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実業教育

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わが国離陸期の実業教育

論文タイトル: 第2章:D 南都留染織学校
著者名: 竹内 常善
出版社: 国際連合大学
出版年: 1982年
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第2章:D 南都留染織学校

序論 郡内絹織物地帯の構造的特徴
 本稿では明治29年(1896)に山梨県南都留郡谷村に創設された南都留染織学校を中心に,明治期以降のわが国実業教育が地域経済圏の中で持ちえた効果と意味を考えていくこととする.その場合,同校が当時のわが国の実業教育政策に照らしてみて,本来的制度理念を発揮しえたものであるかどうかについては力点をおいていない.そうした関心は当時の実業教育担当者の中に-多少の焦燥感ともどもに-かなり鮮明に認識されていたことである1).その場合,具体的には中級技術者,熟練工の養成を狙って打ち出された実業学校設置が,所期の意図から乖離して知識人や経営者の教育に偏し,広汎かつ強固な社会の中下層の土台を築くことにならず,そこに色濃く認められた旧時代的遺制を払拭することも困難であった点に認識の照準があてられている.
 それにまた,異質の問題関心からのアプローチとはいえ,最近の研究成果の中からも,こうした側面に見事にスポットをあてている労作を指摘することもできる.隅谷三喜男氏らの分析がそれである2).
 同氏らの視角は,なにより日本資本主義の蓄積に伴って直接的生産過程の作業序列や職場編成がどう再編されていったのかについて絞り込み,徒弟制の変容を伝習生制度,職人徒弟制,工場徒弟制,養成工制度という歴史概念で把握しつつ,その推移を明らかにしている.その場合,歴史的変遷過程に力点があり,必然的に分析対象がわが国の基幹産業に多く限定されている.全体的な問題関心からすれば当然のことであるが,資本集約部門の重点的政策的導入が,その周辺部に広汎雑多な労働集約部門の分散的自生的形成を惹起し,後者がまた前者にとってのより集中的蓄積の条件ともなっていったという側面についてはどう考えればいいのだろうか.このようなわが国の資本主義的「発展」の一つの要諦を見る上で,基幹産業の企業内的編成の推移とは別の視角の作業も我我なりの課題として遺されているのではあるまいか.
 そう考えた場合,南都留染織学校を分析対象にするに際しての特殊性と限界を2点ほど掲げておかねばならない.第1点は,同校が設置されていた南都留郡と東北部に隣接している北都留郡との地域的特殊性である.この南北都留郡一帯の地域を山梨県では「郡内」と呼んでいる.それは甲府市を中心としたより広い後背地を持つ県内他地域を「国中」と呼ぶことに対応しており,後者地区住民の間では多少の通俗的偏見を籠めて語られる地勢概念でもあった.郡内は西南部に富士山の岳麓を擁し,河口湖と山中湖を両翼の水源に見たてるかのように桂川が東行している.その桂川と支流群に沿って点在する町や村から両郡は成り立っている.西部に富士吉田地区,中域に谷村を中心とする現在の都留市があり,東部に旧広里村,旧大目村などを包括した現大月市がある.国中との間は笹子峠,御坂峠に遮てられており,中央線が明治37年(1904)に開通するまで,甲府の県庁職員が郡内での研究会に参加して帰甲するのに6日を要したという記録すら遺っている.
 東南は小仏峠を越えて多摩山稜地帯に連なっている.そして当該時期に関して,何よりここで指摘しておかねばならないことは,農業人口ないし農家構成比の旧時代的高さであり,その平均耕作面積の-とりわけ田地面積の-狭小さである.桂川は連山の間を縫うように蛇行し,田地はその両側に僅かに展開しているにすぎず,間近に山麓をひかえている.具体的な数字は第1表に見られる通りである.農家1戸当たり平均収穫米量が0.8石前後では自作であれ小作であれ,形態ぬきにその経営の再生産は常識的に不可能である.それを支えたのが養蚕であり,製糸であり,機業である.わが国の「零細耕作農」が養蚕業の労働集約荷重労働に耐えてその経営を維持してきたことは“古典的”な指摘でもあるが3),郡内では農家の殆どが養蚕業を「生計補充用副業」としていただけでなく,同時に自ら製糸し,製織することまでしており,さらに言えば,この上に炭焼きを中心とした山仕事を加えておかねばならない4).こうした事態の一端が山梨県内だけに限って見てもいかに特異であったかは第2表からも窺い知ることができよう.
第1表 北都留郡の農業経営の推移
第2表 明治30年(1897)の山梨県下の代表的就業戸数
 こうした傾向は江戸時代との繋がりを直截に連想させるものである.例えば現大月市にあたる葛野村の古文書のうち享和元年(1801)の「機具数取調書書上帳」によれば,当時の同村124戸,総人口654人のうち機[はた]の所有戸数123戸総計197台であり,最高1戸当たり5台の所有しかなく,1戸で1台だけ持っていたもの71戸となっている5).
 このことも含めて,郡内地方のいま一つの特殊性は,零細農家経営維持改善の掛替のない手段が絹織物にあったという平凡に見える事実そのものである.
 わが国に限ったことでは決してないが,国民経済の産業化過程で素材生産部門に資本集約的巨大経営が集中し,ダウンストリームの加工部門になればなる程,労働集約的零細経営が叢生することは珍しくない.しかしそれがかなり極端だった点で,わが国は一典型事例をなしていたともいえる.そうして,こうした産業化過程のなかで,機械金属部門ではわが国には官営八幡製鉄所や陸海軍工廠が成立し,それが超越的存在となってリードしていた.鉱山炭鉱部門は特権的財閥資本の牙城になっている.それに比較して軽工業部門では財界の主流を形成するような固有勢力を生みだしてはいない.それでも綿糸紡績業は明治20年(1887)代に早くも紡績聯合会というカルテル組織を結成するまでに一部資本の伸長をみせ,わが国に於ける独占的資本の無視できない支柱を形成している6).
 こうした状況の中で絹糸業は相貌をやや異にしている.この部門でも素材生産部門とも呼べる製糸業では独占的経営も成立してはいる.だがそれは他部門のそれに比して,成立が時期的にかなり遅れただけでなく,その内実も多分に貧困であった.このことは小野征一郎氏らのつとに指摘される通りである7).
 上流の構造からしてそうした矮小性を有している状況下で,製織や縫製などの加工部門のリリパットぶりは多少予測のつくところである.ところが郡内はその小状況内でもさらにいっそうの重荷を負う方向を選択してきたように見えるのである.
 綿糸紡績業や製糸業部門に比して,綿織物や絹織物部門がより零細な経営によって担われていたことについては言を俟たないにしても,その対応には幾つかの方向があったといえる.綿布でいえば大阪泉南地方の平織布,絹織でいえば福井県の輸出羽二重などの生産地帯は製品を特化し,その中でともかくも技術と資金を蓄積し,中核的な経営を生み出すまでになっている8).製品が限定され市場が拡大していく場合には安定的な大口の供給者は市場からも要望されるし,現実に登場してくる.ただ労働集約的な長時間労働に依拠せざるを得ない社会条件と,輸出依存で国際関係の緊張に伴って常に不安定だった市場条件が,よりいっそうの投資に対する冷水的抑制剤になっている.
 郡内地方の対応はそうした方向とも多少異なっていた.同地の主力絹織物は甲斐絹[かいき]と呼ばれるものである.古くは「改機」「海気」あるいは単に「カイキ」と書かれており,『山梨県統計書』でも明治末期まで「海気」の字をあてている.
 製織に特別の工程がある訳ではない.生産手段も「イザリ機」から「高機」へと,杼も「飛び杼」から「引杼」へと各地で見られる発達過程そのままに推移している.導入と定着の時期が多少遅れてはいるが,とりわけて郡内に限ったことでもない.
 甲斐絹に関して注意しておかねばならないことは,それが先染織物だという点にある.さらにいえば,それが先染にも拘らず低価格品に主力があったということである.同地方の郷土史関係の文献には甲斐絹が西鶴文学に登場することをもって文化史的価値根拠としているものが多い9).しかしそれは要するに公的には絹製品の着用が憚られる町人の愛用品だったということである.にも拘らず郡内では手作業の複雑になる先染め加工を厭わず,さらに幾多の製品を生みだしていったようである.経糸と緯糸とを違えて独特の「地風地合」10)を生みだした玉虫甲斐絹,多様な色糸を配した縞甲斐絹,経ないし緯糸に模様を書き染めて織り上げる絵甲斐絹,こうしたものを前提しながら明治期以降の郡内絹織物業は展開していくことになる.
 製織に特殊の体系がないとすれば,特徴は染色と素材の選択にあることになる.そしてこれがまた甲斐絹生産の零細性を規定することになっていた.
 わが国染色業の発展と特長を簡単に概観することは難しいが,大雑把にいって明治末期までは小規模個人営業が殆どだったと言えそうである11).会社組織のものも概ね家内工業の仕事場の域を出ず,せいぜい若干の機械を有する町工場といったところであった12).
 染色工業が大規模化傾向を見せはじめるのは,紡績関連で輸出綿布の加工が広く需要を見出せるようになってからであり,顕著になるのはやっと第1次世界大戦期以降である.例えば鐘淵紡績が淀川工場で染色を開始するのは大正7年(1918)であり,漂白は翌大正8年(1919)から行なわれている.
 漂白や加工整理工程は,精練,糊付け,艶出し,起毛を含めて,染色の予備的工程と看做されていたし,現実に染色工場が担っていた.綿糸布の場合,第2次世界大戦期にかけて晒工業の過半,染色の40%弱が大手紡績資本の支配下にあったとされるものの,現実には中小経営を外業部的にコントロールすることが多かったのはよく言われてきたことである13).
 資本の集積集中の進んでいた紡績綿織部門でこのような状態であったから,絹織物のそれはもっと零細だったと考えられるが,単に規模的に零細であるだけでなく,後進地帯では機業家の下職的性格すら窺えたとされている14).
 こうした染色部門に逆に依拠することの多い甲斐絹生産地帯ではかえって染色者の力量が評価され易い土壌を形成するが,そのことは零細層間の相互依存と相互規制の性格を強めることになっていた.江戸時代以来の各町村の紺屋業者が作業を秘伝化していたことも,そうした傾向に拍車をかけるものになっていた.
 甲斐絹の別の特徴は,原糸の使いわけで多様な用途の製品に仕上げていたことである,薄地の「郡内海気」や「鴨川」,袴地用の「郡内平」,質の劣るしけ糸を利用した「郡内太織」などは既に享保年間から知られているが,製品の多様さは経営形態の変革には結びつき難い.まして同様の作業手段に依拠しながら手先の器用さに依存して織りわけるような方式が日常化すると,市場からの要請に変幻自在に対応しえても,根底的な技術や生産様式の改革にはたち遅れることになり易くなる.
 そして事実,幕末開港後の郡内地方の採った道はそうした性格の強いものだったようである.明治初期,郡内からは絹製パジャマ生地と洋傘地が輸出され一時代を画することになる.それが壁にぶつかってしまうと,ほどなく意匠を新たにした「海気パジャマ」や「泥鰌織」洋傘地などが出されてくる.絶えずそうした工夫によって停滞の克服が計られていく.特定の製品の高度化ではなく,雰囲気の多少異なる製品による市況回復努力が矢継ぎ早に繰り返されていくことになる.
 こうした努力の蔭には多くの人材を見出すことができる.最初の洋傘地を織り出したのは北都留郡賑岡村の幡野康利であり,「泥鰌織」をあみ出したのは南都留郡明見村の奥脇伝四郎と利助の父子であり,彼等はさらに「ゴム綾」「引き綾」などを創案していく.明見村はやがて洋傘地の一大産地となっている15).
 だが経営形態は「旧幕時代のままで家内工業的,半工半農の経営形態であった」16)と指摘されており,階層分化が微弱で内部対立が生じにくい反面,社会的再生産の底辺は浅かったようである.明治10年(1877)代に染色技術の未熟さから海外市場の不評を買い,そこに松方デフレ下の不況が押し寄せてくると「その労力と資金とは全く無効に帰して……昼夜を分たず山に入り葛の根や,〓の実などを拾い僅に餓をしのぎおるもの各村に数十戸」17)という有様に追い
込まれている.
 このような基盤脆弱に見える郡内の絹織物業ではあるが,それが山梨県や日本全体の中で占める比重は決して軽視できるものではない.郡内を中心とする絹織物業は山梨県下では一貫して製糸業に次ぐ重要産業であったし,明治24年(1891)の全国絹織物生産に占める位置は反数で群馬県,京都府,福島県に次ぎ,価額でも京都府,群馬県,福井県に次いで第4位である18).
 これだけの実勢にも拘らず同地方の絹織業はほぼ一貫して中小零細層に依拠していた.そのことを定量的に確認しておこう.明治30年(1897)の『山梨県統計書』は県下の「工場一覧」を掲げている.基準がはっきりしないが,231工場中製糸業が226,他は紡績が2,機業,印刷,マッチ生産が各1であって,この機業も甲府市内の大木機織工場となっている.市郡別に見ても製糸業地帯の東山梨郡l08,東八代郡37,甲府市28と続いて,南北両都留郡のものは1例も見当たらない.
 話を少し飛躍させよう.現在でもこの地方の機業者中の専業者は20%ほどでしかない.他は主に農業との兼業である.力織機所有台数は1工場当たり3.3台と全国平均9.7台のほぼ3分の1である.そして家族労働力比率は85%となっている19).
 だがこうした形態的特徴をあげつらうことが本稿の課題ではない.一見停滞性の無窮運動のごとく現われている過程であっても,個々の直接的当時者の主体的営為があり,それが多様な市場関係の中で一定の位置を占めている以上,生産をとりまく諸関係は間違いなく変化していかざるをえない.そうした過程の狭間に投じられた実業学校とそれに前後する政策的一石の実態と機能について検討を加えること,それが以下の課題である.
[注]
 1)例えば,文部省専門学務局『明治三十二年十月工業学校長会議要項』,明治32年,に収録されている「地方工業学校長召集ニ際シ文部大臣訓示ノ要項」などを参照されたい.
 2)隅谷三喜男『日本賃労働史論』,東京大学出版会,昭和30年.
 隅谷三喜男編著『日本職業訓練発展史』上・下,日本労働協会,昭和45,46年.
 3)山田盛太郎『日本資本主義分析』,岩波書店,昭和9年,61ページ.
 4)戦前期の東京市中で炭屋経営者に山梨県出身者が際だっていたことが想起されるであろう.
 5)ここでは,山梨県繊維工業試験場『創立70周年記念誌』,昭和50年,89ページから採らせて戴いたが,江戸時代の郡内機業については下記のものが参考になる.
 大月市史編纂委員会『大月市史』資料篇,昭和51年ならびに同通史篇,昭和53年.
 6)それを「消極的」類型と看做すかどうかはともかく,綿糸紡績資本の独占資本としての軌跡の特殊性を最も包括的に追究したものとしては下記のものを指摘しなくてはならない.
 柴垣和夫『日本金融資本分析』,東京大学出版会,昭和40年.
 7)小野征一郎「製糸独占資本の成立過程」,安藤良雄編『両大戦間の日本資本主義』,東京大学出版会,昭和54年.
 8)最近の研究水準を示すものとして下記のものを掲げておく.
 阿部武司「両大戦間泉南綿織物業の発展」『土地制度史学』第88号,昭和55年.
 9)井原西鶴『好色一代男』岩波文庫版,昭和30年,208ページ.この本は門外漢にとっては長編小説というより,衣裳小辞典のようなところがある.
 10)海保青陵『稽古談』巻之四,岩波書店版『日本思想史大系』44所収,昭和45年,302-3ページ.
 11)以下,主として下記のものによる.
 大東亜繊維研究会『日本染織工業発達史』,日進杜,昭和18年.
 日本繊維協議会編・刊『日本繊維産業史』各論篇,昭和33年
 12)比較的初期の機械制染色業に関しては下記のものが掲げられる.
 『大和川染工所七十年小史』同史編纂委員会編・刊,昭和41年.
 13)小林義雄「独占資本の系列支配」楫西光速ほか編『講座中小企業』第Ⅱ巻,有斐閣,昭和35年,227ページなど.
 14)泉俊秀『日本染織商工史』下巻,商業経済資料編輯所,昭和3年,87ページなど.
 15)前掲『創立70周年記念誌』,45-53ページ.
 16)『山梨日日新聞』昭和57年4月7日付.
 17)前掲『日本染織工業発達史』,346ページ.
 18)安藤誠治・小幡宗海『山梨鑑』下巻,山梨鑑事務所,昭和27年,183-84ページ.
 19)前掲『創立70周年記念誌』,16ページ.

Ⅰ 学校の成立前史
 明治期以降の輸出用甲斐絹生産は幾度となくブームと不振の振幅に悩まされている.そしてこの不振の最大要因は新染料を使いこなしきれない技術的未熟さにあったようである.
 江戸時代の甲斐絹の色相については紺系統を中心に「その色千差万別」といわれるほど発達しているが,全て植物染料によるものである1).だから発色が容易でなく,俗に下地,中染,上染と呼ばれたように何度も繰り返して作業しなければならなかった.とりわけ濃色染の場合は夥しい反覆作業と点検が必要だった.
 発色の技術は秘技口伝化し,村々に紺屋が形成されていた2).彼等は主に阿波藍を利用し,それだけの材料でも「単色染で浅黄,空色,御納戸,花色,紺色と濃淡により染め分け,また配合色の下染用,上染用」としても利用していた.
 そうした世界にヨーロッパからアニリン系の人造染料が入ってきたのである.その導入ぶりだけは実に手際がよかった.
 イギリス人ウィリアム・パーキンが「ティリアンパープル」を創り出したのが安政3年(1856)で,翌年にはその工業化がなされている.ところが,これがわが国に入ったのは文久2年(1862)であり,京都西陣の井筒屋忠助が「紫粉」と称して利用している.
 また「ティリアンパープル」発明と同じ安政3年(1856)にフランス人ナタンソンも「マゼンタ」を創ることに成功している.その企業化は安政6年(1859)であり,これも慶応2年(1866)にはわが国に導入されている.その年,桐生の佐羽喜六が「紅粉」と称して「マゼンタ」の購入利用を手懸けている3).
 従来の藍染めでは数回から数十回,高級品の場合には200回近くも染めを重ねなければならなかった4).それに対して下地を植物染料と金属媒染剤で染め,その「上掛け」として紫粉や紺粉を配合染めにする方式を埼玉県の機業家が創案するや,それは「舎密染め」とか「化学染め」と呼ばれ全国に急速に普及していった5).
 また京都府から染色伝習生として明治6年(1873)のウィーン万国博覧会に派遣された中村喜一郎がドイツのアニリン工場で1年間伝習を受け翌々年に37種のアニリン染料を伝えるなど,種類も短期間に豊富化している.
 問題はこうした洋式技術導入と並行的に発生している.織物素材と染料の酸性や塩基性に関する一般的知識の欠如も原因していた.だがそれ以上に外見上の染色だけなら素人でも簡単に発色させられるために,零細織物業者が自染することが多くなり,問題をいっそう深刻にしたことである.
 乱用と濫造は全国的傾向となった.このことは先進国技術導入の手段として絹製品の輸出を強力な梃子にしようと考えていた政府関係者を驚愕させることになる.明治14年(1881)の内国勧業博覧会,明治18年(1885)の府県聯合五品共進会などでは「絹織物業ハ組織染色等依然トシテ旧観ヲ改メサルノミナラス,動モスレハ染色粗濫ニ流レ紋様配色見ルニ足ラサルナリ」6)と慨歎されるまでになる.
 このため農商務省では急遽「両毛地方を始め各産地に技師を派して泥縄式に講習会を開催し」引続いて「各織物産地に染織講習所の設立を促し」「先づ桐生,足利,伊勢崎,八王子,山梨(南北都留郡)等に講習所が開催又は常設さるるに至り平賀義美,山岡次郎等の諸氏出張され,後には蔵前工業学校卒業の山口務(今の貴雄氏),岡本金一郎,平田専太郎の諸氏各地に出張講習された」7)といった現地指導体制をとっている.同じ頃,中央に於ける学者,技術者,官僚層などが全国繊維産業の知的指導機関としての大日本織物協会を発足させている.明治18年(1885)5月のことである.
 こうした中央政府の動きとは別に,山梨県内に於いても製織染色業の改良運動が起きている.いずれも当業者内部からのものではなくて,地方庁役人の主導下になされているようである.
 郡内地方では明治17年(1884)に北都留郡長薬袋義一を中心にして,織り物改良をテーマに郡下15人の改良委員に山梨県勧業課職員を加えた研究会を主催している.しかし中央線が開通しておらず,甲府からの出張に往復6日を要したこともあり,ほどなく中止となっている8).
 郡庁の県庁追随主義が端なくも表現された次第であるが,殖産政策推進で有名な当時の山梨県知事藤村紫郎も五品共進会での不評にはかなり頭を悩ませられていたようである.その彼が明治18年(1885)7月に公務で上京中,京都府より染色法と応用化学研究のためフランスに派遣されていて帰国したばかりの稲畑勝太郎と偶々再会している.藤村紫郎は京都府に対して直ちに彼の割譲願いを申し出るほど強引な手段に出ている.これはさすがに体よく断わられているが,それでも彼の帰洛前の1ヵ月間,山梨に招いて知事同道で県下を歩き,笹子峠も越えて郡内各地の実地指導を試みている9).
 さらに藤村知事は折からの農商務省の染織改良運動に対応して,染色技師の長期指導方を同省に申請している.こうして同年9月に東京職工学校教諭兼農商務省御用掛の平賀義美がまだ職工学校生徒であった山口務,平田専太郎の両名に学僕の川島純幹を伴い山梨県に派遣されている10).
 彼等は郡内各地を中心に実情視察を行ない,南北都留郡に色染所を設置し染色の改良普及を計ることを答申し,これをうけて,翌明治19年(1886)11月に北都留郡立色染所と南都留郡立色染所が相次いで設立開業している.各々の教頭には同年3月に東京職工学校を卒業したばかりの山口務と平田専太郎が就任している.
 郡立色染所では両人が中心となって,まず植物染料や化学染料の使用方法の指導,冷染法の熱染法への改良指導,灰汁練に頼っていた生糸精練の石鹸精練法への改良などを推進している.単に染色加工を進めるだけでなく,講習生を募って教育も進めており,北都留郡立色染所では初年度8名が応募してきたとされている.
 こうした講習生の中から北都留郡では大原村花田利平,富浜村西村茂右衛門,大目村久島安右衛門,南都留郡からは瑞穂村の渡辺一三と渡辺林太郎の5名が色染速成生徒として養成され,東京職工学校内染業場に派遣されている.彼等は3ヵ月の伝習を受けて帰郷後はそれぞれの色染所で染色改良事業に従事している.
 染色以外にも機織などの改良に関する地域の要求もあったようであるが11),以降も染色の欠陥克服という当面の課題が優先されている.それでも活動内容はなかなか多彩である.
 明治20年(1887)2月には南都留郡立色染所直轄染物嘱託品集配所が同じ谷村地区に設置され,開所式当日には織物講習会が開かれ,450名が聴講している.講義は平国専太郎が担当している.
 同年l0月に北都留郡立色染所は広里,初狩,島田の3村へ出張所を設置し,同じ頃に南都留郡立色染所でも瑞穂村に出張工場を設置している.
 明治21年(1888),南都留郡立色染所では学術科を新設し,染色業を志望する幼年子弟教育のための新体制を整え,生徒募集に入っている.
 こうした郡立色染所の活動内容のうち,とりわけ染色とその改良事業については当時の地元紙が次のような評価を与えている.
 「此程東京市京橋区小伝馬町坂本商店に於て本年一月以来試みのため,甲斐絹(洋傘地)数百種を貯蔵し置き,本月に至り之を取り出して験するに,多くは斑点[ほし]を生じたり.然るに該色染所の証ある品物に限り一品も右の如きことなく,又光沢も更に変らず,買求めの時と聊も異らざる由にて,以来商店にても物品買入の節は,色染所の証あるものを精選すべければ此上とても尽力の程を企[ママ]望すと態々該店より色染所へ宛,懇ろなる書面を贈りたりと云う」12)
 だが積極的な活動もここまでであった.両色染所は翌明治22年(1889)春に「政費節減のため」民業に移管されてしまったからである13).山口務らが東京に去ったことも関連しているかと思われるが14),詳しい背景はわからない.上記の新聞記事のように色染所の活動が評価されてはいても,それが地域産業の内部に決定的な変革を惹起していたとまではいいきれない.政策的課題は残されているにも拘らず,極めて後退的方針が打出されたのである.そしてなにより,民業移管後の色染所もまた翌年に閉鎖されている15).かくて明治23年(1890)に始まる不況の中で,郡内地方からは再び粗悪濫造品横行の声が聴かれるようになってくる.市場の拡大に伴って機業家の自染がまた増えていったことも原因しているが16),県当局は再度直接的介入を余儀なくされたのである.
 明治26年(1893)3月,山梨県当局は「原南都留郡書記,奈良北都留郡書記及両郡機業家等」を県庁会議室に召喚し,県庁役人を議長とする「甲斐絹改良協議会」17)を開いている.これを土台に南都留郡西桂村にまず甲斐絹改良組合が翌明治27年(1894)に設立され,絹織物原糸製造者と絹織物原糸染業者が結集されている.
 また織元業者達はこれとは別に明治27年(1894)中に河口善之助,横山吉朗,中村以正の3人が中心になって甲斐絹織元業組合を組織している.規約から見る限りでは,販売先を特定すると同時に粗悪濫製を行なった組合員に対しては新聞に氏名を公表するなどの方針を明らかにしている.ただ,そうした方針が実行されたかどうかは明らかではない18).
 こうした業界関係者の組織化を進めながら山梨県は明治28年(1895)に「山梨県令28号」通達をもって「甲斐絹業組合規則」を定め,翌年,南都留郡甲斐絹業組合を同郡谷村に,また北都留郡甲斐絹業組合を同郡猿橋においている.
 これとは別に,主として旧来からの伝統的染色専業者を中心に明治29年(1896)9月30日に甲相染業組合が結成されている19).これは翌年解散して,南都留郡内の関係だけで南都留染物同業組合に再結集している.
 このように業界関係者の組織化は進んだが,それはまだ外見的な水準に止まり,自発的な内部規律を持つに至ってはいなかったと考えられる.それは組合組織自身による製品検査などが明治37年(1904)成立の同業組合に至るまで認められないからである.そのためもあってか,この時期の不良品摘発と製品検査は県当局によって担われていたようである.
 明治28年(1895),田沼県知事命令で検査制度がしかれ,検査員は検査をうけない業者を郡役所や警察に呼びつけて「強制執行」したという指摘がある20).当時の組合に検査規定はないし,組合機関で評定した事実も認められないから,この「検査員」は県ないし郡の役人か,その嘱託であったと考えるのが妥当であろう.
 しかしこの「強制執行」が如何に気迫に満ちていようと,それはかつての郡立色染所の持っていた製品検査,新技術導入,社会教育,後継者養成,一部加工請負といった多様な機能の一部分を担ったにすぎない.それ以外の問題はこの時代にどう処理されようとしていたか,そのことに関する検討が次節の課題である.
 [[注]
 1)以下江戸時代の染色に関しては特に断わらない限り,前掲『創立70周年記念誌』,82-95ページによる.
 2)柳田国男「木綿以前の事」『定本柳田国男集』第十四巻,筑摩書房,昭和44年,9ページなど.
 3)大日本織物協会『染織五十年史』,昭和10年,223ページ.
 4)竹内常善『四国まんだら』第五巻,昭和55年の「あとがき」に拠る.
 5)前掲『染織五十年史』,18ページ.
 6)明治十八年府県聯合五品共進会『審査概評』,3ページ.
 7)前掲『染織五十年史』,19,96ページ,括弧は原著作による.
 8)山梨日日新聞「郡内機業百年のあゆみ」内藤恭義編・刊『都留市歴史史料集』(二),昭和51年,96ページ.
 9)稲畑勝太郎はのちに,わが国では最も初期の本格的な専業染工揚の一つとなった稲畑染工場を起こしている.同社は軍需用加工で成長し,やがて彼は日本染料製造株式会社社長として貴族院議員にもなっている.経緯については下記のものを参照されたい.
 原田石四郎『日染20年史』,日本染料製造株式会社,昭和11年.
 なおこの項は他に前掲『染織五十年史』,232ページ.『日本繊維産業史』各論篇,820ページ.『創立70周年記念誌』,96ページなどによった.
 10)以下の項は主として下記の指摘によった.
 山梨県立工商学校『不二』特別号,昭和10年,19ページ.
 前掲『染織五十年史』,228ページ.
 前掲『創立70周年記念誌』,96ページ.
 11)山梨県勧業課城山静一『都留郡巡回演説筆記』(草稿),明治13年,6-7ページ.
 12)『山梨日日新聞』明治22年10月14日付.
 13)前掲『不二』特別号,20ページ.
 14)大日本織物協会『協会業績史』,昭和10年,70ページ.
 15)谷村町青年団「甲斐絹の史的展開」,内藤恭義編・刊『都留市歴史史料集』(一),昭和50年,55ページ.
 16)前掲『創立70周年記念誌』,97ページ.
 17)『山梨日日新聞』明治26年3月9日付.
 18)前掲「郡内機業百年のあゆみ」,97ページ.
 19)東京大学経済学部蔵『山梨県甲相染業組合規約』に添付の「山梨県指令丙1199号」による.
 20)前掲「郡内機業百年のあゆみ」,93ページ.

Ⅱ 学校の創立とその推進者
 東京職工学校に代表される初期の実業学校は,所期の目的の一つである忠良なる「職工」を生みだすことなく,やっと知的ないし技術的「似而非」エリート層を生みだすものでしかなかった.そのことが鮮明になると,明治政府は新たな実業教育の必要に迫られてくる.明治27年(1894)6月の実業教育国庫補助法と翌7月の簡易農学校規程ならびに徒弟学校規程の制定はそうした動きを反映したものといえる1).
 この法律は公立の工業農業商業学校,徒弟学校ならびに実業補習学校に対して毎年15万円の国庫補助を行なおうというものであり,補助金額は明治34年(1901)から25万円に改められ,明治36年(1903)からは毎年度予算によって決定されることに変更されている.アメリカに於ける同様の法律であるスミス・ヒューズ法が資本家団体の圧力によって生まれたのに対し,日本では資本家の無関心にも拘らず国家が積極的に推進していったとされている.ただそれが個別の学校創立の場でどうであったのかを検討するのも本節の課題であるが,以下の展開とも関係するのでまずこの国庫補助法による補助適格要件の一部を見ておくことにする.
第3表 実業学校・工業試験所創設事例一覧(明治13年~大正3年)
「二,修業年限ハ二箇年以上タルコト.
 三,工業農業商業学校ノ毎週教授時間ハ二十七時以上簡易農学校徒弟学校実業補習学校ノ毎週教授時間ハ十二時以上タルコト.
 四,工業農業商業学校ノ入学者ノ資格ハ尋常中学第二学級卒業又ハ修業年限四箇年ノ高等小学校卒業以上ニ於テ,簡易農学校簡易商業学校徒弟学校実業補習学校ハ尋常小学校卒業以上ニ於テ之ヲ定ムルコト.
 五,工業農業商業学校ハ生徒百名以上,徒弟学校及実業補習学校ハ五十名以上ニ教授シ得ベキ設備ヲ為スコト.」
 この法律に刺激されて逸早い対応を見せたのは関東機業地帯だった.第3表に見られるように法案公布直後から2年の間に足利工業学校,桐生染織学校,伊勢崎染織学校,南都留郡染織学校が踵を接して創立されている.そしてこの殆どが,それまでの色染講習所を直接的母体として編成替えされている.ただ南都留染織学校だけは,それら色染講習所と類似の機能を備えていた南北両都留郡の郡立色染所を有していたにも拘らず,既に7年前に民業移管され何等の連続性もなくなっている.
 南都留染織学校は正式には山梨県南都留郡立南都留染織学校として明治29年(1896)のうちに「徒弟学校規程」に依る実業学校として設立されている2).同時に山梨県下では東八代郡立蚕業学校が生まれている.これは石和町におかれていた蚕業講習所を継承したものである3).
 染織学校は南都留郡谷村の郡役所前に置かれたが,校舎は当初は長屋の2~3軒分を「ぶちぬいて」一軒長屋にしたものであり,教材や実習機器も不備であった.第1期生の中村幸四郎によると力織機なども講義では聴いていたが,実物を初めて見たのは卒業後のことだったという4).
 創設時の染織学校の教職員の構成は校長,教員,書記,小使まで含めて各1名の計4名であり生徒数は20と定められている.初代校長は小泉栄次郎となっている5).
 外見的にはこのように多少見劣りがするが,カリキュラムは決してそうではない.その点の方がむしろ注目に価する.学年別の授業時間配分は第4表のようになっており,前記の実業教育国庫補助法の規程に照らして見るなら,徒弟学校というよりは工業学校の水準に合わせられている6).
第4表 明治29年(1896)度南都留郡立南都留染織学校本科学科課程表
 コース編成も本科が3年で,その上に専攻科1年を置きうるとしており,入学資格は高等小学校第2学年卒業以上となっている.この点でも徒弟学校の一般水準は越えている.それは前記法規四項に照らして明らかであろう.また別に速成科が設けられており,これは年齢15歳以上の「実業従事者」に限られている.
 速成科はさらに十課に分けられている.うち木綿染,.絹染,毛染,練漂白,木綿捺染,絹捺染,毛捺染,媒染剤の八課は毎日3時間で2ヵ月で修了となっている.他の二課のうち藍染科は毎日3時間3ヵ月で修了,織物科は毎日2時間1ヵ月で修了となっている.速成科のコース編成は多彩であるが,そこから見られる限りでは,やはり染色に力を入れて創設されていることがわかる.
 ただ問題はこれだけの膨大なカリキュラム体系を「機械実習担当」7)の恐らくは「嘱託教員」1人と校長-この時代は殆ど教諭兼任である-1人の2人だけで切り回していけるのかどうかという点である.
 卒業生名簿によれば第1期の卒業は明治33年(1900)の3月となっている.とすれば第1回の入学式は明治30年(1897)4月だと考えられる.初代校長・小泉栄次郎の在任期間は資料によって月日が異なるが,『山梨県報』の記載から見て明治29年(1896)秋からだと考えられる.退任期日は明治30年(1897)8月とどれも一致している.
 すると彼は「一軒長屋」の校舎への新入生受入れ準備と初年度生に対する3ヵ月余の授業は担当したであろうが,夏期休暇中に退職をしており,前記カリキュラムから判読して大変な数ヵ月を過ごしたにしても,真に学校創立の礎を築いたとは言い難い.ただ彼に関する記録が散見しえないので現在のところ立ち入った判断は難しい.後任校長には福岡から野田忠蔵が招聘されている.
 そこでこの招聘主体が学校の創立期の推進主体として問題になる.郡立学校である以上,それは郡長だということになるが,当時の南都留郡長は八代駒雄であり,在任期問は明治26年(1893)11月から明治30年(1897)12月までとなっており,丁度校長交替の直後まで勤めている.在任中明治27年(1894)2月から4月までは北都留郡長も兼任している8).
 後に述べる理由から実は彼の死亡年月を知りたいと思っていたが,都留市での調査中に偶々山裾にある中町公園の一隅に彼の「遺功碑」を見出すことができた.同地での「奨励民業」に努力したことを顕彰してのことと碑文には記されてある.そし逝去は明治30年(1897)となっている9).彼は在任期間中に死
亡しているのである.死因は別の資料により明らかである.「川棚橋から投身」と第1回卒業生中村幸四郎は書き遺している.以上の経緯をふまえて考えるならば,中村幸四郎による下記の記述は染織学校創業の推進力がどこにあったかを明らかにしてくれよう.
 「草蒙時代の学校なんて云ふものは,或は何れの学校も,多少の曲折は止むを得ぬとしても,殊に我が郷里郡内の有志と称する先輩が,真剣に土地の産業のため一肌脱いでやらうと云ふ者は乏しく,産業の発展も農業の振興も何時の間にか宿換へして,下らない政争の具に供されてしまって,切角創立した学校も終には捨てゝ省りみずと云ふのがその当時の実情であったかのやうに思はれるのです.時の八代駒雄郡長は稀に見る真面目な人格者でありましたから,かうした学校の実情を見て,どんなに悲しまれ奮(ママ)慨されたでせう.先生のない生徒の行くすえが如何なるかと心痛せられては,毎日の様に学校へ顔を出されて種々心配されました.」10)
 残念ながら,一郡長の人格資質の水準とか,事態の悲劇性の程度に関する検討は本稿の課題ではない.郡内地方の当該時期の社会経済条件の中で新しい制度を定着させる具体的推進力がどこにあったのかを確認したいだけである.
 同じ問題をかつての色染所についても見ておこう.北都留郡立色染所教頭を勤めた山口務は在任当時世話になった人物を次のように想起している.
 「小林孝正氏を思へば,北都留郡長の薬袋義一,勧業課長の藤本清左衛門,課員の幡野弘毅,奈良重蔵,吉井茂七郎,安藤保太郎,笹子の天野董平,広里の伊東辨次郎,井上武右衛門,井上市朗,猿橋の花田利平,富浜の久島安右衛門,西村茂右衛門,山田孝一郎,山田舜慈,島田の安藤盛平,上野原の加藤角太郎,向山小分治,大目の平塚清兵衛,岡部忠恕等諸氏を回想せざるを得ない.」11)
 花田利平,久島安右衛門,西村茂右衛門は彼の下で色染速成生徒として養成し,各出張所等で手足となって働いた者達である.それ以外の者の氏名を『北都留郡誌』の郡長,村長,各級議員名簿12)によって確認してみると次のような事実が確認できる.後の時代を含めて郡長経験者は薬袋義一のほかに藤本清左衛門と幡野広毅,県会議員経験者は天野董平,伊東辨次郎,加藤角太郎,岡部忠恕,郡会議員経験者は天野董平,井上武右衛門,安藤盛平,岡部忠恕,村長経験者は小林孝正,井上武右衛門,井上市朗,平塚清兵衛である.要するに郡単位でのかなりの有力者が含まれており,郡の政策が地域有力者の協力を得られずに挫折することが多かったとはいえない.しかしこの階層が,郡立色染所閉鎖決定の最大の当事者であることも確かな事実である.色染所の経費予算は聯合村会の協賛によって決定されていたし,その代表者が当時は岡部忠恕である.
 郡立の色染所や染織学校であることから,直接的推進者は郡長層であり,それをさらに前進させるか後退を余儀なくさせるかの分岐点では郡段階での有力者の結束度が大きい規定要因になっていたとも言えそうである.だがすぐれて常識的なそうした結論に落着く前に,入学生の実体を検討しておく必要があろう.また入学生の実体に関する問題領域に論点を移す前に,染織学校のその後の変遷を見ておかなければならない.それは次節で進めることにしたいが,ここではあと2点ほど指摘しておきたいと思う.
 第1点は色染所と染織学校創立当初を含めて,それらが一般機業家とは多分に疎遠だったことである.彼等は「当局の熱心なる指導にも拘らず,吹けども踊らざるの例に洩れず一部の人を除く外は我関せず焉の状態」といった指摘も聞かれる13).この点は在学生の出身階層を検討する際に改めて検討することにしたい.
 第2点は県当局の無理解である.蚕業講習所の場合とは異なって,色染所の拡充に関しては殆ど何のバックアップもなされなかった.そのために県当局は色染所の一部機能をあられもない格好で担わねばならなかった.それについては既に述べた.染織学校に対する長期的判断と構想力の欠如は次節で見ることになる.
 [注]
 1)法制上の問題については次の文献に拠っている.
 小林彦太郎『山梨県学務類典』,又新杜,明治34年.
 日本科学史学会『日本科学技術史大系』9,第一法規出版,昭和40年.とりわけ第8章の「初等・中等実業教育の法制化」.
 2)『山梨県報』明治29年9月26日付の中に「雑報第三五号」として記載されている.
 3)山梨県立谷村工業高等学校『創立八十周年記念誌』,昭和51年,13ページ.
 4)前掲『不二』特別号,55ページ.
 5)同上.
 6)但し,明治32年2月の文部省令第8号「工業学校規程」では「実習ヲ除キ毎週二十七時以内」(規程第二条)となっている.
 7)山梨県教育会南都留支会『南都留郡誌』,明治42年に添付の「郡司一覧表」による.
 8)北都留郡誌編纂委員会編『北都留郡誌』,大正14年,152ページ.
 9)碑文は彼の死後10年あまりして着手された桂川発電所のことなど「奨励民業」に触れてあるが,些か白々しくなくもない.
 10)前掲『不二』,55ページ.
 11)同上書,21ページ.
 12)前掲『北都留郡誌』,151-353ページ.
 13)前掲『不二』,78ページ.

Ⅲ 組織変更をめぐる諸動向
 存立の危なかった郡立南都留染織学校も明治33年(1900)頃になるとかなり安定した内容を持つようになってくる.それは何より施設と教員の拡充に表現されている.
 「徒弟学校ハ染色及機織ニ関スル学理ノ[ママ]実地応用トヲ授クルモノニシテ校舎ノ内通常教室染色実修室及教員室等ハ民屋ヲ仮用スレトモ機織実修場ハ新築セシモノニテ其設備ハ粗ナルモ校具ハ略備ハリテ教授上実修上格別ノ不便ヲ見ス職員ハ校長一人教員四人ニシテ……其他助手一人及書記一人ナリ」1)
 変化はそれだけではない.この『明治三十三年度山梨県学事年報』はさらに続けて次のように指摘している.
 「更ニ其程度ヲ高メテ工業学校ノ組織ト為サムトシ既ニ認可ヲ得テ次年度ヨリ変更スルコトトナレリ加之自今郡組合ヲ組織シ南都留北都留両郡立ノモノト為シ該地方染織ノ業ト共ニ益々其発達ヲ企図セムトス」2)
 全てが一気に進んだ訳ではないが,明治34年(1901)3月28日付の『山梨県報』は工業学校規程による「南都留郡立南都留染織学校規則」を公示している.またこれに先だって同校は次のような主意書を出している.
生徒募集ノ主意
 本校ハ染織業ニ於ケル学理ト実技ヲ授クル所ニシテ明治二十九年ノ創立ニ係リ徒弟学校ノ規程ニ依リ生徒ヲ養成シ来リシガ一般染織業ノ進歩ニ伴ヒ地方機業ノ状況ニ鑑ミ来ル四月ヨリ工業学校程度(中学校ト同等)ニ変更シ目下地方ニ最必要ナル実業家主人若クハ職工長タルベキ者ヲ養成セントス……
(中略)
 洵ニ今日ノ急務トスル所ハ科学的新教育ヲ受ケタル機業家ノ輩出ヲ勉ムルニ外ナラザルナリ起キヨ本郡ノ当業者時勢ノ緩急ヲ察シ自家ノ子弟ヲシテ本校ニ入レ以テ其根ヲ養ヒ祖業ヲシテ永ク失墜ニ至ラシメズ益光輝ヲ放タシメンコトヲ少年子弟モ進ンテ染織教育ヲ受クルニ於テハ久シカラズシテ世ニ重要視セラレ大ハ国家ノ為メ小ハ自已[ママ]立身処世ノ捷径トナリ先覚者トシテ識者ノ称揚ヲ受クルニ至ラン
明治三十四年三月 南都留染織学校」3)
 入学者と卒業生がここに指摘されているような階層を構成していたかどうかについては後で検討する.4月からは甲種工業学校に昇格し,授業時間編成は第5表のように改正されている.「算術」が「数学」に,「読書」が「読書及作文」に改められた外に,分析,応用機械,英語,体操の四科が追加されている.工業学校規程では体操は兵式体操教育免許状を有する者を置くこととされていたが,陸軍歩兵下士官出身の者が赴任している.校舎は相変わらずだったようであるが,「内部ノ設備ハ図書機械器具標本等益々整備ノ域ニ進メリ」とある4).
第5表 明治34年(1901)度南都留郡立南都留染織学校本科学科課程表
 コース編成については明治38年(1905)のものしか確認できなかったが,基本的に同じだと思われる.それによると本科は「染織科」となっていて,色染と機織が選択できるようになっている.高等小学校4年卒の14歳以上に受験資格が与えられるとされており,修業年限は3年,定員は100名となっている.その上に1年制の専攻科を置けるようになっているが,どの程度利用されたものであるか不明である.別科は15歳以上の実業従事者を対象にして修業期間は6ヵ月に延長され画一化されている5).
 この前年,教員は6名に増え,校舎は相変わらずながら施設整備は一応の進捗を見せている.
 「校舎ハ仮用ニシテ広カラサレトモ体操場ハ相当ノ面積ヲ有ス図書器械器具標本ハ年一年ニ整備シ教授及製作品等見ルヘキモノアルニ至リシ……」6)
 さらにこの年の11月,同校の県立移管が通常県会に提案議決され,翌年度予算ではじめて工業学校費が計上されるに至る7).明治38年(1905)4月に南都留染織学校は県立山梨県工業学校となり,北都留郡広里村(現大月市)に移転している.移転先は県立第二中学校都留分校が廃校になったので,その校舎を利用することと,染織学校の「中等学校ト同等」への引きあげを交替条件に中学の分校を廃す県の方針であった.翌年に校名は山梨県立工業学校と改称されている8).
 こうしてかつての郡立南都留染織学校は一つの黄金時代を迎えることになる.設備の拡充,教職員と生徒のほぼ順調な増大,学校の制度上の「昇格」,こうした事態が集中的に現われたからでもある.そしてより注目されることは,そうした実業学校としての整備発展が,一つには地域の産業基盤の一応の充実と表裏一体をなして進んだからであり,いま一つにはさらにより革新的な技術教育のための制度的保障が特殊な型で達成されつつあったからである.
 明治33年(1900)に重要物産同業組合法が制定され,各地の業界団体の整備が進められたことはよく知られている.郡内地方では既に明治29年(1896)に南都留郡甲斐絹業組合と北都留郡甲斐絹業組合があった.しかしそれらは前に見たように官製の御仕着的性格が強く,外観は整っていても外部に重要業種の個別組合が存在しており,製品に対する検査活動を行なう力量もなかった.それらは郡庁の検査員に頼るしかなかったのである.そのようなアキレス腱を克
服する契機となったのが重要物産同業組合法だったようである.法律制定後4年を要したが,明治37年(1904)と翌明治38年(1905)に北都留郡甲斐絹同業組合と南都留郡甲斐絹同業組合が各々成立している.後者の組合長はかつての甲斐絹織元業組合の代表だった河口善之助である9).これらの組合は検査員を独自に擁し,県当局の「強制執行」に頼ることなく一応の業界内の秩序と革新を図っていけるまでになっている10).両同業組合は明治38年(1905)に聯合会を結成するが,それは工業学校との間で次のような活動を進めるに至っている.
 「学校ト実業トノ関係ハ愈々親密ト為リ〓次(学校の)職員ヲ(同業組合の)部内ニ派遣シ色染ノ単期講習ヲ為シタルコト五回アリ又本校色染場内ニ南都留郡北都留郡甲斐絹同業組合ノ染色実験場ヲ置キ当業者ノ色染ニ関スル疑義ニ解決ヲ与フル等其関係スル所多シ就中一時販路殆ント杜絶シタル甲斐絹ヲシテ市場ニ其衰勢ヲ挽回セシメタル又傘地ノ染色改良ニ依リ販路ヲ拡張セシ等ハ頗ル顕著ナルモノナリ」11)
 同業組合と並んで工業学校の運営に大きな影響を与えたのは明治38年(1905)末に「県令第38号」をもって設置された山梨県工業試験場である.その第1条にはこの試験場がなすべき業務内容として「一,原料及製品等ノ分析試験鑑定,二,工業用機械器具ノ検定,三,工業見本品ノ配布,四,製作技術ニ関スル質問応答,五,巡回講話」となっている12).職員は場長1,技手2,書記1,の計4名にすぎないが,明治40年(1907)には8名,明治44年(1911)には11名に増加している13).
 だが業務内容の伸びはずっと著しい.明治末年の業務概要を見ると「試験及研究ニ関スル業務」に色染,機織,整理,撚糸,図案のほぼ全領域が含まれ,「地方染織業ノ指導奨励ニ関スル業務」には依頼品加工,伝習講話及実地指導,試験鑑定及質問応答,機械器具ノ検定及貸与,見本並標本及印刷物配布,標本巡回展覧及貸与,展覧会などが掲げられている.そしてこの僅か10人前後の小さな組織がどれほど旺盛に仕事をこなしていたのかについて,その一端を第6表,第7表から垣間見ることができよう.これはもう試験場の枠を越えた社会教育機関だと看做すこともできそうである.かといって試験研究業務が中途半端だったことは決してないようである.例えば明治41年(1908),場内では328種に及ぶ合成染料の各種検査報告を出している14).
第6表 山梨県工業試験場の地域教育活動
第7表 山梨県工業試験揚の生産補助業務の推移
 こうした試験場が工業学校の運営に直接的効果を齎すことができた点については些か特別な事情がある.それは明治39年(1906)8月に試験場長だった河口孝がそのまま工業学校長を兼務し,しかも昭和9年(1934)までそれが継続しているからである.またそんな彼の判断が働いたためか,工業学校と試験場の中心的人物が兼務で双方の仕事をこなしている.
 しかしそうした具体的な経緯の特徴がどうであれ,当時の学生にとって幸いだったことは,一方で最も進んだ機器を利用し,一方で最も深刻な社会諸制約と常時対決して模索しているような教師集団を身近に持てたことであろう.試験場では機械器具の試作や改善にも取り組んでおり,輸入品を応用して国産品の改良を進め,新たな技術的制約が生じるや,厭わず海外の新製品を導入して突破口を追求している.その一端は第8表からも見られるであろう.
第8表 昭和6年(1931)度山梨県工業試験揚使用設備導入時期別台数
 またさらに工業学校卒業生にとって刺激的なこともあった.それは有能な先輩達がこの試験場で中心的な仕事を担うようになっていたという事実である.少し時間がずれるが第9表に掲げた大正9年(1920)の場合でみると,場長を除いて技術職9名のうち5名が工業学校ないしその前身の染織学校の出身者によって占められている.
第9表 大正9年(1920)地方産業職員制公布に伴う山梨県立工業試験場の構成員
 また,このような試験場は同業組合にとっても抜き難い存在であった.明治41年(1908)に甲斐絹同業組合聯合会は染色業者の間に洋式染色技術を定着させる目的で南都留郡に10ケ所,北都留郡に9ケ所の業者を選び,その作業場を「共同染色場」に指定している.そこでは試験場の技術員による実地講演会を開くほか,共同染色場全体の監督にあたる者として試験場にいた小野田叔平を聯合会に引きぬいている.もっとも彼は後にまた試験場に戻っている.
 こうして山梨県立工業学校と工業試験場および同業組合聯合会の三位一体的構造ができ上がったのである.
 だがこの黄金時代は短かった.矛盾は外部からやってきた.一つは明治40年(1907)から翌年にかけての日露戦後恐慌である.この不況はあらゆる産業部門に対して「全般的」に及んだだけでなく長期化する性格を秘めていた15).
 第2の原因はそれに伴う「財政〓迫」を工業学校だけに被せ,廃校説まで出しながら同校の縮小を迫った県当局の姿勢である。郡内の中学校創設要求に対し,都留中学校創設とひきかえに工業学校は建物敷地一切を前者に引渡し,かつての谷村に戻ること,かつ学校を「徒弟学校程度」に変更すること,これが県当局の出した条件である.地元はこれを受け入れている16).
 山梨県立工業学校が南都留郡谷村に戻ったのは明治43年(1910)である.明治末期に当時でいう化学工業分類に入る府県立「工業学校」は20校存在する.その一部は後年高等専門学校や大学に再編されていった.山梨県立工業学校は県内では最も早く,全国的に見ても早い時期に成立した「工業学校規程」の学校でありながら結果においては典型的な徒弟学校のコースをたどったことでユニークであるだけでなく,公立徒弟学校としても実業教育国庫補助法の適用が化学関連41校中最も遅れた学校であったこと,また市郡立や町村立の圧倒的な徒弟学校群の中で唯一「県立工業」の名を冠する点でも例外的な学校であった17).
 だがここで当時の山梨県当局の教育政策の是非を議論している余裕はない.制度変更がその杜会条件の中で惹起した新しい問題点を見出すこと,それが次節の課題になる.

 [注]
 1)山梨県内務部第三課『明治三十三年度山梨県学事年報』,明治35年,8ページ.
 この年報は毎年出されているようであるが以下『学事年報』と略記させて戴く.
 2)同上.
 3)ここでは前掲『創立八十周年記念誌』,14ページから再録した.
 4)『(明治35年度)学事年報』,12ページ.
 5)山梨県教育委員会『山梨県教育百年史』明治篇,昭和51年,1343ページ.
 6)『(明治37年度)学事年報』,20ページ.
 7)山梨県議会事務局『山梨県議会史』第2巻,昭和48年,935ページ.
 8)明治38年から「山梨県立工業学校」としてある文献も多いが,ここでは下記のものに拠った.
 山梨県史誌刊行会『山梨県勢総覧』,昭和11年,79ページ.
 9)前掲「郡内機業百年のあゆみ」,97ページによれば両組合とも明治37年に成立したことになっているが,ここでは『南都留郡甲斐絹同業組合史』同史編纂委員会編・刊,昭和15年,8ページに拠った.
 10)『北都留郡誌』同誌編纂会編・刊,大正14年,821ページ.
 11)前掲『(明治37年)学事年報』,22ページ.
 12)『山梨県報』号外,明治38年12月6日付.
 13)前掲『創立70周年記念誌』,187ページ.
 14)『山梨県工業試験場業務功程』,明治41年版,10-37ページ.
 15)日露戦後恐慌については下記のものを参照されたい.ここでの見解は後者に大きく負っている.
 大島 清『日本恐慌史論』上巻,東京大学出版会,昭和27年.
 長岡新吉『明治恐慌史序説』,東京大学出版会,昭和46年.
 16)前掲『不二』,145,176ページ.
 17)工学会編・刊『明治工業史』化学工業篇,大正14年,1129-35ページ.
 加藤浅四『染織全書』第5巻,工政会出版部,昭和4年,1955-59ページ.

Ⅳ 入学者の社会的背景と卒業後の進路
 本節では染織学校の卒業者が郡内地方でどのような仕事につき,どのような形で地域経済の一翼を構成していったのかを検討していきたい.その前に,まず入学者の社会的背景を少し見ておくことにする.
 徒弟学校規定時代の南都留染織学校の入学者に関しては僅かに明治33年(1900)度の『山梨県学事年報』を利用しうるだけである.それによると本科の新入学生は全員修業年限4年の高等小学校を卒業しており,実家の職業も押し並べて「農蚕ニ従事スル者」であったとされている1).
 工業学校規程移行後の郡組合立染織学校の時代でも状況にそれほどの差異は認められない.むしろ入学時の学歴水準は高くなっている.明治35年(1902)の場合,入学志願者27名,入学許可を得た者26名であるが,そのうち高等小学校修業年限4年卒業の者が20名,同程度と認定された者3名,中学第1学年修業の者3名となっている.年齢は15歳から20歳までで平均が17歳とあるが,これは数え年によるものであろう.
 同年入学者の実家の職業は農業が11,農業で機織を兼業とするものが13,商業と工業が各1となっている2).明治37年(1904)は入学者が12名に減っているし,実家の職業構成も殆ど変化がないので省略する.職業分類については一貫した基準でなされていないので厳密な判断はできない.それでも子弟を高等小学校や中学に出しているところから,この地方の水準の範囲で「中流」家庭以上の出身のものだと考えられる.谷村や広里のような市のたつ町村部ではなくて山間部に入った多くの村々では,第1次世界大戦後でも,高等小学校進級者がやっと過半に達するかどうかという有様だったからである3).
第10表 南都留郡名望家層の社会的基盤(明治31年)
 農村中流家庭以上層の出身者といっても高等小学校からさらに上級学校に進学させることのできる家庭はもっと限られていたと思われる.そこで南都留染織学校の草創期に南都留郡内の各村の有力者がどのような職業構成をしていたかについて第10表を作成してみた.
 これは山梨県下に多く見られる当時の郷村紳士録のうち職業が比較的詳しく記載されているものを利用したものである.職業分類は当事者の自己申告によったものであろうから不安はあるが参考にはなろう.村内行政の項には村長,村会議員,各種団体世話役を含めたが,農蚕業,商業,製造業にも基盤を持っていたことは常識的に想像できる.単に「製造業」とあったのは機織等を多く含むと考えられるが,ここでは繊維関係のものから独立させるしかなかった.農業ないし農蚕業と,機業などの製造業のいずれを「申告」するかは収入の構成比の多寡によって決まると考えていいようである.
 このように考えた場合,染織学校入学者の家庭が第10表に掲げたような農村内中堅層のうちに含まれていたと考えることもできる.
 但し幾つかの留意点がある.一つは郡内地方ではまだ階層分化がそれほど進んでいなかったことである.「上流」といい「中流」といっても程度問題であり,それはより下層を含めても指摘できることだった.また,第2点としては,後の都留中学入学者の家庭の職業構成が土木,金融,官公吏,医務,宗教,法務など構成比は少ないにしても実に多岐に及んでいるのに対して,染織学校・工業学校の方は農蚕や機織に集中していることである.
 では次に,入学後の状況を見ておこう.
第11表 南都留染織学校卒業生の推移
 ここでまず眼につくのは中途退学者の多いことである.卒業時点で見た中途退学者の数は第11表のように一部しか明らかにできなかったが,実体の一端は窺える.明治33年(1900)には1年間で21名が中退しており,うち11名は同年入学の新入生である4).中途退学理由についてこの年の『学事年報』は「家政上ノ都合ニ依リタル者ナリ」としている.
 もっともこの退学理由は家庭の貧しさか,家庭での労働力の必要か,それとも届出者の慣習的形式的表現をそのまま引いたものであるか,いずれとも判じ難い.ただ他年度の『学事年報』では単に「無届欠席永キニ亘リ除名」としてある.当時の入学者の意見では景気変動も含めて経済的な理由もあったろうが,新入学生間の学力差がひどく,1年生のうちに脱退するケースが多かったという.明治43年(1910)の新入学生は30名であったが1年生の間に18名が脱落し,他は全員卒業している.その多くは学力上の理由が本音ではないかということである5).
 そうした半面で優秀な学生も少なくなかったようであるし,プライドも高かったようである.
 「私の同窓には随分秀才が多かった.谷村の小学校の高等科卒業生の秀才は殆ど全部入学し,禾生其の他の小学校からも秀才が集まって来た.従って私の級は元気旺盛で,随分先生を困らしたこともある.その当時の先生は先生も仲々溌剌として私共に対抗して居た……生徒も反抗心を起こして学期試験の時に皆白紙を出して機織工場へ引き上[ママ]げたことがあった……」6)
 「小倉洋服で揃って,同じ西桂村の新田,早川,牛田の諸兄と誘ひ誘はれつゝ三里の道を往復した時代が偲ばれます.下駄バキでテクッタ時代が得意の時代でした.私達は村の人々に試験場の生徒と呼ばれるのを誇りとした.電車否,自動「ママ]車にも乗らず,寒い日も暑い日も我れこそは県立工業学校の生徒なりと,金ボタンを輝して濶歩した三年時代が,今も忘られぬ思ひ出です……」7)
 では彼等の卒業後の進路について見てみよう.この点に関する最も包括的なデータは第12表に掲げた南都留郡甲斐絹同業組合のものである.山梨県立工業学校は大正9年(1920)に工業学校規程に改められ,大正12年(1923)には商業科の南都留郡立実業学校を合併し,山梨県立工商学校となる.この第12表は工商学校時代以降のものを含んでいる訳であるが,「会社商店工場」雇傭被雇傭の区別がなく,自営業層の業種も不明である.そこで工商学校を継承した県立谷村高等学校(現在は山梨県立谷村工業高等学校)の『同窓会名簿』から関係校ならびに学科の卒業生で職業記載のあるもの全てを引き出して整理したのが第13表である.第12表でいう「会社・商店・工場」の被雇傭者はⅠ期とⅡ期の者は退職していて実情よりも少なく出てくる可能性が強いが,全体としても商業,サービス業,その他の過半を占めているだけである.それに対し卒業生の最終的職業の殆どは自営層であり,かつ圧倒的に繊維関係に集中している.それも昭和5年(1930)代以降より顕著になる傾向すら見られる.
第12表 昭和15年(1940)までの染織学校・工業学校・工商学校卒業生の就職先構成
第13表 卒業時期別職業構成
 次に名簿中の逝去者を除いて現住所別に第1次世界大戦期までの卒業生について整理してみた.第14表がこれである.すると注目すべき現象が明らかになってきた.県立工業学校が徒弟学校に再編を余儀なくされて最初に入学してきた世代が卒業していく大正元年(1912)以降とそれ以前で,郡内地方に留まる者と,外部とりわけ他府県に出て行く者の比率が鮮かに逆転しているのである.そこで以下では明治期の卒業生の進路と,大正期以降のそれとについて各々検討してみよう.
第14表 染織学校・工業学校卒業生の現住所
 明治33年(1900)の卒業生の動向と特徴については次のような指摘がある.
 「卒業後ノ状況ハ本校ニ雇教員ト為リタル者小学校教員ト為リタル者ヲ除クノ外実業ニ従事シ独立シテ染色業ヲ営ム者及父兄ノ業ヲ助クル者等ナリ其成績ハ何レモ佳良ニシテ本校ノ声価ヲ持続スルニ足レリ然レトモ尚一層進ム[ママ]テ斯業ノ学術ヲ研究セムトスルノ希望ヲ有スル者尠ナカラサル……」8)
 卒業生は「実業ニ就ク者進テ高等ノ工業学校ニ入ル者」9)が相半ばしていたかのようであるが,就職する場合でも大都市の繊維関係のメーカーや商社に入る者が少なくなかったようである.のちに千代田毛織株式会杜の幹部になった斎木長重(明治41年卒)のような事例が他にも同校の同窓会誌から散見できるからである.
 逆に初期の場合は上級学校進学者のUターン現象が多い.進学先が不明なので経歴説明はブランクを生じるが次のような事例である.
 第1期生の渡辺倉平は8年後に工業試験場技手として採用され,のちに工業学校教諭を兼任,技師となり大正7年(1918)まで勤めている.
 第2期生7名のうち3名は翌々年の卒業生名簿4名中の3名として再登場する.1名はさらにその翌年の明治37年(1904)の卒業生名簿の中に見出せる.専攻科に入っていたのであろう.うち明治36年(1903)再卒業の小野田叔平は明治40年(1907)に試験場技手となり,翌明治41年(1908)には甲斐絹同業組合聯合会の「南北都留郡監督」の技術員として採用され10),やがてまた試験場に戻り,のち「高等官」になっている11).同期の湯沢淳人も同様の経歴をたどっているが試験場に戻ったのは大正8年(1919)とかなり後のことである.同じく三浦徳次郎は明治43年(1910)に工業学校教諭として採用されている.同期生で残りの安富泉については手懸りがなかった.
 しかしこうした傾向は日露戦争後は少なくなっている.上級学校卒業者に相応した職場が地元になくなってきたからであろう.明治39年(1906)卒の三枝彦雄のように帝大進学者はそのまま都市に住みついている.彼の場合は東北帝大理学部在学中に,工業学校時代の恩師豊田今吉が入学してきて後輩になっている.なんとも明治時代的雰囲気の強い人生劇の一方の主人公になった訳である12).
 こうして草創期の卒業生は上級学校に進む者を含め総じて県外志向が強かったように見られる.それは一つには明治の時代的風潮でもあるが,当時としては少数の地元エリート層の子弟が通う学校や,さらに上級学校に進んだ卒業生を受け入れるだけの有望な職場が乏しかったことにもよるだろう.このことは染織学校や工業学校の卒業経歴だけでは県内に留って県内の政財界に於ける有力者と呼ばれるほどに社会的に上昇しえた者が殆どいなかったことによっても一端を窺える.例えば第1次世界大戦直後に出た『山梨県人事興信録』収録の890家族の戸主と男子子弟の学歴を全部調べてみたが,同校卒業者は僅かに子弟中に2人発見できるだけである.これは通俗的には同格の蚕業学校(県立農林学校)や市立甲府商業学校に比べても遙かに少なく,甲府中学,都留中学,日川中学などとは問題にもならない13).「青雲の志」が議論される時代にあっては,進学と否とに拘らず,杜会的上昇の突破口は郡内からの,ひいては山梨県からの脱出にあったのかも知れない.
第15表 大正3年(1914)度卒業生一覧
第16表 大正15年(1926)度卒業生一覧
 だがこうした雰囲気は徒弟学校への再編後に大きく変化する.都留中学が設置され,そちらに進学する者が増えたこともあるが卒業後,地元に残り,あるいは実家に戻って染色機織関係の仕事を志す者が増えていったのである.その趨勢がもはや基本的に定着したものであることは第15表,第16表から明らかであろう.そして勿論,郡内一帯の絹織物業界にとっては,このほうがより大きい意味を持ったようである.
 但し,卒業生の地元定着については別の側面があったことを若干指摘しておきたい.それは郡内の染織業界内部でも一定の技術的改善が進んできていたことである.中小の生産者層自身の手による技術改良については別稿を期することにしたいが14),教育現場と生産現場の間の技術格差が双方の努力もあって急速に狭まってきたのである.学校で広幅機の利用を学んでも,実家では手機しか使っておらず,結局卒業生は織物消費税新設などで多忙な税務所で重宝されたというエピソードがあったが,そんなことは昔の話になりつつあった.その分だけ卒業生の活動の場も,工業学校や試験場が地域経済の中で持つ意味も,変化していったのである.
 最後にこうした自営業者の量的拡大が雇傭関係の変化を惹起したかどうかについて触れておく.結論先取り的に言えば直接的には否である.女工に関してよく言われる年季年ぎめ奉公の慣習はこの時代でもまだ広汎に認められるようである.賃織り業者と織元との親機子機関係すら,動揺しはじめるのはやっと第1次世界大戦期である.
 その場合,小規模零細であっても同業者数が増加していたことに意味がなくもなかった.市場の急激な拡大に際して取引関係が錯綜したこと,これが親機子機関係の閉鎖性を要撃する条件になったからである.
 同様の効果は労働力についても説明可能である.しかし製織の主力である女子労働力が「売春婦に売られるよりはましだ」15)と1日15時間労働を厭わぬ貧しさが存在している限り,こうした年季奉公制は動じ難い.いずれにしてもこの問題については別稿で改めて検討してみたいと思う.
 [注]
 1)『(明治33年)学事年報』,8ページ.
 2)『(明治35年)学事年報』,12ページ.
 3)酒井喜蔵氏談(旧宝村,昭和元年卒).
 4)1)に同じ.但し21名中1名は死亡によるものである.
5)清水理一氏談(旧広里村出身,大正3年卒).
6)三枝彦雄(明治39年卒)「回想」前掲『不二』,59ページ.
7)新田隆道(昭和2年卒)「河口先生へ」同上書,102-3ページ.
8)1)に同じ.
9)『(明治37年)学事年報』,22ページ.
10)前掲『創立70周年記念誌』,99ページ.
11)山梨県繊維工業試験揚『沿革略』による.貴重な資料を自由に利用させて戴いたことに関し,改めて更級場長ほか試験場各位にお礼申し上げたい.以下,特に注記しない事項は全てこの資料の記述によっている.
12)三枝彦雄,前掲書,59ページ.
13)甲府興信所編・刊『山梨人事興信録』第一版,大正7年.
14)差当たり下記のものを参照されたい.
 前掲『南都留郡甲斐絹同業組合史』中の「郡内織史的考察」の項.
 前掲『創立70周年記念誌』,56-100ページ.
 前掲『郡内機業百年のあゆみ』,91-101ページ.
 山梨県工業試験場『山梨県工業試験場功程』,明治41年より毎年刊.
15)前掲「郡内機業百年のあゆみ」,95,96ページ.

Ⅴ 教育者の社会的背景と軌跡
 ここでは南都留染織学校に限らず,郡立色染所時代の「教頭」達も含め,郡内地方の染織業に教育的指導的役割を果たした者達のその後の社会的軌跡を簡単に見ておきたい.
 藤村紫郎知事の時代に要請を受けて郡内を実地視察し,色染所設置の最大の土台を築いたのは当時(明治18年)東京職工学校教諭兼農商務省御用掛だった平賀義美である.彼は帝国大学化学科を卒業後,黒田侯の給費で英国留学,帰国後同校教諭になっている.のち農商務省技師から大阪府立商品列品陳列所長,関西商工学校長,大阪工業試験場長を経て実業界に投じている1).郡内視察に同行した東京職工学校生徒の山口務と平田専太郎は翌年秋に各々農商務省技手の資格のまま北都留と南都留の郡立色染所教頭として着任している.もう1人の同行者,「学僕」の川島純幹はのち滋賀県知事となっている2).
 山口務は北都留郡立色染所を辞して帰京後は農商務省技師さらには東京工業学校教授となり,やがて大日本繊維協会理事として中央での実業教育に取組んでいる.平田専太郎はのち産業界に投じグリセリン株式会社社長になっている3).
第17表 南都留染織学校初期の教員の経歴
 彼等に育てられ,色染速成生徒として東京職工学校内染業場に学んだ5名は帰郷後に色染所の各地出張所の責任者になったりしているが,その後は不明である.
 南都留染織学校から明治末期の工業学校までの間で教員を務めた者の経歴は目下のところ不明なことが多い.染織学校出身者以外の者についてやっと作成したのが第17表でしかない.
 教員の学歴についても確定はできないが,『学事年報』に若干の指摘がある4).それによると明治33年(1900)には4名中1名が東京工業学校卒で3名については「嘱託教員,雇教員」となっている.「嘱託教員,雇教員」の実体はよくわからないが,正規の教員養成機関は出ていないようである.他に助手が1名いた.
 明治35年(1902)には東京高等工業学校卒業者が1名,文部省工業教員養成所卒業生3名,体操教員1名となっている.工業学校移行に伴い,正規の養成機関の卒業生が中心になり,兵式体操教員免許状をもつ陸軍下士官が配属されている.工業教員養成所は2年制の本科と1年制の速成科があるが,そのいずれを出たものであるのか明らかではない.東京高等工業はこの年東京工業学校が改組されたものである.
 明治37年(1904)には東京高等工業学校卒業生が2名,工業教員養成所卒業生が2名,「其他ノ者」2名となっている.
 以上のように出身校については漸次東京高等工業学校や工業教員養成所出身者で固められている.明治40年(1907)には京都高等蚕糸学校の卒業で北都留郡広里村出身の小林晴直が着任している.いずれにしても当時にあっては,正規の教員資格を授与する機関の出身者が殆どになっていたようである.
 第17表の人物のうちでは河口孝と小林晴直以外は山梨県外の出身者ではないかと思われる.ほぼ数年のうちに他府県に転勤している.第17表中の経歴は転勤後直ちに着任したものと,何年か後に着任したものと区別していないが,初期の実業教育機関を出たものにとって,職場は全国に広く開かれていたことがわかる.
 次に南都留染織学校ないし山梨県立工業学校の出身者で,のち母校の教諭を勤めた者について,確認しえた限りで触れておこう5).
 明治33年(1900)卒の第1期生渡辺倉平は明治38年(1905)に工業試験場技手として採用され,明治43年(1910)に工業学校教諭を兼務している.
 明治36年(1903)卒の小野田叔平は明治39年(1906)に試験場技手となり明治43年(1910)に兼務していた工業学校教諭を本務ともども依願退職しているが兼務開始時期は不明である.同期生だった三浦徳次郎は工業学校教諭に着任してのち,逆に明治43年(1910)から大正5年(1916)まで試験場技手を兼務している.ただ,教諭採用時期等は不明である.
 明治38年(1905)卒の志村邦亮は明治44年(1911)に試験場技手に採用され翌年から教諭を兼務している.
 少し後のことになるが,明治36年(1903)卒の湯沢淳人は大正8年(1919)に試験場技手として入り教諭も兼務していたが,翌年には工業学校教諭が本務になり試験場技手が兼務となっている.
 以上見たように染織学校卒業生は工業試験場技手から技師への道を歩みながら工業学校教諭を兼務する格好で母校の教壇に立っていた事例が多いようである.ただ,こうした事態は第1次世界大戦期以降は殆ど見られない.工業学校教諭の試験場技手なり嘱託なりの兼務については昭和5年(1930)頃まで頻繁に認められる.
 最後に校長を勤めた者達について触れたいが,郡内の出身であった河口孝以外の3人については第17表以上のことは分かっていない.そこで残念ではあるが彼を見ることによって差し当たり校長層を代表させるしかない.
 河口孝,旧姓岡部孝は北都留郡に生まれている.父の岡部忠恕は既に見たように大目村戸長から後に県会議員を勤めた村内きっての名望家である.同時に郡立色染所などの活動の協力者であり,この縁で帰京して農商務省技師として働いていた山口務方に孝を寄宿させている.その後のことは本稿の最後に添付した資料の通りである.
 ただ義父の河口善之助については少し補足しておきたい.谷村の織物商河口善兵衛の長男に生まれ,自由党員となったあと村会,郡会,県会から衆議院議員までを勤めている.のち富士馬車鉄道株式会社社長,有信銀行,谷村電燈株式会社,桂川電力株式会社の各取締役を兼任しており,郡内きっての有力者だったようである.既に甲斐絹織元業組合や南都留郡甲斐絹同業組合に言及した個所でも触れたが絹織物業界の有力者でもあった6).
 世間的に恵まれた家庭環境を背景に持っていたことが彼の工業学校長としての活動を容易にしていたことは想像できる.2年半ほどの海外留学期間を除いてその生活は染織学校に始まるこの土地の実業教育と試験場業務に対して殆ど全てを注ぎ込んでいる.全く転勤しなかった点をその社会的背景の強力さから説明するか,彼の一途な性格に説明根拠を求めるかで評者の性格も問われることになろうが,ここでは若干の事実だけ指摘するに留めたい.
 彼は村民からは「場長さん」と呼ばれている.単に欧米先進技術を導入するだけでなく,その現実的応用を計ったこと,相談を受けつけるだけでなく積極的に地域に出て指導や教育や宣伝を執拗に繰り返していること,それも体制的整備を心懸けてあとは組織それ自体の力量に待つといったタイプではないこと,これらに関しては既に第6表と第7表で一端を見たが,ここでは若干のエピソードだけ付け加えておくことにする.
「又先生は,当時母校の出身者にして官界に馳りて斯業を顧ざるもの続出したるを大いに憂慮せられ,之れを防止するため幾多の犠牲を払はれ……
 私は慥か明治四十三年の……頃と記憶致しますが,猿橋町の指定染料販売所松国商店に見習店員として勤めて居りました.或日のこと先生が指定染料検察[ママ]のため豊田先生と御同伴にて同店に出張せられ,偶々店頭に陳列せる蚊帳が日光のため変色しあるを発見せられ,手直し方法を教へらるゝのを側で聞いて居たのであります.」7)
 この見習店員は翌春に工業学校受験を思いたち,入学している.工業学校長としての彼の仕事ぶりはわからない.ただ教育者としての彼が学生に与えた内的影響力の大きさと,その契機となるエピソードについては彼の退職後に特輯された同窓会誌を参照して戴きたい.ここでは唯一つの事実だけ紹介しておこう.彼は病気のため昭和9年(1934)に工業学校長と試験場長を退職している.その直前まで「師走の空は研ぎすましたような底冷えのする日」に,彼はよく単身で東京府下に出向き,会社工場を一軒ずつ頭を下げて卒業生の就職を頼んで回っている.そんな姿を何人かの同校卒業生が目撃している.
 本稿末尾の彼に関する資料の多くは蛇足である.ある地方機関の当事者が実にあれこれの仕事を引き受けながら一定程度の位階上昇を達成している点を見たいからではない.明治も末年以降になってくると,中央官庁と宮中は1人の篤実居士に対し夥しい位階勲等の慈雨を降らしはじめる.位階担当の宮内大臣と,勲章授与者であるやんごとなき筋と,技師官位担当の総理大臣に加えて学校長官位担当の総理大臣までが登場し,賑々しくかつ相互に牽制しあいながら,彼の履歴書記入事項を増やしている.そんなことのための事務と人事の煩雑化や秩序感覚の動脈硬化的増幅を良とする国家を抱えながらも,日本資本主義はここ郡内の一隅にも所をえた人材を確保しえていた.このことだけは確かのようである.

[注]
 1)前掲『染織五十年史』,225ページ.
 前掲『日本繊維産業史』各論篇,820ページ.
 2)前掲『不二』特別号,19ページ.
 3)同上,ならびに下記のものによる. 
 前掲『染織五十年史』,228ページ.

 前掲『協会業績史』,70-2ページ.
 前掲『創立70周年記念誌』,96ページ.
 『工業大学蔵前新聞』141号,大正13年10月.
 4)前掲『学事年報』明治33年版,8ページ.明治35年版,12ページ.明治37年版,20-1ページ.
 5)以下前掲『沿革略』による.工業試験場の人事記録を中心とした文書なので,工業学校教員のまま試験場業務を一切兼任しなかった者があっても確認することはできないことを断わっておきたい.
 6)前掲「郡内機業百年のあゆみ」,97ページ.
 前掲『山梨人事興信録』,243ページ.
 7)前掲『不二』特別号,71ページ.

結 論
 本稿では山梨県郡内地方の伝統的絹織物業が,開港以降に諸々の外部的インパクトを受けながら,明治末期に至って郡内地方としての固有の対応形態を形造っていく過程を追究した.その中で重要な制度的梃子の一つとなったものが南都留染織学校であると考え,その成立過程と成立後の編成替えの筋道を追いながら実業学校を中心とした教育システムが地域の伝統産業の存立に対して持ち得た意味を考えてきた.以下簡単にこれまでの作業を整理し,以降の課題を明らかにしておきたい.
 開港後の郡内絹織物に対する外的インパクトとしてまず指摘しなければならないのは,先進国技術の導入である.具体的には化学染料が最も大きい影響力を持った.しかし,これは安直な応用方法が普及し,製品の質的低下と市場評価の凋落という直截的波及効果となって現われた.
 郡内絹織物業に対する第2の外的インパクトは第1のものに対する政府の危機意識と政策的介入という形で出てきたものである.「欧米ノ先進国ニ向ツテハ我国固有ノ物産」「亜細亜ノ劣等国ニ向ツテハ,欧羅巴ノ先進国カラ教ヘラレタル…紡績器械其他器械ヲ以テ造リタル者」をもって国際貿易の両面作戦を展開しようとしていた当時のわが国中央政府の官僚にとって1),最も主柱と頼む「固有ノ物産」である絹製品の質的低下は深刻な問題だった.こうして農商務省による指導員派遣と,その動きに即応した県庁の直接的指導がなされるようになった.
 だがこうした上からの政策的介入は即自的であり,それ故に時としてあられもない権威的横暴として現われる限界を有していた.伝統産業が小経済圏を構成しているのは,一つないし二つの郡単位の領域であった.だからそうした次元での政策応用推進の受容構造ができあがらない限りは,上からの介入といえど単なる対症療法的強権発動しか行使できなかった.
 その場合に,郡レベルでの対応力といっても,郡内部での相応の政治的経済的基盤を背景にしたものでなければならなかった.郡長一個人の誠意が政策的効果を生むにはあまりに錯綜した諸利害の対抗がありすぎた.それが日清戦争後の郡内一帯の実情だったのであろう.個人的な資質と生活態度では甲乙つけ難いような八代駒雄と河口孝の生涯の持つ対照性は,そうした背景説明ぬきには語れないであろう.
 それにしても,わが国の産業化過程では郡段階での人材育成が実に効果的であったことを認めなくてはならないだろう.各地の「名郡長」物語はそれだけで何巻かの書を成すであろうが,生涯を郡内の織物業に賭けた河口孝の場合も同列に連ねられるものだといえる.彼等の特徴は何よりその「現場主義」にあると筆者は考えている.安楽椅子的思考に安んずることなく,積極的に村々を歩き,講演を重ね,実地指導を行ない,伝習生を募り,依頼品加工を引き受け,展示会を続ける姿勢は,人生の晩秋に教え子の就職先を求めて黙々と独り歩き続ける生活態度と,一つの糸で繋がっていると言えよう.但しこうした人間像は多くの場合に例外的人物として評価されても,地域的集団的人間類型としては決してたち現われてはいない.そのことの歴史的評価は全く別のフレームで論ぜられるべきことである.
 また,そうした人材が生まれ,一定の社会的背景をもっていたとしても,それだけで学校運営が成功した訳ではない.そのことはⅣで見た通りである.工業試験場や工業学校の指導内容と技術応用力が,既存の地域内の生産力体系と有機的な結合ができた時にこそ,地場産業の革新にも拍車がかかったのである.この点に関しては,郡内織物生産者内部からの技術革新の動きを明らかにしておく必要があったがここではなしえなかった.
 この点と関連したことであるが,実業教育研究の場合に,工業試験場や同業組合の動きと対応させ総合的に見ていく必要があるというのが本稿の主張するところでもある.勿論ここでの特殊条件も忘れることはできない.試験場長と工業学校長が同一人物であり,同業組合の有力者は義父である.とはいえ,この結合があってこそ際だって零細な郡内織物業界を前提しながらも一応の技術的前進を達成しえた側面を見落とすことはできない.
 徒弟学校教育については,また別の側面について指摘しておかねばならない.明治期においては,それが直截に職場組織や作業秩序を変革するものにはならなかった点を確認しておく必要がある.むしろ中間層の育成機関としての役割が強かった点を見るべきだといえる.しかし彼等が広汎に生み出されていくこと,かつ彼等自身がより新しい技術体系に対してかなりの理解力と応用力を持ちえるようになること,こうした点を通じて漸次的に直接的生産過程の変化の条件は作られている.ただこの問題についても職場組織や労働過程の分析を行なわなかった以上,これ以上の言及は慎まねばならない.そこでの技術の変化の問題ともども,これからの課題である.
[注]
 1)『第一回農商工高等会議議事速記録』,明治30年,23-4ページ.
資料 河口孝・略歴
〔竹内常善〕