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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 序章:明治維新期財政金融政策展望ー松方デフレーション前史ー
著者名: 中村 隆英
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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序章:明治維新期財政金融政策展望ー松方デフレーション前史ー

 はじめに

 1868(明治元)年,徳川幕府は崩壊して,政権は薩長土肥を中心とする西南雄藩の武力に支えられた京都朝廷の手に帰した.もっともせまい意味での明治維新―王政復古がこれである.しかし,新政府が,従来の制度を変革して,中央集権的な実力を備えるまでには,当然のことながら,なお10余年の歳月と,幾度かの政治的経済的試練を経なければならなかった.そのエポックとして,少なくとも三つの時点が数えられる.すなわち,1871(明治4)年の廃藩置県,1873(明治6)年の征韓論をめぐる国論の分裂,そして1877(明治10)年の西南戦争とその終結後の政策論争.この第三の時期に,経済的危機として1879(明治12)年以後の大インフレーションと,自由民権運動の政治的昻揚が訪れる.本書の主題である松方デフレーションは,まさにこれに対処して,通貨・金融の体制を一元化しようとする試みであった.政治的・軍事的な意味での明治維新の終りを西南戦争で画するとすれば,松方デフレーションは経済的な意味で,維新の変動を締めくくり,近代への序幕を開いたといってよいであろう.
 本章においては,この時期に至るまでの政治的変革と経済的変革とを,関連づけながら展望することにしよう.それは,以下の諸論文を理解するための予備知識を要約することを直接の目的として書かれており,新たな研究成果を提示することを意図したものではない.もし若干の新鮮さがあるとすれば,おそらく次の二点にかかわるであろう.第一に,政治過程と経済過程の関連性を意図してとりあげようとしたこと,第二に,最近における数量経済史の視角からの研究成果をとり入れて,この時代の意味づけを行おうとしたこと1).その試みは,もちろん副次的かつ予備的なものにすぎないので,今後の研究にまつところが大きいのはもとよりである.
 この章は次の三節に分かたれる.Ⅰにおいては,幕末における経済の発展と財政金融事情を手短に概観して,明治維新以後にひきつがれた課題をまず要約する.Ⅱにおいては,主として廃藩置県に至る中央集権国家の成立と,それにともなう財政金融政策,いわば幕藩時代から引継いだものの跡始末とその諸影響を取りまとめる.Ⅲでは,明治新政府をとりまく環境と,その政策との経済的帰結が,松方正義の財政政策を登場させるに至るまでの過程をみてゆくことにしたい.
 [注]
 1) 以上の二点を視野におさめた,もっとも包括的な先駆的研究として,高橋亀吉『日本近代経済形成史』全3巻,東洋経済新報社,1968年,とくにその第2巻がある.この比較的顧みられることの少ない書物は,幕末から松方デフレーションに至る経済の通史として,もっともすぐれたものの一つと考えられる.

 Ⅰ 幕末の政治と経済

 1853(嘉永6)年,水師提督ペリーが来航して開港を迫ったのを合図に,幕末の動乱の幕が開かれた.しかし日本では,これよりさき,おそらく1820年代に入るころから,持続的な経済の成長が開始されていたと新保博は推定している.その論拠は,貨幣流通量と物価上昇率の関連性に基づいている.すなわち徳川幕府の財政窮乏の結果,貨幣の改鋳が行われ,旧貨を回収して品質の劣る新貨と1対1で交換し,新貨の増加分を幕府の収入とする政策が1818(文政元)年から1820(文政3)年にかけて,1824(文政7)年から1829(文政12)年にかけて,および1837(天保8)年の三回にわたってくりかえされた.それによって貨幣流通量(M)が増加すると,それに若干遅れて物価(P)も上昇し,持続的な物価上昇が開始された.その際貨幣流通量の増加率よりも,物価上昇率の方がいつも小さかった.フィッシャーの交換方程式PT=MVにおいて,貨幣の流通速度(V)を不変とすれば,Pの上昇率がMの上昇率より低いならば,取引量(T)が増加したと見なければならない.そして,取引量ないし社会的生産が拡大した理由は,幕府財政収入の増大にともなう財政支出の増加が有効需要を増加させ,乗数効果をもたらした点に求められている1).梅村又次は,新保の仮説を容認した上で,次の諸点をあげて,19世紀前半から農業と農村工業の発展が開始されたと想定する.
 ① 新保の物価指数によれば,1820年代以後一貫して農産物価格は工産物価格に比して割高となる.その結果,農村の所得は増加し,工産物に対する需要も増加して,農村工業生産も増大したと考えられる.② 農業技術の進歩,たとえば魚肥の使用などもこの時期に普及したし,蚕種の改良も進んだ.③ 生産と所得の増加の事実を反映するかのように,とくに東日本における新田開発は,1820年代以後増加している.④ 19世紀前半において,名目賃金の硬直性が著しくなり,物価上昇のもとで実質賃金は低下し,これは上記の農業投資にとって有利に作用した.⑤ この時期においでは,農村における織物工業なども発展し,広い市場をもつ生産が開始されるようになった.⑥ 日本海の海運も,造船技術の進歩にともなって,著しく発展した2).以上の二つの研究は,1820年代以後の日本が,自力で経済成長の第一歩を印しはじめていたことを示唆している.このゆるやかな,しかし着実な過程が進みつつある日本に,海外からの衝撃がもたらされたのであった.
 幕末の日本においては,すでに初等教育も農村にまで普及し,オランダを通じて海外の情勢や欧米列強のアジア侵略の情報も伝えられていた.そして幕府が海外の圧力に屈して開国したことは,国是にもとるものだという議論がさかんになり,それと京都の朝廷こそ真の統治権者だとする名分論とが結合して,いわゆる「志士」や「草莽」の尊王攘夷運動が形成されたのである.幕府は一面においてこれを弾圧し(安政の大獄,1859<安政6>年),他面京都朝廷の権威を認め,1860,61(万延元,文久元)年当時には,朝廷の合意を得て国政を運用しようと試みた(いわゆる公武合体論).しかし,1862(文久2)年ごろから,幕府の支配力の弱化をみた長州,薩州等の西南雄藩は,次第に京都朝廷に近づき,攘夷を発令させて幕府を苦境におとしいれ,1863(文久3)年には,自ら外国人を殺傷し,外国船を砲撃するなどの態度に出た.そのために諸外国からの抗議が続出し,幕府は償金を支払い,また外国艦隊が長州,薩摩を砲撃するなどの事件をひき起した.同じ1863(文久3)年には,京都で公武合体派のクーデタが成功し,長州藩は征討をうけ恭順を余儀なくされた.しかし,この後,薩長両藩とも欧米列強の武力とその背後にある科学技術の意味を悟るに至り,自ら兵器・軍艦を購入し,留学生を送るなどの措置をとるようになった.幕府はもとより早くから海外と修好し,同じような政策をとっていたから,相対立する両政治勢力は,ともに実質的に開国にふみ切っていたのである.1865(慶応元)年,長州藩は内乱を生じ,反幕府的開国論者であった高杉晋作らが奇兵隊の武力を背景に勢力を得,1866(慶応2)年には薩摩と倒幕の密約を結び,やがて再度幕府と戦い,勝利を収めた.1867(慶応3)年10月,薩長の「志士」たちと,岩倉具視ら宮廷内の倒幕論者たちの画策により,ついに朝廷から倒幕の密勅が薩長両藩に下されるに至ったが,同日,将軍徳川慶喜は土佐藩の勧告もあって大政奉還を上表して聴許され,密勅はいったん取消された.薩長の画策は破れ,徳川家を中心に,皇室をいただく新政府が成立するかに見えたのである.しかし,倒幕論者たちは再度画策して,12月9日の小御所会議において,慶喜の官職をうばい,封土の返上を命ずることを決定した.幕府はこれに反発し,1868(明治元)年1月の鳥羽伏見の戦以後約1年5カ月にわたる戊辰戦争の端が開かれたが,結局,京都朝廷を擁する薩長中心の兵力が勝利を収めたのである,
 以上の経緯の背後には,経済的に見れば,幾多の難問題が発生していた.ここには,そのうち,諸藩と幕府の財政難と,海外との通商・金融の問題について,のちの叙述との関連でごく簡単にのべるにとどめておく.
 この多事の時代を迎えて,幕府にとっても,諸藩にとっても,財政の窮乏はいっそう深刻化した.すなわち,幕府は開港揚の整備,砲台の建設,陸軍の創設,軍艦・商船の購入などの支出のほか,1863(文久3)年の将軍の上洛,朝廷の費用,京都警衛など臨時の出費を余儀なくされたし,二度にわたる長州戦争などの戦費を負担しなくてはならなくなった.他方,従来は諸大名からの上納金などによって臨時費を支弁してきたが,諸藩の力を海防警備に向けさせたので,それもできなくなった.幕府は直轄地(天領)の年貢収入によって直臣団の俸禄と経常費をできるだけ節約して支払うのが精一杯で,臨時費の増大に対しては,貨幣を改鋳してその差益に依存すること,および江戸,大阪等の富商に対して御用金を賦課することで対処するほかはなかったのである.1854―56(安政元―3)年の間,改鋳益金の幕府財政収入に占める比重は20―25%に達して,それ以前の5―10%程度を大きく上回っていたが,1863(文久3)年にはそれが実に68%を占めるに至ったのである3).
表序-1 幕末・明治初期における両=円建一般物価指数(1854-56年:100)
 諸藩の財政の窮乏もまた著しく,商人からの借入金に依存するほか,大量の藩札を発行して急をしのぎ,通貨を贋造したところさえあった.ここには1例として,仙台伊達藩の1865(慶応元)年当時の財政状態を紹介しておこう.この年までに,藩の財政は,1860(万延元)年以降の藩主の再三の上京や北海道警備,軍備充実等のために行詰まり,京,大阪,江戸方面で藩債募集の計画を立てたが,翌年暮に至ってようやく幕府から5万両,京,大阪の富商から10万両を借入れて,一時を凌ぐことができた.当時藩債は累計150万両に達していた.1865(慶応元)年当時藩の収入は約62万両と見積られ,経常支出はこれより1万両弱少ない程度であったが,前年度に本年度歳大を繰上げ充当していた分7万両強,公儀御高備籾として江戸に上米すべき分の代金12両弱を加算すれば結局18万両余の赤字が生ずる計算だったのである4).維新後の1871(明治4)年の調査に係る1868年当時の各藩の藩債総額は,全277藩6,691万円(両)とされており,その領地の石高は総計1,881万石であったから,1石当り3.56円に相当する5).石高に対する貢米収入をかりに40%として,1865(慶応元)年の米価を3.75両とみれば,その年の収入は2,822万両であり,その藩債総額は,こ
の時期の年収入の2.37年分に当っていたことになる.このような財政難を貨幣増発でまかなったこと――改鋳と金札,藩札――が,幕末におけるインフレーションの主要因となったことは明らかである.幕末インフレーションは表序-1に示すように進行した.
 ところでこの表序-1は,開国以後のインフレーションが,1860,61(万延元,文久元)年に最初の昻進を示し,1864―66(元治元―慶応2)年に第2の急上昇を迎え,1869(明治2)年に最後のピークに達するという三段階を経たことを物語っている.この第2,第3の上昇は文字通り維新の戦乱のなかでの貨幣改鋳の帰結であったが,最初の昻進は,むしろ海外経済との接触がもたらしたところであった.新保博は,この点を1859,60(安政6,万延元)年のいわゆる安政・万延の貨幣改鋳によって,次のように説明している6).すなわち,当時の主要通貨であった一分銀と天保小判ないし一分判の間の金銀比価は1対4.5となっていた.そして洋銀(メキシカン・ダラー)は一分銀3個と等価とされていたが,洋銀の品質は一分銀よりさらに劣っていた.当時の国際的金銀比価は1対15.5であったから,日本は著しく金安であり,その結果,洋銀→一分銀→一分判・小判という交換を経て,日本金貨が大量に海外に流出した.幕府はこれに気づき,まず1859(安政6)年,金銀比価を国際比価に一致させるために,安政二朱銀と新金貨を発行し,金貨もいく分小型化したが,主として銀貨を大型化して銀価値を切下げたので,金銀比価は一挙に1対17.2に引き下げられた.しかし,この改鋳は海外諸国からの抗議にあって,中止のやむなきに至った.それが洋銀の日本商品に対する購買力を約3分の1に切り下げる結果になるからである.幕府はやむなく,1860(万延元)年1月に通用中の小判,一分判の価値を約3倍に引き上げ,かっ2月にはこの割合で金量を切り下げた金貨を発行して,銀価値をすえおいて金価値を3倍にしたのである.貿易通貨としての銀貨の価値は不変であったから,海外からの抗議は回避できたが,その代り,金銀流通量は5,300万両から13,000両に増加したと推計されている7).そのために物価は急騰した.新保はこの分析を次のことばでしめくくっている.「世界経済との接触によって実施せざるをえなくなった万延の改鋳は,いってみれば国際的均衡を回復するために,国内均衡を犠牲にしておこなわれた貨幣改鋳であった.」8)
 幕末の動乱は,もちろん,これ以外の多くの問題を投げかけた.外国貿易がさかんになったために,生糸,茶などの輸出品生産は活発化したが,原料糸の値上がりで絹織物業は苦況におちいった.良質の輸入綿織物に市揚を奪われた綿織物生産も沈滞した.また,輸出品が産地から輸出港に直接仕向けられたために,江戸などの問屋は打撃をうけ,1860(万延元)年と1863(文久3)年の2回,幕府は雑穀・水油・臘・呉服・糸の五品につき,江戸を経由して取引するよう,五品江戸廻し令を発布したが,実効はあがらなかった.
 1863(文久3)年には,幕府は祖法を破って参勤交代の制度を廃し,諸大名の家族の帰国を許した.それは江戸の人口を激減させ,経済的衰微をもたらした.大阪も,流通の中心としての機能が低下し,その繁栄の色はあせた.他方において,農産物価格の昻騰のもとで,農村の経済はそれほどの打撃を受けることはなく,むしろ好況感をいだいていたかもしれない.明治新政府が成立したのは,このような背景のもとにおいてであった.
 [注]
 1)新保博『近世の物価と経済発展―前工業化社会への数量的接近』,東洋経済新報社,1978年,第2章.
 2)梅村又次「幕末の経済発展」,近代日本研究会『年報・近代日本研究3,幕末維新の日本』,山川出版社,1981年.
 3)大口勇次郎「文久期の幕府財政」,近代日本研究会,前掲書,31-62ページ.
 4)橋本虎之介『仙台戊辰物語』,歴史図書社,1935年(1980年再刊),187-95ページ.
 5)「藩債輯録」『明治前期財政経済史料集成』第9巻,138-39ページより算出.
 6)新保博,前掲書,283-89ページ.
 7)岩橋勝「徳川時代の貨幣数量」,梅村又次,新保博,速水融,西川俊作編『数量経済史論集1,日本経済の発展』,日本経済新聞社,1976年.
 8)新保博,前掲書,289ページ.

Ⅱ 中央集権国家の成立
 (1) 廃藩置県
 明治新政府は,当初,西南雄藩(薩長土肥)の武力に支えられて,公卿や藩主たちの勢力のバランスの上に成り立った.しかし実際の政策を運営したのは,薩摩の大久保利通,黒田清隆(のちに西郷隆盛が加わる),長州の木戸孝允,広沢真臣,伊藤博文,井上馨,肥前の大隈重信ら武士出身者と,三條実美,岩倉具視ら少数の公卿出身者とであった.彼らに共通するところは,海外列強との巨大な格差を理解し,西洋の制度・文物を導入し,軍備を拡張し,列強に伍するまでにこの国を発展させることを至高の目標と認識した点にあったといえよう1).それはまた,旧幕府の勝海舟,大久保一翁らにとっても,また共通の認識であった.それこそが,江戸城の無血開城や,戊辰戦争の拡大を阻止した原動力だったのである.
 しかし,廟堂に立ったもののすべてが,このように考えていたのではなかったし,まして,かつての尊皇撰夷の「志士」や「草莽」たちにとって,新政府の開国和親への転向は,まさに裏切りであった2).長州の「奇兵隊」をはじめ,民間から徴集されて戊辰戦争に従軍した兵士たちは,ほとんど恩賞もなく解雇されて,不満に充ちていた.そして,藩主や武士たちは,薩長両藩においてさえも,新政府のもとにおいても,昔ながらに封土や家臣団を維持してゆくことはもちろん,揚合によっては加増さえも期待していた.戊辰戦争後,西郷隆盛は薩摩に帰って大規模な陸軍を編成したし,土佐も同様であった.新政府の基礎は,800万石の旧幕府領のみであり,しかもそれから功臣に対する恩賞をさき,徳川氏を70万石で再建させるなどの処置を行わなければならなかったのである.新政府の第一の課題は,とにかくその政治的・財政的基礎を確立し,反対派を鎮圧して,中央集権的国家をつくり上げるところにあった.1871(明治4)年の廃藩置県はそれを象徴する事件である.財政金融政策はその経緯と密接していたので,はじめにその政治過程を要約しておかなければならない.
 戊辰戦争が終ろうとする1868(明治元)年末,木戸孝允らは画策して,幕府なきあとの藩制を改革するための最初の手段をとることになった.薩長土肥の四藩主が,1869(明治2)年1月,その所領の奉還を願い出たのは,偶然のことではなく,木戸,大久保らが新政府の基礎がためのために進めた根まわしの産物であった.これにならって,同年6月までに,ほとんどすべての藩主から版籍奉還の願い出がなされ,新政府はいったんこれを聴許の上,あらためて旧藩主を非世襲の知藩事として藩政を担当させることにした.同時に藩主と藩臣の臣従関係は解消され,それぞれ華族・士族という新しい身分とされた.貢米を主とする藩の収入の10分の1が知藩事の家禄,他は藩庁諸経費とされ,藩政と知藩事の家計とは分離された.それはやがて,知藩事が中央からの任命制に変化する一段階となったのである3).同じ1869年には,天皇は東京に遷都し,同年5月,政府部内の守旧派をほぼ一掃する人事が行われた.しかし,こうした改革は,いっそう尊攘派を刺激し,1869(明治2)年から1871(明治4)年にかけて,大村益次郎の暗殺(1869<明治2>年9月),奇兵隊暴動の発生(同年11月)とその残党の潜伏活動,また復古派の公卿らの京都還幸運動,広沢真臣の暗殺(1870<明治3>年12月),そして1870年の日田,松代の農民暴動等,不穏な情勢がつづく.しかも,1870年秋には,大兵を擁する薩摩藩では,東京に対して不満をつのらせているという情報もあり,兵力の乏しい東京の新政府は,それにも憂慮せざるをえない状況にあった.そのなかで,大久保の発議により,薩長両藩主と西郷隆盛に上京を命じて協力を求め,その政治力を強化して,反政府勢力の弾圧と廃藩への体制が整えられたのである.
 1871(明治4)年6月,薩長土の三藩の兵1万が東京に集結して親兵となされ,東京の兵力は強化された.その力を背景に,西郷,木戸,大久保,山県,井上らは協議の末,三條,岩倉らの諒解をえて,7月14日,突如廃藩置県が断行された.その発動はまったく不意で,反対の動きが表面化するいとまもなかった.藩はすべて県となり,旧藩主は上京を命ぜられ,官選知事が任命され,同年11月には旧藩と県を統合して3府72県が置かれ,12月には県治条例が発布されて,名実ともに中央集権国家が成立したのである.
 この過程は,その後の矢継ぎ早の制度改革のひき金となった.まず,政府の制度を改革して,太政大臣(三條),参議(西郷,木戸,大隈,板垣)のもとに,外務,大蔵,工部,兵部,司法,文部の六省がおかれた.8月,東京,大阪,熊本,仙台に鎮台を設置,翌1872(明治5)年2月,兵部省を廃し陸海軍両省を設置,8月,学制発布,11月,徴兵令発布.義務教育と国民皆兵制の基礎はこの年に据えられたのである.一方,岩倉,木戸,大久保,伊藤らは,1871(明治4)年秋,遣外使節団として欧米に出発していた.留守政府は,三條,西郷,大隈を中心に,大蔵省は井上,陸軍省は山県,司法省は江藤らを中心に運営されることになったが,大隈によれば,「鬼の留守に洗濯」のつもりで,上記のような制度改革が行われたといわれる.そして以下に述べる財政制度の改革も,井上と,その辞任後大蔵卿となった大隈の手で進められたのである.
 (2) 財政・金融制度の形成
 戊辰戦争の戦費調達は,鳥羽伏見の戦に当り,御用金穀取扱方を命ぜられた福井藩士三岡八郎(由利公正)が京阪の富商からの借入金で急を凌いだのにはじまり,東征開始の際にはさらに300万両を借入れてまかなわれたが,やがて三岡案によって,同年閏4月に太政官札が発行された.この紙幣は,各藩に対し石高1万石につき1万両の割で貸付けて,殖産興業のために使用せしめ,13年間に利子を含めて1割ずつ返納せしめて回収し,あとは正貨に代える建て前であったが,実際は戦費を主とする財政支出に充てられたのである.不換紙幣の金銀貨に対する価値の下落は著しく,1868(明治元)年暮には「正金70両(紙幣100両)より80両の間に取引せしもの」が1869(明治2)年正月「60両台より漸次50両,40両,3月末には38両2分」となった4).このため,政府は紙幣と正貨の間に打歩の存在することを公認していたが,1869年5月,政府は太政官札の発行高を3,250万両に限定し,1869年冬から1872年までにこれをすべて政府の新鋳造貨幣と兌換すること,および以後正貨との間の打歩を厳禁することを布告した.これによって,紙幣の信用が回復するや,政府はひそかに印刷済みの太政官札を地方諸藩に貸付け,同額の正貨を回収した.その結果,太政官札発行高は4,800万両にのぼり,うち1,750万両あまりが地方に貸付けられたのである5).
表序-2 一般会計の歳入・歳出
 こののちも,政府の財政難が解消されたわけではなかったから,政府は各種の名目で別の紙幣を発行し,一時を凌ぐほかはなかった.政府の財政的基礎の弱さのために,不換紙幣依存を余儀なくされたのである.その発行額は1869(明治元)年末5,009万円,1871(明治4)年末6,027万円,1873(明治6)年末7,838万円,1875(明治8)年末9,907万円と増加していった.新政府にとって,財政収入の確立をはかるためにも,中央集権的体制を確立することが急務とされたのである.当時の財政収支を一括した表序-2によれば,旧藩の制度が存続した第4期(1871年)までの,とくに1868,69年の政府収入がきわめて少なく,かつその内容も,「その他の歳入」のなかに含まれる紙幣発行がその重要な部分を占めていたのである.
 廃藩置県の1871(明治4)年には,通貨制度の上でも,一つの変革が行われた.明治政府は「新貨条例」を発布し,金貨を本位貨幣とし,銀貨を補助貨幣とする金本位通貨制度を採用したのである.ただし,貿易銀と名づけられる開港場専用の通貨も鋳造されることになったので,事実上は金銀複本位制が採用されたというべきであろう.けれどもこの時,鋳造された貨幣の金銀比価は1対13.2であって,この時期の国際比価1対16に比べて金安であったうえ,その後も海外では銀価の下落がつづいたから,鋳造された金貨は銀貨と交換されて海外に流出してしまった.すなわち,1872―84(明治5―17)年の問に鋳造された金貨は55.1百万円余であったが,同じ期間に43百万円余は海外に流出し,国内に残存したものは11百万円余であった6).したがって,通貨制度の樹立のこころみは失敗に帰したのである.
 一方,廃藩置県にともなう財政上のあと始末はどのようになされたか.廃藩置県によって,旧藩に収納された租米は,すべて政府の収入となることになった.しかし,旧藩の藩札や藩債もまた政府の負担となるはずだったし,旧士族の俸禄も支給しなくてはならなかった.げんに,表序-2にたちもどれば,第6期(1873<明治6>年)に至って,歳入規模も税収も増加したかわり,第4期と第5期の財政を比較すれば,士族俸禄の負担のために,年金・恩給費が急増していることに気づく.後に述べるような,新たな政策のための財源を生みだすためにも,旧藩時代からの引継ぎ事項に思い切ったメスを加え,かつ安定した収入を確保する必要に迫られていたのである.そこでとられた手段をここにとりまとめておくことにしよう.それはまた,中央集権国家としての財政制度の出発をも意味していたのである.
 第一に行われたことは,1873(明治6)年3月に実施された旧藩の債務を限定して引継ぐことであった.むしろ,その大部分を切り捨てることであった.その要点は表序-3に示す通りであるが,要約すれば次のごとくである.
表序-3 旧藩藩債とその整理
 (1)旧藩債のうち,1843年以前の借入金,旧幕府からの借入金,旧幕府および維新の際官軍に敵対して一旦滅家となった諸藩の債務,書類不備のもの,届出のなかったもの等はすべて切り捨てられた.
 (2)1844―67年間の旧藩債は,50年間に無利子年賦償還,1868年以後の分のみは,3年据置4分利付で25年間に償還.
 (3)外国債は,利率その他について交渉のうえ,原則としてすべて現金で償還.
 総額7,813万円中,ちょうど半分が全く切り捨てられ,残余が政府の債務とされたが,その支払条件も債務者にとって全く不利であったことは注目すべきである.高橋亀吉は表序-4を示して,この時交付された公債の市価が異常に低かったことから,事実においては,旧藩債の8割余が切り捨てられたのだと評価している.
表序-4 高橋亀吉の試算による旧藩債切捨て率
 また,旧藩の藩札発行高は,政府の集計では,3,855万円となっているが,政府は当時の打歩(両替率)で再評価して,これを2,444万円と見て,その分だけをひきついだ.藩札発行高中には未届のものもあったし,藩札を発行していながら,金額不明のものが60藩もあったことは政府のみとめるところである.したがって,表面上の切り捨て率は,公式には37%であるがそれよりはるかに高かったのは明らかである.山口和雄は,幕末維新期の藩札発行高を,9千数百万円と推算しているので7),切り捨て率は少なくとも73%以上となる.これにその以前に発行された分を加えるならば,旧藩債の場合とほぼ同様,ないしそれ以上の切り捨てが行われたことになる.
 このような諸政策が,旧藩に金融を行っていた富商たちにとって,大きな痛手であったことはもちろんであり,また一般庶民も強制通用の藩札が無価値となって打撃をうけたのである.
 第二の整理は,旧士族の俸禄の処理であった.旧士族の俸禄の支払分は政府の財政支出の半分近くを占めていた.その削減のために,政府は二つの段階に分けて次のような手段を講じた.まず,1873(明治6)年,家禄100石以下の士族のうち8),「家禄奉還,営業志願の者」に対しては,資本として,永世禄を奉還する者に対しては6年分,終身禄を奉還する者に対しては4年分の家禄が,半分は現金,半分は公債証書で下付されることにならた9).1875(明治8)年7月,家禄を米で表示することを取止めて,現金額で表示し,金禄と称することにした10).っいで,1876(明治9)年9月,すべての家禄を全廃し,金禄公債証書が下付されることになった11).この結果,家禄奉還のさいは,公債現金計3,589万円(1人当り264円),また秩禄処分にさいして同じく合計1億7,185万円(1人当り566円)が華士族に対して支給され,これによって,明治政府は士族に対する俸禄の負担を解消したのである(表序―5).ただし,高橋が指摘するように,明治以降家禄が支給された時期にあっても,旧士族の収入の減少は著しく,幕末期に比して4割ていど,別の計算によれば3割以下に低下していたが,家禄が公債化されて後,その利子収入はさらにそれよりも低下した12).生計の途を知らない士族は困窮におちいり,そこに1870年代後半に頻発した士族反乱の経済的背景がひそんでいたのである.
表序-5 家禄奉還および秩禄処分の結果
 第三には,中央政府の財源を確保するために,思い切った手段として,地租改正が行われた.徳川時代において,幕府,諸藩の最大の収入源は,農民から徴収される現物貢租,とくに米であり,廃藩置県後も,政府はこれを引継いだのであった.しかし,米価の騰落にともなう収入額の変動と,貢米の処分の困難さとのために,政府の収入は不安定で,計画的な財政運営は行われ難かった.明治政府はこの体制をあらためるために,1873(明治6)年,地租改正を行ったのである.それは,全国の土地の所有者を確定して,その所有権を確認するための地券を交付し,かつ地価を決定する.そして,毎年,その地価の3%を地租として中央政府に納入し,かつ地方税(民費)はその3分の1の範囲を限度に納付するというのである.地価の決定は,面積当り収穫高から種子肥料代を差引いた粗利益(X)から,地価(Y)の4%に当る地租および地方税を差引いた手取額(X-0.04Y)を年利6%で資本還元した額とするのが標準とされた.かりに反当り収穫1.6石,石当り米価3円として反当り収穫4.8円,種子肥料代はその15%とすれば,粗利益は3円×1.6×0.85=4.08円であり,ゆえに0.06Y=4.08-0.04Yとなるので,これから地価Y=40.8円,地租はその3%の1.224円,地方税は1%の0.408円となる.地価は5年ごとに改訂されることになっていたが,実際には全面改訂が行われたことはなかった.この方針による地価の決定事業は1873(明治6)年から1876(明治9)年までに完成する計画で着手されたが,1876(明治9)年に至って米価が下落したために,難航したことはのちに見る通りである.
 (3) 改革の衝撃と井上財政
 以上やや先走って,廃藩置県以後の財政整理について見てきたが,それがもたらしたデフレーションと,また1871―73(明治4―6)年の井上馨によるきびしい財政政策の政治的波紋にふれておかなくてはならない.元来,廃藩置県が円滑に実施されえた背景には,旧藩財政の極端な窮乏があった.表序-3に示したように,旧藩の新債だけでも,1.283万円にのぼり,藩札も追加発行されていたし,薩摩,筑前,広島等の諸藩では幕末以来贋貨を製造し,半ば公然と流通して,「江戸大阪京都ヲ始メ各市街ノ両換店ニ出入スル貳分判ハ凡ソ十三四種ノ多キニ至リ其十中七八ハ贋金」といわれたほどであった13).家臣団の家禄は1869(明治2)年以来削減されていたが,それでは間にあわず,藩によっては藩士の帰農を奨励し,士卒一同帰農した,苗木,母里,膳所,刈谷等の諸藩の例さえ見られた14).「朝敵」とされて削封をうけた,東北諸藩士の帰農はもっと早く行われている.廃藩置県によって,処理の見通しの立たない債務や士卒の生活保証を中央政府が引き受けることになったところに,旧藩が強く抵抗できなかった理由も理解されえよう.そして新政府は,藩債と藩札を大幅に切り
捨てたうえで継承したのであって,もちろん贋貨などについては,一切責任を持つはずはなかった.このような明治政府の政策が,当時の経済界に大打撃を与えたことは,想像にかたくない.以下にその若干の実例をあげて,改革のもたらした衝撃の内容を考察しよう.
 まず,債務の切捨てによって,旧藩への貸付を行っていた富商たちは回復不可能の痛手を蒙った.菅野和太郎は大阪富商のうち維新後破産したものとして,加島屋作兵衛以下24名の名をあげており,その8名は,1848(嘉永元)年の長者番付に,幕内ないし頭取・勧進元・差添人としてランクされた大阪富商19名のうちに含まれていた15).仙台藩に金融していた中井家も,1868(明治元)年1月末75万両を融通していたが,戊辰戦費約20万両とともに貸倒れとなり,大打撃をうけている16).江戸の札差もまたその例に洩れなかった.このようにして,没落したもののなかには,小野組,島田組三谷家などの豪商も数えられる.それが信用恐慌をひきおこしたことは当然の帰結であった.
 また,藩札にせよ贋貨にせよ,流通していた貨幣が急に整理されたことは,その一部は新通貨と交換されたとはいえ,相当な通貨の収縮をもたらした.1869(明治2)年現在の通貨総量の概算額は,金貨8,761万両,銀貨5,267万両に銭(銅,真鍮,鉄)を加えて,小計1億4,631万両,藩札3,855万両,太政官札4,800万両(両は円に同じ)で,確認可能の分の合計が2億3,229万両となる17).これに,計上洩れの藩札と贋貨を加えた3億両以上が,1869(明治2)年当時の流通通貨量であった.1871(明治4)年末以後の数字は表序-9に示すりであって,現金通貨増減の実情がうかがわれる.ただし1869(明治2)年の数字と1871(明治4)年末の数字とは直接比較できない.1869(明治2)年の数字は,旧金銀貨を含んでいるからである.残念ながら,この差を調整するために必要な旧金銀貨の海外流出の計数は存在しないので,かわりに1872―74(明治5―7)年の3年間の本邦新旧銀貨の流出額を平均すれば,金貨447万両,銀貨178万両にのぼる18).これを,1869(明治2)年の数字から2.5倍してさしひいて19),1871(明治4)年現在の古金銀貨の存在量を推定すれば,金貨7,644万両,銀貨4,822万両となり,これを4年末の合計に加算すれば,2億3,592万円となり,1869(明治2)年の確認数字とほぼひとしくなる.結局1869(明治2)年にはなお霧しく存在した計上外の藩札や贋貨が整理された分および古金銀が退蔵された1億両近くだけ,通貨は収縮したとみてよいであろう.そのデフレ効果が大きかったことは,前掲表序-1の物価の動向が,1869(明治2)年をピークに1872(明治5)年まで急落をつづけ,4年間を通算して,実に44%の落ち込みを示したことからも理解されうる.1869(明治2)年の凶作による米価の昻騰(1870<明治3>年平均9円20銭)が1871(明治4)年に至っておちつき,1872(明治5)年には廃藩置県のため,旧藩引継ぎの貢米払下げなどもあって大幅に下落(1872<明治5>年平均3円88銭)したことも,影響しているのは事実であろうが,この全般にわたる物価低落は,やはり通貨収縮を反映するものと見てよいであろう.以上,中世の徳政令にも似た債務の切り捨てと,デフレーション政策が,この時期の経済を収縮せしめたのである、
 高橋亀吉は,以上の事情に加えて,次の諸点が明治初年の経済の混乱を激しくさせたと指摘している.第一に版籍奉還から廃藩置県に至る制度変革の打撃である.幕末,江戸・大阪等の商業が衰微したことは前述の通りだが,その上に,幕府・官軍双方の御用金を誅求され,悪貨の濫発で商品の流通が混乱,金融は梗塞した.その状況は1871(明治4)年ごろまでつづいた20).第二に,株仲間の廃止の影響がある.「主要商品のほとんど全部」にわたる株仲間等の独占制度は,旧幕時代にはそれなりに「商取引の安定化―信用の強化となって,全国的な信用取引網を発達」させてきた.明治政府が,1868(明治元)年5月,これを一挙に廃止したことは,短期的には,商品相場の混乱,信用取引の梗塞,商取引の渋滞,信用不安等をもたらした.また,幣制統一によって金目銀目が統一せられると,大阪の両替商らは営業を失って打撃をうけた21).
 第三に,藩制の廃止にともなって,藩を通ずる商取引(専売を含む)機構,蔵屋敷を通ずる地方産物の全国的流通機構,諸藩の用達商人等がその機能を失ったことである.「事態の収拾上,維新政府は,1868(明治元)年閏4月急遽商法司を設け,次いで1869(明治2)年2月通商司を設けたが,いずれも旨くいかなかった.」22)
 第四に,制限関税率化の外国貿易の自由化にともなう外国製品の流入をあげなければならない23).その一例が表序-6に示す綿糸・綿織物の輸入の増大である.
表序-6 綿製品と国産の輸入対比
この表において綿織物の輸入比率が1874―76(明治7―9)年をピークに低下しているけれども,それは輸入綿糸が国産綿織物原料として使用されたためであることを注意しておきたい.表序-7には,この時期の貿易統計を取りまとめたが,このほかにも砂糖,その他の織物類,鉄,金属製品,石油等の輸入増加が目立っており,これらの諸産業の打撃は小さくはなかったと考えられる.また,輸出においては幕末以来の生糸,緑茶をはじめ,海産物,石炭,銅などの増加が目立っている.輸出によって振興した産業,輸入に押されて衰退した産業の明暗が,この時期にははっきり表面化したのである.
 第五に,物価,とくに米価の低落が,農村経済に打撃を加え,地租改正がそのなかで行われたために,百姓一揆が頻発したことと,収入の低下した武士階級が職業を求めることができずに困窮におちいったことをつけ加えておくべきであろう.
表序-7 日本の貿易統計
 かくて高橋は次のように結論する.「維新革命以後のわが経済の発達は,初めから資本主義の担途」を歩んだのではなく,経済界は維新以後10年間「多大の混乱と打撃と不安との陣痛期を耐え忍んだ」のであり,「打撃の大部分は旧来の富商に集中」したので没落を余儀なくされ,西欧の場合のように資本主義発達の担い手になることができなかったのだ,と24).この点については,「旧来の富商」とはとくに江戸,大阪等大都市の,大名貸を業としていたものであって,それ以外の商人たちのなかには,インフレーションを利してかえって巨富を積んだものも多くあったことを付記しておきたい.高橋はつづけて,「最も重要な点であるが,以上の混乱と打撃の大部分は,〓後のわが経済の近代的発達に必要不可避の性格の強いもの」であって,所要の改革を「一挙に徹底的に断行」したことが,後の発展の基礎になったと述べている.維新改革の評価として,まさに卓見というべきであろう25).
 以上の諸改革のなかで,財政の担当機関は,次のような変遷を経た.1869(明治2)年に創設された大蔵省は,その後地方行政や通商勧業の事務を担当する民部省と合併し,内政の全面にわたる強大な権限を保有することになった.両省の大輔となった大隈重信は,東京・横浜間の鉄道・電信の敷設,通商会社の育成等,近代化の推進につとめたが,保守派の反対をうけ,1870(明治3)年7月,大蔵・民部両省は分離され,同年9月大隈は参議に任ぜられて同省を去った.次いで,1871(明治4)年8月廃藩置県の後,両省は再度合併して,大蔵卿大久保利通が遣外使節団に参加して外遊したため,大蔵大輔となった井上馨が同省の実権を握ることになった.廃藩の後も,財政収入の増加は,米価の下落などのためもあって思わしくなく,240万ポンドの外債を発行して秩禄処分費にあて,また紙幣を発行して一時の支出に充当するありさまで,財政運営は困難をきわめた.当時の中央政府の各省は,新政策を打ちだした直後のこととて,陸海軍費をはじめ,勧業費,教育費,裁判所費等の増額を求め,これを削減しようとした井上と衝突し,1873(明治6)年5月ついに井上は辞任し,大隈が大蔵卿に復帰することになった.以後1880(明治13)年まで,大隈財政の時代がつづくのである.
 大隈は井上に比してはるかに大胆かつ積極的に,財政を運営しようとした.野に下った井上が、1873(明治6)年の歳入は4,000万円,歳出5,000万円で1,000万円の赤字が生ずるうえ,負債が1億2,000万円近くあるという計算を公表したのに対し,大隈は歳入4,874万円,歳出は4,659万円の黒字財政で負債は3,122万円にすぎないという歳計見込を公表した.これは財政の予算公表の最初であった.事実は,これ以後歳入もこれを上回って増加していったので,殖産興業政策をかかげて積極的に財政を運営しようとする大隈にとっては,恵まれた環境がととのえられたはずであった.しかしこれ以後の財政は,軍事費その他の拡大のために,大隈の期待通りには運営されえなかった.その事情については,次節に見ることにしよう.
 [注]
 1) 岡義武は,当時薩長の指導者の問で,西洋旅行を「伊勢参宮」と呼んでいたと述べている.岡義武『山県有朋』,岩波新書,1958年,20ページ.
 2) 象徴的な一例として,島崎藤村の歴史小説『夜明け前』の主人公青山半蔵(藤村の父をモデルとする)は,平田派の国学に心酔して復古を喜び,神祇官に奉職するが,やがて期待を裏切られ,ついに狂死する運命をたどる.
 3) 下山三郎『近代天皇制研究序説』,岩波書店,1975年,215-17ページ.
 4) 鹿島万兵衛『江戸の夕栄』,中公文庫,中央公論社,1977年,31ページ.
 5) 以上の経緯につき大蔵省「貨政考要」上編,『明治前期財政経済史料集成』第13巻,161,162ページ.大蔵省百年史編集室『大蔵省百年史』上巻,大蔵財務協会,1969年,59ページ,を参照.
 6) 「貨政考要」上編,『明治前期財政経済史料集成』第13巻,111ページ.
 7) 山口和雄「藩札史研究序説」,『経済学論集』第31巻第4号,1966年1月,1-13ページ.
 8) 翌年には100石以上のものにも適用された.
 9) 1874(明治7)年には100石以上のものにも同様の措置がとられた.「秩禄処分録」「秩禄処分顛末略」,『明治前期財政経済史料集成』所収,80-82,84,290ページ.
 10) 「秩禄処分録」,上掲書,92ページ.
 11) 「秩禄処分録」「秩禄処分?末略」,上掲書,95,292ページ.
 12) 高橋亀吉,前掲書,97-102ページ.
 13) 前掲「貨政考要」,161-62ページ.なお「慶応二三(1866,67)年の頃より贋金が次第に増加して明治になってますます多く...維新前後諸藩にて製造せるもの多く,...大阪と称ふる物二分判百両は市価金70両位,筑前と称ふる物二分判百両に付き市価金52,3両位,新筑州と称ふる物同市価48,9両位,前二種は筑前藩にて作りしものといへり...〓薩州と称ふる物同市価38両位...」と両替商の相揚さえ記録されている.前掲『江戸の夕栄』,32ページ.
 14) 下山三郎y前掲書,276-79ページ.
 15) 菅野和太郎『日本企業発生吏の研究』,岩波書店,1931年,637-39ページ,および宮本又次『鴻池善右衛門』,吉川弘文館,194-95ページ.いずれも高橋亀吉,前掲書,第1巻,275-76ページより再引.
 16) 橋本虎之介,前掲書,338-44ページ.
 17) 「貨政考要」,22-4ページ.
 18) 「貨政考要」,112ページのあとの付表より算出.
 19) 1869(明治2)年の数字の時点を年央とみて,2.5年とした.1869年当時の流出がさかんだったことは,1869年1月英国東洋銀行の報告によると,1月分だけで約50万両の銀貨が流出したという.上記の推計はなお過少かもしれない.「貨政考要」,53ページ.
 20) 高橋亀吉,前掲書,第2巻,147ページ.
 21) 高橋亀吉,前掲書,第2巻,148ページ.
 22) 高橋亀吉,前掲書,第2巻,149-50ページ.
 23) 高橋亀吉,前掲書,第2巻,153-54ページ.
 24) 高橋亀吉,前掲書,第2巻,155-56ページ.
 25) 日本経済史の研究者の間では,明治維新の諸改革が,半封建的農村制度を温存するためのものであった(講座派)とか,「不徹底なブルジョア革命」であった(労農派)とかいう見解が,今もなお,うけつがれている.1930年代の,社会主義革命のための戦略論争が生みだした,必ずしも実証を伴わない「通説」への批判として,事実にもとづいて,維新改革を「徹底的」と評価した高橋の論断はまさしく「卓見」なのである.

Ⅲ 外征・内乱・殖産興業

 (1) 大久保政権の理想と現実
 岩倉使節団の帰国を前にした1873(明治6)年夏,韓国の対日態度を非礼とする外務省が強硬論を提起して閣議が開かれたとき,西郷隆盛は,自ら大使として渡韓して開国を求めよう,もし自分が殺害されるようなことがあれば問罪の師を起す名分も立つであろうと主張した.いわゆる征韓論争である.西郷の真意が,自らの死と開戦にあったのか否かについては論議が分れているが1),使節派遣を巡って閣議は二分した.結局,三條の急病のために,帰国したばかりの岩倉具視が太政大臣の職務を代行することになったあと,いったん決定された使節派遣が中止されたのは,1873(明治6)年9月である.西郷は辞して故山に帰り,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平ら征韓派の参議もまた職を去った.薩摩出身の軍人たちも辞官帰国し,西郷は私学校を起して壮士を養い,板垣もまた土佐で立志社を組織した.明治6年政変といわれるものがこれである.政府に対する強大な敵国が形成されたのである.
 政変の後,三條,岩倉の信認のもとに,事実上の首相として国政を担当することになったのは,1873(明治6)年11月に新設された内務卿となった大久保利通であった.内務省は,商工農林,運輸通信,土木建設等国内経済行政と,警察行政と,地方行政とを担当する強大な権限を持つ機関として発足した.岩倉使節団に加わって欧米を歴訪した大久保は,その産業と軍備とに感銘し「富国強兵」「殖産興業」を期するにいたった.政府の内部にあって,これを助けるものに,工部卿伊藤博文,大蔵卿大隈重信,睦軍卿山県有朋らがあった.いわゆる大久保政権が成立したのである.この時期以後の日本の近代化を担う制度と人物は,この時ほぼ出揃ったといってよいであろう.
 しかしながら,大久保の意図はただちに実現しえなかった.新内閣は内憂と外患への対処に忙殺されたのである.前節に見たように,中央集権国家の成立と,これにつぐ急激な改革は,旧富商と士族に対して,集中的打撃を加えた.商人は泣き寝入りしても,生活の道を失った士族層の不満は,国内に於いて,重大な社会的緊張をつくり出した.全面的な秩禄処分が行われる以前に,その俸禄が削減され,全国に徴兵令が布かれたことが,士族の職業意識を刺激した.翌1874(明治7)年2月,佐賀に征韓を唱える不平士族の叛乱が勃発(佐賀の乱)し,前参議江藤新平はこれに坐して刑せられた.同じ2月,台湾において琉球の人民が土民に殺されたことから,征台の師が発せられたのは,やはり勲功と仕官を求める不平士族への配慮からであった.内につもる不満を外征によって発散せしめようという,危険な政策が採られるに至ったのである.台湾出兵は,同年10月,大久保が清国との間に条約を締結して,ようやくその局を結んだ.対外緊張は,さらに1875(明治8)年,韓国との間の江華島事件でさらに持続し,征韓論が再燃する.1876(明治9)年2月,日韓修好条規の締結によって,その局を結ぶまで,派兵の議論はたえなかったのであった.
 同じ1876(明治9)年8月,すでに述べたように,金禄公債の交付によって士族の秩禄は最終処分をむかえる.前原一誠らの萩の乱,熊本(神風連)の乱,秋月の乱と,士族叛乱が相次いだのはその直後であった.いずれも簡単に鎮圧されたものの,士族層の不満はたかまってゆく.その最終,最大の暴発が,1877(明治10)年2月からの西南戦争であった.鹿児島県は,薩摩藩の旧慣を墨守して中央の諸改革をうけ入れることなく,中央に対する一敵国をなしていたが,私学校の壮士たちは,同県出身の警官たちが西郷暗殺を企図して帰郷したと考えて激昻し,ついに1877(明治10)年2月,西郷を擁して政府に「訊問」の筋があるとして挙兵したのである.同年9月の鎮定に至るまでの半年余の間,戦乱は九州中南部にわたって展開され,政府の戦費は,当時の年度予算に匹敵する4,157万円に達したのであった.以後,この種の士族叛乱はようやく跡を絶ったのである.
 ところが,士族層の不満が脹れあがっていった1876(明治9)年は,また,農民層の不満の頂点でもあった.進行中の地租改正は,米価が高かった1874,75(明治7,8)年(両年とも平均7.28円,1873<明治6>年は4.08円)には順調に進行しえたものの,1876(明治9)年には前年来の豊作で米価は低落して5.01円となったため,和歌山県,茨城県,秋田県等に一揆が続発した.1877(明治10)年1月,天皇の詔勅によって,地租率を地価の3分から2分5厘に減じ,また地方税を国税の3分の1以内から5分の1以内に切り下げたのは,おそらく,政府が士族・農民の双方を向うにまわす危険を避けて,農民の要求をいれ,より重大な士族叛乱に対処する決意を堅めたことを意味していたと見てよいであろう.西南戦争期に,米価は上昇に転じ,農民の不満は表面化することはなく終ったのは,おそらく減租の成功を意味していた.しかし,以後,米価は昻騰をつづけ,1877(明治10)年平均5.55円から1881(明治14)年9.91円に暴騰して,西南戦争後のインフレーションの一要因となった.減租と米価の昻騰によって,農民,とくに富農層の収入は増加し,毛織物など輸入消費財の地方向け出荷も増加して,国際収支の赤字を増大せしめる一因となった.他方,インフレーション下で,士族の窮乏は一層激化した.そのなかで,土佐の立志社にはじまる自由民権運動が全国に波及してゆき,巨大な政治的圧力を政府に加えることになるが,その両翼を担ったのが,富農層と士族層だったことはよく知られている.しかし,かれらの要求は,民選議会の設立の一点において一致していたけれども,その経済的要求は,インフレーション下の好況の持続を期待する富農層と,物価の下落を望む士族層の間で相反することになったのもまた事実であった.
 1878(明治11)年,大久保は暗殺され,中心を失った政府は,1881年の明治14年政変まで複雑な内部抗争をつづけることになるのである.
 (2) 殖産興業政策
 明治政府は,欧米列強を範として,これに追いつくことをその目標にかかげた.いわゆる「富国強兵」である.そのためには当然,近代産業の発達と,強力な軍隊の創設が期待された.そのために,思い切った改革が遂行された過程については前節に要約した.ここには,こうした近代化政策を代表する殖産興業政策を見ておくことにしよう.
 明治政府は,幕府や旧藩から,横須賀製鉄所,石川島造船所,兵庫造船所など11の工揚と,佐渡金山,生野銀山,三池・高島両炭鉱など9鉱山を引継いで,兵部省(のちの陸・海軍両省)と工部省において経営した.これらの工場は,すべて,幕末期において,兵器,艦船,火薬等の生産の目的で創設された軍需工場であった.したがって,これを明治政府が引継いで経営したことは,その計画に基づいてのことではなく,むしろ維新変革や廃藩置県のあと始末とでもいうべきであった2).
 明治政府自らの発意になる殖産興業政策としては,まず1869(明治2)年において,太政官札を諸藩に貸付けて,民業の振興をはかろうとした――実効はほとんどあがらなかったが――ことや,鉄道,電信,郵便等の施設・制度に1869(明治2)年ごろから着手したことをあげなければならない.ついで1870(明治3)年に工部省が成立すると,その主要業務は,鉄道,電信の建設と経営,鉱山経営および工部大学校の創設であった.鉱山経営については,1873(明治6)年「日本坑法」が公布され,国内の鉱物はすべて「日本政府の所有」とされたが,結局主要鉱山10あまりを官行し,他は民間に鉱業権を承認して稼行せしめられた.また工部省は赤羽機械製作所,深川セメント製造所,品川硝子製造所等をも経営している.重工業と鉱山以外の諸産業,農業と繊維工業の分野では,1870(明治3)年,民部省がフランスの技術を導入して,群馬県に富岡製糸所を創設した.民部省はその後大蔵省に合併されたが,その事業は1873(明治6)年に独立した内務省の所管とされ,内務卿となった大久保利通は,林業,牧畜,農工商業の奨励,海運の開発などをかかげて勧業政策をとろうとしたのである.また大蔵卿大隈重信も,これをうけて国内税による輸入抑制,官庁の輸入品使用制限,農工商鉱業の資本の公債発行による調達,海運の発達(のちに三菱会社を保護育成した),直輸出の増大(不成功),金融の疏通など,殖産興業についての建議を行っている3).農学校,育種場,農事試験揚,種畜場,蚕種売捌所の創設,やがて紡績所,製絨場の開設等が具体化された.全体として,模範工場や農場の経営にとどまらず,民業の勧奨に力をそそごうとした点に,大久保・大隈時代の殖産興業政策の特色があったといえよう.のちに2,000錘紡績機十基を輸入し,民間有志に貸付けて起業させたのも,その一例で,のちに十基紡と呼ばれたのがこれであった.
 なおこのほかに,徳川時代までほとんど放置されていた北海道(のちに樺太を含めて)の開拓のために,1869(明治2)年開拓使が設置され,黒田清隆が長官となり,1872(明治5)年から10年計画で,開拓,殖産を開始していた.また,のちの西南戦争後の1878(明治11)年から,さきの大隈案によって,起業基金公債が発行され,築港,道路開さく,鉱山起業,鉄道建設および士族授産業にあてられたことも注目に値する.
 以上の殖産興業政策費について,石塚裕道の推計を一部改訂(太政官札による貸付金や準備金を除外)してとりまとめたのが表序-8である.その総額は,1868―79(明治元―12)年の間に,6,240万円,1885(明治18)年までを集計して1億1,175万円であった.内容の点からは1873(明治6)年までは,工部省,開拓使,官営諸事業費がほとんどであったが,大久保・大隈時代の1874―76(明治7―9)年には内務省の費用や貸付金が増加し,民業への支出がふえている.そして,西南戦後の1880,81(明治13,14)年当時,起業基金による公共投資や官業の再興がはかられたことが読み取られる.
表序-8 明治前期の勧業費
 殖産興業政策の果たした役割はいかに評価されるべきであろうか.その内容を整理すれば,1.旧幕藩から引継いだ軍需産業,2.鉱山,3.海外から移植した各種新産業の模範工場,農場,4.民間産業(士族授産を含む)への助成,5.鉄道電信治水等の公共投資の五つに区分されうるであろう.軍需工業は,その後陸海軍に引継がれて,造兵・造機を担当する軍工廠に成長し,日本における機械工業発達の基礎の一つとなった.鉱山業はのちに民間(のちの財閥)に払下げられたが,19世紀における生産の拡大はめざましいものがあり,輸出にも貢献するところが大きかった.富岡製糸場や十基紡に代表される新産業は,それ自体欠損つづきでやはり民間に払下げられたが,以後日本の主要産業となった繊維工業技術を導入する上で重要な役割を果たしたし,セメント,ガラスなどの技術を伝えたことも忘れがたい.また,在来産業については,製糸業などをのぞいては,この時期においては,あまり見るべき成果はあがらず,政策的努力の点でも,その発展の実績のうえでも,松方デフレ以後の農商務省の前田正名らの努力をまたねばならなかった.公共投資はこれ以後,次第にその比重を高めてゆくことになるが,その萠芽として注目すべきであろう.
 (3) 大隈重信の財政金融政策
 大隈が大蔵卿として,井上財政を引継いだときは,国立銀行制度がまさに創設されようとしていた.国立銀行は,伊藤博文の提案になり,アメリカのナショナル・バンクの制度にならって,正貨兌換の銀行券を発行せしめ,これによって通貨価値を安定させ,不換紙幣を引換えることを意図したものであった.1872(明治5)年11月制定の国立銀行条例によれば,国立銀行は,資本金の6割相当の政府紙幣を政府に納め,政府はこれと引替えに6分利付公債証書を交付し,銀行はこれを抵当として政府に預け,同額の銀行紙幣の交付をうけて営業資金とする.この紙幣は兌換券であって,銀行は資本金の4割相当の正貨を準備することになっていたのであった.第一国立銀行以下の4行が,営業を開始したのは1873(明治6)年であった.政府の予期に反して,銀行設立数も少なく,銀行券発行額も少額にとどまったうえ,当時も正貨と紙幣の価格差が存在したので,国立銀行券はたちまち正貨に換えられてしまい,政府は国立銀行の窮状を救うために,政府紙幣を貸付けたりしなければならなくなり,計画は失敗に帰したのである.国立銀行は,1876(明治9)年に至って息を吹きかえすが,その過程を見る前に,当時の財政政策を要約しておかなければならない.
 大蔵卿としての大隈は,殖産興業政策を主唱する大久保と意見を同じくしていたが,同時に,財政支出のむだ(官庁建築の制限,剰余金の「回産復生」資本への流用,官庁の輸入品使用制限,秩禄処分)を省き,かつ不換紙幣を銷却し,準備金を充実することを提唱していた.大隈といえども,財政の均衡や紙幣整理の必要を重視していなかったのではなく,経済発展と財政均衡・紙幣整理を両立せしめようとする企図が強かったと見るべきであろう.以後の財政政策史上にくりかえしあらわれるこの発想を積極主義と名づけるならば,大隈はその創始者といわれてもよいはずである.ともあれ,1876(明治9)年,韓国との緊張が緩和したのを機として,政府は最終的な秩禄処分を行い,懸案の一つを解決したのであった.それは,殖産興業政策に本格的に乗り出すためにも,不可欠な処置であった.
 しかし,このためには巨額の金禄公債の発行が避けられない.1890(明治23)年までの同公債の発行額は1億7,385万円に達した.その価格が暴落するのは目に見えている.その対策として考えられたのが,国立銀行条例を改正して,同公債を資本金として国立銀行を成立せしめ,正貨兌換をあきらめて,金融の疏通をはかり,士族の生業の道をひらくことであった.公債を抵当に国立銀行券の交付をうけて営業を行わせ,準備率も資本金の2割でよいというのである.これ以後,国立銀行設立は急に盛んになり,1879(明治12)年までに,既設4行を含めて153行が設立許可をうけた.そのなかには旧大名華族の資本を集めた最大の第十五国立銀行(資本金1,783万円)もあって,同行ははじめ鉄道建設資金の供給を意図していたが,1877(明治10)年の西南戦争勃発に際し,設立をいそぎ,政府に戦費1,500万円を年利5分,期限20年で貸付けたのであった.国立銀行全体の活動も活発で,その銀行券発行高は1880(明治13)年末には3,443万円と,許可限度一杯に達した.それは,西南戦費調達のために,好都合であったとはいえ,重大な通貨増発を惹きおこすことになったのである.表序-9には,1871(明治4)年以降各年末の現金通貨ストック量を示している.この数字は1873(明治6)年以降,発行を抑制されてきた現金通貨が,この年と翌年に一挙に増発されたことをものがたっている.
表序-9 現金通貨量の推移
 この増発は,もちろん西南戦争の戦費調達のためであった.政府紙幣も,この1年間に2,700万円の予備紙幣を発行している.戦費総額4,157万円の大部分は,傭給費,運送費,旅費等であって,物件費は軍器費,粮食費等で全体の2割ていどにすぎなかった.したがって,軍需のために物資の需給が急に逼迫して物価が上昇することはなかったが,関係者の所得増加が生じ,やがて社会的需要の増大をもたらしたと考えられる4).西南戦争後のインフレーションが,1880,81(明治13,14)年をピークに激化した理由の一半はこの点に求められるべきなのかもしれない.

 [注]
 1) 毛利敏彦『明治6年政変』,中公新書,1979年,参照.
 2) 以下の叙述については,小杉正彬『日本の工業化と官業払下げ 政府と企業』,東洋経済新報社,1977年,第1章,第2章,および石塚裕道『日本資本主義成立史研究』,吉川弘文館,1973年,第1章,第2章を参照.
 3) 中村尚美『大隈財政の研究』,校倉書房,1968年,91-101ページ.
 4) 『大蔵省百年史』上巻,35-6ページ.

 むすび

 ともあれ,西南戦争の鎮定とともに,大久保政権はようやく内外の危機を克
服して,本来の目的とする殖産興業政策への道を進むことができる時期を迎えたはずであった.起業公債の発行による政策の開始はまさにそのあらわれであったといえよう.しかし,大久保はまさにその出発にあたって,1878(明治11)年5月14目出勤途上に凶刃に倒れたのである.
 この朝,大久保は福島県令山本盛典に次のように告げた.「抑皇政維新以来已ニ十ケ年ノ星霜ヲ経タリト雖,昨年ニ至ルマテハ兵馬騒擾,不肖利通内務卿ノ職ヲ辱フスト雖,未タ一モ其務ヲ尽ス能ハス. ...今ヤ事漸ク平ケリ.故ニ此際勉メテ維新ノ盛意ヲ貫徹セントス.之ヲ貫徹センニハ三十年ヲ要スルノ素志ナリ.仮リニ之ヲ三分シ,明治元年ヨリ十年ニ至ルヲ第一期トス.兵事多クシテ則創業時間ナリ.十一年二十年ニ至ルヲ第二期トス.第二期ハ尤肝要ナル期間ニシテ内治ヲ整ヒ民産ヲ殖スルハ此時ニアリ.利通不肖ト雖モ,十分ニ内務ノ職ヲ尽サン〓ヲ決心セリ.二十一年ヨリ三十年ニ至ルヲ第三期トス.三期ノ守成ハ後進賢者ノ継承脩飾スルヲ待ツモノナリ. ...」1)
 大久保の素志は,大隈の政策に反映されていたのである.しかし,この間に蓄積されたインフレーション要因は,その後の数年間に爆発し,政策の転換が迫られるに至った.インフレーションの種子は,西南戦争のなかで播かれ,すでに発芽しつつあった.戦費の支出がひきおこしたはずの乗数効果に,起業公債による殖産興業政策がつけ加えられて,社会的需要を拡大し,輸入の増加を呼び,国内の農業と在来産業の生産を刺激したのである.それはのちの日清戦後経営が内需を喚起し,1897(明治30)年の大入超とインフレーションをもたらしたのと似た過程がここに発生したのである.本書の分析は,そのなかで生じた諸問題の解明にあてられる.
 松方正義の経済政策は,明治の経済に一つのエポックをつくった.その意義と効果は大きいものであったが,同時に,従来やや過大評価されてきたように思われる.本報告書がその実態を再考察し,その正しい評価に役立つことをねがっている.また現在の発展途上国においても,急激な経済開発のための政策手段,とくに外資依存型の発展の功罪についての論争が展開されている.1880(明治13)年代初頭の日本の経験は,直ちにこれに対比しえないとはいえ,一つの比較の対象として役立つことを期待している.
 この研究はアジア経済研究所国連大学受託調査プロジェクト「技術の移転,変容および開発――日本の経験」の研究の一環をなすものである.この研究に際しては,資金的にも作業上でも,多くの尽力を惜しまれなかった同研究所国連大学プロジェクト・チームの方々,とくに林武氏,多田博一氏に心からお礼申しあげる.
 [注]
 1) 『大久保利通文書』第9巻,168-69ページ.
[中村隆英]