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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅰ部:第4章:地租米納論と財政整理ー1880(明治13)年8月の政策論争をめぐってー
著者名: 猪木 武徳
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅰ部:第4章:地租米納論と財政整理ー1880(明治13)年8月の政策論争をめぐってー

 Ⅰ 米納論の登場と不採択

 西南戦争終結後数年を経た明治政府にとって,米価をはじめとする諸物価の急騰と財政赤字の深刻な同時進行は,焦眉の急ともいえる政策問題であった.この経済難の主因を地租の金納化にあると見て,地租を米納の旧制にもどすべきだとする論が一つの「政策案」として大臣・参議の間から沸き上がってきたのも不思議ではなかった.このいわゆる「地租米納論」の最初の提唱者は参議兼元老院議長の大木喬任であり,その論点は要約すれば次のようなものであった.西南戦争後の物価急騰は,米価騰貴が諸色を牽引したことに原因する1).したがって地租を米納にもどし,政府が米価調節の権を掌握し,高ければ官庫より売りに出し,安ければ買い入れるという形で米価の平準化を図り,他の物価を制肘することが必要である.米価が下落すれば百物の価格も安定し,外国品への需要も減少する.このためにも,できれば地租全部,やむをえぬ場合でもその2分の1以上を米納にすべきである,と大木は主張した2).
 参議開拓長官黒田清隆も同工異曲の米納論を展開し,現今の財政難の元凶は輸出入の不均衡による正貨の流出であり,これを阻止するには輸入を制し輸出を増加させる以外に方法はないと考えた3).民生は一般には困窮を極めているにもかかわらず,米価が高騰しかつ地租額が名目において一定であるため,農民独り「暴富」を得,奢侈軽浮に流れ従来の雑穀ではなく米を常食とするようになり,外国高級品を競買消費している.これはただ米穀供給の権が,地租金納により完全に農民の掌中に帰したことに原因するため,米価調節の権を今一度政府の手にもどすべきであると意見した.
 当時この種の米納論に賛意を表した者は,参議の西郷・川村・山田・寺島らであり,右大臣岩倉具視も同意見であった.先にのべた大隈の外債案に反対であった長派諸参議は,この米納論にもまた反対であった.『世外井上公伝』には,1880(明治13)年8月16日の御前会議において財政救済方法について各々が意見を開陳した際,井上が大隈と共に岩倉の建議である米納論を排したこと,また井上自身による財政意見書の中でそれを「完膚なく論破した」と記されている4).この評伝の頌徳的性格は今措くとしても,「閣議」において岩倉が米納論を代表し,それに対して井上が反対の論陣を張ったことは確かであろう.
 岩倉の建議は,結果としては不採択に終ったが,その不採択の理由を『明治天皇紀』によってみると次のようなものであった.1880(明治13)年9月に「地租米納の議を不可なりと決したまひ,大臣を召して内勅を賜ふ」とあり,その内勅には「之ヲ今日ニ行フ頗不穏ヲ覚ウ朕熟考スルニ今日財政ノ急ヲ救宜シク事ノ緩急ト軽量ヲ斟酌シ経費上痛ク節減ヲ加へ以テ其方法ヲ考究スルヲ可トス...」と記されている5).続いて,1873〈明治6〉年の地租改正時にも農民一般の不平は大きく,そのために多くの騒擾が起こり,やっと平静をとりもどしたのはつい最近の事である.それを今急に米納に戻そうとすれば,必ず農民蜂起が発生するであろう.この年(1880〈明治13〉年)5月に,1885(明治18)年まで地価の再査定をせず,地租改正当初定めた地価に基づいて地租を徴収する旨布告したにもかかわらず,今米納の旧制に戻せば,「当ニ信義ヲ民ニ失フベシ」
と考え,不採択とせざるをえなかったとされている.
 さて,この陽の日をみることのなかった米納論の論理構造をできるかぎり明確にし,その問題点をとり出すことが本稿の日的であるが,資料として岩倉の「財政に関する意見書」6)と五代友厚の「米納論」7)を用いることにする.後者がこの論考で主たる役割を演じうるのは,岩倉から五代,大木から五代,黒田から五代への書簡が明らかにしているように8),米納論の理論的首唱者は明らかに五代であり,彼の所論の中にその最も論理的かつ抱括的な政策論を読みとることができるからである.また同時に,井上らの米納反対論の吟味も行われる.政策論としていずれが正論であったかの判断は,事実認識と現実感覚に関してどちらに与するかにかかっており,一概に一方を「暴論」として退けるこ
とはできないが9),それぞれの理論と現実感覚のもつ問題点はある程度別出できるはずである.

 Ⅱ 五代友厚の「米納論」

 (1) 内容・概略
 五代によると,この期の日本における実貨騰貴と紙幣下落は,外国貿易不均衡による実貨流出に原因するところ大であるという.ではなぜにこのような多額の輸入超過が発生したのであろうか.それは地租改正による金納化のために農民が旧税額の10分の1しか負担しておらず10),「独リ農民ノミ非常ノ幸福ヲ得,実ニ驚ク可キノ富ヲ進メ」11)多量の輸入品を買い漁ったからであると指摘する.この意味で,「地租改正金納ノ変革ハ今ヲ以テ見レバ,明治政府ガ財政上ノ大失錯ト云ハザルヲ」えない.農民は今や富裕化し,余裕の財貨は概して輸入品の競買に散じたため,従来工商の所有であった大資本も散乱消費され,工商に資本不足がおこり,「金融梗塞」を起こしたのである。そのため日本の金利は高度に達し,商工の衰退を招いたのだと五代は診断する.実際,商工を盛んにすることなく,輸出を増加することは不可能であるから,商工業での資金不足は致命的であり,これを解消することは急務であると五代は見たのである.
 通例の「経済家」の言うごとく12),現下の財政面での困難を不換紙幣の増額に帰するのにも一理はあるものの,それを裁断することだけで財政救済が成功すると考えるのは完全な片手落ちである.なぜなら,たとえ実貨を何らかの方法で一内国債,財政余剰,外債発行のいずれかで一獲得し,銀紙の比率を名目通りに戻したとしても,同時に貿易不均衡が継続する限り(・・・・・・・・・・・・・・・),実貨は国外に流出し続け,紙幣価値下落をくい止めることはできないからである.それは五代の言を借りれば,「吸収限りなき穴路を塞がずして徒に水を遣り」続けることに等しいといえる.
 五代によると,日本では金銀実貨は開港地において外国品を買得する場合にのみ用いられる貨物にすぎない13).それに反して紙幣の信用は非常に高く,「本位貨幣」の役割を果すものと考えても差し支えない.この紙幣,すなわち本位貨幣の流通量は,現今の人口3,300万から判断するとむしろ不足しているとも言えるくらいである.問題は,開港地において輸入品を買得する際,輸入超過ゆえに(・・・・・・・)必要な実貨が不足するために,実貨が高騰するという点に存する.この輸入代金支払いのための実貨不足が,古金銀および実貨の獲得競争に人々を奔らせ,実貨秘蔵を生じ,ついには今日のような紙幣下落を助長したのである.したがって五代の強調点は,目今の財政上の困難は,不換紙幣の増発による紙幣への信用の失墜にあるというよりも,輸出入の不均衡によって固有の実質が海外に耗出し,国内の実貨が涸渇したことが主たる(・・・)原因の一つであるということである.
 では,このような事態に対応するためには一般にどのような施策が考えられるであろうか.五代は,論理的には次の四策があるが,そのいずれも今日のような危急の場合には実現可能性も少なく,即効性もなく,単なる机上の空論にすぎないと結論する.
 (1) 輸入を制肘するための保護関税の賦課.(これはたしかに実効性ある適論であるが,我国の国権を考えると実施できない.)
 (2) 関税自主権を回復するために甲鉄艘30艘を纜ぐ.(これも目今の景勢からみて実行不可能.)
 (3) 全国の鉱業を盛んにし,その発掘する所の金銀塊をもって紙幣の交換を行う.(はたしてこれを可能にする鉱山があるかどうかわからない.)
 (4) 輸入防遏が不可能なら輸出増進をはかるために全国の商工業を盛んにする.(しかし現今の問題は輸入増加が激しすぎる(・・・・・)ところに問題があるのであって,輸出振興策は,その功を奏するに至るまでに多くの時間がかかりすぎる.これは「鉄道ニ乗リテ脱レントスル賊ヲ馬車ニ乗リテ追フガ如シ」と言わざるをえない.)
 それでは即効性のある果断の策とは何か.五代は,「地租改正金納ノ変革ニ湖リ,更ニ令シテ,地租5分の1ハ,現米ヲ以テ徴収スルノ法是ナリ」と断言ずる.たしかにこの方策をとれば,金納化が漸く徹底化をみた後で一部を米納制に復するわけであるから,その改訂計算の費用は甚大であるばかりか,農民が「竹鎗」に訴えるという意味でのコストも避け難くなる.しかし五代は,今日の財政難を救済し,国家の富強を図り,人民の安寧を保護するためには,これらのコストを恐れてはならないと言う14).先にみた四策に実現の可能性が少ない以上,この「地租米納案」を決行するより他に方法はないのである.現に1877(明治10)年11月の第80号布告では,当時米価が低廉にすぎ,金納地租に苦しんだ農民を救うため,代米納を許可したではないか.逆に米価が高騰した現在,士商工一般を救済するために米納を命ずるのは致し方のないことなのである,と五代は結論する.
 (2) 論点の整理
 では現米をもって地租の5分の1を徴収するという政策は,財政と国民経済にいかなる効果・影響を及ぼすと五代は考えていたのか.第1に注目すべき点は,米価の調整主体が農民だけでなく政府にも移るということである.現米地租を政府が所有して,販出地(米穀生産の多い地方)と販売地(東京,大阪)にこれを配置し,米価が高騰しそうな時にこれを売却,廉価にすぎる時は売却を差し控えるという形で全国の米価を適当に低く維持することができる15).そして米価が低下すれば,諸色もそれに応じて安定化するであろうと五代は考えた.第2点は,米価が平均化されれば農民の富が減縮されるため,輸入が減退するということ.輸入品の競買に向けられていた農民の富が減少するため,輸入超過が是正されるようになる.そうすれば開港地で必要とされる実貨の不足は深刻化せず,実貨の相場は現在より低落するため,ここに紙幣価値は疑いもなく旧に復するであろう.
すなわち五代の念頭には,米納案によると,
 (1) 米価の低落とそれに伴う諸色価格の低下,すなわち国内インフレの収束,
 (2) 農民の余剰の富(・・・・)を削減することにより,輸入を減少させ実貨の流出をくいとめる.それによって実貨に対する紙幣価値の下落を防ぐ,
という二つの目標が同時に達成されるだけでなく,国内インフレの収束と現米の地租は政府歳入の実質額を大幅に増加させるため(この点については後に検討),財政赤字の解消に大きく貢献するのではないかという期待があったといってよい.
 インフレーションの収束を問題にする場合,
 (1) 生計の基本であり,諸財の価値基準でもあった米の価格が高騰したために起こったという面,
 (2) 金銀実貨が稀少にすぎたために,銀紙の比率が拡大したという面,これを,
 (2a) 輸出が過少(・・・・・)であるとみる大隈の(長期的)輸出振興案と,
 (2b) 輸入が過大(・・・・・)であることを強調する五代らの米納論とに区別する.
 (3) 政府不換紙幣の増発による面(これを井上らの緊縮派[・・・]は強調する),
が考えられて然るべきである.五代はこの分類に従うと,(1)の側面がこの時期のインフレの原因としては重要であり,米納案を採れば(2b)の要因も自ずと矯正されると見ており,(3)は完全に無視するわけではないが,直接的かつ急激な通貨量の収縮は,経済を殺す危険な政策と考えていた.(1)に注目するのは,米が国民の生計の基本であり,この米の価格を基準にして諸色百般の価格が決まるという傾向が強かったからである.
 したがって,たとえ金銀実貨が高くても(すなわち円の為替相場が低くても),米価が低いかぎり国内価格一般は上昇することはなく,国内の“細民”は苦情を訴えることはないと五代は考えている.それに反して,実貨が安くなり紙幣価値と均等化した場合でも(すなわち円相場が上昇しても),米価が高い限り国内価格は低下せず,国内インフレは収束しない.ここに五代が「前顕四項ノ目的ヲ遂ゲ能ハザルモノトセバ,我輩ハ,断然,地租五分ノ一ヲ現米ニテ収得スルノ外,此困難ヲ救治スルノ方法,決シテアルコトナシ」と明言する理由があったと考えられる.そして,いわゆる「経済家」の通論であった(3)のインフレ要因―すなわち,不換紙幣の増加による信用の低下―は「一理ハアルモノノ」現在の財政の実情に対する皮相きわまりない観察に基づいた理論にすぎない,と決めつけた.
 上に見たように,五代の「米納論」の重要なポイント(したがってその評価)は,結局のところ(1)地租を一部ないし全部米納に戻すことによって米価は十分に低下するか,(2)米価の低下により,奢侈に散じていた農民の所得が減少し,それによって輸入は減るか,という二点に集約される.後者は,農民は地租金納によって富裕化したことにより,海外から多くの奢侈品を輸入していたのか,という問題を検討することでもある.

 Ⅲ 米納復帰によって米価は下落するか

 たしかに経済学が教えるところでは,市場供給量が不変であるかぎり,米穀が政府から放出されようが農民から直接であろうが(需要が一定であれば)米価は変らないと考えられる.しかし,地租金納化は原理的には米価決定権を一方的に農民に与えており,かつ米穀市揚が未だ十分に競争的であったわけではないから,米価が高く操作される可能性は十二分に存在した.
 その一つの原因は農家における自家消費(・・・・・)の増大によって,市場への供給量が減少することである.この点は五代の論稿においても,岩倉の意見書においても指摘されているが,その数字を後者の資料に基づいて見ることにする16).
 国内田畑は257万町余,収穫は平年3,200万石,このうち酒造のための消費400万石,私造酒・糊・菓子其の他100万石であるから,残りの2,700万石を人口3,500万人の食糧に供している計算になる.ところが米納論者の主張するところによれば,金納化以来農家が富裕化し,「山林深陬ノ細民ニ至ルマテ日々雑穀ヲ厭ヒ米食ニ移ルヲ以テ佗ノ士商工雑業者ノ食料ニ於テ漸次ニ欠乏ヲ告ゲ米価大ニ沸騰シ幾ント海外輸入ヲ仰クノ形成ヲ馴致セリ」という有様である.国の農民は岩倉によると約1,600万人で,これらがすべて今後ますます米食に移るとして,1人年1石食するとすれば,残りは1,100万石(すなわち2,700マイナス1,600)を数えるにすぎなくなる.したがって,この1,100万石を1,900万人の士商工業者その他の食料に充てねばならなくなり,ここに巨額の米穀を海外に求めなければならなくなった事情(出超の減少する傾向)がある.
 ところで1880(明治13)年において,米の(農家)自家消費量がそれ以前に比して(・・・・・・・・)増加傾向にあったことを直接うかがい知る統計数値は存しないが,1880(明治13)年と1886(明治19)年の人民常食種類調査を比較編集した一橋大学の高松信清氏の興味あるデータがある17).これを表4-1として掲げたが,この数値はある意味で,1880(明治13)年とそれ以前を比較するよりも注目すべき事実を示していると言える.各府県とも1881(明治14)年以来米価下落,田畑売価低落の傾向はひき続き,1886(明治19)年は農民の購買力が低下した時期である.その1886(明治19)年に比して,1880(明治13)年の食生活における米の比率は,全国(北海道を一国,伊賀・伊勢・志摩・紀伊を合わせて一国としている)70国中39国において高いことが観察されるからである.米の比率の原値の全国平均は1880(明治13)年53.1%,1886(明治19)年51.2%,人口で加重平均した値は両年とも51.7%である.また地理的分布をみると,1880(明治13)年の比率が1886(明治19)年と比べて逆に低くなっているところの多くが(山城,和泉,武蔵等を中心とした)いわゆる都市部ないしはその周辺であることはまことに注目に値する.これは1880(明治13)年において,都市部よりも農村部がいかに豊んでいたかを示す証左ともいえる統計である.
表 4-1 1880(明治13)年と1886(明治19)年の米食比率
 次は外国への米穀の輸出である.米が不足し米価が騰貴したため外国米を輸入する一方,米商らが海外輸出を唱え,「無智ノ細民ハ米価ノ沸騰スルヲ見テ官府ノ常ニ之ヲ輸出スルコトヲ疑フ者多シ」18)というような「供給不足」に拍車をかける政策がとられていた.そこで岩倉は米の輸出を停止し,米納復帰で米価が落ち着いた段階ではじめて政府歳入の米穀の一部を海外で売却し,それによって実貨の欠乏を補うことを建議したのである19).同じく1880(明治13)年6月,松方正義が太政大臣に呈した『財政管窺概略』の中でも米価騰貴を防ぐための二項日として次の二点があげられている20).まず「米穀ノ輸出ヲ禁スル事」とし,次いで「時トシテハ西貢等ノ各地ニ就キ安価ノ米ヲ買ヒ,如シニ十万石ヲ得ルトスレハ其半額ツツヲ以テ東京大坂ノ米庫ニ貯蓄シ凶荒ノ預備トナシ,人民窮乏ノ時ニ臨ミ原価又ハ低価ニテ払出スヘシ」ことが示唆されている.
 またこの当時の米価が,米穀の国際価格に規定されていた面は無視することができない.内地米と外米(支那米・安南米など)が消費において完全に「代替的」であったかどうかは疑わしいが,米が貿易財であったことはたしかであった.したがって米が単なる「国内財」であると考える場合とは(後述の)財政政策の効果が異なることは容易に想像される.そしてまた,米の輸出量が日本の総輸出量の中でかなりのシェアを占めた場合(たとえば1878〈明治11〉年の18%),「輸出制限」が経常収支の変化と為替レートの変化を通じて「国内価格」を動かす点も見逃せない.この場合,国際価格が所与とすれば,輸出制限等による輸出の減少は為替レートを引き下げ(すなわち銀紙の差を拡大させ),米の国内価格(銀紙レート×国際価格)を上昇させるため,米価の高騰をさらにひき起こし事態の悪化をまねきかねないであろう.
 したがって米の輸出に関して言えば,輸出が,国内供給量の減少を通して,国内価格を騰貴させていたのか(この場合「輸出制限措置」は国内価格低下の方へ作用する),あるいは経常収支改善の効果を通してむしろ国内価格の上昇を幾分でもくい止めていたのかは即断できない問題となる.いずれにせよ,岩倉も松方もこの点に関して言えば,前者の効果にのみ注目していたことは確かであろう.
 第3に,地租金納化によって米の供給量調整が農民の手中に委ねられると,いわゆる「売り惜しみ」によって価格をつり上げることが可能となる.これは一つには先に述べた「自家消費」という形をとることもあるが,農家が価格調整用に米を在庫として(・・・・・)保有することは財の性格上可能である.この「売り惜しみ」が結果的にどれほど農民の収入増を招くかは,「米穀需要の価格弾力性」に依存することは言うまでもない.
 以上指摘した三点は,いずれも米の市場価格に影響を及ぼす重要な要因であるが,ここでさらに次の二点に注目しておく必要がある.
 まず第1は,米納論の中でいわれている「一部米納」の意味である.金納地租の仮に5分の1を米納にするという場合,いずれの米価で石数を計算するかについては陽表的に触れられていない。まず考えられる非常にドラスティックな政策(これを以後,「ポリシーⅠ」と呼ぶことにする)は,地租改正時の米価1石3円を基準米価とするケースである.1880(明治13)年の玄米中1石が平均10.571円であったから,1石3円では貢米の石数は時価によるよりも米納部分にかんして3倍以上多くなる.これは明らかに,農民側の実質税負担の増大,政府の実質収入の増大を意味する.
 ところで財政支出の規模を一定のままにして,増税だけ行うと,国民生産物が減少することはマクロ経済学の教える通りである.そして一方,増税分と同額の政府支出の増額(すなわち均衡予算規模の増大)が国内財に対してなされると,財政規模増大分だけの景気浮揚効果があることもたしかである(「均衡予算乗数の定理」).しかし米納論の場合,「ポリシーⅠ」では増税は確実ではあるものの,政府支出の増加の方は,起こり得ても輸入その他の漏れのため増税分と同額ないしはそれ以下(・・・・)であると考えるのが現実的であろう.もし均衡予算規模の増大であれば,経済全体の拡張効果は多少あるものの,農民自身の所得(・・・・・・・)は増税のため相対的に削減され,農民から都市商工業者への所得移転が起こるケースもあると考えられる.また増税のみで,財政支出は従来と同レベルに据え置かれるなら,デフレ効果が現われ農民の所得はもとより,都市商工業者層の所得も削減されることは確実であろう.いずれのケースにおいても,米穀の市場供給量は以前に比べ増大し米価の低下が起こり,農民の所得が削減され,「米納論」が意図した政策効果は十分現われうると予想される.
 次に,基準米価としてその時々の時価(・・)を用いる場合(計算コストのかかる多少非現実的なケースではあるが,これを以後「ポリシーⅡ」と呼ぶことにする)はどうか.この場合,1880(明治13)年の時価が不変に保たれつづければ,「米納論」が目的とする効果は現われない.米納に復することによって意図した経済効果が実現するのは,米価が低落した場合である.このことは次の数値例からも明らかである.いま米価は1石10円であり,全額金納時の地租が50円であったとする.そして一部(金納時の5分の1)が米納化されたと仮定する.ところが米価が10円にとどまり続ければ,40円分は金納,10円分は現米1石を貢納することになり,農民は合計5石,政府収入も(手数料と輸送費を無視すれば)5石分50円となり,金納時とは実質的変化は何もない.一方,米価が仮に5円に下落したとすればどうなるだろうか.40円の金納部分のために8石,10円の現物納部分のため2石,合計10石を農民は納めることになる.農民の実質税負担は石数において倍増する.ここで重要なことは,この農民の負担増は米価の低落(10円から5円)に由来するものであって,金納か米納かという納税方法とは独立であるという点である.他方,政府の収入は名目額では50円と不変であっても,物価が米価下落に同調する限り(下落率が同じである必要はない),実質収入が増加することは言うまでもない.
 第2に注目すべき点は,政府が「ポリシーⅡ」を採択し,先に挙げた三つの米価変動要因のいずれかが作用して米価が少しでも下落した場合,米価自体はいかなる動きをとりつづけるかという問題である.たとえば,米納復活によって米穀供給の一部が政府のコントロール下に置かれるようになったため,米価の異常な騰貴が停止して少し下落の兆を見せはじめるとする.このような米価の端緒的下落が起こると,農民の米穀と他財の需要量はともに減少し,それが市場への米穀放出量(供給量)を増加させ,さらなる価格下落を惹起する可能性は十分に考えられる(経済学の言葉で表現すれば,とくに米価の相対的下落の所得効果が代替効果を上まわる限り,通常の効用関数のもとではこの現象は十分期待できよう)21).このように,米納により米価がいったん低下しはじめると,自家消費分の減少によって市場供給量が増加し,米価がさらに低下して,国内インフレ収束に貢献するところ大と考えることも可能であった.これは逆から言えば,1880(明治13)年までのインフレーションは米価の端緒的上昇によって農民の購買力が増大したため諸価格が牽引されたものであると見ることであり,それを収束させるためにはやはり同じ米価に逆の役割(・・・・)を期待することを意味したということができる.
 以上の本節の分析を要約すると,次のようになる.基準米価に地租改正時の低価格を用いる「ポリシーⅠ」は,農民の実質税負担と歳入の増加,米価の低落,物価下落を惹起させると予想される.増税分と同額の政府支出の増大(すなわち均衡予算規模の増大)があると,次節で検討する国際収支の効果を除くと,財政規模増大分だけの景気浮場効果がある反面,農民の所得は相対的に削減される.ここでは農民から非農民への所得分配の変化が発生する.増税が財政余剰としてのみあらわれれば,デフレ効果はより直接的で,農民であると非農民であるとにかかわらず国民全体の所得が縮小すると思われる.よりモデレートな「ポリシーⅡ」も,何らかの端緒的な米価下落(政府も米価決定に参与する)があれば,米価の低落傾向は続き物価もそれによって下落しはじめるであろう.歳入と税負担は,物価が低下するかぎり増大する.
 このように五代の「地租米納案」は,その実施のためのコストを別にすれば,少なくとも理論的には米価を下落させるとともに諸色の低下をも惹起し,国内インフレの収束と(農民からの増税による)財政再建に貢献する可能性があったと考えられる.この増税案が国民全体の総所得を増加させる可能性があるのは均衡予算規模の増大のケースであり,増税が単に財政余剰の増加につながる場合には総所得はむしろ縮小に向かうことが予想される.

 Ⅳ 増税あるいは米価低落と輸入の関係

 ところで,金納化とインフレによる実質的地租の減額によって余裕を生じた農民が,輸入品の消費量を増加させたという指摘は事実なのであろうか.これが事実認識として正しければ,米価低落は農民からの増税と農民の所得減退を意味するため,前節で見たように米納化は短期的には輸入減少を招きうると主張できることになる.
 ただここで国民所得の決定という観点から,増税が経常収支にどのような影響を及ぼすのかという問題も論じておく事が重要となる22).そこで今,輸出は外生的な条件で決められ,輸入は可処分所得(すなわち国民所得から租税を差し引いたもの)の一定割合と,同じく政府支出の一定割合で構成されているような単純なケースを考えてみると,この場合増税は,経常収支を悪化こそすれ決して改善することにはならないことがわかる23).もっとも長期的に見れば輸出は国内生産の規模と構造にも依存すること,また,増税が同額の財政支出を伴わない場合は国民所得自体が低下するため,このモデル分析の結果から「増税がつねに国際収支改善の方向には働かない」と結論することはできない.しかし以下の事実は認識しておく必要がある.すなわち均衡財政下での増税では国民所得は拡大し,その結果経常収支が良化することはないこと,そして財政拡大を伴わない増税(すなわち財政余剰の拡大)は国民所得を収縮させ,経常収支を改善する可能性のあること,の二点である.ここにおいても,米納論が増税によって政府支出を「拡大」させようとしていたのか「縮小」させようとしていたのかによって,輸入の増減に関する結論は異なってくることがわかる.
 それでは,農村部への輸入品の量的拡大はどの程度のものだったのであろうか.それを知り得る資料の一つとして,1879(明治12)年12月26日,渋沢栄一が東京商法会議所会頭として大蔵省関税局の諮問に応じて提出した海関税則改正に関する参考資料がある24).調査の内容は13箇条よりなり,輸入品に関するものとして最初の5箇条を列挙してみると以下のようになる.
 一 外国品ヲ多量ニ運入スルハ何ノ地方ナリヤ,又該地方ハ何ニヨリテ其購買力アリヤ.
 二 輸入品ノ開港場ヨリ消費地ニ至ルマテノ売買運転ノ景況如何.
 三 地租ノ減額ニ因テ余裕ヲ生シタル地方ハ,漸次輸入品ノ消費ヲ増加スルノ景況如何.
 四 外国品ノ流行漸次蔓延シ,輸入ノ数量次第ニ増加スルノ景況如何.
 五 輸入品ノ価値ヲシテ五分又バ一割ヲ貴カラシムルモ,尚内国品ニ比スレバ廉価ナル物件.
 第一条への答えとして,横浜の商線にあたる各地方へ分送された価額と,東京の商線にあたる各地へ転売された価額とを合計したものが表として掲げられている25).そして結論として,「当会議所ハ只其全体ニ就キ所見ヲ具陳シテ以テ本条御下問ニ荅フル事如此」26)と言いながらも,「要スルニ気運ノ然ラシムル所アリテ一般之ガ風ヲ為スヲ以テ其流行益々盛ニシテ其需要漸ク繁キノ勢アリト云フ可シ」,「今此商線タル各地ニ就テ其購買力ノ原因ヲ稽査スレバ,概ネ減租ノ特典アルト,米穀ノ価位其豊作ナルニモ抱ハラズシテ常ニ昂貴ナルト,金融ノ便昔時ニ優ル所アルノ等ノ事項ニ因ラズンバアラズ...」と判断している.すなわち,第三条でも明らかにされるように,渋沢は,地租の減額と輸入品の増加との間に証拠となるような関連を必ずしも完全に見出しているわけではないが,各地における輸入品購入量の多さに瞠日していることが読みとれる.
 第三条が,我々の当面の関心に直接つながる箇所である.ここでも,現に近年横浜・東京の商信が商線各地に運入する貨物の量価に毎年著しい増加が見られることが報告されている.と同時に,減租の最も多い地方で外国品運入の進度がどれほどで,少ない地方でどれほどなのかの調査は他日にゆずりたいむね記されている.
 第四条への返答では,都会での流行が少しの遅れをとって田舎へ伝わり,外国品の流行が漸く内地に蔓延する様がのべられ,「近年内国人民ノ洋品ニ心酔スルノ甚シキヤ,苟モ外国製ナリトシ,舶来品ナリトセバ其品質ノ良否価値ノ高低ヲ問ハズ好ンデ之ヲ取ルノ弊ヲ生セリ,此弊ヤ輸入超過ノ原因ヲ助成シタルモノト云ハザルヲ得ザルモノニシテ」と大いに痛嘆していることが窺い知れる.
 正確には,これら各地へ転送された輸入品がどのようなクラスの人々によって消費されたのかを把握しない限り,第2の論点を直接吟味することはできないのだが,この渋沢の上申書から,五代・岩倉の主張が事実認識としてそれほど的はずれなものでないことは十分に推測することができるであろう.とくに農民からの増税分が均衡財政規模の拡大を意味しない場合には,地租米納論は経常収支の改善(輸入の減少)に役立ったと推論することができるからである.

 Ⅴ 井上の反論と所得分配の問題

 大隈と共に米納論反対の論陣を張ったといわれる井上馨は,先にのべた岩倉や五代とは一見相反するような観察をしている27).井上は,今日の米価の騰貴は海外市価の影響のためであって,細民の喰込蓄積の量などは「未ダ之ガ一大原由ニ数フルニ足ラザルナル」と断じた後,農民が奢侈に移ったと考えるのは妥当ではなく,「寧ロ生活ノ度上進セシ現象ト謂ハンノミ」と言う.また輸入超過は,農民が金巾・唐絲のような外国品を需要したことによって,輸入増に貢献したのもたしかであるが,「輸入ノ勢力ヲ迎ヘシバ,政変ノ改革又ハ内乱等ニ原由スル者実ニ居多ナリトス...」,すなわち,船艦弾薬,器械の購入も多かったというのである。
 井上の反論は,一見五代や岩倉と逆の事実認識に基づいているように見えるが,程度の差,表現の違いによるところ大とみた方が正確かもしれない.井上も農民の生活が向上したことを認めているが,それを「奢侈」とみるか「生活ノ度上進ス」と表現するかが違っており,農民の輸入品消費が増大したことよりも政府輸入の方が大きいことを強調するかの違いなのである.それは結局のところ,農民か士工商かいずれの負担でもって財政赤字インフレの経済難を切り抜けるべきか,という形で問題が意識されたことを示唆している.
 井上は現下の財政難の打開策は,正貨の獲得であり,貿易の利により正貨を国庫に入れる路を開くことが一番その目的に合った正攻法であると考えた28).その方法の第1は,条約改正までは参議大隈の説くように,毎年紙幣1,000万円を歳入より抜き取り正貨を得ること,そのために,(1)「節倹ヲ行テ官省ノ事業ヲ減廃シ,且現今ノ地方税則ヲ改メ,四百万円ヲ余ス事」,(2)「更ニ間税(酒・煙草等)ヲ増賦シテ四百万円ヲ収ル事」,(3)「減債紙幣二百万円ヲ活用スル事」の三法によって獲得された1,000万円を用いて貿易を盛んにし,正貨を得ればよいと井上は考えていた.そしてこれによって,
 1. 現時ノ準備金ヲ主トシ,六百万円の正貨ヲ以テ日本銀行ヲ設立スル事.
 2. 現在ノ保険会社ヲー層盛大ニスル事.
 3. 海外直接貿易会社少クモ十店ヲ設立セシムル事.
 4. 一千万円ノ内六百万円ヲ海外直接貿易ノ資本ニ供スル事.
 5. 右残額二百万円ハ準備金中に加入スト雖モ,間又之ヲ流用シテ減債紙幣活用ノ不足ヲ援フ事.
の五つの日標を達成しようとしたという.
 井上は,長期的にみれば,国内金融制度の整備と貿易促進が当時の日本にとって一番重要な政策日標であると認識していたとみえ,これら五つの政策はいずれも正貨を得る方策として基本的なものであると説いている.そしてこれを実行に移せば,凡そ10年にして紙幣の額も漸次減少するに違いないことに強い自信を持っていた.それは丁度彼の,「数多ノ弊害ハ維新前後ヨリ漸ク相孕胎シ来ルモノニシテ,其今日ノ形ヲ成スヤ既ニ十三年余ノ星霜ヲ経レバ,之ヲ払尽スルモ亦一朝一夕ノ業ニ非ズ」という判断とまさに表裏をなす長期的な視野からの発言であったことがわかる.
 このような井上の所論をたどって気づくことは,井上の政策上の現実感覚である.彼は岩倉の米納論を論駁する時は,「農民は奢侈に陥っていない」としながらも,地方税制の改正を提言する時には,「近来農家ハ殷富ノ実況アルヲ以テ,断然明治十一年第十九号,地方税ハ地租五分ノ一以内ノ法ヲ解キ,之ヲ懸会ニ付シテ,尚地方税二百万円ヲ増賦スルモ其負担ニ苦マザルベシ」という.これは明らかに,先に見た井上自身の事実認識と矛盾する.しかし井上は,米納復帰は事実上膨大なコストがかかるだけではなく,政府の信用問題にもかかわるので(米納で対処するよりも),地方税増税によった方がよいと判断したのであろう.
 と同時に,井上ら緊縮派は,地方税の増税で財政余剰を生み出し,それでもって紙幣銷却を推進することが中心課題であった点で,米納論とは異なった税負担の主体を考えていたといえる.米納論は地租の実質増額を意図していたため,その負担は当然農民のものとなってくる.緊縮派の財政余剰による紙幣銷却は,完全なデフレ政策であることはもちろんだが,その影響を真向から受けるのは商工業者であったことは間違いない.この点でもこれらの政策がその効果において,当時の経済の所得分配にかなり異なった帰結をもたらしたことが容易に推測される.
 結局1,000万円の財源捻出法は,酒造税400万円増加,各省経費より300万円削減,地方税増加,国庫補助の道路堤防費120万と監獄費100万円の支出停止,そして残余の80万円は諸経費の節約によって充当することになったことは知られている通りである.結果としては,外債募集も米納論も実現せず,政府がとりえた経済政策は,地方税制限(1877〈明治10〉年1月)の改正をすることであった.ここに1880(明治13)年11月,明治政府は第48号布告をもって,増税・国庫支出削減という形での財政再建に向かって一歩踏み出したのである.

 Ⅵ 結びにかえて

 五代友厚は,1877(明治10)年代初頭のインフレーションを,輸入超過による円相場の下落に派生する面,米価騰貴に原由する面,不換紙幣増発による面とに区別していたのであり,決してインフレの原因を「輸出入の不均衡」にだけ求める単一原因説をとっていたわけではなかった.むしろ,この時期の経済危機が複数の原因に由来するからこそ,輸入減少と米価下落を招来する可能性の高い「米納案」が,より効力のある政策として考えつかれたものと思われる.五代にとっては,不換紙幣の裁断による貨幣量の収縮は,貿易の不均衡が続くかぎり正貨流出は停止しないから,急激なデフレ効果をもたらすにすぎないとみていたのであろう.「独リ紙幣ヲ断裁スルノ一方ノミニテハ,全国ノ財政ヲ挽回スルノ功ト,全国経済ノ通路ヲ閉塞スルノ害ト,孰レガ大,孰レガ小ナルヤ」29)という言葉がそれを表わしている.
 そしてこの「不換紙幣裁断法」に二の足を踏んだ五代には,流通手段としての貨幣量は日本の現在の人口・経済取引量からして決して多すぎはしないという判断があった.むしろ「貯蓄の低迷」が,資本としての貨幣不足を惹き起こし,それが農民の奢侈(・・・・・)と過剰消費に原因していると見たところに五代の論の特徴がある.したがって五代が「都市資本の擁護と,その産業資本への脱皮をのぞんでいたし,その主張はおおむね新政府のコースに沿ったものであり,大久保の指向する新経済政策の要請に適合したものであった」80)という評価とはこの点でも一致する.ただ,農民からの増税が(均衡財政規模の拡大のもとでは),必ずしも経常収支の改善にはつながらないというわれわれのⅣの分析は,五代の所論があくまでも一時的な応急処置として考えられたものにすぎなかったことを示す証拠となるのかもしれない.

 最後に,政策論としての米納論が当時もっていた実現可能性といったものに簡単にふれておくことにしよう.米納論が財政危機対応策として採択されなかった理由は,自由民権運動が高場期にあった段階でこれを実行することはすこぶる「不穏ヲ覚ウ」として不可とする内勅が下ったからだと先に述べた.農民からの反対もさることながら,この一部米納案を実行に移すための管理実施費用も相当なものであったと予想される.特に,地租改正令公布後,1877(明治10)年初頭に減租の詔が出てから改租事業が進行し,1881(明治14)年中には少部分の地域を残したまま改租事業は打ち切られた31).地租改正事務局総裁でもあった参議大隈重信は,事業終了報告書の作成を命じている.それに先立つ1880(明治13)年2,月,大隈は太政官に対して「明治18年迄地価据置ノ儀ニ付太政官へ上申」の一書を提出している.この建議は太政官に容れられ,5月22日,地価は明治18年迄据置く事,特に「在来公平を失したもののみに対し実地調査の上,一町村又は一郡区を限り地価の修正を許すこと」が布告された.この間,大蔵省は順次,予算・会計制度,国庫制度,統一租税制度の整備事業を進めていた.これらの事業で地租金納は当然前提とされていたわけであるから,米納復帰が実現すればこれらの努力がほとんど水泡に帰すことになるわけである.このあたりにも大隈の米納論反対の根拠があったとも考えられる32).
 いずれにせよ五代の米納論は,そこで論じられている「米納」の意味・方法,財政支出規模の変化,貿易財としての米穀の役割など,依然として不明確な点は多く残る.しかし,井上等の不換紙幣裁断による緊縮,大隈のデフレ回避の外債案とを両極端として並べて見ると,この米納論もそれ相応の論理を持ち,政策効果の点でもインフレをはじめとする当時の経済難に対応しうる力は十分あったのではないかと考えられる.しかし現実には五代の米納論は,地方税増税,緊縮財政を意図した政策論の前にあえなく敗退したのである.この増税・緊縮財政が,(デフレ効果・所得分配の面で)外債論と米納論に比べてどれほど健全なものであったかは,さらなる検討を要する課題であろう.

[注]
 1) 『明治天皇紀』第5巻,162-63ページ.
 2) 前掲の『明治天皇紀』によると,「...(八月)二十三日天皇,喬任,清隆に命ずるに,其の意見を上るべきことを以てしたまふ,是に於て,清隆は是の月三十日,喬任は九月十一日各々意見書を上り,大いに米納論を詳述し,更に喬任は翌十四年三月米納説追加一篇を草して大臣に呈す」(165ページ)とある.
 3) 『明治天皇紀』,165ページ.黒田参議の「財政救急意見書」(太政大臣・左大臣

宛,明治13年8,月22日),「財政意見書」(明治13年8月30日)――ともに三条家文書45-18,19――によると,大隈が米納論に反対していること,そして米納反対は「いたずらに日前の小害を恐れ永遠の大計を失ひ候様にては実に遺憾」とある.米納論の内容自体は以下にのべる五代のそれを簡素化したものにすぎない.
 4) 『世外井上公伝』第3巻,159ページ.
 5) 『明治天皇紀』第5巻,180-81ページ.
 6) 『岩倉具視関係文書』第1巻,431-65ページ.『岩倉公実記』下巻.
 7) 『五代友厚伝記資料』第4巻,159-69ページ.
 8) 『五代友厚伝記資料』第1巻,348-52ページ.
 9) 『五代友厚伝記資料』第4巻,232-33ページの新谷九郎氏の解説では,「友厚米納論の内容はひとくちに言えばいたって非科学的で,むしろ暴論とさえ言うべきものである」と断じられている.五代が「何を根拠として地租改正により地租が十分の一に減少したとか,また当時の全人口の六分が士商工であり,四分が農民であると主張したのであろうか」という指摘はもっともであるが,五代の数字の不正確さ(?)自体は米納論の理論的構造にとって致命的なものではない.
 10) 黒田(前出)も同様な数字をあげているが,『明治前期財政経済史料集成』第7巻からの計算によると,この数字がかなり誇張されたものであることがわかる(81,337,342ページ).
 11) 以下本節の引用は,特にことわらないかぎり,五代友厚の「米納論」(『五代友厚伝記資料』第4巻,159-69ページ)からのものであるが,引用箇所のページ数はいちいち記さない.
 12) 渋沢子爵の談として,「西南戦争で紙幣を濫発したから,一時景気の出た後とて,その不換紙幣の始末が出来ず,物価は騰貴し,且つ銀と紙幣との開きは甚だしくなった.私は之を救うの道は通貨収縮にあるのみとしていたので,この意見を高調,銀行業者の決議で建議などした.また井上さんも同意見であり,更に私が後援して居た田口卯吉君の経営に成る経済雑誌で,大蔵省の方針を口を極めて攻撃した.実際大隈さんの方針は,今日で云う積極主義で,尚より以上紙幣を発行しようなどと唱えていたのである.処が之を見て,私が井上さんと呼応して大隈排斥をやって居るとの風説さえ高くなった」とあるのは興昧深い.『世外井上公伝』第3巻,143-44ページ.
 13)この見方は完全な「紙幣主義」であって,この点では大隈が「通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ議」でのべた次の見地と全く一致する.「_維新以来本邦ハ紙幣専用ノ時世ニシテ,別ニ金銀ヲ要スヘキ場合ナク,唯海外貿易ニ於テノミ独リ金銀ヲ通用セリ,...故に紙幣通用ハ其制ノ不可ナルニアラス,唯輸出入不平均ノ時世ニ不利ナルノミ...」
 14) この点は先にのべた黒田の「財政意見書」と同じである.
 15) 五代が1879(明治12)年春から1880(明治13)年夏にかけて,堂島米商会所の歴史にのこる猛烈な売りを行った点については,津川正幸「五代友厚と堂島米商会所――明治13年3,月,4月限売買中止一件――」,『関西大学経済論集』第22巻第1号,昭和47年5月,にくわしい.この五代の行動が「米価調節のため」であったのか,「投機」であったのかは判別できない.
 16) 『岩倉具視関係文書』第1巻に収められている「財政ニ関スル意見書」,437ページ.
 17) 高松氏の「人民常食種類比例」の原資料は,1880(明治13)年については「人民常食種類比例」,農商務省農務局『第二次農務統計表』,1886(明治19)年については「常食物種別及ヒ米麦供需」,大日本農会『農事統計表』である.
 18) 『岩倉具視関係文書』第1巻,443ページ.
 19) この「米輸出による実貨獲得」という考えは五代の所論の中にはみられない.
 20) 松方正義「財政管窺概略」,『明治前期財政経済史料集成』第1巻,533ページ.
 21) 米価が他財にくらべて相対的に下落するとどうなるかという問題の分析は,拙稿「明治前期財政整理における一挿話」,『季刊現代経済』No.47,において行った.ただしこの分析はいわゆる「主体的均衡」の分析であって,「所得決定」の観点が欠落している.
 22) この点に関する議論は寺西重郎氏(一橋大)のコメントに負うている.
 23) 理由は次のように考えられる.このモデルでは輸入が政府支出と国民所得の一定割合と考えられているため(輸出は一定),均衡財政規模拡大による国民所得の増大がつねに輸入を拡大することになるからである.逆に増税分だけの政府支出の増加がまったくなければ,所得収縮によって輸入も減少し,経常収支は改善すると考えられる.
 24) 『渋沢栄一伝記資料』第17巻,241-84ページ.全く同じ日的の答申書が,大阪商法会議所会頭五代友厚の名をもって作成されており,その全文が『大阪経済史料集成』第1巻に収められている.五代の答申書は1879(明治12)年10月5日で渋沢のそれよりかなり早い.これによって大阪方面の外国商品の運入,分散の状況がよくわかる.
 25) 洋酒,薬品,その他二三の品類に至っては,東京より各地へ転送されたものの詳細は不明である.横浜から各地へ(甲表),東京から各地へ(乙表)の数値を示した二表は大部であるため,両方を合計した丙表をかかげている.品物としては,唐絲,石炭油,砂糖,針金,丸角平鉄,釘鉄,鉄板,ブリッキ,鋼,亜鉛,鉛,真鍮,金巾,モスリン, ...等優に100種をこえる数がリストされている.
 26) 以下の引用は『渋沢栄一伝記資料』第17巻,272-80ページ.
 27) 『世外井上公伝』第3巻,161-62ページ.
 28) 以下の井上の政策論は『世外井上公伝』第3巻,159-73ページに拠る.田口卯吉らの自由民権家の財政論については,大石嘉一郎「松方財政と自由民権家の財政論」,『福嶋大学商学論集』1962年1月,380-442ページに明解な説明がある.
 29) 『五代友厚伝記資料』第4巻,168ページ.
 30) 『大阪経済史料集成』第1巻,870ページ,大阪商法会議所と建議報告.
 31) 『大蔵省百年史』,54ページ,『大隈侯八十五年史』,740ページ.
 32) この点は梅村又次教授の指摘による.
[猪木武徳]