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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第2章:B 会津漆器徒弟学校
著者名: 羽田 新
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第2章:B 会津漆器徒弟学校

Ⅰ 成立の背景と性格
(1)背景としての会津漆器業の動向
 陶磁器は往時の主産国である中国の名をそのままにchinaと呼ばれるが,元来は中国から伝えられながら気候風土に合ってわが国の特産のようになった漆器は,同様にjapanと呼ばれる.その漆器は,日本各地に散在してそれぞれの特色を有する多くの産地で製造されてきたが,その中でも一頭地を抜いているのが福島県会津若松市の会津漆器である1).
 会津漆器は藩制期にも御国産第一とされるほど盛んであり,その歴史は天正18年(1590)の蒲生氏郷の会津入封までさかのぼることができる.しかし,その地位を不動のものとしたのは寛永20年(1641)の保科正之移封以来のことであり,なかんずく天明7年(1787)の田中玄宰による藩制改革=産業振興に負うものである。その後各種の技術革新の導入等に見られる藩の保護奨励は会津漆器の品質を改良し名声を高めたが,それは反面漆器業者に対する統制でもあった.すなわち商工の分断,漆液の専売制による塗師の統制,株仲間を通じての商人の規制等,藩みずから前貸問屋的機能を果たしていたのである.もっとも,このような統制下においても,販売独占権を許された漆器商人層は着実に実力を蓄えており,明治維新後の自由な経済活動期を迎えて会津漆器業の新しい展開の主役を演じたのはほかならぬ彼等であった.
 明治元年(1868)の会津戦争後旧株仲間の大手問屋層の主導により再建された会津漆器業は,明治10年(1877)前後には輸出の好調と国内市場の拡大により未曾有の好況を現出したかに見えた.ところが,このため粗製濫売の弊に陥り声価を失墜したので,塗店組合(旧株仲間)の問屋層の反省により信用回復に懸命の努力が払われた.その後有名な松方デフレの影響は会津漆器業を深刻な不況の底につき落としたが,明治20年(1887)代には明治23年(1890)の第3回内国勧業博覧会において進歩賞を独占するなど名声の回復があった.
 しかし,この頃はまだ産額も伸び悩みの状態であったが,明治30年(1897)代以降にわかに多くなってきて,全国と比較するため明治33年(1900)から44年(1911)への増加を見ると,全国が1.4倍に達しないのに対して,会津若松の場合は実に3倍近くにもなっている(第1表).躍進と呼ぶにふさわしいこのような発展は,各種技術の改良発達によるところが大きいが,それ以上に明治32年(1899)の郡山から若松への岩越鉄道の開通の影響によるものであった.
第1表 明治年間漆器業者数および産額
 また,結果としての市場の拡大と公開化は,すでに明治10年(1877)代に見られた他業からの転業や工人の商人化,とくに後者の増加を決定的なものとすることにより漆器商の数の増大をもたらしたが,同時にまた漆器の需要に応ずるため零細な職方(生産者)が多数輩出することとなった.ここにおいて漆器問屋層は,流動する市場状況に対処して職方を掌握するために,従来のような買付商的存在に止まらずさらに一歩を進めて,職方に対する前貸しや仕込みに依る支配の必要を生ずるに至ったのである.会津漆器業の社会経済的構造を特徴づける前貸問屋制は,このような経過の中でその成立を見たのであるが,次にその要点を明らかにしておくことにする.
 会津漆器の製造販売にあたって,支配的地位を占めるものは問屋=商人である.問屋は費用および収入の主体的な計算の上に,企業上の一切の危険を負担しつつ,原則として職方=生産者に対して資金の前貸しや生産資材の仕込み(現物支給)を行なって前貸加工または請負加工させ,その製品を得意先(消費地問屋,小売商など)に販売する.職方の側からすれば,問屋から資金を前借りしたり生産資材の仕込みを受けて生産を行ない,その製品を問屋に納めるのである.したがって,職方が特定の問屋の専属となっている場合は,事実上賃労働者化していることになる.
 会津漆器業では藩制期にすでに丸物木地(椀など),板物木地(重箱など),丸物塗,板物塗,蒔絵の生産上の分業関係が確立しており,維新後はさらに下地工程が専業化している(第1図).問屋はこれらの生産工程と分業関係を統括し,職方を流通過程から遮断して販売を独占することによって,いわば扇の要のような地位を占めているのである.
第1図 生産工程と分業関係.
 ところで,明治末には会津漆器業の職工数はすでに1,000人を越えているが(第1表),これらの人々はほとんどが徒弟あがりの職人であり,同業者の子弟のほか市内の貧困者層,また近在の農家の次三男が多く,これ以外に県内の他地域や他県から来るものもあった.その養成はいわゆる年季徒弟見習の法によって行なわれたが,明治後期における一般的なあり方はおおよそ次のようなものであった.
 徒弟希望者は,尋常小学校または高等小学校卒業後(13~15歳)直ちに弟子入りし,親方の家に住み込む.以後徴兵検査まで4,5年から6,7年間の修業を積んで,年季が明けると半年から1年の礼奉公をする.徒弟期間中は食事のほか衣類が与えられるが,これは仕着[しぎせ]と呼ばれ,年季が明けた後は徒弟のものとなる.給料は支給されないが,月々若干の小遣が与えられ,礼奉公中は増額される.礼奉公を終えると,親方は自分の得意先である問屋へ彼を紹介し,道具一式をととのえて独立させてやる.徒弟修業の段階は木地,塗,蒔絵のそれぞれによって異なるが,一般に雑役や使い走りから始まって漸時仕事の内容を覚え,年明け近くなると仕上げ挽き,上塗り,毛打ちというような最終段階にまで進む.この間親方が手をとって教えるということは少なくて,たいていは兄弟子や職人に教わるのである.
(2)学校の成立と性格
 会津漆器業は岩越鉄道の開通を契機として一大躍進を見,同時に前貸制による問屋の職方支配という産地体制が確立することになるが,その萌芽はすでに明治20年(1887)代において認められる.この頃,トップクラスの問屋層では,日清戦争前の不況期において職人に現金を貸し与えて漆器をつくらせ,蔵いっぱいの在庫品を持ちこたえる実力と商売の見通しを有することが可能であったし,また戦後の景気の上昇によって事実莫大な利益を得ることができたのである2).職方に対する問屋の優位は明らかであり,会津漆器業の産地体制の特徴である前貸問屋制が形成され始めている.明治31年(1898)に会津漆器徒弟学校が設立されたのは,会津漆器業におけるこのような動きの中においてであった.
 明治27年(1894)の実業教育費国庫補助法公布の直後,福島県会津地方五郡全町村組合立による窯業,漆工,染色三科の徒弟学校を設立しようとする動きがあったが,その実現を見るまでには至らなかった.そこで,翌28年(1895)に福島県大沼郡本郷村は本郷窯業徒弟学校を,またややおくれて明治31年(1898)に会津若松市は会津漆器徒弟学校を,それぞれ単独で創設した.しかし,染色学校の設立を見ることはできなかった.
 わが国の徒弟学校の中ではもっとも早い時期に創立された本郷窯業徒弟学校は,若松市の南西を流れる大川の対岸にあって,藩制期以来本郷焼として知られる,陶磁器の産地本郷村に設置された.当時の本郷焼は,明治23年(1890)の第3回内国勧業博覧会での多数受賞を機に会津焼として全国的に有名となり,生産額は数年の間に3倍近くも増加し,多くの窯業専門家が注目するという,いわば躍進の時期であった3).伝統工業の近代化を通して輸出振興をはかろうとする明治政府の政策の一環に組み込まれていったのは当然の成行きであり,やがて本郷窯業徒弟学校設立へと推移してゆく.
 同校設立に直接関係したのは福島県属・中川駿太郎で,彼は東京工業学校長・手島精一の意見によって,本郷村に窯業,若松市に漆器業の徒弟学校を設立するために努力した4).また,当時農商務省次官であった前田正名は産業奨励の当事者であったが,窯業にはとくに深い関心を有し,本郷にもたびたび出張してきた.これは本郷窯業徒弟学校の設立にも何らかの影響を及ぼしていると考えられる.そのほか多数の人達の努力によって,明治28年(1895)4月から国庫補助を受けて,本郷村製陶家出身の東京工業学校卒業生・柏村善八が初代校長となって本郷窯業徒弟学校が開校の運びとなった5).
 当初は模型科だけで修業年限は2カ年,尋常小学校を卒業しない者も入学でき,全日制ではあるが尋常小学校の補習的役割をも担っていた.手島精一の区分からすると,産地型第二種徒弟学校としてスタートしたことになる6)・授業料は徴収せず,むしろ毎月若干の小遣を与えて入学を勧誘したが,第1回生として入学した者はわずか15名にしかすぎず,1学年の定員30名の半数であった.このため,貧困者層の子弟で実際には徒弟学校に入学する余裕のない,「年季徒弟の名前を借りて名目上の徒弟学校の生徒として定員をそろえた」7).さらに明治32年(1899)には同校規則を改正して,徒弟学校が窯元に徒弟を斡旋して住込み年季奉公の形態をとらせ,その徒弟を同校に入学させようとする定員確保の苦肉の策さえとるに至った.
 またこの時期には模型科のほか,陶画科と轆轤科の二科を増設して拡大をはかったり教科課程を充実させており,このような国庫補助を受けるための学校側の入学奨励策はある程度功を奏したことになる.しかしこの場合には,本来的には伝統工業近代化の礎石として,近代的職工養成のために制度化された徒弟学校が,形式的に学校を維持していくための手段として,やがて克服していくべき筈の年季徒弟制をむしろ積極的に取り込んでいくという,はなはだ矛盾的な状況が展開しており,わが国の徒弟学校のもつ大きな問題点を典型的に表現していると見ることができる.
 本郷窯業徒弟学校の設立から3年後の明治31年(1898)に,若松市にも会津漆器徒弟学校が設立された.設立の経過は本郷窯業徒弟学校と共通の点が多いが,背景としての若松市や会津漆器業の状況が本郷とは異なる.若松市には当時すでに中等普通教育機関として会津中学校が存在しており,徒弟学校は実業学校としてこれより格が一段低いものと評価された.また会津漆器業界の動向は漆器問屋層のイニシアチヴによって左右される体制になっていたから,徒弟学校の問題についても漆器問屋層の意向が大きく反映されたと見る必要がある.
 詳しいことは後で述べるとして,会津漆器徒弟学校の概要を見ると8),〓漆科,蒔絵科,木地製作科の三科から成り,修業年限は3カ年,尋常小学校卒業,満12歳以上の者を入学資格とする.もちろん全日制で,尋常小学校の補習的性格は認められないから,前記の手島精一の区分によると産地型と都市型とが結びついた第一種徒弟学校としてスタートしたことになる.この点は本郷窯業徒弟学校とは性格が異なり,本来の職工養成を主眼としている.
 同校が一般の啓蒙をはかるために作成した「徒弟学校ノ概略ヲ述テ当校ノ希望ニ及フ」の一文によれば,年季徒弟法は「動物的能力」の訓練に止まり,それは自動的(自律的)能力を欠いた単なる機械にすぎない,とこれを間接的に批判している.そして,これに反して,徒弟学校における教育は動物的能力に加えて「精神的能力」を活用し,この二つの能力を調和助長させ,直正な漆器業の改良発達に貢献しようとするものである,としている9).ここには,伝統工業の近代化を通じて殖産興業策に対応しようとする徒弟学校の意図を読み取ることができる.
 ところが,実際には入学志願者が少なく,当初は生徒数が定員である60名に達せず,わずかにその3分の1強という有様であった.その理由は,本来入学すべき年季徒弟は貧困者層の出身であるために経済的余裕がなく,また経済的余裕がある上中位層の子弟は大半が進学するならば会津中学校をめざす,ということで徒弟学校の性格が若松市内ではやや中途半端なものであった点にも求められるが,学校当局はこれを「多少教育アル子弟ハ一般ニ実業ヲ賤視スルノ陋習アルト当業者ノ子弟ハ経済上ノミヲ考へ其父兄ノ教育的義務ヲ度外視スルヨリ来ル」10)ものとしている.入学者の大半は塗師,蒔絵師,木地師の親方層の子弟であって,経済的には相対的に上位層のもので占められていた.
 そこで若松市は,生徒補助費給与の制度をつくって,授業料を徴収しないうえにさらに月25銭(後には2円50銭に値上げ)の奨学金まで支給することにした.これはある程度功を奏したもようで,明治36年(1903)度には生徒数がようやく定員近くなっていった.また,教科課程を改正して週教授時数を開校当初の24時間から39時間へと大幅に増加し,教授内容の充実をはかった.このような漆器職人養成に対する市当局の努力は,もちろん国策に沿う性質のものであったが,その背後にあってこれを強力に推進していったのは,徒弟学校商議員を中心にした会津漆器業界の上層部であった.
 商議員の中心になったのは漆器問屋である漆器商委員であったと見られる.この頃はすでに漆器問屋層が会津漆器業の動向を左右するようになっているから,徒弟学校の基本的動向も彼等の手中に握られていたと考えてよい.徒弟学校の設立,強化,さらに工業学校への上昇は,基本的には問屋勢力によって推進されていったのである11).
 ところで,徒弟学校は本来年季徒弟が入学すべき教育機関である筈であったが,会津漆器徒弟学校においてはこのような事例はほとんどなく,代わりに職方の中でも上位にある親方層の子弟が入学している.これでは,伝統工業の近代化を手島精一のように技能教育の面に限って見るにしても,肝心の教育対象者が異なるのであるから,本来の意図は達成されないことになる.仮に一歩を譲って,将来親方層の後継者として業界の中堅たるべき人材を養成する学校と考えれば,それなりにある程度の効果を有すると言えるが,この場合には実業学校としての内容が貧弱であってとうてい入学者の要求を満足させるに足りないのである12).
 入学志願者が少ないのは当然であり,市の単独経営ではおのずから限界があるので,施設設備の充実を期することが困難であった.そこで,国庫補助は受けながら村費負担に堪えない本郷窯業徒弟学校と会津漆器徒弟学校を合併して県立の工業学校へ昇格させようとする運動が生まれてくる.会津漆器徒弟学校の役割は,漆器業界の中堅の育成もさることながら,県立工業学校設立への足がかりとなった点に意義が認められるとも言えるのである.しかし,工業学校への昇格は徒弟学校のもつ性格を本質的に変えることになる.初期の徒弟学校は,従来の年季徒弟を学校教育に再編成するという形で伝統工業の近代化を意図するものであったが,県立工業学校への転身は,年季徒弟奉公を近代化する意欲の放棄につながるからである.
 次に会津漆器徒弟学校の実態について,種々の面から詳しく検討して見ることにしよう.
[注]
1)本項の記述は主として次の書物を参照した.佐藤守・佐田玄治・羽田新・板垣幹男共著『徒弟教育の研究』,御茶の水書房,昭和37年.
2)前掲書,288-89ページ.
3)会津本郷陶磁器業史編纂委員会編『会津本郷焼の歩み』,福島県陶業事業協同組合,昭和44年,31-35ページ.
4)『会工三十五年史』,福島県立会津工業学校同窓会,昭和16年,40-41ページ.当時は県の学務課に在職,後に若松市長となった人が次のように述べている.
 「米沢の御方で中川駿太郎さんが明治十九年に来福せられ福島県属として活動せられましたが・・・・・・日清戦争の直後若松市に工業学校設立の声が起り,其前提として先ず若松に漆器徒弟学校,本郷町に窯業徒弟学校を置く事になり,多分明治三十年前後の時だったかと思ひますが,中川さんは手島さん(当時蔵前高工長)の意見に依り・・・・・・若松漆器徒弟学校,本郷窯業徒弟学校など皆中川さんが其設立に参画せられたのです・・・・・・で会工の創立は手島さんが主として指導せられ,その案によって中川さんが実行に移された訳です・・・・・・」
5)『会津本郷焼の歩み』,34,177-81ページ.
6)前掲書,466-69,482-84ページ,および『徒弟教育の研究』,76-81ページ.
7)佐藤守・佐田玄治・羽田新・板垣幹男共著『「徒弟教育の研究」面接調査資料』,昭和36年,56ページ.なお,徒弟学校志願者が少ない理由として,『大日本窯業協会雑誌』は会員による「福島県下陶磁器視察報告」の中で次のように述べている.
 「此地の実業家は学校に対して頗る冷淡なるもの,如し顧ふに此地の実業家は未だ学理の価値を認めず随て教育の必要を感ぜず加ふるに自家営業に汲々たるを以て徒弟学校は唯国庫補助金に対する申訳として心ならずも一縷の命脈を保たしむるならん現に生徒の応募者は甚だ少く而して其応募者は本村よりも他村に多く実業家の子弟よりも非実業家の子弟に多きを以ても此地実業家の意志如何を推察し得べきなり」(『会津本郷焼の歩み』,483ページ)
8)これらの点については『徒弟教育の研究』.
9)前掲書,81-83ページ.
10)会津若松市役所編『徒弟学校関係書類綴』.
11)『徒弟教育の研究』,84-87ページ.明治31年度の会津漆器徒弟学校商議員(定員15名,内欠員1名)の氏名は次の通りである(*は33年度も継続している人).
漆器商(6名)高瀬喜左衛門*,鈴木利兵衛,谷半兵衛,鈴木久助*,菊地健次郎,新城猪之吉.
漆器工(2名)松本平右衛門,篠崎久吉.
蒔絵工(1名)塩田権六*.
木地工(5名)上野八郎*,宮崎喜蔵,大花栄次郎,星野真八*,辰野次郎.
 なお,「商議員ハ漆器業者ノウチ経歴アルモノ及ヒ名望家中ヨリ市長之レヲ撰任シ本校規則及経費予算其他本校ニ関スル重要事項ヲ商議スルモノトスル」(『徒弟学校関係書類綴』)
12)徒弟学校第5回生の次のような回想は,いろいろな意味で徒弟学校の性格について考えさせるものを含んでいる.
 「今になって考えてみたって,学校での学習は,あまり役に立たなかったね.漆をやわらかにするために樟脳をまぜて,上から火をあて,いい色の漆をつくるのにどうしたらいいかといった研究をしたんだな.だが,漆なんていうのは,温度や湿度,天候の具合によっていろいろ変わっていくもんで,そんな研究だけでは実際の役には立たないのだよ.ずっしりおちついて,住み込み徒弟で,家の中で長い年季をかけてやったほうが学校よりも役に立つというもんだ.」(浜田陽太郎・石川松太郎・寺崎昌男編著『近代日本教育の記録』,日本放送出版協会,昭和53年,306ページ)

Ⅱ 実 態
(1)概 況
 若松市立会津漆器徒弟学校は明治31年(1898)12月5日創立された.学科は〓漆科,蒔絵科,木地製作科の三科を以て本科とし,〓漆科はさらに丸物部と板物部に分けられている(第11表).修業年限は3カ年で,入学資格は尋常小学校卒業,満12歳以上の者とされ,入学志望者で尋常小学校を卒業しない者に対しては,小学校卒業程度の入学試験を課し,その合格者を入学させることにしている(同校規則第17条)1).生徒定員は60名であるが,さらに実業家の便を図って別科を設け,その修業年限を6カ月以上1年以内とし,年齢16歳以上で尋常小学校卒業程度の学力を有する者を入学させることにして,その定員が20名であった.また,本科卒業後生徒の志望により1年間専攻生としてその科で学ぶことができるようになっていた.
 職員定員は9名で,校長のほか学科目担当の教諭,助教諭3名,実習担当の助教員4名,書記1名からなるが(第13表),これは徒弟学校の教員数基準に達していない状態であった.その上,教諭,助教諭には中学校や小学校の教師が兼ねている場合が多かった.年間の予算は,3年目で3学年がそろった明治34年(1901)度の場合2,989円4銭であった(第2表).経費の4分の3以上が人件費で占められており,次に多いのは実習費であるがこれは7,5%にすぎない.財源については不明であるが,同年度の本郷窯業徒弟学校の例では国庫補助金と村税補助金がほぼ同額でそれぞれ予算の4割近くを占めている2)ところから推察して,生徒数が国庫補助対象基準に達しない同年度には大半が市税補助金によるものであったと見られる.
第2表 徒弟学校予算(明治34年度)
 入学志願者数は当初は少なく,志願者は全員入学を許可されているようであるが,明治34年(1901)度においても定員に充たず,まして国庫補助対象基準である50名には程遠かった(第3表).これは,志願者が少ないのに加えて入学はしても中途で退学する者がかなり多かったことにもよる.第4表によると,明治33年(1900)度に8名と多く,また同年度入学者がとくに多い.中途退学の理由は大半が家事の都合である.そこでこのような事態に対処するために,若松市は生徒補助費給与の制度をつくって入学者のかり集めに奔走し,また漆器業者に対しては同業組合の幹部が子弟の入学を勧誘してまわった3).このような努力がある程度功を奏して,明治36年(1903)4月には生徒数はほぼ定員近くまで増加している.学科別の生徒数は年度や学年によってまちまちであるが,全体として蒔絵科が多く,明治34年(1901)5月には半数近くを占めている(第5表).
第3表 生 徒 数
第4表 中途退学者数
第5表 学科別生徒数
 なお,別科については明治34年(1901)度には〓漆科,蒔絵科に各1名の入学があったが,〓漆科生徒は中途で退学し蒔絵科生徒は6カ月の修業で卒業したとの報告がなされている4).また,明治36年(1903)度には〓漆科板物部に専攻生1名が在籍との記録がある5).これらの点から推して,別科生徒および専攻生は毎年1~2名はいたのではないかと考えられる.
(2)生徒の資質
 徒弟学校設立の趣旨は,伝統的な年季徒弟見習の法に代えて近代科学の知識にもとづく合理的体系的な教育を施そうとするものであるから,その対象は従来の年季徒弟志願者であった筈である.ところが彼等は大部分が貧困者層の出身であり,徒弟学校に入学する経済的余裕はなかった.実際に入学する者は,漆器業関係者の中の塗師,蒔絵師,木地師の親方層の子弟が中心であって,経済的には相対的に上位層の者で占められていた6).もっとも,後になると長野県からの入学者があり,しばらく続いているが,彼等の中には他の職業層とくに農家の子弟が含まれる7).
 地元入学者の出身層をもう少し詳しく見ると,第1回生から第3回生までは父兄の職業の大部分が工業であるが(第6表),これはイクォール漆器業と考えてよいであろう.第4回生については具体的に職業名が明らかであり,10名中7名が漆器業者の子弟である(第7表).戸主との続柄は,次三男以下が圧倒的に多く,後継ぎはその半数しかいない(第8表).
 入学者の学歴は,第1回生から第3回生までは尋常小学校卒業と高等小学校1年修了の者が多く,あわせて3分の2を占めている.ところが,第4回生では高等小学校2年修了が過半数を占め,全体として学歴が高まっている(第9表).これは入学者の年齢にもあらわれており,第1回生から第3回生までは大半の者が12歳代(最高15歳,最低12歳1カ月)であるが(第10表),第4回生になると平均15歳6カ月(最高21歳9カ月,最低13歳1カ月)と高くなっている8).
第6表 第1~3回生の父兄の職業
第7表 第4回生の父兄の職業
第8表 市内出身生徒の戸主との続柄(明治36年5月)
第9表 入学者の学歴
第10表 第1~3回入学者の年齢
 生徒の能力資質はどうであったろうか.当時の若松市では中等普通教育機関としてすでに会津中学校が設立されており,市内や近辺の上中位層の子弟はここに進学を希望するのが普通となっていて,優秀な生徒が集まった.これに比べると,徒弟学校は実業学校として格も一段低く見られており,人々の関心はうすく,入学する生徒も限られた層の子弟であった.設立当初志願者が少なかったのは,このように地元での評価が中途半端であるという事情にもよる.
 しかし,かり集められたにしては質のよい生徒が入学しており,徒弟学校時代(中学校と兼任,のちに教頭)から工業学校時代の初期(漆工科長)にかけて教鞭をとっていたある教師の回想によると,立身出世の途を歩む中学校の生徒とは異なり,将来は地元の漆器業を担う中堅になろうという自覚と漆器の改良発展についての研究心を有しており,放課後教師の自宅まで押しかけて勉強するほど熱心であったという9).「徒弟学校の卒業生は腕も達者で評判がよかった」10)というある古老蒔絵師の評価は,これを裏付けるものである.
(3)教師・教室・カリキュラム
 次に徒弟学校の具体的内容について見ていくことにしよう.まずカリキュラムであるが,発足当初は各学科各学年とも週授業時間数が24時間と少なく,したがって教授学科目数や授業時間数も制約されていた(第11表).しかし,明治35年(1902)度からは週授業時間数が39時間と大幅に増加し,これにともなって教授内容も充実して面目を一新している(第12表).学科目数は7(実習を含む)から10(同)へと三科目ふえ,授業時間数も多くなっている.とくに実習は12時間から22時間へと大幅にふえている.このような教科課程の改正は,会津漆器徒弟学校を本郷窯業徒弟学校と合併して県立の工業学校にしようとする動きの中で,母胎となる徒弟学校を強化する意味をもつものと思われる.なお,授業は午前8時頃から午後4時頃までで,午前は学科,午後は実習というように時間割が組まれていたようである11).
第11表 教科課程(明治31年度)
第12表 教科課程(明治35年度)
第13表 教職員調べ
第14表 教職員調べ
 では,これらの教科を担当する教員はどのような人々から成っていたのであろうか.第13表は徒弟学校発足2年目の,第14表はその翌年から工業学校移行時頃までの教職員調べである.一見して明らかなように,基礎教科を担当する教員と実習を担当する教員とに対照的な相違が存する.校長をはじめとする教諭,教諭心得,助教諭は士族の出身で,東京工業教員養成所,東京美術学校,師範学校などの出身者である.年齢は若く,20歳代か30歳代である.これに対して助教員(助教師)の方は平民の出身で,学歴はなく,年齢は半数が40歳代であとは60歳代,1人だけ30歳代である.
 前者は教員養成のための教育機関を卒業して中学校や実業学校,高等小学校などで教鞭をとる専門の教師であるが,後者は若松市内で漆器製造に従事する塗師,蒔絵師,木地師の親方層であった.この人達は業者の中でもっとも技術のすぐれた者として選ばれ,生徒の指導に当たったのである12).なお,俸給の10円というのは当時の最上級の職人の月収に相当する金額であるから,校長の45円や教諭の35円というのは相当によい待遇であったと見られる.
 最後に,施設,設備についてはどうであったか.校舎は「土蔵のある普通の家屋に教室として木造二階建一棟を建て増したもので校舎とは名ばかりで,至って狭隘で(中略)学校と云ふよりは寧ろ塾と云った方が相応しく,一言で尽せば昔の寺小屋式そのまゝ」13)の状態であったらしい.明治34年(1901)度には実習工場総坪数48坪(内訳は蒔絵工場12坪,木地工場9坪,丸物塗工場17坪,板物塗工場10坪)という記録が見える14)が,実習はそれぞれの業者の家で実施することも多かったようである15).
(4)授業料
 会津漆器徒弟学校は生徒から授業料を徴収しなかった(同校校則第25条).しかしそれでも入学志願者が少なかったため,若松市では対策の一つとして次のような生徒補助費給与制度を発足させている16).
「漆器徒弟学校生徒補助費給与規程」
第一条 本校生徒ニハ本規程ニ依リ学資ヲ給与ス
第二条 生徒ニハ在学中一人一ケ月金弐拾五銭ヲ給与ス 但入学年ノ初月ニ限リ特ニ金五拾銭ヲ給与ス
第三条 疾病若クハ自己ノ便宜ニヨリ一ケ月中欠席日数七日以上ニ渉ルモノ及ヒ本校ノ休業全月ニ渉ル場合ハ其月分ノ補助費ヲ給セス
第四条 怠惰或ハ操行不良ニシテ〓戒責ヲ受クルモノハ改悛ノ状現ハルヽ迄補助費ノ給与ヲ停止スル事アルヘシ
 この制度の発足年度は明らかでないが,明治35年(1902)度には規程が改正されて,市内出身者に限ることにし,支給額は一躍10倍の2円50銭に値上げの上授業日数に対する出席日数の日割計算で支給することになった17).翌36年(1903)度における支給報告を見ると,支給人数は多い月で37~41名,少ない月で32~34名,また支給を受けた生徒の8割前後が無欠席で全額支給を受けている18).前述のように同年度には生徒数がほぼ定員に近くなっているのは,このような対策の効果も与っていると思われる19).
(5)生徒の進路
 「徒弟学校卒業生は,殆ど漆器業に従事し,かつ組合の中堅として働いた」20).前述のように,徒弟学校の入学者は大半が市内の漆器業者の次三男や後継ぎで占められていたから,卒業後は自家で漆器製造に従事し,あるいは数年ののち独立していくなど,いずれにしても会津漆器業を支える重要な柱となっていったことは確かである.若松以外の地域から入学した者も,卒業後は若松で自営するという傾向であった21).
 これらの人々の中には,のちに会津漆器の名工として評価を高めた何人かが含まれるが,蒔絵あっての漆器とされる会津漆器の特徴と,会津漆器徒弟学校の卒業生も蒔絵科がもっとも多かった点を考慮して,蒔絵関係者について見ると,明治39年(1906)卒業(第6回生)の津田憲二(得民と号す)の例が挙げられる.彼は会津蒔絵のとくに芸術性の向上に貢献するところ大きかったが,蒔絵の途に進む大きな契機となったのが徒弟学校での勉学であったと思われる22).その業績の一端は,わが国で初めての実用漆器下絵図集『漆器文様』全10巻として刊行中であり,漆器業界で高く評価されている.
[注]
 1)『徒弟教育の研究』,81ページ.
 2)『会津本郷焼の歩み』,482ページ.
 3)『近代日本教育の記録』,306ページ,徒弟学校第5回生の次の回想を参照.
「私が徒弟学校にはいった時には一科目募集人員五人くらいずつで,一クラス九人くらいだった.九人いたのにだんだんやめて,そして卒業するときには三人か…徒弟学校に入学した理由は,家で蒔絵をやってたでしょう.それで漆器産業がだんだん衰微して会津の特産がなくなっちまうというので,町をあげて心配し,徒弟学校の設立ということになった.それで蒔絵組合の幹部が全部一軒一軒『おまえの息子を入学させよ』といって勧誘してまわった.それでようやく人間を集めたわけだ.その後も勧誘にはわれわれも歩いた.」
 4)『徒弟学校関係書類綴』.
 5)同上書.
6)『「徒弟教育の研究」面接調査資料』,4ページ,古老蒔絵師の次の回想を参照.
 「徒弟学校に入る子弟は業者の中から入っていたので,経済的には,上位であった.工業学校になると,若松地域のみでなく,他の地域からも入ってきて,若松で自営するという傾向であった.」
7)前掲書,25ページ,および『会工三十五年史』,39,51ページ.長野県からの入学者は県費による嘱託生であった.
8)『徒弟学校関係書類綴』.
9)『会工三十五年史』,51ページ.なお同教師は東京美術学校漆工科の出身である.
 また生徒の中には,優秀で本来なら中学校へ入学できる能力資質を有しながら,家庭の事情で断念し志望校を変えた者もかなりいると思われる.
10)『町徒弟教育の研究」面接調査資料』,4ページ.
11)『会工三十五年史』,39ページ.
12)前掲書,39,51ページ.
13)前掲書,50ページ.
14)『徒弟学校関係書類綴』.
15)『「徒弟教育の研究」面接調査資料』,25ページ.
16)『徒弟学校関係書類綴』.
17)同上.
18)同上.
19)徒弟学校第5回生は次のように回想している.「それから授業料はなかったんです.市から月に二円五○銭の補助があった.景気も悪かったし補助をもらいながら通った.あるところでは生活費の一部になったとも聞いている.」(『近代日本教育の記録』,306ページ)
20)『「徒弟教育の研究」面接調査資料』,4ページ.
21)同上.
22)津田憲二の略歴と業績は次の通りである.五十嵐昭也「会津のクラフト・デザイン」『地域産業』第16号,昭和55年3月,163-64ページ.
 「わずか4歳で絵師伊藤柳州氏に日本画を習い将来画家を志したという.その後不幸にも10歳で母を失い父の家業である織物業が倒産したというから,不運な環境でひたすら絵を描いた氏の逆境は思いやられる.その後工業学校(当時は徒弟学校)に入学して蒔絵を習得する契機となったようである.工業学校卒業後は,上野の美術学校を奨められたが,家庭の事情はそれを許さず,蒔絵職人をしながら「図案創作」に意欲を燃やしたと聞く.あきたらず,美術学校教授の白山先生の門をたたき内弟子として入門,高度な白山技法は,彼の伝統的技法を愈々本物に仕上げてくれたのであった.その頃不幸相次ぎ父の急死により白山先生と惜別,帰若せねばならなかったのである.幸か不幸か,これが彼のローカル作家としての第一歩となったのであって,皮肉なことに当会津としては,福音だったことになる.大正時代は,美術工芸と漆器産業に明け暮れ,内外でも万国博覧会などが開催され,これら展示会等にも多数出品し,天皇・宮家等に献上品など数回に亘って製作して居る.彼の面目躍如たる時代ではなかったか.白木屋(高瀬喜左衛門氏)との関係もこの頃
からであったと聞く.“花車隅切五段重”は当時の作品である.日本画も,多くの蒔絵師に指導している.自らも数多い作品を残している.35歳,若松蒔絵組合で発刊した『漆器図案集』を創案したが,圧巻である.会津に伝統蒔絵の技法を広めた彼の業績は筆舌につくしがたい.晩年は会津に作家協会を設立.作品発表の機会と場を設け,しかもこれが現在の会津展・県展へと発展したのであった.特筆すべきは,ここで彼は,美術工芸を産業工芸に直結させ,産地全体の質の向上を計った事である.マルニ工芸での業績は如実にこれを物語っている.終戦後,会津漆器の復活の原動力も彼であった.金胎漆器加飾図案を創案したのも当時であったそうである.」

Ⅲ 工業学校への転換
(1)工業学校への昇格
 会津漆器徒弟学校と本郷窯業徒弟学校を合併して福島県立工業学校とする案は,明治32年(1899),まず工業学校規程による染織科の工業学校を設け,それに徒弟学校規程による漆工科および窯業科を付設するのが適当であるとして,福島県第2回通常県会にその予算案が上程されたが,県財政上その負担に堪えないとして否決された1).
 そこで若松市会は,明治33年(1900)8月14日付で「工業学校敷地寄付決議」を可決し,これを足がかりとして再び同年12月の第3回通常県会に,明治34-35年の両年度継続事業として県立工業学校建設費予算案が上程された.反対意見に対して,手島精一の実業教育論を信奉する中川県属の熱心な答弁にもかかわらず,賛成意見は見あたらず同案は再び否決された.
 ここに至って若松市会は,敷地だけでなくさらに「県立工業学校建築寄付決議」を明治35年(1902)7月の市会で可決し,三たび県立工業学校設置案を同年末の県会に上程した.そしてようやく同案は明治36-37年の両年度の継続事業として可決され,ここに明治37年(1904)4月より県立工業学校は開校の運びとなったのである.同校染織科は甲種工業学校課程であり,漆工科と窯業科は徒弟学校規定による徒弟本科(乙種工業学校)としてスタートした.というよりは,むしろ染織科をもって新設された工業学校へ漆器徒弟学校と窯業徒弟学校が移管された,と言った方が事実に即している.両徒弟学校の合併だけでは工業学校への昇格は不可能であったのであり,近代化,機械化が比較的容易であった織物業に寄り添う形で,漆工と窯業が工業学校の教科の中にすべりこむこ
とができたのである.明治45年(1912)度からはこの両科も甲種工業学校課程となったが,その影はだんだんとうすくなっていった.
(2)その後の変化
 会津漆器徒弟学校は,明治37年(1904)から福島県立工業学校漆工科として再スタートしたものの,その後の入学者は相変わらず少なく,第2次大戦前の卒業生で10名以上というのは33回中わずか7回にすぎず,5名以下の年が10回に及んでいる.大正5年(1916)と大正12年(1923)のごときは卒業生がわずかに1名という有様であった2).
 その頃には漆工科廃止の声もあったらしいが,それだけはまぬかれた.しかし同校は大正6年(1917)には応用化学,昭和14年(1939)には機械,終戦時の昭和20年(1945)には電気,昭和23年(1948)には建築等の各科を増設して,もっぱら近代工業に対応する方向に変わり,同校の発足に当たって足がかりとなった漆工と窯業の二科は,だんだんと衰退していくことになった.この間,昭和4年(1929)に校名を福島県立会津工業学校と改称,23年(1948)には学制改革により福島県立会津工業高等学校となった.また,漆工科は昭和37年(1962)に工芸科と名称を変更している.
[注]
1)工業学校への昇格の問題については『徒弟教育の研究』参照.
2)『会工会誌』創立五十周年記念号,福島県立会津工業高等学校同窓会,昭和31年.
 なお当時の関係者の座談会では,これについて次のように語られている.
 「…大正十一年頃は…漆工科を廃止仕様だのと云ふ声がありましたね.」
 「大正十二年でしたな.漆工科三年生が只の一人,大正十年には窯業科の三年生も一人しか居ないといふ様な具合で,一人の生徒を後生大事に守ったんですな.」(『会工三十五年史』,46ページ)
[羽田 新]