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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅰ部:第2章:創業期財政政策の発展ー井上・大隈・松方ー
著者名: 梅村 又次
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅰ部:第2章:創業期財政政策の発展ー井上・大隈・松方ー

 Ⅰ 井上財政の終末

 いわゆる大隈財政とは,1873(明治6)年5月3日に大蔵大輔の井上馨(1835―1915年,周防)が憤然辞表をたたきつけ下野したあとを受けて大隈重信(1838―1922年,肥前)が大蔵省事務総裁を兼務した時に始まるものである.井上の辞任は1873(明治6)年の予算をめぐる大蔵省と諸省との衝突に発したが,この事件の経過は前車の轍としてその後の大隈の施策に多大の影響を及ぼしたと推察されるので,事件のあらましを述べておきたい.
 井上が36歳の若さで大蔵大輔に就任したのは廃藩置県の発令から半月ばかり後の1871(明治4)年7月28日のことである.今日からみると大蔵省の次官としては信じ難い若さだが,井上だけが例外的に若かったわけではない.当時,政府の首脳達はいずれも若く,最年長の右大臣岩倉具視(1825―83年,京都)すらこの時46歳にすぎなかった.当時,大蔵卿は大久保利通(1830―78年,薩摩)であったが,折から遣外使節の議がおこり,岩倉が大使,大久保は大蔵卿のまま副使に任ぜられ11月11日に米欧回覧の壮途にのぼった.したがって,井上は大久保の留守中大輔のまま実質的には卿の実権をその手におさめたわけである.これよりさき7月26日に民部省が廃され,その担当業務はすべて大蔵省へ移管されたから,大蔵省は財政,民政および司法に亘る広範な業務を所管することになり,井上の掌握した権限は断然他を圧する強大なものとなった.井上はかねてより民蔵合併を主張していたのだから,民蔵合併の実現には満足し,大いに奮発したであろう.しかし,他面において権限の井上への集中には他の嫉妬反感を一身に集めかねない危険もあった.これを察して井上は大久保の洋行に強く反対したけれども,西郷隆盛(1827―77年,薩摩)が大蔵省御用掛を兼任して井上をバックアップするということで納得させられた.
 懸案の廃藩置県が実現して,東京政府は名実ともに全国を直接統治する中央政府となり,各省はそれに対応して所管業務を再編拡充しようとする.それには当然経費の増加を伴う道理で,各省の予算増額要求は一期おくれて1873(明治6)年の予算編成時に一斉に登場してきた1).ここでは井上辞任事件に関するところの特に大きかった陸軍省,文部省および司法省の増額要求について述べよう.
 まず陸軍省.1872(明治5)年2月28日に兵部省が廃止され,陸軍省と海軍省が設置された.陸軍卿は人材難で欠員のまま派閥バランス人事で山県有朋(1838―1922年,長門)が陸軍大輔に,西郷従道(1843―1902年,薩摩)が陸軍少輔に任ぜられた.ともに今日の次官に当る.1873(明治6)年1月9目に6鎮台14営所をおき,平時31,680人,戦時46,350人の兵員と定めた.さらに翌10日には徴兵令を布告,1873(明治6)年には東京鎮台に,1874(明治7)年には大阪,名古屋の両鎮台にこれを施行し,1875(明治8)年には全国に及ぼす計画であった.当時兵員は17,000人ほどであったから2),これは兵員倍増の大拡張計画を意味した.この拡張を含めて,陸軍省は1,000万円を要求した.
 次は文部省.文部省は1871(明治4)年7月18日に設置され,文部卿大木喬任(1832―99年,肥前)である.同年12月に学制取調掛を設け,翌年3月には学制原典を太政官に提出,8月3日学制発布の運びとなった.これは全国に学区を設け,小学校教育は義務制とし,「邑に不学の戸なく,家に不学の人なからしめんことを期す」という画期的な教育改革をめざすものである3).文部省の予算要求は200万円であった.
 最後に司法省.司法省も文部省とあい前後して設置されるが,司法改革の動きが活発化するのは井上の推挙で江藤新平(1834―74年,肥前)が1872(明治5)年4月25日に左院副議長から司法卿へ転じてから後のことである.行政・司法未分離の旧制をそのまま引継いで地方裁判の権はこれまで大蔵省の監督下に属する地方官に一任されていたのであったが,8月3日には司法職務定制が布達され,地方行政から裁判の事務を分離し,裁判所を新設し,司法権を行政権の外に独立させることになった.司法省は10月までに2府13県に裁判所を設置し,その経費を含めて96万円の予算要求を出した.この司法改革は大蔵省ならびに地方官に属した権限を奪うものであったから,官僚組織の常として大蔵省や地方官は陰に陽に強く抵抗した.さらに,11月28日には司法省は地方官の専横や怠慢によって人民の権利が侵害される時は,人民は裁判所に出訴して救済を求めることができる旨の第46号達を公布したから,府県庁と裁判所との抗争はますます激化した.とくに京都と大阪での抗争は激しかったと伝えられている.こうした次第で,1872,73(明治5,6)年の司法省と大蔵省との抗争は,他の諸省の場合とは違ってたんに予算の額だけの問題から発したものではなかった.
 井上は陸軍省の1,000万円要求に対しては比較的早期に800万円を認めて妥協したが,文部省の200万円要求には100万円,司法省の96万円要求には45万円を固執して少しも譲歩するところがなかった.たまたま当時,陸軍省御用商人山城屋和助(元長州奇兵隊士)の陸軍省公金65万円費消事件が発覚し,陸軍大輔の山県は不正への関与を疑われて非難攻撃の的となっていただけに,江藤,大木らは憤激し,井上は専ら長派の利を計ると攻撃した.
 当時の政情はといえば,廃藩置県以降の打続く政府のドラスティックな改革に対する不満が所々で噴出していた.就中政府首脳部をもっとも悩ませたのは従二位島津久光(1817―87年,鹿児島藩の実権者)が政府の施策に対しことごとに極度の不満を抱き,遠く鹿児島から政府首脳を非難攻撃してやまなかったことである.流石の西郷も「副城の着発弾には何とも力及ばず大よわりにて御座候」と嘆声を発している4).それだけに政府も久光慰撫のためにあらゆる手立てをつくした.天皇の西日本御巡幸(1872<明治5>年5―7月,西郷扈従),西郷の再度の帰郷と久光への疏弁(同年11月―翌年4月)と宮内少輔吉井友実(1829―91年,薩摩)の帰郷斡旋,海軍大輔勝安芳(1823―99年,幕臣)らを勅使として差遣(3月)等々がこれである.ここに至って久光も遂に聖旨を奉戴し,鹿児島士族250人をひきい勅使に随い上京,4月23日に着京した.
 こうした久光慰撫工作は苦境にある井上にとって著しく不利に作用した.政府首脳は久光慰撫に忙殺されるのあまりに井上をめぐる軋轢抗争をよく調停しえなかったし,大蔵省御用掛を兼ねて井上をバックアップするはずの西郷は井上にとってもっとも重要だった時期に不在であった,ために抗争は激化するばかりで,「井上大輔は十月下旬より閉居,一事を不視...大輔にも今一月中旬より居合出省仕候様相成る処,又山尾工部大輔等,追々引入,亦正院の御扱にて出省の運びと相成りしに,江藤司法卿続て引入,又正院の御手数にて説諭など有し由なれど,昨今司法省は大少丞に至るまで不残引入申候,是亦追々出省の運びは申上迄も無御坐候共,文明開化の世には失体の事夥多の様相見へ申候」5)の有様であった.たまらず政府は1月19目に岩倉使節団の木戸孝允(1833―77年,長州)と大久保利通に帰朝を命じた.
 4月に入って久光は勅使に随って上京の途に上ったし,西郷も久々に帰京したから,政府は大蔵省と諸省と衝突常に止まず,動もすれば廟議紛々破裂せんとするの形勢となるのをなんとか調停,沈静させて久光を東京に迎える態勢を固めるべき段取りとなった.その第1着手として,まず4月19日には後藤象二郎(1838―97年,土佐),大木,江藤を参議に任命した.後日,大隈の語るところによれば,これは「内閣直接に施政の責任を執らすして之を各省に分担せしめ,内閣は僅に三五人を以て之を組織するかこときも,亦是等衝突?争の一因たらすんはあらす.然らは其組織を改正して各省の長官(即ち卿)を内閣に入れ,其行懸り若くは意地に任して極端の紛争を為す様のことなからしめ,謂ゆる談笑の間に互に譲歩して事を弁せしむるも亦当時の急務なり」という狙いであり,「十二月より一月に渉る定例の休暇中に之を更定した」とのことである6).しかし,三宅も指摘するように,井上1人を蚊帳の外におく組織改正と人事をもって「談笑の間に互に譲歩して事を弁せしむる」とは最初からできない相談である7).当然,政府首脳もこれに気付いていたはずである.気付いて敢てこの挙に出たについて,三宅は大隈と大久保との内外共謀によるものと見ている.すなわち,「五月下旬に大蔵卿大久保が帰ると知らるるに,上旬に其の代理なる井上の辞職を余儀なくせるは,大隈一人の行為として大胆に過ぐ.一応肥前人が権力を握れるが如くして.薩州側にて之を利用し,井上を放逐せしめたる跡なきに非ず.大久保は遠く隔たりて一々与かり知るべくもなけれど,大隈及び其他より報告し,井上側より報告し,全く知らざる筈なし. ...大久保の帰朝を待たず,其の前に井上の辞職を迫りたるは,迫りたるに非ず,井上が癇癪にて断然辞退せるなりとせんも,大久保の帰朝までに獻立を整ふるの必要あり,寧ろ大久保の指金に出でざるべきや」と三宅は推理する8).岩倉使節団の歓送の宴で西郷が井上に「三井の番頭さん」と呼びかけて盃をさしたという話は有名だし,また大久保在世中に井上は二度と政府に帰ってはこなかったという事実もあるので,三宅の薩派陰謀説はなかなかに有力のようである.しかし,この際同じ薩摩め島津久光の上京という背景にも注目する必要があるように思われる.
 そのもう一つのシナリオとはこうである.政府のドラスティックな諸改革に発した予算をめぐる内紛が上京した久光の眼にでもとまろうものなら,久光は諸改革を不満としていただけに,それは久光に政府攻撃の格好の口実を与えるであろう.これは政府としてなんとしてでも避けたいところで,政府内部の一連の抗争は久光の着京前に収拾したいところであった.この際,時間に追われる政府にとって参議省卿兼任制は時に当っての妙手であり,西郷の帰京を待ってこれを極力推進したことであろう.そこでは,要ともいうべき井上の処遇も当然検討されたとみたい.ところが,ここで計らざる事件が突発した.前々から山城屋事件にまつわる疑惑で薩派軍人の集中攻撃にさらされていた山県がついに耐えかねて4月18日に辞表を提出した.陸軍はもともと薩長両派のバランスの上にからくも統制を保っていたものであり,加えて1月の徴兵令は部内に少なからざるしこりを残していたところであったから,山県の辞任は陸軍の分裂動揺を意味した.久光が兵をひきいての示威上京に対抗しうるものは軍のみである.その軍が分裂動揺するとあってはまさに一大事.ここにおいて懸案の財政問題はしばらくおいて,山県辞任問題をまず優先して処理しなければならない.そこで,おそらくは井上がまだ大輔の地位にとどまっていたため未決着のまま留保されていたと推察される井上の処遇の件はさらに今後の調整にまつこととして棚上げし,すでに合意のできていた後藤,大木,江藤の参議任命の件だけをとりあえず実施したのではなかろうか.そうして,焦眉の急務山県辞任事件の方は,「陸軍元帥兼参議西郷隆盛・参議大隈重信・大蔵大輔井上馨等,陸軍省の瓦解せんととを慮りて,斡旋する所あり,二十九日,更に有朋に命ずるに陸軍省御用掛を以てし,陸軍卿代理たらしむ」ということでともかくも収拾された9).23日にはすでに久光は着京しており,その間政府首脳は薄氷を踏む思いをしたことであろう.
 今度は井上の番のはずである.しかし,太政官の処置はどうしたことか山県の場合とはまさに逆で井上をして辞任を余儀なからしめるものであった.5月2日,太政官の職制と事務章程が改定され,太政大臣の地位と権限を強化し,その調整能力を高め,左右両院ならびに各省の権限を制限し,太政官に参議のみからなる内閣を設けた.この改定の狙いは大蔵省の「権限を減じてこれを正院に割取し,正院で財政策の枢軸を握り,各省の要求を調節塩梅」するにあったから10),井上には最早抵抗の術もなく,翌3日井上は憤然辞表を呈して下野した.この間,裏面に三宅のいう薩派の謀略もあったかもしれない,また井上ともっとも鋭く対立していた江藤の策動も関係していたかもしれない.しかし,外遊中の木戸と伊藤を欠き,山県は事件の渦中にあって,そのためとみに弱体化していた長派の悲哀とでも評すべきところではないだろうか.
 まことに皮肉にも同日,久光への示威の意味を兼ねた陸軍の演習から御帰還の陛下は,「午後二時山里御苑に出御,従二位島津久光を御茶屋に召見し,太政大臣三條実美をして去歳六月建言の各条に就きて質さしめたまふ.」11)とにもかくにも燃え上がる内紛の鎮火に成功した政府は,安んじて最大の難物久光に立ち向うをえたのであった.
 ここで一人貧乏くじを引かされた井上は癇癪の余りに建言書を上呈,それでもおさまらずさらに公費を投じてこれを新聞に発表し,「今全国歳入ノ総額ヲ概算スレバ,四千万円ヲ得ルニ過ギズシテ,予ジメ本年ノ経費ヲ推計スルニ一変故ナカラシムルモ,尚五千万円ニ及ブベシ.然ラバ則チ一歳ノ出入ヲ比較シテ,既ニ壱千万円ノ不足ヲ生ズ.」と財政破綻を暴露した12).これによって内外の政府に対する信用の失墜することをおそれた政府は,大蔵省事務総裁兼務(5月9日発令)の大隈をして6月9日「歳入出見込会計表」を公表させ,1873(明治6)年の歳入4,873万円,歳出4,659万円で歳入超過が214万円にのぼることを内外に示し,井上に反論するところがあった.これが予算表公表の嚆矢である.
 財政制度が未整備の時のことだから,井上のものにせよ,大隈のものにせよ,歳入見積りは確たる根拠に乏しく,後に至って判明した1873(明治6)年の歳入実績は予想外の実に8,550万円に達した.もっとも,その中には予算外の外債募集繰入れ1,083万円が入っているので,これを控除した7,467万円を比較の対象とすべきであろう.この修正実績を100として,大隈の見積りは65,井上のそれは54にすぎない.年余にわたる井上の悪戦苦闘は一体なんだったのであろうか.井上たらずとも,ただ嘆声あるのみ.
 大隈はこの井上辞任事件から少なくとも二つの重大な教訓を深刻に学びとったはずである.(1)さなきだに諸省の怨府となりがちな大蔵省の卿として予算問題で閣内に孤立することの政治的帰結.(2)財政制度の全般に亘る改革の重要性.そうして,事実,この教訓はその後の経過に照らして大隈財政の基本方針になったとみてよいようである.以下,節をあらためて検討しよう.

 Ⅱ 大隈の財政制度改革

 財務行政の実務処理に関する十分な理解なしに,行政実務と直結する財政制度の整備改革の筋道をたどってその全貌を明らかにするということは,ほとんど絶望的な仕事である.そこであれこれ考慮の末,ここでは政府公表の予算・決算文書を手掛りとして,そこからたどって財政制度改革のごく一端を例示的に示すにとどめることにした.
 新政府の成立以来,政府は財政制度の面においても旧幕府のそれを継承し,これに時に応じた改定を加えてきたけれども,その不整備は否定し難いところであった.しかし,本格的な財政制度の改革となるとその影響するところは広く,少なくとも各省庁,府県の協力なしには進めえない.また財政制度の改革は一面において大蔵省の他省庁,府県に対する統制の強化を意味することもあって,容易にこれを発動しえない事情もある.かような意味において,財政制度の改革はその不整備を何人にも痛感せしめるに足る事件と政府内部における強力なリーダーシップの成立を必要としていた.井上大蔵大輔辞任事件とその事後処理のため政府が1873(明治6)年6月「歳入出見込会計表」を公表するに至った経過はすでに述べたところであるが,これは正しく事件であった.また,井上事件に引続いておきた1873(明治6)年政変の結果として大久保政権が成立したことは,強力なリーダーシップの成立を意味した.財政制度改革のための条件は“瓢〓から駒が出る”たとえそのままに整ったのである.
 政府は1873(明治6)年12月27日太政官達第427号および同第428号をもって府県ならびに各院省に対して「金穀出納順序」を定め,その中で初めて歳計予算に関する規定を設け,各庁は毎年11月に翌年の各庁所管に属する費用一切の目的を立て,常費と臨時費を区分し,詳細に列記した概算表を作り,これを大蔵省に送付し,大蔵省は各庁概算の集計表を作り,12月限り太政官正院に上申すべきものとした(当時の会計期間は暦年制であり,予算編成権は正院にあった).『明治財政史』は「是レ実ニ予算ニ関スル法規ノ濫觴」と書いている13).
 決算の方はといえば,これより先1873(明治6)年4月の地方官会議に提出する参考資料として1867(慶応3)年12月以降5カ年間の歳入出実額を集計したのに始まるが,『明治財政史』によれば「此計算タルヤ当時京都,大阪,東京及横浜ニ於ケル出納司ノ納払日計簿ニ拠リ急遽ニ統計編成シタルモノナルカ故ニ未タ之ヲ以テ政府ノ歳計ヲ確徴スルニ足ラス」であった14).越えて1875(明治8)年9月に政府は再度歳出入を精査し,1867年12月―1875年6月の8会計期間の決算表を調製したが,『明治財政史』によれば,これも「該表ノ体裁タル極メテ粗雑ニシテ未タ之ニ拠リテ歳入出各科目増減ノ事実ヲ窺知スル能ハサルノ不便」をまぬがれるものではなかった15).そこで,大隈大蔵卿は1877(明治10)年6月に大蔵省検査局長,統計課長および各局の属僚の中から委員を任命し,さらに一層精密な調査を行うこととし,1年間をかけて各種の出納帳簿を精査して確実な計数を審定させた.1880(明治13)年2月16日に太政大臣の承認をえて公表された「明治元年乃至八年八期間決算報告」がこれである.『明治財政史』はこれを「始メテ完全ナル決算書ヲ調製スルヲ得タリ」と評価している16).
 こうして改善調製された予算決算書も,その内実に立入ってみれば,財政制度の不整備を反映して少なからざる問題点が残っている.幸いにも『大隈文書』から決算の内実を窺知すべき資料がえられたので,これを掲げ,ここから遡って財政制度の不整備をつきとめ,これを諸法令と関連させて改革の筋道をたどってみたい.
 表2-1は第8期会計期間(1875<明治8>年1―6月)の諸税現収入の年度別,種類別の内訳である.原表では表頭がさらに税目の別になっているけれども,これは省略した.表は一方における通貨の三重構造と他方における税制の二本建てを反映してはなはだ複雑な仕組になっており,驚いたことにはこのままでは税収の総額も算出できない.諸帳簿における日常の記録計算の繁雑は問わずとしても,これでは計画的な財政運営はほとんど不可能であったろうことが推察される.事実,1873(明治6)年には井上や大隈の歳入見込がその実績を大幅に下回っていたことはすでに述べたところである.
表2-1 明治8年1―6月の諸税現収入年度内訳表
 まず,表頭に注目しよう.表頭に「金」とあるのは実は太政官札以下の不換紙幣のことで,これは専ら国内取引用の通貨である.新貨条例(明治4年5月太政官布告第267号)に基づいて政府が新規に鋳造し発行した一円銀は貿易銀とも称し,洋銀(当時の東洋における国際通貨のメキシコ・ドル貨)とともに海外取引用の硬貨である.通貨市場では銀紙の間に相場が建って,この相場によって銀紙は交換されることになるから,これらを円という共通の単位で表示することは混乱の元となりかねない.1875,76(明治8,9)年頃には銀紙の価格差はごく小さかったので,この簡便法によっても(政府はこれを簡便法とは考えておらなかったかもしれない)実用上の支障はなかったであろうが,明治10年代に入ると洋銀相場は大きく騰貴して,銀紙の混計は会計を混乱に導くことになった.政府がこれにどう対処しようとしたかは補論の山本論文に詳しいので,ここでは立入ちない.
 一分銀,一朱銀は新貨条例以前に発行されていた旧硬貨である.旧貨は為替座三井組の手によって交換回収され,造幣寮に回され新貨鋳造のための地金となっていたのであるが,ここでは別途海関税として政府の手に直接回収され準備金に繰入れられている.小額通貨として然るべき基準で流通していた旧制の銭貨はおそらく不換紙幣とともに「金」の項目の下に計上されているのであろう.ここでいささか気になるのは新貨条例において両円等価の基準となった二分金がどこにも見えておらないことである.
 当時,国内における通貨の流通は法制上新制の硬貨,旧制の硬貨および不換紙幣の三重構造になっていたわけだが,銀紙の価格差がごく小さくかつ安定している限りでは,悪貨が良貨を駆逐するということもなく,実際の取引においても法制の建て前通りに行われていたと解してよかろう.当時の民間事業家達の帳簿は円建て,両建て,銀匁建て,銭建てと様々であるが,このことは上記の推定を支持するものかもしれない.そうした事例の中には三井大元方の銀匁建ての勘定も含まれている17).当然,それら通貨の間に然るべき交換比率を定める相揚が公式ないしは非公式に建っていたと考えるべきであろう.「旧金銀貨幣価格表」(明治7年9月5日太政官布告第93号)の前文に「明治元年閏四月中旧貨幣価格比較ノ儀布告候処 今般更ニ造幣寮ニ於テ精細分析ノ上別冊ノ通改定シ 来明治八年十二月迄新貨ト交換候条 所持ノモノハ各地方庁ヘ引換方可申出 右期間中海関税ヲ除ノ外租税其他一般ノ公納ニ相用候儀ハ不苦 人民相互ノ取引ハ自今令廃止候条 此旨布告候事」と見えている18).新旧貨幣の引換期限はその後度々延期され,明治21年大蔵省令第16号をもって交換廃止となった.当然,「右期間中」もこれに準じて延期されたと解すべきであろうが,表2-1の原表によるかぎり旧貨による公納は海関税にかぎられている.また,「人民相互ノ取引ハ自今令廃止候」の「自今」は1874(明治7)年9月5日以降と解すべきものであろうが,民間事業家の両建て,銀匁建て,銭建ての勘定がその帳簿の上で消えるのは1875,76(明治8,9)年頃のことのようだから,実際の民間取引がすべて円建てに統一されるに至るまでにはなお若干の年月を要したと見るべきであろう.
 こうした経過を念頭において,もう一度表2-1の一分銀,一朱銀に注目しよう.前年第7期の対応する表19)では,一分銀と一朱銀は円と個の両様の単位で計上されていたのだが,第8期になると円単位の表示がおちて,専ら個単位で記録されるに至ったものである.ここまでくると,それは米を容量単位の石をもって計上するのと同等であり,大蔵省出納条例(明治9年9月19日)の次の条文を予告するものといえよう.すなわち,「第177条 米穀及貿易銀,洋銀古金銀,金,銀,銅,属地金雑種混合地金竝ニ公債証書ノ類ハ出納上ニ於テハ之ヲ貨幣ト為サス全ク物品トシテ売買手続ヲナシ其代価ヲ以テ出納スルコトトス(後略)」20)
 次は現物納の米をめぐる問題である.政府はその創設に当り「諸国税法ノ儀其ノ風土ヲ篤ト不相弁新法相立候テハ却テ人情ニ戻リ候間先一両年ハ旧慣ニ仍リ可申」ことを方針としたから21),諸国税法は幕府諸藩の慣行のままにまったく錯雑をきわめていた.そうして,政府は漸進的にそのおよぶところから諸国税法の錯雑を整理し,財務行政の画一化簡素化を当面の課題とした.その一環として,1870(明治3)年7月には田方貢租は米納,畑方は石代金納によるべきことを布達し22),その後もこの原則の貫徹方に努めた.しかし,この原則を全国一律におよぼすことは困難で,その風土によっては運輸の便を欠くため正米納難渋の場所もあれば,金銀不融通のため石代金納難儀とする土地もあったから,政府もこれを認めて前者については石代上納を,また後者に対しては米納を例外的に許可せざるをえなかった.前にも引き合いに出した第7期の諸税現収入内訳表をみると,明治4,5年分の延納額として米の外に糯,籾,大小麦,大小豆,荏,菜種,塩が現物納されているし,明治6年分のそれには糸織,黄紬の上納すらみえている.ようやく第8期に至って現物納は米一本に整理されたわけである.旧慣の根強い抵抗を見るべきであろう.
 旧来慣行の歳入出中における米穀の出納は1876(明治9)年3月をもって廃止され,貢租の米納も地租改正の進行と米価の騰貴にともなって漸次消滅するのだが,米納制に対する金納制の利便を租税権頭の松方はこう述べている.「旧慣穀納ハ其運搬納付極テ煩ク啻ニ人民其労費ニ堪ヘサルノミナラス 毎歳市場穀価ノ昻低素ヨリ常ナク国産の財計得テ予算スヘカラス 故ニ穀納ハ金納ノ便ニ如カサル明瞭ナリ」23) 地租改正を断行するに当っての政府の最大の眼目は,不作に当っての減免の慣行と年々の米価の変動のため「未定ノ歳入ヲ以テ必要ノ歳出ヲ量ラサルヲ得ス」24)という財政政策遂行上の困難を救済するにあったと考えられるが,ここでは主題との関連においていささか枝葉のようではあるが,「穀納ハ其運搬納付極テ煩ク」の実情の一端につき少しく述べておきたい.
表2-2 明治3年貢米100石当り廻漕運賃
 表2-2は1870(明治3)年貢米の諸国から納場所の東京もしくは大阪までの廻漕運賃である.貢米の納揚所は1869―1872(明治2―5)年の間しばしば変更されているので,ここでは表の整理にもっとも便利な1872(明治5)年3月の太政官布告第66号の定める納場所を採ってその東京納の諸国については東京運賃,大阪納の諸国については大阪運賃を掲げた.北陸筋の佐渡だけがその例外で,佐渡はどういう理由によるものか一貫して大阪納と指定されている.資料出所の大蔵省第785号の前文に「別紙之通廻船差配人申立候」とみえるので,この運賃はほぼ当時の実勢を示すものとみてよいだろう.当時,東京米価(大蔵省調)は1石につき1870(明治3)年の8.90円,1871(明治4)年の5.50円と激しく変動していた.貢米の皆済期月が北陸筋諸国は翌年7月,その他の筋の諸国は翌年4月と定められていたことから推すと,政府の貢米販売価格は上記両年の価格の中間7.50円前後とみてよいだろう.これは最遠隔地の北陸筋からの貢米収入の約17%が海上運賃だけで消えてしまうことを意味している25).さらに資料のえられない港湾までの河川ないし陸送運賃,倉敷料,船積卸賃,検査収納などの事務費,輸送中に生じる欠損米や海難26)等々を考慮するなら,米納制のもたらす徴税費は余りにも大きな負担といわねばならない.
 前段で貢米皆済期月に言及するところがあったが,ここでも米納の不利は明らかである.前述の1872(明治5)年3月の布告によると,金納の皆済期月は翌年1―3月と早いのに対し,米納の場合は東京納の関八州と伊豆(1月)および大阪納の摂津,河内,和泉,播磨,紀伊(3月)の14カ国が金納なみの期月になっているだけで,すでに述べたように若狭から羽後に至る北陸筋諸国(佐渡を除く)のそれは7月だし,その他の諸国(皆金納の大和,飛騨,信濃を除く)は4月の期月になっている.表2-1で前年の延納額が第8期の現収入の大部分を占めていた理由はここにあったのである.政府は1874(明治7)年10月に7―6月制の会計年度を初めて法定し,これを1875(明治8)年度から実施し,前年分の貢米金を当年の支出に当てるという財政の仕組を解消した.これは1年半の期間に2年分の貢米金を当てて財源の不足を糊塗するという大隈流の「権宜の策」に出たもののようである27).しかし,今度は貢米の皆済が年度末に集中するという資金操り上の難点が生じた.
 こう見てくると,財政における諸悪の根源は米納貢租にあったといわざるをえない.こうした次第で,ついに政府は租税頭陸奥宗光の建議を入れて地租改正条例(明治6年7月28日太政官布告第272号)を発布し,税制の抜本的な改革に踏切るのである.地租改正の事業は1874,75(明治7,8)年の交に着手し,1881(明治14)年をもって概ね完了したのであるが,当事業の民費負担2,900万円の半は1875,76(明治8,9)年に支出されているので28),この頃が改正事業の最盛期であったと推察される.前記条例の第1章に「詳密整理ノ見据相立候上ハ大蔵省ヘ申立允許ヲ得ルノ後旧税法相廃シ新法施行イタシ候儀ト可相心得事 但一管内悉皆整理無之候共一郡一区調査済ノ部分ヨリ施行イタシ不苦候事」とみえているので29),然るべき統計は示しえないけれども,旧制の米納や石代金納は改正事業の進行に伴って漸次新制の定額金納に切替っていったものと考えてよかろう.当然,政府はこれに備えて米の支出を改定しなければならないわけで,「華士族平民家禄賞典禄共本年ヨリ米額ノ称呼ヲ廃シ 毎地方ノ貢納石代相場明治五年ヨリ七年マテ三ケ年ノ平均ヲ以テ金禄ニ改定支給候」(明治8年9月7日太政官布告第138号)ことを布告する.続いて政府は「金禄公債発行条例」(明治9年8月5目太政官布告第108号)を発し,家禄賞典禄は消滅する.大要上記のごとき改革の積み重ねによって,ようやく米の出納を収支とも消滅せしめる目途が立つに至ったので,「明治九年ニ至リ大蔵省出納条例ノ制定ヲ機トシ同年三月三十一日ヲ以テ旧来慣行セシ歳入出中ニ於ケル米穀ノ出納ヲ廃止シ其残米ハ悉ク之ヲ貯蓄部ニ売却セリ 後明治十年十一月二十二日太政官布告第八十号ヲ以テ地租金ハ水田ニ限リ姑ク人民ノ請願ニ従ヒ其半額ハ其府県ノ地租改正ニ用ヒタル時価ヲ以テ代米上納ヲナスコトヲ許シタリト雖モ該府県相当ノ石代相揚ヲ以テ之ヲ金銭ニ換算シ租税寮ノ勘定等ハ金銭ヲ以テ本行トセリ 此ニ於テ明治九年四月一日以来会計上米穀ハ全ク其跡ヲ絶チ金銭ノ一途ニ帰セリ」ということとなった30).
 これによって財政はその制度の面においては一段と整備をみたけれども,その反面においてインフレに対してきわめて脆弱な体質となり,その欠陥は内戦後のインフレ期に全面的に露呈した.そのため極度の財源不足に陥った1880(明治13)年夏には,地租米納論が建議されて,内閣に一大論戦をまきおこすこととなる.この時,大隈は断乎米納論に反対するのだが,地租の米納復帰は大隈が多年苦心して整備してきた財政制度をその根底から覆すものだと見たからではあるまいか.一つの仮説を提示しておく.
 さて,これまで不十分ながらも検討を加えてきたところは大隈の財政制度改革のほんの一部分でしかない.これを十分認めた上で,当初に設定した控え目の課題に関するかぎり,われわれはどうやら終着駅に到着したようである.そこで,残された関連する諸問題を指摘しておくという意味も兼ねて,地租改正を中心とする一連の改革がもたらした社会的,経済的影響のいくつかを以下に挙示しておきたい.
 まず,地租改正事業の実施に当って町村合併が進んだことに注目したい.ところで,明治初期の町村分合に関する全国的統計としては「明治七年――十九年町村合併分離調」(大森文書)が著名だが,「大森文書」による1874(明治7)年の町村合併による町村数の減少134カ町村は井戸の調査による旧筑摩県の243カ町村よりもはるかに少ないことからみてこれは信頼しがたい31).そこで,その全国的動向を語ることは断念して,井戸のきわめて興味深い論文32)から旧白川県(現在の熊本県)の事例を引用しよう.井戸の調査によると,旧白川県では1874(明治7)年に142件,1875(明治8)年に70件,1876(明治9)年に209件の計421件の町村合併が行われ,1,113町村(1872<明治5>年現在町村数の56%)が421町村にまとめられた.合併願の記載によれば,合併の理由は(1)「地所犬牙錯雑難引分候」とするもの,(2)「戸数反別少ク,往々独立不弁利」とするものの類が多数を占めている.前述した地租改正事業に関する全国の民費負担2,900万円という計数からみて,合併理由の(2)は首肯しうるところである.また,『明治財政史』に「府県国郡ノ経界ハ大率明瞭ナリトイヘトモ 村字ノ経界ニ至ツテハ錯雑犬牙ノ如クナル者アリ 又散布碁子ノ如クナル者アリ紊乱混淆名状スヘカラス」とあるところをみると33),合併理由の(1)が旧白川県の特殊事情によるものではないことは確かである.こうした他律的な町村合併はその後の村内の社会生活や政治的情況にどのような影響をおよぼしたであろうか.あえて一つの推測を試みるならば,村内政治情勢の不安定化であるように思われる.
 米納貢租の時代には大蔵省は今日の大蔵省と食糧庁の機能を併せ果たしていた.事実,大蔵省は全国産米の約3分の1を収納し,財政と民生安定の双方の観点から輸出入操作などを通じて米価調節に当っていた.その大蔵省が食糧庁相当の業務を切捨てようというのであるから,米穀流通や米穀金融は再編成をまぬかれない.これを目前に控えた1874(明治7)年11月に為替方の小野組は国庫金管理のまことに性急な強化のため閉店の余儀なきに至り,島田組もこれに続いた.そこで,大蔵省としては残った為替方三井組を盛り立て,その出張店網を通じて地方の米穀市場を育成するより他に術はなかった.1875(明治8)年1月の大隈の建議「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」は「三井ノ保護安全ヲ謀ル固ヨリ方今ノ急着」とその方向を示し,施策の具体的プランを提案している34).その施策によって,(1)1875(明治8)年9月には仙台と小倉に出納寮出張所を新設し,東京本寮および大阪出張所とともにその為替方を三井組に申付けることとし,(2)1876(明治9)年7月1日には三井銀行と三井物産会社が開業するのである.こうした大蔵省と三井組のドッキングを頂点とする財政と金融の相互依存のシステムが実地において有効に作動するに至るまでには,さらに多くの努力が官民双方に要求されたことはいうまでもない.

 Ⅲ 大隈財政の展開

 世にいう大久保政権下の前期と大久保没後の後期とでは,大隈財政をとりまく環境条件は一変してしまった.前期には,いろいろと困難な事件はあったにしても,政府は大久保の強力なリーダーシップの下に安定を保っており,また経済の方でも国際収支の逆調はどうにか彌縫できており,物価も概ね落着きを見せていた.農民が最も嫌悪する検地そのものの地租改正事業に政府が断然踏切ることをえたのも,基本的には政治と経済の安定あったればこそである35).また,翌1874(明治7)年5月には,大久保は「殖産興業ニ関スル建議書」を呈し,多年の宿題にゴーのサインを送るのだが,これもこうした良好な客観情勢を読んでのことである.そこでの大隈の役割は,前節でも述べたように財政と金融の諸制度を整え,大久保の意のままにその殖産興業政策の台所をそつなく切り盛りすることであった.その間,大隈にも苦労の種はつきなかったにしても,この時期が大隈には最もハッピーだったのではあるまいか.
 こうした環境条件はまず経済の方から崩れる兆しを見せ始める.地租の軽減36),内戦の戦費,国立銀行券の増発などの波及効果によって国際収支の赤字は拡大し,国内物価は洋銀相場とともに騰貴した.今日の経済常識からすれば,政府は戦後の早期に財政支出を削り,金融を引締め,国際収支の悪化と物価の騰貴に備えるところがなければならない,しかし,道理の上ではそうでも,なかなかさように参らないのが政治の常である.経済のメカニズムに対する理解や経済情報が今日に較べれば未発達だったうえに,中央において全面的な物価の上昇が目立ってくるのは,1879(明治12)年に入ってからのことであったから,1878(明治11)年には政府は安んじて地方三新法による地方制度の整備と起業公債1,000万円を財源とする殖産興業プロジェクトをセットとした内治拡充の積極政策に乗り出した.ここでもし,洋銀相場や物価の急騰がもっと早期におこっていたら,あるいは大久保もこれを考慮して積極政策に何程かの手加減もありえたかもしれない.山腹を転がり出した石は止め難いとはよくいうところだが,その意味において物価上昇の遅れはその後の政局の安定や経済の適切な運営にとってまことに不運なことである.
 これに追い討ちをかけるように突如として政局の不安定化が降って湧いてきた.大久保の積極政策がまさに始動しようとした5月14日,大久保は馬車で登庁の途上に過激派不平士族の手にかかって暗殺された.この大久保の急死が政局の安定にとっていかばかり大きな打撃となったかは,次の伊藤博文(1841―1909年,周防)の後日談にまったく明らかである.「今日ハ大久保在世ノ時ト違ヒテ,百事意見アリテ纒マラズ,大久保ノ時ハ同人サヘ納得スレバ,他ノ参議ニハ格別異論ナシ,僕ハ時々内談ニ預リタル事ニテ,至テ心易カリシモ,其ノ後ハ僕ハ調和家トナリテ漸ク運ビ来レリ」37)
 さらに,政局の不安定には派閥の利害がからんでくる.大久保の没後も暫くの間は,政府は一致して余りにも偉大だった大久保の遺志の継承をスローガンとして進まざるをえない.しかし,日時の経過とともに政府の内部に微妙な変化が兆してくる.派閥のドンを失って,その政治的影響力がとみに低下した薩派にあっては,これを自覚するだけに,宿敵長派に対抗していくためにも,大久保の遺志継承をその基本路線としてますます強く押し立てていくことになる.しかし,それとはまったく逆の立場にある長派は,できることなら過去の行き掛りはこれを清算して,その優越した政治的影響力を思うがままに行使したいと考えるだろう.また,その施策の面においても,薩派が積極政策に熱心であればあるほど,これと対峙する長派の方はますます安全運転を志向して対立するというのもまた政治力学の常であろう.
 こうした次第で経済政策の基本に関して薩長が対立するということにでもなれば,派閥の後援を欠き,しかも当面の財政責任者でもある大隈の立場ははなはだ微妙なものとならざるをえない.かくて,その後期において大隈財政は一方では不安定な政局の下で薩長のバランスに配慮しつつ,また他方では進行する経済危機に適切に対処しなければならないというきわめて困難な課題に当面することとなった.われわれもここに照準を合せて明治10年代前半における経済政策の展開を以下に素描することにしよう.
 まず,当時の経済危機に対して政府の領袖達はどのような理解と政治的評価を持っていたのであろうか.ここが経済政策のそもそもの出発点になるわけだから,この辺から論議の緒を解いていきたい.一口に政府首脳といっても,その中には大隈,井上,松方など財政経済に理解を持った“経済巧者”もおれば,これにはまったく理解も興味も持たない“経済不巧者”もあって同じではない.そこに経済政策論議の一種独特な微妙さが生じるわけである.
 まず,正貨流出.正貨の流出は邦家の一大事とする認識においても,また正貨の流出を防止するための貿易尻の改善策は関税自主権の回復,輸出産業の振興,輸入品の節約とする点においても,政府内部の意見は一致していたようである.今日からみれば,輸出産業の振興,輸入代替の促進などはいずれも長期的効果のみを期待しうるものだから,危機においてはより速効性のある国内需要の圧縮をまずもって計るべきところと考えたいところだが,当時は緊縮財政論者の井上や松方でさえもこうした発想はしていなかったようである.その裏には,政府の首脳達が共通して輸出の振興による拡大均衡の達成に楽観的な見通しを持っていたということがあったようである。坂の上の雲を見つめて歩んでいた明治の人々にはある種のオプティミズムが共通する心事として働いていたとするならば,これもその発現として理解できよう.はなはだ興味あるところである.
 次は物価騰貴.正貨流出は一致して邦家の大事とみられていたのに対して,物価騰貴の方は国内における利害の対立を生ぜしめ,政府の内外に経済政策論争をまきおこした.地租の金納化によってほとんど固定収入者となってしまった政府は明らかにインフレ損失者だが,予算編成がどうにか円満に行われている間は,廟堂の多数を制する経済不巧者は物価騰貴に対して格別の関心を示すことなく,物価対策は一部の経済巧者の手に委ねていたようである38).この段階での大隈の施策は公債や紙幣の償還および洋銀対策など微温的と評されかねないものにとどまっていたが39),これは大隈がこの段階までの物価騰貴はなんとしても抑制しなければならない程の悪とはみておらず,また政府の内部にとりたてて大隈の施策を批判攻撃する動きもなかったからであろう40).
 大隈の経済政策に対する批判はまず民間からおこった.政府がインフレ損失者なら,当然民間はインフレ利得者のはずである.しかし,その民間にもインフレ利得を享受した生産者とインフレ損失を蒙った消費者の利害の対立があるわけで,いわゆる士族民権派は彼等自身を含めて消費者の利益を代表し,政府に経済政策の転換を要求し,盛んに政府攻撃の論陣を張った.1880(明治13)年5月に大隈は二つの建議書を上呈し,経済政策の転換を提案するのだが,これは大隈が士族民権派の攻撃に屈しての挙といわんよりは,ますます上昇する物価のため1880(明治13)年度予算が編成難におちいり,そのため往年の井上がそうであったように政府内部で孤立することをおそれた大隈の政略に発するものと見るべきであろう.その建議「通貨ノ制度ヲ改メンコトヲ請フノ議」において,大隈が「若シ是ノ事果シテ決行セラルルニ至レハ 物価次第ニ落下スヘキハ明白ナリ 然ラバ則チ今日各官庁ヨリ物価昻貴ノ為ニ要請スル経費ノ増額ハ悉皆之ヲ減殺シテ可ナリ」41)と述べているのは,こうした大隈の心事を物語るものといえよう.果たして,大隈の予測通り,経済危機の全般に対処するため策定した彼の政策提案は,多数派の経済不巧者達によって換骨奪胎の末,その本来の政策意図はどこへやら,予算編成とのからみにおいて専ら“財源不足対策”として受けとめられ,その百家争鳴が閣議の基調を支配し,5月から8月へかけて一大財源論戦が展開されるに至った.さきに経済政策論議の一種独特の微妙さと書いたのは論議のこうした屈折を指してのことである.
 われわれはここにおいて「5,000万円外債案」と俗称される大隈の「正金通用方案」42)につき検討を加えるべき段階に達した.「正金通用方案」とは,(1)外債5,000万円と準備金中の硬貨1,750万円と交換して,紙幣7,800万円(正貨1円=紙幣1.1555円)を引揚げる,(2)国立銀行が発行する紙幣の抵当を金札引換公債に変更し,金札引換公債を国立銀行に売却し,紙幣2,733万円を引揚げる,(3)残るところの国立銀行券については国立銀行に正金銀との応需交換の義務を負荷させ,3,370万円の銀行紙幣は通用正貨の代券たらしめる,等々によって通貨の制度をこれまでの「紙幣専用ノ制」から一挙に「正貨専用ノ制」に切りかえてしまおうというものである.
 この「正金通用方案」が大隈の期待通り成功したとして,大隈はこれによって経済危機がどのように克服できると考えていたのだろうか.勿論,「正貨専用ノ制」になったからといって,これによって正貨の流出がとまると考えるべき理由はない.しかし,国内の正貨が5,000万円増加したのだから,貿易の逆調は暫くの間これをもってまかなうことができる.その間,官民ともに輸出産業の振興に懸命な努力を払うなら,輸出は増大し,やがては輸出が輸入に追いついて貿易のバランスは回復するだろう.たぶん大隈はこう読んでいたのだろう.この拡大均衡論はすでに述べるところのあった明治人のオプティミズムにほかならない.しかし,オプティミズムであろうとなかろうと,それが当時の政府首脳部に共通する心事であれば,政治的にそれはそれなりの説得力を持つ.政府の意志決定に当って重要なのはこの種のハートにこたえる説得力である.そうして,われわれとしても大隈らの見通しに対し客観的反証を挙げえない以上は,明治人のオプティミズムを再確認することで満足するよりない.
 物価騰貴によって固定収入者の政府が予算編成難に陥るのは政治的悪だが,物価騰貴そのものは必ずしも悪ではないと大隈は考えていたようである.後世,大隈がインフレーショニストとの非難を浴びるに至った理由はここにあるだろう.その当否の論議はともかく,かの鹿児島士族の叛乱すら武力鎮圧に成功した政府の領袖がインフレ抑制を求める士族民権派の批判攻撃には一向に耳をかそうとはしなかったとしても不思議ではない.この頃インフレ利得者の豪農や豪商達はこの世の春を謳歌して政治化するには至らなかったことを考慮すればなおさらのことである.とすれば,大隈の当面の政治課題は予算の編成難をなんとか突破することの一点にしぼられてくるだろう.「正金通用方案」は果たして予算編成のための絶妙の一手たりうるだろうか.これを以下に検討しよう.
 「正金通用方案」によって政府紙幣はすべて消却されてしまうのだから,今後は歳入の一部をさいて紙幣の消却(実は焼却)に当てる必要はなくなる道理である.その分予算編成にも余裕が生じる.1880(明治13)年の年末には150万円を見込んでいた各省経費の節減が諸省の強い抵抗によって実現せず,難行苦行を重ねた末越年して2月にようやく100万円の節減にこぎつけるのだが,このことから見ても上記の予算編成の余裕は決して小さなものではあるまい.しかし,事前の計画の段階での話としてはいかにも迫力不足の感をまぬかれない.
 「正金通用方案」の味噌が「物価次第ニ落下スヘキハ明白ナリ」にあったことは明らかである.政府領袖はこの点をどう受けとめていたのであろうか.大隈の「外債論」をめぐって政府は賛否両派に分裂して,白熱の論戦を展開した.その際,薩派を中心とする賛成派は,物価は下落するものと心底考えていたのであろう.しかし,反対派の所論は,今日知りうる限りでは,外債発行そのものを非とするものばかりで「正金通用方案」の経済効果に説き及んではおらないので,彼等が物価の動向をどのように考えていたのかは明らかでない.外債発行が頭にきて興奮の余り「今日外国債を募る程ならば,四国か九州を外国に売渡す方がよい」とまで極言したと伝えられる岩倉のごときは,物価の動向など考えてもみなかったことであろう.しかし,その余の反対派は半信半疑もしくは物価は下落と受けとったのではあるまいか.もしも,逆に物価は上昇すると考えたとしたら,それは反対論のきわめて有力な論拠になるはずだから,何所かでこれを難じたであろう.
 ところで,今日われわれからみれば,「物価次第ニ落下スヘキハ明白ナリ」とする大隈の“書かれざる物価論”の結論は論理的にはなはだ疑わしく,大隈の“通貨供給論”に従って「紙幣専用ノ制」の時代には民間で退蔵されていた正貨5,271万円と古金銀6,158万円が「正貨専用ノ制」の下で再び流通に復帰してくることを考慮するなら,当面利子は低下,物価は上昇の傾向を示すと考えねばならない.そうなれば,「各官庁ヨリ物価昻貴ノ為ニ要請スル経費ノ増額ハ悉皆之ヲ減殺シテ可ナリ」は根底からくつがえって,事前の期待が大きかっただけにかえって大隈排斥の声が外債賛成派の間からもあがるであろう.大隈の政略もその物価論の誤りのためについにここで破綻するのか.ここまで考えてきて,ハッとした.この時「正金通用方案」の裏にかくされている大隈の巧妙なトリックにようやく気付いたからである.大隈の仕組んだトリック.それは地租である.これを以下に説明しよう.
 1880(明治13)年の米価は紙幣で10.57円であり,正貨で7.16円であった.価格表示の銀紙の別を明確にするため,これをそれぞれ10.57紙円,7.16銀円と書くことにしよう.「紙幣専用ノ制」の下で市揚での取引に実際行われていた米価は10.57紙円であり,7.16銀円は国内取引に関するかぎり一つの計算値でしかない.ところが,今度は通貨制度の改革によって一挙に「正貨専用ノ制」に変ってしまったのだから43),改革後の市場米価は7.16銀円となる道理である.その他の財貨サービスについても同様である.しかし,法定地価の2.5%の定額金納制の地租となると話はまったく別である.当時の地租の総額は約3,800万円と見積られるが,「紙幣専用ノ制」の下では当然これは3,800万紙円であった.「正貨専用ノ制」になると通貨はすべて正貨となっているから,定額の地租も当然に正貨で納付されることになる.したがって,ここで地租条例でも相殺的に改定しないかぎり,政府の地租収入は3,800万銀円となるはずである.3,800万紙円は米に換算して360万石であるのに対し,3,800万銀円は同じく530万石となる.これは実質47%の増収を意味する.まさに驚くべき大隈のトリックといわねばならない.
 勿論,大隈はこの巧妙に仕掛けられたトリックは秘中の秘としておくびにも出さず,ただ「然ラハ則チ今日各官庁ヨリ物価昻貴ノ為ニ要請スル経費ノ増額ハ悉皆之ヲ減殺シテ可ナリ」とこの挙によって1880(明治13)年度予算の編成難も解沢可能なことを示唆するにとどめる.大隈はここでその根拠として物価は下落すると書いてはいるけれども,その実通貨改革の後には退蔵正貨の活性化から物価はかえって上昇する可能性のあることも知っていた,と考えるべきであろう.
 しかし,今や地租の実質47%もの増収を懐にできる見込の立った大隈にとって,物価の多少の変動ごときはまったく問題とするに値しなかったことであろう.この際,大隈は物価騰貴そのものは必ずしも悪とは考えていなかったことを併せ思いおこして頂きたい.大隈が一見「正金通用方案」のポイントとも見える物価論をまったく書かなかった理由はこの辺にもあるのだろう.
 外債論争の白熱化する中で,彼の同僚達はたぶん大隈のトリックには気付くことなく,後日冷静に帰ったあとで経済巧者の井上や松方あたりがようやくそれと気付いたというのがせいぜいのところであったろう.われわれとてもこの点に思い至ったのはこの共同研究の幕を閉じようとする直前のことであった.そうして,それと気付いた時,大隈の考えに考えぬかれた「正金通用方案」には実に感歎の念を禁じえなかった.しかし,政治というものは奇妙なもので,折角苦心の大隈の妙手も岩倉らの一途な外債亡国論の前に敗れ去り,6月3日には勤倹の勅諭が下った44).
 「かくて政府は,六月十五日より会計逼迫に付き諸省定額金減縮の会議を開いた.併し諸卿の間に異論が百出し,殊に司法・陸軍・海軍の省卿の如きは省費減額に反対したので,折角の減額協議は纒まらなかった」45)伊藤や井上らの緊縮財政論者の見通しは余りにも甘かったのである.その後6月16日―7月23日の天皇御巡幸による政治休戦をはさんで「地租米納論」が登場してくる.
 外債論が敗れたからには緊縮財政は早晩避け難いところで,その帰結はデフレと読んだ五代友厚(1835―85年,薩摩)は,地租を米納の旧制に戻すべしとの意見書を草し,黒田清隆(1840―1900年,薩摩)や大木らと連絡をとりつつ岩倉に入説した.諸省定額金300万円の削減に失敗したばかりの岩倉はこれにとびつき,「財政ニ関スル意見書」を呈した46).しかし,さきの「外債論」に反対した長派参議は今度も反対にまわったし,大隈もこれに反対したから,この議もまた潰えた.大隈が「米納論」に賛成しえなかった基本的理由はすでに前節において述べたところである.それに加えて,大隈にはもう一つの心理的抵抗とでもいうべきものがあったかもしれない.その練りに練った「外債論」が潰えたばかりのこの時に,同じく地租の増徴を意図するものとはいえ,彼の「正金通用方案」に較べれば著しく矮小化され,しかもその手段において幼稚かつ粗雑な「地租米納論」には大隈としては到底賛同する気になれなかったであろう.
 大隈の「外債論」が敗れて以後,論戦の激化とともに政府の政策議論はまったく財源対策の一点にしぼりこまれてしまった.そうして,この観点からみても,各省予算の削減を極力回避しようとする提案は次々とすべて拒否されてしまったのだから,残るところはこの聖域に踏み込んでの緊縮政策以外にはない.事実,その後の財政政策は,井上が「地租米納論」に反対して提出した「財政救済策」の線に沿って展開されることになる.1873(明治6)年に大蔵大輔の職を追われた井上はその後も大蔵卿のポストに野心満々であったが,これには各方面からの抵抗が強く,野心の達成はずっと後年のことになるのだが,見方によればこの時以降実質的には井上財政の復活があったということもできよう.ともあれ,財政政策はここで大きく転換することになる.そこで,次に井上の「財政救済策」をみよう.
 「貿易ノ利ニ資リ,正貨ヲ獲テ以テ今日ノ紙幣ヲ交換シ尽ス」ことを今後の基本方針とし,「貿易ヲ盛ニシ,以テ正貨ヲ獲ルノ道ヲ開クニハ必ズ参議大隈ノ説ノ如ク,先ヅ毎年紙幣壱千万円ヲ我歳入ヨリ抜キ」,これをもって次の施策を実施する.
「第一,現時ノ準備金ヲ主トシ,六百万円ノ正貨ヲ以テ日本銀行ヲ設立スル事
 第二,現在ノ保険会社ヲ一層盛大ニスル事
 第三,海外直接貿易会社少クモ十店ヲ設立セシムル事
 第四,壱千万円ノ内六百万円ヲ海外直接貿易ノ資本ニ供スル事
 第五,右残額貮百万円ハ準備金中ニ加入スト雖ドモ,間又之ヲ流用シテ減債紙幣活用ノ不足ヲ援フ事」
 この井上のプランはどうやら後年の松方財政のデッサンと見ることもできそうである.ここで問題は「毎年紙幣壱千万円ヲ我歳入ヨリ抜ク」手段である.井上によれば「官省ノ事業ヲ減廃シテ,其定額ヨリ貮百万円ヲ減ジ,且地方税則ヲ改メテ貮百万円ヲ残シ,又タ間税(酒・煙草等)ヲ増賦シテ四百万円ヲ収メ,又予算中ノ減債紙幣ヲ活用スレバ,乃壱千万円ノ余剰ヲ獲ル」ことができるというのである47).
 井上の緊縮政策は,大隈と伊藤の連名の「財政更改ノ議」48)を経て,9月以降着々と実施に移された.「外債論」は封じられ,「地租米納論」には反対だった大隈にしてみれば,好むと好まざるとをとわず,残された施策は最早井上のそれと大同小異たらざるをえず,この段階において大隈と井上との間に財政政策に関して大筋の合意は成立したのである.「明治十四年度歳入出予算表」(明治14年7月29日太政官達第67号)49)は1880(明治13)年秋以降の施策の成果をこう総括している.
 「本年度ノ歳計タルヤ歳入ノ予算額経常臨時ヲ合シ六千八百五拾七万三千九百九拾五円ニシテ 之ヲ前年度ノ歳入五千九百九拾三万三千五百七円ニ比スレハ 実ニ八百六拾四万四百八拾八円ノ増額ヲ見ルニ至レリ 其増加ノ重要ナルモノハ 客歳第四十号ヲ以テ酒造税則ヲ改正シ及ヒ第四十一号ヲ以テ??税則ノ発行 開拓使兌換証券引換金ノ返納アルニ由ル 而シテ歳出ニ於テハ本年二月ノ令達ヲ以テ各省ノ経費ヲ節減スルモノ百万円余及ヒ客歳第四十八号ヲ以テ従前国庫ノ支出タリシ地方費ヲ改メ地方ノ支弁ニ帰セシヲ以テ貮百五拾万円余ヲ減額セリ 右等ノ減額ヲ以テ前記ノ増加額ニ合シ壱千貮百拾四万円余ヲ得タリ」そうして,この余剰を財源として「紙幣支消ニ七百万円(内三百五拾万円ハ減債方按ニ拠ルモノトス) 準備金ヲ充実ナラシメンカ為 嘗テ作業費条例ニ拠リ各庁営業資本トシテ準備金ノ内ヨリ繰換貸附セシ金額四百五拾万円余ヲ更ニ常用ノ支出トナシ」たのである.
 ここで太政官布告第48号(明治13年11月5日)とは,地方税を地租の5分の1以内から3分の1以内に増額して府県に財源を与え,これまで国庫から支弁していた府県監獄費など3項目を地方税支弁費目に追加し,府県土木費への国庫補助を廃止するというものである.これを不満とする地方豪農豪商の民権派はこれを契機として急速に政治化していった50).すでに士族民権派は激しく政治化していたし,また1880(明治13)年中に展開された激しい財政論戦は政府内部に少なからぬしこりを残していたから,内外あいまって1881(明治14)年に入ると政局はとみに不安定の度を高め,政府はついに明治14年政変という形で高価な代価を支払わさせられることになる.
 1881(明治14)年の大隈財政を語るに当っては,そのブレインたる小野梓(1852―86年,土佐)の「今政十宜」51)は逸することのできない重要性をもっている.小野はこれを1881(明治14)年3月2日に脱稿し,18日に大隈へ提出している.その中で,ここでの論議に直接かかわりを持つのは,「宜決外債之募集」,「宜罷紙幣之焼棄」および「宜正準備金之有様」の三条である.その所説を次にみよう.
 まず,小野は「本邦紙幣の下落する,その実因,不更換に在り」との認識に発し,「不更換の制にして之を改むるを為さずんば,縦令其額を減殺するも,紙幣の信用終に得て之を回復すべからざる也.又これに反し,其実因にして能くこれを正すを得ば,縦令その現数を流通せしむるも,之れが価格に至りては必ず其相当に復すべき也」と論じ,紙幣の焼却処分はやめて,兌換制への移行を策すべきだと説く(宜罷紙幣之焼棄).
 兌換制へ移行するには,政府は十分な兌換準備金を用意しなければならない.ところが,「今明治十三年八月十六日調製する所の計表に拠るに,準備部の在高金,実に百拾七万六千円余と称す.而して其中金貨あり,銀貨あり,貿易銀あり,紙幣あり,金券あり,其実躰,既に世人の所信に違ふのみならず,又之を公債証書株券に換ふる者無慮六百九拾四万貳千円余ありて,其準備金たるの性質を失したるもの頗る多し」という実情である.こうした準備金の有様からまず正しておかなければならない(宜正準備金之有様).
 昨秋来,政府は歳計1,000万円を節約し,これをもって紙幣を焼却しようとしている.この策は方向としては是認できるにしても,「その手段たるや甚緩慢にして,三年乃至五年を経るに非ずんば,終に能く其目的に達するを得ざる也.惟ふに此の間に在て,紙幣価格の浮沈に憑て致す所の害は,如何んか之を防かんとする」と疑問を呈し,進んで「急に正貨の国債を起して之を救ふべき所以」を主張する.さて起債ということになれば,「内国起債の事,既に容易ならざるの実歴あれば,之を外債に取るは亦誠に已むを得ざる者」であって,募集の額は「流通紙幣総額の三分一に相当する者を以て其極度と為」すべきだと説くのである(宜決外債之募集).
 小野の「今政十宜」にいたく感銘した大隈は大隈財政の再生を期して外債の推進に再度挑戦する決心を固めたようである.そのための第一着手は伊藤の同意をとりつけることである.他方,その頃伊藤は昨秋来井上とともに彼等の主張する緊縮財政は貫いたものの諸省予算の削減にはまったく手を焼いていた.それだけに,伊藤がこうした予算編成のためのやりとりを年々繰返していては,浪費される時間の点でもまた政府内部に利害対立のしこりを残してしまうことから見ても,彼の基本政略とする国会論の前途はまことにおぼつかないと考えだした,ということは大いにありうるところである.伊藤にとってもここで財政に一策あってほしいところであったろう.こうした背景があってか,大隈と伊藤は早期に(早ければ3月,おそくも4月に)合意に達したもののようである52).そうして,伊藤が同意したとあれば,伊藤とは御神酒徳利の仲の井上は,賛成はしなくともあえて正面切って反対はしないだろう.残るところは昨年の外債論争の際に「今日外国債を募る程ならば,四国か九州を外国に売渡す方がよい」とわめいた岩倉ただ1人である.その岩倉を説得するために大隈と伊藤の払った苦心の程はその建議書の文面にも明らかである.
 「公債ヲ新募シ及ヒ銀行ヲ設立センコトヲ請フノ議」53)によれば,今回新募しようとする公債の価額性質はおよそ次のようである.
 (1)「紙幣ヲ以テ応募シ正金ヲ以テ返償スル」内国債であることを原則とし,募集額は5,000万円とする.
 (2)「内国起債の事,既に容易ならざるの実歴」あるに鑑み,さらに賞与金の附与,紙幣と公債との応需交換を認めるなど応募の奨勧を計る.
 (3)しかし,政府としてはできれば正金を得たいところなので,「正金ヲ以テ応募スルヲ聴ルシ金楮ノ時価ニ応シテ之ヲ紙幣ニ改算シ公債証書ヲ附与」することとしたり,「新定スル募債條例ト是公債ニ関スル政府ノ法律トヲ遵守スルノ約束ヲ以テ外国人ノ応募ヲ允許スル」道も開いておく.
 原則はあくまで内国債ということで岩倉の反対を封じておき,後は運用次第で実は外債という巧妙な建議の陣立てが功を奏してか,この建議は8月1日に裁可をうる。大隈はこの成果に満足し,御巡幸随行の旅に出たに違いない.しかし,これが大隈財政の終着駅になろうとは神ならぬ身の知るよしもなかった.

 Ⅳ 大隈財政から松方財政へ

 開拓使官有物払下げ事件をきっかけにしてまきおこった明治14年政変で,大隈およびその一派は大隈謀叛の名の下にすべて政府から追放されたが54),もつれにもつれた政局はこれをもってしては安定せず,続くその第2幕において黒田は虎の子の開拓使の存廃をかけて長派と争い,その余りの強引さが他のひんしゅくを買い,ついには薩派の内部においても孤立し,実質的には左遷を意味する内閣顧問にまつりあげられ,1882(明治15)年2月8日には開拓使も廃止された55).他方,明治14年政変では勝者のはずの伊藤も内閣制の創設に失敗するなどして傷つき56),岩倉も威信の低下をまぬかれなかった57).こうした中で,松方だけは多年の野望であった大蔵卿の椅子をいとめ,ここに松方財政の開幕となった.就任早々,松方はすでに裁可になっていた公債発行の議を断然拒否して葬り去り58),大隈財政との断絶を鮮明にするのだが,松方財政のこの面だけを強調するのは片手落ちの誹りをまぬかれない.他方において松方は先行する大隈財政から少なくとも次の三つの遺産を継承していたことにも注目すべきだからである.
 (1)大隈が懸命に取組んできた財政・金融制度の改革(Ⅱを参照)
 (2)われわれが実質的には井上財政の復活とよんだところの1880(明治13)年秋以降の一連の増税と経費削減を組合せた財政政策の体系(Ⅲを参照)
 (3)松方が大蔵卿に就任した時にはすでに下方転換をとげていた景気動向59)
 この時期の松方財政の性格については,これまで大隈との断絶を強調する見方と大隈の継承を主張する所説の双方が行われているわけだが,われわれの整理に従えば,松方は大隈の財政・金融制度の改革と1880(明治13)年後半の“実質的井上財政”を継承し,1880(明治13)年前半および1881(明治14)年前半の大隈の外債発行構想を拒否するという二重の関係にあったということになる.断絶説に対しては大隈の財政・金融制度の改革が松方財政にとって持つ意味の重要性を指摘しておきたいし,また継承説に対しては松方が継承することになった1880(明治13)年後半に展開された財政政策の体系は大隈の「外債論」や岩倉の「地租米納論」の政策構想とはすでに断絶した“実質的井上財政”であったことを指摘したいのである.
 さて,次は(3)の景気動向.米価は1881(明治14)年の春までにはすでに峠を越えて下降の傾向に転じていた.情報認識のラッグを十分考慮したとしても,松方財政が開幕する頃には景気循環の下降局面への突入はほとんど争う余地のないところであったろう.さらに,1881(明治14)年の暮には大隈の手によって同年2月に公布をみていた地租徴集期限の繰り上げによって農村は一種のパニック状態に陥っていた60).周知の松方デフレ下の農民の土地喪失はここに端を発している.事態がここまで発展してくれば,最早デフレは誰の眼にも明らかなところである。これに対して,松方は政策転換どころか,非情にも追討をかけて,断乎として緊縮財政を続行する.砕けた腰を蹴りあげる,これが松方財政であった.こうして松方財政の下で極度に深刻化したデフレを世に“松方デフレ”とよぶけれども,デフレはすでに大隈財政の下で進行していたのだから,その責の一半は大隈の負うべきものである.大隈の「外債論」はついに実現はみなかったけれども,それが実質的には地租増徴の秘策でもあったことを思えばなおさらのことである.地租依存度のきわめて高い財政構造の下では,財源の不足が土地所有者の負担増加に転換されることはけだし不可避のところとみるべきであろう.
 しかし,大局的に見て,松方が井上・大隈らの治績をよく継承発展し,その堅実な施策をもって財政の効率と安定を高めた功は高く評価されて然るべきであろう.井上の辣腕,大隈の才気,松方の堅実は,古く戦国の世における信長,秀吉,家康の東海トリオにも対比さるべきものといえるかもしれない.それはともあれ,松方の兼ね備えていた堅実な性格,健全財政主義,たたき上げの実務知識が大蔵官僚にとって理想の大蔵卿像として歓迎されたことは間違いのない事実である.大蔵省きもいりの『明治財政史』が一名『松方伯財政事歴』の副題を持つ所以でもある.

 [注]
 1) 会計期間(年度)がしばしば変更されていて,混乱をおこしかねないので,これを示しておこう.
 第1期 1867(慶応3)年12月―1868(明治元)年12月
 第2期 1869(明治2)年1月―9月
 第3期 1869(明治2)年10月―1870(明治3)年9月
 第4期 1870(明治3)年10月―1871(明治4)年9月
 第5期 1871(明治4)年10月―1872(明治5)年12月
 第6期 1873(明治6)年1月―12月
 第7期 1874(明治7)年1月―12月
 第8期 1875(明治8)年1月―6月
 8年度 1875(明治8)年7月―1876(明治9)年6月
 当初はひとまず旧制を引継いで暦年制を採ったが,これでは「金穀出納ノ実計ニ適合セス」という理由で第3期から前年10月―当年9月制に改めた.旧暦から新暦への切替(旧暦5年12月3日をもって新暦6年1月1日とする)に伴い第6期から再び暦年制に戻った.これには財政上の考慮も働いていた.旧暦によると1873(明治6)年は閏年で1年が13カ月となる.ところが官員の俸給はすでに月給制に改められていたので,1873(明治6)年には13カ月分の俸給を支払わねばならない.そこで,1873(明治6)年から新暦を採用して,俸給1カ月分を節約した.また,1872(明治5)年は12月を欠くので,これも経費の節減を意味したようである.当然,これでは「金穀出納ノ実計ニ適合セス」ということになるので,1874(明治7)年10月13日太政官番外達をもって当年7月―翌年6月制の会計年度を定めた.現行の当年4月―翌年3月制の会計年度は1886(明治19)年度に始まる.
 2) 松下芳男『改訂明治軍制史論』上巻,図書刊行会,1978年,によると,1872(明治5)年末の陸軍人員は17,096人(184-86ページ),また,1873(明治6)年末のそれは16,268人(362-63ページ)とある.なお,松下は1877(明治10)年当時の熊本鎮台では「将校,下士官は勿論,鎮台兵の約三分の一は,旧藩の武士出身者」(462-63ページ)と推定している.士族の発言権は軍部においてきわめて強かったとみなければならないだろう.
 3) 原口は,1873(明治6)年には小学校12,000余,就学率28%であったが,1877(明治10)年には25,000余校,就学率39%に高まったと書いている.原口清『日本近代国家の形成』,岩波書店,1968年,131ページ.
 4) 西郷の大久保宛書翰.原口,前掲書,118ページ.
 5) 2月4日付佐々木高行宛の北代正臣の書翰.『保古飛呂比 佐々木高行日記』5,東京大学出版会,1974年,365ページ.
 6) 『大隈伯昔日譚』,株式会社明治文献,1972年,627-28ページ.
 7) 三宅雪嶺『同時代史』第1巻,岩波書店,1979年,324ページ.
 8) 三宅,前掲書,326ページ.
 9) 『明治天皇紀』第3,吉川弘文館,1969年,55ページ.
 10) 『大隈侯八十五年史』第1巻,原書房,1970年,478ページ.
 11) 『明治天皇紀』第3,61ページ.
 12) 『世外井上公伝』第1巻,原書房,1968年,557ページ.
 13) 『明治財政史』第3巻,丸善株式会社,1904年,139ページ.
 14) 『明治財政史』第3巻,148ページ.
 15) 『明治財政史』第3巻,148ページ.
 16) 『明治財政史』第3巻,149ページ.
 17) 『三井事業史』本篇第2巻,三井文庫,1980年,161ページの第3―6表「大元方の収支状況」.
 18) 『法令全書』,明治7年,102ページ.
 19) 『大隈文書』第3巻,早稲田大学社会科学研究所,1960年,250-57ページ.
 20) 『明治財政史』第1巻,689ページ.
 21) 『明治財政史』第5巻,224ページ.
 22) 1870(明治3)年7月24目大蔵省第483号.
 23) 『明治財政史』第5巻,329ページ.
 24) 租税頭陸奥宗光の建議.『明治財政史』第5巻,324-25ページ.
 25) 北陸筋からの廻漕が旧幕時代の西廻航路から東廻航路に変っていることに注目されたい.
 26) 大和型帆船に海難の多かったことはよく知られていることだが,1873(明治6)年4月に三井の東京大元方役場が府県出張店に発した条目の第7条に「出張店ニ於て仮令如何様之引当もの有之候とも決て貸付金ハ不相成候事 但し慥なる為替並ニ荷為替等は篤と検査之上取扱可申, 尤も蒸気船積荷物ニ相限可申,決て日本船積荷物ハ引受申間布事」とみえている.かように三井が大和型帆船積荷の荷為替はおことわりとしていることは,その海難の大を示唆するものといえよう.宮本又次『小野組の研究』第3巻,小野組の研究刊行会,1970年,74ページ.
 27) 『大蔵省百年史』上巻,大蔵財務協会,1969年,41ページ.
 28) 『明治財政史』第5巻,392ページ.
 29) 『明治財政史』第5巻,340ページ.
 30) 『明治財政史』第4巻,459-60ページ.
 31) 井戸庄三「明治初期町村分合に関する二,三の問題―長野・山梨両県を中心として」,『人文地理』18巻4号,1966年,28ページ.
 32) 井戸庄三「白川県における明治7~9年の町村合併」,『歴史地理研究と都市研究』上巻,大明堂,1978年.
 33) 『明治財政史』第5巻,363ページ.
 34) 『大隈文書』第3巻,103-16ページ.
 35) 地租改正条例を公布するに当って示した政府の気のつかい方はなみなみならぬものがあり,将来の地租軽減を予告さえしている.すなわち,「第六章 従前地租ノ儀ハ自ラ物品ノ税家屋ノ税等混淆致シ居候ニ付 改正ニ当テハ判然区別シ 地租ハ則地価ノ百分ノ一ニモ可相定ノ処 未タ物品等ノ諸税目興ラサルニヨリ 先ツ以テ地価百分ノ三ヲ税額ニ相定候得共 向後茶煙草林木其他ノ物品税追々発行相成歳入相増其収入ノ額ニ百万円以上ニ至リ候節ハ 地租改正相成候土地ニ限リ其地租ニ右新税ノ増額ヲ割合 地租ハ終ニ百分ノーニ相成候迄漸次減少可致事」(地租改正条例1873(明治6)年7月28日太政官布告第272号).
 36) 鹿児島士族の孤立化と地租改正事業の促進を狙ったと推察される1877(明治10)年1月の詔勅による地租の軽減は年間750万円前後と見積られる.その6カ年間の累積額は4,500万円に達し,一回限りの内戦の戦費4,200万円を上回る.
 37) 『保古飛呂比 佐々木高行日記』11,50ページ.
 38) 金銭にかかわる話題は銅臭がするといって,紳士たる者がこれを口にすることは潔しとしない気風があったと伝聞している.これもこうした情勢を醸成するに与って有力だったのではあるまいか.
 39) 第Ⅰ部第3章の山本論文を参照.
 40) この時期すでに勧業政策転換の動きが現われていることに注意したい.第Ⅱ部第8章の梅村論文を参照.
 41) 『大隈文書』第3巻,444ページ.
 42) 『大隈文書』第3巻,446-55ページ.
 43) 大隈の建議には正貨を紙幣に「一挙ニ交換スル」とは書いていないけれども,大隈の真意は「一挙ニ交換スル」であったと読むべきであろう.この理解の仕方は第Ⅰ部第3章の山本論文に負うものである.
 44) この間の経過については,御厨貴「大久保没後体制―統治機構改革と財政転換」,近代日本研究会『幕末・維新の日本』,山川出版社,1981年,を参照.
 45) 『世外井上公伝』第3巻,149-50ページ.
 46) 地租米納論の詳細は第Ⅰ部第4章の猪木論文を参照.
 47) 『世外井上公伝』第3巻,159-73ページの抄録から引用.
 48) 『大隈文書』第3巻,455-62ページ.
 49) 『法令全書』,1881(明治14)年,232―50ページ.
 50) 坂野潤治「「明治百年」と「民権百年」―民権期の時代像をめぐって」,『世界』1981年11月号.
 51) 西村真次編『小野梓全集』下巻,冨山房,1936年,264-80ページ.なお,私がここで小野の「今政十宜」に注目するに至ったのは,まったく御厨貴教授のご教示に負うている.
 52) 大隈,伊藤連署の建議書の右肩には「三四月 七月二十九日頃(大蔵省 吉原 佐野 伊藤)」という書込みが残っている.
 53) 『大隈文書』第3巻,472―74ページ.建議全体の内容については第Ⅰ部第3章の山本論文を参照されたい.
 54) 1881(明治14)年政変の詳細については,大久保利謙「明治一四年の政変」,明治史料研究連絡会編『明治政権の確立過程』,御茶の水書房,改装版1977年.
 55) 黒田失脚の経過については,井黒弥太郎『黒田清隆』,吉川弘文館,1977年,177―86ページ.そこで井黒は「一般には明治十四年の政変は大隈追放を以て終ったとするが,実際において政府内部の危機感は,黒田退陣を以て,完全に終結したものと言わなければならない.ここが政変の終着駅である.」と書いている.
 56) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,東京大学出版会,1980年,の「明治一四年政変後の政治状況」を参照.
 57) 大隈追放の件につき,岩倉はほとんど事後報告を受けるにとどまったといってよい.
 58) 11月11日付の伊藤宛書翰で松方が次のように書いているのは興味深い.「過日粗御話仕置候公債取調の書類両様差上候.一案紙幣消却断然取計候主義は如何にも快然の趣に相見候へ共,今日迄は既に紙幣消却の事は(此挙は既に内外人も承知せり,何も今更に注意すべきに及はぬ事と存候)順次相運び居候上,俄然公債発令相成候ては政略上に於ても余り上策にては有之問敷哉.少し是点は別主義にて今般紙幣消却致し候件は良策の仕儀に思ひ出候姿に内外人共想像を成候感触にては甚残念千万に御座候.尤も再々公債募集も難出来候故,更に鉄道公債は迚も近年には発行六ケ敷有勢に可至哉と被存候に付二案を起草仕候.拙者の考には此案の方万々上策と相考申候.一先賢台篤と御覧被成下度奉依頼候.此の案の如く銀貨募集と通貨募集と混雑不面白と被思召候へば,是迄の金札引換公債条例改正相成候て,此の条例は単に通貨募集のみに致し可然事と相考申候.何分今日に相成候上は正貨積蓄を相急ぎ到底交換の正則相守り候方為邦家万全の御事と奉存候.銀貨積庫の義は何れにせよ傍ら包有有之候例を御治定相成度事と奉存候.」伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』7,塙書房,1979年,102―103ページ.
 59) 第Ⅰ部第6章の寺西論文および第Ⅱ部第7章の中村論文を参照.
 60) 第Ⅰ部第5章の室山論文を参照.
[梅村又次]