18年(1885)12月,工部省廃止と同時に本校は文部省に移管され,翌明治10年(1886)3月,帝国大学令の発布と同時に本校と東京大学工芸学部とを合併して,あらたに工科大学の設置をみることになった.現在の東京大学工学部の前身である.
[佐藤 守】