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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第2章:C 瀬戸陶器学校
著者名: 山下 英一
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第2章:C 瀬戸陶器学校

Ⅰ 瀬戸の略史と性格
 名古屋市の中心から東へ約20キロ,木曾山脈が南西に伸びて濃尾平野に接するところは「尾張丘陵」と呼ばれている.その一端が西に向かって開く小盆地に,瀬戸川をはさんで東西に長く伸びる町が瀬戸である.ここは,常滑[とこなめ]・越前・信楽[しがらき]・丹波・備前とともに「日本六古窯」あるいは「中世六大古窯」と称される古いやきものの町である.われわれが陶磁器のことを総称して「せともの」と言い,地元の人たちが瀬戸を自負して「陶都」と称するほど,その名は国内はもとより海外にまで広く知れ渡っている.
 この地方に人間が住みついたのは紀元前であるが,その陶器製造の歴史は11世紀,平安時代に始まるとされる.しかし,瀬戸市の東南にそびえる猿投山[さるなげやま]の南西麓には8世紀中頃のものとされる古窯群があり,さらに古く,5世紀と推定される古い窯跡が名古屋市東部丘陵で発見されていることから,瀬戸および岐阜県東南部の美濃地方を含めて,この地域は約1000年の陶磁器生産の歴史を持つと言うことができる.
 鎌倉時代(A.D.8~12C.)になると,従来の皿・碗などを主とした瓷器[しき](行基焼[ぎょうきやき]とも呼ばれる素朴な陶器)とは別に,灰釉を用いた瓶子[へいし]や香炉・仏具などが作られ,その文様も唐草文・梅花文・菊花文等,新しい様式のものが現われている.室町時代(A.d15~16C.)にはさらに擂鉢[すりばち]・土瓶・おろし皿などの量産が始まり,茶の湯の流行とともに種々の茶器の生産も行なわれ,釉薬の研究も進んでいる.特に鎌倉時代には,伝説上の人物ではあるが,加藤四郎左衛門景正[かげまさ]なる者が道元とともに宋に渡り,陶芸の技法を修得し,帰国後瀬戸に良質の陶土を発見するや,この地に留ってその技法を広め,今日の瀬戸陶業の基礎を築いたという説話もある.彼はその後陶祖神として市内の陶彦[すえひこ]神社に祀られている.当時の中国は,日本から見ればもちろん陶磁器生産の先進だったのである.
 しかし,土と炎に結びついた瀬戸の陶器生産は常に順調な歩みを続けた訳で
はない.室町期には応仁の乱等の戦乱の影響で,「瀬戸山離散」と称されるような衰退も経験している.また一方,戦国大名あるいは藩主による特別の保護もあった.安土・桃山時代(A.D.16C.)には織田信長が富国強兵策の一つとして,窯屋に土地を与えたり,租税を免除した記録が残されている.彼には当時実戦に使用され始めた鉄砲の弾を陶器で作らせる狙いもあったようである.下って,江戸時代(A.D.17~19C.)の初期,尾張藩主徳川義直は藩内産業の保護奨励の立場から,瀬戸に御用窯を築かせ,免租・資金貸与等の特典を与えた.この御用窯の時代には,保護の名目で様々な制約,統制も加えられ,窯屋にとっては非常に苦しい時期も度々であった.殊に,九州の有田において,薄くて堅く,見た目にも美しい磁器が製造されるようになると,瀬戸の陶器は全くこれに対抗できず,苦境に立つことになった.ここで郷党の期待をになって天草に渡り,苦心惨憺の末,有田の製磁法の技術を身につけたのが加藤民吉であって,瀬戸に帰ったのは文化4年(1807)とされている.以来,民吉はその技法を同業者にも伝え,窯の改良等も行なったので,後世その功を称え,今も市民は彼を磁祖として祀っている.こうして有田焼の白磁の製法が導入され,新製品の開拓,新原料の発見等と相まって,瀬戸は全国屈指のやきものの町として発展する素地ができたのである.
 ちなみに,瀬戸周辺は世界一と称されるほど良質の窯業原料「木節[きぶし]粘土」や,石英粒を含む「蛙目[がいろめ]粘土」を産出し,石炭あるいは重油を利用する以前は,周辺の丘陵地帯の赤松を主要な燃料としていたのであった.
 ここで忘れてならないのは,陶磁器製造技法の移転と開発である.わが国陶磁器生産の歴史1000年の間には,原料・成型・焼成等に関する様々な技法が各地で開発され,それが国内の各産地に伝播した速度は今日われわれが遠い時代のこととして想像する以上に速かったに違いない.原始的な須恵器[すえき]あるいは平安時代の素朴な瓷器は別としても,鎌倉時代には前記藤四郎伝説に見られるように,早くも宋に渡り,海外の技法を持ち帰った人物像が描かれたことなどは,瀬戸が内外の陶磁器産地と交流があったことを示すものに他ならない.同時に,中国を起点とする,いわゆる「陶磁の道」は西方世界のみならず,直接あるいは朝鮮を経由して間接にわが国にも通じており,青磁・白磁・染付等はわが国陶磁器業のモデルとされてきたのである.また,江戸時代,各藩が経
済政策上,藩内の窯業を保護するためきびしい統制を加え,その技術が他国へ流れるのを禁じた例もある.前述の民吉などは同じ瀬戸出身である天草の東向寺の住職天中和尚の格別の庇護により,技術の持ち出しに成功した幸運な一例である.その他にも,各陶磁器産地の好不況のあおりを受けたり,その腕を買われて各産地を移動した職人もあったし,また,本来半農半陶の窯業人口が藩のきびしい規制で帰農したり,「一子相続制」が発令されて,一村全体の窯数に制限が加えられた時代もあった.
 こういう歴史に見られるように,瀬戸の窯業も常に時代の荒波にもまれ,浮沈を繰り返してきたのであるが,封建時代にあっても,その技術の交流,製品の販売等のため,この町は比較的「開かれた土地」であったし,そこに住む人人の気質は「開放的」で,「楽天的なしたたかさ」とでも言うべき特質を持っていたと考えられる.現在でも,徒弟制度の中で育った職人,陶芸家など,比較的年輩の人々の中には,他の陶磁器産地で働いた経験の持主も多く,また,他の産地からの流入も多かった事実を見ても,この町と住民の性格の一端が判るであろう.
第1図 瀬戸周辺の地層断面.
第2図 現在使用されている窯業原料.

Ⅱ 瀬戸の地質・気象と陶器学校創立前後の人口
 瀬戸付近の地質は第3紀新層に属し,その基盤は花崗岩であって,この上に花崗岩質・砂岩・砂質粘土・粘土・〓炭・礫となっている.
 気候は温暖で雨量もさほど多くなく,風もあまり強くない.ここに明治後半期の気象ならびに人口の統計を示す.
第1表 明治29年(1896)から明治45年(1912)までの各月別平均温度
第2表 明治22年(1889)から明治45年(1912)までの平均雨量(降水日数137日)
第3表 戸数および人口

Ⅲ 創立前後の時代的背景
 激動の明治維新を迎え,新政府は「富国強兵」「殖産興業」の大スローガンをかかげ,西欧列強に追いつくための近代化を強力に推進したことは周知のとおりである.その頃のこの町について,『瀬戸』1)は次のように記している.
 「明治維新は鎖国下の日本を世界経済の中に押し出し,以後あらゆる面で急速な近代化が進められた.新政府の殖産興業政策は愛知県(明治5年,名古屋・犬山・額田[ぬかた]県合併)の場合,紡績業・窯業の二大在来産業部門から始まっている.瀬戸の窯業は窯株制度,蔵元制度など封建的諸制度から解放され,自由経済の下で歩みを始めた.すでに西の「唐津もの」に対する「瀬戸もの」として国内市場での確固たる地位を築いていた瀬戸ではあるが,海外貿易の開始は貴重な輸出産業として一層発展させたのである.
 明治6年(1873)ウィーン博覧会を始め,フィラデルフィア(同9年),パリ(同11年)に出品された瀬戸陶器が大いに声価をあげ,これが刺激となってコーヒー茶碗・洋皿などの製造が始まり,輸出向販売を目的とする問屋・商社も誕生した.明治15年(1882)瀬戸陶磁工組(のち陶磁工商同業組合)が設立されて業界の組織化が図られた.
 また,このころ瀬戸金[せとがね](維新の際,瀬戸御蔵会所から引継いだ金)と称する資金で陶磁器に関する研究会が五助工場で開かれていたが,学理と実地の調和した実業教育の必要性から,明治27年(1894)町長は陶器学校設立を県知事に申請した.翌年認可,10月1日本町(旧万竹楼跡)に瀬戸陶器学校(現県立瀬戸窯業高校)が誕生した.
 「学校という名前はついていたが,情けないことに世間からヤロウ学校,土こねり学校などと呼ばれ,少し気のきいた者は途中から退学(当初3年間約20名入学して卒業生は各3名)してしまう始末だった」(瀬戸ところどころ今昔物語)が,初代校長北村弥一郎博士を中心に,窯業技術開発の数々の成果をあげ,地域の期待にこたえていった.
 業界でも陶玉園五助代々の磁器改良(青磁釉考案,青華焼工夫,水簸[すいひ]法考案,輸出用コーヒー碗製造など)の努力が図られた.
 川本枡吉らによる石膏型の開発(明治8年ころ),川本治兵衛の絵付法の工夫(同21年)に始まり,石版転写法(同22年ころから),ゴム印画法(同26年ころから)など絵付方法の開発,手ロクロ,蹴[け]ロクロから動力ロクロの採用(同40年),登り窯から石炭窯への転換(同40年前後)など技術的進歩も続いた.
 とくに石炭窯は名古屋の松村八次郎により,両口倒焔式窯築造に成功していたが,瀬戸では前記町立陶器学校(同34年校名変更,東犬塚の丘上に移転)
が県費800円の補助により,黒田政憲校長を中心に研究が進められていた.
 「黒い石炭で白い瀬戸物が焼けるものか」という風評の中で,明治35年2月初の石炭窯火入れを行ない,失敗の連続の中から同年11月に初めて「白い瀬戸物」を生み出した.
 石炭窯の実用化と動力ロクロを初めとする生産工程の機械化,石膏型鋳込法(明治37年日本陶器実用化)などの技術革命は瀬戸の窯業に大変革をもたらした.すなわち,それまでの長期間の年季修業による技術の習熟は不要となり,ヤロ(野郎=年季徒弟)制度は変容した.大量生産方式の近代的生産構造は量的労働力の需要を生み,工場立地は丘陵地から平地へ移動した.」
 以上のように,陶磁器産業近代化の波は明治初年以来,瀬戸周辺にも次々に押し寄せていたのである.

Ⅳ 学校の創立と沿革
 瀬戸陶器学校の「沿革概要」によると,開校は明治28年(1895)10月,瀬戸町2191番地(現在の柳町)の仮校舎で行なわれている.しかし,その胎動はそれより10年ほど前に始まる.明治初期,尾張藩の特別の保護を離れて独り立ちする必要に迫られた瀬戸の窯業界は,一方,新しく開かれた海外貿易を通じて販路を拡大するための技術革新に活路を見出さねばならなかった.特に,明治初期,欧米各地で開催された博覧会への参加は強烈な刺激となり,例えば,石膏による鋳型の製法が納富介次郎によって日本に導入されるや,たちまちその伝習を受けた人々を通じて全国に普及している.
 瀬戸においても,従来の職人的な徒弟養成では新しい技術の修得,殊に機械による大量生産に対応できないことは明らかであった.西洋ではすでに科学が技術と結びついて,ゼーゲル錐の開発,石炭窯の改善,発生炉ガスを利用したトンネル窯が実用化されており,窯業の機械工業化がわが国とは比較にならないくらい進んでいた.こうした状況に対応するため,早くも明治14年(1881)頃,村の有力者が発起人となって,陶磁器製造に関する私設の研究会が作られ,彫塑や石膏模型の技術を伝習したのが濫觴とされている.その当時のことを語った「座談会」の記事によると,明治17年(1884)頃村役場の吏員をしていた川本惣吉(のち町会議員)は,当時の思い出をこう述べている,「陶器学校設立
の提案をしたのは役場側であったが,村議会の反対が強く,直ぐには容れられなかった.ようやく2年くらいかかって,ほんの名のみの学校ができた.生徒も3~4名であった.」
 これは,いわば,瀬戸陶器学校の前身とも言うべきものであって,明治27年(1894)制定の「徒弟学校規程」に基づく陶器学校の開校は翌28年(1895)10月1日を待たねばならなかった.当時政府当局者によって構想されていた徒弟学校の理念,すなわち,衰退しつつある徒弟制度を徒弟学校の設置によってくいとめようとか,徒弟に学科を付加的に教授する必要とか,あるいは徳育を以て実業教育の本としよう,というような学校制度そのものについての理念は地元の人たちにはなかったのではないだろうか.むしろ,新しい技術の修得という現実的な利益を求める考え方が優先していたと考えられるのである.
 ここで明治後期,愛知県内に設立された他の徒弟学校に目を向けてみる.瀬戸以外に,知多郡実業学校と常滑町立陶器学校の二校がある.前者は明治31年(1898)開校し,醸造に必要な学科と実習とを授けることを目的としたが,当初から不振で,同校については,愛知県学事第13年報2)(明治32年)が次のように述べている.
 「一ハ知多郡実業学校ト称シ昨年始メヨリ開校シ醸造ニ必要ナル学科ト実習トヲ授ケ国庫ヨリ金千円ノ補助ヲ受クルモ良教員ナク加ウルニ組合内ニ種種ノ事情ヲ生ゼシ為メ萎微不振ニ陥リ之レガ嬌正ヲ勉メツツアリシガ本年ニ至リ従来同郡半田町ニアリシヲ組合ノ都合ニ依リ同郡小鈴谷村ニ移転ノ上開校ノ準備整ヒシモ経費予算ノ認可ヲ得ザリシガ為メ休校中組織変更ノ必要ヲ認メ其ノ規模ヲ縮少シ商業科ヲ加設セントスル傾向アリ」
 このように開校当初から挫折を余儀なくされた徒弟学校も同一県内にあったことを考えると,瀬戸陶器学校は関係者の努力により,地域産業と密接に結びついて,今日まで85年の歩みを続けている.なお,常滑町立陶器学校は,最初は知多郡常滑工業補習学校と称し,明治29年(1896)9月21日開校,その後明治33年(1900),常滑陶器学校と改称,現在は愛知県立常滑高等学校の窯業科として存続している.瀬戸も常滑とならんで伝統工芸を基盤とした徒弟学校であるが,以下,明治期の本校の沿革概要を同校の『八十年史』3)から引用する.
第4表 瀬戸陶器学校の沿革

Ⅴ 学校の性格
 先に引用した学校の沿革にもあるように,本校の教育目標は「学理と実地との調和発達」であった.開校初年度は教員僅かに3名,生徒18名という,いわば塾のようなものであったが,初代校長・北村弥一郎は後述するように,当時のわが国では最新の窯業学の知識と高邁な精神を持ったすぐれた教育者であった.その業績は後に『工学博士北村弥一郎窯業全集』(昭和3年8月10日発行)3巻にまとめられている.また,「学理と実際との調和」という教育理念は,第3代校長・黒田政憲の『実用製陶学』4)の序文に見ることができる.明治の徒弟学校の気鋭の校長の姿を彷佛させる文であるから全文引用する.(読み易くするため,仮名づかい,常用漢字等,一部現代表記に改め,句読点を付す)
「実用製陶学 序」
 わが国の諸工業は果して進歩発達せりや.これ一つの疑問に属す.世人往往わが国諸工業の盛大を称すといえども,真の発展盛大の域に達したるにあらずして,わが国数十年前の諸工業又は世界における未開国の工業に比し,やや頭角を表わせるに過ぎざるのみ.ひるがえって欧米の諸工業に比する時は,なお幼稚の観をまぬがれざるなり.わが国には学者なきにあらざるなり.経験家なきにあらざるなり.しかも欧米におけるよりは学理と実際との調和よろしきを得ざるごとし.これわが工業の欠点にあらずや.若し果して然らば,大いに顧慮すべき事なりとす.
 それ学理は実際に応用して必ずこれに適合すべきものなり.実地の経験にて得たるところの技術もこれを究むれば必ず学理に一致すべきものにして,学理を離れて実地なく,実地を去りて学理なきなり.しかして,わが国諸工業において,学理と実際との一致を欠けるものは陶工業のごとく甚だしきものあらず.
 明治6年ウィーン万国博覧会参同の結果として,わが陶業上に一新面目を加えたり.しかもこれ主として石膏型の応用に過ぎずして,工場の組織,窯の設備および燃料のごときは旧慣を墨守して,ほとんど何の改むる所なし.わが国陶工業の進歩せざるゆえんなきにあらざるなり.かくのごとくにして,30余年の歳月,遅々たる陶工業の発展の間に経過したり.
 近年大工場の組織を有する陶工場の設置諸処にあり.一見陶業の一大進歩なるがごとしといえども,これ唯わが陶業界の一部に現出したる外国移しの法たるに過ぎずして,未だ真の進歩と称すべからざるなり.彼我各特長の点なきにあらず.彼の長を採り,我の短を捨て,学理の応用すべきものあらばこれを実際に応用するに躊躇せずんば,始めて真の発展を望み得べきなり.
わが国陶業発達の前途また遼遠ならずや.
 学理を実際に応用するは人にあり.学識経験ある人始めてこれをなし得べし.しかして学識を修得するには書籍に頼らざるを得ず.欧米諸国中において,諸般の文物進歩せりと称せらるるドイツのごとき,諸出版物の多き驚くべきものありと聞けり.これドイツ人士が自己研究の結果を公表せるものに外ならずして,いかに学術研究に重きを置き,その研究の結果を実際に応用せんと焦心せるや,想像するに余りあり.しかしてわが国の出版界にありては諸種の著作発表せられて明治盛代の美事[びじ]ここに尽きなんとするの観あるがごとしといえども,決して明治の著述界はかかる盛況に達せるものにあらず.欧米のそれに比すれば,非常の遜色あるを見るべし.特に陶業上の著作に至りては全然皆無なり.陶業界の振わざる,また理由なきにあらざるなり.
 予,陶業に従事すべき者の教育に従事すること多年,やや陶業界の実情を知るを得たり.しかして,その学校たると製造家たるとを問わず,教科書として又は参考書として一の書籍の依るべきものなし.もし,それ,高等の教育を受け,欧米の文に通ずるの輩はわが国文の著書の有無は顧慮する所にあらずといえども,中学程度又はそれ以下の学校にあるところの生徒は学術の研究を国語の書籍に依頼せざるを得ず.又製造家およびその子弟,もしくは職工のごとき,わが国の現在にありては,欧文の恵に浴し得るもの殆どあるなし.ここにおいてか,わが国陶業に関係ある多くの人々が,書籍に就いて得る所あらんと欲するも,あたかも暗夜に物を索むるの難きよりなお難からんのみ.あにわが陶業界の一大恨事にあらずや.
 予,不才不文の身を顧りみず,この一大欠陥を補わんがため,一昨年より職務の余暇を以て筆を執り,今年に至りて一部の書籍を完成し得たり.名づけて実用製陶学と称す.けだし,いずれの書か実用に供せられざるものあるべき.しかるに,特にこの書に実用の二字を冠せしめしゆえんのものは,予が著書をなすに当りて,エミール・ボーレーの陶業書,ダブリュー・ジャクソンの陶業計算教科書,細木博士著「工業化学書」,農商務技師北村弥一郎および工業試験所嘱託平野耕輔,二氏の報告書を参照せしといえども,書中の大部分は予が実験に基づきて論述したる所にして,他の諸書に見るがごとき,往々に実地に応用して適合せざるがごとき欠点少しと信じたればなり.
かかる目的を以てかかる書を著述したり.書中不備の点多々あるを信ずるを以て,博学の諸彦,願わくば予のためにこの不備の点を指摘せよ.
 明治42年2月25日
 瀬戸において 著者識
 この序文,いささか気負い過ぎているところもあるが,明治期の少壮学徒の気概を感じさせ,また当時の窯業学界の状況をも物語っていて興味深い.その内容までここに紹介するいとまはないが,総ページ数で318ページ,15章から成り,図も73葉入っている.中には化学式を用いた計算法も含まれ,当時の陶器学校の生徒レベルでは程度が高すぎたのではないだろうか.創立後間もない頃の生徒が往時を回顧して,理科が難しくてよく判らなかった,と語っていることからも察せられる.いずれにせよ,当時の校長が国内では最高の学歴を持ち,高邁な理想をかかげて窯業教育に科学性を持たせ,その質を高めようと志していたことが想像できるのである.
 しかし,理想は高かったが実態は寺子屋のようなもので,今日の学校という概念では捉えられない点が多かったにちがいない.生徒の方も就職のために学理・技能を身につける目的は明確に意識せず,将来自家営業する者が最後まで就学したようである.

Ⅵ 学校の実態
(1)生徒の資質等
 上述のように,校長あるいは地元の一部先覚者たちは高遠な理想を持っていたが,開校後数年間の生徒の就学状態は必ずしも所期のとおりにはならなかった.小学校4年を修了して入学してくる生徒はなんと言ってもまだ幼稚であり,校外の窯屋では同年齢かそれに近い少年たちが徒弟として年季奉公していた.当時一般の窯屋では徒弟制度が続いており,一番下積みの雑用をする徒弟を瀬戸では「ヤロ」(野郎)と呼んでいた.ヤロとほぼ同年齢の少年の通う学校,ヤロと同じようなことを習う学校という意味で,当時の陶器学校は「ヤロ学校」とも呼ばれたが,この言葉には軽視ないしは侮蔑の響きが含まれていた.特に瀬戸は職人の町であって,ゼニのとれない学校に前途の見通しもなく通学することには大きな抵抗が感じられたのであろう.入学はしたものの,少し気のき
く者は3年間の修業年限を待たずに次から次へと退学してしまった.創立後毎年20名くらい入学者があったが,常時出席する生徒は4~5名程度で,そうした状態がlO年近く続いている.功名心の強い者は名古屋の中学校に通ったり,利にさとい連中は入学後直ぐやめている.開校から県立移管になる明治44年(1911)までの,職員・在籍生徒(毎学年始め)・卒業生数の一覧は第5表のとおりである.
第5表 創立以来の職員・生徒・卒業生数
 当時はまだわが国の実業教育制度が改善整備され始めたばかりの時期であって,一般国民の学校教育に寄せる信頼度も低く,父兄も生徒も教育効果に対する大きな期待もなく,いわば半信半疑で入学したのではないだろうか.それでも第5表のように漸増の傾向が見られるのは,時あたかも日露戦争を契機として急速に近代化が進められ,陶磁器産業が山村家内工業型を脱し,平野部の都市工場型へと変化しつつある明治後半期であったからである.また一方,新しく学校が開けても,3年や5年で校風,伝統といった特色ができるものでもなく,地域杜会の付託にこたえられるものでもない.この頃の瀬戸は愛知県東春日井[ひがしかすがい]郡に属していたが,その当時の学齢児童の就学率を愛知県全体および全国と比較すると第6表のようになる.明治36年(1903)以降急激に伸びてはいるが,それまでの就学率は県下でも非常に低く,明治35年(1902)までは,名古屋,豊橋両市を除く19郡中で下から2番目の低さであった.
第6表 学齢児童就学率の年次別推移
 なお,明治28年(1895)末における東春日井郡の学齢児童の男女別就学状況は,男8,534名中,就学者は5,728名,女7,536名に対し僅かに1,852名と報告されている.
 小学校でさえこのような状況だから,何かと学資を必要とする陶器学校にさらに進学しようとする者が少なかったのは当然である.従って,古老の語るところによれば,当時本校に入学した者はかなり経済的に余裕のある家の子弟に限られていた.いずれにせよ,開校後数年は,生徒も地域住民もまだ学校という制度になじまなかったと言うことができるであろう.
 生徒の資質に関してもう一つ忘れてならないことがある.教育は近代化・工業化を促進するもっとも重要な要因であるが,その作用の障害となる身分制がなかったことである.江戸時代,瀬戸は尾張藩による統制を受け,明治維新後も経済的には名古屋の問屋を中心とした商業資本の支配下にあったが,もともと庶民の町,職人の町であって,封建的色彩の稀薄な土地であった.従って,家族,宗教,身分などによる束縛もなく,労働移動の自由,職業選択の自由に基づいて,当初から学校はあらゆる市民に平等に公開されていたのである.このことは発展途上国のすべてには求めることのできない点であろう.
(2)教員・教室・カリキュラム等
ⅰ 教 員
 開校時は北村弥一郎校長の他は,絵画教員1名と実習教員2名であった.学歴のあるのは北村校長のみで,その他の3名は地元の経験者が選ばれたものと思われる.その後明治44年(1911),県立移管となるまでの16年間に任免された教職員は合計37名を数える.その学歴等は詳かではないが,大別すると,普通学科教員,絵画・図案科教員,実習教員の三種類になる.普通学とは,修身,国語,数学,理科等の学科を総称し,1人が数科目教えることもあり,図案の先生が体操も兼ねて指導したり,小学校の先生が本校教員を兼務した例もある.小学校教員の兼務は,生徒募集とも関係があって,当初志願者が少ないのを打開するための方策として,いわばパイプの役目をしたようである.
 やがて時代の経過とともに教員の質も次第に向上し,指導組織も整っていった.当初は実習を主としたから,その内容に応じて地元の窯業家の中から適任者が選ばれ,町役場から任命されていた.ただし,校長だけは歴代抜群の人物が着任している.職業教育振興のための文部省の意図であろうが,当時は国内で最高の教育を受けた人物が各県の実業学校や各種試験場に配置され,学校教育だけに止まらず各業界の指導にも当たっている.
 瀬戸陶器学校の場合,初代校長・北村弥一郎と3代校長・黒田政憲はともに明治20年(1887)代の初め,東京職工学校(のちの東京工業大学)に学び,日本陶業の父とも称されるドイツ人ゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagner)の薫陶を受けた俊秀であった.ワグネルは政府の招きにより明治元年(1868)長崎に来り,その後明治25年(1892)61歳で死去するまで,単に陶磁器業ばかりでなく,わが国の工業教育,産業開発の推進に測り知れない大きな貢献をした人物であった.彼は明治20年(1887)以後,農商務省の援助で陶磁器の改良に努力し,東京,京都等で指導に当たり,旭焼と称するやきものを作ったことでも有名であるが,その門下生からは日本陶磁器業発展に目ざましい功績を残した平野耕輔,飛鳥井孝太郎,北村弥一郎,松村八次郎,藤江永孝,黒田政憲等,優秀な事業家や教育者が輩出している.このうち北村,黒田,松村,飛鳥井は後年,名古屋および瀬戸に相次いで足跡を印し,新知識を伝授,新技術を開拓するのである.
 中山伊知郎は工業化に対する教育の役割を二つの場面に分けて考えているが,町立時代の陶器学校は彼の言う「初期の段階」5)であって,教育が工業化を引っぱっていこうとした時代である.その牽引車となった2人の校長のプロフィルをかかげよう.
ⅱ 初代校長・北村弥一郎
 明治29年(1896)2月から明治30年(1897)7月まで本校の学科および実習教員であった寺内信一(半月と号す)に「瀬戸の北村博士」6)と題する一文がある.その中から北村の略歴を抜粋する.
 「氏は東京高等工業学校の窯業科卒業後,千葉県師範学校教諭となる.その後一年志願兵役を終り少尉に任官.瀬戸陶器学校長から金沢工業学校に転じた.フランスに留学中,日露戦争となり応召,旅順攻撃に参加,部下の大半を失う.別に北村中隊を編成してその隊長であったが,病を得て入院.回復後さらに奉天攻囲戦に加わったが,病気再発し内地へ送還された.その戦功は少なくない.その後農商務省が工業試験所を設置したので,窯業科の主任となる.研究,読書のためには自己の健康にも留意しないほどの勉強家であって,有益な著述も少なくない.農商務省在職中,石炭窯や長石質陶器の研究でも功績多く,大正10年京都大学より博士号を授けられた.蔵前の窯業科出身で博士になった最初の人である.晩年官を辞し,京都松風工業会杜に入る.大正15年3月病没.59歳であった.」
 北村校長は明治28年(1895)から,明治30年(1897)4月まで在職したから,上記の文から計算すると,着任した時は28歳くらいの新進気鋭の士であった訳になる.水野瀬市氏の研究によれば,北村は明治40年(1907)清国(今の中国),大正4年(1915)アメリカを視察旅行し,松風陶器会社入社後は,金沢の日本硬質陶器会社や釜山の朝鮮硬質陶器会社の重役も兼ねていた.性格は精緻で明敏,勤勉で文才にも富んでいた.
ⅲ 3代校長・黒田政憲7)
 明治3年(1870)福岡県生まれ.幼くして東京に学び,明治27年(1894)4月,東京工業学校玻璃科卒業.横浜衛生試験所,農商務省地質調査所,製鉄調査会等に勤務.明治30年(1897)8月,兵庫県津名郡陶器学校長となるも明治33年(1900)1月同校の閉鎖により,瀬戸町立陶器学校長に任ぜられ,瀬戸陶磁器試験所長を兼ねる.明治42年(1909)3月,陶器学校を退職,農商務省の命により,清国四川省成都中等工業堂に赴任し,四川省勧業道工業試験所部長を兼ねる.明治44年(1911)帰国,12月より佐賀県立有田工業学校長に任ぜられ,後佐賀県技師を兼ねる.大正7年(1918)10月9日死去.
 黒田は実業教育に力を尽し,多年子弟の薫陶に従う傍ら,各種の博覧会,共進会等の指導の労をとることも多かった.殊に公務多端の間にあって,専門上の著作,翻訳に専心し,コーレマンの分析書,ランゲニベックの陶器製造学,ジャクソンの窯業計算書の解訳の外,『実用製陶学』を出版,『瀬戸の陶業』も編集した.
 性格は外は剛毅,内には熱血を蔵し,子弟に敬慕され,実業家には畏敬の念を与えた.
 以上の記事を見ても,黒田は弱冠27歳で校長として着任している.彼は瀬戸最初の石炭窯を陶器学校に築かせ,その研究に惨憺たる苦心をしたが,当時の月給が55円,県知事と同額であったと伝えられている.俸給といえば,明治32年(1899),実習教員(辞令では「陶器学校雇教員」となっている)として採用された加藤民吉には瀬戸町役場から月給10円が給されている.
ⅳ 教 室
 開校当時の仮校舎の実態は不明であるが,明治29年(1896)9月,瀬戸町南新谷[みなみしんがい]に移転した頃の校舎略図は第3図のような簡素なものであった.
第3図 明治29年9月,町内南新谷に移転した当時の校地略図.
 明治40年(1907)頃の彫塑実習の写真を見ると,木造のかなり大きな教室で,筒袖の着物に下駄か草履ばきの生徒が40名ほど,石膏材料で製作に励んでいる.制服は特になく,普通の着物に袴を着用した.
ⅴ 学校生活の諸相
 開校当時,寺子屋同然の学校の中でどんな生活が営まれていたか.昭和11年(1936),同校創立40周年を記念して編集された校友会・同窓会機関紙『校友』に,第1回卒業生加藤醇氏訪問記が載っている(同校『八十年史』にも再録).この記事は質疑応答形式で開校間もない頃の思い出を語らせているが,その中から応答の部分のみ抜き出して往時の学校生活を偲ぶことにする.
・第1回生は無試験で約20名入学したが2年で大部分が退学し,3名残っただけである.退学の理由は,学校に対する世間一般の自覚も乏しく,生徒も学校がおもしろくない,という程度.学校側も無理に引き止めようとはしなかった.
・修業年限は3ケ年.授業は午前9時から午後4時まで.科目は実習が主.珠算もあったが,物理,化学を難しいと感じた.程度は高等小学校くらいの内容で英語はなく,全部で12科目くらいであった.
・町からの補助があったためか,授業料は納めなかった.学校の財政は乏しく,化学の器具,薬品,釉薬を作るのに必要な諸材料にも不足する状態であった.
・校内で焼く窯は登り窯で,作品は磁器を多く製造した.
・スポーツは盛んでなく,体操が週1時間,卒業前,知多半島の常滑へ修学旅行に出かけた.
・生徒数が少ない関係で,師弟間は親密で,生徒の気風は一般にまじめでおとなしかった.
・昼食は休憩1時間の間に自宅へ帰ってとる.夏休は約1ケ月.
・就職について頭を悩ましたことはなかった.当時の生徒は卒業後自宅で窯業を営む志望の者が多く,また世間の考え方も,就職するなら学校に入る必要はない,というのが一般であった.
・卒業式は,僅か3名の卒業生に対して,県庁から3名,役場から数名,父兄2名が列席した.
・助手などはいなかったので,土踏み,土こし,水簸[すいひ]等すべて生徒の手でやり,ロクロ,仕上げ,絵付,窯焼きに至る製作工程一切が生徒によってなされた.ロクロは3年生の時,足踏み式のものが1台備えられたが,この式のものとしては学校が瀬戸で最初であったのではないだろうか.製作過程全部を自分で体験したことが,卒業後の生活でひじょうに役立ち,教育を受けた甲斐があったと思う.
ⅵ 教科書等
 徒弟学校当時の教科書類で現存するものには次のようなものがある.
①工業新書 上下 (瀬戸窯業高校蔵)
 編 集 高橋貞吉
 発行者 小林八郎
 発行年月日 明治27年4月28日
②化学教科書(加藤孝三氏蔵)
 第7回卒業(明治36年)加藤寿三郎使用のもので毛筆による写本
③陶磁器秘法(加藤孝三氏蔵)
 加藤寿三郎は明治38年より同40年まで実習教員として母校に奉職.
 この本は陶磁器調合,焼窯一般のこと,実験記録等を毛筆で記したもの.
ⅶ 校名・学則・教育課程等の変革
 明治28年(1895),瀬戸陶器学校として創立された本校は,明治34年(1901),町立瀬戸陶器学校と改称し,同時に学則を改正,修業年限を3ケ年とし,甲科・乙科に分けた,甲科は高等小学校(旧制)2年以上修了の者,乙科は尋常小学校(修業年限4年)卒業の者を入学させることとした.
 やがて生徒数も漸増し,明治38年(1905)には70名を越え,同39年には98名,同41年には123名の多きを数えるに至った.この頃,町立では多額の経費を要するという理由で県への移管の声が上がったが,県議会において否決されている.この問題をめぐって廃校論が出たり,あるいは名古屋市への移転案も現われた.なお,廃校についてはこれより早く明治35年(1902),第3代黒田校長の時代,石炭窯による焼成の実験が失敗を重ねた頃にも論議の的になったことがある.
 しかし,後述するように,明治30年(1897)代後半の窯業の発展,輸出の好況を反映し,本校卒業生に対する需要も増加した.明治42年(1909)には,小学校令の改正に伴い,本校もふたたび学則を改め,従来の乙科は廃止された.また,この年4月,塚田政雄が校長となるが,当時の学校の現況,学則,教育目標,各教科指導の要旨等を詳細に記した「町立瀬戸陶器学校一覧」が『愛知県立瀬戸窯業高等学校八十年史』に掲載されているので,以下この「一覧」に基づいて当時の本校の実態を述べることにする.この一覧から,時代の進展,学制の改革に伴って,学校の規則,学習指導の目標等を含む本校の指導理念が明示さ
れ,実業教育の指導体制が整備されてきたことが判るのである.
町立瀬戸陶器学校一覧8)
 商議員という見慣れぬポストがあるが,町が設置者であったから,町会議員4名は今日の文教委員に相当するものであろう.顧問ないし相談役であって,最後の飛鳥井は前記ワグネルの門下に育ち,名古屋陶業界のリーダーの1人であったから,さしずめ技術顧問格として参画していたものと思われる.
◎敷地建物及設備
 「校舎ハ瀬戸町3075,3079,3080,3081番地字権現山ト称スル高燥ナル丘上ニアリ東北一帯市街ヲ眼下シ西菱野街道ヲ控エ前面ハ稍田野ヲ隔テ瀬戸川ノ流ルルアリ而シテ瀬戸電車停車場眼下ニアリ」と学校の位置を示したあと,敷地,建物の面積を坪数をもって現わしている.それらを現代の単位に換算するとおおよそ次のようになる.
敷地 4,217m2
総建坪 1,158m2
 理科教室 40m2 普通教室40m2
 模型教室 105m2 ロクロ教室178m2
 陶画教室 23m2 絵画教室 51m2
 図案教室 40m2 製陶実習室 33m2
 応接及校長室 80m2 生徒控席 25m2
 製品貯蔵室 13m2 原料燃料貯蔵室 25m2
 防燥室 32m2 原土精練室 26m2
 水簸所 40m2 宿直室 20m2
 小使室 35m2 窯道具貯所 33m2
 廊下 36m2 便所 7.4m2
第4図 明治35年9月,東犬塚に移転新築したときの校舎図.
 建造物は他に窯として,中および小の石炭窯と錦窯と称されるものが各1基,さらに新式石炭窯が1基あった.この頃漸く石炭窯の効率が認められ,瀬戸にも築造され始めているが,その先頭を切ったのが陶器学校であるので,このことについて「設備」の項に次のように述べている.
 「42年末当校ニ倒〓式石炭円窯ヲ築造シタリ抑今日以後磁器焼成用燃料トシテ松薪ヲ用フルノ不得策タルコトハ既ニ世ノ定評アルコトニシテ現時当瀬戸町ニ於ケル松薪ハ頗ル高価ヲ呈シ之ニ代フルニ石炭ヲ用フルコト製造経済上実ニ焦眉ノ急務タルノ際ナルトモ普通石炭窯築造ニ要スル経費頗廉ナラザルヲ遺憾トシ該窯ノ築造材料ハ只其内面ニ耐火煉瓦ヲ用ヒタルノミニテ其他ハ総テ従来当町近傍ニ於テ登窯築造ニ用ヒタル材料ヲ用ヒ費用ノ低廉ヲ希図シタルモノナルガ焼成結果頗ル良好ニシテ注目セラルルニ至リタルハ窃ニ当校ノ喜ヒトスル所ナリ」
◎職員
 職員については,
 「職員学校ノ骨子ニシテ其人ヲ得ルト否トハ生徒教養上ニ影響スルコト火ヲ見ルヨリモ明ナリ故ニ良職ハ可成[なるべく]其待遇ヲ厚クシ長ヘニ其職ニ安ンセシムルノ要アルハ勿論ナリト雖モ工業界ノ上進発展ニ伴ヒ善良ナル技術者ヲ歓迎誘致セントスルニ拘ラス本校職員ハ忠実職ニ服シ漫リニ転職ノ意ナキハ慶トスル所ナルモ職員其人ノ為ニ本校ニ在勤スルヨリハ更ニ適所ニ就職スル方世益ヲ増スコト多キ場合ノ如キハ割愛スルニ躊躇セサルナリ」
 と述べ,その後に教職員の異動について,前任と後任を紹介している.この文から察するに,当時の窯業界の好況に伴い,優秀な技術を持った教員がスカウトされて実業界へ流出する傾向があったことが判る.続けて,
 「抑生徒教養ノ辛労多キハ敢テ民間技術者ニ譲ラス而モ其報酬ノ如キモ実業界ニ於ケルヨリ多カラザルニ拘ラス之ヲ意トセス名誉アル天職トシテ研精ヲ怠ラス一身ヲ教職ニ捧クル所以ノモノ実ニ大ナル自信自覚アルニ非スハ能ハサルナリ吾人ハ今後此等教育者ニ対スル待遇ノ精神上ニ於ケルト物質上ニ於ケルトヲ問ハス愈厚キヲ加ヘンコトヲ切望スルト共ニ職ヲ教育ニ奉スルモノハ不屈不撓益向上発展センコトヲ希望シテ止マサルナリ」
 上文で見る限り,当時の教員の俸給が実業界の技術者のそれに及ばなかったようであるが,このことは同学歴の場合,現在も変わっていない.しかし,教育聖職論と待遇改善論が学校一覧に現われていることは,明治末年とはいえ興味深いものがある.
◎在 学 生
 日露戦争後入学者が増加し,明治42年(1909)度の在学生は86名に達し,遠く韓国,清国からの外国人留学生も在学している.
 「本在学生徒数及郡別平均年齢等ハ別表ニ示スカ如シ而シテ此等生徒ハ何レモ専心学ヲ修メ実習ヲ勉メ勤労ヲ重ンスルノ風ニ富メルハ実ニ喜フヘキノ現象ナリ希クハ全校ノ生徒諸子益々良習慣ニ馴致シ徳操ヲ研磨シ他日善良ナル技術者トナリテ我陶業界ニ貢献スル所アランコトヲ」
 もともと徒弟学校は明治期の工業化に対応するため低度技術者を養成することがその目的であったが,その教育は単に知識・技術の伝授だけではなかった.徒弟学校規程制定当時の文部大臣・井上毅の構想には,徒弟制度改善の方策として職業倫理の再建という精神的条件の改善が含まれていた.すなわち,実業教育の根本は徳育にあるという考えである.この精神は上記引用文にも,また後述する明治44年(1911)制定の本校の「校憲」にも一貫して明確に示されている.
第7表 在学生徒地方別
第8表 創立以来職員・生徒数,経常費,生徒1人教育費
第9表 在学生徒父兄職業別
第10表 在学生徒年齢
 第10表で見ると,当時の生徒の年齢にはかなり幅があったことが判る.本科3年では同一学年でありながら12歳の開きがある.また20歳を過ぎてからも入学した生徒の向学心も現われている.
 次に当時までの卒業生の状況はどうであったろうか.
第11表 卒業生数
◎卒業生ノ需要
「卒業生ノ数ハ105名ニ達セリ此等ノ卒業生ガ年々積ンテ得ル所ノ経験ト信用トニ依リ卒業生ノ需要ハ甚ダ多ク当地方ノ実業家力歓迎スルハ元ヨリノ事ナリト雖モ他地方例ヘハ京都滋賀長野或ハ岩手及其他諸地方ヨリ卒業生ノ経験アルモノヲ索メ来ルニ至リシハ此レ実業家カ徒弟学校卒業生ノ価値ヲ認メタルニヨルモノナリ卒業生ニシテ工場ノ主人タルモノハ二三ニ止マラス工場ヲ監督セルモノモ亦多シ亦卒業生ノ一人ハフィリピン島マニラ府ニ於ケル陶業伝習教師トシテ聘セラルルニ至リシハ本校ノ大ニ満足スル所ナリ」
 過去12年間の卒業生の就職地および進路は第12,13表のとおりである.専攻科は卒業生でさらに実習を志望する者が1年間通学する制度であった.
第12表 卒業生就職地方別
第13表 卒業生就職別
◎卒業生の成績
 「卒業生ノ成績ハ益顕著トナレリ外国貿易ノ発達ト同時ニ模型製造品ノ需要非常ニ増加シタルカ為ニ模型ノ製作ヲ盛ンニセサルヘカラス然ルニ学校出身ニアラサル模型工モ瀬戸ニ少カラスト雖モ其人ニ限リアリ且学校教育ヲ受ケタルニ非ルヲ以テ之ヲ使役スルハ主人ノ困難スル所少カラス然ルニ学校出身者中特ニ模型科ノ者ニアリテハ即時ニ相当ノ仕事ヲナシ得ルノミナラス之ヲ使用スルニ勤直従順ナル者多ク又数年前ノ卒業生ニアリテハ瀬戸ニ於ケル競技会ニ於テ或ハ平素ニ於テ示セシカ如キ皆卒業生ノ成績ノ良好ナルヲ顕ハササルハナシ図案及絵画ニアリテモ勿論其成績顕著ナリ瀬戸在来ノ職工ハ所謂模様書ニシテ絵画及図案ノ素養ナシ故ニ自ラ習熟セル仕事ニハ堪能ナルモ自ラ考案立画ヲナスカ如キハ殆ント能ハサル所ニシテ此亦競技会ニ於テ学校卒業生ノ技倆ト相懸隔スル所多キヲ見ル茲ニ於テ競技会ノ出品ノ如キ蕈職工ハ学校出身者ニ及ハサルヲ覚知シ優勝劣敗ノ自然ノ数トシテ次第ニ其出品減シ学校出身者ノ出品其多数ヲ占ムルニ至レリ斯ノ如キ状況ナルヲ以テ絵画図案ヲ練習シタル卒業生ヲ瀬戸町工業家力歓迎スルハ当然ナリトス轆轤[ろくろ]科ニ至リテハ数年前ノ卒業生ノ成績顕著ナルハ他ニ同シト雖モ新ニ卒業スル生徒ニアリテハ卒業後直ニ瀬戸在来ノ蕈職工ト競争ヲナスカ如キハ到底及ハサル所ニシテ卒業当時ニアリテハ工業家ノ歓迎他ニ劣ルノ感アリ然レトモ半歳又ハ一ケ年工業家ニ使役セラレタルモノハ初メテ学校卒業生ノ価値ヲ存スル所ヲ顕示シ工業家ニ多大ノ利益ヲ与フルニ至ルモノナリ以上ノ如ク各科共成績ハ極良好ナリ之ヲ証スルニ需要者非常ニ多数ニシテ供給ニ応スル能ハサルコトヲ以テセント欲スルナリ」
 創立後12年間で卒業者数105名というのは決して多い数ではないが,社会の評価がかなり高くなっていることを上文は物語っている.特に,学校教育を受けていない職人に比べて,第1に職業倫理,徳性の面ですぐれていたこと,第2に伝統的な技法のみに習熟していた職人に対し,卒業生に創造性が涵養されていたことを物語っている.これが事実とすれば,徒弟学校における実業教育と職業訓練の成果が現われて来たものと解釈できる.
◎学校ト実業家トノ連絡
 「競技会ニ於テ或ハエ場ニ於ケル卒業生ノ成績顕著トナリ当業実業家力当校ニ注目スルノ度昔時ノ比ニアラス而シテ学校ノ実際ヲ能ク了知スルニ至リシヨリ父兄又ハ職工ノ学校ヲ参観スルモノ又ハ試験ノ依頼ヲ申込来ルモノ或ハ学問上ノ応答ヲ得ンカ為メ参校スルモノ多キヲ加フルニ至レリ学校ニ於テハ時々職員ヲシテ生徒ヲ引率セシメ各工場ヲ訪問シ其実際ヲ見セシムル等大ニ連絡ノ途ヲ得タルカ如シ学校ト家庭トノ間ニハ通信簿ヲ発シ生徒毎月ノ成績品行等ヲ告知シ家庭ヨリハ其求ムル所ヲ聞カントセリ通信簿ヲ行フカ如キハ当町ノ如ク工業ニ従事シ多忙ナル家庭トノ連絡ヲ取ルニ於テ良法ト信シ実行シ其成績ヲ見ントス」
 陶器学校が地域に定着し始めるにつけて,学校が研究所ないし技術相談所のような性格をも持つようになった.また,生徒も工場見学を通じて,本校創立当初の「学理と実際との調和」という教育目標に添って学習しているさまが判る.今日の「産学協同」あるいは「相互乗り入れ」的な面もあり,地域に向かって「開かれた学校」の感がある.以下,本校の学則・教育の要旨・学科要旨を列記する.
◎学 則 (原文は縦書)
第1章 目 的
第1条 本校ハ徒弟学校規程ニ依リ将来陶磁器製造業ニ従事スル者ニ必須ナル教育ヲ授クルヲ以テ目的トス
第2章 修業年限及授業日数
第2条 修業年限ヲ3ケ年トス
 但卒業生ニシテ尚志望アルモノハ専攻生トシテ1ケ年間実習ヲ専修セシムルコトヲ得
第3条 授業日数1ケ年凡37週間トシ毎週授業時数ハ40時間トス
第3章 学年学期休業日
第4条 学年ハ4月1日ニ始マリ翌年3月31日ニ終ル
第5条 学年ヲ別チテ左ノ3学期トス
 第1学期 自4月1日・至8月31日
 第2学期 自9月1日・至12月31日
 第3学期 自翌年1月1日・至3月31日
第6条 休業日左ノ如シ
 日曜日
 祝日大祭日及陶祖氏神祭
 夏季 自8月1日・至8月31日
 冬季 自12月25日・至翌年1月7日
 学年末 自3月25日・至3月31日
第4章 教科課程
第7条 教科目ハ修身,国語,数学,理科,製陶法,図案,図画,体操,実習トス実習ハ轆轤模型陶画ノ3科トシ生徒ノ希望又ハ職員ノ見込ニ依リ1科目若クハ3科ヲ授クルコトヲ得
第8条 各教科目ノ課程配当毎週教授時数配当ハ左表(第14表)ニ依ル
第14表 明治43年町立陶器学校学科課程並びに配当表
第5章 入学・在学及退学
第9条 本校入学志願者ハ左ノ資格ヲ有スルモノトス
 1.身体強壮品行方正志操確実ナルモノ
 2.年齢12年以上ノ男子ニシテ尋常小学校卒業(修業年限6ケ年ノ課程ヲ卒ヘタルモノ)以上ノモノ若シクハ之レト同等以上ノ学力ヲ有シ就学ノ義務ナキモノトス
第10条 入学志願ハ左式ノ願書ニ履歴書ヲ添付シ願出ツヘシ入学許可者ハ左ノ在学証書ヲ差シ入ルモノトス
(以下書式は省略)
第11条 入学志願者募集人員ニ超過スルトキハ選抜試験ヲ行ヒ優等者ヨリ順次入学ヲ許可ス
第12条 病気又ハ止ムヲ得サル事故アリテ欠席スルトキハ保証人連署ノ上3日以内ニ其事由ヲ学校長ニ届出ツヘシ若シ病気欠席7日以上ニ渉ルトキハ尚医師ノ診断書ヲ添フルヲ要ス
第13条 正当ノ事由ニ依リ退学セント欲スルモノハ保証人連署ノ上願出ツヘシ
 学校長ハ左ノ各号ノーニ該当スルモノハ退学ヲ命スヘシ
 1.性行不良ニシテ改善ノ見込ナシト認メタルモノ
 2.学力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタルモノ
 3.引続半ケ年以上欠席シタルモノ
第6章 試 験
第14条 試験ハ学期試験及臨時試験トス
 学期試験ハ毎期末ニ之ヲ行フ臨時試験ハ必要ニ依リ臨時ニ之ヲ行フコトアルヘシ
第15条 学年成績ハ各学期試験ノ各学科通約点ノ平均点ト平素ノ行状トデ参酌シテ之ヲ定ム
第16条 卒業成績ハ各学年成績ヲ通約シタル得点ヲ以テ之ヲ定ム
第17条 試験評点ハ各学科100点ヲ以テ最高点トシ左記各号ノ一ニ該当スルモノヲ不合格トス
 1.総学科目平均点60点未満ノモノ
 2.実習点60点未満ノモノ
 3.各学科目評点中ノ科目40点未満ノモノ若シクハ3科目以上50点未満ノモノ
 絵画,図案,体操,実習ハ平常点ヲ以テ試験評点ニ代フルコトヲ得修身科ハ試験ヲ省クコトヲ得
第18条 正当ノ事由アリテ試験ニ欠席シタルモノハ各学年ノ課程ノ修了又ハ全学科ノ卒業ヲ認ムルニハ平素ノ学業成績ヲ考査シテ之ヲ定ムルコトアルベシ
第19条 正当ノ事由アリテ学期試験ニ欠席シタルモノノ為メ特ニ追試験ヲ
行フコトアルベシ
第20条 本校ノ課程ヲ修了シタルモノ全科課程ヲ卒リタルモノ及専攻生ニハ左記ノ証書ヲ授与ス(証書の書式は略す)
第7章 褒賞及懲戒
第21条 操行方正学業優等ナル者ニハ賞状若シクハ賞品ヲ授与スルコトアルベシ
第22条 本校規程及命令ニ違反スル者ハ軽重ニ従ヒ懲戒ス
第23条 懲戒ヲ分チテ戒〓,謹慎,停学,放校ノ四種トス
第24条 本校ノ校舎器物等毀損若シクハ亡失シタル時ハ之ヲ弁償セシメ尚其状情ニ依リ懲戒スルコトアルベシ
第8章 授 業 料
第25条 授業料ハ1ケ月1人ニ付金30銭毎月10日限リ納付スベシ
第26条 学校ノ休業全月ニ及ブトキハ其ノ月ノ授業料ヲ徴収セス
授業料月30銭となっているが,当時の陶工の1日の賃金が60銭であった.貨幣価値は大きく変わっているが,昭和55年現在の公立高校の授業料月約5,OOO円と比較すると,ほぼ同程度の額と考えることができよう.
◎本校教育ノ要旨
 「工業ノ発展ニ伴ヒ善良ナル技術者ノ需用ノ多キハ自然ノ勢ニシテ善良ナル技術者ヲ養成セントスルニハ工業教育ノ施設ヲ以テ最先ノ急務トセサルヘカラス即本校ハ此主旨ニヨリテ生レ将来陶磁器製造ノ実務ニ当ルヘキ善良ナル技術者ヲ養成スルニアルヲ以テ之ニ応スル設備ヲナシ技術ノ習練ヲ骨子トナシ之ニ要スル専門学科及之カ基礎タルヘキ普通学科ヲ授クルコト前掲学則ニ明示スル所ノ如シ.抑従来技術者養成法トシテ行ハレタル年期徒弟ノ制ハ大抵秩序アル教育ニヨルニ非スシテ其始メ多クハ使命ニ走リ雑役ニ従ヒ傍ラ見聞ニヨリテ技術ヲ知得スルヲ常トスルヲ以テ勢多クノ歳月ヲ徒費シ而モ其技術習熟スルニ至ルモ普通学ノ知識ヲ得ルノ便ヲ欠ケルカ故ニ常識ヲ欠キ研究心ニ乏シク趣味ヲ欠ケル平凡ナル職工トシテ終ルヲ常トス彼ノ英国ノ工業家及労働者カ能ク大陸ノ競争者ニ打勝チ其位地ヲ保持スル所以ノ者ハ実ニ熟練ト常識トノ力ニ負フ所大ナリ本校ノ教育ハ特ニ此点ニ留意シ訓育ノ方面ニ於テハ一般国民トシテ必須ナル徳操ノ涵養ハ勿論技術家トシテ肝要ナル性格習慣ヲ為成セシメンコトヲツトメ知育ノ方面ニ於テモ普通学科ハ啻ニ書ヲ読ミ文ヲ綴ルノ能ヲ得セシムルノミナラス知徳ノ啓発常識ノ修養ニ資センコトヲツトム其他図画及図案ハ陶業上重要ナル教科ニシテ実習ト最密切ノ関係ヲ有シ其成績ノ良否ハ直ニ製品ノ上ニ影響スルモノナルカ故ニ教授上力ヲ用フル事多ク教授時間モ他ノ諸学科ニ比シテ特ニ多数ヲ配当セリ製陶法ニ於テハ陶業上ニ於ケル一般ノ知識ヲ得シメ研究法ヲ授ケ以テ製品改良ノ要素ヲ作リ自己ノ業務ニ対スル趣味ヲ喚起セシメンコトヲ努ム実技ノ習練ハ実ニ本校ノ骨子トスル所ナレハ特ニ之ニ力ヲ注クコト多ク実習課程ハ最応用広キ形態ヲ撰択配当シ習練ハ易ヨリ難ニ進ミ簡ヨリ繁ニ入リ配当時間ノ如キモ実ニ総時間数ノ殆ンド半数ヲ占ム抑本校ノ修業年限三ヶ年ノ短期間ヲ以テ如上ノ目的ヲ貫徹シ一般ノ技術ヲ修得セシメンコト素ヨリ容易ノ業ニ非ス従テ毎週授業時間数ハ普通ノ学校ニ比シテ遙ニ多ク不識ノ間ニ勤労ノ習慣ヲ得シムルニ与リテ力アルヲ信スルナリ
 実ニ本校ハ如上ノ主旨ニヨリテ生徒ヲ教養シ以テ常識アリ趣味アリ徳操アル技術者ヲ出サンコトヲツトム然ルニ創設以来若干年間ハ就学者頗ル僅少ニシテ十分其効果ヲ認メラルヽニ到ラサリシモ近年我国陶業ノ発達ハ教育アル技術者ノ需用ヲ促シ来レルト世ノ父兄モ其子弟ノ技術習熟ノ速ナラムコトヲ望ムニ至レルトニヨリ入学生徒漸次増加シ学力ノ如キモ尋常小学六学年卒業以上ト規定シタルニ拘ラス高等小学校卒業ノ者多数入学スルニ至リ且各府県ヨリ来リ学フ者全生徒ノ三割ニ当ルカ如キ此実ニ本校教育ノ価値ヲ認メラルヽニ至リシモノニシテ国家ノ為ニ慶スヘク陶業ノ上ニ賀スヘキ現象ナリト謂ハサルヘカラス本校ハ此好機ニ乗シ益々施設ノ完備ニ力ヲ致シ適切ナル教育ヲ施シ以テ善良ナル技術者ヲ供給シ社会ノ需用ニ副ハンコトヲ期ス」
◎学科要旨
1.修身科
 本校ハ修身科ヲ授クルニ口授ヲ以テシ別ニ教科書ヲ用ヒス専ラ躬行実践修身ノ実ヲ挙ケンコトヲ目的トス故ニ其教材ノ如キハ例ヲ卑近ニ取リ醇々指導シ以テ自ラ悟了セシメ真善ノ美風ヲ養ヒ平素ノ常道之ニ慣レシメントス故ニ倫理ノ道ヲ説クト雖モ其学説ヲ教ヘントスルニハ非スシテ要ハ日常ノ道徳ノ依テ来ル所ヲ自覚セシメ以テ実行ノ念ヲ強カラシメントスルノ主意ニ出ツ其細目ノ概要ヲ言ヘハ初学年ニアリテハ自修ノ道ヲ説キ漸次家族朋友ヨリ国家杜会ノ道徳ヲ説ク
1.読書科
 本校ハ本校ノ目的ト生徒ノ学力トニ一致スル教科書ヲ得ントシテ苦心スル所ナリ乙科ニアリテハ高等小学読本ヲ採用シ稍進ミテハ日本実業読本ヲ採用スト雖モ教授時間ノ僅少ナルカ為全部教授スルノ余裕ナク其必要ナル部分ヲ特ニ注意シ教授シ他ハ多ク簡略ス而シテ日常須知ノ言語文字文章上ノ知識ヲ与へ兼テ知徳ヲ啓発シ以テ形式ハ勿論内容ニ力ヲ尽セリ
1.作文科
 本科ハ初学年ニアリテハ話語体ヲ主トスレトモ漸次進級スルニ従ヒ文語体ヲ主トス叙事文私用文公用文書ノ総テ文章ノ構造用法文体其他文法上ノ注意等ニ就キ教授シ以テ卒業後活用ノ基礎ヲ立テントス
1.習字科
 本校ニ於ケル習字ハ日用ノ外陶磁器製品ノ記銘ニ応用シ得ベキ目的ヲ以テ練習セシムルモノナル故ニ可及的正確ナル文字ヲ習得スルヲ期シ特ニ工業上ニ関スル文字ヲ知得セシム
1.図画科
 用器画ハ別問題トシテ自在画ハ図案ニ於ケルカ如ク多少天才ノ之ヲ助クルモノアリ少年必シモ拙ナラス年長者必シモ巧ナラス而シテ其進歩ニ従ヒ年齢ノ少長ヲ問ハス易ヨリ難ニ進ムノ法ヲ採レリ用器画ハ幾何画法投象画法ノ大意ヲ授ケ共ニ自在画ト相待ツテ実習科ニ応用センコトヲ期ス
1.製陶法講義
 製陶法講義ハ第1学年ニ於テハ之ヲ課セス此レ製陶法ハ理化学ト密切ノ関係ヲ有シ理化学ノ知識乏シキモノニハ了解シ難キ事項甚多キカ故ナリ第2学年ニ於テハ陶磁器総論則原料ノ性質試験法採掘撰選素地土調成法成形諸法釉薬調合法色釉製法装飾法焼成法等一般ノ事項ヲ講授シ第3学年ニ於テハ各論即磁器陶器石器土器ニ付キ夫々素地釉薬焼成法ヲ細説ス尚第3学期ニ入リテハ燃料築窯法ノ大要ヲ授ケ傍ラ築窯製図ヲ課ス
1.理科
 理科ハ重要ナル物理上並ニ化学上ノ現象及定律器械ノ構造及作用元素及化合ニ関スル一般ヲ教授シ自然現象ニ関スル知識ヲ与ヘ其法則並ニ人生ニ対スル関係ヲ理解セシメ兼テ視察ヲ精密ニセシメ特ニ将来従事スヘキ職業ニ関連セシムルヲ以テ目的トス
1.数学科
 数学ハ算術代数幾何ヲ教授シ工業上並ニ日常必須ナル知識ヲ与ヘ計算ニ習熟セシメ兼テ数量ノ関係ヲ明ニシ思考ヲ精確ナラシムルヲ以テ目的トス
1.図案科
 第1学年ニ之ヲ課セス之レ初学年ノ生徒ニアリテハ図案ノ知識乏シク或ハ皆無ナルノミナラス本校ニ於テ図案ヲ教授シ又ハ図案ヲナサシムルニハ自身ノ写生ニ依リテ得タルモノ或ハ図画ナケレバ図案ノ組立ヲ得サル方法ナルニ依レリ因テ第1学年ニ於テ自在画ヲ修得セシメ以テ此図案トノ連絡ヲトレリ図案ノ教授方針ハ実際ト速成ナリ即チ短時間ニ於テ陶磁器一般ノ図案ヲ知ラシメ就業ノ暁新意匠ヲ他ニ求メサルモ各自ニテ考案ノ出来得ルコトヲ期ス
1.実習科目
 実習ハ轆轤模型陶画ノ3専門ニ分タルヽコト学則ニ示スカ如シ而シテ第1学年ニ於テハ全生徒ニ此等実習ノ3科目共交互之ヲ課スルコトヽセリ此初学年ニアリテハ生徒自身ニ於テ此等実技ノ性質ヲ了解セサルヲ以テ之ガ撰択ニ苦ムノミナラス学校ニ於テモ各生徒ノ技術ニ於ケル長所ノ何レニ存スルヤ不明ナルカ故ナリ且又此等実習ハ3科互ニ密切ナル関係ヲ有シ模型ニ従事スルモノモ陶画轆轤ノ心得アルヲ要シ陶画ヲ実習スルモノモ亦模型轆轤ノ心得アルヲ可トスルカ故ニ各自専門実習ヲ撰定スルノ前初1学年間何レノ実習ニモ従ハシメテ其一般ヲ会得セシメ其間ニ於テ生徒各自ノ技能ニ於ケル嗜好長短ヲ発見セシメ学校ニ於テモ夫々何レノ実習ニ従ハシムルヲ得策トスルヤヲ調査スルナリ第2学年ニ進ムニ及ヒテ始メテ1実習ヲ撰定シテ之ニ従ハシメ各人ノ長所ヲ発揮セシメンコトヲ努ム但学力技術共ニ優良ニシテ成業ノ見込アリト認ムルモノハ本人ノ志望ト学校ノ見込トニヨリ2科ヲ兼習セシムルヲ得ルコトヽセリ.
 さて,当時の学費はどれくらいであったろうか.学校で全生徒から徴収したものは第15表のとおりであった.この頃には寄宿舎もあって,遠来の生徒を収容していた.その賄費は月6円,雑費が月70銭であった.
第15表 諸費用

◎学資概算
 「本校入学者ノ学資ノ概算ヲ示セハ本校ニハ制服ナシ唯登校ノ際着袴セシムルノ必要アリト雖モ袴ハ之レ我国普通ノ礼服ニシテ殆ト所持セサルモノナシト見テ可ナルヘキヲ以テ特ニ学資概算ニ加フルノ必要ナシ若シ製スル必要アリトモ木綿ノ袴1着1円内外ニテ製シ得ヘシ」(以下略)
 第15表の月謝すなわち授業料は明治42年(1909)当時で30銭,明治44年(1911)の県立移管後は,月額50銭となり,さらに徒弟学校規程が廃止されてからの大正10年(1921)には月1円20銭に増額された.これを当時の瀬戸の陶工の賃金と比較してみよう.その前に,従来の徒弟の生活に眼を向けておきたい.
 陶器学校創立当時はまだ旧藩時代からの陶工養成制度が続いていた.いわゆる徒弟制度で,地元または近郷の10歳前後の年少の男子を弟子入りさせ,10年ないし12年修業かたがた労力を提供させた.大体25~26歳で年季明けとなったが,時には親方すなわち師匠の依頼でさらに5年くらい働く者もあった.大方は兵隊検査の年齢(20歳)が一つの区切りになっていたようである.
 前述したように,瀬戸ではこれらの徒弟を「ヤロ」と称したが,小学校にもほとんど就学せず,早朝から夜まで年中土をこね,真冬にも冷たい土を踏み,窯場の雑用を負わされていた.休日は月2回あったが,その日も半分以上は窯場の整理に使われることもあった.ずいぶん過酷な労働条件で,ヤロは人間の仲間に入れてもらえなかったと語る人もある.従って,途中で逃亡する者もあった.賃金は年2回払いで,盆に内金,暮に清算という慣習で,その金は親に渡されていた.月額にして50銭から1円程度であったと言う.このヤロが18歳から20歳でどうにか1人前として認められるようになるが,何の技術も身につかぬ不器用な男は「下廻し」と呼ばれ,いつまでも下働きしかできなかった.ある程度の水準以上の技術を身につけた者は「窯ぐれ」と呼ばれ,さらに「ロクロ師」を目ざして修業を続ける者もあった.窯ぐれが職人の一つの目標であり,移動,契約の自由を持っていた.窯ぐれは瀬戸以外の陶磁器産地のどこでも使ってくれたし,またその移動が賃金の上昇にも連なるものであった.
第16表 明治,大正,昭和初期の瀬戸陶工の労賃
 しかし,徒弟の年季も製産技術の進歩により,時代が進むにつれその期間が短縮され,明治20年(1887)から同35年(1902)頃までは3~5年となり,明治40年(1907)前後には長くて3年となって,それ以後次第に徒弟制度が崩壊してゆくのである.時あたかも瀬戸の登り窯が石炭窯へと転換してゆく時期であった.
 こうした陶工たちの明治後半期から昭和初期にかけての1日の賃金はどの程度であったか.ヤロではない1人前の者の日給は第16表のようである.
ⅷ 褒 賞
 奨学金制度はなかったが,成績優秀者に恩賜賞として銀時計が授与された一時期があった.その外,出席状況のよい生徒には毎年精勤賞が与えられた.明治37年(1904)3月28日付で,1年生磯野茂吉に賞状とともに金20銭の貯金切手が精勤賞として与えられている.このような制度は明治期には小学校にもあって,就学,勤勉を奨励する方策であった.
ⅸ 外国人留学生
 創立後10年を経過すると技術修得のため,外国人が入学するようになった.入学年度に従ってその国籍・人数を示す.明治41年(1908)に始めてフィリピン人が1人,以下,明治42年(1909)に朝鮮1,明治44年(1911)県立移管の年に,朝鮮2,フィリピン4,大正元年(1912)はフィリピン1,翌大正2年(1913)にフィリピン2となっている.この数は卒業生名簿から拾ったものだから,実際に入学した外国人はもっと多数であったと考えられる.その後はどういう訳か留学生は途絶えている.また,どうして瀬戸陶器学校が留学先に選ばれたか,その理由,経緯等は不明である.ちなみに,当時日本の各地に設置されていた陶磁器関係の実業学校には次のようなものがある.
 石川県立陶器学校(石川県)明治20年創立
 有田徒弟学校(佐賀県) 明治28年創立
 常滑町立陶器学校(愛知県) 明治29年創立
 土岐郡立陶器学校(岐阜県) 明治33年創立
Ⅶ 県立移管
(1)町の運動と愛知県議会の議決
 明治39年度から入学者が急激に増加し,それに伴って教員も増やさねばならず,また一方,工業の近代化による施設・設備の改善も必要になってきた.陶器学校の経営が町財政を圧迫したことが大きな要因と思われるが,明治41年(1908)の加藤町長の頃から,県への移管について再三陳情が行なわれた.明治42年(1909)町長に就任した伊藤茂三郎もこの運動を熱心に続け,教育問題というよりも政党政治にからんだ問題として県議会で審議された.瀬戸町民,陶業者の熱烈な運動もあり,紆余曲折を経て県営移管が決定したのは明治43年(1910)12月20日であった.その予算額は2年継続業として3万円であった.
(2)県立移管当時の学則と校憲
 明治44年(1911)4月1日,黒田正策校長が岐阜県土岐郡立陶器学校から着任し,優秀な教員を集めて,昭和5年(1930)まで20年の長きにわたって学校経営に全力を傾注するのである.黒田校長が東京高等工業学校の教員養成所の出身であったことを思うと,明治中期の指導者とは異なり,早くも実業教育の専門家が養成され,教育現場で指導力を発揮し始めたことが判る.愛知県立陶器学校と改称された頃の学則ならびに校憲は以下のとおりである.
学則ノ概要
 本校ハ徒弟学校規程ニ依リ尋常小学校卒業程度以上ノ男子ヲ入学セシメ修業年限ヲ3箇年トス
 各科目ハ修身・国語・数学・理科・製陶法・図案・図画・実習トス但シ実習ハ轆轤・模型・陶画ノ3科トシ生徒ノ希望ニヨリ1科又ハ数科ヲ修セシム
 毎週教授時数ヲ39時トス
 授業料1箇月50銭
 補習科生ハ本科卒業後2ケ年以内在学スルヲ得
 寄宿舎ヲ設ケ寄宿生ヲ収容ス
 生徒定員120名
校 憲
 1.学校ハ一ツノ小国家ナリ此小国家ニ於テ良民タラザルベカラズ己ニ是ニアリテ良民タラバ将来我国ニ於ケル有用ノ人材タルコトヲ得ベシ
2.礼儀作法言語服装ニ現ハルル所ノ紀律ハ以テ精神上ニ於ケル紀律ノ反照タルモノナレバ外面ニ現ハルル所ノ秩序ヲ正セバ内部ノ秩序モ自ラ得ラルベシ
3.長上ニハ恭敬ナレ低キニ対シテハ高慢ナル勿レ幼年ノ時ヨリ義〓ノ行為アルハ人ノ誉ナリ
4.職業ニハ貴賤ノ別アルコトナシ自己ノ職ヲ楽ンデ勤勉セヨ勤勉ノ褒賞ハモトヨリ唯財貨ノ一ニ限レルニアラズ勲功名誉地位安楽悉皆勤勉ノ褒賞ナリ
5.勤勉ノ褒賞トシテ得タル財貨ヲ節約シ其ノ剰余ヲ積ミテ他日ノ用ニ供セヨ負債ハ人ノ元気ヲ銷沈セシメ人ノ性質ヲ卑屈ナラシム
6.職業ハ自利ノミノモノニ非ズ皆社会国家ニ対シテ重大ナル関係ヲ有スルモノナレバ単ニ己ガ都合ノミヲ量ラズ公益ヲ考ヘテ何事モ行フベシ
7.小事ニ忠実ナレ然ラバ将来大事ヲ為スニ至ル
8.労働ハ人生必然ノ法則ニシテ天恵ナレバ労働ヲ好ムモノハ裏面ニ快楽ヲ得ツツアルコトヲ知レ
9.活発ナレ常ニ活発ノ精気ヲ保チ自家ノ現状ヲ楽ンデ元気ヨク愉快ニ仕事セヨ
10.外観的義務ヲ遂ゲタリトモ満足スル勿レ而シテ義務ヲ果スノ外善事ヲ自由意志ヨリ行ヘ課セラレタルコトノミヲナスハ奴僕ノ事ナリ他人ヲ標準トセズ自ラ実意ノアラン限リヲ尽セ
 この校憲なるもの,いささか古風であるけれども,明治期の殖産興業,勤勉努力,滅私奉公の精神を語っている.また,学則に示す授業料月50銭は,大正期に入ると,授業料が月60銭,校友会費が月30銭,計90銭となる.しかし,生徒数を多くする方針で,瀬戸町出身者に限り授業料を免除し,町で負担した時期もあった.
(3)県立移管当時の職員・生徒・予算等
 第17表を見ると,創立当初に比べ教員の質がひじょうに高くなっていることが判る.その他明治末期の状況を第18表~第23表に示す.
第17表 愛知県立陶器学校職員調
第18表 愛知県立陶器学校生徒調書
第19表 本学年入学生徒
第20表 愛知県立陶器学校予算調
第21表 前学年半途退学生徒
第22表 前学年卒業生徒
第23表 明治44年~大正4年の県立陶器学校の教科目

Ⅷ 陶磁器産業の近代化と卒業生の活躍
 明治末期から大正初期にかけてのおよそ20年間は名古屋・瀬戸の陶磁器産業が近代化の実を挙げ,名実ともに全国の覇権を握り,輸出を飛躍的に伸ばした時期である.
 それは技術革新による工場生産ならびに経営組織の近代化の結実したものである.技術の革新には,松村八次郎による石炭窯の研究とそれによる硬質陶器の製造を始め,素地の改良,各種動力への電気の利用,原土精製に用いる機械の輸入,あるいは石版転写法の開発等により,従来の和食器,日用雑器の生産とは全然異なった大量生産が可能となった.一方,それとともに,陶磁器生産においても,洋食器,電気用品,化学用品,建築用タイル等,各メーカーによる生産の専門化が進んでいった.
 また,経営組織面においても,明治37年(1904)の日本陶器の設立を始め,同39年(1906)の松風陶器,同44年(1911)の帝国製陶(後の名古屋製陶)等の会社が相次いで名古屋を中心として設立され,ディナーセット等の純白硬質磁器の輸出に拍車をかけるのである.
 会社,工場の設立のみではない.明治30年(1897)公布の「重要輸出品同業組合法」に基づいて,2年後には瀬戸陶磁工商同業組合が新設され,直営事業として原料精製工揚を作り,品質の均一化を図ったり,製品の選別,あるいは品評会,講習会の開催等を通じて地域全体の品質と生産性の向上を図ろうとする機運も生まれている.陶磁器業の工業化に対応するため業者の自覚と相互扶助の精神の高まった証拠である.
 さらに,金融,運輸,通信,電力等,明治期における日本の諸産業の近代化の成果が次々に各方面に現われてくるのもこの時代である.本校創立の翌年には瀬戸銀行(後明治銀行と合併),その次の年には瀬戸郵便局が瀬戸郵便電信局と改称,電信業務も開始する.明治35年(1902)には瀬戸自動鉄道株式会杜(同39年12月,瀬戸電気鉄道と改称)が設立され,同38年(1905)4月から名古屋市東北の矢田町と瀬戸間の営業を始めている.セルポレー式蒸気原動車によるこの鉄道は明治44年(1911),名古屋市の堀川まで通じ,電車も運転されるようになった.国鉄中央線大曾根駅が開業したのもこの年である.なお,瀬戸町内83戸に始めて電灯がついたのは明治35年((1902)9月10日のことであった.
 また,これまで横浜,神戸に依存していた陶磁器の輸出が,産地瀬戸に直結するようになったのは明治42年(1909)の名古屋港開港による.ちなみに,その年の名古屋港の貿易額は,輸出1,700万円,輸入870万円,輸出品の大半は陶磁器であった.
 こうした経済の発展に際会し,陶器学校卒業生の活躍する新天地が開けたことは言うまでもない.創立当初,自家営業を目的とする子弟が,3,4人ずつ巣立って行った頃とは陶磁器業界の様相も一変していた.本校卒業生に対する需要も増加の一方で,この頃には中堅技術者ならびに経営者の養成が本校教育の眼目となったのである.
 特に大正初期,世界大戦を契機として,日本陶器,名古屋製陶等の洋食器の輸出が急増するが,それにも増して瀬戸の名を高める新製品の研究開発が行なわれる.ドイツのビスク人形に代わる置物玩具の生産である.これら陶製の人形・動物の類は「ノベルティ」と総称されるが,そのデザイン,製作技術,彩色等の技法開拓において本校卒業生の果たした役割は実に大きかった.それ以前の輸出品は中国向けの土瓶のように粗悪品が多かったが,陶器学校出身者が原型師として進出するに及んで品質がすっかり改良された.特に山サ製陶株式会社会長加藤佐久衛氏の存在が有名である.氏は陶器学校を大正3年(1914)に卒業したが,在学時代からその技術を認められ,丸山製陶に入社,ノベルティの技法を改善し輸出の増加に大きな貢献をした.氏は当時を回想して次のように語っている.
 「陶器学校卒業後7年間,工場従業員として輸出物の原型を作っていた.その技術の基礎は陶器学校で身につけたもので,先生の指導がよかったと思う.日本陶器のアメリカ在住の社員がよいアイデア,よいデザインで向こうで売れそうなものの図面を送ってくる.その原型を作るのに様々な苦心をした.今でも原型師は多いが,ほとんどこの学校の出身者であって,私の今日あるのも陶器学校のお蔭である.」
 やがて,このノベルティは技術上の難点を克服し,低コストによる生産に成功して外国製品を完全に圧倒し,今や瀬戸の輸出陶磁器の70%の多きを占め,いわば瀬戸の生命ともなっているのである.

む す び
 徒弟学校としての瀬戸陶器学校創立の要請は文部省あるいは県の学事課よりはむしろ農商務省という業界ルートの工業振興政策から出てきたという論もあるが,当初工業化を引っ張っていこうとした教育が,やがて工業化の中に包み込まれて,それを一層推進するため体質を改善しながら国民の中に普及してゆくことになる.
 時は移り,第2次大戦後は大きな学制改革により,昭和23年(1948)に本校は愛知県立瀬戸窯業高等学校と改称された.すでに本校卒業生で純粋に技術だけで生きる者は少なくなり,経営者あるいは会社事務員の道を歩む者も多くなってきた.さらに,戦後の目ざましい科学技術の進歩に対応し,現在では1学年290名(窯業科2学級80名,商業科2学級90名,窯業機械科1学級40名,電子材料科1学級40名)と窯業専攻科(約20名)の募集人員となり,明治期以来の伝統を踏まえて発展を続けている.
[注]
 1)瀬戸市『瀬戸』,市制50周年記念誌編集委員会,昭和54年10月,102ページ.
 2)愛知県教育委員会『愛知県教育史』第3巻,昭和48年7月,775ページ.
 3)瀬戸窯業高校創立80周年記念行事委員会『愛知県立瀬戸窯業高等学校80年史』,昭和50年11月,162-64ページ.
 4)黒田政憲『実用製陶学』,丸善,明治42年5月,1-6ページ.
 5)中山伊知郎『日本の近代化』,講談杜,昭和40年1月,70ページ.
 6)寺内信一『尾張瀬戸常滑陶瓷誌』,学芸書院,昭和12年7月,199ページ.
 7)水野瀬市研究ノート『明治期の瀬戸』Ⅰ,22ページ.
 8)瀬戸窯業高校創立80周年記念行事委員会,前掲書,33-51ページ.
[参考文献]
 (1)日本近代教育史事典編集委員会『日本近代教育史事典』,平凡社,昭和46年.
 (2)伊藤郷平『愛知県の地理』(日本地理集成Ⅵ),光文館,昭和41年.
 (3)国立教育研究所『日本近代教育百年史』9,「産業教育(1)」.
 (4)愛知県実業教育振興会『愛知県特殊産業の由来』上巻,愛知県実業教育振興会,昭和16年.
 (5)加藤武夫「陶都瀬戸」,板倉勝高編『地場産業の町』下,古今書院,昭和53年,174-86ページ.
 (6)瀬戸町『瀬戸町誌』,桝屋書店,大正4年.
 (7)愛知県窯業学校『校友』第22号・創立40周年記念号,愛知県窯業学校校友会・同窓会,昭和11年
 (8)吉田光邦『やきもの』,日本放送出版協会,昭和48年.
 (9)三井弘三『概説近代陶業史』,日本陶業連盟,昭和54年.
 (10)安藤政二郎『瀬戸ところどころ今昔物語』,大瀬戸新聞社,昭和16年.
 (11)小出種彦『黒い煙と白い河』,貿易之日本杜,昭和34年.
 (12)日本輸出陶磁器史編纂委員会『日本輸出陶磁器史』名古屋陶磁器会館,昭和42年.
[山下英一]