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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅰ部:第1章:「富国」論の政治史的考察ー1874~81(明治7~14)年ー
著者名: 坂野 潤治
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅰ部:第1章:「富国」論の政治史的考察ー1874~81(明治7~14)年ー

 はじめに
 「殖産興業」政策に力を注いで貿易を盛んにし,日本を欧米先進国と対等な近代強国にしようとする構想は,1858(安政5)年の日米修好通商条約調印前後には,すでに一つの定型をなしていた.なかでも,橋本左内,横井小楠らをブレインとする越前藩主松平慶永は,幕末の尊王攘夷運動の全盛期にも,一貫してこの構想を唱え続けていた.左内や小楠の慶永宛意見書には,官営工場の設置,勧業資金の貸付による輸出産業の育成策が具体的に提示されており,しかも彼らはこれらの提案を,将来全国一般に施行すべき政策として唱えていた.1873(明治6)年10月の大久保利通の有名な征韓反対意見書にみられる「内治優先」=「殖産興業」論の原型は,直輸出論をも含めて,左内や小楠の意見書の中に見出すことができるのである1).
 確かに,1860(万延元)年の井伊大老暗殺以後の幕末政局の激動は,「方今攘夷説ニ非ラザレバ天下ノ人心ニ適セズ」という時代状況をつくり出し,開国を前提とする殖産興業論は一旦後景に退かなければならなかった.しかし,王政復古が近づくにつれて攘夷論の凍結が計られ,開国=殖産興業論者の評価も高くなっていった.1865(慶応元)年には岩倉具視が松平慶永を評して「開港論ヲ唱ヘテ確乎トシテ動カズ其見識称スベシ」と述べている2).王政復古後の新政府発足当時にあっては,松平慶永,横井小楠,由利公正ら越前系の殖産興業論者が民政,会計関係の要識を一時期独占したことは周知の通りである.
 しかし,幕府から受けついだ「八百万石之朝廷」にすぎない財政力では,「殖産興業」の実現は望みようもなかった.松平慶永,由利公正らは政府の要職を逐われ,代って,紙幣整理,直轄地からの収奪強化,藩権力の解体をめざす,大隈重信らが大蔵・民部の実権を握っていった3).
 幕末の殖産興業論が明治政府の政策基調として復活するためには,廃藩置県による財政の中央集権化と,岩倉使節団による1年余の欧米視察とが必要であった.岩倉具視や大久保利通らが1872(明治5)年から1873(明治6)年にかけての欧米視察の中でいかに殖産興業の必要性を痛感してきたかは,久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』に詳細に記されている.なかでも,使節団が欧米の強大な軍事力も,近代的政治制度も,ともに生産と貿易の隆盛を基礎として成立していると理解したことは注目に値する.またフランスでの見聞から,殖産興業を内外債によって行えることを知ったことも,その後の殖産興業政策の展開に大きな影響を与えたものと思われる.すなわち,「国債ニヨリテ国益ヲ興シ,之ニヨリテ貸金ノ利ヲ生シ,其利ニヨリテ税額ヲ減シ,而テ其興リタル国益ハ,自ラ国ノ富トナリテ,年々ニ税額ヲ増ス.此循環ノ理ヲ以テ理財ノ機括ヲ用ルハ経済ノ要領タリ」と4).
 1873(明治6)年10月に,大久保利通が板垣退助,西郷隆盛ら留守政府の「征韓」決定を覆して,「外征」よりも「内治」が急務であると説いた背後には,このような長年にわたる「富国」論の蓄積があったのである.「富国」は「尊王」や「攘夷」に準ずる,明治維新の大目的の一つであったのである.以下において具体的に分析するように,大久保や大隈を中心指導者とする殖産興業路線は,一方では外征,内乱による臨時軍事費の圧迫により,他方では地租改正反対一揆に代表される農民の減税要求により,大きな困難に遭遇した.しかし,「富国」が「強兵」にも「民力休養」にも優先されるべきであるという信念は,1880(明治13)年から1881(明治14)年にかけて財政・経済情勢の悪化が極点に達するまで,明治政府の中枢部によって抱かれつづけていたのである.
 以下においては,1874(明治7)年から1881(明治14)年までの時期において,このような「富国」路線の前に立ちふさがった主な阻害要因を検討することによって,逆に大久保,大隈らの「富国」信仰の強さを明らかにしていきたい5).これらの阻害要因を見ていけば,客観的条件は決して「富国」論者にとって有利なものではなかったことは明らかである.それにもかかわらず,1881(明治14)年の政変で大隈重信が明治政府から放逐されるまで,「富国」論は明治政府の一部によって唱えつづけられていた.一見してもっとも現実主義的な立場に見える「富国」論は,かならずしも現実主義的な政策選択の次元の問題ではなく,むしろ明治政府の重要な一翼が抱いていた近代国家の「理想像」であったことを明らかにするのが,この小論の目的である.

Ⅰ「富国」と「強兵」6)

 1873(明治6)年の「征韓論争」で勝利したかにみえた大久保利通,大隈重信らの「内治優先」=「殖産興業」路線にとっての最初の障害は,依然として軍部や不平士族の「強兵」=「外征論」であった.1874(明治7)年5月の台湾出兵について左院小議官の宮島誠一郎は「一ハ鹿児島激徒ノ怒ヲ弛メ,一ハ東京軍人ノ人望ヲ収覧」しようとしたものと回顧しているが7),この推測はかなり的を射たものであった.台湾出兵の断行の後で陸軍卿に就任した長州の山県有朋は,台湾問題が対清開戦に発展するのを極力回避しようとしていたが,薩摩の野津鎮雄,種田政明の両少将は,「供給ノ準備充足セスト雖モ,断シテ戦闘ニ決スルトキハ今日ハ則チ今日ノ兵備アリ,大国ト雖モ何ソ顧ミルニ足ラン」という日清開戦論を主張していた8).陸軍とくらべて薩摩出身者が要職の多くを占める海軍にあっては,対清開戦論は一層強かった.海軍大輔川村純義は,征韓論争に敗れて鹿児島に帰臥していた西郷隆盛を「両軍統括」の元帥として政府に復職させ,対清国戦争の指揮を取らせることを太政大臣に具申している9).「鹿児島激徒」と「東京軍人」とは,台湾出兵→対清開戦論で強く結びついていたのである.
 1874(明治7)年4月に政府が台湾出兵中止を正式に決定したのを,5月に大久保と大隈が強硬派西郷従道の主張を容れて独断で出兵を断行したことからも明らかなように,「内治優先」派も,「鹿児島激徒」はともかく「東京軍人」の要求には抗し切れなかった.
 台湾出兵→対清緊張のもとでは,大久保が内務卿に就任して以来奨励してきた地方の土木・勧業政策は抑制されざるを得なかった.8月12日に政府は,佐賀の乱,台湾出兵による約200万円の臨時支出があり,さらに日清関係が悪化している最中であることを理由に,諸官省に経費節減と不急の事業の中止を命じている.さらにこの不急事業の中止に対する地方官の反発を恐れた政府は,8月17日には,先の5月2日の勅諭で定めた地方官会議の開催の延期を布達した.大久保自らが内務卿として奨励してきた地方の土木・勧業政策が,同じく大久保自らの決断による台湾出兵によって抑制されたのである.
 このような「新築土木費用」の中止に対し,大久保内務卿を信じて地方開発を進めてきた地方官は強く反発した.地方官会議延期が布達された翌日には,7県の県令・権令が連署して,たとえ「軍国の政」の下でも「三民之本業を勧め便益を通する要務は弥これを奨励せされハ,財用生する処なし」という批判を,太政官に上申している10).
 台湾出兵が対清決戦に発展することは,大久保の必死の対清交渉によって回避された,しかし,この対外緊張が,内務省設立に当って大久保がめざした殖産興業政策の遅延をもたらしたことも疑いない.事態が一段落した1875(明治8)年5月に大久保自身,「建省日ナラスシテ内変外事相継テ起リ,其事ニ奔走シテ省務ヲ視ルニ由ナク殆ト一歳ヲ経過セシバ,已ムヲ得サルノ事ト雖モ,亦之ヲ回顧スレハ深ク嘆息セサルヲ得ス」と記している11).
 台湾・清国問題が解決すると,大久保や大隈は念願の殖産興業政策の実施に精力的にとり組んだ.先の1875(明治8)年5月の大久保の意見書は,1874(明治7)年の臨時出費で財政が逼迫していることを認めながらも,内務省の勧業・土木事業のための予算は,各省定額の枠を越えても増額しなければならないことを訴えたものである.大蔵卿大隈重信も基本的にはこの要求を受け入れ,財政困難の下でも何とか捻出しなければならない事業費の中に,鉄道・海運などの工部省事業と並べて「道路・橋梁・堤防」などの内務省土木事業をあげている12).
 しかるに1875(明治8)年9月20日に江華島事件が勃発し,再び「薩の国と陸軍中とに大混雑を生じ,随而世間之不平士族其外相応じ候」13)勢となってくると,内務省の地方経営は再び頓挫しなければならなくなった.大蔵省租税頭松方正義は,「今復征韓ノ兵ヲ起サハ行軍一日幾万ノ現貨ヲ費スヲ知ラス,遂ニ国ヲ挙テ現貨地ヲ払ヒ,唯紙幣ノミ存スルノ日ニ至」ることを江華島事件の勃発前から警戒していたが14),実際に日朝両軍の間で砲弾がかわされれば,政府としては再び軍部と鹿児島の西郷と不平士族の連結を恐れて,強硬方針を立てなければならなかった.
 対外問題としての江華島事件の処理は,すでに台湾・清国問題処理の経験があっただけに,大久保にとってはそう困難ではなかった.とくに1873(明治6)年の征韓論,1874(明治7)年の台湾出兵のどちらにも反対してきた長州の巨頭木戸孝允が,軍部を鹿児島および全国の不平士族から切り離すために先の大久保と同一の態度を取り,自ら対韓使節の任を買って出ていたことが,大久保の立揚を一層容易にした.すなわち,大久保の片腕で軍部に信望のある黒田清隆開拓長官を正使に,木戸の腹心で対外緊張回避論者の井上馨を副使にした使節団を軍艦5隻で護衛し,硬軟両様の構えを示しながら最終的には条約を調印して戦争を回避すればよかったのである.
 しかし財政上ならびに殖産興業政策上においては,度重なる対外緊張は大きな打撃であった.太政官は1876(明治9)年2月の日朝修好条規調印の直前に,予算凍結の布達を出している(太政官達15号).すなわち,
 「本年七月ヨリ十年六月マテ一周歳各庁経費予算取調方ノ儀,八年ノ費額ニ超過セサルハ勿論,尚精々減額ノ見込相立調整致シ,成規ノ通大蔵省へ送致可致,此旨相達候事」
と15).
 このような太政官の緊縮方針に対して大久保内務卿は殖産興業予算の特別扱いを要求して次のように論じている.
 「夫れ政令の新なるや百物之に従て変し,交際の盛なるや貿易之に従て広し.而して民業未た殖せす.於是か需求余り有て供給足らす,統計偏倚の弊を生して実力衰耗の状を表せり.此れ世態自然の勢と雖も亦深く思を致さゝるを得さりし.然るに内は佐賀の変動あり,外は征台の一挙より延て朝鮮の事件に及ふ.此れ誠に不得已の機に際し其偏倚衰耗を救ふの道に於て単に全力を展る能はす.今や幸に此等事件妥弁結了して中外恬安無事に帰せり.然則此際に当てや夙夜奮励,小康に安せす勉て力を根本に尽し,国の精神を旺盛にし,政の基礎を堅固にせしめさるへからす.而して其之を致すの要,民業を勧励し物産を開殖するに在りと信するは,敢て臣か私信に非さるへし」16)
 相次ぐ対外緊張により財政が困難になっているときに内務省の殖産興業費目を特別扱いしようとすれば,増税か公債発行以外に方法はない.政府としては,懸案の秩禄処分を断行して歳出を減らし,地租改正に着手して歳入を確保することで,この事態を切り抜けるつもりであったろう.しかるに前者は西南戦争を誘発し,後者は地租改正反対一揆を招来した.財政的には,戦費のための歳出増と減税による歳入減を招いたのである.

 Ⅱ「富国」と「民力休養」

 1874,75(明治7,8)両年の台湾・朝鮮問題を何とか大事にいたらずに乗り切った1876(明治9)年こそは,内務省建省の目的であった地方土木事業の興隆と,輸出促進,輸入抑制のための勧業政策の推進とが期待された.しかるに今度は「強兵」にかわって「民力休養」要求が,「富国」政策の前に立ちはだかった.1876(明治9)年の米価下落の中で地主・農民は,高米価を基準とする地価算定に反対して,茨城,三重,和歌山などの諸県で大規模な一揆を起こし,一揆にまでは至らなかった諸県においても,「米価下墜シテ租金減ゼザレバ,農民立ツ処ナシ」という不満の声が充満していった17).他方で政府の秩禄処分の強行に反発する士族も熊本,福岡,山口の諸県で小規模の反乱を繰り返し,いつ最大の拠点鹿児島に波及するかもしれない状況であった.このような状況に直面した明治政府は,地租と地方税(民費)の大幅減税により農民の不満の解消を計らざるを得なかった.1877(明治10)年1月に天皇の詔書により地租率の五厘減,すなわち6分の1減税を行い,地方税の上限を地租の3分の1から5分の1へ切り下げたことがそれである.地方税の基準となっている地租自身が軽減されているのであるから,地方税の方は結局2分の1に軽減されたことになる.国税,地方税を併せれば,農民は一挙に4分の1の減税をかちとったことになり,政府の方は総額で約1,500万円の歳入減であった18).
 このような大幅な歳入減少は,政府および地方官の殖産興業政策に大きな打撃を与えるものであった.山梨県を例にとって内務省の殖産興業政策の実態を明らかにした有泉貞夫氏は,この点について次のように論じている.
 「政府が,地方から地租を吸上げるだけでほとんど還流せず(出来ず),地方官に徒手空拳で小学校創設,殖産興業およびその基盤整備を推進させるというのでは,如何に苦心しても地方統治の破綻を避けられなかった.大久保内務卿の意図が貫徹したかに見えた山梨県でも,11年を境に,政府―地方官に対する反感が顕在化した」19)
 この指摘は「富国」政策の問題点を見事に抽出しているが,内務省や地方官に対してやや酷な感じがする.一方で地租と地方税を大幅に軽減して,他方で土木・勧業・教育事業への「還流」をはかるということは,巨額の公債を発行する以外には不可能事だからである.
 当然のことながら,このような地方税の軽減に対して地方官も抵抗を試みた.その結果,1877(明治10)年7月には内務省達によって,5分の1制限は地方税中の地租割限りのことであって,その他の雑種税,戸数割などは「各地適宜之方法」によって徴収してよいことになった20).また1878(明治11)年7月のいわゆる地方三新法の一つとして公布された地方税規則においては,市町村限りの民費を除外した上で地方税を地租の5分の1に制限している.いいかえれば,地方税制限の枠から除外された市町村民費分だけの増税が行われたのである.しかしこの二つの処置を併せても,1877(明治10)年1月の地方税軽減分をとりもどすにはほど遠く,府県土木事業は大きな打撃をうけたのである.
 他方,殖産興業のもう一つの柱である勧業政策も,対外緊張期の抑制からやっと解放されようとしていた矢先に,減税による歳入減に直面した.当時内務省の勧商,勧農の2局は,内務少書記官の橋本正人が専決していたが21),その橋本は,1875(明治8)年度約10万円,1876(明治9)年度約15万円に抑えられてきた府県貸付金を,1877(明治10)年度には一挙に50万円に増額しようと計画していた.丁度その矢先に,1877(明治10)年1月の大幅減税に直面したのである.ここにおいて橋本は,「経倫ノ基礎タル物産ヲ殖シ工芸ヲ興スヘキ資本ノ如キハ,若シ官庫優カナラサルトキハ,内外国債ヲ興スモ尚之ヲ不可トセサルニ似タリ」という議論を主張している22).
 この橋本意見書に明らかなように,一方で減税を行って他方で殖産興業を推進しようとすれば,その財源は公債にもとめざるを得ない.1878(明治11)年5月の起業公債1,250万円の募集は,いわば必然的な帰結であったのである.

 Ⅲ「富国」論の全盛期

 起業公債募集と前後して,紡績,毛織物などの官営工場の設立が進み,1877(明治10)年代は大久保の期待したように,「兵馬騒擾」の明治零年代にかわって,「内治ヲ整ヒ民産ヲ殖スル」殖産興業時代の幕開きとなるかに見えた23).1878(明治11)年9月に刊行された『通俗国権論』の中で,福沢諭吉は「富国」が「強兵」にも「民権」にも優先するとして,次のように論じている.
 「国権を主張し,内外の事情を詳らかにして,外国人の智徳共に恐るゝに足らざるものとするも,国財の力,乏しければ,結局他の下流に出でざるを得ず.財あれば,国の外面を装飾して,以て勢を張る可きのみならず,現に戦争の一段に至りても亦,唯財を以て勝利を得べし.財あれば,武器を作り,又之を買ふ可し.兵士を養ひ,又之を雇ふ可し.又或は,今の鄙劣なる世界に於ては,所謂公議輿論をも銭を以て買ふの手段なきに非ず.既に武器兵士を用意して,加ふるに公議輿論の帰するあり,敵に勝つこと易々のみ」24)
 このような,「富国」が「強兵」の基礎であり,「先づ国を富まして然る後に兵を強くするの策に及ぶ可」きであるという議論は,1878(明治11)年には軍部の頭脳にさへも浸透していた.1878(明治11)年度予算に関する陸軍の増額申請書は,次のように記している.
 「務メテ百方庁中ノ諸費ヲ節略スルノ胸算ヲ以テ概計ヲ調査スルニ,十一年度予算上ニ於テ凡金九拾万円ノ不足ヲ生シ,到底統理ノ目途ヲ失ハントス....抑内務工部二省等ニ於テ農工商業ヲ勧メ,又ハ電信鉄道等ヲ起スカ如キ事業ハ,創立ノ際一時許多ノ費額ヲ要スルモ,必ス数年ノ後チヲ期シテ償却スルノ道アルノミナラス,官民ノ間ニ就キ得ル処ノ利益亦果シテ僅少ナラサルヘシ.独リ陸軍ノ費用ニ至テハ全ク之ニ反シ,恰モ水火ノ中ニ投スルト一般ニシテ,仮令幾多ノ年月ヲ経過スルモ遂二糸毫ノ償却ヲ得ルノ理アル〓ナシ.故ニ偏ヘニ計算上ノミヲ以テ之ヲ論セハ,所謂無用ノ長物ニ属シ,或ハ軍隊解散ノ議ニ渉ラントスル者アリ.(そうは言っても――坂野補)国家保護ノ職任ヲ忘レサル以上ハ前議決シテ行フ可ラサルナリ. ...邦内稍寧静ニ復スルモ,東洋近日ノ形勢ヲ察スルニ,以テ真ニ太平無事ナリトシテ経過スヘキノ時ニ非サルニ似タリ」25)
 末段でやっと軍部らしく治安と東洋の形勢に触れて軍備の重要性を主張しているが,それにしても,殖産興業の有用性にくらべれば軍備に予算を使うのは「水火ノ中ニ投スル」と同じであると言ってみたり,軍備は「所謂無用ノ長物」であると卑下してみたり,戦後を除けば近代日本史の中でももっとも弱腰の軍拡要求書であろう.1876(明治9)年2月の日朝修好条規の締結により東アジアの緊張が一旦去り,さらに西郷反乱の鎮圧によって「邦内稍寧静」になったために,軍部としても殖産興業論に対抗しにくくなってきたのである.
 福沢の言うように兵器のみならず「公議輿論をも銭を以つて買」えたかどうかは定かではない.しかし起業公債発行直後の殖産興業全盛時代には,3年後には明治政府内部でもっとも急進的な国会開設論者となる大隈重信が,もっとも堅固な「君主専政家」とみなされていたことは事実である26).「富国」政策が順調に進んでいる限り,「富国」論者は国会開設にあまり熱心ではなかったのである.

 Ⅳ「富国」と「勤倹」
 しかし,西南戦争に際しての不換紙幣および国立銀行券合せて4,200万円の発行につづいて,起業公債1,250万円を発行したことは,物価騰貴をもたらさないではいなかった.1874―76(明治7―9)年を基準とする農産物総合指数は,1879(明治12)年には139,1880(明治13)年には167にはね上がっている.米価だけについて見れば,地租改正反対一揆の頻発した1876(明治9)年を基準にとれば,1879(明治12)年には1.75倍,1880(明治13)年には2.2倍になっている27).1879,80(明治12,13)年にはかなりの地方で地租改正は終了していたから,金納固定税制度の特徴として,政府の実質歳入は米価騰貴に比例して減少する.このことを考慮すれば,1877(明治10)年1月の減租は,政治的には止むを得ない措置とはいえ,財政的には早計に過ぎたようである.減租の直後に米価騰貴による実質減租がはじまり,明治政府の財政は危機的様相を呈しはじめたのである.早くも1879(明治12)年2月には,英字新聞『ジャパン・ガゼット』は,明治政府の財政危機の深刻さを指摘し,政府はその打開のために巨額の外債募集を行おうとしている,と報じている28).
 この財政危機の打開策をめぐって,1880(明治13)年5月から8月にかけて明治政府内部で論議された5,000万円外債募集論と部分的米納論については,すでに大石嘉一郎氏の先駆的業績があり29),また本書所収の山本論文,猪木論文においても詳細に論じられているので,ここでは立ち入らない.ただ,この前後になると自由民権運動が全国的な運動に発展し,しかもその財政論の大部分が「勤倹」論であったことには注目しておきたい.すでに大石氏が明らかにしているように,植木枝盛の『民権自由論』(1879<明治12>年3月)における財政論も,彼が編集した『愛国志林』,『愛国新誌』における財政論も,ともに不換紙幣の発行による物価騰貴を実質増税ととらえるものであった.また1880(明治13)年中に元老院が受理した各地方からの国会開設建白書の財政論も,大部分は同様のものであった.たとえば長野県の民権家松沢求策と上條?司の建白書(1880<明治13>年5月)は,「公債山の如く委積し,国帑洞の如く欠乏す.紙幣の発行倍々夥多にして,金貨の濫出殆と頂点に達す.不正の条約に束縛せられ税権我之を左右するを得ず.輸出入の不権衡は内産蕃殖の源を塞き,紙幣は漸く価格を失して,今日の百円は前日の七十円に及ばず,物価の騰貴は意外に出で,貧民の悲声は四路に喧すしく」というものである30).これを一読すれば明らかなように,自由民権派の財政論は,少なくとも地主や自作農の立場を代表するものではなかった.1876(明治9)年にくらべて1880(明治13)年には2倍強に米価が騰貴した原因が不換紙幣や公債のせいであるのか,輸出入の不均衡によるものであるのかは論ぜず,それが農民に有利で政府に不利であることだけは明らかであるからである.
 物価騰貴=紙幣下落の被害をもっとも直接的に受けた「貧民」が下級士族であったことは,山口県士族田口弥八郎の次のような素直な国会開設建白書から類推に難くない.すなわち,「我山口県下ノ金禄公債証書元金ハ,石代平均四円六十一銭余ナリシモ,今日僅一俵ノ代価タルニ過ス.之レカ為ニ貧窮士族ハ活計ニ困却シ,妻ハ凍ヘテ天ニ叫ヒ,子ハ饑テ地ニ泣ク. ...仰願クハ速カニ国会ヲ開設シ,人民目下困難ヲ救ヒ給ハン〓ヲ」と31).ここでは「貧窮士族」=「人民」なのである.
 後にも記すように,このような財政論だけが当時の国会開設論者の財政論のすべてではなかった.しかし圧倒的多数であったことは疑いない.そうだとすれば,1880(明治13)年には,かつて福沢が唱えたように「公議輿論をも銭を以て買ふ」というわけにはいかなくなっていたのである.明治政府内部でも,たとえば佐野常民大蔵卿のように,民権論者の反発を恐れて,大隈の5,000万円外債募集論に反対するものもあったのである32).
 Ⅴ「富国」と「民権」
 外債論も米納論も退けられたときに,明治政府は財政緊縮と間接消費税の増徴による不換紙幣消却の方針を採らざるをえなかったこと,およびそれにもかかわらず大隈は1881(明治14)年政変により政府を逐われる直前まで,内外債募集による財政再建の構想を捨ててはいなかったことは,本書収録の梅村論文と山本論文に詳しい.それ故に残された問題は,最後まで「富国」論の立揚をつらぬいた大隈の財政論と,彼の急進的な国会開設論とがいかなる論理連関をもっていたのかという点であろう.とくに,すでに見たように,国会開設論者の大部分の財政論が大隈の財政論と正反対のものであっただけに,大隈が国会早期開設を主張したとき,いかなる成算をもっていたのかという問題を避けて通るわけにはいかない.
 しかるに大隈の財政論と国会論の関係は,大隈自身の手になるものによっては,今日までのところ明らかにしえない.そこでここでは,この前後,財政論においても国会論においても大隈ときわめて密接な関係にあった福沢諭吉の議論を分析することによって,間接的に大隈における財政論と国会論の関係を推測してみたい.
 福沢の『時事小言』が実際に発売されたのは1881(明治14)年政変直前の10月初めであるが,福沢は1881(明治14)年1月のいわゆる熱海会議以来大隈の国会開設論に共鳴しているし,1881(明治14)年3月に大隈が急進的な国会開設意見を左大臣有栖川宮に提出する前後には,『時事小言』のうちの「国会論」に当る部分を大隈に送っている.『時事小言』における福沢の議論は大隈の考とそう大きく離れたものではなかったであろう33).
 『文明論之概略』(1875<明治8>年刊)の場合と同じく,『時事小言』における福沢の議論もきわめて多岐にわたっており,財政救治策としての国会開設論だけに注目することは当を得たものではないかもしれない.しかし,これまで見てきたような「富国」政策の財政的行詰まりを念頭に置いて『時事小言』を読めば,福沢の国会開設論が地租増徴論と密接に結びついたものであることも疑いえないところである。
 福沢はまず,西南戦争のための四千余万円の不換紙幣は,本来は国民が租税として支払うべきものを政府が肩代りしたものであるから,この肩代りのために政府財政が困難になってきた今日においてこれを支払うのは国民の当然の義務である,と主張する.身近な比喩を使っての福沢自身の言葉で語らせれば次の通りである.
 「取も直さず明治十年は日本の人民が全国臨時の大祭礼を催ふして九箇月の問,毎日大花火を打揚げたるものと云ふ可し.然るに此大祭礼の最中にも又其鎮定の後にも,曽て国内に其費用の出金を促す者なきは不可思議に非ずや. ...聞く所に依れば其費用四千余万円なりしと云ふ. ...一度び費したるものは去て復た返らず,此四千余万円も間接に人民の負債たること明なり.是等の負債を処分するに就ては,之を一時に払ふ歟,又は徐々に払ふ歟,唯其緩急あるのみにして,到底負債の責任は免かる可らざるなり.国会開設の後などには此緩急の事も一の問題となることならん.」34)
 こうして福沢にとっては近く開かるべき国会の最重要の議題のひとつは,「人民の負債」の返却方法であったのである.
 それではこの「人民の負債」によって利してきたものは誰か.福沢は一応は「今この損者利者の在る所を求るに,損者の所在は誠に分明なれども利者の所在を示すは甚だ難し」と明言を避けている35).しかし別の所では,1877(明治10)年の減租とそれ以後の米価騰貴によって地租が大幅に軽減されていることを,政府財政の窮迫の一因として挙げている.すなわち,「明治九年改正の事を行ひ,当時の予算にても政府は幾分の減租を人民に許したる其上に,改正未だ半に至らずして百分の三を減じて二分五釐と為し,又これに加るに改正の後五年間の米価を平均して更に改正す可き約束を定め,爾後米価頻りに騰貴したるが故に,約束の如く再び改正するときは租額は必ず大に増加す可き筈なれども,故さらに其期を延ばしたるは之を寛大なりと云はざるを得ず」と.そして何故に財政難に苦しむ政府が農民に対して「寛大」な政策をとりつづけるのかどいえば,「政権の強大」を欠くからであるとして,「政権を強大ならしめんが為に国会の開設を企望」するのである36).
 これを要するに,岩倉具視や黒田清隆が農民一揆を覚悟しても地租の減額分を米納によって取り戻そうとしたのを,福沢は国会の開設によって行おうとしたのである.また,米納や地租率の増加によらずして,地価修正によって地租の増徴を行うことを主張している点にも注目する必要があろう.米納への復帰が地租改正の基本精神に背反し,地租率の増加が天皇の減租の詔の精神に抵触しかねないことを考えれば,地価修正はもっとも現実的な増税案であったかもしれない.
 このように福沢が国会開設による地租増徴(地価修正)を主張した一因は,彼が行財政整理による財政救済を嫌っていたところにあった.すなわち,「倹約を以て財を余すの法は極て緩慢なるものにして,天下太平徳川時代の如き無事の日には行はるゝも,今日の活発なる活世界の列国に交際を開きたる日本に於ては,或は不適当なるが如し」と37).言いかえれば福沢は依然として「富国」論者であったのである.すなわち,「政府の財政困難なりと云ふも,国民の熱心を以てすれば之を救ふこと決して難きに非ず.既に熱心あり,唯今後の要は全国資力の源を深くして,此熱心に附するに実物を以てせんが為に殖産の道を開くの一法あるのみ.商売益便利にす可し,工業益盛にす可し」と38).
 最後に,それでは仮に福沢や大隈の言う通り国会を開設したとして,国会が地租の増徴なり地価の修正なりに同意したであろうか.たしかに国会開設建白書の中には,福沢の主張に呼応するようなものが皆無であったわけではない.たとえば福島県三師社の佐久間昌言は,その国会開設建白書の中で,明治政府のこれまでの殖産興業政策を肯定し,財政困難の下でこの政策を継続するためには,「租税ヲ増課シ府庫ヲ充実」する以外にないことを認め,農民は旧幕時代とくらべれば「既ニ富ト謂フベク,貧ト謂フ可ラズ」ということも承認する.それなのに農民が政府の財政困難を救おうとしないのは,「政法」が悪いからである.「政法其宜ヲ得ハ則チ租税幾多ヲ加ルモ亦欣々トシテ之ニ応ゼン.蓋シ其宜ヲ得ルトハ何ゾ,国会ヲ設立シ広ク人民ニ大政ヲ諮議スル是ナリ」佐久間は国会を開設すれば地租増徴に応じてもよいと主張しているのである39).また滋賀県粟田郡片岡村の平民片岡伍三郎が1880(明治13)年8月に元老院に提出した国会開設請願書にも,同様の主張が見られる.すなわち,「人云ク,方今国会願望者ハ多ク不平士族ノ輩ニ出ツト. ...気運ノ然ラシムル所挙テ是ヲ不平者ニ属ス,是レ人情ノ視察ニ暗ク,迂濶ノ極ト謂フヘシ.伍三郎等身畑畝ノ中ニ在テ,覇府ノ昔ヨリ王政ノ今日ニ至ル頻数ノ沿革アルモ,幸ヒ祖先田産ノ余沢ヲ仰キ糊口ニ余アリ.何ノ不平カ之レアラン. ...蓋シ耕稼伍三郎ノ如キモノ漫ニ参政説ヲ主張スル,他日或ハ租ヲ減スルノ僥倖ヲ万一ニ企図スルノ誹リアルヲ免レサランカ.夫レ納租ハ国民ノ本務ニシテ,収税ナクンハ財政何ヲ以テ立タン.時ニ応シ之カ増減アルモ宜シク分トスル所ナリ」と40).たとえ国会が開設されても地租の軽減を要求しないのはもちろん,揚合によっては増税に応じてもよいと言っているのである.
 しかし経済的利害はそれを政治過程に投入しうる政治指導部なしには貫徹しない.松方デフレ期を通過して再び米価が騰貴しはじめていた1887(明治20)年代においても,衆議院の多数を占めた「民党」指導部は,なかなか地租軽減論から脱却しきれなかった41).ましてや1880,81(明治13,14)年の民権運動指導部は,すでに記したように西南戦争インフレによって国民の生活は貧窮化していると信じていた.彼らにとっては,貧窮にあえぐ国民からの増税などは論外であった.彼らは増税ではなくインフレ克服のための「財政共議」=国会開設を要求していたのである.経済合理主義の観点から言えば,それが如何に金禄公債生活者たる士族の階級的利害にもとづいたものに見えようとも,当時にあってはかなり広範に支持されていた政治理念であったのである.1881(明治14)年政変で大隈や福沢が勝利しえたとしても,国会を開設して地租を増徴するという構想は恐らく簡単に挫折してしまったであろう.「富国」政策が国民的支持を得られるのは,内外債や戦勝による賠償金の流入などによって,「公議輿論をも銭を以て買」える時だけであったのである.この意味で大隈が1881(明治14)年政変直前まで内外債募集に固執したのは,彼なりに首尾一貫した態度であったというべきではなかろうか.

 [注]
 1) 佐藤昌介,植手通有,山口宗之共編『日本思想大系55』,1971年,岩波書店,438-50,538-39ページ.
 2) 吉田常吉,佐藤誠三郎共編『目本思想大系56』,1976年,岩波書店,447ページ.
 3) 大蔵・民部合併問題をめぐる松平慶永と大隈重信の対立については,佐々木克「<民・蔵分離問題>についての一考察」,『史苑』第29巻第3号,28-32ページ.また由利財政から大隈財政への転換の経緯については,丹羽邦男『明治維新の土地変革』,1962年,御茶の水書房,第1章第4節参照.
 4) 久米邦武編『特命全権大使米欧回覧実記』第3巻,1979年,岩波文庫復刻版,75-6ページ.なお詳しくは拙稿「『尊王攘夷』に代わる『産業立国』論の登揚」,『朝日ジャーナル』1982年9月17日号を参照されたい.
 5) 大隈重信の「富国」政策の経済史的分析については,長幸男『日本経済思想史研究』,1963年,未来社,第2章および本書所収の梅村論文,山本論文を参照されたい.
 6) 本節は拙稿「征韓論争後の『内治派』と『外征派』」,『年報・近代日本研究3――幕末・維新の日本』,1981年,山川出版,の要約である.詳しくは同論文を参照されたい.
 7) 宮島誠一郎「養浩堂私記」,国立国会図書館憲政資料室『宮島誠一郎関係文書』所収.
 8) 早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』第1巻,77ページ.
 9) 「三条家文書」50-9,明治7年9月24日付(憲政資料室所蔵).
 10) 「三条家文書」45-4,明治7年8月18日付.
 11) 日本史籍協会編『大久保利通文書』第6巻,365ページ.
 12) 前掲『大隈文書』第3巻,123ページ.
 13) 井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第2巻,690-91ページ.
 14) 大蔵省所蔵「松方家文書」第56冊第12号.
 15) 『法令全書』第9巻の1,272ページ.
 16) 前掲『大久保利通文書』第7巻,77ページ.
 17) 岡田良一郎「田租金偏廃スベカラザルノ建議」,前掲「松方家文書」所収.なお,この時期の岡田良一郎の立場と活動については,原口清『明治前期地方政治史研究上』,1972年,塙書房,367-406ページを参照されたい.
 18) 前掲『大久保利通文書』第7巻,439-41ページ.
 19) 有泉貞夫『明治政治史の基礎過程』,1980年,吉川弘文館,21ページ.
 20) 『法令全書』第10巻,402ページ.
 21) 前掲「松方家文書」第54冊第8号,明治10年10月16日付松方正義「伺」.
 22) 前掲「松方家文書」第58冊第4号,明治10年1月と推定される.
 23) この点については,御厨貴『明治国家形成と地方経営』,1980年,東京大学出版会,2ページ.
 24) 富田正文編『福沢諭吉選集』第7巻,1981年,岩波書店,50ページ.
 25) 前掲『大隈文書』第3巻,336ページ.
 26) 日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』第1巻,1971年,東洋経済新報社,305ページ所載の北畠治房宛五代友厚書翰(明治11年7月8日付).
 27) 大川一司,篠原三代平,梅村又次編『長期経済統計――物価』,1967年,東洋経済新報社,165,168ページ.
 28) 「大隈文書」A―1425,鬼頭悌二郎訳.
 29) 大石嘉一郎「松方財政と自由民権家の財政論」,『商学論集』30巻2号,1960年.
 30) 原口敬明編『全国国会開設元老院建白書集成』,1956年,明治史料連絡会,154-60ページ.
 31) 同上,133-35ページ.
 32) 御厨貴「大久保没後体制――統治機構改革と財政転換」,前掲『年報・近代日本研究――3,幕末・維新の日本』,286ページ.
 33) この前後の大隈と福沢の関係については,長幸男,前掲書,5-7ページ.
 34) 慶応義塾編『福沢諭吉全集』第5巻,1959年,岩波書店,194-95ページ.
 35) 同上,195ページ.
 36) 同上,161ページ.
 37) 同上,191ページ.
 38) 同上,196ページ.
 39) 福島県三師社代理佐久間昌言「国会設立ヲ請フノ建言」(草稿),明治13年,河野広中文書,177.
 40) 原口敬明,前掲書,81-4ページ.
 41) 初期議会期の地租軽減と富国政策との関係については,拙著『明治憲法体制の確立――富国強兵と民力休養』,1971年,東京大学出版会,第1章第2節を参照されたい.
 [坂野潤治]
 第Ⅱ部